All posts by shaw

Fragments of memories

以下の文章は縦書き文庫に載せた「記憶のかけら拾遺しゅうい: 個人史の試み」の再掲です。一部加筆修正し、縦書き文庫版にも反映しました。

1950年
文京区本郷にて出生
朝鮮戦争<勃発>の四ヵ月前に生まれてすぐ、父の転勤で岡山県和気わけ柵原やなはらの鉱山町へ

1955年
杉並区井荻いおぎの同和鉱業社宅に
木造平屋(六畳2間・四畳半1間・間仕切りはふすま、台所・浴室・汲取くみとり式便所)、庭にスモモのが2本あり実がなるころ毛虫がたくさん付いた
後年、庭に卓球台を置く、同じ造りの家が6軒あり周囲には広い畑があった、小中学校とも至近距離にありよく遅刻した(井荻小学校、荻窪中学校)
幼稚園の帰りに坂を下ると右に畑が広がり遠くに富士山が見えた(井草保育園)
井草八幡や善福寺川で遊んだ、土手の谷あいを川が流れていたころ、上級生と奪い合いながらうなぎったことがある 友人のおばあさんが調理してくれた

1959年
母と妹が仏教徒に
箪笥たんすの上に黒い仏壇が置かれていた、母と妹が日蓮正宗創価学会員になった
猛反対した父は御本尊ごほんぞんこうとし母との深刻ないさかいが連日続いた

両親の生い立ち
母は一九二七年に東京都文京区初音町はつねちょうで生まれそこで育った、両親は高崎市の農家の出身で若いころ上京し、スリに遭って全財産をなくした。多くの労苦の末に生花店を開業した、末娘だった母は伝通院でんつういんの淑徳高等女学校に進んだ、戦後特許庁に勤めダンス部に属した
父は一九二四年に滝野川たきのがわで生まれ愛知県西尾市西小梛にしこなぎで育った、実家は浄土真宗大谷派の寺で父親が満州で客死かくししたため寺を継ぐが、後に満州に建國けんこく大學で三年過ごす、戦後特許庁の守衛をしながら東京大学経済学部に通い一時期共産党の党員になる

1959年
伊勢湾台風の襲来
集中豪雨ごううで近くの善福寺川が氾濫はんらんし道路が川と化す 川沿いの家は床上浸水し僕の家でも汚水があふれかけた 台風で家が流された父方の祖母がしばらく家にいた

1960年
父の妥協策
父と一緒に日蓮正宗寺院で御受戒ごじゅかい、その帰りFMも聞けるラジオを買ってもらった 労組委員長だった唯物論者の父は偽装入信だったろう
浅沼稲次郎暗殺事件

1960年代

一九六二年 キューバ危機 悪夢にうなされる日々が続いた
一九六三年 JFK暗殺 日米宇宙中継
一九六四年 東京五輪 国立競技場の上段から見た選手たちの矮小わいしょう

1965-1967年
岩手県立水沢高等学校に
「風の又三郎」だった自分
自然科学分野の新書や文庫を耽読たんどく 部屋に化学薬品や試験管、顕微鏡、DNA二重螺旋らせん模型

1965年
砂利じゃり道を自転車で通う
北上川の土手によく行った 運動部合宿で腰椎を痛め体育授業を一年休む、少年期とはまったく違った環境に適応できず
部屋は実験室のよう、顕微鏡でいろいろな細胞を見た、血液型検査の実験で敗血症はいけつしょう

1965年
クラシック音楽に親しむ
三陸海岸の海水浴で沖に流されブイにしがみついていて幸いにも救出された
部屋に安っぽいレコードプレイヤーと大小のレコードがあった

1967年
東京杉並区天沼の社宅に
桐朋とうほう高等学校に編入するが適応できず、下駄げたから革靴の生活になり名曲喫茶に通う 国鉄遵法じゅんぽう闘争のラッシュで身動きできないなか女の痴漢に襲われ女子高生に体を密着される 背景に畑が見えるホームに降り立ち電車のドアがいているあいだじっと見つめていた女子高生

1967年
学校教育から脱落
新書文庫を多読 高三の夏休み萩原朔太郎全集ほか数十冊の文庫を持参し鈍行列車で柵原やなはらへ行き、父の社宅に一ヵ月あまり下宿
「詩の原理」と散文詩、芥川の「河童かっぱ」「侏儒しゅじゅの言葉」などを愛読、おそる恐る足を入れた五右衛門ごえもん風呂がなつかしい

1967-1969年
読書三昧ざんまいの日々
読み終えた本は古本屋に売り別の本を買った アインシュタイン・インフェルト: 物理学はいかにつくられたか; 高価な原書を注文し二ヵ月かけて入手 デーデキント「数について」中江兆民「三酔人経倫問答」などをいつもポケットに入れていた 電車の線路が連続を意味し枕木は整数、レールの継ぎ目はデーデキントの截断せつだんだった

1967-1969年
ファラデー: ロウソクの科学; Chemical History of a Candle、ポーリング: 化学の教科書 「炎はなぜ上昇するのか」科学の発想にせられる、ポーリングの本は教科書よりおもしろかった 摂氏せっし華氏かしの変換式はいまも忘れない

1968年
大学受験に失敗し一浪
高校の卒業式でみな歌っている校歌を歌えなかった、覚える機会のない転校生だった
中村眞一郎: 頼山陽らいさんようとその時代; ヴァカーリ: 英文法通論・英文法詳論 予備校に行かずドイツ語を学びヴァカーリの本二冊で英語を学び直す

1969年
B. Russell: History of Western Philosophy 受験のラッセルにき西洋哲学史をテキストに、受験参考書は山川出版の世界史詳説一冊だけだった
阿部次郎: 三太郎の日記も愛読した

1969年
バロック音楽に親しむ
出隆いでたかし: はいにするが可、高一のとき書いた原稿紙の束を灰に 石神井しゃくじい公園まで毎夜往復二時間歩いた 池のほとりにセロきがいて演奏しているときは立ち止まって聴いた

1969-1970年
仏教思想に接近
母の書棚の本、戸田城聖じょうせい: 生命論・法華経ほけきょう講義、池田大作: 科学と宗教; 政治と宗教; 御義口伝おんぎくでん講義 キリスト教と科学の対立、仏教と科学の併立、宗教=思想という考えに共鳴する

1969-1970年
クラシックの器楽曲を好む
宮澤賢治を全集で読む 「春と修羅」をくり返し読む

1969-1970年
杉並区阿佐ヶ谷に引っ越す
引っ越しは母の独断だった、父との決別を予想して中古の家屋を購入したのだ 慶應義塾大学文学部に入学 第三文明研究会に出入り

