7月10日、韓国人の友人(54)と品川宿跡で待ち合わせ、自転車でほぼ国道1号沿いに走って川崎宿まで行った。7月17日、旧東海道(江戸時代、朝鮮通信使の辿ったルート)を多摩川の六郷渡と藤沢宿江ノ島まで往復101km走り抜いた。この日東京横浜は一部大雨だったようだが、僕らはほとんど雨に遭わなかった。江ノ島のしらす丼がうまかった。 https://photos.app.goo.gl/HnvKufUCH1pEFNZj9 7월 10일, 한국인 친구(54)와 시나가와주쿠 유적지에서 만나, 자전거를 타고 거의 국도 1호선을 따라 가와사키주쿠까지 갔다. 7월 17일, 구 도카이도(에도 시대, 조선 통신사가 따라갔던 경로)를 따라 타마강의 로쿠고 나루터와 후지사와주쿠, 에노시마까지 왕복 101km를 달렸다. 이날 도쿄와 요코하마 일대에는 일부 지역에 폭우가 내렸던 것 같지만, 우리는 비를 거의 맞지 않았다. 에노시마의 시라스 덮밥이 맛있었다. どの史跡にもある教育委員会の説明板品川区立聖蹟公園に本陣跡は残っていないが、後方に聖蹟碑がみえる明治天皇(1852-1912)ゆかりの碑、大日本帝國時代(1868-1945)の遺物である …
The Works and Journeys of Issa
矢羽勝幸校注「一茶 父の終焉日記・おらが春他一篇」(岩波文庫1992)の年譜ほかをもとに作成した。以下「 」内に作品名、*資料入手。 Compiled based on the chronology of Issa ーand other sources, including Issa: Diary of My Father’s Final Days, My Spring, and One Other (edited by Yaba Katsuyuki; Iwanami Bunko, 1992). Bold: Issa's works *Sources obtained 「作品」と遍歴で辿る一茶の行跡1791年 29歳 4月 14年ぶりに柏原へ、後に「寛政三年紀行」として上梓。[1, 2]1792年 30歳 「寛政句帖」(寛政4年春-寛政6年末)を執筆。3月25日西国行脚に出発、夏京阪地方を遍歴、冬九州へ。1793年 31歳 九州各地を巡り長崎へ。1794年 32歳 九州四国を遍歴。1795年 33歳 1-3月新羅坊・山麻呂と署名。3月-岡山・大坂・河内・堺・高石へ。1-5月の旅を西国紀行にまとめ、秋に処女撰集「たびしうゐ」を刊行。亜堂の号を使う。[1]1798年 36歳 春、西国行脚を終え留別記念集「さらば笠」を刊行、増訂版を刊行。[1]6月末中山道を信州、7月下旬柏原、8月下旬江戸へ。(6月本居宣長 古事記傳刊)1801年 39歳 …
高麗王若光の生涯と墓
(c)鳥飼かおる 掲載/更新:20170926 以下一部編集して引用し、冒頭部分に韓国語の仮訳を付けます。 716(霊亀2)年に駿河・甲斐・相模・上総(かみつふさ)・下総(しもつふさ)・常陸・下野(しものつけ)の7国に居住していた高麗(こま)人1799人が移り住み、武蔵国高麗郡(現・埼玉県日高市や飯能市を中心に東西30km・南北10kmに渡る村々)が建郡された。その高麗人たちを統率し高麗郡全体を治めたとされる高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)(?-748)は異郷・高麗で何を考えていたのだろうか。 716년에 동일본 스루가(駿河)·카이(甲斐)·사가미(相模)·카미츠후사(上總)·시모츠후사(下總)· 히타치(常陸)·시모노츠케(下野) 등 7개국에 거주하던 고려인 1,799명을 이주시켜, 무사시(武蔵)국 고마(高麗)군(현 埼玉縣 日高市 및 飯能市를 중심으로 동서 30km·남북 10km에 걸쳐 있는 마을들)이 건군(建郡)되었다. 