自転車という愛玩物

愛車3台(手前からタイヤ径 14/16/26インチ)

11月中旬から12月初めにかけて自転車に乗らなかった。1日に往復1時間だから、MTBで山を駆けめぐるのと比べればどうということもないのだが、僕の日常から大きなものが消えたように感じる。

7月から10月、輪行通勤を4ヵ月続けたことが大きな意味を持っていたのだ。真夏の暑さのなかを走り、1日も欠かさないように気を張っていたから、しばらくそれがないだけで何かがなくなったように感じるのだろう。11月末から12月初めには持病の腰痛にも悩まされた。

少年のころは毎日走り回っていたし、自転車に乗って遠出もした。それが当たり前のことだったが、今は違う。これを老いというのだろうが、人はみな時間とともに成長もし老いもする。それを嘆いても何の役にも立たない。

Anti-aging という言葉を最近よく耳にする。関連商品も多様で人生百年などといって蓄えや保険を喧伝するCMも多い。かまびすしい。源氏物語の時代と今で抜本的に何が違うのか、などと考える。生老病死については何も変わっていない、この前提から現代を再考したい。

歌樽先生と読む김소월の詩

兼若かねわか先生のサイト金素月キムソウォルの詩と韓国文化」に「ハングルの詩のある風景」として連載された文章を各編ごとにまとめ、このサイトに転載します。同じ文章を縦書き文庫で電子書籍のように読むこともできます。歌樽かたる先生と詩子うたこアナウンサーが対話形式で解説する김소월の詩の世界をお楽しみください。

本サイトで読む縦書き文庫で読む
1엄아야 누나야(上)
엄아야 누나야(下)
n/a
2산유화 [山有花] n/a
3초혼[招魂](上)
초혼[招魂](下)
招魂しょうこん
4제비つばめ
5진달래꽃つつじの花
6실제[失題]의 비밀(上)
실제[失題]의 비밀(下)

失題しつだい
の秘密
7수아[樹芽]
樹芽수아
(木の芽)
8소월과 지연[紙鳶](上)
소월과 지연[紙鳶](下)
素月と凧揚たこあ
一部リンク・画像が表示されません、追々修正します

HDDが壊れた

昨夜、HDD(hard disk drive)に保存しておいたファイルを読み出そうとしたら、パソコンが読み込んでくれない。接続コードを代えたり、ほかのパソコンに接続しても読み込まない。

きょう事務所のパソコン機器に詳しい人にみてもらったが、復元できないという。HDDは壊れやすい、SSD(solid state disk)にしないと駄目とも言われた。過去25年以上の写真やテキストデータを保存してあったのに諦めなくてはならない。かなり落ち込んだ。

その後、ネット検索して何とか方途を模索し、長時間かけて復元して新たに購入したSSDに保存できたのだが、これが自分の最近四半世紀における営みを記録しているすべてだと思うと、その営み自体にどこか虚しさを感じてしまう。

無謀な自転車乗りが横行している

1902年、夏目漱石がロンドン留学中にはじめて自転車に乗ったときのことを描いた「自轉車日記」という文章がある。自転車好きの人ならば抱腹絶倒まちがいない作品なのだが、宮田浩介氏の「サイクリストになった漱石: 技術史の視点で読み解くロンドン『自転車日記』」(Jubne Notes 2014年3月掲載)はその作品のおもしろさを倍加させてくれる。

最近、無謀な自転車乗りが横行しており、彼らと120年前の漱石の無謀さに共通する一種暴力的なものを感じます。いつ事故が起きても不思議でないし僕が巻き込まれることだってあり得るのです。日本にヨーロッパのような自転車専用レーンや専用信号ができない理由の一つがこの暴力性・スピード妄信ではないかと考えます。

以下、一部編集(見出しの一部修正と図版選択など)を施して引用します。2022年1月の投稿文120年前に漱石が跨がった自転車の再掲です。宮田氏は末尾に次のように記しています。大いに同感です。

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。
Jubne Notes ©2006-2022 kosukemiyata.com

以下、引用します。

夏目漱石の作品に「自転車日記」というタイトルの短編がある。留学先のロンドンで自転車に乗り始めた時のことを、自虐的かつユーモラスな口調で語ったものだ。西洋近代の中心地で漱石が出遭ったのは、いったいどのような自転車だったのか。そして彼は、この文明の産物とどんな風に格闘したのだろうか。19世紀の終わり頃の資料などを頼りに、彼のサイクリング体験の実像を探ってみよう。

漱石35歳の自転車デビュー

漱石の「自転車日記」に綴られているのは、「西暦1902年秋」、今からおよそ120年前の出来事だ。彼は既に満年齢で35歳になっていた[1]が、下宿の「婆さん」から強く勧められてその「命」に従うまで、自転車に「乗って見た」ことは全く無かったらしい。

未経験者の漱石にとっては、自転車に跨るだけでも大変なことだった。「いざという間際でずどんと落る」。「ずんでん堂とこける」。監督役の「○○氏」に車体を支えてもらい、サドルに腰かけたところで前に押してもらっても、次の瞬間には「砂地に横面を抛りつけ」ている。日を経て「ともかくも人間が自転車に附着している」状態を保てるようになっても、坂道での練習で彼は制動不能に陥り、塀にぶつかった後でようやく止まるのだった。

訓練を開始してから数日、やっとサドルに座ってペダルを漕げるようになってきても、漱石はまだ思うように走れなかったようだ。 よく知っているエリアの案内を同行者に任されたのに、彼は「曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう」のだ。 なんとかハンドルをこじって別の方向へ曲がってみるも、今度はその急激な動作によって、「余に尾行して来た一人のサイクリスト」の転倒を誘発してしまう(怒った相手は「チンチンチャイナマン」と彼を罵倒する)。

人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもない

「日記」の終わり近くのある日、漱石はこんなサイオー・ホースめいた格言を作って開き直ってみるが、「バタシー公園」(Battersea Park)へ行く途中で他の自転車の割り込みに遭い、「自分が落ち」て危うく馬車に轢かれそうになる。

漱石が購入した「老朽の自転車」

こうして「自転車日記」をざっと読み通してみると、漱石は運動が苦手、との印象が否めない。 運転中の判断のセンスが疑われる場面も多く、思わず「そういう時はこうするんだよ!」と教えてあげたくなる。 けれどもその助言が正しいかどうかは、もう少し詳しく調べてみなければ分からない。自分のイメージしている自転車が、そもそも間違っているかも知れないからだ。

「ラヴェンダー・ヒル」の自転車店を訪れた際、「○○氏」はまず「女乗」を薦めた、と「日記」にはある。これに対し漱石は「髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない」と抗議、練習車は「いとも見苦しかりける男乗」に決まった。それは「関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車」で、「物置の隅に閑居静養を専にした奴」という感じだった。

図3[3]: 漱石の言う「女乗」とは、スカートでも乗れるフレーム形状の自転車のことだろう

漱石が購入した「老朽の自転車」は、実際のところどんな構造のものだったのか。店の場面の「上からウンと押して見るとギーと鳴る」、「ハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり」といった描写は、前輪が極端に大きい「オーディナリー自転車」には当てはまりそうにない(図4参照)。1880年代の中頃まではこのタイプが「普通の自転車」(ordinary bicycles)だった[4]が、1895年には新型にすっかり「普通」の座を奪われ、その呼び名も限定的な形(Ordinary Bicycles)に変わっていたようだ[5]。そんな車種を1902年になってわざわざ選ぶというのも、初心者の訓練用としてはまずありえない。

図4[6]: 「オーディナリー」型の自転車のハンドルは乗車前に上から押せるような位置にはない

1880年代に進んだ「セーフティー」(Safety)自転車の開発には、乗車位置を下げて転倒の危険性を減らし、なおかつ安定した走行性能を確保するという共通課題があった[7]。これらの条件を満たして好評を得たのが、スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)社の「ローバー」(Rover)だった。チェーンを介した後輪駆動、前後同等サイズのホイール(2世代目以降)といったその構成は、自転車のスタンダードとして次第に定着していった[8]。1888年にはスコットランド出身のダンロップ博士が空気を入れるタイヤの特許を取得、乗り心地が良く楽にスピードの出せるこの方式のタイヤは、7、8年のうちに殆ど全ての新車の標準装備となり、従来のソリッドタイヤを駆逐してしまった[9]

図5[10]: 空気入りタイヤとそうでないものとが混在し、新車購入時にユーザーがどちらかを選択できた時期もあった

乗り易いセーフティー型の発展が市場に及ぼした影響は大きく、イギリスでは自転車ブームが最高潮となった1895~97年にかけて、毎年およそ75万台が生産されていたと推計されている[11]。 1889年の時点では55弱だったロンドンの自転車メーカー(多くは大元の製造ではなく販売や修理のみを行っていた)の数も、1897年には390にまで膨れ上がっていた[12]。 漱石の留学はこの大流行が過ぎ去った後のことだが、彼が練習のために希望した「当り前の奴」は、こうして広まった自転車のうちの「男乗」だったろう。

図6[13]: 1898年にアメリカで出版された本の図解では、空気入りタイヤが標準的なものとして扱われている

ブレーキが無かった?

漱石が乗っていたと思われる1890年代のセーフティー型は、既に今の自転車と同じような姿をしていた。しかしながらその機械的な構造には、現代の感覚に照らすとまだ「安全」とは言い難い点があった。クランク(図6の29番)と後輪の回転が互いに直結していたため、ペダルに載せた足を走行中に止められなかったのだ。 ブレーキは前輪のタイヤに作用する手動式(図3、5、6、7参照)が最も一般的だったが、主に女性が使うものと考えられていたのか、これらを全く装着することなく、ペダルを逆に踏む「バック踏み」(back-pedaling / back-pedalling)だけで速度をコントロールするサイクリストも多かったようだ[14]

図7[15]: ブレーキのある自転車ならばフットレストに足を載せて坂を下ることができた(クランクは勝手に回り続ける)が、ブレーキが無ければクランクの回転を足で抑えて減速しなければならなかった

「自転車日記」の描写にも、漱石がブレーキを操作していたことを示す箇所はない。 「○○氏」とその友人に伴われて自転車で出かけた際、二人の間に挟まれて走っていた彼は、「クラパム・コンモン」から「鉄道馬車の通う大通り」(図2の赤線のところ)へ曲がる手前で、横から来た荷車に進路を塞がれてしまう。 ぶつかるわけにはいかないし、左右どちらかに逃げることもできない。 ギリギリになって「退却も満更でない」と思い至るものの、「逆艪の用意いまだ調わざる今日の時勢」ゆえ、彼は「仕方がない」と諦めて落車を選択する。 「逆艪」とは艪を船の前に付けて後退を可能にすることであり、この「用意」ができていないというのは、恐らく「バック踏み」に慣れていなかったことを意味している。 彼の自転車にはそもそもブレーキが無く、彼自身も「ペダル」を「踏みつける」と車輪が(?)「回転する」事実に気がついたばかりで、それを利用してスピードを落とす技術が身についていなかったのだろう。

図8[16]: ブレーキの無い自転車の場合、急坂の手前では降車するのが常識的な行動だった

漱石の自転車がブレーキを欠いていたことは、何日か前の坂道の場面からも推測できる。 彼はそこで「鞍に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり」、「両手は塞っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴ている」という格好になっていたが、ブレーキがあればそれを使えば良かったのだから、「下りようとしても車の方で聞かない」状態にはならなかったはずだ。 彼のこの奇妙な「曲乗」の姿勢は、どうも本来は乗降のためのものだったらしい(図8参照)。 自転車の後輪の軸には左に「ステップ」(図6の44番)がついていて、そこに左足をかけてからサドルに跨り、また逆の手順で降りるのが普通だったようだ[17]。 「オーディナリー」型の時代から続くこうした方法を、入門者はステップに留まりバランスを取るところから学んだ[18](図9参照)。 初日に「馬乗場」で「○○氏」が放った「ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」との言葉は、これにぴったり合致するものだ。

図9[19]: 右足で地面を蹴って自転車を前進させ、ステップ上でバランスを保つ練習をした(これができたら次はサドルに腰かける)

どんな自転車に乗っていたかが概ね見えてくると、漱石の苦闘の様子にも納得がいく。 やっとステップに立てるようになったばかりの段階では、坂を使った特訓はあまりに無謀だった。 サドルに座りペダルを漕いで走行できるようになっても、ブレーキが無ければ急に止まることはまず不可能だったろう。 「バック踏み」だけで一気に速度を落とすための経験値[20]が、彼にはまだまだ足りていなかった。 「バタシー公園」へ向かう途中の「非常の雑沓な通り」は、だからこそ「初学者たる余にとって」「難関」だったわけだ。 「日記」に描かれたドタバタの原因の殆どは、彼自身のセンスや運動能力よりも、選んだ自転車の機械的な特性にあったのである。

サイクリストになった漱石

様々な資料から推測される漱石の自転車は、「オーディナリー」型などに比べればずっと扱い易かったものの、現代の一般的なモデルほど簡単に乗れるものではなかった。 「その苦戦」に関して当人は、「大落五度小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって向脛を擦りむき、或る時は立木に突き当って生爪を剥がす」、「しかしてついに物にならざるなり」と書き記しているが、結局ダメだったというのは脚色のようだ。 鏡子夫人が後に語ったところによると、彼は「よくおっこちて手の皮をすりむいたり、坂道で乳母車に衝突して、以後気をつけろとどなられたりして、それでもどうやら上達して、人通りの少ない郊外なんぞを悠々と乗りまわして」いたらしい[21]。作中の「余」は上手くならなかったが、生身の漱石はサイクリストになっていたのだ。知人一家を訪ねた折に「いつか夏目さんといっしょに皆で」と「令嬢」から提案され、見栄を張りつつもこれを断り通そうとしたために「父君」から「サイクリストたるの資格なきものと認定」されることになったウィンブルドンへの遠乗り(彼の下宿からは約9キロメートルの行程)も、実現可能なものになっていたに違いない。

図10(Edward Penfieldによるポスター)[22]: フットレストを利用する際、長いスカートなどは回り続けるクランクとペダルに絡まる恐れがあったが、1898年頃から普及し始めた足を止められる自転車(ブレーキ装置が必須)では、この姿勢そのものが不要になった[23]

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。

  1. 夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』(文春文庫 1994) 439, 445. 
  2. Philip, George, Philips’ Handy Volume Atlas of London, 6th ed. (London: George Philip & Son, ca. 1910)
  3. Sexby, John James, The Municipal Parks, Gardens, and Open Spaces of London: Their History and Associations (London: Elliot Stock, 1905), 17. 
  4. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling (London: Longmans, Green, and Co., 1887), 129-130. 
  5. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling, 5th ed. (London: Longmans, Green, and Co., 1896), ⅲ, ⅹ, 259. 
  6. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 1. 
  7. Sharp, Archibald, Bicycles & Tricycles: An Elementary Treatise on Their Design and Construction, with Examples and Tables (London: Longmans, Green, and Co., 1896), 150-153. 
  8. Sharp, 153-158. 
  9. Sharp, 159-160; Wilson, David Gordon, “A Short History of Bicycling,” Bicycling Science, 3rd ed. (Cambridge, MA: MIT Press, 2004), 25-26. 
  10. Dagg, George A. de M. Edwin, “Devia Hibernia”: the road and route guide for Ireland of the Royal Irish Constabulary (Dublin: Hodges, Figgis, & Co., 1893), 348. 
  11. Rubinstein, David, “Cycling in the 1890s,” Victorian Studies 21.1 (1977): 47-71, 48, 51. 
  12. Rubinstein, 53. 
  13. Schwalbach, Alexander and Julius Wilcox, The Modern Bicycle and Its Accessories (New York: The Commercial Advertiser Association, 1898), ⅹⅴⅰ. 
  14. Schwalbach and Wilcox, 104-108; Garratt, Herbert Alfred, The Modern Safety Bicycle (London: Whittaker & Co., 1899), 182-192. 
  15. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 120. 
  16. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 239. 
  17. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 115, 118-119. 
  18. Albemarle and Hiller, Cycling, 63, 133, 135-137. 
  19. Porter, Luther H., Cycling for Health and Pleasure: An Indispensable Guide to the Successful Use of the Wheel (New York: Dodd, Mead & Co., 1895), 30. 
  20. Porter, 43, 119. 
  21. 夏目・松岡 116-117. 
  22. この姿勢をとることができる自転車にはフットレストとブレーキが装備されているはずだが、イラストでは省略されたようだ。 
  23. “Cycle Shows in England,” The West Australian, December 31, 1898: 2. 

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光源氏と高麗人(こまうど)

11世紀初めの著作とされる『源氏物語げんじものがたり』に魅せられている。その第1帖「桐壺きりつぼ」にみかどが源氏の将来を考え、来朝中の高麗人こまうど(高麗こま 고려コリョ 918-943)の人相見にんそうみひそかに源氏のそうをみさせる場面がある。下のスライドは縦書き文庫「與謝野よさの源氏」桐壺の巻後段から引用した。1枚目の最終行に「皇子おうじを外人の旅宿りょしゅくする鴻臚館こうろかんへおやりに」とある。

スライド6枚目に次の文章がある。「ひかるきみという名は前に鴻臚館こうろかんへ来た高麗人こまうどが、源氏の美貌びぼうと天才をほめてつけた名だとそのころ言われたそうである」

無宗教社会・日本

無宗教社会に抗して生きた경호ギョンホの母(仮題)」前半をアップしました。

この作品を僕は死ぬまで書き続けるのではないか、そんな予感がある。72歳で書き始めたから、せいぜいあと10年か20年だが、人生で最も充実したときでもある。人々は生涯そのときどきを必死に生き、それぞれの瞬間に現在を感じ、過去と未来を信じている。年齢とはただ肉体的な経過点をいうに過ぎない。もちろん、青少年期のみずみずしさは何ものにも代えがたいが、老年期に至って花開く人もいる。青年といい老年というも仮の時期区分なのだ。人の生涯を生から死に向かう数直線ではなく、瞬間ごとに自己を放射し発散する一個のかけがいのない点として捉えたい。
no中見出し小見出し
1無宗教社会という現代神話—-
2法華経の生命論下町に育った경호の母
父親を追い求めた경호の父
경호の父と恵琳寺
경호の母方の祖父
3경호の育った家庭1959年の冬
何かに怯えていた경호
平穏を取り戻した家庭
父の思い描いた家庭
社宅の隣人
4경호の母の学会活動品川駅発の団体夜行列車
唱題と読経の響き
夜の新聞配達
まだ草稿であり大幅に書き換えるかもしれません。

自転車のライトが切れた

もう五年以上使っているUSB充電方式のライトが充電できなくなり、完全に切れてしまった。日が暮れるのが早くなって夕方5時にはすっかり暗くなるこのごろ、帰りの走行にライトは必需品だ。

五反田から大崎広小路、大崎まで走り回って自転車屋を探した。一軒目は移転していた。二軒目は閉店セール中でライトなどの小物は売り切れ、第二京浜国道沿いにあるはずの三軒目は探せなかった。

あきらめて国道から中原街道の平塚橋交差点の方に向かっていると、あった。いかにも町の自転車屋らしいおじさんが店内を清掃している。そろそろ閉店の時間なのだ。その店に飛び込んだ。ライト探しが徒労に終わらずにすむ。ライトは四個壁に掛かっているだけ、そのなかですぐに使える単3電池式LEDを選んだ。

当然のことのように僕の自転車に取り付けてくれる。パッキングを何度か取り替えハンドルの太さにあうようにして取り付けてくれた。作業中、自転車談義を交わした。しだいに、町の自転車屋が消えてゆく。

無宗教派に抗して生きる

書きかけの文章の題名を再び改め、「ギョンホとその母」[仮英訳] Gyungho and his Mother とした(22/12/05)。<無宗教社会>の虚構性について「中説」という形を借りて描きたいのだが、なかなか思うように進まない。堂々巡どうどうめぐりしている。12月に入り数ヵ月ぶりに母に会う三日前、母だけの伝記を書くことを断念し、題名を変更した。畢竟、自分の生き方が母のそれに重なっている、と気づいた。母に会って構想を説明すると、神妙な表情で聞いていた。

ギョンホについては、日本人に対する韓国語の蔑称 쪽발이、왜놈 をもじって 반쪽발이パンチョッパリ、반왜놈 (半倭奴バンウェノム) とする。日本人の縮約形 일인イリン をもじって 반일인 (半日人バニリン半日人はんにちじん) としてもよい。僕の対自認識はこれに近いものだ。

無宗教社会などありはしないのに、一九四五年夏以後、日本島に棲む人々は自分たちの社会が科学的で非神話的な社会に生まれ変わったと考えたようだ。それ以前の社会が非科学的で暴力的で狂信的だったとしたわけではないが、その年の八月をもって歴史の断絶を創出し、「一億総懺悔」という宗教的な「場」を人々のあいだに浸透させた。人々が自ら考えてそうしたわけではない。彼らは長い年月、天皇を現人神として崇め、巧妙な監視体制のもとで考える能力をなくしていたから、このときもまた何者かが巧妙に仕組んだに違いない。天皇は神のまま天上界に隠れることもできたはずだが、何と神を人間界に降臨ならぬ降格させるという奇策をもって元号の連続を図ったのだ。それは人々に少なからぬ混乱と困惑をもたらした。その精神的後遺症のひとつが筆者が<無宗教>と呼ぶ症候群の集団発症だった。この精神疾患ではほとんどの人に自覚症状がない。
There is no such thing as a non-religious society anywhere, but after the summer of 1945, the people inhabiting the island of Japan seemed to think that their society had been reborn as a scientific and non-mythical society. This is not to say that the previous society was unscientific, violent, or fanatical, but August of that year created a historical rupture, and a religious ‘field’ of “100 million repentance” permeated the population. The people did not do this on their own initiative. They had long worshipped the Emperor as a living god and had lost the ability to think under a sophisticated surveillance system, so this time, too, someone had cleverly orchestrated it. The emperor could have remained a god and hidden in the heavenly realm, but instead, he decided to make the succession of the original title of the emperor a bizarre measure by demoting a god to the human realm. This caused a great deal of confusion and bewilderment among the people. One of the mental aftereffects of this was the mass development of what I call the “irreligious” syndrome. Most people with this mental disorder have no subjective symptoms.
[Translated with http://www.DeepL.com/Translator%5D
https://tb.antiscroll.com/novels/goolee/24471

仮説としての「無宗教社会」

縦書き文庫「경호ギョンホとその母」(執筆中)より

十九世紀後半から大日本帝國は<富國強兵>という名のもとにほぼ現在の中国やロシアに相当する国々と戦争をし、現在の台湾・韓国・北朝鮮を植民地にし中国東北部地域に満州まんしゅう國を樹立して版図はんとを拡張した。一九三十年代には中国内陸部と東南アジア地域に戦域を広げ、四十年代には米国と戦争するに至った。その過程で双方の兵が殺しあい、大日本帝國軍は自國とアジア地域の人々の平和な生活を壊し人権を蹂躙じゅうりんして殺戮さつりくもした。

一方で五族協和をとなえアジア解放をうたっていた。二〇二二年のロシアによるウクライナ侵攻とそのプロパガンダは、大日本帝國による侵攻と報道管制のようすを彷彿ほうふつとさせる。一九四五年八月に無条件降伏し、大日本帝國は瓦解がかいしたかにみえるが、その残滓ざんしは今も日本社会のどこかに温存おんぞんされている、と筆者は考える。

戦後、雨後のたけのこと形容されるように<新興宗教>が勃興ぼっこうした。多くは戦前の似非えせ宗教に対する反動ゆえに同じく非宗教であったが、人々は宗教も非宗教も区別できないまま盲目的に追随ついずいするか無宗教を決め込んだ。創価学会そうかがっかいはそんな時代に全国で折伏しゃくぶくという名の布教活動をくり広げた。その仏教運動は既存の仏教各派や神道キリスト教等を邪宗じゃしゅう邪教として一蹴いっしゅうした。人々は創価学会を略して「学会」と呼び、会員を「学会員」と呼んでみ嫌ったが、その実像を理解している人は少ない。その大衆運動に驚き戸惑った人々は「学会」をまわしい団体とし「貧乏人と病人の集団」と呼んでさげすみ排斥した。この集団の勢いを恐れ、統率のとれた会員の表面的な活動だけをみて全体主義と評する者すらいた。

二〇二三年、日本社会にらす多くの人々の「宗教」観は二十世紀後半からほとんど変わっていないのではないだろうか。いや、むしろ無宗教性がさらに深まり、スマフォ依存症とその延長上にある脳内露出症が蔓延まんえんしている。

戦前の天皇を中心とする国家神道に対する反動からだろう、「無宗教」がよしとされ普通とされる戦後の日本社会において、神社での祈祷きとうは「信仰」とは違うとされ、正月にはみな神社に参詣する。また、葬儀や法事には僧侶に読経どきょうしてもらい念仏をとなえることが死者に対するとむらいであり通過儀礼とされている。戦前と同じようにいずれも「信仰」とは異なるものとして扱われるのだ。筆者は、仮説として現代日本社会を「無宗教社会」と呼ぶ。この作品もその仮説を前提している。

「無宗教社会」では、何かを「信じる」者は非科学的だとされ、「信仰」を持つ者は弱者としてうとんじられる。「信仰」を説き、宗教団体に勧誘する者はうさん臭いものになってしまう。長いあいだ思想と情報の統制下に置かれ考える習慣を持たない人々は、これまでどおり自ら思考する力を失っていた。その状況は戦後八十年がとうとする現在も大きく変わってはいない。そんな人々の思考と信仰の真空域に「学会」が現れたのである。

「学会員」となることは「信仰」を持つことを宣言するだけではない。人々が習俗として取り込んできた既存の神仏を否定する。それを知りながら、경호ギョンホの母は「学会員」になった。周囲の人々にあなどられ陰口かげぐちをたたかれ、夫に嫌われながらも「学会員」になる選択をした。なぜだろう、何が彼女を仏教運動におもむかせたのだろうか。この中説を通じて考えてみたいと思う。

NON-RELIGIOUS SOCIETY AS A HYPOTHESIS
From the latter half of the nineteenth century, under the name of “Wealth and National Strength,” the Japanese Empire went to war with countries that are roughly equivalent to today’s China and Russia, colonizing what is now Taiwan, Korea, and North Korea, and expanding its territory by establishing Manchukuo in the northeastern region of China. In the 1930s, it expanded its war areas into inland China and Southeast Asia, and in the 1940s, it went to war with the United States. In the process, soldiers from both sides killed each other, and the Imperial Japanese Army deprived the people of these regions of their customs and culture, violated their human rights, and slaughtered them.

On the other hand, the Imperial Japanese Army advocated “harmony among the five races” and claimed the liberation of Asia. Russia’s invasion of Ukraine in 2022 and its propaganda are reminiscent of the invasion by the Empire of Japan and its control of the press. Although Japan surrendered unconditionally in August 1945 and the Empire of Japan seemed to have collapsed, I believe that the remnants of the Imperial Japanese Empire still exist in some parts of Japanese society.

After the war, new religions sprang up like bamboo shoots after the rain. Many of them were non-religious as well, as a reaction against the false religions of the prewar period, but people blindly followed them without being able to distinguish between religion and non-religion, or decided to have no religion. In such an era, the Soka Gakkai spread its proselytizing activities, known as shakubuku, throughout the country. Its Buddhist movement kicked out existing Buddhist sects, Shintoism, Christianity, and other religions as paganism and pagan religions. People called the Soka Gakkai “Gakkai” for short and abhorred its members, calling them Gakkai members, but few people understood the true nature of the movement. People who were surprised and perplexed by the mass movement called the Gakkai an abominable organization and scorned and ostracized it, calling it “a group of poor and sick people.” Fearing the momentum of this group, some people even described it as totalitarianism based only on the superficial observations of its well-organized members.

In 2023, the view of “religion” of many people in Japanese society had hardly changed from the late 20th century. Rather, irreligiousness has deepened further, and smartphone addiction and its extension, brain-exposure disorder, are widespread.

In postwar Japanese society, where “irreligion” is considered acceptable and normal, perhaps as a reaction against the emperor-centered state Shinto of the prewar era, praying at shrines is considered different from “faith,” and everyone pays homage to shrines on New Year’s Day. In addition, at funerals and Buddhist memorial services, people are asked to recite sutras and chant the Buddhist prayer to the dead, which is considered a mourning and rite of passage for the deceased. As in the prewar period, these are treated as something different from “faith.” The author calls contemporary Japanese society a “non-religious society” as a hypothesis. This work is also based on that hypothesis.

In a “non-religious society,” those who “believe” in something are considered unscientific, and those who have “faith” are marginalized as weak. Those who preach “faith” and invite people to join religious organizations are regarded as shady. People who have been under the control of ideas and information for a long time and who do not have the habit of thinking have lost the ability to think for themselves, as they always had been. This situation has not changed much in the 80 years since the end of World War II. The Gakkai appeared in the vacuum of people’s thoughts and beliefs as described above.

Becoming a Gakkai member is not only a declaration of one’s “faith.” It is a denial of the existing gods and Buddha that people have taken in as a matter of custom. Knowing this, Gyungho’s mother became a Gakkai member. She made the choice to become a Gakkai member even though people around her belittled her, talked about her behind her back, and her husband disliked her. Why, I wonder, did she choose to become a member of the Buddhist movement? Through this essay, I would like to think about it.
Translated with http://www.DeepL.com/Translator 

與謝野晶子「君死にたまふことなかれ」

旅順の攻囲軍にある弟宗七をなげきて 
青空文庫「晶子詩篇全集」より
「晶子詩篇全集」自序 
 
美濃部民子様

わたくしは今年の秋の初に、少しの暇を得ましたので、明治卅三年から最近までに作りました自分の詩の草稿を整理し、其中から四百廿壱篇を撰んで此の一冊にまとめました。かうしてまとめて置けば、他日わたくしの子どもたちが何かの底から見附け出し、母の生活の記録の断片として読んでくれるかも知れないくらゐに考へてゐましたのですが、幸なことに、実業之日本社の御厚意に由り、このやうに印刷して下さることになりました。

ついては、奥様、この一冊を奥様に捧げさせて頂くことを、何とぞお許し下さいまし。

奥様は久しい以前から御自身の園にお手づからお作りになつてゐる薔薇の花を、毎年春から冬へかけて、お手づからお採りになつては屡わたくしに贈つて下さいます。お女中に持たせて来て頂くばかりで無く、郊外からのお帰りに、その花のみづみづしい間にと思召して、御自身でわざわざお立寄り下さることさへ度度であるのに、わたくしは何時も何時も感激して居ます。わたくしは奥様のお優しいお心の花であり匂ひであるその薔薇の花に、この十年の間、どれだけ励まされ、どれだけ和らげられてゐるか知れません。何時も何時もかたじけないことだと喜んで居ます。

この一冊は、決して奥様のお優しいお心に酬い得るもので無く、奥様から頂くいろいろの秀れた美くしい薔薇の花に比べ得るものでも無いのですが、唯だわたくしの一生に、折にふれて心から歌ひたくて、真面目にわたくしの感動を打出したものであること、全く純個人的な、普遍性の乏しい、勝手気儘な詩ですけれども、わたくしと云ふ素人の手作りである点だけが奥様の薔薇と似てゐることに由つて、この光も香もない一冊をお受け下さいまし。

永い年月に草稿が失はれたので是れに収め得なかつたもの、また意識して省いたものが併せて二百篇もあらうと思ひます。今日までの作を総べて整理して一冊にしたと云ふ意味で「全集」の名を附けました。制作の年代が既に自分にも分らなくなつてゐるものが多いので、ほぼ似寄つた心情のものを類聚して篇を分ちました。統一の無いのはわたくしの心の姿として御覧を願ひます。

山下新太郎先生が装幀のお筆を執つて下さいましたことは、奥様も、他の友人達も、一般の読者達も、共に喜んで下さいますことと思ひます。 

與謝野晶子

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
すゑに生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親はやいばをにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四にじふしまでを育てしや。

さかいの街のあきびとの
老舗しにせを誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事なにごとぞ、
君は知らじな、あきびとの
いへの習ひに無きことを。

君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからはでまさね、
かたみに人の血を流し、
けものみちに死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何いかおぼされん。

ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君ちゝぎみ
おくれたまへる母君はゝぎみは、
歎きのなかに、いたましく、
我子わがこされ、いへり、
やすしと聞ける大御代おほみよ
母の白髪しらがは増さりゆく。

暖簾のれんのかげに伏して泣く
あえかに若き新妻にひづま
君忘るるや、思へるや。
十月とつきも添はで別れたる
少女をとめごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまたたれを頼むべき。
君死にたまふことなかれ。

(c) NHK
“You Shall Not Die”

Oh, brother . I weep for you.
Do not die, little brother.
You are the youngest, so your parents’ love must have been strong.
Did your parents teach you to hold a knife and kill people?
Did they raise you until you were 24 years old, telling you to kill people and die yourself?

You are the owner of a historic merchant family in the city of Sakai.
You carry on your parents’ name, so don’t die.
I don’t care if the castle in Lushun falls or not.
You probably don’t know this, but the merchant’s family code states
There is no such item as killing a man and dying yourself.

Do not die, my brother.
The Emperor did not go off to war himself.
He wants us to shed blood for each other and die in the way of the beast.
How can you call that honoring act?
Would the deep-hearted Εmperor even think such a thing in the first place?

Oh, my brother. Please don’t die in a war.
Your father passed away last fall and
Your mother has been painfully in her grief.
Her son was drafted and she protects the house by herself.
Even though this is supposed to be the era of the Emperor’s reign, which was said to be a time of peace and security.
Your mother’s gray hairs are growing.

The frail, young new wife who lies down behind the curtain and weeps.
Have you forgotten her? Or do you think of her?
Think of the heart of the young wife who left you after less than 10 months of living with you.
You are not alone in this world.
Oh, who can I turn to again?
Please, brother, do not die.
Translated with http://www.DeepL.com/Translator
底本:「晶子詩篇全集」実業之日本社
   1929(昭和4)年1月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※底本の総ルビをパララルビに変更しました。被ルビ文字の選定に当たっては、以下の方針で対処しました。
(1)「定本 與謝野晶子全集 第九、十巻」講談社(1980(昭55)年8月10日、1980(昭55)年12月10日)で採用されたものは付す。
(2)常用漢字表に記載されていない漢字、音訓等については原則として付す。
(3)読みにくいもの、読み誤りやすいものは付す。
底本では採用していない、表題へのルビ付けも避けませんでした。
※ルビ文字は原則として、底本に拠りました。底本のルビ付けに誤りが疑われる際は、以下の方針で対処しました。
(1)単純な脱字、欠字は修正して、注記しない。
(2)誤りは修正して注記する。
(3)旧仮名遣いの誤りは、修正して注記する。
(4)晶子の意図的な表記とするべきか誤りとするべきか判断の付かないものは、「ママ」と注記する。
(5)当該のルビが、総ルビのはずの底本で欠けていた場合にも、その旨は注記しない。
※疑わしい表記の一部は、「定本 與謝野晶子全集 第九、十巻」を参考にしてあらため、底本の形を、当該箇所に注記しました。
※各詩編表題の字下げは、4字分に統一しました。
※各詩編の行の折り返しは、底本では1字下げになっています。
※「暗殺酒舗」と「暗殺酒鋪」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号1-5-86)を、大振りにつくっています。
入力:武田秀男
校正:kazuishi
ファイル作成:
2004年7月2日作成
2012年3月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「執/れんが」、U+24360  
11-上-10、66-下-13、100-上-6、106-上-6、106-下-5、127-上-12、137-下-2、165-上-4、166-下-6、172-下-7、174-上-12、176-上-8、176-下-5、177-上-1、177-上-1、184-下-2、188-下-11、197-上-4、197-上-12、197-下-2、205-上-3、207-下-1、225-下-11、225-下-12、231-下-7、232-上-1、254-下-7、259-下-1、262-下-10、290-上-13、290-下-14、297-上-1、298-上-7、300-下-4、302-上-7

a bike bag commuter (2)

七月八月の暑い盛りに週三日の輪行りんこう通勤を続けた。月に一度のペースで友人とMTB山行をしていたのをめて一年以上ったし、自転車で走りたかった。右脚の麻痺まひが気になって筋力をつけたいという思いもあった。

輪行区間を除いて朝夕往復で約一時間の走りだが、長いアップダウンがあり、ぎ続けるのがつらいときもある。妻の反対を押し切って始めたことだから途中でめるわけにはいかない。自転車を折りたたんでバッグに入れる方法もいろいろ工夫した。

八月の終わりが近づくと、自転車を入れたバッグをいよいよ重く感じるようになり、肩にかけて階段を上がるのにふらつくこともあった。疲れがまっていたのだろう。七十歳を過ぎているし無理もないが、朝夕自転車で走る爽快さを失いたくない。

考えた末に、以前試乗したことのある軽い小径車を買うことにした。価格は一台目と同じく三万円余りだ。一台目はタイヤ径が16インチで12.5キロだが、二台目は14インチで8.5キロだ。すごく軽い、片手で軽々と持ち上げることができる。

二台目には変速機が付いていないが、脚の筋力を付けるには好都合と考えた。持ち運びに軽さは絶対条件だから、他の要素は我慢しなければ、と言い聞かせた。ところが、休日に一台目に乗ると、タイヤだけでなく車体感覚がまるで違う。ギアの切り替えもスムーズで重量感があって、これぞ自転車とさえ感じた。

B.B.通勤には軽い14インチの変速機なし、休日は重くても16インチの6段変速というのが現時点の贅沢ぜいたくな選択だ。これを一夫多妻ならぬ一夫二車制と呼ぼうと思う。もう一台MTBも加えれば一夫三車、一夫多車制をひそかに楽しんでいる。

與謝野源氏を読む

與謝野晶子よさのあきこ訳「源氏物語」を縦書き文庫で読むことができます。下の表の題名をクリックすると各帖を表示します。画像: 紫式部(土佐光起石山寺蔵); 登場人物 (wakogenji より); Principal Characters (サイデンステッカー訳より)

題名晶子の歌(各帖の冒頭に記載)
1桐壺紫のかがやく花と日の光思ひあはざることわりもなし
2帚木ははきぎ中川の皐月
さつき
の水に人似たりかたればむせびよればわななく
3空蝉うつせみうつせみのわがうすごろも風流男みやびを
れてぬるやとあぢきなきころ
4夕顔うき夜半
よは
の悪夢と共になつかしきゆめもあとなく消えにけるかな 
5若紫春の野のうらわか草に親しみていとおほどかに恋もなりぬる
6末摘花すえつむはな皮ごろも上に着たれば我妹子
わぎもこ
は聞くことのみな身に
まぬらし 
7紅葉賀もみじのが青海の波しづかなるさまを舞ふ若き心は下に鳴れども  
8花宴春の夜のもやにそひたる月ならん手枕かしぬ我が仮ぶしに
9恨めしと人を目におくこともこそ身のおとろへにほかならぬかな
10さかき五十鈴
いすず
川神のさかひへのがれきぬおもひあがりしひとの身のはて
11花散里
たちばな
も恋のうれひも散りかへば
をなつかしみほととぎす鳴く   
12須磨人恋ふる涙をわすれ大海へ引かれ行くべき身かと思ひぬ
13明石わりなくもわかれがたしとしら玉の涙をながす琴のいとかな
14澪標みおつくしみをつくし
はんと祈るみてぐらもわれのみ神にたてまつるらん
15蓬生よもぎう道もなき
よもぎ
をわけて君ぞこし
たれ
にもまさる身のここちする
16関屋逢坂
あふさか
は関の清水
しみづ
も恋人のあつき涙もながるるところ
17絵合えあわせあひがたきいつきのみことおもひてきさらに
はる
かになりゆくものを
18松風あぢきなき松の風かな泣けばなき小琴をとればおなじ音を
19薄雲さくら散る春の
ゆふべ
のうすぐもの涙となりて落つる心地
ここち
に 
20朝顔みづからはあるかなきかのあさがほと言ひなす人の忘られぬかな
21乙女

かり
なくやつらをはなれてただ一つ初恋をする少年のごと
22玉鬘たまかずら火のくににおひいでたれば言ふことの皆恥づかしく
の染まるかな
23初音若やかにうぐひすぞ
く初春の
きぬ
くばられし一人のやうに
24胡蝶盛りなる御代
みよ

きさき
に金の
てふ
しろがねの鳥花たてまつる 
25身にしみて物を思へと夏の夜の蛍ほのかに青引きてとぶ
26常夏露置きてくれなゐいとど深けれどおもひ悩めるなでしこの花 
27篝火大きなるまゆみ쇼のもとに美しくかがり火もえて涼風ぞ吹く
28野分けざやかにめでたき人ぞ
ましたる野分が
くる絵巻のおくに
29行幸雪ちるや日よりかしこくめでたさも上なき君の玉のおん輿
こし
 
30藤袴むらさきのふぢばかまをば見よといふ二人泣きたきここち覚えて
31真木柱まきばしらこひしさも悲しきことも知らぬなり真木の柱にならまほしけれ
32梅が枝天地
あめつち
に春新しく来たりけり光源氏のみむすめのため     
33藤のうら葉ふぢばなのもとの根ざしは知らねども枝をかはせる白と紫
34若菜(上)たちまちに知らぬ花さくおぼつかな
あめ
よりこしをうたがはねども
34若菜(下)二ごころたれ
づもちてさびしくも悲しき世をば作り
めけん
35柏木死ぬる日を罪むくいなど言ふきはの涙に似ざる火のしづくおつ
36横笛
き人の手なれの笛に寄りもこし夢のゆくへの寒き夜半
よは
かな
37鈴虫すずむしは釈迦牟尼仏
しゃかむにぶつ
のおん弟子
でし
の君のためにと秋を
きよ
むる
38夕霧 一つま戸より清き男の
づるころ後夜
ごや
の律師のまう上るころ 
38夕霧 二帰りこし都の家に音無しの滝はおちねど涙流るる
39御法みのりなほ春のましろき花と見ゆれどもともに死ぬまで悲しかりけり 
40まぼろし大空の日の光さへつくる世のやうやく近きここちこそすれ 
41雲隠れかきくらす涙か雲かしらねどもひかり見せねばかかぬ一章
42匂宮春の日の光の名残
なごり
花ぞのに
にほ

かを
ると思ほゆるかな
43紅梅うぐひすも問はば問へかし紅梅の花のあるじはのどやかに待つ
44竹河たけかわ姫たちは常少女
とこをとめ
にて春ごとに花あらそひをくり返せかし 
45橋姫しめやかにこころの
れぬ川霧の立ちまふ家はあはれなるかな
46椎が本朝の月涙のごとくましろけれ御寺
みてら
の鐘の水渡る時 
47総角あげまき心をば火の思ひもて焼かましと願ひき身をば煙にぞする
48早蕨さわらび早蕨
さわらび
の歌を法師す君に似ずよき言葉をば知らぬめでたさ
49宿り木あふけなく大御
おほみ
むすめをいにしへの人に似よとも思ひけるかな
50東屋あずまやありし世の霧来て袖を
らしけりわりなけれども宇治近づけば
51浮舟何よりも危ふきものとかねて見し小舟の中にみづからを置く
52蜻蛉とんぼひと時は目に見しものをかげろふのあるかなきかを知らぬはかなき
53手習ほど近き
のり
御山
みやま
をたのみたる女郎花
をみなへし
かと見ゆるなりけれ
54夢の浮橋明けくれに昔こひしきこころもて生くる世もはたゆめのうきはし
あとがき
https://tb.antiscroll.com/author/紫式部; https://ja.m.wikipedia.org/wiki/源氏物語の巻序

[参照] あらすじ: wakogenji より転載

a bike bag commuter

6月中旬にクルマを売却し、16インチの折りたたみ自転車を購入した。台湾製でやや重いが気に入っている。7月から通勤の一部区間を自転車で走り(約30分)、他の区間は輪行袋(bike bag)に詰め電車で通勤(約15分)している。「輪行通勤」と名づけたい。ゆっくり走っても汗だくになる。電車のなかで涼み、事務所に着くと着替える。爽快なことこの上ない。写真はバッグ収納方法と車内ほかでの配置工夫の記録です。

池上本門寺の一角

自宅から自転車でゆっくり走って30分ほどのところに池上本門寺があり、その一角に日蓮聖人(1222-1282)入滅の地とされる場所がある。現代日本社会を「無宗教社会」と名づけてから何回か訪ねている。執筆中の「無宗教社会に生きる」は創価学会の宗教運動を捉えようとしているが、かなり難題だ。

池上本門寺境内にある日蓮聖人入滅の地

「立正安国論」を読み直す

畏れ多くも「立正安国論」を読み直すため、SOKAnet 日蓮大聖人御書全集全文検索より読み下し文をダウンロードし、戸田城聖著『日蓮大聖人御書十大部講義第1巻「立正安国論」』(創価学会1952年)をもとにルビを付しました。佐藤弘夫著『日蓮「立正安国論」』(講談社学術文庫2008年)を参照しました(引用は[佐藤 p.xx]と表示)。

