家のベランダで一羽のアゲハチョウが羽化うかした。朝、ガラス戸とアミ戸のあいだの狭い隙間すきまで羽を閉とじ、じっとしていた。外に出そうとしてガラス戸を動かすと羽に当たり、チョウは仕方なく羽を広げた。さらに戸を開あけると戸の枠わくが羽に当たるので、アミ戸を静かに外はずした。チョウは微動びどうだにしない。数分後にはまた羽を閉じていた。 家のベランダでは毎年、数羽のチョウが羽化うかする。ここ数年はみな羽が半分しか開ひらけなかったり、羽が折れ曲がるなど、まともに羽を開ひらいたものはなかった。そんな失望が続いた後あとだから、けさチョウを発見したときの驚きと喜びは表現しようもない。前日が孫の百日祝いだったこともあり、ことのほか嬉うれしかった。 午後、チョウは跡形あとかたもなく消えていた。きっとどこか遠くに飛んでいったのだろう。安全なところで花の蜜みつを吸っていればいいのだが。
효야とその眷属
「효야ヒョーヤとその眷属けんぞく」と題した文章のまえがきを大幅に変更した。主人公をヒョーヤの母からヒョーヤ自身に変え、彼らを在日コリアンに仕立てた。日本社会と彼らのあいだにある溝や距離感を鮮明にするためだが、うまく描けるかどうか。以下、まえがき・あとがきより引用。 まえがき いまはむかし、まだ家々にテレビも電話もなかったころ、冬になると東京にも何度か雪が積もった。雪に覆おおわれたいつもの景色を見て子どもたちは、はしゃいで雪だるまを作り雪合戦がっせんをした。효야ヒョーヤも炭俵すみだわらの藁わらをそりに仕立て原っぱの斜面や道路で滑すべった。藁についた炭すみの粉で黒くなった遊び仲間の顔、顔、顔。それが一斉いっせいにどっと笑う。 坂道を登りつめたところに鎌倉時代にできたという八幡宮はちまんぐうがあった。その境内けいだいもすっぽり雪を被かぶった。そこで我われを忘れて一匹の犬と戯たわむれ転ころがり回った。モノクロ写真のようなその光景こうけいが효야ヒョーヤの脳裏のうりに焼き付いている。あの犬は高麗犬こまいぬの化身けしんではなかったか。いつも一緒に遊ぶ仲間はそのときいなかった。 彼は少年のころから何かに夢中になると、ほかのことが見えなくなった。気づくと仲間がいなくなっていたり、怪訝けげんな表情で彼を見ていることがあった。五六人で裏庭に穴を掘ったことがある。身長ぐらいの深さになって粘土層が露あらわになると水が湧わいてきた。汲くんでもくんでも止まらない。それを見て急に怖こわくなり、みなの反対を押し切って作業を止めてしまった。 효야ヒョーヤという名前からして、読者は変に思うだろうが、日本に生まれ、幼いころから日本語を話し、ほかの言葉は知らない。見ただけでは、ほかの子どもと違うところはない。生まれたのは東京だから、出生届は효야では受け付けられず、ヒョーヤというカタカナで届けた。효야の母方の祖母は윤화ユヌァといい、父方の祖母は희사フィサという名で、それぞれ戸籍上はユナ、ヒサという。みな서울ソウル近郊にルーツを持つ人たちだ。효야は祖父母たちから数えて三代目で在日三世ということになる。名前が名前だし、幼いころから自分も家族もどこかほかの人々とは違うと考えていた。そんなよそ者意識を決定的にしたのが彼の母の信仰だった。 「효야ヒョーヤとその眷属けんぞく」の目次はいま次のとおりだが、筆が進んでいない。一 효야の母と父二 효야の育った家庭三 家族と離れた효야四 転職を重ねた효야五 효야と女性たち六 Why Korea? Why Korean? 七 핏줄ピジュルというもの八 無宗教社会を生きる あとがき 無宗教社会などありはしないのに、一九四五年夏以後、日本島にくらす人々は自分たちの社会が科学的で非神話的な社会に生まれ変わったと考えたようだ。それ以前の社会が非科学的で神話的で狂信的だったとしたわけではないが、その年の八月をもって時代の断絶を創出し、「一億総懺悔ざんげ」という宗教的な「拠よりどころ」を人々のあいだに浸透させた。ただし、人々が自ら考えてそうしたわけではない。彼らは長い年月、天皇を現人神あらひとがみとして崇あがめ、巧妙こうみょうな監視体制のもとで考える能力をなくしていたから、このときもまた何者かが巧妙に仕組んだのだ。天皇は神のまま天上界に隠れることもできたはずだが、何と神を人間界に降臨こうりんならぬ降格させるという奇策きさくをもって元号の連続を図った。それを伝統と呼ぶならば、そのとおりなのだろう。ただ、このことが人々に少なからぬ混乱と困惑をもたらした。その精神的後遺症こういしょうのひとつが筆者が<無宗教むしゅうきょう>と呼ぶ症候群の集団発症はっしょうだった。今風にいえば、無宗教症のクラスターが全国規模で起こったのだ。ただ、この精神疾患はほとんどの人に自覚症状がない。 十九世紀後半、明治時代に入ってから大日本帝國は<富國強兵>という名のもとに、清朝中國や旧ロシア帝國と戦争をし、現在の台湾・韓国・北朝鮮を植民地にして中国の東北地域に満州國まんしゅうこくを樹立じゅりつした。一九三十年代には中国内陸部と東南アジア地域に戦域を広げ、四十年代には米国と戦争するに至る。その過程で双方の兵が殺しあい、大日本帝國軍は自國じこくとアジア地域の人々の平和な生活を壊こわし人権を蹂躙じゅうりんして殺戮さつりくした。その一方で五族協和という融和政策を唱となえアジア解放をうそぶいた。二〇二二年のロシアによるウクライナ侵攻とそのプロパガンダは、かつての大日本帝國による侵攻と報道管制のようすを彷彿ほうふつとさせる。一九四五年八月に無条件降伏し、大日本帝國は瓦解がかいしたかにみえるが、その残滓ざんしは今も日本社会のどこかに温存おんぞんされている。いや、残りかすどころではない。明治百五十年だ、鉄道百五十年だと、機会を捉とらえては旧帝國を礼讃らいさんする行事を行い、美化された明治帝國のイメージ定着を図っている。最近二十年の自公保守政権とその周辺勢力のなかに旧帝國回帰かいきを願う思惑おもわくが色濃く漂ただよっているではないか。 再び一九四五年直後の日本島に戻ろう。当時、日本社会には雨後の筍たけのこのように<新興宗教>が勃興ぼっこうした。多くは戦前の似非えせ宗教に対する反動ゆえに同じく非宗教だったが、人々は宗教も非宗教も区別できないまま、これら新興宗教に取り込まれるか無宗教を決め込んだ。創価学会そうかがっかいはそんな時代に全国で折伏しゃくぶくという名の布教活動をくり広げた。その仏教運動は既存の仏教各派や神道キリスト教等を邪宗じゃしゅう邪教じゃきょうとして一蹴いっしゅうした。その大衆運動に驚き戸惑った人々は創価学会を略して「学会」と呼び、会員を「学会員」と呼んで忌いみ嫌ったが、その実像を理解することはなかった。人々はメディアや反対勢力が叫ぶままに「学会」を「貧乏人と病人の集団」と呼んで蔑さげすみ排斥した。この集団の統率のとれた会員の活動だけをみて全体主義と評する者すらいた。問題は、こういう言説げんせつがまことしやかに語られ、多くの人々に受け入れられたことにある。 翻ひるがえって二〇二三年、日本島に暮くらす多くの人々の「宗教」観は二十世紀後半からほとんど変わっていないようにみえる。むしろ無宗教性がさらに深まり、スマフォ依存症とその延長上にある心的露出症が蔓延まんえんしている。 戦前の天皇を中心とする国家神道に対する反動から「無宗教」がよしとされ普通とされる戦後の日本社会において、神社での祈祷きとうは「信仰」とは違う伝統と考えられ、正月にはみな神社に参詣する。また、葬儀や法事には僧侶に読経どきょうしてもらい念仏を唱となえることが死者に対する弔とむらいであり通過儀礼とされる。戦前と同じようにいずれも「信仰」とは異なるものとして扱われ伝統行事のなかに取り込まれる。筆者は、仮説として現代日本社会を「無宗教社会」と呼ぶ。この作品もその仮説を前提している。 「無宗教社会」では、何かを「信じる」者は非科学的とされ、「信仰」を持つ者は弱者として疎うとんじられる。「信仰」を説き、宗教団体に勧誘する者はうさん臭いものになってしまう。長いあいだ思想と情報の統制下に置かれ自ら考える習慣を持たなかった人々は自ら思考する力を失っていた。その状況は戦後八十年が経たとうとする現在も大きく変わってはいない。そんな人々の思考と信仰の真空域に「学会」が現れ、社会的な反感を買ったのである。 「学会員」となることは「信仰」を持つことを宣言するだけではない。人々が習俗として取り込んできた既存の神仏を否定する。それを知りながら、バンジャは「学会員」になった。周囲の人々に侮あなどられ陰口かげぐちを叩たたかれて夫に嫌われながらも「学会員」になる選択をした。なぜだろう、何が彼女を仏教運動に赴おもむかせたのだろう。そして、バンジャに反抗し続けたヒョーヤは「学会」と「学会員」をどう受け入れたのだろうか。ある家庭における親子二代に及ぶ時代と彼らの生きざまを通して考えてみた。
