小栗 章
この文章の主人公は凭也(ヒョーヤ)といいます。彼は自分が認知症の患者だと思い込んでおり、十年あまり治療を受けています。治療といっても、月に一度担当の女性医師を訪ね、以前または最近書いたメモや撮影した写真を見せながら、それについて彼女あるいは記録係と約二時間やり取りするだけです。凭也が治療のため病院に通い始めたころ、記録係は同じ病院の事務部に勤めていました。夏が終わろうとするころだったと思います。記録係が病院の食堂で食事をとっていると、同じテーブルの向かい側に凭也がすわりました。その一ヵ月後に二人はまた同じ場所で会いました。さらに一ヵ月後、また同じ食堂の同じ場所で会ったので、たがいに相手のことを変に時間と場所に几帳面な人だと感じました。
その翌週、凭也の担当医だという神経内科の女性医師が記録係のところにやって来て、凭也が診療中に記録係について話したと伝えました。よほど印象に残ったようで、名札をみて名前を記憶したらしいというのです。診療中に記録係について話すことがその後も続いたので、その医師は記録係に診療に同席して話の内容を記録するように依頼しました。彼女によれば、ちょうどそのころ記録係にも認知症の初期症状が表れていたようです。ただ、凭也と違って記録係には自覚症状がまったくありませんでした。記録係が診療に同席し認知症患者に接することで自らの症状を自覚できる、彼女はそう考えたようです。
以下の文章は、凭也のメモと彼が診療中に話した内容をもとに医師と記録係がその記憶世界を年代ごとに時間軸に沿って整理したものです。彼が話した順に時期区分ごとの時間軸に沿って編集しています。この記録をもとに医師は、凭也が認知症を発症していたと考え、それ以前に認知症特有の風景の揺らぎと時間軸のずれを生じていた可能性も否定していません。彼の場合もそうですが、認知症の患者は記憶をすべて失うわけではないようです。最近の記憶は定着しませんが、過去の記憶と情景は鮮明に保存されています。この記録では、風景と時間軸のつながりが不確かになり、未来を含め自分の年表のどこに風景の記憶が保存されているのか特定できない症状を認知症とします。患者には自覚症状がある人とない人がいます。症状が進行すると、自分がいま時間軸のどこにいるかわからなくなり、身近の人々が誰かも不明になります。
担当医の所見によれば、凭也は「ンヴィニ教」(便利・好都合を意味するコンヴィニエンスに由来する)に執拗な関心を寄せ、敵愾心さえ抱いていたようです。その教徒「ンヴィーニ」について長年観察を重ね、彼らの生態と自分を含む認知症患者の症状に共通するものを追究していたと考えられます。以下、「ンヴィニ教」と「ンヴィーニ」に関する叙述が多いのはそのためです。
[この文章が記録された場所は日本島の都会、時期は一九八〇年ごろです。凭也(ヒョーヤ)がンヴィーニに関する観察メモをもとに熱く語ります。記録係による補足説明を[ ]内に入れ、凭也の話した部分と区別しています]
電車の発車を知らせる電子音が、駅のホームの上方からけたたましい音量で鳴り響く。ホームには出入口が二ヵ所あり、階段とエスカレータで上の階と下の階に通じている。それぞれを駆けおり駆けあがる人々の群れが電子音にせき立てられ、停車中の電車に向かって疾走する。体の半分ぐらいあるカバンを背負った少年、巨大な楽器を抱えた男、乳房を揺らす女、子どもの手を引く母親、引かれて悲鳴をあげる子ども、息が切れそうな人、蒼白い顔の勤め人など、みな一斉に発車直前の電車に殺到する。
電車という動く寺院
