小林一茶@wikipedia

以下、Wikipediaの小林一茶に関する記事の前半を抜粋し編集して載せています。

小林 一茶(1763年6月15日-1828年1月5日*)の本名は小林彌太郎、一茶は俳号である。別号は圯橋(いけう)[2]・菊明(きくめい)[2]・新羅坊(しらぎばう)[3]・亜堂(あだう)[3]。庵号は二六庵(にろくあん)[4]・俳諧寺(はいかいじ)[5]。*(宝暦13年5月5日-文政10年11月19日)

信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時奉公のために江戸へ出され、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立し松尾芭蕉(1644-1694)・与謝蕪村(1716-1784)と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人として評価されるようになった[6]

  • 文中の年代: 明治6年(1873)以前は出来事の日にちのあるものは和暦(西暦); 日にちのないものは和暦(西暦)で表示; 明治改暦(明治6年)以降もそれ以前の表記を統一するため和暦(西暦)で表示; 年齢: 数え年で表記

小林彌太郎は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に北信濃の北国街道の宿場町柏原(母の里方・仁倉)で生まれた。小林家は柏原で有力な農民の家系であり、一茶の家族も柏原では中位層の自作農であった。幼い頃に母を失った彌太郎は父の再婚相手(継母)との関係が悪く不幸な少年時代を過ごした。一茶を可愛がった祖母の死後、継母との仲がさらに悪化したので、一茶と継母を引き離すため、父は不本意ながら15歳の彌太郎を江戸奉公に出す。継母との確執は彼の性格形成と後の句作に大きな影響を与えた。

15歳で江戸に奉公へ出たあと俳諧師として資料に登場する25歳まで、彌太郎の記録は約10年途絶える。奉公時代の10年について後に彌太郎は非常に苦しい生活だったと回顧している。25歳の時、彌太郎は江戸東部や房総方面に基盤があった葛飾派の俳諧師として記録に現れる。葛飾派の俳諧師として頭角を現した彌太郎は、当時の俳諧師の修業に従い東北地方や西国に俳諧行脚を行った。また自ら俳諧や古典、当時の風俗や文化を貪欲に学び、俳諧師としての実力を磨いた。なお、彌太郎が39歳の時父が他界し、その後足かけ13年継母・弟との間で父の遺産を巡って争う。

40歳になる頃、彌太郎は主に房総方面への俳諧行脚で生計を維持していた。葛飾派の枠を超え、夏目成美(1749-1817)ら実力ある俳諧師との交流を深め、大衆化の一方で俗化した当時の俳壇にあって、独自の作風「一茶調」を確立していく。やがて一茶の名は俳句界で広く知られるようになるが、俳諧行脚の生活は不安定だった。生活の安定を求めた彌太郎は父の遺産相続問題で継母・弟と交渉を続けながら、故郷の北信濃で俳諧師匠として生活するために一茶社中を作っていく。

彌太郎が51歳の時ようやく遺産相続問題が解決し、故郷柏原に定住することになる。俳諧師として全国に名が知られるようになった彌太郎は北信濃に多くの門人を抱える俳諧師匠となり、父の遺産も相続して待望の生活安定を得ることができた。52歳で結婚するが、初婚の妻との間にできた4人の子どもはみな夭折し、一茶が60歳のとき妻にも先立たれる。

61歳で二度目の結婚をし3ヵ月後に破綻し身体的には中風の発作を繰り返すが、64歳で3度目の結婚をする。65歳で亡くなる数ヵ月前には柏原の大火で自宅を焼失するなど不幸続きの彌太郎は遺産相続問題などが尾を引き、柏原でも受け入れられない。彌太郎も故郷に対し最後まで被害者意識を持ち続けた。

彌太郎の死後も俳句界での名声は落ちなかったが、門人たちから一茶の後継者は現れず一茶調を引き継ぐ者もなく、俳句界における一茶の影響力は小さいものに留まった。明治時代中期以降、正岡子規(1867-1902)らが注目し、自然主義文学の隆盛に伴って<一茶>の俳句は大きな注目を集める。やがて、松尾芭蕉(?-1694)・与謝蕪村(1716-84)と並ぶ江戸時代を代表する俳人として評価が固まっていく。

生涯の作句数は芭蕉の約千句、蕪村の約3千句に対し<一茶>は桁違いに多く2万2千句である。また、主要テーマは芭蕉が旅・自然・わびさび・不易流行、蕪村が絵画的な情景描写・であるのに対し、一茶のテーマは生活苦・悲哀・孤独・慈愛・小動物・子どもであると云われる。また、擬声語擬態語擬音語を使った表現を多く用いる。作風の俗っぽさに対する批判も少なくないが、人々の共感を呼び、現代でも小説や演劇・音楽のテーマになっている。故郷の柏原(長野県信濃町)ほかでは関連行事を催し、記念館を建設している。

一茶の生涯

小林一茶の故郷、北信濃の柏原は長野市の中心から北へ約25km行った標高約700mの地にある。周囲に黒姫山飯縄山妙高山を臨み、近くに野尻湖もある。柏原は慶長16年(1611)に北国街道の宿場町として指定され、北陸方面と信濃・江戸と信濃を結ぶ要衝の地として発展し、物資の中継地として地域経済の中心となった。柏原には江戸文化も流入し、江戸時代に庶民文化として発展した俳諧も、18世紀半ばの宝暦年間には普及していたことが確認されている。諏訪神社では例年歌舞伎や相撲が興行されていた[7]

冬の柏原は大人が雪に埋まるほどの豪雪地帯で、一茶の句「これがまあつひの栖か雪五尺」は決して誇張ではない。また、火山に囲まれた柏原の土壌は火山灰質で土地は痩せ、標高が比較的高い高原地帯のため、江戸期は水田よりも畑が多かった。こうした厳しい風土が一茶の作品に大きな影響を与えている[8]。一方、夏の柏原は晴天になると高原地帯らしいさわやかな気候に恵まれる。

冬の厳しさばかりでなく夏のさわやかな気候も一茶の俳句世界を形成する要素となった[9]。「蟻の道雲の峰よりつづきけん」。アリが延々と行列を作っている情景を見て、それがあの雲の峰から伸びているのかと詠んだ句は、一茶が故郷の高原の澄んだ夏の大気を知らなければ生まれなかったであろう[10]

歴史的に北信濃は戦国時代後期、川中島の戦いに代表される武田信玄上杉謙信が激しい勢力争いを繰り広げるなど、戦乱が続いた影響で農地も荒廃した。北信濃の戦乱が終息すると農村の復興が始まり、江戸時代に入るや復興は本格化し新田開発も盛んになった。一茶の先祖たちはこんな北信濃の柏原に移住してきた農民であった[11]

一茶が生きた時代の柏原は戸数約150戸、人口約700名であった[† 2]。一茶が生まれ育った柏原の特徴のひとつとして、当時の住民のほとんどが浄土真宗の信者だったことがあげられる。一茶の一族もすべて信者である。父彌五兵衛は臨終の床にあって最期まで念仏を唱え続けた敬虔な信者で、一茶自身も熱心な信者だった。浄土真宗の教えもまた一茶の作品に大きな影響を与えている[12]

一茶が生まれ育ち、生涯を終えた柏原はまた北国街道の宿場町だった。宿場は人馬を常備し公の業務に備える義務を負っていた。佐渡金山で産出された金銀の輸送、朱印状などの公文書の輸送、そして加賀藩前田家に代表される北陸方面の大名の参勤交代時、円滑に北国街道を通行するよう人馬を手配する業務を担っていた。

これらの業務負担はかなり重く、見返りとして地子の免除という特典が与えられた。柏原宿ではこの地子免除の特典を受けられる北国街道沿いの約878mの地域を伝馬屋敷と呼んだ。伝馬屋敷の境界線には土手が設けられ、宿場の発展によって伝馬屋敷の外にも家々が立ち並ぶようになっても、地子免除の特典は土手の内側の伝馬屋敷住民にしか許されなかった。勤勉だった一茶の父彌五兵衛はこの屋敷内の家を購入していた[13]

宿場町の義務として課せられた負担は重かったが、一方で民間の物資輸送・通行者も北国街道を盛んに利用し、柏原宿は街道沿いに所狭しと家々が立ち並び活況を呈した。宿場沿いの家々の多くは馬を飼っており、一茶の父も農業の傍ら持ち馬を使用して北国街道を通る物資の輸送業に携わっていた[14]

江戸時代の柏原で一番の名家は、名主を世襲した中村嘉左衛門家と本陣を世襲した中村六左衛門家であった。両中村家は江戸時代初期の中村利茂(肝煎清蔵)を共通の先祖に持つ親戚同士であった。中村六左衛門家は慶安2年(1649)に仁之倉新田、寛文5年(1665)には熊倉新田、中村嘉左衛門家は明暦2年(1656)に大久保新田、寛文2年(1662)には赤渋新田の開墾を主導した。

新田開発の成功とともに柏原は発展してゆく[15]。本陣の中村六左衛門家は与右衛門家・徳左衛門家・兵左衛門家など柏原で有力な家柄となる分家を輩出した。中村徳左衛門家は一茶の最晩年において思いもよらない形で影響を与える[16]

幼少期

一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に現在の長野県信濃町柏原に生まれた。本名は彌太郎という。一茶が5月5日生まれであることが自著の寛政三年紀行に明記され定説となっているが、一茶が所有していた年代記の宝暦13年の部分に9月4日(1763年10月10日)に生まれたとの書き込みがある。この年代記には一茶以外の人物による書き込みもあり、問題の9月4日生まれとの記述が一茶本人のものか不明のため定説となっていない[17]。平成16年(2004)には一茶が生年月日を「宝暦13年5月5日」と自書した資料が発見され、一茶が宝暦13年5月5日に生まれたことはほぼ確実視されている[18]

一茶が生まれた時、父親の彌五兵衛は31歳、母のくには生年を示す資料がなく、一茶誕生時の年齢は不明である。一茶は両親の第一子で長男、家族としては他に父方の祖母かながいた[19]。誕生当時、一茶の家族の暮らしは柏原では中の上層だったと考えられる[20]

一茶の先祖については、柏原村の名主を務めた中村権左衛門家に伝えられた文禄元年(1592)に近隣の芋川(現・長野県飯綱町)から柏原に移住した系図と同じく柏原村の本陣だった中村六左衛門家に伝えられた元和2年(1616)に越後の長森村(現・新潟県南魚沼市)から移住した系図が伝承されている。いずれにせよ安土桃山時代か江戸時代初頭に柏原の地へ移住した農民と考えられている[21]

一茶の一族の小林家は戦国時代の混乱期が終わった直後に柏原へやってきた柏原でも有数の旧家で、名主を務めた中村権左衛門家・本陣だった中村六左衛門家に代表される中村一族に次ぐ家柄と目されていた。事実、一茶と同時代に小林家の本家筋の家長だった小林弥市は、中村一族が要職をほぼ独占する柏原の組頭を務めていた[22]。なお、一茶の一族は小林という姓を名乗っているが、近世多くの庶民は苗字を持っていたのが実態であり、小林姓を名乗っていたことと身分との関連性は特にない[23]

先祖についての記録は明和8年(1771)に一茶の大叔父にあたる彌五右衛門が建立した小林家一族の墓石に刻まれた延宝9年(1681)没の善右衛門(一茶の高祖父)まで遡れる[24]。一茶の曾祖父彌兵衛は分家だったと考えられ[25]、祖父の彌五兵衛も享保18年(1733)に兄小林一族の墓を建立した彌五右衛門から分家したと伝えられる[26]。当時、北信濃の山間部では兄弟で遺産を均分相続する習慣があり、一茶の祖父彌五兵衛は兄の彌五右衛門と耕地をほぼ均等に分割した[27]

祖父の彌五兵衛は分家して数年後に亡くなり、一茶の父彌五兵衛が幼くして家を継いだ。父彌五兵衛は当初本家にあたる叔父の彌五右衛門の後見を受けていたと考えられるが、母かなと努力を重ね、宝暦10年(1760)には伝馬屋敷内の一軒家を購入し、同じころ柏原の新田である仁之倉で村役人を務めた有力者の宮沢氏の娘くにと結婚する。

小林家が柏原で有力な家系であるとはいえ、一茶の父彌五兵衛は分家筋にすぎず、そこに有力者の娘が嫁いできたのは彌五兵衛の人物を見込んでのことと考えられる[28]。なお、一茶の曾祖父の彌兵衛はもともと分家だったと考えられるが、本家だった兄の家系が絶家となり、彌兵衛の長男・彌五右衛門の家系が本家となった。一茶の同時代、小林家の本家は彌市が家長で、彼は一茶と腹違いの弟との遺産相続問題の解決などに関与する[29]

一茶の母の出身地である仁之倉は柏原の新田だったが、新田の開墾を主導した中村六左衛門家が仁之倉の人々を家来のように扱ったこともあり、柏原との関係はぎくしゃくしていた。このことが一茶の後半生に少なからぬ影響を及ぼす[30]

母の死と継母との関係

明和2年8月17日(1765年10月1日)、彌太郎が3歳の時に母くにが亡くなった。母の死後、一茶の養育は健在だった祖母かなが主に担った。後年、母を亡くした彌太郎が孤独だった少年時代のことを追憶して作った句が「我と来て遊べや親のない雀」である[31]

くにの死後、父弥五兵衛はしばらくやもめ暮らしをするが、明和7年(1770)、彌太郎8歳の年に近隣の倉井村(長野県飯綱町)から後妻のはつが嫁いで きた。はつは婚姻した時は27歳で、勝ち気で働き者の女性であった。明和9年(1772)には彌太郎の腹違いの弟となる仙六が生まれた[† 3]。彌太郎は祖母にかわいがられたが、継母との関係は険悪だった。

一茶の回想によれば、継母のはつは性格がきつく事あるごとに彌太郎に厳しく当たった[† 4]。祖母のかなが健在なうちは間に立ってくれたものの、彌太郎14歳の安永5年8月14日(1776年9月26日)にかなが亡くなった。祖母の死後、彌太郎と継母との関係はますます悪化し、祖母の死に衝撃を受けた彌太郎は重病にかかり一時重体となった。彌太郎と継母との関係が極度の悪化したのを見て、父彌五兵衛は彌太郎を江戸奉公に出す[32]

江戸へ奉公に出る前、彌太郎が柏原でどれほどの教養を身に付けていたかは定かでない。本人の回想によれば、少年時代は農繁期の昼は終日農作業や馬の世話などに追われ、夜は藁打ちや草鞋作りをせねばならず、学ぶ余裕などなかったという。

柏原は雪深い北信濃にあり、雪に降り込められる冬季には各地で寺子屋が開設された。子どもたちは冬のあいだ、そこで読み書きを学んだ。彌太郎が少年だった18世紀後半、農村での生活にも読み書き能力の必要が高まっていた。実際、父彌五兵衛も異母弟の仙六も、きちんとした文章を書く能力を持っていた。彌太郎も江戸奉公に出される以前に基礎的な読み書き能力を身に付けていたと推察される[33]

俳諧との出会い

15歳で江戸奉公へ

柏原では、農家の子弟が江戸奉公に出ること自体は珍しくはなかった。ただその多くは経済的に貧しい家の子弟であり、彌太郎のような中上層の農家のしかも長男が江戸奉公に出るのは異例だった。もちろん、その原因は継母との不仲であり、一茶は継母をさらに憎むようになる。江戸奉公へ出ざるを得なくなった経緯は彌太郎の性格そして句作に少なからず影響をもたらした[34]

彌太郎は安永6年(1777)の春に江戸へ出た。彼を奉公に出すことを決めた父彌五兵衛には彌太郎と継母が距離を置けば関係が改善するだろうという淡い期待があった[35]。彌太郎は江戸へ向かう柏原の村人に連れられて江戸へ出発した。父彌五兵衛は一茶を隣の牟礼宿まで見送った。後に彌太郎は父から「毒なものは食うなよ、人に悪く思われるな、早く帰って元気な顔を見せておくれよ」と言われて別れたと追想している[36]。まだ15歳で長男を江戸奉公に出したことは、父にとって大きな負い目となった[37]

江戸奉公に出た彌太郎の消息は10年後の天明7年(1787)まで摑めない。奉公先についていくつか言い伝えはあるが、確証はない。晩年の回想によれば江戸奉公中は厳しい日々が続き、奉公先は一ヵ所ではなく転々として住まいも安定しなかった。当時、信濃から江戸へ多くの労働者が出ていたが、その多くはきつい肉体労働に従事し、ひとたび不況となれば職を失い、住居のない無宿人同様の境遇になる者も少なくなかった。彌太郎もまた江戸奉公時代、住居が安定しない無宿人に近い境遇になった可能性がある。江戸の住民たちは信濃からの労働者たちをムクドリと呼んで揶揄したという[38]

「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」。後年、彌太郎は信濃者が江戸でムクドリと呼ばれて馬鹿にされ寒さが身に沁みると、江戸の労働者生活の辛さを句にしている[39]

彌太郎の江戸奉公時代の確たる消息は皆無に近いが、文化3年(1806)には房総半島行脚の帰途、浦賀の専福寺に立ち寄り香誉夏月寿信女という女性の墓参りをしている。彌太郎は彼女が天明2年6月2日(1782年7月11日)に亡くなったと記している。天明2年は彌太郎20歳の時である。一茶との関係は不明だが、彌太郎の江戸奉公期にこの女性と何らかの関係があったことは確かであろう[40]

俳諧への道

江戸に出た彌太郎はやがて俳諧に出会い、芭蕉の友人だった山口素堂を始祖とする俳諧グループ葛飾派に所属した。葛飾派は芭蕉の句とは異なり通俗的な作句を特徴としたが、蕉風を引き継いでいると自任し、江戸の俳壇において名門意識を持っていた[41]

最も初期の彌太郎の句は天明7年(1787)春に編纂された信州佐久郡上海瀬(現・長野県南佐久郡佐久穂町)の新海米翁米寿記念賀集「真砂古」に渭浜庵(いひんあん)執筆一茶として入集している。「是からも未だ幾かへりまつの花」という松にことよせて翁の長寿を願った句だという説が有力である[† 5][42]

渭浜庵執筆一茶の渭浜庵は俳句の葛飾派宗匠だった溝口素丸(1713-1795)の庵号である。素丸の本職は書院番を務めた旗本で、その傍ら葛飾派の俳句を学び、やがて葛飾派の3代目宗匠となって自派を「葛飾蕉門」と称し、江戸俳壇でその勢力を伸ばした。

執筆(しゅひつ)とは俳諧や連句を行う際の書記で、俳諧のルールや運営方法に習熟した俳諧の実力者が務める役割だった。また、執筆は師匠の庵に同居して内弟子兼雑用を務めるのが通例だった。そのため俳諧師を目指す弟子のなかでその能力が認められた人物が選ばれ、一茶は25歳にして葛飾派の素丸から能力を認められ、遅くも天明7年の2-3年前には葛飾派に入門していたと推測される[43]

「真砂古」が刊行された天明7年(1787)春、葛飾派の重鎮、二六庵竹阿が約20年の大坂暮らしを終えて江戸へ戻ってきた。竹阿はしばしば西日本各地を巡るなかで関西との縁が深まり約20年大坂で暮らしていたが、竹阿と同じく関東の出身で親友だった石漱が関東に帰ることになり、竹阿を大坂に誘った門人が死去したこともあって江戸へ戻った。

竹阿は西日本に多くの門人がおり、後に一茶が俳諧修行のために西日本各地を行脚した際には竹阿の門人を訪ねて廻った。一茶は天明7年(1787)11月に二六庵で竹阿所蔵の「白砂人集」を書写している。

この時の名は小林圯橋(いばし)で一茶ではない。当時竹阿は78歳、一茶は素丸からの推薦もあって二六庵に住み込んで竹阿の内弟子となって、高齢の竹阿の世話をしたと考えられる。竹阿の教えは一茶に大きな影響を与え、寛政2年(1790)3月13日、81歳で亡くなった竹阿の最期を看取ったのは一茶だと見られる[44]

素丸・竹阿のほか駆け出し期の一茶は同じ葛飾派の重鎮森田元夢に師事していた。天明期から寛政初年にかけて一茶は菊明(きくめい)という俳号も名乗ったが、寛政元年(1789)に発行された「はいかい柳の友」に元夢の今日庵の執筆として今日庵菊明の句が載っている。

「はいかい柳の友」別版では今日庵菊明の句は削除され、今日庵執筆として他の4名の句が掲載されているので、何らかの問題が起きたと考えられる。一茶はその後も元夢に師事し続けるが、文化11年(1814)に柏原へ帰る一茶の江戸俳壇からの引退を記念して発行した「三韓人」において素丸・竹阿を師として厚遇しながら元夢の作品は載せていない[45]

三韓人」において一茶は葛飾派重鎮の素丸・竹阿・元夢以外に俳壇の重鎮だった白雄・蓼太に師事したことを示唆している。白雄・蓼太ともに一茶より年齢が相当上で高名な俳人だったが、ともに一茶と同じ信濃の出身で同郷の縁故のため俳諧の道を歩み始めた一茶と関係があったと推測されている[46]

俳諧で身を立てることを願った一茶は万葉集古今和歌集後撰和歌集などの古典和歌や歌論などを猛勉強した。なかでも本歌取の技法を熱心に学び、例えば、清原元輔の「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」を本歌として「ちぎりきな藪入り茶屋を知らせ文」と、古歌をパロディ化したような句をしばしば作っていた[47]

駆け出しの無名時代の句では、寛政2年(1790)一茶28歳の時の作「三文が霞見にけり遠眼鏡」がよく知られている。三文払って遠眼鏡を借りてみたが、霞しか見えなかったという句であり、一茶には後年まで金銭を句の中に読み込んだ作品が見られる。一茶の恵まれなかった境遇やすべてを金勘定する都市生活の中で生まれ、現実をしっかり見据えて句に生かす特徴が早くも現れている[48]

俳諧修行の旅

一茶という俳号について一茶自身は著作「寛政三年紀行」の冒頭に「立つ淡の消えやすき物から名を一茶坊といふ」としている。「三韓人」において一茶の親友ともいうべき夏目成美(1749-1817)は彼を「しなの(信濃)の国にひとりの隠士あり。はやくその心ざしありて森羅万象を一椀の茶に放下し自ら一茶と名乗り」と紹介している。これらの文章から一茶とは一椀の茶や泡沫のごとき人生を表す無常観による命名とされている[† 6][49]

東北地方への行脚

江戸時代の俳諧師は師匠の許しを得て修行の旅に出る習慣があった。師匠から地方の俳人への紹介状を渡されて行脚し、各地の俳人を訪ね廻る。ただし、師匠の紹介状があっても簡単に世話になることはできなかった。

紹介状とともに互いの句を披露し、さっそく付句の試験がある。そこで主人が納得するほどの腕前であれば客人として遇され、うまくいかなければこれこれの宿があるから明日おいでくださいと言われる。このような環境下で俳諧師は連日腕を磨いていった[50]

一茶27歳の寛政元年(1789)、東北地方へ長旅に出たことが明らかになっている。その訪門録が残っているのは象潟で、そこの肝煎*で俳人の金又左衛門の家に宿泊している。(こん)が自邸に宿泊する文人たちに依頼した揮毫を編纂した「旅客集」に一茶の文と俳句が入っている。*きもいり、村役人

象潟のほかに一茶が訪ねた場所ははっきりしないが、後年一茶は松島恐山外が浜の句を作っているので訪れた可能性が高い。なお、一茶は寛政元年(1789)の旅について「奥羽紀行」という紀行文を執筆したと伝えられるが、現存しない[51]

