自転車という愛玩物

愛車3台(手前からタイヤ径 14/16/26インチ) 11月中旬から12月初めにかけて自転車に乗らなかった。1日に往復1時間だから、MTBで山を駆けめぐるのと比べればどうということもないのだが、僕の日常から大きなものが消えたように感じる。 7月から10月、輪行通勤を4ヵ月続けたことが大きな意味を持っていたのだ。真夏の暑さのなかを走り、1日も欠かさないように気を張っていたから、しばらくそれがないだけで何かがなくなったように感じるのだろう。11月末から12月初めには持病の腰痛にも悩まされた。 少年のころは毎日走り回っていたし、自転車に乗って遠出もした。それが当たり前のことだったが、今は違う。これを老いというのだろうが、人はみな時間とともに成長もし老いもする。それを嘆いても何の役にも立たない。 Anti-aging という言葉を最近よく耳にする。関連商品も多様で人生百年などといって蓄えや保険を喧伝するCMも多い。かまびすしい。源氏物語の時代と今で抜本的に何が違うのか、などと考える。生老病死については何も変わっていない、この前提から現代を再考したい。

歌樽先生と読む김소월の詩

兼若かねわか先生のサイト「金素月キムソウォルの詩と韓国文化」に「ハングルの詩のある風景」として連載された文章を各編ごとにまとめ、このサイトに転載します。同じ文章を縦書き文庫で電子書籍のように読むこともできます。歌樽かたる先生と詩子うたこアナウンサーが対話形式で解説する김소월の詩の世界をお楽しみください。 -本サイトで読む縦書き文庫で読む1엄아야 누나야(上)엄아야 누나야(下) n/a2산유화 [山有花] n/a3초혼[招魂](上)초혼[招魂](下)招魂しょうこん4제비つばめ5진달래꽃つつじの花6실제[失題]의 비밀(上)실제[失題]의 비밀(下)失題しつだいの秘密7수아[樹芽]樹芽수아(木の芽)8소월과 지연[紙鳶](上)소월과 지연[紙鳶](下)素月と凧揚たこあげ一部リンク・画像が表示されません、追々修正します

HDDが壊れた

昨夜、HDD(hard disk drive)に保存しておいたファイルを読み出そうとしたら、パソコンが読み込んでくれない。接続コードを代えたり、ほかのパソコンに接続しても読み込まない。 きょう事務所のパソコン機器に詳しい人にみてもらったが、復元できないという。HDDは壊れやすい、SSD(solid state disk)にしないと駄目とも言われた。過去25年以上の写真やテキストデータを保存してあったのに諦めなくてはならない。かなり落ち込んだ。 その後、ネット検索して何とか方途を模索し、長時間かけて復元して新たに購入したSSDに保存できたのだが、これが自分の最近四半世紀における営みを記録しているすべてだと思うと、その営み自体にどこか虚しさを感じてしまう。

無謀な自転車乗りが横行している

1902年、夏目漱石がロンドン留学中にはじめて自転車に乗ったときのことを描いた「自轉車日記」という文章がある。自転車好きの人ならば抱腹絶倒まちがいない作品なのだが、宮田浩介氏の「サイクリストになった漱石: 技術史の視点で読み解くロンドン『自転車日記』」(Jubne Notes 2014年3月掲載)はその作品のおもしろさを倍加させてくれる。 最近、無謀な自転車乗りが横行しており、彼らと120年前の漱石の無謀さに共通する一種暴力的なものを感じます。いつ事故が起きても不思議でないし僕が巻き込まれることだってあり得るのです。日本にヨーロッパのような自転車専用レーンや専用信号ができない理由の一つがこの暴力性・スピード妄信ではないかと考えます。 以下、一部編集(見出しの一部修正と図版選択など)を施して引用します。2022年1月の投稿文120年前に漱石が跨がった自転車の再掲です。宮田氏は末尾に次のように記しています。大いに同感です。 『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。Jubne Notes ©2006-2022 kosukemiyata.com 以下、引用します。 夏目漱石の作品に「自転車日記」というタイトルの短編がある。留学先のロンドンで自転車に乗り始めた時のことを、自虐的かつユーモラスな口調で語ったものだ。西洋近代の中心地で漱石が出遭ったのは、いったいどのような自転車だったのか。そして彼は、この文明の産物とどんな風に格闘したのだろうか。19世紀の終わり頃の資料などを頼りに、彼のサイクリング体験の実像を探ってみよう。 漱石35歳の自転車デビュー 漱石の「自転車日記」に綴られているのは、「西暦1902年秋」、今からおよそ120年前の出来事だ。彼は既に満年齢で35歳になっていた[1]が、下宿の「婆さん」から強く勧められてその「命」に従うまで、自転車に「乗って見た」ことは全く無かったらしい。 未経験者の漱石にとっては、自転車に跨るだけでも大変なことだった。「いざという間際でずどんと落る」。「ずんでん堂とこける」。監督役の「○○氏」に車体を支えてもらい、サドルに腰かけたところで前に押してもらっても、次の瞬間には「砂地に横面を抛りつけ」ている。日を経て「ともかくも人間が自転車に附着している」状態を保てるようになっても、坂道での練習で彼は制動不能に陥り、塀にぶつかった後でようやく止まるのだった。 訓練を開始してから数日、やっとサドルに座ってペダルを漕げるようになってきても、漱石はまだ思うように走れなかったようだ。 よく知っているエリアの案内を同行者に任されたのに、彼は「曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう」のだ。 なんとかハンドルをこじって別の方向へ曲がってみるも、今度はその急激な動作によって、「余に尾行して来た一人のサイクリスト」の転倒を誘発してしまう(怒った相手は「チンチンチャイナマン」と彼を罵倒する)。 人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもない 「日記」の終わり近くのある日、漱石はこんなサイオー・ホースめいた格言を作って開き直ってみるが、「バタシー公園」(Battersea Park)へ行く途中で他の自転車の割り込みに遭い、「自分が落ち」て危うく馬車に轢かれそうになる。 漱石が購入した「老朽の自転車」 こうして「自転車日記」をざっと読み通してみると、漱石は運動が苦手、との印象が否めない。 運転中の判断のセンスが疑われる場面も多く、思わず「そういう時はこうするんだよ!」と教えてあげたくなる。 けれどもその助言が正しいかどうかは、もう少し詳しく調べてみなければ分からない。自分のイメージしている自転車が、そもそも間違っているかも知れないからだ。 「ラヴェンダー・ヒル」の自転車店を訪れた際、「○○氏」はまず「女乗」を薦めた、と「日記」にはある。これに対し漱石は「髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない」と抗議、練習車は「いとも見苦しかりける男乗」に決まった。それは「関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車」で、「物置の隅に閑居静養を専にした奴」という感じだった。 図3[3]: 漱石の言う「女乗」とは、スカートでも乗れるフレーム形状の自転車のことだろう 漱石が購入した「老朽の自転車」は、実際のところどんな構造のものだったのか。店の場面の「上からウンと押して見るとギーと鳴る」、「ハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり」といった描写は、前輪が極端に大きい「オーディナリー自転車」には当てはまりそうにない(図4参照)。1880年代の中頃まではこのタイプが「普通の自転車」(ordinary bicycles)だった[4]が、1895年には新型にすっかり「普通」の座を奪われ、その呼び名も限定的な形(Ordinary Bicycles)に変わっていたようだ[5]。そんな車種を1902年になってわざわざ選ぶというのも、初心者の訓練用としてはまずありえない。 図4[6]: 「オーディナリー」型の自転車のハンドルは乗車前に上から押せるような位置にはない 1880年代に進んだ「セーフティー」(Safety)自転車の開発には、乗車位置を下げて転倒の危険性を減らし、なおかつ安定した走行性能を確保するという共通課題があった[7]。これらの条件を満たして好評を得たのが、スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)社の「ローバー」(Rover)だった。チェーンを介した後輪駆動、前後同等サイズのホイール(2世代目以降)といったその構成は、自転車のスタンダードとして次第に定着していった[8]。1888年にはスコットランド出身のダンロップ博士が空気を入れるタイヤの特許を取得、乗り心地が良く楽にスピードの出せるこの方式のタイヤは、7、8年のうちに殆ど全ての新車の標準装備となり、従来のソリッドタイヤを駆逐してしまった[9]。 図5[10]: 空気入りタイヤとそうでないものとが混在し、新車購入時にユーザーがどちらかを選択できた時期もあった 乗り易いセーフティー型の発展が市場に及ぼした影響は大きく、イギリスでは自転車ブームが最高潮となった1895~97年にかけて、毎年およそ75万台が生産されていたと推計されている[11]。 1889年の時点では55弱だったロンドンの自転車メーカー(多くは大元の製造ではなく販売や修理のみを行っていた)の数も、1897年には390にまで膨れ上がっていた[12]。 漱石の留学はこの大流行が過ぎ去った後のことだが、彼が練習のために希望した「当り前の奴」は、こうして広まった自転車のうちの「男乗」だったろう。 図6[13]: 1898年にアメリカで出版された本の図解では、空気入りタイヤが標準的なものとして扱われている ブレーキが無かった? 漱石が乗っていたと思われる1890年代のセーフティー型は、既に今の自転車と同じような姿をしていた。しかしながらその機械的な構造には、現代の感覚に照らすとまだ「安全」とは言い難い点があった。クランク(図6の29番)と後輪の回転が互いに直結していたため、ペダルに載せた足を走行中に止められなかったのだ。 ブレーキは前輪のタイヤに作用する手動式(図3、5、6、7参照)が最も一般的だったが、主に女性が使うものと考えられていたのか、これらを全く装着することなく、ペダルを逆に踏む「バック踏み」(back-pedaling / back-pedalling)だけで速度をコントロールするサイクリストも多かったようだ[14]。 図7[15]: ブレーキのある自転車ならばフットレストに足を載せて坂を下ることができた(クランクは勝手に回り続ける)が、ブレーキが無ければクランクの回転を足で抑えて減速しなければならなかった 「自転車日記」の描写にも、漱石がブレーキを操作していたことを示す箇所はない。 「○○氏」とその友人に伴われて自転車で出かけた際、二人の間に挟まれて走っていた彼は、「クラパム・コンモン」から「鉄道馬車の通う大通り」(図2の赤線のところ)へ曲がる手前で、横から来た荷車に進路を塞がれてしまう。 ぶつかるわけにはいかないし、左右どちらかに逃げることもできない。 ギリギリになって「退却も満更でない」と思い至るものの、「逆艪の用意いまだ調わざる今日の時勢」ゆえ、彼は「仕方がない」と諦めて落車を選択する。 「逆艪」とは艪を船の前に付けて後退を可能にすることであり、この「用意」ができていないというのは、恐らく「バック踏み」に慣れていなかったことを意味している。 彼の自転車にはそもそもブレーキが無く、彼自身も「ペダル」を「踏みつける」と車輪が(?)「回転する」事実に気がついたばかりで、それを利用してスピードを落とす技術が身についていなかったのだろう。 図8[16]: …

光源氏と高麗人(こまうど)

11世紀初めの著作とされる『源氏物語げんじものがたり』に魅せられている。その第1帖「桐壺きりつぼ」に帝みかどが源氏の将来を考え、来朝中の高麗人こまうど(高麗こま 고려コリョ 918-943)の人相見にんそうみに密ひそかに源氏の相そうをみさせる場面がある。下のスライドは縦書き文庫「與謝野よさの源氏」桐壺の巻後段から引用した。1枚目の最終行に「皇子おうじを外人の旅宿りょしゅくする鴻臚館こうろかんへおやりに」とある。 「桐壺」後段01「桐壺」後段02「桐壺」後段03「桐壺」後段04「桐壺」後段05「桐壺」末尾 スライド6枚目に次の文章がある。「光ひかるの君きみという名は前に鴻臚館こうろかんへ来た高麗人こまうどが、源氏の美貌びぼうと天才をほめてつけた名だとそのころ言われたそうである」

無宗教社会・日本

「無宗教社会に抗して生きた경호ギョンホの母(仮題)」前半をアップしました。 この作品を僕は死ぬまで書き続けるのではないか、そんな予感がある。72歳で書き始めたから、せいぜいあと10年か20年だが、人生で最も充実したときでもある。人々は生涯そのときどきを必死に生き、それぞれの瞬間に現在を感じ、過去と未来を信じている。年齢とはただ肉体的な経過点をいうに過ぎない。もちろん、青少年期のみずみずしさは何ものにも代えがたいが、老年期に至って花開く人もいる。青年といい老年というも仮の時期区分なのだ。人の生涯を生から死に向かう数直線ではなく、瞬間ごとに自己を放射し発散する一個のかけがいのない点として捉えたい。 no中見出し小見出し1無宗教社会という現代神話----2法華経の生命論下町に育った경호の母父親を追い求めた경호の父경호の父と恵琳寺경호の母方の祖父3경호の育った家庭1959年の冬何かに怯えていた경호平穏を取り戻した家庭父の思い描いた家庭社宅の隣人4경호の母の学会活動品川駅発の団体夜行列車唱題と読経の響き夜の新聞配達まだ草稿であり大幅に書き換えるかもしれません。

自転車のライトが切れた

もう五年以上使っているUSB充電方式のライトが充電できなくなり、完全に切れてしまった。日が暮れるのが早くなって夕方5時にはすっかり暗くなるこのごろ、帰りの走行にライトは必需品だ。 五反田から大崎広小路、大崎まで走り回って自転車屋を探した。一軒目は移転していた。二軒目は閉店セール中でライトなどの小物は売り切れ、第二京浜国道沿いにあるはずの三軒目は探せなかった。 あきらめて国道から中原街道の平塚橋交差点の方に向かっていると、あった。いかにも町の自転車屋らしいおじさんが店内を清掃している。そろそろ閉店の時間なのだ。その店に飛び込んだ。ライト探しが徒労に終わらずにすむ。ライトは四個壁に掛かっているだけ、そのなかですぐに使える単3電池式LEDを選んだ。 当然のことのように僕の自転車に取り付けてくれる。パッキングを何度か取り替えハンドルの太さにあうようにして取り付けてくれた。作業中、自転車談義を交わした。しだいに、町の自転車屋が消えてゆく。

無宗教派に抗して生きる

書きかけの文章の題名を再び改め、「ギョンホとその母」[仮英訳] Gyungho and his Mother とした(22/12/05)。<無宗教社会>の虚構性について「中説」という形を借りて描きたいのだが、なかなか思うように進まない。堂々巡どうどうめぐりしている。12月に入り数ヵ月ぶりに母に会う三日前、母だけの伝記を書くことを断念し、題名を変更した。畢竟、自分の生き方が母のそれに重なっている、と気づいた。母に会って構想を説明すると、神妙な表情で聞いていた。 ギョンホについては、日本人に対する韓国語の蔑称 쪽발이、왜놈 をもじって 반쪽발이パンチョッパリ、반왜놈 (半倭奴バンウェノム) とする。日本人の縮約形 일인イリン をもじって 반일인 (半日人バニリン、半日人はんにちじん) としてもよい。僕の対自認識はこれに近いものだ。 無宗教社会などありはしないのに、一九四五年夏以後、日本島に棲む人々は自分たちの社会が科学的で非神話的な社会に生まれ変わったと考えたようだ。それ以前の社会が非科学的で暴力的で狂信的だったとしたわけではないが、その年の八月をもって歴史の断絶を創出し、「一億総懺悔」という宗教的な「場」を人々のあいだに浸透させた。人々が自ら考えてそうしたわけではない。彼らは長い年月、天皇を現人神として崇め、巧妙な監視体制のもとで考える能力をなくしていたから、このときもまた何者かが巧妙に仕組んだに違いない。天皇は神のまま天上界に隠れることもできたはずだが、何と神を人間界に降臨ならぬ降格させるという奇策をもって元号の連続を図ったのだ。それは人々に少なからぬ混乱と困惑をもたらした。その精神的後遺症のひとつが筆者が<無宗教>と呼ぶ症候群の集団発症だった。この精神疾患ではほとんどの人に自覚症状がない。There is no such thing as a non-religious society anywhere, but after the summer of 1945, the people inhabiting the island of Japan seemed to think that their society had been reborn as a scientific and non-mythical society. …

仮説としての「無宗教社会」

縦書き文庫「경호ギョンホとその母」(執筆中)より 十九世紀後半から大日本帝國は<富國強兵>という名のもとにほぼ現在の中国やロシアに相当する国々と戦争をし、現在の台湾・韓国・北朝鮮を植民地にし中国東北部地域に満州まんしゅう國を樹立して版図はんとを拡張した。一九三十年代には中国内陸部と東南アジア地域に戦域を広げ、四十年代には米国と戦争するに至った。その過程で双方の兵が殺しあい、大日本帝國軍は自國とアジア地域の人々の平和な生活を壊し人権を蹂躙じゅうりんして殺戮さつりくもした。 一方で五族協和を唱となえアジア解放を謳うたっていた。二〇二二年のロシアによるウクライナ侵攻とそのプロパガンダは、大日本帝國による侵攻と報道管制のようすを彷彿ほうふつとさせる。一九四五年八月に無条件降伏し、大日本帝國は瓦解がかいしたかにみえるが、その残滓ざんしは今も日本社会のどこかに温存おんぞんされている、と筆者は考える。 戦後、雨後の筍たけのこと形容されるように<新興宗教>が勃興ぼっこうした。多くは戦前の似非えせ宗教に対する反動ゆえに同じく非宗教であったが、人々は宗教も非宗教も区別できないまま盲目的に追随ついずいするか無宗教を決め込んだ。創価学会そうかがっかいはそんな時代に全国で折伏しゃくぶくという名の布教活動をくり広げた。その仏教運動は既存の仏教各派や神道キリスト教等を邪宗じゃしゅう邪教として一蹴いっしゅうした。人々は創価学会を略して「学会」と呼び、会員を「学会員」と呼んで忌いみ嫌ったが、その実像を理解している人は少ない。その大衆運動に驚き戸惑った人々は「学会」を忌いまわしい団体とし「貧乏人と病人の集団」と呼んで蔑さげすみ排斥した。この集団の勢いを恐れ、統率のとれた会員の表面的な活動だけをみて全体主義と評する者すらいた。 二〇二三年、日本社会に暮くらす多くの人々の「宗教」観は二十世紀後半からほとんど変わっていないのではないだろうか。いや、むしろ無宗教性がさらに深まり、スマフォ依存症とその延長上にある脳内露出症が蔓延まんえんしている。 戦前の天皇を中心とする国家神道に対する反動からだろう、「無宗教」がよしとされ普通とされる戦後の日本社会において、神社での祈祷きとうは「信仰」とは違うとされ、正月にはみな神社に参詣する。また、葬儀や法事には僧侶に読経どきょうしてもらい念仏を唱となえることが死者に対する弔とむらいであり通過儀礼とされている。戦前と同じようにいずれも「信仰」とは異なるものとして扱われるのだ。筆者は、仮説として現代日本社会を「無宗教社会」と呼ぶ。この作品もその仮説を前提している。 「無宗教社会」では、何かを「信じる」者は非科学的だとされ、「信仰」を持つ者は弱者として疎うとんじられる。「信仰」を説き、宗教団体に勧誘する者はうさん臭いものになってしまう。長いあいだ思想と情報の統制下に置かれ考える習慣を持たない人々は、これまでどおり自ら思考する力を失っていた。その状況は戦後八十年が経たとうとする現在も大きく変わってはいない。そんな人々の思考と信仰の真空域に「学会」が現れたのである。 「学会員」となることは「信仰」を持つことを宣言するだけではない。人々が習俗として取り込んできた既存の神仏を否定する。それを知りながら、경호ギョンホの母は「学会員」になった。周囲の人々に侮あなどられ陰口かげぐちをたたかれ、夫に嫌われながらも「学会員」になる選択をした。なぜだろう、何が彼女を仏教運動に赴おもむかせたのだろうか。この中説を通じて考えてみたいと思う。 “NON-RELIGIOUS SOCIETY” AS A HYPOTHESISFrom the latter half of the nineteenth century, under the name of “Wealth and National Strength,” the Japanese Empire went to war with countries that are roughly equivalent to today’s China and Russia, colonizing what is now Taiwan, Korea, and North Korea, and …