1970年
大学をやめモラトリアムに
両親が離婚し父が家を出て三鷹にいた女性のもとへ その後正式に離婚した(父方の叔父の一人と僕が保証人だった)
大盛堂書店社会科学書フロアでアルバイト、 成人式の祝いに母が背広を買ってくれた、山本七平「日本人とユダヤ人」飛ぶように売れる
三島由紀夫事件

1970年
日中学院本科に数ヵ月通う
当時、学院は内山書店の奥にあった 書店内は各国語の毛沢東語録で真っだった
송지학ソンジハク: 朝鮮語基礎、旗田巍はただたかし: 朝鮮史、長障吉ちょうしょうきち: 朝鮮語小辞典、倉石武四郎くらいしたけしろう: 岩波中国語辞典; 初級ローマ字中国語 朝鮮大学を訪ね守衛に門前払いされる、中国語を学ぶ、竹内好・武田泰淳・桑原武夫・加藤周一ほかを乱読した

1970年代
こんな雑誌を読んでいた 「辺境」「三千里」「朝鮮研究」「展望」「朝日ジャーナル」

1971-1972年
書店員をしながら読書三昧
信山社しんざんしゃに就職 レクラム文庫・洋書を担当 神保町から四谷まで線路沿いの道をよく歩く

1971-1972年
二葉亭四迷全集(新書版)、魯迅ろじん全集(新書版) 二葉亭を読み翻訳に興味、魯迅と五四運動に関心

1973-1977
韓国人と仕事をする
大韓航空東京支店に勤務、金大中キムデジュン事件、文世光ムンセグァン事件 創価学会の総体革命論に傾倒、七三年末雲取山くもとりやまに登山 三峰みつみね口から月を見ながら稜線りょうせんを歩き山荘に一泊 양희은, 양병집 넋두리 などのフォークソングを繰り返し聞きよく歌った

1973年
韓国との邂逅かいこう
年末서울ソウル済州チェジュ島に初出張、帰途京都で在日コリアンHに金浦ギムポ近くの旅館から見た白衣のパジチョゴリの老人、先斗町ぽんとちょうの茶店しおり

1973-1977年
アゼリアの仲間たち
母の書棚の本 池田大作: 人間革命、トインビー・池田: 二十一世紀への対話
新大久保にあった社会総合研究所に出入り 夜になると周囲は暗く売春婦が立っていた

1977-1980年
スカウトされ転職
国際開発で前職と同じ業務を担当する 仕事から逃れようとしてしきりに登山する

1978年
崔仁勲チェインフン・田中明訳: 広場 東洋文庫「パンソリ」

1978-1980年
山に親しむ
新田次郎: 孤高ここうの人・氷壁ひょうへきほか 奥多摩の山々に親しみ、毎春上高地かみこうちから涸沢からさわ、北穂高ほだかへ登山

1979年
短い結婚生活
Eと結婚、国分寺に住む 一九八一年に離婚

1979-1980年
The Heart Remembers Home translated by Eileen Kato 司馬遼太郎: 故郷ぼうじがたく候

1980年
英語を学び直す
S. Maugham: Of Human Bondage, D. H. Lawrence: Women in Love 日米会話学院通訳基礎科に在籍、NHK英語ニュースを録音し繰り返し聴いて語彙をふやす

1980-1984年
国際会議事務局の運営
サイマルインターナショナルという虚名きょめいむらがった人々 会議部・教育部に配属、杜撰ずさんな経営で後に倒産した会社だが同僚に恵まれた

1980年代
こんな雑誌を読んでいた 「週刊文春」毎木曜発売、四谷駅麹町口だけ水曜夜発売 「ビッグコミックオリジナル」 ゴルゴ13

1982-1983年
中国神話の崩壊
Nian Zheng: The Longest Night in Shanghai Wild Swan ほど売れなかったが「文革」告発本の嚆矢こうし

1984年
韓日翻訳を仕事にする
浅草橋の事務所にデスクを貸してもらう
近所の小中学生ほか十人ほどに英語・韓国語を教える

1981年
吉里吉里キリキリ人による独立運動
井上ひさし: 吉里吉里人きりきりじん 最高傑作だと思うが、東北方言の翻訳は不可能に近い
ただの抱腹絶倒ほうふくぜっとう小説ではない、砂金という資源やズーズー弁という言語と固有の文化・思想を有し日本国から独立する東北の一地域の物語が突きつけた戦後日本に対する問題提起

1985年
國語こくごという虚構
井上ひさし: 國語元年 帝國日本の共通言語はいかに形成されたか

1984-1987年
海外広報業務
ジャパンエコー社編集部に配属 つくば博海外プレスセンターに出向

1985年
Mと結婚 大田区に在住

1985年
放送大学に入学(第一期生)
休学四年を含め八年で卒業

1986年
娘N生まれる

1987-1989年
カナダ在住
在トロント日本総領事館に出向(文化教育担当領事) 在外勤務のため放送大学を休学

1988年
E. T. Seton: Wild Animals I Have Known 日本語訳は「シートン動物記」

1989-1990年
守口市在住
国際花博協会外事部に出向 英・独バイエルン州・東欧諸国・ロシア・旧ソ連周辺国・アフリカ諸国担当

1990-1994年
ジャパンエコー社編集部・総務部に復帰 放送大学教養学部卒業(卒論: 地方自治体広報資料の多言語化)

1994-1996年
米国の財団に勤務
US-Japan Foundation 東京事務所 青山学院大学大学院に新卒枠で入学

一九九五年 地下鉄サリン事件 三十分ずれたら事件に巻き込まれていた

一九九六年 阪神淡路大震災発生 大学院修了(修論「日本人の対外意識: 内地雑居論にみる原型の形成」)

1999年
帝國日本とは何だったのか
司馬遼太郎: 坂の上の雲 日露戦争に勝ってしまった帝國日本

2000年
大正天皇はイウンに韓国語で話しかけた
原武史: 大正天皇 大正天皇の虚像を崩す

2001年
昭和天皇の虚像を崩す
H. P. Bix: HIROHITO and the Making of Modern Japan

1996-2010年
民間財団に勤務
国際文化フォーラムに勤務
韓国語教育の調査、教師ネットワークの結成

2008-2020年
アシアナ杯事務局
「話してみよう韓国語」高校生大会事務局立上げ運営 一九九七年から蓄積した韓国語事業のすべてを投入する

2005-2006年
毛沢東神話の崩壊
Jung Chang, Jon Halliday: Mao the Unknown Story 朝鮮戦争は毛沢東の了解を得た北朝鮮の南侵という衝撃、中国義勇軍という虚妄きょもう

