「ふつうの人々」

芥川龍之介(1892-1927)の遺書といわれる「或旧友へ送る手記」を読んだ。昨年末、若い女性歌手の自殺らしき事件をめぐって娘と話していると、唐突に芥川の自殺を「ふつうの人々」がどう受け止めたか、尋ねられたからだ。すぐに答えることはできなかった。

冒頭に触れた若い女性歌手の自殺に関連し、篠田博之氏が自殺報道のあり方について投稿した文章を読んだ。報道のあり方を批判的に捉えていて、大いに共感するところがあった。さらに検索すると、金孝順2013が植民地朝鮮における受容について論考を公開していたので読んだ。当時の「ふつうの人々」で想定される日本人とは隔たった人々であるが、参考になると思って読んだ。

冒頭、関口安義1994の文章を引用している。やや誇張されているように思うが引用する。大日本帝国時代の話ではあるが、メディアの報道ぶりが国の戦争拡大へのムード作りの機能を担っていることを改めて思わざるを得ない。

…(1927.7.25)中央の新聞ばかりでなく、地方の新聞もすべてが重大ニュースとして芥川の死の模様を記事にした。社会面を全面つぶしでの報道が多く、衝撃の大きさを物語っている…芥川の死に関する新聞報道は翌日以後も続き、翌月末に至る。地方新聞も含めると、その量は厖大なものとなろう。後追いの自殺もかなりある。
…週刊誌も「週刊朝日」と「サンデー毎日」が龍之介の死の特集を組んだ。(略) 1927年9月号の雑誌は競って芥川龍之介特集を行っている。「文芸春秋」「中央公論」「改造」「新潮」「文章具楽部」「女性」「婦人公論」「三田文学」などが特集を組んだ。ここに実に多くの人々が様々な角度から芥川龍之介とその文学に発言することになる…

これを読んで、1970年11月の三島由紀夫(1925-70)の自殺を思い出した。当時、大学に行かず渋谷の大型書店でバイトしていた僕は、帰りに渋谷駅で配られていた号外を貪るように読み、いつになく興奮していた。帰宅すると、どのテレビも事件の報道一色だった、と記憶している。その後、三原山が噴火したとき、東北大震災のときも同じ動画がすべての放送局から流れていた。いまはコロナ禍一色だ。そもそも日本社会はいつもそうだが、再び1927年に戻ろう。

1926年12月に大正から昭和に改元した大日本帝国はどんな状況にあったのか。23年9月関東大震災、同年12月皇太子、30年11月浜口雄幸に対する襲撃事件が続いている。28年6月の張作霖爆殺事件、31年9月の柳条湖事件と続き、大日本帝国は32年3月の満洲帝国建国へと進んでいった。32年5・15、36年2・26を挟んで37年7月盧溝橋事件により本格的に中国を侵略していく。38年4月には国家総動員法が公布された。年表はこのような事件を記している。

聡明で神経衰弱を病んでいたという芥川が、戦争へ突き進む時代の重圧を鋭敏に感じていたことは想像に難くない。芥川を近しく感じていた萩原朔太郎(1886-1942)の「芥川龍之介の死」も読んだ。望郷の詩人とカミソリの刃のような小説家は似ているところがあり、かなり親しく交わっていた。伊豆の温泉宿で芥川の訃報を聞いた朔太郎は呆然とさまよい歩いたという。小説家が自殺する数日前に会っていながら、話を尽くせなかったことを悔いている。朔太郎も「ぼんやりした不安」を共有していたろう。

「ふつうの人々」という、いっけん容易に考えられそうな対象を捉えることのむずかしさについて改めて考えさせられた。独立した精神と卓越した観察力がなければ、それを捉えることはできない。いまだ僕にはそんな能力が備わっていないようだ。