그 고려인들을 통솔하고 고마군(高麗郡) 전체를 다스렸다고 전해지는 고려왕 와카미츠(若光 코마노코시키 잣코)(?-748)는 이국인 고마(高麗)에서 무엇을 생각하고 있었을까. 高麗王若光とおぼしき人物についての公式記録は日本書紀(720年)天智天皇5(666)年10月に、高句麗(こうくり BC37-668)国王が飛鳥に送った使者のひとりに「玄武若光」がいたことゝ續日本紀(797年)の大宝3(703)年4月に朝廷から従五位下(じゅごいげ)の高麗若光に王(こしき)の姓(かばね)が与えられたという記録だけである。 고려왕 약광으로 추정되는 인물에 대한 공식 기록은 일본서기(日本書紀 720년)의 …
一茶: 花の山
「享和句帖」享和3年から「文化句帖」文化1年はほぼ西暦1803-04年に相当する。この時期に一茶が作句した花の句を一茶発句集から選出して月日順に並べ比較してみる。彼が数えで41歳のころである。「花の山」の意味を考えるため48歳と50歳以降の句を併載した。 享和3年8月の句と短歌は作者が何らかの病を患っていたことを推測させる。享和3年9月の句と同年12月の句さらに文化1年3月の句にある「花の山」が心象風景から待ち焦がれた現実の景色へ変化するのだが、せっかくの情景もあえなく雨に遭遇する。 「花の山」、とくに作者の心象に表れるそれは一体何なのだろう。満開の桜に人々が群がる光景には見えない。心中の鬼が仏教の説く貪瞋癡*の三毒だとしたら、鬼は花の山に対してどんな作用を及ぼすのだろうか。 文化7年と10年(一茶48/51歳)の二句では「鬼も出て見よ花[の]山」「(花の山)心の鬼も出てあそべ」と、作者が鬼に呼びかけているから鬼はもう病魔たりえない。だとしたら、いったい何者なのだろう。鬼たちが見たり遊んだりできる「花の山」は花見のようでもある。 文政7年8年になると「花の山」は「気の薬」になり「せんたく所」にもなる。こうなると、腹中の鬼や心の鬼は精神的な病に関連しそれを癒す向精神剤のような効能があると見なしているようでもある。 40代50代に一茶の句に現れる花の山はさまざまな人々が花につられて集まるところであり、その雑踏で多くの人と交われば心身の病も癒されるように感じる。雨に降られて行けないときは一層恋しくなるところなのだ。 *仏教では煩悩(慾望悩み)の要素に貪トン・貪欲、瞋ジン・怒り、癡チ・無知をあげ三毒という。 年月日/前書き/俳句・歌「花の山」**享38月30日晴 終南(中国陝西省 道教聖地)花の雲あれが大和の臣口*哉*句帖注に臣下を臣口とも読めるとある(小口オグチ)享和句帖3954享38月30日晴腹の中*に櫻の花や咲ぬらん夜ごと〳〵の夢にし見ゆる*心の中の意か(4049参照) 享和句帖--享39月9日雨タン病藥ミカンノ實皮葉・且艸(萱草)人参少加あたら雨の晝ひるふりにけり花の山 享和句帖3949享312月28日雨又けふも逢ひそこなひぬ花の山 享和句帖3955化13月9日曇 角田川花見晝より雨雨の日をよりも撰たり花の山 文化句帖3957化73月29日晴 (前略)布佐村に入神輿大小二つかき出して「阿波大杉大明神悪魔を払てよいやさ」と笛太鼓三弦にてはやしてさらに祭のさまをなす此里疫神の流行なる物からかくするといふ腹中ふくちゆうの鬼*も出て見よ花[の]山 七番日記 *心中の鬼4049化109月14日晴酉刻バラ〳〵雨花の山心の鬼も出てあそべ 七番日記4087化128月21日雨 墓詣旦仙六食 夜猫終死 野尻泊日にち〳〵の屎くそだらけ也花の山 七番日記4107化133月8日晴 河原別家入湯 去2月22日松代領案台村伎婦室玉屋秀八ト[云]者越後荒井宇之介ト云者ヲ石責ニスおとろへや見た分にする花の山 七番日記4115政111月13日晴 夜髙田藤三郎来駕かごかきは女也けり花の山 七番日記4127政13月12日晴 (前略)神仙丹五十文買直ニ行二倉村憑栄次郎三介沢ノ田一見ス情強じやうごはを蒔そこなふ*[や]花の山 *置去りにしようとして失敗する七番日記4130政25月16日晴時々雨 古間中飯茶屋村の一夜に出来し花の山 八番日記4148政48月花の山東西ひがしにし南北みなみきたの人 八番日記4187政73月14日 陰北風寒 舟不出北丘ニ入江戸聲ごゑやあたり八間花の山 文政句帖4241政7正月12日晴 古間行日甫皈第一ニ氣の藥也花の山 文政句帖4249政712月30日晴名をしらぬ古ちかづきや花の山 文政句帖4254政710月29日陰花[の]山命のせんたく所哉 文政句帖4260政82月10日晴人来ればひとりの連や花の山 文政句帖4274-**ふりがな小林一茶発句集:春no
一茶發句集
「一茶發句集」には一茶(1763-1828)没後2年の文政12年(1829)年とその後に収集された句を加え弘化丁巳(1857)年に出版されたいわば増補版がある。以下、両者の序文を引用する。なお、縦書き文庫版「ふりがな小林一茶発句集」の底本は信濃教育会編『一茶全集』(信濃毎日新聞社1979年)第1巻「発句」である。 掲載句数を比較すると1857年版は1979年版の17分の1程度しかない。たとえば、春の部の句数は283と4,832である。後世の関係者による収集作業がいかに大きかったか思い余るものがある。このことはまた一茶の作句姿勢に深く関係していると考える。誤解を怖れずに申せば、彼の句は生活に根ざし生活のなかに埋もれていたのだ。 a. 「一茶發句集」文政12(1829)年版月を覆ふ雲花を散す風善悪表裏はめぐれる車の輪の如しといにしへの人のことばこそむべなれ、我師は能これを暁し生涯を自然に任せられしに、いぬる文政丁亥の冬身まかられて後、教へを請し人人遠き境までも最寄々々にいひ傳へはやくもかけあつまりて残れる人にものとふに、いひおける一言もなくそのうへ何者のわざにや日頃机のほとりにつみ重ねたる反故ものゝ本どもをさへ空吹拂ふ凩の塵ばかりもなく失はてゝいたづらに漉かへす紙のうちにやひさがれけん哀れ尊き文もあらんに見る人なくて、れう比丘にこがれうちくれし諭に同じ手の物とられし心地しておの〳〵むなしく家に帰り訪れし時々書捨おかれし筆の跡とり出し或は行かふ市の星見世などに見當る行脚の時の日記やうなるもの價もてこれを求などしつゝあしこ爰ひろひ集てこのふたつの巻となすはながきかたみと見るべきまでや文政十あまり二とせといふ年の冬俳諧寺の沙彌 某しるす萩原井泉水編「一茶發句集」(1926)解題より b. 「一茶發句集」弘化丁巳(1857)年版増賀ひじりの師の御坊僧正*の参内のをり乾鮭の太刀はき痩馬に乗て供奉し又皇太神宮の名利を捨よとおほけなき霊勅によりやがて赤裸になりてくるひそゝめきしは僧綱をたまはり錦繍を身にまとひしよりも中〳〵に内心清浄ならんか*天台宗の僧、慈恵大師良源僧正(912-985)近き頃信濃の國柏原俳諧師一茶は元禄のむかしの惟然坊*のたぐひにて上野の坂本町本所番場にいほりせしをりは、晝も行燈をともしおきて煙草火にかえ或は客來り餉の時いたればそれとともに店屋に行食事をはればかたみに料足を拂て返りしなど、なべての事辛き世をいともやすげにすごせるものから四方遊歴の先々には奇談笑話人口に噲炙せるもの多し*江戸時代の俳人広瀬惟然(1648-1711)發句文章もまたそれに随ひ頤を解き膽をうばゝしむる物少からず、實に一世の俳將なりし、斯而文政丁亥の冬黄泉の客となりしのち門徒集りて反古物しらべしかど斯く隠逸のさがにしあればいひのこす言葉もなく、さるさうしやうのものさへちりちりになんなりしをからうじて句集いできにたれどそれさへ藏版とかいふものにて世におほやけならざるををしみ書肆何某おのれにはかりて刪補を乞ふ辭する事にしもあらねばもとの集の上に自他の耳底に残りすりまき消息やうのたぐひに見えたるをも書くはへてあまつさへ始につたなき筆をはしらす弘化丁巳(1857年)彌生俳沙彌一具萩原井泉水編「一茶發句集」(1926)本文より (c)信州デジタルコモンズ a. a tentative translation by DeepL“Clouds cover the moon; the wind scatters flowers; good and evil, like the two sides of a coin, revolve like the wheels of a cart”—truly, the words of the sages of old are most fitting. Our master understood this well and entrusted his …
小説で現代を読む(2)
嶋津輝著書き下ろし作品「襷がけの二人」2023年9月文藝春秋、四六判(364頁)を一気に読んだ。翻訳本の仮題は「千代とお初」ぐらいか。1920年代から40年代に至る大日本帝國時代(1868-1946)後半から末期の状況を社会科学の手法よりも身近で具体的に伝えてくれる。 시마즈 테루의 신작 『타스키(襷)를 멘 두 여인』은 2023년 9월 문예춘추에서 출간되었으며, 46판(128×188mm) 364쪽 분량으로, 단숨에 읽어 내려갔다. 번역본의 제목은 ‘치요와 오하츠’ 정도일까. 1920년대부터 40년대에 이르는 대일본제국 시대의 후반부터 말기에 이르는 상황을 사회과학적 접근 방식보다 더 친근하게 구체적으로 전달해 준다. 1926年12月に大正から昭和に改元した大日本帝国(1868-1946)はどんな状況にあったのか。23年9月関東大震災、同年12月皇太子、30年11月浜口雄幸に対する襲撃事件が続いている。28年6月張作霖爆殺事件、31年9月柳条湖事件と続き、大日本帝国は32年3月満洲帝国建国へと進んでいった。32年5・15、36年2・26を挟んで37年7月盧溝橋事件により本格的に中国を侵略していく。38年4月には国家総動員法が公布された。 1926년 12월, 다이쇼(大正)에서 쇼와(昭和)로 연호를 바꾼 대일본제국(1868-1945)은 어떤 상황에 처해 있었을까. 23년 9월 관동 …
文政6年正月の句(改)
「文政句帖」文政6(1823)年正月の句について前書きを含め月日順に並べ替えて読んでみる。ある時期の特定の季語の句を選んで読むことで一茶が意図した内容を推定し当時彼が見ていたであろう心的風景に迫ることができる。この時期、妻の菊が病床に伏し数ヵ月後には他界してしまう。句番号はふりがな小林一茶発句集の季節ごとに付けたものである。 『분세이 구집』분세이 6년(1823년) 정월의 구에 대해 서문을 포함해 날짜 순으로 재배열하여 읽어본다. 특정 시기의 특정 계절어를 담은 구를 골라 읽음으로써 잇싸가 의도한 내용을 추측하고, 당시 그가 보고 있었을 법한 마음속 풍경에 다가갈 수 있다. 이 시기, 아내 키쿠가 병상에 누워 있었고 몇 달 후 세상을 떠나고 말았다. (구 번호는 후리가나 코바야시 잇사 하쿠슈집에서 계절별로 …
a part timer
地域シルバー人材センターの派遣事業を通じて区内にある小規模企業に職を得た。東欧や東南アジアからのインバウンド客を対象にミニバスを使って旅行手配と運営を行う会社だ。僕の担当は主にメールによる国内外の旅行社ほかとのやりとりと見積り作成である。 振り返れば、1年ぶりの職場復帰である。20歳からいろいろな職場を転々としてきた者にとっては、いわばデフォルトに立ち返ったようなものかもしれない。 지역 실버(高齢者) 인재 센터의 파견 사업을 통해 우리 구내(區内)에 있는 소규모 기업에 취직했다. 동유럽과 동남아시아에서 온 인바운드 여객을 대상으로 미니버스를 이용해 여행 일정 기획과 운영을 하는 회사다. 나의 주된 업무는 이메일을 통해 국내외 여행사 등과 소통하고 견적서를 작성하는 것이다. 돌이켜보면 1년 만의 직장 복귀다. 20세부터 여러 직장을 전전해 온 나로서는, 말하자면 원래의 모습으로 …