與謝野晶子「君死にたまふことなかれ」

旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎なげきて 青空文庫「晶子詩篇全集」より「晶子詩篇全集」自序  美濃部民子様わたくしは今年の秋の初に、少しの暇を得ましたので、明治卅三年から最近までに作りました自分の詩の草稿を整理し、其中から四百廿壱篇を撰んで此の一冊にまとめました。かうしてまとめて置けば、他日わたくしの子どもたちが何かの底から見附け出し、母の生活の記録の断片として読んでくれるかも知れないくらゐに考へてゐましたのですが、幸なことに、実業之日本社の御厚意に由り、このやうに印刷して下さることになりました。ついては、奥様、この一冊を奥様に捧げさせて頂くことを、何とぞお許し下さいまし。奥様は久しい以前から御自身の園にお手づからお作りになつてゐる薔薇の花を、毎年春から冬へかけて、お手づからお採りになつては屡わたくしに贈つて下さいます。お女中に持たせて来て頂くばかりで無く、郊外からのお帰りに、その花のみづみづしい間にと思召して、御自身でわざわざお立寄り下さることさへ度度であるのに、わたくしは何時も何時も感激して居ます。わたくしは奥様のお優しいお心の花であり匂ひであるその薔薇の花に、この十年の間、どれだけ励まされ、どれだけ和らげられてゐるか知れません。何時も何時もかたじけないことだと喜んで居ます。この一冊は、決して奥様のお優しいお心に酬い得るもので無く、奥様から頂くいろいろの秀れた美くしい薔薇の花に比べ得るものでも無いのですが、唯だわたくしの一生に、折にふれて心から歌ひたくて、真面目にわたくしの感動を打出したものであること、全く純個人的な、普遍性の乏しい、勝手気儘な詩ですけれども、わたくしと云ふ素人の手作りである点だけが奥様の薔薇と似てゐることに由つて、この光も香もない一冊をお受け下さいまし。永い年月に草稿が失はれたので是れに収め得なかつたもの、また意識して省いたものが併せて二百篇もあらうと思ひます。今日までの作を総べて整理して一冊にしたと云ふ意味で「全集」の名を附けました。制作の年代が既に自分にも分らなくなつてゐるものが多いので、ほぼ似寄つた心情のものを類聚して篇を分ちました。統一の無いのはわたくしの心の姿として御覧を願ひます。山下新太郎先生が装幀のお筆を執つて下さいましたことは、奥様も、他の友人達も、一般の読者達も、共に喜んで下さいますことと思ひます。 與謝野晶子 ああ、弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ。末すゑに生れし君なれば親のなさけは勝まさりしも、親は刄やいばをにぎらせて人を殺せと教へしや、人を殺して死ねよとて廿四にじふしまでを育てしや。 堺さかいの街のあきびとの老舗しにせを誇るあるじにて、親の名を継ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ。旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事なにごとぞ、君は知らじな、あきびとの家いへの習ひに無きことを。 君死にたまふことなかれ。すめらみことは、戦ひにおほみづからは出いでまさね、互かたみに人の血を流し、獣けものの道みちに死ねよとは、死ぬるを人の誉ほまれとは、おほみこころの深ければ、もとより如何いかで思おぼされん。 ああ、弟よ、戦ひに君死にたまふことなかれ。過ぎにし秋を父君ちゝぎみにおくれたまへる母君はゝぎみは、歎きのなかに、いたましく、我子わがこを召めされ、家いへを守もり、安やすしと聞ける大御代おほみよも母の白髪しらがは増さりゆく。 暖簾のれんのかげに伏して泣くあえかに若き新妻にひづまを君忘るるや、思へるや。十月とつきも添はで別れたる少女をとめごころを思ひみよ。この世ひとりの君ならでああまた誰たれを頼むべき。君死にたまふことなかれ。 (c) NHK "You Shall Not Die"Oh, brother . I weep for you.Do not die, little brother.You are the youngest, so your parents' love must have been strong.Did your parents teach you to hold a knife and kill people?Did they raise you until you were 24 years old, telling you …

a bike bag commuter (2)

七月八月の暑い盛りに週三日の輪行りんこう通勤を続けた。月に一度のペースで友人とMTB山行をしていたのを止やめて一年以上経たったし、自転車で走りたかった。右脚の麻痺まひが気になって筋力をつけたいという思いもあった。 輪行区間を除いて朝夕往復で約一時間の走りだが、長いアップダウンがあり、漕こぎ続けるのが辛つらいときもある。妻の反対を押し切って始めたことだから途中で止やめるわけにはいかない。自転車を折りたたんでバッグに入れる方法もいろいろ工夫した。 八月の終わりが近づくと、自転車を入れたバッグをいよいよ重く感じるようになり、肩にかけて階段を上がるのにふらつくこともあった。疲れが溜たまっていたのだろう。七十歳を過ぎているし無理もないが、朝夕自転車で走る爽快さを失いたくない。 考えた末に、以前試乗したことのある軽い小径車を買うことにした。価格は一台目と同じく三万円余りだ。一台目はタイヤ径が16インチで12.5キロだが、二台目は14インチで8.5キロだ。すごく軽い、片手で軽々と持ち上げることができる。 二台目には変速機が付いていないが、脚の筋力を付けるには好都合と考えた。持ち運びに軽さは絶対条件だから、他の要素は我慢しなければ、と言い聞かせた。ところが、休日に一台目に乗ると、タイヤだけでなく車体感覚がまるで違う。ギアの切り替えもスムーズで重量感があって、これぞ自転車とさえ感じた。 B.B.通勤には軽い14インチの変速機なし、休日は重くても16インチの6段変速というのが現時点の贅沢ぜいたくな選択だ。これを一夫多妻ならぬ一夫二車制と呼ぼうと思う。もう一台MTBも加えれば一夫三車、一夫多車制を密ひそかに楽しんでいる。

與謝野源氏を読む

與謝野晶子よさのあきこ訳「源氏物語」を縦書き文庫で読むことができます。下の表の題名をクリックすると各帖を表示します。画像: 紫式部(土佐光起画 石山寺蔵); 登場人物 (wakogenji より); Principal Characters (サイデンステッカー訳より) 帖題名晶子の歌(各帖の冒頭に記載)1桐壺紫のかがやく花と日の光思ひあはざることわりもなし2帚木ははきぎ中川の皐月さつきの水に人似たりかたればむせびよればわななく3空蝉うつせみうつせみのわがうすごろも風流男みやびをに馴なれてぬるやとあぢきなきころ4夕顔うき夜半よはの悪夢と共になつかしきゆめもあとなく消えにけるかな 5若紫春の野のうらわか草に親しみていとおほどかに恋もなりぬる6末摘花すえつむはな皮ごろも上に着たれば我妹子わぎもこは聞くことのみな身に沁しまぬらし 7紅葉賀もみじのが青海の波しづかなるさまを舞ふ若き心は下に鳴れども  8花宴春の夜のもやにそひたる月ならん手枕かしぬ我が仮ぶしに9葵恨めしと人を目におくこともこそ身のおとろへにほかならぬかな10榊さかき五十鈴いすず川神のさかひへのがれきぬおもひあがりしひとの身のはて11花散里橘たちばなも恋のうれひも散りかへば香かをなつかしみほととぎす鳴く   12須磨人恋ふる涙をわすれ大海へ引かれ行くべき身かと思ひぬ13明石わりなくもわかれがたしとしら玉の涙をながす琴のいとかな14澪標みおつくしみをつくし逢あはんと祈るみてぐらもわれのみ神にたてまつるらん15蓬生よもぎう道もなき蓬よもぎをわけて君ぞこし誰たれにもまさる身のここちする16関屋逢坂あふさかは関の清水しみづも恋人のあつき涙もながるるところ17絵合えあわせあひがたきいつきのみことおもひてきさらに遥はるかになりゆくものを18松風あぢきなき松の風かな泣けばなき小琴をとればおなじ音を弾ひく19薄雲さくら散る春の夕ゆふべのうすぐもの涙となりて落つる心地ここちに 20朝顔みづからはあるかなきかのあさがほと言ひなす人の忘られぬかな21乙女雁かりなくやつらをはなれてただ一つ初恋をする少年のごと22玉鬘たまかずら火のくににおひいでたれば言ふことの皆恥づかしく頬ほの染まるかな23初音若やかにうぐひすぞ啼なく初春の衣きぬくばられし一人のやうに24胡蝶盛りなる御代みよの后きさきに金の蝶てふしろがねの鳥花たてまつる 25蛍身にしみて物を思へと夏の夜の蛍ほのかに青引きてとぶ26常夏露置きてくれなゐいとど深けれどおもひ悩めるなでしこの花 27篝火大きなるまゆみ쇼のもとに美しくかがり火もえて涼風ぞ吹く28野分けざやかにめでたき人ぞ在いましたる野分が開あくる絵巻のおくに29行幸雪ちるや日よりかしこくめでたさも上なき君の玉のおん輿こし 30藤袴むらさきのふぢばかまをば見よといふ二人泣きたきここち覚えて31真木柱まきばしらこひしさも悲しきことも知らぬなり真木の柱にならまほしけれ32梅が枝天地あめつちに春新しく来たりけり光源氏のみむすめのため     33藤のうら葉ふぢばなのもとの根ざしは知らねども枝をかはせる白と紫34若菜(上)たちまちに知らぬ花さくおぼつかな天あめよりこしをうたがはねども34若菜(下)二ごころたれ先まづもちてさびしくも悲しき世をば作り初そめけん35柏木死ぬる日を罪むくいなど言ふきはの涙に似ざる火のしづくおつ36横笛亡なき人の手なれの笛に寄りもこし夢のゆくへの寒き夜半よはかな37鈴虫すずむしは釈迦牟尼仏しゃかむにぶつのおん弟子でしの君のためにと秋を浄きよむる38夕霧 一つま戸より清き男の出いづるころ後夜ごやの律師のまう上るころ 38夕霧 二帰りこし都の家に音無しの滝はおちねど涙流るる39御法みのりなほ春のましろき花と見ゆれどもともに死ぬまで悲しかりけり 40まぼろし大空の日の光さへつくる世のやうやく近きここちこそすれ 41雲隠れかきくらす涙か雲かしらねどもひかり見せねばかかぬ一章42匂宮春の日の光の名残なごり花ぞのに匂にほひ薫かをると思ほゆるかな43紅梅うぐひすも問はば問へかし紅梅の花のあるじはのどやかに待つ44竹河たけかわ姫たちは常少女とこをとめにて春ごとに花あらそひをくり返せかし 45橋姫しめやかにこころの濡ぬれぬ川霧の立ちまふ家はあはれなるかな46椎が本朝の月涙のごとくましろけれ御寺みてらの鐘の水渡る時 47総角あげまき心をば火の思ひもて焼かましと願ひき身をば煙にぞする48早蕨さわらび早蕨さわらびの歌を法師す君に似ずよき言葉をば知らぬめでたさ49宿り木あふけなく大御おほみむすめをいにしへの人に似よとも思ひけるかな50東屋あずまやありし世の霧来て袖を濡ぬらしけりわりなけれども宇治近づけば51浮舟何よりも危ふきものとかねて見し小舟の中にみづからを置く52蜻蛉とんぼひと時は目に見しものをかげろふのあるかなきかを知らぬはかなき53手習ほど近き法のりの御山みやまをたのみたる女郎花をみなへしかと見ゆるなりけれ54夢の浮橋明けくれに昔こひしきこころもて生くる世もはたゆめのうきはしあとがきhttps://tb.antiscroll.com/author/紫式部; https://ja.m.wikipedia.org/wiki/源氏物語の巻序 [参照] あらすじ: wakogenji より転載

a bike bag commuter

6月中旬にクルマを売却し、16インチの折りたたみ自転車を購入した。台湾製でやや重いが気に入っている。7月から通勤の一部区間を自転車で走り(約30分)、他の区間は輪行袋(bike bag)に詰め電車で通勤(約15分)している。「輪行通勤」と名づけたい。ゆっくり走っても汗だくになる。電車のなかで涼み、事務所に着くと着替える。爽快なことこの上ない。写真はバッグ収納方法と車内ほかでの配置工夫の記録です。

池上本門寺の一角

自宅から自転車でゆっくり走って30分ほどのところに池上本門寺があり、その一角に日蓮聖人(1222-1282)入滅の地とされる場所がある。現代日本社会を「無宗教社会」と名づけてから何回か訪ねている。執筆中の「無宗教社会に生きる」は創価学会の宗教運動を捉えようとしているが、かなり難題だ。 池上本門寺境内にある日蓮聖人入滅の地