立正安国論 文応元(1260)年七月 39歳御作 与北条時頼書 於鎌倉
第一段
 旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭てんぺんちよう飢饉疫癘えきれいあまねく天下に満ち広く地上にはびこる牛馬ちまたたお骸骨がいこつみちてり死を招くのともがら既に大半に超え悲まざるのやからあえて一人も無し、然る間或は利剣即是りけんそくぜの文をもっぱらにして西土教主の名を唱え或は衆病悉除しゅうびょうしつじょの願を持ちて東方如来の経をし、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の教に因て五びょうの水をそそぎ有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄し、若くは七鬼神のを書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地を拝して四角四かいの祭を企て若くは万民百姓を哀れんで国主国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆かんたんくだくのみにしていよいよ飢疫きえきめられ乞客こっきゃく目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍をものみと為し並べるかばねを橋と作す、観れば夫れ二離璧じりへきを合せ五緯珠いたまを連ぬ三宝も世にいまし百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや。
 主人の曰く独り此の事を愁いて胸臆くおう憤悱ふんびす客来つて共に嘆くしばしば談話を致さん、夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり而るに今神術も協わず仏威も験しなし、つぶさに当世の体を覿るに愚にして後生の疑を発す、然れば則ち円覆えんぶを仰いで恨を呑み方載ほうさいに俯して慮を深くす、つらつら微管を傾けいささか経文をひらきたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。
第二段
 客の曰く天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む、今蘭室らんしつに入つて初めて芳詞ほうしを承るに神聖去り辞し災難並び起るとは何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん。
 主人の曰く其の文繁多はんたにして其の証弘博ぐばくなり。
 金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だかつて流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事をねがわず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属けんぞく無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣あくしゅを増長し人天を損減し生死の河にちて涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉やしゃ等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護おうごの心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし、一切の人衆皆善心無く唯繫縛けいばく殺害瞋諍しんじょうのみ有つて互に相讒諂ざんてんげてつみ無きに及ばん、疫病流行し彗星しばしば出で両日並び現じ薄蝕つね無く黒白の二虹不祥の相を表わし星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実みょうじつみのらず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」已上。
 大集経に云く「仏法実に隠没せば鬚髪爪しゅほっそう皆長く諸法も亦忘失せん、の時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん・城壁破れ落ち下り屋宇悉くやぶけ樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん、解脱げだつの諸の善論の時一切尽きん、所生の華菓けかの味い希少にして亦うまからず、諸有の井泉池・一切尽く枯涸し土地悉く鹹鹵かんろ剖裂てきれつして丘澗きゅうかんと成らん、諸山皆燋燃しょうねんして天竜雨を降さず苗稼みょうけも皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず、土を雨らし皆昏闇こんあんに日月も明を現ぜず四方皆亢旱こうかんしてしばしば諸悪瑞を現じ、十不善業の道・貪瞋癡とんじんち倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿しょうろくの如くならん、衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん、是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊きえし天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍ひみんする者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん」已上。
 仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国をおびやかし百姓亡喪もうそうし臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん、天地怪異けいし二十八宿・星道・日月時を失い度を失い多く賊起ること有らん」と、亦云く「我今五眼をもつて明に三世を見るに一切の国王は皆過去の世に五百の仏につかえるに由つて帝王主と為ることを得たり、是をつて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん、若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」已上。
 薬師経に云く「若し刹帝利せつていり灌頂王かんちょうおう等の災難起らん時所謂いわゆる人衆疾疫の難・他国侵逼しんぴつの難・自界叛逆ほんぎゃくの難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」已上。
 仁王経に云く「大王吾が今化する所の百億の須弥しゅみ・百億の日月・一一の須弥に四天下有り、其の南閻浮提なんえんぶだいに十六の大国・五百の中国・十千の小国有り其の国土の中に七つの畏る可き難有り一切の国王是を難と為すが故に、云何いかなるを難と為す日月度を失い・時節返逆ほんぎゃくし・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無く・或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり、二十八宿度を失い金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・ちょう星・南じゅ・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星・是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり、大火国を焼き万姓焼尽せん或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり、大水百姓を漂没ひょうもつし・時節返逆して・冬雨ふり・夏雪ふり・冬時に雷電霹礰へきれきし・六月に氷霜はくを雨らし・赤水・黒水・青水を雨らし土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり、大風・万姓を吹殺し国土・山河・樹木・一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり、天地・国土・亢陽し炎火洞燃どうねんとして・百草亢旱こうかんし・五穀みのらず・土地赫燃かくねんと万姓滅尽せん是くの如く変ずる時を六の難と為すなり、四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵劫起らん・是くの如く怪する時を七の難と為すなり」
 大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如くゆる所の無量の善根悉く皆滅失して其の国まさに三の不祥の事有るべし、一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり、一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵にょうする所と為らん、暴火よこしまに起り悪風雨多く暴水増長して人民を吹ただよわし内外の親戚其れ共に謀叛せん、其の王久しからずして当に重病に遇い寿終じゅじゅうの後・大地獄の中に生ずべし、乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復た是くの如くならん」已上。
 夫れ四経の文あきらかなり万人誰か疑わん、而るに盲瞽もうこともがら迷惑の人みだりに邪説を信じて正教をわきまえず、故に天下世上・諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて擁護の志無し、仍て善神聖人国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道災を成し難を致す。
第三段
 客色を作して曰く後漢の明帝は金人きんじんの夢を悟つて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成す、しかしよりこのかた上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専にす、然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道・仏経は星の如くつらなり堂宇どうう雲の如くけり、鶖子しゅうしやからは則ち鷲頭じゅとうの月を観じ鶴勒かくろくたぐいは亦鶏足けいそくの風を伝う、誰か一代の教をさみし三宝の跡を廃すといわんや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。
 主人さとして曰く仏閣いらかを連ね経蔵軒を並べ僧は竹葦ちくいの如く侶は稲麻とうまに似たり崇重年り尊貴日に新たなり、但し法師は諂曲てんごくにして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し。
 仁王にんのう経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、其の王わきまえずして此の語を信聴しよこしまに法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」已上。
 涅槃ねはん経に云く「菩薩悪象あくぞう等に於ては心に恐怖くふすること無かれ悪知識に於ては怖畏ふいの心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三しゅに至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。
 法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲てんごくに未だ得ざるをれ得たりとおもい我慢の心充満せん、或は阿練若あれんにゃ納衣のうえにして空閑に在り自ら真の道を行ずとおもいて人間を軽賤する者有らん、利養に貪著するが故に白衣のめに法を説いて世に恭敬くぎょうせらるること六通の羅漢らかんの如くならん、乃至常に大衆の中に在つて我等をそしらんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門ばらもん居士こじ及び余の比丘衆に向つて誹謗ひぼうして我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くとわん、濁劫じょっこう悪世の中には多く諸の恐怖くふ有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈めり毀辱きにくせん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜ずいぎ所説の法を知らず悪口して顰蹙ひんじゅく数数しばしば擯出ひんずいせられん」已上。
 涅槃経に云く「我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉くた涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし、持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜とんしして其の身を長養し袈裟けさを著すと雖もなお猟師の細めに視てしずかに行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉とんしつを懐く啞法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門のかたちを現じ邪見熾盛しじょうにして正法を誹謗せん」已上。
 文について世を見るに誠に以てしかなり悪侶をいましめずんばあに善事を成さんや。
第四段
 客猶憤りて曰く、明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む、世上の僧侶は天下の帰する所なり、悪侶に於ては明王信ず可からず聖人に非ずんば賢哲仰ぐ可からず、今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざるを知んぬ、何ぞ妄言もうげんいてあながちちに誹謗を成し誰人を以て悪比丘とうや委細に聞かんと欲す。
 主人の曰く、後鳥羽院の御宇ぎょうに法然と云うもの有り選択集せんちゃくしゅうを作る則ち一代の聖教を破しあまねく十方の衆生を迷わす、其の選択に云く道綽禅師どうしゃくぜんし・聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、初に聖道門とは之に就いて二有り乃至之に準じ之を思うにまさに密大および実大をも存すべし、然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳けごん・三論・法相・地論・摂論じょうろん・此等の八家の意正しく此に在るなり、曇鸞どんらん法師往生おうじょう論の注に云く謹んで竜樹りゅうじゅ菩薩の十住毘婆沙びばしゃを案ずるに云く菩薩・阿毘跋致あびばっちを求むるに二種の道有り一には難行道二には易行道なり、此の中難行道とは即ち是れ聖道門なり易行道とは即ち是れ浄土門なり、浄土宗の学者先ずすべからく此の旨を知るべしたとい先より聖道門を学ぶ人なりと雖も若し浄土門に於て其の志有らん者はすべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし又云く善導和尚・正雑の二行を立て雑行ぞうぎょうを捨てて正行に帰するの文、第一に読誦どくじゅ雑行とは上の観経かんぎょう等の往生浄土の経を除いて已外いげ・大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、第三に礼拝らいはい雑行とは上の弥陀みだを礼拝するを除いて已外一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬くぎょうするを悉く礼拝雑行と名く、私に云く此の文を見るにすべからく雑を捨ててせんを修すべし豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修ぞうしゅ雑行ぞうぎょうしゅうせんや行者く之を思量せよ、又云く貞元じょうげん入蔵録にゅうぞうろくの中に始め大般若はんにゃ経六百巻より法常住経に終るまで顕密の大乗経総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし、まさに知るべし随他ずいたの前にはしばら定散じょうさんの門を開くと雖も随自ずいじの後にはかえつて定散の門を閉ず、一たび開いて以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なりと、又云く念仏の行者必ず三しん具足ぐそくす可きの文、観無量寿かんむりょうじゅ経に云く同経の疏に云く問うて曰く若し解行げぎょうの不同・邪雑じゃぞうの人等有つて外邪異見げじゃいけんの難を防がん或は行くこと一分二分にして群賊ぐんぞく喚廻よびかえすとは即ち別解・別行・悪見の人等にたとう、私に云く又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言うは是れ聖道門しょうどうもんを指す已上、又最後結句の文に云く「夫れすみやかに生死しょうじを離れんと欲せば二種の勝法しょうほうの中にしばらく聖道門をきて選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば正雑しょうぞう二行の中にしばらく諸の雑行をなげうちて選んでまさに正行に帰すべし」已上。
 之にいて之を見るに曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどう謬釈びゅうしゃくを引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言そうじて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及びもろもろ世天せてん等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或はき或はなげうつ此の四字を以て多く一切を迷わし、あまつさえ三国の聖僧十方の仏弟ぶっていを以て皆群賊と号し併せて罵詈めりせしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗ひぼう正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり。
 是に於て代末代に及び人・聖人に非ず各冥衢みょうくつて並びに直道じきどうを忘る悲いかな瞳矇どうもうたずいたましいかないたずらに邪信を催す、故に上国王より下土民に至るまで皆経は浄土三部の外の経無く仏は弥陀みだ三尊のほかの仏無しとおもえり。
 つて伝教・義真・慈覚じかく智証ちしょう等或は万里の波濤はとうわたつて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りてあがむる所の仏像若しくは高山のいただき華界けかいを建てて以て安置し若しくは深谷の底に蓮宮れんぐうてて以て崇重そうじゅうす、釈迦薬師の光を並ぶるや威を現当げんとうに施し虚空地蔵の化を成すや益を生後にこうむらしむ、故に国主は郡郷を寄せて以て灯燭とうしょくを明にし地頭は田園をてて以て供養に備う。
 しかるを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄ぶっだを貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の経典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏くぶつの志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧せそうおもいを忘る、故に仏堂零落れいらくして瓦松がしょうの煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜ごしゃくの心を捨てて並びに建立の思を廃す、是を以て住持じゅうじの聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れひとえに法然の選択せんちゃくに依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁まえんとろかされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
第五段
 客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文しゃかもん浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞どんらん法師ほっしは四論の講説こうせつを捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師どうしゃくぜんじ涅槃ねはん広業こうぎょうきて偏に西方の行を弘め、善導和尚ぜんどうわじょう雑行ぞうぎょうなげうつて専修せんしゅうを立て、慧心僧都えしんそうずは諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす、弥陀みだを貴重すること誠に以てしかなり又往生おうじょうの人其れ幾ばくぞや、就中なかんずく法然聖人は幼少にして天台山に昇り十七にして六十巻にわたり並びに八宗をきわつぶさに大意を得たり、其の外一切の経論・七遍反覆はんぷく章疏しょうじょ伝記でんき究めざることなく智は日月にひとしく徳は先師に越えたり、然りといえども猶出離しゅつりの趣に迷いて涅槃ねはんの旨をわきまえず、故に徧く覿悉くかんがみ深く思い遠く慮り遂に諸経をなげうちて専ら念仏を修す、其の上一霊応れいおうを蒙り四えい親疎しんそに弘む、故に或は勢至せしの化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賤きせん頭をれ一朝の男女歩を運ぶ、しかしよりこのかた春秋推移おしうつり星霜相積れり、而るにかたじけなくも釈尊の教をおろそかにしてほしいまま弥陀みだの文をそしる何ぞ近年の災を以て聖代の時におおあながちに先師をそしり更に聖人をののしるや、毛を吹いてきずを求め皮をつて血を出す昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ずおそる可く慎む可し、罪業至つて重し科条いかでのがれん対座猶以て恐れ有り杖に携われて則ち帰らんと欲す。
 主人みを止めて曰くからきことをたでの葉に習い臭きことを溷厠かわやに忘る善言を聞いて悪言と思い謗者ぼうしゃを指して聖人と謂い正師を疑つて悪侶にす、其の迷誠に深く其の罪浅からず、事の起りを聞けくわしく其の趣を談ぜん、釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実ごんじつを弁ず、而るに曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどう既に権に就いて実を忘れ先に依つて後を捨つ未だ仏教の淵底えんていを探らざる者なり、就中なかんずく法然は其の流をむと雖も其の源を知らず、所以ゆえんいかん大乗経の六百三十七部二千八百八十三巻・並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうの字を置いて一切衆生の心をとろかす、是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず、妄語もうごの至り悪口のとが言うてもならび無し責めても余り有り人皆其の妄語を信じ悉く彼の選択せんちゃくを貴ぶ、故に浄土の三経をあがめて衆経をなげうち極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る、誠に是れ諸仏諸経の怨敵おんてき聖僧衆人の讎敵しゅうてきなり、此の邪教広く八荒に弘まりあまねく十方にへんす。
 そもそも近年の災を以て往代おうだいを難ずるの由あながちに之を恐る、いささか先例を引いて汝が迷をさとす可し、止観しかん第二に史記を引いて云く「周の末に被髪ひはつ袒身たんしん礼度れいどに依らざる者有り」弘決ぐけつの第二に此の文を釈するに左伝さでんを引いて曰く「初め平王へいおうの東にうつりしに伊川いせに髪をかぶろにする者の野に於て祭るを見る、識者の曰く、百年に及ばじ其の礼先ず亡びぬ」と、ここに知んぬしるし前に顕れ災い後にいたることを、又阮藉げんせき逸才いつざいなりしに蓬頭散帯ほうとうさんたいす後に公卿の子孫皆之にならいて奴苟どこうはずかしむる者をまさに自然に達すと云い撙節兢持そんせつこうじする者を呼んで田舎でんしゃと為す是を司馬しば氏の滅する相とす已上。
 又慈覚じかく大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗ぶそう皇帝・会昌えしょう元年勅して章敬しょうきょう寺の鏡霜きょうそう法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝えむ寺毎に三日巡輪じゅんりんすること絶えず、同二年回鶻国かいこつこくの軍兵等唐の堺を侵す、同三年河北の節度使忽ち乱を起す、其の後大蕃国ばんこくた命をこばみ回鶻国重ねて地を奪う、凡そ兵乱秦項しんこうの代に同じく災火邑里ゆうりあいだに起る、いかいわんや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱をおさむること能わずして遂に以て事有り」已上取意。
 れを以て之をおもうに法然は後鳥羽院ごとばいん御宇ぎょう・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑うこと莫かれ汝怪むことかれ唯すべからきょうを捨てて善に帰し源をふさぎ根をたつべし。
第六段
 客いささやわらぎて曰く未だ淵底えんでいを究めざるにしばしば其の趣を知る但し華洛からくより柳営りゅうえいに至るまで釈門に枢楗すうけん在り仏家に棟梁とうりょう在り、然るに未だ勘状かんじょうまいらせず上奏に及ばず汝いやしき身を以てたやすゆう言を吐く其の義余り有り其の理いわれ無し。
 主人の曰く、予少量為りといえどかたじけなくも大乗を学す蒼蠅そうよう驥尾きびに附して万里を渡り碧蘿松頭へきらしょうとうかかつて千じんを延ぶ、弟子一仏の子と生れて諸経の王につかう、何ぞ仏法の衰微すいびを見て心情の哀惜あいせきを起さざらんや。
 其の上涅槃ねはん経に云く「若し善比丘あつて法をぶる者を見て置いて呵責かしゃく駈遣くけん挙処こしょせずんばまさに知るべし是の人は仏法の中のあだなり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞しょうもんなり」と、余・善比丘の身らずと雖も「仏法中怨」の責をのがれんが為に唯大綱たいこうつてほぼ一端いったんを示す。
 其の上去る元仁年中に延暦えんりゃく興福こうふくの両寺より度度奏聞そうもん・勅宣・教書を申し下して、法然の選択せんちゃく印板いんばんを大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院かんじんいん犬神人つるめそうに仰せ付けて破却せしむ其の門弟・隆観りゅうかん聖光しょうこう成覚じょうかく薩生さっしょう等は遠国おんごく配流はいるせらる、其の後未だ御勘気かんきを許されず豈未だ勘状をまいらせずと云わんや。
第七段
 客すなわやわらぎて曰く、経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、然れども大乗経六百三十七部二千八百八十三巻並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうの四字に載す其のことば勿論なり、其の文顕然なり、此の瑕瑾かきんを守つて其の誹謗を成せども迷うて言うか覚りて語るか、賢愚けんぐ弁ぜず是非定め難し、但し災難の起りは選択に因るの由さかんに其の詞を増しいよいよ其の旨を談ず、所詮しょせん天下泰平国土安穏あんのんは君臣のねがう所土民の思う所なり、夫れ国は法に依つてさかえ法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰かあがむ可き法を誰か信ず可きや(a)、先ず国家を祈りてすべからく仏法を立つべし若し災を消し難を止むるのじゅつ有らば聞かんと欲す。
 主人の曰く、余は是れ頑愚がんぐにしてあえて賢を存せず唯経文に就いていささか所存を述べん、そもそ治術じじゅつの旨内外の間其の文幾多いくばくぞやつぶさぐ可きこと難し、但し仏道に入つてしばしば愚案をめぐらすに謗法の人をいましめて正道のりょを重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。
 即ち涅槃経に云く「仏の言く唯だ一人を除いて余の一切にほどこさば皆讃歎さんたんす可し、純陀じゅんだ問うて言く云何いかなるをか名けて唯除ゆいじょ一人と為す、仏の言く此の経の中に説く所の如きは破戒なり、純陀た言く、我今未だ解せず唯願くば之を説きたまえ、仏純陀に語つて言く、破戒とはいわ一闡提いっせんだいなり其の余の在所あらゆる一切に布施ふせすれば皆讃歎すべく大果報をん、純陀復た問いたてまつる、一闡提とは其の義いかん、仏言わく、純陀若し比丘びく及び比丘尼・優婆塞うばそく優婆夷うばい有つて麤悪そあくの言を発し正法を誹謗ひぼうし是の重業じゅうごうを造つて永く改悔かいげせず心に懺悔ざんげ無からん、是くの如き等の人を名けて一闡提の道に趣向しゅこうすと為す、若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて是くの如き重事じゅうじを犯すと知れども而も心に初めより怖畏ふい懺悔無くあえ発露はつろせず彼の正法に於て永く護惜建立ごじゃくこんりゅうの心無く毀呰きし軽賤きょうせんして言に過咎かぐ多からん、是くの如き等の人を亦た一闡提の道に趣向すと名く、唯此くの如き一闡提のやからを除いて其の余に施さば一切讃歎せん」と。
 又云く「我れ往昔むかしおもうに閻浮提えんぶだいに於て大国の王と作れり名を仙予せんよと曰いき、大乗経典を愛念し敬重けいじゅうし其の心純善じゅんぜん麤悪嫉恡そあくしつりん有ること無し、善男子我の時に於て心に大乗を重んず婆羅門ばらもん方等ほうどう誹謗ひぼうするを聞き聞きおわつて即時に其の命根みょうこんを断ず、善男子是の因縁いんねんを以て是より已来いらい地獄じごくせず」と、又云く「如来昔国王と為りて菩薩の道を行ぜし時爾所そこばくの婆羅門の命を断絶す」と、又云く「殺に三有りいわ下中上げちゅうじょうなり、下とは蟻子ぎし乃至一切の畜生なり唯だ菩薩の示現生じげんしょうの者を除く、下殺げさつの因縁を以て地獄じごく・畜生・餓鬼がきしてつぶさに下の苦を受く、何を以ての故に是の諸の畜生に微善根びぜんこん有り是の故に殺す者はつぶさ罪報ざいほうを受く、中殺とは凡夫の人より阿那含あなごんに至るまで是を名けて中と為す、是の業因ごういんを以て地獄じごく・畜生・餓鬼がきに堕してつぶさに中の苦を受く・上殺とは父母乃至阿羅漢あらかん辟支仏ひゃくしぶつ畢定ひつじょうの菩薩なり阿鼻あび大地獄だいじごくの中に堕す、善男子若しく一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず、善男子彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提いっせんだいなり」已上。
 仁王経に云く「仏波斯匿はしのく王に告げたまわく・是の故に諸の国王に付属ふぞくして比丘・比丘尼に付属せず何を以ての故に王のごとき威力無ければなり」已上。
 涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相さいしょう・及び四部の衆に付属す、正法をそしる者をば大臣四部の衆まさ苦治くじすべし」と。
 又云く「仏の言く、迦葉かしょうく正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身こんごうしん成就じょうじゅすることを得たり善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭きゅうせん鉾槊むさくを持すべし」と、又云く「若し五戒を受持せん者有らば名けて大乗の人と為す事を得ず、五戒を受けざれども正法を護るをもっすなわち大乗と名く、正法を護る者はまさ刀剣器仗とうけんきじょう執持しゅうじすべし刀杖とうじょうを持すと雖も我是等を説きて名けて持戒と曰わん」と。
 又云く「善男子・過去の世に此の拘尸那城くしなじょうに於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益かんきぞうやく如来と号したてまつる、仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳かくとくと曰う、爾の時に多く破戒の比丘有り是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ刀杖とうじょう執持しゅうじし是の法師をむ、是の時の国王名けて有徳うとくと曰う是の事を聞きおわつて護法の為の故に即便すなわち説法者の所に往至おうしして是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す、爾の時に説法者厄害やくがいまぬかることを得たり王・爾の時に於て身に刀剣箭槊むさくきずこうむり体にまったき処は芥子けしの如き許りも無し、爾の時に覚徳いで王をめて言く、善きかな善きかな王今まことに是れ正法を護る者なり当来とうらいの世に此の身まさに無量の法器と為るべし、王是の時に於て法を聞くことを得已つて心大に歓喜しいで即ち命終みょうじゅうして阿閦仏あしゅくぶつの国に生ず而も彼の仏の為に第一の弟子と作る、其の王の将従しょうじゅう・人民・眷属・戦闘有りし者・歓喜有りし者・一切菩提ぼだいの心を退せず命終して悉く阿閦仏の国に生ず、覚徳比丘かえつて後寿いのち終つて亦阿閦仏の国に往生することを得て彼の仏の為に声聞衆中しょうもんしゅうちゅうの第二の弟子と作る、若し正法尽きんと欲すること有らん時まさに是くの如く受持し擁護おうごすべし、迦葉かしょう・爾の時の王とは即ち我が身是なり、説法の比丘は迦葉仏是なり、迦葉正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん、是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て以て自ら荘厳そうごんし法身不可壊ふかえの身をす、仏迦葉菩薩に告げたまわく、是の故に法を護らん優婆塞うばそく等はまさ刀杖とうじょうを執持して擁護すること是くの如くなるべし、善男子・我涅槃の後濁悪じょくあくの世に国土荒乱こうらんし互に相抄掠あいしょうりゃくし人民飢餓きがせん、爾の時に多く飢餓の為の故に発心ほっしん出家するもの有らん是くの如きの人を名けて禿人とくにんと為す、是の禿人の輩正法を護持するを見て駈逐して出さしめ若くは殺し若くは害せん、是の故に我今持戒の人・諸の白衣の刀杖を持つ者に依つて以て伴侶はんりょと為すことをゆるす、刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」と。
 法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終みょうじゅうして阿鼻獄あびごくに入らん」已上。
 夫れ経文顕然けんねんなり私の詞何ぞ加えん、凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆にすぐれたり、故に阿鼻大城に堕して永く出る無けん、涅槃経の如くんばたとい五逆の供を許すとも謗法の施を許さず、蟻子ぎしを殺す者は必ず三悪道に落つ、謗法を禁ずる者は不退の位に登る、所謂いわゆる覚徳とは是れ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦文なり。
 法華涅槃の経教は一代五時の肝心かんじんなり其のいましめ実に重し誰か帰仰きごうせざらんや、而るに謗法のやから正道を忘れあまつさえ法然の選択せんちゃくに依つていよい愚癡ぐち盲瞽もうこを増す、是を以て或は彼の遺体いたいを忍びて木画もくえの像にあらわし或は其の妄説もうせつを信じて莠言ゆうげんかたちり之を海内かいだいに弘め之を郭外かくがいもてあそぶ、仰ぐ所は則ち其の家風かふう施す所は則ち其の門弟なり、然る間或は釈迦の手指てのゆびを切つて弥陀の印相いんそうに結び或は東方如来の鴈宇がんうを改めて西土教主の鵝王がおうえ、或は四百余回の如法経をとどめて西方浄土の三部経と成し或は天台大師の講をとどめて善導講と為す、此くの如き群類ぐんるい其れ誠に尽くし難し是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや、此の邪義則ち選択せんちゃくに依るなり。
 嗟呼ああ悲しいかな、如来誠諦じょうたい禁言きんごんそむくこと、あわれなるかな愚侶迷惑の麤語そごしたがうこと、早く天下の静謐せいひつを思わばすべからく国中の謗法を断つべし。
第八段
 客の曰く、若し謗法の輩を断じ若し仏禁のぜっせんには彼の経文の如く斬罪ざんざいに行う可きか、若し然らば殺害相加つて罪業いかんがんや。
 則ち大集経に云く「こうべ袈裟けさちゃくせば持戒及び戒をも、天人彼を供養す可し、則ち我を供養するに為りぬ、是れ我が子なり若し彼を撾打かだする事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、若し彼を罵辱めにくせば則ち我を毀辱きにくするに為りぬ」はかり知んぬ善悪を論ぜず是非をえらぶこと無く僧侶為らんに於ては供養をぶ可し、何ぞ其の子を打辱だにくしてかたじけなくも其の父を悲哀せしめん、彼の竹杖ちくじょう目連尊者もくれんそんじゃを害せしや永く無間の底に沈み、提婆達多だいばだった蓮華れんげ比丘尼を殺せしや久しく阿鼻のほのおむせぶ、先証れ明かなり後昆こうこん最も恐あり、謗法をいましむるには似たれども既に禁言を破る此の事信じ難し如何いか意得こころえんや。
 主人の曰く、客明に経文を見てなお斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか、全く仏子をいましむるには非ず唯ひとえに謗法をにくむなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍のうにんの以後経説は則ち其のとどむ、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せばいかなる難か並び起り何なるわざわいか競い来らん。
第九段
 客則ち席をえりつくろいて曰く、仏教斯くまちまちにして旨趣ししゅきわめ難く不審多端ふしんたたんにして理非明ならず、但し法然聖人の選択せんちゃく現在なり諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうす、其の文顕然なり、れに因つて聖人国を去り善神所を捨てて天下飢渇きかつし世上疫病えきびょうすと、今主人広く経文を引いて明かに理非を示す、故に妄執もうしゅう既にひるがえり耳目しばしば朗かなり、所詮しょせん国土泰平たいへい・天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なりねがう所なり、早く一闡提いっせんだいを止め永く衆僧尼のを致し・仏海の白浪はくろうを収め法山の緑林をらば世は羲農ぎのうの世と成り国は唐虞とうぐの国と為らん、然して後法水ほっすいの浅深を斟酌しんしゃくし仏家の棟梁とうりょう崇重そうじゅうせん。
 主人よろこんで曰く、はとしてたかと為りすずめ変じてはまぐりと為る、よろこばしきかな汝蘭室らんしつの友にまじわりて麻畝まほの性と成る、誠に其の難をかえりみて専ら此の言を信ぜば風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならん、但し人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる、たとえばなお水中の月の波に動き陳前じんぜんいくさの剣になびくがごとし、汝当座とうざに信ずと雖も後定めて永く忘れん、若し先ず国土を安んじて現当げんとうを祈らんと欲せば速に情慮じょうりょめぐらしいそい対治たいじを加えよ、所以ゆえんいかん、薬師経の七難の内五難たちまちに起り二難なお残れり、所以いわゆる他国侵逼しんぴつの難・自界叛逆じかいほんぎゃくの難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革ひょうかくの災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊おんぞく国内を侵掠しんりゃくする此の災未だあらわれず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今さかんにして一難未だ現ぜず所以いわゆる四方の賊来つて国を侵すの難なり加之しかのみならず国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いてつぶさに事のこころを案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法のとがに依つて並び起り競い来らば其の時いかんがんや、帝王は国家をもといとして天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼しんぴつし自界叛逆して其の地を掠領りゃくりょうせば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家をめっせばいずれの所にか世をのがれん汝すべからく一身の安堵あんどを思わば先ず四表の静謐せいひついのらん者か、就中なかんずく人の世に在るやおのおの後生を恐る、是を以て或は邪教を信じ或は謗法を貴ぶおのおの是非に迷うことを悪むと雖も而もなお仏法に帰することをかなしむ、何ぞ同じく信心の力を以てみだりに邪義の詞をあがめんや、若し執心しゅうしんひるがえらず亦曲意きょくい猶存せば早く有為ういさとを辞して必ず無間の獄に堕ちなん、所以ゆえんいかん、大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧せかいえを修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護おうごせずんば是くの如くゆる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずしてまさに重病に遇い寿終じゅじゅうの後大地獄に生ずべし・王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官さいかん亦復また是くの如くならん」と。
 仁王経に云く「人仏教をやぶらばた孝子無く六親不和にして天竜もたすけず疾疫しつえき悪鬼日に来つて侵害し災怪さいげ首尾しゅび連禍れんか縦横じゅうおうし死して地獄・餓鬼がき・畜生に入らん、若し出て人と為らば兵奴ひょうぬの果報ならん、響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復またまた是くの如し」と。
 法華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば乃至其の人命終みょうじゅうして阿鼻獄に入らん」と、同第七の巻不軽品に云く「千こう阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と、涅槃経に云く「善友を遠離おんりし正法を聞かず悪法に住せば是の因縁の故に沈没ちんぼつして阿鼻地獄に在つて、受くる所の身形しんぎょう・縦横八万四千由延ならん」と。
 広く衆経をひらきたるに専ら謗法を重んず、悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚なるかなおのおの悪教のつなかかつてとこしなえに謗教のあみまつわる、此の朦霧もうむの迷彼の盛焰じょうえんの底に沈む豈うれえざらんや豈苦まざらんや、汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れおとろえんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊はえなくんば身は是れ安全・心は是れ禅定ぜんじょうならん、此のことば此の言信ず可くあがむ可し。
第十段
 客の曰く、今生こんじょう後生ごしょう誰か慎まざらん誰か和わざらん、此の経文をひらいてつぶさに仏語を承るに誹謗ひぼうとが至つて重く毀法の罪誠に深し、我一仏を信じて諸仏をなげうち三部経を仰いで諸経をさしおきしは、是れ私曲しきょくの思に非ず則ち先達せんだつの詞に随いしなり、十方の諸人も亦復また是くの如くなるべし、今の世には性心を労し来生には阿鼻にせんこと文明かに理つまびらかなり疑う可からず、いよいよ貴公の慈誨じかいを仰ぎ益愚客の癡心ちしんを開けり、速に対治をめぐらして早く泰平を致し先ず生前しょうぜんを安じて更に没後ぼつごたすけん、唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。
(a) 日蓮の安国観念の独自性は、その中心的意味を天皇などの特定の権力(狭義の国家=王法)の安泰から広義の国家としての国土と人民の安穏へと転換させたところにあった…一見すると「安国」「護国」といった類似の言葉を用いながらも、それが支配者とりわけ天皇の安泰を第一義としていた伝統仏教と、その中心概念を国土の安寧と人民の平和へと転換させた日蓮の間にはきわめて大きな隔たりがあったのである。[佐藤 p. 38]

戸田城聖著『日蓮大聖人御書十大部講義「立正安国論」』

明治維新を再解釈する試み

中里介山著「大菩薩峠」を貫くのは中里史観と呼ぶべきものであり、それを支える人間観である。場面展開が独特で多くの登場人物が目まぐるしく入れ替わる小説で、プロットと関係ない挿話を煩わしく思うこともある。ただ、その挿話のなかで中里史観とその土台にある宗教や芸術・武芸観が語られるから、なくてはならない一部を構成している。介山の略歴は玉川神社(東京都羽村市)のサイトに詳しい。

1「大菩薩峠」を読み直す(1)
裏宿うらじゅく七兵衛、医者の道庵どうあん、部落出身の米友よねともとお君と黒いムク犬、竜之介の父親に拾われた与八、竜之介に祖父を斬られたお松、神尾主膳しゅぜん、駒井能登守のとのかみこと甚三郎じんざぶろう兵馬ひょうまほかが登場する。歴史上の人物が実名で登場する。
2「大菩薩峠」を読み直す(2)
学者肌の元旗本・駒井甚三郎と幕末の勘定奉行・小栗忠順のつながりが、この長編小説の作者の歴史観を示唆していると考える。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。
3「大菩薩峠」を読み直す(3)
中だるみの感を否めないところもあるが、この長編小説に取りかれのがれることができない。読み続けていると、白雲の巻に興味深い挿話があった。16世紀末の秀吉の朝鮮侵略における王義之の真筆をめぐる伊達家と細川家の物語だ。
4「大菩薩峠」を読み直す(4)
殺人鬼であり冷血漢である机竜之介と、幼いころの火傷でケロイド状の顔をもつお銀さまが取り交わす噛み合わないやり取りが興味深い。この小説の登場人物には身体障害者や精神障害者が少なくない。浪人に代表される幕藩体制からの離脱者や社会的な脱落者、「不具者」とされる人々が登場する。
5「大菩薩峠」を読み直す(5)
登場人物のなかで僕がもっとも引かれるのは駒井甚三郎である。無名丸という自ら設計した黒船の針路に関する以下の記述は、期せずして、明治日本以後の日本島の人々に大きな疑問を投げかけているように思う。どこか小栗忠順に通じるところがある。
6「大菩薩峠」を読み直す(6)
山科やましなの巻で、作者はなぜ神尾主膳をして勝小吉かつこきち(1802-50)の「夢酔独言」を延々引用し読ませたのか。主膳のモデル原型にでもなっているのだろうか。駒井と小栗忠順、神尾と勝麟太郎の対立関係を比較してみるのも興味深い。
7「大菩薩峠」を読み直す(7)
無名丸が東経170度北緯30度の附近にある無名島に漂着ならぬ到着をした後、しばらくして駒井は一人の白人男性を発見する…(彼から)「およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も事業もその
てつ
を踏むにきまっています、失敗しますよ」。そう断言された駒井はまた思い悩む。
日本の最東端にある南鳥島は東経153.58度、北緯24.18度。無名島は架空の島だろうが、南鳥島から遠く北東にある。
8大菩薩峠(執筆年1913-41)の主題
幕末から明治期の日本を再解釈を試み読者をして再考させることにあると考えている。美化して語られることの多い「明治維新」とそれ以降の現代史を見直す作業を真摯しんしに行った稀有けうな小説であり、読者にも現代史の再解釈を求めているように思う。このような意味において大菩薩峠は単なる娯楽小説ではない、大いなる論説である。より正確に言えば、小説の醍醐味だいごみと論説のおもしろさを兼ね備えた貴重な作品なのである。
20220531

「大菩薩峠」を読み直す(7)

「駒井甚三郎の無名丸が、東経百七十度、北緯三十度の附近にある、ある無名島に漂着」ならぬ到着をし、その周辺に開墾地を耕し落ち着いた後に島の海岸沿いを測量していくと、一人の白人男性と遭遇する。

彼はヨーロッパで育ち、その文明進歩を否定して、自ら無名島に漂着したという隠遁者のような人だ。互いにとって外国語である英語で交わされる二人のやり取りが興味深い。

「およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も事業もその
てつ
を踏むにきまっています、失敗しますよ」。そう断言された駒井はまた思い悩む。

椰子林の巻 四十九
 駒井が、人間臭を感じていた時に、清八は異様な動物を認めました。
 熊が――と言ったのは、果して、日本人が認める熊であるか、何物であるかを確認したのではなく、何かの動物を、この男が見出したものですから、一概に、「熊が――」と呼んでみたのだ。駒井は直ちに否定しました。熊のいるべき風土ではないということを、反応的に受取ったから、熊が、ということは信じなかったけれども、この男が、たしかになんらかの動物を発見したという信用は失うことがありません。
「あ、熊が、あそこの岩かげから、コソコソと出て、また隠れてしまいました、御用心なさいませ」
 駒井の手にせる鉄砲を目八分に見て、報告と警戒とを加える。駒井は、その言うところを否定もせず、肯定もせずに、
「では、行って見よう」
 その方面に向って自分が先に立ちました。
「人間だよ、熊ではない」
「人がおりますか、人間が、土人でございますか、土人」
 熊であるよりも、人という方がかえって無気味なる感じです。土人、と繰返したのは、土人の中には人を食う種族がある、鬼に近い人種がいる、或いは鬼よりも獰猛
どうもう
な人類がいることが、空想的な頭にあるものですから、兇暴なる土人の襲撃の怖るべきことは猛獣以上である。猛獣は
おど
しさえすれば、人間を積極的に襲うことはまずないと見られるが、土人ときては、若干の数があって、何をするかわからない。
「見給え、あそこに小舟がある」
「舟でございますか、ははあ、なるほど」
 それは小舟です。しかもその小舟が、半分ほど砂にうずもれながら波に洗われつつある。最初は岩の突出かと思いましたが、なるほど、舟だ、その舟も、どうやらバッテイラ形で、土人の用うるような刳舟
くりぶね
でないことを、かすかに認めると安心しました。
 この捨小舟
すておぶね
をめざして急いでみると、それから程遠からぬ小さな池の傍の低地に小屋を営んで、その小屋の前に人間が一人、真向きに太陽の光を浴びて本を読んでいる。黒い洋服をいっぱいに着込んでいるから、それで最初に清八が熊と認めたそれなのでしょう。こちらが驚いたほどに先方が驚かないのです。駒井主従が近寄って来ても、あえて驚異の挙動も示さず、出て迎えようともしないし、来ることを怖れようともしていないのが、少し勝手がおかしいとは思いながらも、危険性は少しも予想されないから、そのまま近づいて見ると、先方は
ひげ
だらけの面をこっちに向けて、じっと見つめていることは確かだが、さて、なんらの敵意もなければ、害心も認められない。
 いよいよ近づいて見ると、原始に近い姿をしているが、その実、
はなは
だ開けた国の漂流者と見える。駒井がまず、英語を以て挨拶を試みてみました、
「お早う」
 先方がまた同じような返事、
「お早う」
 駒井の英語が、本土の英語でないように、先方の発音もまた借りの発音らしいから、英語を操るには操るが、英語の国民ではないという認識が直ちに駒井の胸にありました。
 けれども、英語を話す以上は、その国籍はともあれ、時代に於ては開明の人であり、或いは開明の空気に触れたことのある人でないということはありません。英国は海賊国なりとの外定義はあるにしても、その個人としては、直接に人を取って食う土人でないことは確定と思うから、ここで三個の人間が落合って、平和な挨拶を交し、これからが駒井とこの異人氏との極めて平和なる問答になるのです。
椰子林の巻 五十
 駒井甚三郎は、まず、初発音に於て、この異人氏が英語は話すけれども英人でないことを知り、話してみると、この土地に孤島生活をしているけれども漂流人ではないということも知りました。誰も予想する如く、船が難破したために、この島へ漂いついて、心ならずも原始生活に慣らされている、早く言えば、ロビンソン漂流記の二の舞、三の舞である、とは一見、誰もそのように信ずるところだが、少し話してみると、やむことを得ざる漂流者ではなくて、自ら好んで単身この島へ渡って来て、また好んでこういう原始生活を営んでいる生活者であるということを、駒井甚三郎が知りました。
 これが駒井にとって、一つの興味でもあり、好奇心を刺戟すると共に、研究心をも刺戟して、これに会話の興を求めると共に、この異風の生活の白人を研究してみなければ置かぬ気持にもさせたのです。今日の開明生活を
なげう
って、何しに斯様
かよう
な野蛮生活に復帰したがっているか、それも、やむを得ずしてしかせしめられているなら格別、好んでこういう生活に入り、しかも、一時の好奇ではなく、もはや、あの小舟が朽ち果てる以前から来ており、今後、この島にこの生活のままで生涯をうずめる覚悟ということが、驚異でなければなりません。
 駒井甚三郎と異人氏の、覚束
おぼつか
ないなりの英語のやりとりで、しかも、相当要領を得たところの知識は、だいたい次のようなものでありました。
 この白人は、果して英国人ではない、本人は、しかと郷貫
きょうかん
を名乗らないけれども、フランス人ではないかと駒井が推定をしたこと。
 年齢は、こういう生活をしているから、一見しては老人の如くに見ゆるが、実はまだ三十代の若さであること。
 学問の豊かなことは、ちょっと叩いてみても、駒井をして瞠目
どうもく
せしむるものが存在していたということ。
 そこで、つまりこの青年は、三十代と見ればまだ青年といってもよかろう、一見したのでは五十にも六十にも見えるが――この青年は、何か特別の学問か、思想かに偏することがあって、その周囲の文明を
いと
うて、そうして、わざとこの孤島を選んで移り住んでいる者に相違ないということが、はっきりと判断がつきました。
 そういう類例は、むしろ東洋に於ても珍しいことはない。日本に於ても各時代時代に存在する特殊の性格である。こういう隠者生活というものは、東洋がその本家であるかと見ると、西洋にもあるのだ。いわゆる文明国にも、現にこういう人が存在する、ということを駒井がさとりました。
 異人氏の方でもまた、この珍客が、教養ある異邦人で、自分の思想生活を
みだ
す者でないことがわかったらしい。特に興味を以て、駒井との会話を辞さないようです。
 そこで、駒井甚三郎は、清八をして持参の弁当を取り出させ、その小屋の庭前の自然木の卓子
テーブル
の上に並べさせ、そのうち好むものを、異人氏にも勧め、且つ食い、且つ談ずるの機会に我を忘れ、また今日の任務をも忘れんとします。
 ここに於て、駒井はこの島に、自分たちよりも先住者が少なくも一人はいたことを知り、島の面積、風土のなお知らざるところをも聞き知り、もはや、これ以上には人類は住んでいないことなどをも知りましたが、個人として、この異人氏の身辺経歴等を知りたいとつとめたが、容易にそれを語りません。
「あなたは、この島に猟に来たのですか」
と異人氏がたずねるものですから、駒井が、
「いいえ、猟に来たのではないのです、あなたと御同様に、この島へ永住に来たのです」
「エ?」
と言って、異人氏がその沈んだ眼をクルクルとさせ、
「永く、この島にお住まいになるのですか」
「そのつもりで、仲間を引きつれて来て、これから三里先に開墾を始めています、以後、おたがいに往来して、お心安く願いたいものです、これを御縁に、たびたび、わたくしも、こちらをお訪ねしたい、どうぞ、我々の方も訪ねていただきたい」
 駒井がこう言いますと、異人氏は感謝するかと思いの外、みるみる失望の色が現われて、
「そうですか、あなた方二人だけではないのですか」
「二十余人の同勢で来ています」
「男ばかりですか」
「女もおりますよ」
「そうですか」
と言った異人氏には、失望のほかに、不快な色さえ現われて、それからは駒井の問いにはかばかしい返事をしませんでしたが、急に立ち上って、
「わたくし、あの小舟を修繕しなければなりません」
 つと立って行ってしまったものだから、駒井も引留めようがありませんでした。
 ぜひなく、清八と二人だけで食事を済まし、しばらく待ってみたが、容易に再び姿を現わしません。立って四方をさがしてみたけれども、どうもその当座の行方がわからない。ぜひなく二人はそのままに取りかたづけて、ここを出て前進にかかりましたが、途中、心にかけたけれども、この異人氏の姿が再び眼に触れるということはありませんでした。
 駒井は、それを本意なく思ったが、なんにしても、最初のうちは極めて好意を以て会話に答えた異人氏が、終り頃、急に失望不快の色を現わしたことと、そのまま席を立って、再び姿を見せなかったことに、何か、感情の相違があるものだとみないわけにはゆきません。では明日改めて、単身、ここまで出向いて来て、この遺憾
いかん
の部分の埋合せをしようと思い定めました。その日は、その程度の観察、往復の途中、地質と植物の標本を集めたくらいのところで、開墾地へ立帰りました。
 お松に向って、その日のあらましを物語り、明日はひとつあの異人氏の訪問を主目的として、また出かけてみるつもりだということを物語ります。
 七兵衛の報告を聞いて、開墾事業が着々として進んでいることを知り、多くの希望と愉快のうちにその夜を眠ります。
椰子林の巻 五十一
 その翌日、駒井甚三郎は、三里の道を遠しとせずして、今日はたった一人で、昨日来た異人氏の草庵を訪ねてやって来ました。
 来て見ると、その有様、昨日に異ならず、戸は別に
ふさ
いでもないが、人はありません。二度、三度、呼びかけてみたが返答もありません。その様子では、昨日立って行ったままに、立戻らないようにも見えるが、いったん戻って、また出かけたものとも察せられる。
 あけ放された室内へ、駒井が入り込んで見廻すと、数多くの書籍がある。卓の上には、書きさした紙片が
うずたか
く散乱している。駒井は一わたり書棚の書物を検閲したが、英語と覚しいものは極めて乏しい。一二冊をとって
ひら
いて見ると、文字は横には印刷されているが読めない――
 そこで、駒井はまた一旦、室外へ出て待ってみたが、到底
らち
が明かないと見て、ともかくも近いところを歩いてみようと、小径をそぞろ歩きすると、まもなく海岸へ出ました。海岸へ出て見ると、何のことに、探索に苦心するまでのことはなかった、つい眼のさきに、尋ねる人がいるのです。海岸へ乗捨てられた小舟をコツコツと修理していたのは、昨日見た異人氏以外の人でありようはない。
 そうだ、昨日も立ち上りざま、舟を修理をしなければならないと言って出た。最初から、こっちを探せば何のことはなかったものをと、駒井はその心構えで、ツカツカと近寄って来て、
「昨日は失礼――また尋ねて来ました」
「はい」
「舟をなおすのですか」
「はい、舟を修繕しています」
「だいぶ古くなっていますね」
「なにしろ、三年前に乗捨てた舟ですからね。もう二度使おうとは思わなかったですが、また手入れをしなければならないです」
「新たに漁でもおはじめなさるのですか」
「いや、漁ではありません、沖へ出なくても魚は捕れます」
「では、急に何の必要あって」
「海へ乗り出すのです、新たなる征服者が来たから、先住民族は逃げ出さなければならないです」
「待って下さいよ、新たなる征服者というのは我々のことですか、先住民族というのは君のことですか」
「そうです、あなた方は侵入者であり、征服者であります、新たなる征服者が来た時は、先住民族は逃げなければなりません、逃げなければ血を流します」
「これは奇怪なお説です、誰が君を殺すと言いましたか、誰が君の血を見たいと言いましたか」
「当然です、誰も言わないが、それが移住者の約束です」
「そういう約束をした覚えもない」
「人間同士の約束ではない、天則です、でなければ歴史です、人類相愛せよということは、猶太
ユダヤ
の大工さんの子だけが絶叫する一つの高尚なる音楽ですね、相闘え、相殺せ、征伐せよ、異民族を駆逐せよ、しからずばこれを殲滅
せんめつ
せよ――これは、歴史だから如何
いかん
とも致し難い、そこで、わたくしは殺されないさきに逃げます」
「驚くべき誤解ですねえ、我々も、まず平和と自由とを求めて、この地に来たのですよ、歴史の侵略者とは違います、海賊ではありません、紳士です」
「歴史の原則の前には、海賊も紳士もないです、あなた方は、平和を求めるつもりでこの島へ来ても、それがために、わたくしの平和が奪われます」
「奪いません、おたがいに和衷協同して、相護って行き得られるはずです」
「そんなことができるものか、現に、わたくしの平和が、こんなに乱されていることが論よりの証拠――やがて、わたくしが殺される運命は必然です」
「左様な独断に対しては、もはや議論の限りではない、ただ、東洋人ということが、野蛮と好戦の代名詞のように心得ている君等白人の謬見
びゅうけん
からただしてかからなければならんのだが、それには相当の時間を要する、少なくともその理解の届くまで、君の出発を延期してはどうだ、果して、君が憂うるところの如く、我々は君を殺さずには置かぬ人類であるか、或いは存外、君と平和に交り得る人種であるか、その辺の見当がつくまで、出発を保留して置いてはどうか、そうして、いよいよ危険と結論が出来たその時でも、立退きは遅くはあるまい、その担保として――これをひとつ君に預けて置こうじゃないか、これは我輩の唯一の護身武器だ、安全の保証だ」
と言って駒井甚三郎は、肩にかけていた鉄砲を取って、彼の前に提出し、同時にその帯革の弾薬莢
だんやっきょう
を取外しにかかると、
「いや、違います、違います、あなたの観察が違います、わたくしは、あなた方を怖れるのではないです、歴史を怖れるのです、東洋の人を、野蛮だの、好戦だのと軽蔑するほど、西洋の人は文明を持ってはおりません、大きな宗教、大きな哲学、大きな科学、みな東洋から出ました、今、西洋だけが文明開化のように見えるのは、それは表面だけです、西洋の文明開化は短い間の虹です、やがて亡びますよ、わたくしは、欧羅巴
ヨーロッパ
に生れたけれど、欧羅巴が嫌いです、それで、国々を廻ってこの島へ来たです、が、これから、ここを逃げ出して、またどこか自分のくらしいい土地を求めて行きます」
椰子林の巻 五十二
 吃々
きつきつ
として、こういう釈明をする間にも、異人氏は小舟の修繕の手を休めない。銃器を取外した駒井は、そのやり場に苦しむような手つきで、ふたたびそれを持扱いながら、これと対した石の上に腰を卸して、異人氏の言うところを言いつくさしめようと構えている。異人氏は、ここまで来ると、必然の論理を通さねばならぬかの如くに、ねちりねちりと問わざるに答えるのである。
欧羅巴
ヨーロッパ
の文明というものは間違っているです、蒸気が走り、電気が飛び、石炭が出る、機械がどよめく、それで、人が文明開化だといって騒いでいるだけのものです、蘊蓄
うんちく
ということを知らないで、曝露
ばくろ
するのが文明だと心得違いをしているです、陰徳というものを知らないで、宣伝をするのが即ち文明だと心得違いをしているです、ごらんなさい、今に亡びますよ、今に欧羅巴人同士、血で血を洗う大戦争をはじめて共倒れになりますから、わたくしは、そういうところに住むのが嫌いですから、もっと広い世界へ出ました」
「君は文明開化を否定している、人類の進歩というものを
のろ
っているらしい、それが欧羅巴の文明というものを
きわ
め尽しての結論だと面白いが、ただ偏窟な哲学者の独断では困る」
「わたくしは偏窟人です、世間並みの風俗思想には堪えられません、それだからといって、わたくしの見た欧羅巴文明観が間違っているとは言えますまい、そもそも、欧羅巴が今日のように堕落したのは……彼等は堕落と言わず、立派な進歩だと思い上って世界に臨んでいるようですが、わたくしに言わせると、彼等より
はなはだ
しい堕落はありません、何がかくまで欧羅巴を堕落させたかと言えば、それは鉄と石炭です」
「ははあ、妙な論断ですね、羅馬
ローマ
の亡びたのは人心が堕落したからだということは、よく聞きますが、鉄と石炭が欧羅巴を堕落させたという説はまだ聞きません」
「学説ではなくて事実です、まず欧羅巴というところが、世界の中でどうして特別に早く開けたかといえば、それは食物を耕作する良地に富んでいたからです、土地が肥えていて、人間が食物を収穫するのに、最も都合がよかった、というのが第一条件であります、これは勿論
もちろん
であります。欧羅巴でなくても、穀物をよく生産する土地に人間が第一に寄りつきます、欧羅巴が開けたのは、その第一の条件に恵まれていたその上に、第二の条件が最もよろしかったからです、その第二の条件というのは、鉄が豊富であったからです、鉄を掘り出して使用することの便利が、他の多くの国土よりも恵まれておりました。人類は、最初にその鉄で
くわ
を作りました、
すき
を作りました、そうして耕作力に大きな能率を加えました、そこで、人間に余裕も出来て、人間の数も
えました、それまではよかったです。ところが、人に余裕が出来、その数が殖えてくると、争いが起りました、そこで、鍬を作る鉄で武器を作りはじめました、欧羅巴の堕落はそこからはじまりました」
「それは堕落ではない、当然の進歩というものだ、人類が進歩し、社会が複雑になればなるほど、おのおのの防備を堅固にしなければならない、大きく言えば、国防というものがいよいよ切実となる、弓と矢を用いる代りに、鉄を利用して国防の要具を作ることは、当然の進歩ではないか」
「進歩とか、複雑とか言いますけれども、その進歩と複雑が、人間に何を与えましたか、眩惑
げんわく
以上のものを与えましたか、眩惑から逃れて真実の生活を営みたいものは、欧羅巴文明から離れなければならない、そういうわけで欧羅巴を堕落させたもの、第一は鉄であります、いや、人が鉄の使用を誤らせたことから堕落が起りました、その次に、欧羅巴文明を堕落せしめたものは、石炭です、なぜ、石炭が欧羅巴を堕落せしめたかと言えば、そのもとは蒸気の発明から起ったです、蒸気が発明されると、大船が大洋の中を乗りきって、世界のいずれの
はて
へも自由自在に往来ができるようになりました、人間はそれを称して、人力が海洋を征服したというけれども、実は人間が自制心を失って我慾に征服されたです、従って、この蒸気船に乗って世界を行く国人が海賊となりました、海賊とならざるを得ないです。たとえ未開野蛮の地というとも、先住民のいない国土はない、新入者と先住民との争いが当然起ります、先住者のないところには、新入者同士の争いが起ります。石炭が大きな船を動かさなければ、なかなかそういうことは起らなかったです。いまに、ごらんなさい、世界中がみな海賊の争いになりますよ、鉄と石炭を多量に持っている国家が、海賊の親方になります、そうすると、それを
うらや
む他の国家が、割前を欲しがって、その海賊の大将を亡ぼそうとします、そこで、海賊の大将へ総がかりという大戦争が起りますから、見ていてごらんなさい、鉄と石炭が欧羅巴を進歩せしめたというのは、近眼の見ている虹です、やがて、これがために亡びますよ、いったい、土地に埋蔵してある天与の物質を掘り出して、それを人間同士殺戮
さつりく
の道具に造るなんていうことが、罰が当らないで済むものですか、やがて、欧羅巴がいい見せしめです、東洋の方々よ、東洋は欧羅巴に比べると、遥かに偉大なる宗教、深遠なる哲学を持っています、この産物は、鉄と石炭の産物とは比較にならない、東洋人はその偉大なる宗教と哲学に従って行けば、安全なのです、決して、鉄と石炭の文明に眩惑されてはなりませんよ」
 こう言われて、駒井甚三郎は、何か自分の弱味に籠手
こて
を当てられたように感じました。この立論が偏窟であるないにかかわらず、ただ何かしら、自分の弱点を突かれでもしたように感じました。
椰子林の巻 五十三
 こういう頭から出て、とどまると言い、出ると言う以上は、力を以て引留めることの限りではないと、駒井甚三郎もややにさとりました。
 そうして、暫く沈黙して考えさせられざるを得ないものがありましたが、
「君が欧羅巴文明を否定するのは、君一個の意見として聞いて置き、拙者もいずれ考えてみたいと思いますが、東洋に、より優れたる偉大なる宗教があり、深遠なる哲学があるというのは、それは買いかぶりではないか、ドコの国も同じように似たり寄ったりなもので、人間というやつは、みんな、眼前だけを標準としてしか行動ができない動物なんじゃないか、世界の人類一様に、みんな、やがて消ゆべき虹を見て騒いでいるんじゃないかな」
「そうでないです、西洋の人は虹をだけしか見ることができないです、たまにそれ以上を見る人は、ただ、虹は何で出来ている、虹は水蒸気である、七色は光線の分解であるというだけを見るのが頂上です、ところが東洋人は、水蒸気を見ない、七色を見ないで、
くう
を見ます、空というのは虚無ではないです、つまり、
しき
を見ないで
くう
を見るです、西洋人には、色を見ることだけしかできないで、空を見ることができません」
 ここに至ると駒井甚三郎は、もはや、自分の領分外だということをさとりました。もはや自分の力では、こなしきれないということを自覚せざるを得ませんでした。
 そこで、また暫く沈黙の後、次のように言いました、
「考えさせられます、トモカク、我々の方で、君を引留める何物の力もないということがわかり出したようです、この上は、君の自由の行動と、意志の行動に干渉すべき限りではない。では、一日、我々の新開墾地に客に来て見て下さらぬか、我々が食人種でないことがおわかりならば、一日の来訪は危険を伴わないし、また君の将来の行動のさまたげとなるべきはずもないから、新入者が先住民に敬意を表わすの機会と、先住民が新入者を迎うるの機会と、それから新入者が先住者を送るの礼と、その三つの機会を同時に、我々の新開地で作ってみることは許されないか」
「そういうわけならば、一日の暇を作りましょう、明日にも、あなたの植民地へ行きましょう」
「それは有難いです――では」
 駒井甚三郎は、明日の約束を以て、この場の会見と会話とを打切りました。順路をよくこの異人氏に教えて、自分はもと来し路へ引返します。出立の時は、今日は、もう一足でも先へ前進してみるつもりでしたが、ここで会見の時を過ごしてみると、もう進む気が起りませんでした。
 来た路を引返しながら駒井甚三郎が思う様、この孤島へ来て、さかさまに、白い異人から東洋哲学を聞かせられようとは思わなかった、ドコの国、いずれの時代にも、その時代を
いと
う人間はあるものだ、称して厭世家という。そういうことは、いずれの時代にもあるが、いつも世間には通用しない。当人も無論、通用されないことを本望とする。世間の滔々
とうとう
たる潮流から見れば、一種例外の変人たるに過ぎない。一人や二人そういう変人が出たからとて、天下の大勢をどうすることもできるものではない。また当人も、一人や二人で天下の大勢をどうしようの、こうしようのと考えているのではないから、別段、問題にするには当らないが、どうかすると、そういう変人の中に、驚くべき予言が語られたり、達観が行われたりするもので、あらかじめ、そういう声を聞くと聞かないでは、国の興亡が定まることさえあるものだ。言う者に罪なし、聞く者以て
いまし
むるに足る。
 だが、それはそれとして、こんなところで、こんな人種から、東洋哲学を聞かせられて、これに充分の応答ができない、まして、逆に彼等にこれを説き教える素養を欠いている
おの
れというものを、駒井甚三郎が反省せざるを得ませんでした。
 日本に於ては、おこがましいが、自分は当時での最新知識であり、有数の学者と我も人も許していたのだ。それが、ややもすれば金椎
キンツイ
に虚を突かれたり――孤島の哲学者に逆説法を食ったりするのは、事が自分の研究の職域以外としても、光栄ある無識ではないのである。自分の
きわ
めているのは、今の哲学者の見るところによると、欧羅巴文明の糟粕
そうはく
かも知れない。かの糟粕を究めつつ、自家の醍醐味
だいごみ
も知らないということになると、いい笑い物だ。
 学問、研究、知識は、いよいよ広く、いよいよ大きい、この海洋のようなものだ、というような反省が駒井の心に波立ちました。
椰子林の巻 五十四
 その翌日、約束の通り、異人氏は駒井の植民地へやって来ました。これを迎えた駒井は、一応植民地を見せた上で、己れの舎宅へ案内して、ここで、椅子をすすめて相対坐しての会談です。この時に異人氏は次のように言いました、
「駒井さん、あなたの理想はよくわかります、地上に理想郷を作ろうという企ては、今に始まったことではないです、昔からよくあることです、欧羅巴では、哲学者プラトーなども、その理想の先達
せんだつ
の一人です、実行はしませんでしたけれど、プラトーは、その理想を持っていました、最近では、ロバート・オーエンという人が、それを実行しました、あなたと同じように同志を集めて、全く新しい一つの社会を作りました。プラトー氏は、ただ理想家だけでしたが、ロバート・オーエンは、徹底的に実行しました」
「そういう人が、最近、西洋にありましたか」
「ありました、ロバート・オーエンは、英吉利
イギリス
のウエールという所の山の中に生れた人です、子供の時は呉服屋の小僧などをして、それから成功して大きな紡績工場を持つようになりました、幼少から艱難
かんなん
をして、世の中を見たりして、どうしてもこれではいけない、ひとつ、模範の世界を作ってみるといって、自分の大工場を中心にして立派な模範の村を作り、一時、非常な評判になって、見に行く人が多くありましたが、上流の人、資本家の人が、オーエンの理想を好みませぬ、せっかくの理想が妨げられる、そこで、オーエンは、これは上流社会や資本家を相手にしていては駄目だ、働く人だけで自由な社会を作らなければならぬと言って、それには周囲のうるさい土地ではいけない、新しい天地で、さしさわりなく腕の
ふる
えるところでなければいけないといって、イギリスの自分の土地や工場を、すっかり売払って、アメリカへ渡りました、アメリカの、インデアナ州というところへ土地を買い、思いきって理想の社会を作ってみましたが、失敗してしまいました」
「もう少しくわしく、その人のことを話してみて下さい」
「いや、話せば長くなるです、およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって、失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も、事業も、その
てつ
を踏むにきまっています、失敗しますよ」
 異人氏は、駒井の事業慾に対して、三斗の冷水を注ぐようなことを言いました。せっかくのことに成功を祈るとは言わず、失敗が当然だということを言いました。聞きようによれば、不吉千万の言い分でありますけれど、駒井は深く気にかけません。
「失敗とか、成功とかいうことは、ただ仕事の成績だけ見て言うことじゃありませんよ、成功と信じても、ねっからツマらないこともあり、失敗だ、失敗だと言われることが、かえって大きな時代の推進力をつとめることもあるものだ、今のそのオーエンという人が、どういう失敗に終ったか知らないが、そういう勇気と実行力を持ち得る人は、尊敬すべきものだ、信ずることを、ドコまでもやってみようという勇気を私は取ります。オーエンは失敗したけれども、イギリスからアメリカに渡って、このアメリカの土台を築き上げた人は失敗ではないだろう、成敗を以て事を論ずるのは末だ」
「そうです、何が成功で、何が失敗かということは、見る人の批判だけではわかりません」
 異人氏は、深く議論をする気はなく、その辺で辞退しましたから、駒井甚三郎も、それを送って外へ出ました。
 過ぐる夜に、月影を踏んで歩いた砂浜のあたりを、異人氏を送りながら歩いて行く駒井甚三郎は、異人氏が、どうしてもこの島を立退かなければならないならば、古舟を修理なさらずとも、こちらのバッテイラを貸して上げようと言いますと、異人氏は、それを辞退して、それには及びません、舟は手慣れたのがよろしい、いかに小舟で大洋へ乗り出しても、決して覆ることはないものだ、舟には心配はない、心配がありとすれば、食糧と気候の変化だけのものだが、それは天に任せるより仕方がない、というようなことを言う。
 異人氏を程よきところまで見送ってから、駒井甚三郎は、また海岸を戻りながら、いろいろと考えさせられました。
 事実に於ては、自分たちが来たために、あの異人氏を追い出したことになるのだが、異人氏は追い出されると思ってはいない。新人
きた
れば旧人去るのは当然の理法だと考えている。またそれが自分の自由だと考えている。こちらは気の毒千万とも思うけれども、先方は現在の旅から次の旅に移るとしか考えていない。満足から満足に向ってあさり進むとしか考えていないようだ。
 のみならず、去り行く
おの
れの影を
かな
しまずして、盛んなる我等の新植民をむしろ哀れなりとしている。斯様
かよう
な事業は必ず失敗なりと断言して
はばか
らないところも、また一見識だと思いました。
 その一例として挙げてくれた、何といったかな、イギリスの、ロバート・オーエンと言ったかな、そういう人間の最近の失敗を述べたようだったが、くわしいことは聞きもらしたが、では、これからひとつそのオーエンなるものの伝記を研究してみよう。失敗とか、成功とかは論ぜず、トニカク空想を実行に移して、百折屈せざるの先例を見出すことは愉快と言わねばならぬ。イギリスという国が大きくなるのも、そういう人間を持ち得られるからだろうなどと、駒井がその時に考えました。