電車に乗り込むと、人々はその日の新聞や好きな本を読み、それぞれの内面に沈潜する。会話を交わす人々は彼らにしかわからない言葉を話し、まわりの人々が理解できないことをひそかに喜ぶ。あるいは、当時流行の音楽付きイヤホンをして、自分を外界から遮断する。その周囲にいる人々にはイヤホンからもれる音は騒音でしかないが、人々は我慢する。この電車の乗客は他人に敵対的な態度をとることが許されない。他者に対して自分の感情を抑え表出しないことが習性となった人々は、自分を守るために自他を隔てる特異な防御法を発達させた。
[凭也によれば、その発達を促したのは無宗教派のンヴィニ教です。ンヴィニ教の寺院は、電車網が広がっている地域のどこにも設けられ、数棟並ぶことも珍しくなかったようです。ンヴィニ教にも他の宗教と同じようにいくつか有力な宗派があり、都市部では電車の便のよいところに宗派を異にする寺院が軒を連ねたからです。ちなみに、凭也がいう「寺院」とは厳かな空気に包まれた神社や寺院、教会ではありません。二十世紀後半から日本島を席捲した北米発祥のコーヒー店や小型スーパーによく似た造りの建物です。以下、彼の観察が続きます]
鉄道の駅構内には各宗派の小さな分院が置かれ、日々大量生産される新聞や雑誌を人々に供給していた。これらの印刷物を通じて、人々は自分たちの精神世界が不断に豊かになると信じている。同じ分院には、小型の固形食料や液体飲料が護符として売られている。駅構内だけでなく、ほとんどあらゆる地域の至るところに自販機と呼ばれる賽銭箱が置かれ、人々はささやかな寄付の見返りとして缶入り飲料やタバコを受け取った。これらの行為は宗教行為と考えられるが、日常生活にきわめて巧妙に組み込まれているため、人々は自分たちが信仰にもとづいて行動していることを意識しない。ひたすら無信仰だと思い込み、恥じるところがない。
ラッシュ時の電車に乗り込んだ人々はみな立ったままだ。車内には座席がなく、ガラス窓付き冷蔵貨車そのものだった。そこで人々は密林の植物の茎と茎のように体を接して凭れ合い、かろうじて倒れないでいる。車内の温度は低く保たれ、夏だというのに寒いくらいだ。大きな冷蔵庫のなかで、人々は押し黙ったまま湖底の藻のように揺れる。電車が停止する前後に車両は大きく揺れ、人々はひときわ激しくからみ合う。一号車のあちこちで男と女、男と男、女と女の組み合わせが車両の揺れに体をあずけ、不器用な愛撫をくり返している。その周囲にやじ馬が群がり、電車が変速するたびに生じる揺れやカーブするときの揺れに抗しながら突っ立っている。ただ、みな体を接するだけで、隣り合わせになった以上の関係を求めない。自分のまわりの平穏が失われることを恐れ、手にした本や新聞・雑誌の世界に没頭する。読み物を持たない人々は車内の天井と側面に掲示されたポスターや窓外の景色をぼんやり見ている。車内にはイヤホンからもれる雑音と何人かの交わす会話が流れ、耳をつんざく音量の放送がときどき割り込んでくる。
ここは、ステンレス鋼とガラスで造られた電車という大きな箱型の伽藍である。ンヴィーニにとって電車は寺院そのものであった。だから、運行者をあがめ、絶大な権限を与えていた。一人は先頭の車両にいて電車を操縦する運転手で、その意のままに連結された全車両がレールの上を運行する。もう一人は最後尾の車両にいる車掌で、車内ならぬ院内放送を通じて延々と説教をした。人々は時おり聞こえてくる放送をほとんど聞いていないつもりだが、その行動は知らず知らずのうちに毎日くり返される説教に支配されていた。
電車のなかの球戯
平日の昼さがり、三号車ではソフトボール大の紅と白のボールが一つずつ、車両の揺れにつれて車体の床を不規則にころがっている。電車の進行方向に沿って両側に配された横長の座席に、老人たちが曲がった腰をいたわるようにして、窓枠を背にすわっている。立っている人はいない。彼らはもう車両の揺れに抗して立ち続けることも支え合うこともできない。箱型の車両の中央あたり、進行方向の左右両側にドアがあり、そこには座席がない。両側のドアのあいだに車イスが一台ブレーキを掛けて止まっている。車イスに乗った浅黒い顔の老人がこの球戯の審判だった。
