Category Archives: shaws

Bike-train commuting

週3日の輪行りんこう通勤(bike-train commuting)を始めて1年になる。朝、自宅から五反田駅まで16インチの小径車しょうけいしゃで約30分走る。長いアップダウンが二度あり、疲れているときはギアを軽くしてもペダルが重い。駅に着くと、雑踏ざっとう片隅かたすみで自転車を折りたたんでバッグに入れ、山手線に乗る。ラッシュ時間帯ではないが、駅を出入りする人々でごった返している。自転車をかついで人々を避けながら進むのは楽ではない。

エレベータで窮屈きゅうくつな思いをしてホームにがり、身障者しんしょうしゃマークの付いた場所で電車が入ってくるのを待つ。電車が到着しても、んでいるときは乗らない。いや乗れない。電車に乗り込んだら、車椅子マークのところに自転車を置き、重いザックをおろす。ただ、スマホに没頭する人に占有せんゆうされていることが多い。

A bike bag commuter の朝の光景だ。サイクリストの優雅ゆうがな出勤とはほど遠い。夏前になるとかなり汗をかくので、電車に乗る前にタオルで体をき、車内でも遠慮えんりょがちに拭く。新大久保駅で以前はエレベータを使ったが、大きなスーツケースを持った外国人観光客で混むし、乗り換えが面倒めんどうで、今は階段にしている。自転車を担いで事務所まで数分、バッグが肩に食い込んで痛いときがある。

朝雨が降っていれば電車にし、予測しにくい日や夕方に雨予報があれば電車で行く。12.5kgの小径車と8kgほどのザックを担いで歩くのはつらい。合わせて20kgは昔の登山なみだ。帰りは夕方のラッシュに重なり、新大久保駅で電車を数台見送ることもある。五反田駅の改札を出て朝と同じ場所で自転車をバッグから取り出す。あとはゆっくり家まで走るだけだ。こんな輪行通勤を1年続けてきた自分をほめてやりたい。

右脚の麻痺のため筋肉を付けようとして始めたものの、いつまで続けられるだろうか。「いい加減にしたらどうだ」、そう言うもう一人ひとりの自分がいる。着実に筋肉は付いてきているのだが。

くずし字って於毛志呂以

菊地明範先生の「くずし字」動画がおもしろい、とにかく於毛志呂以おもしろいのです。万葉仮名のような、草書体のような、筆で描いた文字の楽しさをご堪能たんのうください。

くずし字って於毛志呂以おもしろい
1くずし字にれよう 其壱そのいち
2くずし字に馴れよう 其壱の2
3くずし字に馴れよう 其弐そのに
4くずし字に馴れよう 其弐の2
5「いろはたとへ雙六すごろく」前半動画
6「いろはたとへ雙六」後半動画
[1] くずし字にれよう 其壱そのいち
[2] くずし字に馴れよう 其壱の2
[3] くずし字に馴れよう 其弐そのに
[4] くずし字に馴れよう 其弐の2
[5]「いろはたとへ雙六すごろく」前半動画
[6]「いろはたとへ雙六」後半動画
くずし字を確認しよう
7くずし字チェック動画 東海道へん
8くずし字チェック動画 いろはかるた1
9くずし字チェック動画 いろはかるた2
10くずし字チェック動画 いろはかるた3

한일관계日韓関係を再考する

韓国の윤석열ユンソンニョル大統領と日本の岸田首相とのあいだで한일관계韓日関係あるいは日韓関係が急速に改善しているという。インターネットも新聞もテレビもラジオもこぞって、史上最悪だった한일관계日韓関係が好転あるいは正常化したという。表面だけ捉える人たちは、よかった仲よくなったと感じているようだ。本当にそうだろうか。何が変わったのだろうか、どこが変わっていないのだろうか。

2018年当時、大阪の韓国総領事だった呉泰奎オテギュ氏は両国関係を「官冷民温かんれいみんおん」と表現した(原文はハングル表記だが、漢字を当てれば官冷民熱)。以下に一部抜粋する(日本語訳は筆者による、韓国語原文はこちらから)。

……最近の日韓対立は以前とは様相が異なるようです。以前は「水面がにごれば下の水も濁る」という言葉のように、政府関係の悪化に伴って一般国民の関係も悪くなるのが普通でした。ところが、最近は政府関係者とメディアが対立の前面に出ているものゝ、民間レベルではあまりそういうふうには感じられない。周囲の何人かの観察もそのようです。この現象を、私は「官冷民温かんれいみんおん」と呼びたいと思います。官とメディアは熾烈しれつな衝突をしていますが、一般市民は淡々たんたんというより一層交流が盛んなのですから。実際、2018年に政府間対立のさなか1050万人以上が日韓を往来する1千万人交流時代に入ったのです。

この見方に同感だが、一歩進め、双方の政府もメディアも日韓(한일)関係という言葉を使うべきではない、と訴えたい。日本語で日韓関係というと、ふつうの人々は両国の関係を総体的に捉えてしまうからである。では、何と表現すべきか。「日韓政治関係」「日韓外交関係」「日韓首脳関係」とし、民間の関係は政治関係に影響を受けることこそあれ、それとは関係ない独自の基盤をもっていると、自信をもって肯定すべきである。「未来指向の日韓関係」「グローバルな文脈のなかの日韓関係」といった政治的で曖昧あいまい美辞麗句びじれいくに振り回されてはならない。

同じ理由から「日韓交流」「日韓文化交流」などの表現もより慎重しんちょうに使いたいものだ。そもそも人と人の関係を国際関係や歴史のなかで考えるとはどういうことなのか、あらためて考えたいと思う。

ひろば語学院40周年「わかる韓国語初級」出版

Kポップも韓ドラも韓流もなかった1983年、東京市ヶ谷に丹羽篤人・信子夫妻が設立した<ひろば語学院>は、ことし創立40年を迎えます。これを記念して丹羽裕美著「わかる韓国語初級」を駿河台出版社から出版しました。

下の写真をスライドして目次をご覧ください。第1課から8課が文字と発音、第9課から23課が文と表現になっています。

40年前に社会人を対象に開発した教材をベースにひろば語学院のテキストとして使いながら改訂を重ね、さらに他の市民講座や大学等での使用を通じて大幅に加筆し、今回の出版に至ったそうです。本文190ページの厚みと重さがひろば語学院の歴史を感じさせます。

不実にみえる영신

約1ヵ月前、「ごはんに願いを」 (原題 밥이 되어라)を44話(日本版)まで見た時点で「デクノボーの용구」と題して投稿した。作者の人間観察に共感したからだ。

その後65話まで見て、このドラマがどこまでも숙정スッチョン(会長夫人)の悪だくみに沿って作成されていることを知らされ、腹を立てている。人間の誠実さをないがしろにしていると思うからだ。숙정は人非人にんぴにんともいうべき人格の持ち主で、ゆがんだ母性愛と金力・権力慾にとらわれている。

韓国ドラマの常套じょうとう手段である記憶喪失は認めるとしても、頭をなぐられて記憶を失った경수ギョンス(영신ヨンシンの育ての親であり年の離れた恋愛相手)に対する영신の態度が腹立たしい。女性心理を理解できない僕の限界だろうか、はたまた韓国社会に対する理解不足だろうか。

なぜ、彼女は숙정スッチョン(경수ギョンスの実母)の欲望に沿って경수に接しなければならないのか。彼が記憶を取り戻さないまま裕福でいるほうが幸福だという暗黙の了解が隠されているのだが、僕はこの사고방식思考方式を理解できない。「경수ギョンスの幸福だけを思って」という영신ヨンシン台詞せりふ欺瞞ぎまんとしか受け止められないのだ。

영신ヨンシンが会長の娘だという事実を明かさないのも犯罪に近い。明かせば、養子の경수ギョンスも彼女も会長の子ということになり、戸籍が同じ二人は結婚できないという事情は理解しているつもりだ。ただ、事実を明かさない、記憶を取り戻さないままの幸福がいかにむなしくあやういものか想像できないはずはないであろう。

他方、용구ヨングの思いがみのって필선ピルソンと結婚に至ったのはうれしいが、その後デクノボー용구のよさが後退したように思われ寂しい気がする。彼こそ作者の心眼しんがんだと思っていたが、間違いだったようだ。残り10話の展開に多くは期待しない。

Giro cycling helmet

いまはむかし、一人の娘が1ヵ月余り毎週末に2時間ほどの練習を重ねた末、ようやく自転車に乗れるようになった。ふらふらぐらつきながらも倒れずに百メートル以上走った。ころんで腕やあしにかすり傷をつくりながらの必死の努力がみのった瞬間しゅんかんだ。

直前までペダルに足を乗せることさえできず、左右の脚で交互こうご路面ろめんりながら数メートル走っては倒れそうになって止まることを繰り返していた。それが、最後の練習を終えようとする夕刻になって、ペダルをいで走った。本人が直後にはっしたとおり、それは「奇跡」だったに違いない。

自転車にまたがり足で路面をり続ける彼女に向かって僕は、「地面を見ないで遠くを見ろ、下を見るから倒れるんだ」などと、きつい言葉をき続けた。「頭でわかっているのに体が動かない」と応じる彼女に「わかっていないんだよ」と返す、むご脇役わきやくを演じていた。

倒れそうになって悲鳴をあげれば、「悲鳴をあげる余裕よゆうがあるなら、もっと強く踏み込め」などと怒鳴どなりつけた。「肩に力を入れるな」「足をかないでブレーキをけろ」「スピードを落とすためのブレーキなんだ」「体が曲がってるぞ、まっすぐにたもて」などと、ののしり続けた。何に向かって怒っていたのだろうか。

懸命けんめいに自転車と格闘かくとうする姿を見ながら、冷たく「これ以上練習したくない」「きょうで終わりにしよう」とはなした。夕方4時になって「もう帰ろう」と言うと、「乗れるようになるまで帰らない」と応じる彼女の表情は真剣しんけんそのものだった。僕も帰るに帰れない。自転車にまたがった彼女の後ろを自転車に乗って追いかけ、追いつくと一回りしてまた後ろに付いた。公園で遊んでいた人々は帰ろうとして駅のある方に向かって歩いている。

こうして、最後の30分となる練習が始まった。ペダルを踏み込み位置まであげ、ブレーキを掛けて踏み込む体勢に入る彼女に向かって、「踏み込みが弱い」「スピードが落ちたら自転車は倒れるんだ」「ペダルにまっすぐ足を乗せろ」「がにまたなんだ」「奇跡きせきなんてない」などと怒鳴どなりちらす男を周囲の人々はどう見たろうか。

近くで野球に興じていた少年が二人のたわむれるようすを笑いながら見ている。彼女は路肩ろかたの草むらに突っ込み潅木かんぼくにぶつかりながら必死ひっしにもがく。倒れては起き、また跨がる。そんな動作を繰り返して草にタイヤを取られたかと思いきや、ふらつきながらも倒れないで舗装路ほそうろに戻った。

後ろから大声で叫んだ。「踏み込め」「止まるな」「踏み込め」「踏み込むんだ」「もっと強く踏み込め」「いいぞ、もっと踏み込め」「その調子だ」「やったやったぞ、乗れた乗れたんだ」「いいぞ、乗れてるよ」「まだ行ける、もっと行け」彼女は力の限り踏んった。力がきるまで踏ん張っていた。

力尽きて倒れ込むように止まり、自転車を降りた途端とたん、彼女は嗚咽おえつし始めた。周囲の人々など目に入らないように止めどなくなみだを流した。心身ともに限界に達していたのだ。長いあいだ、人々が軽快けいかいに自転車を走らせ、小さな子どもがいかにもらくに走るを見ながら、いくら練習してもできない、むかし練習したときもできなかった、永遠にできないのではないか。そんな不安にさいなまれていたのだろう。

なみだを流したあとの彼女はいつになく輝いていた。頭にギリシャ神話の月桂冠げっけいかんのようにグレーのヘルメットをせている。ついに彼女は自分に勝ったのだ。

tategaki-bunko library

縦書き文庫に登録して約2年、これまでの掲載作は表のとおりです(最新作を最も上の行に載せています)。この文庫がどれほど僕を支えてくれたことか。縦書きの重要さを理解させそてくれた菊地明範先生ほか、お読みくださった方に深く感謝いたします。

掲載作(執筆中*・掲載予定**を含む)文字数
효야とその眷属(1)*30,173
いつか名もない魚になる41,599
なぜいま「大菩薩峠」なのか4,261
習作: 記憶のかけら: 個人史の試み14,960
翻訳: 忘れられた女性민갑완**3,492
明治期の欧米崇拝と排外意識55,813
習作: 落とし穴6,368
習作: しろい犬くろい狗12,895
https://tb.antiscroll.com/profile/goolee

親の呼び名

日本語というのは変な言葉だ。国家権力が子の親に対する呼び名を作ったり、それが外来語に取って代わられたり、時代の流行によってうつろう。親は呼び名を選択したつもりでいるが、無意識のうちに国の統制を受けている。「国語」という呼び名も明治以来の国家主義をあからさまに示している。

明治政府による国語政策、標準語統一による地域の言葉の蔑視べっしと公的空間からの追放、戦後の米軍による統治、映画やテレビによるアメリカ文化の圧倒的あっとうてき流入など、さまざまな背景が考えられる。「方言」という差別用語を忘れてはならない。この国のメディアは、このような国家政策を見ぬいているのかいないのか、批判する頭を持たない。

1950年以降の東京周辺だけをみても、「おとうさん・おかあさん」「パパ・ママ」「とうちゃん・かあちゃん」「おとう・おっかあ」「おふくろ・おやじ」など、さまざまな呼び名がある。地方にはそれぞれ伝統的な呼び名がある。多様性があっていいのだが、それだけではない。井上ひさしが名作『國語元年こくごがんねん』で描いた「国語」の持つ意味を改めて問わなければならない。

「おとうさん・おかあさん」は明治初期に作られた造語ぞうごであり、教育勅語ちょくごにつながる親に対する尊敬の意を込めている。「お」と「さま(さん)」という二つの敬語が入っているのもそのためだと聞いた。幼児が発音するのはむずかしい。「パパ・ママ」は言わずもがな、アメリカ文化の影響だろう。

自分の娘に「おとうさん」とも「パパ」とも呼ばせたくなかった僕は、東北地方のどこかで使われていた「ダダ」「ドド」を選んで「ダーダ」という呼び名を与え、今もその呼びかたを通している。娘の友人たちも僕をその名で呼ぶ。孫にも「ダーダ」と呼ばせたい、と考えている。それが僕の密かな「国語」に対する抵抗なのだ。

僕は日本語という言葉とその文化をこよなく愛しているつもりだ。それを偏狭へんきょうで自己中心的な、政治家と呼ぶに値しない選挙屋、良心のない官僚たち、似非えせ文化人や教養のない教師たちに牛耳ぎゅうじられたくはないのである。

ぼおっと生きる

「チコちゃんにしかられる」というNHKの番組がある。見たくないのだが、夕食を終えて洗い物をしているとき放送されるので、否応いやおうなしに聞こえてくる。人々が当たり前と考えている日常的なことがらに疑問を投じ、回答者が答えられないと、主人公のような女児を模した人形が「ぼおっと生きてんじゃねぇよ」と叫ぶ。そのあと、専門家と呼ばれる人が疑問に答える。

「ぼおっと生きてんじゃねぇよ」と主人公がくたびに、耳をふさぎたくなるほどいやな気持ちにとらわれるのは僕だけだろうか。思うに、人はぼおっと生きていいのではないか。それは叱るべきことではないのではないか。視聴者がこの番組の人形をまねて、この耳障みみざわりな言葉をくようにならなければいいのだが。

Can’t stop biking

7-8年ぶりにMTBで丸子橋まるこばしから多摩水道橋まで往復20km土手どてを走った。洗足池から多摩川べりまで往復約6km、計約26kmを1時間40分で走った。体がほてって興奮している。爽快そうかいなこと、この上ない。だから、自転車はめられない。

珍しい、橋の歩道に誰一人いない。下流に架かる橋の上を小田急線の在来線とロマンスカーが走っている。

苦手な試験

このままでは駄目だめだ。これまでの失敗の延長線上にいて、だらだら勉強していても無駄むだだ。具体的にどういどむべきか、リストにして考えてみた。

  1. 試みに朝6時に起き1時間勉強する、体力作りのため運動量をふやす
  2. 苦手な科目・項目に特化しテキストを読み込む、過去問を分析して解く
  3. 好きなことやりたいことを自制し、自覚している悪癖をめる
  4. 現状脱出のためぜひ合格する、しなければならない
  5. 효야ヒョーヤとその眷属」は書き続ける

振り返れば、60歳のとき運転免許の更新を怠り、鮫洲さめずの試験場にしばらく通った。筆記試験に3度落ち、試験官に向かって試験問題の作り方に難癖なんくせをつけたことがある。難関で知られる実技試験は運よく2度目で合格したが、いやな経験だった。試験は苦手にがてなのだ。

雷雨のなかMTBで疾走

稲妻が走り雷がとどろくなか降りしきる雨にめげることなく、経堂きょうどうから洗足池せんぞくいけまでMTBで45分ほど疾走しっそうした。ヘルメット(Montbell)のおかげでメガネに雨のしずくが落ちることもなく、都会でMTBによる快走を楽しんだ。ギアの切り替えも実になめらかだった。