縦書き文庫5月読者読込ページ数

作品名作者pp*
1大菩薩峠中里介山9017
2ダブリンの人たちJ. ジョイス1209
3地獄変芥川龍之介955
4君主論マキャヴェリ639
5方法序説R. デカルト605
6坊っちゃん夏目漱石582
7自転車たび北米欧州
北アフリカ香港台湾
園内一佳445
8人間失格太宰治410
9こころ夏目漱石377
10山月記中島敦331
11春琴抄谷崎潤一郎287
as of 20220531 *読者の読込みページ数

「大菩薩峠」を読み直す(6)

小説の最直前、山科やましなの巻で、なぜ作者は神尾主膳をしてかつ小吉こきち(1802-1850)の「夢酔*独言」を延々引用して読ませたのか。主膳のモデルの原型にでもなっているのだろうか。駒井と小栗忠順、神尾と勝麟太郎の対立関係を比較してみるのも興味深い。 *勝小吉の号

山科の巻 六十一
 神尾主膳は相変らず、勝麟太郎
かつりんたろう
の父、夢酔道人の「夢酔独言」に読み
ふけ
っている。
 神尾をして、かくも一人の自叙伝に読み耽らしむる所以
ゆえん
のものは、かりに理由を挙げてみると、人間、自分で自分のことを書くというものは、容易に似て容易でない。第一、人間というやつは、自分で自分を知り過ぎるか、そうでなければ、知らな過ぎるものである。自分で自分を知り過ぎる奴は、自分を法外に軽蔑したり、そうでなければ自暴
やけ
に安売りをする。自分で自分を知らな過ぎる奴は、また途方もなく自分を買いかぶるか、そうでなければ鼻持ちもならないほど、自分を修飾したがる。
 よく世間には、偽らずに自分を写した、なんぞというけれど、眼の深い奴から
とく
と見定められた日には、みんなこの四つのほかを出でない――極度に自分を買いかぶっている奴と、無茶に自分を軽蔑したがる奴、それから自暴に自分の安売りをする奴と、イヤに自分をおめかしをする奴――自分で自分をうつすと、たいていはこの四つのいずれにか属するか、或いは四つのものがそれぞれ混入した悪臭のないという奴はないのが、このおやじに限って、どうやらこの四つを踏み越えているのが乙だ。あえて自分をエラがるわけでもないし、さりとて乞食にまで落ちても、落ち過ぎたとも思っていないようだ。自分を軽蔑しながら、軽蔑していない。おめかしをして見せるなんぞという気は、まず微塵もないと言ってよかろう。
 神尾のような人間から見ると、自分が、あらゆる不良のかたまりでありながら、人のアラには至って敏感な感覚にひっかかると、及第する奴はまず一人もない。大物ぶる奴、殿様ぶる奴、忠義ぶる奴、君子ぶる奴、志士ぶる奴、江戸っ子がる奴、通人めかす奴……神尾にあっては一たまりもない。新井白石の折焚柴
おりたくしば
を読ませても、藤田東湖の常陸帯
ひたちおび
を読ませても、神尾にとっては一笑の
しろ
でしかあるに過ぎないけれど、夢酔道人の「夢酔独言」ばっかりは、こいつ話せる! いずれにしても、神尾をして夢中に読み進ましめるだけの内容を備えていることは事実で、そうして読み進む文面を、順を
って複写してみると、あれからの勝のおやじの自叙伝が次のようになっている。
「ソレカラ、ダンダン行ッテ、大井川ガ九十六文川ニナッタカラ、問屋ヘ寄ッテ、水戸ノ急ギノ御用ダカラ、早ク通セト云ッタラ、早々人足ガ出テ、大切ダ、播磨様ダトヌカシテ、一人前払ッテオレハ蓮台
れんだい
デ越シ、荷物ハ人足ガ越シタガ、水上ニ四人並ンデ、水ヲヨケテ通シタガ、心持ガヨカッタ」

 勝麟太郎の親父――小吉ともいえば、左衛門太郎ともいう馬鹿者が、子供の時分から、
はし
にも棒にもかからない代物
しろもの
で、喧嘩をする、道楽をする、出奔をする、勘当を受ける、それもこれも、一度や二度のことではない。そのたわけ物語の書出しに、
「オレホドノ馬鹿ナ者ハ世ノ中ニモアンマリ有ルマイト思ウ
ゆえ
ニ、孫ヤ彦ノタメニ話シテ聞カセルガ、ヨク不法モノ、馬鹿モノノイマシメニ話シテ聞カセルガイイゼ」

と言っている通り、馬鹿も度外れの馬鹿になっている。しかし家は剣道で名うての男谷
おたに
の家、兄は日本一の男谷下総守信友であって、それに追従する腕を持っていたのだから、始末が悪い。
 最初の出奔は十四の時。乞食同様ではない、乞食そのものになりきって、海道筋をほうつき歩き、やっと江戸のわが家へのたりついたが、十九の年にまたぞろ出奔して、今度は前と違い、
「オレガ思ウニハ、コレカラハ、日本国ヲ歩イテ、何ゾアッタラ切死ヲシヨウト覚悟デ出タカラ、何モコワイコトハ無カッタ」

と、剣術道具を
にな
い、腹を
えて出て来て、宿役人を愚弄
ぐろう
する、お関所を狼狽
ろうばい
させる、大手を振って東海道をのして来て、水戸の播磨守の家来だと言って、大井川にかかるところまで読んで来たので、これからがその読みつぎになるのです。
「ソレカラ遠州ノ掛川ノ宿ヘ行ッタガ、昔、帯刀
たてわき
ヲ世話ヲシタコトヲ思イ出シタカラ、問屋ヘ行ッテ、雨ノ森ノ神主中村斎宮
いつき
マデ、水戸ノ御祈願ノコトデ行クカラ駕籠
かご
ヲ出セトイウト、直グニ駕籠ヲ出シテクレタカラ、乗ッテ、森ノ町トイウ秋葉街道ノ宿ヘ行ッタ、宿デ駕籠人足ニ聞イタラ、旦那ハ水戸ノ御使デ、中村様ヘ行カシャルト言ッタラ、一人カケ出シテ行キオッタガ、程ナク中村親子ガ迎エニ来タカラ、オレガ駕籠カラ顔ヲ出シタラ、帯刀ガキモヲツブシテ、ドウシテ来タト云イオルカラ、ウチヘ行ッテ
くわ
シク
はな
ソウトテ、帯刀ノ座敷ヘ通リテ、斎宮
いつき
ヘモ逢ッタガ、江戸ニテ帯刀ガ世話ニナッタコトヲ厚ク礼ヲ云イオル、ソレカラ江戸ノ様子ヲ話シテ、思イ出シタカラ逢イニ来タト云ッタラ、親子ガ
よろこ
ンデ、マズマズ悠々ト逗留シロトテ、座敷ヲ一間明ケテ、不自由ナク世話ヲシテクレタカラ、近所ノ剣術遣イヘ遣イニ行クヤラ、イロイロ好キナコトヲシテ遊ンデ居タガ、ソノウチ、弟子ガ四五人出来テ、毎日毎日、ケイコヲシテイタガ、所詮ココニ長ク居テモツマラヌ
ゆえ
、上方ヘ行コウト思ッタラ、長州萩ノ藩中ノ城一家馬トイウ修行者ガ来タカラ、試合ヲシテ、家馬ガ諸所歩イタトコロヲ書キ記シテイルウチ、家馬ガ不快デ六七日逗留ヲシタイトイウカラ、泊ッテイルウチハ立タレズ、イロイロト支度ヲシタラ、斎宮ハアル晩、色々異見ヲ云ッテクレテ、江戸ヘ帰レトイウカラ、最早決シテ江戸ヘハ帰ラレズ、此処
ここ
デ二度マデウチヲ出タ故、ソレハ
かたじけな
イガ聞カレヌト云ッタラ、ソンナラ、今暑イ盛リダカラ七月末マデ居ロトイウ故、世話ニモナッタカラ、振リ切ラレモ出来ヌカラ、向ウノ云ウ通リニシタラ、悦ンデナオナオ親切ニシテクレタ、毎日毎日、外村ノ若者ガ来テ、稽古ヲシテ、ソノ後デ、方々ヘ呼バレテ行ッタガ、着物ハ出来、金モ少シハ出来テ、日々入用ノモノハ、通帳
かよいちょう
ガ弟子ヨリヨコシテアルカラ、
ただ
買ッテ遣ウシ、困ルコトモナク、ソコヨリ七里脇ニ向坂トイウ所ニ、サキ坂浅二郎トイウガイルガ、江戸車坂井上伝兵衛ノ門人故、江戸ニテ稽古ヲシテヤッタモノ故、ソコヘ度々
たびたび
行ッテ泊ッタガ、所ノ代官故ニ工面モイイカラ、オレガコトハイロイロシテクレ、ソレ故ニウカウカトシテ七月三日迄、帯刀ノウチニ逗留シテイタガ、アル日江戸ヨリ石川瀬兵衛ガ、吉田ヘ来ル
ついで
ニ、今日ココヘヨルトイウカラ、座敷ノソウジヲシテイタラ、オレガ
おい
ノ新太郎ガ迎イニ来オッタカラ、ソレカラ仕方無シニ逢ッタラ、オマエノ迎エニ外ノ者ヲヤッタラ、切リチラシテ帰ルマイト、相談ノ上、ワタシガ来タカラ、是非共、江戸ヘ帰ルニシタ」

 ここのところ、「帰るにした」と切ったところ、文章が少し変だと神尾も感じたが、文章字句の変なのは、ここにはじまったのではない。別段、文章家の文章というわけではないから神尾も深く気にしないで、いよいよ先生、また江戸へ逆戻りかな、しかしまあ旅先では、よくこんな馬鹿を人が相手にして、ちやほやともてなしたものだ、田舎
いなか
は人気がいいと、神尾がうすら笑いをしながらも、馬鹿とは言いながら、腕は持つべきものだ、本場で本当に鍛えた腕前があればこそ、田舎廻りは牛刀で鶏の気構えで歩ける、この点、江戸ッ子は江戸ッ子だ、そうなくてはならぬと、更に読みつづけて行く。
「翌日、斎宮
いつき
ヲ立ッテ、段々帰ルウチ、三島ノ宿
しゅく
デ甥ガ気絶シテ大騒ギヲヤッタガ、気ガツイテ、ソレカラ通シ駕籠デ江戸ヘ帰ッタガ、親父モ、兄モ、ナンニモ云ワヌ故、少シ安心シテウチヘ行ッタ、翌日、兄ガ呼ビニヨコシタカラ行ッタラ、イロイロ馳走ヲシタ、夕方、親父ガ隠宅カラ呼ビニ来タカラ行ッタラ、親父ガ云ウニハ、オノレハ度々不埒
ふらち
ガアルカラ、先ズ当分ハヒッソクシテ、始終ノ身ノ思案ヲシロ、所詮、直グニハ了簡ガツクモノデハナイカラ、一両年考エテ身ノ納マリヲスルガイイ、トカク、人ハ学問ガナクテハナラヌカラ、ヨク本デモ見ルガイイト云ウカラウチヘ帰ッタラ、座敷ヘ三畳ノ
おり
ヲコシラエテ置イテ、オレヲブチ込ンダ」

 ざまあ見ろ! と神尾が
つくえ
を打ちました。とうとう檻へブチこまれやがった、狂犬同様のやつだから是非もないが、三畳ではかわいそうだと、神尾主膳が小吉の身の上を笑止がって読みつづける。
「ソレカラ色々工夫ヲシテ、一月モタタヌウチ、檻ノ柱ヲ二本抜ケルヨウニシテ置イタガ、ヨクヨク考エタトコロガ、皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタカラ、檻ノ中デ手習ヲハジメテ、ソレカライロイロ軍書本モ毎日見タ、友達ガ尋ネテ来ルカラ、檻ノソバヘ呼ンデ、世間ノコトヲ聞イテ
たの
シンデ居タラ、二十一ノ秋カラ二十四ノ冬マデ檻ノ中ヘ入ッテイタガ、苦シカッタ」

 野郎とうとう監獄だ。三畳の檻も広くはないが、二十一から二十四までも短くない、苦しかったはずだ。おれもかなりしたい三昧
ざんまい
はしたが、まだ檻へブチ込まれた経験はない。でも、この野郎、ドコまでものんき千万に出来上っている。皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタ……も出来がいい。オレガ悪くないところがどこにある。二十一づらを下げて三畳の檻の中で手習ヲハジメたとはこれだけは感心だ。この神尾も、この歳になってはじめて手習をはじめている――友達がたずねて来たのを、熊の子じゃあるまいし、檻の内と外で、世間話を聞いて頼シンデいたがイイ。この場合楽しんでと書くより、頼シンデと書いた方が気分が出ている。それにしても、二十一から四までの三畳生活、身から出た
さび
とは言いながら、よく辛抱したものだ、おれにはそんな辛抱はできない、と神尾が思いました。
「ソノウチ、親父ヨリ度々書取リニシテ、イケンヲ云ッテクレタ、ソノ時、隠居ヲシテ、息子ガ三ツニナルカラ家督ヲヤリタイトイッタラ、ソレハ悪イ了簡
りょうけん
ダ……」

 悪イ了簡ではない、図々しいというものだ、と神尾が
あき
れました。檻へブチこまれたとはいえ、乱心しているわけでもなし、身体不具というわけでもない。二十四の盛りで、三ツの
せがれ
に家督を譲りたい、それは悪い了簡以上の図々しさだと、主膳が呆れて次を読むと、
「コレマデイロイロノ不埒ガアッタカラ、一度ハ御奉公デモシテ世間ノ人口ヲモ塞ギ、養家ヘモ孝養ヲモシテ、ソノ上ニテ好キニシロト、親父ガ云ッテヨコシタカラ、
もっと
モノコトダト初メテ気ガ附イタ故……」

 それ見ろ、それは親父の言うことがあたりまえの看板だ。それを今更になって、初めて尤ものことと気がついたもないものだ。
「出勤ガシタイト兄ヘ云ッタラ、手前ガ手段デ、勤道具、衣服モ出来ルナラ、勝手ニシロ、オレハ、イカイコト手前ニハイリ上ゲタ故、今度ハ構ワヌトイッタ故、ソノ時ハオレガホホノ下ニハレ物ガ出テイテ寝テ居タガ、少シモ苦労ヲカケマイトイウ書附ヲ出シテ、檻ヲ出デ――」

 出たな! なんとかかとか言って出してもらったな、これからがまた思いやられるよ――と神尾は苦笑をつづけつつ読む。
「翌日、拝領屋敷ヘ行ッテ、家主ヘ談ジテ金子
きんす
二十両借リ出シテイロイロ入用ノモノヲ残ラズ
こしら
エテ、十日目ニ出勤シタ。
ソレカラ毎日毎日、上下
かみしも
ヲ着テ、諸所ノケンカヲ頼ンデ歩イタガ、ソノ時、
かしら
ガ大久保上野介ト云イシガ、赤阪喰違外
くいちがいそと
ダガ、毎日毎日行ツテ御番入リヲセメタ、ソレカラ、以前ヨリイヨイヨ悪イコトヲシタコトヲ残ラズ書取ッテ、只今ハ改心シタカラ見出シテクレロト云ッタラ、取扱ガ来テ、御支配ヨリオンミツヲ以テ、世間ヲ聞糺
ききただ
スカラ、ソノ心得ニテ居ロトイウカラ、待ッテ居タラ、頭ガ、或時云ウニハ、配下ノ者ハイツモ隠スガ、御自分ハ残ラズ行路ヲ申聞ケタ故、諸所聞キ合ワセタ所ガ、云ワレタヨリハ事大キイ、シカシ改心シテ満足ダ、是非見立テヤルベシ、精勤シロトイウカラ、出精シテ、アイニハ稽古ヲシテイタガ、度々書上
かきあげ
ニモナッタガ、トカク心願ガ出来ヌカラクヤシカッタ――」

 まあ、とにかく、この辺で納まれば見つけたものだ、
はし
にも棒にもかからぬ代物
しろもの
だが、人間にはまだ見どころがある、この神尾のように腹まで腐りきってはいないところがあると、主膳も身に引きくらべてややさとるところがありました。
山科の巻 六十二
 ここで勝の小吉が親父と言ったのは、実家男谷
おたに
の父親のことで、平蔵と言い、兄というのは即ち下総守信友で、当時府下第一の剣客なので、その男谷平蔵の三男として生れた小吉が、勝家へ養子にやられたこの自叙伝の主人公、左衛門太郎夢酔入道であることは、神尾主膳も先刻承知の上で読み進んでいるのです。さすがのやくざ者も、この時代から
ようや
く目がさめて、人間並みになりかかったらしいことを、読みながら、神尾主膳は相当くすぐったがっている。さてまた自叙伝の読みつぎ――
「コノ年、親父ヤ兄ニ云イ立テテ、外宅ヲシテ割下水
わりげすい
天野右京トイッタ人ノ地面ヲ借リテ、今迄ノ家ヲ引イタガ、ソノ時、居所ニ困ッタカラ、天野ノ二階ヲ借リテイタウチニ、
にわか
ニ右京ガ大病ニテ死ンダ故、イロイロト世話ヲシタガ、ソノウチ普請モ出来、新宅ヘ移リ居ルト、右京方ニテハ跡取ガ二歳故、本家ノ天野岩蔵トイウ仁ガ、久来ノ意趣ニテ、家督願ノ時
ツカシク云イ出シテ、右京ノ家ヲツブサントシタカラ、イロイロ
メテ片附カズ、ソノ時、オレガ本家トハ心安イカライロイロナダメ、トウトウ家督ニサセタ故、天野ノ親類ガ
よろこ
ンデ、猶々
なおなお
アトノコトヲ頼ミオッタカラ、世話ヲシテイルウチ、右京ノオフクロガ不行跡デ、ヤタラニ男グルイヲシテ、フダンソウドウシテ困ルカラ、セッカク普請ヲシタガ、ソノ家ヲ売ッテ外ヘ越ソウト思ッテ、右京ノ子金次郎ガ頭向キヘ云イ出シタラ、ソノ取扱ガ云ウニハ、今オ前ニ行カレルト、アトハ乱脈ニナルカラ、一両年居テクレロト云ウカラ居タガ、人ノコトハ修メテモ、オレガ内ガ修マラヌカラ困ッテイタラ、或老人ガ教エテクレタガ、世ノ中ハ恩ヲ
あだ
デ返スガ世間人ノ習イダガ、オマエハコレカラ怨ヲ恩デ返シテミロト云ッタカラ、ソノ通リニシタラ追々内モ治マッテ、ヤカマシイババア殿モ、段々オレヲヨクシテクレタシ、世間ノ人モ用イテクレルカラ、ソレカラ、人ノ出来ヌ六ツカシイ相談事、カケ合イソノ外何事ニ限ラズ、手前ノ事ノヨウニ思ッテシタガ、シマイニハ、オレニ刃向ッタヤツラガ、段々シタガッテ来テ、ハイハイト云イ居ル、コレモカノ老人ガ賜物トシ嬉シク……」

 ここまで来ると神尾は少し耳――ではない、眼が痛い。勝のおやじの馬鹿め、この辺で、そろそろ一転機を劃し出したな、重大な転向ぶりを示して来たようだ、おれは幾つになっても、その転換ができない――笑止千万と三ツ眼をひらめかす。さて、転向の角度から見ると、やくざ者の自叙伝が、どうやら修身書の第一巻のような気分が漂いはじめたので、神尾の三ツ眼が少々まぶしくなるのもぜひがないらしい。
「同流ノ剣術遣イガ、不埒又ハツカイ込ミシテ途方ニ暮レテイル者ハ、ソレゾレ少シズツ金ヲ持タセテ諸方ヘ遣ワシ、身ノ安全ヲシテヤッタコト幾人カ数モ知レズ、ソノ後オレガ諸国ヘ行ッタ時、イカイコトトクニナッタ事ガアル、歩イタトコロデ、オレガ名ヲ知ッテイテ世話ヲシタッケ」

 まあ、ともかく、自分が人に苦労をかけただけに、人のために一肌ぬぐことも鼻にかからない俗に侠気
おとこぎ
というやつで、これが妙に人気を取返し、期せずして恩返しというやつにありつくものだ。この点は、おれも相当、人のために――といっても、いずれも人間並みの奴ではない、やくざ共の間のことだが、それでも相当に今日まで身銭
みぜに
を切っているから、今日のたれ死もしないで、トモカクこうして永らえてもいられる、ということを神尾主膳も、身につまされて、どうやら、自分もいっぱしの苦労人のような気分になりつつ読む。
「天野ガ地面ニイルウチモ、トカク地主ノ後家ガコトデ、六ツカシイコトバカリ云ッテ困ッタカラ、三年メニ同町ノ山口鉄五郎ガ地面ヘ家作ガ有ルカラ引越シタガ、コノ鉄五郎ガ惣領ハ元ヨリ心易
こころやす
カッタガ、イロイロウチヲカブッタ時ニ世話ヲ焼イテヤッタ故、ソノバア様ガゼヒ地面ヘ来イトイウカラ行ッタ、コノ年勤メノ外ニハ諸道具ノ売買ヲシテ内職ニシタガ、初メハ損バカリシテ居ルウチ、段々慣レテ来テ金ヲ取ッタ、ハジメハ一月半バカリノウチニ五六十両損ヲシタガ、毎晩毎晩、道具屋ノ市ニ出タカラ、随分トクガ附イタ、何シロ、早ク御勤入リヲシヨウト思ッタ故、方々カセイデ歩イテイタウチニ――」

 神尾がニタリと笑って、天野の後家という奴が曲者だな、若後家になって、男ぐるいをはじめて、相当小吉をてこずらしたように書いてあるが、小吉の奴も相当のイカモノのくせに、こいつをこなせなかったというのはないもんだ、だが相性が違ったんだろう。ところで、今度は近所のばばア様から来いと言われて、そっちへ引越したのは、後家であったり、ばばア様であったりするが、妙に女臭い。そのうちに道具屋をはじめたのは勘所
かんどころ
だ。人間、遊び出してきて
かお
が広くなると、ばったり行きつまるのは水の手だ。その手で、この神尾もどのくらい苦労したことか。男になるには金がいる、金のなる木を持っていない限り、ちっとやそっとの知行と財産があったからとて、続くものではない。その点は自給自足の道が立たない限り、伊達者
だてしゃ
は通らぬ。おれもその手で苦しんだ、だが、道具屋をはじめようとは思わなかった。ところが、こいつは手軽に道具屋をおっぱじめて、くろうとはだしの取引を平気でやり出すだけの身軽さがある、この辺が小身
しょうしん
に生れた利益だ。道具屋とはうまいことを考えたが、つまり骨董屋
こっとうや
なんだろう、掘出し物では相当まとまった金も
もう
けられない限りはない。最初のうち損をしたというのも、そうありそうなこと、ようやく本職になって収入が出て来たとは憎い、おれも早くその辺に気がついて道具屋になればよかったな。先祖から伝来のものだけでも売食いしても相当のものはあったが、商売気がないから、みんな質流れか、或いは二束三文。あれをもとに道具屋開業――なぜあの時それだけの知恵が出なかったか。トニカク勝のおやじめ、商売の筋を覚えたとなると、もう占めたものだ。が、商売というやつは儲かることばかりあるんじゃない、いつまでこの手で兵糧がつづくかな。待てよ、そこで、商売どころではない、あいつの身に重大な不幸が起ったらしいぞ。
「男谷ノ親父ガ死ンダカラ、ガッカリトシテ、何モイヤニナッタ」

 親父が死んだそうな。死んだ親父もこいつのためにはどのくらい苦労をしたか、死んで、
せがれ
の方ではガッカリシタの一句で片づけているが、相当に無常を感じたことは、何モイヤニナッタの自暴
やけ
半分の言葉つきでもわかる。何の病気で、どうして親父が急死したか。
「シカモ卒中風トカデ一日ノウチニ死ンダカラ、ソノ時ハオレハ真崎イナリヘ出稽古ヲシテヤリニ行ッテイタカラ、ウチノ小侍ガ迎イニ来タカラ、一散ニカケテ親父ノトコロヘ行ッタガ、最早コトガ切レタ、ソレカライロイロ世話ヲシテ翌日帰ッタ、毎日ソノ事ニカカッテ居タ、息子ガ五ツノ時ダ、ソレカラ忌命ガ明イタカラ又々カセイダ」

 親父の死んだ時、自分の倅が五歳になっていた。この五歳になっていた倅が、今時評判になっている勝麟
かつりん
なのだ。さ、いつごろ安房守
あわのかみ
に叙爵したっけかな――トニカク、
とび

たか
を産んだのか、いや、この親にしてこの子ありか、人間の万事はわからぬものだ、と神尾が思いました。
山科の巻 六十三
 さあ、今までの不良が、多少とも改心をして、これから
かお
が少し広くなり出すと、感心に道具屋を始めてアウタルキーを志したのはいいが、士族の道具屋が、いつまで続くものかなあ――と神尾が甘酸
あまず
っぱい面をしながら読んで行く。
「コノ年十月、本所猿江ニ、摩利支天
まりしてん
ノ神主ニ吉田兵庫トイウ者ガアッタガ、友達ガ大勢コノ弟子ニナッテ神道ヲシタ、オレニモ弟子ニナレトイウカラ、行ッテ心易
こころやす
クナッタラ、兵庫ガイウニハ、勝様ハ世間ヲ広クナサルカラ、私ノ
やしろ
ヘ、
日講
ひこう
トイウノヲ
こしら
エテ下サイマセ、ト頼ンダカラ、一カ月三文三合ノ加入ヲスル人ヲ拵エタガ、剣術遣イハイウニ及バズ、町人百姓マデ入レタラ、二三カ月ノ中ニ、尚五六十人バカリ出来タカラ、名前ヲ持ッテ、兵庫ニヤッタラ、悦ンデ受取ッタ、ソレカラ一年半カカッタラ、五六百人ニナッタ、全クオレガ御陰ダカラ当年ハ十月亥ノ日ニ、神前ニテ十二座ノ跡デ踊リヲ催シテ神イサメヲシタイトテ頼ムカラ、
ズ講中ノ世話人ヲ三十八人拵エタ、諸所ヘ触レテ、当日参詣ヲシテクレロト云ッテヤリ、ソノ日ニハ皆々見聞ノタメダカラ、世話人ハ残ラズ、御紋服ヲ着テクレロトイウカラ、ソノ通リニシテヤッタラ、兵庫ハ装束ヲ着テ居タ、段々参詣モ多ク、初メテコノヨウナ
にぎ
ヤカナコトハナイトテ、前町ヘハイロイロ商人ガ出テ居タ、ソレカラ講中ガ段々来ルト、酒肴デ、アトデ膳ヲ出シテ振舞ッテ居ルト、兵庫メガ、イツカ酒ニ酔ッテ居オッテ、西久保デ百万石モ持ッタツモリヲシ、オレガ友達ノ宮川鉄次郎ト云ウニ、太平楽ヲヌカシテコキ遣ウ故、オレガオコッテ、ヤカマシク云ッタラ不法ノ挨拶ヲシオル故、中途デオレガ友達ヲ皆ンナ連レテ帰ッタ、ソウスルト多クノ者ガツカイヲ云ッテアヤマルカラ、オレガ云ウニハ、ヒッキョウハコノ講中ハ、オレガ骨折故出来タヲ有難クハ思ワナイデ、太平楽ヲヌカスハ物ヲ知ラヌ奴ダカラ、講中ヲバ抜ケルカラ、ソウ云ッテクレロト云ウタラ、大頭伊兵衛、橋本庄兵衛、最上幾五郎トイウ友達ガ、
もっと
モダガ、セッカク出来タノニオ前ガ断ワルト、皆々断ワル
ゆえ
、兵庫今更後悔シテアヤマルカラ、許シテヤレト種々イウカラ、ソンナラ以来ハ御旗本様ヘ対シ、慮外致スマイト云ウ書附ヲ出セトイッタラ、ドノ様ニモサセルカラト云ウ故、宮川並ビニ深津金次郎トイウ者ト一所ニ兵庫ノトコロヘ行ッタ、ソウスルト、大頭伊兵衛ガ道マデ来テ云ウニハ、オマエガオ入リニハ、兵庫ハカリ
ぎぬ
ヲ着テ門マデオ迎エニ出ル、ソレカラ座敷ヘ出ロ、昨日ノ不調法ヲワビサセルカラ挨拶ヲシテヤレト云ウカラ、聞届ケタトイエ、ソレカラハ講中ガ残ラズ出テ馳走ヲスルカラ、アトデハ決シテ右ノ
はなし
ハシテクレルナトイウカラ、オレガ云ウニハ、残ラズ承知シタガ、外ノ者ヘヨクヨク口留メヲシナサイ、モシモ昨日ノ咄ヲシタヤツガ有ルソノ時ハ、世話人ガウソツキニナルカラ、片ハシヨリ切ッテ仕舞ウツモリデ来タカラ、ヨク云イ聞カシテ置キナサルガイイトテ、イジョウヲコメテ帰シタ、間モナク兵庫ガ宅ヘ行ッタラ、同人ガ迎エニ出ルシ、世話人モ残ラズ玄関マデ出タガ、座敷ノ正面ヘ通ッタラ、刀カケニオレガ刀ヲカケテ、皆々座ニツイタ、兵庫モ出テ、オレニ昨日ハ酒興ノ上無礼ノ段々恐レ入ッタリ、以来慎シミ申スベキ由、平伏シテ云イオルカラ、オレガイウニハ、足下ハ裏店神主
うらだなかんぬし
ナル故、何事モ知ラヌト見エル、御旗本ヘ対シテ不礼言語同断ノ故
とが
メシナリ、講中漸々
ようよう
広クナラントスル時ニ、最早心ニ
おご
リヲ生ジタ故、右ノ如ク不礼アリ、随分慎ンデ取続ク様ニトテ、ソレカラ一同ガオレニイロイロ機ゲンヲ取リテモテナシタガ、酒ガキライ故ニ、人々酔ッテ騒グヲ見テイタラ、兵庫ノ
おい
ニ大竹源二郎トイウ仁ガ有リ、オレガ裏店神主ト云ッタヲ聞キオッテ腹ヲ立テ、キノウノシマツヲ、宮川ヲダマシテ聞キオリ、小吉ハイラヌ世話ヲ焼ク、宮川ノコトデ、伯父
おじ
ニ大勢ノ中デ恥ヲカカシオッタ、是カラオレガ相手ダ、サア小吉出ロ、トイッテソノ身御紋服ヲ着ナガラ、鉢巻ヲシテ、片肌ヌギデ座敷ヘ来ル故ニ、知ラヌ顔シテ居タラ、直ニオレガ向ウヘ立ッテジタバタシオルカラ、オレガイウニハ、大竹ハ気ガ違ウタソウダ、雑人
ぞうにん
ノ喧嘩ヲミタヨウニ、鉢巻トハ何ノコトダ、武士ハ武士ラシクスルガイイ、此方
こっち
ハ侍ダカラ中間
ちゅうげん小者
こもの
ノヨウナコトハ嫌イダト云ッタラ、フトイ奴ダトテ吸物膳ヲ打附
ぶっつ
ケタカラ、オレガソバノ刀ヲ取ッテ立上リ、契約ヲ違エテ、タワ言ヲヌカスハ兵庫ガ行届カザルカラダ、甥ガ手向ウカラハ云イ合ワセタニチガイナイカラ、望ミ通リ相手ニナッテヤロウト云ッタラ、大竹ガクソヲ
くら
エトヌカシタカラ、大竹ヨリ先ヘツキハナシテ出ヨウト思イ、追ッカケタラ、皆ンナガ逃ゲ出シタ、ソレカラ兵庫ガ勝手ノ方ヘ大竹モ逃ゲタカラ追イ行クト、折ワルク兵庫ガ納戸
なんど
ヘオレガ入ッタラ、大勢ニテ杉戸ヲ入レテ押エテ居ルカラ、出ルコトガ出来ヌ、大竹ハ恐レテ丸腰デ、ウヌガ屋敷ノ伊予殿橋マデ帰ッタガ、ソレカラ大勢ガ杉戸口ヘ来テ、イロイロニ云ウカラ、許シテヤッタラ、大竹ト和ボクシテクレト云イオルカラ、大竹ガ不礼ノコトヲトガメタシ、色々アツカイガハイッテ、特ニハ大竹ガオフクロガ泣イテ
ビルカラ、伊予殿橋ヘ呼ビニヤッテ、源太郎ガ来タカラ、段々酒酔ノ上、恐レ入ッタトテ、殊更相支配ユエニ、何卒
なにとぞ
御支配ヘハ話ヲシテクレルナトテ、和ボクヲシタ、ソレカラ酒ガ又出テ、大竹が云ウニハ一パイ飲メトイウカラ、酒ハ一向呑メヌトイッタラ、ソレハマダ打チトケヌカラダトヌカス故、
さかずき
ヲヨウヨウ取ッタラ、吸物椀デ呑メト皆ンナガ云ウ、カンシャクニサワッタカラ、吸物椀デ一パイ呑ンダラ大勢ヨッテ、今一パイトヌカスカラ、ソレカラツヅケテ十三杯呑ンダ、後ノヤツラハ呑ンデイロイロ不作法ヲシタカラ、オレハソノ席デ少シモ間違ッタコトハシナカッタ、兵庫ガ駕籠
かご
ヲ出シタカラ、乗ッテ橋本庄右衛門ガ林町ノウチマデ来タガ、ソレカラ何モ知ラナカッタ、ウチヘ帰ッテモ三日ホドハ咽喉
のど

レテ、飯ガ食エナカッタ、翌日皆ンナガ尋ネテ来テ、兵庫ガウチノ様子ヲイロイロ話シテ、ソノ時、橋本ト深津ハ後ヘ残ッテ居テ、以来ハ親類同様ニシテクレトイウテカラ、両人ガ起請文
きしょうもん
ヲ壱通ズツヨコシタ、ソレカラ猶々
なおなお
本所中ガ従ッタヨ、兵庫ガ脳ガ悪イカラ、講中モ断ワッテヤッタ、ソノ時オレガ加入シタ分ハ、残ラズ断ワッタ故、段々スクナクナッテツブレタヨ」

 なんだ、くだらない、こんな奴に講中を頼む神主も神主だが、檀那
だんな
ぶりをして、満座の中で裏店神主はヒドイ、こいつは甥なるものがオコルのが当然だ、全く
らち
もない奴等だが、さて、こうなってみると酒が飲みたいな、吸物椀で一ぱい、ぐうーっとやりたいな。
 飲める奴なら吸物椀で十三杯も、さして驚くには当らないが、てんで呑まない奴が十三杯は
いたろう。こうなるとおれも、生きのいいやつを、塗りのあざやかな吸物椀でグイグイ引っかけたくなったよ、と神尾主膳が一応、書巻を伏せて、咽喉をグイグイと鳴らしました。
山科の巻 六十四
 咽喉をグイグイと鳴らしたけれど、いずれを見ても酒はなし、吸物椀もないし、咽喉を鳴らし、
を飲みながら、またも書物を取り上げたのは、一つは所在なさと、一つは書物に対する興味、いわゆる巻を
くに忍びずというやつであろうかと思われること。
 その途端、
「チワ――これはこれは、御書見の
てい
、小人閑居して不善を
し、大人静坐して万巻の書、というところでげすか、いや、恐れ入ったものでげす」
 いやはや、イケ好かない奴が来たもので、例の
びた
であります。
「鐚か――一ぱい飲みたいと思っていたところだ」
「イケません、せっかく聖賢の書をひもといて善良な感化に落着きあそばそうというその途端に、酒というやつが悪魔! そもそも、和漢をいわず酒を賞すること勝計すべからず、放蕩
ほうとう

なかだち
、万悪の源、時珍が本草ことごとく能毒を挙げましたが、酒は百薬の長なりと
めて置いて、多く
くら
えば
こん
を断ったと言いましたぜ」
「えらく貴様、今日に限って学者ぶるな」
「ちっとばかり学問をして参りやした、時にごらんあそばす聖賢の書はいったい何でござりますな、大学でげすか、論語でげすか。君子に三ツの戒めあり、少之時
わかきとき
は血気
いま
だ定まらず、戒しむること色にありス、酒に次いでは色の方をつつしまずんばあるべからず」
「この野郎!」
「この野郎は怖れやす、殿様ともあろうお方のお言葉とも覚えやせん。さて、鐚儀
びたぎ
、今日の推参の次第と申しまするは、決して色の酒のと野暮
やぼ
諫言立
かんげんだ
てのためにあらず――近来稀れなる風流の御相談を兼ねて参じやした」
「風流――風通
ふうつう
の間違いだろう、風通の一枚もこしらえたいが、銭がねえというところだろう」
 主膳も、いささかアクドイ応酬を致しましたが、鐚に於ては洒唖乎
しゃああ
たるもので、
「どう致しやして、衣食足って礼節を知る、古人はいいところを言いやした、鐚儀が不肖ながら食物は今朝アブ玉で、とんとお腹いっぱいこしらえて参じやした、食の方は事足りて余りあり、衣の方に於きましては、これごらんあそばせ、上着が空色の熨斗目
のしめ
で日暮方という代物
しろもの
、昼時分という鳶八丈
とびはちじょう
の取合せが乙じゃあございませんか。それにこれ下着が羊羹色
ようかんいろ
の黒竜門、ゆきたけの不揃
ふぞろ
いなところが自慢でげして、下がこうごうぎと長くて、上へ参るにつれてだんだんに短く、上着は五寸も詰った、もえるのツンツルテン、舶来飛切りでげすよ、羽織がこれ萌黄
もえぎ
紋綾子
もんりんず
で、肩のあたりが少々
きた
っておりまする」
「うむ、なるほど、田舎の貧乏医者という衣裳づけだ、熨斗目が利いているよ」
「かくの通り、衣食足って礼節は、本来ビタの
にあることなんでげす、現に殿様の御身の上の栄枯盛衰にかかわらず、かくまで忠義の志をかえぬことによって充分に御賢察が願いたい――衣も足り、食も足り、懐ろ工合の方も、当節は異人館出入りのために外貨獲得てやつが成功いたしやして、至極豊かでござりやす、かくて最後に
きた
るものが風流――その風流の御相談に参じやした」
「まあ、言ってみろ」

せつ
のお出入りの旦那に三一小僧
さんぴんこぞう
というのがござりやして、その旦那が近頃、和歌に凝り出したと思召
おぼしめ
せ」
「和歌――歌だな」
「いわゆる、みそひともじなんでげす。その旦那が次のような歌をお
みになりまして、鐚、どんなもんだ、点をしてくれろとおっしゃる、内心ドキリと参りましたね、実のところ、鐚も十有五にして遊里にはまり、三十にして身代をつぶした功の者でげして、その
かん
、声色、物まね、潮来
いたこ
、新内、何でもござれ、悪食
あくじき
にかけちゃあ相当なんでげすが、まだ、みそひともじは食べつけねえんでげすが、そこはそれ! 天性の厚化粧、別誂
べつあつら
いの
つら
の皮でげすから、さりげなくその短冊を拝見の、こう、首を少々横に
ひね
りましてな、いささか平貞盛とおいでなすってからに、これはこの新古今述懐の――むにゃむにゃと申して、お見事、お見事、ことに第五の句のところが何とも言えません、と申し上げたところが、ことごとく旦那の御機嫌にかなって、錦水を一席おごっていただきやしたが、実のところ、鐚には歌もヌタもごっちゃでげして、何が何やらわからねえんでげす、後日に至りやして、三一旦那から再度の御吟味を仰せつかった時にテレてしまいますでな、どうか、その御解釈のところを篤と胸に畳んで置きてえんでございます。これがその三一旦那から頂戴に及んだ短冊でげして」
「そうか、貴様が贔屓
ひいき
になる三一旦那というのが和歌を詠んで、貴様に見せた、和歌の和の字も知らない貴様も、旦那のものだから無性に
めて置いたが、中身は何だか一向わからん、それで後日糺問
きゅうもん
されると困るから、一応おれに見て講義をして置いてくれというわけだな」
「まさに仰せの通り――鐚儀、お弟子入り、お弟子入り」
「どれ見せろ」
と神尾主膳が、鐚の手から短冊を受取って、それを上から読みおろしてみると、
かながはで、蒸気の船に打乗りて、
 一升さげて、南面して行く

「何だ、これは」
 神尾が、
はばはだ
しく不興な面をして、短冊をポンと
ほう
り出したものですから、鐚があわててこれを拾い上げて後生大切に袖で持ち、
「めっそうな! 大尽
だいじん
のお墨附! めっそうな」
 仰々しく取り上げて、恨み面にじっと主膳の面を見上げていると、
「貴様の贔屓を受けている三一旦那とやらは、いったい何者だ!」
 主膳が、怒鳴りつけるように一喝
いっかつ
したその調子が変ですから、鐚があわてて、逃げ腰になりました。
「三一旦那、当時舶来、エレキ屋の三一旦那! 大したもんでげす、商業界きってのお大尽でげす」
「貴様にとっちゃ旦那かお大尽か知らないが、その歌のザマは何だ、そんなものが、人に見せられるか、人を愚弄
ぐろう
するにも程のあったもんだ」
「イケやせんか、なっとりゃせんか、和歌の法則から申しますと」
「馬鹿、和歌も詩歌もあるものか、そんなものを、よく人中へ出したもんだ、こっちへよこせ、
みくちゃにして火鉢にくべてやる」
「じょ、じょうだんでげしょう、ドル旦のお大尽のお墨附! 愚拙が家の家宝――何とあそばします」
 神尾の余憤は容易に去らない。冗談にしろ、和歌を持って来たから直してくれとか、評をしてくれとかいうことになると、なあに、この野郎がもたらすものだと軽蔑しながらも、その風流のやや向上気味なるを取らないでもないが、もたらしたその三一旦那
さんぴんだんな
の歌というやつが、茶漬にもならない代物
しろもの
だから、主膳もおのずから不興になったので、その不興が相当真剣になっているので、
びた
も多少怖れている。
「そりゃ、あなた、お大尽と申しやしたところで、根が町家の商人のことでげすから、高家
こうけ
歌よみ家のようなわけには参りません、町人のお大尽でも、このくらいの風流があるというところも買っていただかなけりゃ。あなた、三一旦那は定家卿
ていかきょう
でも、飛鳥井大納言
あすかいだいなごん
でもございません、そう、殿様のように頭からケシ飛ばしてしまっては、風流というものが成り立ちません、第一、初心のはげみになりませんから、何とか一つ、そこは花を持たせていただきてえもんでござんして」
「黙れ黙れ! 言語道断の代物だ――笑って済むだけならまだいいが、見て嘔吐
へど
が出る、ことに、第五句のところ……」
「そこでげす!」
「そこが、どうした」
「鐚がそこを
めやしたところが、ことごとくお大尽のお気にかないました」
「馬鹿野郎!」
「これは重ね重ねお手厳しい、そういちいち、馬鹿の、はっつけのと、あくたいずくめにおっしゃっては、風流が泣くではございませんか、第一殿様の御人体
ごにんてい
にかかわります、お静かにおっしゃっていただきてえ」
「その第五句の南面という言葉がはなはだ穏かでない、町人風情のかりそめにも用うべからざる語だ」
「へえそんなたいそうな文句を引張り出したんでげすか」
「南面というのは天子に限るのだ、この文句で見ると、三一旦那なるものは、何か蒸気船に乗って南の方へでも出て行く門出のつもりで、こいつを
うな
り出したものだろうが、南面して行くとは、フザケた言い方だ、勿体ないホザき方だ――ただ笑うだけでは済まされない、不敬な奴だ!」
「へえ――大変なことになりましたな」
「これ、ここへ出ろ、鐚、おれはこう見えても――物の分際ということにはやかましい、
せても枯れても神尾主膳は神尾主膳だ、鐚は鐚助――三一風情がドコへ行こうと、こっちは知ったことではないが、南面して行くとホザいたその僭越が憎い! おれは忠義道徳を看板にするのは嫌いだが、身知らずの成上り者めには癇癪が破裂する、よこせ!」
と言って神尾主膳は、鐚の油断している手から大事の短冊をもぎ取って、寸々
ずたずた
に引裂いて火鉢の中へくべてしまい、
「あっ!」
と驚いて、我知らず火鉢の中をのぞき込む鐚の横っ面を、イヤというほど、
「ピシャリ」
「あっ!」
 鐚助、みるみる
れ上る頬っぺたを押えて、横っ飛びに飛んで玄関から走り出しました。
山科の巻 六十五
 ビタをハリ飛ばしておいてからの神尾主膳は、その足で台所へ行って、膳棚の上から備前徳利を一つ取り下ろして振り試みると、まだカタコトと若干の音がする。それをそのまま
げて、次に相馬焼の癖直しの湯呑のようなのを取り下ろし、再び以前の書斎へ戻ってホッと一息つき、その備前徳利から、ちょうど相馬焼に一ぱい分残った残滴を
んで、咽喉
のど
をうるおしながら、以前の書物の丁を追いました。
「アル時、橋本庄右衛門ヘ妙見ノ帰リガケニ行ッタラ、殿村南平トイウ男ガ来テ居タカラ、近附
ちかづき
ニナッタガ、ソノ男ガ云ウニハ、オマエ様ハ天府ノ神ヲ御信心ト見エマスガ、左様デ御座リマスカト云ウカラ、年来妙見宮ヲ拝ストイッタラ、左様デ御座リ
ます
、御人相ノ天帝ニアラワレテオリマスト云イオル、ソレカライロイロ
はな
シテイルト、奇妙ノコトヲ種々咄スカラ、ヨク聞イタラ、両部ノ真言ヲスルトイウカラ、面白イ人ダト思ッテイタラ、橋本ガ親類ノ病人ノコトヲ聞イタラ、ソノ死霊ノ者ハ男ダト云ッテ、年カッコウ、ソノ時ノ死ニヨウマデ、ツブサニ見タヨウニ云ウカラ、橋本ニ聞イタラ、ソノ通リダト云ウカラ、大キニ恐レテ、弟子ニナリタイト頼ンダラ、随分法ヲ教エテヤロウト挨拶スルカラ、ウチヘ連レテ来テソノ晩ハ泊メタ、ソレカラ真言ノコトヲイロイロ教エテ、先ズ稲荷ヲ拝メトテソノ法ヲ教エタ、病人ノ加持ノ法又ハ摩利支天ノ鑑通ノ法、修行術種々、二カ月バカリニ残ラズ教エテクレタ、ソレカラコノ南平ハボロノナリ故、色々入用
いりよう
ヲカケ、謝礼旁々
かたがた
一年半バカリニ四五十両カケタ、本所デモ大勢弟子ガ出来テ、シマイニハ弥勒寺ノ前ノ小倉主税ト云ウ仁ノ屋敷ヘ住ンデイタ、日々、病人、迷人、ソノホカ加持祈祷ヲシ、御番入リノ祈祷ヤ何ヤイロイロ諸方ヨリ頼ンダガ、オレガ初メ見出シタ故ニ、南平モ
よろこ
ンデ、オレノコトイロイロ骨折リヲシテクレタ」

 野郎いよいよ千三屋
せんみつや
だ、今度は御祈祷屋を開業――と神尾は註を入れて読み出すと、
「近藤弥之助ノ内弟子ノ小林隼太モ、トウトウオレノ家来ニナツタカラ――」

 近藤弥之助というのは、やっぱり幕下
はたもと
で、今時指折りの剣術遣いの一人で、そいつの内弟子の小林という奴、前にも相当の代物であった、こいつも、いよいよ勝の馬鹿親爺の弟子となったと見えるな、しかし、どういう了見
りょうけん
だか知れたものではない――
「毎日毎日来テ、イロイロト奉公ヲシタガ、ウチガナイ故、浅草ノ入屋ニテカナリノ家作ガアルカラ買ッテヤッタ、剣術仲間ヘ頼ンデ稽古場ヲ出シテヤッタ、下谷ムレガヒイキニシテクレル故、内職ニハ大小売買ヲシテイタガ、シマイニハ金廻リガヨクナッテ、フダン身ノ上ノ世話ヲシオッタガ、悪ガシコイ奴デ、仲間ハ皆ンナガイロイロハグラカサレタ、江戸ヲ三度借倒シテ三州ヘ行キオッタガ、オレニハイツモ
はな
シテ逃ゲタ、又江戸ヘ出ロトイッテモ、オレガ手紙ヲ附ケテ、仲間中ヘ借倒シノワケヲシテヤルト、ミンナガ損ヲシタコトハソレナリニシテクレタ、トウトウ七八十両ノアビセデ三州ヘ行キオッタガ今ニ帰ッテ来ヌ、三州デドウニカ人間ニナッタト云ウコトダ、ソレハオレガチョウシヘ行ッタ時、向島ノ兼ト云ウ男ニ聞イタ、兼ガ遠州ノ秋葉ヘ参詣シタ時ニ、鳳来寺ニテ逢ッタト、ソノ時ハ綺麗
きれい
ノナリデ居タト、オレノハナシヲシテ、二時
ふたとき
バカリ休ンデ居テ別レタト聞イタ」