[凭也は二号車から球戯のようすを見ていたようで、頭髪もあごひげも白い七十歳ぐらいの男が人なつっこい笑みを浮かべていたのが印象に残ったと話していました]
電車の進行方向の左右いずれの座席にすわるかによって、老人たちは紅白二チームに分かれ、二つのボールと彼らだけの球戯に熱中している。ボールが自分たちの足もとに近づくと慌てて床から足を上げるのだが、何人かは座席からずり落ちそうになる。座席から落ちたり、相手チームのボールが足に触れると減点され、相手方の得点になる。自分のチームのボールが近づいたときは、審判の車イスに向かって足蹴りするが、至難の技だ。脚を上げるたびに、彼らは同じチームのメンバーとともに陽気な喚声をあげた。それぞれのチームのボールが審判の車イスの車輪に接すると加点され、両チームの得点数が壁に掲示された。
この球戯では、近くに来た自分のチームのボールを足で蹴る以外には、ボールの動きにいっさい関与できない。ボールの運動は電車の揺れに依存し、老人たちの動きはボールの動きに左右された。この電車の路線は巨大な環状でカーブが多く起伏に富んでいた。電車の発着時やカーブを曲がるとき、二つのボールは激しくころがり、彼らの興奮も最高潮に達した。電車が停車しているときは座席の上に総立ちになって大声をあげる。その熱狂ぶりを目立たせたのは、球戯に参加しないで眠り続ける人たちだった。彼らも座席の位置によって紅白のチームに属したから、その足もとにボールが近づくと、隣りの人が慌ててその脚を持ち上げる。彼らにはその動作がおかしくてたまらないようだった。
停車中、三号車に乗り込む人はいない。車両は他の乗客を拒絶する独特の熱気をはらんでいて、ドアの上にしめ縄こそないが、境界を示す白い紙垂がさがっていて、他のンヴィーニを排除した。老人たちに行き先はなく、紅白の球戯に没頭するしかない。そんな彼らも隣り合わせただけの関係だから、電車を降りれば他人同士だ。凭れ合う人々と老々介護という違いこそあれ、どちらも電車の運行と揺れに身を委ねることに変わりはない。
ンヴィーニと異教徒
ンヴィーニはみな身分証明を兼ねた数次パスを持っている。父母のいずれかが電車の運行区域内に生まれ育ち、自らも同じ地域で生まれた者に与えられるもので、駅構内という境内に入るのに必要だった。地域外の出身者が境内に入り、電車という動く寺院を利用するにはンヴィニ教寺院に一定額を寄付して一次パスを取得しなければならない。数次パスの保持者は、電車の駅のゲートを通過するとき、それを読み取り装置に挿入するだけでよいが、一次パスの保持者は係官のいる専用ゲートを通らなければならない。こうして異教徒を差別したが、ゲートを通過して駅構内に入ってしまえば、何の区別もない。それぞれ階段やエスカレータを経てホームに行き、行きたい方面行きの電車に乗るだけだ。
[凭也は電車やンヴィニ教寺院によく出入りし、そのようすを克明に観察しています。特にンヴィーニの異教徒に対する態度に着目しているように見えます]
ンヴィーニと異教徒は混ざり合うことがない。肌の色や体臭、毛髪から体形、言葉、衣服などで異なることはすぐわかる。だから、異教徒とみなされた人々は多数派のンヴィーニに囲まれ、その視線を浴びる。それをはねつけようとして、異教徒たちは大きな声で話し、徒党を組んで自己防衛する。ンヴィーニも徒党を組んでいることに違いはないが、多数派ゆえにそれに気づかない。四号車にはアジア系の若い男女が数名ずつ、人々から少し離れたところに立っていた。彼らはンヴィーニと同じ色の肌と黒髪を持ち、胴長の体形をしていた。一つのグループは強い語調の抑揚ある言葉を、別のグループは柔らかい高低のない言葉を話したが、いずれも大声で周囲の人々の視線を浴びた。ンヴィーニは少しでも異質な者に敏感に身構える。同じンヴィーニであっても、一般の教徒に判読できない文字の新聞を読んでいると、刺すような視線を感じたほどだ。