山道と比べれば都会の舗装路は楽なものだが、雨雲あまぐもで暗くなった夕方れた車道を走るのはかなりの緊張をいられる。金属製の排水口や路肩のくぼみに注意しながら走るからだ。山道でタイヤを樹木の根っこに取られまいとして常に気を張っているのと同じかもしれない。信号が変わるのを見届け、後方から走ってくる車を気にしながらの疾駆しっくでもある。

いずれの場合も、危険を避けることに集中して頭が空っぽになるからいいのだ。走り終えたあとの爽快そうかい感も一時間何も考えずにいたことの反作用だろう。小学生のころ、プールの帰り道に雷雨のなかを走ったことがある。あのとき少年が感じていたのも同じ緊張感と解放感だったかもしれない。少年は何よりも雷と闇夜やみよこわかった。

廣重「木曾海道六十九次」須原(c)山田書店

旧東海道の池鯉鮒宿

旧東海道39番目の宿場町だった池鯉鮒ちりふ宿は現・知立ちりゅう市にある。明治時代の鉄道創設期、池鯉鮒宿の駕籠かご屋や馬子まごなどが宿場町の衰退を恐れ鉄道敷設に反対したため(鉄道忌避きひ伝説という見解もある)、東海道本線は迂回うかいルートを通ることになったという。

知立市に引っ越した娘夫婦を訪ねたとき、娘婿が教えてくれた。隣接する刈谷市にはトヨタ自動車関連の企業すべての本社があるという(トヨタ自動車は豊田市)。法人税収入のせいか市内バスは誰でも無料で乗れるそうだ。旅行者も乗れる。

廣重の描いた旧東海道39次目の池鯉鮒宿、現・知立市

愛知県は食にまつわる話が多い。僕が好きな鰻料理のひつまぶしは現・西尾市で生まれたという。抹茶の生産地として世界に知られた西尾には僕の父が少年期を過ごした西小梛こなぎ町がある。江戸期に念仏道場があり道場という地名が残った。小梛こなぎの小は小栗に由来すると聞いた。

澤庵と賀茂眞淵の墓

澤庵(17世紀前半)と賀茂眞淵(18世紀)の墓を訪ねた。2年前の5月と同じく都会のど真ん中にある墓はひっきりなしに通過する列車の轟音で落ち着かない。隣接する土地にリニア新幹線関連の工事現場があり、墓の入り口が高い壁に囲まれ圧迫感さえ感じる。

17世紀前半に創建した東海寺の敷地は盛時に約16万㎡だったという。参考までに新宿御苑は約58万㎡で、皇居はその約4倍である。墓と寺院と権力について考えさせられる。

e-ottocycles

家の近くに e-ottocycles という自転車屋がオープンした。そのサイトに「通勤・通学をもっと楽しく快適に、軽くて速いは後回あとまわし」とあり、Taj Mihelich の次の言葉を紹介している。

Taj Mihelich の言葉(編集して一部抜粋)
 ……「複雑な技術が自転車の乗り心地を良くすることは滅多めったにない」ということを、僕はBMXのシンプルな機能性から学んだ。シンプルさこそが実は自転車のすばらしいマジックなのだ。
 ……シンプルで信頼できるバイクに対する愛情と30年以上の経験に基づいてデザインした僕の理想のバイクが Fairdale だ。
[モトクロスインターナショナル]

独立開業して Fairdale を取り扱う喜びを述べている店主は、心から自転車を好きなんだろうな、と思う。近所にこういう自転車屋ができて何だかうれしい。写真は e-ottocycles のサイトから転載しました。詳細は同サイトをご覧ください。

店主のいう「通勤・通学をもっと楽しく快適に、軽くて速いは後回し」に大いに同感だ。この国で「軽くて速い」が後回しになるのはいつのことだろうか。

e-otto の意味が気になり語源を調べた。Webster にはアラビア語 attar の変形で香水のとあるが、関係なさそうだ。日本語のローマ字表記かもしれない。

アルゼンチン・タンゴの Miguel Zotto (1958-) を思い出した。

Fair-dale: 元の意味は美しい渓谷・みごとな谷
fair (adj.) Old English fæger “pleasing to the sight (of persons and body features, also of objects, places, etc.); beautiful, handsome, attractive,” of weather, “bright, clear, pleasant; not rainy,” also in late Old English “morally good,” from Proto-Germanic *fagraz, perhaps from PIE *pek- (1) “to make pretty”.
dale (n.) level or gently sloping ground between low hills with a stream flowing through it, Old English dæl “vale, valley, gorge,” from Proto-Germanic *dalaz “valley”, perhaps from PIE *dhel- “a hollow”, or perhaps a substratum word.
PIE: Proto-Indo-European
https://www.etymonline.com/

Thanks Ms. Zoff.

中二のときからけているので、60年メガネをしていることになる。これまでにいくつこわし、いくつ買い替えたろう。発車まぎわの電車に飛び込もうとしてドアにはさまれ、無残むざんに壊れた高級メガネもある。

最近はもっぱら Zoff の世話になっている。きょう勤め帰りにG駅の店に寄って視力検査を受けた。しばらく前からパソコンの画面が見づらくなっていたのだ。老眼になってもいいとしだが、と思いつつ検査を受けた。検査中と検査後のやり取りは次のとおりだ。

「きょうは眼が少しお疲れですか」
「スマホとパソコンで酷使こくししていますから」
「よく見えることもおありですね」
「あさ起きがけがよくありません」
「左右の視力バランスがよくなかったようです」

担当したOさん、とても感じがよかった。検眼機器にあごを乗せひたいを接しながら僕は見えたとおり明確にあるいは曖昧あいまいおうじただけだが、的確にてくれた。間違いなくベテランのわざだ。加工も早く、きれいに仕上がっていた。アウトドア用を見るのが今から楽しみだ。

アウトドア用は娘が贈ってくれたものだし、パソコン用は妻に見てもらったものだ。フレームも替えようかと思ったが、ひび割れなどないとのことだったので、いずれもレンズ交換だけにした。家に帰ってパソコン画面に向かうと、予想以上に鮮明で見やすい。新しいメガネになったようだ。Thanks Ms. Zoff!

二日後、予定より早くアウトドア用を受け止った。Thanks again Ms. O.

デクノボーの용구

韓国ドラマ「ごはんに願いを」 (原題 밥이 되어라)の人間観察がおもしろい。서울に行く列車が1日に数本しかなく、うわさがすぐ町中まちじゅうの人々に伝わる、低い山々に囲まれ、その真ん中をゆったりと川が流れる田舎いなかを舞台に約20年にわたって物語が展開する。

2021年のMBC放送では全120話、日本のBS11版も75話という長編だ。主たる場面は밥집バプジプという小さな食堂と市内の궁궐グングォル(宮廷)という豪華な高級料理店。毎夜、밥집(ご飯の家)に3世帯の家族が集まり、一つのテーブルを囲んで食事をする。彼らは大家族のように暮らし、それぞれの家で起きたことを話し、それぞれが抱える問題を自分のこととして心配する。

ある日、その食堂の経営者경수ギョンスのところに久しく音信のなかった彼の父親が訪ねてくる。父親は少女1人を連れてきて、その子を息子にたくし去ってしまう。少女の名は영신ヨンシン、就学年齢を過ぎているのに入学していない。母親を知らず1人で暮らしてきた경수は悩んだ末に少女を受け入れる。賢くて思いやりのある彼女がこのドラマの主人公だ。

영신を含め同級生4人の友情と恋愛を軸にドラマが進行してゆく。ことあるごとに彼らの小学校時代の場面が挿入され、二つの時間軸がパラレルに進んでいるようにも感じられる。混乱することもあったが、しだいに作者の意図が奈辺なへんにあるか考えるようになった。僕なりの解釈がまとまったら、改めて投稿しようと思う。

他方、궁궐の経営陣の家族のあいだでは会長の後継者をめぐっていがみ合いが絶えない。その会長が20年前に交通事故で失った恋人と영신、会長夫人と경수の関係がドラマの伏線ふくせんとしてあり、紆余うよ曲折きょくせつするプロットはいかにも韓国ドラマだ。ひとつ気になるのは伏線がすべて、平然へいぜんうそをつく会長夫人の台詞せりふによって作られていることだ。

人間味あふれる밥집の疑似ぎじ家族と殺伐さつばつとした궁궐の親族との比較を通して、家族の意味と人の本性や真価について考えさせる作品だ。地縁関係と血縁関係の対比とみることもできよう。このドラマを44話までみた僕の解釈によれば、真の主人公は脇役の용구ヨングだ。

용구は知的障害者で風采ふうさいこそあがらないが、深い思いやりと鋭い観察眼かんさつがんを持っている。年老いた母親と一緒に伝統的な韓国の市場シジャンで野菜を売り、自転車で固定客に配達する。彼をあなどって安く買おうとする客に気づきながら、その客に恥をかかせまいとして計算できないふりをする용구は木偶でくぼうとして描かれる。

용구の心はどこまでもあたたかいぬくもりに満ちている。人にあなどられながら生きてきたせいか、心底しんそこ思いやりにあふれた人だ。その彼が、同じ市場でアクセサリー類を売る女性필선ピルソンを好きになる。周囲の人々が彼にデートの段取だんどりや恋愛の仕方を教えると、彼はうれしそうに耳を傾ける。彼女が市場に来なくなったときの彼の落胆ぶりは深刻だが、みなに知られないように気丈きじょうにふるまう。

登場人物図(下)の一番下に小さな写真で載っている용구。その隣りに필선を入れるべきなのに、彼女は図にもポスター写真にも載っていない。彼を好きになった彼女こそ心眼しんがんの持ち主であろう。半狂乱状態に陥って自閉していた다정ダジョンの心を開かせた용구のすごさを思うべきである。

宮澤賢治のいう「デクノボー」のような人なのだ。以前ブログに書いた宮澤賢治「雨ニモマケズ」を読むを改めて思う。

https://program.imbc.com/agoodsupper

主な出演者とその役柄
주요 인물
정우연 : 김영신(본명:강영신)(강종권의 친딸)(23) 역 (아역 : 김시하) – 고아, 밥집 주방장 → 한정식집 ‘궁궐’ 인턴사원 → 정직원 → 주방장 → 무직→ ‘디딤(종합외식기업)’ 식품개발부 본부장
재희 : 정경수(38) 역 – 밥집 사장 → ‘디딤(종합외식기업)’ 식품개발부 본부장 → 사망, 영신을 길러준 아저씨, 한식당 ‘영화당’ 창업주의 손자
권혁 : 박정훈(23) 역 (아역 : 서윤혁) – 영신을 짝사랑하는 친구, 신은천대학교 의대 본과 3학년
강다현 : 이다정(23) 역 (아역 : 이소윤) – 영신의 단짝 → 라이벌, 정훈의 前 연인, 신은천대학교 식품영양학과 졸업, 한정식집 ‘궁궐’ 인턴사원 → 무직
조한준 : 장오복(23세) 역 (아역 : 한창민) – 영신의 친구, 동네 건달 → 검정고시 준비생 → 대입수험생
궁궐 사람들
김혜옥 : 최숙정(58) 역 – 한정식집 ‘궁궐 여사장, 주방장 출신, 경수의 생모, 과거 경수 부의 내연녀
남경읍 : 강종권(58) 역 – 숙정의 전남편이자 영신의 생부, 한정식집 ‘궁궐’과 다수 요식업체 실소유주, ‘디딤(종합외식기업)’ 회장 → 퇴임
변우민 : 강종우(52) 역 – 종권의 동생, 무직, 도박 중독자 → 한정식집 ‘궁궐’ 사장
최수린 : 서민경(48) 역 – 종우의 아내, 한정식집 ‘궁궐’ 사장 → 총지배인
권도균 : 강준영(24) 역 (아역 : 우성민) – 종우와 민경의 아들, 한정식집 ‘궁궐’ 서빙 직원 → 카페 ‘스토랑트’ 직원 (9회 ~ 67회, 69회, 71회, 77회, 83회, 87회 ~ 88회)
이루 : 최성찬(42) 역 – 숙정의 조카, 한정식집 ‘궁궐’ 조리사 → 총지배인
밥집 단골들
김영호 : 박경철(48) 역 – 정훈의 아버지, 용역팀 팀장
오영실 : 세진(44) 역 – 다정의 어머니, 읍내 의류 매장(그랭드보떼) 매니저
김정호 : 이완수(48) 역 – 다정의 아버지, 시골 초등학교 교사
김민경 : 맹순(75) 역 – 오복의 할머니, 채소 노점상 상인
한정호 : 장용구(42) 역 – 오복의 삼촌, 지체장애인
권소이 : 황필선(37) 역 – 머리핀 장수, 용구의 연인 → 아내 (38회 ~ 60회, 67회 ~ 120회)
https://ko.m.wikipedia.org/wiki/%EB%B0%A5%EC%9D%B4_%EB%90%98%EC%96%B4%EB%9D%BC

ふくかんねっと: 2016-2023

「ふくかんねっと」近年の活動から
新型コロナウイルス感染対策のため活動を自粛いたします。再開について追ってご案内いたします
・キムチ販売  4月20日~6月末予定
・韓国語講座  時期未定
・イベント  6月より開催予定
・コラッセでの販売  6月より開始予定
地域に根ざした日韓交流を続けて20年: ちょん・ひょんすく講演会
新型コロナウイルス感染対策のため中止
「地域に根ざした日韓交流を続けて20年: ふくかんねっとの活動」と題し、ふくかんねっと理事長のちょんひょんすくの講演です。長年、福島を拠点に韓国語や韓国料理の講座、日韓の市民交流を実践し…
日時:2月26日(水)18時半~
会場:日韓文化交流基金(東京都千代田区)
主催:日韓文化交流基金
日韓文化交流基金賞を受賞しました
学術・文化分野の交流を通じて日韓両国間の友好親善に寄与した韓国人に贈られる日韓文化交流基金賞の受賞を祝い、祝賀会が開催されました。
日時:12月18日(水)
会場:いやしカフェ
詳細はこちら
2019ふくしまキムチ村プロジェクト
福島市フルーツライン沿いの耕作放棄地3千坪を活用し「薬膳王国」を発信中。福島ブランドとして栽培から販売まで地元の皆さんの力をお借りしています。詳細はこちらfacebookで案内しています。
日韓文化交流基金賞 福島県で初の受賞
「今だからこそ草の根交流が大事」福島と韓国の民間交流を推進してきたNPO法人の理事長が表彰されました。表彰式は9月18日ソウルのロッテホテルで行われました。
主催:日韓文化交流基金
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2018ふくしまキムチ村プロジェクト
福島市フルーツライン沿いの耕作放棄地3千坪を活用して栽培した製品を福島ブランドとして全力を尽くして販売していくこととなりました。詳細はこちら
facebookで案内しています。
未来につなぐ環境プロジェクト
2017年に続き韓国の学生25名が来日しました。福島県を中心に革新的エネルギー開発や環境問題に取り組む関連施設、関係者との意見交換を通じ、東日本大震災を克服して復興を遂げる福島の姿を学びました。
期間:2018.8.20(月)~8.29(水)
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ふくしまと韓国かけはしプログラムⅡ:ふくかん農食品文化交流事業
■招へいプログラム 詳細はこちら
2017.2.20(月)~3.1(水)
■派遣プログラム 詳細はこちら
2017.3.15(水)~3.21(火)
主催:NPO法人ふくかんねっと
共催:公益財団法人日韓文化交流基金
日韓青少年交流架けはしプログラム開催
2016.8.1(月)~8.10(水)
主催:NPO法人ふくかんねっと
共催:公益財団法人日韓文化交流基金
協力:国際民間教育文化交流会
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報告書(韓国語)はこちら
こんにちは! ふくしま! 希望のコンサート
2011年3月11日の東日本大震災その後の原発事故から5年4か月が経過しました。いまもその影響に苦悩する福島に、韓国からエールが届く福島と韓国を結ぶ心躍るパフォーマンス。
日時:2016年7月21日(木)18:30開演
場所:とうほう・みんなの文化センター[福島県文化センター]
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韓国の国民的俳優チェ・ブラム氏の呼びかけで韓国政府の支援を得ました。県内経済団体や報道機関が参加した実行委員会を組織して開催しました。
K-POPコンテスト 2016 福島大会
K-POPのど自慢大会「K-POPコンテスト2016」地方大会を6月4日福島市で開催しました。
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韓国ドラマセレクション2016
韓国ドラマセレクション2016: 古家正亨流ドラマの楽しみ方教えます
日時:2016年5月21日(土)
場所:フォーラム福島1(福島市)
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「話してみよう韓国語」福島大会
福島韓国青少年交流プログラム(招へい・派遣)の一環として青少年フェスティバルを開催しました。
日時:2016年2月28日(日)13:00~
場所:福島駅エスパル ネクストホール
主催:話してみよう韓国語福島大会実行委員会、駐日韓国大使館韓国文化院
共催:駐日韓国文化院世宗学堂
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「ふくかんねっと」の新たな展開

「ふくかんねっと」という市民団体と出会って20年余りがちました。その団体が昨年から事業を多角化し、福祉サービス事業を展開しています。少しずつ紹介していきたいと思います。