 こいつ同病相憐み、自分が自堕落だから、自然、相当に自堕落の世話もするところが妙だ。
「或日、小倉主税ノ宅デ、神田黒川町ノ仕立屋ニ逢ッタガ、コイツハ、カゲ
とみ
ノ箱屋ヲスル奴ダガ、オレガ懇意ノ徳山主計トイウ仁ガ、至ッテ富ヲ好キデ、南平ニ富ヲ頼ンダ故ニ、今日ハ富ノ日ダカラ寄加持
よせかじ
ヲスルトッテ、主税ノ宅ヘ大勢ソノムレガ寄ッテ来テ、ヨセ加持ヲ始メヨウトスル時、オレガ知ラズニ行ッタラ、大勢
そろ
ッテイルカラ、様子ヲ聞イタラ右ノ次第ヲ
はな
ス故、ソノ席ニイテ始終ノ様子ヲ見タラ、南平ガ女ヲ呼ンデ、種々
いの
ッテ護摩ヲタイテカラ、女ノ中座
なかざ
ニ幣束ヲ持タセテ神イサメヲシテ、少シ過ギルト、女ガ口バシリデ、今日ハ六ノ大目、当リハ何番ノ何番ト云ウ故、一同ガ嬉シガッタ、ソレカラ上ゲテ仕舞ウカラ、南平ヘオレガ云ウニハ、ハジメテ見テ恐レ入ッタ、シカシ是レハ随分出来ルコトダロウト云ッタラバ、仕立屋メガ直グニ口ヲ出シテ、勝様ガ仰セデハアルガ、ナカナカ容易ニハ寄加持ハ出来ヌ、ソノ訳ハ
ことごと
ク法ガ有ルト云イオルカラ、ソレハ
もっと
モダガ、ヨクツモッテ見ロ、南平ハ何処
どこ
ノ馬ノ骨ダカ知ラナイガ、アノ通リスルガ、オレハ生レナガラ御旗本デ身分モ尊シ、ソノオレガ一心ヲ誠ニシテ寄セタラ、神ハ
すみや
カニ納受ガ有ロト思ウ故ニ云ウノダ、南平ニ聞クニ、オノシガ出過ギタコトヲイウトハ失礼ダト叱ッタラバ、仕立屋ガ云ウニハ、ソレハアナタガ御無理ダ、神事ニハ法ト云ウ物ガアリマストテ、イロイロヌカス故、オレガ座敷ノ真中ヘ出テ、先ズ論ハ無益ダカラ、手前ハ自分ノ前ヘ出テ礼ヲシロ、許スト云ワヌウチニ手前ノ額ガ上ッタラ、オレハ直チニ手前ノ飯焚ニナロウカラ、サア来イトイッタラ、大勢ガケンマクヲ見テ取リ、イロイロ挨拶スルカラ、ソレハ許シタガ、何シロソレホド出来様ト思ウナラ直グニ寄加持ヲシテ見ロトイウカラ、水ヲ浴シテ、先ノ女ヲ呼ンデ祈ッタラ、南平ガシタ通リイロイロ口走リオッタカラ、仕舞ッテカラ高慢ヲ云ッテ帰ッタガ、ソレカラミンナガ、南平ヘ頼ムト金ガイル故、オレニバカリ頼ンダ、徳山ノ妹ヲ一度南平ニ寄セテクレロト主計ガ頼ンダラ、生霊ガ附イテアルカラ、二三日ソノ生霊ヲハナサナケレバナラヌ故、金五両ホドカカルト云ッタカラ、同人ガオレニ
はな
ス故、三晩カカッテ放シテヤッタ、ソレカラ南平ハオレヲ恨ンデ仲ガ悪クナッタ、カゲ富デモ九十両、徳山ト一所ニトッタ、ソレヨリ、十、二十位ハ幾度モ取ッタコトガアル」

 千三屋
せんみつや
が、骨董
こっとう
の仲買から御祈祷師、こんどは
とみ
の当り屋とまで手を延ばしたが、相当成功するところが妙だ。九十両も一度にとり込み、十両、二十両は朝飯前ということになってみると、この商売も乙だ、おれも一つこの手をやろうか――なんぞと神尾も妙に気を廻したが、勝や男谷と違って、同じ旗本でもおれは格が違う、そんな真似ができるかと一喝
いっかつ
し、読みつづける。

ぎょう
ハイロイロシタガ、落合ノ藤イナリヘ百日夜々参詣シ、又ハ王子ノイナリヘモ百日、半田稲荷ヘモ百日参シタ、水行ハ神前ニ桶ヲ置イテ百五十日三時ズツ行ヲシタ、シカモ冬ダ、ソノ間ニハ種々ノコトガ有ッタガ、ココヘハ漏ラシタ、断食モ三四度シタガ出来ヌト云ウコトハナイモノダ」

 こいつは断然おれにはできぬと、神尾が考えました。ここにはこともなげに書いてあるが、冬の最中に、百日も百五十日も水行
みずぎょう
をする、そういうことは、剣術遣いの勝なればこそやれるが、おれにはできぬ、なかなか荒行をやる。本来、この自叙伝には、乱暴、喧嘩、かけおち、すいきょう、座敷牢、千三屋、ロクでもないことには多分に紙筆を費しているくせに、自分の修業のことになると、あんまり書いていないようだが、勝のおやじとても、そうロクでないことばかりではない、本職の剣術をはじめ、相当の鍛錬を積んでいるはずだ。それを事々しく書かないで、馬鹿を尽したことばかり書いてあるから、ややもするとそこんところを見損う。今となって、こういう行を平気で行い、出来ヌト云ウコトハナイモノダ――とホザくところはただののらくら者ではあり得ない。その
せがれ
の今の勝麟も、相当修行鍛錬したことを自慢にするそうだが、親父のそういういい方面ばかり真似たから、それで
とび

たか
を生むようになったのだろうと、神尾が考えました。それから次は、
「地主ニ代官ヲ先代ヨリ勤メタ故、役所ノ跡ガアイテイル故ニ、水心子天秀トイウ刀鍛冶ノ孫聟
まごむこ
ニ水心子秀世ト云ウ男ヲ呼ンデ、役所ノ跡ヘ入レテ刀ヲ打ッタ、又、研屋
とぎや
ニ、本阿弥三郎兵衛ト云ウノノ弟子ニ仁吉ト云ウ男ガ研ガ上手ダカラ、呼ンデオレノ住居ヲ分ケテ、刀ヲ研ガシテオレモ習ッタ、ソレヨリ刀剣講トイウモノノ事ヲ工夫シテ、相弟子ヤ心易
しりあ
イニ出シテ取出立テ、秀世又ハ細川主税正義、並ビニ美濃部大慶直税、神田ノ道賀又ハ梅山弥曾八、小林真平、ソノ時代ノ刀鑑
かたなめきき
ヘ残ラズ刀剣講ヲ取立テヤッタガ、或日千住ヘ行ッテ胴ヲタメシタガ、ソレカラ浅右衛門ノ弟子ニナッテ、上段切リヲシテ遊ンダ、息子ハ御殿ヘ上ッテイルカラ世話ハ無カッタ、息子ガ七歳ノ時ダ」

 御祈祷師、富籤屋
とみくじや
から刀剣講、それから首切浅右衛門まで来た。やれば仕事はあるものだ。
「地主ガ小高デ貧乏
ゆえ
、借金取ガ来テ困ルトイウカラ、引受ケテ片ヲ附ケテヤッタガ、ソレカラ地面ウチノ地借ガ九軒有ッタガ、地代モ宿賃モロクロクヨコサヌカラ、ミンナタタキ出シテ、オレガ懇意ノ者ヲ呼ンデ置イタカラ、ソノ後ハ地代ソノ外滞ラヌカラ悦ンデ、ヤイヤイ云イ居ッタ、地主ガ或日御代官ヲ願ウカラ異見ヲイッテヤッタラ大キニ腹ヲ立テ、葉山孫三郎トイウ手代ト相談ヲシテ、オレヲ地面カラ追出ソウト云ッタカラ、オマエハ最早五十年ニオナリニナサルカラ、御代官ハ御止メナサレトイッタラ、ナゼト云ウカラ、御代官ニナルニハ、先ズ始メハ千両バカリイッテ、ソレカライロイロ家作モ大破ダカラ、弐百両半モイルシ、皆サンガ支度ニモ百両トシテ、モシモ支配ヘ引越シデモスルト百両半モカカル故、弐千両ノ借金ガ出来ルカラ、ソノ上ニ元〆《もとじめ》ガ悪イト引責モ出来テ、ドノヨウニ倹約ヲシテ勤メテモ、三十年ハ借金ヲ抜クニカカル故、子孫ガ迷惑シテ、ソノ勘定ガ立タヌト遠流
おんる
又ハ断絶ニナルカラ、決シテ働キノナイ者ガ勤メル役デハナイト云ッタラ、ウチジュウガオコッテ、地面ヲ返シテクレロトイイオルカラ、地面中ヘ触レテ、不足ノ地代宿代ヲ残ラズ集メテ、オレガ懐ヘ入レテイテ、ノキ場所ヲ見附ケルニ折悪
おりあ
シク脚気ニテ、久シク煩ッテイタ故、歩クコトガ出来ヌカラ、人ニ頼ンデ漸々
ようよう
入江町ノ岡野孫一郎トイウ相支配ノ地面ヘ移ッタガ、ソノ時オレハ、地主ヘ地返シスルノ礼ニ行ッテ――」
山科の巻 六十六
 いよいよ地面立ちのきを食ったな。しかし、世渡りをしただけに、目先の見えるところもある――
「御代官ニナッタラ五年ハ持ツマイカラ、ドウデ御心願ガ成就ナスッタラ、シクジラヌヨウ専一ニ成サレマシ、ソレハ云ウコトガ違ッタラ生キテハオ目ニカカラヌ、ト云ウタラ、ナゼダ、ト云ウカラ、葉山ノ成立チヲアラマシ云ッテ帰ッタガ、案ノ定、四年目、甲州ノ騒ギデシクジリ、江戸ヘ行ッテ小十人組ヘ組入リヲシタガ、三千両ホド借金出来テ、家来モ六ツカシク、大心配ヲシテ、オマケニ、葉山ハ上リ屋ヘ行ッテ三年程カカッタガ、気ノ毒ダカラ、オレガ一度尋ネテヤッタラ、オマエノ異見ヲ聞カヌ故ニコウナッタガ、ドウゾ家ハ助ケタイモノダト云ッテ涙グンダカラ、カアイソウダカラ、段々ト葉山ガ始末ヲ聞イテ、甲州ノ郡代ヘヤル手紙ノ下書ヲ書イテ、是ヲ甲州ヘ遣ワシテ、コウシロ、大方奇徳人ガダマッテハイヌマイ、五百ヤソコラハ出スダロウト教エテヤッタラ、キモヲツブシタ顔ヲシテ、早々甲州ヘ届ケタ、ソノ後マモナク六百両金ガ出来タカラ家ヲ立テタガ、今ハ三十俵三人扶持ダカラ困ッテイル、江戸ノカケヤニモ千五百両バカリ借ガアル故、三人扶持ハ向ケキリニナッテイル、ソレ故ニ子供ガ月々、今ニオレヲ尋ネテクレル、ソレカラトウトウシマイニハ小普請入リヲサセラレテ百日ノ閉門デ済ンダ、ソノ時ノ同役ノ井上五郎右衛門ハ、トウトウ改易
かいえき
ニナッタ、葉山モ江戸ノ構エヲ喰ッタヨ」

 お代官になるもまたつらい
かな
だ!
「岡野ヘ引越シテカラ段々脚気モヨクナッテ来タカラ、息子ガ九ツノ年御殿カラ下ゲタガ、本ノケイコニ三ツ目所ノ多羅尾七郎三郎ガ用人ノトコロヘヤッタガ、或日ケイコニ行ク道ニテ病犬
やまいぬ
ニ出合ッテ、キン玉ヲ喰ワレタガ……」

 息子というのは今のその利け者の勝麟のことで、稽古にいく途中、病犬に食われた、江戸は犬の多いところだが、病犬はあぶない、食われるに事を欠いて、キン玉を食われたんでは只事
ただごと
でないと、神尾が思いました。
「ソノ時ハ、花町ノ仕事師八五郎ト云ウ者ガウチヘ上ッテ、イロイロ世話ヲシテクレタ、オレハウチニ寝テイタガ、知ラシテ来タカラ飛ンデ八五郎ガ所ヘ行ッタ、息子ハ蒲団
ふとん
ヲ積ンデ、ソレニ寄リカカッテイタカラ、前ヲマクッテ見タラ、玉ガ下リテイタ故、幸イ外科ノ成田ト云ウ人ガ来テイルカラ、命ハ助カルカト尋ネタラ、六ツカシク云ウカラ、先ズ
せがれ
ヲヒドク叱ッテヤッタラ、ソレデ気ガシッカリトシタ様子故ニ、駕籠
かご
デウチヘ連レテ来テ、篠田トイウ外科ヲ地主ガ呼ンデ頼ンダカラ、キズ口ヲ縫ッタガ、医者ガフルエテイルカラ、オレガ刀ヲ抜イテ、枕元ヘ立テテ置イテ
りき
ンダラ、息子ガ少シモ泣カナカッタ故、漸々縫ッテ仕舞ウタカラ、様子ヲ聞イタラ、命ハ今晩ニモ受合ハ出来ヌト云ッタカラ、ウチ中ノ奴ハ泣イテバカリイル故、思ウサマ小言ヲ言ッテ叩キチラシテ、ソノ晩カラ、水ヲ浴ビテ、金比羅
こんぴら
ヘ毎晩裸参リヲシテ祈ッタ、始終オレガ抱イテ寝テ、外ノ者ニハ手ヲ附ケサセヌ、毎日毎日アバレ散ラシタラバ、近所ノ者ガ、今度岡野様ヘキタ剣術遣イハ、子ヲ犬ニ喰ワレテ気ガ違ッタト云イオッタ位ダガ、トウトウキズモ直リ、七十日目ニ床ヲハナレタ、ソレカラ今ニナントモナイカラ、病人ハ看病ガカンジンダヨ」

 ここまで読んで来た時、神尾主膳の目頭
めがしら
が熱くなってきました。今までは冷笑気分、興味本位だけで多分を読んで来たが、ここでは目頭が熱くなったものですから、その眼を上げて座敷の一方を見つめました。
「ここだよ、馬鹿は馬鹿で、箸にも棒にもかからない奴も、子を見る心はまた別だな、親の心というものは実際こうしたものだろうよ、あれほど自分を粗末にし、世間を粗末にした奴も、子供のことであってみると、気違いになる。この愛情があればこそだ、今の勝が、安房守
あわのかみ
と任官して、まあ当代の傑物として、幕府を背負って立とうとか、立つまいとか言われるようになったのは、そもそもこの親の気違いから起っているのだ、倅のために実にいい親を持ったものだと、ここではじめて感心しなければならぬ」
 これに引比べて、おれは親の愛情というものを知らない。父が早く世を去ってしまった。今日の、このうだつの上らない、骨までやくざ者と化したのは、一にこの父親の愛情が恵まれなかったからだ――
 ということを、神尾主膳がそぞろ心に思い起して来ると、世間の親の有難さということに目頭
めがしら
が熱くなってくる。そうして、人生のいかなる不幸も、親の愛を知らないほどの不幸はなく、人生のいかなる幸福も、親の愛を受けるの幸福にまされるものはない、ということを、神尾主膳が心魂に徹して思い出してきました。
 不思議にも熱くなった目頭から、うるおってくる瞳で、なお巻を読み進めて行く。
「親類ノ牧野長門守ガ山田奉行ヨリ長崎奉行ニ転役シタガ、ソノ月、水心子秀世ガ云イ人デ、虎ノ門外桜田町ノ尾張屋亀吉トイウ安芸ノ小差ガ、牧野ノ小差ニナリタガッテ、オレニ頼ンダ故、世話ヲシテヤロウト云ッタラ、金ヲ五十両持ッテ来テ、是デ牧野様ガ御好ミノ物ヲ買ッテ上ゲテクレロト云ウカラ、イロイロ牧野ノ息子ヘ品物ヲヤッタガ、一日オソクテ外ノ者ガナッタカラ、尾張屋ハ鼻ガアイタ故、気ノ毒ダカラ、残リノ金ヲバ返スト言ッタラ、ソレハ水金デゴザリマスカラ御遣イナサレマセトテ三十両バカリ呉レタトコロ、ソノ後ニ久セガナッタ故、世話ヲシテヤロウトオモッテ呼ビニヤッタラ、亀吉ハ
ウニ死ンダトイウカラ、ソレキリニシタッケ」

 千三屋
せんみつや
どの、今度は慶安
けいあん
をかせぎ出したな、よく小まめに働くことだ――
「地主ノ当主ガドウラク者デ或時、揚代
あげだい
ガ十七両タマッテ、吉原ノ茶屋ガ願ウト云イオッテ困ッタガ、フダンカラ誰モ世話ヲシナイ故、オレニ頼ンダ、オレハ昨今ノコトダカラ知ラズ、金ヲ工面
くめん
シテ済マシテヤッタガ、ソノ後モ五両ニ壱分ノ利ヲ七十両借リテ女郎ヲ受ケタガ、皆済目録トカヲ代リニヤッタトテ、用人ヤ知行ノ者ガ困ッテイル故ニ、又オレニ頼ンダカラ、諸方ノ道具屋ヨリ来テイタ大小ヤラ、道具ヤラ、イロイロコンタンヲシテ取返シテヤッタガ、イチエンソレヲ返サヌカラ、オレガ困ッテ、諸方ヘ段々ト返シタガ、ソレカラ万事、金ノ融通ガ悪クナッテ困ッタ、ソレニツキ合イガハルカラ大迷惑ヲシタ、ソノ当分ハイロイロ道具ヲ売ッテ取リツヅイタガ、段々物ガ尽キルカラ、シマイニハ武器ヲ払ッタガ、年来丹精ヲシテ
こしら
エタモノ故、惜シカッタガ、仕方ガナイ故、残ラズ売ッタガ、拵エル時ノ半分ニモナラナイモノダ、シマイニハ四文ノ銭ニモ困ッタ、全ク地主ニ立替エタ故ダ」

 それそれ、見たことか、顔役、千三屋も限度というものがある。いい気になって人の世話を焼いていると、今度は身が詰って来るは火を見るようなものなのだ。ツキ合イガハルカラ大迷惑――それが当然の成行きで、それから身のつまりになるのは、我も人も変ったことはない――
「ソレカラ或晩、地主ノオマエサマガ忍ンデ来テ云ウニハ、孫一郎ガフシダラ故ニ、家内中ハ困ルカラ、支配向ヘ話シテ隠居サセテクレロト云ウカラ、取扱エモ
はな
シタラ、オマエ様ヨリ証拠ノ文ヲ取ッテ来イト云ウカラ、ソノ事ヲ咄シテ、文ヲ取ッテ、長坂三右衛門ヘ見セタラ、
かしら
ノ長井五右衛門ヘ始終ヲ咄シテ、支配カラ隠居シロト云ッテ出タカラ、孫一郎モ何トモ云ウコトガ出来ズニ隠居シタガ、後ノ孫一郎ハ十四ダカラ、ミンナオレガ世話ヲシテ、家督ノ時モ一緒ニ御城ヘ連レテ出タ、先孫一郎ハ隠居シテ江雪ト改メテ剃髪
ていはつ
シタ、ソレカラ家来ノコトモミダラニナッテイルカラ、家来ニ差図シテ、取締方万事口入レシテ取極メヲツケテヤッタラ、程ナク又々隠居ガ、岩瀬権右衛門トイウ男ヲ用人ニ入レテ、イロイロ悪法ヲカイテ、権右衛門ヘ給金弐拾両ニ弐拾俵五人扶持ヤッテ好キノコトヲシオルカラ、ウチジュウガ寄ッテ頼ム故ニ、頭沙汰ニシテ、権右衛門ヲ追出シテ、外ノ用人ヲ入レタ、ソノウチニ後ノ孫一郎ノオフクロガ死ヌ故、隠居ガマタマタモクロミヲシタカラ、ソノ時モ、ソノ一件ヲ片附ケテヤルシ、ソノ後、江雪ガ女郎ヲ引受ケ連レテ来タ時モ世話ヲシテ、柳島ヘ別宅ヲ拵エテヤッタ、ソレカラ一年バカリタッテ、江雪ガ大病故ニ、イロイロ世話ヲシタガ、ソノ時ニ、オレニ云ウニハ、今度ハ快気ハオボツカナイカラ、
せがれ
ノコトハ万端頼ムカラ、嫁ヲ取ラシテ後、御番入リスルマデハ必ズ見捨テズニ世話ヲシテクレト云ウカラ、聞届ケタト挨拶ヲシタカラ、悦ンデ翌日死ンダカラ、又々世話ヲシテ、残リ無ク後ヲ片附ケタガ、世間デ岡野ト云ウト、誰モ嫁ノ呉レテガ無イカラ、麻布市兵衛町ノ伊藤権之助ガ嫁ヲ貰ッテヤッタ、オマエ様ガ云ウニハ、何モ持ッテキテガナイカラ、何ニモイラヌト云ウカラ、権之助ヘオレガ掛合ッテ百両ノ持参デ、諸道具モ高相応ニシテ貰ッタカラ、知行所ノ百姓モキモヲツブシテ、私共二三年諸方ヘ頼ンデ奥様ノコトヲ骨ヲ折ッタガ、岡野ト聞クト皆々破談ニナリマシタガ、御蔭デ殿様初メ一同安心シテ悦ビマス、殊ニハ御持参金モアルシ有難イト云イオッタ、ソレ迄ハ千五百石デ道具ガ一ツ無クッテ、大小マデモ逢対
あいたい
ノ時ニ借リテ出ル位ダカラ、世間デ呉レナイモ
もっと
モダト思ッタ、ソレカラ普請ガ大破故、武州相州ノ百姓ヲ呼ビ出シテ、家作モ直シ、大勢ノ厄介ノ身上マデ拵エテヤッタ、当主ノ伯父ノ坊主デイタ仙之助ト云ウ男ニモ、地面内ヘ家作ヲシテ、
めかけ
マデ持タシテヤッタラ、家内ノ者ガオレヲ神様ノヨウニ云イオッタ、暮シ方モ百両故、三百三十両ノ暮シニシテ、厄介ヘモソレゾレ壱カ年アテガイヲ附ケテ稽古事デモ出来ル様ニシテ、馬迄買ワシ、千五百石ノ高位ニハ少シ過ギル位ニシテヤッタガ、何ヲイウニモ借金ガ五千両バカリアル故、コラエガ馬鹿ノ者ニハ出来ヌ」

 これはまた、神尾にとって少々耳――ではない、目が痛い。千五百石となると、もう小身の部ではない、おれの分限にも近くなってくるし、当主という奴の身持が、おれの伝だ。他人のことにして見ると、歯痒
はがゆ
いばかりの馬鹿揃いだが、自分のことには、さっぱりお気がつかない――結局、この神尾主膳にも、誰も嫁のくれ手がなくておしまいだ。嫁さがしで江戸を構われただけではない、甲州まで行って、有野の娘でもしくじったわい。でも、この岡野とやらには、勝のおやじのような出しゃばり屋の千三式の肝煎
きもいり
が出来て、ひとまず成功したが、おれの方にはソンナのが現われなかった――
山科の巻 六十七
 こうして顔を広くし、人の面倒を見てやっては男を売るというような立場になると、どのみち、行詰まるのは運動費だ。本来、金のなる木を持っているわけではなし、千三屋というものは、千に三つしか当らないわけのものだろう。当った時の
もう
けは、
はず
れた数の損耗で、とうにさっぴきがついている。勝のおやじ、この経済の打開をどうするか。そこは神尾が今日までの体験の持越しで、今以てうだつが上らないのみか、ますます深みへ落ちて行く勘所
かんどころ
だ。それを、このおやじが最後まで、どう切抜けるかと、経済眼を以て読みつづけて行くと、果せる
かな
だ。
「オレハ次第ニ貧乏ニナルシ、仕方ガ無イカラ妙見宮ヘムリノ願ヲカケテ、今一度困窮ノ直ルヨウニト、百日ノ行ヲハジメタガ……」

 それ見たことか、
かな
わぬ時の神頼みだ。だが、かなわぬ時に至って、はじめて神頼み、仏いじりをはじめるところが可愛らしくてよろしい。おれなんぞ、ついぞ今日まで、神頼みも、仏いじりもしなかった、する気にもならなかった、今更、頼んだって、いじったって、かまってくれる神仏もあるまいに――と苦笑……
「日ニ三度ズツ水行ヲシテ、食ヲスクナクシテ祈ッタガ、八九十日タツト、下谷ノ友達ガ寄ッテ、久シクオレガ下谷ヘ来ナイトテ、ナゼダロウト云ウト、オレノ家来分ノ小林隼太ガ、此頃ハ貧乏ニナッテ弱ッテイルト云ッタラ、皆ンナガ、気ノ毒ナコトダ、今迄イロイロ世話ニモナルシ、恩返シニハ少シデモ無尽
むじん
ヲシテ、掛捨テニシテヤロウカ、ソウ云ッテハ取ラヌカラ、勝ヲ会主ニスルガイイト相談シテ、鈴木新二郎ト云ウ井上ノ弟子ノ免許ノ仁ガ来テ、オレニ云ウニハ、今度友達ガ寄ッテ遊山無尽ヲ
こしら
エルガ、最早大ガイハ拵エタガ、オマエニ会主ヲシテクレロトイウカラ、ナッテクレロトイウ故ニ、ソレハヨカロウガ、此節ハ困窮シテ中々無尽ドコロデハナイカラ、断ワッテクレト云ッタラ、何ニシロ、オマエガ断ワルト出来ヌカラ加入シロト云ウ、掛金モ出来ヌトイッタラ、ソレデモイイカラトイウ故、承知シタトテ帰シタラ、二三日タッテ、マタ新二郎ガ来テ、帳面ヲ出シテ、金五両置イテ、此後ハ加入ノ人々ガ来ルト云ッテ帰ッタ故、全ク妙見ノ利益
りやく
ト思ッテ、ソレカラ直グニ刀ノ売買ヲシタラ、ソノ月ノ末ニハ、築地ノ又兵衛ト云ウ蔵宿ノ番当ガ頼ンダ備前ノ助包
すけかね
ノ刀ヲ、松平伯耆守ヘ売ッテ十一両モウケタガ、又兵衛モ、ウナギ代トテ別ニ五両クレタ、ソレカラ毎晩、江戸神田辺、本所ノ道具市ヘ出テハモウケスルコトガヨカッタカラ、復々
またまた
金ガ出来ル故ニ、諸所ノコン意ノ者ガ困ルト聞クト、助ケテヤッタ故、ミンナガヒイキヲシテ、イロイロ刀ヲ持ッテ来ルカラ、素人
しろうと
ヨリ買ウカライツモ損ヲシタコトハナカッタ、道具ノ市ニテハモウケノ半分ハ諸道具屋ヘ、ソバ又ハ酒ヲ買ッテ食ワセタユエ、殿様殿様ト云イオッテ、外ノ者ガカッテ物ヲ持ッテ来ルト、前金ニ内通シテクレル故、イチモ損ヲシナカッタカラ、伏ノ市ニハ切者
きれもの
ノモノニ、オレガカサヲアケサセタカラ見損ジテ、三匁ノ物ヲオレガ一分入レルト、カセアケガ段々見テ、勝様ハ三匁五分ト云ウカラ、五分ノ損ダカラヨカッタ、ソノ替リニハ、イツモ仕舞イニハソバヲタトエ五十人来テモ一パイズツニテモ、是非クワセルヨウニシテ帰シタカラ、町人ハ壱文弐文ヲアラソウ故、皆ンナガ悦ンデ、諸所ノ市場ニハ、オレガ乗ル蒲団ヲ一ツズツ拵エテアッタ、友達ガクヤシガッテ、イツモオマエハ、市デハ商人ガハイハイ云ウ、ドウイウ訳ダト云ウカラ、右ノ次第ヲ
はな
シタラ、ソレデハ損ダト皆々云ッタガ、タイソウ得ニナッタ、ソレカラ借金ガ四十俵ノ高デ三百五十両半アルカラ、女郎ヲ買ッタト思ッテ、金ノハイル度々
たびたび
、段々トウチコンダカラ、二年半バカリニ三四十両ニナッタ、コワイモノダ」

 やりくりというものは、窮するが如くして迫らざるところのあるものだ。この窮通ができたのは、妙見様の御利益
ごりやく
ばかりではない、小まめに立働くところが感心だ。おれにはできない――こういう神妙な立ちまわりはおれにはできないと、神尾が
かぶと
を脱ぎながら、
「何デモ施シガ第一ト心得テ近所ハ勿論
もちろん
、困ルト云ウモノニハ、ソレゾレソノ者ガ身ニ応ジテ施シタガ、ソノセイカ、饑饉ノ年ニハ、毎日毎日日々壱朱ズツ小遣
こづかい
ニシテ遊ンダ、友達ヘモ時ノ会ヲ合ワシテヤルシ、毎晩毎晩、道具ノ市ヘ行ッテ勤メダト思ッテ精ヲ出シタ、売物ノブ市トイウ物ヲ百文ニツイテ四文ズツノケテミタガ、三月ノ中ニ三両弐分ト葉銭ガタマッタカラ、刀ヲコシラエタ」

 この辺になると、二宮金次郎はだしだ。感心感心と神尾があしらい――さて、その次には本職の方になってくる。
「剣術ノ仲間デハ、諸先生ヲノケテ、イツモオレガ皆ノ上座ヲシタガ、藤川近義先生ノ年廻リニハ出席ガ五百八十半人有ッタガ、ソノ時ハオレガ一本勝負源平ノ行司ヲシタ、赤石孚祐先生ノ年忘レハ岡野デシタガ、行司取締ハオレダ、井上ノ先伝兵衛先生ノ年忘レニモ頼ミデ諸勝負ノ見分
けんぶん
ハオレガシタ、男谷
おたに
ノ稽古場開キニモオレガ取締行司ダ、ソノ時分ハ万事流儀ノモメ合イ、弟子口論伝受ノ時ノ言渡シ、多分オレバカリシタガ、岡野ハ伝受ノコトハ皆々オレニ聞キ合ワセタ、オレガ下知ニソムク者ハナカッタ、大小ノ
こしら
エ様並ビニ衣服又ハ髪形マデ、下谷、本所ハオレノ通リニシタガ、奇妙ノコトダト思ッテ居ルヨ。
ソノ時分ハ、諸所ノ道場ガ至ッテ義定ガ立ッテイテ、先生トハ同座同席ハ弟子ガシナカッタ、外ノ先生ガ来ルト、直グニ高弟ガ出向イテ刀ヲ取ッテ案内ヲシタ、先生迄モソノ玄関マデ迎イニ出タモノダガ、此頃ハ物ガ乱レテ、知ラヌ顔デカマワヌガ、イロイロノ様子ニナルモノダ、稽古モ稽古場ヘ二組トキマッテイタガ、ソレモムチャニナッテ幾組モ勝負ヲスルヨウニナッタ」

 さてまた、いろいろの肝煎
きもい
り、世話焼きをしてやっているうちにも、恩に着るものばかりはない。
「通リ町ノチチブ屋三九郎ト云ウ者ガ、公儀ノキジカタ小遣モノノ御用足
ごようたし
ダガ、段々家ガ衰エテ来テ、今ハソノ株ガホカニモ出来テ、一向ニ御用モタサズシテ困ッテイルト高田藤五郎トイウ者ガ云ウカラ、段々聞イタラ、此節末姫様ガ薩州ヘ御引移リ故、右ノ御用ガキキタイト云ウ故ニ、オレガ骨ヲ折ッテ、御本丸ノ御年寄ノ瀬山サンヲ頼ンデ、末姫様ノ御引移リノ時ノ師匠番くれないサンヘ頼ンデ御用キキニシテヤッタガ、ソノ前ニ心願ガ出来タラ、紅サンヘ三十両、瀬山サンヘモ礼ヲスル約束故ニ、ソノコトヲ云ッテヤッタラ、紅サンハ大ノ慾バリ故、悦ンデチチブ屋ヘカンサツヲ渡シテ、先ズ七十両ノ御用ヲ申シ渡シタ故、右ノ金ヲヨコセトイウカラ、三九郎ヘ
はな
シタラ、イロイロ難渋ヲ云イオッテ、始メトハ違ッテ、オレノウチヘモ来タ故、三九郎ヲ呼ンデ、世話ノ変替
へんがえ
ヲシタ、ソウスルト早々御用モ下ルシ、カンサツヲ取上ゲハシマイト思ッテイルト、二三日タツトカンサツヲ取上ゲラレテ御用ノ物ハ不用ニナッタカラ、オレノ所ヘカケツケテ夫婦デ来タ、イロイロ云イオッタガ、始末ガカン気ニサワッタ故、ソレナソニシテイタラ、四十両バカリ損ヲシテ、ソノ上ニ大火事ニ焼ケテ裏店
うらだな
ヘハイッテイルト聞イタ、世ノ中ニハ三九郎ノヨウナ者ガ今ハイクラモアルカラ、油断ヲスルトクラウモノダ」
山科の巻 六十八
 さて、これから勝のおやじの生れ家、男谷との間柄を書いてあるが、このおやじは前に言う通り、子供の時分から勝へ養子にやられ、
くだん

ごと
き馬鹿者であるから、成長したからとて、生家の兄貴共をてこずらせること容易でない。
「二番目ノ兄ガ御代官ニナッテカラ、先年三郎左衛門ヘ八両貸シタラ返サヌカラ、男谷デ出会ッテ大喧嘩ヲシテ、兄ハソノ晩逃ゲテ帰ッタガ、ソレカラ十年バカリ絶交シテ居タガ、何トカ思ッタト見エテ、オレノ所ヘ手紙ヲヨコシテ、久々逢ワヌカラ近所ヘ来タカラ尋ネテクレロトイッテ金ヲ二分ヨコシタカラ、亀沢町ヘ行ッテアニヨメニ話シタラバ、先カラ尋ネタラ行クガヨイトイウカラ、直グニ行ッタラ、家中出テイロイロト馳走ヲシテ、彼是トイウカラ、久シク御無沙汰
ごぶさた
ノ段ヲイロイロ云ッテ仲直リ同様ニシテ帰ッタラ、又々、兄ガ女房ヨリ文ヲヨコシテ、オレノ妻ヘ礼ヲイッテヨコシタ、ソレカラ不断尋ネテヤッタ、丁度、支配ガ大兄ノ支配シタ越後水原
すいばら
ニナッタカラ、国ノ風俗人気ノコトヲ聞クカラ、オレガモト行ッタ時ノ様子ヲハナシテ勤向キノコトモ、アラアラシカッタコトハ
はな
シテヤッタ。
ソノ翌年ノ春正月七日、御用始メノ夜ニ、何者トモ知ラズ、狼藉者
ろうぜきもの
ガハイッテ惣領忠蔵ヲキリ殺シタガ、ソノ時、早速ニ使ヲヨコシタ故、飛ンデイッタガ、モハヤ事ガキレタ、翌日心当リガアッタカラ、小石川ヘ行ッタガ立退イタト見エテ知レヌカラ帰ッタ、ソノウチ大兄ニ近親共ガ来テ相談シテ、オレニ当分林町ニ居テクレロト云ウカラ、毎晩毎晩泊ッテ居タ、昼ハ用ガ有ルカラウチヘ帰ッテイテ、ソノ月ノ二十五日ニ、ケンシガ来テ、二十九日ニハ忠蔵ノ妻ト、兄ガ妻ト、忠蔵ノ惣領ノ※[#「月+毛」、117-16]太郎ヲ評定所ヘ呼出シニナッテ、オレト黒部篤三郎ト云ウ兄ガ三男ガ同道人ニナッテイタガ、ソレカラソノコトデ一年ノ内、月ニ二度位ズツ評定所ヘ出タ、或時同所御座敷ニテ大草能登守ガ与力神上八太郎ト云ウ者ト大談事ヲナシタガ、同所留守居ノ神尾藤右衛門、御徒目附
おかちめつけ
石坂清三郎、評定所同心湯場宗十郎等ガ中ヘイリテ、段々八太郎ガ不礼ノ段ヲ
ビルカラ、大草ヘモ云ワズニ帰ッタ、オヨソ壱時
いっとき
バカリノコト、御座敷中ガ大騒動シタガ、イイキビダッタ、相士ノ者ハ皆フルエテ居オッタ」

 二番目の兄というのは男谷精一郎のことだろう。その総領の忠蔵が寝込みを襲われて人に斬り殺されたというのは只事ではない。ほかならぬ剣術の家であって、しかも男谷信友ともある者の長子だから、相当腕に覚えがなければならないのが、おめおめと斬り殺されたとは不審の至りだ。何者が、何の恨みあってしたことか、これをくわしく知りたいものだが、この自叙伝は大ざっぱで、それにはちっとも触れていない。評定所で与力と大喧嘩をして、これを詫びさせるなどは、どういういきさつか、これもわからないが、このおやじらしい振舞だ――
「コノ年、次ノ兄ガ始メテ越後ヘ行ク故ニ留守ヲ預カッタ、ソレカラオレガ借金モ抜ケタカラ、少シズツ遊山ヲ始メタガ、仕舞イニハイロイロ馬鹿ヲヤッテ、金ヲ遣ッタカラ困ッタ、シカシ借金ハシナイヨウニシタ、林町ノ兄ガ帰ッタカラ、留守ノウチノコトヲ書附デ出シテヤッタラ悦ンデ居タ、コノ年、従弟
いとこ
ノ竹内平右衛門ガ娘ヲ、オレノ実娘ニシテ六合忠五郎ト云ウ三百俵ノ男ヘヨメニヤッタ、忠五郎ハモトヨリ弟子故、縁者ニナッタ、竹内ノ惣領三平ガ此年御番入リヲシ、カタクルシクテ出勤ガ出来ヌカラ、御断ワリヲ申シテ引クト云ウカラ、オレガイロイロ工夫シテ、翌日カラ登城サセテタラ、大御番ニナッタ、ソノ親父ガ悦ンデ、一生コノ恩ハ忘レヌト云ッタガ、後年イロイロオレヲホメオッタ」

 この辺は例の世話好きが現われて、相当に善事を致してもいるようだが、本来、しっかりした観念があってやるわけではないから、
たちま
ち生地が現われて、ついに兄たちと大喧嘩をおっぱじめる。
「此暮ニ松坂三右衛門ガ越後ヘ行ク故、三男ノ正之助ト云ウヲ気遣ウ故ニ、オレガ異見ヲシテ、供ニ連レテ行ケト云ッタラ、聞済マシテ連レテ行クツモリニナッタラ、正之助ヘ供先ノコトヲイロイロト教エテ、御代官ノ侍ハ支配ヘ行クト金ニナルカラ、ソノ心得ヲヨク含メテヤッタガ、嬉シガッタ、彼地ヨリ帰ルト礼ヲスルト云ウカラ、ソノ約束デ別レタガ、検見中心得ノコトモ有ルカラ、ソレヲ手紙ニ書イテ送ッタガ、フト取落シタガ、兄ガ拾ッテ持ッテ帰ッテ大兄ヘ見セテ、イロイロオレヲ悪ク云ッタカラ、大兄ガ立腹シテ、オレヲ呼ビニヨコシタ」

 何を云ったか、若い者によくない知恵をつけたのだろう。二人の兄が立腹するのも無理はなかろう。
「亀沢町ヘ行ッタラ兄ガ云ウニハ、オノシハ、ナゼ正之助ヘ知恵ヲツケテ、イロイロ支配所ノコトヲ教エタ、不埒
ふらち
ノ男ガ、ソノ上ニ、羅紗羽織
ラシャばおり
ヲ着テイルガ、ナゼソンナ
おご
リオルト叱ルカラ、オレガ云ウニハ、正之助ヘ書状ヲヤリシ覚エハ無ク、羅紗ノ羽織ハ小高故ニ、身ナリガ悪イト融通ガ出来ヌ故、余儀ナク着テオリ
ます
トイッタラ、ソノ外ニモ聞イタコトノ有ルハ、此頃ハモッパラ吉原ハイリヲスル由、世間ニテハ、オノシガ年頃ニハ、ミンナヤメル時分ニ、不届ノ致シ方ダトイロイロ云ウカラ、御尤
ごもっと
モニハゴザリマスガ、是モヤハリ身上ノタメニ、ツキ合イニ参リマスト云ウト、猶々
なおなお
怒ッテ、何事モオレニ向ッテ口答エヲスル、親類ガ、オレガ云ウコトヲ誰モ云イ返ス者ハナイニ、オノシ壱人バカリ刃向ウハ不埒ダ、今一言云ッテミロ、手ハ見セヌト脇差ヘ手ヲ掛ケテ云ウカラ、オレガ云ウニハ、ソレハ兄デモ御言葉ガ過ギマショウ、私モ
かみ
ノ御人ダ、犬モ朋輩、鷹モ朋輩ダカラ、ソウハ切レ升マイトテ、オレモ脇差ヲ取ッタラ、アニヨメガ中ヘハイッテ、イロイロ云ッテオレヲツレテ、手前ノ部屋ヘ来テ、正之助ノ一件ヲ片附ケロト云ウカラ、直グニ林町ヘ行ッテ兄ニ逢ッテ、兄弟ノ情ガ薄イトテ強談シタガ、兄ガ云ウニハ、全ク貴様ノタメヲ思ッテ、大兄ニ云ッタトテ、強情ヲハルカラ、ソノ時ハ役所ノ壱番元〆
もとじめ
太郎次ヲ兄ノ側ヘ呼寄セテ、兄ガ家事不取締故ニ、是迄度々
たびたび
結構ノ御役ニナルトシクジリシコトカラ、当時ノ御役ノコトヲモ勤メル器量ガ無イトイウコトノアラマシヲ云イ聞カセテ、御役ヲ引クガイイトイッテヤッタ、ソウスルトソレハドウイウ訳ダト云ウカラ、ソノ時ニ兄ガ兄弟ノ手跡ノ真偽ヲ見分スルコトガ出来ヌ故ハ、ナカナカ県令ハ大役故ニ勤メラレヌト云ッテナゲ出シタ故、オレガ取ッテ燭台ヲ出サセテ三度クリ返シテ大音ニ読ンデ、兄ヘ返シテヨク似セマシタト云ッタラ、兄ガ云ウニハ、ナント是デモカレコレイウカト云ウカラ、オレガ云ウニハ、ソコガ三郎右衛門ハ分ラヌトイウモノダ、ナント私ガ書イタモノナラ、読ムウチニケン語ガスミハシマスマイ、大勢ヲ取扱ウ者ガ此位ノコトニ心ガ附カズバ大ナル御役ハ出来マスマイ、親類共ガ毎度私ヲバ不勤故ニ、小馬鹿ニ致シマスガ、天下ノ評定所デ筋違イノ不礼ヲタダス者ハ是迄聞キマセヌ、真偽ヲ知ラヌ兄ヲ持ッタガ私ガ不肖デゴザリ
ます
、ト挨拶シタラバ、ソノ座ノ者ガ一言モイウコトガ出来ヌ故、兄ガイウニハ、是ハ偽筆ニ違イナイカラ、ワシガアヤマッタト云ウカラ、サヨウナラ大兄ヘ手紙ヲ
つか
ワシテ、ソノ訳ヲ御申シナサレト云イ、ソノツイデ又通ジタ故、返事ノクルマデ待ッテ居テ、申シ分ナイト云ウ大兄ガ返事ヲ見テカラウチヘ帰ッタガ、ソノ時、
おい
メラハ脇差ヲサシテ次ノ間ニ残ラズ結ンデ居タカラ、帰リガケニ甥ラニ向ッテ、オノシ等ハ先達テ中ノ狼藉ノ時、ソノ通リノ心ガケヲシテタラ、忠蔵ハヤミヤミト殺シハシマイモノ、ソノ時ハ逃ゲテ伯父ヲ取廻イタ、馬鹿ニモ程ノアッタモノダガ、親父様ノ子供ヘノ御教エニカンシンシタト云ッテ笑ッタガ、ウチ中ガクヤシガッタトソノ後聞イタヨ」

 兄貴二人をやり込めていい気でいる。ドウもこういう乱暴者にあっては、府内第一の剣術遣いもねっから押しが
かないらしい。しかしまあ、これではただは済むまい、兄貴共もこのまま捨てても置けまい。
「ソレカラ後ハ、大兄モ、林町ノ兄モ、オレガ事ヲ気ヲ附ケテ居ルカラ、少シモトンチャクシナイデ、イロイロ馬鹿騒ギヲシテ日ヲ送ッタガ、或時ニ林町ノ兄ガ三男ノ正之助ガ来テイロイロ兄ノ
はなし
ヲシタカラ、揚代滞リニシテ六両金ヲ出シテ、カリ宅ヘ林町ノ用人ヲ連レテ行ッテ、方ヲカイテヤッタラ、兄ガオコッテ、ヤカマシクイウカラ、アニヨメヘオレガ行ッテ、イロイロハグラカシテソノコトハ済ンダ、オレモ三四年ハ大キニ心ガユルンダカラ、吉原ヘバカリハイッテ居タガ、トウトウ、地廻リノ悪輩共ヲ手下ニ附ケタカラ、壱人モオレニ刃向ウ者無カッタ、ソノ替リニ金モイカイコト遣ッタガ、皆ンナオレガ働キデ、借金ヲセヌヨウニシテ、道具ノ市ヘハ一晩デモ欠カサヌヨウニシテ儲ケタガ足リナカッタ」
山科の巻 六十九
 二人の兄貴も、いよいよこれでは黙ってばかりいられない。
「此年、男谷カラ呼ビニヨコシタカラ、精一郎ガ部屋ヘ行ッタラ、ソレカラ、姉ガ云ウニハ、左衛門太郎殿、オ前ハナゼニソンナニ心得違イバカリシナサル、オ兄様ガコノ間カラ世間ノ様子ヲ残ラズ聞合ワセテゴザッタガ、捨置ケヌトテ心配シテ、今度、庭ヘ
おり

こしら
エテ、オマエヲ入レルト云イナサルカラ、イロイロミンナガ留メタガ、少シモ聞カズシテ、昨日出来上ッタカラハ、晩ニ呼ビニニヤッテオシ
メルト相談ガキマッタガ、精一郎モ留メタガナカナカ聞入レガナイカラ、ワタシモ困ッテ居ルト云ッテ、オレニ庭ヘ出テ見ロト云ウカラ、出テ見タラ、二重ガコイニシテ厳重ニ拵エタ故――」

 それ見ろ、またしても熊の檻へ入れられる。前に三年というもの三畳の座敷牢へ押込められて、多少は覚えがあるだろう。今度は座敷牢では剣呑
けんのん
だから、庭へ二重牢と来た。重ね重ねこれは有難く心得て御入所に及ぶほかはあるまい、笑止千万――ところが、今度の熊は、以前のように手軽くは入らない。
「姉ニ云ウニハ、段々、兄弟ガ御深切ハ有難ウゴザイマスガ(これが有難くなくてなるものか)今度ハ燈心デデモオコシラエナサレバイイニ、ナゼトイウニ、私モ今度入ルト、最早、出スト
ゆる
シテモ出ハシマセヌ、ソノ訳ハ、此節ハ先ズ本所デ男ダテノヨウニナッテキマシテ、世間モ広シ、私ヲ知ラヌ者ハ人ガ馬鹿ニスルヨウニナリマシタカラ、コノ如クニナルト最早、世ノ中ヘハ
かお
ヲ出スコトハ出来マセヌカラ、断食シテ一日モ早ク死ニマス、斯様
かよう
ダロウト思ッタ故、妻ヘモアトノコトヲワザワザ云イ含メテ来マシタ、思召次第
おぼしめししだい
ニナリマショウ、精一郎サン、大小ヲ渡シマスト云ッテ渡シタラ、姉ガ此上ハ改心シロトイウカラ、オレガ、此上改心ハ出来マセヌ、気ガ違イハセヌトイッタラ、精一ガ、御尤
ごもっと
モダガ御身ノ上ヲ慎シメト云ウカラ、慎ミ様モナイ、最早親父ガ死ンダカラ、頼ミモナイカラ、心願モ
ウヨリ止メタ故、セメテシタイ程ノコトヲシテ死ノウト思ウタ故ニ、兄ヘ世話ヲカケテ気ノ毒ダカラ、今ヨリ直グニココニ居リマショウト居タガ、精一郎ガ云ウニハ、必ズオマエハ食ヲ断ッテ死ヌダロウト思ッタ故、種々親父ガ機嫌ヲ見合ワセテ居タガ、聞入レヌ故、コウナッタトテ案ジテクレルカラ、何デモ兄ノ心ノ休マルガ肝要ダカラ、オリヘハイルガオレハヨカロウト思ッタ、先達テカラ友達ガ、ウスウス内通モシテクレタ故、疾ウヨリ覚悟ヲシテ居タカラ、一向ニ驚カヌトイッタラ、何シロ先ズ一度御宅ヘ御帰リナサレテ、妻トモ相談シロトイウカラ、ソレニハ及バズ、先ニイウ通リ何モウチノコトハ気ニカカルコトハナイ、息子ハ十六ダカラ、オレハ隠居ヲシテ早ク死ンダガマシダ、長イキヲスルト息子ガ困ルカラ、息子ノコトハ何分頼ムトイッタラ、ソノウチニ姉ガ来テ、一先ズウチヘ帰レトイウカラ、ソレカラ家ヘ戻ッタラ、夜五ツ時分迄、呼ビニ来ルカト待ッテ居タガ、一向沙汰
さた
ガナイカラ、ソノ晩ハ吉原ヘ行ッタ、翌日帰ッタ」

 
あき
れたもんだ――熊の檻へはいらずに、その足で吉原通いとは、かなりの代物
しろもの
だ!
「ソレカラ兄ヘ只ハ済マヌカラ、書附ヲ出セト云ウカラ、ソレモシナカッタ、姉ガイロイロ心配ヲシテ、諸寺諸山ヘ祈祷ナド頼ンダトイウコトヲ聞イタカラ、翌年春、挨拶安心ノタメ隠居シタガ、三十七ノ歳ダ」

 三十七にもなるどうらくおやじを檻には入れそこなったが、隠居ということで、兄貴たちもまず安心の
てい

「ソレカラハ、ムコクニ世ノ中ヲカケ廻リテ、イロイロノ世話ヲシテ、金ヲ取ッテ小遣ニシタガマダ足リナカッタ故、イロイロ工夫ヲシテ、オレノ身ノ上ガコウナッタハ、誰ガ大兄ヘススメテ、詰牢ヘマデ入レヨウトシタカトテ、ソレヲ探ッタラ、林町ノ兄ガ先年ノ恥ジシメタ意趣バラシニ、ウチ中ガ寄ッテ、無イコトマデ大兄ヘ告ゲタトイウコトヲ、
たし
カニ聞留メタカラ、ソノ又返シニ目ヲ見セテクレヨウト思ッテ居ルト……」

 こういう身知らずで執念深い弟を持った兄貴も思いやられる。さて、その復讐
ふくしゅう
には何をしたか。
「三男ノ正之助ガ放蕩者故ニ、兄ガ困ッテイルト聞キナガラ、正之助ヲ呼ンデ、ダマシテ聞イタラ、残ラズ兄ガ
はかりごと
ヲ白状シタカラ、工面
くめん
ヲシテハ正之助ヘ金ヲ貸シテ遣ワシタガ、仕舞イニハ兄ガ借金ガ蔵宿ノモ切レシトイウカラ、オレガ竹内ノ隠居ヲダマシテ、トウトウ兄ノ判ヲ
こしら
エサセ、蔵宿デ百七十五両、勤メト入用ガ急ニ林町ニテ出来タトテ、正之助ガ諏訪部トイウ男ヲ頼ンデヤッテ借リタガ、蔵宿デモ、三人ガ道具箱デ肩衣
かたぎぬ
マデ着テ行ッタ故、疑ラズニヨコシタ、ソノ金ヲ皆ンナ遣ッテ仕舞ッタガ二月バカリデ知ッテ、兄ガ吝嗇
りんしょく
故ニ大層ニオコッタカラ、トウトウドコマデモ知ラヌ顔デシマッタガ蔵宿デハイロイロセンサクヲシタガ、知レズニシマッタ」

 兄貴の息子をそそのかして放蕩を教えた上に、謀判を以て蔵宿から詐欺取財!
「或日、諏訪部ガ来テ、常盤橋ニテ明後日、狐バクチガ有ルカラ、オレニ一ショニ行ッテクレロ、是ハ千両バクチ故ニ、勝ツト大金ガハイルカラ、壱人デハ帰リガ気遣イダカラト云ウカラ、オレハソノ道ニハ今マデ手ヲ出シタコトガナイカライヤダトイッタラ、只行ッテ食物デモ食ウテ寝テ居ロト云ウカラ行ッタガ、ソノ時ハ諏訪部ニモ元手ガ三両シカ無カッタ、ソレモオレガ十両バカリハ貸シタ故ニ、深川ヘ行ッテ見タラ、蔵宿ノ亭主ダノ、大商人
おおあきんど
ガ、日本橋近辺ヨリ集マッテ五六十人バカリシテ場ヲ始メタガ、オレニハイロイロノ馳走ヲシテクレタ故、常盤町ノ女郎屋ヘ行ッテ女郎ヲ呼ンデ遊ンデ居タガ、夜ノ七ツ時分ニ迎エヲヨコシタカラ、茶屋ヘ行ッテ見タラ、諏訪部ハ六百両ホド勝ッタ故、オレガ見切ッテ連レテ帰ッタ、生レテ初メテ、コンナバクチヲ見タト云ッタラ、皆ガ先生ハ人ガイイト云ッテ笑ッタヨ」