2008年
欧米式の枠組みに対する疑問
岡本隆司: 世界のなかの日清韓関係史 中国と周辺国の冊封関係と植民地主義の矛盾、欧米流にいえば清朝の属国ながら独立していた朝鮮という矛盾

二〇〇九-二〇一二年
民主党政権 期待のあとの失望と落胆

2010-2012年
出版社編集部 アスクインターナショナル編集部に勤務 韓国関連図書の編集担当

2011年 東日本大震災(東京震度5) 原発神話の崩壊、政治不信

2013-2016年 アシアナスタッフサービスに勤務 アシアナアカデミーの企画運営

2014年
ブログサイトを立上げ
oguris.blog
goolees.blog

2014年
지식공작소(知識工作所)『대한제국 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀 민갑완(大韓帝國最後の皇太子英親王ヨンチナン許嫁いいなずけミンカブァン)』を出版、原稿校閲を補佐し写真を提供した 한겨레신문ハンギョレシンムン 関連記事

2015年
アルゼンチンタンゴに引かれる
MTB山行を楽しむ、Bromptonを買ったが韓国まで運んで友人に譲った

2016年-
新大久保コスモシティ
DEKIRU、ワールドファミリーに所属
猥雑わいざつでコスモポリタンな新大久保に通う

2016年
記憶する風景を立上げ 館山の鳩山荘松庵しょうあんに引かれる

2016-2018年
娘 Foster School of Business UW を卒業し帰国して結婚 卒業式に触発され行政書士試験の勉強を始める

2017年
Min Jin Lee: PACHINKO; U.S. National Book Award Fiction finalist
小説の可能性を信じさせてくれる作品であり社会の理不尽りふじんさにしいたげられた人々を後押し鼓舞する力作
六月Seattleのどの書店にも並んでいた、在米コリアン作家による在日韓国人・朝鮮人と彼らを受けれない日本社会と人々に対する深い洞察どうさつと痛烈な批判

2019年
WAKIBITOS サイト立上げ

2021年
創作の試み
縦書き文庫に作品を公開 前年文學界新人賞に応募した作品の一部を掲載

2022年
帝國日本の神話を崩せ
M. Wert: Meiji Restoration Losers
明治維新とは何だったのか 小栗おぐり上野介こうずけのすけ(Oguri Tadamasa)伝説の虚実きょじつ

Photos 1930-1975

the Russo-Ukrainian War and China’s Choice

QUOTE

U.S.-China Perception Monitor

Possible Outcomes of the Russo-Ukrainian War and China’s Choice

US-China Perception Monitor

3 days ago

Update on March 13, 2022: The following article was submitted by the author to the Chinese-language edition of the US-China Perception Monitor. The article was not commissioned by the US-China Perception Monitor, nor is the author affiliated with the Carter Center or the US-China Perception Monitor.

Hu Wei is the vice-chairman of the Public Policy Research Center of the Counselor’s Office of the State Council, the chairman of Shanghai Public Policy Research Association, the chairman of the Academic Committee of the Chahar Institute, a professor, and a doctoral supervisor. To read more by Hu, click here to read his article on “How did Deng Xiaoping coordinate domestic and international affairs?”

Written on March 5, 2022. Translated by Jiaqi Liu on March 12, 2022.

English

中文

English

The Russo-Ukrainian War is the most severe geopolitical conflict since World War II and will result in far greater global consequences than September 11 attacks. At this critical moment, China needs to accurately analyze and assess the direction of the war and its potential impact on the international landscape. At the same time, in order to strive for a relatively favorable external environment, China needs to respond flexibly and make strategic choices that conform to its long-term interests.Russia’s ‘special military operation’ against Ukraine has caused great controvsery in China, with its supporters and opponents being divided into two implacably opposing sides. This article does not represent any party and, for the judgment and reference of the highest decision-making level in China, this article conducts an objective analysis on the possible war consequences along with their corresponding countermeasure options.

I. Predicting the Future of the Russo-Ukrainian War
1.  Vladimir Putin may be unable to achieve his expected goals, which puts Russia in a tight spot. The purpose of Putin’s attack was to completely solve the Ukrainian problem and divert attention from Russia’s domestic crisis by defeating Ukraine with a blitzkrieg, replacing its leadership, and cultivating a pro-Russian government. However, the blitzkrieg failed, and Russia is unable to support a protracted war and its associated high costs. Launching a nuclear war would put Russia on the opposite side of the whole world and is therefore unwinnable. The situations both at home and abroad are also increasingly unfavorable. Even if the Russian army were to occupy Ukraine’s capital Kyiv and set up a puppet government at a high cost, this would not mean final victory. At this point, Putin’s best option is to end the war decently through peace talks, which requires Ukraine to make substantial concessions. However, what is not attainable on the battlefield is also difficult to obtain at the negotiating table. In any case, this military action constitutes an irreversible mistake.
2.  The conflict may escalate further, and the West’s eventual involvement in the war cannot be ruled out. While the escalation of the war would be costly, there is a high probability that Putin will not give up easily given his character and power. The Russo-Ukrainian war may escalate beyond the scope and region of Ukraine, and may even include the possibility of a nuclear strike. Once this happens, the U.S. and Europe cannot stay aloof from the conflict, thus triggering a world war or even a nuclear war. The result would be a catastrophe for humanity and a showdown between the United States and Russia. This final confrontation, given that Russia’s military power is no match for NATO’s, would be even worse for Putin.
3.  Even if Russia manages to seize Ukraine in a desperate gamble, it is still a political hot potato. Russia would thereafter carry a heavy burden and become overwhelmed. Under such circumstances, no matter whether Volodymyr Zelensky is alive or not, Ukraine will most likely set up a government-in-exile to confront Russia in the long term. Russia will be subject both to Western sanctions and rebellion within the territory of Ukraine. The battle lines will be drawn very long. The domestic economy will be unsustainable and will eventually be dragged down. This period will not exceed a few years.4. The political situation in Russia may change or be disintegrated at the hands of the West. After Putin’s blitzkrieg failed, the hope of Russia’s victory is slim and Western sanctions have reached an unprecedented degree. As people’s livelihoods are severely affected and as anti-war and anti-Putin forces gather, the possibility of a political mutiny in Russia cannot be ruled out. With Russia’s economy on the verge of collapse, it would be difficult for Putin to prop up the perilous situation even without the loss of the Russo-Ukrainian war. If Putin were to be ousted from power due to civil strife, coup d’état, or another reason, Russia would be even less likely to confront the West. It would surely succumb to the West, or even be further dismembered, and Russia’s status as a great power would come to an end.