肌と毛髪の違いが一見して明らかな南アジア系やアフリカ系の人々に対しても同じだったが、欧米系の人々に対するンヴィーニの対応は違った。言葉を理解できないことも体臭についても南アジア系やアフリカ系の人々と同じなのに、欧米系の人々に対する態度はどこかおどおどしている。アルファベットに対する感覚も敬虔そのもので、至るところにその文字が溢れていた。ンヴィーニの衣服や所持品の多くも、もとは欧米系の嗜好や習性を取り入れたものなのに、もはや外来のものとは考えない。他方、ンヴィニ教の信仰の基層にはアジア系の多数民族が使う象形文字が織り込まれ、あらゆる印刷物に使われていた。当然、その文化も組み込まれているが、ンヴィーニはそのいずれをも意識できない。ひたすら異教徒との違いを強調し、独自性を誇っていた。
動く寺院の電車と同じように、ンヴィニ教寺院は表立って外部の者や異教徒を排斥しない。寺院の主たる目的が金銭によって入手できる物的または精神的・肉体的な欲望の充足にあったからだ。異教徒も含め、人々の欲望は幼いころから物心両面で矯正され矮小化されており、金銭でまかなえる範囲の欲望を入手する限り、寺院に入ることは許された。境内に陳列された物からその時々に欲しい供物を手に取り、デジタル処理の儀式を受けて、寄付金を支払うだけだった。この単純な儀式によって人々は欲望を満たした。一連の儀式に言葉は必要なく、ンヴィニ教は世界宗教の条件である超言語性を消極的な意味で備えていた。寺院の伽藍はいつもバンドネオンの演奏と説教で満たされ、多数派の宗派の信徒たちが話す複数の言語でくり返し自宗派への帰依をすすめた。
サイレント車両
五号車は禁音車と呼ばれ、車内での飲食のほか、会話や音の発生を禁じていた。他の車両のような院内放送はなく、音楽付きイヤホンも使えない。がらんとした車内には電車の車輪とレールがぶつかる音と軋轢から生じる金属音やモーター音が低く響いた。車両のドアとガラス窓はすべて二重で、ドアは停車中でも開かないから、ホームの電子音や外部の騒音もほとんど車内に届かない。乗客は隣りの四号車または六号車の車両との連結部を通って乗り降りした。連結部のドアは一メートルほど離れて二枚あり、いずれか一方は常に閉まっている。隣りの車両から侵入する音を遮るためだ。紙に印刷された読み物が禁じられ、車内の壁には文字も写真も掲示されず、動画も禁じられている。他の車両がどんなに混んでいても、この車両にはほとんど乗客がいない。数えるばかりの人はみな座席にすわって外の風景を追っていた。
この車両にいる限り、異教徒というだけの理由で排斥されることはない。ただ、禁音車に長い時間いられる人は滅多にいない。たいていの人はしばらくすると、隣りの車両に移動する。車内に何の掲示もなく印刷物も読めず、放送もない静けさに耐えられないのだ。ンヴィーニの特徴の一つは音に対する寛容さというより鈍感さだ。院内放送やホームの電子音だけではない。電車そのものが巨大な騒音を発し、それが通過するとレール周辺の地面が揺れた。周辺住民もまたンヴィーニだったから、車内の乗客と同じで、騒音や震動に対し不快感をあらわにしない。院内放送が電車の発着前後に同じ文言の説教をくり返しても、ホームの上方から大音量でくり返し同じメロディが流れても人々は意に介さなかった。