阿育王塔とおふちの樹

九品仏にある淨眞寺(浄土宗)に行った。何回か訪ねている寺だ。九品仏くほんぶつの由来となった阿弥陀如来像九体を三体ずつ安置する三仏堂のあいだ、少し奥まったところに石塔が建っている。前からそこにあることは知っていたが、冬の西日のせいだろうか、石塔が迫ってくるように感じた。幕末に造られた日本様式の阿育あしょか王塔だという。阿育王は古代インド(紀元前3世紀)に実在した人物である。

寺の裏手にある公園にセンダンの樹があり実がたわわになっていた。調べたところ、日本にセンダンの樹はなく、平家物語巻十一にある「獄門の左のおふちの木にぞけられける」の「樗[おうち]の木」が栴檀せんだんとされるようになったという。実をついばんでいた鳥はムクドリらしい。 

日本古典文学摘集 平家物語 巻第十一
一七一七六 大臣殿被斬

原文
`さるほどに鎌倉の源二位大臣殿に対面あり
 `おはしける所庭を一つ隔てて向かひなる屋に据ゑ奉り簾の内より見出だし給ひて比喜藤四郎義員を以て申されけるは
 `平家を別して頼朝が私の敵とは努々思ひ奉らず
 `その故は故入道相国の御許され候はずば頼朝いかでか命の助かり候ふべき
 `さてこそ二十余年まで罷り過ぎ候ひしか
 `されども朝敵とならせ給ふ上追討すべき由の院宣賜はる間さのみ王地に孕まれて詔命を背くべきにもあらねばこれまで迎へ奉つたり
 `かやうに御見参に入るこそ本意に候へ
 `とぞ申されたる
`東国の大名小名多く並み居たりける中に京の者幾らもありまた平家の家人だつし者もあり皆爪弾きをして
 `あな心憂や
 `居直り畏り給ひたらばとて御命の助かり給ふべきか
 `西国にていかにも成り給ふべき人の生きながら囚はれてこれまで下り給ふも理かな
 `と云ひければ
 `げにも
 `と云ふ人もありまた涙を流す人もあり
`その中にある人の申しけるは
(1)``猛虎在深山即百獣震怖
``檻穽中則揺
`とて猛き虎の深山にある時は百の獣怖ぢ恐るといへども捕つて檻の中に籠められぬる後は尾を振つて人に向かふらんやうにこの大臣殿も心猛き大将軍なれどもかくなりて後はかやうにおはするにこそ
 `とぞ申す人々もありけるとかや
`判官やうやうに陳じ給へども景時が讒言の上は鎌倉殿用ひ給はず
 `大臣殿父子具し奉つて急ぎ上り給ふべき由宣ふ間六月九日また大臣殿父子受け取り奉つて都へ帰り上られけり
`大臣殿は今一日も日数の延ぶるを嬉しき事にぞ思はれける
 `道すがらも
 `此処にてや此処にてや
 `とは思はれけれども国々宿々うち過ぎうち過ぎ通りぬ
 `尾張国内海といふ所あり
 `一年故左馬頭義朝か誅せられし所なれば
 `此処にてぞ一定
 `と思はれけれども其処をもつひに過ぎしかば
 `さては我が命の助からんずるにこそ
 `と思しけるこそはかなけれ
`右衛門督は
 `なじかは命を助くべき
 `かやうに暑き比なれは首の損ぜぬやうに計らひて都近うなりてこそ斬らんずらめ
 `と思はれけれども父の嘆き給ふが労しさにさは申されず偏に念仏をのみ勧め申されける
`同じき二十一日近江国篠原の宿に着き給ふ
 `昨日までは父子一所におはしけるを今朝よりは引き離し奉つて所々に据ゑ奉る
 `判官情ある人にて三日路より人を先立てて善知識の為にとて大原の本性房湛豪と申す聖を請じ下されたり
`大臣殿善知識の聖に向かひて宣ひけるは
 `抑も右衛門督は何処に候ふやらん