14年ぶりの帰郷

寛政2年(1791)の竹阿の没後、一茶は再び素丸の渭浜庵に執筆(しゅひつ)として住み込むようになった。寛政3年(1792)春、一茶は師匠の素丸に父の病気を理由に帰郷を申し出た。この帰郷については「寛政三年紀行」という紀行文が残されている。ただし、筆跡から見て寛政3年の帰郷時に書かれたものではなく、文化3年(1806)から5年(1808)ごろ改作されたものと考えられている。内容的には方丈記奥の細道野ざらし紀行など、古典や芭蕉の著作などの影響が見られる[52]

寛政3年の帰郷は一茶にとって15歳で故郷を離れてから14年ぶりだった。これは寛政3年紀行に描かれた浅間山の情景からも裏付けられる。安永6年(1777)に一茶が故郷を離れた後、天明3年(1783)に浅間山は大噴火を起こし、かつて見た浅間山周辺が荒涼たる光景に一変したことに驚いている。このことから一茶が安永6年以降、一度も帰郷しなかったと推定されている[53]

寛政3年3月26日(1791年4月28日)、一茶は14年ぶりの帰郷のため江戸を出発した。北信濃の実家に直接向かわず、まず下総方面を目指した。下総で一茶は同門の葛飾派の知己を巡り、餞別を集めて旅費を工面した[54]。下総の旅で一茶は、現在の茨城県北相馬郡利根町の布川において葛飾派の俳人・馬泉と考えられる仁左衛門の新居を祝った「新家記」という次の内容の文章を書いて一句詠んだ。

これほど山水に恵まれ風情のある場所はめったにない、風情を知るものがこのようなところに住めばどんなにか心豊かに過ごせるであろうか、翻って私に目はあっても犬同然、耳はあっても馬同然なので、せっかくの美しい風景・風情も一向に心に響かない、まさに「景色の罪人」である。「蓮の花虱(しらみ)を捨るばかり也」

「新家記」の文章構成は芭蕉の俳文を参考にし句は美しい蓮の花を前にして虱を捨てるばかりと自分の姿を詠んでいる。当時29歳の一茶は早くも彼の俳句の特徴ともいうべき風雅な蓮の花よりも虱つまり生活に結びついた情感を題材にし、伝統的な花鳥風月を愛でる感覚に反発する一面を見せていた[† 7][55]

4月8日(1791年5月10日)には江戸に戻り、2日後故郷へ向けて改めて江戸を出立した。一茶は中山道を進んで碓氷峠を越え、軽井沢周辺では天明の大噴火後の荒涼とした光景を描写している。追分宿から中山道を離れて北国街道に入り、善光寺を参詣して4月18日(1791年5月20日)に柏原の実家に14年ぶりの帰郷を果たした。

寛政三年紀行では「父母の健やかなる顔を見ることのうれしくめでたくありがたく」と記し、実父ばかりでなく関係が悪化し江戸奉公に出なければならなかった継母との14年ぶりの再会を喜んでいるようにみえる。その後、継母・弟との深刻な確執が続き、継母と会う喜びを述べることは二度となかった[56]

寛政3年(1791)の帰郷時、一茶は父に西日本各地を巡る計画を打ち明けた。もちろん俳諧修行が第一目的の旅だが、この計画を聞いた父から京都の西本願寺の代参を頼まれた。父を始め一茶の一族は浄土真宗の信者であり、父も一茶も熱心な信者であった[57]

西国俳諧行脚

寛政4年3月25日(1792年5月15日)、30歳になった一茶は西国へ俳諧修行の旅に出た。この旅の出発に当たり彼は頭を丸め僧形にした。西国に旅立った寛政4年(1792)の秋から一茶は、2年前に没した俳諧の師の一人竹阿の二六庵を継いで二六庵一茶と名乗っている。葛飾派で刊行した書籍で一茶が二六庵の庵号を名乗っているのは寛政12年(1800)が初出である。このことから、葛飾派として正式に一茶が二六庵を継承したのは前年の寛政11年(1799)と考えられている。

この西国俳諧修行のとき、一茶が二六庵を名乗ったことが葛飾派公認のものか一茶が勝手に名乗ったものかは定かでない。公認であれば一茶が竹阿の後継者として認められ、俳諧師として一本立ちしたことになる。ただ、たとい一人前の俳諧師として西国へ旅立ったとしても、当時の一茶はまだ無名のため旅は苦難の連続となった[58]

竹阿は大坂暮らしが長く、西国に知己が多い上に四国や九州はかつて竹阿の地盤でもあった。かねてから一茶は竹阿の所蔵していた文章類を書写していた。師の遺した文献「其日ぐさ」には地方行脚中に入手した情報がまとめられ、西国行脚のガイドブックの役割を果たした。一茶は西国行きの行程で多くの竹阿の知人、門人を訪ね歩く[59]。一茶は江戸ばかりでなく全国各地の俳人約250名の住所を記した住所録「知友録」を作成し西国行きに備えた[60]

寛政4年3月に江戸を出発したが、一茶はまっすぐに関西方面へ向かっていない。前年の帰省時と同じくまずは下総方面の知人を巡り、6月になって浦賀伊東遠江の知己を訪ねた後、京都へ向かった。京都では前年に父に依頼された西本願寺の代参を果たしたと考えられている[61]

京都を発った後、大坂・河内淡路島を巡って四国に渡った。四国では讃岐観音寺の専念寺に師竹阿の弟子だった梅五を訪ねた。西国俳諧修行の旅で一茶は専念寺を拠点として四国・九州を巡った。その後、伊予の入野(四国中央市)に山中時風を訪ねたことが明らかになっている。寛政4年の一茶の四国における足取りは専念寺と山中時風を訪ねたことしか明らかでないが、四国の後に九州に渡り、年末には肥後の八代(八代市)にある正教寺に向かい、そこで年を越した[62]

寛政5年(1793)は肥後・肥前など九州各地を回ったと考えられている。この年の暮れに長崎へ向かい、そこで年を越した。翌寛政6年(1794)の夏季に再び肥後へ足を延ばし、山口を経て年末には再び観音寺の専念寺に向かった。専念寺で年を越した後、寛政7年(1795)に入ると一茶は伊予へ向かい、1月13日(1795年3月3日)に上難波(松山市)の最明寺へ向かった。最明寺の住職は一茶の師竹阿の弟子だったから一夜の宿を願ったが、住職はすでに亡くなり、別人が住職となっていた。頼りにしていた最明寺での宿泊を断られた一茶は困り果てるが、幸いこのときは近隣に住む俳句愛好家の庄屋が快く泊めてくれた。このように俳諧修行の旅は苦労の絶えないものであった[63]

1月15日(1795年3月5日)には松山の栗田樗堂を訪ねた。樗堂は酒造業を本業として営む松山有数の富豪であり、当時全国的に名が知られた俳人でもあった。片や松山有数の豪商、片や北信濃生まれの無一文に近い俳人だが、樗堂は一茶と親友となり、長く親しい交際を続けることになる。専念寺の梅五、馬橋の大川立砂や後に最も親しく交際する夏目成美など、一茶は先輩の有力俳人たちに可愛がられた。如才なさや世渡り上手の一面もあったろうが、一茶には確かな実力に加え誠実さがあったと考えられる[64]

伊予の各地を回った一茶は2月末に観音寺の専念寺に戻り、その後大坂に向かった。丸亀から船に乗って下津井(倉敷市)で下船し、徒歩で大坂を目指した。途中、夜間大坂への道を急ぐ中で眠気に耐えられず、民家の軒先を借りて野宿する一幕もあった[65]。大坂に到着した一茶はその後、大坂を始め京都や大津・摂津河内大和播磨など近畿地方各地を回って広く俳人との交流を深めた。交流した俳人は一茶が所属していた葛飾派の俳人のほか他派の人たちも多かった。一茶の西国行脚中の寛政5年(1793)は芭蕉百回忌に当たり、俳句界全体で芭蕉への回帰運動が起こっていたことが幸いした。それが流派間の垣根を下げ、比較的自由な気風があった関西の俳壇に身を置く形となった一茶は、流派を超えて広く俳人たちと交流できる境遇に恵まれた[66]

寛政7年、一茶は寛政4年からの西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ(旅拾遺)」にまとめ、出版する。当時、句集を出版する場合、句の作者は一句ごとにお金を支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。「たびしうゐ」で紹介された句の作者は応分の出句料を支払ったものと考えられるが、一茶自身も相当額の自己資金を拠出したと考えられている。西国俳諧修行中、一茶は各地の俳人を巡る中でいわば俳諧の先生として受け入れられ、報酬を得ながら旅を続けてきた。一茶は多くの俳人からその実力を認められ、相当額の報酬を得て「たびしうゐ」出版に漕ぎつけたと考えられる[67]

この頃の一茶の作品は、天明期の俳諧の影響を受けて与謝蕪村(1716-1783)らの影響が見られるが、「秋の夜や旅の男の針仕事」のように、花鳥風月を詠まず、孤独な一人旅の中にある己の境遇を直視した一茶らしい句も見られるようになる[68]

一茶は長い西国への旅にあっても、江戸を始め各地の俳人との連絡を欠かさなかった。後に最も親しく交際する夏目成美とは西国旅行の期間に文通が始まっている。当時文音所と呼ばれた一種の私書箱などを活用し、さまざまな情報を集めながら旅を続けた。また、旅中にあっても諸学を学ぶことを怠らなかった。万葉集・古今和歌集などの古典ばかりではなく、易経などの中国古典、芭蕉・宝井其角など先覚の作品を学んだ[69]。一茶が生涯書き続けた「方言雑集」というメモ集がある。一茶が訪れた各地の方言や風土をメモしたもので、その始まりは西国俳諧修行の旅だったと考えられている。また、一茶の日記にも各地で体験した出来事のメモ書きが多く残されている。一茶の俳句には俗語や方言を大胆に取り入れた作品があり、西国俳諧修行を通じて日々貪欲にさまざまな事物を吸収し、己の句作に生かしていった[70]

寛政8年(1796)、一茶が松山の栗田樗堂宅を拠点として伊予の各地を訪れた記録が残っている。寛政9年(1797)の正月を樗堂宅で迎えた一茶は春に備後福山、その後讃岐の高松小豆島近江の大津・大坂を回り、大和の長谷寺で年を越した。一茶は寛政9年中に江戸へ戻る予定だったが、寛政10年(1798)前半は近畿各地を回ることになった。そして寛政10年には西国俳諧修行の旅の総決算ともいうべき2冊目の著作「さらば笠」を出版する。同年6月末にようやく江戸への帰途につき、いったん信濃の故郷に戻った後、8月下旬、6年あまりぶりに江戸へ戻った[71]

江戸に戻る■

足かけ7年に及ぶ西国俳諧修行の旅によって一茶に実力がついたのは確かだった。寛政12年(1800)頃に大坂・京都の俳人が世話人となって出版された全国俳人番付で一茶は葛飾派の中で唯一、番付に名が載せられた。番付内の位置はまだ下位だったが、関西の発行元であったこともあり、この番付自体に江戸の俳人は17名しか掲載されておらず、一茶を江戸在住の俳人の有力者・葛飾派の代表者として見る向きもあったことがわかる。一茶は寛政11年(1799)には正式に二六庵を継いだと考えられている。しかし、まだ30代の一茶が急速に葛飾派内で頭角を現してきたことで派内に妬みや不満・反発を買うことになった。実際、二六庵の名乗りはわずか2年余り、享和元年(1801)を最後に消えてしまい、わずか2年あまりで二六庵を名乗ることが許されなくなった。これについて、享和2年(1802)に葛飾派の宗匠となった白芹が一茶を敬遠し、二六庵の称号を名乗ることを禁じたのではないかという説がある[72]

6年余りの西国俳諧修行の旅を終え、大坂を中心とした関西の比較的自由な俳壇を体験した一茶も閉鎖的な葛飾派のあり方に飽き足らなくなっていった。ほどなく一茶は葛飾派の枠をはみ出して夏目成美らとの親交を深め、独自の俳句世界を作り上げていく[73]

寛政11年(1799)11月、長年一茶の親友で下総方面に行く際に最も多く立ち寄り、俳句で身を立てようと志した一茶を当初から庇護してくれた馬橋の大川立砂が急死する。一茶は立砂を看取り、「炉のはたやよべの笑ひが暇ごひ」と詠んだ。長年一茶に目をかけてくれた立砂への深い敬慕の思いを表現したこの句は、一茶の特徴のひとつでもある素朴かつ素直な感情を率直に表現したものと評価されている[74]

父の死と継母・弟との確執

安永6年(1777)の春に一茶が故郷・柏原から江戸に奉公に出た後、一茶の父弥五兵衛ばかりではなく継母のはつと腹違いの弟の仙六は懸命に働き一家を盛り立てていた。実際、一茶が故郷を出た時分に3.71石だった持高が約9-10石に増加し、柏原でも有力な農民となった。これは働き者だった継母のはつと仙六の貢献が大きかったと見られる[75]。寛政末期から享和にかけて持高はやや減少し、享和元年(1801)には7.09石となっているが、これは父弥五兵衛の病気により近隣でも名医を呼ぶなどしたためと考えられる。それでも一茶が故郷を離れた時よりも大幅に財産を増やしていた。このような経過から、継母のはつと腹違いの弟仙六は小林家の財産は自らが増やしたという自負を持っていた[76]

一茶は安永6年(1777)に江戸奉公に出た後も柏原の宗門改め時に作成される宗門帳にその名を残していた。これは一茶が江戸奉公や俳諧修行の旅に出るなどして、故郷柏原に居住実態がないにもかかわらず住民としての地位を維持したことを意味する[77]。「・」

享和元年(1801)3月頃、一茶は故郷柏原に帰省した。その経緯は定かでないが、父弥五兵衛の病気の知らせを受けてのこととの説がある。他方、一茶が父の死去の経緯について書いた「父の終焉日記」では一茶が帰省中の4月23日(1801年6月4日)、父が農作業中に突然倒れたとしている[78]。このため、享和元年の帰郷は父の病気とは関係なく、帰郷後の生活維持のために一茶を師匠とした俳諧結社、いわゆる一茶社中の結成を開始するためだったとする説もある[79]

父弥五兵衛は高熱を発し、食欲もなかった。倒れた翌日もしきりと体のだるさを訴え、体調が回復する様子もない。近医に診てもらったところ病名は陰性の傷寒で、回復の見込みは極めて少ないとの診断だった。4月29日(1801年6月10日)、死期を悟った弥五兵衛は一茶と仙六を枕元に呼び、財産を一茶と仙六で二分するよう言い渡した。すると仙六は病床の父と言い争いになってしまった。仙六には一茶不在の間に母はつと共に努力して一家の財産を増やしてきたという自負があり、父からその家産を二分せよと言われ簡単に納得できるものではなかった。これが文化11年(1814)まで約13年続く継母と弟との遺産相続争いの発端であった[80]

一茶は父の死去とそれに伴う遺産を巡る継母・弟との骨肉の争いを「父の終焉日記」にまとめている[† 8]。親族間の遺産相続における争いごとは比較的ありふれた出来事だが、江戸期以前の日本では文学の題材として取り上げられることはなかった題材である。赤裸々に描かれた遺産を巡る親族間の争いは読者にやるせない思いを抱かせる一面、極めて人間的なテーマを私小説風にまとめ上げており、「父の終焉日記」が日本の自然主義文学の草分けであるとの評価がなされている[81],[82]。もちろん「父の終焉日記」は一茶の視点によって書かれており、内容的にも創作が見られ、遺産相続問題において一茶が善人で継母と弟が強欲な悪人であるように描かれた記述は慎重に読まなければならない[83]

現実問題として父が倒れた時期は農繁期に当たり、継母と弟は日々の農作業に追われ、勢い父の看病は一茶に任される形となった。これは継母と弟にとって終始父の看病に当たる一茶が重態の父を籠絡するのではないかとの疑心暗鬼を深めることにもなった。一方、遺産を兄弟で二分せよという意思を示した父弥五兵衛にはしっかりした考えがあった。わずか15歳で一茶を江戸奉公に出し、これまで苦労させてしまったとの負い目が父にはあった。また、北信濃の遺産分割習慣は基本的に均分相続であり、事実、一茶の一族、小林家は祖父の代も財産を均分に分割して相続している。父の遺産相続における判断は北信濃で一般的な遺産相続方法であり、小林家で行われてきた相続方法から見ても妥当なものといえた[84]

父弥五兵衛は一茶に対してかねがね妻を娶って柏原に落ち着くように勧めていた。一茶自身も父に対して「病気が治ったら元の弥太郎に戻って農業に精を出し、父上を安心させたい」と語り、帰郷の意思があることを表明していた。家を離れ俳諧師として浮草のような生活を続けていることについて反省すら述べている。農民の子として生まれながら、汗して田畑を耕すことなく生きていくことに対する罪悪感は一茶の脳裏を一生離れることがなかった[85]。このような姿を見た父は一茶と弟仙六で財産を均分するよう指示した遺言状をしたため、一茶に手渡したと考えられている[† 9][86]

父の病状は次第に重くなり、5月20日(1801年6月30日)には危篤状態となった。危篤状態の父の姿を一茶は「寝すがたの蠅追ふもけふが限りかな」と、父の寝ている姿を前で蠅を追うのも今日限りだろうと詠んだ[87]。・「」

父は5月21日(1801年7月1日)明け方に亡くなった。父の葬儀を終え、初七日に一茶は継母と弟に対して遺産問題について談判した。一茶の手には父直筆の遺言状があった。小林家の本家である弥市の仲介もあって、口約束ではあったが遺産を均分して相続することについて継母と弟に承諾させることに成功した[88]。ただし、この時一茶は具体的な遺産分割についてまでは踏み込まなかった。俳諧師として江戸で成功したいという野心にあふれていた一茶は、遺産の分割を行って土地持ちとなり、故郷柏原に落ち着く気持ちにはまだなれなかったのである[89]。「父ありてあけぼの見たし青田原」と、父の終焉日記を締めくくった一茶は江戸へと戻っていった[90]

享和元年の父の死によって一茶は最も信頼できる身内を失った。父の死後、継母・弟仙六との足かけ13年にも及ぶ骨肉の遺産争いを続けることになる。父の死という精神面・生活面での大きな変化が一種の引き金となって一茶は享和年間以降自らの個性を伸ばし、後に「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を歩みだしたのである[91]

江戸での日々

下町での生活

安永6年(1777年)春、15歳で江戸奉公に出て以降、俳諧修行の旅のほか、一茶は江戸住まいを続けていた。享和3年(1803)以降、一茶が江戸のどこに住んでいたか、ある程度判明している。享和3年、一茶は本所五ッ目大島愛宕山(江東区大島5丁目)に住んでいた。愛宕山は真言宗の愛宕山勝智院のことで、住職が葛飾派の俳人であった関係で、一茶は勝智院に間借りしていたと考えられる。その後、勝智院は千葉県佐倉市に移り、勝智院のあった場所は大島稲荷神社となっている[92]

愛宕山での生活は長くは続かなかった。文化元年(1804)4月、葛飾派の俳人だった住職が亡くなり、後任の住職の下で一茶は間借りを続けられなくなり、両国の近くの本所相生町5丁目(墨田区緑町1丁目)に引っ越した。この家は間借りではなく、小さいながらも一軒家で庭には梅や竹が植えられ、垣根には季節になると朝顔が育った。家財道具一式を親交深い流山の秋元双樹が譲渡してくれたもので、これまでより暮しに落ち着きができた一茶のもとには俳人の来訪者が増えた。この家は、一茶が遺産相続問題に本腰になって取り組んだ文化5年(1808)に200日以上の長期間留守にしたため他人に貸し出されてしまうまで約4年間生活し活動拠点となっていた[93]

この頃、一茶が詠んだ俳句の中には江戸の下町暮らしを髣髴とさせるものがある。文化元年(1804)の作で、梅の季節に誰が訪ねて来ても欠茶碗でもてなすしかないと、貧乏で孤独なわび住まいを詠んだ句「梅が香やどなたが来ても欠茶碗」や[94]文化3年(1807)の作で、今年もまた役立たずの邪魔者(娑婆塞)と、己と草ぼうぼうの家を自嘲した「又ことし娑婆塞(しゃばふさぎ)ぞよ草の家」などが挙げられる[95]

文化時代前半、父の死による精神面・生活面での変化に加え、江戸下町での暮らし、そして一茶が所属していた葛飾派の枠を超えた有能な俳人たちとの交流などによって、一茶の俳句は磨かれていった。この時期は一茶独自の俳風「一茶調」の輪郭が顕れ始めた時期と評価される[96]

旺盛な学習意欲

一茶の俳諧に向かう姿勢のひとつとして猛勉強が挙げられる。一茶は駆け出しの頃から万葉集・古今和歌集など日本の古典和歌の研鑽に努めていた。その他に源氏物語土佐日記梁塵秘抄などの古典文学とその注釈本、古事記続日本紀日本三代実録などの六国史吾妻鑑などの歴史書を学んだ。文化4年(1804)、当時親交を深めつつあった夏目成美は歴史書から学んだ知識を句にする一茶のことを「日本記(紀)をひねくり廻す癖ありて」と、皮肉るほどであった[97]

一茶は中国古典も学び、特に詩経易経に関心を持った。享和3年(1803)、詩経の講義を聴いた一茶は詩経を独自に翻案した句作に没頭する[98]。一茶は詩経305編中123編を題材として句作を行ったとされている[99]。詩経は中国最古の詩歌集でその内容は素朴なものが多い。中国最古の素朴な詩歌集を学ぶ姿勢は人々の生活から生み出される素朴な声に耳を傾けていくことにつながっていく[100]。この時期に作った句に詩経の世界に孤独な己の境遇を投影した「梅さけど鶯なけどひとりかな」などがある[101]

西国俳諧修行の旅の最中の寛政7年(1795)にすでに易経について学び始めていたことが明らかだが、本格的に学んだのは享和年間のことであった。実際、一茶が故郷柏原出身の唯一の門人とされる二竹の縁談話について、卜占を行った記録が残っている。一茶の卜占は当時市販されていた易の解説本に頼ることなく、易経の原典そのものから学んだ知識に基づいて行ったものと考えられている[102]。一茶は易経についてもを翻案した句を作っていた[103]

俳句そのものについても芭蕉(1644-1694)や蕪村(1716-1784)の先人以外に、同時代の俳諧師についても全国から夏目成美のところへと寄せられる句をまとめた記録簿を成美から借り受け、一茶の目で優れた句を集めた「随斎筆紀抜書」を作成する[† 10]。一茶はその後、自らのもとに寄せられた全国からの秀句を追記し、最終的に1150名の俳諧師の4672句を収録した[104]。俳諧以外にも井原西鶴日本永代蔵などを読んでいた[105]

和歌や俳句・中国の古典・井原西鶴の浮世草子以外にも、一茶は世間で話題になった出来事について実にこまめに日記に残していた。また、芝居好きの一茶は、しばしば市村座中村座などの芝居小屋で歌舞伎を楽しんでいた[106]。一茶が旅をした日本各地の方言を蒐集した「方言雑集」は継続的に書き加えられ、各地の名所・旧跡の訪問記録のメモ書きも丹念に残し続けた。還暦を迎えた文政5年(1822)に、一茶は自らの作風について「(えびす)ぶりの俳諧」、つまり田舎者(外国人)風の俳諧と宣言している。こうして一茶は文芸作品に限定することなく、当時の風俗や地方の風俗文化に至る多岐の分野にわたって貪欲に吸収し、句作に生かしていったのである[107]

一茶の旺盛な学習意欲は最晩年に至るまで衰えなかった。61歳の文政6年(1823)から死の直前まで一茶は「俳諧寺抄録」と名付けた「万葉集」「古事記」などの古典や漢籍・国学書などの抜き書きを作成している。晩年の一茶は体調が比較的良いとき、こつこつと抜き書き作業を行っていたと考えられている[108]