 このくらい人がよければ申し分はなかろうが、御当人はバクチだけはやらなかったようだが、トバの用心棒に祭り上げられた。
「ソレカラ思イツイテ、心易
こころやす
イ者ヘ高利ヲカシタガヨカッタ、浅草ノ奥山ノ茶屋ヘ金ヲカシタガ、是ハマダルカッタガ、ソノ代り山中ハハイハイトイイオッタ故親分ノヨウダッケ」
山科の巻 七十
 さて、これから名うての剣客島田虎之助をからかった物語だ。
「或日、息子ガ柔術ノ相弟子ニ、島田虎之助トイウ男ガアッタガ、当時デノ剣術遣イダトミンナガオソレル故、コノ男ガカン
しゃく
ノ強気者デ、男谷
おたに
ノ弟子モ皆々タタキ伏セラレテ浅草ノ新堀ヘ道場ヲ出シテ居タガ、オレハ一度モ逢ッタコトガナイカラ、近附
ちかづき
ニ行ッタラ、ソノ時オレガ思ウニハ、九州者ノ二三年先ニ江戸ニ来タトイッテモ、マダ江戸ナレハシマイカラ一ツタマシイヲ抜カシテヤロウト心附イタカラ、緋縮緬
ひぢりめん
ノジュバンニ洒落
しゃれ
タ衣類ヲ着テ、短刀羽織デヒョウシ木ノ木刀ヲ一本サシテ逢イタイト云ッタラバ、内弟子ガ出テドコカラ来タトイイオル故ニ、勝ノ隠居ダトイッタラ、早速ニ虎ガ出テ、袴ヲハイテ、座敷ヘ通シ、始メテノ挨拶モ済ンデカラ、イロイロ
せがれ
ガ世話ノ段ヲ述ベテ、世間剣術話ヲシテ居タガ、オレノナリヲヤタラニ見テ、イロイロ世上ノ云ウタノノコトヲモッテ、アテツケルヨウニ聞ユルカラ、カネテソノ
はなし
モ聞イテ居タ故ニ、一向カマワズ、ソノ日ノ七ツ時分ニナッタカラ、虎ヘ云ウニハ、今日ハ始メテ参ッタカラ何ゾ土産ニテモ持ッテト存ジタガ、御好キナ物モ知レヌ故ニ、手ブラデ参ッタガ、酒ハ如何
いかが
トイッタラバ呑マヌト云ウカラ、甘物ハト聞イタラ、ソレハイイト答エルカラ、サヨウナラ御苦労ナガラ一所ニ浅草辺マデオ出デト、断ワルヲムリニ引出シテ、浅草デ先ズ奥山ノ女ドモヲナブッテ歩イタカラ、キモヲツブシタ顔ヲシテアトカラ来ルカラ、スシ飯ヲ食ウカト聞イタラ、好キダト云ウ故ニ、ソンナラ面白イトコロデ
すし
ヲ上ゲルトイッテ、吉原ヘイッテ大門ヲハイリニカカルト、御免御免ト云ウカラ、ムリニ仲ノ町ノオ亀ズシヘハイッテ、二階ヘ上ルト間モナク、イイツケタ鮨ヲ出シタ故、食ッテ居ル、ソノ時ニ、煙草ハドウダト聞イタラ、呑ムガ修行中故ヤメテ居ルト云ウカラ、ソレカラソレハ小量ノコトダ、煙草ヲスウトモ修行ノ出来ヌコトハアルマイ、世間デハオマエヲ豪傑ダト云ウカラ、近附ニ来タ、ソノヨウナ小量デハ江戸ノ修行ハ出来ヌトイッタラ、サヨウナラ今日ハ吸オウト云ウ故ニ、下ヘイイツケテ煙草入、煙管
きせる
ヲ買ワシタ、マタ酒モ呑メトセメタラ、同断ノ挨拶故ソレモ呑マシタ、ソノウチニ日ガ入ッタ故、諸方ヘ提灯ガトボルシ、折柄桜時故ニ風景モ一入
ひとしお
ヨク、段々ト揚屋ノ太夫ガ道中スルカラ、二階ヨリ見セタラ、虎ノ云ウニハ、誠ニ別世界ダトテ、余念無ク見テ居タカラ、是カラハオレガ威勢ヲ見セヨウトテ、隅カラ隅マデ見セテ、リキンデ見セタガ、大キニ恐レタ様子ダカラ、直チニ佐野槌ヤヘハイッテ、女郎ノ器量ノソノウチデ一番トイウノヲアゲテ遊ンダガ、桜ノ時分ダカラ、室ガ大勢デ座敷ガ無カッタガ、オレノ顔デ明ケサセテ、明日帰ッタガ、オレハ森下デ別レテ、ウチヘ帰ッタ、ソノ時ニ吉原デアノ通リノ振舞ハ出来ヌモノダガトイウコトデ、顔ガ売レタロウト皆ンナニ
はな
シタトテ、松平ノ家来ノ松浦勘次ガオレニ咄シタニ、最早、隠居ハ吉原ヘ行ッテモ大丈夫ダトイッタ故、男谷ニテモ安心シタト。
ソレカラスルコトガ無イカラ、毎日毎日カン音、吉原ガ遊ビドコロデ居タガ、虎ガススメデ、香取カシマ参詣ヲスルト云ウカラ、四月初メニ松平内記ノ家中松浦勘次ヲトモニ連レテ、下総カラ諸所歩イタ道ニ、他流ヘ行キテツカイツツ行ッタガ、先年ヨリ居候共ヲ多ク出シタ故、ソレガ徳ニナッテ路銀モ遣ワズニ諸所ヲ見テ来タ、銚子ニテ足ガ痛ンダカラ、勘次ヲ上総房州ノ方ヘ約束シタ所ヘヤッテ、オレハ銚子ノ広ヤカラ舟デ江戸ヘ送ッテクレタカラ、寝ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄ルリヲ聞イテ浅草辺カラ下谷辺ヲ歩イテ、楽シミニシテ居タガ、六月カ五月末カト思ッタガ、九州ヨリ虎ガ兄弟ガ江戸ヘキタカラ、毎日毎日、行通イシテ、世話ヲシテ、江戸ヲ見セテ歩イタ、虎ノ兄ノ金十郎トイウ男ハ、万事オレ次第ニナッテ居ルカラ、大ガイオレノウチヘトメテ居タガ、或日、吉原ニワカヲ見ニ行ッタ晩、馬道デ喧嘩ヲシテ見セタラ金十郎ハコワガッタ、金十郎ハ国デハアバレ者ト云ッタガ、江戸ヘ来テハツマラヌ男デアッタ、八月末ニ九州ヘ帰ルカラ、川崎マデ送ッテ別レタ」

 島田虎之助が当時での剣術ということは、神尾主膳も聞いて知ってはいるが、その島田の虎も、勝のおやじにかかっては、いやはや――しかしこんなに書きなぐるのは表面で、内心は勝のおやじも、たしかに島田に敬服したればこそ、この男を、
せがれ
の師匠に見立てて、みっちり修行をさせたのだ。そういう厳粛な方面は、この自叙伝には書いてないが、そこが、おやじの親心で、悴のためを思うことは、一時気違いと言われたほどだから、表面の磊落
らいらく
ばかりを見てはいけない。この馬鹿親爺の息子が、今では徳川の天下を背負って立とうというのは、この親爺の細心な方面と、この島田の虎の仕込みのあたりを、別の頭と眼で見直さなければならない!
 おれなんぞは――と神尾は、いつも身に引きくらべて見る。それはこの自叙伝が、雰囲気から言っても、どうらくから言っても、神尾の身に引きくらべて読むに最も都合よく出来ている――おれなんぞも、武術の方は、いい師匠を取って、相当に仕込まれたのだが、親爺がこんな馬鹿者でなかったためにしくじった。虎のような名剣師に就かなかったのが、まあ残念といえば残念のようなものだ。江戸者に生れて、身をあやまるも、身を立つるも、ほんの皮一重のものだよ――おれに子供でもあったらば……
 神尾主膳も、こんなように娑婆
しゃば

にまで誘発されて、しばらく三ツ眼を休めて考えている時、
「あなた、何を読んでらっしゃるの」
 不意に隔ての
ふすま
をあけて、スラリとそこへ立っているのは、今日は姥桜
うばざくら
に水の滴るような丸髷姿
まるまげすがた
のお絹でありました。
山科の巻 七十四
 神尾主膳は、せっかく興味をもって読みつづいていた勝の親父の自叙伝を、さきにはビタが来て妨げ、今はお絹が来て中断されたが、さきのビタは問題にならず、お絹の話して行った言句が気になって、これからは、うつろに何枚かの丁を飛ばして行ったが、ふと、しまい際へ来て、女、という文字に釣り込まれて読みついでみると、
「オレガ山口ニ居タ時分ダガ、或女ニホレテ困ッタコトガアッタガ、ソノ時ニ、オレガ女房ガソノ女ヲ貰ッテヤロウト云イオルカラ、頼ンダラバ、私ヘ暇ヲ呉レトイウカラ、ソレハナゼダト云ッタラ、女ノウチヘ私ガ参ッテ、是非トモ貰イマスカラ、先モ武士ダカラ、挨拶ガ悪イト、私ガ死ンデモライマスカラ、ト云ッタ、ソノ時ニ短刀ヲ女房ヘ渡シタガ、今晩参ッテキット連レテ来ルト云ウカラ、オレハ外ヘ遊ビニ行ッタラバ、南平ニ出先デ出会ッタ
ゆえ
、何事無シニ
はな
シテ居タラバ、南平ガ云ウニハ、勝様ハ女難ノ相ガ厳シイ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、右ノ次第ヲ咄シタラバ、ソレハヨクナスッタト云ウカラ、別レテ、又々、関川讃岐トイウ易者ト心易
こころやす
イカラ、通リガカリニ寄ッタラ、アナタハ大変ダ、上レトイウ故、上ヘ通ッタラバ、女難ノコトヲ云イオッテ、今晩ハ剣難ガ有ルガ、人ガ大勢痛ムダロウトテ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、初メヨリノコトヲ話シタラバ肝ヲツブシテ、段々深切ニ意見ヲシテクレテ、女房ハ貞実ダト云ッテ、以来ハ情ヲ懸ケテヤレ、トイロイロ云ウカラ、考エテミタラバ、オレガ心得違イダカラ、夕方ウチヘ飛ンデ帰ッタラ、隠居ニ娘ヲ抱カセテ男谷
おたに
ヘヤッテ、女房ハ書置ヲシテウチヲ出ルトコロヘ帰ッテ、ソレカラ漸々
ようよう
止メテ、何事モ無カッタガ、是迄、度々、女房ニモ助ケラレシコトモアッタ、ソレカラハ不便
ふびん
ヲカケテヤッタガ、ソレマデハ一日デモ、オレニ叩カレヌトイウコトハ無カッタ、此ノ四五年、
にわ
カニ病身ニナッタモ、ソノセイカモ知レヌト思ウカラ、隠居様ノヨウニシテ置クワ」

 こういうおやじの兄弟も大抵ではないが、細君となるものがことさら思いやられる。亭主の馬鹿に比べてこの女房はエライ、勘弁が届いている――だが、内心ドノくらい、血の涙を呑んだことか。女ではおれもずいぶん馬鹿を尽しただけに、貞婦なる女房というものの有難さがわかって来た。さて、それからは、また頭に入って読みつづくと、
「オレガ隠居スル前年ダカ、吉原ガ焼ケテ、諸方ヘ仮宅ガ出来タ、ソノ時、山ノ宿
しゅく
ノ佐野槌屋ノ二階デ、端場
はしば
ノ息子熊トイウ者ト大喧嘩ヲシタガ、熊ヲ二階カラ下ヘ投ゲ出シテヤッタガ、ソノ時、銭座ノ手代ガ二三人来テ熊ヲ連レテ帰ッタガ、少シ過ギルト三十人バカリ、長鍵デ来テ佐野槌屋ヲ取巻イタカラ、オレガ肌ヲヌイデ、襦袢
じゅばん
一ツデ高モモ立ヲ取ッテ飛ビ出シテ叩キ合ッタガ、三度、二三町追イ返シタソノ時ニ、会所カラ大勢出テ引分ケタガ、ソレカラ山ノ宿デモ、女郎屋一同ニ、客ヲ送ル婆アモ、
かか
アモ、オレガ顔ヲ下カラヨクヨクシオッタ故、何モ間違イガ無カッタ、ソノ時ハ刀ハ二尺五寸ノヲ差シテイタ、山ノ宿中、女郎屋ガ三日戸ヲシメタガ、事無ク済ンダ。
ソノ外、所々ニテノ喧嘩、幾度モアッタガ、タイガイ忘レタ。
浅草市デ、多羅尾七郎三郎ト、男谷忠次郎ト、ソノ外五六人デ行ッタ時ハ、二尺八寸ノ関ノ金光ノ刀ヲサシタガ――ソレニ急ニ七郎三郎ガ誘ッタ故、
はかま
ヲハカズニ行ッタカラ、雷門ノ内デ込合ウ故ニ、刀ガ股倉ヘ入ッテ歩カレナカッタガ、押合ッテ行クト、侍ガ多羅尾ノ頭ヲ山椒
さんしょう
摺古木
すりこぎ
デブッタカラ、オレガ押サレナガラ、ソイツノ羽織ヲオサエタラバ、摺古木デマタオレノ肩ヲブチオッタ故、刀ヲ抜コウトシタラ、コジリガツカエタカラ、片ハシカラキリ倒スト大声ヲ上ゲタラバ、通リノ者ガパット散ッタカラ、抜打チニソノ男ノ逃ゲルトコロヲアビセタラバ、間合イガ遠クテ、切先デ背ヲ下マデ切下ゲタカラ、帯ガ切レテ大小懐中物モ残ラズ落シテ逃ゲタガ、ソウスルト伝法院ノ辻番カラ、棒ヲ持ッテ一人出タカラ、二三ベン刀ヲ振リ廻シテヤッタラ、往来ノ者ガ半町バカリ散ッタカラ、大小ト鼻紙入ヲ拾イテ、辻番ノ内ヘ投ゲ込ンダ、ソレカラ直グニ奥山ヘ行ッタ、漸々
ようよう
切先ガ一寸半モカカッタト思ッタ、大勢ノ混ミ合イ場ハ長刀モヨシワルシダト思ッタ、多羅尾ハ禿頭故ニ
きず
ガツイタ、ソレカラ段々喧嘩ヲシナガラ、両国橋マデ来タガ、ソノ晩ハ何モホカニハ仕事ガナイカラウチヘ帰ッタ。
ソノ外ニモ、イロイロ様々ノコトガ有ッタガ、久シクナルカラ思イ出サレヌ、オレハ一生ノウチニ、無法ノ馬鹿ナコトヲシテ年月ヲ送ッタケレドモ、イマダ天道
てんとう
ノ罰モ当ラヌト見エテ、何事ナク四十二年コウシテイルガ、身内ニ創一ツ受ケタコトガナイ、ソノ外ノ者ハ或ハブチ殺サレ、又ハ行衛ガ知レズ、イロイロノ身ニ成ッタ者ガ数知レヌガ、オレハ好運ダト見エテ、我儘
わがまま
ノシタイ程シテ、小高ノ者ハオレノヨウニ金ヲ遣ッタモノモ無シ、イツモ
りき
ンデ配下ヲ多クツカッタ、衣類ハタイガイ人ノ着ヌ唐物ソノ外ノ結構ノ物ヲ着テ、甘イモノハ食イ次第ニシテ、一生女郎ハ好キニ買ッテ、十分ノコトヲシテ来タガ、此頃ニナッテ漸々人間ラシク成ッテ、昔ノコトヲ思ウト身ノ毛ガ立ツヨウダ、男タルモノハ決シテオレガ真似
まね
ヲシナイガイイ、孫ヤヒコガ出来タラバ、ヨクヨク此ノ書物ヲ見セテ身ノイマシメニスルガイイ、今ハ書クノモ気恥カシイ、是レトイウモ無学ニシテ、手跡モ漸ク二十余ニナッテ、手前ノ小用ガ出来ルヨウニナッテ、好キ友達モ無ク、悪友バカリト交ッタ故、ヨキコトハ少シモ気ガ附カヌカラ、此様ノ法外ノコトヲ英雄ゴウケツト思ッタ故、皆ナ心得違イシテ、親類父母妻子ニ迄イクラノ苦労ヲ懸ケタカ知レヌ、カンジンノ旦那ヘハ不忠至極ヲシテ、頭取扱モ不断ニ敵対シテ、トウトウ今ノ如クノ身ノ上ニ成ッタ、幸イニ息子ガヨクッテ孝道シテクレ、又娘ガヨクツカエテ、女房ガオレニソムカナイ故ニ、満足デ此年マデ無難ニ通ッタノダ、四十二ニナッテ初メテ人倫ノ道、且ツハ君父ヘ仕エルコト、諸親ヘムツミ、又ハ妻子下人ノ仁愛ノ道ヲ少シ知ッタラ、是迄ノ所行ガオソロシクナッタ、ヨクヨク読ンデ味ウベシ、子ニ、孫ニマデ、アナカシコ。

于時天保十四年寅年初於鶯谷書ス
夢酔道人」
 これで一巻を読み
おわ
った時、上野の鐘が、じゃんじゃんと鳴るのを神尾主膳が聞きました。
 上野の鐘がじゃんじゃんと鳴るのは警報ではない、上野のじゃんじゃんは通り物になっているのですが、今日はそのじゃんじゃんが、神尾が耳に事有りげに響いて聞えました。
「覚王院に会おう、そうだ、あの院主を叩いて、ひとつ聞いてみようではないか」
 神尾が突然、巻を叩いて立ち上ったのは、じゃんじゃんの鐘の音につれて、何か急に思い当ったことがあるらしいのです。
 その口の
に現わされたところを聞くと、「覚王院」とある。

「大菩薩峠」を読み直す(5)

この小説のあまたある登場人物のなかで僕がもっとも引かれるのは駒井甚三郎である。無名丸という自ら設計した黒船の針路に関する以下の記述は、期せずして、明治日本以後の日本島の人々に大きな疑問を投げかけているように思う。どこか小栗忠順に通じるところがある。

京の夢おう坂の夢の巻 三十
 怱忙
そうぼう
のうちにも無名丸は、船出としての喜びと希望とを以て、釜石の港から出帆して、再び大海原に現われました。
 船長としての駒井には、遠大なる理想もあれば、同時に重大なる責任もあるのであります。その理想と責任とは、船の中で、自分のみが知る希望であり、自分のみが味わう恵みである。
かろ
うじてお松だけが、ややその胸中を知るのみで、田山白雲といえども、駒井の心事はよくわからない。
 船の乗組は、船の針路に対して、盲従というよりは無知識でありまして、一にも二にも駒井船長を信頼しているのですが、その絶対的信頼を置かれる駒井船長そのものが、船の前途に於て、いまだに迷うているものがあるのです。実際、北せんか、南せんかという最も基本的な羅針の標準に、船長その人が迷っているのだから不思議です。
 大海原へ出て見れば、東西南北という観念はおのずから消滅してしまうようなものの、駒井の心の悩みは解消しない。他の乗組のすべては、地理と航海に無知識であるが故に、安心している。駒井に至っては、知識が有り過ぎるために不安がある。他の乗組のすべては、船と船長に絶対信任を置いているが故に安泰だが、駒井自身は、船と人との将来に責任を感ずること大なるだけに休養がない。
 今晩も駒井は、衆の熟眠を見すまして、ただ一人、甲板の上をそぞろ歩きをして夜気に打たれつつ、深き思いに
ふけ
っているのであります。
 世が世ならば、この船を自分の思うままに大手を振って、いずれのところへでも廻航するが、今は世を忍ぶ身の上で、公然たる通航の自由を持っていない。船の籍を直轄に置くことがいけなければ、せめて、仙台その他の有力な藩の持船としてでも置けば、そこには若干の便宜も有り得たに相違ないが、自分の船は、ドコまでも自分の船だという駒井の自信が、いかなる功利を以てしても、他の隷属とすることを許さない。無名丸は、同時に無籍丸であって、その登録すべき国籍と船籍を有せぬ限り、大洋の上に出づれば、それでまた一個の絶対なる王国なのであります。
 これを前にしては、お銀様が山に
って
おの
れの王国を築かんとしている。駒井は海に於て、己れの王国を持っているのであります。小さくとも、これは絶対の一王国に相違ないのです。お銀様の胆吹に於けるものは、当人だけに於ては自尊傲岸
じそんごうがん
に孤立しているが、周囲の事情に於ては、かえって世上一般に優るとも劣らぬ係累を絶つことが容易でないのに、駒井の王国は、いつ何時でも、世間の係累から切り離して、自分たちの王権を占有することができる、という長所は、同時に、お銀様と駒井との性格をも説明するに足るものでありました。
 将来はともあれ、駒井が月ノ浦碇泊前後、胸に秘めたところのものは北進政策でありました。蝦夷
えぞ
の地、すなわち北海道の一角に、しばらく船をつけて、あすこの一角に開墾の最初の
くわ
を打込むということでありました。北海道は開けない、当時の人の心では日本内地だか、外国だかわからないような蒙昧
もうまい
さがある。その一角を求めて移り住むということは、ほとんど無人島に占拠すると同様の自由があることを確信して、駒井は、月ノ浦を出る時、まず蝦夷ということに腹をきめて出帆し、釜石と宮古の港に寄港して、それから函館という方針でしたが、その後の研究と思索の結果は、それが必ずしも唯一最良の案ではないということです。
 なんにしても北海道は、日本の幕府の支配内のところに相違ない。そこへ鍬を卸すことは、何かの故障も予想されるし、自主独立の精神にさわるところがある。それに気候が寒い――物見遊山の目的の船出ではないから、気候風土の良否の如きを念頭に置くことは贅沢
ぜいたく
のようなものだが、さりとて同じ
ひら
くならば、気候風土の険悪なところよりは、中和なところがよろしい。寒いところよりは、温かいに越したことはない。
 それらの思索が、ここに至っても駒井をして、まだ北せんか南せんかに迷わしめている。しからば北進策を捨てて、南進策を取るとしてみると、この船をいずれの方に向け、いずれの地点に向わしむべきか。今となって、そういうことを考えるのは薄志弱行に似て、駒井の場合、必ずしもそうではなかったのです。事をここまで運び得たにしてからが、尋常の人には及びもつかぬ堅心強行の結果というべきだが、船を航海せしむることだけが駒井の目的の全部ではない。むしろ船は便宜の道具であって、求むるところは、何人にも掣肘
せいちゅう
せられざる、無人の処女地なのです。無人の処女地を求め得て、そこに新しい生活の根拠を創造することにあるのですから、航海も大切だが、それは途中のことに過ぎない。永遠にして根本的なのは植民である。少なくともこれらの人を、子孫までも安居楽業せしむる土地を選定しなければならぬ。そこに念に念を入れての研究と、研究から来る変化や転向が生じても、それは薄志弱行ということにはならないでしょう。
 北進を捨てて南進を取るとすれば、駒井の念頭に起る最初のものは、亜米利加
アメリカ
方面ということになるのは、当然の帰結でもあり、同時に当時の常識でもありました。
 ここには、北に対するつり合い上、南進という語を用うるけれども、亜米利加は必ずしも南とは言えない。むしろ東というべきが至当ではあるけれども、それは今の駒井の立場に於て、東でも、南でも、乃至
ないし
は西であっても、それはかまわない。船の現在の針路が北にあるのだから、それを翻して転換するとすれば、いったんは南へ向けるのが順序である。そうしてこの針路を南へ向けた以上は、亜米利加よりほかには至りつくべき陸地はないということが、その当時の常識ではありました。
 亜米利加というものに対する駒井甚三郎の知識は、浅薄なものではありませんでした。当時のあらゆる識者以上の認識を持っていたと見做
みな
さるべきであります。
 且つまた、この亜米利加行きについては、最近、最も参考すべき、日本人主催の航海経験があるというのは、安政六年に、幕府の咸臨丸
かんりんまる
が、僅か百馬力の船で、軍艦奉行木村摂津守を頭に、勝麟太郎
かつりんたろう
を指揮として、日本開けて以来はじめての外国航海を遂行したことがあるのでありまして、その経験の認識を、駒井は誰よりも深く、聞きもし、調べもして持っている。北進を取ったのは、駒井としては
むし
ろ、よんどころなき避難の急のためであって、駒井の最初の頭は、右の意味での南進に傾いていたのです。それは、今のような自主的の植民地を求めようとする計画からではなく、右の安政年間の、日本人の手によって日本の船を亜米利加まで航海せしめるに成功して、内外人をアッと言わせた、アッと言うことを好まない外人にまで、内心日本人怖るべしとの感を抱かしめた、その前後から起っているのであります。
 駒井甚三郎は、右の安政の航海に参加する機会を得なかったけれども、その事あって、彼の自尊心は著しく刺戟された。日本の船で、日本人の手で、はじめて太平洋を横断したという記録は偉なるものでないとは言わない。だが、咸臨丸という船だけは、本来和蘭
オランダ
から買入れた船なのだ。もう一歩進んで、その船をも日本人の手で造りたいものではないか。外国から買入れたものを改装し、改名した船でなく、船そのものをも一切国産を以て創造して、その船を全然、日本人の力でもって欧羅巴
ヨーロッパ
までも乗切ることはできないか。駒井はこれをやりたかったのです。もし、駒井の在官当時にこの船が出来たならば、駒井は当時、あの時の木村摂津守の役目となり、自家創造の船によって、幕府を代表しての使節として、まず亜米利加を訪問して、次に欧羅巴までも航海を試みたことであろうと思われる。しかるに彼の失脚が公けの使節となることを妨げたけれども、その志だけは立派にこの無名丸によって遂げられている。公使として行くべきものを、浪人として行き得るの実力を持ち得たには持ち得たが、輪郭を作っただけで、内容が完備したとは決して言い得られない悲哀はある。
 知識があればあるだけに、無謀が許されない。今のところ、駒井をして南進策を抛棄
ほうき
せしめているのは、この船で太平洋を横ぎるだけの自信が持ち得られないためであって、決してその初志を断念しているわけではないのです。船に自信が置けないのではない、経験に於て、準備に於て、
いま
だ多大の不満を有しているからです。しかし、今となってみると、出立が最後の運命を決定する日になっていますから、その方針に再吟味を加えて、少なくとも今晩一晩の間に、右の南進か北進かに、最後の決断を下さなければならぬという衝動に迫られて、ひとり思案に
ふけ
っているのであります。船は、もう
うに石炭を焚くことをやめて、夜風に帆走っている。当番のほかは、誰もみんな熟睡の時間で、さしもの茂公もさわがない。
 駒井甚三郎は甲板の上を、行きつ、戻りつ、とつ、おいつ、思索に耽っていたが、ふと、船首に向って歩みをとどめて、ギョッとして瞳を定めたものがありましたが、闇を通して見定めれば、驚くまでのことはない、船首に於て金椎少年が、例によって例の如く祈りつつあるのです。
 イエス・キリストを信ずることに於て、清澄の茂太郎の揶揄
やゆ
の的となっている金椎少年が、一心に行手の海に向って祈っている。他の者ならば、人の気配を感じて退避すべき場合も、この少年には響かない。駒井もまた、茂太郎の出鱈目
でたらめ
の歌と、金椎の沈黙の祈りとは、この船中の年中行事の一対として、とがめないことになっている。
「祈っているな」
 ただそれだけで駒井はまた、行きつ、戻りつ、思索の人に返りました。
京の夢おう坂の夢の巻 三十一
 祈りつつある金椎の姿に、一時
いっとき
驚かされた駒井甚三郎は、また本然の瞑想にかえって、ひとり甲板上を行きつ戻りつしました。
 知識があればあるほど、考えが複雑になって、最後の決断の鈍るのを、自分ながらどうすることもできません。
 こういう時には、天啓ということを、科学者なる駒井甚三郎も考えないということはありません。また卜占
ぼくせん
ということに思い及ばないではありません。何か天のおつげがあって、南へ行けとか、北がよろしいとかの示教があるとしたら妙だろう。また、卜占というものにある程度までの信が持てると、それに着手しないという限りもなかったのですが、駒井甚三郎は、そのいずれをも信ずることができない人です。人間以上に、神だの、仏だのというものがあって、人間の都合によってそれが指図をしてくれるなんぞということは、ナンセンスで、取上げたくても取上げられない。
 
えき
だの
うらない
などということは、それこそ薄志弱行の凡俗のすることで、人間に頭脳と理性が備わっていることを信ずるものにとっては、ばかばかしくて取上げられるものではない。だが、この時は、知識と、認識と、自分の思考だけでは、さすがの駒井にも適切な判断は下せない。いっそ、ばかばかしければばかばかしいなりに、梅花心易
ばいかしんえき
というようなものにたよって、当座の暗示を試してみるも一興である。岐路に迷い、迷い抜いたものが、ステッキを押立てて、その倒れた方を是が非でも自分の行路と定めようということなどは、賢明な人の旅行中にもないことではない。この際、そういったような梅花心易はないか――つまり、時にとっての辻占
つじうら
はないかというところまで、駒井甚三郎の頭が動揺してきたのも無理のないところがあります。
 駒井は天上の星を見て、あの星が一つ南へ流れたら、南へ行くと断然心をきめてしまおう、北へ落ちたら、北の進路をつづけることに決定してしまおう、そうまで思って、天上をじっと見つめましたが、一昼夜に地球の全表面に現われる流星現象の総数は、一千万乃至
ないし
二千万個であろうと言われる流星も、この時に限って、いずれの方向にも、その飛ぶ光を見ることができません。
 やむなく船上を行きつ戻りつして、駒井甚三郎は、またも舳先
へさき
へ来てから、ハッとさせられたのは、事新しいのではない、金椎がやっぱり、まだその場所で祈りを続けている。
おし
の如くというけれども、本来唖なのですから、沈黙に加うるに不動の姿勢がまだ続いているのです。
「まだ、祈っている」
 駒井は、今更のように
あき
れました。
「こうまで一心に、いったい何を祈っているのだ」
と自問自答してみましたが、何を祈る金椎であろう。この少年は、イエス・キリストのほかのどの神をも拝まないことはよくわかっている。しからば、そのイエス・キリストに向って、この少年は何事を祈り、且つ求めているのか。
 駒井も、祈る人をこれまで多く見ているが、在来の日本人の神仏に祈る人は、こんな祈り方をしない。神道にも、仏教にも、祈祷などになると心血を
そそ
ぎ、五体をわななかしめて祈っている。その祈りの力によって、安らかに子を産むこともできる、勝敗を左右することもできるような祈り方をしているが、この少年の祈り方の、それらと全く趣を異にしていることを、駒井も白雲同様にかねてよく認めている。
 金椎の祈りは、祈りでなくて禅に近い、と駒井が評したことがある。無論、その内容に於て言うのでなく、その形体の静坐寂寞の姿が、禅定
ぜんじょう
に入るもののように静かなのを見て評した言葉なのです。しかして今日今晩の祈りは、特にそれらしい静かなものです。
 そうして、今夜に限って、駒井も改めて金椎の祈祷の
すがた
を後ろから注視しているうちに……
「待て待て、イギリスから最初にアメリカへ渡った船の人も、絶えず祈っていたということだ、なるほど、西洋の人間共は、みんなイエス・キリストを信じていたのだな、日本には八百万
やおよろず
の神があり、仏教には八宗百派があるけれども、あちらではイエス・キリスト一つで統一されていたはずだ、本で読んだ時は、人間が神を拝もうと拝むまいと、こっちの知ったことではないと見過して来たが、今晩になると考えさせられる――最初に欧羅巴
ヨーロッパ
からアメリカに渡った人々の経験に聞いて見ようではないか」
 そこで、駒井の頭の中に
よみがえ
って来た過去の読書のうちのある部分が、ゆくりなくも複写の形となって現われて来たのは、亜米利加
アメリカ
植民史の上代の一部――五月丸と名づけられた船の物語でした。
 亜米利加の歴史を読んだ人で、五月丸の船のことを知らぬ者はない。駒井もそれは先刻承知のことでありました。
 五月丸とは、ここで仮りに駒井がつけた呼び名で、五月が May であり、その下に Flower という字がついているから、直訳してみれば「五月花丸」というのが至当だけれども、日本語としては不熟の嫌いがある。「五月雨丸
さみだれまる
」とでもすれば、ぴったりと日本語に納まりもするが、名によって体をかえることはできない。花はどうしても雨とするわけにはゆかない。そこで駒井は、語呂の調子の上から「五月丸」と呼んでみたが、本来は五月花でなければならないなどと、語学上から考えているうちに、そうだ、今日の門出に、あの五月丸の出立こそは、無二の参考史料ではないか。
 そこまで思い
きた
ると、駒井はむらむらとして、よし! わが当座の梅花心易として、天上に星は飛ばなかった、船中に杖は倒れなかったが、わが前途の方向の暗示は別のところから求められる。船中図書室の中には新大陸の植民史もある。従って、五月丸の物語も出ている。今晩これから図書室へ参入して、その五月丸物語を、もう一応再吟味することによって、この行の決定的断定の資料とするわけにはゆかないか――
 駒井甚三郎は、散漫な頭脳をそこへ統一して、驀然
まっしぐら
に船の図書室へ向って参入してしまいました。
 左様なことを知ろう由もない金椎は、まだ
みよし
によって祈っている。
京の夢おう坂の夢の巻 三十二
 駒井甚三郎は図書館へ入って、さし当り手近な辞書を取って目的のところを繰って見ると、次の如くあるのを発見しました。
 May Flower, the small ship (180 ton) which brought the Pilgrim Fathers from Sauthampton England to Plymouth, Mass., December 22, 1620, after voyage of 63 days.
 そこで駒井甚三郎は、最初の亜米利加
アメリカ
訪問の五月丸が、僅か百八十
トン
の小船で、欧羅巴から亜米利加へ来るまでに六十三日を費したという概念をたしかめました。それから次に、Wakamiya, American History という一書を取り出して
ひもと
いて行くと、改めて翻訳するまでもなく、能文を以て次のように書いてありましたから、そっくりそのまま転読しました。
「女王ゑりざべすノ治世ニ於テ、英国教会ノ制度礼儀ニ一大改革ヲ施スベキヲ主張スル一宗派起リ、教会ヲ清ムルヲ旨義トスルヨリ、コノ宗徒ハ自ラ称シテ『清教徒
ピユーリタン
』トイヘリ。彼等ハ始ヨリ一宗派ヲ組成スル意志ヲ有セザリキ。彼等ガ牧師ノ一人タルろばとぶらおんノ勧メニ従ヒ、英国教会ヲ離レテソノ同志者トナリケレバ、人呼ンデ、彼等ヲ『分離派』
もし
クハ『ぶらおん派』トナセリ。教会規定ノ儀礼如何
いかん
ニ拘ラズ、彼等ハ自ラ欲スルママニ信仰ノ事ヲ実行シタルヨリ、猛烈ナル反対起リタレバ、彼等ノ一隊ハ、ぶるうすたあ及ビろびんそんガ指導ノ下ニ、千六百〇八年、英国北部ノ一寒村タルくろすぴーヨリ逃レテ和蘭
オランダ
ノあむすてるだむニ到リ、直チニらいでんニ転ジテ十一年ヲココニ送リタリキ。
彼等ノ和蘭ニ
ルヤ、一個ノ別天地ヲ造リテ、総テ英国ノ風俗習慣ヲ保チタレドモ、カクノ如キハ一時ノ寄留者トシテノミ
これ

クスベクシテ、子孫万世ニハ及ボスベカラズ、彼等ニシテ久シク留ラントセバ、勢ヒ彼等ノ別天地ヲ離レ、本国ヲ忘レ、本国ノ語ヲ忘レ、本国ノ伝説ヲ忘レテ、ソノ子孫ヲ純粋ノ和蘭人ト為サザルベカラズ、コレ彼等ノ耐ヘザル所ナリキ。於是乎
ここにおいてか
千六百十一年、彼等ハ相図リテ移住ノ儀ヲ定メ、永ク英人タルヲ得、且ツ基督
キリスト
教団ノ基礎ヲ据ヱ得ル処ヲ求メタリケルニ、あめりかハ
まこと
ニ能ク此等ノ目的ニ
フモノナリキ。彼等ハカクシテ『倫敦
ロンドン
商会』ヨリ、今ノにうじやしい沿岸ニ殖民地ヲ得タリ。

すで
ニシテ千六百二十年七月、ぶるうすたあ、ぶらうどふおーど、及ビまいるす・すたんでつしゆノ三名ハ先発隊トナリテ和蘭ヲ去リ、英国さうざんぷとん港ニ到リ、倫敦ヨリ
きた
レル一味ノ人ヲ併セテ、八月五日『五月花』号ニ搭ジテあめりかヘト出帆シタリ。天候
シクシテ風波ノ険甚シク、九週間ノ後漸クかつど岬ヘ達スルヲ得タレド、彼等ハコノ地ニ殖民ノ権利ヲ有セザリケレバ、更ニ南ニ航シテ進マントセリ。コノ時暴風進路ヲ
さへぎ
リテ船危ク、
すなは
チかつど岬ニ還リテソノ付近ノぷろゐんすたんニ難ヲ避ケヌ――今ヤ殖民地ノ位置ヲ選択スルコト何ヨリモ急ニ、探険隊ノ相分レテソノ捜索ニ従事スルコト五週間、或日ノ事数人ヲ載セタルすたんでつしゆノ小艇ハ、じよん・すみすガぷりまうすト命名セシ港ニ入レリ。コレ即チ清教徒ガ新世界上陸ノ基点ニシテ、世界殖民ノ歴史ニ異彩ヲ放テルぷりまうすノ事業モまた
ここ
ニ始ル」
 駒井甚三郎は直参失脚の後に於て、その爵位財産の一切を返還してしまったが、蔵書だけは、ほとんどその全部をこの船に搬入して来ています。それは、この人にとっては、食物以上の食物であるから、まずこれを蓄蔵しなければならぬと共に、いったん読み去ったものも参考として、常に座右に置くの便利且つ必要なるを感じたからです。且つまた、これは売り払うとしても、処分するとしても、誰も引受け手がない。いや、引受け手は大いにあるにしても、読める人がない。駒井の蔵書を読みこなすほどの人は、今の日本には絶対にないと言ってもよいくらいです。非常な高価と苦心とを以て集め
きた
った駒井の書物も、これを手放すとなると二束三文である。看貫
かんかん
で紙屑に売られる程度を最後の落ちとしなければならぬ。
 たとえ祖先伝来の爵位と家産を失うとも、この書物を失うには忍びないというのが駒井の愛惜
あいじゃく
でした。そうして、それをこの船まで持込んだことに於ては、今でも悔いてはいないのです。
 かくて、この多くの書物を、それからそれと
あさ
り読み行くうちに、今までに全く閑却していた方面に、新たに多くの興味を見出して、一度消化されたはずの書物が、再び燦然
さんぜん
たる希望を以ての新たなる頁を自分に展開してくれるもののように見え出して、書物に対する眼が火のように燃え出してきました。
 この間に得た駒井の知識は、Pilgrim Fathers の物語が中心となりました。その書物の中の一つの挿絵を見ると、遥か彼方
かなた
一艘
いっそう
の船がある。大きさは駒井の鑑識を以てして百噸内外の帆船に過ぎないが、それが、彼方の沖合に碇泊している。その親船に向って、雑多な人が、小舟に乗込んで岸を離れようとする光景が、一種の写真画となって、その書物のうちにはさまれている。船が手頃の船だし、岸を離れ、国を離れて海洋へ乗り出さんとする刹那が、じっくりと駒井の心をとらえたために、その前後の記事物語を熱心に読み出すことになりました。駒井が多くの蔵書家であり、同時にそれが単なる死蔵書ではなく、充分に読みこなす人であり、読みこなすのみではない、これを実地に活用する稀人
まれびと
であることは、ここに申すまでもないが、駒井その人が、読書というものには裏も表もある、裏と思ったのが、表であって、読みつくし、味わいつくしたと信じて投げ出して置いた書物から、新たに多大なる半面の内容を
ち得たということは、このたびの著しい経験でありました。
 さて、この船出の写真絵を見ると、諸人
もろびと
が皆、祈っている。日頃、金椎
キンツイ
がするように、小舟の中に行く人も、岸に立って送る人も、みな祈っている。
 彼処
かしこ
にかかっている親船こそ、例の五月号に相違ないのであります。そうしてこれらの諸人は、五月号に乗込んで、まさに海洋に乗り出さんとする人と、これを送るの人であることも争われません。いったい、船というものは、五月号にあれ、無名丸にあれ、今まで駒井の見た眼では、単に一つの構造物だけのものでありました。船の図を見ると、この船は何式で、何
トン
ぐらいで、どの時代、どの国の建造にかかっているかということのみが主となりました。従って、船の航海力にしても、これが石炭を
いた場合、どのくらい走り、帆をあげてからどの程度走るというような計数ばかり考えさせられていましたが、今晩は船というものが、大きな人格として、脈を打ち、肉をつけ、血を
たた
えている存在物のように見え出してきました。
 駒井が読み
ふけ
ったこの物語は、前の米国史の頁を、もう少し細かく、温かく、滋味豊かに敷衍
ふえん
してくれたといってもよい物語でありました。
THE ROMANTIC STORY of the MAYFLOWER PILGRIMS
京の夢おう坂の夢の巻 三十三
 読み且つ解して行くと、駒井の読んでいる物語には、次のような要点がある。
「コレ等ノ信神渡航者ハ一人モ往復ノ旅券ヲ求ムルモノナシ、彼等ハ他ノ旅客ノ如ク往ケバ必ズ帰リ来ルモノト予定スルコトヲセザルナリ、到リ着クトコロヲ以テ、ソノ骨ヲ埋ムルトコロト
ス。彼等ハ本国いぎりすノ国家ノ強ヒル宗教ヲ信ズルコトヲ
がへ
ンゼザルナリ、制度ハ国ノ制度ヲ遵奉
じゆんぽう
セザル
カラズトイヘドモ、信仰ハ自由也、国家ヨリ賦課セラルベキモノニアラズ。

しか
ルニ、コノ信念ハ外ニ於テハ国家ニ不忠、内ニ於テハ国教ニ不信ナリトノ理由ヲ以テ、彼等ハ自国ニ住ムコトヲ極度ニ圧迫セラレタルヲ以テ、故国ヲ逃レテ和蘭
オランダ
ノ地ニ来リ、更ニ北米ノ天地ヲ求メタルモノナリ。彼等ノ欲スルトコロハ領土ニアラズ、物資ニアラズ、
おの
レノ良心ト信仰トノ活路ヲ見出サンガタメニ新天地ニ出デタルモノ也。
閤竜
コロンブス
ノ求ムルトコロハ領土ナリキ。黄金ナリキ。サレバ、彼ニ従フトコロノモノモ、屈強ナル壮年男子ニ限リタレドモ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、オヨソ信仰ヲ共ニスル限リ、老幼男女ノアラユルモノヲ抱容スルコトヲ許サレタリ。コノ図ヲ見ヨ、彼等ノ一人モ、祈ラザルハナク、彼等ノ半個モ、武装シタルハナシ。彼等ハ皆、祈ルコトヲ知リタレドモ、祈ルコトヲ職業トスルモノハ一人モコレ有ラザリキ。即チ、コノ信神渡航者一行百二名ノウチニハ、僧侶ト名ノルモノ一人モコレ有ラザリキ。
けだ
シ、僧侶ハ祈祷ヲ商ヒ、権力ニ
ブルコトヲ職トスル階級ニシテ、彼等ノ信仰自由ニ同情ヲ持ツコトヲ知ラズ、コレヲ圧迫スルヲノミ職トスルモノナリケレバナラン。軍人ノ経歴アルモノハ、只一人ノミコレ有リキ。
コレニ反シテ、閤竜
コロンブス
ヲ先頭トスルすぺいん流ノ渡航者ハ、僧侶ト軍人ヲ以テホトンド全部ヲ占メヰタルガ、コノ信神渡航者ニハ、僧侶ナク、軍人ナシ。
しか
シテ
ホ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、一人ノ貴族モナク、イハユル英雄モ豪傑モ、一人モ有ルコトナシ。
彼等ハ皆、小農夫、或ハ小商人ニ過ギザリキ。

しか
レドモ、コレ等ノ小農夫及小商人ハ、皆天ヲ敬シ、人ヲ愛スルコトヲ知ルモノナリキ。彼等ハ教育アリ、訓練アリ、特ニ自治ノ能力ニ於テハ優レタル天分素質ヲ有セルモノナリキ。
カクテ西航六十有余日。
信神渡航者ガぷりもすニ到リ着セル時ハ、北米ノ天ハ寒威猛烈ナル極月ノ、シカモ三十日ナリキ。彼等ノ胸臆ハ火ノ如ク燃エシカド、周囲ノ天地ハ満目荒涼タル未開ノ厳冬也。シカモコノ寒キ天地ノ中ニ、掘立小屋ヲ作リテ、辛ウジテ彼等ノ肉体ヲ入レテ、而シテ、生活ノ第一歩ヨリ踏ミ出サザルベカラズ、ソノ艱苦経営知ルベキナリ。サレバ、ソノ三ヶ月ノ間ニ、コノ一行ノ死セルモノ約半数ニ及ビタリ、一日ニ死スルモノ二三人、百二名ヲ以テ上陸シタル一行ハ三ヶ月ニシテ五十名ヲ余スノミ。
内ニ信仰ノ火燃ユルガ如ク、外ニ国民性ノ堅実不撓
ふたう
ナルニアラザレバ、イカデカコノ悲惨ニ堪ヘ得ンヤ。絶望シ、悲観シ、空シク絶滅スルカ、然ラズンバ
はじ
ヲ忍ンデ逃ゲテ故国ノ空ニ帰ランカ。シカモ、彼等ノ一人モ意気精神ノ阻喪
そさう
スルモノヲ見ザリキ。
彼等ハ、先ヅ荒土ヲ
ひら
イテ種ヲ
キタリ。熟土ヲ耕ストハ事変リ、前人未開ノ地ニ、原始ノ鍬ヲ用フルノ困難ハ知ル人ゾ知ラン。彼等ガ農法ハ新陸ノ土地ニ適セザルカ、彼等ノ携ヘ来レル種子ハ新地ニ合セザルカ、苦心経営ノ初期ノ収納ハ遂ニ皆無ナリキ、而シテ土人ヨリ分与受ケタル玉蜀黍
たうもろこし
ノミガ成功シ、コレニヨツテ僅カニ主食ヲ備ヘ、漁猟ヲ以テコレヲ補ヒツツ、辛ウジテソノ年ヲ送ルヲ得タル也」
 こういったような史実は、駒井甚三郎にとっては、今まで全く門外のことでありました。亜米利加建国初期の開拓者が、こんなような苦難を
めて来たということは、今日までの駒井はほとんど無関心であって、ただ彼は開明の国、人智と機械力とで日本を高圧したり、開国に導こうとしたりしている国、その物と力の発明には、何と言っても一日も一月もの長所があることを、駒井の如きは最も強く認めた一人でありまして、人から西洋心酔者とうたわれるまでに、西洋特に亜米利加の文物の研究のことに熱心であった駒井は、その原始に
さかのぼ
って、今日の開明人にもかくの如き苦心惨憺の経営時代があったということを、今日はじめて身にしみじみと味わうことができました。
「おれは今まで苦労をしないで学問をした、その罪だ」
というようなことを、同時に駒井が自覚したというのは、過去の自分は先祖の功業によって、天下の直参の誇りの中に生き、豊かな経費を持って、欲しいものを
あがな
い得られた。その順境に於て学問をして来たのである。だから、順境そのものが天然に与えられた当然の地位だ、と
なれ

になって事をなしつつあったのだが、自分の昨日の安定を与えたものは、徳川初期の先祖の血の賜物であったに過ぎないということを、今しみじみと自覚せしめられました。
 そうして、今日は全く赤裸にかえって、先祖のなした創業の第一歩を踏むの心持で進まなければならぬことがよくわかってきました。その心境にいて見ると、右の如く自由の天地を求めて船出をした異郷の先人の行路に、無限の教訓と、同情を起さざるを得ない――といって、この書の教うる「信神渡航者」の船出と、現在自分が試みつつある無名丸の出発は、性質に於ても、経験に於ても、全然性質を異にしていることを覚らざるを得ないという次第でした。
 無名丸はまだ無名丸である、しかとした船の名目すらが出来ていない。名は体をあらわすものとすれば、無名丸そのものの内容が無目的なのであって、形は出来て、歩行はつづけられるけれども、頭もなければ
はら
もないのだということを、駒井はつくづくと考えさせられてきました。
 さりとて、自分はイエス・キリストを信ずるものではない、イエス・キリストを信ずるどころではない、日本の宗教のいずれにも信仰者とは断じて言えない。この点に於て、無名丸は無信丸である、五月丸とは天地の相違がある――我等の無名丸の中には、金椎
キンツイ
を除いて祈る人などは一人もいない。五月丸の中には、僧侶、軍人、英雄、豪傑といったようなものは一人もいなかったそうだが、それが今日の亜米利加
アメリカ
の強大の礎石となったということは、絶大なる驚異だ。
 それに反して我が無名丸の中には、少なくとも貴族がいる。自分から言うのは烏滸
おこ
がましいが、現在自分の身柄がすでに貴族でないと誰が言う。日本に於て、殿様の階級に属して天下の直参を誇っていた身だ。それに田山白雲はまた一種の豪傑である。七兵衛は異常な怪物である。茂太郎は変則の天才であり、柳田平治は豪傑の卵である。お松は堅実なる女性である。金椎は聖者に似ている。普通平凡なのは、農夫、漁師、大工、乳母だけにとどまる。上は天才聖者に似たのがいるかと見ると――下は性の開放者までいる。数こそ少ないが、この船の中の人間と、その性格に至っては、紛然雑然として帰一するということを知らない。
 五月丸の乗組は、その信仰と結合に於ては一糸も
みだ
れない、おのずからなる統一を保って、生死を共にして
いと
わない温かさに終始していたが、自分の船に至っては、なんらのまとまった信仰がなく、なんらの性格的帰一がない。これでいいのか、と駒井甚三郎が、この点に於ても深くも考えさせられたものがあるようでした。
 しかし、夜が明けると、船の針路がおのずから南に向っておりました。
 駒井甚三郎は、北進策を捨てて、南進を目標とする決心が昨夜のうちに定まったと見えます。
 駒井甚三郎が、北進を捨てて南進策を取ったからといって、信神渡航者のことは亜米利加に於ても、すでに二百年の昔のことです。今の亜米利加は昔の亜米利加でない、富み栄えて張りきっている。いまさら駒井がその後塵を拝して、前人のすでに功を成したその余沢にありつこうなどの依頼心はないにきまっている。いわばこれを一時の梅花心易
ばいかしんえき
に求めて、当座の行動の辻占に供したに過ぎまいと言うべきですから、従って、針路こそ南に転向ときまったけれども、目的がきまったわけではない。内外共に
いま
だ解決せざる問題が充ち満ちている。
 前途に倍加する多事多難を予想せずにはいられますまい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4344_15487.html

「大菩薩峠」を読み直す(4)

殺人鬼であり冷血漢である机竜之介と、幼いころの火傷でケロイド状の顔をもつお銀さまが取り交わす噛み合わないやり取りが興味深い。この小説の登場人物には身体障害者や精神障害者が少なくない。浪人に代表される幕藩体制からの離脱者や社会的な脱落者、「不具者」といってもよく outsider として捉えることもできる。

胆吹の巻 十二
 同時に、湖面の一点に、ざんぶと音がして、そのあたり一面に水煙が立ったかと見ると、漣々
れんれん
として、そこに波紋が、韓紅
からくれない
になってゆく異様の現象が起りました。
 湖面も、湖を立てこめた数千丈の断崖も、前に言った通りの蛍のように蒼白
そうはく
の色に覆われていたのが、今、不意にざんぶと音がして、その水煙から輪になって行く波紋のすべて鮮紅色になってゆく現象を、さすがお銀様が怪しまずにはおられません。
「あれは、どうしたのです」
 意地悪いお雪ちゃんいじめを抛擲
ほうてき
して、そうして疑問をかけたのを、竜之助がうなずいて、
「あれだ、ああして毎日、いいかげんの時に、人が飛び込むのだ」
「飛び込んでどうするのです」
「どうするって、つまり身投げだよ。見ていると、一刻
ひととき
の間に十も二十も飛びこむことがある、そら見な、あの通り真紅
まっか
になっている中に、真白いものがふわりと浮いているだろう、女の
しり
だ」
「え?」
「女は水に落ちて死ぬと、死体は上向きになり、男は下向きになるということだが、ここで見るとそうばかりではない、真白い女の臀っぺたが、
き立てのお餅のように、幾つも幾つも浮いているところは見られたものじゃない」

