賀茂眞淵と澤庵宗彭の墓

賀茂眞淵の墓を再訪した。前回訪れたときの記事には周囲の騒音をしばし忘れるかのように書いているが、今回は違った。電車や列車の音ばかりでない、ひっきりなしに上空を低空で通過する航空機の爆音がうるさく響いた。

品川区東海寺にある賀茂眞淵の墓(背面から)

同じく東海寺の墓地内に澤庵宗彭(1573-1645)の墓がある。漬物石そのものを置いたような墓だ。澤庵が没して約50年後に賀茂眞淵が生まれている。賀茂眞淵の没後250年の現在からはどちらも同じ時代にいたように見える。

https://oguriq.com/2020/12/12/賀茂眞淵の墓/

自問自答

何だかだ言っても、結局のところ、おまえも日本の戦後教育のみすぼらしい落とし子の一人にすぎないようだな。その土台は明治以来続いている偏狭な復古主義に根ざしているというべきだろう。

小説「いつか名もない魚になる」に描かれた「寺院」とか「教会」にいて、小説に登場する他に行くところがない人々と同じように決められたことを勉強し、何がしかのことを学んだような錯覚を得て満足する似非(えせ)文化人そのものではないか。おまえの周囲にいる人々と同類ではないか。

老境・老狂人

三月末、韓国の友人がSNSで日常のくり返しに意義を感じない、と伝えてきたと思った。彼らしくないな、と思いながらも、むっとして、そんなことはないだろう、と返した。このことがずっと気になっていたのだろう。2週間後にそのSNSを読み返したら、日常を描写しただけではないか。[저는 늘 같은 일상의 반복입니다. 日々同じ日常のくり返しです] 勝手に誤解し(苛立いらだっていたのだ。

最近、苛立(いらだ)つことが少なくない。修羅(しゅら)は身の(たけ)八千由旬(ゆじゅん)といわれるが、帝釈天(たいしゃくてん)(しか)られると(ちぢ)んでしまう。僕も小さくなって沈んでいく修羅のような感官(かんかん)にさいなまれている。以前から毎年冬から春にかけて(おそ)ってくる沈滞(ちんたい)期はあった。水鳥が必死に水を()いているような感覚を覚え、同じところを堂々(どうどう)めぐりする。

むかしは何か関心のあることを見つけたり恋愛に没頭(ぼっとう)することでやり過ごした。小説まがいの文章を書いたのも沈滞期を乗り越えようとしてだったかもしれない。そのときはただ夢中になるだけだが、振り返ると、水鳥の水()きだったのか、と気づかされる。その気づきがさらに沈滞感を深める。

四月初め、ある日の午後、高層ビルの3階にあるコーヒーショップにいた。ここはもう小説に書いたような教会でも寺院でもない、狂界(きょうかい)とも (きょう(だい)ともいうべき場所になった。席を二つ離れたところに僕よりやや若そうな老人がいる。ふつうの風貌ふうぼうをしているが、ぶつぶつひとり言をしながらパソコンに向かい、ときどき電話をかけては大声で話す。おどおどしながら驕慢きょうまんな話し方に尋常じんじょうでないものを感じる。この都会に病者が蔓延まんえんすることは避けられないとしても、こういう連中に静けさを乱す権利などないはずだ。

こういう感官と誤解こそが老境(ろうきょう)というものの正体(しょうたい)かもしれない。おまえも、あの臆病そうで驕慢な男と同類ではないか。ただの老境ではない、老狂(ろうきょう)恐るべしだ。老狂人、これも誤解であればいいのだが。江戸後期の画狂老人を思う。

名もない魚(うを)

洗足池の一角に桜山と呼ばれ親しまれている名所がある。天候に恵まれ絶好の花見日和に近在の人々がくり出していた。池に流れ込む側溝の(うを)に語りかけるが、当然のことながら応答はない。

二つの Eleanor Rigby

70年代によく聞いた Eleanor Rigby がどこからともなく聞こえてくる。(1) by Aretha Franklin; (2) by Beatles: よく聴いてみると (1)と(2)では歌詞が違う。(1)では冒頭から I’m Eleanor Rigby であり、I picked up the rice だから、いわば all the lonely people が主語になっている。(2)では Ah, look at all the lonely people と呼びかけ、Eleanor Rigby picks up the rice…となる。(1)は Aretha が自らを歌い、(2)は Beatles が彼らに呼びかけるように歌う。

先に投稿したブログの文脈に置き換えれば、前者はワキ人自らが Eleanor になりきって歌い、後者はシテ人がワキ人について観察しながら歌うのである。71歳でこういうことが理解できたからといって、どんな役に立つのかわからない。

わきびと・脇人

能と狂言の世界(能楽)に「ワキ」「シテ」という役の区分があり、「ワキ方」を演じる流派と「シテ方」だけの流派に分化しているそうだ。主役と脇役という役者の機能にもとづく捉え方ではなく、明確な職業分化が定着しているらしい。

「ワキ」と「シテ」を主役と脇役に置き代えてはいけないようだ。たとえば、セルバンテスの「ドンキホーテ」については、ふつう主人公の騎士を主役とし、従者を脇役と考える。能面ならぬ鎧面を付けた騎士をシテ、従者をワキとすることはできるかもしれない。

すると、従者の馬はワキツレ(脇連)になるが、騎士の馬ロシナンテは該当しない。「シテツレ」という役があるとは考えにくいからだ。「シテ」に付く「ツレ(連)」は想定されていないようだ。

他方、ドンキホーテもサンチョパンサも現実社会においては<はぐれ者>であり、変人扱いされるような人物である。彼らは二人とも「ワキ」役でしかない、「ワキ方」「ワキ役」についてこんなふうに考えた。これを自作の文章に当てはめると、