珈琲キャラメル
珈琲所コメダ珈琲店監修の森永珈琲キャラメルという長々しい名のキャラメルを食べながら、縦書き文庫版で萩原朔太郎の短編「散文詩風の小説」を読んだ。著者が北越地方の鄙ひなびた温泉町を散策していて道に迷い、風景の裏側に迷い込む私小説風の心象スケッチ作品だ。 長い髭ひげを生やした数千とも数万とも想像される猫が家々の窓から首を出してくる。著者は猫の住む町が実在することを自らの体験をもとに信じていたようだ。日常生活に飽あいていたであろう彼にとっては、こういう荒唐無稽こうとうむけいともいえる風景のほうが身近だったのかもしれない。
法の支配 ≠ 法治国家
大浜啓吉著「<法の支配>とは何か: 行政法入門」(岩波新書)を読んだ。立憲君主制の統治原理である法治国家 Rechtsstaat と戦後日本の統治原理である<法の支配> rule of law の根本的な違い、明治の<法治国家>論の枠組みから抜け出せない現代日本の行政法の学説など興味深い。 「法治国家論はドイツ帝国の立憲君主制に特有の国家統治の原理でした。明治の新政府は近代国家の範はんをドイツに求めて明治憲法を制定したのですが、同時にドイツ帝国憲法の原理である<法治国家>論も受容しました。問題は第二次世界大戦に敗れ、日本国憲法が制定された後においても法治国家論の帰結である<法律による行政の原理>が支配的学説として生き残っていることです。<法の支配>を統治原理とする日本国憲法の下でどうしてそういうことになるのか」(同書 p. 96より引用、句読点ほか編集) こういう国家の根幹に関わる大事なことを学校教育は教えなかった。それが戦後日本の政治体制ないし55年体制と呼ばれる自民党長期政権にとって不都合だったからだろう。彼らは明治以来の戦争国家と戦後におけるイメージとしての平和国家を切り離すことなく連続させたいのだ。だから、明治150年といい、鉄道150年といって、何かにつけて連続性を強調する。そして、北朝鮮や中国を脅威に据すえた安保改定が行われ、なし崩し的な平和憲法の骨抜き化が進行している。自公保守政権のもとでそれが進められていることに危機感を覚え憤いきどおりさえ感じる。 法律による行政の原理、法律に基づく行政の原理統治国家論 → 法律による行政の原理法律の法規創造力: 法規(国民の権利を制限し義務を課す一般的抽象的な法規範)を創造するのは立法権(法律)のみで、行政権は法律の授権がない限り法規を創造できない法律の優位: 法律形式によって表明された国家意思が他のすべての国家意思に優越する法律の留保: 行政権が一定の活動をする場合には必ず法律の根拠が必要である法の支配 → 法律に基づく行政の原理授権執行の原則: 行政権は個別の法律の授権があって初めて法律を執行できる適法処分の原則: 行政行為は実体法レベルで法律に適合したものでなければならない手続的デュープロセスの原則: 行政の執行過程における手続上の適法・違法を判断する際の準則裁判的救済の原則: 行政の執行過程における実体的瑕疵・手続的瑕疵によって私人の権利利益が侵害された場合、裁判上の救済が図られなければならない
日本統治下1919年二つの宣言書
百余年前の宣言書を読んだ友人が、何をめざしていたか書かれていないという。彼の疑問は「独立を勝ち取ったとしたら、その後の国の姿、政治体制をどうしたい、どうありたいと考えていたのだろうか」というものだ。朝鮮全域から人々が高宗(1852-1919)の葬儀のため京城(現서울)に集まったていたことを考えると、旧王朝の再興を願っていたと解釈できなくはない、ともいう。納得できなかった僕は、二つの宣言書(1919年2月8日; 3月1日)を読み直すことにした。 위키문헌: 3·1독립선언서 宣言書 1919.3.1 吾等은 玆에 我 朝鮮의 獨立國임과 朝鮮人의 自主民임을 宣言하노라 此로써 世界萬邦에 告하야 人類平等의 大義를 克明하며 此로써 子孫萬代에 誥하야 民族自存의 正權을 永有케 하노라. 半萬年 歷史의 權威를 仗하야 此를 宣言함이며 二千萬 民衆의 誠忠을 合하야 此를 佈明함이며 民族의 恒久如一한 自由發展을 爲하야 此를 主張함이며 人類的良心의 發露에 基因한 世界改造의 大機運에 順應幷進하기 爲하야 此를 提起함이니 是이며 …
戦後における五箇条のご誓文
友人と話していて、彼が1868年に明治天皇が発布した五箇条のご誓文にふれ、その理想主義を高く評価した。僕は戦後における日本国憲法前文の理想主義とその形骸化にふれ、二人の話しは噛み合わなかった。この問題を考えるため、以下 Wikipedia の関連項目より引用する。 戦後におけるご誓文の再解釈 戦後、昭和21(1946)年1月1日の昭和天皇の、いわゆる人間宣言においてご誓文の全文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相が作成した草案を初めて見た際に「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条のご誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、GHQの許可を得て急遽加えられることになった。天皇は後に次のとおり語っている。 それが実はあの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発してそれが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。— 昭和52(1977)年8月23日記者会見 昭和21(1946)年6月25日、帝国議会の衆議院本会議における大日本帝国憲法改正案である日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相はご誓文に言及して次の答弁を行い、五箇条のご誓文は日本の民主主義の原理だとしている 。 日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。 「(日本の)民主主義というものは決して輸入物ではない」「日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」。いずれもかなり無理のある解釈というか、ほとんど詭弁というべきではないだろうか。僕らは義務教育を通じて、明治維新や帝國議会の発足、大日本帝國憲法の発布について、このような解釈を教えられたわけである。
小栗忠順 1827-68
