「효야とその眷属」と題した文章のまえがきを大幅に変更した。主人公をヒョーヤの母からヒョーヤ自身に変え、彼らを在日コリアンに仕立てた。日本社会と彼らのあいだにある溝や距離感を鮮明にするためだが、うまく描けるかどうか。以下、まえがき・あとがきより引用。
まえがき
いまはむかし、まだ家々にテレビも電話もなかったころ、冬になると東京にも何度か雪が積もった。雪に覆われたいつもの景色を見て子どもたちは、はしゃいで雪だるまを作り雪合戦をした。효야も炭俵の藁をそりに仕立て原っぱの斜面や道路で滑った。藁についた炭の粉で黒くなった遊び仲間の顔、顔、顔。それが一斉にどっと笑う。
坂道を登りつめたところに鎌倉時代にできたという八幡宮があった。その境内もすっぽり雪を被った。そこで我を忘れて一匹の犬と戯れ転がり回った。モノクロ写真のようなその光景が효야の脳裏に焼き付いている。あの犬は高麗犬の化身ではなかったか。いつも一緒に遊ぶ仲間はそのときいなかった。
彼は少年のころから何かに夢中になると、ほかのことが見えなくなった。気づくと仲間がいなくなっていたり、怪訝な表情で彼を見ていることがあった。五六人で裏庭に穴を掘ったことがある。身長ぐらいの深さになって粘土層が露わになると水が湧いてきた。汲んでもくんでも止まらない。それを見て急に怖くなり、みなの反対を押し切って作業を止めてしまった。
효야という名前からして、読者は変に思うだろうが、日本に生まれ、幼いころから日本語を話し、ほかの言葉は知らない。見ただけでは、ほかの子どもと違うところはない。生まれたのは東京だから、出生届は효야では受け付けられず、ヒョーヤというカタカナで届けた。효야の母方の祖母は윤화といい、父方の祖母は희사という名で、それぞれ戸籍上はユナ、ヒサという。みな서울近郊にルーツを持つ人たちだ。효야は祖父母たちから数えて三代目で在日三世ということになる。名前が名前だし、幼いころから自分も家族もどこかほかの人々とは違うと考えていた。そんなよそ者意識を決定的にしたのが彼の母の信仰だった。
「효야とその眷属」の目次はいま次のとおりだが、筆が進んでいない。 一 효야の母と父 二 효야の育った家庭 三 家族と離れた효야 四 転職を重ねた효야 五 효야と女性たち 六 Why Korea? Why Korean? 七 핏줄というもの 八 無宗教社会を生きる |
あとがき
無宗教社会などありはしないのに、一九四五年夏以後、日本島にくらす人々は自分たちの社会が科学的で非神話的な社会に生まれ変わったと考えたようだ。それ以前の社会が非科学的で神話的で狂信的だったとしたわけではないが、その年の八月をもって時代の断絶を創出し、「一億総懺悔」という宗教的な「拠りどころ」を人々のあいだに浸透させた。ただし、人々が自ら考えてそうしたわけではない。彼らは長い年月、天皇を現人神として崇め、巧妙な監視体制のもとで考える能力をなくしていたから、このときもまた何者かが巧妙に仕組んだのだ。天皇は神のまま天上界に隠れることもできたはずだが、何と神を人間界に降臨ならぬ降格させるという奇策をもって元号の連続を図った。それを伝統と呼ぶならば、そのとおりなのだろう。ただ、このことが人々に少なからぬ混乱と困惑をもたらした。その精神的後遺症のひとつが筆者が<無宗教>と呼ぶ症候群の集団発症だった。今風にいえば、無宗教症のクラスターが全国規模で起こったのだ。ただ、この精神疾患はほとんどの人に自覚症状がない。