いつか名もない魚になる」について、主人公は「シテ」で記録係は「ワキ」だと言える。だが、二人とも「名もない魚」になってしまうのだから、社会の大勢を占める「ンヴィーニ(ンヴィニ教徒)」からみれば「ワキ」役でしかない。いや、待てよ。そもそも「ンヴィーニ」とは無名の無宗教派の人々ではなかったか。

こういう人々を総じて「わきびと」と呼びたいのだが、自分が何を考えようとしているのか明確でない。何か見失いかけている足場を再発見しようともがいているようだ。なお、「わきびと」に漢字を当てると脇人だが、音読みはキョウジンで狂人と同音になる。英語は仮に wakibito, the supporting players としておく。


[以下、別途ブログに投稿しました]

70年代によく聞いた Eleanor Rigby がどこからともなく聞こえてくる。(1) by Aretha Franklin; (2) by Beatles よく聴いてみると、(1)と(2)では歌詞が違う。(1)では all the lonely people が主語になっているが、(2)では目的語なのだ。(1)は Aretha が自らを歌い、(2)は Beatles が彼らに呼びかける。上の文脈に置き換えれば、前者はワキ人自らが歌い、後者はシテ人がワキ人について歌うのである。

散文詩という文章形式

Aphorism という語がある。格言集などと訳されるが、萩原朔太郎は散文詩としていたと思う(青空文庫に入っていて驚く)。高三の夏休み、父が単身赴任中で後に再婚する相手と逢瀬を楽しんでいたと思われる一軒家で40日過ごした。毎夕、五右衛門風呂に入るのが楽しみだった。岡山県の津山に近い鉱山町だったが、いまはもうない。

朔太郎の新潮社版全集を1万円ぐらいで購入し、カバンに詰めた文庫本30冊とともに鈍行に乗った。その年の春に岩手県の水沢(現江刺)市から東京の杉並に引っ越し、私学の進学校に転入したが、受験勉強をする気持ちはまったくなかった。だから、読みたい本を小遣いの許す限り買いため、周囲には受験勉強をしてくると言い、東海道線の旅客となったのだ。

朝父が出勤すると誰もいない贅沢な和室で英語と世界史の本を横に置き、勉強しているふうを装った。英語は福原麟太郎編の研究社の教科書とVacali の英文法通論だった、後に詳論も読んだ。世界史は山川出版の史料集だったと思う。僕の受験勉強はざっと、こんなものだった。

朔太郎の詩や詩論をよく読んだ。なかでも気に入っていたのが散文詩であった。気が向くと吉井川の河原まで下っていき、文庫本を読んだ。芥川の河童を河原で読んだのは痛快だった。鷗外訳のファウストや鈴木力衛訳のモリエールも読んだ。紀伊國屋で安売りしていた洋書 the Complete works of Shakespeare も持参し辞書を引きながら読んだ。Faraday; the Chemical History of a CandleEinstein/Infeld; the Evolution of Physics も後に読んだ。いずれも翻訳書を通じて興味を持った。 後者は翻訳書も原書も一般相対性理論までしか読んでいない。それ以上は理解できなかったから。

「いつか名もない魚になる」は、こんな高校生だった作者が55年後に書いた文章である。作者の観察眼は高校生のときに形成されたようだ。ある文学賞に応募したが、<小説>の形式をふまえていなかったと思う。朔太郎のいう散文詩に近いものだったのではないか、予選すら通過しなかったのは当然というべきだろう。散文詩は集束しない、ひたすら放射するのである。

70歳で法律を学ぶ

2019年の7月から行政書士試験専門の塾でにわか勉強して受験した。数年前から勤めていた会社で資金移動業の登録申請業務に関わったのがきっかけだ。法律知識の不足を痛感し、70歳を前に自分がそれまで避けてきたことをやろうと考えた。翌年も同じ塾に通い本格的に勉強するつもりが、コロナ禍の影響もあり継続する意欲を見失ったまま受験し、不合格となった。

2021年、自分に合った講師を求めてT法律研究所の再受験生向け講座を受講することにしたが、2ヵ月目に入るころから、前年と同じスランプに陥った。一人の自分が問う、「いまさら法律の勉強をして何になるのだ」と。もう一人の自分が応じる、学ぶことと年齢は関係がない。小学生も70歳を過ぎた老人も学ぶ行為に関しては共通だと考えたのだが…

法律脳と文学脳はよく似た面がある。法律の条文が無味乾燥だとか、判例は屁理屈が多いとかいうが、そうでもないようだ。小説も法律も現実を観察するための虚構性を持っている。判例集を短編小説集として読むこともできるのだ。もう法律がつまらないからといって小説に逃避する必要などない、判例集は結構おもしろい読み物なのだ。

僕らは数直線の上をゼロ歳から死に至るまで前進する点ではない。数直線上の位置ではなく、実体のある点として存在し輝いている。このことは若い人のほうがよくわかっているのではないか。彼らが傍若無人でいられるのはそのためかもしれない。

民法の基本判例集を読む

T法律研究所の講座を受講して1ヵ月半が過ぎ、前年と同じスランプに陥った。去年はコロナ禍に伴う<緊急事態宣言>という言い訳もあったが、ことしも同じ宣言下にあるとはいえ、流されるわけにはいかない。そう考えると、かえってあせりも生じがちだが、一方で二度と試験に失敗したくないという思いも強い。

そこで思いついたスランプ脱出法が、何と判例集を短編小説として読むことである。読書しているあいだは判例の論旨に乗っていればいいし、赤鉛筆で線を引きながら読んでいくと、しだいに論旨が見えてきておもしろい。これでスランプを乗り切れるような気がするが、はたしてうまくいくかどうか。

わきびとたち