「小栗上野介と横須賀」より転載しました(一部編集)。 小栗忠順ただまさ(1827-68)は、父・忠高と母・邦子の長男、そして小栗家12代目として、文政10(1827)年、江戸神田駿河台(現在の千代田区神田駿河台)で生まれました。小栗家の当主は代々「又一またいち」を名乗りました。これは徳川家康に仕えた4代目の忠政が槍やりで家康を救い、家康は忠政に褒美ほうびとして槍を与え、その後の戦いでも「又も一番槍は忠政」と評判がたち、家康が「今後は又一を名乗るように」と命じたことから「又一」の名が受け継がれるようになりました。 小栗は9歳(年齢は数え年)の時から、小栗家の敷地内にあった儒学者安積艮斎あさか ごんさいの塾へ入っています。この安積あさかの塾には咸臨丸かんりんまるでアメリカに渡った木村 喜毅よしたけ (芥舟かいしゅう)、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎らとともに小栗の生涯を通しての友人であり、協力者であった喜多村瀬兵衛(後の栗本鋤雲くりもと じょうん)がいました。小栗はこの塾に通いながら剣術や柔術、砲術も学んでいます。小柄であり、そう丈夫ではありませんでしたが、負けん気と好奇心は人一倍強く、くどくどと言うことは嫌いな江戸っ子的な面も持っていました。 天保14(1843)年3月、17歳の小栗は初めて江戸城へ登城し、御目見おめみえ(将軍に拝謁はいえつすること)し、その後、学芸と武術に秀でているとのことで、将軍の護衛役になりました。その数年後、小栗は建部たけべ家の長女・道子と結婚をしています。小栗22歳、道子15歳のころといわれており、初々ういういしいカップルの誕生でした。そして、嘉永6(1853)年にペリーが来航し、わが国が開国の道を歩み始めると、小栗の獅子奮迅ししふんじんの活躍が始まります。 小栗の登場 ペリーやロシアのプチャーチンの来航が和親条約を結ぶかたちで一段落した安政2(1855)年7月29歳の時、父・忠高が新潟奉行として赴任中に病死をしたため、小栗が12代目として家督を相続しました。安政5(1858)年6月、勅許を得ぬまま大老井伊掃部頭かもんのかみ 直弼なおすけによって「日米修好通商条約」が調印されました。この調印には幕府内部でも賛否両論がありましたが、小栗は一貫して「貿易というものは座すわって待っているものではない。自ら進んで海外に出て通商貿易をやるべきだ」との考えを持っていました。 また、幕府内部の条約慎重派の人々に対しては「国の政治を預かるものは徳川家よりも国家を重視する決心を持つべきである」と考えていました。翌年、この通商条約の批准書の交換がアメリカで行われることになり、幕府はその使節団を送り込むことになりました。当初幕府が決めていた人たちがさまざまな理由で行かれなくなり、9月になって正使・新見しんみ 豊前守ぶぜんのかみ 正興まさおき、副使・村垣むらがき 淡路守あわじのかみ 範正のりまさ、目付・小栗忠順と決まりました。 新見や村垣はすでに幕府の要職にありましたが、小栗は大抜擢ばってきといってよいでしょう。小栗はこの拝命の前日に幕府の目付に任命され、さらにこの年の11月に豊後守ぶんごのかみに叙じょせられました。なぜ、小栗が選出されたのか明確な答えは得られませんが、知的能力が高く、論理的であり、正義感が強く感受性に富んでいることや、先にあげた小栗の貿易に対する考え方などが井伊いい大老の耳に入り、抜擢されたものと思われます。 この大抜擢の陰で、小栗には一つの大きな密命が課せられました。それは通貨の交換比率の不公平を是正することでした。当時、「日米修好通商条約」により諸外国の貨幣は日本の貨幣と「同種同量」をもって通用すると決められ、例えば「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という交換比率でした。ところが、金と銀の交換比率は海外では金の価値が日本よりも3倍も高いものでした。この比価の違いが日本からの金(金貨)の大量流失を招いていたのでした。 金流失の背景には日本側の事情がありました。1両の4分の1貨幣として1分金がありましたが、当時、金の生産量が少なくなってきたため、新たに1分銀という貨幣をつくり、これを1分金貨幣として流通させていました。つまり、1両(金貨)は1分銀(銀貨)4枚と等価としたのです。 例えば、1メキシコドル銀貨100枚を持ってきて、1分銀300枚と交換します。これを小判(金貨)に替えると75両になります。この小判を持ち帰って再びメキシコドル銀貨に替えると、1ドル銀貨300枚と交換できることになり、いとも簡単に最初の100ドルを300ドルに増やすことができたのでした。小栗はフィラデルフィアの造幣局の一室で日米の貨幣の金含有量をそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し、周囲を驚かせるとともに、こうした不公平さをアメリカ側に納得させたのでした。これで小栗のアメリカ側の評価が一躍高まります。それまでの目付を直訳した「スパイ」から小柄ではあるが威厳と知性と信念が不思議に混ざっている男として、また「NO」といえる人として見直されたのでした。このアメリカでの見聞が、後の小栗の行動に大きな影響を与えます。 勘定奉行の小栗 約9ヵ月のアメリカ、いや世界一周に近い大旅行から帰ってきた小栗を待っていたのは大きく変わり始めていた国内情勢でした。万延元(1860)年11月に外国奉行に就任し、その直後の12月にアメリカ公使館のヒュースケンが薩摩藩士に殺害されました。さらに文久元(1861)年3月、ロシア軍艦が対馬を占拠しました。報告を受けた幕府は外国奉行の小栗を対馬へ派遣して問題解決を図ろうとしましたが、ロシアを退去させることには失敗します。 このことで外交の難しさと幕府の無策さを知った小栗は外国奉行の辞任を申し出ます。この事件を通して小栗は幕府の経済力と軍事力の弱さを痛感し、これがやがて横須賀製鉄所の建設を決意する糸口となったのです。翌年3月には御小姓組おこしょうぐみ 番頭ばんかしら(今で言う秘書兼警護人)を命ぜられ、5月には軍政御用取調ごよう とりしらべ(今で言う防衛担当)、6月には勘定奉行に任ぜられ、上野介こうずけのすけと改めています。小栗36歳の時です。勘定奉行とは幕府の財政担当であり、この時代、外交と財政が幕府にとって最も頭の痛い問題でした。小栗はこの勘定奉行に就ついたり辞やめたりを繰り返し、慶応4(1868)年1月に罷免ひめんされるまでに4度も勤めています。このことから小栗がいかに財政問題に精通していたかが分かります。 横須賀製鉄所の建設 元治元(1864)年8月、小栗は再び勘定奉行になりました。そのころ幕府軍艦の翔鶴丸しょうかくまるが破損し、その修理をたまたま横浜に寄港していたフランス軍艦に頼み、この修理が完璧であったことから、フランスは幕府の信頼を得ることができました。しかも、この修理について幕府とフランスとの橋渡しをしたのが、小栗が最も信頼していた友人の栗本鋤雲じょうんでした。小栗は本格的な造船所と修理施設の建設を念願していましたが、頼りにしていたアメリカは南北戦争の最中で日本へ技術援助をする余裕がありませんでした。 といってイギリスは薩摩藩、長州藩に接近していて、アヘン戦争のこともあるので避けたい。またロシアは対馬での苦にがい思いがあり、これも技術援助を頼むことができないでいました。こうした状況の時にフランスとの交渉を信頼できる友と共にできることになり、喜んだ小栗は早速駐日フランス公使ロッシュを訪ねました。ロッシュにしても日本の公使に任命された時に東洋進出が遅れていたフランスの地位を取り戻すように命令されていました。 両者の思惑が一致しているので話はとんとん拍子に進み、11月小栗とロッシュによって製鉄所(明治4年横須賀造船所に改称)の首長の件が話し合われました。この会談の結果、中国の上海にいた技師ヴェルニーに正式依頼することとし、建設予定地には万延元(1860)年以来、製鉄所が開設されるまで複数の外国船修理の実績を持つ横須賀村が水深や石造りのドライドックを据えられる岩盤の硬さ、さらに地形がフランスを代表する港ツーロンに似ていることなどから第一候補になりました。元治2(1865)年正月、来日したヴェルニーは横須賀港を測量し、ロッシュへ横須賀製鉄所建設に関する報告をすると、ロッシュと幕府の間で正式に建設計画が承認されました。 小栗の製鉄所建設は幕府内外から批判を浴あびましたが、小栗はそのような雑説には一切耳を貸さず、「どうしても必要な造船所を造ると言えば、冗費を削る口実となってよい。横須賀製鉄所ができれば、幕府がほかに政権を譲ることになっても、土蔵付きの売家として渡すぐらい価値あるものとなり、名誉なことである」と語ったといいます。