[この感覚的な麻痺症状ゆえに人々は何の刺激もない状態を拷問と感じた、と凭也は言い、自分たちに理解できないほど騒音に神経質な彼を異常者とみなした、と主張します。いつも禁音車を利用した彼は、停車中ほとんど音の聞こえない禁音車から駅のホームでうごめく人々を見て、その滑稽さをあざ笑っています。人々が禁音車の静けさに耐えられないのは、日常的にテレビから流れる音と映像に浸っているからだ、とも言います]
スモーカー車両
六号車にはタバコの煙が霧のように立ちこめ、車内にはヤニの臭いが充満していた。床のところどころにタバコの吸い殻が散らかり、人々がその近くを歩くと散らばった。車内の壁にはタバコの効用を記したポスターを掲げ、片隅にタバコの害の警告文が添えてあった。車内のすべてのものにヤニの臭いがしみつき、全体が黄ばんで見えた。壁の目立つところに禁煙マークを掲げているが、黄ばんで見えにくい。ちなみに、六号車以外の車両はすべて禁煙車だった。
そもそも、どんな警告文やマークがあっても、この車両の乗客は意に介さない。駅のホームにタバコの吸い殻を捨てないように注意する掲示があっても、守らない。彼らは注意文を読んで一応理解できるが、実行しないという意味で非識字者だった。これはンヴィーニの言語コミュニケーションが貧しいことと関係している。彼らは意思疎通にきわめて消極的だったし、みずから領域を狭め、外に対する意識をなくしていったのだ。駅構内だけでなく、線路の周辺にも道路わきにもタバコの吸い殻やゴミがたまった。人々は自分の住居や敷地以外の場所を汚すことを何とも思わないから、自分の領域外はどこもゴミ捨て場になった。人々が降り立つことのない線路わきが特に汚れたのは、そこが誰にとっても域外だったからである。
タバコの製造販売は規制されていたが、ンヴィニ教寺院には規制が及ばず、棚にはいつもタバコが並んでいる。タバコも寄付の見返りとして得られるため、罪意識など持つはずがない。ンヴィーニには男女とも喫煙者が多かった。ムダを嫌う便利主義にもとづくもので、タバコを吸っていれば何か考えごとをしているような気分になれたのだ。周囲の人々は健康を害される不快感をいだきながら、吸いたくない煙を吸わされた。それだけではない。車の排気ガス、工場の煤煙、由々しきは放射能にも寛容だった。彼らの生活そのものがこれらのうえになり立ち、それらを取り除くことは生活の便利さや快適さを失うことを意味したからだ。タバコの煙も騒音もやがて消えるし、いつまでも消えない放射能は目に見えない。目に見えないものや形を持たないものは捉えられないのだ。
寺院以外でも、自販機という賽銭箱に少額の寄付をすれば、タバコを入手できた。飲んだあとに空きカンを捨て、読み終えた新聞雑誌を車内に置いたように、彼らはタバコの吸い殻を捨てた。年月の経過とともに人々の周囲にタバコの吸い殻やゴミが堆積されていった。それが目に見え、異臭を放つようになっても、彼らは行動を変えようとしなかった。
[喫煙者を含むンヴィーニに敵愾心を持っていた凭也は、異教徒にも怒りの感情を抱いていたようです。タバコを吸うことは多くの無宗教派において宗教儀礼の一つだったとも考えています]
テレビという祭壇
[ンヴィーニはいたるところにテレビを設置したようです。住居、車、電車やバスの車内、飛行機の機内、空港ターミナル、学校の教室、ホテルの個室、病院のベッドなどに大小のテレビが置かれ、どの家にも一台はテレビがありました。入院中も、よほどの重体でない限り、テレビが伝える社会情勢と司祭たちの言葉を聞かないと不安だったといいます]