 `たとひ頭をこそ刎ねらるるとも骸は一つ席に臥さんとこそ契りしか
 `この世にてはや別れぬる事の悲しさよ
 `この十七年が間一日片時も身を離されず京鎌倉恥を曝すもあの右衛門督故なり
 `とて泣かれければ聖も哀れに思ひけれども我さへ心弱うては叶はじとや思ひけん涙押し拭ひさらぬ体にもてないて
 `誰とても恩愛の道は思ひ切られぬ事にて候へばまことにさこそは思し召され候ふらん
 `生を受けさせ給ひてより以来昔も例しなし
 `一天の君の御外戚にて丞相の位に至り給ひぬ
 `今更かかる御目に逢せ給ふ御事もその前世の宿業なれば世をも人をも神をも仏をも恨み思し召すべからず
 `大梵王宮の深禅定の楽しみ思へばほどなし
 `況や電光朝露の下界の命に於いてをや
 `忉利天の億千歳ただ夢の如し
 `三十九年を保たせ給ひけんも僅かに一時の間なり
 `誰れか嘗めたりし不老不死の薬
 `誰か保ちたりけん東父西母が命
 `秦の始皇の奢りを極めしもつひには驪山の塚に埋もれ漢の武帝の命を惜しみ給ひけんも空しう杜陵の苔に朽ちにき
(2)``生者必滅
 ``釈尊未栴檀煙
 ``楽尽悲来
``天人猶逢五衰日
`とこそ承れ
 `されば仏は
`我心自空罪福無主観心無心法不住法,我心自空罪福無主観心無心法不住法
`とて善も悪も空なりと観ずるが正しう仏の御心に相叶ふ事にて候ふなり
 `いかなれば弥陀如来は五劫が間思惟して発し難き願を発しましますにいかなる我等なれば億々万劫が間生死に輪廻して宝の山に入りて手を空しうせん事恨みの中の恨みおろかなるが中の口惜しき事には思し召され候はずや
 `今は余年を思し召すべからず
 `とて鐘打ち鳴らし頻りに念仏を勧め奉れば大臣殿も
 `然るべき善知識かな
 `と思し召し忽ちに妄念を翻し西に向かつて手を合はせ高声に念仏し給ふ処に橘右馬允公長太刀を引き側めて左の方より御後ろに立ち廻り既に斬り奉らんとしければ大臣殿念仏を留め合掌を翻り
 `右衛門督も既にか
 `と宣ひけるこそ哀れなれ
`公長後ろへ寄るかと見えしかば首は前にぞ落ちにける
`この公長と申すは平家相伝の家人にて就中新中納言知盛朝夕伺候の侍なり
 `さこそ世を諂らふ習ひとはいひながら無下に情なかりけるものかな
 `とぞ人皆慚愧しける
`聖また先の如く右衛門督にも戒持たせ奉り念仏をぞ勧め申されける
 `右衛門督善知識の聖に向かつて宣ひけるは
 `抑も父の御最期はいかがましまし候ふやらん
 `と宣へば
 `めでたうましまし候ひつる
 `御心安く思し召され候へ
 `と申されければ右衛門督
 `今は憂き世に思ひ置く事なし
 `さらば疾う斬れ
 `とて首を延べてぞ討たせられける
 `今度は堀弥太郎親経斬つてけり
`首をば判官持たせて都へ上り給ふ
 `骸をば公長が沙汰として親子一つ穴にぞ埋めける
 `これは大臣殿のあまりに罪深う宣ひけるによつてなり
`同じき二十三日武士検非違使三条河原に出で向かひて平家の首受け取る
 `三条を西へ東洞院を北へ渡して獄門の左の樗の木にぞ懸けられける
 `昔より卿相の位に至る人の首大路を渡さるる事異国にはその例もやあるらん我が朝には未だその先蹤を聞かず
 `平治にも信頼卿はさばかりの悪行人たりしかども大路をば渡されず平家に取つてぞ渡されける
 `西国より帰りては生きて六条を東へ渡され東国より上りては死して三条を西へ渡され給ふ
 `生きての恥死んでの辱いづれも劣らざりけり