小栗は政権がどのように変わろうとも、この造船所が日本の近代化に大きな役割を果たすであろうと確信していたのでした。 横須賀製鉄所、新政府の手に 慶応4(1868)年閏4月1日、江戸幕府が本格的な洋式造船施設として設立した横須賀製鉄所が新政府に引き継がれました。この年の1月に京都の鳥羽・伏見口で始まった「戊辰ぼしん戦争」と呼ばれる戦いでは、新政府軍が幕府軍を圧倒していました。こうした状況下でもフランス人の指導のもと着実に製鉄所建設の工事は続けられました。江戸へ進駐した新政府軍によって前月の4月21日、神奈川裁判所総督になった東久世通禧ひがしくぜ みちとみと横須賀製鉄所奉行の一色直温いっしき なおあつらとの引き渡し交渉が行われました。 4月24日にはフランス人の取り扱いについてフランス公使との協議も終わり、横須賀製鉄所に勤めていた首長ヴェルニーら33名と横浜製鉄所の12名はそのまま新政府が行う造船施設に勤務することになり、工事途中のドックや船台も引き続き工事を行うことになりました。閏4月6日、上野国群馬郡権田村(現在の高崎市倉渕町)を流れる烏川からすがわの水沼河原で罪もない一人の武士が斬首ざんしゅされました。この人物こそ横須賀に造船所を建設することを決定した小栗上野介こうずけのすけ忠順ただまさでした。 小栗はこの戦争が始まると新政府軍との徹底抗戦を主張し、15代将軍・慶喜に「御役御免おやくごめん」を言い渡されます。このため、領地である権田村へ妻子や供の侍たちと帰農していましたが、新政府軍に捕らえられ、審判もないままに処刑されたのです。享年42歳でした。 小栗の功績 小栗は横須賀製鉄所のほかにも、鉄道建設(江戸~横浜間)、国立銀行、電信・郵便制度、郡県制度の創設、また商工会議所や株式会社組織など近代的な経営方法をも発案していました。これらは明治以降、新政府の手で次々に実現され、急速に近代国家としての形を整えていきましたが、その陰には小栗が旧弊を打破し、近代国家に向けて推進しようとしていたことが浸透し始めていたことを忘れてはなりません。 小栗の尽力によって建設された横須賀製鉄所は造船や船の修理分野ばかりでなく、さまざまな分野でかかわっていきます。日本初の洋式灯台である観音埼灯台の建設や幕末に閉山同様になっていた生野いくの銀山(兵庫県)に製作した採鉱機械や蒸気機関などを送り、見事に再生させました。また、生糸生産の近代化を推進した官営富岡製糸工場(群馬県)の基本設計・機械類の製作や綿糸生産のための官営愛知紡績所のタービン水車も横須賀製でした。このように、わが国の近代工業の発展と近代化の推進に必要な輸出産業育成に、横須賀製鉄所が果たした役割の大きさは計り知れないものがありました。 明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は後年、「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策はそっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。現代にも通じるものがある激動期の幕末に類たぐいまれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は近年あらためて見直されています。横須賀市では毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています。 ペリリンとオグリンペリー来航150周年を迎えた2003年にスタートしたのが「よこすか開国祭」です。毎年夏に「開国のまち横須賀」を代表するイベントとして開国花火大会などを開催しています。「ペリリンとオグリン」は、よこすか開国祭イメージキャラクターで、日本を開国に導いたペリー提督と横須賀の発展に貢献した小栗上野介の両雄が小栗上野介の直系子孫にあたる漫画家小栗かずまたさんの手によって可愛らしいキャラクターとして誕生し、多くの人に親しまれています。小栗上野介と横須賀より転載しました(一部編集)
Oguri Tadamasa 1827-1868
Reprinted from "Oguri Tadamasa and Yokosuka" Oguri was born in the 10th year of the Bunsei Period (1827), in Kandasurugadai, Edo (current-day Chiyoda-ku, Tokyo), the eldest son of his father, Tadataka and his mother, Kuniko and the 12th in the Oguri line. Traditionally, the head of the Oguri household was called “Mataichi”. The reason for …
高崎哲郎氏の描く小栗像
https://www.risktaisaku.com/articles/-/14680 より転載しました(一部編集)。 小栗斬首供養碑(高崎市・烏川べり) 幕末の列強による外圧と国内の攘夷の烈風の中、世界を見据えていち早く新国家構想を打ち出した人物は誰か。元治元年(1864)にすでに4年がかりの計画で横須賀に大造船所を建造すべく計画を立てた人物は誰か。歩兵・騎兵・砲兵の3編成の近代的軍隊をつくったのは誰か。対外為替相場を有利に改定し、貨幣を改鋳し、今までの不換紙幣を改めて、日本最初の兌換紙幣を発行させたのは誰か。日本にコンパニー(貿易商社)を設立し、外国との取引を有利にしようと試みた者は誰か。役人の俸給制度を切米(年3回支給された扶持米)から金に改め、恩給法を制定したり、所得税、奢侈しゃし税を設けたのは誰か。日本に最初の理工科系学校や外国語学校をつくったのは誰か。江戸の街にガス灯の普及を図り、豪華な洋風ホテル(築地ホテル)を計画し、新橋・横浜間に鉄道をつくる準備を進めたのは誰か。それは江戸幕府・幕臣として初めて世界一周を成し遂げた小栗上野介こうずけのすけ忠順ただまさ(1827-68)である。小栗は廃藩置県を断行し、日本を欧米にも引けを取らない中央政権と郡県制度に構成しようと説いたのである。過去2度 risktaisaku.com で小栗を取り上げているが、再々説する。幕末維新とメディア事情それに小栗忠順http://www.risktaisaku.com/articles/-/3746幕末の幕府を支えた小栗上野介忠順http://www.risktaisaku.com/articles/-/7919 将軍から罷免 小栗は対薩長軍・主戦論を説いた。「西軍が東下して来たら、箱根でも碓氷峠でも防がず、全部関東に入れた後、両関門を閉ざして袋のネズミにしてしまう。一方、軍艦は長躯して馬関ばかん(現下関)と鹿児島を衝つく。こうすれば日和見ひよりみしている天下の諸藩は皆わが味方となる。形勢が逆転して、幕威また振るうに至る」(小栗の戦術を後に西軍司令官・大村益次郎(1825-69)は江戸に入ってから聞かされて戦慄した。これが実行されたら、われわれは生きてはいられなかったろうと語ったと伝えられている)。 恭順することに心を決めている将軍・徳川慶喜(1837-1913)は聞く耳を持たない。小栗が強硬に主張してやまないので、ついに免職を言い渡した。海軍では副総裁・榎本武揚(1836-1908)らが主戦論者であった。陸軍奉行・大鳥圭介(1833-1911)も慶喜の江戸帰還直後江戸城に推参して将軍に直談判した。大鳥の決死の直訴も受け入れられなかった。 これより先、新政府軍は東征大総督府のもとに編成した各軍を進発させることとし、同年2月11日から薩長両軍を中心とする総勢5万人の西軍が続々と京都を出発した。東海道軍は戦闘なしで品川に到着した。東山道軍は近藤勇の新撰組らを打ち破り宿場町の板橋と府中に到着し、江戸城総攻撃に備えた。