ふくかんねっとが運営するサランとチング
特定非営利活動法人ふくかんねっと
韓国語とその文化・経済・歴史を学び、福島県人と韓国人との交流を通じて相互理解と友好を深める活動をつづける市民団体(2001-)
福祉型専攻科ユニバーサルカレッジ・サラン
高校卒業後も学びたい人のための福島県初の福祉型専攻科(2022-)
2022年度入学式のようす(58:15) 同ダイジェスト版(11:37)
就労継続支援B型事業所チング
知的障がい・精神障がい・適応障がい・発達障がいをもつ18-65歳の人を対象とする指定障がい福祉サービス事業所(2022-)
月刊「サラン通信」バックナンバー
2022年4月創刊、毎月1日発行

黄ばんだマスク

コロナ禍が世界を席巻した2020年、自公政権は国がガーゼマスクを買い上げ、国民に配布するという弥縫策びほうさくを採用した。あれから3年、黄ばんだマスクを見ながら政治とメディア、それらに踊らされた自分を含む国民の貧困を思う。浅ましい政治屋が繰り出す愚民策を揶揄やゆしながらも振り回されるのは、いい加減もううんざりだ。何をなすべきか。

Looking around

70年代に繰り返し聴いた김민기(1951-)の歌を聴く。

두리번 거린다 적사-작곡 김민기
헐벗은 내 몸이 뒤안에서 떠는것은
사랑과 미움과 배움에 참을
너로부터 가르쳐 받지 못한 탓이나
하여 나는 바람부는 처음
알고파서 두리번 거린다
말없이 찾아온 친구 곁에서
교정 뒤안의 황무지에서
무너진 내 몸이 눌리어 우는 것은
눈물과 땀과 싸움에 참이
너로부터 가리워 아지못한 탓이냐
하여 나는 바람부는 처음
알고파서 두리번 거린다
말없이 찾아온 친구 곁에서
교정 뒤안의 황무지에서
텅빈 내 마음이 굶주려 외침은
꿈과 노래와 죽음의 참이
너로부터 사라져 잃어버린 탓이나
하여 나는 바람부튼 처음
알고파서 두리번 거린다
말없이 찾아온 친구 곁에서
교정 뒤안의 황무지에서
ぼろを纏った僕の体が校庭の裏で震える
それは愛と憎しみと学びに耐えることを
君が教えてくれなかったからか
僕は風の吹き初めたとき
知りたくて探し回る
無言でやってきた友のそばで
校庭の裏の荒地で
崩れ落ちた僕の体が抑えられて泣く
それは涙と汗と争いに耐えることを
君から隠れて知らなかったからか
僕は風の吹き初めたとき
知りたくて探し回る
無言で訪ねてきた友のそばで
校庭の裏の荒地で
虚ろな僕の心が飢えて叫ぶ
それは夢と歌と死の忍耐が
君から消えて失われたたからか
僕は風の吹き初めたとき
知りたくて探し回る
無言で訪ねてきた友のそばで
校庭の裏の荒地で
translated by DeepL

효야とその眷属: 書き出し(再)

효야ヒョーヤとその眷属けんぞくの冒頭を何度も読み返し、推敲すいこうを重ねている。

いまはむかし、まだ家々にテレビも電話もなかったころ、冬になると東京にも何度か雪が積もった。いつもの景色が雪におおわれたのを見て子どもたちは喜び、はしゃいで雪だるまを作り雪合戦がっせんをした。효야ヒョーヤ炭俵すみだわらわらをそりに仕立したて、原っぱの斜面や道路ですべった。藁についたすみの粉で黒くなった遊び仲間の顔、顔、顔――みんなの顔が一斉いっせいにどっと笑う。

坂道を登りつめた少し先に鎌倉時代にできたという八幡宮はちまんぐうがあった。その境内けいだいもすっぽり雪をかぶった。そこでわれを忘れて一匹の黒犬とたわむころがり回った。モノクロ写真のようなその光景こうけい효야ヒョーヤ脳裏のうりに焼き付いている。あの犬は高麗犬こまいぬ化身けしんではなかったか。いつも一緒に遊ぶ仲間はそのときいなかった。

彼は少年のころから何かに夢中になると、ほかのことが見えなくなった。気づくと仲間がいなくなっていたり、怪訝けげんな表情で彼を見ていることがあった。五六人で裏庭に穴を掘ったことがある。身長ぐらいの深さになって粘土層があらわになると水がいてきた。んでもくんでも止まらない。それを見て急にこわくなり、みなの反対を押し切って作業を止めてしまった。

효야ヒョーヤという名前からして、読者は変に思うだろうが、日本に生まれ、幼いころから日本語を話し、ほかの言葉は知らない。見ただけでは、ほかの子どもと違うところはない。生まれたのは東京だから、出生届は효야では受け付けられず、ヒョーヤというカタカナで届けた。효야の母方の祖母は윤화ユヌァといい、父方の祖母は희사フィサという名で、それぞれ戸籍上はユナ、ヒサという。みな서울ソウル近郊にルーツを持つ人たちだ。효야は祖父母たちから数えて三代目で在日三世ということになる。名前が名前だし、幼いころから自分も家族もどこかほかの人々とは違うと考えていた。そんなよそ者意識を決定的にしたのが彼の母の信仰だった。

https://tb.antiscroll.com/novels/goolee/24471

People staring at their palms all day long

終日手のひらを見つめる人々

以下の文章は小説「異界でタンゴを舞う」(「無宗教派の人々(3)」)の一節です。このごろ、しきりに思い出されます。

人々は睡眠を除くほとんどの時間、手のひらを見て過ごした。歩くとき、電車や地下鉄の到着を待つとき、電車の車内、エスカレータに乗っているとき、便座にすわっているとき、食事中、時間つぶしなど、家にいるときも外出先でも、いつも手のひらを見つめていた。車を運転するときや自転車に乗るときも手のひらを見ることをやめなかった。歩くとき、人々は手のひらを自分に向けひじを九十度曲げて歩いた。駅構内の至るところで、手のひらを見ながら歩かないように注意するが、従う者はいない。手のひらに保存された写真や動画を含むデータに自分だけの領域を見いだし、好きなニュースやマンガを読み、ゲームに興じて時間を費やすことが大半の人々の日常になった。歩きながら事故にう人も多く、駅ホームから線路に転落する人も絶えなかった。

[二〇三〇年までにスマホが画期的変化を遂げ、スマフォと呼ばれるようになったようです。二〇年代と違って、手のひら自体がその機能を果たしたらしいのです。記録係には想像しにくいのですが、凭也ヒョーヤはそれらしい動作をすることがありました。スマホを手に持っていないのに、あたかも手のひらにあるように操作し、熱心に説明するのです]

左の手のひらを指でこすると、左手にスマフォ画面が立ち上がり、両方の手のひらを合わせてこすると両手に画面が表示される。画面サイズの拡大縮小もできる。スマフォの下辺が手首に接し、画面全体が手のひらの上に浮いて見える。画面はいつも見やすい角度に保たれ、指を立てたりそらせたりして画面の角度を自在に調整できる。画面の解像度がはるかに向上し、以前ほどのぞき込む必要がない。立ち上げたスマフォ画面を消すには、もう一度手のひらをこすればよい。体の一部がスマフォになった感覚なので、置き忘れや落下の心配はなく、倒れて手のひらをついたときは自動的に消える。生体の新陳代謝にもとづく微弱電流を利用したからバッテリーもいらない。カメラのレンズ機能は人差し指か中指の爪に納められ、シャッターは同じ指の指先にあって、親指の指先で軽く押すだけだ。録音用のマイクとスピーカー機能も指先にあり、入力は音声か指で行われる。音声入力の場合は手のひらを口の近くに持ってきて小声で話せばいいし、手のひらに反対の手の指で文字を書けば文字入力もできる。手のひらをかざすだけで、別紙に書いた文章や画像をスキャンできる。手洗いや入浴時には画面を消せば、ただの手のひらになる。手のひらにプロジェクション・マッピングされた旧型のスマホ画面を想像すればよい。

ただ、スマフォが普及するにつれ、人々はますます自閉し、他者の意見を聞かなくなった。自分の体の一部に映し出されるものを自分だと思い込んだ人々は自分の手のひらばかりを見た。入力も電話も手のひらに向かうだけで、写真も動画も自在に撮れたから、盗撮とうさつがさらに巧妙化した。周囲も他者もかえりみない、自閉症とスマフォ依存症を合併した症状を持つ人がちまたあふれた。二〇二〇年代はじめに新型コロナウイルス感染症が世界中に猛威をふるい、外出が禁止された時期の状態が日常化したのだ。親子を含む家族内の衝突が増え、親が殺され、子が虐待ぎゃくたいされる事件が多発した。自分の利益を守り正当化するのに汲々きゅうきゅうとする人が増え、職場や学校でもいじめや殺傷事件がふつうになった。さらに禁句が増えて自由な会話が制限され、人々が口にする言葉が空疎くうそになった。

[コロナ後の数年間、官製マスクの着用が義務づけられ、言論封じ込め手段の一つとして日本島の支配層に利用されたことがありますが、それが常態化したのです]

スマフォの普及とともに、旧支配層による無宗教派の取り込みが一気に加速される。二〇年代後半には、旧テレビも旧新聞もスマフォに取って代わられ、これら旧メディアの入っていた高層ビルが無用の長物と化し、ハイジン教を含む無宗教派の寺院や教会のセンターに変貌していく。センターの一階に二〇年代のコーヒーショップやコンビニに似たスペースがあるのはその名残なごりである。

People staring at their palms all day long

The following is a passage from the novel “Dancing the Tango in the Other World” (“The Irreligious People (3)”). I am reminded of the passage quite often these days.

People spent most of their time, except for sleep, looking at their palms. When walking, waiting for the train or subway to arrive, in the train car, on the escalator, sitting on the toilet seat, eating, killing time, etc., they always looked at their palms, whether they were at home or out and about. They never stopped looking at their palms when driving a car or riding a bicycle. When walking, people walked with their palms facing them and their elbows bent 90 degrees. Throughout the train station, people were warned not to walk while looking at their palms, but no one obeyed. Finding their own personal space in the data stored in their palms, including photos and videos, and spending time reading their favorite news or comics or playing games became the daily routine for most people. Many people had accidents while walking, and people were constantly falling from station platforms onto the railroad tracks.

[By the year 30, smartphones seemed to have undergone a revolutionary change and became known as smart phones. Unlike in the 20s, it seems that the palm of the hand itself performed that function. It is hard for the recorder to imagine, but Hyoya sometimes acted in a way that seemed to be the case. Even though he did not hold the phone in his hand, he operated it as if it were in his palm and explained it enthusiastically].  Translated by DeepL

明治座歌舞伎を観る

正月の浅草歌舞伎以来3ヵ月ぶりに明治座で歌舞伎をた。昼の部いずれもおもしろく第三幕がかもす色彩感と中村梅玉ばいぎょくの舞に魅了された。町娘役を演じた中村莟玉かんぎょくは愛らしい女性を髣髴ほうふつとさせる。

人形町の明治座は1873年に設立されている。銀座の歌舞伎座(1889年)より16年早い。ことし150周年を迎えたという。

Wanda Landowska

2021年に立ち返って再出発しようと、同年11月までの非公開ブログ(-77)を続けることにした。17ヵ月をた再開になる。2023年の意味で番号を2301としたが、4けたにするまでもないと考え101にした。

きのう偶々たまたま発見した若き Wanda Landowska (1879-1959)の写真を挿入する。高三のころから好きな音楽家の一人だった。こんなひとみで見つめられたら男は身動きすらできまい。

MTB

しばらく乗っていないMTBに油をさし、油で洗浄しながらブラシでチェーンの汚れを取った。フレームとタイヤまわりを油のみた布でき、前後のタイヤに空気を入れた。きつかった登り、滑落かつらく事故、転倒など、思い出がよみがえる。むかしの恋人のような愛着あるMTBだ。

いつまでもMTBに乗れるわけではない。右脚にしびれが残るお前にお似合にあいなのは16インチの小径車だろう。だから、ついでに油をさしていてやった。小径車が僕のいまの愛人である。翌日輪行通勤したが、6段ギアの切り換え、ブレーキ、タイヤの回転、すべて快適だった。

パソコンと寿命

年齢のせいか物を捨てられない。断捨離だんしゃりとかいうが、実用の役に立たなくなった物もすぐには捨てられない。NEC9801を皮切りにこれまで5台のパソコンを個人用に使ってきた。うち3台のノート型が机のわきに積んである。

どれも立ち上がりに時間を要し、インターネット接続が不安定だ。画面の周縁しゅうえんが黄ばんだものもある。Word は問題ないが、Excel になると処理速度が遅い。しばらく前から文書や写真はSSDに保存しているから、いつ処分してもいいのに捨てられない。

JEMTC*主催の有償譲渡会で中古品を購入した。大企業や官公庁で使われていたものだ。Windows11機種で操作性もいい。5-6年使うとして僕も80歳になるから、最後のしなになるかもしれない。いつになったら、長年使った品を捨てられるだろうか。*日本電子機器補修協会

一羽の蝶

家のベランダで一羽のアゲハチョウが羽化うかした。朝、ガラス戸とアミ戸のあいだの狭い隙間すきまで羽をじ、じっとしていた。外に出そうとしてガラス戸を動かすと羽に当たり、チョウは仕方なく羽を広げた。さらに戸をけると戸のわくが羽に当たるので、アミ戸を静かにはずした。チョウは微動びどうだにしない。数分後にはまた羽を閉じていた。

家のベランダでは毎年、数羽のチョウが羽化うかする。ここ数年はみな羽が半分しかひらけなかったり、羽が折れ曲がるなど、まともに羽をひらいたものはなかった。そんな失望が続いたあとだから、けさチョウを発見したときの驚きと喜びは表現しようもない。前日が孫の百日祝いだったこともあり、ことのほかうれしかった。

午後、チョウは跡形あとかたもなく消えていた。きっとどこか遠くに飛んでいったのだろう。安全なところで花のみつを吸っていればいいのだが。

효야とその眷属

효야ヒョーヤとその眷属けんぞくと題した文章のまえがきを大幅に変更した。主人公をヒョーヤの母からヒョーヤ自身に変え、彼らを在日コリアンに仕立てた。日本社会と彼らのあいだにある溝や距離感を鮮明にするためだが、うまく描けるかどうか。以下、まえがき・あとがきより引用。

まえがき

いまはむかし、まだ家々にテレビも電話もなかったころ、冬になると東京にも何度か雪が積もった。雪におおわれたいつもの景色を見て子どもたちは、はしゃいで雪だるまを作り雪合戦がっせんをした。효야ヒョーヤ炭俵すみだわらわらをそりに仕立て原っぱの斜面や道路ですべった。藁についたすみの粉で黒くなった遊び仲間の顔、顔、顔。それが一斉いっせいにどっと笑う。

坂道を登りつめたところに鎌倉時代にできたという八幡宮はちまんぐうがあった。その境内けいだいもすっぽり雪をかぶった。そこでわれを忘れて一匹の犬とたわむころがり回った。モノクロ写真のようなその光景こうけい효야ヒョーヤ脳裏のうりに焼き付いている。あの犬は高麗犬こまいぬ化身けしんではなかったか。いつも一緒に遊ぶ仲間はそのときいなかった。

彼は少年のころから何かに夢中になると、ほかのことが見えなくなった。気づくと仲間がいなくなっていたり、怪訝けげんな表情で彼を見ていることがあった。五六人で裏庭に穴を掘ったことがある。身長ぐらいの深さになって粘土層があらわになると水がいてきた。んでもくんでも止まらない。それを見て急にこわくなり、みなの反対を押し切って作業を止めてしまった。

효야ヒョーヤという名前からして、読者は変に思うだろうが、日本に生まれ、幼いころから日本語を話し、ほかの言葉は知らない。見ただけでは、ほかの子どもと違うところはない。生まれたのは東京だから、出生届は효야では受け付けられず、ヒョーヤというカタカナで届けた。효야の母方の祖母は윤화ユヌァといい、父方の祖母は희사フィサという名で、それぞれ戸籍上はユナ、ヒサという。みな서울ソウル近郊にルーツを持つ人たちだ。효야は祖父母たちから数えて三代目で在日三世ということになる。名前が名前だし、幼いころから自分も家族もどこかほかの人々とは違うと考えていた。そんなよそ者意識を決定的にしたのが彼の母の信仰だった。

효야ヒョーヤとその眷属けんぞくの目次はいま次のとおりだが、筆が進んでいない。
一 효야の母と父
二 효야の育った家庭
三 家族と離れた효야
四 転職を重ねた효야
五 효야と女性たち
六 Why Korea? Why Korean? 
七 핏줄ピジュルというもの
八 無宗教社会を生きる

