寛政句帖と浅黄空

二六庵竹阿(1710-90)の死後、二六庵の号を譲り受けた一茶は寛政4年(1792)から10年(1798)まで約6年、俳諧修業のため西國と上方を行脚した。西日本地域には二六庵の門人が多くいたから、行く先々で泊めてもらえた。現存する一茶の最も若いころの句帖『寛政句帖』は30歳ごろの作である。

『寛政句帖』は日本の古本屋で検索しても見つからない。Google Books でダウンロードして読んでいる。一茶が持つ魅力をつくづく不思議だと思う。取り憑かれると、とことん付き合うことになるからだ。いや、ほかの作家も同じだろう。とにかく晩年に入った僕はずいぶんのめり込んでいる。

『浅黄空』は一茶60歳過ぎに新年・春の部から自撰した句を一冊の折本に清書したものだというが、出版されなかった。長野県の久保田家が保管していたのを研究者が解読し、一般の読者も読めるようになった。荻原井泉水(1884-1976)が『花春帖』と名付けたが、今は巻頭の発句「元旦や上々吉の浅黄空」を取って『浅黄空』と呼ばれているそうだ。

一茶の30歳ごろと60歳過ぎの自筆本を並べると何か見えてくるだろうか。彼の飽くなき俳句に対する何か、日常の生を表現することに対する止めどなき執着である。それは彼の浄土信仰と相容れないようでいて矛盾しない、信仰より強い何かもしれない。畢竟するに生ないし生命力への郷愁と執着だろうか。

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