ごう
さらしです、女の風上には置けない」
「人間というやつは全くわからないやつだ、刀を抜いて見せたりなんぞすると、
ふる
え上って助けを呼ぶくせに、死にたいとなると、勇敢にああして後から後からと、この血の池の中に飛び込んでしまう」
「勇敢なのじゃありません、意気地なしなんです」
「どっちだかわからないよ」
「自分の身を粗末にして、それを見栄と心得る馬鹿者が絶えないのです」
「時に……」
と竜之助は少し改まって、断崖の欄干から後ろの岩壁へ背をもたせ、
「開墾事業の方はどうです」
「どしどし進行しておりますよ」
と、お銀様との問答が、全く別な内容へ向いて来ました。
ものになりますかね」
ものにしますとも」
「そうして、この開墾王国の女王の下に、何人ぐらいの人口が収容できる見込みですか」
「何人と制限はありません、土地の生産の供給が許す限りは人を入れます」
「土地の生産の見込みはつきますかな」
「それは、つかないはずはありません、
いやしく
も土そのものに生産能力のある限り、種を
いてやれば、実を結ばせるだけの素質を持った土地ならば、それに住む人口は食わせて余りあるだけの生産は、きっと得られます。既に土地が食物を供給しさえすれば、人間をそこに収容し、そこに生活を為さしめ得ないということはありません」
「なるほど――」
「人間が自由を奪われるのは、つまり食えないからですね。それと同じように、人間が人間にたよらずして食えさえすれば、人間は本当に人間らしく生きて行くことができます。さむらいが主君に忠義を尽すというのも、知行
ちぎょう
を貰って食べさせられているからです。知行を貰って食べさせられているから、それで、まさかの時は君の馬前で死ななければなりません。まさかの時でない時、尋常の場合にも、主君というものの前に奴隷の状態でいなければなりません――自分で食うことを知っていれば、知行を貰って忠義を尽す必要なんぞはありません。それと同じように、すべての人が……」
「まあ、待って下さい、お銀さん、自分で食うことを知っていれば、人は奴隷の状態にいなくてもいいと言いましたね。さむらいというやつは、知行を貰って身売りをしている奴隷の一種だというようなことを、お前さんは言いましたね。なるほど、してみると、自分で作り、自分で食うことを知っている、あの百姓の生活はどうです、あれがさむらい以上の奴隷生活ではないと誰が言います」
「え、それにはそれで、また理窟があります、百姓が天地の間に物を作り、自ら生き、自ら食うことを知っている境涯にありながら、現在、さむらい以上の奴隷生活を送っているということは、わたしも充分にそれを認めます。それを認めればこそ、わたしの開墾事業も起ろうというものです。事実、今日の百姓は、自ら力を尽して土地に蒔いたその収入を、自分のものとすることができません。全部を自分のものとすることができないのみならず、ほとんど全部を他のために奪われてしまっているのです」
「誰が奪うのですか」
「百姓以外の、衣食を作らない人が奪っているのです。そうして、衣食を作っている百姓は、そのうちのホンの生きて行くだけというよりは、息をするに足るだけの少量を与えられて、そうして、身動きもできないようにこしらえられてあるのです。ですから、それを、わたしの開墾地ではやめようと思います、正当に衣食を作る人には、正当にその分け前を与えます、そうして、衣食のために人間が人間に屈従することなく、衣食そのものは人間以外の天の恵み――とでも申しましょうか、そこから得て、人間はおたがいに人間としての平等な体面をもって
きて行こうというのが、わたしの開墾地の目的なのです」
「ははあ――それは結構なお考えに違いありません、が、しかし、仮りにその目的が達せられたとしましてですな」
「はい」
「そうして、人間が生活のために、つまり衣食のために、おたがいに屈従することなく、衣食の余りある生活の下に、人間の自由が伸び、享楽が増し、まあいわゆる、王道楽土とか、地上の理想国とかいうものが成立したとしましてですな」
「はい」
「その時に、もし隣の地に悪い奴があって、その理想国を
うらや
み、その余裕のある宝を奪いに来たらどうします」
「そういうものが多少現われたところで、わたしたちの団結の力で受けつけません」
「ですけれども、それがもし、その悪い奴が多少でなく、二人や三人や五人や十人ということでなく、数百、数千の人が団結して侵して来たらどうします」
「その時は、わたしたちのうちの男は
くわ
を捨てて、女はつむぎを投げ捨てて、その外敵を
はじ
きかえします」
「してみると、そういう不時の侵入者に対して、平常の用意というものが要りますね――五六十人の敵ならば、有合わす得物
えもの
を取って、応急的に追っぱらいましょうけれど、千人万人の侵入者に対して素手
すで
というわけにはゆきますまい、先方もまた必ず素手でやって来るというわけでもありますまい。必ず、こちらにも、それに要するだけの武器というものを、平生備えて置かなければならないでしょう」
「それは、事業が進み、規模が大きくなるにつれて、自然にその準備が出来るようになります。たとえば部落の中に火事があったとしましても、一軒二軒のうちならば、手桶や
たらい
で間に合いましょうけれど、殖えてくれば、非常手桶や竜吐水
りゅうとすい
も備えなければならず、また備える費用もおのずから働き出せて来ようというものです。いつ来るかわからない侵入者のために、あらかじめ備えて置かなければならない必要もありますまい」
「拙者は、そうではないと思う、その非常と侵入者に対するあらかじめの設備が無い限り、開墾地は成り立つものでないと思う。そうして、行く行く、その設備のために生産の大部分が奪われて行ってしまうから見ていてごらんなさい――それはそうとしてですな、今度は内部に就いて伺いましょう。お銀さん、仮りにあなたの理想国が成立して、無事に相当の期間つづき得たとしてですな、外敵も侵入者も影を見せない水いらずの楽土が成立したとしてですな、その内部に我儘者
わがままもの
がいたら、それを誰がどう処分しますか」
「そこです、わたしの理想国では我儘というものが無いのです。我儘がないというのは、誰に対しても絶対に我儘を許すからです。今の政治も、道徳も、すべて人間の我儘を抑えることにのみ専一なのですから、それで人間の反抗性を
あお
る結果になるのです。無制限に我儘を許してみてごらんなさい、人は無意識に自重の人となりますよ」
「ははあ、それは、すばらしい徹底ぶりですね、また一理ありと思いますが、そんならひとつ、実例について伺いましょう」
と、竜之助は尺八を取り直して、それをかせに使いながら、改めてお銀様にものやわらかな質問を試み出しました。
胆吹の巻 十三
「たとえば……ここに、その理想国のうちに一人の我儘者が出たとします、そのものが男であったとして、仮りに、その男が同じ楽土のうちの一人の女を恋したとしましょう、その結果はどうなるのです」
「わたしたちは、恋愛の自由を絶対に許すつもりでございます」
「恋愛の自由……
しか
し、その恋愛が完全性を帯びなかった時はどうです、つまり、一方だけに恋愛があって、一方にそれが無かった時はどうです」
「相愛しないところに自由は許されませんね」
「ところで、問題はそれからです、許されないその恋愛を強行したものがあった時は、どうします、つまり、最初の例の楽土のうちの一人の男が一人の女を愛してはいるが、女がその恋に酬いなかった時、男が淡泊に
あきら
めて引下れば問題は無いのですが、そうでなかった時、当然、暴力が発動される、そうして女が力に於て弱くして、その暴力に反抗しきれなかった時に、その結果はどうなりますか」
「それは仕方がありません、その時は、女は死を以て身を守るか、そうでなければ男の力に服従するのです、同様の事情は、女が積極的である場合にも許されなければなりません」
「ははあ、してみると、あなたの国もやっぱり暴力を是認するのですな、征服を認めるのですな」
「そうですとも、力が大事です。力というのは、腕の力ばかりではありませんよ。絶対の自由を許すところには、絶対の力がなければならないのです――そうして、その力というものは、非常の時は武力で、平和の時は金力なんです」
「だが、武力も、金力も、如何
いかん
ともする
あた
わざる力のあることを認めませんか」
「そんな力はありません、あるように見えましても、みな、武力か金力が持つ変形なのです」
「ですが――たとえば、いま女のことで例をとってみましたから、もう一つ、仮りに女の貞操というものなんぞはどうです」
「貞操――みさおですね」
「そうです、たとえばです、女が愛する夫のために死を以て貞操を守るというような場合に、武力や、金力が、これをどう扱いますか」
「貞操ですか――貞操なんていうものが本来、わたしにはよくわかっていないのです」
「ははあ、そうしますと、良家の夫人も、遊女おいらんの
たぐい
も、同じようなものなんですね」
「え、え、本来同じ人間ですね、一方は一人の夫を守るように生みつけられているし、一方は多数の客を相手にするように出来ているだけのものなんでしょう。一人の夫を守らなければならないようにさせられている者が貞女で、多数の男を相手にするものが不貞女とは断言できません。良家の夫人と言われるものでも、性格的にずいぶんイヤな女があり、遊女おいらんの類でも、性格的に立派な女があるものです。貞操なんていうものの本質を何だかわかっていないくせに、世間
てい
だけを守って、内実は堕落しきっている良家の夫人というのがいくらもあります、それからまた、境遇さえ改めてやれば、立派な貞女になりきる遊女がいくらもありますね――わたしは女を見るに、貞操なんぞをそう勿体
もったい
ない標準にしたくはないと思います。もともと、貞操というものは、一定の人を、一定の人に押しつけたり、与えきったりしようとする圧制から起った人間の勝手な束縛なのです。しかし、昔はその圧制も束縛も、社会生存のために必要でありました点は認めますけれども、今ではその圧制と束縛が、人間を使用するようになりました」
「そうしますと、女の貞操というものは、無条件に解放していいのですか」
「そうです」
「では、女という女はみな、遊女にならなければならない道理ですね」
「いいえ、違います、遊女は
みさお
を売るのです、解放というのは売却することではありません、また、わたしたちの社会では、売ることの必要を認めないのです、男も女も独立して生活が与えられる保証が立てば、何を好んで売りたがるものがありましょう――縁あれば会い、縁なければ去るだけのものです」
「なかなかむずかしくなりましたが、それはそうとして、かりに道義的に貞操を認めないとしても、感情的に
けが
らわしい女と、汚らわしくない女との区別はありましょう、そうして、仮りにあなたが男であって、どちらかを選ぶとすれば、それは無論、汚らわしいものよりも、汚らわしくないものを選ぶことでしょう。最初から一人の男を守り通してくれる人と、誰でもおかまいなしに相手にする女と、どちらを選ぶかということになれば、あなただって、それはきまっているでしょう。それをもう少し実感的に言ってみるとですな、あなたの妻が、あなた一人を愛してくれるのと、妻でありながら他の男に許すという女と、どちらを選びますか」
「そんなことはお尋ねになるまでもありませんよ」
 お銀様はツンとして、つき戻すように竜之助に向って答えました、
「一人の夫を愛しきれない妻――一人の妻を愛しきれない夫――つまり、それを世間でいう放蕩のはじまり、乱倫の起りときめてしまっていますから、すべての悲劇がそこから起るんですが、考えてみればばかばかしい話です、本来、自然に出でなければならない愛情というものを、
いて追いかけようとするから、そんなばかばかしいことが起ってくるのです。好きである間は夫婦であってよろしい、いやになれば、夫婦なんていう形式をぬいでしまいさえすれば何でもないことではありませんか。夫婦という形式を、お友達という関係として見れば、何のことはございません、その時々によって無制限であり、近くもなり、遠くもなるべきお友達というものを、生涯一緒に引きつけて置かなければならないはずもなし、また、そんな
わずら
わしいことをしたいと言ってもできるものではありません」
「だがなあ、男女の間のことってものは、そう単純にはいかんものでなあ、一方の愛が衰えても、一方の愛はまだ盛んなこともあるですからなあ。つまり、未練というものがあるものでな」
「その未練とか、嫉妬とかいうのが一番いけないんです、わたしの作ろうとする理想国では、そういう場合に於ける未練と嫉妬とを、厳重に禁止する、またそういう場合は極めて自由恬淡
てんたん
であるべきように、子供のうちから教育して置きたいと思います」
「なるほど――子供のうちから、異った習慣の社会に置いて、異った教育をして置けば知らぬこと、現在このままでは、好きな女が自分に
なび
かぬ時、自分にそむいて行こうとする時に起る悲劇をどう扱いますか、武力か、金力か、ともかく、お前さんの言う強力が、そんなのをどう扱うか聞きたいものです。もう少し露骨に例をとって言えば、自分の女房が不義をしたとか、または亭主が女ぐるいをして方図がないとかいう場合の、あなたの王国での制裁方法はどうなんですか」
「不義をした女房――その不義ということが、いわゆる世間の不義と、わたしの国の不義とでは解釈が違うかも知れませんが、仮りに世間の例に従ってみましょう、刑罰として殺すということは、わたしの国では許さないつもりです、また他国へ追放するということも、未解決の延長になるだけのものですから、そういう場合には極めて気分安らかに、一方が一方を離れてさえしまえばよいのです、未練も残さず、嫉妬も起さずに――離れることを好まなければ、やはり同じ生活をしていながら、お互いともに絶対的に許してしまうのです」
「ははあ、そういうことができますかね、現在、目の前で自分の女房が、自分以外の幾多の男に許すのを、平気で見たり聞いたりしていられるものですかね」
「わたしは、それができると思うのです――観念の持ちよう一つでできなければならないと思うのです、現在それが、片一方だけには完全に行われて、誰もあやしまない程度に許されているのですから……」
「そんなことが許されていますかね、自分の最愛であるべき女房が、相手かまわず不義をしてもいいと言って、ながめていられるような社会が、現在のこの世界にありますかね」
「だから、片一方だけと言ったではありませんか――片一方というのは、男の側にだけということなんですよ、男の方は、現在の妻の目の前で、どんな不義をしても通っているし、通されているのです、その点に於て、女は嫉妬深いというけれど、実は寛大至極なんですね、早い話が、わたしたちがこんど新しく求めて種を
こうとする理想国の地面は、昔京極家の城跡であったということですから――ひとつその京極家から出立しての実例について見ようではありませんか」
「なるほど」
「このお雪さんという子が仮住居
かりずまい
にしているところに、大きな松の木があるのです、わたしはそれを見ると、あの辺をどうしても
まつ
丸殿
まるどの
と名をつけてみたくなりました。御存じでしょう、松の丸殿というのは太閤秀吉の御寵愛
ごちょうあい
の美人の一人なのです。あの人は、或る城主の妻でありましたが、それが
とりこ
となって秀吉の御寵愛を受ける身になったのです。お
めかけ
ではないそうです。太閤には五妻といって、ほとんど同格に扱われた五人の夫人がありましたことは、あなたも御存じでしょう。北の政所
まんどころ
とか、淀君
よどぎみ
とかを筆頭として、京極の松の丸殿もそれに並ぶ五妻のうちの一人でした。一人の男に仮りにも正式に妻と呼ばれるものが五人あって、それがおのおの一城を持って、一代を誇っていたのです。そのくらいですから、それ以外にあの秀吉の征服した女という女の数は幾人あったか知れません――と想像もできますし、また物の本を読めば、相当に実例を挙げて数えてみることもできるのではありませんか。
はなはだ
しいのは、宿将勇士たちを朝鮮征伐にやったそのあとで、いちいち留守の奥方を呼び入れて
ねや
のお
とぎ
を命じたということが、事実として信ぜられているではありませんか。それほどなのに、誰も太閤の乱倫没徳を
とが
める人がない。力というものはそれです。力さえあれば、男は幾人の女を同時に愛しても善い悪いは別として、事実が許すではありませんか。それが女には比較的――というよりは、絶対的に許されないと見られるまでのことなのです。けれども、男に許されて、女に許されないという道理はないはずです、要するに力の相違なんですから、その力がありさえすれば女といえども、男のした通りのことをして、やはり道徳的に善い悪いということは問題外に置いてでございますね、力がありさえすれば女だって、それがやれないことはないのです」
「そういう理窟になるね。しかし、女の方にそんな実例がありますか」
「ありますとも、唐の則天武后
そくてんぶこう
をごらんなさい」
「うむ、則天武后ですか」
「歴史家という人たちは、その人たちの支配されている時代の尺度で歴史を書くものですから、自然、人間の規模を見損なってしまうことが多いのです、則天武后を、淫乱の、暴虐の、無茶の、強悪の権化
ごんげ
のようにのみ、歴史の書物には写し出されていますけれども、そう暴虐の、淫乱の、無茶な人に、いつまでも人心が服しているはずはありません、たとい一時の権勢はありましても、長く人気を保てるはずはないのに、あの人は大唐国の王座をふまえて少しもゆるがさず、好きなという好きな男は無条件に自分の性慾の犠牲として、或いは
もてあそ
び、或いは殺していながら、それで八十歳の天寿をまで保ち得たということは、非常な力を持った人でなければならないはずです、ああなると力というよりも、一種の徳と見なければなりません」
「ははあ――力は、すべての道徳の上の道徳だな」
と竜之助がうそぶきました。
胆吹の巻 十四
 お銀様は、さほど昂奮しているとも見えないが、その論鋒はいよいよ衰えないで、
「力は即ち道徳と言っても少しも差支えはないのです。世間では、道徳を一つ一つの型に
こしら
えてしまっていますから、小さいものは当嵌
あては
まりますが、大きくなると、その型に入れきれなくなります、その場合になって、不道徳だの、乱倫だのと、目を三角にして騒ぎ廻りますけれども、自分たちの型の小さいことには気がつきません、ただ事実だけの進行を如何
いかん
ともすることができないでいるのが痛快とは言わないが、かえって自然なんですね。珊瑚
さんご
の五分玉には、針で突いたほどの穴があっても
きず
は瑕に相違ないのです、五分玉としての価値はもうありませんが、この胆吹山に、一丈や二丈の穴を掘ったからとて瑕にもなんにもなりません、従って山のねうちに少しも関係はないのです、それを世間が同じように見るから、そこで狂乱がはじまるのです。裏店
うらだな
のかみさんたちが御亭主の胸倉
むなぐら
をとるつもりで、太閤の五妻を責めるわけにはゆかないのです。ですけれども、道徳というものは差別があっては道徳の権威がないと、もう少し若い時には、わたしたちでも、ひとり腹をたてたものです、裏店のおかみさんが間男
まおとこ
をして悪ければ、太閤秀吉が人の女房を犯していいという道徳はありますまい。それが許されているのは片手落ちなる強者の道徳――こんなことをわたしも、もう少し昔はヒドク憤慨してみた一人なのですが……」
「してみれば、力のある奴は、力一杯何をしてもいいんだな」
「そうですとも、力いっぱいに仕事をさせれば、きっと人間は、この世を楽土にさせ得るものなのです、型の小さい人間が、強者の力の利用を妨害するから、それで人間が
しきれないのです」
「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。天は人間に生みの苦しみをさせようと思って、色だの、恋だのという魔薬をかける、人間がそれにひっかかって親となり、子を持つようになったらもうおしまいさ。生めよ
やせよだなんて言ってるが、ろくでもない奴を生んで殖やしたこの世の
ざま
はどうだ。理想の世の中だの、楽土なんていうものは、人間のたくらみで出来るものじゃない、人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」
「あなた一流の絶滅の哲学ですね――哲学だけならいいけれど、あなたは実行力を持つからたまらない」
「ふ、ふーん、実行力――知れたものだ」
と、竜之助が自ら
あざけ
りました。そうするとお銀様もツンとして、
「お気の毒さま、あなたに限ったことはありません、どんな絶滅の哲学者が現われても、戦争が続いても、流行病がはやっても、人間の種はなかなか尽きませんよ」
「困ったものだ、ろくでもない奴が殖えてばかりいやがるな、だが、いつか、絶滅する時があるよ、人間てやつが、一人残らずやっつけられる時がある」
「せっかくですが、やっぱり殖えるばかりで、減る様子は見えませんね、殺し合っても殺しきれないんです――人間以外の力だってそうです、幾世紀に幾度しか来ない、戦争や、天災だって、一時に十万の人を殺すことは、めったにありませんからね。そのほかに、この人間力に対抗するような力が、ちょっと見出されないじゃありませんか。いったい、何が人間を亡ぼしますか」
「この土と水とがすっかり冷たくなって、コケも生えないような時節が遠からず来るよ、
こけ
が生えないくらいだから、人畜が生きられよう道理がない、その時まで待つさ」
「誰がその時節到来を待ちたいと言いました、そんな時代をわたしたちは想像したこともないのです。ごらんの通り、地上には人の要求する何十倍もの食料を与えるところの穀物が生えるのです、土が人間を愛するから、それで食物に不足はありません、私たちは、生きて、栄えて、整理して、防禦して、それで聞かない時は討滅して、力の権威をもって、自分に従わないものをどしどしと征服して行くのです。そういう意味に於て絶対の暴虐が許されます。あなたなんぞは明るい日の目を見ることが出来ないで、仮りに十日に一人、月に五人の血を吸って
かろ
うじて生きて行く間に、私たちは土を征服し、人間をことごとく自分の理想の従卒とし、牛馬として使って行くのです、愉快じゃありませんか」
「ふふーん、そういうのは征服じゃない、自分が多くの有象無象
うぞうむぞう
の生きんがための犠牲に使われ、ダシに使われているのだ、英雄豪傑なんていうものと、愚民衆俗というやつの関係が、いつもそれなんでね。要するに人間というやつは、自分たちの、無用にして愚劣なる生活を
むさぼ
りたいために、土地を濫費
らんぴ
し、草木を消耗していくだけのことしかできないのだ、結局は天然を破壊し、人情を亡ぼすだけのことなのだ。開墾事業だなんぞと言えば、聞えはいいようだが、人間共の得手勝手の名代
なだい
で、天然の方から言えば破壊に過ぎない。人間共のする仕事、タカが知れているといえばそれまでだが、あまり増長すると、天然もだまってはいない、安政の大地震などは、生やさしいものだ、いまにきっと人間が絶滅させられる時が来る。天上の
あま

がわ
がすっかり凍って、その凍った流れが滝になって、この世界の地上のいちばん高いところから、どうっと氷の大洪水が地上いっぱいに十重
とえ
二十重
はたえ
も取りまいて、人畜は言わでものこと、山に
む獣も、海に棲む魚介も、草木も、芽生えから卵に至るまで、生きとし生けるものの種が、すっかり氷に張りつめられて絶滅してしまう。わしは信州にいる時にそういう夢を見たが、
めて見ると山が火を噴き出したといって人が騒ぎ出した、火と水との相違だが、いずれ天然の呼吸の加減で、人間というやつが種切れになる時があるにはあると思っているよ」
「そうですね、夢にだけはそんな時があるかも知れないが、まあ、この世の中をごらんなさい、眼の見えない人は格別、わたしたちのような眼で見ると、まだまだ地面は若々しく、人間には油がありますね。こうして地面と人間とが生きて見せびらかしている間は、いかに絶滅論者でも、自分の手で死なない限り、死ぬことさえが
まま
にはなりますまい。御退屈でも、あなたの想像するその絶滅の日の来るまで、そうしてお待ちなさい」

たま
らないな、いつその日が来るんだ、その絶滅の日が来るまでは、ここを出られないのかい」
「それがよろしうございます、気永く、そうして絶滅の日の来るのを待っておいでなさい」
「堪らないよ、退屈するなあ、もう少し広いところへ出してくれないか」
「いけません、あなたはそうしていらっしゃるのがいちばん楽なんです」
冗談
じょうだん
じゃない、お為ごかしで監禁されてしまったんじゃたまらない、誰がいったい、拙者をこんなところへ入れたのだ」
「それは、わたしが封じ込んだのです」
「ははあ、笑止千万、理想の国土だの、安楽の王土だの、人を無条件に許すの許さないのという奴が、男一匹を捕えて監禁束縛して置かなければ安心ができない――力の哲学の自殺だね」
「ちょうど、絶滅の論者が、自分の身を絶滅しきれないで迷っているのと同じようなものですね、ホホホホホ」
「お銀さん、黙ってお前さんの理窟だけを聞いていると、お前さんはどうしても則天武后以上の女傑のようだが、理窟は理窟として、現在拙者は、こうして一室に監禁されているのがたまらないな、こんな、日の目の見えないところから解放してやってくれてはどうです、こんな座敷牢へ押込めて置かなくても、広い世界へ野放しにしてみたところで、人間のしでかす事なんぞは、タカの知れたものじゃありませんか」
「お言葉ですが、あなたばっかりはいけません、あなたを解放してあげることは、為めによくありません」
「どうして」
「どうしてったって、こういう人間に限って、決して日の目のあたるところへ出してはならないのです」
「それは残酷ですね」
「残酷なんて言葉を、あなたも知っていらっしゃるのですか」
「男一匹を、こうして日の目の当らぬところへ永久に閉じ込めて置くなんぞは、残酷でなくて何です」
「閉じ込められて置かれる人の残酷さ加減より、そういう人を解放することの危険さから生ずる残酷の方が幾層倍も怖ろしいから、それでわたしの計らいで、当分ここへ封じ込めて置くのが、どうして悪いのですか」
「悪いな――人の自由を奪うというのは何よりも悪い、ましてだ、自由と解放とのために、新理想の楽土王国を築こうなんぞという女性が、あべこべに人を捉えて、幽囚の身にするなんぞは、矛盾も
はなはだ
しい、解放して下さい」
「いけません――あなたをここから出してあげることはいけません、もし何か御用がある節は、こちらから行ってあげて、少しも不自由はおさせ申しませんから、おっしゃってみて下さい」
「いやはや」
「何か御要求はありませんか」
「それはあるさ、生きている以上は」
「何ですか」
「生きているために必要な要求ぐらいは、聞かなくたって分りそうなものだ」
「米ですか」
「は、は、は」
「肉ですか」
「は、は、は」
「血ですか」
「は、は、は」
「そうでしょう、あなたは生ている肉か、温かい血でなければ召上れない人なんですから、それは、わたしが先刻御承知ですから、いくらでも御意のままに供給して上げますよ。ですけれども、ここにいるような、いたいけな、やわらか過ぎるのはいけませんよ、こんなやわらかな肉ばかり食べていると、狼の牙が鈍ってしまいますね。
あぶら
ののった、もう少し肉のただれた、そうして歯ごたえのある骨つきの肉でなければ、食べてはなりません」
「は、は、は」
「今、あなたの要求する、ちょうど、あなたのお歯に合うようなよい肉を、わたしがそこへ持って行ってあげるから」
 お銀様の言葉が、ここで異様に昂奮し出して、ひらりと身をのし上げたかと見ると、対岸にいる人に向って吸いつくように飛びかかったのを見て、
「あれ危ない」
 お雪ちゃんがそれを
さえぎ
り止めようとしたのか、また自分ももつれ合ってそれと一緒に飛んで行こうという気になったのか、その途端に自分だけがハネ返されて、後ろの岩壁へ仰向けに打ちつけられてしまいました。
 そうすると、絶対的の向う岸で、
「ホ、ホ、ホ、あなたはここへ来られません、そこで見ていらっしゃい」
 お雪ちゃんは眼前で、お銀様という人の肉体の怖ろしい躍動を見せられてしまいました。
 その怖ろしい躍動を真似
まね
るだけの力も、妨げるだけの力もないお雪ちゃんは、歯を食いしばって、眼を閉づるよりほかはありません。
 一旦つぶった眼を開いて見ると、欄干のあったと思う対岸には、鉄の棒の荒格子がすっかりはめられていて、その中は以前と同じ洞窟のようでありますけれど、白衣
びゃくえ
に尺八のすさまじい風流人の姿は見えず、大きな鳥の羽ばたきの音が聞えました。
 それは昼のうちから自分たちの視覚を攪乱
こうらん
していた大鷲が――この牢の暗い中に、ただ一羽、空で見たところよりも、こうして捕われているところを見ると、五倍も十倍も大きく、獰猛
どうもう
に見えるのでしたが、その大鷲がこちらには頓着せずして、しきりに下を向いて、その鋭い
くちばし
を血だらけにして何をかつついて食べている。深い爪でしっかと抑え、その血だらけの鋭い嘴の犠牲にあげられているものを何者かと見ると、ああ、それは今のお銀様です。お銀様は、大鷲の両足にしっかり押しつけられて、
かお
といわず、胸といわず、ところきらわず、その深い嘴でつついては食われつつあるのです。
「あ、お嬢様! お嬢様!」
と、お雪ちゃんは絶叫して、自らあの残酷の中へ身を投じたお嬢様の不幸な運命に怖れおののいたが、一つおかしいことは、さほど残酷な犠牲となって、猛鳥のために
むさぼ
り食われつつある当のお嬢様が、少しも苦痛の表情をもせず、助けを求めるの声をなさず、
さるるがままに、食わるるがままに任せて、そうして、死んでいるのではない、かえって、その猛鳥の加える残酷と、貪欲
どんよく
と、征服とを、相当に心地よげに無抵抗に、むしろ、うっとりとしてなすがままに任せている、そのお銀様の態度に、お雪ちゃんが、あの猛鳥の為す業より、なお一層の残忍さを覚えて、
「お嬢様、あなたは――」
と言った時に、目が
めました。枕もとで、
「お雪ちゃん、わたしはいま帰って来たところです、あなたは夢にうなされていましたね」
 それは現実の弁信の答えであって、驚いて見ると障子が白くなっておりました。
 弁信法師は、昨夕のあの大風に、無事に帰れて、今朝、たった今、ここへ立戻って来たところに相違ありません。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4511_14292.html

「大菩薩峠」を読み直す(3)

「勿来の関の巻」はやや中だるみの感があったが、この長編小説に取りかれのがれることができない。読み続けていると、興味深い内容があった。16世紀末の朝鮮侵略における王義之の真筆をめぐる伊達家と細川家の物語だ。真偽のほどは不明だが、こういう内容に興味を持つ僕が少し変なのかもしれない。以下、青空文庫「大菩薩峠 白雲の巻」より引用する。

白雲の巻 五
 (前略)
「ああ、それそれ、もう一つ仙台家に――特に天下に全くかけ替えのない王羲之
おうぎし
があるそうですが、御存じですか、王羲之の孝経――」
「有ります、有ります」
 玉蕉女史が言下に答えたので、白雲がまた乗気になり、
「それは拝見できないものでしょうかなあ」
「それはできません」
 女史はキッパリ答えて、
「あればっかりは、わたくしどもも、話に承っておりまするだけで、どう伝手
つて
を求めても拝見は叶いません、いや、わたくしどもばかりではございません、諸侯方の御所望でも、おそらくは江戸の将軍家からの御達しでも、門外へ出すことは覚束なかろうと存じます」
「ははあ、果して王羲之の真筆ならば、さもありそうなことですが、王羲之の真筆はおろか、拓本でさえ、初版のものは支那にも無いと聞いています――そういう貴重の品が、どうして伊達家の手に落ちたか、その来歴だけでも知りたい」
という白雲の希望に対しては、玉蕉女史が、次の如く明瞭に語って聞かせてくれました。
白雲の巻 六
 豊太閤朝鮮征伐の時、仙台の伊達政宗も
おく

せながら出征した。朝鮮国王の城が開かれた時、城内の金銀財宝には目をつける人はあったけれども、書画骨董
こっとう
に目のとどく士卒というのは極めて稀れであった。
 そのうちに、肥後の熊本の細川の藩士で甲というのがしきりに、王城内で一つの書き物を見ている――兵馬倥偬
へいばこうそう

かん
に、ともかく墨のついたものに一心に見惚れているくらいだから、この甲士の眼には、多少翰墨
かんぼく
の修養があったものに相違ない。
「これこそ、わが主人三斎公にお目にかけなければならぬ」
 それを、
かた
えから、さいぜんよりじっとのぞいていたのが、伊達家の乙士であった。
 この乙士がまた、偶然にも同好の趣味を解し得ていたと見え――細川の甲士が一心をとられているそれを、のぞいて見ると、ああ見事――熟視すると、それがすなわち王羲之筆の孝経である。
 乙士の眼は燃えた。わが主人政宗公へ、この上もない土産――分捕って持ちかえらないまでも、一眼お目にかけたら、そのおよろこびはと、自分の趣味から、主人思いは細川の甲士と同様で、それに功名熱が
あお
りかけたが如何
いかん
せん――先取権はもう、その細川の甲士の上にある。
 さりとて、どうも、このままでは引けない、ともかくもぶっつかってみようと、伊達の乙士は細川の甲士に向い、なにげなく、
「さても見事な筆蹟でござるが、拙者もこの道は横好き、なんとこの一巻を、拙者の好事
こうず
にめでてお譲り下さるまいか」
 こう言って持ちかけてみたが、甲士は頭を縦に振らなかった。
「敵将の一番首はお譲り申そうとも、この一巻は御所望に応ずるわけにはいかぬ」
「それは近ごろ残念千万ながら、是非に及ばぬこと」
 礼儀から言っても、名分から言っても、先方が譲らないと言う以上、こちらは、どうしても指をくわえて引込まなければならない。ぜひなく陣へ立戻ったが、残念で堪らないから、改めてその一条を主人政宗に向って物語った。
「それは残念無念――そのほうが我に見せたいと思うより以上、おれはその品を見たい、見ずには置けぬ」
 そこで独眼竜は馬を
って、直ちに細川三斎の陣を訪れた。
「突然の推参ながら、たって所望の儀は、さいぜん貴公の家士が稀代の名筆を分捕られたそうな、それを一目拝見が致したい」
容易
たやす
き儀でござる」
 三斎もそれを
こば
まん由はなく、今し甲士が分捕って
もた
らしたばかりの一巻をとって、政宗の手に置いた。
 政宗それを取り上げて見ると、唐太宗親筆の序――王右軍の筆蹟――独眼竜の一つの目が、その全巻の中へ燃え落ちるばかりになっているのを見て、急に驚き出したのは細川三斎であった。
 この勢いでは、この男に持って行かれてしまうかも知れない――所望と打出された以上は、相手が相手だけに、どうしても只では済まされない、ここは先手を打つよりほかはないと、老巧なる細川三斎は、政宗と王羲之
おうぎし
とをすっかり取組まして置いて、穏かに
くさび
を打込んだ、
「伊達公の御来駕
ごらいが
を幸い、密談にわたり候えども、かねがねの所存もござること故、折入って御相談を願いたい儀は――」
と、改まって物々しく出た。王羲之に打ちこみながら、政宗は、
「何事かは存ぜねども、御心置なく申し聞けられたい」
「余の儀でもござらぬが、太閤殿下の威勢によりて天下は一統の姿とはなりつるが、これで安定とは、我人共に得心のなり申さぬ時勢、太閤百年の後、天下再び麻の如く乱るるや否や――
しか
る上は、君は東北にあって本土の頭を抑え、不肖は九州にあってその脚を抑え、かくして、南北相俟
あいま
って国家のために尽しなば、そのしあわせ、我々の上のみならずと存じ申す。よって、今日貴公の来臨を機会とし、伊達公と細川家――末永く親類の名乗りを致したいものでござるが――」
 練達堪能
れんたつたんのう
の細川三斎から、こう言われて、豪気濶達の伊達政宗が、その返答を躊躇するようなことはなかった。
「それは、深慮大計の御一言、不肖ながら我等とても同様の所存、然らば今日より、細川家と伊達家は、末永く親類づき合いをすることに致そう」
「早速の御承諾かたじけなし――然らば、その結納
ゆいのう
の記念として」
 細川三斎は、伊達政宗の手から王羲之の孝経を受取って――その場で二つに裂いた。
「この上半を君に進呈し、下半は忠興
ただおき
頂戴し、これを以て心を一にして、両家親類和睦の記念とつかまつる」
 そこで、この一巻が、伊達家と細川家と、両家にわかれての家宝となった。
 それより物変り星うつり、伊達家は政宗より五代、名君と聞えた吉村の時代になり、細川家もまた当然越中守宗孝の時代となったのである。
「ところが、どちらがどう伏線になっていることでございますか、この二つに分れた王羲之が、それとは全く異なった因縁と出来事とによって、一つになる機会を得ました、それで話が伊勢の国へ飛ぶのでございます」
白雲の巻 七
 玉蕉女史は、事実の非常に奇なる物語を、やさしい物言いで、たくみに語り聞かせるものですから、白雲も膝の進むのを覚えませんでした。
 朝鮮陣の物語から、話題一転して、ここは伊勢の国、藤堂家の城下の舞台となる。玉蕉女史は、※(「女+尾」、第3水準1-15-81)
びび
として次の如く物語を加えました、
「御承知の通り、伊勢の国は、大神宮参拝の諸国人の群がる土地でございます、それだけに土地に、他国人を相手に悪い風儀も多少ございまして、藤堂家の家中のさむらいにも、折々、通りがかりの旅人に難題を吹きかけ、喧嘩を売り、相手を困らせて置いて一方からなれ合いの仲裁役を出し、そうしてどうやら事を納めたようにして酒手
さかて
をせびる――というような風の悪い武家が無いではなかったそうでございますが、いずれも遠国の旅人ゆえ、相手が怖がって、無理を通したというようなわけでございましたが、藤堂家からはお隣りの、大垣藩の戸田家の方々がそれを聞いて苦々しいことに思いました。これはひとつ遠国旅人の迷惑のために、最寄りのわが藩中に於て目附役を買って出て、藤堂の悪武士の目に物見せて置いてやるべき義務がある、こんなように思いまして、戸田家の剣道指南役のなにがしという方が、わざと入念の田舎武士風によそおって、伊勢詣りを致すと、案の如く、藤堂家の悪ざむらいにひっかかりましたものですから、御参なれとばかり、それを取って抑え、さんざんにこらしめ、固く今後をいましめて許し帰したとのことでございますが、それだけで済めばそれでよろしいのでございますが……」
 右のこらしめの武士は、実は戸田家の指南役が姿を変えて、いたずらに来たのだという
うわさ
が、藤堂様の耳に入ったものですから、藤堂様もいい心持はなさらず、それに家中の者が戸田家の仕打ちを憎んで、その儀ならば、仕返しとして、戸田家に向って、うんと恥をかかせてやれ――という一念が昂じて、ついに戸田の殿様を暗殺してやろうという血気にはやるのが、とうとう実行に現われてしまいました。
 それは藤堂家の家中で、板倉修理というさむらいが、江戸の西の丸のお廊下に身を忍ばせて、戸田の殿様のおかえりを待受けていて、不意に飛びかかって斬りつけたのですが――
 間違いのある時は、いよいよ間違いのあるもので――板倉修理が戸田の殿様と思って斬りかけた先方は、思いきや前申し上げた肥後の熊本の細川越中守宗孝侯でございました。
 細川様こそ、何とも申上げようのない御災難で――実は、その時、板倉修理の一刀で御落命になったそうでございますが、そこへ通り合わせたのが、これも前申し上げた通り、名君の聞え高い仙台の吉村侯でございました。
 殿中、上を下への騒動の中に、通り合わせた伊達吉村侯は、細川侯を介抱し、
「細川越中守、ただいま卒中にて倒る、伊達陸奥守お預り申す」
と言って、血の垂れたところへは、全部小判を敷きつめて、御自分のお乗物に、越中守の御死体とお相乗りになって下城なされました。
 桜田御門の検閲は厳しいそうでございますが、その時、吉村侯のお乗物は、東照宮御由緒附きの胴白
どうじろ
のお乗物――それに太閤様以来、伊達家だけにお許しの活火縄
いきひなわ
で、粛々と行列を練ってお通りになったので、どうすることもできず――御面会のために群がる者へは、
「越中守殿は卒中にて倒れたが、只今、
かゆ
一椀を召上られたから心配御無用、御療養中、面会は一切おことわり――」
ということで、とりあえず細川家へ急をお告げになりました。
 細川家では、その翌日、「細川越中守宗孝、薬用叶わず、卒中にて卒去」ということの喪を発しましたが、暗殺は公然の秘密に致しましても、伊達家の証明如何
いかん
ともし難く、病気ということで公儀の取りつくろいも一切御無事に済みました。
 これはこれ、有徳院様お代替りの延享四年十月十五日のことでございました。
 御承知の通り、国主大名が殿中に於て非業
ひごう
の死を遂げた場合には、家名断絶は柳営
りゅうえい
の規則でございますから、伊達公のお通りがかりが無ければ、細川家は当然断絶すべき場合でございました。そこで、細川家が再生の恩を以て伊達家を徳とすることは申すまでもございません――その時に、細川家で家老たちが相談をして、文禄朝鮮征伐の時の王羲之の孝経の半分を持ち出し、いささか恩義に酬ゆるの礼として、これを伊達家に御寄贈になりました。これで細川家五十五万石が救われ、王羲之の孝経は完全な一巻となって、伊達家に秘蔵される運命になったのだそうでございます。
 右の来歴を逐一
ちくいち
聞き終ってみると、白雲はあきらめたようなものの、せめて、その※(「(墓-土)/手」、第3水準1-84-88)
もほん
でも、うつしでも、片鱗でも見たいものだと
しき
りに嘆声を発しました。
 玉蕉女史も、来歴のことだけはかなりくわしく知っているが、その片鱗をもうかがっていないことは白雲と同じ、そうして、しきりと渇望の思いにかられることも同じであります。
 けれども、結局、いかに執心しても、こればかりは我々の歯が立たないということに一致し、
いたず
らに王羲之の書――その他の書道の余談に
ふけ
ることによって、夜もいたく更けたようです。
 いつまでたっても話の興はつきないが、この辺で御辞退と白雲も気を
かせると、廊下伝いの立派な客間へ白雲を案内させて、美しい夜具の中に、心置なき
ねぐら
を与えくれるもてなしぶりに、白雲もなんだか夢の国へでも来たような気持になって、うっとりと、その美しい夜具の中に身を置いてみると――王羲之を中心としての話に、あんまり身が入り過ぎて、他の多くのかんじんなことを、すっかり忘れ去ってしまっていたことに、我ながら苦笑いをしました。
 そのうちの最初として、今晩たずねて来る口約束になっていた、あの名取川の蛇籠作
じゃかごづく
りの変な老爺
おやじ
――こっちは話に夢中で忘れてしまってはいたが、先方は、自分から念を押して今夜はかならずやって来るとあれほど言っていたのにまだ訪ねて来た様子はなし――責めは先方にあるのだ、と独文句
ひとりもんく
を言ってみたりしました。
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「大菩薩峠」を読み直す(2)

「大菩薩峠」の後半部 Oceanの巻で著者は、幕末の勘定奉行だった小栗上野介こうずけのすけ(Oguri Tadamasa 1827-1868)について西郷隆盛ほかと比較しながら再評価している。やや長いが青空文庫から引用する。

Oceanの巻から引用したのは学者肌の元旗本・駒井甚三郎と幕末の勘定奉行・小栗忠順のつながりこそが、この長編小説の作者の歴史観を示唆していると考えるからだ。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。

「明治維新」 Meiji Restoration という用語そのものが明治政権の見方以外の何ものでもない。「維新」を restoration (復元、返還)と英訳したのは本来あるべき形を復したという考え方そのものである。70歳を過ぎてこんなことに考えが及んで何になるというのか。

「大菩薩峠」 Oceanの巻 五
 これより先、海鹿島
あじかじま
から伊勢路の浦へ上陸した御用船の一行がありました。これも役人は役人だが、ただの役人ではない。軽装し測量機械を携え日の丸の旗を押立てたところを見ると、どうしてもこれは幕府の軍艦奉行の手であるらしい。
 この一行は、しかるべき組頭
くみがしら
に支配されて、都合八人ばかり、測量器械をかついで歩み行く、つまり軍艦奉行の手の者が、海岸検分の職を行うべく、この地点に上陸したものでしょう。
 ところで、とある小高い岩の上へ来て、組頭の一人が遠眼鏡をかざした時に、黒灰くろばい浦の引揚作業の大景気を眼前に見ました。
 それは肉眼でも見えるほどの距離を、かねて地勢をそらんじているところではあるし、その群集と、群集の中での作業、これから何事に取りかかろうとするのだか、職掌柄それを眼下に見て取ってしまったから、組頭の顔の色が変りました。不興極まる気色
けしき
を以て、遠眼鏡を
はず
し、部下の者を顧みて、
「おい、あれは何だ」
と一人に言いました。
「左様でござります」
 部下の一人は、一応その人だかりの方をながめてから恐る恐る、
「高崎藩の手の者が、黒船を引揚げるといって騒いでおりました」
「ナニ、高崎藩で黒船を引揚げる?」
「左様でございます、先年、あの黒灰浦に、多分オロシャのであろうところの密猟船が吹きつけられて、一艘
いっそう
沈んでしまいました、密猟船のこと
ゆえ
に、船を沈めてそのままで立去りましたのが、今でもよく土地の者の問題になります、それを今度、高崎藩が引揚げに着手するという
うわさ
を承りましたが、多分その騒ぎであろうと思います……」

しからん……」
 組頭は最初から機嫌を損じておりましたが、いよいよ
おもて

けわ
しくして、再び遠眼鏡を取り上げ、
「よく見て来給え、何の目的でああいうことをやり出したのか、屹度
きっと
問いただして来給え、次第によっては、その責任者をこれへ同道してもよろしい」
 この命令の下に、早くも軽快なのが二人、飛び出して行きました。組頭が不興な色を見せるのみならず、一隊の者が残らずそれに共鳴して、岩角の上から黒灰の浦を
にら
めている。
 けだし、これらの人々の不快は、自分たちが幕府の軍艦奉行の配下として、この近海に出張している際において、自分たちに一応の交渉もなくして、海の事に従事するというのは、たとえ高崎藩であろうとも、佐倉藩であろうとも、生意気千万である。
 ことに自分たちの奉行は、当時海のことにかけては、誰も指をさす者のない勝安房守
かつあわのかみ
であることが、虎の威光となっているのに、それを眼中におかず、ことに外国船引揚げというような難事業を、彼等一旗で遂行
すいこう
しようという振舞が言語道断である。そこで軍艦奉行の連中が、自分たちの首領の威光を無視され、自分たちの権限をおかされでもしたように、腹立たしく思い出したものと見える。
 かくて、彼等は測量のことも抛擲
ほうてき
して、岩角に立って黒灰浦の方面ばかりを激昂する
かお
で見つめながら使者の返答いかにと待っているが、その使者が容易には帰って来ないのがいよいよもどかしい。
 もとより、眼と鼻の間の出来事とはいえ、使者となった以上は、実際も検分し、且つ、先方の言い分をも相当に傾聴して帰らぬことには、役目が立たないものもあろう。しかし、こちらは視察よりは、むしろ問責の使をやったつもりですから、返答ぶりの遅いのに、いよいよ
らされる。
「ちぇッ、緩怠至極
かんたいしごく
の奴等だ」
 いらだちきった組頭は、この上は、自身糺問
きゅうもん
に当らねば
らち
が明かんと覚悟した時分、黒灰浦の海岸の陣屋の方に当って、一旒
いちりゅう
の旗の揚るのを認めました。
 そこで組頭は、再び気をしずめて遠眼鏡を取り直して、その旗印をながめたが合点
がてん
がゆきません。旗の揚ったことは組頭が認めたのみではなく、配下の者がみな認めたけれど、その旗印の何物であるかは、遠眼鏡のみがよく示します。
 上州高崎松平家か、その系統を引くこの地の領主大多喜
おおたき
の松平家ならば島原扇か
たちばな
、そうでなければ、俗に高崎扇という三ツ扇の紋所であるべきはずのを、いま、遠眼鏡にうつる旗印を見ると、それとは似ても似つかぬ、丸に――黒立波
くろたてなみ
の紋らしいから、合点がゆかないのです。
 そこで組頭は、またも配下の一人に遠眼鏡を渡しながら、
「あの旗印はありゃ何だ、君ひとつ、よく見当をつけてくれ給え」
「なるほど」
 それを受取った配下の一人がしきりに考えこんでいると、組頭が
「高崎の紋ではないじゃないか」
「仰せの通りでございます、丸に立波のように見えますが」
「その通りだ、拙者の見たのも丸に立波としか見えない、が、丸に立波はどこだ」
「左様でございます」
 彼等残らずが一つの旗印を見つめて、不審の色を、いよいよ濃くしてしまいました。
 最初には掲揚されていなかった旗じるし、多分時間から言ってみると、これはさいぜん、詰問にやった配下の者の交渉の結果であろう、その交渉の結果、彼等はこの旗印を掲揚することになったと思われるが、掲げられてみるとこちらからは、それがいっそう不可解の旗印となって現われてしまいました。
 高崎松平も、大多喜松平も、どう間違っても、丸に立波の紋を掲げるはずはないのだから、ここで
いたず
らに当惑するのも無理がないと見える。しかしもう少し落ちついて、この丸に立波の旗印から考えて行ったならば、多少思い当るところがあったかも知れないが、この一隊は、最初から意気込んでおりました。
 つまり、何藩にあれ、何人にあれ、われわれ幕府の軍艦奉行の手の者をさし置いて、その面前で沈没船引揚作業を行うというのが、軍艦奉行というものを無視しているし、ことに当時の軍艦奉行が凡物ならとにかく、日本全国に向って名声の存するところの、勝安房守というものの威光にも関するという腹があったのだから、安からぬことに思い、親しく出張して、一つには
の出しゃばり者に、たしなみを加え、一つには使者に
つか
わした配下の者どもの緩怠を屹度
きっと
叱り置かねば、役目の威信が立たぬようにも考えたのでしょう。
 この一隊は、測量をそっちのけにして、勢いこんで浜辺を進みました。
 この勢いで、高崎藩の陣屋へ
せつけた日には、ただでは済むまい、火花が散るか散らないかは先方の出よう一つであるが、どのみち、ただでは済むまいと見てあるうち、幸か不幸か、先刻遣わした使者の者が二人、きわどいところで、ばったりと本隊にでっくわしたものです。
「どうした、エ、何をしていたのだ君たちは」
 組頭は、充分の怒気を頭からあびせかけると、二人の使者は、さっぱり張合いがなく、
「いやどうも、少々とまどいを致して、力抜けの
てい
でございました、それがため復命が遅れて申しわけがござりませぬ、万事はあの旗印を御覧下さるとわかります」
 彼等は旗印を指さしたが、その旗印こそ不審千万なので――そこで追いかけて彼等が説明していうことには、
「御覧下さい――あれはお勘定奉行の諒解
りょうかい

もと
にやっている仕事でございます、しかも作業の発頭人
ほっとうにん
は、もとの甲府勤番支配駒井能登守殿であるらしいことが、意外千万の儀でございました」
 それを聞いて、組頭の面の上にかなり狼狽
ろうばい
の色が現われました。
「ははあ……」
 これも拍子抜けの
てい
で、改めて、翩翻
へんぽん
とひるがえる旗印を見直すと、丸に立波、そう言われてみれば、
まご