国際情勢と国学への傾倒

一茶が生きた18世紀から19世紀にかけての日本は、ロシアのアダム・ラクスマンニコライ・レザノフが修交を求めて来日するなど、あまり意識されてこなかった対外関係が注目されるようになった。時事問題にめざとい一茶は、ラクスマンやレザノフの来日を題材に俳句を詠んでいる。また、豊富な勉学の中で本居宣長玉勝間古事記伝などを読み、当時広まってきた国学思想に傾倒していく。折からの対外的な緊張の高まりは一茶に日本びいきの思いを高め、文化4年(1807)には「花おのおの日本魂いさましや」という日本賛美の句を作っている[109]

このような句は一茶の晩年までしばしばみられ、文政7年(1824)には仏教や儒教が堕落するなか神道だけが澄んでいると神道を称える文を書き、国学への傾倒と日本びいきは生涯変わることがなかった[110]。ただし、一茶は単に盲目的な愛国者ではない。当時の日本は百姓一揆打ちこわしが多発する社会的不安に満ちた時代で客観的に見て手放しで賛美できるような状況になかった。一茶はこのような社会情勢と日々の生活に追われ苦しむ人々の姿をも直視する[111]

「木枯らしや地びたに暮るる辻諷(つじうた)ひ」。文化元年(1804)に詠まれたこの句には「世路山川ヨリ嶮シ」(世間で生きていく道は山川より険しい)と前書きがついている。夕暮れ、木枯らしが吹きすさぶ中、路地で謡いながら日銭を稼ぐ辻諷いの姿を、一茶は低い目線で描いている[112]

文化2年(1805)、一茶は「霞む日や夕山かげの飴の笛」と詠んだ。恵まれない己の境遇や日々の生活に苦しむ人々の姿ばかりでなく、春霞の夕暮れ山影から飴売りの笛の音が聞こえる情景である。童謡を表すような句もまた一茶が描いた世界の一つである[113]

俳諧行脚生活

房総への俳諧行脚

江戸住まいの一茶は、俳諧師として行脚することで生計を立てていた。一茶の巡回俳諧師としての地盤は主として上総・下総・安房など房総半島方面だった。現存資料から見ると、一茶の房総行脚は享和3年(1803)ごろから本格化している。

房総半島の行脚ルートは水戸街道利根川周辺の馬橋小金流山守谷布川佐原銚子方面までのコースと、木更津を拠点として富津金谷保田勝山千倉付近まで行く二つのコースがあった。江戸後期の房総半島は大消費地である江戸に近い地の利を生かし、商品経済が浸透して地場産業が発展し、富農・豪商たちが力を付けていた。

なかでも木更津や佐原など地域の中核地は賑わいを見せ、文化に関心を持つ富農・豪商らの手によって文化も発達し、江戸近郊の房総には文人墨客が集まるようになった。一茶も俳諧を嗜む房総方面の富裕層を対象に定期的に房総方面を巡回するようになった[114]

一茶と房総方面の俳人との交流は彼が俳諧の道に進み始めた20代に遡る。一茶が属した葛飾派の地盤が隅田川東岸の葛飾・房総方面にあったことから長い付き合いの俳人たちが多かった。産業が発展し富裕層を中心に俳諧ほかの文化が発達した房総では各地に連・連中・社中など俳諧サークルが形成され、その多くは葛飾派や同派に近い系列に属したが、他派サークルもあった。一茶はこれらの俳諧愛好者を派を超えて巡回したのである[115]

本所や両国近く江戸の下町に住んでいた一茶にとって、房総は比較的近い場所だった。短い場合は日帰り、長くて2ヵ月程度のあいだ房総方面を巡回した。当時、俳諧師の地方行脚よく行われていた。俳諧師として地方行脚を続けるながら、一茶はかつて東北や西国の旅に出たように俳諧の腕を磨き、多くの俳人たちにその実力を認めてもらった。

定期的な房総方面への俳諧行脚にはもう一つの大きな目的があった。生活のためだった。プロの俳諧師として房総各地で俳諧指導、俳諧に関する知識・情報を伝授して受け取る謝礼が一茶の生活の糧となっていた。地方行脚の俳諧師にとって事情は同じで、生活のための行脚の旅中にどことも知れず亡くなる俳諧師も少なくなかった。当時独身だった一茶は生来の旅好きであり、歓迎してくれる知己が多い房総は第二の故郷のような場所だった。しかし、根無し草のような俳諧行脚生活を続けることは本意ではなかった[116]

「夕燕我には翌(あす)のあてはなき」春の夕暮れ、巣へ急ぐ燕たちを見ながら明日どうなるか当てのないわが身を振り返るこの句は、一茶が房総方面への俳諧行脚にいそしんでいたころ文化4年(1807)の作である[117]

一茶園月並の挫折

当時、プロ俳諧師が収入を得るには地方行脚で稼ぐ方法と月並句会を行う方法があった。月並句会は一種の通信教育で、毎月お題を決めて一般から投句を募り、優秀者に景品を授与し、投句者に入選作を印刷して配布し投句を添削して返却する方式だった。月並句会の運営は投句する際に拠出する「入花料」という通信教育料によって賄われる。文化元年(1804)4月から2年(1805)6月までの1年あまり一茶が一茶園月並という月並句会を行ったことが確認されている[† 11][118]

一茶園月並の参加者の多くは一茶が房総方面で巡回していた俳人たちであった。月並句会の実施には各種の事務作業が伴う。友人の祇兵という俳人が手伝っていたものの、一茶自身の事務量も多かったと思われる。一茶にとって一茶園月並の事務は負担であったと思われ、また思うように投稿者が集まらなかったともみられており、結局、運営は上手くいかなかったと考えられている。月並句会の挫折は一茶の生活を経済的に厳しい状況に置き続け、更に房総方面への俳諧行脚に依存することになった[119]

房総の俳人たち

房総方面で一茶がしばしば訪れた俳人として、水戸街道利根川周辺コースでは馬橋の大川斗囿(おおかわとゆう)、流山の秋元双樹、布川の古田月船、守谷の鶴老などがいた。なお馬橋の大川斗囿は一茶が俳諧の道を志した頃から援助を惜しまなかった大川立砂の子であり、親子二代にわたって一茶と親交を深めていた。斗囿は一茶が江戸を離れ、故郷柏原で生活するようになった後も句の添削指導を仰いでおり、一茶に師事し続けた。流山の秋元双樹は、一茶が下総方面へ俳諧行脚に出るたびに双樹宅に立ち寄るばかりではなく、双樹もまた江戸へ出るときには一茶を訪ねるのが常であった[120]

水戸街道利根川周辺での俳諧行脚時の代表作として、文化元年(1804)作の「夕月や流れ残りのきりぎりす」がある。洪水後の利根川、夕暮れになって洪水をしぶとく生き延びたコオロギが[† 12]、夕暮れの月のもと鳴き始めているという、弱小な生き物でありながらたくましく生き抜く姿を描いている。これは後年に至るまで一茶の主要テーマの一つとなる題材であり、洪水をしぶとく生き残るコオロギに自らを重ね合わせた句でもある[121]

木更津を拠点とした上総・安房方面では木更津の石川雨十・富津の徳阿・織本花嬌・子盛・金谷の砂明・勝山の醍醐宜明らがいた[122]。中でも注目されるのが女流俳人の織本花嬌である。花嬌は酒造業と金融業を営む豪商、織本嘉右衛門永祥の妻であり、夫婦そろって俳諧を趣味としていた。織本夫婦と一茶との付き合いは寛政年間からあったが、寛政6年(1794)に夫を亡くした後も一茶との関係は続き、木更津方面へ一茶が俳諧行脚する際にはしばしば花嬌宅に立ち寄り、花嬌は一茶園月並の投稿常連者でもあった[123]

花嬌は一茶の俳諧師としての才能を評価して師事していたと考えられる。花嬌本人も俳句の才能があり、一茶園月並でも高い評価も確認されていて、一茶らと詠んだ連句からも才能の高さが感じられる。一茶と花嬌との間の恋愛関係説もあるが、花嬌は一茶よりかなり年長だったと推定され[† 13]、夫を亡くした後の花嬌は出家したことが確認されて恋愛関係は成立しがたいとの説が有力である[124]

文化7年(1810)4月、花嬌は亡くなった。一茶は花嬌没後の百ヵ日法要に駆け付け、文化9年(1812)4月の花嬌の三回忌にも遺族の要請もあって出席している。三回忌出席のために富津へ向かう途上、一茶は「亡き母や海見る度に見る度に」という句を詠んだ。このことから一茶が花嬌に対して抱いたのは、幼い日に亡くした母の面影であったとの説もある[125]

夏目成美・鈴木道彦との交流

享和年間から文化年間にかけて一茶はこれまで所属してきた葛飾派よりも、当時著名な俳人であった夏目成美・鈴木道彦・建部巣兆・閑斎らとの交流が深まっていった。中でも夏目成美との関係は深く、事実上成美グループに所属するようになった。夏目成美は蔵前札差を営む井筒屋の主人であったが、寛政12年(1800)に家業を息子に譲って隠居した後、趣味の俳諧に没頭していた。

もともと札差の主人だった成美は裕福で、俳句の作風も清新かつ都会的であった。貧しい生活で句風も田舎風であった一茶とは対照的だったが、成美は境遇も俳句の作風も全く異なる一茶に目をかけるようになり、享和年間末期から親交が深まり、経済的にも俳壇においても一茶を支援していった[126]

一茶は成美宅にしばしば長逗留し、家事の手伝いなどをした。一茶は毎月七のつく日(7日、17日、27日)に開催していた成美主催の句会の常連出席者であった。一茶は成美グループの中で単に句会に出席するばかりではなく、様々な情報交換、成美が主宰する狂言などの芸能鑑賞や花見に参加した[127]

また、成美グループの一瓢らとも一茶は交流を深めていった。一瓢日蓮宗の僧侶で日暮里の本行寺の住職を務め、作風が似ていたこともあって一茶と大いに気が合い、長く交際を続けた。一瓢は一茶の死後に故人を偲び、自ら木像を刻み供養したほどであった[128]

この頃の一茶と親密で、一茶を庇護した俳人に其翠楼松井がいた。松井は葛飾派の俳人で一茶の兄弟子格だった。本職は商人で一茶とは文化年間から急速に親密になった。一茶は松井の家に半ば入りびたり、最も多い文化8年(1811)には年間127日、約3分の1を松井宅に滞在している。一茶は夏目成美ら他の俳人以上に松井と親密だったと考えられるが、文化10年(1813)5月、松井が没する。その後も一茶と松井の遺族との交流は続いた[129]

成美グループに深入りし、鈴木道彦・閑斎ら当時の有力俳人との交流の中でめきめきと実力をつけた一茶は、ますます葛飾派と疎遠になる。葛飾派の書「葛飾蕉門分脈系図」には「文化年中一派の規矩を過つによって白芹翁永く風交を絶す」とある。一茶は文化年間に葛飾派総帥の白芹から同派を破門されたとされ、現存資料においても文化2年(1805)を最後に一茶は葛飾派の句会に出席していない。

他方、一茶と葛飾派の関係は続いており、問題の白芹とも互いが編集した句集に句を採用しているから、葛飾派から破門という事態は想像しがたい。一茶と葛飾派との関係は徐々に疎遠になったことが認められ、一茶にとって葛飾派の作風が物足りなくなり、閉鎖的な葛飾派の体制に飽き足らなくなったためと考えられている。こうして一茶は葛飾派から離れ、やがて自らの俳風を確立していく[130]

一茶には俳人以外の友人もいた。特に親しかったのは柳沢耕舜だった。耕舜はもと武士で故あって浪人となり、一茶の近所の江戸の下町に住み、寺子屋を開いて生活していた。一茶との付き合いは10年以上に及び、互いの家を行き来していた。耕舜は文化4年(1807)4月に亡くなり、親友の死に大層落胆した一茶は耕舜先生挽歌を作り親友を弔った[131]

故郷への思い

享和元年(1801)、一茶の父弥五兵衛は死を前に遺産を一茶と弟で均分相続するよう遺言した。父の死後、一茶は継母と弟に口約束ながら遺産の均分相続を認めさせて江戸へ戻った。そして、柏原宿の伝馬屋敷内の家に課されていた伝馬役金一分を一茶は毎年柏原宿問屋に納め、父の財産相続の権利を確保していた。一茶が父の死の直後から機を見て具体的な遺産分割について継母と弟相手に交渉する意志を持っていたことは間違いない[132]。■

文化4年(1807)以降、一茶は父の遺産相続問題に本腰を入れて取り組むようになった。父の死後約6年間手つかずであった遺産相続問題であったが、なぜこの時期になって一茶が本腰を入れるようになったかについては、いくつかの理由が考えられている。まず考えられるのが自身の老いへの自覚である。一茶は文化年間には40代となり、これまで頑健であった体に老いが忍び寄ってきたことを感じるようになってきた。一茶の場合、特に歯が悪かった。40代後半までにはほとんどの歯を失い、文化8年(1811)、49歳にしてすべての歯を失ってしまった。一茶は歯槽膿漏であったと考えられており、それで比較的早期に歯を失ったと考えられている[133]。また、一茶は北信濃から江戸に出てきた人物であり、本心から江戸での生活に馴染めなかったとも見られている。40代を迎えた一茶は、次第に忍び寄ってくる老いの影の中、故郷への思いを募らせていった[134]

また一茶にとって、父の遺産を相続をすることは生活をしていくために切実な問題であった。当時著名な俳人は多くは、きちんとした定職や財産を持ち、俳諧は趣味で行っていた。例えば一茶と最も親しく交際していた夏目成美は札差、井筒屋の隠居で富裕であったし、鈴木道彦は仙台藩の藩医を務めたこともある医師で、俳諧をしながら医師業も続けていたと考えられている。文字通り俳諧一本で生活しなければならなかった一茶とは経済状態に格段の差があった。しかも一茶園月並の挫折によって、俳諧師として一大結社のリーダーとなる道も閉ざされていた[135]

そもそも一茶駆け出し時代の俳諧の師であった二六庵竹阿は、俳諧に没頭するあまり家族や故郷を捨て、諸国を放浪しながら生活していくことを厳しく戒めていた。竹阿は「人恒の産なき者は恒の心なし」つまり、人というものは真っ当な生活の上に真っ当な心が宿るものであると教えたのである。実際、竹阿に従って俳諧の旅を続けようとした若者に対し、俳諧の基本はあくまで世法に基づくものであり、俳諧修行の旅を続けるよりも、まずはきちんとした職に就き、父母への孝養を怠らず、その上で俳諧に取り組むように諭している。

また、諸国を放浪しながら俳諧修行を行う俳諧師は真の俳諧師ではなく、そのような俳諧師は真の風雅ではなく、ただ風雅を切り売りしているにすぎず、竹阿自身もそのような過ちを犯してきたと告白している。一茶は師竹阿の教えに大きな影響を受けた。一茶は「おのれ、人には常の産となすべきことも知らず、人の情にて永らふるは、物言はぬ畜類に恥づかしき境界なりけり」と、真っ当な生活を送らずに人の情けでようやく生きている現状を厳しく反省していた。一茶にとってみれば遺産の獲得は、師、竹阿の教えにもある、真っ当な生活を行うための戦いでもあった[136]

難航する遺産分割交渉

一茶は文化4年(1807)7月、亡父の七回忌の法要に参列するために帰郷した。その際、弟との遺産分割交渉を行ったものの不調に終わった。口約束であるとはいえ遺産の均分相続に合意済みではあったものの、実際問題として長年故郷を離れた一茶と、継母と弟の努力もあって増やした財産を二分する話においそれと応じることはできなかった。故郷では実家で過ごしたものの、遺産問題で対立する継母や弟と顔を突き合わせる生活が居心地が良いはずもない。

「寝にくくても生まれ在所の草の花」ぎすぎすした実家の雰囲気ではあるが、やはり生まれ故郷以外に寄るべき場所がない一茶の辛さ、やるせなさとともに、故郷への思いを現した句である[137]

一茶は10月初旬に江戸の自宅へ戻ったが、自宅にはわずか数日居ただけで例によって下総方面に俳諧行脚の旅に出て、月末にはそのまま再び故郷へと向かい、11月初旬に弟との遺産分割の話し合いに臨んだ。しかしこの時の交渉もまた不調に終わった。不調に終わった交渉終了後、一茶は帰途、旧知の毛野(現・長野県飯綱町赤塩)の滝沢可候宅にて「心からしなの(信濃)の雪に降られけり」と、降り続ける雪に己の憂鬱な思いを投影した句を詠んだ[138]。■「・」

柏原の有力者との関係

一茶が継母、弟との遺産相続問題に取り組むようになった頃、故郷の柏原は宿場としての死活問題に直面していた。柏原は北国街道の宿場町であったが、北国街道の東隣には川東道という街道があった。当時、荷物は基本的に正規の街道を使用して輸送するというルールがあったが、北国街道を使った荷物輸送は宿場ごとの荷の引継ぎが必要で、時間をロスしてしまい何よりも手数料が嵩んでしまう。そこで川東道を使った荷物輸送が多くなってきたのであるが、荷扱いの減少に見舞われた北国街道の宿場町にとっては死活問題となる。結局、文化2年(1805)閏8月、柏原宿など北国街道の3つの宿場町は江戸道中奉行に川東道を用いた荷物輸送を禁じるように訴えた。一方、川東道を通る荷物輸送で受益者となる17村が3宿の訴えに受けて立つことになり、訴訟は評定所吟味扱いとなって文化10年(1813)までかかる長期訴訟が始まった[139]

評定所での裁判は、訴訟期間中、柏原宿の関係者は頻繁に江戸と柏原の往復を余儀なくされ、また裁判のために責任者は江戸詰めにならざるを得なくなる。訴訟関係文書の作成などの訴訟費用や関係者が宿泊する公事宿への宿泊費など多額の費用が必要であったが、宿場としては負けられない訴訟であった。江戸住まいの一茶は江戸詰めの柏原宿関係者のサポートを行い、故郷の大事のために一肌脱ぐことになる。現実問題として江戸で訴訟対応を行う柏原宿の関係者は、柏原の有力者たちであった。一茶は宿場町の存亡がかかる訴訟という機会を捉え、柏原の有力者とのコネクションを構築し、遺産相続問題を自らの有利に運ぶようにもくろんだのである[140]

文化5年(1808)2月、一茶の弟の仙六は菓子を土産に一茶宅を訪ねた。訪問の用件は一茶を祖母の33回忌に招待することであったと見られるが、江戸へ来たのは裁判の手伝いのためだったと考えられる。このように弟仙六まで江戸に駆り出される裁判であったが、3月には事実上の3宿敗訴の判決が下された。しかし文字通り宿場としての存亡がかかっていた柏原宿など3宿はまもなく追訴を行うことになる[141]

一茶社中の結成

一茶は弟との遺産分割の交渉の傍ら、着々と帰郷に向けての足掛かりを作りだしていた。首尾よく弟との遺産分割交渉が妥結して、父の遺産の半分を入手したところで、そのままでは単に父や弟と同じく柏原で農民として生活していくより他ない。俳諧師としてやっていくためには一茶の故郷の北信濃で俳諧結社・一茶社中を結成しなければならない。ある程度の規模の一茶社中があれば経済的な生活基盤にもなる。帰郷に向けての遺産分割交渉と並行して、一茶は北信濃での俳諧師としての活動と経済的基盤の確保を考え、用意周到に自らの俳諧結社を作り上げていく[142]

信濃における俳諧ブーム

一茶は帰郷を見据えて北信濃の俳諧結社の師匠となるために努力をしていった。それにはまず北信濃の地に俳諧結社が成り立つだけの俳諧愛好者がいることが不可欠である。信濃では18世紀に入ると俳諧が盛んになってきた。享保年間以降、有力商人や僧侶などと関西方面の文人との間に俳諧を通じた交流が始まり、次第に農村地帯の豪農、商人層にまで広がっていった[143]

18世紀末、信濃の農村に大きな変化が訪れていた。これまでの米作り中心の農業から養蚕、綿、タバコなどといった換金作物栽培の急速な発展である。中でも養蚕業の発展は目覚ましかった。養蚕の発展は必然的に製糸業の発展を伴い、養蚕や製糸業に投資して巨利を得た豪農層は、零細農民の土地を次々と取得して大地主化し、一方、土地を失った農民たちは小作や発展してきた養蚕・製糸業などに雇われて生計を維持するようになった。信濃での養蚕・製糸業の発展は地域経済の活性化を伴ったので、時流に乗った豊かな農民・商人が増える一方で、土地を失った貧農層も増大し、社会格差が拡大していた。豊かな農民、商人たちの中には学芸への関心が高まっており、俳諧の社中も信濃の各地で結成されるようになっていた。一茶が故郷信濃で結成した俳諧結社・一茶社中の門弟の主力は、時流に乗ったいわば勝ち組の農民・商人たちであった[144]

一茶以前に北信濃の地に充実した俳諧結社を組織していた人物に、戸谷猿左(えんざ)、宮本虎杖の名が挙げられる。猿左は一茶よりも40歳近く年長であり、善光寺を中心とした長野市、須坂市付近を中核として、一茶の故郷の信濃町付近と上田市から佐久市付近まで門人を広げ、没する享和元年(1801)まで、一茶が郷里信濃で活躍するようになる以前に一大俳諧結社を組織していた。一方、宮本虎杖は旧更級郡埴科郡から佐久方面に広がる俳諧結社を組織していた。虎杖は天明4年(1784)に独立した俳諧師として北信濃で活躍を始め、長野市以北の地を主な地盤とした猿左のライバルとして、充実した俳諧結社を組織した。虎杖は自派の勢力拡張に熱心であった。享和元年(1801)に猿左が亡くなると弟子の宮沢武曰を長野市内を拠点に俳諧師匠として活動させ、文化9年(1812)には自らの後継者としてかつての門人で大磯鴫立庵にいた倉田葛三を呼び戻した[145]

文化9年(1812)、大磯の鴫立庵から倉田葛三が、そして一茶が江戸から戻り、ともに俳諧師匠として北信濃の地で活躍を始める背景には、当時の北信濃は一種の俳諧ブームのような状況下にあったことが挙げられる。俳諧ブームのなか北信濃では本格的な俳諧を学びたいという人たちが増えていた。鴫立庵にて俳諧の研鑽を深めていた倉田葛三、そして江戸を始め各地で本格的に俳諧を学んできた一茶は、ともに北信濃の俳諧愛好者たちに嘱望された人材であった[146]

北信濃の俳人たち

一茶は俳諧師として活動を始めた比較的初期から、故郷、北信濃の俳人との交流を始めていた。享和元年(1801)の父の死去以前、一茶は寛政3年(1791)、寛政10年(1798)の帰郷が確認されている。この時期に交際している俳人は、故郷柏原の中村平湖とその子の二竹、野尻の石田湖光、そして飯綱町赤塩毛野の滝沢可候らの名前が挙げられる。ともに柏原やその周辺に住み、また石田湖光・滝沢可候とも中村平湖の親族であり、平湖が一茶に紹介したものと考えられている[147]

中でも石田湖光・滝沢可候は後に結成されていく一茶社中でも活躍していく。つまり北信濃における一茶の門弟の草分けとなる人たちであるが、まだこの時期に故郷に本格的な俳諧結社を組織するためのしっかりとした計画があったとは考えにくい。享和元年の帰郷は一茶社中結成に向けて動き始めるためであったとの説もあるが、北信濃に俳諧結社を組織するために本腰を入れ始めるのは、父の死後のことであった[148]

社中結成の開始

一茶は弟との遺産分割交渉に本腰を入れだした文化4年(1807)7月時の帰郷以降、遺産相続問題交渉と並行して北信濃に自らの社中を作り上げるべく奔走し始めた。この時の帰郷では、旧知の毛野の滝沢可候、野尻の石田湖光をしばしば訪れ、浅野(長野市豊野地区)や六川(小布施町)の俳諧愛好者たちとの関係を作った。浅野・六川ともに後に一茶社中の拠点となっていく[149]