あとがき

無宗教社会などありはしないのに、一九四五年夏以後、日本島にくらす人々は自分たちの社会が科学的で非神話的な社会に生まれ変わったと考えたようだ。それ以前の社会が非科学的で神話的で狂信的だったとしたわけではないが、その年の八月をもって時代の断絶を創出し、「一億総懺悔ざんげ」という宗教的な「りどころ」を人々のあいだに浸透させた。ただし、人々が自ら考えてそうしたわけではない。彼らは長い年月、天皇を現人神あらひとがみとしてあがめ、巧妙こうみょうな監視体制のもとで考える能力をなくしていたから、このときもまた何者かが巧妙に仕組んだのだ。天皇は神のまま天上界に隠れることもできたはずだが、何と神を人間界に降臨こうりんならぬ降格させるという奇策きさくをもって元号の連続を図った。それを伝統と呼ぶならば、そのとおりなのだろう。ただ、このことが人々に少なからぬ混乱と困惑をもたらした。その精神的後遺症こういしょうのひとつが筆者が<無宗教むしゅうきょう>と呼ぶ症候群の集団発症はっしょうだった。今風にいえば、無宗教症のクラスターが全国規模で起こったのだ。ただ、この精神疾患はほとんどの人に自覚症状がない。

十九世紀後半、明治時代に入ってから大日本帝國は<富國強兵>という名のもとに、清朝中國や旧ロシア帝國と戦争をし、現在の台湾・韓国・北朝鮮を植民地にして中国の東北地域に満州國まんしゅうこく樹立じゅりつした。一九三十年代には中国内陸部と東南アジア地域に戦域を広げ、四十年代には米国と戦争するに至る。その過程で双方の兵が殺しあい、大日本帝國軍は自國じこくとアジア地域の人々の平和な生活をこわし人権を蹂躙じゅうりんして殺戮さつりくした。その一方で五族協和という融和政策をとなえアジア解放をうそぶいた。二〇二二年のロシアによるウクライナ侵攻とそのプロパガンダは、かつての大日本帝國による侵攻と報道管制のようすを彷彿ほうふつとさせる。一九四五年八月に無条件降伏し、大日本帝國は瓦解がかいしたかにみえるが、その残滓ざんしは今も日本社会のどこかに温存おんぞんされている。いや、残りかすどころではない。明治百五十年だ、鉄道百五十年だと、機会をとらえては旧帝國を礼讃らいさんする行事を行い、美化された明治帝國のイメージ定着を図っている。最近二十年の自公保守政権とその周辺勢力のなかに旧帝國回帰かいきを願う思惑おもわくが色濃くただよっているではないか。

再び一九四五年直後の日本島に戻ろう。当時、日本社会には雨後のたけのこのように<新興宗教>が勃興ぼっこうした。多くは戦前の似非えせ宗教に対する反動ゆえに同じく非宗教だったが、人々は宗教も非宗教も区別できないまま、これら新興宗教に取り込まれるか無宗教を決め込んだ。創価学会そうかがっかいはそんな時代に全国で折伏しゃくぶくという名の布教活動をくり広げた。その仏教運動は既存の仏教各派や神道キリスト教等を邪宗じゃしゅう邪教じゃきょうとして一蹴いっしゅうした。その大衆運動に驚き戸惑った人々は創価学会を略して「学会」と呼び、会員を「学会員」と呼んでみ嫌ったが、その実像を理解することはなかった。人々はメディアや反対勢力が叫ぶままに「学会」を「貧乏人と病人の集団」と呼んでさげすみ排斥した。この集団の統率のとれた会員の活動だけをみて全体主義と評する者すらいた。問題は、こういう言説げんせつがまことしやかに語られ、多くの人々に受け入れられたことにある。

ひるがえって二〇二三年、日本島にらす多くの人々の「宗教」観は二十世紀後半からほとんど変わっていないようにみえる。むしろ無宗教性がさらに深まり、スマフォ依存症とその延長上にある心的露出症が蔓延まんえんしている。

戦前の天皇を中心とする国家神道に対する反動から「無宗教」がよしとされ普通とされる戦後の日本社会において、神社での祈祷きとうは「信仰」とは違う伝統と考えられ、正月にはみな神社に参詣する。また、葬儀や法事には僧侶に読経どきょうしてもらい念仏をとなえることが死者に対するとむらいであり通過儀礼とされる。戦前と同じようにいずれも「信仰」とは異なるものとして扱われ伝統行事のなかに取り込まれる。筆者は、仮説として現代日本社会を「無宗教社会」と呼ぶ。この作品もその仮説を前提している。

「無宗教社会」では、何かを「信じる」者は非科学的とされ、「信仰」を持つ者は弱者としてうとんじられる。「信仰」を説き、宗教団体に勧誘する者はうさん臭いものになってしまう。長いあいだ思想と情報の統制下に置かれ自ら考える習慣を持たなかった人々は自ら思考する力を失っていた。その状況は戦後八十年がとうとする現在も大きく変わってはいない。そんな人々の思考と信仰の真空域に「学会」が現れ、社会的な反感を買ったのである。

「学会員」となることは「信仰」を持つことを宣言するだけではない。人々が習俗として取り込んできた既存の神仏を否定する。それを知りながら、バンジャは「学会員」になった。周囲の人々にあなどられ陰口かげぐちたたかれて夫に嫌われながらも「学会員」になる選択をした。なぜだろう、何が彼女を仏教運動におもむかせたのだろう。そして、バンジャに反抗し続けたヒョーヤは「学会」と「学会員」をどう受け入れたのだろうか。ある家庭における親子二代に及ぶ時代と彼らの生きざまを通して考えてみた。

珈琲キャラメル

珈琲所コメダ珈琲店監修の森永珈琲キャラメルという長々しい名のキャラメルを食べながら、縦書き文庫版で萩原朔太郎の短編「散文詩風の小説」を読んだ。著者が北越地方のひなびた温泉町を散策していて道に迷い、風景の裏側に迷い込む私小説風の心象スケッチ作品だ。

長いひげを生やした数千とも数万とも想像される猫が家々の窓から首を出してくる。著者は猫の住む町が実在することを自らの体験をもとに信じていたようだ。日常生活にいていたであろう彼にとっては、こういう荒唐無稽こうとうむけいともいえる風景のほうが身近だったのかもしれない。

法の支配 ≠ 法治国家

大浜啓吉著「<法の支配>とは何か: 行政法入門」(岩波新書)を読んだ。立憲君主制の統治原理である法治国家 Rechtsstaat と戦後日本の統治原理である<法の支配> rule of law の根本的な違い、明治の<法治国家>論の枠組みから抜け出せない現代日本の行政法の学説など興味深い。

「法治国家論はドイツ帝国の立憲君主制に特有の国家統治の原理でした。明治の新政府は近代国家のはんをドイツに求めて明治憲法を制定したのですが、同時にドイツ帝国憲法の原理である<法治国家>論も受容しました。問題は第二次世界大戦に敗れ、日本国憲法が制定された後においても法治国家論の帰結である<法律による行政の原理>が支配的学説として生き残っていることです。<法の支配>を統治原理とする日本国憲法の下でどうしてそういうことになるのか」(同書 p. 96より引用、句読点ほか編集)

こういう国家の根幹に関わる大事なことを学校教育は教えなかった。それが戦後日本の政治体制ないし55年体制と呼ばれる自民党長期政権にとって不都合だったからだろう。彼らは明治以来の戦争国家と戦後におけるイメージとしての平和国家を切り離すことなく連続させたいのだ。だから、明治150年といい、鉄道150年といって、何かにつけて連続性を強調する。そして、北朝鮮や中国を脅威にえた安保改定が行われ、なし崩し的な平和憲法の骨抜き化が進行している。自公保守政権のもとでそれが進められていることに危機感を覚えいきどおりさえ感じる。

法律による行政の原理、法律に基づく行政の原理
統治国家論法律による行政の原理
法律の法規創造力: 法規(国民の権利を制限し義務を課す一般的抽象的な法規範)を創造するのは立法権(法律)のみで、行政権は法律の授権がない限り法規を創造できない
法律の優位: 法律形式によって表明された国家意思が他のすべての国家意思に優越する
法律の留保: 行政権が一定の活動をする場合には必ず法律の根拠が必要である
法の支配 法律に基づく行政の原理
授権執行の原則: 行政権は個別の法律の授権があって初めて法律を執行できる
適法処分の原則: 行政行為は実体法レベルで法律に適合したものでなければならない
手続的デュープロセスの原則: 行政の執行過程における手続上の適法・違法を判断する際の準則
裁判的救済の原則: 行政の執行過程における実体的瑕疵・手続的瑕疵によって私人の権利利益が侵害された場合、裁判上の救済が図られなければならない

日本統治下1919年二つの宣言書

百余年前の宣言書を読んだ友人が、何をめざしていたか書かれていないという。彼の疑問は「独立を勝ち取ったとしたら、その後の国の姿、政治体制をどうしたい、どうありたいと考えていたのだろうか」というものだ。朝鮮全域から人々が高宗(1852-1919)の葬儀のため京城(現서울)に集まったていたことを考えると、旧王朝の再興を願っていたと解釈できなくはない、ともいう。納得できなかった僕は、二つの宣言書(1919年2月8日; 3月1日)を読み直すことにした。

宣言書 1919.3.1

吾等은 玆에 我 朝鮮의 獨立國임과 朝鮮人의 自主民임을 宣言하노라 此로써 世界萬邦에 告하야 人類平等의 大義를 克明하며 此로써 子孫萬代에 誥하야 民族自存의 正權을 永有케 하노라. 半萬年 歷史의 權威를 仗하야 此를 宣言함이며 二千萬 民衆의 誠忠을 合하야 此를 佈明함이며 民族의 恒久如一한 自由發展을 爲하야 此를 主張함이며 人類的良心의 發露에 基因한 世界改造의 大機運에 順應幷進하기 爲하야 此를 提起함이니 是이며 天의 明命이며 時代의 大勢이며 全人類 共存同生權의 正當한 發動이라 天下何物이던지 此를 沮止抑制치 못 할지니라. 舊時代의 遺物인 侵略主義 强權主義의 犧牲을 作하야 有史以來 累千年에 처음으로 異民族 箝制의 痛苦를 甞한 지 今에 十年을 過한지라 我 生存權의 剝喪됨이 무릇 幾何이며 心靈上 發展의 障礙됨이 무릇 幾何이며 民族的 尊榮의 毁損됨이 무릇 幾何이며 新銳와 獨創으로써 世界文化의 大潮流에 寄與補裨할 機緣을 遺失함이 무릇 幾何이뇨.

噫라 舊來의 抑鬱을 宣暢하려 하면 時下의 苦痛을 擺脫하려 하면 將來의 脅威를 芟除하려 하면 民族的 良心과 國家的 廉義의 壓縮銷殘을 興奮伸張하려 하면 各個人格의 正當한 發達을 遂하려 하면 可憐한 子弟에게 苦恥的 財產을 遺與치 안이하려 하면 子子孫孫의 永久完全한 慶福을 導迎하려 하면 最大急務가 民族的 獨立을 確實케 함이니 二千萬 各個가 人마다 方寸의 刃을 懷하고人類通性과 時代良心이 正義의 軍과 人道의 干戈로써 護援하는 今日 吾人은 進하야 取하매 何强을 挫치 못하랴 退하야 作하매 何志를 展치 못하랴.

丙子修好條規 以來 時時種種의 金石盟約을 食하얏다 하야 日本의 無信을 罪하려 안이 하노라. 學者는 講壇에서 政治家는 實際에서 我 祖宗世業을 植民地視하고 我文化民族을 土昧人遇하야 한갓 征服者의 快를 貪할 뿐이오 我의 久遠한 社會基礎와 卓犖한 民族心理를 無視한다 하야 日本의 少義함을 責하려 안이 하노라. 自己를 策勵하기에 急한 吾人은 他의 怨尤를 暇치 못하노라. 現在를 綢繆하기에 急한 吾人은 宿昔의 懲辨을 暇치 못 하노라. 今日 吾人의 所任은 다만 自己의 建設이 有할 뿐이오 決코 他의 破壞에 在치 안이 하도다. 嚴肅한 良心의 命令으로써 自家의 新運命을 開拓함이오 決코 舊怨과 一時的 感情으로써 他를 嫉逐排斥함이 안이로다. 舊思想 舊勢力에 羈縻된 日本 爲政家의 功名的 犧牲이 된 不自然 又 不合理한 錯誤狀態를 改善匡正하야 自然 又 合理한 正經大原으로 歸還케 함이로다. 當初에 民族的 要求로서 出치 안이한 兩國倂合의 結果가 畢竟 姑息的 威壓과 差別的 不平과 統計數字上 虛飾의 下에서 利害相反한 兩 民族間에 永遠히 和同할 수 업는 怨溝를 去益深造하는 今來實積을 觀하라. 勇明果敢으로써 舊誤를 廓正하고 眞正한 理解와 同情에 基本한 友好的 新局面을 打開함이 彼此間 遠禍召福하는 捷徑임을 明知할 것 안인가. 또 二千萬 含憤蓄怨의 民을 威力으로써 拘束함은 다만 東洋의 永久한 平和를 保障하는 所以가 안일 뿐 안이라 此로 因하야 東洋安危의 主軸인 四億萬 支那人의 日本에 對한 危懼와 猜疑를 갈스록 濃厚케 하야 그 結果로 東洋 全局이 共倒同兦의 悲運을 招致할 것이 明하니 今日 吾人의 朝鮮獨立은 朝鮮人으로 하야금 正當한 生榮을 遂케 하는 同時에 日本으로 하야금 邪路로서 出하야 東洋 支持者인 重責을 全케 하는 것이며 支那로 하야금 夢寐에도 免하지 못하는 不安 恐怖로서 脫出케 하는 것이며 또 東洋平和로 重要한 一部를 삼는 世界平和 人類幸福에 必要한 階段이 되게 하는 것이라 이 엇지 區區한 感情上 問題이리오.

아아 新天地가 眼前에 展開되도다. 威力의 時代가 去하고 道義의 時代가 來하도다. 過去 全世紀에 鍊磨長養된 人道的 精神이 바야흐로 新文明의 曙光을 人類의 歷史에 投射하기 始하도다. 新春이 世界에 來하야 萬物의 回蘇를 催促하는도다. 凍氷寒雪에 呼吸을 閉蟄한 것이 彼一時의 勢이라 하면 和風暖陽에 氣脈을 振舒함은 此一時의 勢이니 天地의 復運에 際하고 世界의 變潮를 乘한 吾人은 아모 躊躇할 것 업스며 아모 忌憚할 것 업도다. 我의 固有한 自由權을 護全하야 生旺의 樂을 飽享할 것이며 我의 自足한 獨創力을 發揮하야 春滿한 大界에 民族的 精華를 結紐할지로다. 吾等이 玆에 奪起하도다 良心이 我와 同存하며 眞理가 我와 幷進하는도다 男女老少 업시 陰鬱한 古巢로서 活潑히 起來하야 萬彙群象으로 더부러 欣快한 復活을 成遂하게 되도다. 千百世 祖靈이 吾等을 陰佑하며 全世界 氣運이 吾等을 外護하나니 着手가 곳 成功이라. 다만 前頭의 光明으로 驀進할 ᄯᅡ름인뎌.

公約三章
一、 今日 吾人의 此擧는 正義、 人道、 生存、 尊榮을 爲하는 民族的 要求이니 오즉 自由的 精神을 發揮할 것이오 決코 排他的 感情으로 逸走하지 말라.
一、 最後의 一人ᄭᅡ지 民族의 正當한 意思를 快히 發表하라.
一、 一切의 行動은 가장 秩序를 尊重하야 吾人의 主張과 態度로 하야금 어대ᄭᅡ지던지 光明正大하게 하라.
朝鮮建國 四千二百五十二年三月一日朝鮮民族代表
孫秉熙, 吉善宙, 李弼柱, 白龍城, 金完圭, 金秉祚, 金昌俊, 權東鎭, 權秉悳, 羅龍煥, 羅仁協, 梁旬伯, 梁漢默, 劉如大, 李甲成, 李明龍, 李昇薰, 李鍾勳, 李鍾一, 林禮煥, 朴準承, 朴熙道, 朴東完, 申洪植, 申錫九, 吳世昌, 吳華英, 鄭春洙, 崔聖模, 崔麟, 韓龍雲, 洪秉箕, 洪其兆

宣言書 1919.2.8

全朝鮮靑年獨立團은 我 二千萬 朝鮮民族을 代表하야 正義와 自由의 勝利를 得한 世界萬國의 前에 獨立을 期成하기를 宣言하노라

四千三百年의 長久한 歷史를 有한 吾族은 實로 世界最古 文明 民族의 一이라

비록 有時乎 支那의 正朔을 奉한 事는 有하엿으나 此는 朝鮮皇室과 支那皇室과의 形式的 外交關係에 不過하엿고 朝鮮은 恒常 吾族의 朝鮮이오 一次도 統一한 國家를 失하고 異族의 實質的 支配를 受한 事 無하도다

日本은 朝鮮이 日本과 脣齒의 關係가 有함을 自覺함이라 하야 一千八百九十五年 日靑戰爭의 結果로 日本이 韓國의 獨立을 率先承認하엿고 英·米·法·德·俄 等 諸國도 獨立을 承認할 뿐더러 此를 保全하기를 約束하엿도다

韓國은 그 恩義을 感하야 銳意로 諸般改革과 國力의 充實을 圖하엿도다

當時 俄國의 勢力이 南下하야 東洋의 平和와 韓國의 安寧을 威脅할ᄉᆡ 日本은 韓國과 攻守同盟을 締結하야 日俄戰爭을 開하니 東洋의 平和와 韓國의 獨立保全은 實로 此同盟의 主旨와 韓國은 더욱 그 好誼에 感하여 陸海軍의 作戰上 援助는 不能하엿으나 主權의 威嚴까지 犧牲하야 可能한 온갓 義武를 다하야써 東洋 平和와 韓國 獨立의 兩大目的을 追求하얏도다

及其 戰爭이 終結되고 當時 米國 大統領 루쓰별트氏의 仲裁로 日俄間에 講和會議 開設될ᄉᆡ 日本은 同盟國인 韓國의 參加를 不許하고 日俄 兩國 代表者間에 任意로 日本의 韓國에 對한 宗主權을 議定하엿으며 日本은 優越한 兵力을 待하고 韓國의 獨立을 保全한다는 舊約을 違反하야 暗弱한 當時 韓國 皇帝와 그 政府를 威脅하고 欺罔하야 「國力의 充實함이 足히 獨立을 得할 만한 時期ㅅ가지라」는 條件으로 韓國의 外交權을 奪하야 此를 日本의 保護國을 作하야 韓國으로 하야곰 直接으로 世界列國과 交涉할 道를 斷하고 因하야 「相當한 時期ㅅ가지라」는 條件으로 司法·警察權을 奪하고 更히 「徵兵令 實施ㅅ가지라」는 條件으로 軍隊를 解散하며 民間의 武器를 押收하고 日本 軍隊와 憲兵警察를 各地에 遍置하며 甚至에 皇宮의 警備ㅅ가지 日本 警察을 使用하고 如此히 하야 韓國으로 하여곰 全혀 無抵抗者를 作한 後에 多少 明哲의 稱이 有한 韓國 皇帝를 放逐하고 皇太子를 擁立하고 日本의 走狗로 所謂 合倂 內閣을 組織하야 秘密과 武力 裏에서 合倂條約을 締結하니 玆에 吾族은 建國 以來 半萬年에 自己를 指導하고 援助하노라 하는 友邦의 軍國的 野心에 犧生되엿도다

實로 日本은 韓國에 對한 行爲는 詐欺와 暴力에서 出한 것이니 實上 如此히 偉大한 詐欺의 成功은 世界興亡史上에 特筆할 人類의 大辱恥辱이라 하노라.