かた
もない、これは勘定奉行の小栗上野介殿
おぐりこうずけのすけどの
定紋
じょうもん

 その旗印が小栗上野介の定紋であるのみならず、なお奇怪にも聞えるのは、その旗印の下に仕事をしているのが、以前の甲府勤番支配駒井能登守らしいと言われて、彼等は夢を見たように、ぼんやりと考えさせられてしまいました。小栗を知るほどの者は、駒井を知らないはずはなかろうと思われる。
 しかし、小栗が隆々として、一代の権勢にいるのに、駒井は失脚以来、その生死すらも疑われている。七十五日は過ぎたが、その人の
うわさ
というものは、時事の急なる時と、急ならざる時、人材が有るとか、無いとかいう時には、必ず誰かの口から引合いに出されねばならないことになっている。
 さては没落と見せたのは表面で、内々は小栗上野介と謀を通じて、隠れたる働きをしていたのか、油断がならない――と軍艦奉行の組頭が、この時はじめて恐怖を催しました。軍艦奉行の威勢も、勘定奉行の権勢にはかなわない。さすが勝安房守の名声も、小栗上野介の旗印の前には歯が立たないということを、この時の賢明なる軍艦奉行配下の組頭が心得ていたのでしょう。
 高崎藩ならば、大多喜藩ならば、一番おどかしてもくれようと意気込んで来た一隊が、急に悄気
しょげ
こんで、
「ははあ、ではやむを得ないところ」
 旗を巻いて、進軍の歩調が、すっかり
にぶ
ってしまいましたが、拳のやり場を
てい
よくまとめて、またも以前の方面へ引返したのは、少なくとも組頭の手際です。
 ほどなくこの一隊は、君ヶ浜方面に向って、なにくわぬ
かお
で測量をはじめました。一方、引揚作業の方面では、十分に焚火で身をあぶった海人海女が介添船に乗る。駒井甚三郎は、別に一隻の小舟に、従者一人と例のマドロスとを打ちのせて――そのいずれの船にも丸に立波の旗印が立っている。
 この作業にあたって、駒井が最初から、勘定奉行の小栗上野介の諒解
りょうかい
を得ているというのは、ありそうなことです。そうでもなければ、こうして白昼大胆に、こんな作業が行われるはずはない。そうして、小栗と駒井との関係は、特にこの機縁だけで結ばれたものではあるまい。
 駒井は洲崎
すのさき
の造船所から海を越えて、しばしば相州の横須賀へ渡っている。相州の横須賀に、幕府の造船所が出来たのは昨年のこと。相州横須賀の造船所が、主として小栗上野の方寸に出でたものであることは申すまでもない。
 横須賀の造船所がしかるのみならず、講武所も、兵学伝習所も、開成所も、海軍所も、幕府の新しい軍事外交の設備、一として小栗の力に待たぬものはない。勝安房
かつあわ
(海舟
かいしゅう
)の如きも、小栗に会ってはその権勢、実力、共に頭が上らない。
 駒井も、旗本としては小栗と同格であり、その新知識を求むるに急なる点から言っても、どうしても、相当に相許すところがなければならないはずになっている。駒井が洲崎から、しばしば横須賀に往復する時分、ある幕府の要路の、非常に権威の高い人が、微行で洲崎の造船所へ来たことがあると、働く人が言っている。その人品骨柄を聞いてみると、それが小栗上野であったようにも思われる。
「大菩薩峠」 Oceanの巻 六
 小栗上野介の名は、徳川幕府の終りに於ては、何人
なんぴと
の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。
 事実に於て、この人ほど維新前後の日本の歴史に重大関係を持っている人はありません。それが忘れられ過ぎるほど忘れられているのは、西郷と勝との名が急に光り出したせいのみではありません。
 江戸城譲渡しという大詰が、薩摩の西郷隆盛という千両役者と、江戸の勝安房という松助以上の脇師
わきし
と二人の手によって、猫の児を譲り渡すように、あざやかな手際で幕を切ってしまったものですから、舞台は二人が背負
しょ
って立って、その一幕には、他の役者が一切無用になりました。歴史というものは、その当座は皆、勝利者側の歴史であります。勝利者側の宣伝によって、歴史と人物とが、一時眩惑
げんわく
されてしまいます。
 そこで、あの一幕だけ
のぞ
いた大向うは、いよ御両人!というよりほかのかけ声が出ないのであります。しかし、その背後に、江戸の方には、勝よりも以上の役者が一枚控えて、あたら千両の看板を一枚、台無しにした悲壮なる黒幕があります。
 舞台の廻し方が、正当(或いは逆転)に行くならば、あの時、西郷を向うに廻して当面に立つ役者は、勝でなくて小栗でありました。単に西郷とはいわず、いわゆる維新の勢力の全部を向うに廻して立つ役者が、小栗上野介
おぐりこうずけのすけ
でありました。小栗上野介は、当時の幕府の主戦論者の中心であって、この点は、豊臣家における石田三成と同一の地位であります。
 ただ三成は、
せても枯れても、豊太閤の智嚢であり、佐和山二十五万石の大名であったのに、小栗は僅かに二千八百石の旗本に過ぎないことと、三成は野心満々の投機者であって、あわよくば太閤の故智を襲わんとしているのに、小栗は、輪廓において、忠実なる徳川家の譜代
ふだい
であり、譜代であるがゆえに、徳川家のために
はか
って、且つ、日本の将来をもその手によって打開しようとした実際家に過ぎません。
 ですから、石田三成に謀叛人
むほんにん
の名を着せようとも、小栗上野をその名で呼ぶには躊躇
ちゅうちょ
しないわけにはゆかないはずです。徳川の天下になってから、石田は、一にも二にも悪人にされてしまっているが、明治の世になって、小栗の名の
うた
われなくなったとしてからが、今日、彼を石田扱いの謀叛人として見るものは無いようです。
 小栗上野介が、自身、天下を望むというような野心家でなかったことは確かとして、そうして彼はまた、幕府の保守側を代表する、頑冥
がんめい
なる守旧家でなかったことも確実であります。
 小栗は、一面に於て最もすぐれたる進歩主義者であり、且つ、少しの間ではあったが、これを実行するの手腕と、地位とを、十分に与えられておりました。
 彼が最初――新見、村垣らの幕府の使節と共に米国に渡ったのは僅かに二十余歳の時でありました。或いは三十余歳。しかも、この二十余歳の青年赤毛布
あかげっと
は、他の同僚が、西洋の異様な風物に眩惑されている間に金銀の量目比較のことに注意し、日本へ帰ってから、小判の位を三倍に昇せたほどの緻密
ちみつ
な頭を持っておりました。ほどなく勘定奉行の地位を得、またほどなく財政の鍵を握って、陸海軍の事を
ぶるの地位に上ったのも、当然の人物経済であります。
 勝でも、大久保でも、その手足に過ぎないし、講武所も、兵学所も、開成所も、海軍所も、軍艦の事も、火薬の事も、造船の事も、徴兵も、郵便も、今日まで功績を残している基礎に於て、彼の創案になり、意匠に出でぬというもののないこと再論するまでもない。
 その人となりを聞いてみると、酒を
たしな
まず、声色
せいしょく
を近づけず、職務に勉励にして、人の堪えざるところを為し、しかも、和気と、諧謔
かいぎゃく
とを以て、部下を服し、上に対しては剛直にして、信ずるところを言い、貶黜
へんちゅつ
せらるること七十余回ということを真なりとせば、得易
えやす
からざる人傑であります。
 小栗上野介が、単に人物として日本の歴史上に、どれだけの大きさを有するか、それは成功せしめてみた上でないと、ちょっと論断を立て兼ねるが――少なくとも、明治維新前後に於ては、軍事と、外交と、財政とに於て、彼と並び立ち得るものは、一人も無かったということは事実であります。
 この人が、徳川幕府の中心に立って、朝廷に
そむ
くのではない、薩長その他と戦わねばならぬ、と主張することは、絶大なる力でありました。長州の大村益次郎が、維新の後になって、小栗の立てた策戦計画を見て舌を捲いて、これが実行されたら薩長その他の新勢力は鏖殺
みなごろ
しだ! と戦慄
せんりつ
したというのも嘘ではあるまい。かくありてこそ、大村の大村たる価値がわかる。西郷などは、この点に於ては、
はなは
だノホホンです。
 小栗の立てた策戦は、第一、聯合軍をして、箱根を越えしめてこれを討つということ、第二、幕府の優秀なる海軍を以て、駿河湾より薩長軍を砲撃して、その連絡を
ち、前進部隊を自滅せしめるということ、更に海軍を以て、兵庫方面より二重に聯合軍の連絡を断つこと、等々であって、よしその実力には、旗本八万騎がすでに
死し心
えたりとはいえ、新たに仏式に訓練せる五千の精鋭は、ぜひとも腕だめしをしてみたがっている。会津を中心とする東北の二十二藩は無論こっちのものである。
 聯合軍には海軍らしい海軍は無いのに、幕府の海軍は新鋭無比なるものである――そうして、その財政と、軍費に至っては、小栗に成案があったはずである。
 かくて小栗は十分の自信を以て、これを将軍に進言、というより
せま
ってみたけれど、
たん
死し、気落ちたる時はぜひがない、徳川三百年来、はじめて行われたという将軍直々
じきじき
の免職で、万事は休す! そこで、西郷と勝とが大芝居を見せる段取りとなり、この不遇なる人傑は、上州の片田舎に、無名の虐殺を受けて、英魂未だ葬われないという次第である。
 形勢を逆に観察してみると、最も興味のありそうな場面が、幕末と、明治初頭に於て、二つはあります。その一つは、右の時、小栗をして志を得せしめてみたら、日本は、どうなるということ。もう一つは、丁丑
ていちゅう
西南の乱に、西郷隆盛をして成功せしめたら、現時の日本はどうなっているかということ。
 この答案は、通俗の予想とは、ほとんど反対な現象として現われて来たかも知れない。右の時、小栗を成功せしめても、世は再び徳川幕府の全盛となりはしない。
 もうあの時は徳川の大政奉還は出来ていたし、小栗の頭は、とうに郡県制施行にきまっていたし、よしまた、ドレほど小栗が成功したからとて、彼は勢いに乗じて、袁世凱
えんせいがい
を気取るような無茶な野心家ではない、郡県の制や、泰西文物の輸入や、世界大勢順応は、むしろ素直に進んでいたかも知れない。
 これに反して、明治十年の時に西郷をして成功せしむれば、必ず西郷幕府が出来る。西郷自身にその意志が無いとしても、その時の形勢は、明治維新を僅かに建武中興の程度に止めてしまい、西郷隆盛を足利尊氏
あしかがたかうじ
の役にまで祭り上げずにはおかなかったであろう。
 西郷は自身、尊氏にはならないまでも、尊氏に祭り上げられるだけの器度(?)はあった。小栗にはそれが無い。すべて歴史に登場する人物というものは、運命という黒幕の作者がいて、みなわりふられた役だけを済まして引込むのに過ぎないが、西郷は、逆賊となっても赫々
かくかく
の光を失わず、勝は、一代の怜悧者
りこうもの
として、その晩年は独特の自家宣伝(?)で人気を博していたが、小栗は
うた
われない。
 時勢が、小栗の英才を犠牲とし、維新前後の多少の混乱を予期しても、ここは新勢力にやらした方が、更始一新のためによろしいと贔屓
ひいき
したから、そうなったのかも知れないが、それはそれとして、人物の真価を、権勢の都合と、大向うの山の神だけに任しておくのは、あぶないこと。
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「大菩薩峠」後半部 Oceanの巻から引用したのは駒井甚三郎という学者肌の開明派と幕末の勘定奉行、小栗忠順のつながりこそが、この長編小説の作者の歴史観を如実に述べていると考えるからだ。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。

「明治維新」 Meiji Restoration という用語そのものが明治政権の見方以外の何ものでもない。「維新」を restoration (復元、返還)と英訳したのは本来あるべき形を復したという考え方そのものである。70歳を過ぎてこんなことに考えが及んで何になるというのか。

two decades of friendship

韓国の友人と20年ぶりに再会した。周りを気にすることなく、しばらくひしと抱き合った。二人が出会ったのは1998年だった。韓国文化院に勤めていた彼と講談社系の財団で韓国語教育事業を担当していた僕はすぐに打ち解けた。たがいの経歴を話し、韓国と日本の仏教について話すなか、二人が所属する組織の事業とネットワークを総動員する一つの事業計画がまとまった。両者の求めるものが一致したのだ。

日本の高等学校で韓国語教育にたずさわる教員のための研修事業を実施する事業だった。いつもみを絶やさない彼の人柄ひとがらのおかげだろう。1ヵ月余りった8月に東京猿楽町さるがくちょうの韓国YMCAで第1回韓国語教師研修会を開催した。すべての条件が必然となって押し寄せたような時期だった。

Geumpyung and Goolee at Shinjuku Gyoen greenhouse

「大菩薩峠」を読み直す(1)

中里介山なかざとかいざん(1885-1944)の「大菩薩峠」を50年ぶりに読み始めた。ぐいぐい引き込まれ、一気に10巻ほど読んだ。前回は「世界一の長編」と知って読んだのだが、半分ほどで放り出したと思う。[写真: 大菩薩観光協会「大菩薩の風景」より転載]

今回読むまでは、主人公とされている机竜之介りゅうのすけの「音無しの構え」ぐらいしか覚えていなかった。だが、今回は読み方が違う。前半だけでも、裏宿うらじゅく七兵衛(江戸中期青梅に実在した義賊と同名)、医者の道庵どうあん、部落出身の米友よねともとお君と黒いムク犬、竜之介の父親に拾われた与八、竜之介に祖父を斬られたお松、神尾主膳しゅぜん、駒井能登守のとのかみこと甚三郎じんざぶろう兵馬ひょうまほかが登場する。歴史上の人物が少なからず実名で登場する。

実在の人物を含め、多くの登場人物がこの小説の主人公で、作者は彼らを通して幕末という時代の実相を描こうとしたのではないか。全体の三分の一を読んだ時点の仮説に過ぎないが、こう考えると、各巻の描写が「大乗小説」の場面として理解されるように思う。

時代設定は幕末だ。「都新聞」に連載したのが1913-21年、単行本を発行、1927-41年に新聞・雑誌等に連載しているから、第一次大戦から第二次大戦に至る富国強兵策を突き進んだ日本社会の病相を映しているだろうし、作者の社会・人生観に根ざしているに違いない。

平民新聞に寄稿し日露・日中戦争に反戦の立場を取っていた中里が、小説連載をやめた41年12月に勃発した日米開戦に雀躍したというから、その思想はまだよくわからない。ただ、自作を「大乗小説」と呼んでいた以上、大乗仏教の影響は確かだろう。「世界一の長編」「未完の長編」というのは外形の要素でしかない。

1935-36年に大河内伝次郎、57年に片岡千恵蔵、60年に市川雷蔵、66年に仲代達矢がそれぞれ竜之介役を演じる映画が制作され、その後の時代劇映画に多大な影響を及ぼしたようだ。

no「大菩薩峠」巻名字数執筆年
1甲源こうげん一刀流の巻 153,5171913-14
2鈴鹿すずか山の巻 83,5801914
3壬生みぶと島原の巻 121,5021914
4三輪みわの神杉の巻 106,8561915
5竜神りゅうじんの巻 76,9311915
6あいの山の巻 13,9571917-19
7東海道の巻 105,7991917-19
8白根しらね山の巻 87,7421917-19
9女子と小人しょうじんの巻 98,6371917-19
10市中騒動の巻 28,1791917-19
11駒井こまい能登守のとのかみの巻 98,9571917-19
12伯耆ほうき安綱やすつなの巻 84,6421917-19
13如法にょほう闇夜やみよの巻 152,3281917-19
14お銀様の巻 165,9811917-19
15慢心まんしん和尚おしょうの巻 144,2161917-19
16道庵どうあん鰡八ぼらはちの巻 135,3681917-19
17黒業こくごう白業びゃくごうの巻 156,8541917-19
18安房あわの国の巻 163,3531921
19小名路こなじの巻 170,3571921
20禹門うもん三級の巻 146,0341921
21無明むみょうの巻 206,7151925-28
22白骨しらほねの巻 229,0801925-28
23他生たしょうの巻 247,3891925-28
24流転るてんの巻 284,3431925-28
25弥帝夜みちりやの巻 176,6591925-28
26めいろの巻 285,0031925-28
27鈴慕れいぼの巻 119,4171925-28
28Oceanの巻 98,1741925-28
29年魚市あいちの巻 359,2111928-30
30畜生谷ちくしょうだにの巻 118,2641931
31勿来なこその巻 230,1551931
32弁信べんしんの巻 111,8091932
33不破ふわの関の巻 129,3901932
34白雲はくうんの巻 162,5041933
35胆吹いぶきの巻 98,2071933-34
36新月の巻 312,2031934
37恐山おそれざんの巻 391,8241934-35
38農奴の巻 49,0591938-41
39京の夢逢坂おうさかの夢の巻 202,2141938-41
40山科やましなの巻 291,4471938-41
41椰子やし林の巻 281,4111938-41
6,679,268
字数: 縦書き文庫版 執筆年: Wikipedia大菩薩峠(小説)
大菩薩観光協会「大菩薩の風景」より転載
https://www.instagram.com/ ryuta0825さん投稿

Silverspot, the Story of a Crow

from Wild Animals I Have Known by Ernest Thompson Seton

Silverspot
Decorative letter “H”.

ow many of us have ever got to know a wild animal? I do not mean merely to meet with one once or twice, or to have one in a cage, but to really know it for a long time while it is wild, and to get an insight into its life and history. The trouble usually is to know one creature from his fellow. One fox or crow is so much like another that we cannot be sure that it really is the same next time we meet. But once in a while there arises an animal who is stronger or wiser than his fellow, who becomes a great leader, who is, as we would say, a genius, and if he is bigger, or has some mark by which men can know him, he soon becomes famous in his country, and shows us that the life of a wild animal may be far more interesting and exciting than that of many human beings.

Of this class were Courtrand, the bob-tailed wolf that terrorized the whole city of Paris for about ten years in the beginning of the fourteenth century; Clubfoot, the lame grizzly bear that in two years ruined all the hog-raisers, and drove half the farmers out of business in the upper Sacramento Valley; Lobo, the kingwolf of New Mexico, that killed a cow every day for five years, and the Soehnee panther that in less than two years killed nearly three hundred human beings—and such also was Silverspot, whose history, as far as I could learn it, I shall now briefly tell.

Silverspot was simply a wise old crow; his name was given because of the silvery white spot that was like a nickel, stuck on his right side, between the eye and the bill, and it was owing to this spot that I was able to know him from the other crows, and put together the parts of his history that came to my knowledge.

Crows are, as you must know, our most intelligent birds—’Wise as an old crow’ did not become a saying without good reason. Crows know the value of organization, and are as well drilled as soldiers—very much better than some soldiers, in fact, for crows are always on duty, always at war, and always dependent on each other for life and safety. Their leaders not only are the oldest and wisest of the band, but also the strongest and bravest, for they must be ready at any time with sheer force to put down an upstart or a rebel. The rank and file are the youngsters and the crows without special gifts.

Old Silverspot was the leader of a large band of crows that made their headquarters near Toronto, Canada, in Castle Frank, which is a pine-clad hill on the northeast edge of the city. This band numbered about two hundred, and for reasons that I never understood did not increase. In mild winters they stayed along the Niagara River; in cold winters they went much farther south. But each year in the last week of February Old Silverspot would muster his followers and boldly cross the forty miles of open water that lies between Toronto and Niagara; not, however, in a straight line would he go, but always in a curve to the west, whereby he kept in sight of the familiar landmark of Dundas Mountain, until the pine-clad hill itself came in view.

Each year he came with his troop, and for about six weeks took up his abode on the hill. Each morning thereafter the crows set out in three bands to forage. One band went southeast to Ashbridge’s Bay. One went north up the Don, and one, the largest, went northwestward up the ravine. The last Silverspot led in person. Who led the others I never found out.

On calm mornings they flew high and straight away. But when it was windy the band flew low, and followed the ravine for shelter. My windows overlooked the ravine, and it was thus that in 1885 I first noticed this old crow. I was a new-comer in the neighborhood, but an old resident said to me then ‘‘that there old crow has been a-flying up and down this ravine for more than twenty years.” My chances to watch were in the ravine, and Silverspot doggedly clinging to the old route, though now it was edged with houses and spanned by bridges, became a very familiar acquaintance.

Twice each day in March and part of April, then again in the late summer and the fall, he passed and repassed, and gave me chances to see his movements, and hear his orders to his bands, and so, little by little, opened my eyes to the fact that the crows, though a little people, are of great wit, a race of birds with a language and a social system that is wonderfully human in many of its chief points, and in some is better carried out than our own.

One windy day I stood on the high bridge across the ravine, as the old crow, heading his long, straggling troop, came flying down homeward. Half a mile away I could hear the contented ‘All’s well, come right along!’ as we should say, or as he put it, and as also his lieutenant echoed it at the rear of the band.

Bird call on a music staff: Caw - Caw

They were flying very low to be out of the wind, and would have to rise a little to clear the bridge on which I was. Silverspot saw me standing there, and as I was closely watching him he didn’t like it. He checked his flight and called out, ‘Be on your guard,’ or

Bird call on a music staff: Single caw on two notes, rising by a semi-tone

and rose much higher in the air. Then seeing that I was not armed he flew over my head about twenty feet, and his followers in turn did the same, dipping again to the old level when past the bridge.

Next day I was at the same place, and as the crows came near I raised my walking stick and pointed it at them. The old fellow at once cried out ‘Danger,’

Bird call on a music staff: Single staccato “ca”

and rose fifty feet higher than before. Seeing that it was not a gun, he ventured to fly over. But on the third day I took with me a gun, and at once he cried out, ‘Great danger—a gun.’

Bird call on a music staff: Four rapid staccato “ca ca ca ca” ended by a “caw”

His lieutenant repeated the cry, and every crow in the troop began to tower and scatter from the rest, till they were far above gun shot, and so passed safely over, coming down again to the shelter of the valley when well beyond reach. Another time, as the long, straggling troop came down the valley, a red-tailed hawk alighted on a tree close by their intended route. The leader cried out, ‘Hawk, hawk,’

Bird call on a music staff: “Caw” on two notes dropping two tones, then that repeated

and stayed his flight, as did each crow on nearing him, until all were massed in a solid body. Then, no longer fearing the hawk, they passed on. But a quarter of a mile farther on a man with a gun appeared below, and the cry, ‘Great danger—a gun, a gun; scatter for your lives,’

Bird call on a music staff: Four rapid staccato “ca ca ca ca” ended by a “caw”

at once caused them to scatter widely and till far beyond range. Many others of his words of command I learned in the course of my long acquaintance, and found that sometimes a very little difference in the sound makes a very great difference in meaning. Thus while No. 5 means hawk, or any large, dangerous bird, this means ‘wheel around,’

Bird call on a music staff: “Caw” on two notes dropping one tone, then that repeated, followed by four staccato “ca ca ca ca”

evidently a combination of No. 5, whose root idea is danger, and of No. 4, whose root idea is retreat, and this again is a mere ‘good day,’

Bird call on a music staff: “Caw” on two notes dropping one tone, then that repeated

to a far away comrade. This is usually addressed to the ranks and means ‘attention.’

Bird call on a music staff: three staccato notes separated by pauses

Early in April there began to be great doings among the crows. Some new cause of excitement seemed to have come on them. They spent half the day among the pines, instead of foraging from dawn till dark. Pairs and trios might be seen chasing each other, and from time to time they showed off in various feats of flight. A favorite sport was to dart down suddenly from a great height toward some perching crow, and just before touching it to turn at a hair breadth and rebound in the air so fast that the wings of the swooper whirred with a sound like distant thunder. Sometimes one crow would lower his head, raise every feather, and coming close to another would gurgle out a long note like

Bird call on a music staff: one long trilled “C-r-r-r-a-w” of five notes dropping a tone at a time

What did it all mean? I soon learned. They were making love and pairing off. The males were showing off their wing powers and their voices to the lady crows. And they must have been highly appreciated, for by the middle of April all had mated and had scattered over the country for their honeymoon, leaving the sombre old pines of Castle Frank deserted and silent.

II

Several of Seton's illustrations: a tree, a sparrowhawk chasing another bird and crows on branches

The Sugar Loaf hill stands alone in the Don Valley. It is still covered with woods that join with those of Castle Frank, a quarter of a mile off. In the woods, between the two hills, is a pine-tree in whose top is a deserted hawk’s nest. Every Toronto school-boy knows the nest, and, excepting that I had once shot a black squirrel on its edge, no one had ever seen a sign of life about it. There it was year after year, ragged and old, and falling to pieces. Yet, strange to tell, in all that time it never did drop to pieces, like other old nests.

The handle of a china-cup, the gem of the collection.

One morning in May I was out at gray dawn, and stealing gently through the woods, whose dead leaves were so wet that no rustle was made. I chanced to pass under the old nest, and was surprised to see a black tail sticking over the edge. I struck the tree a smart blow, off flew a crow, and the secret was out. I had long suspected that a pair of crows nested each year about the pines, but now I realized that it was Silverspot and his wife. The old nest was theirs, and they were too wise to give it an air of spring-cleaning and housekeeping each year. Here they had nested for long, though guns in the hands of men and boys hungry to shoot crows were carried under their home every day. I never surprised the old fellow again, though I several times saw him through my telescope.

One day while watching I saw a crow crossing the Don Valley with something white in his beak. He flew to the mouth of the Rosedale Brook, then took a short flight to the Beaver Elm. There he dropped the white object, and looking about gave me a chance to recognize my old friend Silverspot. After a minute he picked up the white thing—a shell—and walked over past the spring, and here, among the docks and the skunk-cabbages, he unearthed a pile of shells and other white, shiny things. He spread them out in the sun, turned them over, lifted them one by one in his beak, dropped them, nestled on them as though they were eggs, toyed with them and gloated over them like a miser.

This was his hobby, his weakness. He could not have explained why he enjoyed them, any more than a boy can explain why he collects postage-stamps, or a girl why she prefers pearls to rubies; but his pleasure in them was very real, and after half an hour he covered them all, including the new one, with earth and leaves, and flew off. I went at once to the spot and examined the hoard; there was about a hatful in all, chiefly white pebbles, clam-shells, and some bits of tin, but there was also the handle of a china cup, which must have been the gem of the collection. That was the last time I saw them. Silverspot knew that I had found his treasures, and he removed them at once; where I never knew.

During the space that I watched him so closely he had many little adventures and escapes. He was once severely handled by a sparrowhawk, and often he was chased and worried by kingbirds. Not that these did him much harm, but they were such noisy pests that he avoided their company as quickly as possible, just as a grown man avoids a conflict with a noisy and impudent small boy. He had some cruel tricks, too. He had a way of going the round of the small birds’ nests each morning to eat the new laid eggs, as regularly as a doctor visiting his patients. But we must not judge him for that, as it is just what we ourselves do to the hens in the barnyard.

His quickness of wit was often shown. One day I saw him flying down the ravine with a large piece of bread in his bill. The stream below him was at this time being bricked over as a sewer. There was one part of two hundred yards quite finished, and, as he flew over the open water just above this, the bread fell from his bill, and was swept by the current out of sight into the tunnel. He flew down and peered vainly into the dark cavern, then, acting upon a happy thought, he flew to the downstream end of the tunnel, and awaiting the reappearance of the floating bread, as it was swept onward by the current, he seized and bore it off in triumph.

Silverspot was a crow of the world. He was truly a successful crow. He lived in a region that, though full of dangers, abounded with food. In the old, unrepaired nest he raised a brood each year with his wife, whom, by the way, I never could distinguish, and when the crows again gathered together he was their acknowledged chief.

The reassembling takes place about the end of June—the young crows with their bob-tails, soft wings, and falsetto voices are brought by their parents, whom they nearly equal in size, and introduced to society at the old pine woods, a woods that is at once their fortress and college. Here they find security in numbers and in lofty yet sheltered perches, and here they begin their schooling and are taught all the secrets of success in crow life, and in crow life the least failure does not simply mean begin again. It means death.

Roost in a row, like big folks.

The first week or two after their arrival is spent by the young ones in getting acquainted, for each crow must know personally all the  others in the band. Their parents meanwhile have time to rest a little after the work of raising them, for now the youngsters are able to feed themselves and roost on a branch in a row, just like big folks.

Drawing by Seton of a scarecrow with a crow perching on its head.

In a week or two the moulting season comes. At this time the old crows are usually irritable and nervous, but it does not stop them from beginning to drill the youngsters, who, of course, do not much enjoy the punishment and nagging they get so soon after they have been mamma’s own darlings. But it is all for their good, as the old lady said when she skinned the eels, and old Silverspot is an excellent teacher. Sometimes he seems to make a speech to them. What he says I cannot guess, but, judging by the way they receive it, it must be extremely witty. Each morning there is a company drill, for the young ones naturally drop into two or three squads according to their age and strength. The rest of the day they forage with their parents.

When at length September comes we find a great change. The rabble of silly little crows have begun to learn sense. The delicate blue iris of their eyes, the sign of a fool-crow, has given place to the dark brown eye of the old stager. They know their drill now and have learned sentry duty. They have been taught guns and traps and taken a special course in wire-worms and green corn. They know that a fat old farmer’s wife is much less dangerous, though so much larger, than her fifteen-year-old son, and they can tell the boy from his sister. They know that an umbrella is not a gun, and they can count up to six, which is fair for young crows, though Silverspot can go up nearly to thirty. They know the smell of gunpowder and the south side of a hemlock-tree, and begin to plume themselves upon being crows of the world.

They always fold their wings three times after alighting, to be sure that it is neatly done. They know how to worry a fox into giving up half his dinner, and also that when the kingbird or the purple martin assails them they must dash into a bush, for it is as impossible to fight the little pests as it is for the fat apple-woman to catch the small boys who have raided her basket. All these things do the young crows know; but they have taken no lessons in egg-hunting yet, for it is not the season. They are unacquainted with clams, and have never tasted horses’ eyes, or seen sprouted corn, and they don’t know a thing about travel, the greatest educator of all. They did not think of that two months ago, and since then they have thought of it, but have learned to wait till their betters are ready.

September sees a great change in the old crows, too. Their moulting is over. They are now in full feather again and proud of their handsome coats. Their health is again good, and with it their tempers are improved. Even old Silverspot, the strict teacher, becomes quite jolly, and the youngsters, who have long ago learned to respect him, begin really to love him.

Several small drawings by Seton of farmer with gun, apple woman, wife feeding chicken

He has hammered away at drill, teaching them all the signals and words of command in use, and now it is a pleasure to see them in the early morning.

‘Company 1!’ the old chieftain would cry in crow, and Company 1 would answer with a great clamor.

‘Fly!’ and himself leading them, they would all fly straight forward.

‘Mount!’ and straight upward they turned in a moment.

‘Bunch !’ and they all massed into a dense black flock.

‘Scatter!’ and they spread out like leaves before the wind.

‘Form line!’ and they strung out into the long line of ordinary flight.

‘Descend!’ and they all dropped nearly to the ground.

‘Forage!’ and they alighted and scattered about to feed, while two of the permanent sentries mounted duty—one on a tree to the right, the other on a mound to the far left. A minute or two later Silverspot would cry out, ‘A man with a gun!’ The sentries repeated the cry and the company flew at once in open order as quickly as possible toward the trees. Once behind these, they formed line again in safety and returned to the home pines.

Sentry duty is not taken in turn by all the crows, but a certain number whose watchfulness has been often proved are the perpetual sentries, and are expected to watch and forage at the same time. Rather hard on them it seems to us, but it works well and the crow organization is admitted by all birds to be the very best in existence.

Finally, each November sees the troop sail away southward to learn new modes of life, new landmarks and new kinds of food, under the guidance of the ever-wise Silverspot.

III

There is only one time when a crow is a fool, and that is at night. There is only one bird that terrifies the crow, and that is the owl. When, therefore, these come together it is a woeful thing for the sable birds. The distant hoot of an owl after dark is enough to make them withdraw their heads from under their wings, and sit trembling and miserable till morning. In very cold weather the exposure of their faces thus has often resulted in a crow having one or both of his eyes frozen, so that blindness followed and therefore death. There are no hospitals for sick crows.

But with the morning their courage comes again, and arousing themselves they ransack the woods for a mile around till they find that owl, and if they do not kill him they at least worry him half to death and drive him twenty miles away.

The track of the murderer.

In 1893 the crows had come as usual to Castle Frank. I was walking in these woods a few days afterward when I chanced upon the track of a rabbit that had been running at full speed over the snow and dodging about among the trees as though pursued. Strange to tell, I could see no track of the pursuer. I followed the trail and presently saw a drop of blood on the snow, and a little farther on found the partly devoured remains of a little brown bunny. What had killed him was a mystery until a careful search showed in the snow a great doubletoed track and a beautifully pencilled brown feather. Then all was clear—a horned owl. Half an hour later, in passing again by the place, there, in a tree, within ten feet of the bones of his victim, was the fierce-eyed owl himself. The murderer still hung about the scene of his crime. For once circumstantial evidence had not lied.

At my approach he gave a guttural ‘grrr-oo’ and flew off with low flagging flight to haunt the distant sombre woods.

Two days afterward, at dawn, there was a great uproar among the crows. I went out early to see, and found some black feathers drifting over the snow. I followed up the wind in the direction from which they came and soon saw the bloody remains of a crow and the great doubletoed track which again told me that the murderer was the owl. All around were signs of the struggle, but the fell destroyer was too strong. The poor crow had been dragged from his perch at night, when the darkness had put him at a hopeless disadvantage.

The death of Silverspot.

I turned over the remains, and by chance unburied the head—then started with an exclamation of sorrow. Alas! It was the head of old Silverspot. His long life of usefulness to his tribe was over—slain at last by the owl that he had taught so many hundreds of young crows to beware of.

The old nest on the Sugar Loaf is abandoned now. The crows still come in spring-time to Castle Frank, but without their famous leader their numbers are dwindling, and soon they will be seen no more about the old pine-grove in which they and their forefathers had lived and learned for ages.

[Except for a group of decorations from several pages moved together at the beginning of section II, the author’s drawings are placed on this web page approximately with the paragraph where they appeared in the original text. Text and author’s illustrations from ‘Silverspot, The Story of a Crow’ in Ernest Thompson Seton, Wild Animals I Have Known (1898), pp. 59-88. (source)]

https://todayinsci.com/S/Seton_Ernest/SetonErnest-Silverspot.htm

Min Kabwan, a Forgotten Korean

[Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)]

Few people in Korea or Japan know of Min Kabwan (1897-1968). Although her autobiography, “One Hundred Years of Resentment,” was made into a movie in 1963, Min Kabwan has been completely forgotten in the 54 years since her death.

The Life of Min Kabwan

In 1907, when Japan’s annexation of Korea was underway after two Japan-Korea agreements since the end of the 19th century, at the age of 9, she became the fiancé of Yee Eun, the last crown prince of the Joseon Dynasty, but the crown prince was taken to Japan immediately after their engagement. With the ongoing colonization by Japan, Kabwan was forced to break off the engagement at the age of 21, a little more than 10 years after the engagement. Six months later, her grandmother died in deep sorrow, and six months after that, her father died shortly after taking a medicine prepared by a doctor named An.

At the age of 22, Kabwan’s life became increasingly unsafe, and she took her younger brother Chonen and went into exile in Shanghai, where many Koreans were living in exile at the time. During her 26 years in Shanghai, she changed her residence several times to escape Japanese officials. She was forced to live like a fugitive, unable to leave the house freely. Her fiancée, Yee Eun, went to Japan when he was 10 years old and spent most of his life there. In the year of Kabwan’s exile, he married Nashimoto-miya Masako, who was also a candidate for the position of queen of the Emperor Showa.

It is difficult for people today to understand, but there was a society in the first half of the 20th century in which getting engaged carried the same weight as marriage. During her exile in Shanghai, several men approached her, and some people around her, including spies dispatched by the governor-general, advised her to get married. In particular, a Chinese female revolutionary, who had also remained celibate throughout her life, tried to persuade Kabwan, but she remained celibate for the rest of her life. The deep melancholy and loneliness that overflows between the lines of this book are poignant and appealing even to people today.

In May 1946, Kabwan returned to South Korea after debating whether or not to stay in Shanghai, but the latter half of her life was not smooth: in 1950, when she had found enough money to start a social welfare project, it was cut short by the outbreak of the Korean War. It is heartbreaking to think of her huddled with her younger brother and her family downstairs in a Western-style house called Sadong-gung in Jongno, shivering at the sound of artillery shells.

In the early morning of June 26, 1950, she and her younger brother’s family risked their lives to cross the Han River and head for Cheongju, her father’s hometown. After the war, she and her family settled in Busan, the southernmost part of the Korean Peninsula, at the behest of Chonen, who believed that the North would invade again.

Personal History Forces Review of Contemporary History

What does Kabwan’s life, which could be said to have been tossed about by the modern Japanese and Korean history, tell us? As we have passed the centennial of Japan’s annexation of Korea in 1910, Kabwan’s “One Hundred Years of Resentment” is more than just a record of one Korean woman’s life. It is also a book that will compel us to rethink history, the state of the nation, and the lives of those who are at its mercy.

Kabwan was continuously tossed about by major events in the modern history, including the annexation of Korea (1910), the Sino-Japanese War (1937-45), and the Korean War (1950-1953). In tracing her life, we are forced to reflect on the history of Korea and Japan. It is important to note that the significance of these events differs greatly between Japan and Korea.

For example, the year 1910 was a loss of national rights for Korea, but an expansion of its territory for Japan; the liberation of Korea on August 15, 1945 (Kwangbok) was a defeat and the end of the war for Japan; was the end of the war for Korea. Or the war that ravaged the entire Korean Peninsula from 1950-1953, brought a special procurement boom to Japan.

What makes her autobiography “One Hundred Years of Resentment” more than a personal history of a woman is that her life was not only continuously tossed about, but also greatly disrupted by these major events in modern history. Each fragment of contemporary history that comes to light through the record of her life seems to force us to rethink the history of Japan and South Korea.

[Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)]

Inzwischen treibe ich noch…

Inzwischen treibe ich noch auf ungewissen Meeren; der zufall schmeichelt mir, der glattzngige; vorwrts und rckwrts schaue ich-, noch schaue ich kein Ende. (In the meantime I am still drifting on uncertain seas; chance flatters me, the smooth one; forwards and backwards I look, still I see no end. [translated by deepl.com])

ドイツ語は少し勉強しただけだが、上に引用した「ツァラトゥストラかく語りき」の一節はなぜか暗記している。何かの本の冒頭に載っていたことだけ記憶していたが、数日前それを角川書店版「合本三太郎の日記第三」に再発見し、ひそかに喜んでいる。60年代末に読んだと思う。

50年余り経て読むと、かくも理屈っぽく冗長な文章をよく読んだものだと、昔の自分に関心してしまう。この本を読んだ当時の僕は、キリスト教にもとづく哲学青年の思索のなかに漂流していたのだ。70歳を過ぎて読み直し、同じ思考の流れに沿えないことを自覚しながらも、かつての自分がその本から滋養を得ていたことを考え、感謝しないわけにはいかない。

一方で、「ツァラトゥストラ」や「三太郎の日記」の内容は忘れ、読んだ記憶しかないということは、僕はこういう思索に沿って漂流しただけで、何も身につかなかったとも思う。いまだに僕は inzwischen treibe ich noch の境を脱していないのかもしれない。

(数日後)いや、そう単純ではない。50年余りを経て「三太郎の日記」全編を読み進めるうちに、僕は著者ならぬ三太郎に感化されて、その執拗ともいえる、一歩ずつ踏みしめながら思索を進めるやり方にかなり馴れ、自分が単なる読者であることを超え、ある種の思考訓練を受けているような感官を覚えるようになった。

と同時に、50年余り前と現在の大きな違いを自覚しないわけにはいかない。それは、自分には表現し発表する媒体があるということだ。たとい読者は限られていても、自分が体験し考えたことを記録として残すことができる。こんなに恵まれた環境はないではないか。

the Russo-Ukrainian War and China’s Choice

QUOTE

U.S.-China Perception Monitor

Possible Outcomes of the Russo-Ukrainian War and China’s Choice

US-China Perception Monitor

3 days ago

Update on March 13, 2022: The following article was submitted by the author to the Chinese-language edition of the US-China Perception Monitor. The article was not commissioned by the US-China Perception Monitor, nor is the author affiliated with the Carter Center or the US-China Perception Monitor.

Hu Wei is the vice-chairman of the Public Policy Research Center of the Counselor’s Office of the State Council, the chairman of Shanghai Public Policy Research Association, the chairman of the Academic Committee of the Chahar Institute, a professor, and a doctoral supervisor. To read more by Hu, click here to read his article on “How did Deng Xiaoping coordinate domestic and international affairs?”

Written on March 5, 2022. Translated by Jiaqi Liu on March 12, 2022.

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The Russo-Ukrainian War is the most severe geopolitical conflict since World War II and will result in far greater global consequences than September 11 attacks. At this critical moment, China needs to accurately analyze and assess the direction of the war and its potential impact on the international landscape. At the same time, in order to strive for a relatively favorable external environment, China needs to respond flexibly and make strategic choices that conform to its long-term interests.Russia’s ‘special military operation’ against Ukraine has caused great controvsery in China, with its supporters and opponents being divided into two implacably opposing sides. This article does not represent any party and, for the judgment and reference of the highest decision-making level in China, this article conducts an objective analysis on the possible war consequences along with their corresponding countermeasure options.

I. Predicting the Future of the Russo-Ukrainian War
1.  Vladimir Putin may be unable to achieve his expected goals, which puts Russia in a tight spot. The purpose of Putin’s attack was to completely solve the Ukrainian problem and divert attention from Russia’s domestic crisis by defeating Ukraine with a blitzkrieg, replacing its leadership, and cultivating a pro-Russian government. However, the blitzkrieg failed, and Russia is unable to support a protracted war and its associated high costs. Launching a nuclear war would put Russia on the opposite side of the whole world and is therefore unwinnable. The situations both at home and abroad are also increasingly unfavorable. Even if the Russian army were to occupy Ukraine’s capital Kyiv and set up a puppet government at a high cost, this would not mean final victory. At this point, Putin’s best option is to end the war decently through peace talks, which requires Ukraine to make substantial concessions. However, what is not attainable on the battlefield is also difficult to obtain at the negotiating table. In any case, this military action constitutes an irreversible mistake.
2.  The conflict may escalate further, and the West’s eventual involvement in the war cannot be ruled out. While the escalation of the war would be costly, there is a high probability that Putin will not give up easily given his character and power. The Russo-Ukrainian war may escalate beyond the scope and region of Ukraine, and may even include the possibility of a nuclear strike. Once this happens, the U.S. and Europe cannot stay aloof from the conflict, thus triggering a world war or even a nuclear war. The result would be a catastrophe for humanity and a showdown between the United States and Russia. This final confrontation, given that Russia’s military power is no match for NATO’s, would be even worse for Putin.
3.  Even if Russia manages to seize Ukraine in a desperate gamble, it is still a political hot potato. Russia would thereafter carry a heavy burden and become overwhelmed. Under such circumstances, no matter whether Volodymyr Zelensky is alive or not, Ukraine will most likely set up a government-in-exile to confront Russia in the long term. Russia will be subject both to Western sanctions and rebellion within the territory of Ukraine. The battle lines will be drawn very long. The domestic economy will be unsustainable and will eventually be dragged down. This period will not exceed a few years.4. The political situation in Russia may change or be disintegrated at the hands of the West. After Putin’s blitzkrieg failed, the hope of Russia’s victory is slim and Western sanctions have reached an unprecedented degree. As people’s livelihoods are severely affected and as anti-war and anti-Putin forces gather, the possibility of a political mutiny in Russia cannot be ruled out. With Russia’s economy on the verge of collapse, it would be difficult for Putin to prop up the perilous situation even without the loss of the Russo-Ukrainian war. If Putin were to be ousted from power due to civil strife, coup d’état, or another reason, Russia would be even less likely to confront the West. It would surely succumb to the West, or even be further dismembered, and Russia’s status as a great power would come to an end.

II. Analysis of the Impact of Russo-Ukrainian war On International Landscape
1. The United States would regain leadership in the Western world, and the West would become more united. At present, public opinion believes that the Ukrainian war signifies a complete collapse of U.S. hegemony, but the war would in fact bring France and Germany, both of which wanted to break away from the U.S., back into the NATO defense framework, destroying Europe’s dream to achieve independent diplomacy and self-defense. Germany would greatly increase its military budget; Switzerland, Sweden, and other countries would abandon their neutrality. With Nord Stream 2 put on hold indefinitely, Europe’s reliance on US natural gas will inevitably increase. The US and Europe would form a closer community of shared future, and American leadership in the Western world will rebound.
2. The “Iron Curtain” would fall again not only from the Baltic Sea to the Black Sea, but also to the final confrontation between the Western-dominated camp and its competitors. The West will draw the line between democracies and authoritarian states, defining the divide with Russia as a struggle between democracy and dictatorship. The new Iron Curtain will no longer be drawn between the two camps of socialism and capitalism, nor will it be confined to the Cold War. It will be a life-and-death battle between those for and against Western democracy. The unity of the Western world under the Iron Curtain will have a siphon effect on other countries: the U.S. Indo-Pacific strategy will be consolidated, and other countries like Japan will stick even closer to the U.S., which will form an unprecedentedly broad democratic united front.
3. The power of the West will grow significantly, NATO will continue to expand, and U.S. influence in the non-Western world will increase. After the Russo-Ukrainian War, no matter how Russia achieves its political transformation, it will greatly weaken the anti-Western forces in the world. The scene after the 1991 Soviet and Eastern upheavals may repeat itself: theories on “the end of ideology” may reappear, the resurgence of the third wave of democratization will lose momentum, and more third world countries will embrace the West. The West will possess more “hegemony” both in terms of military power and in terms of values and institutions, its hard power and soft power will reach new heights.
4. China will become more isolated under the established framework. For the above reasons, if China does not take proactive measures to respond, it will encounter further containment from the US and the West. Once Putin falls, the U.S. will no longer face two strategic competitors but only have to lock China in strategic containment. Europe will further cut itself off from China; Japan will become the anti-China vanguard; South Korea will further fall to the U.S.; Taiwan will join the anti-China chorus, and the rest of the world will have to choose sides under herd mentality. China will not only be militarily encircled by the U.S., NATO, the QUAD, and AUKUS, but also be challenged by Western values and systems.

III. China’s Strategic Choice
1. China cannot be tied to Putin and needs to be cut off as soon as possible. In the sense that an escalation of conflict between Russia and the West helps divert U.S. attention from China, China should rejoice with and even support Putin, but only if Russia does not fall. Being in the same boat with Putin will impact China should he lose power. Unless Putin can secure victory with China’s backing, a prospect which looks bleak at the moment, China does not have the clout to back Russia. The law of international politics says that there are “no eternal allies nor perpetual enemies,” but “our interests are eternal and perpetual.” Under current international circumstances, China can only proceed by safeguarding its own best interests, choosing the lesser of two evils, and unloading the burden of Russia as soon as possible. At present, it is estimated that there is still a window period of one or two weeks before China loses its wiggle room. China must act decisively.
2. China should avoid playing both sides in the same boat, give up being neutral, and choose the mainstream position in the world. At present, China has tried not to offend either side and walked a middle ground in its international statements and choices, including abstaining from the UN Security Council and the UN General Assembly votes. However, this position does not meet Russia’s needs, and it has infuriated Ukraine and its supporters as well as sympathizers, putting China on the wrong side of much of the world. In some cases, apparent neutrality is a sensible choice, but it does not apply to this war, where China has nothing to gain. Given that China has always advocated respect for national sovereignty and territorial integrity, it can avoid further isolation only by standing with the majority of the countries in the world. This position is also conducive to the settlement of the Taiwan issue.
3. China should achieve the greatest possible strategic breakthrough and not be further isolated by the West. Cutting off from Putin and giving up neutrality will help build China’s international image and ease its relations with the U.S. and the West. Though difficult and requiring great wisdom, it is the best option for the future. The view that a geopolitical tussle in Europe triggered by the war in Ukraine will significantly delay the U.S. strategic shift from Europe to the Indo-Pacific region cannot be treated with excessive optimism. There are already voices in the U.S. that Europe is important, but China is more so, and the primary goal of the U.S. is to contain China from becoming the dominant power in the Indo-Pacific region. Under such circumstances, China’s top priority is to make appropriate strategic adjustments accordingly, to change the hostile American attitudes towards China, and to save itself from isolation. The bottom line is to prevent the U.S. and the West from imposing joint sanctions on China.
4. China should prevent the outbreak of world wars and nuclear wars and make irreplaceable contributions to world peace. As Putin has explicitly requested Russia’s strategic deterrent forces to enter a state of special combat readiness, the Russo-Ukrainian war may spiral out of control. A just cause attracts much support; an unjust one finds little. If Russia instigates a world war or even a nuclear war, it will surely risk the world’s turmoil. To demonstrate China’s role as a responsible major power, China not only cannot stand with Putin, but also should take concrete actions to prevent Putin’s possible adventures. China is the only country in the world with this capability, and it must give full play to this unique advantage. Putin’s departure from China’s support will most likely end the war, or at least not dare to escalate the war. As a result, China will surely win widespread international praise for maintaining world peace, which may help China prevent isolation but also find an opportunity to improve its relations with the United States and the West.

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U.S.-China Perception Monitor

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Song of the Birds

三週間あまり来る日も来る日もウクライナの惨状を見るにつけ、暗澹とした気持ちになり、自分の非力さを思い知らされますが、こんなときだからこそ、カザルスの「鳥の歌」を思い出します。

Casals Plays the Song of the Birds at UN in 1971

KOREAN WAR AND “NATIONALITY” OF KOREANS IN JAPAN (1947-52)

鄭栄桓(Chong Young-hwan)氏の雑誌掲載論文(PRIME 2017.3.31)在日朝鮮人の「国籍」と朝鮮戦争(1947‒1952年)–「朝鮮籍」はいかにして生まれたか より次の表(図1 外国人登録「国籍」欄の日本政府の変遷)を転載します(一部編集)。

外国人登録の「国籍」欄に対する日本政府の解釈

時期朝鮮朝鮮韓国韓国
表示内容の解釈朝鮮」への記載変更表示内容の解釈韓国」への記載変更
1947.5.2-50.2.22出身地表示説
1950.2.23-51.2.1出身地表示説出身地表示説国籍証明文書不要c
1951.2.2-65.10.25出身地表示説出身地表示説国籍証明文書提示
1965.10.26-70.9.25出身地表示説国籍表示説国籍証明文書提示
1970.9.26-71.2.26出身地表示説例外的に可a国籍表示説国籍証明文書提示
1971.2.27出身地表示説条件付で可b国籍表示説国籍証明文書提示
a. ①事務上の記載間違い、または②本人意思によらない他人の勝手な書換え手続きで「韓国」となったもののみ例外的に記載変更を認めた。 b. ①韓国の在外国民登録をしていない、②韓国旅券の発給を受けたことがない、③協定永住許可がなされていないの三点を確認できれば市町村長限りで「朝鮮」への記載変更を認めた。 c. 本人陳述のみ

以下、同論文より一部抜粋し転載します(段落の区切りを編集、脚注を省略)。

(前略) 日本政府はサンフランシスコ講和条約の発効にともない、朝鮮人は日本国籍を喪失したとみなした。このときなぜ「外国人」となった朝鮮人の国籍が記載されず、「便宜の措置」としての朝鮮籍が残ることになったのか。この問題に答えなければならない。
 朝鮮籍がいかにして生まれたのかという問いに答えるためには、1947年の登場のみならず、1952年における継続の背景を探る必要がある。その際にあわせて考えるべき問題に、外国人登録における韓国籍の登場と日本政府の解釈の変遷がある。在日朝鮮人の国籍問題は日本の植民地支配の清算をめぐる問題であると同時に、南北の分断、そして日本の南北朝鮮との外交関係のあり方と密接に係る問題であった。そのため、外国人登録制度の国籍欄についての行政実務や解釈も、日本政府の対朝鮮政策の反映であったとみなければならない。
 政府統一見解は、韓国籍の登場の経緯について次のように説明する。外国人登録令施行当初は「朝鮮」とのみ記載できたが、在日朝鮮人のなかから「『韓国』(又は『大韓民国』)への書換えを強く要望してきた者があるので、本人の自由意思に基づく申立てと、その大部分には韓国代表部発行の国民登録証を提示させたうえ『韓国』への書換えを認めた」。
 1965年現在の韓国籍者は、「このような経過によって『韓国』と書換えたものであり、しかも、それが長年にわたり維持され、かつ実質的に国籍と同じ作用を果たして来た経過等にかんがみると、現時点から見れば、その記載は大韓民国の国籍を示すものと考えざるをえない」。すなわち、朝鮮籍が「国籍を表示するものではない」のに対し、韓国籍は「大韓民国の国籍を示すもの」であると説明した。
 実はこの政府統一見解は、従来の日本政府の外国人登録証明書の国籍欄解釈を修正するものであった。1950年2月23日、法務総裁は「朝鮮」「韓国」は「単なる用語の問題であって、実質的な国籍の問題や国家の承認の問題とは全然関係な」いとする談話を発表した。それゆえ朝鮮籍であり韓国籍であれ、「その人の法律上の取扱いを異にすることはない」としていた。
 にもかかわらず政府統一見解は、韓国籍を「実質的に国籍と同じ作用を果たして来た経過」から国籍を示すものとした。1965年以前のどこかの時点から、韓国籍は韓国国籍としての作用を果たすことになったというのである。当時「180度の転換」と評されたゆえんである。
 それでは、日本政府の韓国籍解釈はいつ変わったのか。在日朝鮮人史研究者の金英達が1987年に発表した論文はこの問題を検討したものである。金英達は法務省入国管理局や川崎市が部内資料として編纂・整理した通達集を用いて、1947年から71年にかけての国籍欄をめぐる行政実務の変遷を明らかにした。
 金の研究に基づき、日本政府の「国籍」欄解釈と記載変更について筆者が整理したものが図1[上の表]である。図中の「表示内容の解釈」とは、その時々の日本政府が、外国人登録の国籍欄の「朝鮮」や「韓国」という名称が何を表示していると解釈したかを示す。地域名を表示したとの解釈を「出身地表示説」とし、国家名の表示との解釈を「国籍表示説」とした。
 金英達によれば、日本政府が韓国籍解釈を事実上修正したのは1951年2月である。図1[上の表]の通り、日本政府は一貫して、朝鮮籍は国籍の帰属ではなく、出身地を表示するものであるとの解釈を採ってきた。韓国籍についても当初は出身地であるとの解釈を採ったが、1951年2月(第三期)以降、表向きは出身地表示説を採る一方で、外国人登録における国籍の記載変更に際して国籍証明文書(「大韓民国国民登録証」)の提出を求め、事実上の国籍表示説へと解釈を修正したという。
 そして、日韓基本条約締結後に前述の政府統一見解を発表することで名実ともに国籍表示説を採ることになった。その後、日韓条約締結後に起こった「朝鮮国籍」への変更を要請する運動に応じて、福岡県田川市などの革新自治体は韓国から朝鮮表示への記載変更を認めた。法務省は当初記載変更を一切認めない方針であったが、最終的には条件付きで「韓国」から「朝鮮」への変更を認めるに至った。国籍の記載変更という問題が、「国籍欄」の解釈に多大な影響を与えていることがわかる。(後略)
明治学院大学機関リポジトリより

MTBで都心を走る

1年以上乗らなかった自転車に乗り、自宅から新大久保まで往復2時間半、ほとんど休むことなく走った。心地よい疲れとあしの筋肉痛が残る。中原街道>天現寺>外苑西通り>明治通り>大久保通り>靖国通り>新宿通り>四谷見附>外堀通り>麻布通り>桜田通り>国道1号>中原街道

走り始めて10分ほどで胸に痛みを覚えた。MTB山行のときと同じ症状だ。公道の長い坂道を登るのは案外きつい。山道とは違った緊張も伴う。エンジン音をうならしてせっするように疾駆しっくするクルマに3台遭遇そうぐうした。その直後に路面の白い自転車マークが目に入ると、いかにもむなしい。自転車が脇道わきみちに追いやられ、それが当然のこととされている。どこかおかしい。

ここ数年、自転車の前か後ろに荷車を付けた宅配便の姿を見るようになった。1970年ごろまで業務用の実用車が広く普及していて、リアカーを引いているのをよく見かけた。60年代前半には、東京の杉並区あたりでも野菜を積んだオート三輪車が走り、酒屋のご用聞きや豆腐屋、牛乳配達などが堅牢けんろうで重そうな自転車に乗って住宅地を走り回っていた。いまは昔の話だが、荷車を付けた宅配業者を見ると思い出す。

1983年に自転車でヨーロッパを旅した友人がよく話す。自転車専用のレーンと信号機を備えたヨーロッパの道路がうらやましい、と。自転車が貴族の遊びとして始まった英仏に対し、労働者の輸送手段として実用車が先行した日本や中国。これらの地域では自転車が追いやられクルマが跋扈ばっこしている。なぜだろうか。

歩道では、いまや小径車や子どもを前後に載せた電動自転車が我が物顔で走っている。歩道を歩きながら思うのは、結局、よりスピードが速く、大きくて重い車両(vehicles)が幅をきかせ、弱小な車両を抑え込んでいる、ということだ。自転車に愛着を持つ者だから言うのではない。この国の道路事情はどこかおかしい、道にはずれているのではないか。

a friend

韓国の友人が、退官記念に出版されたという書籍と僕が好きなコーヒー豆を誕生祝いに送ってくれた。”한국어교육의 현재와 미래(韓国語教育の現在と未来)”と題された本は、彼の大学関係者が編集し、図書出版夏雨ハウが出版してくれたという。韓国のブックデザインは優れたものが多いが、この本もよくできている。題字が活版印刷さながら盛り上がっているのがなつかしい。

友人とは何でも話せるのに、門外漢の僕にはこの本の学術的な価値はよくわからない。彼が日本に来ると、一緒に山に登り、MTBで山中を走り、驟雨しゅううのなか高山のいただきでマッコリを飲み、全裸で渓谷に入るなど、少年に返れるのだ。韓国語でいう 불알プラル 친구チング のようなものだろうか。

酒豪といってよい彼と、あまり酒を飲めない僕が長年付き合っているのを不思議に思うかもしれない。いい意味の遊び仲間なのだろう。写真はどれも彼の一面をうつしている。

Players and observers

민갑완ミンカブァン(1897-1968)の関連年表(1875-2014)を oguris.blog に再掲した。タイトルは Korea and Imperial Japan とし、1875年8月の雲揚うんよう号事件から始めた。この事件が明治日本すなわち大日本帝國の対朝鮮外交を象徴していると考えたからだ。いわゆる「砲艦ほうかん外交」であり、パワーポリティックスである。

現在のロシアによるウクライナ侵攻に向けた動き、中国による台湾侵攻をめぐる動向も類似している。欧米各国も同じ根っこを共有している。こんなことを書くと、150年も昔の話が現在と同じだなんて、といぶかしく思うだろうが、それを承知のうえでえて言うのである。

砲艦外交を正当化する根拠は国際法であり、19世紀後半においては萬國ばんこく公法とも呼ばれた。近代ヨーロッパにおいて形成されたものだから、ロシアや中国と対立しているかに見える欧米諸国やそれを模倣した日本も同じ枠組みのなかで動いている。