「立正安国論」を読み直す

畏れ多くも「立正安国論」を読み直すため、SOKAnet 日蓮大聖人御書全集全文検索より読み下し文をダウンロードし、戸田城聖著『日蓮大聖人御書十大部講義第1巻「立正安国論」』(創価学会1952年)をもとにルビを付しました。佐藤弘夫著『日蓮「立正安国論」』(講談社学術文庫2008年)を参照しました(引用は[佐藤 p.xx]と表示)。 立正安国論 文応元(1260)年七月 39歳御作 与北条時頼書 於鎌倉第一段 旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭てんぺんちよう飢饉疫癘えきれい遍あまねく天下に満ち広く地上に迸はびこる牛馬巷ちまたに斃たおれ骸骨がいこつ路みちに充みてり死を招くの輩ともがら既に大半に超え悲まざるの族やから敢あえて一人も無し、然る間或は利剣即是りけんそくぜの文を専もっぱらにして西土教主の名を唱え或は衆病悉除しゅうびょうしつじょの願を持ちて東方如来の経を誦ずし、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の教に因て五瓶びょうの水を灑そそぎ有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄し、若くは七鬼神の号なを書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地祇ぎを拝して四角四堺かいの祭祀しを企て若くは万民百姓を哀れんで国主国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆かんたんを摧くだくのみにして弥いよいよ飢疫きえきに逼せめられ乞客こっきゃく目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観ものみと為し並べる尸かばねを橋と作す、観れば夫れ二離璧じりへきを合せ五緯珠いたまを連ぬ三宝も世に在いまし百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや。 主人の曰く独り此の事を愁いて胸臆くおうに憤悱ふんびす客来つて共に嘆く屢しばしば談話を致さん、夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり而るに今神術も協わず仏威も験しなし、具つぶさに当世の体を覿みるに愚にして後生の疑を発す、然れば則ち円覆えんぶを仰いで恨を呑み方載ほうさいに俯して慮を深くす、倩つらつら微管を傾け聊いささか経文を披ひらきたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。第二段 客の曰く天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む、今蘭室らんしつに入つて初めて芳詞ほうしを承るに神聖去り辞し災難並び起るとは何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん。 主人の曰く其の文繁多はんたにして其の証弘博ぐばくなり。 金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞かつて流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事を楽ねがわず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属けんぞく無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣あくしゅを増長し人天を損減し生死の河に墜おちて涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉やしゃ等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護おうごの心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし、一切の人衆皆善心無く唯繫縛けいばく殺害瞋諍しんじょうのみ有つて互に相讒諂ざんてんし枉まげて辜つみ無きに及ばん、疫病流行し彗星数しばしば出で両日並び現じ薄蝕恒つね無く黒白の二虹不祥の相を表わし星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実みょうじつ成みのらず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」已上。 大集経に云く「仏法実に隠没せば鬚髪爪しゅほっそう皆長く諸法も亦忘失せん、当その時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん・城壁破れ落ち下り屋宇悉く圮やぶれ坼さけ樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん、解脱げだつの諸の善論当その時一切尽きん、所生の華菓けかの味い希少にして亦美うまからず、諸有の井泉池・一切尽く枯涸し土地悉く鹹鹵かんろし剖裂てきれつして丘澗きゅうかんと成らん、諸山皆燋燃しょうねんして天竜雨を降さず苗稼みょうけも皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず、土を雨らし皆昏闇こんあんに日月も明を現ぜず四方皆亢旱こうかんして数しばしば諸悪瑞を現じ、十不善業の道・貪瞋癡とんじんち倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿しょうろくの如くならん、衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん、是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊きえし天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍ひみんする者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん」已上。 仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国を劫おびやかし百姓亡喪もうそうし臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん、天地怪異けいし二十八宿・星道・日月時を失い度を失い多く賊起ること有らん」と、亦云く「我今五眼をもつて明に三世を見るに一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍つかえるに由つて帝王主と為ることを得たり、是を為もつて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん、若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」已上。 薬師経に云く「若し刹帝利せつていり・灌頂王かんちょうおう等の災難起らん時所謂いわゆる人衆疾疫の難・他国侵逼しんぴつの難・自界叛逆ほんぎゃくの難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」已上。 仁王経に云く「大王吾が今化する所の百億の須弥しゅみ・百億の日月・一一の須弥に四天下有り、其の南閻浮提なんえんぶだいに十六の大国・五百の中国・十千の小国有り其の国土の中に七つの畏る可き難有り一切の国王是を難と為すが故に、云何いかなるを難と為す日月度を失い・時節返逆ほんぎゃくし・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無く・或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり、二十八宿度を失い金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁ちょう星・南斗じゅ・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星・是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり、大火国を焼き万姓焼尽せん或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり、大水百姓を漂没ひょうもつし・時節返逆して・冬雨ふり・夏雪ふり・冬時に雷電霹礰へきれきし・六月に氷霜雹はくを雨らし・赤水・黒水・青水を雨らし土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり、大風・万姓を吹殺し国土・山河・樹木・一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり、天地・国土・亢陽し炎火洞燃どうねんとして・百草亢旱こうかんし・五穀登みのらず・土地赫燃かくねんと万姓滅尽せん是くの如く変ずる時を六の難と為すなり、四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵劫起らん・是くの如く怪する時を七の難と為すなり」 大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如く種うゆる所の無量の善根悉く皆滅失して其の国当まさに三の不祥の事有るべし、一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり、一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵嬈にょうする所と為らん、暴火横よこしまに起り悪風雨多く暴水増長して人民を吹漂ただよわし内外の親戚其れ共に謀叛せん、其の王久しからずして当に重病に遇い寿終じゅじゅうの後・大地獄の中に生ずべし、乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復た是くの如くならん」已上。 夫れ四経の文朗あきらかなり万人誰か疑わん、而るに盲瞽もうこの輩ともがら迷惑の人妄みだりに邪説を信じて正教を弁わきまえず、故に天下世上・諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて擁護の志無し、仍て善神聖人国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道災を成し難を致す。第三段 客色を作して曰く後漢の明帝は金人きんじんの夢を悟つて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成す、爾しかしより来このかた上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専にす、然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道・仏経は星の如く羅つらなり堂宇どうう雲の如く布しけり、鶖子しゅうしの族やからは則ち鷲頭じゅとうの月を観じ鶴勒かくろくの流たぐいは亦鶏足けいそくの風を伝う、誰か一代の教を褊さみし三宝の跡を廃すと謂いわんや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。 主人喩さとして曰く仏閣甍いらかを連ね経蔵軒を並べ僧は竹葦ちくいの如く侶は稲麻とうまに似たり崇重年旧ふり尊貴日に新たなり、但し法師は諂曲てんごくにして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し。 仁王にんのう経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、其の王別わきまえずして此の語を信聴し横よこしまに法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」已上。 涅槃ねはん経に云く「菩薩悪象あくぞう等に於ては心に恐怖くふすること無かれ悪知識に於ては怖畏ふいの心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三趣しゅに至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。 法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲てんごくに未だ得ざるを為これ得たりと謂おもい我慢の心充満せん、或は阿練若あれんにゃに納衣のうえにして空閑に在り自ら真の道を行ずと謂おもいて人間を軽賤する者有らん、利養に貪著するが故に白衣の与ために法を説いて世に恭敬くぎょうせらるること六通の羅漢らかんの如くならん、乃至常に大衆の中に在つて我等を毀そしらんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門ばらもん・居士こじ及び余の比丘衆に向つて誹謗ひぼうして我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂いわん、濁劫じょっこう悪世の中には多く諸の恐怖くふ有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈めりし毀辱きにくせん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜ずいぎ所説の法を知らず悪口して顰蹙ひんじゅくし数数しばしば・擯出ひんずいせられん」已上。 涅槃経に云く「我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉く復また涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし、持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜とんしして其の身を長養し袈裟けさを著すと雖も猶なお猟師の細めに視て徐しずかに行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉とんしつを懐く啞法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像かたちを現じ邪見熾盛しじょうにして正法を誹謗せん」已上。 文に就ついて世を見るに誠に以て然しかなり悪侶を誡いましめずんば豈あに善事を成さんや。第四段 客猶憤りて曰く、明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む、世上の僧侶は天下の帰する所なり、悪侶に於ては明王信ず可からず聖人に非ずんば賢哲仰ぐ可からず、今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざるを知んぬ、何ぞ妄言もうげんを吐はいて強あながちちに誹謗を成し誰人を以て悪比丘と謂いうや委細に聞かんと欲す。 主人の曰く、後鳥羽院の御宇ぎょうに法然と云うもの有り選択集せんちゃくしゅうを作る則ち一代の聖教を破し徧あまねく十方の衆生を迷わす、其の選択に云く道綽禅師どうしゃくぜんし・聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、初に聖道門とは之に就いて二有り乃至之に準じ之を思うに応まさに密大及および実大をも存すべし、然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳けごん・三論・法相・地論・摂論じょうろん・此等の八家の意正しく此に在るなり、曇鸞どんらん法師往生おうじょう論の注に云く謹んで竜樹りゅうじゅ菩薩の十住毘婆沙びばしゃを案ずるに云く菩薩・阿毘跋致あびばっちを求むるに二種の道有り一には難行道二には易行道なり、此の中難行道とは即ち是れ聖道門なり易行道とは即ち是れ浄土門なり、浄土宗の学者先ず須すべからく此の旨を知るべし設たとい先より聖道門を学ぶ人なりと雖も若し浄土門に於て其の志有らん者は須すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし又云く善導和尚・正雑の二行を立て雑行ぞうぎょうを捨てて正行に帰するの文、第一に読誦どくじゅ雑行とは上の観経かんぎょう等の往生浄土の経を除いて已外いげ・大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、第三に礼拝らいはい雑行とは上の弥陀みだを礼拝するを除いて已外一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬くぎょうするを悉く礼拝雑行と名く、私に云く此の文を見るに須すべからく雑を捨てて専せんを修すべし豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修ぞうしゅ雑行ぞうぎょうを執しゅうせんや行者能よく之を思量せよ、又云く貞元じょうげん入蔵録にゅうぞうろくの中に始め大般若はんにゃ経六百巻より法常住経に終るまで顕密の大乗経総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし、当まさに知るべし随他ずいたの前には暫しばらく定散じょうさんの門を開くと雖も随自ずいじの後には還かえつて定散の門を閉ず、一たび開いて以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なりと、又云く念仏の行者必ず三心しんを具足ぐそくす可きの文、観無量寿かんむりょうじゅ経に云く同経の疏に云く問うて曰く若し解行げぎょうの不同・邪雑じゃぞうの人等有つて外邪異見げじゃいけんの難を防がん或は行くこと一分二分にして群賊ぐんぞく等喚廻よびかえすとは即ち別解・別行・悪見の人等に喩たとう、私に云く又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言うは是れ聖道門しょうどうもんを指す已上、又最後結句の文に云く「夫れ速すみやかに生死しょうじを離れんと欲せば二種の勝法しょうほうの中に且しばらく聖道門を閣おきて選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば正雑しょうぞう二行の中に且しばらく諸の雑行を抛なげうちて選んで応まさに正行に帰すべし」已上。 之に就ついて之を見るに曇鸞どんらん・道綽どうしゃく・善導ぜんどうの謬釈びゅうしゃくを引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣そうじて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸もろもろの世天せてん等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣おき或は抛なげうつ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰あまつさえ三国の聖僧十方の仏弟ぶっていを以て皆群賊と号し併せて罵詈めりせしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗ひぼう正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり。 是に於て代末代に及び人・聖人に非ず各冥衢みょうくに容いつて並びに直道じきどうを忘る悲いかな瞳矇どうもうを樹うたず痛いたましいかな徒いたずらに邪信を催す、故に上国王より下土民に至るまで皆経は浄土三部の外の経無く仏は弥陀みだ三尊の外ほかの仏無しと謂おもえり。 仍よつて伝教・義真・慈覚じかく・智証ちしょう等或は万里の波濤はとうを渉わたつて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りて崇あがむる所の仏像若しくは高山の巓いただきに華界けかいを建てて以て安置し若しくは深谷の底に蓮宮れんぐうを起たてて以て崇重そうじゅうす、釈迦薬師の光を並ぶるや威を現当げんとうに施し虚空地蔵の化を成すや益を生後に被こうむらしむ、故に国主は郡郷を寄せて以て灯燭とうしょくを明にし地頭は田園を充あてて以て供養に備う。 而しかるを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄ぶっだを貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の経典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏くぶつの志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧せそうの懐おもいを忘る、故に仏堂零落れいらくして瓦松がしょうの煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜ごしゃくの心を捨てて並びに建立の思を廃す、是を以て住持じゅうじの聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏ひとえに法然の選択せんちゃくに依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁まえんに蕩とろかされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如しかず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。第五段 客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文しゃかもん浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞どんらん法師ほっしは四論の講説こうせつを捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師どうしゃくぜんじは涅槃ねはんの広業こうぎょうを閣おきて偏に西方の行を弘め、善導和尚ぜんどうわじょうは雑行ぞうぎょうを抛なげうつて専修せんしゅうを立て、慧心僧都えしんそうずは諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす、弥陀みだを貴重すること誠に以て然しかなり又往生おうじょうの人其れ幾ばくぞや、就中なかんずく法然聖人は幼少にして天台山に昇り十七にして六十巻に渉わたり並びに八宗を究きわめ具つぶさに大意を得たり、其の外一切の経論・七遍反覆はんぷくし章疏しょうじょ伝記でんき究め看みざることなく智は日月に斉ひとしく徳は先師に越えたり、然りと雖いえども猶出離しゅつりの趣に迷いて涅槃ねはんの旨を弁わきまえず、故に徧く覿み悉く鑑かんがみ深く思い遠く慮り遂に諸経を抛なげうちて専ら念仏を修す、其の上一夢むの霊応れいおうを蒙り四裔えいの親疎しんそに弘む、故に或は勢至せしの化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賤きせん頭を低たれ一朝の男女歩を運ぶ、爾しかしより来このかた春秋推移おしうつり星霜相積れり、而るに忝かたじけなくも釈尊の教を疎おろそかにして恣ほしいままに弥陀みだの文を譏そしる何ぞ近年の災を以て聖代の時に課おおせ強あながちに先師を毀そしり更に聖人を罵ののしるや、毛を吹いて疵きずを求め皮を剪きつて血を出す昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ず惶おそる可く慎む可し、罪業至つて重し科条争いかでか遁のがれん対座猶以て恐れ有り杖に携われて則ち帰らんと欲す。 