七号車の壁に埋め込まれたテレビに向かって人々が祈っている。ンヴィニ教は無宗教の一宗派で汎神教の一種だから、信仰の対象はさまざまだった。信者の数だけ神々がいたといってもよい。それらの神々を小さな箱に納めるために考案されたのがテレビで、電子装置によってあらゆる神々を祀ることができた。祈りを捧げるときはもちろん、それ以外のときも人々はテレビから流れる音を聞き、映像を見るともなしに見た。特に人気のある神々がいて、よく画面に登場した。新聞雑誌も神々ならぬ人々のシンポジウムからスキャンダルに至るまでさまざまな記事を掲載した。ンヴィーニは電車の壁に表示される雑誌の目次を読んでは、それらを寺院や分院で入手して読む。人々はこうした神々を崇めるだけでなく、喜怒哀楽を共にする親近感ある存在に仕立てた。テレビには複数のチャンネル装置が付いており、人々は自分の好みでチャンネルを選ぶことができた。この選択行為はまったく個人の好き嫌いと気分に委ねられている。ンヴィーニはこれを信教の自由と称し、自画自賛した。新聞雑誌が神々の動向を取材して掲載することは表現の自由の一部として認められた。彼らには、自由に行動していると思えることほど大事なことはなかった。
ンヴィーニの子ども
夏の日の夕暮どきだった。電車が駅に停車してドアが開くとすぐ、ホームで待機していた子どもたちが、降りようとする人々のあいだをすり抜け、一斉に車内へ駆け込んできた。空席の取りあいゲームに興じているのだ。同時に一つの座席に着こうとした二人の子どもが口論を始め、取っ組みあいのけんかになった。周囲にいた人々はただ遠巻きに見るばかりで、関わらない。別のところでは、「席がない」と叫んで子どもが泣いている。いくら親があやしても泣きやまなかった子どもが、近くの婦人が席を空けると、すぐに泣きやんだ。子どもたちは泣き続ければ席にありつけることをよく知っており、人々もそれを容認した。ンヴィーニのあいだでは、子どもが必要以上に甘やかされた。彼らが最も純真な信者と考えられたからで、混みあっている車内でも子どもたちはわがもの顔にふるまった。かん高い声でしゃべりまくり、背中のカバンを人々にぶつけながら車両から車両へと移動した。子どもたちは樹々のあいだをすり抜ける小動物のように、球戯車や禁音車と喫煙車を除くどの車両にも出没した。
子どもたちが時として、ほとんど発作的に奔放にふるまうことがあった。車両に彼ら同世代の者しか乗っていない、たとえば夏休みの午後の時間などだ。こんなとき、彼らは首輪を外された犬のようにはしゃぎ回った。学校や家庭にいるあいだ、彼らに勝手な行動は許されない。子どもたちは、教科書・参考書・マンガ本などに書かれた内容に沿って行動し、電車に乗っているあいだもムダのない行動をとった。そういう束縛に対する反抗心が隠されていたのだ。彼らはまた家にいるとき、よくテレビに向かった。アニメの主人公たちが登場したからだ。一方、外部の者を排斥するやりかたは子どもたちのほうが露骨だった。彼らは同世代の者でも異質な者を容赦しない。いじめと呼ばれた集団行動が蔓延していた。学校の行きかえりにゴミを投げ、ガムを吐き捨てて、飲みほした空きカンを捨てた。空きカンが車内の床を転がるようすは、老人たちの球戯のボールそっくりだった。
八号車には小学生の子どもとその親たちが乗っていた。どの子も凛々しい顔をしているが、頭の形が一様にまん丸く無表情だ。背中に同じ色と形のカバンを背負っているから、一人一人を区別しにくい。子どもたちはたいてい二三人のグループでかたまり、かん高い声でしゃべるか、スナックを取り出して口を動かしている。ゲームに夢中な子もいる。
[凭也によれば、ンヴィーニは頭蓋骨の形状を丸くすることで頭がよくなると信じていたようです。どの親も自分の子どもの頭がよくなることを願い、子どもたちは一日の大半を過ごす学校で団体訓練を通じて頭の形状を丸く整形されたのです。親たちはそれで満足することなく、さまざまな整頭術を求めたといいます。学習塾や予備校と呼ばれた施設での訓練もそれで、子どもたちは学校が休みの日も喜んでこれらの施設に通ったそうです。凭也はンヴィーニの子どもたちを嫌っていたようで、次のメモを残しています]