小説で現代を読む(1)
長いあいだ遠ざけていた現代小説を読んだ。地味な文章のせいだろうか、物静かに切々と胸に迫ってくるものを感じた。大日本帝國時代(1868-1946)の日本について社会科学論文よりもわかりやすく描いている。 嶋津輝(1969年東京都出身)の小説「カフェーの帰り道」は1920年代から日中戦争・太平洋戦争を経て戦後の1950年ごろに及ぶ東京上野の周縁にあるカフェを舞台にした短編集だ。 そこに出入りする女給たちの人生・家族・カフェに出入りする人々の描写を重ねることで当時の時代相を浮き彫りにしている。章ごとに主人公が変わり、個々の短編として読むこともできるが、最後の章で彼らの人生がひとつの物語にまとめられ全体として完結した作品になっている。 著者はこの時期に父親や夫あるいは兄弟さらに息子までを大日本帝國(1868-1945)に奪われて、聖戦という美名のもとに戦死させられ、精神的肉体的な傷を負って生還した者たちとその周囲の人々を女性の立場から描いた。単なる犠牲者ではなく圧し潰されそうになりながらも逞しく生き抜いた女性として描いた。それが評価され直木賞を受賞したのだろう。 外国人読者にそんな女性たちの生きざまはどのように映るのだろうか、それを伝えることにどんな意味があるのだろうか。この小説を翻訳するとしたら、その意義を考えておかなければならない。 天皇を現人神(あらひとがみ)として崇め軍部の暴政に虐げられた犠牲者に見えるのだろうか、神國の勝利を信じて疑わない狂信者でいながら外国人を愚弄し身内の無事だけを祈る利己主義者に映るのだろうか。 あるいは、植民地下の男尊女卑社会で虐げられてきた自分の親や親戚のことを思い、何がしかの共鳴するものを見出すだろうか。僕には予測のつかないことだ。ただ、僕のように日本と韓国とのあいだで生きようとしてきた者に感銘を与えた本書には不思議な力が宿っていると信じたい。 著者は2011年から根本昌夫氏(1953年福島県出身)の小説講座を受講し、2016年に「姉と妹」でオール讀物新人賞を受賞した。2019年に初の短編集「スナック墓地」(後に「駐車場の猫」と改題)を発表し、2023年に長編小説「襷がけの二人」が直木賞候補作に、2026年に「カフェーの帰り道」が直木賞を受賞した。 기분 전환 삼아 오랫동안 멀리했던 현대 소설을 읽었다. 소박한 문체 때문인지 조용히 가슴 깊이 스며드는 무언가를 느꼈다. 시마즈 테루(1969년 도쿄도 출생)의 소설 『카페에서 돌아오는 길』은 1920년대부터 중일전쟁·태평양전쟁·전후 1950년경에 이르는 시기를 배경으로, 도쿄 우에노 외곽에 있는 카페를 무대로 한 단편집이다. 그곳을 드나드는 여종업원들의 삶과 그 가족, 그리고 카페를 찾는 사람들의 묘사를 엮어내어 당시의 …
紀元2700年という悪夢
最近、サイト日本の古本屋を利用することが多い。一茶関連の古書を検索して購入しているが、その1冊に大日本帝國時代(1868-1945)の年号を記したものがあった。 いまの政治の流れを見ていると、紀元2700年(西暦2040年)の祝賀行事が大々的に行われるような気配を感じてならない。 蔵書印に2604年9月16日とある、日本書紀の神武天皇即位年をもとに作られた皇紀年である 최근 ‘사이트 일본 중고서점’을 자주 이용하고 있다. 있사(一茶) 관련 고서를 검색해 구입하고 있는데, 그중 한 권에 대일본제국 시대(1868-1945)의 연호가 적혀 있는 책이 있었다. 요즘 정치 흐름을 보면, 기원 2700년(서기 2040년)을 기념하는 행사가 대대적으로 열릴 것 같은 예감이 든다.