主人咲えみを止めて曰く辛からきことを蓼たでの葉に習い臭きことを溷厠かわやに忘る善言を聞いて悪言と思い謗者ぼうしゃを指して聖人と謂い正師を疑つて悪侶に擬ぎす、其の迷誠に深く其の罪浅からず、事の起りを聞け委くわしく其の趣を談ぜん、釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実ごんじつを弁ず、而るに曇鸞どんらん・道綽どうしゃく・善導ぜんどう既に権に就いて実を忘れ先に依つて後を捨つ未だ仏教の淵底えんていを探らざる者なり、就中なかんずく法然は其の流を酌くむと雖も其の源を知らず、所以ゆえんは何いかん大乗経の六百三十七部二千八百八十三巻・並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうの字を置いて一切衆生の心を蕩とろかす、是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず、妄語もうごの至り悪口の科とが言うても比ならび無し責めても余り有り人皆其の妄語を信じ悉く彼の選択せんちゃくを貴ぶ、故に浄土の三経を崇あがめて衆経を抛なげうち極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る、誠に是れ諸仏諸経の怨敵おんてき聖僧衆人の讎敵しゅうてきなり、此の邪教広く八荒に弘まり周あまねく十方に遍へんす。 抑そもそも近年の災を以て往代おうだいを難ずるの由強あながちに之を恐る、聊いささか先例を引いて汝が迷を悟さとす可し、止観しかん第二に史記を引いて云く「周の末に被髪ひはつ・袒身たんしん・礼度れいどに依らざる者有り」弘決ぐけつの第二に此の文を釈するに左伝さでんを引いて曰く「初め平王へいおうの東に遷うつりしに伊川いせに髪を被かぶろにする者の野に於て祭るを見る、識者の曰く、百年に及ばじ其の礼先ず亡びぬ」と、爰ここに知んぬ徴しるし前に顕れ災い後に致いたることを、又阮藉げんせきが逸才いつざいなりしに蓬頭散帯ほうとうさんたいす後に公卿の子孫皆之に教ならいて奴苟どこう相辱はずかしむる者を方まさに自然に達すと云い撙節兢持そんせつこうじする者を呼んで田舎でんしゃと為す是を司馬しば氏の滅する相と為なす已上。 又慈覚じかく大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗ぶそう皇帝・会昌えしょう元年勅して章敬しょうきょう寺の鏡霜きょうそう法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令しむ寺毎に三日巡輪じゅんりんすること絶えず、同二年回鶻国かいこつこくの軍兵等唐の堺を侵す、同三年河北の節度使忽ち乱を起す、其の後大蕃国ばんこく更また命を拒こばみ回鶻国重ねて地を奪う、凡そ兵乱秦項しんこうの代に同じく災火邑里ゆうりの際あいだに起る、何いかに況いわんや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱を撥おさむること能わずして遂に以て事有り」已上取意。 此これを以て之を惟おもうに法然は後鳥羽院ごとばいんの御宇ぎょう・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫なかれ唯須すべからく凶きょうを捨てて善に帰し源を塞ふさぎ根を截たつべし。第六段 客聊いささか和やわらぎて曰く未だ淵底えんでいを究めざるに数しばしば其の趣を知る但し華洛からくより柳営りゅうえいに至るまで釈門に枢楗すうけん在り仏家に棟梁とうりょう在り、然るに未だ勘状かんじょうを進まいらせず上奏に及ばず汝賤いやしき身を以て輙たやすく莠ゆう言を吐く其の義余り有り其の理謂いわれ無し。 主人の曰く、予少量為りと雖いえども忝かたじけなくも大乗を学す蒼蠅そうよう驥尾きびに附して万里を渡り碧蘿松頭へきらしょうとうに懸かかつて千尋じんを延ぶ、弟子一仏の子と生れて諸経の王に事つかう、何ぞ仏法の衰微すいびを見て心情の哀惜あいせきを起さざらんや。 其の上涅槃ねはん経に云く「若し善比丘あつて法を壊やぶる者を見て置いて呵責かしゃくし駈遣くけんし挙処こしょせずんば当まさに知るべし是の人は仏法の中の怨あだなり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞しょうもんなり」と、余・善比丘の身為ならずと雖も「仏法中怨」の責を遁のがれんが為に唯大綱たいこうを撮とつて粗ほぼ一端いったんを示す。 其の上去る元仁年中に延暦えんりゃく興福こうふくの両寺より度度奏聞そうもんを経へ・勅宣・御み教書を申し下して、法然の選択せんちゃくの印板いんばんを大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院かんじんいんの犬神人つるめそうに仰せ付けて破却せしむ其の門弟・隆観りゅうかん・聖光しょうこう・成覚じょうかく・薩生さっしょう等は遠国おんごくに配流はいるせらる、其の後未だ御勘気かんきを許されず豈未だ勘状を進まいらせずと云わんや。第七段 客則すなわち和やわらぎて曰く、経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、然れども大乗経六百三十七部二千八百八十三巻並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうの四字に載す其の詞ことば勿論なり、其の文顕然なり、此の瑕瑾かきんを守つて其の誹謗を成せども迷うて言うか覚りて語るか、賢愚けんぐ弁ぜず是非定め難し、但し災難の起りは選択に因るの由盛さかんに其の詞を増し弥いよいよ其の旨を談ず、所詮しょせん天下泰平国土安穏あんのんは君臣の楽ねがう所土民の思う所なり、夫れ国は法に依つて昌さかえ法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇あがむ可き法を誰か信ず可きや(a)、先ず国家を祈りて須すべからく仏法を立つべし若し災を消し難を止むるの術じゅつ有らば聞かんと欲す。 主人の曰く、余は是れ頑愚がんぐにして敢あえて賢を存せず唯経文に就いて聊いささか所存を述べん、抑そもそも治術じじゅつの旨内外の間其の文幾多いくばくぞや具つぶさに挙あぐ可きこと難し、但し仏道に入つて数しばしば愚案を廻めぐらすに謗法の人を禁いましめて正道の侶りょを重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。 即ち涅槃経に云く「仏の言く唯だ一人を除いて余の一切に施ほどこさば皆讃歎さんたんす可し、純陀じゅんだ問うて言く云何いかなるをか名けて唯除ゆいじょ一人と為す、仏の言く此の経の中に説く所の如きは破戒なり、純陀復また言く、我今未だ解せず唯願くば之を説きたまえ、仏純陀に語つて言く、破戒とは謂いわく一闡提いっせんだいなり其の余の在所あらゆる一切に布施ふせすれば皆讃歎すべく大果報を獲えん、純陀復た問いたてまつる、一闡提とは其の義何いかん、仏言わく、純陀若し比丘びく及び比丘尼・優婆塞うばそく・優婆夷うばい有つて麤悪そあくの言を発し正法を誹謗ひぼうし是の重業じゅうごうを造つて永く改悔かいげせず心に懺悔ざんげ無からん、是くの如き等の人を名けて一闡提の道に趣向しゅこうすと為す、若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて是くの如き重事じゅうじを犯すと知れども而も心に初めより怖畏ふい懺悔無く肯あえて発露はつろせず彼の正法に於て永く護惜建立ごじゃくこんりゅうの心無く毀呰きし・軽賤きょうせんして言に過咎かぐ多からん、是くの如き等の人を亦た一闡提の道に趣向すと名く、唯此くの如き一闡提の輩やからを除いて其の余に施さば一切讃歎せん」と。 又云く「我れ往昔むかしを念おもうに閻浮提えんぶだいに於て大国の王と作れり名を仙予せんよと曰いき、大乗経典を愛念し敬重けいじゅうし其の心純善じゅんぜんに麤悪嫉恡そあくしつりん有ること無し、善男子我爾その時に於て心に大乗を重んず婆羅門ばらもんの方等ほうどうを誹謗ひぼうするを聞き聞き已おわつて即時に其の命根みょうこんを断ず、善男子是の因縁いんねんを以て是より已来いらい地獄じごくに堕だせず」と、又云く「如来昔国王と為りて菩薩の道を行ぜし時爾所そこばくの婆羅門の命を断絶す」と、又云く「殺に三有り謂いわく下中上げちゅうじょうなり、下とは蟻子ぎし乃至一切の畜生なり唯だ菩薩の示現生じげんしょうの者を除く、下殺げさつの因縁を以て地獄じごく・畜生・餓鬼がきに堕だして具つぶさに下の苦を受く、何を以ての故に是の諸の畜生に微善根びぜんこん有り是の故に殺す者は具つぶさに罪報ざいほうを受く、中殺とは凡夫の人より阿那含あなごんに至るまで是を名けて中と為す、是の業因ごういんを以て地獄じごく・畜生・餓鬼がきに堕して具つぶさに中の苦を受く・上殺とは父母乃至阿羅漢あらかん・辟支仏ひゃくしぶつ・畢定ひつじょうの菩薩なり阿鼻あび大地獄だいじごくの中に堕す、善男子若し能よく一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず、善男子彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提いっせんだいなり」已上。 仁王経に云く「仏波斯匿はしのく王に告げたまわく・是の故に諸の国王に付属ふぞくして比丘・比丘尼に付属せず何を以ての故に王のごとき威力無ければなり」已上。 涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相さいしょう・及び四部の衆に付属す、正法を毀そしる者をば大臣四部の衆当まさに苦治くじすべし」と。 又云く「仏の言く、迦葉かしょう能よく正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身こんごうしんを成就じょうじゅすることを得たり善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭きゅうせん・鉾槊むさくを持すべし」と、又云く「若し五戒を受持せん者有らば名けて大乗の人と為す事を得ず、五戒を受けざれども正法を護るを為もって乃すなわち大乗と名く、正法を護る者は当まさに刀剣器仗とうけんきじょうを執持しゅうじすべし刀杖とうじょうを持すと雖も我是等を説きて名けて持戒と曰わん」と。 又云く「善男子・過去の世に此の拘尸那城くしなじょうに於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益かんきぞうやく如来と号したてまつる、仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、爾その時に一の持戒の比丘有り名を覚徳かくとくと曰う、爾の時に多く破戒の比丘有り是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ刀杖とうじょうを執持しゅうじし是の法師を逼せむ、是の時の国王名けて有徳うとくと曰う是の事を聞き已おわつて護法の為の故に即便すなわち説法者の所に往至おうしして是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す、爾の時に説法者厄害やくがいを免まぬかることを得たり王・爾の時に於て身に刀剣箭槊むさくの瘡きずを被こうむり体に完まったき処は芥子けしの如き許りも無し、爾の時に覚徳尋ついで王を讃ほめて言く、善きかな善きかな王今真まことに是れ正法を護る者なり当来とうらいの世に此の身当まさに無量の法器と為るべし、王是の時に於て法を聞くことを得已つて心大に歓喜し尋ついで即ち命終みょうじゅうして阿閦仏あしゅくぶつの国に生ず而も彼の仏の為に第一の弟子と作る、其の王の将従しょうじゅう・人民・眷属・戦闘有りし者・歓喜有りし者・一切菩提ぼだいの心を退せず命終して悉く阿閦仏の国に生ず、覚徳比丘却かえつて後寿いのち終つて亦阿閦仏の国に往生することを得て彼の仏の為に声聞衆中しょうもんしゅうちゅうの第二の弟子と作る、若し正法尽きんと欲すること有らん時当まさに是くの如く受持し擁護おうごすべし、迦葉かしょう・爾の時の王とは即ち我が身是なり、説法の比丘は迦葉仏是なり、迦葉正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん、是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て以て自ら荘厳そうごんし法身不可壊ふかえの身を成なす、仏迦葉菩薩に告げたまわく、是の故に法を護らん優婆塞うばそく等は応まさに刀杖とうじょうを執持して擁護すること是くの如くなるべし、善男子・我涅槃の後濁悪じょくあくの世に国土荒乱こうらんし互に相抄掠あいしょうりゃくし人民飢餓きがせん、爾の時に多く飢餓の為の故に発心ほっしん出家するもの有らん是くの如きの人を名けて禿人とくにんと為す、是の禿人の輩正法を護持するを見て駈逐して出さしめ若くは殺し若くは害せん、是の故に我今持戒の人・諸の白衣の刀杖を持つ者に依つて以て伴侶はんりょと為すことを聴ゆるす、刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」と。 法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終みょうじゅうして阿鼻獄あびごくに入らん」已上。 夫れ経文顕然けんねんなり私の詞何ぞ加えん、凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝すぐれたり、故に阿鼻大城に堕して永く出る期ご無けん、涅槃経の如くんば設たとい五逆の供を許すとも謗法の施を許さず、蟻子ぎしを殺す者は必ず三悪道に落つ、謗法を禁ずる者は不退の位に登る、所謂いわゆる覚徳とは是れ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦文なり。 法華涅槃の経教は一代五時の肝心かんじんなり其の禁いましめ実に重し誰か帰仰きごうせざらんや、而るに謗法の族やから正道を忘れ剰あまつさえ法然の選択せんちゃくに依つて弥いよいよ愚癡ぐちの盲瞽もうこを増す、是を以て或は彼の遺体いたいを忍びて木画もくえの像に露あらわし或は其の妄説もうせつを信じて莠言ゆうげんを模かたちに彫ほり之を海内かいだいに弘め之を郭外かくがいに翫もてあそぶ、仰ぐ所は則ち其の家風かふう施す所は則ち其の門弟なり、然る間或は釈迦の手指てのゆびを切つて弥陀の印相いんそうに結び或は東方如来の鴈宇がんうを改めて西土教主の鵝王がおうを居すえ、或は四百余回の如法経を止とどめて西方浄土の三部経と成し或は天台大師の講を停とどめて善導講と為す、此くの如き群類ぐんるい其れ誠に尽くし難し是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや、此の邪義則ち選択せんちゃくに依るなり。 嗟呼ああ悲しいかな、如来誠諦じょうたいの禁言きんごんに背そむくこと、哀あわれなるかな愚侶迷惑の麤語そごに随したがうこと、早く天下の静謐せいひつを思わば須すべからく国中の謗法を断つべし。第八段 客の曰く、若し謗法の輩を断じ若し仏禁の違いを絶ぜっせんには彼の経文の如く斬罪ざんざいに行う可きか、若し然らば殺害相加つて罪業何いかんが為せんや。 則ち大集経に云く「頭こうべを剃そり袈裟けさを著ちゃくせば持戒及び毀き戒をも、天人彼を供養す可し、則ち我を供養するに為りぬ、是れ我が子なり若し彼を撾打かだする事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、若し彼を罵辱めにくせば則ち我を毀辱きにくするに為りぬ」料はかり知んぬ善悪を論ぜず是非を択えらぶこと無く僧侶為らんに於ては供養を展のぶ可し、何ぞ其の子を打辱だにくして忝かたじけなくも其の父を悲哀せしめん、彼の竹杖ちくじょうの目連尊者もくれんそんじゃを害せしや永く無間の底に沈み、提婆達多だいばだったの蓮華れんげ比丘尼を殺せしや久しく阿鼻の焰ほのおに咽むせぶ、先証斯これ明かなり後昆こうこん最も恐あり、謗法を誡いましむるには似たれども既に禁言を破る此の事信じ難し如何いかが意得こころえんや。 主人の曰く、客明に経文を見て猶なお斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか、全く仏子を禁いましむるには非ず唯偏ひとえに謗法を悪にくむなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍のうにんの以後経説は則ち其の施せを止とどむ、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何いかなる難か並び起り何なる災わざわいか競い来らん。第九段 客則ち席を避さけ襟えりを刷つくろいて曰く、仏教斯く区まちまちにして旨趣ししゅ窮きわめ難く不審多端ふしんたたんにして理非明ならず、但し法然聖人の選択せんちゃく現在なり諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうと載のす、其の文顕然なり、玆これに因つて聖人国を去り善神所を捨てて天下飢渇きかつし世上疫病えきびょうすと、今主人広く経文を引いて明かに理非を示す、故に妄執もうしゅう既に飜ひるがえり耳目数しばしば朗かなり、所詮しょせん国土泰平たいへい・天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なり楽ねがう所なり、早く一闡提いっせんだいの施せを止め永く衆僧尼の供くを致し・仏海の白浪はくろうを収め法山の緑林を截きらば世は羲農ぎのうの世と成り国は唐虞とうぐの国と為らん、然して後法水ほっすいの浅深を斟酌しんしゃくし仏家の棟梁とうりょうを崇重そうじゅうせん。 主人悦よろこんで曰く、鳩はと化かして鷹たかと為り雀すずめ変じて蛤はまぐりと為る、悦よろこばしきかな汝蘭室らんしつの友に交まじわりて麻畝まほの性と成る、誠に其の難を顧かえりみて専ら此の言を信ぜば風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならん、但し人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる、譬たとえば猶なお水中の月の波に動き陳前じんぜんの軍いくさの剣に靡なびくがごとし、汝当座とうざに信ずと雖も後定めて永く忘れん、若し先ず国土を安んじて現当げんとうを祈らんと欲せば速に情慮じょうりょを回めぐらし忩いそいで対治たいじを加えよ、所以ゆえんは何いかん、薬師経の七難の内五難忽たちまちに起り二難猶なお残れり、所以いわゆる他国侵逼しんぴつの難・自界叛逆じかいほんぎゃくの難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革ひょうかくの災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊おんぞく国内を侵掠しんりゃくする此の災未だ露あらわれず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛さかんにして一難未だ現ぜず所以いわゆる四方の賊来つて国を侵すの難なり加之しかのみならず国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いて具つぶさに事の情こころを案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科とがに依つて並び起り競い来らば其の時何いかんが為せんや、帝王は国家を基もといとして天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼しんぴつし自界叛逆して其の地を掠領りゃくりょうせば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅めっせば何いずれの所にか世を遁のがれん汝須すべからく一身の安堵あんどを思わば先ず四表の静謐せいひつを禱いのらん者か、就中なかんずく人の世に在るや各おのおの後生を恐る、是を以て或は邪教を信じ或は謗法を貴ぶ各おのおの是非に迷うことを悪むと雖も而も猶なお仏法に帰することを哀かなしむ、何ぞ同じく信心の力を以て妄みだりに邪義の詞を宗あがめんや、若し執心しゅうしん飜ひるがえらず亦曲意きょくい猶存せば早く有為ういの郷さとを辞して必ず無間の獄に堕ちなん、所以ゆえんは何いかん、大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧せかいえを修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護おうごせずんば是くの如く種うゆる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずして当まさに重病に遇い寿終じゅじゅうの後大地獄に生ずべし・王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官さいかんも亦復また是くの如くならん」と。 仁王経に云く「人仏教を壊やぶらば復また孝子無く六親不和にして天竜も祐たすけず疾疫しつえき悪鬼日に来つて侵害し災怪さいげ首尾しゅびし連禍れんか縦横じゅうおうし死して地獄・餓鬼がき・畜生に入らん、若し出て人と為らば兵奴ひょうぬの果報ならん、響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復またまた是くの如し」と。 法華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば乃至其の人命終みょうじゅうして阿鼻獄に入らん」と、同第七の巻不軽品に云く「千劫こう阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と、涅槃経に云く「善友を遠離おんりし正法を聞かず悪法に住せば是の因縁の故に沈没ちんぼつして阿鼻地獄に在つて、受くる所の身形しんぎょう・縦横八万四千由延ならん」と。 広く衆経を披ひらきたるに専ら謗法を重んず、悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚なるかな各おのおの悪教の綱つなに懸かかつて鎮とこしなえに謗教の網あみに纒まつわる、此の朦霧もうむの迷彼の盛焰じょうえんの底に沈む豈愁うれえざらんや豈苦まざらんや、汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰おとろえんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊はえ無なくんば身は是れ安全・心は是れ禅定ぜんじょうならん、此の詞ことば此の言信ず可く崇あがむ可し。第十段 客の曰く、今生こんじょう後生ごしょう誰か慎まざらん誰か和わざらん、此の経文を披ひらいて具つぶさに仏語を承るに誹謗ひぼうの科とが至つて重く毀法の罪誠に深し、我一仏を信じて諸仏を抛なげうち三部経を仰いで諸経を閣さしおきしは、是れ私曲しきょくの思に非ず則ち先達せんだつの詞に随いしなり、十方の諸人も亦復また是くの如くなるべし、今の世には性心を労し来生には阿鼻に堕だせんこと文明かに理詳つまびらかなり疑う可からず、弥いよいよ貴公の慈誨じかいを仰ぎ益愚客の癡心ちしんを開けり、速に対治を回めぐらして早く泰平を致し先ず生前しょうぜんを安じて更に没後ぼつごを扶たすけん、唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。(a) 日蓮の安国観念の独自性は、その中心的意味を天皇などの特定の権力(狭義の国家=王法)の安泰から広義の国家としての国土と人民の安穏へと転換させたところにあった...一見すると「安国」「護国」といった類似の言葉を用いながらも、それが支配者とりわけ天皇の安泰を第一義としていた伝統仏教と、その中心概念を国土の安寧と人民の平和へと転換させた日蓮の間にはきわめて大きな隔たりがあったのである。[佐藤 p. 38] 戸田城聖著『日蓮大聖人御書十大部講義「立正安国論」』