慶応4年(1868)3月13日、勝海舟(1823-99)と西郷隆盛(1828-77)の劇的な高輪薩摩屋敷での談判により江戸城は無血開城されることに決した。 この歴史的幕切れは、イギリス公使パークス(Sir Harry Smith Parkes, 1828-85, 駐日1865-83)の西郷に対する攻撃中止の強い要請が非公式に出されていたことによる。だが、一方で徳川軍の戦力が温存される結果を招いた。指揮官・大鳥圭介は伝習隊将兵に命じて江戸城内の最新鋭の銃砲を運び出させ江戸を脱出し、彼らを率いて権現様(祖神・徳川家康)を祀る野州日光(現栃木県日光市)に立てこもることを決意した。徹底抗戦を誓ったのである。旧幕府海軍を率いる榎本武揚もまた同じであった。 小栗胸像(高崎市・東善寺) 上州権田村に隠棲 罷免された小栗は同年1月28日、幕府へ正式に「上州(現群馬県)群馬郡権田村への土着願書」を差し出した。忠順は権田村隠棲にあたって、従来の知行地からの収入に頼らない新しい生き方を考えていた。小栗は仮住まいを権田村の曹洞宗東善寺とした。山間僻地の権田村を選んだ要因に小栗家と権田村民との間に長年にわたって代々培われたつながりの強さがあった。東善寺は同村が小栗家の知行地になるとすぐ、当代の政重は同寺に多額の寄付をし、同寺では背後の山を削って境内を広げ石垣を築いて伽藍がらんを整備した。権田村は榛名山の西麓、烏川上流の山間にあり、いったん事あれば数ヵ月は支えることができる要害の地があり、そこに居所を構えることができるという利点もあった。 江戸・駿河台の小栗屋敷を出た権田村の若者たちは、洋服を着てズボンをはき、頭はザンギリ、足に革靴を履くこのころ最新の洋装で、幕府のフランス式軍事訓練を受けていた。若者たちは「歩兵」として「小栗日記」に登場する。この時16人いた歩兵や多くの村人が後に小栗の危難に際してある者はその死に殉じ、ある者は小栗夫人・母堂を守って越後・会津への逃避行に付き添い、あるいは館林の寺院から忠順父子の首級を盗み取り返すといった行動をとっている。 上州への移住準備があわただしく進められ、1ヵ後の2月28日に江戸を出発すると、桶川、深谷、高崎と泊まり、3月1日午後7時過ぎ東善寺に到着した。この時江戸から移ったのは、 ・小栗上野介忠順 42歳・妻 道子 30歳・母 邦子 63歳・小栗又一 21歳(忠道、駒井甲斐守朝温の次男、養女鉞子よきこの夫)・養女 鉞子 15歳<家臣>・塚本真彦まひこ 37歳(用人)・荒川祐蔵 36歳(遣米使節従者として世界一周)・渡辺太三郎 20歳・塚本貢 27歳・武笠むかさ銀之助 16歳・沓掛藤五郎 25歳・池田伝三郎 20歳 忠順、家臣、家族一行は村人たちに温かく迎えられる。ところが落ち着く間もなく、翌2日、後を追うように打ちこわしの暴徒が既に隣村・三ノ倉村まで押し寄せて来ているという情報が入る。 ◇忠順が権田村へ引き移るに際して大量の荷物が運ばれた。小栗一家と江戸から随従した家臣らの家財だけでもかなりのものとなる。長持や行李、漬物樽などに入れられたたくさんの引越し荷物は、世情不安な当時にあって「軍用金」の噂を生み、しかも最後の勘定奉行として乏しい幕府財政をやりくりしていた手腕が、かえって巨額の金銀を自由にできたという想像(妄想)を生む。ぶちこわしの徒党も金目当てに押しかけて来た。 4日の朝7時、三ノ倉宿に集合の時、打ちこわし勢はそれぞれ米を渡され、タスキ用の布を分け、気勢を挙げて権田へ押しかけた。烏川を押し渡り、田んぼに畳を並べて後ろに隠れつつ権田へ迫った。前夜、磯十郎が戻った時手はずを整えていた小栗方は、道子夫人らを塚本真彦の家族らと共に武笠銀介、佐藤藤七をつけて寺の裏手の村に避難させると、反撃に移った。 烏川を渡りだした暴徒を望遠鏡でのぞいていた忠順は、烏合の衆が攻めてくる様子に、「傷つけるな、おどして追い払え」と指示した。暴徒が鉄砲を撃ちかけてくるので寺の畳を全部積み上げて防いだ。烏合の衆の暴徒に対して、小栗方はフランス式軍事訓練を受けた子息又一や歩兵16人がいて組織的な戦闘には慣れていた。とくに権田村出身の歩兵・佐藤銀十郎の戦いぶりはめざましく、的確に銃を撃って暴徒を倒した。2000人にのぼる暴徒を追い払うと、暴徒に与した隣の村々へ詰問の使者を送った。夜に入って4ヵ村の村役人が詫びのため羽織袴でやってきた。 小栗父子の墓(高崎市・東善寺) 新政府軍の攻撃 忠順は権田村への土着を幕府に願い出るにあたり「自分は知行地を返納し、そのようにしてでも活計をたて、農兵を組織して世の成り行きを見、万一の時の御用に立ちたい」と申し出ている。新政府が順調に推移すれば、そのまま上州の田舎で生涯を終える覚悟であった。主君が戦わない(恭順)と決めた以上、主命に背いて戦うことはしない。罷免された以上、自分の役目はこれで終わった、との思いであった。 打ちこわしの騒動が一旦静まると、村は平穏を取り戻し、忠順は東善寺からおよそ1km下手の観音山に建て始めた居宅建設の現場に通う日々が続いた。権田村に屋敷を建て、周辺の村人と親交を結んで土着の夢が結びつつあった忠順の身辺に、西軍の監視の目が厳しく注がれ始めた。打ちこわし自体が西軍の陰謀とは思われないが、2000人の暴徒を撃退した人物が幕府第一級の主戦論者であることは、関東へ進軍して江戸を目指す西軍にとって見逃すことのできない存在であった。西軍の主力である薩長勢にとって、小栗は幕府の近代化政策を次々に実行して来た恐るべき実力者であった。偉才であった。 上州の高崎、安中、吉井の3藩は、慶応4年4月22日付で、東山道総督府から小栗追討令を受けた。小栗については「陣屋を構え」「砲台を築き」「容易ならざる企て」を立てている、という「注進」が諸方からあるので放っておけない。「深く探索したところ逆謀が判然」したから3藩で「追捕」せよ、との指示であった。 西軍の東山道鎮撫総督は岩倉具視(1825-83)の子具定、参謀は板垣退助(1837-1919 土佐)と伊地知いちじ正治まさはる(1828-86 薩摩)である。当時、奥羽越列藩同盟が組織され、西軍に反抗する勢いを見せていた。越後方面の反西軍勢力と気脈を通じて薩長軍の後方を襲うつもりではないかと疑った。 3藩代表は命令を受けて現地に赴いたが、命令に記された謀反の動向は見えない。その上、小栗が大砲1門、小銃20挺を引き渡して明白に弁明したので、3藩代表は引き上げた。翌日、小栗は養子の又一を高崎の西軍出張所に出頭させて恭順の意を表明させた。5月4日夕刻、高崎までやってきた東山道鎮撫総督府の軍監原保太郎(1847-1936)、同豊永貫一郎(1849-1898?)はそれを聞いて激怒した。小栗主従にとって、宿命の事態に進んでおり、原や豊永は3藩の藩兵を引き連れ夜中に出て三ノ倉村へ宿陣した。 取り調べもなく斬首 小栗は会津方面に妻子ら家族を逃がすことにしたが、彼自身も家臣や村役人に勧められて、家族とともに一旦山間部の亀沢まで家族と共に避難し大井彦六宅で休んでいた。そこへ高崎方面の様子を探りに行っていた権田村名主佐藤藤七が馬で駆け付けた。 「どうか殿様にはお寺にお戻りいただきたい。もしお戻りにならない場合は村民が難儀しますゆえ」と訴えた。忠順だけ東善寺に戻った。 西軍に脅されて震え上がった3藩は、副巡察使長州藩士・原保太郎(22歳)、同じく土佐藩士・豊永貫一郎(18歳)に率いられて、4日夜半に再度権田村へ向けて出兵した。翌5日早朝、東善寺正面から入っていくと、忠順主従は本堂に端然と座ってこれを迎えた。原、豊永は忠順および家臣・渡辺多三郎、荒川祐蔵を捕らえて、忠順を駕籠で三ノ倉の屯所・戸塚平右衛門宅へ引き立てた。この時、寺でも屯所でも忠順に対する取り調べは一切なかった。問答無用。殺すことだけが目的だった。 閏うるう4月6日朝、四ツ時半(午前11時)忠順主従は烏川の水沼河原に引き出され斬首された。初めに家臣・大井磯十郎、渡辺太三郎、荒川祐蔵の3人が斬られた。磯十郎は「一言の取り調べもなく、お殿様がこんな所でご最期とは残念だ!」と大声で叫んだ。