ふりがな一茶発句集の改訂
縦書き文庫「ふりがな小林一茶発句集」の編集に取りかかって2年半、これまでに編集方針について大きな変更を二度行なった。一度目は当初振っていた現代かな遣いを歴史的かな遣いに修正することにしたとき、二度目はそれぞれの句帖や句集にある日付と関連記述を追加することにしたときである。 季節区分作品数(現)作品数(改)新年・春の部1319+夏の部913+秋の部1017+冬・雑の部(未定)1010+ 二度目の変更は、検索するとき発句集とともに句帖や句集の並び順でも見られるなど読者に大きな利便をもたらすと思う。他方、情報量が増えるため季節区分(部)ごとの作品数を増やす必要が生じる(縦書き文庫では一作品あたりの文字数に制限がある)。 作品数が増えても検索機能が充実していれば特に問題はないだろうと考えるが、大幅な改訂作業が必要になる。いつまで元気で作業できるか、新たな時間との闘いが始まる。
里犬=地域の犬≠のら犬
里犬(さといぬ)のなぐさみなきや梅の花 「七番日記」文化10年(「ふりがな小林一茶発句集」春9の句だ。これだけではよくわからないが、日記上段にある11月27日の前書き(下に引用)を読むと理解できるように思う。里犬という地域で飼っていた犬が焼け落ちた家を見ている光景が浮かんでくる。なお、古語のなぐさみ(慰み)は楽しみ遊びを意味するという。 十一月廿七日 晴 古間ニ入 在赤沼村清左ヱ門ト云者其息利左ヱ門下女イツニ欲令奸陰其女不順其心依之令耻法外也女為散今夜焼其家共ニ焼亡及三家其翌廿八日女自殺ト云也 「日葡辞典」(イエズス会編1603年)に<サトイヌ>という語があり「村里が養っている飼い犬」としているようだ。当時、町村などの地域が共同飼育していた犬がいたらしい。里山と類似の共有制だろうか。
Issa’s haiku collection (1)
縦書き文庫「ふりがな小林一茶発句集」春の部を修正しながら、複数の句に日付を入れる必要を感じた。「文化句帖」(以下「句帖」)の句について原著に記載された句順と「一茶発句集」(以下「発句集」)における句順が入り乱れていることに気づいたのがきっかけだった。 「句帖」は日記形式だから句順は時系列になる。他方、「発句集」は2万を超える一茶の句を後世の者が季語別に整理しているから日付が前後する。同じ季語のなかにさらに季語の小集合を作るため句の年次順は守られるが、月日順は乱れてしまう。 「発句集」を制作しながら「句帖」では気づかなかった点を発見できる。「句帖」と発句集を照合しながら作業するなかで気づかされることが少なからずある。一方、句順が前後するために混乱させられることもある。 このような混乱を避けるため試みに「発句集」の句に日付と天候ほか「句帖」の記載情報を挿入することにした。以下はその具体例で、左端の4桁の数字は「ふりがな小林一茶発句集」春の句番号である。 「句帖」の上段に記載されている日付や天候などを読み込むと、一茶の句をより具体的に理解することができる。僕が2年半かけて行なっている「発句集」ルビ振り作業は一茶が遺した膨大な俳句群を身体的に理解するための試行錯誤つづきで、完成は遠い先のことだ。 세로쓰기 문고 '후리가나 고바야시 잇싸 발구집' 봄의무를 수정하면서 각 구에 날짜를 넣을 필요를 느꼈다. 「문화구첩(文化句帖)」(이하 「구첩」)의 구에 대해 원저에 기재된 구순과 「일차 발구집(一茶発句集)」(이하 「발구집」)에 있어서의 구순이 흐트러져 있는 것을 깨달은 것이 계기였다. 「구첩」은 일기 형식이기 때문에 구순은 시계열이 된다. 한편, 「발구집」은 2만을 넘는 잇싸의 구를 후세의 자가 계어별로 정리하고 있기 …
発句集という座標