書下し文
(1)
``猛虎深山に在る時は即ち百獣震ひ怖づ
`檻穽の中に在るに及んで即ち尾を揺つて食を求む
(2)
``生ある者は必ず滅す
 ``釈尊未だ栴檀の煙を免かれ給はず
 ``楽しみ尽きて悲しみ来たる
``天人猶五衰の日に逢へり
https://www.koten.net/heike/gen/176/

二つの八幡神社

自宅近くにある雪ヶ谷八幡神社に行った。何度か鳥居前を通り過ぎたことはあるが、境内に入った記憶はない。こじんまりした神社だと思ったら、なかなか奥深い。わざわざ行ったわけではなく、散髪しに行く途中で立ち寄ったのだが、ひっそりした境内に七五三を祝う女の子を連れた母親と祖父らしい人の姿をみて、なつかしい気分になった。

少年時代を過ごした善福寺川沿いにあった家からほど近いところに井草八幡宮があり、よく境内で遊んだ。源頼朝が植えたとされる松があり、数年に一度行われる流鏑馬(やぶさめ)の人馬一体がよぎる姿を鮮やかに覚えている。少年が一番好きだったのは夏の祭礼だった。ろくろっ首の見せ物やお化け屋敷は不気味で入らなかった。

七五三の儀礼もそこで行った記憶がある。写真で覚えているのかもしれない。小石を敷きつめた境内とくるぶしの上でボタンをとめる黒い革靴を履いていた。僕はあの革靴が気に入っていた。

昭和天皇の「人間宣言」を読む

1946年1月1日付け官報を読んだ。大日本帝国と日本国の狭間に発せられた文書として興味深い。昭和天皇(1901-89)の「人間宣言」とされている。縦書き文庫の「ハイジン教の改宗者たち(草稿)」にも掲載した。漢文調の文章は縦書きが読みやすい(原文にルビと段落間の空行はない)。

昭和21年1月1日付け官報号外
詔書

ここニ新年ヲ迎フ。かえりミレバ明治天皇明治ノはじめ国是こくぜトシテ五条ノ御誓文ごせいもんくだたまヘリ。いわク、

一、広ク会議ヲおこ万機ばんき公論こうろんニ決スヘシ
一、上下心ヲひとつニシテ盛ニ経綸けいりんヲ行フヘシ
一、官武一途いっと庶民ニ至ルまでその志ヲケ人心ヲシテマサラシメンコトヲ要ス
一、旧来きゅうらい陋習ろうしゅうヲ破リ天地ノ公道ニもとづクヘシ
一、智識ちしきヲ世界ニ求メ大ニ皇基こうき振起しんきスヘシ

叡旨えいし公明正大、又何ヲカ加ヘン。ちんここちかいあらたニシテ国運ヲ開カントほっス。すべかラク此ノ御趣旨しゅしのっとリ、旧来きゅうらい陋習ろうしゅうヲ去リ、民意ヲ暢達ちょうたつシ、官民ゲテ平和主義ニてっシ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

大小都市ノこうむリタル戦禍せんか罹災者りさいしゃ艱苦かんく、産業ノ停頓ていとん、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢すうせい等ハまことニ心ヲ痛マシムルモノアリ。しかリトいえどモ、我国民ガ現在ノ試煉しれんニ直面シ、かつ徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、ク其ノ結束ヲまっとウセバ、ひとリ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。

レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲこうスベキノときナリ。

おもフニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハややモスレバ焦躁しょうそうニ流レ、失意ノふち沈淪ちんりんセントスルノ傾キアリ。詭激きげきノ風ようやク長ジテ道義ノ念すこぶおとろへ、ためニ思想混乱ノきざしアルハまこと深憂しんゆうヘズ。

しかレドモちん爾等なんじら国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚きゅうせきわかタント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ちゅうたいハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニリテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニあらズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、かつ日本国民ヲもっテ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、ひいテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモあらズ。