明治維新を再解釈する試み

中里介山著「大菩薩峠」を貫くのは中里史観と呼ぶべきものであり、それを支える人間観である。場面展開が独特で多くの登場人物が目まぐるしく入れ替わる小説で、プロットと関係ない挿話を煩わしく思うこともある。ただ、その挿話のなかで中里史観とその土台にある宗教や芸術・武芸観が語られるから、なくてはならない一部を構成している。介山の略歴は玉川神社(東京都羽村市)のサイトに詳しい。 1「大菩薩峠」を読み直す(1)裏宿うらじゅく七兵衛、医者の道庵どうあん、部落出身の米友よねともとお君と黒いムク犬、竜之介の父親に拾われた与八、竜之介に祖父を斬られたお松、神尾主膳しゅぜん、駒井能登守のとのかみこと甚三郎じんざぶろう、兵馬ひょうまほかが登場する。歴史上の人物が実名で登場する。2「大菩薩峠」を読み直す(2)学者肌の元旗本・駒井甚三郎と幕末の勘定奉行・小栗忠順のつながりが、この長編小説の作者の歴史観を示唆していると考える。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。3「大菩薩峠」を読み直す(3)中だるみの感を否めないところもあるが、この長編小説に取り憑つかれ逃のがれることができない。読み続けていると、白雲の巻に興味深い挿話があった。16世紀末の秀吉の朝鮮侵略における王義之の真筆をめぐる伊達家と細川家の物語だ。4「大菩薩峠」を読み直す(4)殺人鬼であり冷血漢である机竜之介と、幼いころの火傷でケロイド状の顔をもつお銀さまが取り交わす噛み合わないやり取りが興味深い。この小説の登場人物には身体障害者や精神障害者が少なくない。浪人に代表される幕藩体制からの離脱者や社会的な脱落者、「不具者」とされる人々が登場する。5「大菩薩峠」を読み直す(5)登場人物のなかで僕がもっとも引かれるのは駒井甚三郎である。無名丸という自ら設計した黒船の針路に関する以下の記述は、期せずして、明治日本以後の日本島の人々に大きな疑問を投げかけているように思う。どこか小栗忠順に通じるところがある。6「大菩薩峠」を読み直す(6)山科やましなの巻で、作者はなぜ神尾主膳をして勝小吉かつこきち(1802-50)の「夢酔独言」を延々引用し読ませたのか。主膳のモデル原型にでもなっているのだろうか。駒井と小栗忠順、神尾と勝麟太郎の対立関係を比較してみるのも興味深い。7「大菩薩峠」を読み直す(7)無名丸が東経170度北緯30度の附近にある無名島に漂着ならぬ到着をした後、しばらくして駒井は一人の白人男性を発見する...(彼から)「およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も事業もその轍てつを踏むにきまっています、失敗しますよ」。そう断言された駒井はまた思い悩む。日本の最東端にある南鳥島は東経153.58度、北緯24.18度。無名島は架空の島だろうが、南鳥島から遠く北東にある。8大菩薩峠(執筆年1913-41)の主題幕末から明治期の日本を再解釈を試み読者をして再考させることにあると考えている。美化して語られることの多い「明治維新」とそれ以降の現代史を見直す作業を真摯しんしに行った稀有けうな小説であり、読者にも現代史の再解釈を求めているように思う。このような意味において大菩薩峠は単なる娯楽小説ではない、大いなる論説である。より正確に言えば、小説の醍醐味だいごみと論説のおもしろさを兼ね備えた貴重な作品なのである。20220531 大菩薩峠 Oceanの巻直筆原稿 (c)近代文学館炉辺の中里介山(c)近代文学館

「大菩薩峠」を読み直す(7)