忠順が「磯十郎、この期に及んで未練がましいことを申しでないぞ」とたしなめた。 「何か言い残すことはないか」。原保太郎が忠順に問いかけた。若輩者に対し答える気はなかった。「なにごともない」と答えた。が、「すでに母と妻は逃がしてやったから、どうか婦女子には寛典を望む」と付け加えた。原は「相分かった」とだけ答えた。 忠順を斬った人物は従来、原保太郎とされてきたが、安中藩徒歩目付浅田五郎作が命じられて斬ったというのが真相のようである。小栗は数えで42歳だった。日本の近代化の必要性に目覚め、傾いた幕府の最後を支えた幕臣が、何の取り調べもなく、新政府軍の若輩によって一方的に処断され烏川の露と消えた。斬首を命じた原保太郎はその後山口県の知事に二十数年も居坐り、さらに北海道長官となって巨財を得、貴族院議員となり89歳まで栄華の中に生きた。 参考文献:「小栗上野介忠順と明治維新」(高橋敏)、「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編)、筑波大学附属図書館史料。 日本における報道の礎 今日、インターネットやSNSの普及により既存の新聞・テレビ・雑誌などマス・メディアは激変を余儀なくされている。そこで、近代メディアの黎明期ともいえる幕末から明治維新の新聞事情を考えてみたい。それは文明開化のうねりとも連動する。 江戸幕府が鎖国を捨て開国を打ち出した後、欧米列強に派遣されて西洋事情に接した幕臣の中には、幕府自らが新聞を活用して世論を導くべきであると建言する者があった。万延元年(1860)、外国奉行・新見正興(1822-69)を正使とする遣米使節団に監察(ナンバー・スリー)として随行した開明派幕臣・小栗忠順(1827-68)は、滞米中使節の動向を地元新聞が絵入りで詳細に報じていること、しかも内容が正確であることに「文明」を感じた。それは江戸市中の瓦版などとは比べ物にならないメディアだった。 知識人小栗はアメリカの新聞事情を知らなければ「文明」は語れないと痛感し、その実態を調べようと決意した。帰国後、彼は幕府首脳に「文明の証」として新聞発行を強く主張した。だが新聞発行の実態など知らない守旧派老中らには理解にはほど遠く、とても聞き入れられるものではなかった。小栗は遣米使節団に随行した咸臨丸の随員だった俊才・福澤諭吉(1835-1901)を編集・発行の責任者に充てる心づもりだった(小栗の偉才ぶりについては後述)。 その後、幕府内では元治元年(1864)7月に横浜鎖港(開港拒否)の交渉を終えて帰国した幕臣・池田長発ながおき、河津祐邦すけくに、河田煕ひろむが「新聞紙社中に御加入の儀申上げ候書付」を提出した。この書付は西洋諸国では「パブリック・オピニオンにて国民の心を傾け候様の方略相施し候事にて、いずれの政府にも新聞紙社中へ加入致さざるものはこれなく」として世論形成における新聞の重要性を強調し、「最初若干の敷金」を出費し、「右社中加入の儀」を実施するよう求めた。これは幕府がすすんで情報発信をしようとしないため、英米仏などの外国公使側の言い分だけが広まって「自然偏頗へんぱの取扱い」となるのを防ごうとするものであった。 「社中加入」の意味がいま一つ明確ではない。日本人による最初の新聞とされる「中外新聞」の購読規定などから判断すると、まとまった部数を定期発行することで発言権を確保し、幕府側からの情報発信を行いやすくしようとしたのではないかと考えられる。(「日本の近代 メディアと権力」著・佐々木隆参考)。この書付(提言)は、池田らが幕府錯港論を批判して処罰されたため、何ら顧みられることなく無残に葬られた。ここでも幕府首脳に「情報」に関する深慮がなかった。 皮肉なことに、江戸幕府支援の新聞が実現したのは幕府が崩壊に大きく傾いてからであった。慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜は実権を幕府に残すことを狙い、大政奉還の大博奕ばくちを打って出た。だが王政復古のクーデターの反撃にあい、翌4年正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れて、大勢は薩長を中核とする新政府に傾いた。 同年2月24日、新政府軍(西軍)の江戸攻撃が迫る中、会訳社の指導者・幕臣柳河春三しゅんさんは頭取(代表)を務める開成所(幕府洋学研究機関)事務局で「中外新聞」を創刊した。同紙は外国新聞の日本記事への抄訳行うことを目指していた。が、同時に独自の国内情報も載せることを打ち出していた。「中外」は外国情報の紹介に終始したそれまでの翻訳新聞や外国初の日本情報を集めた筆写新聞とは一線を画し、今日的な意味での「新聞」に近づいた。 高崎 …
An Old Man and a Bike
午前中、行政法の判例集を読む。司法の論法が少しみえてきて興味深い。昼はレトルトの 본죽ボンジュッ 製 辛비빔죽シンビビムジュッ を食べ、午後2時半ごろ家を出て中原なかはら街道沿いに進み、丸子橋まるこばしを渡って春めいた多摩川べりを二子橋ふたごばしまで一気に走った。土手を下おりて広場の隅すみで一休みし遠くの山々を見たが、写真に収めたい風景はない。친구チング が贈ってくれた 에티오피아エチオピア 함벨라ハムベラ を飲んで体を温あたため、愛車と自分の顔を写した。 西日にしびを浴あびて自転車も色褪あせて見える。顔半分が影になっているせいか、左右非対称で目の下の窪くぼみがいつになく目立ち、誰かに殴なぐられたようだ。どうしたんだ、今にも死にそうな、ずいぶん酷ひどい顔をしているぞ。哀かなしいかな、ゆっくり走ったつもりなのに、かなり消耗していたようだ。暗い顔をして老人丸出しではないか。本当にどうしたというんだ。
Hotel California
少し前 Peter Barakan の Weekend Sunshine で 西村ケントという若いギタリストがいることを知った。番組で紹介された彼のライブに予約申し込みをし、YouTube でその演奏を聴くようになった。また、정성하 という若いギタリストの存在を知り、その演奏も聴くようになった。この種のソロライブに行くのは初めてのことだ。 1970年代にヒットした Hotel California (the Eagles)を Kent と Jungha が演奏しており、ふたりの演奏をくり返し聴いた。同じくギターソロで弾いているのに曲想がまったく違う。歌詞は末尾に載せたとおり、幻想的で考えさせる内容だ。そこに込められたであろう意味を想像しながら聴くと、また別の興味が湧わく。 https://www.youtube.com/watch?v=je5uxOF4dHY Kent Plays the Hotel California https://www.youtube.com/watch?v=68JuSsC7LiA Sungha Plays the Hotel California バロック音楽やチェンバロ、チェロをはじめ西洋クラシック器楽曲を好んでいた僕は、ギタリストといえば Andres Segovia (1893-1987)しか知らなかった。そのバッハ演奏などをよく聴いたものだ。そんな僕が日韓の若いギタリストの演奏を聴き、初めてソロライブに行くのだから、大きな変化だろう。しばらく前から、73歳を前にして、またクロマティックハーモニカを吹きたくなっている。 On a dark desert highwayCool wind in my hairWarm smell of colitasRising up through the airUp ahead in the distanceI …
Goolees.blog merged into oguriq.com
Goolees.blog は2023年1月にサイトを停止し、oguriq.com に統合されます。 Goolees.blog shuts down its site in January 2023 and will be merged into oguriq.com.