文化4年11月の第二回遺産相続交渉の帰郷時には、柏原にはわずか4日しか滞在せず、その一方で毛野の滝沢可候宅にも4泊している。このように一茶は実家に住む継母、弟とは遺産相続問題を巡って厳しい交渉を重ねつつも、一方では着々と北信濃の俳諧愛好者との関係を深め、自らの社中を結成して帰郷へ向けての足掛かりを作っていった[150]

相続問題の妥結と続く対立

取極一札之事の取り交わし

文化5年6月25日(1808年7月18日)、一茶は江戸を発って帰郷の途についた。文化5年の帰郷の目的は表向き祖母の33回忌参列であったが、実際は弟との遺産相続問題の解決、帰郷に向け苧達コネクション作りであった。この時の帰郷時、一茶はまっすぐに柏原に向かわず榛名山草津温泉に立ち寄った。草津温泉では旧知の俳人と再会して約約1か月滞在し、故郷柏原に到着したのは7月初めだった[151]

7月9日(1808年8月30日)に祖母の33回忌法要が執り行われ、その後、一茶は弟との間で遺産分割交渉に本格的に取り組んだ。結局、11月になって弟弥兵衛(仙六)・弥太郎(一茶)・本家の弥七の連名による「取極一札之事」が村役人に提出された。遺産相続問題にようやくひとつの解決がついたのである[† 14][152]

「取極一札之事」では、親(弥五兵衛)の遺言にもとづき、一茶に約3.64石の田畑、あとは山林3か所、家屋敷半分、世帯道具一式、夜具一式の相続が認められた。そして村役人・親類一同が確認の上、紛失したものが無いことを確認済みであること、更に今後、新たに「遺書」が出てきても当取り決めによる決定内容の変更は無いことが明記されていた。この証文の本文は、筆跡から柏原の名主、中村嘉左衛門の筆によるものと考えられている。このことから一茶と弟仙六との遺産分割交渉に名主中村嘉左衛門の介入があったことが明らかとなる[153]

なお、瀕死の父から貰い、遺産相続に際して絶大な威力を発揮した父の遺書は、示談成立後に名主、中村嘉左衛門が預かることになった。遺産相続問題の再燃を恐れての措置だったと考えられるが、後年まで一茶はこのことを根に持ち続ける[154]

一茶と弟仙六との間で田畑についてどのような分割が行われたかについては「辰御年貢皆済庭帳」を通じて確認できる。文化6年(1809)に作成された、前年文化5年(1808)の年貢関連の文書である。これによると一茶との財産分割に合意する以前、弟仙六は9.21石あまりの田畑を所有していたことが判明する。9.21石のうち、まず約0.56石を四郎次という人物に引き渡し、残りの約8.65石について、一茶約3.40石、仙六約5.25石という分割を行っている。「取極一札之事」よりも一茶の取り分が約0.24石少なくなっており、また財産分与も均等ではなく、おおよそ一茶4: 仙六6という配分である。実際問題として父が亡くなった直後の享和元年(1801)の資産は7.09石であり、また一茶が故郷を離れた安永6年(1777)は3.71石であった。7.09石の半分、そして3.71石は実際に一茶が手に入れた資産に近く、遺産分割の考え方として、父の死去時を起点とした遺産の均等配分であるとともに、また一茶が故郷を離れた時、弟の仙六はまだ幼かったことを考慮してみても、一茶離郷時の資産にあたる部分を一茶に渡すのが合理的という判断がされたと考えられる[155]

文化6年(1809)より、一茶はこれまで弟仙六の家族の一員とされていたものが、柏原の宗門帳に戸主として名を連ねるようになり、また年貢関連の書類にも本百姓として名が載るようになった。弟から分割を受けた田畑については、正確なことはは解らないものの少なくとも一部については母方のいとこである仁之倉の徳左衛門に管理を委託し、収穫から徳左衛門が一茶分の年貢を納めていたと考えられている。徳左衛門は一茶の財産問題に関して後見人的な役割を果たすようになる。一茶が手に入れた田畑は柏原では中の上の自作農の所有地にあたり、一茶としても遺産の分割内容について特段の不満があった様子はない。しかし継母や弟にとってみれば、一茶が故郷に居ない間、自分たちこそがずっと小林家の資産を守り続けてきたのに、一茶が少なからぬ資産を手に入れたことは実情に合わない、不利な内容で和解を強いられたとの思いを抱いたものと考えられている[156]

一茶と弟、仙六との間の父の遺産を巡る対立は、文化5年(1808)11月の「取極一札之事」では解決しなかった。最終的な決着は文化10年(1813)1月の「熟談書附之事」の取り交わしまでもつれ込むことになる[157]

社中結成へ向け奔走

文化5年(1808)の帰省時、一茶は弟との遺産分割交渉の傍ら、精力的に北信濃の各地を回り、一茶社中の結成に向けて努力した。一茶はこの時の帰省で、新町(長野市)・長沼(長野市)・古間(信濃町)に社中を作っていった。新町の上原文路は薬種商であり、文路宅は長野市方面での一茶の定宿となり、また全国各地との書簡のやり取り等も文路のところを通じてやりとりすることが多くなった。また長沼は後に30名近い門人を擁する一茶社中最大の拠点となっていく[158]

そして文化5年の帰省時、一茶も選者の一人となった俳額が大俣(中野市)の大富神社に掲げられた。この俳額は残っている一茶撰の俳額の中で最古のもので、北信濃の俳句愛好者の中で一茶の名前が知られるようになってきたことを示している。しかし文化5年の段階では一茶社中が結成中途であるため、俳額に掲載された句の作者の中に、一茶の知人、門人はまだ少数にとどまっていた[159]

俳諧師としての成功と帰郷

難航する遺産相続問題

一茶は文化5年(1808)12月、200日あまりもの間留守にしていた相生町5丁目の家に戻ってみたところ、留守中に大家は他人に家を貸してしまい、一茶が戻るはずであった家が無くなってしまった。困り果てた一茶はやむを得ず夏目成美を頼り、成美宅で年を越した。翌文化6年(1809)成美宅で正月を迎えた一茶は1月8日から立て続けに下総・上総方面に俳諧行脚の旅に出た。3月19日に房総行脚は一段落したものの、今度は4月5日に実家のある柏原へと向かった。この時の帰郷では、一茶はまず柏原へ向かったにもかかわらず、前年の遺産分割の結果、居住権を得ていた実家に行こうとはせず、仁之倉のいとこ徳左衛門の家に泊まった[160]

その後一茶は精力的に北信濃一帯の俳諧愛好者のところを廻る。もちろん柏原には時々戻ったものの、いとこの徳左衛門宅、実家の隣であった園右衛門の家に泊まり、実家で過ごそうとはしなかった。それどころか5月18日には柏原で借家を借りるほどであった。これは弟との交渉が難航していたからであると考えられる。文化6年の帰郷もかなりの長期間に及んだ、一茶がいつ江戸に戻ったのかははっきりとしないが、9月末まで北信濃にいたことは確認されており、冬には江戸に戻っていた[161]

俳諧師としての成功

一茶はまだ俳諧師として駆け出し時代の寛政年間から自筆の句帳・句日記を書き続けていた。文化7年(1810)からは「七番日記」を付け始め、文政元年(1818)まで書き続ける。一茶は七番日記から文政2年(1819)執筆の「おらが春」に至る時期が最も充実した時期であるとされ、一茶独自の境地に達した質・量ともに充実した「一茶調」と呼ばれる多彩な作品が生み出された[162]

この時期、ようやく一茶の俳諧師としての名声が上がってきた。文化8年(1811)に大坂で出された全国の俳諧師の番付では、一茶は番付東方最上段に名前が載っており、江戸俳壇を代表する俳人と目されていた井上成美、鈴木道彦らと肩を並べる高評価であった。同時期に発行されたその他の番付でも一茶の評価はおしなべて高かった。当時、葛飾派と疎遠になりつつあった一茶は、夏目成美らとともに特定の流派には所属せず、いわば独立勢力であった。俳壇の特定流派に属しない一匹狼的な存在ではあったが、一茶の実力は文化中期になって広く知られるようになっていた[163]

この頃の一茶の俳諧に向かう心構えを現した句に、文化8年(1811)作の「月花や四十九年のむだ歩き」がある。芭蕉の劣化コピーとなっていた当時の既成俳句の世界に生きてきたことを、「月花」に囚われ49年間、むだ歩きを続けてきたと自らを振り返った。一茶は俳句というものは一部の隠者がもてあそぶ高尚な言葉遊びの世界であってはならず、誰もが日常の生活の中で生み出される喜怒哀楽を詠まねばならないと主張したのである。またこの句は「四十九年」を「始終苦年」と掛けているという洒落も効かせ、深刻さばかりではなくおかしみを感じさせる作品に仕上げている[164]

しかしいくら俳諧師としての評価が高まっても、一茶の生活実態は房総方面への俳諧行脚や夏目成美らからの経済的援助が頼りであることに変化は無かった。実際、文化7年(1810)11月、夏目成美宅に逗留中に金が無くなるという事件が勃発し、一茶は成美の使用人らとともに数日間成美宅からの外出を禁じられ、あれやこれやと調べられた。結局一茶がお金を盗ったという証拠は全く見つからず、無事に解放されたものの、一茶のことを高く評価し、普段は仲が良い俳人であった成美も、いざ金銭問題となると一茶を使用人同様の扱いをする現実に直面し、根無し草のような生活からの脱却を更に強く願うようになったと考えられる[165]

相続問題の解決へ

一茶は文化7年(1810)、正月早々に家探しをした。結局、柳橋に借家を見つけ、そこにとりあえず落ち着いた。この頃の一茶は北信濃の俳句愛好者のもとの盛んに手紙を出しており、江戸に居ながらにして郷里での俳諧結社の組織化に余念が無かった。3月には夏目成美らとともに一茶が撰者となった俳額が、日滝(須坂市)の蓮生寺に掲げられた。こうして一茶の故郷北信濃での知名度も上がってきた[166]。文化7年も一茶は5月に帰省している。しかし北信濃では基本的に門人宅を回り、19日に墓参、名主中村嘉左衛門利貞宅への挨拶を済ませた後に実家に行ってみたところが、一茶に白湯一杯すら出そうとしない冷たい態度であったため、そそくさと実家を後にした。結局、「古郷やよるもさはるも茨(ばら)の花」と、実家近くの旅籠小升屋に泊まらざるを得なかった。これでは遺産問題の交渉など全く進展があろうはずも無く、柏原を後にしてからも北信濃各地の門人宅を回り、6月初めには江戸へと戻った[167]

一茶は帰郷に向けて難航する実家の継母、弟との交渉、そして北信濃での一茶社中の組織作り以外にも努力を重ねていた。前述のように一茶の故郷、柏原宿は宿場の存亡を賭けた訴訟の真っただ中であった。しかも問題の訴訟は文化5年(1808)3月にいったん事実上敗訴の判決があり、その後、再審中であった。柏原としてはこれまで以上に訴訟対策に全力投球せざるを得なかった。柏原宿の江戸での訴訟対策の総責任者は、本陣中村六左衛門利賓の兄四郎兵衛であった。一茶はその四郎兵衛に接近する[168]

江戸暮らしが長く、また俳諧師として文化面にも精通していた一茶は、訴訟の合間を見て文化8年(1811)3月、四郎兵衛を植木屋見物に案内する。そして5月にも四郎兵衛と一茶は連れ立って開帳のお参りに出かけている。一方、文化8年には訴訟の関係者と考えられる野尻宿、牟礼宿の関係者も一茶を訪ねている。一茶は江戸在住の北信濃出身者の中でも名士となりつつあった[169]

そして遺産問題の経過の中で、一茶の後見人としてサポートするようになったのが、母方のいとこの徳左衛門であった。徳左衛門の宮沢家は仁之倉で一二を争う有力者であったが、柏原の新田であった仁之倉は本村の柏原と仲が悪かった。仁之倉の有力者、徳左衛門にとってみれば、親族の一茶が柏原で疎外されているのを見て、もともと持っていた柏原に対する反感を刺激させ、遺産問題では一茶に肩入れして後見人の役割を果たすようになったと考えられている[170]

文化9年(1812)、一茶は6月と12月の二度、故郷の柏原に向かった。6月の帰省では北信濃でやはり門人宅を精力的に回るとともに柏原でも主に本陣の中村六左衛門家に宿をとり、本陣が業務多忙の際には旅籠の小升屋、そして仁之倉の徳左衛門宅に宿をとった。この頃には北信濃における一茶社中の体制も整ってきた。そして一茶社中の組織作りとともに、柏原の本陣、小升屋に宿泊しながら、遺産問題の最終解決に向けて奔走したと考えられる[171]

一方で一茶は柏原の有力者への働きかけを更に進めた。文化9年6月の帰省時、一茶は本陣に8泊している。前述のように本陣の主、中村六左衛門利賓の兄、四郎兵衛は柏原宿にとって極めて大切な訴訟の、江戸における最高責任者である。本陣に泊まった一茶は、中村六左衛門利賓に江戸の訴訟についての情報などを報告している。8月には一茶は江戸に戻るが、江戸では四郎兵衛が公事宿で病に倒れていた。一茶は早速四郎兵衛の看病に当たり、柏原にも四郎兵衛の病気について連絡したものと考えられる。すると8月末には兄の病状を心配した中村六左衛門利賓が、柏原の有力者の一人であった顔役の銀蔵とともに四郎兵衛の見舞いに駆け付けた。幸い四郎兵衛は回復し、大詰めを迎えていた訴訟の陣頭指揮に復帰した[† 15]。このように一茶は柏原の有力者たち相手に着々と得点を稼いでいた[172]

一茶社中の体制が整い、柏原の有力者たちとのつながりもできた、更には仁之倉のいとこ徳左衛門のサポートも期待できる。文化9年11月17日(1812年12月20日)、一茶は今度こそ帰郷するとの固い決意を胸に秘め満を持して江戸を発ち、故郷柏原へと向かった[173]

北信濃の宗匠

一茶は文化9年11月24日(1812年12月27日)、柏原に戻った。柏原は既に冬、ふるさとは雪に埋もれていた。一茶は永住する覚悟を決めた雪に埋もれた故郷を「これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺」と詠んだ[174]

一茶は柏原に落ち着くことはなく、北信濃の門人宅を精力的に回り、結局12月24日(1813年1月26日)になって柏原の岡右衛門所有の借家を借りた。なお、一茶の帰郷の決意を見た北信濃の門人からは、布団などの生活用具が贈られた[† 16]。借家で正月を迎えた一茶は、新年も門人宅巡りを行っていたが、1月19日(1813年2月19日)には父弥五兵衛の十三回忌の法事に参列した。そして一茶は弟との間の遺産問題について、最終決着を図るべく交渉に臨んだ[175]

文化5年(1808)11月の「取極一札之事」を取り交わした後、遺産問題で最大の争点となったのが、享和元年(1801)の父の死去後、一茶が取得すべき利益を弟仙六が手に入れていたとする一茶側のクレームであった。一茶側の言い分としては、享和元年(1801)から「取極一札之事」が取り交わされる前年の文化4年(1807)までの7年、本来ならば一茶に引き渡されるべきだった田畑から仙六は収穫を挙げていたわけで、まずはその分の利益を引き渡すべきと主張した。更に享和元年(1801)から文化10年(1813)に至る間、均等に分割することになっていた居宅も、弟仙六が専有したままであるとしてその間の家賃分の支払いも要求した。一茶側の要求金額は合計30両であった[176]

一茶がこの要求をいつ弟仙六側に伝えたかははっきりしていない。まず文化5年(1808)11月の「取極一札之事」取り交わしの直後から要求していたという説がある。この説によれば「取極一札之事」取り交わし後もなかなか遺産問題が決着せず、最終解決まで時間がかかった事実を説明しやすい。しかし、この一茶側の遺失分利益の引き渡し要求が記録に現れるのは文化10年(1813)1月の交渉時であり、そのため記録通り文化10年(1813)1月の交渉時に一茶側が持ち出した条件であるとの説もある[177]

一茶側でこのような要求を持ち出すに至ったのには、一茶のいとこの仁之倉の徳左衛門の差し金があったと考えられている。徳左衛門はこの問題では一茶側に立って動いていた上に、この問題が決着した後、仙六が支払った11両2分は徳左衛門が預かり、必要に応じて引き出すようになったことからも、黒幕は徳左衛門であると見られている[178]

1月26日(1813年2月26日)、一茶は問題が解決しなければ翌日に江戸へ向かい、訴えるとの最後通牒を出した。結局、一茶と仙六の菩提寺である明専寺の住職が調停に乗り出した。最終的に一茶の言い分はもっともと認めた上で、30両の支払いでは仙六の家計が成り立たなくなってしまうため、立会人となった柏原の顔役である銀蔵らが詫びを入れる形で一茶の要求額の半値以下の11両2分支払いで決着することとなり、26日中に「熟談書附之事」が取り交わされた。署名捺印は弥太郎(一茶)・一茶側の徳左衛門・弟弥兵衛(仙六)・弟側の小林本家の弥市・立会人の銀蔵の5名が行った。この決着には一茶と親しくなった本陣の中村六左衛門利賓、四郎兵衛兄弟の意向も関与していると考えられる[179]

一茶が遺失分利益の引き渡しを要求し、減額されたとはいえ11両2分の金を弟から得たことについては、いわばごね得で11両2分を弟からむしり取ったとして、一茶の強欲さ、底意地の悪さを示し、弟は犠牲者であるとの評価が一般的である[180]。享和元年(1801)の父の死去後、一茶と弟仙六は口約束であるとはいえ遺産の均分相続で合意しており、実際、一茶に引き渡されるべき田畑で弟は収穫を挙げ続け、また家屋敷も占有していたわけで、その分の金銭的要求を行うこと自体、不合理なことではなく、弟が一茶の不在時に一茶分の田畑や家屋の管理を担い続けてきたことを考慮すると、30両の一茶の要求金額を大幅に減額して和解した「熟談書附之事」の決定内容は比較的妥当な結論と言えるとの意見もある[181]

一茶が弟から得た11両2分は、前述のように後見人に当たるいとこの徳左衛門が全額預かった。徳左衛門は一茶から預かったお金を年利1割2分5厘で貸し付けるという資産運用を行い、一茶は必要に応じて引き出している。そして文化11年2月21日(1814年4月11日)、待望の家屋分割が徳左衛門と銀蔵立ち合いのもと実施された。家屋敷を弟と二分して、半分を一茶が手に入れたのである。なお家屋分割時、一茶は弟仙六に3分の金を支払った上で、土蔵と仏壇を入手した。後に一茶がその生涯を閉じることになる土蔵は、この時一茶所有となった[182]

北信濃に広がる一茶社中

信濃の一茶

前述のように、一茶は帰郷を見据えて文化4年(1807)7月時の帰郷以降、北信濃に一茶社中を結成するために奔走していた。文化9年(1812)末の帰郷を前に、一茶社中はかなりの規模に成長していたが、一茶自身は不安を感じていた面もあった。帰郷直後に江戸の夏目成美には、田舎に引っ込んでしまっては流行に遅れてしまうのではないかと、心配する手紙を送っていた。しかし一茶は江戸帰りの宗匠として北信濃一帯の俳諧愛好者たちから敬意を持って迎えられ、その結果として帰郷後も社中は順調に成長し、やがて一茶の不安も消えていく[183]

一茶は帰郷後もしばらくの間、江戸や房総方面に出かけていた。文化11年(1814年)8月、一茶は江戸に向かい、その足で下総方面、内房方面まで足を伸ばした。この時の江戸行きの主要目的は、一茶の江戸の俳壇からの引退と故郷、信濃への定住を記念した俳文集、「三韓人」の出版であった。三韓人の序文は夏目成美が執筆し、東国を中心とした一茶の師匠、友人、知己ら242名の句が掲載された。この年、一茶が柏原に戻ったのは年も押しつまった12月25日(1815年2月3日)のことであった[184]

文化12年(1815)も一茶は8月末に江戸へ向かった。一茶はやはり江戸の他に上総・下総方面の知己を巡り、やはり年も押しつまった12月28日(1816年1月26日)になって柏原に戻った[185]。翌文化13年(1816)もまた一茶は江戸に向かう。9月に柏原を出発した一茶は、10月には江戸へ出て、その後下総方面に向かった。ところが11月になって悪性の皮膚病にかかり、下総守谷の西林寺でしばらく療養しなければならなくなった。その後、江戸や上総・下総方面を回り、翌文化14年(1817)7月になってようやく柏原に戻る。なおこの時の江戸、房総方面行きと時を同じくして、文化13年11月に夏目成美が亡くなり、文化14年2月には一茶と親しかった日暮里の本行寺住職の一瓢が伊豆、三島妙法華寺に移ってしまい、一茶と特に仲が良かった俳人が江戸から居なくなってしまった。このこともあってか、その後一茶は亡くなるまで江戸、房総方面に行くことはなく、一茶は名実ともに信濃の一茶となった[186]

一茶社中の完成

帰郷、そして文化14年以降は江戸に行くこともなくなり、江戸の一茶から文字通り信濃の一茶となったものの、俳句界の中での一茶の存在感は増すばかりであった。一茶帰郷後の文化年間後期から文政期にかけて、俳人番付での一茶の評価はおしなべて全国トップクラスであり、当時の日本を代表する俳人の一人と評価されていた。一茶の高評価は最晩年に至るまで変わることが無く、信濃の一茶の名は当時の全国俳句愛好者の間では良く知られていた[187]

一茶の知名度が上がるにつれて、多くの俳句愛好者たちが一茶に会いにやって来るようになった。遠くは東北地方、中国地方からの来訪者がいたことが確認されている。また一茶のもとには各地から揮毫の依頼や俳書の序文の執筆依頼なども送られてきた[188]

前述のように一茶の帰郷前から北信濃は一種の俳諧ブームといえる状況であった。江戸帰りの宗匠であり、しかも全国的に名声が轟いていた一茶のところには、特に積極的な勧誘を行わなくとも門人が集まるようになっていった。文政年間に入ると、国境を超えて越後の関川(妙高市)にまで門人の輪が広がっていく。なお、越後まで一茶社中が広がった背景には一茶の初婚の相手である菊が関川から川を挟んで反対側の信濃の赤川(信濃町)出身であったことも影響している[189]

一茶社中は地域的に見ると長野市以北の旧水内郡高井郡と一部越後にかかる地域が勢力範囲で、水内郡北東部の飯山方面や更級郡埴科郡には勢力が及ばなかった。これはかつて北信濃一帯に広く社中を形成していた戸谷猿左の勢力範囲とほぼ重複しており、一茶はいわば猿左の地盤を引き継いだ形となった。これは更級郡・埴科郡は宮本虎杖系の強固な地盤であったためである。宮本虎杖系と一茶社中とは重複する地域や門人が見られるものの、基本的には両派の勢力範囲は分かれており、特に目立った衝突は無かった[190]

一茶社中の地域性と構成

地域的に見た一茶社中の大きな特徴として、まず一茶が住む柏原には門人がほとんどいなかったことが挙げられる。これは柏原では実弟との財産問題を巡るいざこざ等の影響で、一茶に対する反感があったためと考えられる。また柏原で暮らすようになっても、俳諧師匠として出かけることが多かった一茶は、地元柏原の人たちとの縁が薄かった。一茶自身も地元柏原で門人を得ることに消極的であったと考えられる[191]

一茶社中の主な拠点としては長沼(長野市)・六川(小布施町)・高山湯田中などがあった。中でも長沼は元来俳諧が盛んな地であり、一茶社中も20名を超え、優れた門人とされた10名は「三韓人」「長沼十哲」と呼ばれるようになった[192]

後述のように一茶社中は北信濃の素封家の集まりで、地域に密着して文化活動を行うといった組織とは異なっていた。他の北信濃の宗匠の中には、親族・隣人を門人として地域密着型の社中を形成していた人物もいたが、一茶社中は北信濃各地に点在する素封家同士を結ぶ、いわば点と線の組織であった。これは地域で生まれ育っていった俳諧組織と江戸帰りで組織を作っていった一茶との違いであると考えられる[193]