保護條約을 締結할 時에 皇帝와 賊臣 안인 幾個大臣들은 모든 反抗手段을 다하얏고 發表 後에도 全國民은 赤手로 可能한 온갖 反抗을 다하얏으며 司法, 警察權의 被奪과 軍隊解散時에도 然하얏고 合倂時를 當하야는 手中에 寸鐵이 無함을 不拘하고 可能한 온갓 反抗運動을 다하다가 精銳한 日本武器에 犧牲이 된 者ㅣ 不知其數며 以來 十年間 獨立을 恢復하랴는 運動으로 犧牲된 者ㅣ 數十萬이며 慘酷한 憲兵政治下에 手足과 口舌의 搭制를 受하면서도 曾히 獨立運動이 絶한 적이 업나니 此로 觀하여도 日韓合倂이 朝鮮民族의 意思가 아님을 可知할지라. 如此히 吾族은 日本軍國主義的 野心의 詐欺暴力下에 吾族의 意思에 反하는 運命을 當하얏으니 正義로 世界를 改造하는 比時에 當然히 匡正을 世界에 求할 權利가 有하며 또 世界改造에 主人되는 米와 英은 保護와 合倂을 率先承認한 理由로 此時에 過去의 舊惡을 贖할 義務가 有하다 하노라.

또 合倂 以來 日本의 朝鮮統治 政策을 보건대 合倂時의 宣言에 反하야 吾族의 幸福과 利益을 無視하고 征服者가 被征服者의게 對하는 古代의 非人道的 政策을 應用하야 吾族에게는 大小政權, 集會結社의 自由, 言論出版의 自由를 不許하며 甚至에 信敎의 自由, 企業의 自由까지도 不少히 拘束하며 行政 司法 警察 等 諸機關이 朝鮮民族의 人權을 侵害하며 公利에 吾族과 日本人間에 優劣의 差別을 設하며 日本人에 比하야 劣等한 敎育을 施하야써 吾族으로 하야곰 永遠히 日本人의 被使役者를 成하게 하며 歷史를 改造하여 吾族의 神聖한 歷史的, 民族的 傳統과 威嚴을 破壞하고 凌侮하며 小數의 官吏를 除한 外에 政府의 諸機關과 交通, 通信, 兵備 諸機關에 全部 或은 大部分 日本人만 使用하야 吾族으로 하여곰 永遠히 國家生活의 智能과 經驗을 得할 機會를 不得케 하니 吾族은 決코 如此한 武斷專制 不正不平等한 政治下에서 生存과 發展을 享受키 不能한 지라. 그ㅅ분더러 元來 人口過剩한 朝鮮에 無制限으로 移民을 奬勵하고 補助하야 土着한 吾族은 海外에 流離함을 不免하여 國家의 諸機關은 勿論이오 私設의 諸機關에까지 日本人을 使用하여 一邊 朝鮮人으로 職業을 失케 하며 一邊 朝鮮人의 富를 日本으로 流出케 하고 商工業에 日本人의게는 特殊한 便益을 與하야 朝鮮人으로 하야곰 産業的 發興의 機會를 失케 하도다. 如此히 何方面으로 觀하야도 吾族과 日本人과의 利害를 互相背馳하며 背馳하면 그 害를 受하는 者는 吾族이니 吾族은 生存의 權利를 爲하야 獨立을 主張하노라.

最後에 東洋平和의 見地로 보건대 그 威脅者이던 俄國은 이의 軍國主義的 野心을 抛棄하고 正義와 自由와 博愛를 基礎로 한 新國家를 建設하랴고 하는 中이며 中華民國도 亦然하며 兼하야 此次 國際聯盟이 實現되면 다시 軍國主義的 侵畧을 敢行할 强國이 無할 것이라. 그러할진대 韓國을 合倂한 最大理由가 이믜 消滅되얏을 ㅅ분더러 從此로 朝鮮民族이 無數한 革命亂을 起한다 하면 日本의 合倂된 韓國은 反하야 東洋平和를 攪亂할 禍源이 될지라. 吾族은 正當한 方法으로 吾族의 自由를 追求할지나 萬一 此로써 成功치 못하면 吾族은 生存의 權利를 爲하야 온갓 自由行動을 取하야 最後의 一人까지 自由를 爲하는 熱血을 濺할지니 엇지 東洋平和의 禍源이 아니리오. 吾族은 一兵이 無호라. 吾族은 兵力으로써 日本을 抵抗할 實力이 無호라. 然하나 日本이 萬一 吾族의 正當한 要求에 不應할진대 吾族은 日本에 對하야 永遠의 血戰을 宣하리라.

吾族은 久遠히 高等한 文化를 有하얏고 半萬年間 國家生活의 經驗을 有한 者ㅣ라. 비록 多年 專制政治의 害毒과 境遇의 不幸이 吾族의 今日을 致하얏다 하더라도 正義와 自由를 基礎로 한 民主主義의 上에 先進國의 範을 隨하야 新國家를 建設한 後에는 建國以來 文化와 正義와 平和를 愛護하는 吾族은 반다시 世界의 平和와 人類의 文化에 貢獻함이 有할지라.

玆에 吾族은 日本이나 或은 世界各國이 吾族에게 民族自決의 機會를 與하기를 要求하며 萬一 不然하면 吾族은 生存을 爲하야 自由行動을 取하야써 吾族의 獨立을 期成하기를 宣言하노라.

決議文
一. 本團은 日韓合倂이 吾族의 自由意思에 出하지 아니하고 吾族의 生存과 發展을 威脅하고 또 東洋의 平和를 攪亂하는 原因이 된다는 理由로 獨立을 主張함.
二. 本團은 日本議會 及 政府에 朝鮮民族大會를 招集하야 該會의 決議로 吾族의 運命을 決할 機會를 與하기를 要求함.
三. 本團은 萬國講和會議에 民族自決主義를 吾族에게도 適用하게 하기를 請求함. 右 目的을 達成하기 爲하야 日本에 駐在한 各國 大公使에게 本團의 主義를 各其 政府에 傳達하기를 依賴하고 同時에 委員 二人을 萬國講和會議에 派遣함. 右 委員은 旣히 派遣한 吾族의 委員과 一致行動을 取함.
四. 前項의 要求가 失敗될 時는 吾族은 日本에 對하여 永遠의 血戰을 宣함. 此로써 生하는 慘禍는 吾族이 그 責에 任치 아니함.
朝鮮靑年獨立團代表者
崔八鏞, 李琮根, 金度演, 宋繼白, 李光洙, 崔勤愚, 金喆壽, 金尙德, 白寬洙, 徐椿, 尹昌錫 (최팔용, 윤창석, 김도연, 이종근, 이광수, 송계백, 김철수, 최근우, 백관수, 김상덕, 백인수, 서춘)
Feb. 8 Korean Declaration of Independence handwritten in English, in 1919 (Independence Hall of Korea)

戦後における五箇条のご誓文

友人と話していて、彼が1868年に明治天皇が発布した五箇条のご誓文にふれ、その理想主義を高く評価した。僕は戦後における日本国憲法前文の理想主義とその形骸化にふれ、二人の話しは噛み合わなかった。この問題を考えるため、以下 Wikipedia の関連項目より引用する。

戦後におけるご誓文の再解釈

戦後、昭和21(1946)年1月1日の昭和天皇の、いわゆる人間宣言においてご誓文の全文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相が作成した草案を初めて見た際に「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条のご誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、GHQの許可を得て急遽加えられることになった。天皇は後に次のとおり語っている。

それが実はあの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発してそれが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。— 昭和52(1977)年8月23日記者会見

昭和21(1946)年6月25日、帝国議会の衆議院本会議における大日本帝国憲法改正案である日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相はご誓文に言及して次の答弁を行い、五箇条のご誓文は日本の民主主義の原理だとしている 。

日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。

「(日本の)民主主義というものは決して輸入物ではない」「日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」。いずれもかなり無理のある解釈というか、ほとんど詭弁というべきではないだろうか。僕らは義務教育を通じて、明治維新や帝國議会の発足、大日本帝國憲法の発布について、このような解釈を教えられたわけである。

Oguri Tadamasa 1827-1868

Reprinted from “Oguri Tadamasa and Yokosuka

Oguri was born in the 10th year of the Bunsei Period (1827), in Kandasurugadai, Edo (current-day Chiyoda-ku, Tokyo), the eldest son of his father, Tadataka and his mother, Kuniko and the 12th in the Oguri line. Traditionally, the head of the Oguri household was called “Mataichi”. The reason for this dates back to the time of the 4th generation Oguri, Oguri Tadamasa. When the 4th Oguri was in the service of future shogun Tokugawa Ieyasu, he took up a spear at the critical moment during a battle and saved his lord’s life. After the battle, Tokugawa Ieyasu rewarded him with the same spear and, thereafter, he always aimed to be at the head of the army in battle (ichiban-yari “the first spear”). His position as ichiban-yari became so expected that Ieyasu eventually ordered that he take the name Mataichi, a combination of the characters for “again” and “first”, and the name was then passed down through the Oguri line.

From the age of nine (according to the year counting based on the lunar calendar), Oguri attended the school of Confucianist scholar Asaka Gonsai, on the grounds of the Oguri residence. Also attending this school were Kimura Yoshitake (Kimura Kaishu), who later traveled to the United States on the Kanrin-maru, Iwasaki Yataro, the founder of Mitsubishi Group and, working as an assistant, Kitamura Sehei (later known as Kurimoto Joun), who would become a lifelong friend of Oguri. While attending school, he studied the arts of swordplay, jujutsu and gunnery. Small in size and not especially robust, he nevertheless possessed a well-developed fighting instinct and an unusually powerful curiosity. He also possessed the dislike for excessive and meaningless talk characteristic of the “Edokko”(a native of Edo).

In March of the 14th year of the Tenpo Period (1843), when he was 17 years old, Oguri paid his first visit to Edo Castle and had his first audience with the shogun. Before long, word of his excellence in the fields of both the liberal and military arts had spread and he was made an escort to the shogun. Several years later he married his wife Michiko, eldest daughter of the Takebe family. With Oguri reputedly just 22 and Michiko just 15, they made a charming young couple. However it was not until the arrival of the United States Navy’s Commodore Perry in the 6th year of the Kaei Period (1853), and Japan took its first steps towards opening to the world, that Oguri’s efforts began to take on a furious energy.

Oguri Takes the Stage

Following the arrivals of Commodore Perry and Russian Vice-Admiral Putiatin, and the consequent settling of the Treaties of Peace and Amity with the United States and Russia, Oguri’s father died from sickness whilst serving as magistrate in Niigata City and Oguri, in July of the 2nd year of the Ansei Period (1855) at just 29 years of age, succeeded as the 12th generation head of the family. In June of the 5th year of the Ansei Period (1858), and without the emperor’s sanction, Minister Ii(井伊) Kamonnokami Naosuke signed the United States-Japan Treaty of Amity and Commerce. Within the shogunate government, debate still existed concerning the pros and cons of signing the treaty but, from the beginning Oguri was a consistent proponent of the notion that,“Trade is not something for which one can just sit and wait. We should take it upon ourselves to enter the international community and pursue trade and commerce.”

In answer to those factions within the shogunate who were cautious of the treaty he said, “The important thing about who holds responsibility for the country’s administration, is not whether they are a Tokugawa, but whether they possess the determination and resolve to place the emphasis on the good of the nation.” It was decided that the shogunate would send a delegation to the United States, to take part in the treaty’s exchange of the instruments of ratification to take place there the following year. For various reasons, the representatives that the government initially intended to send were unable to go so, in September, it was decided that Shinmi Buzennokami Masaoki would go as senior envoy, Muragaki Awajinokami Norimasa as deputy envoy and Oguri Tadamasa as metsuke (a form of inspection officer).

Shinmi and Muragaki already held important posts in the shogunate government but for Oguri it must have been a considerable promotion. Just one day prior to this appointment, he had been promoted to the post of metsuke, and in November of the same year he was named to the rank of bungonokami. Why Oguri was chosen for this responsibility cannot be said with any certainty, but it is thought that word of Oguri’s sagacity, sensitivity and keen sense of logic and justice, and his opinions regarding such issues as commerce and trade, must have come to the attention of Minister Ii(井伊).

Behind the promotion, Oguri was also assigned a secret task: to identify and rectify any imbalances in the currency exchange rate. According to the Treaty of Amity and Commerce, it was decided that currency exchange should be conducted on a basis of “same type, same amount”, and the rate was fixed at one Mexican silver dollar for three Japanese silver coins. However the matter was complicated by the fact that, at the time, the value of gold was three times higher outside of Japan than within. This disparity threatened the loss of great quantities of gold and gold coins from Japan. At the time there were smaller gold pieces in existence, four of which were equal to the larger Japanese gold coin, the koban. However, due to the low production volume for gold coins, it had been decided that new silver pieces would be produced and circulated as the equivalent of the smaller gold piece. In other words, one koban became equal to four silver pieces.

This meant that 100 Mexican silver dollars could be exchanged for 300 Japanese silver pieces which, if changed into gold, would be worth 75 koban. If this gold was then taken outside of Japan and changed back into Mexican dollars, it would be worth 300 Mexican silver dollars, three times the original amount. Oguri took himself to an office at the Philadelphia Mint and, in no time at all, armed only with scales and an abacus, calculated the gold content of the Japanese and United States currencies and, to the surprise of everybody, made the American authorities recognize this disparity. After this, Oguri’s estimation in the eyes of the United States authorities took a leap. Until that time he had been seen as just a metsuke, little more than a spy, but he soon came to be seen as a man who, despite his small stature, possessed a curious mixture of dignity, intellect and conviction, and who was quite able to express himself directly and give a firm“no”, should he feel the need. This experience in the United States would prove a great influence upon the actions of the man in the future.

Magistrate of Accounts

When Oguri returned from his nine-month-long visit to the United States, he found the state of affairs within his country one of burgeoning radical changes. In November of the 1st year of the Man-en Period (1860), he took office as foreign magistrate and, just one month later, Mr. Heusken, an interpreter for the United States Legation, was killed by a member of the Satsuma Clan. Following this, in March of the 1st year of the Bunkyu Period (1861), a Russian warship occupied Tsushima Island in current-day Nagasaki Prefecture. When the government received word of this, Oguri, in his capacity as foreign magistrate, was sent to Tsushima Island with the task of solving the problem, in the end failing to make the Russians withdraw.

It was this incident which brought home to Oguri the difficulties inherent in diplomacy and the lack of policy of the shogunate government, and he submitted his resignation from the office of foreign magistrate. The incident also revealed to Oguri the shogunate’s lack of economic and military strength, and it was this that would, before long, spell the beginning of his resolve towards the establishment of the Yokosuka Arsenal. In March the following year he was appointed to a position as secretary and bodyguard, in May to the position of defense representative, and in June to the position of Magistrate of Accounts, and given the name “Kozukenosuke”. By this time Oguri was 36 years old. As Magistrate of Accounts, he was responsible for the government’s finances, which was, along with diplomacy, one of the shogunate’s two greatest headaches at that time. Oguri went through periods of repeated appointment and resignation from the post and, by the time of his dismissal in January of the 4th year of the Keio Period (1868), Oguri had taken up the position four times. This shows his expertise in matters of finance.