日本の場合は砲艦ならぬ<傍観>ないし<望艦>であろう。官僚の作成した原稿を読み上げる首相や閣僚の姿を見るにつけ、何とも情けない思いに陥るのは僕だけだろうか。

The Economist Feb 9 2022: Yuval Noah Harari Argues


Korea and Imperial Japan(2)

Korea and Imperial Japan よりつづく

韓國統監府日本が韓国を支配するために設置した統治機構。1905年11月17日、第二次日韓協約を結び韓国の外交権を剥奪し、統監及び理事官を置いた。11月21日、統監府を京城に設置し、統監には伊藤博文が就任した。統監は天皇に直隷し、韓国において日本政府の代表となり、また韓国の外交に関する事項を統轄した。さらに、必要に応じて韓国守備軍への指揮権が統監に付与された。統監府が設置されるまでに日本は韓国に対して、防衛・外交・財政・交通・通信・拓殖の諸分野への影響力を有していた。統監府には総務部・外務部・農商工部・警務部が置かれた。所属官署として通信官署(通信管理局・郵便局・郵便所)・鉄道管理局・法務院・裁判所を管轄していた。1907年7月には第三次日韓協約が締結され、同10月には官制改正がおこなわれる。その後も韓国の主権は縮小され、韓国併合直後の1910年10月1日に統監府は朝鮮総督府に改変された。
理事庁韓国統監府の職務を分掌するため各地に置かれた機構。1905年11月27日、第二次日韓協約が締結されると第三条に基づいて、韓国の各開港場と日本国政府の必要と認める地に理事庁が置かれた。理事官(奏任官)は統監の指揮監督を承け、これまで領事館が担ってきた業務を引き継いだ。さらに安寧秩序を保持するために緊急の必要があると認める場合、当該地方駐在帝国軍隊の司令官に出兵を請うことができ、また韓国の施政事務であって条約に基づく義務の履行のために必要があれば、韓国当該地方官憲に執行させることができた。理事庁は釜山・馬山・群山・木浦・京城・仁川・平壌・鎮南浦・元山・城津・大邸・新義州・清津に設置された。1907年9月の官制改正で理事庁の警察官は廃止され、看守を置くことになった。1910年7月、理事庁の警察事務は警務総監部または各警務部に移管、同年10月に朝鮮総督府が成立すると理事庁は廃止され、船舶および船員に関する事務は税関に、戸籍に関する事務は警察署に移管され、その他の業務は道および府に引き継がれた。
朝鮮総督府1910年8月韓国併合に伴い、日本が朝鮮を統治するために設置した機関。韓国統監府を前身とし、韓国政府の諸機関を統合・改変後、1910年9月に公布された「朝鮮総督府官制」に基づいて京城に設置された。総督府には総督と補佐役の政務総監の下に、総督官房および総務・内務・度支・農商工・司法の5部が設置され、所属官署として警察・裁判所を含む各諸機関が置かれた。その後、数次の官制改革が行われたなかでも、1919年8月と1943年12月に行われた改正は大規模であった。1919年、三・一独立運動の結果、武断政治の限界が明らかとなり、文化政治へ転換。総督の任用範囲を文官にまで拡げ、陸海軍統率権を撤廃したが、文官が総督に就くことはなかった。また総督府の機構も改編し、所属官署の警務総監部・各道警察部を廃止。憲法警察制度を廃止したが、警察署・派出所の数は増加した。1943年の改革では、内務大臣が総督に対して「統理上必要ナル支持」を行うことができるよう、軍需省の新設など中央政府の改変にあわせて改められた。官制改正毎に機構体制が変わっても、総督府支配の軍事的な背景のもとで統治をおこなう性格は変わらなかった。
年表アジ歴グロッサリー: 公文書に見る明治日本のアジア関与 内政・外政・工業 航路・電信・燈台
アジ歴グロッサリー: 公文書に見る「外地」と「内地」より転載(写真・文とも)

Korea and Imperial Japan

ミンカブァン関連年表: [ ]内は陰暦

1875.8.25 大日本帝國の軍艦雲揚号 江華島付近で武力示威行動、永宗ヨンジョン島に上陸し住民を殺害 9.20 江華島事件起きる 10月 帝國軍艦 釜山に来航し武力示威行動
1876.1.26 日朝修好条規(江華条約)に調印
1880.4.17 漢城ハンソン(現在の서울ソウル)に大日本帝國公使館を設置 12月 花房義質 弁理公使に着任
1882.7.23 朝鮮兵 帝國公使館を襲撃(壬午임 오変乱) 8.30 済物浦チェムルポ(現・仁川)条約・日朝修好条規続約に調印
1884.10.30 帝國公使館に領事館を設置 12.4 金玉均・朴泳孝ら甲申갑 신事変(竹添公使関与)
1885.4.18 日清 天津条約に調印
1889.10 咸鏡ハムギョン道で防穀令を施行
1892.11 大石正巳 公使に着任
1893.5 東学 忠清チュンチョン報恩ボウン郡で大集会開催 7月 大鳥圭介(在北京公使) 朝鮮公使を兼任
1894.3 東学 全羅チョルラ道で蜂起、5月 全州チョンジュが陥落 6月 清 陸海軍を派兵、大鳥公使着任、大日本帝國 陸海軍を派兵 7.25 日清戦争が勃発 7月 金弘集キムホンジプ 領議政に就任、諸改革を断行 10月 井上馨 公使に着任
1895.4.17 下関条約(日清講和条約)に調印 6.17 臺灣たいわん総督府を設置 9.1 三浦梧樓 公使に着任 10.8 三浦公使・岡本柳之助ら明成ミョンソン皇后を惨殺ざんさつ(乙未을 미事変、日本では閔妃ミンビ暗殺) 10.17 三浦公使を召還、小村壽太郎 公使に着任
1896.1 義兵運動起こる 2.11 館(ロシア公使館)播遷はせん
1897.2.20 高宗 ロシア公使館を出て慶運宮(現・德壽宮)に還御 10.12 朝鮮 大韓帝國に改称、高宗コジョン 大韓帝國皇帝に即位 10.20민갑완ミンカブァン 笠洞イプトン(現・서울特別市鍾路2街)で生まれる[9.25]、同じ日に李垠イウン生まれる
1899.8.17 大韓帝國 大韓國國制(憲法)を発布
1904.2.10 日露戦争が勃発 2.23 日韓議定書に調印
1905.9.5 ポーツマス条約に調印、日露戦争が終結 11.17 第2次日韓協約に調印 カブァンの叔父閔泳煥ミンヨンファン 抗議の自殺 11月 領事館を改組した韓國統監府(伊藤博文初代統監)および(現)서울・仁川・釜山・元山・鎮南浦진 남 포(平壌の外港)・木浦・馬山ほかに理事庁を設置
1906.2.9  弟の千幸チョネン 水標洞スピョドン(서울)で生れる
1907.3.14  初揀擇かんたくの儀([2.1] 德壽宮トクスグン) カブァン 皇太子妃候補に選ばれる 6月 ハーグ密使事件 8月 純宗スンジョン 大韓帝國皇帝に即位、イウン 大韓帝國皇太子に即位 12.5 イウン 日本へ連行される
1908.1.23   第2回揀擇かんたくの儀、ミン家に婚約指輪届く[07.12.20]
1909.10.26 安重根アンジュングン 伊藤博文統監を暗殺
1910.8.22  大日本帝國 大韓帝國を併合 9.10 韓國統監府を改組した朝鮮総督府(寺内正毅初代総督)を設置
1916.8.3   イウン・梨本宮方子 婚約発表
1918.1.13  イウン 一時帰国[17.12.1] 1.31 婚約破棄を迫られる[丁巳정 사17.12.18] 2.13 婚約破棄[戊午무 오18.1.3] 7.5 カブァンの祖母死去(5.27)
1919.1.4 カブァンの父 閔泳敦ミンヨンドン 死去[18.12.3] 1.21 高宗コジョン崩御ほうぎょ[18.12.18]を公表[12.20] 3.1 三一独立運動始まる
1920.4.28  イウン・方子結婚 7.22 カブァン・弟仁川インチョン港から上海へ(東亜トンヤ飯店に約3ヵ月滞在)  10月 フランス租界 宝裕里バオユリへ移転(カブァン・弟 晏摩氏アンマシスクール入学)
1924年初 カブァン 同スクールを退学し山海シャンハイ関路グヮンルへ移転
1927.5.30  イウン・方子欧州旅行、上海港で上陸せず沖合に停泊中の軍艦八雲やぐもで宿泊
1928.10.22  カブァンの母死去[9.9]
1931.9.18 満州事変が勃発
1932年 共同租界の愚園路ユユァンルへ移転
1935年 弟一時帰国し結婚([12.7] 婚姻届)
年不詳 共同租界の膠州路ジャオジョウルへ移転
1945.8.15 太平洋戦争が終結、大日本帝國が敗戦し朝鮮解放される
1946.6 カブァン・弟の家族上海を離れ帰国、서울駅前の大同テドン旅館に滞在
1947/48年 六親等の弟の家で約2年滞在
1949/50年 妹マンスンの家で数ヵ月滞在、その後 寺洞宮サドングンへ移転
1950.6.25 朝鮮戦争が勃発、清州チョンジュに疎開、その後ブサンへ移転
1953.7 朝鮮戦争の停戦協定調印される
1962.11.23『閔甲完ミンカブァン女史人生手記: 百年恨ペンニョナン』文宣閣より発行
1968.2.5 弟チョネン死去[1.7]
1968.2.18 カブァン死去[1.20]
2014.7.10『대한제국의 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀: 민갑완 (大韓帝国最後の皇太子イウンの婚約者:ミンカブァン)』지식공작소  Communicationbooks より発行
Korea and Imperial Japan(2) もご参照ください

亡命前서울の住所

住所西暦等
笠洞イプトン1897年から98年
漢洞ハンドン1898年から1906年より後
水標洞スピョドン1906年より後(年不詳)に引っ越し

上海の住・居所

住・居所(租界)西暦カブァン動向
東亜トンヤ飯店(英)1920上海到着直後
宝裕里バオユリ(仏)1920-24晏摩氏アンマシスクール通学
山海シャンハイ関路グヮンル(英)1924-32外出を自制
愚園路ユユァンル(共同)1932–膠州路ジャオジョウル移転まで
膠州路ジャオジョウル(共同)–1946上海を離れるまで

帰国後の住・居所

住・居所等時期・行政區等
서울駅前の大同テドン旅館1946年6月から1-2年
六親等の弟の家離れ約2年(1947/48-1949/50)
妹マンスンの家数ヵ月(推定 1949/50)
寺洞宮     朝鮮戦争勃発時の住居
清州チョンジュ        朝鮮戦争中の疎開先
東萊トンネ温泉洞オンチョンドン    ブサン市東莱トンネ區内
長箭洞チャンソンドン      ブサン市 金井クムジョン區内

参考: 서울<京城<漢城<漢陽

首都読み国名・情勢・西暦等
서울seoul大韓民国
1946-
京城keijo大韓國(大日本帝國が併合)
1910-1945
漢城한성朝鮮、大韓國・大韓帝國
1392-1910
漢陽
開京
한양
개경
高麗(古代三國*を統一)
*新羅・後高句麗・後百濟
918-1392

Kabwan and her contemporary

Min Kabwan and her niece, Shanghai(1)
カブァンと姪ビョンスン(上海時代) 민갑완과 질녀 병순, 상해시대

…僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァンの写真や資料を集め…

[02] 민갑완 묘비, 부산 용호동 천주교공동묘지
カブァンの墓碑(プサンのカトリック共同墓地にあった) 민갑완 묘비, 부산 용호동 천주교공동묘지
西紀一八九七年九月二五日駐英公使閔泳敦氏의三女로서울笠洞서誕生
一九〇七, 二, 一, 英親王妃三揀擇日帝侵略으로九一八, 一, 三, 高宗皇帝가下賜한信物強奪破婚害로上海亡命, 一九四五年祖國光復과함께帰
一九六二年手記「百年恨」發表, 翌年映畫化
忠臣不事二君烈女不更二夫의굳은理念下에生을童貞으로一九六八年二月一九日聖芬道院에서善終하시다
이生에서못피우신青春天國에서永樂하소서
  西紀一九六八年二月二十三日
(↑写真下に隠れた五字[太字]を読者の指摘により復元した)

[06] 민영환
叔父ミン・ヨンファン(閔泳煥) 민영환
[08] 3.1운동, 덕수궁 대한문 경성일보사 앞, 1919년
1919年の3・1運動(徳寿宮大漢門、京城日報社前) 3.1운동, 덕수궁 대한문 경성일보사 앞, 1919년
徳寿宮中和門から見た中和殿と石造殿:1910-11年
徳寿宮中和門と中和殿(1910-11年) 덕수궁 중화문 및 중화전, 1910-11년
徳寿宮の中和殿(2)
徳寿宮中和殿(現在) 덕수궁 중화전, 현재 모습
[14] 서울시 청계천 수표교, 1902년
ソウル市清渓川の水標橋(1902年) 서울시 청계천 수표교, 1902년
現在の水標橋
ソウル市清渓川の水標橋(現在) 서울시 청계천 수표교, 현재 모습
[17] 일본 황태자 방한 기념 사진, 1907년
嘉仁親王[後の大正天皇]の訪韓記念写真(1907年) 일본 황태자 방한 기념 사진, 1907년
京仁線開通時の仁川駅:1899年
京仁線開通時の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 개통시의 인천역, 1899년
仁川港:1925年ごろ
仁川港(1925年前後) 인천항, 1925년 전후
[25] 김규식
キム・ギュシク(金奎植) 김규식
Miss Hannah Fair Sallee, Principal:晏摩女中の年刊(1940年)より
晏摩氏女中サリー校長(1915-25年)、Ms. H. F. Sallee 암마시스쿨 교장(1915-25년) Ms. H. F. Sallee
Eliza Yates Girls' School, 1925
晏摩氏女中の校舎 암마시스쿨 교사
Shanghai Jiao Tong University, 2007
上海交通大学構内にある建物(晏摩氏女中の場所) 암마시스쿨이 있었던 곳, 현재 상해교통대학교 구내에 있는 건물
大韓民国臨時政府の旧跡
大韓民国臨時政府の旧跡 대한민국 임시정 옛터
大韓民国臨時政府の旧跡内にある金九像と執務室
大韓民国臨時政府キム・グ(金九)執務室 대한민국 임시정부, 김구 집무실
[42] 6.25 직후 남산에서 본 서울역 부근 모습, 1950년
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発直後のソウル駅 6.25 직후 남산에서 본 서울역 부근 모습, 1950년
[43] 부산항과 부산역 1950년
プサン港・プサン駅(1950年) 부산항과 부산역 1950년
[46] 수복직후의 서울역과 주변 모습, 1950년 9울 28일
1950年9月28日、修復直後のソウル駅 수복직후의 서울역과 주변 모습, 1950년 9월 28일
[49] 민갑완 종언(終焉)의 지 장전(長箭)동, 1956년 사진
カブァン終焉の地プサン市金井区長箭洞(1956年) 민갑완 종언(終焉)지 장전(長箭)동, 1956년 사진
[50] 부산, 성분도병원 빌딩
カブァンが逝去したプサン市聖芬道病院 부산, 성분도병원 빌딩
閔甲完の骨壺(左上)と閔千植夫妻の骨壺(右上)
プサン市機張郡シロアム公園墓苑納骨堂 실로암공원묘원 납궐당
Min Kabwan and her brother's family, Shanghai(2)
弟のチョンシク(閔千植)家族とカブァン(上海時代) 민천식 가족과 민갑완, 상해시대

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암마시스쿨 In search of old Shanghai

15年前、僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァン(閔甲完 1897-1968)に関わる写真や資料を集めていた。上海語の個人授業も受けた。羽田から上海虹橋ホンチャオ空港に飛んだのは2007年4月20日だった。同年12月と09年8月にも上海を訪ねている。カブァンの上海亡命中の暮らしについて確認したいことがいくつかあったからだ。木之内誠編著『上海歴史ガイドブック』(大修館書店 1999年)を片手に上海市内を徘徊はいかいした。

1920年7月に仁川インチョンを出港したカブァンと弟は上海に到着してから約3ヵ月を東亜トンヤー飯店というホテルで過ごした。そのホテルは現在も南京路ナンチンルーに面して建ち、往年の姿を留めている。そこに韓国臨時政府の김규식キムギュシク(金奎植 1881-1950)が訪ねて来る。同年10月、彼の采配さいはいでカブァンと弟は암마시스쿨アムマシスクールに入学するのだが、彼らが長期滞在したホテルかどんなところだったのか、アムマシスクールというのがどこにあってどんな学校だったのか、よくわからなかった。

翻訳原稿を読み返しても何らの風景も浮かんでこない。このばくとした曖昧あいまいさが僕を苛立いらだたせあせらせていた。上海の当時の地図と「歴史ガイドブック」を頼りにほとんど無計画のまま上海に行き、少しずつ画像化していったのだ。このとき、翻訳編集は新たな段階に入っていたと思う。単なる字面じづらの翻訳では納得できなかったのだ。彼女をほかにも大勢いたであろう日韓史の犠牲者の一人として伝えても無意味だと思うようになった。

カブァンという女性について、韓国でも日本でもほとんどの人は知らないし、たとい知ったとしても関心を示さない。たまたま関心を抱き、自伝の翻訳を通して多くを知り得た者として、それを一人でも多くの人に伝えたいのだが、いまだにその方法を考えあぐねている。

以下、カブァン自伝より上海に亡命した直後のようすを伝える部分(仮訳)を紹介する。くり返し読みセリー校長の顔写真を見ていると、この人はこんな眼でじっとカブァンと弟を見つめたのだろうと思う。慈愛じあいに満ちた表情で彼らをあたたかく見守ってくれたに違いない、などと思う。

金奎植キムギュシク博士の言葉は、泣きながら過ごしてきた私に警鐘けいしょうを鳴らしてくれました。博士にお会いした3日後、私とチョネンは博士の紹介で学校に行きました。晏摩氏アンマシスクール[1]というアメリカ人女性セリー校長[2]が経営する大きな学校で初中等教育課程を持っていました。ピアノが12台もある音楽室があり、大きな図書館もありました。
キム博士が「韓国の愛国烈士れっしの子女」が亡命してきたと伝えていました。校長は私たちを丁重ていちょうに迎えいれ、中国語の個人指導教師まで手配してくれました。
私は中等部に入り、チョネンは初等部に入って学ぶことになりました。ただ、しばらくはまるで案山子かかしのように、他の生徒が教室に入れば入り、出るとあとについて出る、それしかできませんでした。
中国語の個人指導はとても効果的でした。他のことはともかく、知らない国で暮らしていて言葉が通じない苦しみほどつらいことはありません。生まれ落ちたときからの聾唖者ろうあしゃでもない私があらゆることに目つきと手ぶりで応じるのですから、本当に気が滅入めいりました。
韓国にいたときも、中国行きが決まってからひそかに中国人を奥の部屋に呼んで3-4ヵ月教えてもらいましたが、使おうとしても思うように言葉が出てきません。個人指導をしていただくのも主に筆談ひつだんでした。文字に書いて音を習ったのです。
いつしか冬も過ぎ、春が来ました。私の上海もかなり上達し、簡単な言葉なら話すことができるようになりました。時間があるときは中国の怪談の本を読んだり、お手伝いさんと話したりしました。
叔父がバス会社のマネージャーだったので、3ヵ月のホテル生活を切り上げ家を借りて暮らすことができました。フランス租界の保裕里ポユリにある質素な家で、二人の叔父と叔母にチョネンと私の5人で暮らしました。言葉がよく通じないからとお手伝いさんを置いたのですが、今ではかなり言葉も通じるようになりました。
ある日、人をかいして韓国から便りが届きました。上海に到着してからも、ときどき手紙だけはやり取りしていたのです。これまでは私たちに心配をかけまいと、安否あんぴを尋ねる簡単なものでした。ところが、今回の手紙で家がたいへんな状態にあることを知らされました。
私たちが上海に渡って3ヵ月過ぎてから刑事たちが次々と家に訪ねてきたそうです。「娘をどこに隠したんだ」「早く手紙を出して呼び戻せ」などと叫び、ありとあらゆる狡猾こうかつ脅迫きょうはくをしたといいます。さらに、母方ははかたの祖父と母を交替で投獄して苦しめたというのです。母は私のことで、祖父は叔父たちのことで、このような目にったのでした。
[1] Eliza Yates School、1940年(中華民國曆29年)発行、許晩成編「上海學校調査錄」(Directory of Schools and Institutions in Shanghai)には「晏摩氏女中、外灘7號大廈4樓、應美瑛校長、敎會立」「卽前省立松江中學(松江高級中學、靜安寺路591弄141號)」とある
[2] Miss Hannah Fair Sallee [写真] 1915-25年校長

郷愁 nostalgia(2)

萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」冬の部の冒頭部分を引用します。与謝蕪村よさのぶそん(1716-1784)の写実主義を評価した正岡子規とは違った観点から、蕪村の抒情性を高く評価した詩論です。「冬の部」の初出は雑誌「生理 5」(1935年2月)

いかのぼりきのふの空のりどころ

北風の吹く冬の空に、たこが一つあがっている。その同じ冬の空に、昨日きのふもまたたこあがっていた。蕭条しょうじょうとした冬の季節。こおったにぶい日ざしの中を、悲しくさけんで吹きまく風。硝子ガラスのように冷たい青空。その青空の上にうかんで、昨日きのふ今日けふも、さびしい一つのたこあがっている。飄々ひょうひょうとしてうなりながら、無限に高く穹窿きゅうりゅうの上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶ついおくただよっている!

この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクがあらわれている。「きのふの空のりどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがった空に一つの同じたこあがっている。即ち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断ふだんに悲しく寂しげに穹窿きゅうりゅうの上に実在しているのである。

こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーヴを表出した哲学的標句ひょうくとして、芭蕉ばしょう(1644-94)の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのふの空の有りどころ」というごとき語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じような欧風抒情じょじょう詩の手法を持っていたということにある。 

参考: 正岡子規「俳人蕪村」

郷愁 nostalgia

萩原朔太郎が蕪村(1716-1784)を再評価した「郷愁の詩人 与謝蕪村」を読んだ。前回読んだのは高三のときだったろう。もう50年以上前のことだ。朔太郎は序文で次のように述べている。

…著者は昔から蕪村を好み蕪村の句を愛誦あいしょうしていた。しかるに従来流布るふしている蕪村論は全く著者と見る所を異にして、一も自分を首肯しゅこうさせるに足るものがない。よってみずから筆を取り、あえて大胆にこの書をあらわし、著者の見たる「新しき蕪村」を紹介しようと思う…蕪村俳句の本質を伝えれば足りるのである。

著者のいう「蕪村俳句の本質」こそ<郷愁の詩人>なのである。それはとりもなおさず詩人朔太郎(1886-1942)の本質であろう。

高三の夏休み前に朔太郎全集(新潮社版)を購入し、夏休みに入るや母には受験勉強だと言って、背表紙が革製の全集のうち二冊と数十冊の文庫本を持ち、鈍行の夜汽車を乗り継いで岡山県の中国山系にある鉱山町に向かった。そこに単身赴任していた父の家に下宿し、夏休みのほとんどを好きな本の世界に没頭した。蕪村に関心を持ったのは朔太郎の影響だったろう。

一浪して大学に入ったものの、学生でいることに意義を見出せないまま不登校となった。70年前後から在日や隣国に関心を寄せる。朝鮮語を学ぼうと思ったが、気に入った学校を見つけられなかった。当時、韓国語という名称は使われておらず、どこも政治的な傾向を帯びていたように思う。いい加減な僕は、文革の影響もあって内山書店の奥で中国語を学ぶことにした。朝鮮語以上に政治的な選択をしたわけだ。案の定、3ヵ月ほどでやめてしまった。

週刊朝日(72.4.21)に김지하キムジハの「蜚語ひご」が掲載され、むさぼるように読んだ記憶がある。翻訳で読んでも行間にみなぎる力に圧倒され、韓国の学生運動に日本のそれにない社会性を感じた。当時日本橋にあった三中堂で原書を購入したが、歯が立たなかった。延世大学語学堂の英語で書かれたテキストを入手し、独学で勉強した。大学書林の「朝鮮語の基礎」も通読した。発音はKBSと平壌ピョンヤン放送を聴いて覚えた。

73年に韓国の航空会社の東京支店に入社したが、日本人で韓国語ができるのは僕だけだったと思う。出社した日に上司に呼ばれ、北のなまりを指摘され狼狽ろうばいした。当時はスパイといわれるに等しかったからだ。金大中キムデジュン事件(73年)や文世光ムンセグァン事件(74年)が継起けいきし、日本における韓国イメージは最悪だった時期である。なぜ、あの時期に韓国に引かれたのだろう。振り返ってもよくわからないのだ。

出身地や学歴、出自や階層、所属団体などにもとづいて差別する社会に対する反発があったことは間違いないが、なぜそれが隣国に向かったのか定かではない。幼少期を過ごした鉱山町への郷愁だろうか。東北地方の水沢で過ごした2年間に対する郷愁だろうか。アイデンティティの喪失感そうしつかんにともなうあせりから在日に親近感を覚えたのだろうか。

Goolee’s library

2021年7月に「縦書き文庫」というサイトを知り、以前に書いた習作や拙論などを一部編集し同文庫に載せてきた。掲載作は次のとおりである。同文庫が擁する文学作品も少しずつ読んでいる。縦書きを勧めてくれた菊地明範先生に深く感謝している。先生とは1999年以来のお付き合いで、2008-20年に開催されたクムホアシアナ杯「話してみよう韓国語」大会の立ち上げからご一緒した。

シリーズ題名字数
無宗教社会を生きる(執筆中)
未定記憶のかけら拾遺しゅうい: 個人史の試み10,308
ハイジン教徒老人たちよ異界いかいでタンゴを舞うな15,607
ハイジン教徒電車という名の動く寺院 mobile temples14,181
未定翻訳: 忘れられた女性민갑완ミンカブァン [2023年予定]3,492
論考 Review Japan明治期の欧米崇拝と排外意識55,178
@2022/03/31

방정웅小説集「白いムクゲ」出版

방 정웅パン ジョンウンさんがこれまでに書きためた小説を集め『白い木槿むくげ』と題して出版しました。版元は図書出版「新幹社」です。「おめでとうございます」、旧正月の喜びが伝わってくるようです。在日総合誌「抗路(八号)」(抗路舎2021年3月)に掲載された「湊川高校・朝鮮語教師の物語」へのリンクも張りました。

『白い木槿むくげ』あとがきより
在日コリアンとして日本に生まれ、生きていく中で気がつくと「くすぶった思い」を持ち続けている自分がいました。しかし日々の生活に追われ、いつもの日常が過ぎていきます。くすぶった思いの昇華しょうかの手段として「小説」に向かったのは、小説世界に入ることで救われた思いが幾度いくどかあったからです。
高校教員生活を終え、意を決して「大阪文学学校」の扉を恐るおそるけました。今まで生きてきた在日コリアンとしての思いを、素朴そぼく庶民しょみんの視点から喜び悲しみを淡々たんたんと描きたい、そんな希望を持って入っていった「文学の森」の道はけわしく、進むことも戻ることもできない時期が何度かありました。同じ思いを持った仲間に救われ、今に至っています。
このかん書きつづった中短編の中から四編を選びました。幸いなことに「文学賞」と名のつくささやかなご褒美ほうびも何度かいただき、それが砂漠で水を与えられたように歩み続ける励みともなりました。
「くすぶり」はそう簡単には消えそうもありません。それがある限り「このまま死ねるか」と、自分の胸だけにそっと仕舞しまい、これからも精進しょうじんしていきたいと思っています。
author profile
name방정웅 方政雄(パン・ジョンウン)
birth1951 年神戸生まれ
identity在日韓国人二世
job元兵庫県立湊川高等学校教員
author『ボクらの叛乱』(兵庫県在日外国人教育研究協議会) 
co-author『教育が甦る―生きること学ぶこと』(国土社)
『阪神大震災 2000 日の記録』(神戸新聞総合出版センター)
『多文化・多民族共生教育の原点』(明石書店)
『韓国語・朝鮮語教育を拓こう』(白帝社) ほか
activities伊丹市民祭り、出会いのひろば「伊丹マダン」代表。地域の多文化共生を深める活動を続けている。

電車という名の動く寺院 mobile temples (a short story)

この短編を「縦書き文庫」でお読みください. Click!
関連作: 老人たちよ異界でタンゴを舞うな

鉄道会社の駅務員だった主人公はその仕事を天職と信じ、他の誰よりも献身的に駅務に尽くしました。おそらくその献身ぶりがたたったのでしょう。半年あまり過ぎたころから精神に変調をきたし、一年ほどでめてしまいます。以下の文章は、そのあいだに彼が観察した電車と駅構内などにおける人々の生態について彼が担当医と記録係に話した内容をもとにしています。

駅のホーム

大きくカーブした線路に沿ってホームが弧状こじょうに延びている。ホームの上には、白い塗料をぬりたくった鉄柱が規則正しく並び、半透明なアーチ状の屋根を支えている。何本かおきに柱の上方に取りつけられたスピーカーが、朝暗いうちから深夜まで、一定の間隔をおいて電子音のチャイムと駅員のヒステリックな声を吐き出し続ける、いかにも都会的で無機質むきしつな風景だ。

電車の最前部の車輌が、みるみる大きくなって駅に近づいてくる。

ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)
電車が入ってまいります(録音された声が流れる)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声が流れる)

朝のラッシュ時間、ひっきりなしにホームに入ってくる電車が威厳いげんを示すように警笛けいてきを鳴らすたびに、駅員たちがあわただしく動き回り、苛立いらだたしげに決められた台詞せりふを叫ぶ。それにあおられるかのように、ホームを行き来する人々の動きがあわただしさを増す。

電車が入ってまいります(録音された声)
ピピーピッピー(駅員がホイッスルを吹く)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声)
ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)

駆けこみ乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)

ダンダラダーダンダラダーダンダラダラダー(発車の電子音が響く)
ドアが閉まります、無理なご乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)
次の電車がまいります(電光掲示板の文字が表示される)
次の電車をご利用ください(駅員が叫ぶ)

電車が発車します、おさがりください(駅員が叫ぶ)
ピピーピッピー(ホイッスルが鳴る)

この物語の主人公である凭也ヒョーヤは、朝のホームが好きだった。毎朝夕こんな光景を見ていた。そのまっただなかで、改札口を通り過ぎていく相手の定まらない人々に向かって、数秒ごとにあいさつをくり返すのが彼の仕事だった。仕事の一部としてそうするのだが、彼にあいさつを返す人はいない。改札係など機械じかけの人形ぐらいにしか考えていない人々は、うつむき加減かげんに急ぎ足で彼のよこを通り過ぎるだけだ。彼が発するあいさつのことばは人々の靴音くつおとのなかにむなしく消えていく。

ドドッドドッドドードドッドドッドドー(人々の靴音が響く)
おはようございます、おはようございます(改札係が声を出す)
通勤お疲れさまです、お疲れさまです(改札係があいさつする)

改札係になって数ヵ月のあいだ、凭也は駅のホームとそこを通過する電車が作り出す光景が神聖な伽藍がらんのように見えた。朝夕の陽光を浴びてホームを動き回る人びとの姿は敬虔けいけんな信者のように映ったし、仕事とはいえ宗教儀礼のようにあいさつすることに何の疑いもいだかなかった。人々に対して、家畜に対したときのような優越感を抱くことはあったが、ホームも駅舎もすべて通過する人々の寄進きしんで建てられたものだったし、彼らがいなくなれば改札係もいらなくなると考えていた。まるで当然のことのように、通過していく人々をうやまっていたのである。

お勤めごくろうさまでした、ごくろうさまでした(改札係があいさつする)
本日もご利用いただき、ありがとうございました(改札係が頭をさげる)
ありがとうございました、ありがとうござ……

電子音と駅員たちの声がスピーカーから流れるたびに、ホームの光景に彼らの苛立ちと怒りが渦巻うずまいているように感じるようになったのは半年ほどたってからだった。それでも、自分をとりまく光景を不自然に感ずることはなかった。ごくあたりまえのことだと考えていた。一年以上ものあいだ、彼はほとんど休むこともなく働きつづけたのだから。それは敬虔といってよいほどであった。それがわざわいしたのかもしれない。いつのころからか、駅員たちの叫び声が罵声ばせいに聞こえるようになった。

おい、いったい何度いったらわかるんだ
ホームのはしを歩くんじゃない
ドアがしまるといってるんだ
おい、走るんじゃない
ほかの人に迷惑だからやめろといってるんだ
やめないか、おい、いい加減にしろ
おまえたちなんか家畜とおんなじだ
電車に引かれて死んでしまえ
死んでしまえばいいんだ

つづきは縦書き文庫でお読みください。→「電車という名の動く寺院」

写真: 韓国・京仁線の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 인천역, 1899년

老人たちよ異界でタンゴを舞うな(a short story)

この短編を「縦書き文庫」でお読みください. Click!
関連作: 電車という名の動く寺院

この文章に書かれているのは二〇三〇年に起こったか起こると思われることで、場所は日本島の中心部にある都会とその周辺です。主人公であり書き手でもある凭也(ヒョーヤ)は記憶障害者で記憶と年代の対応が覚束おぼつかないため、時間軸が揺らぎます。記録係は主人公の分身のような存在です。

老人たちとの再会

一月か二月の冷え込んだ日の午前中だった。日本島の首都の中心部にあり、その象徴ともいえるグローブ(球体の意)駅構内はいつものように多くの人で混み合っていた。みな一様いちようにうつむいて手のひらを見ながら歩き、人や物にぶつかると頭を上げる。通路の壁ぎわに止まって見ていると、人々の動作はどこか機械的でロボットのようだ。その雑踏のなかに一瞬、五十年前に電車のなかで車イスに乗って球戯の審判をしていた老人を見たような気がした。いや、その十年後ゴー河沿いに走る列車で二度出会った老人だったかもしれない。彼らが同一人物だったかどうかも不確かなのだ。いや、二人だったろう。年代が違うはずだから。

二〇二〇年代を通じて車イスはすべて電動式になり、都会では軽自動車に取って代わるほどになった。どこでも多くの人が軽快に乗り回していたから、三〇年当時、車イスは特に珍しい光景ではない。いつもなら気にも止めないが、目に止まった車イスには四五十年ほど前に見た老人とそっくりな人が乗っていた。ただ、半世紀前の彼(ら)が生きているはずはない。打ち消そうとするが、何かがそうさせない。考えあぐねているあいだに、彼(ら)の強い引力に引かれ、そのあとを追っていた。その容姿と顔を見て必死に記憶の断片を拾おうとするが、思い出せない。二十歳はたちの青年が七十歳の老人になるほどの年数がっているのだ、と言い聞かせながらも、何が彼(ら)を同一人物と思わせるのか不思議でならない。

一九八〇年の夏、動くハイジン教寺院の三号車の老人は車イスに乗っていた。九〇年の晩秋、H市の列車で出会った老人は大股おおまたで歩いた。いま目の前にいる彼(ら)は上下とも黒い服を着ていて、当時と同じように白髪はくはつが目立つ。彼らが同一人物だとすれば、百歳を超しているはずだが、一見して七十歳前後でむかしとあまり変わらない。ただ、以前の活気がなく、ひどくやつれて見えた。違う人ではないか、そう思いつつも車イスのあとを追った。グローブ駅の地下道を人々は軍靴ぐんかのようなくつ音を響かせて行進し、車イスにぶつかっては横を過ぎ、小動物の群れのようにエスカレータに吸い込まれていった。人の集団が見えなくなると、構内はいっとき静けさを取り戻し、彼(ら)の車イスのモーター音と靴音が静かに響く。彼(ら)は長いエスカレータに乗って上がって行く。車イスはしっかりエスカレータにみ合い安定して水平に保たれ、彼(ら)は身動き一つせずに運ばれていく。

彼(ら)が乗っていた段が最上段に達すると、車イスはスムーズに放たれる。さらに進んで地上に通じるゲートを通過すると、かん高い電子音が鳴り、彼(ら)はひどくおびえた。すべてのゲートの出入りが記録されることを彼(ら)は知っている。日本島の住人は、短期滞在の異教徒を含め、この管理体制からのがれられない。島内にいる人々の行動がすべて監視されていた。長い通路を進んで地上に出ると、彼(ら)は道路の向かい側にそびえ立つガウディ建築さながらの高層ビルをめざす。駅構内からここまでずっとバリアフリーだから、車イスの動きがとどこおることはない。車イスはビルの一階に突き出した建物にさっと入って行った。さまざまな品物を置いたたなが、人と車イスが通れるスペースを空けて並んでいる、巨大な倉庫のような空間の一角にテーブルとイスが置いてあり、カウンターも備えている。二千年ごろから日本島の津々浦々に普及したハイジン教寺院の典型的な建築様式だ。

つづきは縦書き文庫でお読みください。→「老人たちよ異界でタンゴを舞うな」

酒を友に4.2万kmの自転車旅1982-83/89年

中学時代の同級生にテントと自転車で地球一周に相当する距離を走った男がいます。いまから40年前、1982年に北米大陸を横断し(約150日)、83年に入ってヨーロッパ(約300日)と北アフリカ(約70日)を周遊し、香港(5日)・台湾(約20日)を経て帰国しました。走行距離は3.1万キロだといいます。

1989年には、地球一周に相当する4万キロを走破したいとの望みを達すべく、日本列島を約160日かけて自転車で一周(1.1万キロ)しました。この旅を終えたとき、彼は40歳になろうとしていました。1980年代、スマホもラインもなかった時代のことです。彼が一日も欠かさなかったのはブログではなく各地のビールやワイン、酒や焼酎でした。各地で酒を酌み交わし英語と現地語、あるいは日本語で話した相手は数十人、いや百人を超えるでしょう。

自転車たびを記録しつづけた手帳

彼は5年ほど前に数年かけて手書きの手帳と写真をもとにブログを執筆しました。PCを使わないので、すべてスマホ入力です。いま、その文章をもとに縦書き文庫に執筆中で、北米大陸横断を終え、ヨーロッパと北アフリカを走っているところ、まだまだ続きます。タイトルは地球一周分にふさわしく長くなりました。40年前、旅の仕方も通信手段もまったく異次元の世界です。

自転車たび1982-83/北米・欧州・北アフリカ・香港・台湾

走った国と地域は順に-米国-カナダ-英国-スペイン-ポルトガル-モロッコ-アルジェリア-チュニジア-イタリア-ギリシャ-ブルガリア-ユーゴスラビア-ハンガリー-オーストリア-スイス-西ドイツ-デンマーク-スウェーデン-ノルウェー-オランダ-ベルギー-フランス-香港-台湾-日本、1980年代、スマホもインターネットもなかった時代の700日、のどかな自転車たびをお楽しみください。

蛇足(だそく)ながら、当初はアフリカに行く予定はなかったようです。82年12月、ポルトガルに滞在していた寒さ嫌いの彼はアフリカに行けば暖かいだろうと信じ、フェリーに乗ってモロッコへ行きました。期待に反し、そこも冬だったとか…(わら)うに笑えない話しです。

絵画とデッサンで描くタンゴの世界

パリ在住の日本人画家でタンゴ・ミロンゲロ(一般的に知られているショータンゴとは異なるブエノスアイレス生まれの伝統的な<タンゴ> tango milonguero)の普及に努める女性がいます。僕も大いに感化され<タンゴ>に魅せられた者の一人です。

<タンゴ>の何に魅了されたのでしょう。おそらく最大の理由は僕に<タンゴ>を教えてくれる人が<ダンサー>ではないことです。同世代ということもあるかもしれません。半世紀ほど異国で過ごし、画家を本業としながら、さまざまなダンスを習った末に<タンゴ>に出会って魅了された、そういう来歴らいれきに引かれたのです。

そんな彼女をとりこにした<タンゴ>に僕も魅了された。まだうまくリードできないのに不遜ふそんながら、そう考えています。彼女が絵画とデッサンで描く<タンゴ>の世界に引かれたということです。70歳にしてこういう世界を知った者は仕合しあわせというべきでしょう。

…日本人も勿論もちろんアジア系なのですが、中国人や韓国人と違って、独特の内向性ないしストイック(抑制的)な面を備えています。タンゴの持つ情熱的な要素とこの抑制的な要素がぶつかると、そこに葛藤かっとうを生じます。とくに、ミロンゲロではペア同士が体を接することもあり、異性をハグ(抱擁ほうよう)することにれていない多くの日本人はその違和感をだっしないまま、タンゴから遠ざかってしまうようです。
長年パリに住みながら、過去10年ほどのあいだ何度か日本に短期滞在し、タンゴに魅せられた人々を観察してきた私は、日本美の根底に抑制された美意識を見ます。情熱を抑制しながら表現できるようになると、単なる情熱の表出とは違う一種の気品や格調の高さが生まれます。それが日本的なタンゴだといえるかもしれません。
日本人はそういう抑制された感情表現が得意だと思うからです。ただ、その抑制力が否定的に作用すると内向きになり、単なる内気になってしまいます。それを克服こくふくして情熱を表現できたら本当にすばらしい。タンゴと日本的な美意識を融合する—そんなことをめざす人が増えたら、とひそかに期待しています…
パリから見た日本のタンゴ tango milonguero より
(c) wakakoyamamoto

「ふつうの人々」

芥川龍之介(1892-1927)の遺書といわれる「或旧友へ送る手記」を読んだ。昨年末、若い女性歌手の自殺らしき事件をめぐって娘と話していると、唐突に芥川の自殺を「ふつうの人々」がどう受け止めたか、尋ねられたからだ。すぐに答えることはできなかった。

冒頭に触れた若い女性歌手の自殺に関連し、篠田博之氏が自殺報道のあり方について投稿した文章を読んだ。報道のあり方を批判的に捉えていて、大いに共感するところがあった。さらに検索すると、金孝順2013が植民地朝鮮における受容について論考を公開していたので読んだ。当時の「ふつうの人々」で想定される日本人とは隔たった人々であるが、参考になると思って読んだ。

冒頭、関口安義1994の文章を引用している。やや誇張されているように思うが引用する。大日本帝国時代の話ではあるが、メディアの報道ぶりが国の戦争拡大へのムード作りの機能を担っていることを改めて思わざるを得ない。

…(1927.7.25)中央の新聞ばかりでなく、地方の新聞もすべてが重大ニュースとして芥川の死の模様を記事にした。社会面を全面つぶしでの報道が多く、衝撃の大きさを物語っている…芥川の死に関する新聞報道は翌日以後も続き、翌月末に至る。地方新聞も含めると、その量は厖大なものとなろう。後追いの自殺もかなりある。
…週刊誌も「週刊朝日」と「サンデー毎日」が龍之介の死の特集を組んだ。(略) 1927年9月号の雑誌は競って芥川龍之介特集を行っている。「文芸春秋」「中央公論」「改造」「新潮」「文章具楽部」「女性」「婦人公論」「三田文学」などが特集を組んだ。ここに実に多くの人々が様々な角度から芥川龍之介とその文学に発言することになる…

これを読んで、1970年11月の三島由紀夫(1925-70)の自殺を思い出した。当時、大学に行かず渋谷の大型書店でバイトしていた僕は、帰りに渋谷駅で配られていた号外を貪るように読み、いつになく興奮していた。帰宅すると、どのテレビも事件の報道一色だった、と記憶している。その後、三原山が噴火したとき、東北大震災のときも同じ動画がすべての放送局から流れていた。いまはコロナ禍一色だ。そもそも日本社会はいつもそうだが、再び1927年に戻ろう。

1926年12月に大正から昭和に改元した大日本帝国はどんな状況にあったのか。23年9月関東大震災、同年12月皇太子、30年11月浜口雄幸に対する襲撃事件が続いている。28年6月の張作霖爆殺事件、31年9月の柳条湖事件と続き、大日本帝国は32年3月の満洲帝国建国へと進んでいった。32年5・15、36年2・26を挟んで37年7月盧溝橋事件により本格的に中国を侵略していく。38年4月には国家総動員法が公布された。年表はこのような事件を記している。

聡明で神経衰弱を病んでいたという芥川が、戦争へ突き進む時代の重圧を鋭敏に感じていたことは想像に難くない。芥川を近しく感じていた萩原朔太郎(1886-1942)の「芥川龍之介の死」も読んだ。望郷の詩人とカミソリの刃のような小説家は似ているところがあり、かなり親しく交わっていた。伊豆の温泉宿で芥川の訃報を聞いた朔太郎は呆然とさまよい歩いたという。小説家が自殺する数日前に会っていながら、話を尽くせなかったことを悔いている。朔太郎も「ぼんやりした不安」を共有していたろう。

「ふつうの人々」という、いっけん容易に考えられそうな対象を捉えることのむずかしさについて改めて考えさせられた。独立した精神と卓越した観察力がなければ、それを捉えることはできない。いまだ僕にはそんな能力が備わっていないようだ。

日本のえと(干支、兄弟)

ことしは寅年とらどし、十干十二支によれば壬寅ジンイン(임인)で、九星では五黄ごおうにあたるそうです。壬寅を<みずのえとら>、訓読みで干支とあることは兄弟を<えと>と読ませるのもむずかしい。比較しやすいように簡単な表を作りました↓。韓国では「黒い虎」年というようです(みずのえ=黒)。

日本のえと(兄弟)

兄弟(えと)と九星

スマホで見るときは、画面をヨコに回転してくださいね。

https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/968828.html

阿育王塔とおふちの樹

九品仏にある淨眞寺(浄土宗)に行った。何回か訪ねている寺だ。九品仏くほんぶつの由来となった阿弥陀如来像九体を三体ずつ安置する三仏堂のあいだ、少し奥まったところに石塔が建っている。前からそこにあることは知っていたが、冬の西日のせいだろうか、石塔が迫ってくるように感じた。幕末に造られた日本様式の阿育あしょか王塔だという。阿育王は古代インド(紀元前3世紀)に実在した人物である。

寺の裏手にある公園にセンダンの樹があり実がたわわになっていた。調べたところ、日本にセンダンの樹はなく、平家物語巻十一にある「獄門の左のおふちの木にぞけられける」の「樗[おうち]の木」が栴檀せんだんとされるようになったという。実をついばんでいた鳥はムクドリらしい。 

日本古典文学摘集 平家物語 巻第十一
一七一七六 大臣殿被斬

原文
`さるほどに鎌倉の源二位大臣殿に対面あり
 `おはしける所庭を一つ隔てて向かひなる屋に据ゑ奉り簾の内より見出だし給ひて比喜藤四郎義員を以て申されけるは
 `平家を別して頼朝が私の敵とは努々思ひ奉らず
 `その故は故入道相国の御許され候はずば頼朝いかでか命の助かり候ふべき
 `さてこそ二十余年まで罷り過ぎ候ひしか
 `されども朝敵とならせ給ふ上追討すべき由の院宣賜はる間さのみ王地に孕まれて詔命を背くべきにもあらねばこれまで迎へ奉つたり
 `かやうに御見参に入るこそ本意に候へ
 `とぞ申されたる
`東国の大名小名多く並み居たりける中に京の者幾らもありまた平家の家人だつし者もあり皆爪弾きをして
 `あな心憂や
 `居直り畏り給ひたらばとて御命の助かり給ふべきか
 `西国にていかにも成り給ふべき人の生きながら囚はれてこれまで下り給ふも理かな
 `と云ひければ
 `げにも
 `と云ふ人もありまた涙を流す人もあり
`その中にある人の申しけるは
(1)``猛虎在深山即百獣震怖
``檻穽中則揺
`とて猛き虎の深山にある時は百の獣怖ぢ恐るといへども捕つて檻の中に籠められぬる後は尾を振つて人に向かふらんやうにこの大臣殿も心猛き大将軍なれどもかくなりて後はかやうにおはするにこそ
 `とぞ申す人々もありけるとかや
`判官やうやうに陳じ給へども景時が讒言の上は鎌倉殿用ひ給はず
 `大臣殿父子具し奉つて急ぎ上り給ふべき由宣ふ間六月九日また大臣殿父子受け取り奉つて都へ帰り上られけり
`大臣殿は今一日も日数の延ぶるを嬉しき事にぞ思はれける
 `道すがらも
 `此処にてや此処にてや
 `とは思はれけれども国々宿々うち過ぎうち過ぎ通りぬ
 `尾張国内海といふ所あり
 `一年故左馬頭義朝か誅せられし所なれば
 `此処にてぞ一定
 `と思はれけれども其処をもつひに過ぎしかば
 `さては我が命の助からんずるにこそ
 `と思しけるこそはかなけれ
`右衛門督は
 `なじかは命を助くべき
 `かやうに暑き比なれは首の損ぜぬやうに計らひて都近うなりてこそ斬らんずらめ
 `と思はれけれども父の嘆き給ふが労しさにさは申されず偏に念仏をのみ勧め申されける
`同じき二十一日近江国篠原の宿に着き給ふ
 `昨日までは父子一所におはしけるを今朝よりは引き離し奉つて所々に据ゑ奉る
 `判官情ある人にて三日路より人を先立てて善知識の為にとて大原の本性房湛豪と申す聖を請じ下されたり
`大臣殿善知識の聖に向かひて宣ひけるは
 `抑も右衛門督は何処に候ふやらん
 `たとひ頭をこそ刎ねらるるとも骸は一つ席に臥さんとこそ契りしか
 `この世にてはや別れぬる事の悲しさよ
 `この十七年が間一日片時も身を離されず京鎌倉恥を曝すもあの右衛門督故なり
 `とて泣かれければ聖も哀れに思ひけれども我さへ心弱うては叶はじとや思ひけん涙押し拭ひさらぬ体にもてないて
 `誰とても恩愛の道は思ひ切られぬ事にて候へばまことにさこそは思し召され候ふらん
 `生を受けさせ給ひてより以来昔も例しなし
 `一天の君の御外戚にて丞相の位に至り給ひぬ
 `今更かかる御目に逢せ給ふ御事もその前世の宿業なれば世をも人をも神をも仏をも恨み思し召すべからず
 `大梵王宮の深禅定の楽しみ思へばほどなし
 `況や電光朝露の下界の命に於いてをや
 `忉利天の億千歳ただ夢の如し
 `三十九年を保たせ給ひけんも僅かに一時の間なり
 `誰れか嘗めたりし不老不死の薬
 `誰か保ちたりけん東父西母が命
 `秦の始皇の奢りを極めしもつひには驪山の塚に埋もれ漢の武帝の命を惜しみ給ひけんも空しう杜陵の苔に朽ちにき
(2)``生者必滅
 ``釈尊未栴檀煙
 ``楽尽悲来
``天人猶逢五衰日
`とこそ承れ
 `されば仏は
`我心自空罪福無主観心無心法不住法,我心自空罪福無主観心無心法不住法
`とて善も悪も空なりと観ずるが正しう仏の御心に相叶ふ事にて候ふなり
 `いかなれば弥陀如来は五劫が間思惟して発し難き願を発しましますにいかなる我等なれば億々万劫が間生死に輪廻して宝の山に入りて手を空しうせん事恨みの中の恨みおろかなるが中の口惜しき事には思し召され候はずや
 `今は余年を思し召すべからず
 `とて鐘打ち鳴らし頻りに念仏を勧め奉れば大臣殿も
 `然るべき善知識かな
 `と思し召し忽ちに妄念を翻し西に向かつて手を合はせ高声に念仏し給ふ処に橘右馬允公長太刀を引き側めて左の方より御後ろに立ち廻り既に斬り奉らんとしければ大臣殿念仏を留め合掌を翻り
 `右衛門督も既にか
 `と宣ひけるこそ哀れなれ
`公長後ろへ寄るかと見えしかば首は前にぞ落ちにける
`この公長と申すは平家相伝の家人にて就中新中納言知盛朝夕伺候の侍なり
 `さこそ世を諂らふ習ひとはいひながら無下に情なかりけるものかな
 `とぞ人皆慚愧しける
`聖また先の如く右衛門督にも戒持たせ奉り念仏をぞ勧め申されける
 `右衛門督善知識の聖に向かつて宣ひけるは
 `抑も父の御最期はいかがましまし候ふやらん
 `と宣へば
 `めでたうましまし候ひつる
 `御心安く思し召され候へ
 `と申されければ右衛門督
 `今は憂き世に思ひ置く事なし
 `さらば疾う斬れ
 `とて首を延べてぞ討たせられける
 `今度は堀弥太郎親経斬つてけり
`首をば判官持たせて都へ上り給ふ
 `骸をば公長が沙汰として親子一つ穴にぞ埋めける
 `これは大臣殿のあまりに罪深う宣ひけるによつてなり
`同じき二十三日武士検非違使三条河原に出で向かひて平家の首受け取る
 `三条を西へ東洞院を北へ渡して獄門の左の樗の木にぞ懸けられける
 `昔より卿相の位に至る人の首大路を渡さるる事異国にはその例もやあるらん我が朝には未だその先蹤を聞かず
 `平治にも信頼卿はさばかりの悪行人たりしかども大路をば渡されず平家に取つてぞ渡されける
 `西国より帰りては生きて六条を東へ渡され東国より上りては死して三条を西へ渡され給ふ
 `生きての恥死んでの辱いづれも劣らざりけり

書下し文
(1)
``猛虎深山に在る時は即ち百獣震ひ怖づ
`檻穽の中に在るに及んで即ち尾を揺つて食を求む
(2)
``生ある者は必ず滅す
 ``釈尊未だ栴檀の煙を免かれ給はず
 ``楽しみ尽きて悲しみ来たる
``天人猶五衰の日に逢へり
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Shaws and Goolees