II. Analysis of the Impact of Russo-Ukrainian war On International Landscape
1. The United States would regain leadership in the Western world, and the West would become more united. At present, public opinion believes that the Ukrainian war signifies a complete collapse of U.S. hegemony, but the war would in fact bring France and Germany, both of which wanted to break away from the U.S., back into the NATO defense framework, destroying Europe’s dream to achieve independent diplomacy and self-defense. Germany would greatly increase its military budget; Switzerland, Sweden, and other countries would abandon their neutrality. With Nord Stream 2 put on hold indefinitely, Europe’s reliance on US natural gas will inevitably increase. The US and Europe would form a closer community of shared future, and American leadership in the Western world will rebound.
2. The “Iron Curtain” would fall again not only from the Baltic Sea to the Black Sea, but also to the final confrontation between the Western-dominated camp and its competitors. The West will draw the line between democracies and authoritarian states, defining the divide with Russia as a struggle between democracy and dictatorship. The new Iron Curtain will no longer be drawn between the two camps of socialism and capitalism, nor will it be confined to the Cold War. It will be a life-and-death battle between those for and against Western democracy. The unity of the Western world under the Iron Curtain will have a siphon effect on other countries: the U.S. Indo-Pacific strategy will be consolidated, and other countries like Japan will stick even closer to the U.S., which will form an unprecedentedly broad democratic united front.
3. The power of the West will grow significantly, NATO will continue to expand, and U.S. influence in the non-Western world will increase. After the Russo-Ukrainian War, no matter how Russia achieves its political transformation, it will greatly weaken the anti-Western forces in the world. The scene after the 1991 Soviet and Eastern upheavals may repeat itself: theories on “the end of ideology” may reappear, the resurgence of the third wave of democratization will lose momentum, and more third world countries will embrace the West. The West will possess more “hegemony” both in terms of military power and in terms of values and institutions, its hard power and soft power will reach new heights.
4. China will become more isolated under the established framework. For the above reasons, if China does not take proactive measures to respond, it will encounter further containment from the US and the West. Once Putin falls, the U.S. will no longer face two strategic competitors but only have to lock China in strategic containment. Europe will further cut itself off from China; Japan will become the anti-China vanguard; South Korea will further fall to the U.S.; Taiwan will join the anti-China chorus, and the rest of the world will have to choose sides under herd mentality. China will not only be militarily encircled by the U.S., NATO, the QUAD, and AUKUS, but also be challenged by Western values and systems.

III. China’s Strategic Choice
1. China cannot be tied to Putin and needs to be cut off as soon as possible. In the sense that an escalation of conflict between Russia and the West helps divert U.S. attention from China, China should rejoice with and even support Putin, but only if Russia does not fall. Being in the same boat with Putin will impact China should he lose power. Unless Putin can secure victory with China’s backing, a prospect which looks bleak at the moment, China does not have the clout to back Russia. The law of international politics says that there are “no eternal allies nor perpetual enemies,” but “our interests are eternal and perpetual.” Under current international circumstances, China can only proceed by safeguarding its own best interests, choosing the lesser of two evils, and unloading the burden of Russia as soon as possible. At present, it is estimated that there is still a window period of one or two weeks before China loses its wiggle room. China must act decisively.
2. China should avoid playing both sides in the same boat, give up being neutral, and choose the mainstream position in the world. At present, China has tried not to offend either side and walked a middle ground in its international statements and choices, including abstaining from the UN Security Council and the UN General Assembly votes. However, this position does not meet Russia’s needs, and it has infuriated Ukraine and its supporters as well as sympathizers, putting China on the wrong side of much of the world. In some cases, apparent neutrality is a sensible choice, but it does not apply to this war, where China has nothing to gain. Given that China has always advocated respect for national sovereignty and territorial integrity, it can avoid further isolation only by standing with the majority of the countries in the world. This position is also conducive to the settlement of the Taiwan issue.
3. China should achieve the greatest possible strategic breakthrough and not be further isolated by the West. Cutting off from Putin and giving up neutrality will help build China’s international image and ease its relations with the U.S. and the West. Though difficult and requiring great wisdom, it is the best option for the future. The view that a geopolitical tussle in Europe triggered by the war in Ukraine will significantly delay the U.S. strategic shift from Europe to the Indo-Pacific region cannot be treated with excessive optimism. There are already voices in the U.S. that Europe is important, but China is more so, and the primary goal of the U.S. is to contain China from becoming the dominant power in the Indo-Pacific region. Under such circumstances, China’s top priority is to make appropriate strategic adjustments accordingly, to change the hostile American attitudes towards China, and to save itself from isolation. The bottom line is to prevent the U.S. and the West from imposing joint sanctions on China.
4. China should prevent the outbreak of world wars and nuclear wars and make irreplaceable contributions to world peace. As Putin has explicitly requested Russia’s strategic deterrent forces to enter a state of special combat readiness, the Russo-Ukrainian war may spiral out of control. A just cause attracts much support; an unjust one finds little. If Russia instigates a world war or even a nuclear war, it will surely risk the world’s turmoil. To demonstrate China’s role as a responsible major power, China not only cannot stand with Putin, but also should take concrete actions to prevent Putin’s possible adventures. China is the only country in the world with this capability, and it must give full play to this unique advantage. Putin’s departure from China’s support will most likely end the war, or at least not dare to escalate the war. As a result, China will surely win widespread international praise for maintaining world peace, which may help China prevent isolation but also find an opportunity to improve its relations with the United States and the West.

UNQUOTE

中文

Categories: Commentaries

Leave a Comment

U.S.-China Perception Monitor

Back to top

KOREAN WAR AND “NATIONALITY” OF KOREANS IN JAPAN (1947-52)

鄭栄桓(Chong Young-hwan)氏の雑誌掲載論文(PRIME 2017.3.31)在日朝鮮人の「国籍」と朝鮮戦争(1947‒1952年)–「朝鮮籍」はいかにして生まれたか より次の表(図1 外国人登録「国籍」欄の日本政府の変遷)を転載します(一部編集)。

外国人登録の「国籍」欄に対する日本政府の解釈

時期朝鮮朝鮮韓国韓国
表示内容の解釈朝鮮」への記載変更表示内容の解釈韓国」への記載変更
1947.5.2-50.2.22出身地表示説
1950.2.23-51.2.1出身地表示説出身地表示説国籍証明文書不要c
1951.2.2-65.10.25出身地表示説出身地表示説国籍証明文書提示
1965.10.26-70.9.25出身地表示説国籍表示説国籍証明文書提示
1970.9.26-71.2.26出身地表示説例外的に可a国籍表示説国籍証明文書提示
1971.2.27出身地表示説条件付で可b国籍表示説国籍証明文書提示
a. ①事務上の記載間違い、または②本人意思によらない他人の勝手な書換え手続きで「韓国」となったもののみ例外的に記載変更を認めた。 b. ①韓国の在外国民登録をしていない、②韓国旅券の発給を受けたことがない、③協定永住許可がなされていないの三点を確認できれば市町村長限りで「朝鮮」への記載変更を認めた。 c. 本人陳述のみ