The Establishment of the Yokosuka Arsenal

In August of the 1st year of the Genji Period (1864), Oguri once again became Magistrate of Accounts. Around this time, a shogunate vessel, the Shokaku-maru was damaged and requested aid in repairs from a French ship which happened to be in port at Yokohama at the time. The repairs were completed perfectly and, in this way, France was able to earn the trust of the shogunate. In addition, the man who facilitated relations between the Japanese government and France during the repairs, was none other than Oguri’s most trusted friend, Kurimoto Joun. Oguri longed to establish a true dockyard and repair facility, but he could not look to the United States for assistance as they were in the middle of the Civil War and did not have the luxury of providing technical support to Japan.

England was to be avoided due to their dealings with the Satsuma and Choshu Clans, and their involvement in the Opium War. As for Russia, relations were still bitter after the incident at Tsushima and he could not turn to them for aid. Oguri was greatly pleased then, to find himself in a position where his close friend could assist in negotiations with the French and he immediately paid a visit to French Minister Roche. Roche too, when he was appointed as minister to Japan, had been charged with regaining status for France, which had been late in penetrating the Orient.

As the two had complementary goals, talks progressed very quickly and smoothly and, in November, discussion had already taken place between Oguri and Roche concerning the appointment of an overseer for the proposed steelworks (renamed the Yokosuka Arsenal in the 4th year of the Meiji Period (1871)). As a result of these talks, it was decided that a formal request would be made for Mr. Verny, an engineer currently posted in Shanghai, China, while the village of Yokosuka was selected as the first choice for the site of the steelworks. Yokosuka had already been involved in the repair of foreign vessels since the 1st year of the Man-en Period (1860), possessed shores of an appropriate depth and with a bedrock capable of supporting dry-docks, and had a marked similarity to the geography of France’s Port of Toulon. In January of the 2nd year of the Genji Period (1865), Verny arrived in Japan and conducted a survey of Yokosuka Port. He made his report concerning the construction of the Yokosuka steelworks to Minister Roche, and the minister and the shogunate government granted their official approval of the construction plan.

Oguri’s plan for the construction of the steelworks received much criticism from within and without the government, but Oguri refused to listen. He is attributed with saying, “A shipyard is a necessity, if only to cut down on unnecessary expenditure. Even if the shogunate should lose the reins of power, the construction of a steelworks at Yokosuka would be an honorable treasure to leave to posterity, on a par with leaving behind a house with a treasure house.” Oguri was convinced that, regardless of who held the reins of power within the Japanese government, the Yokosuka Arsenal would play an important role in the modernization of the nation.

The Yokosuka Arsenal in the Hands of the Meiji Government

On the 1st of April in the 4th year of the Keio Period (1868), the Yokosuka Arsenal, established as a genuine Western-style shipbuilding facility, was handed over to the new Meiji government. This followed the breaking out, in January of the same year, of the Boshin War at Toba and Fushimi-guchi at the entrance to Kyoto, and the subsequent defeat of the forces of the shogunate at the hands of the Meiji government troops. Even during these turbulent times, under the supervision of the Frenchman Verny, work on the steelworks continued steadily. The Meiji government had occupied Edo and, on the 21st of the month preceding the handover of the steelworks, negotiations for the handover were conducted by Higashikuze Michitomi, Governor-General of the Kanagawa Court and Isshiki Naoatsu, Magistrate for the Yokosuka Arsenal.

On the 24th of the same month, discussions with the French Minister concerning the involvement of France were concluded and it was decided that Verny and his 33 French engineers, and the 12 engineers from the Yokohama steelworks, would continue work under the new government as they had under the old, and unfinished work on the dry-docks and shipbuilding berths would continue. On April 6, by the side of the Karasu-gawa River where it runs through the village of Gonda, Gunma-gun, Kozuke-no-kuni (current-day Kurabuchi, Takasaki City, Gunma Prefecture), an innocent samurai was beheaded. The man was none other than the one responsible for the creation of the Yokosuka Arsenal, Oguri Kozukenosuke Tadamasa.

At the outbreak of the Boshin War, Oguri asserted his rejection of the new regime and was dismissed by the 15th of the Tokugawa line and then shogun, Yoshinobu. He then retreated to his farm at Gonda Village (part of his fief) with his wife, children and retainers, but was taken by the new authorities and executed without trial. He was 42 years old.

Oguri’s Achievements

Oguri was not only responsible for the establishment of the Yokosuka Arsenal, but he also proposed the establishment of a railway (between Edo and Yokohama), a national bank, telegraphic and postal systems and the county and prefecture system, and also such modern administrative methods as the establishment of a Chamber of Commerce and Industry and joint-stock company bodies. These were all realized one-by-one by the new government during and after the Meiji Period, laying the foundations for Japan’s rapid development into a modern nation, but it is important to remember also the contributions and efforts of Oguri in breaking the mould and taking those first active steps towards modernization.

The Yokosuka Arsenal, built on the hard work of Oguri, was not just involved with shipbuilding and repairs, but has also been involved in various other fields of endeavor. The Yokosuka Arsenal was the site for the construction of Kannonzaki Lighthouse, Japan’s first Western-style lighthouse, and for the construction of mining machinery and steam engines used in the rejuvenation of Ikuno silver mine (Hyogo Prefecture), which had been closed down at the end of the Tokugawa Shogunate. Also, the basic design of and machinery for the Tomioka Silk Mill (Gunma Prefecture), which pioneered the modernization of silk thread production, and the turbine water wheels used in cotton yarn
production at the Aichi Spinning Mill, were all created at the Arsenal. In this way we can see the immeasurable importance of the role played by the Yokosuka Arsenal in the cultivation of an export industry so vital to the development of Japan’s modern industry and the process of modernization.

In later years, Okuma Shigenobu, a prominent figure in political and journalistic circles during the Meiji and Taisho Periods, said, “Oguri was destined to be killed. The reason: because the Meiji regime’s plans for the modernization of Japan were imitations of his own.” Today, with the world undergoing a turbulent period not unlike the turmoil of the final days of the shogunate, the unmatched foresight and administrative skills exhibited through the achievements of Oguri are being discovered anew. To this day, each year in Yokosuka City, a
ceremony is held to celebrate his deeds.

Peririn and Ogurin
The Yokosuka Kaikoku Festival began in 2003, to celebrate the 150th anniversary of Commodore Perry’s arrival in Japan. This festival, held each summer, is the representative event of“Kaikoku-no-Machi Yokosuka”(Yokosuka: the City of Japan’s Opening to the World), and features the Kaikoku Fireworks Display, and many other events.
Peririn and Ogurin are much loved as the image characters of the Yokosuka Kaikoku Festival, and were created by cartoonist and direct descendent of Oguri Kozukenosuke, Oguri Kazumata, as cartoon re-imaginings of Commodore Perry, who led the re-opening of Japan to
the world, and Oguri Kozukenosuke, who contributed in so many ways to the growth and development of Yokosuka.
資料: Oguri Tadamasa and Yokosuka

高崎哲郎氏の描く小栗像

https://www.risktaisaku.com/articles/-/14680 より転載しました(一部編集)。

小栗斬首供養碑(高崎市・烏川べり)
幕末の列強による外圧と国内の攘夷の烈風の中、世界を見据えていち早く新国家構想を打ち出した人物は誰か。元治元年(1864)にすでに4年がかりの計画で横須賀に大造船所を建造すべく計画を立てた人物は誰か。歩兵・騎兵・砲兵の3編成の近代的軍隊をつくったのは誰か。対外為替相場を有利に改定し、貨幣を改鋳し、今までの不換紙幣を改めて、日本最初の兌換紙幣を発行させたのは誰か。日本にコンパニー(貿易商社)を設立し、外国との取引を有利にしようと試みた者は誰か。

役人の俸給制度を切米(年3回支給された扶持米)から金に改め、恩給法を制定したり、所得税、奢侈しゃし税を設けたのは誰か。日本に最初の理工科系学校や外国語学校をつくったのは誰か。江戸の街にガス灯の普及を図り、豪華な洋風ホテル(築地ホテル)を計画し、新橋・横浜間に鉄道をつくる準備を進めたのは誰か。

それは江戸幕府・幕臣として初めて世界一周を成し遂げた小栗上野介こうずけのすけ忠順ただまさ(1827-68)である。小栗は廃藩置県を断行し、日本を欧米にも引けを取らない中央政権と郡県制度に構成しようと説いたのである。

過去2度 risktaisaku.com で小栗を取り上げているが、再々説する。
幕末維新とメディア事情それに小栗忠順
http://www.risktaisaku.com/articles/-/3746
幕末の幕府を支えた小栗上野介忠順
http://www.risktaisaku.com/articles/-/7919

将軍から罷免

小栗は対薩長軍・主戦論を説いた。「西軍が東下して来たら、箱根でも碓氷峠でも防がず、全部関東に入れた後、両関門を閉ざして袋のネズミにしてしまう。一方、軍艦は長躯して馬関ばかん(現下関)と鹿児島をく。こうすれば日和見ひよりみしている天下の諸藩は皆わが味方となる。形勢が逆転して、幕威また振るうに至る」(小栗の戦術を後に西軍司令官・大村益次郎(1825-69)は江戸に入ってから聞かされて戦慄した。これが実行されたら、われわれは生きてはいられなかったろうと語ったと伝えられている)。

恭順することに心を決めている将軍・徳川慶喜(1837-1913)は聞く耳を持たない。小栗が強硬に主張してやまないので、ついに免職を言い渡した。海軍では副総裁・榎本武揚(1836-1908)らが主戦論者であった。陸軍奉行・大鳥圭介(1833-1911)も慶喜の江戸帰還直後江戸城に推参して将軍に直談判した。大鳥の決死の直訴も受け入れられなかった。

これより先、新政府軍は東征大総督府のもとに編成した各軍を進発させることとし、同年2月11日から薩長両軍を中心とする総勢5万人の西軍が続々と京都を出発した。東海道軍は戦闘なしで品川に到着した。東山道軍は近藤勇の新撰組らを打ち破り宿場町の板橋と府中に到着し、江戸城総攻撃に備えた。慶応4年(1868)3月13日、勝海舟(1823-99)と西郷隆盛(1828-77)の劇的な高輪薩摩屋敷での談判により江戸城は無血開城されることに決した。

この歴史的幕切れは、イギリス公使パークス(Sir Harry Smith Parkes, 1828-85, 駐日1865-83)の西郷に対する攻撃中止の強い要請が非公式に出されていたことによる。だが、一方で徳川軍の戦力が温存される結果を招いた。指揮官・大鳥圭介は伝習隊将兵に命じて江戸城内の最新鋭の銃砲を運び出させ江戸を脱出し、彼らを率いて権現様(祖神・徳川家康)を祀る野州日光(現栃木県日光市)に立てこもることを決意した。徹底抗戦を誓ったのである。旧幕府海軍を率いる榎本武揚もまた同じであった。

小栗胸像(高崎市・東善寺)

上州権田村に隠棲

罷免された小栗は同年1月28日、幕府へ正式に「上州(現群馬県)群馬郡権田村への土着願書」を差し出した。忠順は権田村隠棲にあたって、従来の知行地からの収入に頼らない新しい生き方を考えていた。小栗は仮住まいを権田村の曹洞宗東善寺とした。山間僻地の権田村を選んだ要因に小栗家と権田村民との間に長年にわたって代々培われたつながりの強さがあった。東善寺は同村が小栗家の知行地になるとすぐ、当代の政重は同寺に多額の寄付をし、同寺では背後の山を削って境内を広げ石垣を築いて伽藍がらんを整備した。権田村は榛名山の西麓、烏川上流の山間にあり、いったん事あれば数ヵ月は支えることができる要害の地があり、そこに居所を構えることができるという利点もあった。

江戸・駿河台の小栗屋敷を出た権田村の若者たちは、洋服を着てズボンをはき、頭はザンギリ、足に革靴を履くこのころ最新の洋装で、幕府のフランス式軍事訓練を受けていた。若者たちは「歩兵」として「小栗日記」に登場する。この時16人いた歩兵や多くの村人が後に小栗の危難に際してある者はその死に殉じ、ある者は小栗夫人・母堂を守って越後・会津への逃避行に付き添い、あるいは館林の寺院から忠順父子の首級を盗み取り返すといった行動をとっている。

上州への移住準備があわただしく進められ、1ヵ後の2月28日に江戸を出発すると、桶川、深谷、高崎と泊まり、3月1日午後7時過ぎ東善寺に到着した。この時江戸から移ったのは、

・小栗上野介忠順 42歳
・妻 道子 30歳
・母 邦子 63歳
・小栗又一 21歳(忠道、駒井甲斐守朝温の次男、養女鉞子よきこの夫)
・養女 鉞子 15歳
<家臣>
・塚本真彦まひこ 37歳(用人)
・荒川祐蔵 36歳(遣米使節従者として世界一周)
・渡辺太三郎 20歳
・塚本貢 27歳
武笠むかさ銀之助 16歳
・沓掛藤五郎 25歳
・池田伝三郎 20歳

忠順、家臣、家族一行は村人たちに温かく迎えられる。ところが落ち着く間もなく、翌2日、後を追うように打ちこわしの暴徒が既に隣村・三ノ倉村まで押し寄せて来ているという情報が入る。
                 ◇
忠順が権田村へ引き移るに際して大量の荷物が運ばれた。小栗一家と江戸から随従した家臣らの家財だけでもかなりのものとなる。長持や行李、漬物樽などに入れられたたくさんの引越し荷物は、世情不安な当時にあって「軍用金」の噂を生み、しかも最後の勘定奉行として乏しい幕府財政をやりくりしていた手腕が、かえって巨額の金銀を自由にできたという想像(妄想)を生む。ぶちこわしの徒党も金目当てに押しかけて来た。

4日の朝7時、三ノ倉宿に集合の時、打ちこわし勢はそれぞれ米を渡され、タスキ用の布を分け、気勢を挙げて権田へ押しかけた。烏川を押し渡り、田んぼに畳を並べて後ろに隠れつつ権田へ迫った。前夜、磯十郎が戻った時手はずを整えていた小栗方は、道子夫人らを塚本真彦の家族らと共に武笠銀介、佐藤藤七をつけて寺の裏手の村に避難させると、反撃に移った。

烏川を渡りだした暴徒を望遠鏡でのぞいていた忠順は、烏合の衆が攻めてくる様子に、「傷つけるな、おどして追い払え」と指示した。暴徒が鉄砲を撃ちかけてくるので寺の畳を全部積み上げて防いだ。烏合の衆の暴徒に対して、小栗方はフランス式軍事訓練を受けた子息又一や歩兵16人がいて組織的な戦闘には慣れていた。とくに権田村出身の歩兵・佐藤銀十郎の戦いぶりはめざましく、的確に銃を撃って暴徒を倒した。2000人にのぼる暴徒を追い払うと、暴徒に与した隣の村々へ詰問の使者を送った。夜に入って4ヵ村の村役人が詫びのため羽織袴でやってきた。

小栗父子の墓(高崎市・東善寺)

新政府軍の攻撃

忠順は権田村への土着を幕府に願い出るにあたり「自分は知行地を返納し、そのようにしてでも活計をたて、農兵を組織して世の成り行きを見、万一の時の御用に立ちたい」と申し出ている。新政府が順調に推移すれば、そのまま上州の田舎で生涯を終える覚悟であった。主君が戦わない(恭順)と決めた以上、主命に背いて戦うことはしない。罷免された以上、自分の役目はこれで終わった、との思いであった。

打ちこわしの騒動が一旦静まると、村は平穏を取り戻し、忠順は東善寺からおよそ1km下手の観音山に建て始めた居宅建設の現場に通う日々が続いた。権田村に屋敷を建て、周辺の村人と親交を結んで土着の夢が結びつつあった忠順の身辺に、西軍の監視の目が厳しく注がれ始めた。打ちこわし自体が西軍の陰謀とは思われないが、2000人の暴徒を撃退した人物が幕府第一級の主戦論者であることは、関東へ進軍して江戸を目指す西軍にとって見逃すことのできない存在であった。西軍の主力である薩長勢にとって、小栗は幕府の近代化政策を次々に実行して来た恐るべき実力者であった。偉才であった。

上州の高崎、安中、吉井の3藩は、慶応4年4月22日付で、東山道総督府から小栗追討令を受けた。小栗については「陣屋を構え」「砲台を築き」「容易ならざる企て」を立てている、という「注進」が諸方からあるので放っておけない。「深く探索したところ逆謀が判然」したから3藩で「追捕」せよ、との指示であった。

西軍の東山道鎮撫総督は岩倉具視(1825-83)の子具定、参謀は板垣退助(1837-1919 土佐)と伊地知いちじ正治まさはる(1828-86 薩摩)である。当時、奥羽越列藩同盟が組織され、西軍に反抗する勢いを見せていた。越後方面の反西軍勢力と気脈を通じて薩長軍の後方を襲うつもりではないかと疑った。