日記形式の『文化句帖』文化2年(1805)と同3年(1806)に次の句が載っている。一茶発句集ではこれら二つの句が順に並ぶが、実際には1年の時間差がある。にもかかわらず、どこにでもありそうな荒れた藪やごくありふれた野原にひっそりと梅の花が咲いている光景に密接な連関性があるように見せてくれる。 一茶はそういう何の変哲もない光景に健気(けなげ)な生命を見出す。こういう発見を可能にするのは、一茶が遺した2万を超える発句の存在と、季語ごとに作句順に並べる発句集という座標のお蔭だろう。 春3604 痩藪やせやぶもいなり(稲荷)おはして梅うめ[の]花はな 文化2年2月8日晴霜 43歳春3605 ありふれの野のさへ原はらさへ梅うめ[の]花はな 文化3年2月9日晴寒 44歳 일기형식『文化句帖』文化 2년(1805)과 文化 3년(1806)에 다음의 구가 실려 있다. 『一茶発句集』에서는 이 두 구가 순서대로 나열되어 있지만, 실제로는 1년의 시차가 있다. 그럼에도 불구하고, 어디에나 있을 법한 황량한 덤불이나 지극히 평범한 들판에 조용히 매화가 피어 있는 광경 사이에 밀접한 연관성이 있는 것처럼 보이게 한다. 잇싸는 그런 평범하기 짝이 없는 풍경 속에서 …
萇楚と梅の花
縦書き文庫「ふりがな小林一茶発句集」春9に次の句がある、「享和句帖」享和3(1803)年、41歳の作だ(まだ一茶と名乗っていない)。当時、詩経・易経の俳訳に試みていた(岩波文庫1992年「一茶父の終焉日記ほか」年譜参照)。 松間まつあひにひとり(一人)すま(澄)して梅うめの花はな (春3546) 松の樹々のあいだに梅の樹が一本立ち花を咲かせている光景が浮かぶ。1926年発行の享和句帖(古今書院)を見ると、信毎版一茶全集にはない「隰有萇楚」という前書きがある。詩経の下の一節から取ったのであろう。 この前書きがあると句の情景が一変し、下五の「梅の花」が瑞々しい女性の影を帯びるように思う。萇楚はキウイフルーツ科の植物らしい(英語名: carambola tree, star fruit)。 詩経: 隰有萇楚隰有萇楚 猗儺其枝, 夭之沃沃 樂子之無知隰有萇楚 猗儺其華, 夭之沃沃 樂子之無家隰有萇楚 猗儺其實, 夭之沃沃 樂子之無室In the low wet grouds is the carambola tree; Soft and pliant are its branches,With the glossiness of tender beauty.I should rejoice to be like you, [O tree], without consciousness.In the low, damp grounds is the …
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「小林一茶発句集」春8
縦書き文庫「ふりがな小林一茶発句集」春の部、春3128から春3520までの493句を歴史的かな遣いに修正しました。季語は次のとおりです。ぜひ縦書き文庫でお読みください。 蚕・虻・蜂・花見風・白魚・若鮎・身寄虫・蟹・田螺・蛤・蜆・浅蜊・草の芽・二葉・若草・草青む・蒲公英・あざみ・桜草・柳草・九輪草・菫・ぺんぺん草・芹・餅草・菜の花・壬生菜・春大根・茎立・いたどり・杉菜・土筆・蕨・海苔・木の芽・つつじ・椿・藤 縦書き文庫「ふりがな小林一茶発句集」全体の進捗状況は以下のとおりです。 https://oguriq.com/issa-tb-contents/
人生の黄昏
人生の黄昏という表現がある。それが体験できる年齢になったようだ。そう、お前はいま黄昏のなかにいる。孫を愛おしく思うのもそのせいに違いない。 ‘인생의 황혼’이라는 표현이 있다. 이제 그 황혼을 체험할 나이가 되었던 것이다. 그래, 너는 지금 그 황혼 속에 있는다. 손주를 사랑스럽게 여기는 것도 분명 그 때문일 것이다.