以下、同論文より一部抜粋し転載します(段落の区切りを編集、脚注を省略)。

(前略) 日本政府はサンフランシスコ講和条約の発効にともない、朝鮮人は日本国籍を喪失したとみなした。このときなぜ「外国人」となった朝鮮人の国籍が記載されず、「便宜の措置」としての朝鮮籍が残ることになったのか。この問題に答えなければならない。
 朝鮮籍がいかにして生まれたのかという問いに答えるためには、1947年の登場のみならず、1952年における継続の背景を探る必要がある。その際にあわせて考えるべき問題に、外国人登録における韓国籍の登場と日本政府の解釈の変遷がある。在日朝鮮人の国籍問題は日本の植民地支配の清算をめぐる問題であると同時に、南北の分断、そして日本の南北朝鮮との外交関係のあり方と密接に係る問題であった。そのため、外国人登録制度の国籍欄についての行政実務や解釈も、日本政府の対朝鮮政策の反映であったとみなければならない。
 政府統一見解は、韓国籍の登場の経緯について次のように説明する。外国人登録令施行当初は「朝鮮」とのみ記載できたが、在日朝鮮人のなかから「『韓国』(又は『大韓民国』)への書換えを強く要望してきた者があるので、本人の自由意思に基づく申立てと、その大部分には韓国代表部発行の国民登録証を提示させたうえ『韓国』への書換えを認めた」。
 1965年現在の韓国籍者は、「このような経過によって『韓国』と書換えたものであり、しかも、それが長年にわたり維持され、かつ実質的に国籍と同じ作用を果たして来た経過等にかんがみると、現時点から見れば、その記載は大韓民国の国籍を示すものと考えざるをえない」。すなわち、朝鮮籍が「国籍を表示するものではない」のに対し、韓国籍は「大韓民国の国籍を示すもの」であると説明した。
 実はこの政府統一見解は、従来の日本政府の外国人登録証明書の国籍欄解釈を修正するものであった。1950年2月23日、法務総裁は「朝鮮」「韓国」は「単なる用語の問題であって、実質的な国籍の問題や国家の承認の問題とは全然関係な」いとする談話を発表した。それゆえ朝鮮籍であり韓国籍であれ、「その人の法律上の取扱いを異にすることはない」としていた。
 にもかかわらず政府統一見解は、韓国籍を「実質的に国籍と同じ作用を果たして来た経過」から国籍を示すものとした。1965年以前のどこかの時点から、韓国籍は韓国国籍としての作用を果たすことになったというのである。当時「180度の転換」と評されたゆえんである。
 それでは、日本政府の韓国籍解釈はいつ変わったのか。在日朝鮮人史研究者の金英達が1987年に発表した論文はこの問題を検討したものである。金英達は法務省入国管理局や川崎市が部内資料として編纂・整理した通達集を用いて、1947年から71年にかけての国籍欄をめぐる行政実務の変遷を明らかにした。
 金の研究に基づき、日本政府の「国籍」欄解釈と記載変更について筆者が整理したものが図1[上の表]である。図中の「表示内容の解釈」とは、その時々の日本政府が、外国人登録の国籍欄の「朝鮮」や「韓国」という名称が何を表示していると解釈したかを示す。地域名を表示したとの解釈を「出身地表示説」とし、国家名の表示との解釈を「国籍表示説」とした。
 金英達によれば、日本政府が韓国籍解釈を事実上修正したのは1951年2月である。図1[上の表]の通り、日本政府は一貫して、朝鮮籍は国籍の帰属ではなく、出身地を表示するものであるとの解釈を採ってきた。韓国籍についても当初は出身地であるとの解釈を採ったが、1951年2月(第三期)以降、表向きは出身地表示説を採る一方で、外国人登録における国籍の記載変更に際して国籍証明文書(「大韓民国国民登録証」)の提出を求め、事実上の国籍表示説へと解釈を修正したという。
 そして、日韓基本条約締結後に前述の政府統一見解を発表することで名実ともに国籍表示説を採ることになった。その後、日韓条約締結後に起こった「朝鮮国籍」への変更を要請する運動に応じて、福岡県田川市などの革新自治体は韓国から朝鮮表示への記載変更を認めた。法務省は当初記載変更を一切認めない方針であったが、最終的には条件付きで「韓国」から「朝鮮」への変更を認めるに至った。国籍の記載変更という問題が、「国籍欄」の解釈に多大な影響を与えていることがわかる。(後略)
明治学院大学機関リポジトリより

Goolee’s library

2021年7月に「縦書き文庫」というサイトを知り、以前に書いた習作や拙論などを一部編集し同文庫に載せてきた。掲載作は次のとおりである。同文庫が擁する文学作品も少しずつ読んでいる。縦書きを勧めてくれた菊地明範先生に深く感謝している。先生とは1999年以来のお付き合いで、2008-20年に開催されたクムホアシアナ杯「話してみよう韓国語」大会の立ち上げからご一緒した。

シリーズ題名字数
未定記憶のかけら拾遺しゅうい: 個人史の試み10,308
ハイジン教徒老人たちよ異界いかいでタンゴを舞うな15,607
ハイジン教徒電車という名の動く寺院 mobile temples14,181
未定翻訳: 忘れられた女性민갑완ミンカブァン [2023年予定]3,492
論考 Review Japan明治期の欧米崇拝と排外意識55,178
少年と老人習作: 落とし穴6,368
少年と老人習作: 少年と白い犬6,454
少年と老人習作: 老人と黒い犬6,439
@2022/03/31

老人たちよ異界でタンゴを舞うな(a short story)

この短編を「縦書き文庫」でお読みください. Click!
関連作: 電車という名の動く寺院

この文章に書かれているのは二〇三〇年に起こったか起こると思われることで、場所は日本島の中心部にある都会とその周辺です。主人公であり書き手でもある凭也(ヒョーヤ)は記憶障害者で記憶と年代の対応が覚束おぼつかないため、時間軸が揺らぎます。記録係は主人公の分身のような存在です。