一茶社中の構成員のうち約60名についての身元が判明している。その職業を見ると、豪農・豪商・医師v旅館の経営者v武士などの素封家や地域の有力者たちであった。なお、俳号のみが知られ、身元が判明しない門人の多くも豪農であると推測されている。つまり北信濃における一茶の俳諧師匠としての姿は、一面では地域の有力者の家々を羽織を着こなして回る、いわゆる「羽織貴族」の一員であった[194]

しかし、一茶の門人たちである素封家の富はその他大勢の零細農民の犠牲の上に成り立っていた。当時から一人の成功者の影には20名、30名といった困窮した百姓が生み出されていると、その矛盾を鋭く指摘する声があった。一茶も勝ち組の素封家たちのところを俳諧師匠として巡回しながらも、その陰で零落していった農民たちのことを忘れることはなかった。

「白壁のそしられつつも霞みけり」文政2年(1819)作のこの句は、素封家の富を象徴する白壁造りの建物を零落した農民たちが恨み、そしっていることを知ってか知らずか、春霞の中に佇んでいると詠んだ[195]

一茶社中の特徴

一茶は自らの庵号を「俳諧寺」と名乗った。しかし他の宗匠とは異なり、庵中に自らも駆け出し時代に務めた執筆を置くことはなかった。その代わり、宗匠の一茶自身が門人のところへ巡回し、俳諧を教える形を取った。これは江戸在住時代に房総方面で行っていた俳諧行脚のいわば延長のようなものであった。一茶にとって庵に門人を集めるよりも門人のところを巡回する方が楽であったと考えられ、また門人たちにとっても気さくで楽天的、そして謙虚な一面もあった一茶を自宅に迎える方が良かった。その結果、一茶が郷里柏原に落ち着いた文化10年(1813)から文政8年(1825)までを見ると、文政2年(1819)を除き、在宅している日より外泊の方が多い。前述のように文化14年(1817)まではしばしば江戸や房総方面まで出かけていたことも考慮に入れなければならないが、一年の多くを北信濃各地の門人巡りに費やしている状況が見て取れる[196]

一茶社中に入門する際の手続きにも特徴があった。他の俳諧結社は格式を重んじ、入門時の持参品が細かく定められているようなところもあったが、一茶社中の場合「扇代」の名目で少額の入門料が徴収される程度で、厳しい入門規定は特に無かった[197]

一茶社中の宗匠である一茶の、門人たちに対する態度にも大きな特徴があった。一茶は前述のように浄土真宗の熱心な信者であった。一茶は自らが信仰する浄土真宗においては、師や弟子という言葉は用いず、阿弥陀如来の本願をともに信じる「御同朋とかとか、「御同行」という言葉を用いているという例を引いた上で、俳諧も全く同じで、宗匠の一茶と門人は、俳諧の道をともに歩む者という位置づけをした。つまり一茶社中は上下関係が見られず、よく言えば自由闊達な雰囲気であったと考えられる。その反面、一茶社中は組織化がなされず、門人の間ではしばしば内輪もめが見られるなど、結束力が弱かったという大きな弱点を抱えることになった、このことは一茶の作風が個人的資質に大きく頼ったものであったこととともに、門人たちの中から目立った活躍をした俳人が生まれなかった一因となった[198]

一茶の俳諧指導

一茶の宗匠としての俳諧指導は、まず定例の句会における対面による指導を重んじた。そしてなかなか句会に参加できない門人は、一茶に詠んだ句を送るなどして添削指導を受けた。また集団で詠んだ句を採点する、点取句合という方法を取ったことがあるのも確認されている。なお点取句合の一種として、広く投句を募りその中から優秀作を撰ぶ懸賞句合というシステムがあり、その撰者は俳諧師にとって良い収入になった。一茶はこの仕事に消極的だったが、いくつか一茶が撰者となった懸賞句合の掲額が残っており、文政3年(1820)、善光寺に掲額されたなかに一茶自撰の「春風や牛にひかれて善光寺」の句がある[199]

句会による対面指導、添削による指導の他に、当時、多くの俳諧社中では、社中の門人たちが出句料とともに出句を行い、その中から撰ばれた句を紹介する刊行物を定期的に発行していた。これは門人たちの意欲向上と俳諧結社の結束力強化に有効であったが、一茶社中では定期刊行物が出された形跡がない。これは門人数が少なかったこと、一茶には内弟子に当たる執筆がおらず、定期刊行物の編集・出版に携わる人材がいなかったこと、一茶自身が社中の定期刊行物の出版に消極的であったと考えられること、そして門人たちの俳書の制作に傾注していたことが原因として考えられる[200]

一茶社中では定期刊行物の発行は行われなかった。その代わり、一茶が熱心に取り組んだのが、門人たちの俳書の出版であった。門人たちの中には自力で俳書を出版していた者もいたが、文字通り北信濃の地方出版で素朴なものであった。一茶は門人の俳書出版を強力に後押しし、編集・校正・出版の手続きを一手に引き受けた。江戸での俳壇生活が長く、高名な俳人との深い交際を続けていた一茶は、俳書の出版についてのノウハウを持っていた。しかも江戸とのコネクションもあるので、北信濃ではなく技術的にも高い江戸の出版業者からの刊行が可能であった。もちろん相応の手数料は受け取っていたものと考えられるが、本の体裁、校正の内容からも単なる出版の請負いではなく、一茶が門人たちの出版を真剣にサポートしていたことがわかる。これは出句料を一人ひとり徴取する必要がある定期刊行物よりも、諸費用を全部門人が持つ俳書の発行の方が楽な一面があり、また内容が充実した門人の俳書を江戸で出版することは、一茶にとって自ら、そして一茶社中を全国の俳壇にアピールすることにも繋がったためと考えられる[201]

なお、出版を計画しながらも諸事情で実現しなかった門人の俳書が4つあることが知られている。そして一茶自身の俳書にも生前に出版が叶わなかったものが3つある。生前出版されなかった一茶の俳書の中に俳文集「おらが春」があり、生前、版下までほぼ完成していたことが知られている。なお「おらが春」は没後25年を経た嘉永5年(1852)にようやく刊行され、その後版を重ね、やがて一茶の代表作として知られるようになった[202]

一茶は門人たちと積極的に「土佐日記」「方丈記」などの古典籍の貸し借りを行っており、そして名所見物、書画会などの催しを行っていた。このような俳諧の枠にとどまらない交流も一茶の俳諧指導の特徴に挙げられる[203]。一茶は門人たちに俳諧を詠む心得として、技術論や高尚な芸術論に寄り掛かることなく、あるがままの「心の誠」を詠むように教えた。これは旺盛な経済活動の中、文化が一部の好事家のものばかりでなく、広く大衆のものになりつつあった化政文化の時代、庶民文化の一翼を担う俳諧の役割を重んじた一茶の姿勢によるものであるとともに、何よりも日常生活における喜怒哀楽を詠む一茶の句作に通じるものであった[204]

一茶の門人たちに対する具体的な指導内容としては、まずは反復練習を勧め、その上で先人たちの句作の模倣を戒め、自らの言葉で詠むように指導した[205]。その一方で無季の句や季重ねの句を注意し、奇異な言語表現を戒めるなど、俳句の決まりごとを忠実に指導するという、極めて常識的な俳諧指導を行っている。一茶自身は自由闊達ともいえる言葉遣い、表現をいわば自家薬籠中のものにして「一茶調」と呼ばれていたが、門人たちには一茶の作風そのものを指導、伝授しようとはせず、むしろ「一茶調」を模倣しようとする門人を制止している。これは事実ではない伝承の話ではあるが、一茶は臨終の床で門人たちに「私の句風を真似るな」と、言い残したと伝えられているほどである[206]

一茶が自らの作風については門人たちに伝授しようとしなかったのは、まず門人たちの中に一茶の作風をきちんと消化して、自らのものとし得る力量を持った人物が見当たらなかったこと、そして一茶自身の強烈な個性、高い才能、様々な苦闘に満ちた人生と深く結びついた一茶調は、真似しようにも真似ができないものであると判断していたためと考えられる[207]

帰郷後の一茶

結婚

一茶は文化10年(1813)1月の遺産問題最終決着後、北信濃各地の門人たちのところを精力的に回っていた。ところが6月初旬から尻にできものが出来てしまった。6月半ば過ぎには悪化して痛みがひどくなって高熱も出て、善光寺町の門人宅で床に臥してしまった。医者に見せ、薬を飲んだり灸をしたりしたものの、なかなか病状は改善しない。一茶が病気で倒れたとの知らせを聞きつけた門人たちが大勢一茶の見舞いに駆け付け、不仲であった弟、仙六も蕎麦を持参して一茶を見舞った。結局一茶は75日間も床に臥した後、ようやく動ける体に戻ったのか、その後も門人宅を回って9月半ばに柏原に戻った。この頃から一茶はしばしば皮膚疾患に悩まされるようになる。一茶は梅毒に罹っており、それが皮膚疾患の原因ではないかとの説もある。一茶自身も梅毒に罹っているのではと疑い、梅毒の医学書を入手しようとした記録が残っている[208]

文化11年(1814)2月、一茶は弟、仙六と家の分割を行った。前年の1月に遺産問題は解決したものの、1年余り家屋の分割を実行していなかった。この時期に分割を行ったのは、一茶の結婚が本決まりになり、自宅が必要になったからと考えられている。

「雪とけて村いっぱいの子どもかな」雪解けの喜び、開放感をストレートに詠んだこの句は一茶52歳にして結婚を目前に控えた、文化11年早春の作である[209]

文化11年4月11日(1814年5月30日)、一茶は結婚した。結婚相手は野尻宿の新田赤川(信濃町)の常田久右衛門の娘菊。菊は28歳であり、一茶とは親子ほど年が離れた夫婦であった。仲人は仁之倉の宮沢徳左衛門、一茶に菊を紹介したのも徳左衛門であったと見られている。常田家は宮沢家の親戚筋に当たり、米の取引も行う新田赤川では有力な農家であった[210]。結婚後、一茶と菊は仲人宮沢徳左衛門への挨拶・新婚後の里帰り・村役人への挨拶・ご近所への挨拶回りをきちんとこなした[211]

一茶と妻の菊との仲は、時には夫婦喧嘩をしたこともあったが良好であった。また菊は、柏原の住人たちに不義理にしがちな夫、一茶と違って近所付き合いもきちんとこなした。そして田畑を耕そうとしない一茶と違って農作業に精を出し、何よりもこれまで確執があった隣の弟、仙六のところや、仲人の徳左衛門のところにも農繁期は手伝いに出た。一茶と犬猿の仲であった継母にもきちんと仕えている[212]

「わが菊や形(なり)にもふりにもかまはずに」は一茶が妻菊のことを詠んだ句と言われている[213]

弟との遺産問題は無事解決し、妻も迎えた一茶は、これまでは節制していた酒も時々深酒をするようになり、飲酒をする機会も増えた。文化12年(1815)12月、江戸に出ていた一茶は友人宅で大酒し、夜中に板の間に放尿してしまった。一茶自身も生まれて初めての失敗としており、この頃から生活に緊張感が見られなくなってきた。しかし一茶は安定した生活に安住することは叶わなかった[214]

相次ぐ子どもの夭折と妻の死

文化13年4月14日(1815年5月10日)、菊は長男千太郎を出産するが、生後わずか28日で亡くなってしまう。あっという間に亡くなったせいか、一茶は千太郎の死に関して大きな打撃を受けた形跡がない。その後、菊は3男1女を儲けるも、みな満2歳を迎えることなく夭折する。遺産問題の解決と結婚によって一茶の生活にかつての緊張感がなくなり、俳句もやや弛緩しかけていたが、この相次ぐ子どもの夭折と妻の死は、結果として一茶の作品に最後まで張りを持たせた[215]

長男千太郎を失った後の8月、一茶は七番日記に妻との性交渉の数をしばしば記録している。これは若い妻と結婚した一茶の焦りの現れという見解や子ども欲しさによるとの説もあるが、あるがままの表現を重んじたいかにも一茶らしい記述である。これらの記事から彼が精力絶倫だと考えられている[216]

文政元年5月4日(1818年6月7日)、菊は女の子を生む。「賢くなれ」との願いを込め、女の子はさとと名付けられた。愛児さとの生と死を主題とした俳文「おらが春」は、一茶渾身の作といってよい内容であり、文字通り代表作とされている[217]

さとは最初のうちはすくすくと成長する。おらが春ではあどけないさとの姿と目に入れても痛くない父、一茶自らの親馬鹿ぶり、母の菊が母乳をあげる姿を丹念に描写し、「蚤(のみ)の跡かぞへながらも添乳かな」と、愛児が蚤に食われた跡を数えつつ母乳をあげる子をいつくしむ母の姿を詠んだ[218]

ところが、まもなく運命は暗転し、文政2年(1819)5月末、さとは天然痘に感染する。6月にかさぶたも落ち小康状態かに見えたが、体調は一向に回復せず、治療を尽くしたにもかかわらず、6月21日(1819年8月11日)に亡くなってしまう。一茶は「おらが春」に愛しい子を失った親の嘆きを綴った上で、「露の世は露の世ながらさりながら」と、愛児を失った無念、諦めきれない悲しみを詠んだ[219]

同年の夏には「せみなくやつくづく赤い風車」と、蝉しぐれのなか主を失い、むなしく回り続ける赤い風車を詠んだ[220]

文政3年10月5日(1820年11月10日)、妻の菊が次男石太郎を生む。石のように強く生きて欲しいとの願いを込めて付けた名だ。喜びに浸るまもなく10月16日(1820年11月21日)、一茶が外出中に雪道で倒れて中風を起こし駕籠で担ぎ込まれた。一時は言語・運動障害に陥り、生まれたばかりの子と自宅で臥床する羽目になった。幸い中風は比較的軽く症状もある程度改善して認知的な問題は起こらなかったが、歩行の不自由さが残った[221]

文政4年1月11日(1821年2月13日)、生後100日も経たない石太郎が菊の背中で窒息死してしまう。愛児の死を受け、一茶は妻を激しく罵る文章を残している。菊の過失による事故死ではあるが、石太郎は生まれながらの虚弱体質だったという推測も行われている。

「陽炎や目につきまとふわらひ顔」は、一茶が石太郎の死を悼んで詠んだ句である[222]

文政4年も押し迫った12月29日(1822年1月21日)、一茶は一通の嘆願書を本陣の中村六左衛門利賓に提出した。内容は柏原宿の伝馬屋敷の住民たちの義務とされた伝馬役金に関する嘆願だった。伝馬屋敷に住む者は地子免除の特典を受ける代わりに伝馬役の務めが課せられていた。一茶の時代になると伝馬役の役儀ではなく伝馬役金を納める形になっていた。享和元年(1801)の父の死後、一茶はきちんと伝馬役金を納め続けていた[223]

嘆願書は自らに課せられた伝馬役金の免除を願い、その分を小林家本家の弥市に払わせて欲しいという内容であった。弥市は伝馬役金を納めていないのにもかかわらず、祭りの際には桟敷席に座り散財をしているとして、桟敷に座れない自分が役金を納め続るのは不合理であると申し立てたのである。また、中風で体も不自由となり、外出時の駕籠代が嵩み、さらに子どもの出生と死去が重なり生活に困っていると訴えたのだ[224]

実際問題として弥市が伝馬役金を納めていなかったとは考えにくく、一茶は遺産問題で弟仙六側についた本家の弥市のことを根に持っていたことがこの嘆願書が出された原因のひとつと考えられている。また嘆願書の中に記されているように、柏原では鎮守の諏訪社の祭礼時に桟敷が設けられたが、有力者は桟敷に上がって祭礼を見物し、その他一般の見物客は立ち見であった。弥市は桟敷席であり、また遺産分割後も新たな資産獲得に努めていた弟、仙六も桟敷に座るようになっていた。一茶は弥市、仙六が桟敷席であるのにもかかわらず、自分が立ち見であることに劣等感を募らせていた。嘆願書には本家や弟の後塵を拝し、不遇な己を嘆く卑屈な心象も垣間見える[225]

過失があったのは事実であるとしても、妻を激しく罵倒する文章を書いたり、自らの困窮を理由に伝馬役金の免除を願い出る嘆願書に、本家の弥市を引き合いに出して中傷するような内容を記すなど、一茶には利己主義的な面が強く、また激情に駆られると抑えが効かなくなることがあるのは否めない。前述のように柏原宿の存亡を賭けた訴訟時に一茶は本陣の中村六左衛門利賓らに協力をしており、仲も良かった。そのためある意味気軽に書いてしまったという一面もあるものの、やはり弥市を貶めんとし、卑屈さが感じられる内容の嘆願書は評判が悪く、一茶の人物評価にマイナスとなった[226]

弟との遺産問題を解決し、妻も迎え、俳諧結社の師匠として北信濃各地に門人を持ち、故郷に安住したかに見えた一茶であったが、故郷に受け入れられたという思いを抱くことは無かった。

「故郷は蠅まで人を刺しにけり」ふるさとでは蠅までも人のことを刺すと、被害者意識丸出して故郷の冷たさを憎む句を詠んでいる[227]

この頃の一茶の生活実態はどうだったのかというと、裕福とは言えないまでも多少は余裕があった生活だったと考えられる。一茶は自分の田畑から挙げられる収穫の他に、俳諧師匠として北信濃一帯を巡回して得る収入があった。当時、俳諧師匠として得られる収入は多額ではなく、一財産作るほどにはならなかったものの、文政5年(1822)正月には一日平均5合あまりと酒をかなり消費した記録が残っている。これは一茶宅に来客が多かったことも関係していると見られている。更に文政3年(1820)から8年(1825)にかけて6口の無尽に加入したことが確認されており、一茶が没する文政10年(1827)までに約14両の支出を行っている。14両は少額とは言えない。また一茶の所有している田畑は亡くなるまでほとんど増減が無い。これは少なくとも土地を手放さなければならないほどの困窮状態には陥らなかったことを示している[228]

文政5年(1822)、一茶は60歳になった。60歳を超えた一茶の作品は旧作と同工異曲なものや安易な作が目立つようになってきた。しかし、この年の暮に執筆した俳文「田中河原の記」は軽妙な文体の中に北信濃の風情と貧しい人々に対する暖かい眼差しが感じられるすぐれた文章で、一茶の文学的な実力自体はまだまだ健在であった[229]

文政5年3月10日(1822年5月1日)、妻菊は三男を生んだ。次男石太郎を亡くした父、一茶は生まれた子に石よりも硬くて丈夫であるとして、金を名に冠した金三郎(こんざぶろう)と名付けた。出産後、妻の菊が体調を崩した、産後の肥立ちが良くなかったのである。その後も菊の体調は本調子にはならず、病気がちな日々が続いた[230]

文政6年(1823)正月、還暦を迎えた一茶は「春立や愚の上に又愚に帰る」と、これまでの自らの人生を愚に生きてきたとし、そしてまた愚に帰っていくと詠んだ[231]。この句は一茶が深く信仰していた浄土真宗の教えに密接な関わり合いがある。一茶は様々な欲にまみれ、利己主義的で激情の抑えが効かないといった大きな欠点を抱えた人物ではあったが、自らの深い罪業を直視する目も持っていた。愚に生きることの告白ともいえる句は、自らを愚禿と称した宗祖親鸞が唱えた「悲しいときは泣き、嬉しいときは喜び、苦しいときは苦しんで生きられる絶対安心の境地」である「自然法爾」を表現したと言われている[232]

2月19日(1823年3月31日)、妻の菊が病に倒れた。病名は痛風であったと伝えられている。病状は一時改善するものの、3月に入ると悪化し、医師の診察を受けたり様々な薬を飲んでみたにもかかわらず、病状は悪化していった。菊の病状が悪化すると、俳諧師として門人宅回りを欠かすことが出来ない一茶では子どもの世話を行うことがままならないため、やむを得ず知人宅に預けることにした。そして妻の菊も実家に帰って療養することになった。一茶は夫としてしばしば妻の見舞いに行ったが、病状は悪化するばかりで結局5月12日(1823年6月20日)、37歳で亡くなった[233]

妻を失った後、一茶は「小言いふ相手もあらばけふの月」と、小言を言う相手が居なくなってしまったと嘆く句を作った[234]

ところで菊の没後、葬儀の際に息子、金三郎が知人宅から戻ってきた。しかし金三郎はすっかりやせこけ、骨と皮ばかりで息も絶え絶えの様子である。一茶は知人が乳が出ないのにもかかわらず保育料欲しさに金三郎を預かったとして、例によって知人のことを人面獣心と断罪するなど口を極めて罵った俳文を書く。これもさすがに乳を飲ませなかったとは考えにくく、金三郎自身が虚弱であったのではと考えられる[235]

結局知人宅から息子金三郎を取り返した一茶は、改めて別の乳母に預けることにした。金三郎は一時容体を取り戻したものの、結局12月21日(1824年1月21日)に亡くなってしまった。文政6年、一茶は妻と息子の2回、葬儀を出すことになった[236]。菊との間に生まれた一茶の子どもたちが皆、2歳を迎えることなく夭折したのは、一茶が持つ病気の影響があったのではとの説がある。妻の若死についても一茶の病気に原因があるのではと言われている[237]

妻と子を亡くし、一茶は文政7年(1824)の正月をたった一人で迎えた。「もともとの一人前(いちにんまえ)ぞ雑煮膳」正月、一人前の雑煮を前に妻と子を亡くした淋しさの中で、思い返せば江戸生活はずっと一人であったわけで、もともとの独り者に戻ったにすぎないというあきらめの境地を詠んだ[238]

再婚の失敗と中風の再発

9年間連れ添った妻の菊とその間にできた4人の子どもたちを全て亡くし、文政7年の正月を一人で迎え、「もともと自分は独り者であった」との思いを俳句にした一茶だったが、正月早々後添い探しを始めた。一茶は再婚したいとの希望をあちこちに語っていたというが、1月6日(1824年2月5日)には知人である関川(新潟県妙高市)の浄善寺の住職に、急ぎお返事くださいと後妻の紹介を依頼する手紙を送っている[239]

結果として浄善寺の住職に依頼した再婚相手の紹介話は実らなかったが、意外なところから再婚話が持ち上がってくる。これまで弟との遺産相続問題で弟側に立ったり、伝馬役金の免除問題などがあり、一茶との関係が良くなかったと推測されている本家の弥市が一茶の再婚を支援したのである。4月28日(1824年5月26日)、弥市は自らの娘が重い病の床に就いていたのにもかかわらず、一茶の縁談の話をまとめるために飯山に行っている。なお弥市の娘はその後まもなく5月2日(1824年5月29日)に亡くなった[240]

弥市の娘の葬儀は5月3日(1824年5月30日)に行われた。そのようなあわただしい中、5月12日(1824年6月8日)、再婚相手が飯山からやって来て、待望の再婚を果たした。一茶の日記によると再婚相手は雪という名で、飯山藩士田中氏の娘であり、年齢は38歳と記録している。つまり雪は武士の娘であった。一茶の研究家である小林計一郎、矢羽勝幸の研究によって、雪が飯山藩士田中義条の娘だったと推定されている[241]

一茶との結婚時、雪が38歳というのは当時の結婚適齢期から見て大きく外れたものであり、それまでの雪の人生が必ずしも恵まれたものではなかったことが推測される。雪は最初父、田中義条と同じ飯山藩士の安田新助という人物と結婚したと考えられるが、離婚して実家に戻っていた。安田との離婚理由は飯山藩士を召し放たれたため、つまり何らかの理由で夫が藩士を首になり、浪人となってしまったからであるとの推測もある。いずれにしても一茶と雪はともに再婚であった[242]