朕ノ政府ハ国民ノ試煉しれんト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱じかん蹶起けっきシ、当面ノ困苦こんく克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往ゆうおうセンコトヲ希念きねんス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相リ相たすケ、寛容相許スノ気風ヲ作興さっこうスルニ於テハ、ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。かくノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ所以ゆえんナルヲ疑ハザルナリ。

一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲひとつニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就じょうじゅセンコトヲ庶幾こいねがフ。

御名 御璽
昭和二十一年一月一日
内閣総理大臣兼第一復員大臣
第二復員大臣男爵 幣原喜重郎
司法大臣 岩田宙造
農林大臣 松村謙三
文部大臣 前田多門
外務大臣 吉田茂
内務大臣 堀切善次郎
国務大臣 松本烝治
厚生大臣 芦田均
国務大臣 次田大三郎
大蔵大臣子爵 渋沢敬三
運輸大臣 田中武雄
商工大臣 小笠原三九郎
国務大臣 小林一三

「日本国」と「大日本帝国」の連続と不連続

日本国憲法の前文を再掲する。いつ読んでも、真情溢れる格調高い文章だと思う(太字・下線表示と段落付けは投稿者による)。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言しこの憲法を確定する
 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふわれらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものでありこの法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる
 日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ
https://shaws2021.wordpress.com/
大日本帝国憲法から日本国憲法への移行 (c)Wikipedia
大日本帝国憲法(明治憲法)
第7章補則
第73条 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

日本国憲法と大日本帝国憲法のあいだには越えがたい不連続がある。これを連続するものとして捉えるのは間違っている。日本政治の貧しさの要因の一つが、不連続を連続と捉える思考法にあると考えるべきではないか。戦後の義務教育を通じてこの連続史観が生徒たちに刷り込まれてきた。大浜啓吉『法の支配とは何か』より引用する。