老人たちとの再会

一月か二月の冷え込んだ日の午前中だった。日本島の首都の中心部にあり、その象徴ともいえるグローブ(球体の意)駅構内はいつものように多くの人で混み合っていた。みな一様いちようにうつむいて手のひらを見ながら歩き、人や物にぶつかると頭を上げる。通路の壁ぎわに止まって見ていると、人々の動作はどこか機械的でロボットのようだ。その雑踏のなかに一瞬、五十年前に電車のなかで車イスに乗って球戯の審判をしていた老人を見たような気がした。いや、その十年後ゴー河沿いに走る列車で二度出会った老人だったかもしれない。彼らが同一人物だったかどうかも不確かなのだ。いや、二人だったろう。年代が違うはずだから。

二〇二〇年代を通じて車イスはすべて電動式になり、都会では軽自動車に取って代わるほどになった。どこでも多くの人が軽快に乗り回していたから、三〇年当時、車イスは特に珍しい光景ではない。いつもなら気にも止めないが、目に止まった車イスには四五十年ほど前に見た老人とそっくりな人が乗っていた。ただ、半世紀前の彼(ら)が生きているはずはない。打ち消そうとするが、何かがそうさせない。考えあぐねているあいだに、彼(ら)の強い引力に引かれ、そのあとを追っていた。その容姿と顔を見て必死に記憶の断片を拾おうとするが、思い出せない。二十歳はたちの青年が七十歳の老人になるほどの年数がっているのだ、と言い聞かせながらも、何が彼(ら)を同一人物と思わせるのか不思議でならない。

一九八〇年の夏、動くハイジン教寺院の三号車の老人は車イスに乗っていた。九〇年の晩秋、H市の列車で出会った老人は大股おおまたで歩いた。いま目の前にいる彼(ら)は上下とも黒い服を着ていて、当時と同じように白髪はくはつが目立つ。彼らが同一人物だとすれば、百歳を超しているはずだが、一見して七十歳前後でむかしとあまり変わらない。ただ、以前の活気がなく、ひどくやつれて見えた。違う人ではないか、そう思いつつも車イスのあとを追った。グローブ駅の地下道を人々は軍靴ぐんかのようなくつ音を響かせて行進し、車イスにぶつかっては横を過ぎ、小動物の群れのようにエスカレータに吸い込まれていった。人の集団が見えなくなると、構内はいっとき静けさを取り戻し、彼(ら)の車イスのモーター音と靴音が静かに響く。彼(ら)は長いエスカレータに乗って上がって行く。車イスはしっかりエスカレータにみ合い安定して水平に保たれ、彼(ら)は身動き一つせずに運ばれていく。

彼(ら)が乗っていた段が最上段に達すると、車イスはスムーズに放たれる。さらに進んで地上に通じるゲートを通過すると、かん高い電子音が鳴り、彼(ら)はひどくおびえた。すべてのゲートの出入りが記録されることを彼(ら)は知っている。日本島の住人は、短期滞在の異教徒を含め、この管理体制からのがれられない。島内にいる人々の行動がすべて監視されていた。長い通路を進んで地上に出ると、彼(ら)は道路の向かい側にそびえ立つガウディ建築さながらの高層ビルをめざす。駅構内からここまでずっとバリアフリーだから、車イスの動きがとどこおることはない。車イスはビルの一階に突き出した建物にさっと入って行った。さまざまな品物を置いたたなが、人と車イスが通れるスペースを空けて並んでいる、巨大な倉庫のような空間の一角にテーブルとイスが置いてあり、カウンターも備えている。二千年ごろから日本島の津々浦々に普及したハイジン教寺院の典型的な建築様式だ。

つづきは縦書き文庫でお読みください。→「老人たちよ異界でタンゴを舞うな」

「ふつうの人々」

芥川龍之介(1892-1927)の遺書といわれる「或旧友へ送る手記」を読んだ。昨年末、若い女性歌手の自殺らしき事件をめぐって娘と話していると、唐突に芥川の自殺を「ふつうの人々」がどう受け止めたか、尋ねられたからだ。すぐに答えることはできなかった。

冒頭に触れた若い女性歌手の自殺に関連し、篠田博之氏が自殺報道のあり方について投稿した文章を読んだ。報道のあり方を批判的に捉えていて、大いに共感するところがあった。さらに検索すると、金孝順2013が植民地朝鮮における受容について論考を公開していたので読んだ。当時の「ふつうの人々」で想定される日本人とは隔たった人々であるが、参考になると思って読んだ。

冒頭、関口安義1994の文章を引用している。やや誇張されているように思うが引用する。大日本帝国時代の話ではあるが、メディアの報道ぶりが国の戦争拡大へのムード作りの機能を担っていることを改めて思わざるを得ない。

…(1927.7.25)中央の新聞ばかりでなく、地方の新聞もすべてが重大ニュースとして芥川の死の模様を記事にした。社会面を全面つぶしでの報道が多く、衝撃の大きさを物語っている…芥川の死に関する新聞報道は翌日以後も続き、翌月末に至る。地方新聞も含めると、その量は厖大なものとなろう。後追いの自殺もかなりある。
…週刊誌も「週刊朝日」と「サンデー毎日」が龍之介の死の特集を組んだ。(略) 1927年9月号の雑誌は競って芥川龍之介特集を行っている。「文芸春秋」「中央公論」「改造」「新潮」「文章具楽部」「女性」「婦人公論」「三田文学」などが特集を組んだ。ここに実に多くの人々が様々な角度から芥川龍之介とその文学に発言することになる…

これを読んで、1970年11月の三島由紀夫(1925-70)の自殺を思い出した。当時、大学に行かず渋谷の大型書店でバイトしていた僕は、帰りに渋谷駅で配られていた号外を貪るように読み、いつになく興奮していた。帰宅すると、どのテレビも事件の報道一色だった、と記憶している。その後、三原山が噴火したとき、東北大震災のときも同じ動画がすべての放送局から流れていた。いまはコロナ禍一色だ。そもそも日本社会はいつもそうだが、再び1927年に戻ろう。

1926年12月に大正から昭和に改元した大日本帝国はどんな状況にあったのか。23年9月関東大震災、同年12月皇太子、30年11月浜口雄幸に対する襲撃事件が続いている。28年6月の張作霖爆殺事件、31年9月の柳条湖事件と続き、大日本帝国は32年3月の満洲帝国建国へと進んでいった。32年5・15、36年2・26を挟んで37年7月盧溝橋事件により本格的に中国を侵略していく。38年4月には国家総動員法が公布された。年表はこのような事件を記している。

聡明で神経衰弱を病んでいたという芥川が、戦争へ突き進む時代の重圧を鋭敏に感じていたことは想像に難くない。芥川を近しく感じていた萩原朔太郎(1886-1942)の「芥川龍之介の死」も読んだ。望郷の詩人とカミソリの刃のような小説家は似ているところがあり、かなり親しく交わっていた。伊豆の温泉宿で芥川の訃報を聞いた朔太郎は呆然とさまよい歩いたという。小説家が自殺する数日前に会っていながら、話を尽くせなかったことを悔いている。朔太郎も「ぼんやりした不安」を共有していたろう。

