わきびと・脇人

能と狂言の世界(能楽)に「ワキ」「シテ」という役の区分があり、「ワキ方」を演じる流派と「シテ方」だけの流派に分化しているそうだ。主役と脇役という役者の機能にもとづく捉え方ではなく、明確な職業分化が定着しているらしい。

「ワキ」と「シテ」を主役と脇役に置き代えてはいけないようだ。たとえば、セルバンテスの「ドンキホーテ」については、ふつう主人公の騎士を主役とし、従者を脇役と考える。能面ならぬ鎧面を付けた騎士をシテ、従者をワキとすることはできるかもしれない。

すると、従者の馬はワキツレ(脇連)になるが、騎士の馬ロシナンテは該当しない。「シテツレ」という役があるとは考えにくいからだ。「シテ」に付く「ツレ(連)」は想定されていないようだ。

他方、ドンキホーテもサンチョパンサも現実社会においては<はぐれ者>であり、変人扱いされるような人物である。彼らは二人とも「ワキ」役でしかない、「ワキ方」「ワキ役」についてこんなふうに考えた。これを自作の文章に当てはめると、

いつか名もない魚になる」について、主人公は「シテ」で記録係は「ワキ」だと言える。だが、二人とも「名もない魚」になってしまうのだから、社会の大勢を占める「ンヴィーニ(ンヴィニ教徒)」からみれば「ワキ」役でしかない。いや、待てよ。そもそも「ンヴィーニ」とは無名の無宗教派の人々ではなかったか。

こういう人々を総じて「わきびと」と呼びたいのだが、自分が何を考えようとしているのか明確でない。何か見失いかけている足場を再発見しようともがいているようだ。なお、「わきびと」に漢字を当てると脇人だが、音読みはキョウジンで狂人と同音になる。英語は仮に wakibito, the supporting players としておく。


[以下、別途ブログに投稿しました]

70年代によく聞いた Eleanor Rigby がどこからともなく聞こえてくる。(1) by Aretha Franklin; (2) by Beatles よく聴いてみると、(1)と(2)では歌詞が違う。(1)では all the lonely people が主語になっているが、(2)では目的語なのだ。(1)は Aretha が自らを歌い、(2)は Beatles が彼らに呼びかける。上の文脈に置き換えれば、前者はワキ人自らが歌い、後者はシテ人がワキ人について歌うのである。

One thought on “わきびと・脇人”

  1. 僕の母親は敬虔な仏教徒だ。少年時代、母親から仏教的な生命観や人の行動や感情の類型とその分析について教えてもらった。観念的な理解でしかないが、その基本枠組みはしっかり叩き込まれたようだ。数年に及んだ反抗期があったにもかかわらずである。

    地獄(じこく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人(にん)・天(てん)を六道と呼び、人々の多くはこれら六界ないし六道を輪廻すると聞いた。菩薩(ぼさつ)界というのは人々のために行動し尽力する境涯(きょうがい)だと習った。利己ではなく利他の心に富む人の境涯ともいわれた。

    宮澤賢治の詩「雨ニモ負ケズ」に描かれた理想人格は不軽(ふぎょう)菩薩なのだと教えてくれた人もいた。思うに、菩薩界という境涯ないし人格は僕のいう脇人(わきびと)そのものではないか。そうとも、彼らは利他の人々なのだから無名でよいのだ。

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