国家とは何か。憲法が国を作るのであって国が憲法を作るのではない(近代法の常識)。明治憲法の作った国を大日本帝国といい日本国憲法の作った国を日本国という二つは根本的に違う国であるから、当然にその原理を異にする。明治国家の統治原理を「法治国家 Rechtsstaat」といい日本国の統治原理を「法の支配 rule of law」という前者は立憲君主制の統治原理であり、主権が天皇にある以上、基本的人権という概念は認められない。個人は具体的な法律が認めた限りで権利を認められたにすぎない(法律の留保)。
日本国の統治原理である「法の支配」の源流は英米法にある。「法の支配」の根底にあるのは自由で平等な尊厳ある個人社会という概念である。尊厳ある個人を起点にして社会が構成され、国家は社会に生起する公共的問題を解決するために、人為的に作られた機構にすぎない。人は国家のなかで生きるのではなく、社会のなかで自己実現を果たす。平和で自由に生きるためには健全な「社会」が必要であり、国家は社会の健全性を保持するための存在だから、個人の自由に介在することは許されない。国家の役割はあくまでも社会の足らざるところを補完するか、社会に奉仕することによって個人の人権を護ることにある
ナショナルレベルの社会とローカルレベルの社会とは抱える問題の種類も性質も違って然るべきである。問題が違う以上、国家が自治体(国家)に過剰介入することは許されない。[国が定める]法律と[地方公共団体が定める]条例の問題もこの原理にもとづいて解釈する必要がある。憲法の保障する地方自治の本旨は人権→地域社会→自治体の補完という筋で解釈されなければならない。これもまた「法の支配」原理から引き出されるルールである。
行政法とは、①行政権の組織を作り、②行政活動の根拠を与え、③行政活動の結果、私人とのあいだに紛争が起きたときにこれを裁断するルールを定める法律のことである。現在、日本には約2000本の法律が存在するが、行政法はその9割を占める。憲法は国家機関の行為を縛る規範だから、行政法の基本原理についても憲法の根底にある「法の支配」の原理を投影して考察しなければならない
大浜啓吉著『法の支配とは何か』より引用
1946(昭和21)年1月1日付け官報号外(天皇の「人間宣言」とされる公示) https://tb.antiscroll.com/novels/goolee/23635
詔書
ここニ新年ヲ迎フ。かえりミレバ明治天皇明治ノはじめ国是こくぜトシテ五条ノ御誓文ごせいもんくだたまヘリ。いわク、
一、広ク会議ヲおこ万機ばんき公論こうろんニ決スヘシ
一、上下心ヲひとつニシテ盛ニ経綸けいりんヲ行フヘシ
一、官武一途いっと庶民ニ至ルまでその志ヲケ人心ヲシテマサラシメンコトヲ要ス
一、旧来きゅうらい陋習ろうしゅうヲ破リ天地ノ公道ニもとづクヘシ
一、智識ちしきヲ世界ニ求メ大ニ皇基こうき振起しんきスヘシ
叡旨えいし公明正大、又何ヲカ加ヘン。ちんここちかいあらたニシテ国運ヲ開カントほっス。すべかラク此ノ御趣旨しゅしのっとリ、旧来きゅうらい陋習ろうしゅうヲ去リ、民意ヲ暢達ちょうたつシ、官民ゲテ平和主義ニてっシ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノこうむリタル戦禍せんか罹災者りさいしゃ艱苦かんく、産業ノ停頓ていとん、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢すうせい等ハまことニ心ヲ痛マシムルモノアリ。しかリトいえどモ、我国民ガ現在ノ試煉しれんニ直面シ、かつ徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、ク其ノ結束ヲまっとウセバ、ひとリ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲこうスベキノときナリ。
おもフニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハややモスレバ焦躁しょうそうニ流レ、失意ノふち沈淪ちんりんセントスルノ傾キアリ。詭激きげきノ風ようやク長ジテ道義ノ念すこぶおとろへ、ためニ思想混乱ノきざしアルハまこと深憂しんゆうヘズ。
しかレドモちん爾等なんじら国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚きゅうせきわかタント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯じんたいハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニリテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニあらズ。天皇ヲ以テ現御神アキツカミトシ、かつ日本国民ヲもっテ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、ひいテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモあらズ。
朕ノ政府ハ国民ノ試煉しれんト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱じかん蹶起けっきシ、当面ノ困苦こんく克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往ゆうおうセンコトヲ希念きねんス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相リ相たすケ、寛容相許スノ気風ヲ作興さっこうスルニ於テハ、ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。かくノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ所以ゆえんナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲひとつニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就じょうじゅセンコトヲ庶幾こいねがフ。
御名 御璽
昭和二十一年一月一日

ハイジン教の似非(えせ)信者たち

「いつか名もない魚になる」の続編として「ハイジン教の似非(えせ)信者たち( 「ハイジン教の改宗者たち」を改題)」を書き進めている。主人公は長年日本に住む韓国人だ。読者は「小説らしくない」「難解で読みにくい」という。このまま埋もれるのだろうか。[写真: 品川区東海寺にある賀茂眞淵の墓]

(以下、縦書き文庫の「まえがき」より)
この文章は「実験小説・拝人教の改宗者たち」の創作ノートと題して書き始めました。「実験」という言葉が示すとおり、小説であることに疑問を感じていたのです。第三節を書いているころ、これは小説ではないと思い、批説(小説と批評文の中間に位置する文章)としました。その後、題を「ハイジン教の改宗者たち(仮題)」に変更しました。「ハイジン」に漢字を当てるのは読者に委ねます。
 縦書き文庫のサイトに直接入力して創作するという意味の「実験」性は維持し、執筆過程を読者と共有するスタイルも変わりません。社会や人々の生態を批評する小説ならぬ「批説」があり得ると考えています。問題は読者がこのような作品を認めてくれるかどうかですが、自信のほどはまったくありません。

はじめに考えていたのはハイジン教に改宗する人々だつたが、それを改めた。僕が描くべきはハイジン教徒のなかの異端者であり、他宗への改宗者だつた。こんな大事なことに気づかなかったなんて、本当に何て愚かなのだ。ここに「ハイジン教の似非(えせ)信者たち」に改題する(20211124)。