「ふつうの人々」という、いっけん容易に考えられそうな対象を捉えることのむずかしさについて改めて考えさせられた。独立した精神と卓越した観察力がなければ、それを捉えることはできない。いまだ僕にはそんな能力が備わっていないようだ。

阿育王塔とおふちの樹

九品仏にある淨眞寺(浄土宗)に行った。何回か訪ねている寺だ。九品仏くほんぶつの由来となった阿弥陀如来像九体を三体ずつ安置する三仏堂のあいだ、少し奥まったところに石塔が建っている。前からそこにあることは知っていたが、冬の西日のせいだろうか、石塔が迫ってくるように感じた。幕末に造られた日本様式の阿育あしょか王塔だという。阿育王は古代インド(紀元前3世紀)に実在した人物である。

寺の裏手にある公園にセンダンの樹があり実がたわわになっていた。調べたところ、日本にセンダンの樹はなく、平家物語巻十一にある「獄門の左のおふちの木にぞけられける」の「樗[おうち]の木」が栴檀せんだんとされるようになったという。実をついばんでいた鳥はムクドリらしい。 

日本古典文学摘集 平家物語 巻第十一
一七一七六 大臣殿被斬

原文
`さるほどに鎌倉の源二位大臣殿に対面あり
 `おはしける所庭を一つ隔てて向かひなる屋に据ゑ奉り簾の内より見出だし給ひて比喜藤四郎義員を以て申されけるは
 `平家を別して頼朝が私の敵とは努々思ひ奉らず
 `その故は故入道相国の御許され候はずば頼朝いかでか命の助かり候ふべき
 `さてこそ二十余年まで罷り過ぎ候ひしか
 `されども朝敵とならせ給ふ上追討すべき由の院宣賜はる間さのみ王地に孕まれて詔命を背くべきにもあらねばこれまで迎へ奉つたり
 `かやうに御見参に入るこそ本意に候へ
 `とぞ申されたる
`東国の大名小名多く並み居たりける中に京の者幾らもありまた平家の家人だつし者もあり皆爪弾きをして
 `あな心憂や
 `居直り畏り給ひたらばとて御命の助かり給ふべきか
 `西国にていかにも成り給ふべき人の生きながら囚はれてこれまで下り給ふも理かな
 `と云ひければ
 `げにも
 `と云ふ人もありまた涙を流す人もあり
`その中にある人の申しけるは
(1)``猛虎在深山即百獣震怖
``檻穽中則揺
`とて猛き虎の深山にある時は百の獣怖ぢ恐るといへども捕つて檻の中に籠められぬる後は尾を振つて人に向かふらんやうにこの大臣殿も心猛き大将軍なれどもかくなりて後はかやうにおはするにこそ
 `とぞ申す人々もありけるとかや
`判官やうやうに陳じ給へども景時が讒言の上は鎌倉殿用ひ給はず
 `大臣殿父子具し奉つて急ぎ上り給ふべき由宣ふ間六月九日また大臣殿父子受け取り奉つて都へ帰り上られけり
`大臣殿は今一日も日数の延ぶるを嬉しき事にぞ思はれける
 `道すがらも
 `此処にてや此処にてや
 `とは思はれけれども国々宿々うち過ぎうち過ぎ通りぬ
 `尾張国内海といふ所あり
 `一年故左馬頭義朝か誅せられし所なれば
 `此処にてぞ一定
 `と思はれけれども其処をもつひに過ぎしかば
 `さては我が命の助からんずるにこそ
 `と思しけるこそはかなけれ
`右衛門督は
 `なじかは命を助くべき
 `かやうに暑き比なれは首の損ぜぬやうに計らひて都近うなりてこそ斬らんずらめ
 `と思はれけれども父の嘆き給ふが労しさにさは申されず偏に念仏をのみ勧め申されける
`同じき二十一日近江国篠原の宿に着き給ふ
 `昨日までは父子一所におはしけるを今朝よりは引き離し奉つて所々に据ゑ奉る
 `判官情ある人にて三日路より人を先立てて善知識の為にとて大原の本性房湛豪と申す聖を請じ下されたり
`大臣殿善知識の聖に向かひて宣ひけるは
 `抑も右衛門督は何処に候ふやらん
 `たとひ頭をこそ刎ねらるるとも骸は一つ席に臥さんとこそ契りしか
 `この世にてはや別れぬる事の悲しさよ
 `この十七年が間一日片時も身を離されず京鎌倉恥を曝すもあの右衛門督故なり
 `とて泣かれければ聖も哀れに思ひけれども我さへ心弱うては叶はじとや思ひけん涙押し拭ひさらぬ体にもてないて
 `誰とても恩愛の道は思ひ切られぬ事にて候へばまことにさこそは思し召され候ふらん
 `生を受けさせ給ひてより以来昔も例しなし
 `一天の君の御外戚にて丞相の位に至り給ひぬ
 `今更かかる御目に逢せ給ふ御事もその前世の宿業なれば世をも人をも神をも仏をも恨み思し召すべからず
 `大梵王宮の深禅定の楽しみ思へばほどなし
 `況や電光朝露の下界の命に於いてをや
 `忉利天の億千歳ただ夢の如し
 `三十九年を保たせ給ひけんも僅かに一時の間なり
 `誰れか嘗めたりし不老不死の薬
 `誰か保ちたりけん東父西母が命
 `秦の始皇の奢りを極めしもつひには驪山の塚に埋もれ漢の武帝の命を惜しみ給ひけんも空しう杜陵の苔に朽ちにき
(2)``生者必滅
 ``釈尊未栴檀煙
 ``楽尽悲来
``天人猶逢五衰日
`とこそ承れ
 `されば仏は
`我心自空罪福無主観心無心法不住法,我心自空罪福無主観心無心法不住法
`とて善も悪も空なりと観ずるが正しう仏の御心に相叶ふ事にて候ふなり
 `いかなれば弥陀如来は五劫が間思惟して発し難き願を発しましますにいかなる我等なれば億々万劫が間生死に輪廻して宝の山に入りて手を空しうせん事恨みの中の恨みおろかなるが中の口惜しき事には思し召され候はずや
 `今は余年を思し召すべからず
 `とて鐘打ち鳴らし頻りに念仏を勧め奉れば大臣殿も
 `然るべき善知識かな
 `と思し召し忽ちに妄念を翻し西に向かつて手を合はせ高声に念仏し給ふ処に橘右馬允公長太刀を引き側めて左の方より御後ろに立ち廻り既に斬り奉らんとしければ大臣殿念仏を留め合掌を翻り
 `右衛門督も既にか
 `と宣ひけるこそ哀れなれ
`公長後ろへ寄るかと見えしかば首は前にぞ落ちにける
`この公長と申すは平家相伝の家人にて就中新中納言知盛朝夕伺候の侍なり
 `さこそ世を諂らふ習ひとはいひながら無下に情なかりけるものかな
 `とぞ人皆慚愧しける
`聖また先の如く右衛門督にも戒持たせ奉り念仏をぞ勧め申されける
 `右衛門督善知識の聖に向かつて宣ひけるは
 `抑も父の御最期はいかがましまし候ふやらん
 `と宣へば
 `めでたうましまし候ひつる
 `御心安く思し召され候へ
 `と申されければ右衛門督
 `今は憂き世に思ひ置く事なし
 `さらば疾う斬れ
 `とて首を延べてぞ討たせられける
 `今度は堀弥太郎親経斬つてけり
`首をば判官持たせて都へ上り給ふ
 `骸をば公長が沙汰として親子一つ穴にぞ埋めける
 `これは大臣殿のあまりに罪深う宣ひけるによつてなり
`同じき二十三日武士検非違使三条河原に出で向かひて平家の首受け取る
 `三条を西へ東洞院を北へ渡して獄門の左の樗の木にぞ懸けられける
 `昔より卿相の位に至る人の首大路を渡さるる事異国にはその例もやあるらん我が朝には未だその先蹤を聞かず
 `平治にも信頼卿はさばかりの悪行人たりしかども大路をば渡されず平家に取つてぞ渡されける
 `西国より帰りては生きて六条を東へ渡され東国より上りては死して三条を西へ渡され給ふ
 `生きての恥死んでの辱いづれも劣らざりけり