十九世紀後半、明治時代に入ってから大日本帝國は<富國強兵>という名のもとに、清朝中國や旧ロシア帝國と戦争をし、現在の台湾・韓国・北朝鮮を植民地にして中国の東北地域に満州國を樹立した。一九三十年代には中国内陸部と東南アジア地域に戦域を広げ、四十年代には米国と戦争するに至る。その過程で双方の兵が殺しあい、大日本帝國軍は自國とアジア地域の人々の平和な生活を壊し人権を蹂躙して殺戮した。その一方で五族協和という融和政策を唱えアジア解放をうそぶいた。二〇二二年のロシアによるウクライナ侵攻とそのプロパガンダは、かつての大日本帝國による侵攻と報道管制のようすを彷彿とさせる。一九四五年八月に無条件降伏し、大日本帝國は瓦解したかにみえるが、その残滓は今も日本社会のどこかに温存されている。いや、残りかすどころではない。明治百五十年だ、鉄道百五十年だと、機会を捉えては旧帝國を礼讃する行事を行い、美化された明治帝國のイメージ定着を図っている。最近二十年の自公保守政権とその周辺勢力のなかに旧帝國回帰を願う思惑が色濃く漂っているではないか。
再び一九四五年直後の日本島に戻ろう。当時、日本社会には雨後の筍のように<新興宗教>が勃興した。多くは戦前の似非宗教に対する反動ゆえに同じく非宗教だったが、人々は宗教も非宗教も区別できないまま、これら新興宗教に取り込まれるか無宗教を決め込んだ。創価学会はそんな時代に全国で折伏という名の布教活動をくり広げた。その仏教運動は既存の仏教各派や神道キリスト教等を邪宗邪教として一蹴した。その大衆運動に驚き戸惑った人々は創価学会を略して「学会」と呼び、会員を「学会員」と呼んで忌み嫌ったが、その実像を理解することはなかった。人々はメディアや反対勢力が叫ぶままに「学会」を「貧乏人と病人の集団」と呼んで蔑み排斥した。この集団の統率のとれた会員の活動だけをみて全体主義と評する者すらいた。問題は、こういう言説がまことしやかに語られ、多くの人々に受け入れられたことにある。
翻って二〇二三年、日本島に暮らす多くの人々の「宗教」観は二十世紀後半からほとんど変わっていないようにみえる。むしろ無宗教性がさらに深まり、スマフォ依存症とその延長上にある心的露出症が蔓延している。
戦前の天皇を中心とする国家神道に対する反動から「無宗教」がよしとされ普通とされる戦後の日本社会において、神社での祈祷は「信仰」とは違う伝統と考えられ、正月にはみな神社に参詣する。また、葬儀や法事には僧侶に読経してもらい念仏を唱えることが死者に対する弔いであり通過儀礼とされる。戦前と同じようにいずれも「信仰」とは異なるものとして扱われ伝統行事のなかに取り込まれる。筆者は、仮説として現代日本社会を「無宗教社会」と呼ぶ。この作品もその仮説を前提している。
「無宗教社会」では、何かを「信じる」者は非科学的とされ、「信仰」を持つ者は弱者として疎んじられる。「信仰」を説き、宗教団体に勧誘する者はうさん臭いものになってしまう。長いあいだ思想と情報の統制下に置かれ自ら考える習慣を持たなかった人々は自ら思考する力を失っていた。その状況は戦後八十年が経とうとする現在も大きく変わってはいない。そんな人々の思考と信仰の真空域に「学会」が現れ、社会的な反感を買ったのである。
「学会員」となることは「信仰」を持つことを宣言するだけではない。人々が習俗として取り込んできた既存の神仏を否定する。それを知りながら、バンジャは「学会員」になった。周囲の人々に侮られ陰口を叩かれて夫に嫌われながらも「学会員」になる選択をした。なぜだろう、何が彼女を仏教運動に赴かせたのだろう。そして、バンジャに反抗し続けたヒョーヤは「学会」と「学会員」をどう受け入れたのだろうか。ある家庭における親子二代に及ぶ時代と彼らの生きざまを通して考えてみた。