題名と章見出しの変更

題名を「凭れ合う人々」から「凭れ合うンヴィニ教徒たち: ある認知症患者の治療ノート」に変えた。以前の候補案の一つに副題を付けたものだ。これで落ち着けばよいのだが。

章見出しは次のとおり修正した。序章終章はそのままである。なお、第3章に登場する女性の名をダーラ(陀羅)にした。主人公の名前も変えるつもりだ。どちらも仮の名だったので。

  1. 電車という名の寺院 (p/w protected)
  2. 車イスの老人を追う (p/w protected)
  3. ダーラとの出会い (p/w protected)
  4. タンゴを踊る老人たち (p/w protected)

この小説の仮説(2)

日本島のンヴィニ教徒と呼ばれる人々の生態とその考え方こそがこの小説の主旨であり、広い意味における仮説だと考えている。

言いかえれば、ンヴィニ教徒という観察眼を通すことで、日本島の社会状況がどこまで浮き彫りになるか、という効用の問題だ。それを評価するのは最終的に読者である。

新しい日常 New Normal

最近もっとも違和感のある言葉は「新しい生活様式」と「新しい日常」だ。Stay home や social distancing などのカタカナ語と同じ翻訳語だと思うが、「新しい…」と聞くたびに政治的に発せられる言葉の不気味ぶきみさを感じる。

勝手な空想を働かせ、19世紀後半、盛んに喧伝(けんでん)された「文明開化」という用語に対し同じような気持ち悪さを感じた人が少なからずいたのではないか、と考えるまでになった。特異な感覚といわれればそれまでだが。

高校野球大会の中止決定に思う

「凭れ合う人々(未定稿)」は小説であり虚構にすぎない。だが、その虚構を借りて、現実を語ることはできる。

その小説のなかに野球を含む球技(戯)やンヴィニ教徒の子どもの整頭術に関する叙述がある。たとえば、次のとおりだ。

…..ンヴィニ教徒たちは頭蓋骨ずがいこつの形状を丸くすることで頭がよくなると信じていたようだ。どの親も自分の子どもの頭がよくなることを願った。子どもたちは一日の大半を学校という施設で過ごし、そこで団体訓練を通じて頭の形状を徹底して丸く整形された。親たちはそれで満足することなく、さまざまな整頭せいとう術を求めた。学習塾や予備校と呼ばれた施設における訓練もその延長上にあり、子どもたちは学校が休みの日も喜んでこれらの施設に通った。施設では、さまざまな手法を用いて頭を丸くするための訓練をほどこした。

…..ンヴィニ教徒たちは、野球やサッカーなどの団体球技を好んだ。少年男子の多くは野球かサッカーのチームに参加し、平日は朝早くから練習して、休日は他のチームと試合した。試合の日は親たちも観戦かんせんする。応援の熱狂ぶりは3号車の老人たちと異なるところがない。テレヴィは団体球技のようすを中継ちゅうけいし、どの宗派のチャンネルも定期的に野球とサッカーの試合結果を報じた。

…..球技(戯)が盛んな理由の一つはンヴィニ教の理想形が球体だったことに関係する。古代ギリシャ人が円形を完全な図形と考えたように、ンヴィニ教徒は球体に格別の意味を見出した。球体は神格しんかくを象徴し、彼らの統合の象徴とされた。

2020年5月の現実に戻ろう。小説のなかでンヴィニ教に敵愾心を抱いていると思われる主人公は、反抗する牙(きば)を失ったンヴィニ教徒の子どもたちを批判しているようにみえる。現代の状況に当てはめて考えるならば、球児と呼ばれる高校生たちが中止命令に接して泪するのは、いかにも従順で純真すぎないか、という主張なのだが。

中止命令に逆らって夏の大会を実施する方法を彼ら自ら考案することもできるはずだ、などと勝手な空想をしてみる。それはンヴィニ教徒たることをやめろということなのだが。

主人公もンヴィニ教徒なのか

ンヴィニ教という名の無宗教があるとして、それを批判するのがこの小説の主旨だった。そんなものなどあろうはずはない、それが大半の読者の無言のコメントだった。所詮、認知症患者のいうことに耳を傾ける人などいない。いや、筆者の力量不足だろう。

訃報が届いた。故人はある著作を翻訳していた。それを完成できないまま(たお)れたという。くやしいだろうな。引き継ぐ人はいるのだろうか。Man is mortal. 死は一定(いちじょう)なり。誰もいつどのように死ぬかわからない。

ンヴィニ教徒はなぜ河葬(かそう)なのだろうか、その葬儀は残酷だろうか。河に捨てられるように葬る葬儀を、主人公はなぜ思いついたのだろうか。筆者の体験に根ざす何かがあるのだろうか。

横書きと縦書き

サイトに掲載する都合もあり、これまで横書きで書いてきた。個人的には、万年筆を使っていたころから横書きの原稿用紙を好んだ。今回、必要があって縦書きに変換したところ、アラビア数字を漢数字にしたり、アルファベットを縦書きに直すこと以外に、変更を余儀なくされるものがいくつかあることに気づいた。

一つは登場人物の名称である。XUやGAというのは横書きにこそふさわしい。これらのアルファベットを縦書きに変更することもできるが、その説明は面倒だ。Ex you などという言葉遊びもしにくい。ちなみに、XUはもともと仏教用語の衆生の<衆>で、GAはガンダーラ仏(ぶつ)の<ガ>だった。

もう一つはンヴィニ教という名称の問題だ。用語の説明として convenience を持ち出すのは横書きだからこそで、縦書きでは説明しにくい。カタカナ語のままでもよいが、漢字のほうが通じやすいとも思う。漢字語について試行の末、「ンヴィニ教(コンヴィニエンスに由来する)」とした。

サイトの掲載はこれまでどおりにするが、漢字語の影響を改めて考えさせられた。そういえば、中国と北朝鮮の新聞は60年代後半には横書きにしていたと記憶する。韓国は1980年のハンギョレ新聞からだろう。日本の新聞や雑誌はいまだに縦書きである。

『死の舞踏』『純情小曲集』

先日買わなかったストリンドベリの『死の舞踏』(創元文庫 1901年) を買いに約1週間ぶりに古本屋を訪ねた。だが、その文庫はもうなかった。

古本屋の老主にそのことを伝えたら、「気になる本があったら、その場で買わないと、いつ会えるかわからない…それが古本のおもしろさだよ」と言われた。

この日、創元文庫の『純情小曲集・氷島』と改造文庫の『奥の細道・芭蕉翁文集』を買った。いずれも50年ほど前に読んだものだ。