雪との再婚後、菊との初婚時とは異なり、近所や親戚回り・村役人への挨拶が行われた形跡は無い。それどころか新婚の一茶宅には各地から俳人がひっきりなしに訪ねてきた。全国にその名が轟いていた俳諧師一茶のもとには俳人の来訪が絶えなかった。新婚直後の一茶宅にも普段と変わらず客人がやって来たのである。そして5月30日(1824年6月26日)からは一茶は本業ともいうべき北信濃の門人巡りに出る。一茶は6月中は一回も自宅に戻らず、家を出て39日後の7月9日(1824年8月3日)、ようやく家に戻ってきた。結婚後、近所・親戚・村役人への挨拶もなく、新婚直後からひっきりなしの来客、そして一月以上の夫、一茶の留守という状況は、新婚直後の妻としては厳しいものがあった。ましてや菊とは異なり武士の娘であった雪にとって、農業の経験もなく、これまでの生活習慣との違い等も大きかった。雪は一茶が自宅に戻った直後、飯山の実家に戻り、結局8月3日(1824年8月26日)に離婚、8日(1824年8月31日)には使いが雪の荷物を引き取っていった。こうして一茶の再婚は失敗に終わった[243]

再婚の失敗直後、一茶に更なる不幸が襲った。離婚から1ヵ月も経たない閏8月1日(1824年9月23日)、善光寺町の門人宅で中風が再発し、一命はとりとめたものの明らかな言語障害が残った。中風の再発後、療養を兼ねて北信濃各地の門人宅を回り、12月4日(1825年1月22日)に自宅に戻った[244]

みなぎる創作力

初婚の妻、菊との死別、子どもたちの夭折、再婚相手の雪との離婚、2度の中風と、一茶は様々な家庭的、身体的不幸の中で晩年を迎えていた。しかし2度の中風で身体的に不自由となり言語障害にも見舞われたものの、幸いにも知的能力は障害を受けなかった。文政8年(1825)、63歳の一茶は不自由な体ながら竹駕籠に乗り、204日と年の半分以上、本業である俳諧師匠としての北信濃の門人巡りをこなした[245]

文政8年に一茶が詠んだ句の代表作として「けし(芥子)提げてけん嘩(喧嘩)の中を通りけり」「淋しさに飯をくふ也秋の風」などが挙げられる、けし提げての句は金子兜太、淋しさにの句は鷹羽狩行が激賞している[246]

金子はけし提げての句を本当の意味での俳諧、一茶の代表作と評価している[247]。また蕪村の「葱買て枯木の中を帰りけり」を念頭に作られた句と考え、蕪村の洗練された心象風景に対して、一茶は荒っぽく生臭い心理を演出したとしている。その一方でけし、喧嘩といったカ行の硬質な言葉の繰り返し、喧嘩というぶっきらぼうな言葉使いに一茶らしさが見られるとした。その上で金子はこの句に一茶の若さが感じられると評価する[248]。また阿部完市はこの句に粋で伊達な姿を見るとともに、芥子を提げて喧嘩の中を、一人でもあり大衆の一員でもある一茶がふいと通り抜けていく姿を見ている[249]

鷹羽は淋しさの句には、感傷的な安っぽいものではない、本当の「淋しさ」があると評価している[250]。またこの句には身に染みる凄絶な淋しさとともに、生臭さを感じるという評価もある[251]。一茶の生と性への執念はいまだ涸れ果てていなかった[252]

一茶家の家事や留守時の管理については仁之倉のいとこ、徳左衛門が支援していたと考えられているが、どうやら手が回りかねるようになったらしく、文政8年12月に一茶は家政婦を雇った。そして翌文政9年(1826)、64歳の一茶に再再婚の話が持ち上がることになった[253]

三度目の結婚と死

文政8年(1825)、一茶の近所ではスキャンダルが発生していた。かつて一茶もよく利用していた旅籠の小升屋に奉公をしていた、やをという女性が私生児を生んだ。やをは越後の二股(妙高市)の裕福な農民、宮下家の娘だったが、柏原の小升屋に奉公に出ていた。そこで近所の柏原有数の名家、中村徳左衛門家の三男の倉次郎と親しくなり、倉吉という男の子を生んだ。出産時、やをは31歳、倉次郎はまだ10代であった。中村徳左衛門家は柏原の本陣、中村六左衛門家の分家であり、当時、柏原一の地主である上に富裕な商人でもあった。その中村徳左衛門家のまだ10代の三男坊と、近くの旅籠に奉公に出ていた30過ぎの女性との間に私生児が出来たわけなので、まさにスキャンダルであった[254]

周囲はこのスキャンダルをどのように処理すればよいのか、頭を悩ませた。その中で浮上してきたのが一茶の存在であった。64歳の一茶は独り身でありこのままでは絶家になってしまう。しかし一茶はれっきとした自作農で、後継ぎがいれば家の存続は十分可能である。2度の中風を起こしている一茶は体が不自由で、介護が必要である。そのうえ、倉吉は私生児であるとはいえ父は柏原有数の名家、中村徳左衛門家の三男の倉次郎であり、母のやをも越後二股の富裕な農民、宮下家の娘である。前述のように小林家は柏原でも有力な家系であったが、倉吉は一茶の家を継ぐに当たって家系的に問題が無い。このような思惑から一茶とやをの結婚話が進められることになり、文政9年(1826)8月、仲人役となったいとこの徳左衛門が結納金2朱200文を、やをの実家、越後二股の宮下家に届けた。その後まもなく一茶はやをと3度目の結婚をした。一茶64歳、やを32歳、連れ子の倉吉は2歳であった。しかし一茶3回目の結婚生活もわずか1年3ヵ月しか続かなかった[255]

文政10年(1827)、65歳の一茶は再再婚を果たし、連れ子であるとはいえ後継ぎの目途も立った。一茶にようやく平穏な晩年が訪れるかに思えた。しかし不幸は最後まで一茶の身に襲いかかる。文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原で大火が発生した。出火元は善五郎という人が住む借家であった。火は折からの南風にあおられて燃え広がり、結局柏原宿の8割以上の世帯が焼け出されるという大惨事となった。一茶の家も隣の弟仙六の家も全焼したが、不幸中の幸いにも一茶所有の土蔵は焼失を免れた[256]

やむなく一茶の家族は土蔵を仮住まいとする。土蔵は高いところに窓が一つ空いているだけの、昼も薄暗い住居であった。一茶は不自由な体と言語障害を抱え、手先も震えて書字も不自由になっていた。しかし火災後もそれまでと変わらず俳諧師匠としての門人巡りを続けていた。柏原の大火後、ある門人は、一茶の話している言葉が聞き取りにくく、怒りっぽくなっていて困っていると記録している。他の記録からも晩年の一茶は短気で怒りっぽかったと記されている[257]

火災に焼け出された後の最晩年の一茶の作では「やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ(騒ぐ)」「花の影寝まじ未来が恐ろしき」がよく知られている。焼け土の句は、火事で焼け出された後の焼け土のぬくもりの中、蚤が飛び跳ねる姿を詠んだものであり、加藤楸邨はこの句の「ほかりほかり」という表現が一茶得意の擬態語を駆使した表現の中でも特に完成度が高いものであるとした上で、この句は一茶が現世における様々な苦闘の末にたどり着いた、現状をありのまま受け止めるほのかな明るさを持つ世界であると評価している[258]

一方、花の影の句は、詞書に「耕さずして喰ひ、織らずして着るていたらく、今までばちの当たらぬも不思議なり」とあり、花の影では寝ないようにしよう、死後の世界が恐ろしいからと、忍び寄る死の影を感じながら、農民の子として生まれながらも、耕すことなく生涯を終える罪悪感を詠んでいる[259]

死の影をどこかに感じながらも、一茶は精力的に門人宅を巡回し続け、越後小千谷の片貝にある観音寺に奉納する俳額の撰を行い、約1万5千句から丁寧に選句を行うなど、衰えを感じさせない活動ぶりを見せていた[260]。また9月には徳左衛門に預けていた金から2両1分2朱を引き出して、土蔵の屋根を垂木まで全て取り換える修理を行った。一茶としてはまだまだ死ぬつもりなどなかった[261]

11月8日(1827年12月25日)、俳諧師匠としての巡回指導を終え、一茶は久しぶりに柏原の土蔵に戻った。11月19日(1828年1月5日)、気分が悪くなって横になった一茶はその日の夕刻亡くなった。享年65歳であった。一茶の死は急死に近く辞世は伝わっていない。一茶の遺体は荼毘に付され、遺骨は菩提寺の明専寺裏手にある先祖代々の墓地に合葬された。そして一茶の死去時、妻のやをは一茶の子を身籠っていた[262]

死後における家の存続

一茶が亡くなった翌年の文政11年(1828)4月、やをは女児を出産した。一茶の死後に生まれた次女はやたと名付けられ、夭折した初婚の菊との間の4人の子どもとは異なり、やたはすくすくと成長していく[263]。小林家では一茶を亡くし、やたが生まれた後、未亡人のやを、実父が中村徳左衛門家の三男倉次郎である倉吉、一茶の娘であるやたの3人で暮らしていた。しかし中村徳左衛門家で倉次郎の2人の兄が相次いで亡くなったため、家を継ぐことになった倉次郎は、天保6年(1835)には実子の倉吉を引き取った上で善吉と改名させた。その後、善吉は分家して新たに一家を創立する[264]

結局、小林家は未亡人のやをと、一茶の子のやたの二人となった。無事に成長したやたは嘉永元年(1848)頃、越後の高田(上越市)で農業を営んでいた丸山仙次郎の8男であった宇吉を婿に取った。小林姓となった宇吉は弥五兵衛と改名し、妻のやたとの間に3男1女の子宝に恵まれた。生前、一茶の念願でもあった家の存続は、一茶の死後に生まれたやたによって、ようやく果たされた形となった[265]

名前生年月日(旧暦)死亡日(旧暦)死亡時の年齢(数え)
千太郎(長男)文化13年(1816)4月14日文化13年(1816)5月11日1歳
さと(長女)文政元年(1818)5月4日文政2年(1819)6月21日2歳
石太郎(次男)文政3年(1820)10月5日文政3年(1820)11月11日1歳
金三郎(三男)文政5年(1822)3月10日文政6年(1823)12月21日2歳
やた(次女)やを文政11年(1828)4月明治6年(1874)9月13日47歳

風貌と身体的特徴

一茶の風貌については、明治32年(1899)頃から一茶研究を始めた束松露香が、一茶のことを知っているという柏原の古老から聞いたというインタビューが残っている。一茶は文政10年(1827)に亡くなっているので死後70年以上経過しての情報となり、信憑性に疑問がないわけではないが、身長はさほど高くなく、体格はやや横太り。顔つきは目が落ちくぼんでいて目じりは切れ長、額が広くて皺が深く刻まれ、頬はふっくらとして頬骨が張っている。鼻は小鼻が大きく、口は大きく唇も厚い。頭や手足は大きく、中でも手の指は太くて節くれだって見えたとしている[266]

このインタビューの内容は、残されている一茶の肖像画、そして木像と比較的よく一致している[267]。また足が大きかったことは書簡からも明らかになっている。足が大きかった一茶は、雪道で履く藁ぐつが既製品では間に合わず、特注品を使わねばならなかった。一茶は預けておいた雪ぐつが心配になって「私の雪ぐつは特注品の大きなもので、失くしてしまったら作るのに時間がかかってしまうので、きちんと預かっておいて欲しい」と、頼んだ書簡が残っている[268]

一茶は若い頃は健康に恵まれていた。例えば6年余りに及んだ西国俳諧行脚時、厳しい旅となったことも再三あったにもかかわらず一度も風邪を引かなかったという。また一茶は極めて健脚であった。江戸から故郷柏原まで5泊6日で歩くことが多く、これは一日に10里あまりを踏破する計算となり相当な強行軍である。一茶を含め5人で江戸から柏原へ向かったこともあったが、一茶のみ足が速くて先に行ってしまい、途中であとの4人を待っていたこともあったという[269]

ただ一茶は歯が悪く、50歳前には全ての歯を失ってしまった。また50歳を過ぎると皮膚病、そして瘧(マラリア)にしばしば罹ったとの記録が残っている。58歳の時に中風に罹る以前、一茶の病気というのは歯、皮膚病、瘧くらいであり、中風に罹る以前の一茶はおおむね健康を保ってきたといえる[270]

研究と顕彰史

小林一茶の研究史については、昭和31年(1956)に、尾澤喜雄が提唱した時代区分が概ね研究者の間で引き継がれてきている。尾澤が提唱した時代区分を基に、研究史の時期として定着しているのは次の5期に区分する見解である[271]

  • 一茶没後から明治20年代頃まで
  • 明治20年代頃から大正初期
  • 大正初期から昭和初期
  • 昭和10年代
  • 戦後以降

一茶没後から明治20年代頃まで

句碑の建立

一茶の死後まもなく、故人を顕彰する二つの動きが始まった。句碑の建立と一茶の句集の編纂である。句碑の建立は一茶の門人たちが大きな役割を果たしたのはもちろんであるが、経済面については弟、仙六が一茶の門人、旧友たちに広く費用の寄付を募るなど、大いに尽力した。生前の一茶とは父の遺産問題で激しく対立し、上手くいかなかった間柄であったが、亡兄一茶の句碑建立に向けて地元柏原で先頭に立ったのは仙六だった[272]

膨大な一茶の俳句の中から、どの句を撰んで碑に刻むかについては、門人たちの中で様々な議論が交わされた、結局撰ばれた句は「松影に寝てくふ六十よ州かな」であった。この句の松影とは松平氏、すなはち徳川家を暗喩している。つまり松の影、徳川氏のお陰をもって日本全国六十余州は寝て暮らしている、天下泰平を謳歌していると、徳川の平和を称えた句である[273]。この句は一茶にとっての自信作であり、そのことを知っていた門人たちが撰んだと見られている[274]。また句碑に刻む句の決定には、文政10年(1827)の大火の後、復興に向けて歩みだしていた柏原の事情も関わっていたと考えられる。句碑は北国街道沿いの柏原宿の入口に当たる場所に立てられることになった。大火からの復興の象徴として、徳川家の支配を寿ぐ一茶の句を句碑に刻むことになったのである[275]

碑の裏面には句の作者である一茶の紹介が漢文で刻まれた。碑文は中野代官大原四郎左衛門の代官付きの役人であった大塚庚作の作で、表の句と碑文の揮毫も大塚が行った。大塚が深い教養を持ち、人望もあったため、碑文の起草を依頼されたと考えられている。作成から200年近く経過し碑文の一部が摩耗して読めなくなっているが、天保3年(1833)の紀行文の中で全文が紹介されている[276]

一茶の句碑は三回忌にの文政12年(1829)、柏原宿の入口に建立されたと考えられている。そして明治9年(1876)、道路拡張工事に伴い句碑は諏訪社境内に移された。なお、かつては明治11年(1878)に行われた明治天皇の北陸巡幸に際し徳川家の支配を寿ぐ碑が街道沿いにあることが問題視され、諏訪社に移されたとの説が唱えられたが、それは誤りである[277]

一茶発句集の刊行

一茶の没後、遺稿はあまり散逸することなく遺族や門人たちの手に残ったと考えられている。そして14名の有力門人たちは共同で一茶の句集を編纂、出版することになった。句集は「一茶発句集」と名付けられ、文政12年(1829)、一茶の三回忌に出版された。14名の有力門人たちの中には、かつて激しく対立した門人も含まれていたが、師の追善句集の出版にはかつての行きがかりを捨て協力した[278]。なお、「一茶発句集」は信濃の地方出版ではあったが、相当部数が出版されたものと考えられている[279]

一茶晩年の愛弟子だった山岸梅塵は一茶発句集の編纂出版に加われなかった。このことを嘆いた梅塵は独自に「一茶発句集」に撰ばれなかった句から「一茶発句集続編」を完成させる。これは「一茶発句集」の追補に当たる内容だったが、完成したものの出版されなかった[280]

また門人の西原文虎は、一茶が亡くなった文化10年(1827)に「一茶翁終焉記」を執筆する。門人たちの手による「一茶発句集」「一茶発句集続編」「一茶翁終焉記」は作品や一茶自身についての研究の始まりとなった[281]

江戸時代における一茶の著作出版

「一茶発句集」の出版は、門人たちによる亡き師匠に対する顕彰、追善の意味合いが強かったが、嘉永元年(1848)、一茶のことを私淑していた今井墨芳の手によって、長野の書肆向栄堂から嘉永版の「一茶発句集」が出版された。当時、没後20年以上も経ってから句集が発行されるのは異例なことであり、一茶に根強い人気があったことがわかる。この嘉永版「一茶発句集」は、その体裁から江戸の版元に依頼して印刷・製本したと考えられている。文政12年(1829)刊行の「一茶発句集」との大きな違いは営利目的の出版だったことである。嘉永版「一茶発句集」は信濃ばかりでなく江戸でも販売を行い、数種類の版が確認されておりかなり売れたものと考えられる[282]

そして嘉永5年(1852)には「おらが春」が出版される。出版したのは中野の白井一之である。白井は一茶の門人、山岸梅塵が所有していた一茶筆の「おらが春」を譲り受け、出版に踏み切った。一茶筆の原本には題名が付いていなかったが、白井が出版する際に、巻頭文に続く句「目出度さもちう位也おらが春」から「おらが春」と命名した[283]

白井による「おらが春」の出版は、あくまで私家版であって長野で少部数が流通したに留まったが、初版の「おらが春」には体裁が違うものが確認されており、売れ行きが良く増刷されたものと考えられている[284]

「おらが春」初版本の跋文は、俳人の惺庵西馬が執筆した。西馬は「(一茶の)発句のをかしみは人々の口碑に残りて世の語り草となるといへどもただに俳諧の皮肉にして此坊(一茶)の本旨にはあらざるべし…ざれ言に淋しみを含み可笑(おかしま)にあはれを尽くして人情世態無常観想残すところ無し」と、一茶の作品の本質を的確に表現した[285]

嘉永7年(1854)、初版本の版木をそのまま用い、江戸の神田新石町の書肆、須原屋源助が「おらが春」を再刊する。ただし当時は「おらが春」の知名度がほぼ皆無だったため、俳句界では名が通っていた一茶の名を用い、「一茶翁俳諧文集」と題して売り出した。須原屋源助は俳書の専門出版業者ではなかったが、売れ行きを見込んで出版に踏み切ったものと考えられている。なお、須原屋源助に「おらが春」を紹介したのは嘉永版「一茶発句集」を出版を手掛けた今井墨芳だと見られている。

明治中期までの一茶像や評価は、江戸時代に出版された文政版、嘉永版の「一茶発句集」「おらが春」によって形作られた。中でも一茶の俳文の代表作である「おらが春」は、一茶の名を全国に広める上で大きな役割を果たした[286]。なお、白井一之による「おらが春」の版木は大正12年(1923)、関東大震災による火災で焼失するまで発行者・出版社を変えつつ使用され続けた[287]

なお、没後も一茶の評価は俳句愛好者の間では高いものがあった。それは一茶の書が高値で取引されていたことからも明らかである。没後、一茶は埋もれてしまったわけではなく化政期を代表する俳人として不動の評価があった。一茶の高い評価の背景には江戸期に刊行された文政版・嘉永版の「一茶発句集」「おらが春」が影響していた[288]

俳句界への影響力

前述のように一茶自身の知名度は没後も落ちなかったが、一茶の影響は門人までに止まり、その後は続かなかった。一茶の庵号「俳諧寺」も跡を継ぐ者はなく[† 17]、一茶の門人から俳諧師となった者もおらず、一茶の作風を継ぐ門人もいなかった。これは同時期に信濃で活躍した他の俳諧師匠と比較してみても、同時代そして次以降の世代に及ぼした影響は小さかった[289]

一茶は当時の俳壇に反発し、人間の生の声を反映させた句を詠もうとあくなき挑戦を続けた。一茶の挑戦は成功し、読む人に強い衝撃を与える個性的な句を次々と生み出したが、その句は彼の人生や性格に基づく極めて個人的なものであり、当時の俳壇に一茶の句作の手法が広まることはなかった[290]

一茶と親交が深かった夏目成美は「君が句は皆一作あり予がごときが不才はその所に心至らずいはば活句といふべし」と、個性豊かな一茶の句を高く評価していた。また、惺庵西馬の「おらが春」跋文のような例もあるが、一般的には奇人・滑稽な句を詠む俳人という評価が中心で、江戸期には一茶の作品が正当に評価されていたとは言いがたい[291]

明治前期における評価

一茶の評価については、明治になってからも江戸期と大きく変わらない状態がしばらく続いた。嘉永7年(1854)に江戸の神田新石町の書肆、須原屋源助によって2刷本が発行された「おらが春」は、版木が再び初版を出した白井一之の手に戻った。白井は刊記に年号の記載がないため発行時期は明らかではないが、題名を「おらが春」に戻して3刷を発行、発売している。そして明治11年(1878)、白井一之が出版、販売は長野の書店主だった西沢喜太郎が4刷本を刊行した。4刷本は基本的に嘉永5年(1852)の初版時の版木をそのまま使用している。4刷本の中には木版の破損によると思われる印刷状態の変化が確認されており、かなりの部数印刷されたと考えられている。このように「おらが春」は初版の版木を用いて幕末から明治にかけて刷を重ねており、当時の一茶に対する根強い人気が想定される[292]

「おらが春」ばかりでなく文政版「一茶発句集」も、文政の版木を用いて明治初年から明治36年(1903)に至るまで、複数回発行された。また、明治中期に至るまで俳人の短冊の市価においても一茶はやはり高評価を保ち続けていた。明治に入っても一茶は決して忘れ去られた訳ではない[293]

明治前半にはまた、江戸時代の俳人の系譜を継ぐ旧派の俳人たちが一茶を評価・紹介していた。明治16年(1883)、惺庵西馬の弟子にあたる三森幹雄は自らが主宰する俳句誌上で一茶を高く評価する。幹雄は更に明治26年(1893)、自著の中で一茶の評伝を紹介し、その俳風を高く評価した。幹雄の一茶観は師であり、「おらが春」初版本の跋文を執筆した惺庵西馬の影響が大きかったと考えられる。同じく旧派の俳人だったと考えられる井原亭も、明治19年(1886)ごろに一茶句集の発行を計画し、幕末から明治時代にかけて活躍した俳人である師匠の内海良大に序文を依頼している。実際に一茶句集が発行されたかどうかは不明で良大の序文のみが伝えられている。序文では「一世の秀吟また多し」と、一茶の句に秀作が多いことを指摘していた。このように一茶は近代に入り、まず旧派の俳人たちによって評価され始めた[294]

正岡子規の一茶評価

明治25年(1892)ごろから、俳句改革の旗手であった正岡子規が一茶に注目し始めたと考えられている。子規が新聞日本紙上で連載していた「獺祭書屋俳話」の中で、一茶について紹介していたことが確認できる。更に子規は明治30年(1897)刊行の「俳人一茶」の中で、一茶の句の特徴は滑稽・風刺・慈愛の3要素にあるとして、中でも滑稽は一茶の独壇場であり、その軽妙な作風は俳句数百年の歴史の中で肩を並べる者が見当たらないと賞賛した。また子規の門人であった佐藤紅緑は、世間一般では一茶の知名度は低く、たとえ知っていても川柳作者に近い俳人といったイメージしかなかったが、師匠の子規が一茶の価値を認め、その魅力について教えられたお蔭で一茶に傾倒するようになったと回想している[295]

なお、正岡子規が一茶について評論を載せた「俳人一茶」は宮沢義喜と宮沢岩太郎が編集し、正岡子規の校閲・批評を加えて東京の三松堂から出版された。この「俳人一茶」は、内容的に不備や不正確さを抱えながらも、まとまった形で一茶の伝記・作品が全国で初めて書籍化されたものだ。「俳人一茶」は世間での一茶の評価を高め、これまで俳句界における知名度は決して低くなかったものの、地方の一俳人に過ぎなかった一茶が芭蕉・蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人であるとの評価を生み出すきっかけとなった[296]