3藩代表は命令を受けて現地に赴いたが、命令に記された謀反の動向は見えない。その上、小栗が大砲1門、小銃20挺を引き渡して明白に弁明したので、3藩代表は引き上げた。翌日、小栗は養子の又一を高崎の西軍出張所に出頭させて恭順の意を表明させた。5月4日夕刻、高崎までやってきた東山道鎮撫総督府の軍監原保太郎(1847-1936)、同豊永貫一郎(1849-1898?)はそれを聞いて激怒した。小栗主従にとって、宿命の事態に進んでおり、原や豊永は3藩の藩兵を引き連れ夜中に出て三ノ倉村へ宿陣した。

取り調べもなく斬首

小栗は会津方面に妻子ら家族を逃がすことにしたが、彼自身も家臣や村役人に勧められて、家族とともに一旦山間部の亀沢まで家族と共に避難し大井彦六宅で休んでいた。そこへ高崎方面の様子を探りに行っていた権田村名主佐藤藤七が馬で駆け付けた。

「どうか殿様にはお寺にお戻りいただきたい。もしお戻りにならない場合は村民が難儀しますゆえ」と訴えた。忠順だけ東善寺に戻った。

西軍に脅されて震え上がった3藩は、副巡察使長州藩士・原保太郎(22歳)、同じく土佐藩士・豊永貫一郎(18歳)に率いられて、4日夜半に再度権田村へ向けて出兵した。翌5日早朝、東善寺正面から入っていくと、忠順主従は本堂に端然と座ってこれを迎えた。原、豊永は忠順および家臣・渡辺多三郎、荒川祐蔵を捕らえて、忠順を駕籠で三ノ倉の屯所・戸塚平右衛門宅へ引き立てた。この時、寺でも屯所でも忠順に対する取り調べは一切なかった。問答無用。殺すことだけが目的だった。

うるう4月6日朝、四ツ時半(午前11時)忠順主従は烏川の水沼河原に引き出され斬首された。初めに家臣・大井磯十郎、渡辺太三郎、荒川祐蔵の3人が斬られた。磯十郎は「一言の取り調べもなく、お殿様がこんな所でご最期とは残念だ!」と大声で叫んだ。忠順が「磯十郎、この期に及んで未練がましいことを申しでないぞ」とたしなめた。

「何か言い残すことはないか」。原保太郎が忠順に問いかけた。若輩者に対し答える気はなかった。「なにごともない」と答えた。が、「すでに母と妻は逃がしてやったから、どうか婦女子には寛典を望む」と付け加えた。原は「相分かった」とだけ答えた。

忠順を斬った人物は従来、原保太郎とされてきたが、安中藩徒歩目付浅田五郎作が命じられて斬ったというのが真相のようである。小栗は数えで42歳だった。日本の近代化の必要性に目覚め、傾いた幕府の最後を支えた幕臣が、何の取り調べもなく、新政府軍の若輩によって一方的に処断され烏川の露と消えた。斬首を命じた原保太郎はその後山口県の知事に二十数年も居坐り、さらに北海道長官となって巨財を得、貴族院議員となり89歳まで栄華の中に生きた。

参考文献:「小栗上野介忠順と明治維新」(高橋敏)、「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編)、筑波大学附属図書館史料。

日本における報道の礎

今日、インターネットやSNSの普及により既存の新聞・テレビ・雑誌などマス・メディアは激変を余儀なくされている。そこで、近代メディアの黎明期ともいえる幕末から明治維新の新聞事情を考えてみたい。それは文明開化のうねりとも連動する。

江戸幕府が鎖国を捨て開国を打ち出した後、欧米列強に派遣されて西洋事情に接した幕臣の中には、幕府自らが新聞を活用して世論を導くべきであると建言する者があった。万延元年(1860)、外国奉行・新見正興(1822-69)を正使とする遣米使節団に監察(ナンバー・スリー)として随行した開明派幕臣・小栗忠順(1827-68)は、滞米中使節の動向を地元新聞が絵入りで詳細に報じていること、しかも内容が正確であることに「文明」を感じた。それは江戸市中の瓦版などとは比べ物にならないメディアだった。

知識人小栗はアメリカの新聞事情を知らなければ「文明」は語れないと痛感し、その実態を調べようと決意した。帰国後、彼は幕府首脳に「文明の証」として新聞発行を強く主張した。だが新聞発行の実態など知らない守旧派老中らには理解にはほど遠く、とても聞き入れられるものではなかった。小栗は遣米使節団に随行した咸臨丸の随員だった俊才・福澤諭吉(1835-1901)を編集・発行の責任者に充てる心づもりだった(小栗の偉才ぶりについては後述)。

その後、幕府内では元治元年(1864)7月に横浜鎖港(開港拒否)の交渉を終えて帰国した幕臣・池田長発ながおき、河津祐邦すけくに、河田ひろむが「新聞紙社中に御加入の儀申上げ候書付」を提出した。この書付は西洋諸国では「パブリック・オピニオンにて国民の心を傾け候様の方略相施し候事にて、いずれの政府にも新聞紙社中へ加入致さざるものはこれなく」として世論形成における新聞の重要性を強調し、「最初若干の敷金」を出費し、「右社中加入の儀」を実施するよう求めた。これは幕府がすすんで情報発信をしようとしないため、英米仏などの外国公使側の言い分だけが広まって「自然偏頗へんぱの取扱い」となるのを防ごうとするものであった。

「社中加入」の意味がいま一つ明確ではない。日本人による最初の新聞とされる「中外新聞」の購読規定などから判断すると、まとまった部数を定期発行することで発言権を確保し、幕府側からの情報発信を行いやすくしようとしたのではないかと考えられる。(「日本の近代 メディアと権力」著・佐々木隆参考)。この書付(提言)は、池田らが幕府錯港論を批判して処罰されたため、何ら顧みられることなく無残に葬られた。ここでも幕府首脳に「情報」に関する深慮がなかった。

皮肉なことに、江戸幕府支援の新聞が実現したのは幕府が崩壊に大きく傾いてからであった。慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜は実権を幕府に残すことを狙い、大政奉還の大博奕ばくちを打って出た。だが王政復古のクーデターの反撃にあい、翌4年正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れて、大勢は薩長を中核とする新政府に傾いた。

同年2月24日、新政府軍(西軍)の江戸攻撃が迫る中、会訳社の指導者・幕臣柳河春三しゅんさんは頭取(代表)を務める開成所(幕府洋学研究機関)事務局で「中外新聞」を創刊した。同紙は外国新聞の日本記事への抄訳行うことを目指していた。が、同時に独自の国内情報も載せることを打ち出していた。「中外」は外国情報の紹介に終始したそれまでの翻訳新聞や外国初の日本情報を集めた筆写新聞とは一線を画し、今日的な意味での「新聞」に近づいた。

高崎 哲郎
1948年栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数30冊のうち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。

An Old Man and a Bike

午前中、行政法の判例集を読む。司法の論法が少しみえてきて興味深い。昼はレトルトの 본죽ボンジュッ辛비빔죽シンビビムジュッ を食べ、午後2時半ごろ家を出て中原なかはら街道沿いに進み、丸子橋まるこばしを渡って春めいた多摩川べりを二子橋ふたごばしまで一気に走った。土手をりて広場のすみで一休みし遠くの山々を見たが、写真に収めたい風景はない。친구チング が贈ってくれた 에티오피아エチオピア 함벨라ハムベラ を飲んで体をあたため、愛車と自分の顔を写した。

西日にしびびて自転車も色せて見える。顔半分が影になっているせいか、左右非対称で目の下のくぼみがいつになく目立ち、誰かになぐられたようだ。どうしたんだ、今にも死にそうな、ずいぶんひどい顔をしているぞ。かなしいかな、ゆっくり走ったつもりなのに、かなり消耗していたようだ。暗い顔をして老人丸出しではないか。本当にどうしたというんだ。

Hotel California

少し前 Peter BarakanWeekend Sunshine で 西村ケントという若いギタリストがいることを知った。番組で紹介された彼のライブに予約申し込みをし、YouTube でその演奏を聴くようになった。また、정성하 という若いギタリストの存在を知り、その演奏も聴くようになった。この種のソロライブに行くのは初めてのことだ。

1970年代にヒットした Hotel California (the Eagles)を KentJungha が演奏しており、ふたりの演奏をくり返し聴いた。同じくギターソロで弾いているのに曲想がまったく違う。歌詞は末尾に載せたとおり、幻想的で考えさせる内容だ。そこに込められたであろう意味を想像しながら聴くと、また別の興味がく。

Kent Plays the Hotel California
Sungha Plays the Hotel California

バロック音楽やチェンバロ、チェロをはじめ西洋クラシック器楽曲を好んでいた僕は、ギタリストといえば Andres Segovia (1893-1987)しか知らなかった。そのバッハ演奏などをよく聴いたものだ。そんな僕が日韓の若いギタリストの演奏を聴き、初めてソロライブに行くのだから、大きな変化だろう。しばらく前から、73歳を前にして、またクロマティックハーモニカを吹きたくなっている。

On a dark desert highway
Cool wind in my hair
Warm smell of colitas
Rising up through the air
Up ahead in the distance
I saw a shimmering light
My head grew heavy, and my sight grew dim
I had to stop for the night
There she stood in the doorway
I heard the mission bell
And I was thinking to myself:
“This could be heaven or this could be hell”
Then she lit up a candle
And she showed me the way
There were voices down the corridor
I thought I heard them say
Welcome to the Hotel California
Such a lovely place (such a lovely place)
Such a lovely face
Plenty of room at the Hotel California
Any time of year (any time of year)
You can find it here
Her mind is Tiffany-twisted
She got the Mercedes benz
She got a lot of pretty, pretty boys she calls friends
How they dance in the courtyard
Sweet summer sweat
Some dance to remember
Some dance to forget
So I called up the Captain:
“Please bring me my wine”
He said: “We haven’t had that spirit here since 1969”
And still those voices are calling from far away
Wake you up in the middle of the night
Just to hear them say
Welcome to the Hotel California
Such a lovely place (such a lovely place)
Such a lovely face
They’re living it up at the Hotel California
What a nice surprise (what a nice surprise)
Bring your alibis
Mirrors on the ceiling
The pink champagne on ice
And she said: “We are all just prisoners here of our own device”
And in the master’s chambers
They gathered for the feast
They stab it with their steely knives
But they just can’t kill the beast
Last thing I remember
I was running for the door
I had to find the passage back
To the place I was before
“Relax,” said the night man
“We are programmed to receive
You can check out any time you like
But you can never leave”
https://g.co/kgs/GA7t2U

縦書き文庫1月の順位50位内に入った「無宗教派の人々」

昨年から執筆中の作品「ヒョーヤとその母」(1)を含むシリーズ「無宗教派の人々」が縦書き文庫の1月ランキング(読まれたページ数にもとづき50位まで掲載)に入りました。

この文庫は読者数が限られており、数名の読者が相応のページ数を読めば、その月の50位内に入ります。このささやかな喜びが無名の投稿者には大いに励みになるのです。

夏目漱石・太宰治・芥川龍之介の人気が高く、翻訳物は「方法序説」「ダブリナーズ」「君主論」「ピーターパン」「80日間世界一周」ほかの作品が毎月入ります。下の表の作品名や作者名をクリックすると、該当ページが表示されます。

#作品(En: Gutenberg)作者
1こころ夏目漱石
2夢十夜夏目漱石
3人間失格太宰治
4走れメロス太宰治
5方法序説
Discourse on method
R. デカルト
6三国志吉川英治
7虞美人草夏目漱石
8坊っちゃん夏目漱石
9ピーターパンとウェンディJ. M. バリー
10ダブリンの人たち
Dubliners
J. ジョイス
1180日間世界一周J. ヴェルヌ
12吾輩は猫である夏目漱石
13君主論マキャヴェリ
14火を起こすJ. ロンドン
15法然行伝中里介山
16銀河鉄道の夜*宮沢賢治
17羅生門芥川龍之介
18ドグラ・マグラ夢野久作
19真夏の夜の夢M. ラム
20雲の小径久生十蘭
21女生徒太宰治
22警官と賛美歌O. ヘンリー
23労働廃絶論B. ブラック
24罪体M. D. ポースト
25ルパンの逮捕M. ルブラン
26職業としての科学M. ウェーバー
27チャンス太宰治
28銀河鉄道の夜**宮沢賢治
29山月記中島敦
30現代訳論語下村湖人
31ハムレットC. ラム
32心と手O. ヘンリー
33影と光J. ロンドン
34杜子春芥川龍之介
35舞姫森鴎外
36無宗教派の人々小栗章
37藪の中芥川龍之介
38蜘蛛の糸芥川龍之介
39大導寺信輔の半生芥川龍之介
(40-50 省略)
縦書き文庫ランキング 2023/01

父方の祖父

1930年代前半、父方の祖父は仕事で滿洲國に滞在中、何らかの事故に巻き込まれてくなった。舌のパノラマ写真はその葬儀の模様で柩の左右に大林組大連支店一同とある。この写真を見るたびに若くして未亡人となった祖母は「夫は馬賊ばぞくに殺された」と言った。真実を聞いていたかもしれない。

[Wikipedia引用: 騎馬の機動力を生かして荒し回る賊、清末から滿洲國期(1932-45)に滿洲周辺で活動した「滿洲馬賊」が有名]

  • 祖父の葬儀(4)

ページ上に表示される写真は東京駅丸の内北口構内のドーム天井である。祖父がこの駅舎の建造に関わったと聞いている。

인연/피천득과 아사코

https://legendonkihotte.tistory.com/m/28

韓国の友人が피천득(皮千得ピ・チョンドゥク 1910-2007)の인연(えん)と題した文章を送ってきた。以下に引用する。韓国では中学校の国語教科書に載っている文章らしい。

太平洋戦争と朝鮮戦争を間にはさんで彼がおもいを寄せた日本人女性との邂逅かいこうと果たせなかった恋愛について書いたものだ。筆者の抑制された感情表現が行間ぎょうかんあふれ切々とした情感が伝わってくる。

지난 사월, 춘천에 가려고 하다가 못 가고 말았다. 나는 성심(聖心) 여자 대학에 가 보고 싶었다. 그 학교에, 어느 가을 학기, 매주 한 번씩 출강한 일이 있었다. 힘드는 출강을 한 학기 하게 된 것은, 주 수녀님과 김 수녀님이 내 집에 오신 것에 대한 예의도 있었지만, 나에게는 사연이 있었다.

수십 년 전, 내가 열 일곱 되던 봄, 나는 처음 도쿄(東京)에 간 일이 있다. 어떤 분의 소개로 사회 교육가 M 선생 댁에 유숙(留宿)을 하게 되었다. 시바쿠(芝區)에 있는 그 집에는 주인 내외와 어린 딸, 세 식구가 살고 있었다. 하녀도 서생(書生)도 없었다. 눈이 예쁘고 웃는 얼굴을 하는 아사코는 처음부터 나를 오빠같이 따랐다.

아침에 낳았다고 아사코라는 이름을 지어 주었다고 하였다. 그 집 뜰에는 큰 나무들이 있었고, 일년초(一年草) 꽃도 많았다. 내가 간 이튿날 아침, 아사코는 스위이트 피이를 따다가 화병에 담아, 내가 쓰게 된 책상 위에 놓아 주었다. 스위이트 피이는 아사코같이 어리고 귀여운 꽃이라고 생각하였다.

성심 여학원 소학교 일 학년인 아사코는 어느 토요일 오후, 나와 같이 저희 학교에까지 산보를 갔었다. 유치원부터 학부(學部)까지 있는 카톨릭 교육 기관으로 유명한 이 여학원은, 시내에 있으면서 큰 목장까지 가지고 있었다. 아사코는 자기 신장을 열고, 교실에서 신는 하얀 운동화를 보여 주었다.

내가 도쿄를 떠나던 날 아침, 아사코는 내 목을 안고 내 빰에 입을 맞추고, 제가 쓰던 작은 손수건과 제가 끼던 작은 반지를 이별의 선물로 주었다.

그 후, 십 년이 지나고 삼사 년이 더 지났다. 그 동안 나는, 국민 학교 일 학년 같은 예쁜 여자 아이를 보면 아사코 생각을 하였다.

내가 두 번째 도쿄에 갔던 것도 사월이었다. 도쿄역 가까운 데 여관을 정하고 즉시 M 선생 댁을 찾아갔다. 아사코는 어느덧 청순하고 세련되어 보이는 영양(令孃)이 되어 있었다. 그 집 마당에 피어 있는 목련꽃과도 같이. 그 때, 그는 성심 여학원 영문과 3학년이었다. 나는 좀 서먹서먹했으나, 아사코는 나와의 재회를 기뻐하는 것 같았다. 아버지, 어머니가 가끔 내 말을 해서 나의 존재를 기억하고 있었나 보다.

그 날도 토요일이었다. 저녁 먹기 전에 같이 산보를 나갔다. 그리고, 계획하지 않은 발걸음은 성심 여학원 쪽으로 옮겨져 갔다. 캠퍼스를 두루 거닐다가 돌아올 무렵, 나는 아사코 신장은 어디 있느냐고 물어 보았다. 그는 무슨 말인가 하고 나를 쳐다보다가, 교실에는 구두를 벗지 않고 그냥 들어간다고 하였다. 그리고는, 갑자기 뛰어가서 그 날 잊어버리고 교실에 두고 온 우산을 가지고 왔다.