書下し文
(1)
``猛虎深山に在る時は即ち百獣震ひ怖づ
`檻穽の中に在るに及んで即ち尾を揺つて食を求む
(2)
``生ある者は必ず滅す
 ``釈尊未だ栴檀の煙を免かれ給はず
 ``楽しみ尽きて悲しみ来たる
``天人猶五衰の日に逢へり
https://www.koten.net/heike/gen/176/

二つの八幡神社

自宅近くにある雪ヶ谷八幡神社に行った。何度か鳥居前を通り過ぎたことはあるが、境内に入った記憶はない。こじんまりした神社だと思ったら、なかなか奥深い。わざわざ行ったわけではなく、散髪しに行く途中で立ち寄ったのだが、ひっそりした境内に七五三を祝う女の子を連れた母親と祖父らしい人の姿をみて、なつかしい気分になった。

少年時代を過ごした善福寺川沿いにあった家からほど近いところに井草八幡宮があり、よく境内で遊んだ。源頼朝が植えたとされる松があり、数年に一度行われる流鏑馬(やぶさめ)の人馬一体がよぎる姿を鮮やかに覚えている。少年が一番好きだったのは夏の祭礼だった。ろくろっ首の見せ物やお化け屋敷は不気味で入らなかった。

七五三の儀礼もそこで行った記憶がある。写真で覚えているのかもしれない。小石を敷きつめた境内とくるぶしの上でボタンをとめる黒い革靴を履いていた。僕はあの革靴が気に入っていた。

昭和天皇の「人間宣言」を読む

1946年1月1日付け官報を読んだ。大日本帝国と日本国の狭間に発せられた文書として興味深い。昭和天皇(1901-89)の「人間宣言」とされている。縦書き文庫の「ハイジン教の改宗者たち(草稿)」にも掲載した。漢文調の文章は縦書きが読みやすい(原文にルビと段落間の空行はない)。

昭和21年1月1日付け官報号外
詔書

ここニ新年ヲ迎フ。かえりミレバ明治天皇明治ノはじめ国是こくぜトシテ五条ノ御誓文ごせいもんくだたまヘリ。いわク、

一、広ク会議ヲおこ万機ばんき公論こうろんニ決スヘシ
一、上下心ヲひとつニシテ盛ニ経綸けいりんヲ行フヘシ
一、官武一途いっと庶民ニ至ルまでその志ヲケ人心ヲシテマサラシメンコトヲ要ス
一、旧来きゅうらい陋習ろうしゅうヲ破リ天地ノ公道ニもとづクヘシ
一、智識ちしきヲ世界ニ求メ大ニ皇基こうき振起しんきスヘシ

叡旨えいし公明正大、又何ヲカ加ヘン。ちんここちかいあらたニシテ国運ヲ開カントほっス。すべかラク此ノ御趣旨しゅしのっとリ、旧来きゅうらい陋習ろうしゅうヲ去リ、民意ヲ暢達ちょうたつシ、官民ゲテ平和主義ニてっシ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

大小都市ノこうむリタル戦禍せんか罹災者りさいしゃ艱苦かんく、産業ノ停頓ていとん、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢すうせい等ハまことニ心ヲ痛マシムルモノアリ。しかリトいえどモ、我国民ガ現在ノ試煉しれんニ直面シ、かつ徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、ク其ノ結束ヲまっとウセバ、ひとリ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。

レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲこうスベキノときナリ。

おもフニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハややモスレバ焦躁しょうそうニ流レ、失意ノふち沈淪ちんりんセントスルノ傾キアリ。詭激きげきノ風ようやク長ジテ道義ノ念すこぶおとろへ、ためニ思想混乱ノきざしアルハまこと深憂しんゆうヘズ。

しかレドモちん爾等なんじら国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚きゅうせきわかタント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ちゅうたいハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニリテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニあらズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、かつ日本国民ヲもっテ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、ひいテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモあらズ。

朕ノ政府ハ国民ノ試煉しれんト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱じかん蹶起けっきシ、当面ノ困苦こんく克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往ゆうおうセンコトヲ希念きねんス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相リ相たすケ、寛容相許スノ気風ヲ作興さっこうスルニ於テハ、ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。かくノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ所以ゆえんナルヲ疑ハザルナリ。

一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲひとつニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就じょうじゅセンコトヲ庶幾こいねがフ。

御名 御璽
昭和二十一年一月一日
内閣総理大臣兼第一復員大臣
第二復員大臣男爵 幣原喜重郎
司法大臣 岩田宙造
農林大臣 松村謙三
文部大臣 前田多門
外務大臣 吉田茂
内務大臣 堀切善次郎
国務大臣 松本烝治
厚生大臣 芦田均
国務大臣 次田大三郎
大蔵大臣子爵 渋沢敬三
運輸大臣 田中武雄
商工大臣 小笠原三九郎
国務大臣 小林一三