俳諧寺一茶の刊行

正岡子規の一茶評価と期を同じくして、一茶の故郷である長野県でも再評価の動きが始まっていた。明治26年(1893)、一茶の故郷の柏原を訪れた俳人小平雪人が再評価の糸口を作った。その結果、一茶ゆかりの旧本陣中村六左衛門家の末裔である中村六郎らの手によって一茶の資料発掘が進められた。明治には一茶の顕彰を目的とする「玉声会」が発足し、更に中村六郎は明治41年(1908)、「一茶同好会」を結成した。明治末期、一茶の著作として新たに「七番日記」「父の終焉日記」が出版された[297]

明治40年(1907)には一茶の菩提寺・明専寺で一茶翁追悼八十年法要が営まれ、これが「一茶忌」行事の先駆けとなり、明治43年(1910)には当時の柏原駅長の呼びかけにより、故郷柏原の人たちの手によって明専寺裏手の小丸山公園に一茶を偲ぶ「一茶俤堂」という茅葺の小さなお堂が建てられた。一茶俤堂はいつしか一茶の庵号であった「俳諧寺」と呼ばれるようになり、地元の人たちの句会などに使用されるようになった[298]

明治33年(1900)4月から9月にかけて信濃毎日新聞紙上で「俳諧寺一茶」が連載された。著者は信濃毎日新聞の記者で俳人でもあった束松露香だった。明治43年(1910)には一茶同好会の手によって新聞に連載された内容をもとに単行本「俳諧寺一茶」が刊行された。刊行には一茶同好会の代表者だった中村六郎の尽力が大きかった[299]

「俳諧寺一茶」は、内容的に不正確な部分が多いとの批判もあるが、初の本格的な一茶研究の成果であり、一茶研究者の多くが世間に広く一茶の全貌を紹介した意義を高く評価している[300]。露香が描いた一茶像は「笑いの中に涙を湛える飄逸なる詩人」であった。この人物像が一茶評価のひとつの典型として受け入れられていく[301]

「俳諧寺一茶」で紹介された一茶像において「笑いのなかに涙を湛える飄逸なる詩人」のほかに注目されるのが国家主義者としての一茶である。一茶は日本びいきの俳人であり、束松露香は日本賛美の句を作っていたことに着目したのである。この国家主義者としての一茶像は明治後期の社会と政治情勢の影響を受けたものと考えられ、明治末期に一茶が学校教育に取り上げられるに際し、国家主義者としての像が大きく扱われた[302]

大正初期から昭和初期

明治末期以降、自然主義文学の流行のなかの「父の終焉日記」「七番日記」の出版は、一茶を日本における自然主義文学の草分けの地位に押し上げた。自然主義を標榜する文芸評論家の相馬御風は、大正時代に一茶を煩悩人として評価する説を発表している。大正から昭和初期にかけて一茶研究に大きく貢献した人物に荻原井泉水がいる。自由律俳句の俳人だった井泉水は自らの主張と一茶の句との共通点を見出し、一茶を高く評価して多くの評論を執筆するとともに一茶研究に努めて多くの作品を紹介した[303]

一茶の地元、長野県の一茶顕彰、紹介の活動もまた活発だった。信濃教育会は大正末期から昭和初期にかけて一茶研究の基礎資料として重んじられた「一茶叢書」を刊行する。大正15年(1926)は一茶の百回忌に当たり、各地でさまざまな催しと出版が行われた。地元長野では善光寺と柏原で盛大な追悼行事が催され記念出版が行われた[304]

俳句専門の文学者の勝峯晋風の活躍も見逃せない。晋風は大正時代から一茶の紹介に努めていたが、昭和2年(1927)に「日本俳書大系」シリーズで文化文政期を「一茶時代」と名付け、一茶を芭蕉・蕪村と並称し、「芭蕉一代集」「蕪村一代集」とともに「一茶一代集」を刊行した。その後、一茶は芭蕉・蕪村に並ぶ存在として広く知られるようになった[305]津田左右吉が江戸時代の平民文学における一茶を高く評価したことも注目される[306]

この時期一茶の知名度向上に大きな影響を与えたのが大正7年(1918)から昭和7年(1932)まで使用された第三期国定教科書に一茶の句が採用されたことであった。大正時代の従来より自由主義的な社会情勢となり、教育現場では児童の個性尊重が唱えられ、芸術作品が教材に多く取り上げられた。平易で親しみやすい一茶の俳句は教材として格好の材料であった。教科書に載った一茶の句に「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」「やれ打つな蠅が手をすり足をする」「やせ蛙負けるな一茶是にあり」がある。これらの句の知名度は極めて高く、教科書への掲載は一茶の句の大衆化に大きな原動力となった[307]

1935-45年

1910年代から盛り上がりを見せた一茶ブームが一段落し、1935年から1945年にかけて従来の一茶研究の成果が見直された。唯物史観精神分析学の知見を援用した一茶像構築の試みや一茶の低俗性に焦点を当てた研究などが見られた。文献研究も従来より精緻なものが発表され、一茶研究は質的にも深化していった[308]

1930年前後、一茶の故郷柏原では一茶の顕彰事業が進められた。柏原村の村長が発起人となって昭和3年(1928)に「一茶翁遺物保存会」が結成された。昭和4年(1929)には一茶の曽孫の小林弥太郎が一茶終焉の土蔵を柏原村に寄贈し、昭和8年(1933)にはその土蔵が長野県の史跡に指定された。小林弥太郎は昭和11年(1936)、一茶の110回忌には土蔵の隣に一茶位牌堂を建て「釈一茶不退位」と書かれた位牌を納めた[309]

昭和17年(1942)、従来の一茶研究の集大成というべき伊藤正雄の「小林一茶」が刊行され、一茶を<農民詩人>として日本の文学史上特筆すべきだとし、一茶<農民詩人>像を確立した。同書は一茶研究における画期として評価されている[310]。1940年前後の一茶研究の特徴として<農民詩人>としての一茶と明治末期の「俳諧寺一茶」で示された<国家主義者>としての一茶像の結合が見られた。土を愛し国体を賛美する土着の<国家主義者>とされた一茶像は当然ながら1940年前後の社会情勢と深く関わっている[311]

1945年以降の一茶研究

1945年以後は地元柏原の俳諧寺一茶保存会、俳人栗生純夫主催の俳句誌「科野」、信濃教育会の活動が一茶研究を牽引した[312]。昭和21年(1946)創刊の「科野」は毎年のように一茶特集号を組んで全国各地の一茶研究家の論文を掲載するとともに「まん六の春」「一茶翁終焉記」など新資料の発掘を行った[313]。信濃教育会は昭和27年(1952)に雑誌「信濃教育」2月号を一茶特集とし、昭和28年(1953)には全国の一茶研究者を集め一茶研究講座を開催した。そして信濃教育会は昭和53年(1978)に「一茶全集」全9巻の刊行に漕ぎつける[314]

また、従来注目されなかった連句や北信濃・房総など一茶と各地域との関係性の研究、歴史学からの一茶研究など、多様な形の一茶研究が進んだ[315]藤沢周平井上ひさし田辺聖子は一茶を扱った伝記小説や戯曲を発表している[316]

一茶像については俗人・煩悩人としての一茶像が提唱されるようになった。他に野人一茶・農民気質を持った俳人などの一茶像が描かれたが、それらもまた基本的に戦前までに唱えられてきたものの延長線上にあり、一茶の研究史から見てとりたてて新たな一茶像が見出されたわけではない。多様な一茶像のなかで、時代や社会背景の変化に伴って注目点が異なってきていることは明らかである[317]

今後の一茶研究の課題としては、まず蕪村などよりも進んでいるとされる伝記面の研究に対し、作品研究が立ち遅れているとの指摘がある。とくに個々の作品、著作についての研究の深化とともに、連句の研究を進めていくこと、一茶が俳壇に身を置いた天明期から文政期までの俳壇における位置づけなどの課題が挙げられている[318]。また一茶の資料的なものはほぼ出揃った感があるなか、学際的な研究を進め、文学方面ばかりでなく、より広い視野から一茶の実像を見直すことが求められているとされる[319]

著作

生前に出版された著作(句集)

  • たびしうゐ(旅捨遺):寛政7年(1795年)刊行。西国俳諧行脚の成果を示す一茶初の撰集である[429]
  • さらば笠:寛政10年(1798年)刊行。西国俳諧行脚を終えて江戸へ戻る記念の撰集[430]
  • 三韓人:文化11年(1814年)刊行。江戸俳壇を引退し信濃へ戻る一茶の、江戸俳壇引退記念撰集[431]

一茶が編集した門人の句集

  • あとまつり:文化13年(1816年)刊行。門人魚縁の一茶が編集したもの[430]
  • 杖の竹:文化14年(1817年)刊行。門人松井松宇の句集を一茶が編集したもの[431]
  • たねおろし:文政9年(1826年)刊行。門人住田素鏡の句集を一茶が編集したもの[431]

一茶が主催した月並句会の出版物

  • 一茶園月並:文化元年(1804年)から文化2年(1805年)にかけてのものが残っている。発行時期はもう少し長い可能性がある[432]

生前に出版されなかった著作(句集、句文集、句日記)

  • 寛政句帖:寛政4年(1792年)から寛政6年(1794年)にかけての一茶自筆の句帖。確認されている中で一茶の最も若い時期の句帖である[433]
  • 西国紀行:西国への俳諧行脚中であった寛政7年(1795年)の紀行文[434]
  • 寛政三年紀行:寛政3年(1791年)の帰省時の状況を描いた紀行文。いったん寛政3年頃に作成したものを、文化3年(1806年)から文化5年(1808年)頃にかけて再編集、清書したと考えられている[435]
  • 父の終焉日記:享和元年(1801年)、帰省中であった一茶が父の死を看取った際の句文集[436]
  • 享和二年句日記:享和2年(1802年)の自筆句日記控え[437]
  • 享和句帖:享和3年(1803年)の自筆句日記[437]
  • 文化句帖:文化元年(1804年)から文化5年(1808年)にかけての自筆句日記[438]
  • 花見の記:文化5年(1808年)春、上野から浅草界隈を散策した一茶自筆の紀行文[438]
  • 草津道の記:文化6年(1809年)、江戸から草津温泉へ向かう紀行文[434]
  • 七番日記:文化7年(1810年)から文化15年(1818年)にかけての自筆句日記[439]
  • 我春集:文化7年(1810年)末から文化9年(1812年)初めにかけての作品集[440]
  • 文化十年句文集:文化9年(1812年)から翌文化10年(1813年)にかけての句文集[441]
  • 株番:文化9年(1812年)から文化11年(1814年)にかけての句文集[433]
  • 志多良:文化10年(1813年)の句文集[442]
  • 浅黄空:文化年間後半から文政年間にかけての一茶自撰の句集[443]
  • 八番日記:文政2年(1819年)から文政4年(1821年)にかけての句日記[438]
  • おらが春:文政2年(1819年)の句文集[430]
  • 文政句帖:文政5年(1822年)から文政8年(1825年)にかけての句日記[441]
  • まん六の春:文政5年(1822年)の句文集[444]
  • 一茶自筆句集:寛政5年(1793年)から文政8年(1825年)までの句の中から一茶が撰びだした、自撰句集[443]

その他(住所録、書物の抜書など)

  • 知友録:寛政年間初期に作成した全国各地の俳人の住所録[445]
  • 急逓記:寛政10年(1798年)から文化6年(1809年)にかけての一茶着発の書簡控え[437]
  • いろは別雑録:寛政初年から文化年間半ばまで書き継がれた一茶自作の語彙集[446]
  • 方言雑集:方言、そして古語、俗語を収録した一茶自作の語彙集。駆け出し時代から晩年に至るまで増補しつづけていた[444]
  • 随斎筆記:随斎(夏目成美)の諸国俳人秀句集の中から一茶が抄録を作成したものを母体として、更に全国の俳人の秀句を追記したもの。急逓記以後の一茶着発の書簡控えも兼ねた[439]
  • 句稿消息:一茶が夏目成美に自作の句の批評、添削を仰いだもの[434]
  • 一茶留書:文化末期から文政初年にかけての諸書の抄録[443]
  • 俳諧寺抄録:晩年の文政6年(1823年)から文政9年(1826年)にかけて作成した諸書の抄録[445]

登場作品

小説、戯曲

映画・テレビなど

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1.  「父の終焉日記」の前書き部分で、一茶は自らのことを「信之」と名乗っているが、信之という名乗りはこの時のみである上に、農民の名として似つかわしくないことから、小林(1986)p.23では一茶の作り話としている。
  2.  寛政4年(1792年)の柏原本村の戸数148戸、人口は694名、文化14年(1817年)の戸数、人口はそれぞれ148戸、702名であった。
  3.  弟、仙六は専六という資料もあり、そして後に弥兵衛と呼ぶ。ここでは基本的に矢羽(2004)、青木(2013a)、高橋(2017)での記述に従って仙六とする。
  4.  津田(1966)p.271によれば、津田左右吉は一茶は継母から虐待を受けていたと判断している。
  5.  矢羽(1995)p.49では、小林一茶の研究家の丸山一彦、小林計一郎が、天明7年の渭浜庵執筆一茶は小林一茶ではなく他の一茶を名乗った人物なのではないかとの疑問を紹介している。しかし小林計一郎は後の自著、「一茶 その生涯と文学」p.105、p.182において天明7年の渭浜庵執筆一茶は小林一茶であるとし、すでに定説となっていると認めており、また大谷(2010)p.14、一茶記念館刊行の「解説 一茶の生涯と文学」p.25でも同様の紹介がなされている。ここでは天明7年(1787年)春に刊行された真砂古に入集している渭浜庵執筆一茶は、小林一茶であることは有力な説であるとの記述とする。
  6.  矢羽(1995)p.27によれば、一茶という俳号を名乗った人物は、小林一茶以前から同年代までに6名、そして死後に1名の計7名いたことが確認されている。
  7.  本文でも既述したように「寛政三年紀行」は一茶29歳の寛政3年に原本が作られ、40代半ばに改作されたものが残っている。金子(2012)p.98では、寛政三年紀行で述べられている一茶の思想は、29歳時点ですでに形作られつつあって、40代半ばの改作時に整理した形として記述されたとしている。
  8.  矢羽(2004)p.162によれば、父の終焉日記という題名は束松露香によるものであり、束松の命名が定着している。
  9.  父の終焉日記には、父の遺言状について特に記載されていない。後藤、宗村(2016)p.142 では、その後の遺産相続問題の経緯から見て、遺産を均分相続させるとの内容の遺言状が実在したことは間違いないと判断している。
  10.  青木(2012)p.54によれば、随斎とは夏目成美の別号である。
  11.  一茶園月並の実施期間は、残存資料から文化元年(1804年)4月から文化2年(1805年)6月までの1年あまりとされている。矢羽(1994)p.8では前後もう少し長い期間行われていた可能性もあるとしている。
  12.  矢羽(2013)p.25、玉城(2013)p.333で説明がされているように、句中のきりぎりすはコオロギのこと。
  13.  花嬌の生年は不明であるが、矢羽(1993)p.515では一茶よりも一回り程度年長であると推定している。ただし小林(2002)p.135によれば、研究者によって推定年齢にはかなりの幅があり、矢羽の推定よりも10歳前後年長、年少の推定もあり、最も高齢の推定と年少の推定では20歳程度の開きがある。最も年少の推定によれば、花嬌は一茶よりも数年年長程度となる。
  14.  遺産分割解決の時期は、矢羽(1993)pp.50-51では8月、小林(2002)p.63では11月とされている。ここでは合意文書である「取極一札之事」が11月に交わされたとの記述とする。
  15.  高橋(2017)p.94によれば、文化10年(1813年)4月25日、問題の訴訟は柏原宿など三宿側の実質勝訴で決着した。
  16.  矢羽(1993)p.77によれば、一茶は弟仙六から引き渡された布団にはぼろ布切れなどが詰めてあったのに対し、門人からは鳥毛の布団が贈られたと記録している。
  17.  いいづな歴史ふれあい館(2012)p.6によれば、芋川の門人草間由水が慶応2年(1866年)当時「俳諧寺由水一茶継承者」を自称し、さらに由水の門人にあたる古町(飯綱町)の上野一翁が明治32年(1899年)俳諧寺二世襲名披露を企画したが、一翁に対抗していた泥ノ木(長野市豊野町)の丸山可秋が先手を取り一茶家子孫の許しを得て二世を襲名してしまったため、一翁は三世を自称した。
  18.  栗山(1976)pp.294-296では、近代俳句の中でオノマトペを上手く用いたとされる川端茅舍と一茶の句との比較検討がされている。