지금도 나는 여자 우산을 볼 때면, 연두색이 고왔던 그 우산을 연상(聯想)한다. ‘셸부르의 우산’이라는 영화를 내가 그렇게 좋아한 것도 아사코의 우산 때문인가 한다. 아사코와 나는 밤 늦게까지 문학 이야기를 하다가 가벼운 악수를 하고 헤어졌다. 새로 출판된 버지니아 울프의 소설 ‘세월’에 대해서도 이야기한 것 같다.

그 후 또 십여 년이 지났다. 그 동안 제 2차 세계 대전이 있었고, 우리 나라가 해방이 되고, 또 한국 전쟁이 있었다. 나는 어쩌다 아사코 생각을 하곤 했다. 결혼은 하였을 것이요, 전쟁통에 어찌 되지나 았았나, 남편이 전사(戰死)하지나 않았나 하고 별별 생각을 다 하였다.

1954년, 처음 미국 가던 길에 나는 도쿄에 들러 M 선생 댁을 찾아갔다. 뜻밖에 그 동네가 고스란히 그대로 남아 있었다. 그리고, M 선생네는 아직도 그 집에 살고 있었다. 선생 내외분은 흥분된 얼굴로 나를 맞이하였다. 그리고, 한국이 독립이 되어서 무엇보다고 잘 됐다고 치하(致賀)하였다.

아사코는 전쟁이 끝난 후, 맥아더 사령부에서 번역 일을 하고 있다가, 거기서 만난 일본인 2세와 결혼을 하고 따로 나서 산다는 것이었다. 아사코가 전쟁 미망인이 되지 않은 것은 다행이었다. 그러나, 2세와 결혼하였다는 것이 마음에 걸렸다. 만나고 싶다고 그랬더니, 어머니가 아사코의 집으로 안내해 주었다.

뽀족 지붕에 뽀족 창문들이 있는 작은 집이었다. 이십여 년 전 내가 아사코에게 준 동화책 겉장에 있는 집도 이런 집이었다.

“아! 이쁜 집! 우리, 이담에 이런 집에서 같이 살아요.”

아사코의 어린 목소리가 지금도 들린다.

십 년쯤 미리 전쟁이 나고 그만큼 일찍 한국이 독립되었더라면, 아사코의 말대로 우리는 같은 집에서 살 수 있게 되었을지도 모른다. 뾰족 창문들이 있는 집이 아니라도. 이런 부질없는 생각이 스치고 지나갔다.

그 집에 들어서자 마주친 것은 백합 같이 시들어 가는 아사코의 얼굴이었다. ‘세월’이란 소설 이야기를 한 지 십 년이 더 지났었다. 그러나, 나는 아직 싱싱하여야 할 젊은 나이다. 남편은 내가 상상한 것과 같이 일본 사람도 아니고 미국 사람도 아닌, 그리고 진주군 장교라는 것을 뽐내는 사나이였다. 아사코와 나는 절을 몇 번씩 하고 악수도 없이 헤어졌다.

그리워하는데도 한 번 만나고는 못 만나게 되기도 하고, 일생을 못 잊으면서도 아니 만나고 살기도 한다. 아사코와 나는 세 번 만났다. 세 번째는 아니 만났어야 좋았을 것이다.

오는 주말에는 춘천에 갔다 오려 한다. 소양강 가을 경치가 아름다울 것이다.

두바퀴로 가는 자동차

1970年代によく聞いた歌を偶々聞いた。歌の題名は 두바퀴로 가는 자동차(二輪で走る自動車)という。この歌は、やはり50年前に聞いた양병집がいい。彼の歌を聞くと70年代前半の서울の街の情景や제주のひなびた光景を思い出す。それらが僕にとって韓国の原風景なのだ。

友人によると、原曲は Bob Dylan “Don’t think twice, it’s all right” だそうだ。70年代はこういう曲が多かった。そういえば、행복의 나라 という曲もそうだった。

두바퀴로 가는 자동차
네바퀴로 가는 자전거
물 속으로 나는 비행기
하늘로 나는 돗단배
복잡하고 아리송한 세상위로
오늘도 에드벌룬 떠있건만
포수에게 잡혀온 잉어만이
한숨을 내쉰다

남자처럼 머리깎은 여자
여자처럼 머리 긴 남자
가방없이 학교가는 아이
비오는 날 신문 파는 애
복잡하고 아리송한 세상위로
오늘도 에드벌룬 떠있건만
태공에게 잡혀온 참새만이
긴숨을 내쉰다

한여름에 털장갑 장수
한겨울에 수영복 장수
번개소리에 기절하는 남자
천둥소리에 하품하는 여자
복잡하고 아리송한 세상위로
오늘도 에드벌룬 떠있건만
독사에게 잡혀온 땅군만이
긴 혀를 내두른다
二輪で走る自動車
四輪で走る自転車
水中を飛ぶ飛行機
空中を飛ぶ帆船
複雑であやふやな世のなかの上
きょうもアドバルーンは浮かび
ため息をつくのは
狩人かりうどつかまるこいだけさ

男のように髪を切った女
女のように長い髪の男
カバンももたず学校に通う子
雨のなか新聞を売る子
複雑であやふやな世のなかの上
きょうもアドバルーンは浮かび
ため息をつくのは
釣り名人につかまるすずめだけさ

真夏にウールの長手袋
真冬に長袖の水着
雷鳴らいめい気絶きぜつする男
雷鳴にあくびする女
複雑であやふやな世のなかの上
きょうもアドバルーンは浮かび
長いべろを出すのは
毒蛇どくへびに捕まる蛇取り名人だけさ

How I learned the hangeul

語学教授法の門外漢ながら、1970年代の学習体験をもとにスマホ向けにハングルの成り立ちと文字の作り方を表にまとめました。その後、専門家から次のコメントを得ました。「ハングルがつくられた15世紀と現代では字母自体も変化しており、いまは使われないものもある」「子音字母の配列も変化している」「現代言語学では子音の調音点が異なる」などです。

これらをふまえ最低限の修正を施したものが、以下の記述です。日本語を母語とする初学者向けに簡略な説明を試みたものに過ぎず、不備や誤りがあると思います。ご了解ください。

基本形に点や線を加え子音字母を作る

調音
点*
基本
基本形に点
や線を追加
基本
形2
舌の
つけ根
 [g]ㅋ [k]
舌と
歯ぐき
 [n] [d]   ㄹ** [r/l]  [t]
くちびる [m] [b]   ㅍ [p]
歯や
舌の端
 [s] [dʒ]   ㅊ [tʃ]ㅆ   ㅉ
口の
 [-] [h]

15世紀当時の分析にもとづくもので、現在では調音器官や調音点が異なる(発音は参考のみ)  *現代の調音点のとらえ方 **現在、ㄹは ㄴ ㄷ ㅌ とは別に配列されるが、初学者にはこの表の配列のほうが覚えやすい

子音字母の基本形と音を発する部位の関係を示す図
下の行に 아음牙音 설음舌音 순음脣(唇)音 치음歯音 후음喉音とあるが、現代の言語学の考え方とは異なる

三つの要素から母音字母を作る

要素A*要素B*母音字母発音**
+=a
+・・=ya
+=ə
・・+=
+=o
・・+=yo
+=u
+・・=yu
+=ɯ
+=i

*三つの要素: ・(天)  (地)(人)、A+B は書き順(A>B) **発音は参考のみ

母音字母+母音字母=合成母音字母

母音字母+母音字母=合成母音
字母
発音*
ɛ
e
ye
we
wi
wi(e)
wa
we
*発音は参考のみ

子音字母+母音字母=文字

c\v
ayaəoyo
g
n
d
r/l
m
b
s
k
t
p
h
基本の子音字母と基本の母音字母(発音は参考のみ)
c\v
oyouyuɯi
g
n
d
r/l
m
b
s
k
t
p
h

基本の子音字母と基本の母音字母(発音は参考のみ)

子音字母の基本形と音を発する部位の関係を示す図
下の行に 아음牙音 설음舌音 순음脣(唇)音 치음歯音 후음喉音とあるが、現代の言語学の考え方とは異なる

ハングルで漢字を表記する

韓国も日本も漢字文化圏に属し、漢字の成語などに共通するものが多くあります。ただし、80年代に入って、韓国では漢字がほとんど使われなくなり、現在は新聞雑誌もハングルだけの横書きになっています。同音異義語を区別するときなどに漢字を付記するだけです。

日本語の場合、漢字に音読みと訓読み二つの読み方がありますが、韓国語では原則として一つの漢字に対し音読み一つであり、文字の形(まとまり)も一つです。以下、いくつか日韓に共通する漢字熟語を記します(ルビはいずれも参考)。

漢字表記ハングル表記
一石いっせき 二鳥にちょう일석イルソク 이조イジョ
三寒さんかん 四温しおん삼한サマン 사온サーオン
朝令ちょうれい 暮改ぼかい조령ジョリョン 모개モゲ
漁夫ぎょふ 之利のり어부オブ 지리ジリ
五臓ごぞう 六腑ろっぷ오장オジャン 육부ユップ
七顚ななころび 八起やおき칠전チルジョン 팔기パルギ
九死きゅうし 一生いっしょう구사クサ 일생イルセン
十人じゅうにん 十色といろ십인ジビン 십색シプセッ

今はあまり使われない千字文せんじもんの冒頭の句は次のように対応します。

てん: チョン: げんヒョンこう: ファン
ちゅう: ジュこう: ホンこう: ファン

天はくろく地は黄、宇宙は洪荒こうこうなり

ハングルで英語を表記する

インターネット関連の語彙を並べてみました。韓国語は、日本語と違って、子音で終わる単語を表記できます。たとえば、book は 、ネットは 、work は 워크 となります。日本語のカタカナ英語と較べ、英語音の表記に適しているといえます。また、f や th に相当する音がなく、f に対して ㅍ(p)、th に対してㅌ(t) を用いるなどの特徴があります。

韓国語表記英語表記日本語表記
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퓨터computerコンピュータ
네트워networkネットワーク
사이트websiteウェブサイト
serverサーバー
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ヒョーヤとその母: 書き出し

執筆中の中説「ヒョーヤとその母」の書き出しである。はじめの数章を書いただけだし、この書き出しも確定稿とはいえないが、半ば納得している。以前、序文としていた執筆意図に関する文章はあとがきに移動した。

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https://tb.antiscroll.com/novels/goolee/24471

a dancer wearing jikatabi

行きつけの店でたまに働いている女性がジカタビをいていた。奇異に思って尋ねると、本業はコンテンポラリーダンサーなのだという。ダンサーがジカタビを履く意味はよくわからなかったが、彼女が制作したサイトの写真や動画を見るに及んで何となく理解できるような気がした。yuuka koyama.com

彼女の言葉を借りれば、ジカタビを履くことで 「足の裏をたがやして」いるようなのだ。まだよくわからない部分が多いものの、この人は本物だなと思った。ぎすまされた言葉だけではない、写真や動画にうつされた姿がどれも真剣そのものだからだ。

僕は上の写真二枚の右手のかたちに注目した。五本の指の動きがまったく同じように見える。むかし何回か行ったバリ島の伝統舞踊に通じる指のかたちではないか。それが意味するものはわからないが、彼女の内面にある何かを表現しているに違いない。

Sunosaki, a memory landscape

小旅行の2週間後にふと気づいた。小説「大菩薩峠」登場人物の一人、駒井甚三郎が江戸幕府旗本の職を失い、房州で密かに造船所を開設した。その根拠地がまさに洲崎だったではないか、と。そうだ、僕は駒井こと小栗忠順を求めて洲崎に行ったに違いない。「大菩薩峠を読みなおす」を書いたのはことし四月だった。

Two weeks after the excursion, I suddenly realized that Komai Jinzaburo, one of the characters in the novel Daibosatsu Pass, who had lost his position as a bannerman in the Edo shogunate and secretly established a shipyard in Boshu(Chiba Prefecture). I thought to myself, “This is exactly where Komai was based in Sunosaki. Yes, I must have gone to Sunosaki in search of Komai, i.e., Oguri Tadamasa. It was in April of this year that I wrote a blog “Rereading the Daibosatsu Pass.”

韓国の友人と二人、新宿バスタから高速バスに乗って館山駅まで行き、さらに路線バスで30分ほどの洲崎灯台へ行った。海を見たくて、何年か前に訪ねたときの記憶をもとに行ったのだが、バスを降りた瞬間、ここはどこだ、来たことがない、と思った。

灯台はたしかに丘の上にあるが、予想していた場所とは違い、観光地らしくない。ほとんど人がいないし、商店が一軒あるだけだ。その店に入って何度呼びかけても、応答すらない。仕方なく海に向かって藪(やぶ)のなかの細道を歩くと、誰もいない海岸に出た。巨大なタイヤやブイなどのゴミが散乱していた。

海を見たあと、別の細道を辿ると、藪刈をする老人に会ったので、食事するところはないか尋ねると、ないという。先ほど訪ねた店でラーメンぐらい出してくれるが、ともいう。この老人が細道を整備してくれていたのだ。

店の方に向かおうとすると、むかし灯台守が歩いたという登り道を示され、灯台まで登った。そこに若い人たちがいて少し安堵した。韓国人だったので、僕も韓国人を装って話しを交わした。鴨川に住んでいるといった。

灯台のある丘の上から下って、先ほど入って呼びかけた店に行くと、老婆と客人らしい漁師ふうの老人がいた。何か食事はないか聞くと、ラーメンならできるという。二つ返事で注文した。店の棚に並んでいる即席ラーメンが出てくるのだろう、と思って待っていたが、なかなか出てこない。

館山駅まで戻るバスの時刻を気にしながら待つこと15分ほどを、ひどく長く感じた。ようやく出てきたラーメンを見ると、何と昔なつかしい本格的ラーメンではないか。思わず叫んでしまった。その味はまさにおふくろの味で、韓国の友人も格別においしい、といった。

僕は愉快でたまらなかったが、韓国からやって来た友人には少し申しわけない気がした。「こんなところに来てくれてありがとう」といった漁師ふうの老人の言葉が沈むように心に残っている。기억에 오래 남을 즐거운 여행 (永く記憶に残る楽しい旅行)だったと伝えてくれた友人に感謝したい。

自転車という愛玩物

愛車3台(手前からタイヤ径 14/16/26インチ)

11月中旬から12月初めにかけて自転車に乗らなかった。1日に往復1時間だから、MTBで山を駆けめぐるのと比べればどうということもないのだが、僕の日常から大きなものが消えたように感じる。

7月から10月、輪行通勤を4ヵ月続けたことが大きな意味を持っていたのだ。真夏の暑さのなかを走り、1日も欠かさないように気を張っていたから、しばらくそれがないだけで何かがなくなったように感じるのだろう。11月末から12月初めには持病の腰痛にも悩まされた。

少年のころは毎日走り回っていたし、自転車に乗って遠出もした。それが当たり前のことだったが、今は違う。これを老いというのだろうが、人はみな時間とともに成長もし老いもする。それを嘆いても何の役にも立たない。

Anti-aging という言葉を最近よく耳にする。関連商品も多様で人生百年などといって蓄えや保険を喧伝するCMも多い。かまびすしい。源氏物語の時代と今で抜本的に何が違うのか、などと考える。生老病死については何も変わっていない、この前提から現代を再考したい。

歌樽先生と読む김소월の詩

兼若かねわか先生のサイト金素月キムソウォルの詩と韓国文化」に「ハングルの詩のある風景」として連載された文章を各編ごとにまとめ、このサイトに転載します。同じ文章を縦書き文庫で電子書籍のように読むこともできます。歌樽かたる先生と詩子うたこアナウンサーが対話形式で解説する김소월の詩の世界をお楽しみください。

本サイトで読む縦書き文庫で読む
1엄아야 누나야(上)
엄아야 누나야(下)
n/a
2산유화 [山有花] n/a
3초혼[招魂](上)
초혼[招魂](下)
招魂しょうこん
4제비つばめ
5진달래꽃つつじの花
6실제[失題]의 비밀(上)
실제[失題]의 비밀(下)

失題しつだい
の秘密
7수아[樹芽]
樹芽수아
(木の芽)
8소월과 지연[紙鳶](上)
소월과 지연[紙鳶](下)
素月と凧揚たこあ
一部リンク・画像が表示されません、追々修正します

HDDが壊れた

昨夜、HDD(hard disk drive)に保存しておいたファイルを読み出そうとしたら、パソコンが読み込んでくれない。接続コードを代えたり、ほかのパソコンに接続しても読み込まない。

きょう事務所のパソコン機器に詳しい人にみてもらったが、復元できないという。HDDは壊れやすい、SSD(solid state disk)にしないと駄目とも言われた。過去25年以上の写真やテキストデータを保存してあったのに諦めなくてはならない。かなり落ち込んだ。

その後、ネット検索して何とか方途を模索し、長時間かけて復元して新たに購入したSSDに保存できたのだが、これが自分の最近四半世紀における営みを記録しているすべてだと思うと、その営み自体にどこか虚しさを感じてしまう。