縦書き文庫1月の順位50位内に入った「無宗教派の人々」
昨年から執筆中の作品「ヒョーヤとその母」(1)を含むシリーズ「無宗教派の人々」が縦書き文庫の1月ランキング(読まれたページ数にもとづき50位まで掲載)に入りました。 この文庫は読者数が限られており、数名の読者が相応のページ数を読めば、その月の50位内に入ります。このささやかな喜びが無名の投稿者には大いに励みになるのです。 夏目漱石・太宰治・芥川龍之介の人気が高く、翻訳物は「方法序説」「ダブリナーズ」「君主論」「ピーターパン」「80日間世界一周」ほかの作品が毎月入ります。下の表の作品名や作者名をクリックすると、該当ページが表示されます。 #作品(En: Gutenberg)作者1こころ夏目漱石2夢十夜夏目漱石3人間失格太宰治4走れメロス太宰治5方法序説Discourse on methodR. デカルト6三国志吉川英治7虞美人草夏目漱石8坊っちゃん夏目漱石9ピーターパンとウェンディJ. M. バリー10ダブリンの人たちDublinersJ. ジョイス1180日間世界一周J. ヴェルヌ12吾輩は猫である夏目漱石13君主論マキャヴェリ14火を起こすJ. ロンドン15法然行伝中里介山16銀河鉄道の夜*宮沢賢治17羅生門芥川龍之介18ドグラ・マグラ夢野久作19真夏の夜の夢M. ラム20雲の小径久生十蘭21女生徒太宰治22警官と賛美歌O. ヘンリー23労働廃絶論B. ブラック24罪体M. D. ポースト25ルパンの逮捕M. ルブラン26職業としての科学M. ウェーバー27チャンス太宰治28銀河鉄道の夜**宮沢賢治29山月記中島敦30現代訳論語下村湖人31ハムレットC. ラム32心と手O. ヘンリー33影と光J. ロンドン34杜子春芥川龍之介35舞姫森鴎外36無宗教派の人々小栗章37藪の中芥川龍之介38蜘蛛の糸芥川龍之介39大導寺信輔の半生芥川龍之介--(40-50 省略)縦書き文庫ランキング 2023/01
父方の祖父
1930年代前半、父方の祖父は仕事で滿洲國に滞在中、何らかの事故に巻き込まれて亡なくなった。下のパノラマ写真はその葬儀の模様で柩の左右に大林組大連支店一同とある。この写真を見るたびに若くして未亡人となった祖母は「夫は馬賊ばぞくに殺された」と言った。真実を聞いていたかもしれない。 [Wikipedia引用: 騎馬の機動力を生かして荒し回る賊、清末から滿洲國期(1932-45)に滿洲周辺で活動した「滿洲馬賊」が有名] 祖父の葬儀(1)祖父の葬儀(2)祖父の葬儀(3)祖父の葬儀(4)祖父(前列右から二人目) ページ上に表示される写真は東京駅丸の内北口構内のドーム天井である。祖父がこの駅舎の建造に関わったと聞いている。
인연/피천득과 아사코
https://legendonkihotte.tistory.com/m/28 韓国の友人が피천득(皮千得ピ・チョンドゥク 1910-2007)の인연(縁えん)と題した文章を送ってきた。以下に引用する。韓国では中学校の国語教科書に載っている文章らしい。 太平洋戦争と朝鮮戦争を間にはさんで彼が想おもいを寄せた日本人女性との邂逅かいこうと果たせなかった恋愛について書いたものだ。筆者の抑制された感情表現が行間ぎょうかんに溢あふれ切々とした情感が伝わってくる。 지난 사월, 춘천에 가려고 하다가 못 가고 말았다. 나는 성심(聖心) 여자 대학에 가 보고 싶었다. 그 학교에, 어느 가을 학기, 매주 한 번씩 출강한 일이 있었다. 힘드는 출강을 한 학기 하게 된 것은, 주 수녀님과 김 수녀님이 내 집에 오신 것에 대한 예의도 있었지만, 나에게는 사연이 있었다. 수십 년 전, 내가 …
두바퀴로 가는 자동차
1970年代によく聞いた歌を偶々聞いた。歌の題名は 두바퀴로 가는 자동차(二輪で走る自動車)という。この歌は、やはり50年前に聞いた양병집がいい。彼の歌を聞くと70年代前半の서울の街の情景や제주の鄙ひなびた光景を思い出す。それらが僕にとって韓国の原風景なのだ。 友人によると、原曲は Bob Dylan "Don't think twice, it's all right" だそうだ。70年代はこういう曲が多かった。そういえば、행복의 나라 という曲もそうだった。 두바퀴로 가는 자동차 네바퀴로 가는 자전거물 속으로 나는 비행기 하늘로 나는 돗단배복잡하고 아리송한 세상위로 오늘도 에드벌룬 떠있건만포수에게 잡혀온 잉어만이 한숨을 내쉰다남자처럼 머리깎은 여자 여자처럼 머리 긴 남자가방없이 학교가는 아이 비오는 날 신문 파는 애복잡하고 아리송한 세상위로 오늘도 에드벌룬 떠있건만태공에게 잡혀온 …
How I learned the hangeul
語学教授法の門外漢ながら、1970年代の学習体験をもとにスマホ向けにハングルの成り立ちと文字の作り方を表にまとめました。その後、専門家から次のコメントを得ました。「ハングルが創つくられた15世紀と現代では字母自体も変化しており、いまは使われないものもある」「子音字母の配列も変化している」「現代言語学では子音の調音点が異なる」などです。 これらをふまえ最低限の修正を施したものが、以下の記述です。日本語を母語とする初学者向けに簡略な説明を試みたものに過ぎず、不備や誤りがあると思います。ご了解ください。 基本形に点や線を加え子音字母を作る 調音点*基本形基本形に点や線を追加基本形2舌のつけ根ㄱ [g]ㅋ [k]ㄲ舌と歯ぐきㄴ [n]ㄷ [d] ㅌ [t] ㄹ[r/l]**ㄸ唇くちびるㅁ [m]ㅂ [b] ㅍ [p]ㅃ歯や舌の端ㅅ [s]ㅈ [dʒ] ㅊ [tʃ]ㅆ ㅉ口の奥ㅇ [-]ㅎ [h] 15世紀当時の分析にもとづくもので、現在は調音器官や調音点が異なる(発音は参考のみ) *現代の調音点のとらえ方 **現在、ㄹは ㄴ ㄷ ㅌ とは別に配列されるが、初学者にはこの表の配列のほうが覚えやすい 子音字母の基本形と音を発する部位の関係を示す図下の行に 아음牙音 설음舌音 순음脣(唇)音 치음歯音 후음喉音とあるが、現代の言語学の考え方とは異なる 三つの要素から母音字母を作る 要素A*+要素B*=母音字母発音**|+・=ㅏa|+・・=ㅑya・+|=ㅓə・・+|=ㅕyə・+ー=ㅗo・・+ー=ㅛyoー+・=ㅜuー+・・=ㅠyuー+=ㅡɯ|+=ㅣi *三つの要素/・(天)/ ㅡ (地)/ㅣ(人)/、A+B は書き順(A→B)をも示す **発音は参考のみ 母音字母+母音字母=合成母音字母 母音字母+母音字母=合成母音字母発音*ㅏ+ㅣ=ㅐɛㅑ+ㅣ=ㅒyɛㅓ+ㅣ=ㅔeㅕ+ㅣ=ㅖyeㅗ+ㅣ=ㅚweㅜ+ㅣ=ㅟwiㅡ+ㅣ=ㅢwi(e)ㅗ+ㅏ=ㅘwaㅜ+ㅓ=ㅝwəㅗ+ㅐ=ㅙwɛㅜ+ㅔ=ㅞwe*発音は参考、上の表と同様+は書き順も示す 子音字母+母音字母=文字 c\v–ㅏㅑㅓㅕㅗㅛ–ayaəyəoyoㄱg가갸거겨고교ㄴn나냐너녀노뇨ㄷd다댜더뎌도됴ㄹr/l라랴러려로료ㅁm마먀머며모묘ㅂb바뱌버벼보뵤ㅅs사샤서셔소쇼ㅇ–아야어여오요ㅈdʒ자쟈저져조죠ㅊtʃ차챠처쳐초쵸ㅋk카캬커켜코쿄ㅌt타탸터텨토툐ㅍp파퍄퍼펴포표ㅎh하햐허혀호효基本の子音字母と母音字母(発音は参考のみ) c\v–ㅗㅛㅜㅠㅡㅣ–oyouyuɯiㄱg고교구규그기ㄴn노뇨누뉴느니ㄷd도됴두듀드디ㄹr/l로료루류르리ㅁm모묘무뮤므미ㅂb보뵤부뷰브비ㅅs소쇼수슈스시ㅇ–오요우유으이ㅈdʒ조죠주쥬즈지ㅊtʃ초쵸추츄츠치ㅋk코쿄쿠큐크키ㅌt토툐투튜트티ㅍp포표푸퓨프피ㅎh호효후휴흐히 基本の子音字母と母音字母(発音は参考のみ) 子音字母の基本形と音を発する部位の関係を示す図下の行に 아음牙音 설음舌音 순음脣(唇)音 치음歯音 후음喉音とあるが、現代の言語学の考え方とは異なる ハングルで漢字を表記する 韓国も日本も漢字文化圏に属し、漢字の成語などに共通するものが多くあります。ただし、80年代に入って、韓国では漢字がほとんど使われなくなり、現在は新聞雑誌もハングルだけの横書きになっています。同音異義語を区別するときなどに漢字を付記します。 日本語は、漢字に音読みと訓読み二つの読み方がありますが、韓国語では原則として一つの漢字に対し音読み一つで文字の形(まとまり)も一つです。以下、いくつか日韓に共通する漢字熟語を記します(ルビは参考)。 漢字表記ハングル表記一石いっせき 二鳥にちょう일석イルソク 이조イジョ三寒さんかん 四温しおん삼한サマン 사온サーオン朝令ちょうれい 暮改ぼかい조령ジョリョン 모개モゲ漁夫ぎょふ 之利のり어부オブ 지리ジリ五臓ごぞう 六腑ろっぷ오장オジャン 육부ユップ七顚ななころび 八起やおき칠전チルジョン 팔기パルギ九死きゅうし 一生いっしょう구사クサ 일생イルセン十人じゅうにん 十色といろ십인ジビン 십색シプセッ 今はあまり使われない千字文せんじもんの冒頭の句は次のように対応します。 天てん: 천チョン地ち: 지ジ玄げん:현ヒョン黃こう: 황ファン宇う:우ウ宙ちゅう: 주ジュ洪こう: 홍ホン荒こう: 황ファン 天は玄くろく地は黄、宇宙は洪荒こうこうなり ハングルで英語を表記する インターネット関連の語彙を並べてみました。韓国語は、日本語と違って、子音で終わる単語を表記できます。たとえば、book は 북、ネットは 넷、work は 워크 となります。日本語のカタカナ英語と較べ、英語音の表記に適しているといえます。また、f や th に相当する音がなく、f に対して ㅍ(p)、th に対してㅌ(t) を用いるなどの特徴があります。 韓国語表記英語表記日本語表記페이스북Facebookフェイスブック인터넷internetインターネット컴퓨터computerコンピュータ네트워크networkネットワーク웹사이트websiteウェブサイト서버serverサーバー서브serveサーブ서비스serviceサービス사이버cyberサイバー디폴트defaultデフォルト다운로드downloadダウンロード업로드uploadアップロード블로그blogブログ디지털digitalディジタル메일mailメール
ヒョーヤとその母: 書き出し
執筆中の中説「ヒョーヤとその母」の書き出しである。はじめの数章を書いただけだし、この書き出しも確定稿とはいえないが、半ば納得している。以前、序文としていた執筆意図に関する文章はあとがきに移動した。 コメントや感想を縦書き文庫の同作品コメント欄にお寄せください(下のURLからアクセスし、ページ上方のコメントアイコンをクリックすると、コメント欄が表示されます)。 https://tb.antiscroll.com/novels/goolee/24471
a dancer wearing jikatabi
行きつけの店で偶たまに働いている女性がジカタビを履はいていた。奇異に思って尋ねると、本業はコンテンポラリーダンサーなのだという。ダンサーがジカタビを履く意味はよくわからなかったが、彼女が制作したサイトの写真や動画を見るに及んで何となく理解できるような気がした。yuuka koyama.com yuuka koyama.com yuuka koyama.com 彼女の言葉を借りれば、ジカタビを履くことで 「足の裏を耕たがやして」いるようなのだ。まだよくわからない部分が多いものの、この人は本物だなと思った。研とぎすまされた言葉だけではない、写真や動画に映うつされた姿がどれも真剣そのものだからだ。 僕は上の写真二枚の右手のかたちに注目した。五本の指の動きがまったく同じように見える。むかし何回か行ったバリ島の伝統舞踊に通じる指のかたちではないか。それが意味するものはわからないが、彼女の内面にある何かを表現しているに違いない。
Sunosaki, a memory landscape
小旅行の2週間後にふと気づいた。小説「大菩薩峠」登場人物の一人、駒井甚三郎が江戸幕府旗本の職を失い、房州で密かに造船所を開設した。その根拠地がまさに洲崎だったではないか、と。そうだ、僕は駒井こと小栗忠順を求めて洲崎に行ったに違いない。「大菩薩峠を読みなおす」を書いたのはことし(2022年)4月だった。 여행 2주 후 문득 깨달았다. 소설 '대보살 고개(大菩薩峠)'의 등장인물 중 한 명인 고마이 진자부로(駒井甚三郎)가 에도 막부 하타모토(旗本)의 직위를 잃고 보슈에서 비밀리에 조선소(造船所)를 개설했다. 그 근거지가 바로 스노사키(洲崎)가 아니었을까 하는 생각이 들었다. 그래, 나는 고마이, 즉 오구리 다다마사(小栗忠順)를 찾아 스노사키에 갔던 것이 틀림없다. '대보살 고개를 다시 읽다(日文)'를 쓴 것은 올해(2022년) 4월이었다. Two weeks after the …