角張った形の頭は嫌われ、人々から蔑まれて、電車の車内でも敬遠された。人々が密集する車内では、とがった頭はほかの人々に危害を与える恐れがあると考えられた。だから、頭蓋が柔らかい少年期に頭の形状を整えて丸くしようとした。そのガイドとして参考書やノウハウ本が大量に発行され、どんな小さな寺院も宗旨にあった出版物を置いていた。子どもたちは、同世代の者がみな同じ行動をとっているという、彼らにとってきわめて重大な理由にもとづいて、そうしなければならないと信じた。
紅い球時計
ンヴィーニは、野球やサッカーなどの団体球戯を好んだ。少年男子の多くは野球かサッカーのチームに属した。平日は朝早くから練習し、休日は他のチームとの交流試合に臨んだ。試合の日は家族なども観戦する。応援の熱狂ぶりは老人の球戯と異なるところがない。テレビは団体球戯のようすを毎日のように中継し、どの宗派のチャンネルも定期的に野球とサッカーの試合結果を報じた。球戯が盛んな理由の一つはンヴィニ教における理想体が球体だったことに関係する。古代ギリシャ人と同じように、ンヴィーニは球体に格別の意味を見出した。球体は神格を象徴し、ンヴィーニの統合の象徴とされた。女性の胸部と臀部は球状が好まれ、男性の性器が有する二個の球体は格別の意味を持っていた。
ンヴィニ教は教義を持たない無宗教派だが、考え方の根幹には鉄道の設計と運行に関わる思想があった。目的地に早く到達し、いかに効率よく作業するかである。多くのンヴィーニが晩年に患った鬱病の症例は非効率に対する免疫の低さを示している。無為の時間が増え、動作が思うようにならないことに耐えられないのだ。彼らの時間観念もまた鉄道にまつわるものだった。どの駅にも紅い球時計が人目に付くところに置かれ、人々はそれに向かって頭を垂れた。ンヴィニ教寺院や駅構内に設置された球時計の時刻が大本と考えられた。電車は分刻みで運行され、車両の停止位置まで駅ごとに決められている。人々は毎日決められた時刻の決められた車両に乗ろうとして、ホームの乗車位置と降車位置を決めていた。だから、同じ時間帯の特定の車両はほぼ同じ乗客でひしめき合った。出発直前の電車に人々が突進するのは一刻も早く電車に乗るためだし、その電車に乗れると彼らは満足した。そんな生活スタイルを不気味に思う異教徒はンヴィニ教を拝球教と呼んで侮った。
日々の行動にとどまらず、人々の生涯にわたる営みも年齢に応じて決められ、六歳から十八歳まで大半の人々が学校や予備校などの施設に通った。さらに数年から十年ほど施設に通う者も少なくない。その後、さまざまな職種の仕事について、異性または同性どうしが結婚して世帯を持つ。生活に根ざした信仰という意味で、儀礼的な宗教にない重要な要素をンヴィニ教は持っていたのだ。ただ、ンヴィーニの一生は時刻表のようで、途中で脱落した者は同じ電車には戻れない過酷な社会でもあった。人々が最も恐れたのは電車という動く寺院やンヴィニ教寺院から追放されることであった。
[ンヴィーニをあざ嗤う凭也はンヴィーニから侮られ相手にされなかったようです。彼自身はその原因を認知症に求めていますが、本当の理由は彼のンヴィーニに対する辛辣な批判だったに違いありません。彼自身がかつて熱心な教徒だったことを認めたくなかったのでしょう。それを認めてしまえば楽になることも知っていたようですが、彼にはできませんでした。私たちが40年ほど前の記録を読むことができるのは、認知症と思い込んでいた主人公と担当医そして記録係のお蔭です]