「駒井甚三郎の無名丸が、東経百七十度、北緯三十度の附近にある、ある無名島に漂着」ならぬ到着をし、その周辺に開墾地を耕し落ち着いた後に島の海岸沿いを測量していくと、一人の白人男性と遭遇する。 彼はヨーロッパで育ち、その文明進歩を否定して、自ら無名島に漂着したという隠遁者のような人だ。互いにとって外国語である英語で交わされる二人のやり取りが興味深い。 「およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も事業もその轍てつを踏むにきまっています、失敗しますよ」。そう断言された駒井はまた思い悩む。 椰子林の巻 四十九 駒井が、人間臭を感じていた時に、清八は異様な動物を認めました。 熊が――と言ったのは、果して、日本人が認める熊であるか、何物であるかを確認したのではなく、何かの動物を、この男が見出したものですから、一概に、「熊が――」と呼んでみたのだ。駒井は直ちに否定しました。熊のいるべき風土ではないということを、反応的に受取ったから、熊が、ということは信じなかったけれども、この男が、たしかになんらかの動物を発見したという信用は失うことがありません。「あ、熊が、あそこの岩かげから、コソコソと出て、また隠れてしまいました、御用心なさいませ」 駒井の手にせる鉄砲を目八分に見て、報告と警戒とを加える。駒井は、その言うところを否定もせず、肯定もせずに、「では、行って見よう」 その方面に向って自分が先に立ちました。「人間だよ、熊ではない」「人がおりますか、人間が、土人でございますか、土人」 熊であるよりも、人という方がかえって無気味なる感じです。土人、と繰返したのは、土人の中には人を食う種族がある、鬼に近い人種がいる、或いは鬼よりも獰猛どうもうな人類がいることが、空想的な頭にあるものですから、兇暴なる土人の襲撃の怖るべきことは猛獣以上である。猛獣は嚇おどしさえすれば、人間を積極的に襲うことはまずないと見られるが、土人ときては、若干の数があって、何をするかわからない。「見給え、あそこに小舟がある」「舟でございますか、ははあ、なるほど」 それは小舟です。しかもその小舟が、半分ほど砂にうずもれながら波に洗われつつある。最初は岩の突出かと思いましたが、なるほど、舟だ、その舟も、どうやらバッテイラ形で、土人の用うるような刳舟くりぶねでないことを、かすかに認めると安心しました。 この捨小舟すておぶねをめざして急いでみると、それから程遠からぬ小さな池の傍の低地に小屋を営んで、その小屋の前に人間が一人、真向きに太陽の光を浴びて本を読んでいる。黒い洋服をいっぱいに着込んでいるから、それで最初に清八が熊と認めたそれなのでしょう。こちらが驚いたほどに先方が驚かないのです。駒井主従が近寄って来ても、あえて驚異の挙動も示さず、出て迎えようともしないし、来ることを怖れようともしていないのが、少し勝手がおかしいとは思いながらも、危険性は少しも予想されないから、そのまま近づいて見ると、先方は鬚ひげだらけの面をこっちに向けて、じっと見つめていることは確かだが、さて、なんらの敵意もなければ、害心も認められない。 いよいよ近づいて見ると、原始に近い姿をしているが、その実、甚はなはだ開けた国の漂流者と見える。駒井がまず、英語を以て挨拶を試みてみました、「お早う」 先方がまた同じような返事、「お早う」 駒井の英語が、本土の英語でないように、先方の発音もまた借りの発音らしいから、英語を操るには操るが、英語の国民ではないという認識が直ちに駒井の胸にありました。 けれども、英語を話す以上は、その国籍はともあれ、時代に於ては開明の人であり、或いは開明の空気に触れたことのある人でないということはありません。英国は海賊国なりとの外定義はあるにしても、その個人としては、直接に人を取って食う土人でないことは確定と思うから、ここで三個の人間が落合って、平和な挨拶を交し、これからが駒井とこの異人氏との極めて平和なる問答になるのです。椰子林の巻 五十 駒井甚三郎は、まず、初発音に於て、この異人氏が英語は話すけれども英人でないことを知り、話してみると、この土地に孤島生活をしているけれども漂流人ではないということも知りました。誰も予想する如く、船が難破したために、この島へ漂いついて、心ならずも原始生活に慣らされている、早く言えば、ロビンソン漂流記の二の舞、三の舞である、とは一見、誰もそのように信ずるところだが、少し話してみると、やむことを得ざる漂流者ではなくて、自ら好んで単身この島へ渡って来て、また好んでこういう原始生活を営んでいる生活者であるということを、駒井甚三郎が知りました。 これが駒井にとって、一つの興味でもあり、好奇心を刺戟すると共に、研究心をも刺戟して、これに会話の興を求めると共に、この異風の生活の白人を研究してみなければ置かぬ気持にもさせたのです。今日の開明生活を抛なげうって、何しに斯様かような野蛮生活に復帰したがっているか、それも、やむを得ずしてしかせしめられているなら格別、好んでこういう生活に入り、しかも、一時の好奇ではなく、もはや、あの小舟が朽ち果てる以前から来ており、今後、この島にこの生活のままで生涯をうずめる覚悟ということが、驚異でなければなりません。 駒井甚三郎と異人氏の、覚束おぼつかないなりの英語のやりとりで、しかも、相当要領を得たところの知識は、だいたい次のようなものでありました。 この白人は、果して英国人ではない、本人は、しかと郷貫きょうかんを名乗らないけれども、フランス人ではないかと駒井が推定をしたこと。 年齢は、こういう生活をしているから、一見しては老人の如くに見ゆるが、実はまだ三十代の若さであること。 学問の豊かなことは、ちょっと叩いてみても、駒井をして瞠目どうもくせしむるものが存在していたということ。 そこで、つまりこの青年は、三十代と見ればまだ青年といってもよかろう、一見したのでは五十にも六十にも見えるが――この青年は、何か特別の学問か、思想かに偏することがあって、その周囲の文明を厭いとうて、そうして、わざとこの孤島を選んで移り住んでいる者に相違ないということが、はっきりと判断がつきました。 そういう類例は、むしろ東洋に於ても珍しいことはない。日本に於ても各時代時代に存在する特殊の性格である。こういう隠者生活というものは、東洋がその本家であるかと見ると、西洋にもあるのだ。いわゆる文明国にも、現にこういう人が存在する、ということを駒井がさとりました。 異人氏の方でもまた、この珍客が、教養ある異邦人で、自分の思想生活を紊みだす者でないことがわかったらしい。特に興味を以て、駒井との会話を辞さないようです。 そこで、駒井甚三郎は、清八をして持参の弁当を取り出させ、その小屋の庭前の自然木の卓子テーブルの上に並べさせ、そのうち好むものを、異人氏にも勧め、且つ食い、且つ談ずるの機会に我を忘れ、また今日の任務をも忘れんとします。 ここに於て、駒井はこの島に、自分たちよりも先住者が少なくも一人はいたことを知り、島の面積、風土のなお知らざるところをも聞き知り、もはや、これ以上には人類は住んでいないことなどをも知りましたが、個人として、この異人氏の身辺経歴等を知りたいとつとめたが、容易にそれを語りません。「あなたは、この島に猟に来たのですか」と異人氏がたずねるものですから、駒井が、「いいえ、猟に来たのではないのです、あなたと御同様に、この島へ永住に来たのです」「エ?」と言って、異人氏がその沈んだ眼をクルクルとさせ、「永く、この島にお住まいになるのですか」「そのつもりで、仲間を引きつれて来て、これから三里先に開墾を始めています、以後、おたがいに往来して、お心安く願いたいものです、これを御縁に、たびたび、わたくしも、こちらをお訪ねしたい、どうぞ、我々の方も訪ねていただきたい」 駒井がこう言いますと、異人氏は感謝するかと思いの外、みるみる失望の色が現われて、「そうですか、あなた方二人だけではないのですか」「二十余人の同勢で来ています」「男ばかりですか」「女もおりますよ」「そうですか」と言った異人氏には、失望のほかに、不快な色さえ現われて、それからは駒井の問いにはかばかしい返事をしませんでしたが、急に立ち上って、「わたくし、あの小舟を修繕しなければなりません」 つと立って行ってしまったものだから、駒井も引留めようがありませんでした。 ぜひなく、清八と二人だけで食事を済まし、しばらく待ってみたが、容易に再び姿を現わしません。立って四方をさがしてみたけれども、どうもその当座の行方がわからない。ぜひなく二人はそのままに取りかたづけて、ここを出て前進にかかりましたが、途中、心にかけたけれども、この異人氏の姿が再び眼に触れるということはありませんでした。 駒井は、それを本意なく思ったが、なんにしても、最初のうちは極めて好意を以て会話に答えた異人氏が、終り頃、急に失望不快の色を現わしたことと、そのまま席を立って、再び姿を見せなかったことに、何か、感情の相違があるものだとみないわけにはゆきません。では明日改めて、単身、ここまで出向いて来て、この遺憾いかんの部分の埋合せをしようと思い定めました。その日は、その程度の観察、往復の途中、地質と植物の標本を集めたくらいのところで、開墾地へ立帰りました。 お松に向って、その日のあらましを物語り、明日はひとつあの異人氏の訪問を主目的として、また出かけてみるつもりだということを物語ります。 七兵衛の報告を聞いて、開墾事業が着々として進んでいることを知り、多くの希望と愉快のうちにその夜を眠ります。椰子林の巻 五十一 その翌日、駒井甚三郎は、三里の道を遠しとせずして、今日はたった一人で、昨日来た異人氏の草庵を訪ねてやって来ました。 来て見ると、その有様、昨日に異ならず、戸は別に塞ふさいでもないが、人はありません。二度、三度、呼びかけてみたが返答もありません。その様子では、昨日立って行ったままに、立戻らないようにも見えるが、いったん戻って、また出かけたものとも察せられる。 あけ放された室内へ、駒井が入り込んで見廻すと、数多くの書籍がある。卓の上には、書きさした紙片が堆うずたかく散乱している。駒井は一わたり書棚の書物を検閲したが、英語と覚しいものは極めて乏しい。一二冊をとって披ひらいて見ると、文字は横には印刷されているが読めない―― そこで、駒井はまた一旦、室外へ出て待ってみたが、到底埒らちが明かないと見て、ともかくも近いところを歩いてみようと、小径をそぞろ歩きすると、まもなく海岸へ出ました。海岸へ出て見ると、何のことに、探索に苦心するまでのことはなかった、つい眼のさきに、尋ねる人がいるのです。海岸へ乗捨てられた小舟をコツコツと修理していたのは、昨日見た異人氏以外の人でありようはない。 そうだ、昨日も立ち上りざま、舟を修理をしなければならないと言って出た。最初から、こっちを探せば何のことはなかったものをと、駒井はその心構えで、ツカツカと近寄って来て、「昨日は失礼――また尋ねて来ました」「はい」「舟をなおすのですか」「はい、舟を修繕しています」「だいぶ古くなっていますね」「なにしろ、三年前に乗捨てた舟ですからね。もう二度使おうとは思わなかったですが、また手入れをしなければならないです」「新たに漁でもおはじめなさるのですか」「いや、漁ではありません、沖へ出なくても魚は捕れます」「では、急に何の必要あって」「海へ乗り出すのです、新たなる征服者が来たから、先住民族は逃げ出さなければならないです」「待って下さいよ、新たなる征服者というのは我々のことですか、先住民族というのは君のことですか」「そうです、あなた方は侵入者であり、征服者であります、新たなる征服者が来た時は、先住民族は逃げなければなりません、逃げなければ血を流します」「これは奇怪なお説です、誰が君を殺すと言いましたか、誰が君の血を見たいと言いましたか」「当然です、誰も言わないが、それが移住者の約束です」「そういう約束をした覚えもない」「人間同士の約束ではない、天則です、でなければ歴史です、人類相愛せよということは、猶太ユダヤの大工さんの子だけが絶叫する一つの高尚なる音楽ですね、相闘え、相殺せ、征伐せよ、異民族を駆逐せよ、しからずばこれを殲滅せんめつせよ――これは、歴史だから如何いかんとも致し難い、そこで、わたくしは殺されないさきに逃げます」「驚くべき誤解ですねえ、我々も、まず平和と自由とを求めて、この地に来たのですよ、歴史の侵略者とは違います、海賊ではありません、紳士です」「歴史の原則の前には、海賊も紳士もないです、あなた方は、平和を求めるつもりでこの島へ来ても、それがために、わたくしの平和が奪われます」「奪いません、おたがいに和衷協同して、相護って行き得られるはずです」「そんなことができるものか、現に、わたくしの平和が、こんなに乱されていることが論よりの証拠――やがて、わたくしが殺される運命は必然です」「左様な独断に対しては、もはや議論の限りではない、ただ、東洋人ということが、野蛮と好戦の代名詞のように心得ている君等白人の謬見びゅうけんからただしてかからなければならんのだが、それには相当の時間を要する、少なくともその理解の届くまで、君の出発を延期してはどうだ、果して、君が憂うるところの如く、我々は君を殺さずには置かぬ人類であるか、或いは存外、君と平和に交り得る人種であるか、その辺の見当がつくまで、出発を保留して置いてはどうか、そうして、いよいよ危険と結論が出来たその時でも、立退きは遅くはあるまい、その担保として――これをひとつ君に預けて置こうじゃないか、これは我輩の唯一の護身武器だ、安全の保証だ」と言って駒井甚三郎は、肩にかけていた鉄砲を取って、彼の前に提出し、同時にその帯革の弾薬莢だんやっきょうを取外しにかかると、「いや、違います、違います、あなたの観察が違います、わたくしは、あなた方を怖れるのではないです、歴史を怖れるのです、東洋の人を、野蛮だの、好戦だのと軽蔑するほど、西洋の人は文明を持ってはおりません、大きな宗教、大きな哲学、大きな科学、みな東洋から出ました、今、西洋だけが文明開化のように見えるのは、それは表面だけです、西洋の文明開化は短い間の虹です、やがて亡びますよ、わたくしは、欧羅巴ヨーロッパに生れたけれど、欧羅巴が嫌いです、それで、国々を廻ってこの島へ来たです、が、これから、ここを逃げ出して、またどこか自分のくらしいい土地を求めて行きます」椰子林の巻 五十二 吃々きつきつとして、こういう釈明をする間にも、異人氏は小舟の修繕の手を休めない。銃器を取外した駒井は、そのやり場に苦しむような手つきで、ふたたびそれを持扱いながら、これと対した石の上に腰を卸して、異人氏の言うところを言いつくさしめようと構えている。異人氏は、ここまで来ると、必然の論理を通さねばならぬかの如くに、ねちりねちりと問わざるに答えるのである。「欧羅巴ヨーロッパの文明というものは間違っているです、蒸気が走り、電気が飛び、石炭が出る、機械がどよめく、それで、人が文明開化だといって騒いでいるだけのものです、蘊蓄うんちくということを知らないで、曝露ばくろするのが文明だと心得違いをしているです、陰徳というものを知らないで、宣伝をするのが即ち文明だと心得違いをしているです、ごらんなさい、今に亡びますよ、今に欧羅巴人同士、血で血を洗う大戦争をはじめて共倒れになりますから、わたくしは、そういうところに住むのが嫌いですから、もっと広い世界へ出ました」「君は文明開化を否定している、人類の進歩というものを呪のろっているらしい、それが欧羅巴の文明というものを究きわめ尽しての結論だと面白いが、ただ偏窟な哲学者の独断では困る」「わたくしは偏窟人です、世間並みの風俗思想には堪えられません、それだからといって、わたくしの見た欧羅巴文明観が間違っているとは言えますまい、そもそも、欧羅巴が今日のように堕落したのは……彼等は堕落と言わず、立派な進歩だと思い上って世界に臨んでいるようですが、わたくしに言わせると、彼等より甚はなはだしい堕落はありません、何がかくまで欧羅巴を堕落させたかと言えば、それは鉄と石炭です」「ははあ、妙な論断ですね、羅馬ローマの亡びたのは人心が堕落したからだということは、よく聞きますが、鉄と石炭が欧羅巴を堕落させたという説はまだ聞きません」「学説ではなくて事実です、まず欧羅巴というところが、世界の中でどうして特別に早く開けたかといえば、それは食物を耕作する良地に富んでいたからです、土地が肥えていて、人間が食物を収穫するのに、最も都合がよかった、というのが第一条件であります、これは勿論もちろんであります。欧羅巴でなくても、穀物をよく生産する土地に人間が第一に寄りつきます、欧羅巴が開けたのは、その第一の条件に恵まれていたその上に、第二の条件が最もよろしかったからです、その第二の条件というのは、鉄が豊富であったからです、鉄を掘り出して使用することの便利が、他の多くの国土よりも恵まれておりました。人類は、最初にその鉄で鍬くわを作りました、鋤すきを作りました、そうして耕作力に大きな能率を加えました、そこで、人間に余裕も出来て、人間の数も殖ふえました、それまではよかったです。ところが、人に余裕が出来、その数が殖えてくると、争いが起りました、そこで、鍬を作る鉄で武器を作りはじめました、欧羅巴の堕落はそこからはじまりました」「それは堕落ではない、当然の進歩というものだ、人類が進歩し、社会が複雑になればなるほど、おのおのの防備を堅固にしなければならない、大きく言えば、国防というものがいよいよ切実となる、弓と矢を用いる代りに、鉄を利用して国防の要具を作ることは、当然の進歩ではないか」「進歩とか、複雑とか言いますけれども、その進歩と複雑が、人間に何を与えましたか、眩惑げんわく以上のものを与えましたか、眩惑から逃れて真実の生活を営みたいものは、欧羅巴文明から離れなければならない、そういうわけで欧羅巴を堕落させたもの、第一は鉄であります、いや、人が鉄の使用を誤らせたことから堕落が起りました、その次に、欧羅巴文明を堕落せしめたものは、石炭です、なぜ、石炭が欧羅巴を堕落せしめたかと言えば、そのもとは蒸気の発明から起ったです、蒸気が発明されると、大船が大洋の中を乗りきって、世界のいずれの涯はてへも自由自在に往来ができるようになりました、人間はそれを称して、人力が海洋を征服したというけれども、実は人間が自制心を失って我慾に征服されたです、従って、この蒸気船に乗って世界を行く国人が海賊となりました、海賊とならざるを得ないです。たとえ未開野蛮の地というとも、先住民のいない国土はない、新入者と先住民との争いが当然起ります、先住者のないところには、新入者同士の争いが起ります。石炭が大きな船を動かさなければ、なかなかそういうことは起らなかったです。いまに、ごらんなさい、世界中がみな海賊の争いになりますよ、鉄と石炭を多量に持っている国家が、海賊の親方になります、そうすると、それを羨うらやむ他の国家が、割前を欲しがって、その海賊の大将を亡ぼそうとします、そこで、海賊の大将へ総がかりという大戦争が起りますから、見ていてごらんなさい、鉄と石炭が欧羅巴を進歩せしめたというのは、近眼の見ている虹です、やがて、これがために亡びますよ、いったい、土地に埋蔵してある天与の物質を掘り出して、それを人間同士殺戮さつりくの道具に造るなんていうことが、罰が当らないで済むものですか、やがて、欧羅巴がいい見せしめです、東洋の方々よ、東洋は欧羅巴に比べると、遥かに偉大なる宗教、深遠なる哲学を持っています、この産物は、鉄と石炭の産物とは比較にならない、東洋人はその偉大なる宗教と哲学に従って行けば、安全なのです、決して、鉄と石炭の文明に眩惑されてはなりませんよ」 こう言われて、駒井甚三郎は、何か自分の弱味に籠手こてを当てられたように感じました。この立論が偏窟であるないにかかわらず、ただ何かしら、自分の弱点を突かれでもしたように感じました。椰子林の巻 五十三 こういう頭から出て、とどまると言い、出ると言う以上は、力を以て引留めることの限りではないと、駒井甚三郎もややにさとりました。 そうして、暫く沈黙して考えさせられざるを得ないものがありましたが、「君が欧羅巴文明を否定するのは、君一個の意見として聞いて置き、拙者もいずれ考えてみたいと思いますが、東洋に、より優れたる偉大なる宗教があり、深遠なる哲学があるというのは、それは買いかぶりではないか、ドコの国も同じように似たり寄ったりなもので、人間というやつは、みんな、眼前だけを標準としてしか行動ができない動物なんじゃないか、世界の人類一様に、みんな、やがて消ゆべき虹を見て騒いでいるんじゃないかな」「そうでないです、西洋の人は虹をだけしか見ることができないです、たまにそれ以上を見る人は、ただ、虹は何で出来ている、虹は水蒸気である、七色は光線の分解であるというだけを見るのが頂上です、ところが東洋人は、水蒸気を見ない、七色を見ないで、空くうを見ます、空というのは虚無ではないです、つまり、色しきを見ないで空くうを見るです、西洋人には、色を見ることだけしかできないで、空を見ることができません」 ここに至ると駒井甚三郎は、もはや、自分の領分外だということをさとりました。もはや自分の力では、こなしきれないということを自覚せざるを得ませんでした。 そこで、また暫く沈黙の後、次のように言いました、「考えさせられます、トモカク、我々の方で、君を引留める何物の力もないということがわかり出したようです、この上は、君の自由の行動と、意志の行動に干渉すべき限りではない。では、一日、我々の新開墾地に客に来て見て下さらぬか、我々が食人種でないことがおわかりならば、一日の来訪は危険を伴わないし、また君の将来の行動のさまたげとなるべきはずもないから、新入者が先住民に敬意を表わすの機会と、先住民が新入者を迎うるの機会と、それから新入者が先住者を送るの礼と、その三つの機会を同時に、我々の新開地で作ってみることは許されないか」「そういうわけならば、一日の暇を作りましょう、明日にも、あなたの植民地へ行きましょう」「それは有難いです――では」 駒井甚三郎は、明日の約束を以て、この場の会見と会話とを打切りました。順路をよくこの異人氏に教えて、自分はもと来し路へ引返します。出立の時は、今日は、もう一足でも先へ前進してみるつもりでしたが、ここで会見の時を過ごしてみると、もう進む気が起りませんでした。 来た路を引返しながら駒井甚三郎が思う様、この孤島へ来て、さかさまに、白い異人から東洋哲学を聞かせられようとは思わなかった、ドコの国、いずれの時代にも、その時代を厭いとう人間はあるものだ、称して厭世家という。そういうことは、いずれの時代にもあるが、いつも世間には通用しない。当人も無論、通用されないことを本望とする。世間の滔々とうとうたる潮流から見れば、一種例外の変人たるに過ぎない。一人や二人そういう変人が出たからとて、天下の大勢をどうすることもできるものではない。また当人も、一人や二人で天下の大勢をどうしようの、こうしようのと考えているのではないから、別段、問題にするには当らないが、どうかすると、そういう変人の中に、驚くべき予言が語られたり、達観が行われたりするもので、あらかじめ、そういう声を聞くと聞かないでは、国の興亡が定まることさえあるものだ。言う者に罪なし、聞く者以て警いましむるに足る。 だが、それはそれとして、こんなところで、こんな人種から、東洋哲学を聞かせられて、これに充分の応答ができない、まして、逆に彼等にこれを説き教える素養を欠いている己おのれというものを、駒井甚三郎が反省せざるを得ませんでした。 日本に於ては、おこがましいが、自分は当時での最新知識であり、有数の学者と我も人も許していたのだ。それが、ややもすれば金椎キンツイに虚を突かれたり――孤島の哲学者に逆説法を食ったりするのは、事が自分の研究の職域以外としても、光栄ある無識ではないのである。自分の究きわめているのは、今の哲学者の見るところによると、欧羅巴文明の糟粕そうはくかも知れない。かの糟粕を究めつつ、自家の醍醐味だいごみも知らないということになると、いい笑い物だ。 学問、研究、知識は、いよいよ広く、いよいよ大きい、この海洋のようなものだ、というような反省が駒井の心に波立ちました。椰子林の巻 五十四 その翌日、約束の通り、異人氏は駒井の植民地へやって来ました。これを迎えた駒井は、一応植民地を見せた上で、己れの舎宅へ案内して、ここで、椅子をすすめて相対坐しての会談です。この時に異人氏は次のように言いました、「駒井さん、あなたの理想はよくわかります、地上に理想郷を作ろうという企ては、今に始まったことではないです、昔からよくあることです、欧羅巴では、哲学者プラトーなども、その理想の先達せんだつの一人です、実行はしませんでしたけれど、プラトーは、その理想を持っていました、最近では、ロバート・オーエンという人が、それを実行しました、あなたと同じように同志を集めて、全く新しい一つの社会を作りました。プラトー氏は、ただ理想家だけでしたが、ロバート・オーエンは、徹底的に実行しました」「そういう人が、最近、西洋にありましたか」「ありました、ロバート・オーエンは、英吉利イギリスのウエールという所の山の中に生れた人です、子供の時は呉服屋の小僧などをして、それから成功して大きな紡績工場を持つようになりました、幼少から艱難かんなんをして、世の中を見たりして、どうしてもこれではいけない、ひとつ、模範の世界を作ってみるといって、自分の大工場を中心にして立派な模範の村を作り、一時、非常な評判になって、見に行く人が多くありましたが、上流の人、資本家の人が、オーエンの理想を好みませぬ、せっかくの理想が妨げられる、そこで、オーエンは、これは上流社会や資本家を相手にしていては駄目だ、働く人だけで自由な社会を作らなければならぬと言って、それには周囲のうるさい土地ではいけない、新しい天地で、さしさわりなく腕の揮ふるえるところでなければいけないといって、イギリスの自分の土地や工場を、すっかり売払って、アメリカへ渡りました、アメリカの、インデアナ州というところへ土地を買い、思いきって理想の社会を作ってみましたが、失敗してしまいました」「もう少しくわしく、その人のことを話してみて下さい」「いや、話せば長くなるです、およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって、失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も、事業も、その轍てつを踏むにきまっています、失敗しますよ」 異人氏は、駒井の事業慾に対して、三斗の冷水を注ぐようなことを言いました。せっかくのことに成功を祈るとは言わず、失敗が当然だということを言いました。聞きようによれば、不吉千万の言い分でありますけれど、駒井は深く気にかけません。「失敗とか、成功とかいうことは、ただ仕事の成績だけ見て言うことじゃありませんよ、成功と信じても、ねっからツマらないこともあり、失敗だ、失敗だと言われることが、かえって大きな時代の推進力をつとめることもあるものだ、今のそのオーエンという人が、どういう失敗に終ったか知らないが、そういう勇気と実行力を持ち得る人は、尊敬すべきものだ、信ずることを、ドコまでもやってみようという勇気を私は取ります。オーエンは失敗したけれども、イギリスからアメリカに渡って、このアメリカの土台を築き上げた人は失敗ではないだろう、成敗を以て事を論ずるのは末だ」「そうです、何が成功で、何が失敗かということは、見る人の批判だけではわかりません」 異人氏は、深く議論をする気はなく、その辺で辞退しましたから、駒井甚三郎も、それを送って外へ出ました。 過ぐる夜に、月影を踏んで歩いた砂浜のあたりを、異人氏を送りながら歩いて行く駒井甚三郎は、異人氏が、どうしてもこの島を立退かなければならないならば、古舟を修理なさらずとも、こちらのバッテイラを貸して上げようと言いますと、異人氏は、それを辞退して、それには及びません、舟は手慣れたのがよろしい、いかに小舟で大洋へ乗り出しても、決して覆ることはないものだ、舟には心配はない、心配がありとすれば、食糧と気候の変化だけのものだが、それは天に任せるより仕方がない、というようなことを言う。 異人氏を程よきところまで見送ってから、駒井甚三郎は、また海岸を戻りながら、いろいろと考えさせられました。 事実に於ては、自分たちが来たために、あの異人氏を追い出したことになるのだが、異人氏は追い出されると思ってはいない。新人来きたれば旧人去るのは当然の理法だと考えている。またそれが自分の自由だと考えている。こちらは気の毒千万とも思うけれども、先方は現在の旅から次の旅に移るとしか考えていない。満足から満足に向ってあさり進むとしか考えていないようだ。 のみならず、去り行く己おのれの影を哀かなしまずして、盛んなる我等の新植民をむしろ哀れなりとしている。斯様かような事業は必ず失敗なりと断言して憚はばからないところも、また一見識だと思いました。 その一例として挙げてくれた、何といったかな、イギリスの、ロバート・オーエンと言ったかな、そういう人間の最近の失敗を述べたようだったが、くわしいことは聞きもらしたが、では、これからひとつそのオーエンなるものの伝記を研究してみよう。失敗とか、成功とかは論ぜず、トニカク空想を実行に移して、百折屈せざるの先例を見出すことは愉快と言わねばならぬ。イギリスという国が大きくなるのも、そういう人間を持ち得られるからだろうなどと、駒井がその時に考えました。