出典

  1.  一茶ゆかりの里(1997)p.30
  2.  小林(2002)p.4
  3.  矢羽(1993)p.11
  4.  小林(2002)p.2
  5.  小林(2002)p.29
  6.  小林(2002)pp.4-8、p.10
  7.  小林(1986)pp.1-3、矢羽(2004)pp.5-6
  8.  小林(1986)p.2、矢羽(2004)pp.2-5
  9.  金子(1976)p.446、渡邊(2015)p.29
  10.  金子(1976)p.446、加藤(2001)pp.303-304、玉城(2013)pp.197-198
  11.  尾澤(1951)pp.310-311 、高橋(2017)pp.38-40
  12.  小林(1986)pp.4-7、矢羽(2004)pp.6-7
  13.  小林(2002)pp.59-60、高橋(2017)pp.52-53
  14.  小林(1986)p.18、高橋(2017)pp.54-55
  15.  小林(2002)pp.43-45 、高橋(2017)pp.48-49
  16.  小林(2002)p.45、p.70
  17.  矢羽(2004)p.7
  18.  矢羽、湯本(2005)pp.189-190
  19.  矢羽(1993)p.3
  20.  小林(1986)p.18
  21.  尾澤(1951)p.87、p.95、p.101、小林(2002)p.19、p.52
  22.  小林(2002)p.55
  23.  小林(1987b)p.118
  24.  小林(1986)pp.10-13、小林(2002)pp.52-55
  25.  小林(2002)p.52
  26.  小林(2002)p.57
  27.  小林(2002)pp.58-59、後藤、宗村(2016)p.136
  28.  小林(1986)pp.13-16、小林(2002)pp.59-60
  29.  小林(1986)pp.11-12、pp.128-130
  30.  矢羽(1994)p.16、小林(2002)p.44
  31.  小林(1986)pp.18-19、矢羽(1993)p.3
  32.  小林(1986)pp.21-24、矢羽(1993)p.4、矢羽(2004)pp.8-10
  33.  小林(1986)pp.26-29、青木(2012)pp.56-62
  34.  矢羽(1994)pp.2-3、矢羽(2004)pp.12-14
  35.  小林(1986)p.24、矢羽(1993)p.4
  36.  小林(1986)p.32、矢羽(2004)p.11
  37.  小林(1986)p.32、矢羽(2004)pp.81-82
  38.  栗山(1976)p.235、小林(2002)p.20、矢羽(2004)pp.12-13
  39.  栗山(1976)p.299、加藤(2001)pp.321-322、玉城(2013)pp.448-449
  40.  矢羽(2004)pp.95-96
  41.  矢羽(2004)pp.14-15
  42.  小林(2002)p.182、矢羽(2004)pp.16-17、一茶記念館(2004)p.25
  43.  矢羽(1993)p.496、矢羽(1994)p.4、矢羽(2004)p.17、大谷(2010)p.14
  44.  井上(1987)pp.372-378、大谷(2010)pp.17-18
  45.  矢羽(1993)pp.5-6、矢羽(2004)pp.22-24
  46.  矢羽(1993)pp.495-497
  47.  矢羽(2004)pp.20-22
  48.  矢羽(1993)p.198、矢羽(1995)pp.17-18、玉城(2013)p.74
  49.  矢羽(1995)p.27
  50.  矢羽(2004)pp.39-40
  51.  矢羽(1993)p.6、矢羽(2004)pp.24-26
  52.  矢羽(2004)pp.27-29
  53.  小林(1986)p.55、矢羽(2004)p.27
  54.  小林(1986)p.53、矢羽(2004)pp.30-31
  55.  矢羽(2004)pp.31-33、金子(2014)pp.3-4
  56.  矢羽(2004)pp.33-34、金子(2014)p.7
  57.  小林(1986)pp.57-58、矢羽(2004)pp.6-7、p.38
  58.  矢羽(2004)pp.38-41、pp.74-75
  59.  小林(2002)p.21、大谷(2010)p.18、渡邊(2015)p.92
  60.  小林(1987a)p.36
  61.  小林(1987a)p.36、矢羽(2004)pp.41-42
  62.  小林(1987a)p.36、矢羽(2004)pp.42-43
  63.  矢羽(2004)pp.44-49、渡邊(2015)pp.95-96
  64.  小林(1986)p.72、矢羽(2004)pp.50-51、金子(2014)p.28
  65.  矢羽(2004)pp.51-57、渡邊(2015)p.96
  66.  矢羽(2004)pp.57-63、p.68
  67.  矢羽(2004)p.63、渡邊(2015)pp.97-98
  68.  小林(2002)p.188、矢羽(2004)pp.156-157
  69.  矢羽(2004)p.46、渡邊(2015)pp.96-103
  70.  青木(2013a)pp.86-87、渡邊(2015)pp.104-107
  71.  矢羽(2004)pp.64-70
  72.  矢羽(2004)pp.74-79、渡邊(2015)p.110
  73.  矢羽(1995)pp.239-240
  74.  矢羽(2004)pp.72-74、金子(2014)p.29、渡邊(2015)pp.119-120
  75.  小林(2002)pp.60-61
  76.  小林(2002)pp.60-61、矢羽(2004)p.81
  77.  小林(2002)pp.61-62
  78.  小林(1986)p.86
  79.  渡邊(2006)pp.326-329
  80.  小林(1986)pp.86-87、小林(2002)p.22、矢羽(2004)pp.162-163
  81.  小林(1986)p.93、矢羽(2004)p.80、pp.163-165
  82.  マブソン青眼「『父の終焉日記』の文体にみる比喩表現」、俳文学会刊行『連歌俳諧研究』・100号・2001年2月
  83.  小林(1986)p.95、矢羽(2004)pp.80-81、p.165
  84.  小林(1986)p.89、小林(2002)pp.58-59、矢羽(2004)p.81、後藤、宗村(2016)p.136
  85.  小林(1986)pp.89-90、矢羽(2004)pp.81-82、青木(2013b)p.49
  86.  小林(1986)p.93
  87.  小林(2002)p.190、玉城(2013)p.264
  88.  小林(1986)p.94、小林(2002)pp.190-191
  89.  小林(1986)p.191、矢羽(2004)p.82
  90.  矢羽(2004)p.82、p.166
  91.  渡邊(1992)pp.117-118、丸山(2000)p.17、矢羽(2004)pp.166-169
  92.  小林(1986)pp.96-99、矢羽(2004)pp.84-85
  93.  小林(1986)pp.109-110、p.132、矢羽(2004)p.90、p.110
  94.  小林(2002)p.246、玉城(2013)pp.140-141
  95.  青木(2012)p.19、玉城(2013)p.17、青木(2013b)p.49
  96.  渡邊(1992)p.118、丸山(2000)p.18、矢羽(2004)pp.169-173
  97.  小林(2002)pp.275-276、青木(2012)pp.50-53、青木(2013a)pp.102-103
  98.  小林(1986)pp.101-103、青木(2012)p.51
  99.  高牧(2005)p.196
  100.  渡邊(1992)p.68
  101.  丸山(2000)pp.47-48、玉城(2013)p.140
  102.  小林(1986)p.103、高牧(2005)pp.197-199、渡邊(2015)pp.102-104
  103.  高牧(2005)pp.196-197
  104.  青木(2013a)pp.95-97
  105.  青木(2013a)p.104
  106.  青木(2012)pp.48-50
  107.  青木(2013a)pp.84-87、青木(2013b)p.47、渡邊(2015)pp.104-107
  108.  青木(2013a)pp.104-105
  109.  青木(2012)pp.80-82、青木(2013a)pp.102-107
  110.  青木(2012)pp.79-82
  111.  青木(2012)pp.84-86、青木(2013a)pp.116-121
  112.  鷹羽(1987)p.251、玉城(2013)p.451、金子(2014)p.64
  113.  小林(2002)p.193、玉城(2013)p.77
  114.  矢羽(2004)pp.85-86、渡邊(2015)pp.122-126、pp.128-129
  115.  渡邊(2015)pp.127-129
  116.  矢羽(1995)p.109、矢羽(2004)pp.86-87、渡邊(2015)pp.124-128
  117.  小林(2002)p.247、渡邊(2015)p.111
  118.  矢羽(1994)p.8、矢羽(2004)p.88、渡邊(2015)pp.131-132
  119.  矢羽(1994)pp.7-11、矢羽(2004)pp.87-89
  120.  小林(2002)p.116、矢羽(2004)p.86、渡邊(2006)pp.470-474、渡邊(2015)pp.126
  121.  鷹羽(1987)p.253、矢羽(2013)p.25、玉城(2013)p.333
  122.  矢羽(1993)pp.540-544、矢羽(2004)p.86、渡邊(2015)pp.126
  123.  矢羽(2004)p.514、小林(2002)pp.130-134
  124.  金子、井上(1987)p.448、矢羽(1993)pp.514-515、小林(2002)pp.130-136
  125.  栗山(1976)pp.305-306、小林(2002)pp.134-137
  126.  渡邊(1992)p.118、矢羽(2004)pp.90-91、渡邊(2015)pp.111-113
  127.  渡邊(2015)pp.113-118
  128.  小林(2002)p.115、矢羽(2004)pp.93-94
  129.  矢羽(1995)pp.313-317
  130.  矢羽(1995)pp.239-240、大谷(2010)pp.41-47、渡邊(2015)p.119
  131.  小林(1986)p.115、矢羽(2004)p.100
  132.  小林(1986)p.116
  133.  小林(1986)p.116、矢羽(1995)p.66、渡邊(2015)pp.134-136
  134.  渡邊(2015)pp.138-139
  135.  矢羽(1994)p.11、矢羽(2004)pp.105-106
  136.  丸山(2000)pp.181-183、小林(1986)pp.241-242
  137.  小林(1986)pp.116-119
  138.  小林(1986)pp.121-122、矢羽(2004)pp.100-101、玉城(2013)p.458
  139.  小林(1986)p.124、高橋(2017)pp.83-90
  140.  小林(1986)pp.124-125、高橋(2017)pp.96-102
  141.  小林(1986)p.124、高橋(2017)p.102
  142.  小林(1986)pp.119-121、渡邊(1988)p.125、矢羽(1994)p.51
  143.  渡邊(1988)p.21、矢羽(1994)pp.26-28
  144.  矢羽(1994)pp.32-34、青木(2013a)pp.130-134
  145.  矢羽(1994)pp.29-32、pp.35-36、pp.42-48
  146.  矢羽(1994)p.36、pp.47-48、p.104、丸山(2000)p.13
  147.  矢羽(1994)pp.47-48
  148.  矢羽(1994)p.53、渡邊(2006)pp.326-333、渡邊(2015)p.291
  149.  小林(1986)pp.119-121、矢羽(2004)p.119
  150.  小林(1986)p.122、矢羽(2004)pp.100-101、金子(2014)pp.82-83
  151.  矢羽(2004)pp.101-104
  152.  矢羽(2004)pp.107-108
  153.  小林(2002)pp.64-65、矢羽(2004)pp.107-109、高橋(2017)pp.5-8
  154.  小林(2002)p.65、高橋(2017)pp.9-10
  155.  後藤、宗村(2016)pp.147-154
  156.  小林(2002)p.65、後藤、宗村(2016)p.146、p.152、p.154
  157.  矢羽(2004)p.110、p.128
  158.  矢羽(1994)pp.58-60、pp.61-63、矢羽(2004)pp.119-120
  159.  矢羽(2004)pp.120-122
  160.  小林(1986)p.132、矢羽(1993)pp.51-53、矢羽(2004)pp.110-111
  161.  小林(1986)p.133、矢羽(1993)pp.54-56、矢羽(2004)p.111
  162.  小林(1986)p.134、丸山(2000)pp.19-20、矢羽(2004)p.174
  163.  矢羽(1995)pp.240-245、矢羽(2004)pp.114-115
  164.  矢羽(2004)pp.188-189、渡邊(2015)p.547
  165.  小林(1986)pp.144-147、矢羽(2004)p.113
  166.  小林(1986)p.135、矢羽(1993)p.58
  167.  小林(1986)pp.135-140、矢羽(1993)pp.58-59、矢羽(2004)p.113
  168.  高橋(2017)p.102
  169.  小林(1986)p.148、高橋(2017)pp.102-104
  170.  小林(1986)p.154、矢羽(1994)p.16、小林(2002)p.24、p.44
  171.  小林(1986)pp.153-154、矢羽(2004)p.114
  172.  小林(1986)pp.153-155、高橋(2017)p.22、p.104
  173.  小林(1986)p.157、矢羽(1993)p.75、矢羽(2004)p.114
  174.  小林(1986)pp.158-160、矢羽(1993)p.76
  175.  小林(1986)pp.157-158、p.161、矢羽(1993)pp.76-78、矢羽(2004)p.128
  176.  矢羽(2004)pp.128-130、後藤、宗村(2016)pp.157-159
  177.  後藤、宗村(2016)pp.155-156
  178.  小林(2002)p.24、矢羽(2004)p.110
  179.  矢羽(2004)pp.128-131、後藤、宗村(2016)p.154、pp.157-159、高橋(2017)pp.19-25、p.105
  180.  矢羽(1994)pp.16-17、小林(2002)p.24、矢羽(2004)p.110
  181.  後藤、宗村(2016)pp.173-178
  182.  小林(2002)p.10、後藤、宗村(2016)pp.159-160
  183.  矢羽(1994)p.52、丸山(2000)p.13、矢羽(2004)p.125
  184.  小林(1986)p.173、pp.178-179、矢羽(2004)pp.135-136
  185.  小林(1986)pp.178-179、矢羽(1993)pp.99-102
  186.  小林(1986)pp.186-191、矢羽(1993)pp.109-116、矢羽(1994)p.21
  187.  小林(1986)p.233、矢羽(2004)pp.140-142
  188.  矢羽(1994)pp.204-212
  189.  矢羽(1994)pp.68-74、矢羽(2004)pp.126-127
  190.  矢羽(1994)pp.43-48
  191.  渡邊(1988)p.126、小林(2002)p.33、高橋(2017)p.116
  192.  矢羽(1994)p.102、一茶記念館(2004)pp.45-47、渡邊(2006)pp.407-417
  193.  小林(2002)p.30
  194.  丸山(2000)pp.13-14、渡邊(1988)pp.126-128
  195.  青木(2013)pp.133-135
  196.  矢羽(1994)pp.101-103、小林(2002)p.29
  197.  渡邊(1988)pp.125-126
  198.  矢羽(1994)p.24、pp.74-78、矢羽(2004)pp.194-197
  199.  矢羽(1994)pp.78-90、渡邊(2015)pp.303-304
  200.  矢羽(1994)pp.90-91
  201.  矢羽(1994)pp.135-150、矢羽(2004)pp.137-139、渡邊(2015)p.303
  202.  矢羽(1994)pp.134-135、矢羽(2004)p.139
  203.  渡邊(1988)pp.131-132
  204.  渡邊(1988)p.129、矢羽(2004)pp.184-190、渡邊(2015)pp.310-314
  205.  渡邊(1988)p.129、小林(2002)pp.291-292
  206.  小林(2002)pp.291-296
  207.  小林(2002)pp.296-297
  208.  小林(1986)pp.168-171、小林(2002)pp.82-84
  209.  小林(1986)p.173、小林(2002)p.198、金子(2014)p.118
  210.  小林(1986)pp.173-174、小林(2002)p.198、矢羽(2004)p.198
  211.  小林(2002)p.165
  212.  矢羽(1993)p.493、小林(2002)p.167、矢羽(2004)p.132
  213.  小林(2002)p.250、矢羽(2004)p.132
  214.  小林(1986)pp.180-181
  215.  小林(1986)pp.181-184
  216.  小林(1986)pp.185-186、p.195、矢羽(2004)p.184、青木(2013)pp.161-162
  217.  小林(1986)pp.203-205、丸山(2000)p.14、矢羽(2004)p.140
  218.  小林(1986)pp.208-209、矢羽(2004)pp.207-211
  219.  小林(1986)pp.209-210、玉城(2013)p.367、渡邊(2015)pp.150-151
  220.  金子(2014)pp.147-148
  221.  小林(1986)pp.212-213、矢羽(2004)p.144
  222.  小林(1986)pp.429-430、矢羽(1993)pp.128-131
  223.  小林(1986)pp.215-218、高橋(2017)pp.52-53、pp.125-126
  224.  小林(1986)pp.215-219、高橋(2017)pp.125-129
  225.  小林(1986)pp.218-220、矢羽(1993)p.468、小林(2002)pp.67-68、p.170高橋(2017)p.129
  226.  小林(1986)pp.218-219、矢羽(1993)pp.467-468、丸山(2000)p.30、高橋(2017)p.129
  227.  加藤(2001)pp.305-306、金子(2014)pp.149-150、玉城(2013)p.268
  228.  小林(1986)pp.224-225、小林(2002)pp.67-68、p.205
  229.  小林(1986)pp.222-223、矢羽(2004)pp.220-222
  230.  小林(2002)p.205、渡邊(2015)p.157
  231.  小林(1986)pp.223-224、玉城(2013)pp.30-31
  232.  加藤(2001)pp.346-348、伊藤(2003)p.3、矢羽(2004)pp.192-193
  233.  小林(1986)pp.225-226、矢羽(2004)p.144
  234.  加藤(2001)pp.350-351、玉城(2013)p.341
  235.  小林(1986)pp.225-228、矢羽(1993)pp.436-440
  236.  小林(1986)p.228、矢羽(2004)p.144
  237.  小林(1986)p.190、小林(2002)pp.205-206、金子(2014)p.138
  238.  加藤(2001)p.353
  239.  小林(1986)pp.230-231、小林(2002)p.168
  240.  小林(2002)p.169
  241.  矢羽(1995)pp.175-177、p.182、小林(2002)p.168、p.170
  242.  矢羽(1995)pp.178-180、小林(2002)p.169
  243.  矢羽(1995)pp.181-183、小林(2002)pp.170-171
  244.  小林(1986)pp.231-232、小林(2002)p.172、矢羽(2004)p.145
  245.  小林(1986)p.232、矢羽(1994)pp.102-103、矢羽(2004)p.145
  246.  矢羽(1987)p.18、鷹羽(1987)p.258
  247.  金子、井上(1987)p.464
  248.  金子(2014)pp.182-183
  249.  阿部(1987)p.242、p.247
  250.  鷹羽(1987)p.258
  251.  宮脇(1987)p.482
  252.  青木(2013a)p.171
  253.  小林(2002)p.172、矢羽(2004)p.145
  254.  小林(2002)p.172、高橋(2017)p.123
  255.  小林(1986)pp.233-234、小林(2002)p.173、pp.208-209、矢羽(2004)p.146
  256.  小林(2002)pp.208-209、高橋(2017)p.123
  257.  矢羽(2004)pp.146-147
  258.  加藤(2001)p.55、pp.359-362
  259.  丸山(2000)pp.21-22、青木(2013a)pp.171-172、金子(2014)p.194
  260.  矢羽(1995)pp.223-224、小林(2002)p.209、矢羽(2004)pp.147-148
  261.  小林(1986)p.237、金子(2014)p.194
  262.  小林(1986)pp.237-239、矢羽(2004)p.150
  263.  小林(2002)p.173
  264.  小林(2002)p.173、高橋(2017)p.173
  265.  小林(1986)pp.239-240、丸山(2000)p.15、小林(2002)pp.173-174
  266.  一茶同好会(1910)p.195、小林(2002)pp.78-79
  267.  一茶同好会(1910)pp.195-197、小林(2002)pp.77-79
  268.  小林(2002)p.79
  269.  小林(2002)pp.80-81
  270.  小林(2002)pp.81-84
  271.  渡邊(2002)p.24、pp.35-36
  272.  小林(2002)pp.343-346、高橋(2017)p.157
  273.  小林(2002)pp.344-346、玉城(2013)p.549
  274.  青木(2012)pp.21-24
  275.  高橋(2017)pp.161-162
  276.  矢羽(1993)p.176、小林(2002)pp.346-348
  277.  矢羽(1993)p.176、小林(2002)pp.348-349、青木(2012)p.26
  278.  小林(1986)p.242、矢羽(1993)p.176、矢羽(1994)pp.76-77
  279.  矢羽(1993)p.550
  280.  矢羽(1993)p.550、矢羽(1994)p.77
  281.  矢羽(1993)p.550、渡邊(2003)p.39、一茶記念館(2004)p.75
  282.  矢羽(1993)p.177、p.550、矢羽(1995)pp.275-277
  283.  矢羽(1995)pp.275-276、p.278
  284.  矢羽(1993)p.550、矢羽(1995)p.275、pp.279-280
  285.  矢羽(2014)pp.194-195
  286.  矢羽(1993)p.550、矢羽(1995)p.275
  287.  矢羽(1995)p.275、p.290
  288.  矢羽(1995)pp.263-273
  289.  小林(2002)pp.29-30
  290.  矢羽(1995)pp.322-323、丸山(2000)p.23
  291.  小林(1986)p.160、矢羽(1995)pp.550-551
  292.  矢羽(1995)pp.282-287、p.291
  293.  矢羽(1995)pp.269-273、矢羽(2010)pp.4-5
  294.  矢羽(2010)pp.3-8、矢羽(2014)pp.194-195
  295.  矢羽(1995)p.551、矢羽(2014)p.194
  296.  矢羽(1995)pp.551-552、渡邊(2003)p.36、矢羽(2010)p.3
  297.  矢羽(1995)pp.552-553、小林(2002)p.151
  298.  信濃町誌編纂委員会(1968)p.573、p.1156、一茶記念館(2012)p.4
  299.  矢羽(1995)p.552、小林(2002)pp.150-151
  300.  小林(2002)p.151、渡邊(2003)pp.36-37
  301.  渡邊(2003)pp.39-40
  302.  渡邊(1992)pp.253-254、矢羽(1993)p.552、渡邊(2006)pp.271-283
  303.  矢羽(1995)p.553、渡邊(2003)p.39
  304.  矢羽(1995)pp.551-552、渡邊(2003)p.37、一茶記念館(2004)p.88
  305.  荻原(1952b)p.321、矢羽(1995)p.553、渡邊(2003)p.37
  306.  矢羽(1993)p.553、渡邊(2006)pp.128-129
  307.  伊藤(1942)p.17、渡邊(2006)p.158、渡邊(2015)p.2
  308.  矢羽(1995)p.554
  309.  矢羽(1993)p.181、p.556、小林(2002)p.72、一茶記念館(2012)p.4
  310.  伊藤(1942)pp.32-36、渡邊(2003)p.37
  311.  渡邊(2006)pp.168-169
  312.  渡邊(2006)p.169
  313.  矢羽(1993)p.555、渡邊(2006)p.138、p.170
  314.  矢羽(1993)p.556、渡邊(2006)p.139、p.170
  315.  矢羽(1993)pp.555-556、渡邊(2006)pp.139-140
  316.  渡邊(2006)p.140
  317.  渡邊(2003)pp.265-266、渡邊(2006)pp.170-175
  318.  矢羽(1993)p.557、高橋(2013)p.43
  319.  渡邊(2006)pp.142-144

参考文献

  • 青木美智男『小林一茶』山川出版社、2012、ISBN 978-4-00-431446-2
  • 青木美智雄『小林一茶』岩波書店、2013a、ISBN 978-4-634-54863-3
  • 青木美智雄「人間的優しさを詠み続けた俳諧師一茶」『小林一茶生誕二百五十年記念 一茶研究論集』一茶記念館、2013b
  • 阿部完市「けし提げての句 一茶の自然」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987
  • いいづな歴史ふれあい館『特別展 小林一茶と飯綱町』パンフレット、いいづな歴史ふれあい館、2012
  • 寺島渉・小山丈夫・こばやしひろみち『マンガ飯綱今昔物語 俳人一茶と飯綱町の人々』いいづな歴史ふれあい館、2012
  • 石田波郷「「おらが春」訳後に」『日本国民文学全集14 古典名句集』河出書房新社、1957
  • 一茶記念館「一茶記念館だより」5、2003
  • 一茶記念館『解説 一茶の生涯と文学』一茶記念館、2004
  • 一茶記念館「一茶」一茶記念館、2012
  • 一茶同好会「俳諧寺一茶」一茶同好会、1910
  • 一茶ゆかりの里『一茶ゆかりの里 歴史公園信州高山』高山村、1997
  • 一茶ゆかりの里『一茶ものがたり 小林一茶と信州高山』ほおずき書籍、2012、ISBN 978-4-434-17165-9
  • 伊藤正雄『小林一茶』三省堂、1942
  • 伊藤法子「小林一茶と仏教」『武蔵野女子大学大学院紀要』3、武蔵野女子大学大学院、2003
  • 井上脩之助「一茶と葛飾派」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987
  • 大谷弘至「一茶と葛飾派の考察」『二松』24、二松学舎大学大学院文学研究科、2010
  • 荻原井泉水「一茶名句集」『日本国民文学全集14 古典名句集』河出書房新社、1957a
  • 荻原井泉水「骨のズイからの『俳人』」『日本国民文学全集14 古典名句集』河出書房新社、1957b
  • 尾澤喜雄「一茶家系考」『岩手大學學藝學部研究年報』2、岩手大學學藝學部學會、1951
  • 加藤楸邨「一茶秀句(新版)」春秋社、2001(初版は1964年刊行)、ISBN 4-393-43423-4
  • 金子兜太「一茶と風土」『鑑賞 日本古典文学第32巻 蕪村・一茶』角川書店、1976
  • 金子兜太、井上ひさし「一茶・息吐くように俳諧した人」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987
  • 金子兜太「荒凡夫一茶」白水社、2012、ISBN 978-4-560-08217-1
  • 金子兜太『小林一茶』岩波書店、2014、ISBN 978-4-00-602236-5
  • 栗山理一「一茶」『鑑賞 日本古典文学第32巻 蕪村・一茶』角川書店、1976
  • 後藤泰一、宗村和弘「諏訪の末子相続と北信濃の均分相続 河合曽良と小林一茶の場合」『信州大学法学論集』27、信州大学大学院法曹法務研究科、2016
  • 小林計一郎『小林一茶』人物叢書 吉川弘文館、1986(新装版。初版は1961年刊)、オンデマンド版 ISBN 9784642750288
  • 小林計一郎「青年期の一茶」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987a
  • 小林計一郎「村方史料から見た一茶の経済生活」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987b
  • 小林計一郎『一茶 その生涯と文学』信濃毎日新聞社、2002、ISBN 4-7840-9919-0
  • 坂口昌弘著『ヴァーサス日本文化精神史』文學の森
  • 坂口昌弘著『毎日が辞世の句』東京四季出版
  • 信濃町誌編纂委員会『信濃町誌』信濃町誌編纂委員会、1968
  • 信濃町総務課『三十年の歩み』信濃町長小林一雄、1986
  • 鷹羽狩行「一茶と明日の俳句 現代俳句を先取りした人」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987
  • 高橋敏「一茶の相続争い 北国街道柏原宿訴訟始末」岩波書店、2017、ISBN 978-4-00-431674-9
  • 高橋順子「一茶の連句」岩波書店、2009、ISBN 978-4-00-022175-7
  • 高橋順子「一茶の連句」『小林一茶生誕二百五十年記念 一茶研究論集』一茶記念館、2013
  • 高牧實「一茶の易占と念仏」『聖心女子大学論叢』104、聖心女子大学、2005
  • 玉城司選「一茶句集」KADOKAWA、2013、ISBN 978-4-04-401007-2
  • 津田左右吉『津田左右吉全集 別巻第5 文学に現れたる我が国民思想の研究 平民文学の時代 中』岩波書店、1966
  • 流山市立博物館『ふるさと流山のあゆみ』流山市立博物館、2015
  • 西川徹真「妙好人俳諧寺一茶と浄土真宗」『日本仏教文化論叢 下巻 北畠典生博士記念論文集』永田文昌堂、1998、ISBN 4-8162-1009-1
  • 前田利治『一茶の俳風』冨山房、1990、ISBN 4-572-00770-5
  • マブソン青眼 『江戸のエコロジスト一茶』、角川書店、2010, ISBN 9784046212870
  • マブソン青眼 『詩としての俳諧、俳諧としての詩 ― 一茶・クローデル・国際ハイク』永田書房、2005、ISBN 9784816107054
  • 丸山一彦『一茶とその周辺』花神社、2000、ISBN 4-7602-1565-4
  • 水上勉「郷土の根について」『鑑賞 日本古典文学第32巻 蕪村・一茶』角川書店、1976
  • 宮坂静生「一茶と樗堂私見 四国行脚を中心に」『小林一茶生誕二百五十年記念 一茶研究論集』一茶記念館、2013
  • 宮脇昌三「一茶と井月」『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987
  • 矢代静一「小林一茶」河出書房新社、1991、ISBN 4-309-00694-9
  • 矢羽勝幸『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987
  • 矢羽勝幸『一茶大事典』大修館書店、1993、ISBN 4-469-01237-8
  • 矢羽勝幸『信濃の一茶』中央公論社、1994、ISBN 4-12-101205-4
  • 矢羽勝幸『一茶新攷』若草書房、1995、ISBN 4-948755-01-X
  • 矢羽勝幸『日本の作家100人 小林一茶』2004、勉誠出版、ISBN 4-585-05173-2
  • 矢羽勝幸「明治前期における旧派俳人の一茶評価 井原亭『一茶句集』について」『二松』24、二松学舎大学大学院文学研究科、2010
  • 矢羽勝幸「一茶の俳風」『小林一茶生誕二百五十年記念 一茶研究論集』一茶記念館、2013
  • 矢羽勝幸「はじめて一茶を評価した近代俳人」『季刊文科』61、鳥影社、2014
  • 矢羽勝幸編『一茶の総合研究』信濃毎日新聞社、1987
  • 矢羽勝幸「一茶の俳風」『小林一茶生誕二百五十年記念 一茶研究論集』一茶記念館、2013
  • 矢羽勝幸、湯本五郎治『湯薫亭 一茶新資料集』ほおずき書籍、2005、ISBN 4-434-06242-5
  • 山本健吉「解説」『日本国民文学全集14 古典名句集』河出書房新社、1957
  • 山下一海「芭蕉・蕪村・一茶 文学史の常識をめぐって」『鑑賞 日本古典文学第32巻 蕪村・一茶』角川書店、1976
  • 若月正雄『一茶まつり』俳諧寺一茶保存会、1951
  • 渡邊弘「小林一茶の俳諧サークルの教育史的意味について」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要 社会学心理学教育学』28、慶応義塾大学社会学研究科、1988
  • 渡邊弘「小林一茶 教育の視点から」東洋館出版社、1992、ISBN 4-491-01009-9
  • 渡邊弘「一茶研究史の研究」『宇都宮大学教育学部紀要』53、宇都宮大学教育学部、2003
  • 渡邊弘『俳諧教師小林一茶の研究』東洋館出版社、2006、ISBN 4-491-02192-9
  • 渡邊弘『「ちゅうくらい」という生き方』信濃毎日新聞社、2015、ISBN 978-4-7840-7275-0