武蔵國22郡
文明開化と富国強兵に彩られた錦絵のような明治時代(1868-1912)の延長上で多くの人々は生き、その線上で思考を停止している。夏目漱石(1867-1916)の小説が一定の読者を持ち、マンガやアニメ作品がよく読まれる。政治では天皇制を死守する人々が少なくなく一定の國民がそれを支持している。 翻って8世紀の奈良時代(710-784)から明治時代までの関東地方は関八州と呼ばれ、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の8ヵ國が武蔵國を形づくっていた。ほぼ現在の関東地方の領域に近いのではないか。 江戸時代以前の武蔵國とその周辺 武蔵國には次の22郡があった(50音順)。足立・入間・荏原・大里・男衾・賀美・葛飾・久良岐・児玉・高麗*・埼玉・橘樹・都筑・多摩・豊島・秩父・那賀・新座(当初は新羅)・幡羅・榛澤・比企・横見(読み方は下の図参照)。*平安時代(794-1185)に新座(ニイクラ)になる 明治時代初めまでの武蔵國の諸郡 明治4年7月14日(1871年8月29日)に明治政府がそれまでの藩を廢止した。沖縄縣では琉球處分により明治12年(1879年)に琉球藩を廢し、沖縄縣を設置した。江戸時代の終期を廢藩置縣の施行時とする説もあるようだ。廢藩置縣までは上の郡名が使われていた。 高麗・新羅は古代朝鮮の國名である。これらの地域には渡来人が住んでいた。書紀によれば、716年関東各地の高麗人1,799人が武蔵国に集められ高麗(コマ)郡ができた。高麗郡は1896年(明治29年)に入間郡に編入され、現在の日高市・鶴ヶ島市の全域、飯能市や川越市・狭山市・入間市の一部を含んでいた。 同じく書紀によれば、武蔵国に新羅からの移住者(僧尼や男女など計74人)を住まわせ、新羅(シラギ)郡を設置した。現在の朝霞市・志木市・和光市・新座市の周辺にまたがる地域だった。平安時代に入郡名が新座(ニイクラ)となり今はニイザという。
三韓人一韓人新羅坊신라방
文化11年11月19日(1814)一茶51歳のとき、江戸を離れ柏原に帰郷することを記念して刊行された撰集「三韓人」は彼が30歳前後に使っていた俳号「新羅坊」と無関係とは考えにくい。 「三韓」はもと古代朝鮮の馬韓・弁韓・辰韓をさす語だが、一茶の同時代において朝鮮全域を示す語だったようだから「三韓人」は「朝鮮の人」という意味を帯びる。この撰集名に一茶が江戸滞在中に受けた人々への感謝とゝもに信州人への差別、江戸中心社会への反抗、信州人の自負心が漲っているように感じる。 韓国語で新羅房(房≠坊)というと、統一新羅時代(676-935)に貿易のため唐(618-907)に置かれた新羅人の集団居留地を意味する。張保皐(장보고)が活躍した時代だ。日本語読みはどちらもシラギボウだが、関係はなさそうだ。 撰集「三韓人」の末尾に「後編一韓人 来三月刻 信州俳諧寺一茶」という予告を載せているから、撰集は前編として位置付けられていたことになる。ただ、夏目成美による序文には書名に関する記述はなく、「一韓人」は未だに発見されていない。 ただ、一茶の並々ならぬ決心のほどは序文の一節に明らかである。「...いつまで名利の地にあるべきぞ、蟬の小川はわたらじとちかひし人もあるをと、はじめのこゝろざしにたがひたるをしきりにくいはぢて、たちまち草庵を打やぶり古さとにひきこもらむと...」 文化12年10月12日付け信州長沼魚淵誌の記名がある「あとまつり(迹祭)」末尾に次の記載があり、後編一韓人は追刻となっている。「三韓人」出版の1年後においても後編一韓人は追刻(出版予定)となっていたのだ。 三韓人已刻一茶後編 一韓人追刻同漏殿追刻同迹祭已刻魚淵杖祝已刻松宇菫塚追刻春耕おらが世追刻文路二僧塚追刻希杖 信州長沼内町 佐藤松益魚淵文通便所江戸大傳馬鹽町 萬屋藤助 右定飛脚毎月七日出立 勝峯晋風編「一茶七部集」(古今書院 1925)より 参考: 一茶: 新羅坊신라봉