国際戦没者追悼式という提案

1952(昭和27)年から今日にいたるまで毎年実施されている全国ならびに各地域の戦没者追悼式、その意味を改めて考えてみたい。以前から感じている最大の疑問は追悼対象が日本人に限られていることだ。

1952年当時、日本は戦後期の真っ只中にあり、戦没者の追悼式典が内向きなものになったのはやむを得ない、と理解することはできよう。ただ、それをそのまま継続しながら、一方で「戦後は終わった」とするのはおかしいのではないか。

戦没者というのは、文字どおり戦争で非業の死を遂げた人々のことである。日本軍が侵略した朝鮮・中国を含むアジア全域と太平洋地域で多くの兵士が死んでいった。沖縄戦や広島・長崎の原爆あるいは東京大空襲による一般市民の犠牲者も戦没者であろう。

忘れてならないのは、これらの兵士や一般市民のなかに日本国籍でない人々がいたことだ。さらに想うべきは、アジア太平洋地域において多くの外国人兵士と一般市民が先の戦争で非業の死を遂げたということだ。こう考えると、戦没者追悼式がいまも国内向けでしかないことは恥ずべきことに思われる。

このような趣旨において、全国戦没者追悼式の対象を日本ならびにアジア太平洋地域において先の戦争の犠牲になった戦没者に拡大することを提案したい。たとえば、式典に在京の関係各国大使等の出席を求め、国際戦没者追悼式とするのである。「積極的平和主義」という耳馴れない用語にも符合する式典となるのではないだろうか。

友人の失踪宣告

かつて親しくしていた友人の失踪宣告をしなければならない。1975年12月だったろう、三峰口から雲取山にはじめて登山し、一時期よく奥多摩や秩父に同行した友人と1年あまり連絡がとだえたままなのだ。数年前に会ったのが最期で、東北の実家に戻り母親の面倒をみると聞いた。ネットや電話のやり取りはあったが、それもとだえて久しい。寡黙でいつも笑っていた彼の失踪を宣告しなければならないと思う。自分を納得させるためだ。

以下、日韓の民法の失踪宣告に関する条文を引用する。先日、Netflix 「愛の不時着」で主人公の失踪から1ヵ月で死亡宣告をしていたのが気になって調べると、日韓とも特別失踪は危難が去ってから1年としている。これに準じて、ネット上で1年連絡が取れなくなった者は失踪とみなせるのではないかと考えた。他界することの意味を再考しなければならない。

カメラに関心を持ったのは彼の影響だった。行政書士試験を勧めたのも彼だった。デクノボウを連想させる男から、僕は少なからず影響を受けているようだ。そんな彼の追悼ブログを八戸歳々時記として載せた。音信はとだえたが、いつか同界(他界の対語)できれば、と思う。

失踪宣告に関する民法条文の日韓比較:

第30条 [失踪の宣告] 不在者の生死が7年間明らかでないときは、家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪の宣告をすることができる。 戦地に臨んだ者、沈没した船舶の中に在った者その他死亡の原因となるべき危難に遭遇した者の生死が、それぞれ、戦争が止んだ後、船舶が沈没した後又はその他の危難が去った後1年間明らかでないときも、前項と同様とする。
第31条 [失踪の宣告の効力] 前条第1項の規定により失踪の宣告を受けた者は同項の期間が満了した時に、同条第2項の規定により失踪の宣告を受けた者はその危難が去った時に、死亡したものとみなす。
第32条 [失踪の宣告の取消し] 失踪者が生存すること又は前条に規定する時と異なる時に死亡したことの証明があったときは、家庭裁判所は、本人又は利害関係人の請求により、失踪の宣告を取り消さなければならない。この場合において、その取消しは、失踪の宣告後その取消し前に善意でした行為の効力に影響を及ぼさない。 失踪の宣告によって財産を得た者は、その取消しによって権利を失う。ただし、現に利益を受けている限度においてのみ、その財産を返還する義務を負う。
民法: 失踪の宣告
제27조(실종의 선고)부재자의 생사가 5년간 분명하지 아니한 때에는 법원은 이해관계인이나 검사의 청구에 의하여 실종선고를 하여야 한다. ② 전지에 임한 자, 침몰한 선박 중에 있던 자, 추락한 항공기 중에 있던 자 기타 사망의 원인이 될 위난을 당한 자의 생사가 전쟁종지후 또는 선박의 침몰, 항공기의 추락 기타 위난이 종료한 후 1년간 분명하지 아니한 때에도 제1항과 같다. <개정 1984.4.10>
제28조 (실종선고의 효과) 실종선고를 받은 자는 전조의 기간이 만료한 때에 사망한 것으로 본다.
제29조(실종선고의 취소) ①실종자의 생존한 사실 또는 전조의 규정과 상이한 때에 사망한 사실의 증명이 있으면 법원은 본인, 이해관계인 또는 검사의 청구에 의하여 실종선고를 취소하여야 한다. 그러나 실종선고후 그 취소전에 선의로 한 행위의 효력에 영향을 미치지 아니한다. ②실종선고의 취소가 있을 때에 실종의 선고를 직접원인으로 하여 재산을 취득한 자가 선의인 경우에는 그 받은 이익이 현존하는 한도에서 반환할 의무가 있고 악의인 경우에는 그 받은 이익에 이자를 붙여서 반환하고 손해가 있으면 이를 배상하여야 한다.
한국 민법: 실종의 선고

「日本の伝統」なるもの

「週刊金曜日」7月23日号の巻頭言で田中優子氏が明解に述べている。保守勢力の一部が主張する「日本の伝統」なるものがいかに浅薄皮相の僻見かがわかる。その一部を引用する。

日本の夫婦が同姓になったのは明治31年(1898年)である。それまでは夫婦別姓だったので、明治時代の帝国議会議員からは「同姓は日本の伝統に合わない」と反対の声があがった。この時は「選択的」ではないので、選ぶ余地なくすべての夫婦が同姓となった。どうせ言いくるめるなら、せめて「日本の伝統に戻してはならない。明治時代の日本を死守せよ」というべきであろう…

なるほど、と思い、「新聞集成明治編年史」第10巻(東洋問題多難期: 明治30-32年)を読んだ。後の日露戦争へと踏み込んでいく反露ムードが紙面に溢れている。サイトで検索すると、他ならぬ法務省のページが<氏の制度の変遷>について載せていたので、以下に引用する。

  • 徳川時代 : 一般に農民・町民には苗字=氏の使用は許されず。
  • 明治3年9月19日太政官布告 : 平民に氏の使用が許される。
  • 明治8年2月13太政官布告 : 氏の使用が義務化される。
  • ※兵籍取調べの必要上,軍から要求されたものといわれる。
  • 明治9年3月17日太政官指令 : 妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)。
  • ※明治政府は妻の氏に関して実家の氏を名乗らせることとし,「夫婦別氏」を国民すべてに適用することとした。なお,上記指令にもかかわらず,妻が夫の氏を称することが慣習化していったといわれる。
  • 明治31年民法(旧法)成立 : 夫婦は家を同じくすることにより,同じ氏を称することとされる(夫婦同氏制)。
  • ※旧民法は「家」の制度を導入し,夫婦の氏について直接規定を置くのではなく,夫婦ともに「家」の氏を称することを通じて同氏になるという考え方を採用した。
  • 昭和22年改正民法成立 : 夫婦は婚姻の際に定めるところに従い,夫又は妻の氏を称することとされる(夫婦同氏制)。
  • ※改正民法は旧民法以来の夫婦同氏制の原則を維持しつつ,男女平等の理念に沿って夫婦はその合意により夫又は妻のいずれかの氏を称することができるとした。

わきびとたち