縦書き文庫5月読者読込ページ数

-作品名作者pp*1大菩薩峠中里介山90172ダブリンの人たちJ. ジョイス12093地獄変芥川龍之介9554君主論マキャヴェリ6395方法序説R. デカルト6056坊っちゃん夏目漱石5827自転車たび北米欧州北アフリカ香港台湾園内一佳4458人間失格太宰治4109こころ夏目漱石37710山月記中島敦33111春琴抄谷崎潤一郎287as of 20220531 *読者の読込みページ数

「大菩薩峠」を読み直す(6)

小説の最直前、山科やましなの巻で、なぜ作者は神尾主膳をして勝かつ小吉こきち(1802-1850)の「夢酔*独言」を延々引用して読ませたのか。主膳のモデルの原型にでもなっているのだろうか。駒井と小栗忠順、神尾と勝麟太郎の対立関係を比較してみるのも興味深い。 *勝小吉の号 山科の巻 六十一 神尾主膳は相変らず、勝麟太郎かつりんたろうの父、夢酔道人の「夢酔独言」に読み耽ふけっている。 神尾をして、かくも一人の自叙伝に読み耽らしむる所以ゆえんのものは、かりに理由を挙げてみると、人間、自分で自分のことを書くというものは、容易に似て容易でない。第一、人間というやつは、自分で自分を知り過ぎるか、そうでなければ、知らな過ぎるものである。自分で自分を知り過ぎる奴は、自分を法外に軽蔑したり、そうでなければ自暴やけに安売りをする。自分で自分を知らな過ぎる奴は、また途方もなく自分を買いかぶるか、そうでなければ鼻持ちもならないほど、自分を修飾したがる。 よく世間には、偽らずに自分を写した、なんぞというけれど、眼の深い奴から篤とくと見定められた日には、みんなこの四つのほかを出でない――極度に自分を買いかぶっている奴と、無茶に自分を軽蔑したがる奴、それから自暴に自分の安売りをする奴と、イヤに自分をおめかしをする奴――自分で自分をうつすと、たいていはこの四つのいずれにか属するか、或いは四つのものがそれぞれ混入した悪臭のないという奴はないのが、このおやじに限って、どうやらこの四つを踏み越えているのが乙だ。あえて自分をエラがるわけでもないし、さりとて乞食にまで落ちても、落ち過ぎたとも思っていないようだ。自分を軽蔑しながら、軽蔑していない。おめかしをして見せるなんぞという気は、まず微塵もないと言ってよかろう。 神尾のような人間から見ると、自分が、あらゆる不良のかたまりでありながら、人のアラには至って敏感な感覚にひっかかると、及第する奴はまず一人もない。大物ぶる奴、殿様ぶる奴、忠義ぶる奴、君子ぶる奴、志士ぶる奴、江戸っ子がる奴、通人めかす奴……神尾にあっては一たまりもない。新井白石の折焚柴おりたくしばを読ませても、藤田東湖の常陸帯ひたちおびを読ませても、神尾にとっては一笑の料しろでしかあるに過ぎないけれど、夢酔道人の「夢酔独言」ばっかりは、こいつ話せる! いずれにしても、神尾をして夢中に読み進ましめるだけの内容を備えていることは事実で、そうして読み進む文面を、順を逐おって複写してみると、あれからの勝のおやじの自叙伝が次のようになっている。「ソレカラ、ダンダン行ッテ、大井川ガ九十六文川ニナッタカラ、問屋ヘ寄ッテ、水戸ノ急ギノ御用ダカラ、早ク通セト云ッタラ、早々人足ガ出テ、大切ダ、播磨様ダトヌカシテ、一人前払ッテオレハ蓮台れんだいデ越シ、荷物ハ人足ガ越シタガ、水上ニ四人並ンデ、水ヲヨケテ通シタガ、心持ガヨカッタ」 勝麟太郎の親父――小吉ともいえば、左衛門太郎ともいう馬鹿者が、子供の時分から、箸はしにも棒にもかからない代物しろもので、喧嘩をする、道楽をする、出奔をする、勘当を受ける、それもこれも、一度や二度のことではない。そのたわけ物語の書出しに、「オレホドノ馬鹿ナ者ハ世ノ中ニモアンマリ有ルマイト思ウ故ゆえニ、孫ヤ彦ノタメニ話シテ聞カセルガ、ヨク不法モノ、馬鹿モノノイマシメニ話シテ聞カセルガイイゼ」と言っている通り、馬鹿も度外れの馬鹿になっている。しかし家は剣道で名うての男谷おたにの家、兄は日本一の男谷下総守信友であって、それに追従する腕を持っていたのだから、始末が悪い。 最初の出奔は十四の時。乞食同様ではない、乞食そのものになりきって、海道筋をほうつき歩き、やっと江戸のわが家へのたりついたが、十九の年にまたぞろ出奔して、今度は前と違い、「オレガ思ウニハ、コレカラハ、日本国ヲ歩イテ、何ゾアッタラ切死ヲシヨウト覚悟デ出タカラ、何モコワイコトハ無カッタ」と、剣術道具を荷にない、腹を据すえて出て来て、宿役人を愚弄ぐろうする、お関所を狼狽ろうばいさせる、大手を振って東海道をのして来て、水戸の播磨守の家来だと言って、大井川にかかるところまで読んで来たので、これからがその読みつぎになるのです。「ソレカラ遠州ノ掛川ノ宿ヘ行ッタガ、昔、帯刀たてわきヲ世話ヲシタコトヲ思イ出シタカラ、問屋ヘ行ッテ、雨ノ森ノ神主中村斎宮いつきマデ、水戸ノ御祈願ノコトデ行クカラ駕籠かごヲ出セトイウト、直グニ駕籠ヲ出シテクレタカラ、乗ッテ、森ノ町トイウ秋葉街道ノ宿ヘ行ッタ、宿デ駕籠人足ニ聞イタラ、旦那ハ水戸ノ御使デ、中村様ヘ行カシャルト言ッタラ、一人カケ出シテ行キオッタガ、程ナク中村親子ガ迎エニ来タカラ、オレガ駕籠カラ顔ヲ出シタラ、帯刀ガキモヲツブシテ、ドウシテ来タト云イオルカラ、ウチヘ行ッテ委くわシク咄はなソウトテ、帯刀ノ座敷ヘ通リテ、斎宮いつきヘモ逢ッタガ、江戸ニテ帯刀ガ世話ニナッタコトヲ厚ク礼ヲ云イオル、ソレカラ江戸ノ様子ヲ話シテ、思イ出シタカラ逢イニ来タト云ッタラ、親子ガ悦よろこンデ、マズマズ悠々ト逗留シロトテ、座敷ヲ一間明ケテ、不自由ナク世話ヲシテクレタカラ、近所ノ剣術遣イヘ遣イニ行クヤラ、イロイロ好キナコトヲシテ遊ンデ居タガ、ソノウチ、弟子ガ四五人出来テ、毎日毎日、ケイコヲシテイタガ、所詮ココニ長ク居テモツマラヌ故ゆえ、上方ヘ行コウト思ッタラ、長州萩ノ藩中ノ城一家馬トイウ修行者ガ来タカラ、試合ヲシテ、家馬ガ諸所歩イタトコロヲ書キ記シテイルウチ、家馬ガ不快デ六七日逗留ヲシタイトイウカラ、泊ッテイルウチハ立タレズ、イロイロト支度ヲシタラ、斎宮ハアル晩、色々異見ヲ云ッテクレテ、江戸ヘ帰レトイウカラ、最早決シテ江戸ヘハ帰ラレズ、此処ここデ二度マデウチヲ出タ故、ソレハ忝かたじけなイガ聞カレヌト云ッタラ、ソンナラ、今暑イ盛リダカラ七月末マデ居ロトイウ故、世話ニモナッタカラ、振リ切ラレモ出来ヌカラ、向ウノ云ウ通リニシタラ、悦ンデナオナオ親切ニシテクレタ、毎日毎日、外村ノ若者ガ来テ、稽古ヲシテ、ソノ後デ、方々ヘ呼バレテ行ッタガ、着物ハ出来、金モ少シハ出来テ、日々入用ノモノハ、通帳かよいちょうガ弟子ヨリヨコシテアルカラ、只ただ買ッテ遣ウシ、困ルコトモナク、ソコヨリ七里脇ニ向坂トイウ所ニ、サキ坂浅二郎トイウガイルガ、江戸車坂井上伝兵衛ノ門人故、江戸ニテ稽古ヲシテヤッタモノ故、ソコヘ度々たびたび行ッテ泊ッタガ、所ノ代官故ニ工面モイイカラ、オレガコトハイロイロシテクレ、ソレ故ニウカウカトシテ七月三日迄、帯刀ノウチニ逗留シテイタガ、アル日江戸ヨリ石川瀬兵衛ガ、吉田ヘ来ル序ついでニ、今日ココヘヨルトイウカラ、座敷ノソウジヲシテイタラ、オレガ甥おいノ新太郎ガ迎イニ来オッタカラ、ソレカラ仕方無シニ逢ッタラ、オマエノ迎エニ外ノ者ヲヤッタラ、切リチラシテ帰ルマイト、相談ノ上、ワタシガ来タカラ、是非共、江戸ヘ帰ルニシタ」 ここのところ、「帰るにした」と切ったところ、文章が少し変だと神尾も感じたが、文章字句の変なのは、ここにはじまったのではない。別段、文章家の文章というわけではないから神尾も深く気にしないで、いよいよ先生、また江戸へ逆戻りかな、しかしまあ旅先では、よくこんな馬鹿を人が相手にして、ちやほやともてなしたものだ、田舎いなかは人気がいいと、神尾がうすら笑いをしながらも、馬鹿とは言いながら、腕は持つべきものだ、本場で本当に鍛えた腕前があればこそ、田舎廻りは牛刀で鶏の気構えで歩ける、この点、江戸ッ子は江戸ッ子だ、そうなくてはならぬと、更に読みつづけて行く。「翌日、斎宮いつきヲ立ッテ、段々帰ルウチ、三島ノ宿しゅくデ甥ガ気絶シテ大騒ギヲヤッタガ、気ガツイテ、ソレカラ通シ駕籠デ江戸ヘ帰ッタガ、親父モ、兄モ、ナンニモ云ワヌ故、少シ安心シテウチヘ行ッタ、翌日、兄ガ呼ビニヨコシタカラ行ッタラ、イロイロ馳走ヲシタ、夕方、親父ガ隠宅カラ呼ビニ来タカラ行ッタラ、親父ガ云ウニハ、オノレハ度々不埒ふらちガアルカラ、先ズ当分ハヒッソクシテ、始終ノ身ノ思案ヲシロ、所詮、直グニハ了簡ガツクモノデハナイカラ、一両年考エテ身ノ納マリヲスルガイイ、トカク、人ハ学問ガナクテハナラヌカラ、ヨク本デモ見ルガイイト云ウカラウチヘ帰ッタラ、座敷ヘ三畳ノ檻おりヲコシラエテ置イテ、オレヲブチ込ンダ」 ざまあ見ろ! と神尾が案つくえを打ちました。とうとう檻へブチこまれやがった、狂犬同様のやつだから是非もないが、三畳ではかわいそうだと、神尾主膳が小吉の身の上を笑止がって読みつづける。「ソレカラ色々工夫ヲシテ、一月モタタヌウチ、檻ノ柱ヲ二本抜ケルヨウニシテ置イタガ、ヨクヨク考エタトコロガ、皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタカラ、檻ノ中デ手習ヲハジメテ、ソレカライロイロ軍書本モ毎日見タ、友達ガ尋ネテ来ルカラ、檻ノソバヘ呼ンデ、世間ノコトヲ聞イテ頼たのシンデ居タラ、二十一ノ秋カラ二十四ノ冬マデ檻ノ中ヘ入ッテイタガ、苦シカッタ」 野郎とうとう監獄だ。三畳の檻も広くはないが、二十一から二十四までも短くない、苦しかったはずだ。おれもかなりしたい三昧ざんまいはしたが、まだ檻へブチ込まれた経験はない。でも、この野郎、ドコまでものんき千万に出来上っている。皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタ……も出来がいい。オレガ悪くないところがどこにある。二十一づらを下げて三畳の檻の中で手習ヲハジメたとはこれだけは感心だ。この神尾も、この歳になってはじめて手習をはじめている――友達がたずねて来たのを、熊の子じゃあるまいし、檻の内と外で、世間話を聞いて頼シンデいたがイイ。この場合楽しんでと書くより、頼シンデと書いた方が気分が出ている。それにしても、二十一から四までの三畳生活、身から出た錆さびとは言いながら、よく辛抱したものだ、おれにはそんな辛抱はできない、と神尾が思いました。「ソノウチ、親父ヨリ度々書取リニシテ、イケンヲ云ッテクレタ、ソノ時、隠居ヲシテ、息子ガ三ツニナルカラ家督ヲヤリタイトイッタラ、ソレハ悪イ了簡りょうけんダ……」 悪イ了簡ではない、図々しいというものだ、と神尾が呆あきれました。檻へブチこまれたとはいえ、乱心しているわけでもなし、身体不具というわけでもない。二十四の盛りで、三ツの悴せがれに家督を譲りたい、それは悪い了簡以上の図々しさだと、主膳が呆れて次を読むと、「コレマデイロイロノ不埒ガアッタカラ、一度ハ御奉公デモシテ世間ノ人口ヲモ塞ギ、養家ヘモ孝養ヲモシテ、ソノ上ニテ好キニシロト、親父ガ云ッテヨコシタカラ、尤もっとモノコトダト初メテ気ガ附イタ故……」 それ見ろ、それは親父の言うことがあたりまえの看板だ。それを今更になって、初めて尤ものことと気がついたもないものだ。「出勤ガシタイト兄ヘ云ッタラ、手前ガ手段デ、勤道具、衣服モ出来ルナラ、勝手ニシロ、オレハ、イカイコト手前ニハイリ上ゲタ故、今度ハ構ワヌトイッタ故、ソノ時ハオレガホホノ下ニハレ物ガ出テイテ寝テ居タガ、少シモ苦労ヲカケマイトイウ書附ヲ出シテ、檻ヲ出デ――」 出たな! なんとかかとか言って出してもらったな、これからがまた思いやられるよ――と神尾は苦笑をつづけつつ読む。「翌日、拝領屋敷ヘ行ッテ、家主ヘ談ジテ金子きんす二十両借リ出シテイロイロ入用ノモノヲ残ラズ拵こしらエテ、十日目ニ出勤シタ。ソレカラ毎日毎日、上下かみしもヲ着テ、諸所ノケンカヲ頼ンデ歩イタガ、ソノ時、頭かしらガ大久保上野介ト云イシガ、赤阪喰違外くいちがいそとダガ、毎日毎日行ツテ御番入リヲセメタ、ソレカラ、以前ヨリイヨイヨ悪イコトヲシタコトヲ残ラズ書取ッテ、只今ハ改心シタカラ見出シテクレロト云ッタラ、取扱ガ来テ、御支配ヨリオンミツヲ以テ、世間ヲ聞糺ききただスカラ、ソノ心得ニテ居ロトイウカラ、待ッテ居タラ、頭ガ、或時云ウニハ、配下ノ者ハイツモ隠スガ、御自分ハ残ラズ行路ヲ申聞ケタ故、諸所聞キ合ワセタ所ガ、云ワレタヨリハ事大キイ、シカシ改心シテ満足ダ、是非見立テヤルベシ、精勤シロトイウカラ、出精シテ、アイニハ稽古ヲシテイタガ、度々書上かきあげニモナッタガ、トカク心願ガ出来ヌカラクヤシカッタ――」 まあ、とにかく、この辺で納まれば見つけたものだ、箸はしにも棒にもかからぬ代物しろものだが、人間にはまだ見どころがある、この神尾のように腹まで腐りきってはいないところがあると、主膳も身に引きくらべてややさとるところがありました。山科の巻 六十二 ここで勝の小吉が親父と言ったのは、実家男谷おたにの父親のことで、平蔵と言い、兄というのは即ち下総守信友で、当時府下第一の剣客なので、その男谷平蔵の三男として生れた小吉が、勝家へ養子にやられたこの自叙伝の主人公、左衛門太郎夢酔入道であることは、神尾主膳も先刻承知の上で読み進んでいるのです。さすがのやくざ者も、この時代から漸ようやく目がさめて、人間並みになりかかったらしいことを、読みながら、神尾主膳は相当くすぐったがっている。さてまた自叙伝の読みつぎ――「コノ年、親父ヤ兄ニ云イ立テテ、外宅ヲシテ割下水わりげすい天野右京トイッタ人ノ地面ヲ借リテ、今迄ノ家ヲ引イタガ、ソノ時、居所ニ困ッタカラ、天野ノ二階ヲ借リテイタウチニ、俄にわかニ右京ガ大病ニテ死ンダ故、イロイロト世話ヲシタガ、ソノウチ普請モ出来、新宅ヘ移リ居ルト、右京方ニテハ跡取ガ二歳故、本家ノ天野岩蔵トイウ仁ガ、久来ノ意趣ニテ、家督願ノ時六むツカシク云イ出シテ、右京ノ家ヲツブサントシタカラ、イロイロ揉もメテ片附カズ、ソノ時、オレガ本家トハ心安イカライロイロナダメ、トウトウ家督ニサセタ故、天野ノ親類ガ悦よろこンデ、猶々なおなおアトノコトヲ頼ミオッタカラ、世話ヲシテイルウチ、右京ノオフクロガ不行跡デ、ヤタラニ男グルイヲシテ、フダンソウドウシテ困ルカラ、セッカク普請ヲシタガ、ソノ家ヲ売ッテ外ヘ越ソウト思ッテ、右京ノ子金次郎ガ頭向キヘ云イ出シタラ、ソノ取扱ガ云ウニハ、今オ前ニ行カレルト、アトハ乱脈ニナルカラ、一両年居テクレロト云ウカラ居タガ、人ノコトハ修メテモ、オレガ内ガ修マラヌカラ困ッテイタラ、或老人ガ教エテクレタガ、世ノ中ハ恩ヲ怨あだデ返スガ世間人ノ習イダガ、オマエハコレカラ怨ヲ恩デ返シテミロト云ッタカラ、ソノ通リニシタラ追々内モ治マッテ、ヤカマシイババア殿モ、段々オレヲヨクシテクレタシ、世間ノ人モ用イテクレルカラ、ソレカラ、人ノ出来ヌ六ツカシイ相談事、カケ合イソノ外何事ニ限ラズ、手前ノ事ノヨウニ思ッテシタガ、シマイニハ、オレニ刃向ッタヤツラガ、段々シタガッテ来テ、ハイハイト云イ居ル、コレモカノ老人ガ賜物トシ嬉シク……」 ここまで来ると神尾は少し耳――ではない、眼が痛い。勝のおやじの馬鹿め、この辺で、そろそろ一転機を劃し出したな、重大な転向ぶりを示して来たようだ、おれは幾つになっても、その転換ができない――笑止千万と三ツ眼をひらめかす。さて、転向の角度から見ると、やくざ者の自叙伝が、どうやら修身書の第一巻のような気分が漂いはじめたので、神尾の三ツ眼が少々まぶしくなるのもぜひがないらしい。「同流ノ剣術遣イガ、不埒又ハツカイ込ミシテ途方ニ暮レテイル者ハ、ソレゾレ少シズツ金ヲ持タセテ諸方ヘ遣ワシ、身ノ安全ヲシテヤッタコト幾人カ数モ知レズ、ソノ後オレガ諸国ヘ行ッタ時、イカイコトトクニナッタ事ガアル、歩イタトコロデ、オレガ名ヲ知ッテイテ世話ヲシタッケ」 まあ、ともかく、自分が人に苦労をかけただけに、人のために一肌ぬぐことも鼻にかからない俗に侠気おとこぎというやつで、これが妙に人気を取返し、期せずして恩返しというやつにありつくものだ。この点は、おれも相当、人のために――といっても、いずれも人間並みの奴ではない、やくざ共の間のことだが、それでも相当に今日まで身銭みぜにを切っているから、今日のたれ死もしないで、トモカクこうして永らえてもいられる、ということを神尾主膳も、身につまされて、どうやら、自分もいっぱしの苦労人のような気分になりつつ読む。「天野ガ地面ニイルウチモ、トカク地主ノ後家ガコトデ、六ツカシイコトバカリ云ッテ困ッタカラ、三年メニ同町ノ山口鉄五郎ガ地面ヘ家作ガ有ルカラ引越シタガ、コノ鉄五郎ガ惣領ハ元ヨリ心易こころやすカッタガ、イロイロウチヲカブッタ時ニ世話ヲ焼イテヤッタ故、ソノバア様ガゼヒ地面ヘ来イトイウカラ行ッタ、コノ年勤メノ外ニハ諸道具ノ売買ヲシテ内職ニシタガ、初メハ損バカリシテ居ルウチ、段々慣レテ来テ金ヲ取ッタ、ハジメハ一月半バカリノウチニ五六十両損ヲシタガ、毎晩毎晩、道具屋ノ市ニ出タカラ、随分トクガ附イタ、何シロ、早ク御勤入リヲシヨウト思ッタ故、方々カセイデ歩イテイタウチニ――」 神尾がニタリと笑って、天野の後家という奴が曲者だな、若後家になって、男ぐるいをはじめて、相当小吉をてこずらしたように書いてあるが、小吉の奴も相当のイカモノのくせに、こいつをこなせなかったというのはないもんだ、だが相性が違ったんだろう。ところで、今度は近所のばばア様から来いと言われて、そっちへ引越したのは、後家であったり、ばばア様であったりするが、妙に女臭い。そのうちに道具屋をはじめたのは勘所かんどころだ。人間、遊び出してきて面かおが広くなると、ばったり行きつまるのは水の手だ。その手で、この神尾もどのくらい苦労したことか。男になるには金がいる、金のなる木を持っていない限り、ちっとやそっとの知行と財産があったからとて、続くものではない。その点は自給自足の道が立たない限り、伊達者だてしゃは通らぬ。おれもその手で苦しんだ、だが、道具屋をはじめようとは思わなかった。ところが、こいつは手軽に道具屋をおっぱじめて、くろうとはだしの取引を平気でやり出すだけの身軽さがある、この辺が小身しょうしんに生れた利益だ。道具屋とはうまいことを考えたが、つまり骨董屋こっとうやなんだろう、掘出し物では相当まとまった金も儲もうけられない限りはない。最初のうち損をしたというのも、そうありそうなこと、ようやく本職になって収入が出て来たとは憎い、おれも早くその辺に気がついて道具屋になればよかったな。先祖から伝来のものだけでも売食いしても相当のものはあったが、商売気がないから、みんな質流れか、或いは二束三文。あれをもとに道具屋開業――なぜあの時それだけの知恵が出なかったか。トニカク勝のおやじめ、商売の筋を覚えたとなると、もう占めたものだ。が、商売というやつは儲かることばかりあるんじゃない、いつまでこの手で兵糧がつづくかな。待てよ、そこで、商売どころではない、あいつの身に重大な不幸が起ったらしいぞ。「男谷ノ親父ガ死ンダカラ、ガッカリトシテ、何モイヤニナッタ」 親父が死んだそうな。死んだ親父もこいつのためにはどのくらい苦労をしたか、死んで、悴せがれの方ではガッカリシタの一句で片づけているが、相当に無常を感じたことは、何モイヤニナッタの自暴やけ半分の言葉つきでもわかる。何の病気で、どうして親父が急死したか。「シカモ卒中風トカデ一日ノウチニ死ンダカラ、ソノ時ハオレハ真崎イナリヘ出稽古ヲシテヤリニ行ッテイタカラ、ウチノ小侍ガ迎イニ来タカラ、一散ニカケテ親父ノトコロヘ行ッタガ、最早コトガ切レタ、ソレカライロイロ世話ヲシテ翌日帰ッタ、毎日ソノ事ニカカッテ居タ、息子ガ五ツノ時ダ、ソレカラ忌命ガ明イタカラ又々カセイダ」 親父の死んだ時、自分の倅が五歳になっていた。