三韓人・一韓人・新羅坊

文化11年11月19日(1814)一茶51歳のとき、江戸を離れ柏原に帰郷することを記念して刊行された撰集「三韓人」は彼が30歳前後に使っていた俳号「新羅坊」と無関係とは考えにくい。

「三韓」は元来古代朝鮮の馬韓・弁韓・辰韓をさす語だが、一茶の同時代において朝鮮全域を示す語として使われたようだから「三韓人」は「朝鮮の人」という意味を帯びる。この撰集名に一茶が江戸滞在中に受けた信州人に対する差別と江戸中心社会への反発と信州人としての自負心が漲っているように感じる。

韓国で新羅房(坊≠房)というと統一新羅時代(676-935)に貿易のため唐(618-907)に置かれた新羅人の集団居留地を意味するそうだ。

撰集「三韓人」の末尾に「後編一韓人 来三月刻 信州俳諧寺一茶」という予告を載せているから、撰集は前編として位置付けられていたことになる。ただ、その序文にはタイトルに関する記述はなく、これまで「一韓人」は発見されていない。

文化12年十10月12日付け信州長沼魚淵誌の記名がある「あとまつり(迹祭)」末尾に次の記載があり、後編一韓人は追刻となっている。

三韓人已刻一茶
後編 一韓人追刻
漏殿追刻
迹祭已刻魚淵
杖祝已刻松宇
菫塚追刻春耕
おらが世追刻文路
二僧塚追刻希杖
信州長沼内町 佐藤松益魚淵
文通便所江戸大傳馬鹽町 萬屋藤助
 右定飛脚毎月七日出立

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