この五歳になっていた倅が、今時評判になっている勝麟かつりんなのだ。さ、いつごろ安房守あわのかみに叙爵したっけかな――トニカク、鳶とびが鷹たかを産んだのか、いや、この親にしてこの子ありか、人間の万事はわからぬものだ、と神尾が思いました。山科の巻 六十三 さあ、今までの不良が、多少とも改心をして、これから面かおが少し広くなり出すと、感心に道具屋を始めてアウタルキーを志したのはいいが、士族の道具屋が、いつまで続くものかなあ――と神尾が甘酸あまずっぱい面をしながら読んで行く。「コノ年十月、本所猿江ニ、摩利支天まりしてんノ神主ニ吉田兵庫トイウ者ガアッタガ、友達ガ大勢コノ弟子ニナッテ神道ヲシタ、オレニモ弟子ニナレトイウカラ、行ッテ心易こころやすクナッタラ、兵庫ガイウニハ、勝様ハ世間ヲ広クナサルカラ、私ノ社やしろヘ、亥いノ日講ひこうトイウノヲ拵こしらエテ下サイマセ、ト頼ンダカラ、一カ月三文三合ノ加入ヲスル人ヲ拵エタガ、剣術遣イハイウニ及バズ、町人百姓マデ入レタラ、二三カ月ノ中ニ、尚五六十人バカリ出来タカラ、名前ヲ持ッテ、兵庫ニヤッタラ、悦ンデ受取ッタ、ソレカラ一年半カカッタラ、五六百人ニナッタ、全クオレガ御陰ダカラ当年ハ十月亥ノ日ニ、神前ニテ十二座ノ跡デ踊リヲ催シテ神イサメヲシタイトテ頼ムカラ、先まズ講中ノ世話人ヲ三十八人拵エタ、諸所ヘ触レテ、当日参詣ヲシテクレロト云ッテヤリ、ソノ日ニハ皆々見聞ノタメダカラ、世話人ハ残ラズ、御紋服ヲ着テクレロトイウカラ、ソノ通リニシテヤッタラ、兵庫ハ装束ヲ着テ居タ、段々参詣モ多ク、初メテコノヨウナ賑にぎヤカナコトハナイトテ、前町ヘハイロイロ商人ガ出テ居タ、ソレカラ講中ガ段々来ルト、酒肴デ、アトデ膳ヲ出シテ振舞ッテ居ルト、兵庫メガ、イツカ酒ニ酔ッテ居オッテ、西久保デ百万石モ持ッタツモリヲシ、オレガ友達ノ宮川鉄次郎ト云ウニ、太平楽ヲヌカシテコキ遣ウ故、オレガオコッテ、ヤカマシク云ッタラ不法ノ挨拶ヲシオル故、中途デオレガ友達ヲ皆ンナ連レテ帰ッタ、ソウスルト多クノ者ガツカイヲ云ッテアヤマルカラ、オレガ云ウニハ、ヒッキョウハコノ講中ハ、オレガ骨折故出来タヲ有難クハ思ワナイデ、太平楽ヲヌカスハ物ヲ知ラヌ奴ダカラ、講中ヲバ抜ケルカラ、ソウ云ッテクレロト云ウタラ、大頭伊兵衛、橋本庄兵衛、最上幾五郎トイウ友達ガ、尤もっとモダガ、セッカク出来タノニオ前ガ断ワルト、皆々断ワル故ゆえ、兵庫今更後悔シテアヤマルカラ、許シテヤレト種々イウカラ、ソンナラ以来ハ御旗本様ヘ対シ、慮外致スマイト云ウ書附ヲ出セトイッタラ、ドノ様ニモサセルカラト云ウ故、宮川並ビニ深津金次郎トイウ者ト一所ニ兵庫ノトコロヘ行ッタ、ソウスルト、大頭伊兵衛ガ道マデ来テ云ウニハ、オマエガオ入リニハ、兵庫ハカリ衣ぎぬヲ着テ門マデオ迎エニ出ル、ソレカラ座敷ヘ出ロ、昨日ノ不調法ヲワビサセルカラ挨拶ヲシテヤレト云ウカラ、聞届ケタトイエ、ソレカラハ講中ガ残ラズ出テ馳走ヲスルカラ、アトデハ決シテ右ノ咄はなしハシテクレルナトイウカラ、オレガ云ウニハ、残ラズ承知シタガ、外ノ者ヘヨクヨク口留メヲシナサイ、モシモ昨日ノ咄ヲシタヤツガ有ルソノ時ハ、世話人ガウソツキニナルカラ、片ハシヨリ切ッテ仕舞ウツモリデ来タカラ、ヨク云イ聞カシテ置キナサルガイイトテ、イジョウヲコメテ帰シタ、間モナク兵庫ガ宅ヘ行ッタラ、同人ガ迎エニ出ルシ、世話人モ残ラズ玄関マデ出タガ、座敷ノ正面ヘ通ッタラ、刀カケニオレガ刀ヲカケテ、皆々座ニツイタ、兵庫モ出テ、オレニ昨日ハ酒興ノ上無礼ノ段々恐レ入ッタリ、以来慎シミ申スベキ由、平伏シテ云イオルカラ、オレガイウニハ、足下ハ裏店神主うらだなかんぬしナル故、何事モ知ラヌト見エル、御旗本ヘ対シテ不礼言語同断ノ故咎とがメシナリ、講中漸々ようよう広クナラントスル時ニ、最早心ニ奢おごリヲ生ジタ故、右ノ如ク不礼アリ、随分慎ンデ取続ク様ニトテ、ソレカラ一同ガオレニイロイロ機ゲンヲ取リテモテナシタガ、酒ガキライ故ニ、人々酔ッテ騒グヲ見テイタラ、兵庫ノ甥おいニ大竹源二郎トイウ仁ガ有リ、オレガ裏店神主ト云ッタヲ聞キオッテ腹ヲ立テ、キノウノシマツヲ、宮川ヲダマシテ聞キオリ、小吉ハイラヌ世話ヲ焼ク、宮川ノコトデ、伯父おじニ大勢ノ中デ恥ヲカカシオッタ、是カラオレガ相手ダ、サア小吉出ロ、トイッテソノ身御紋服ヲ着ナガラ、鉢巻ヲシテ、片肌ヌギデ座敷ヘ来ル故ニ、知ラヌ顔シテ居タラ、直ニオレガ向ウヘ立ッテジタバタシオルカラ、オレガイウニハ、大竹ハ気ガ違ウタソウダ、雑人ぞうにんノ喧嘩ヲミタヨウニ、鉢巻トハ何ノコトダ、武士ハ武士ラシクスルガイイ、此方こっちハ侍ダカラ中間ちゅうげん小者こものノヨウナコトハ嫌イダト云ッタラ、フトイ奴ダトテ吸物膳ヲ打附ぶっつケタカラ、オレガソバノ刀ヲ取ッテ立上リ、契約ヲ違エテ、タワ言ヲヌカスハ兵庫ガ行届カザルカラダ、甥ガ手向ウカラハ云イ合ワセタニチガイナイカラ、望ミ通リ相手ニナッテヤロウト云ッタラ、大竹ガクソヲ喰くらエトヌカシタカラ、大竹ヨリ先ヘツキハナシテ出ヨウト思イ、追ッカケタラ、皆ンナガ逃ゲ出シタ、ソレカラ兵庫ガ勝手ノ方ヘ大竹モ逃ゲタカラ追イ行クト、折ワルク兵庫ガ納戸なんどヘオレガ入ッタラ、大勢ニテ杉戸ヲ入レテ押エテ居ルカラ、出ルコトガ出来ヌ、大竹ハ恐レテ丸腰デ、ウヌガ屋敷ノ伊予殿橋マデ帰ッタガ、ソレカラ大勢ガ杉戸口ヘ来テ、イロイロニ云ウカラ、許シテヤッタラ、大竹ト和ボクシテクレト云イオルカラ、大竹ガ不礼ノコトヲトガメタシ、色々アツカイガハイッテ、特ニハ大竹ガオフクロガ泣イテ詫わビルカラ、伊予殿橋ヘ呼ビニヤッテ、源太郎ガ来タカラ、段々酒酔ノ上、恐レ入ッタトテ、殊更相支配ユエニ、何卒なにとぞ御支配ヘハ話ヲシテクレルナトテ、和ボクヲシタ、ソレカラ酒ガ又出テ、大竹が云ウニハ一パイ飲メトイウカラ、酒ハ一向呑メヌトイッタラ、ソレハマダ打チトケヌカラダトヌカス故、盃さかずきヲヨウヨウ取ッタラ、吸物椀デ呑メト皆ンナガ云ウ、カンシャクニサワッタカラ、吸物椀デ一パイ呑ンダラ大勢ヨッテ、今一パイトヌカスカラ、ソレカラツヅケテ十三杯呑ンダ、後ノヤツラハ呑ンデイロイロ不作法ヲシタカラ、オレハソノ席デ少シモ間違ッタコトハシナカッタ、兵庫ガ駕籠かごヲ出シタカラ、乗ッテ橋本庄右衛門ガ林町ノウチマデ来タガ、ソレカラ何モ知ラナカッタ、ウチヘ帰ッテモ三日ホドハ咽喉のどガ腫はレテ、飯ガ食エナカッタ、翌日皆ンナガ尋ネテ来テ、兵庫ガウチノ様子ヲイロイロ話シテ、ソノ時、橋本ト深津ハ後ヘ残ッテ居テ、以来ハ親類同様ニシテクレトイウテカラ、両人ガ起請文きしょうもんヲ壱通ズツヨコシタ、ソレカラ猶々なおなお本所中ガ従ッタヨ、兵庫ガ脳ガ悪イカラ、講中モ断ワッテヤッタ、ソノ時オレガ加入シタ分ハ、残ラズ断ワッタ故、段々スクナクナッテツブレタヨ」 なんだ、くだらない、こんな奴に講中を頼む神主も神主だが、檀那だんなぶりをして、満座の中で裏店神主はヒドイ、こいつは甥なるものがオコルのが当然だ、全く埒らちもない奴等だが、さて、こうなってみると酒が飲みたいな、吸物椀で一ぱい、ぐうーっとやりたいな。 飲める奴なら吸物椀で十三杯も、さして驚くには当らないが、てんで呑まない奴が十三杯は利きいたろう。こうなるとおれも、生きのいいやつを、塗りのあざやかな吸物椀でグイグイ引っかけたくなったよ、と神尾主膳が一応、書巻を伏せて、咽喉をグイグイと鳴らしました。山科の巻 六十四 咽喉をグイグイと鳴らしたけれど、いずれを見ても酒はなし、吸物椀もないし、咽喉を鳴らし、津つを飲みながら、またも書物を取り上げたのは、一つは所在なさと、一つは書物に対する興味、いわゆる巻を措おくに忍びずというやつであろうかと思われること。 その途端、「チワ――これはこれは、御書見の体てい、小人閑居して不善を為なし、大人静坐して万巻の書、というところでげすか、いや、恐れ入ったものでげす」 いやはや、イケ好かない奴が来たもので、例の鐚びたであります。「鐚か――一ぱい飲みたいと思っていたところだ」「イケません、せっかく聖賢の書をひもといて善良な感化に落着きあそばそうというその途端に、酒というやつが悪魔! そもそも、和漢をいわず酒を賞すること勝計すべからず、放蕩ほうとうの媒なかだち、万悪の源、時珍が本草ことごとく能毒を挙げましたが、酒は百薬の長なりと賞ほめて置いて、多く食くらえば命こんを断ったと言いましたぜ」「えらく貴様、今日に限って学者ぶるな」「ちっとばかり学問をして参りやした、時にごらんあそばす聖賢の書はいったい何でござりますな、大学でげすか、論語でげすか。君子に三ツの戒めあり、少之時わかきときは血気未いまだ定まらず、戒しむること色にありス、酒に次いでは色の方をつつしまずんばあるべからず」「この野郎!」「この野郎は怖れやす、殿様ともあろうお方のお言葉とも覚えやせん。さて、鐚儀びたぎ、今日の推参の次第と申しまするは、決して色の酒のと野暮やぼな諫言立かんげんだてのためにあらず――近来稀れなる風流の御相談を兼ねて参じやした」「風流――風通ふうつうの間違いだろう、風通の一枚もこしらえたいが、銭がねえというところだろう」 主膳も、いささかアクドイ応酬を致しましたが、鐚に於ては洒唖乎しゃああたるもので、「どう致しやして、衣食足って礼節を知る、古人はいいところを言いやした、鐚儀が不肖ながら食物は今朝アブ玉で、とんとお腹いっぱいこしらえて参じやした、食の方は事足りて余りあり、衣の方に於きましては、これごらんあそばせ、上着が空色の熨斗目のしめで日暮方という代物しろもの、昼時分という鳶八丈とびはちじょうの取合せが乙じゃあございませんか。それにこれ下着が羊羹色ようかんいろの黒竜門、ゆきたけの不揃ふぞろいなところが自慢でげして、下がこうごうぎと長くて、上へ参るにつれてだんだんに短く、上着は五寸も詰った、もえるのツンツルテン、舶来飛切りでげすよ、羽織がこれ萌黄もえぎの紋綾子もんりんずで、肩のあたりが少々来きたっておりまする」「うむ、なるほど、田舎の貧乏医者という衣裳づけだ、熨斗目が利いているよ」「かくの通り、衣食足って礼節は、本来ビタの地じにあることなんでげす、現に殿様の御身の上の栄枯盛衰にかかわらず、かくまで忠義の志をかえぬことによって充分に御賢察が願いたい――衣も足り、食も足り、懐ろ工合の方も、当節は異人館出入りのために外貨獲得てやつが成功いたしやして、至極豊かでござりやす、かくて最後に来きたるものが風流――その風流の御相談に参じやした」「まあ、言ってみろ」「拙せつのお出入りの旦那に三一小僧さんぴんこぞうというのがござりやして、その旦那が近頃、和歌に凝り出したと思召おぼしめせ」「和歌――歌だな」「いわゆる、みそひともじなんでげす。その旦那が次のような歌をお詠よみになりまして、鐚、どんなもんだ、点をしてくれろとおっしゃる、内心ドキリと参りましたね、実のところ、鐚も十有五にして遊里にはまり、三十にして身代をつぶした功の者でげして、その間かん、声色、物まね、潮来いたこ、新内、何でもござれ、悪食あくじきにかけちゃあ相当なんでげすが、まだ、みそひともじは食べつけねえんでげすが、そこはそれ! 天性の厚化粧、別誂べつあつらいの面つらの皮でげすから、さりげなくその短冊を拝見の、こう、首を少々横に捻ひねりましてな、いささか平貞盛とおいでなすってからに、これはこの新古今述懐の――むにゃむにゃと申して、お見事、お見事、ことに第五の句のところが何とも言えません、と申し上げたところが、ことごとく旦那の御機嫌にかなって、錦水を一席おごっていただきやしたが、実のところ、鐚には歌もヌタもごっちゃでげして、何が何やらわからねえんでげす、後日に至りやして、三一旦那から再度の御吟味を仰せつかった時にテレてしまいますでな、どうか、その御解釈のところを篤と胸に畳んで置きてえんでございます。これがその三一旦那から頂戴に及んだ短冊でげして」「そうか、貴様が贔屓ひいきになる三一旦那というのが和歌を詠んで、貴様に見せた、和歌の和の字も知らない貴様も、旦那のものだから無性に褒ほめて置いたが、中身は何だか一向わからん、それで後日糺問きゅうもんされると困るから、一応おれに見て講義をして置いてくれというわけだな」「まさに仰せの通り――鐚儀、お弟子入り、お弟子入り」「どれ見せろ」と神尾主膳が、鐚の手から短冊を受取って、それを上から読みおろしてみると、かながはで、蒸気の船に打乗りて、 一升さげて、南面して行く「何だ、これは」 神尾が、甚はばはだしく不興な面をして、短冊をポンと抛ほうり出したものですから、鐚があわててこれを拾い上げて後生大切に袖で持ち、「めっそうな! 大尽だいじんのお墨附! めっそうな」 仰々しく取り上げて、恨み面にじっと主膳の面を見上げていると、「貴様の贔屓を受けている三一旦那とやらは、いったい何者だ!」 主膳が、怒鳴りつけるように一喝いっかつしたその調子が変ですから、鐚があわてて、逃げ腰になりました。「三一旦那、当時舶来、エレキ屋の三一旦那! 大したもんでげす、商業界きってのお大尽でげす」「貴様にとっちゃ旦那かお大尽か知らないが、その歌のザマは何だ、そんなものが、人に見せられるか、人を愚弄ぐろうするにも程のあったもんだ」「イケやせんか、なっとりゃせんか、和歌の法則から申しますと」「馬鹿、和歌も詩歌もあるものか、そんなものを、よく人中へ出したもんだ、こっちへよこせ、揉もみくちゃにして火鉢にくべてやる」「じょ、じょうだんでげしょう、ドル旦のお大尽のお墨附! 愚拙が家の家宝――何とあそばします」 神尾の余憤は容易に去らない。冗談にしろ、和歌を持って来たから直してくれとか、評をしてくれとかいうことになると、なあに、この野郎がもたらすものだと軽蔑しながらも、その風流のやや向上気味なるを取らないでもないが、もたらしたその三一旦那さんぴんだんなの歌というやつが、茶漬にもならない代物しろものだから、主膳もおのずから不興になったので、その不興が相当真剣になっているので、鐚びたも多少怖れている。「そりゃ、あなた、お大尽と申しやしたところで、根が町家の商人のことでげすから、高家こうけ歌よみ家のようなわけには参りません、町人のお大尽でも、このくらいの風流があるというところも買っていただかなけりゃ。あなた、三一旦那は定家卿ていかきょうでも、飛鳥井大納言あすかいだいなごんでもございません、そう、殿様のように頭からケシ飛ばしてしまっては、風流というものが成り立ちません、第一、初心のはげみになりませんから、何とか一つ、そこは花を持たせていただきてえもんでござんして」「黙れ黙れ! 言語道断の代物だ――笑って済むだけならまだいいが、見て嘔吐へどが出る、ことに、第五句のところ……」「そこでげす!」「そこが、どうした」「鐚がそこを賞ほめやしたところが、ことごとくお大尽のお気にかないました」「馬鹿野郎!」「これは重ね重ねお手厳しい、そういちいち、馬鹿の、はっつけのと、あくたいずくめにおっしゃっては、風流が泣くではございませんか、第一殿様の御人体ごにんていにかかわります、お静かにおっしゃっていただきてえ」「その第五句の南面という言葉がはなはだ穏かでない、町人風情のかりそめにも用うべからざる語だ」「へえそんなたいそうな文句を引張り出したんでげすか」「南面というのは天子に限るのだ、この文句で見ると、三一旦那なるものは、何か蒸気船に乗って南の方へでも出て行く門出のつもりで、こいつを唸うなり出したものだろうが、南面して行くとは、フザケた言い方だ、勿体ないホザき方だ――ただ笑うだけでは済まされない、不敬な奴だ!」「へえ――大変なことになりましたな」「これ、ここへ出ろ、鐚、おれはこう見えても――物の分際ということにはやかましい、痩やせても枯れても神尾主膳は神尾主膳だ、鐚は鐚助――三一風情がドコへ行こうと、こっちは知ったことではないが、南面して行くとホザいたその僭越が憎い! おれは忠義道徳を看板にするのは嫌いだが、身知らずの成上り者めには癇癪が破裂する、よこせ!」と言って神尾主膳は、鐚の油断している手から大事の短冊をもぎ取って、寸々ずたずたに引裂いて火鉢の中へくべてしまい、「あっ!」と驚いて、我知らず火鉢の中をのぞき込む鐚の横っ面を、イヤというほど、「ピシャリ」「あっ!」 鐚助、みるみる腫はれ上る頬っぺたを押えて、横っ飛びに飛んで玄関から走り出しました。山科の巻 六十五 ビタをハリ飛ばしておいてからの神尾主膳は、その足で台所へ行って、膳棚の上から備前徳利を一つ取り下ろして振り試みると、まだカタコトと若干の音がする。それをそのまま提さげて、次に相馬焼の癖直しの湯呑のようなのを取り下ろし、再び以前の書斎へ戻ってホッと一息つき、その備前徳利から、ちょうど相馬焼に一ぱい分残った残滴を酌くんで、咽喉のどをうるおしながら、以前の書物の丁を追いました。「アル時、橋本庄右衛門ヘ妙見ノ帰リガケニ行ッタラ、殿村南平トイウ男ガ来テ居タカラ、近附ちかづきニナッタガ、ソノ男ガ云ウニハ、オマエ様ハ天府ノ神ヲ御信心ト見エマスガ、左様デ御座リマスカト云ウカラ、年来妙見宮ヲ拝ストイッタラ、左様デ御座リ升ます、御人相ノ天帝ニアラワレテオリマスト云イオル、ソレカライロイロ咄はなシテイルト、奇妙ノコトヲ種々咄スカラ、ヨク聞イタラ、両部ノ真言ヲスルトイウカラ、面白イ人ダト思ッテイタラ、橋本ガ親類ノ病人ノコトヲ聞イタラ、ソノ死霊ノ者ハ男ダト云ッテ、年カッコウ、ソノ時ノ死ニヨウマデ、ツブサニ見タヨウニ云ウカラ、橋本ニ聞イタラ、ソノ通リダト云ウカラ、大キニ恐レテ、弟子ニナリタイト頼ンダラ、随分法ヲ教エテヤロウト挨拶スルカラ、ウチヘ連レテ来テソノ晩ハ泊メタ、ソレカラ真言ノコトヲイロイロ教エテ、先ズ稲荷ヲ拝メトテソノ法ヲ教エタ、病人ノ加持ノ法又ハ摩利支天ノ鑑通ノ法、修行術種々、二カ月バカリニ残ラズ教エテクレタ、ソレカラコノ南平ハボロノナリ故、色々入用いりようヲカケ、謝礼旁々かたがた一年半バカリニ四五十両カケタ、本所デモ大勢弟子ガ出来テ、シマイニハ弥勒寺ノ前ノ小倉主税ト云ウ仁ノ屋敷ヘ住ンデイタ、日々、病人、迷人、ソノホカ加持祈祷ヲシ、御番入リノ祈祷ヤ何ヤイロイロ諸方ヨリ頼ンダガ、オレガ初メ見出シタ故ニ、南平モ悦よろこンデ、オレノコトイロイロ骨折リヲシテクレタ」 野郎いよいよ千三屋せんみつやだ、今度は御祈祷屋を開業――と神尾は註を入れて読み出すと、「近藤弥之助ノ内弟子ノ小林隼太モ、トウトウオレノ家来ニナツタカラ――」 近藤弥之助というのは、やっぱり幕下はたもとで、今時指折りの剣術遣いの一人で、そいつの内弟子の小林という奴、前にも相当の代物であった、こいつも、いよいよ勝の馬鹿親爺の弟子となったと見えるな、しかし、どういう了見りょうけんだか知れたものではない――「毎日毎日来テ、イロイロト奉公ヲシタガ、ウチガナイ故、浅草ノ入屋ニテカナリノ家作ガアルカラ買ッテヤッタ、剣術仲間ヘ頼ンデ稽古場ヲ出シテヤッタ、下谷ムレガヒイキニシテクレル故、内職ニハ大小売買ヲシテイタガ、シマイニハ金廻リガヨクナッテ、フダン身ノ上ノ世話ヲシオッタガ、悪ガシコイ奴デ、仲間ハ皆ンナガイロイロハグラカサレタ、江戸ヲ三度借倒シテ三州ヘ行キオッタガ、オレニハイツモ咄はなシテ逃ゲタ、又江戸ヘ出ロトイッテモ、オレガ手紙ヲ附ケテ、仲間中ヘ借倒シノワケヲシテヤルト、ミンナガ損ヲシタコトハソレナリニシテクレタ、トウトウ七八十両ノアビセデ三州ヘ行キオッタガ今ニ帰ッテ来ヌ、三州デドウニカ人間ニナッタト云ウコトダ、ソレハオレガチョウシヘ行ッタ時、向島ノ兼ト云ウ男ニ聞イタ、兼ガ遠州ノ秋葉ヘ参詣シタ時ニ、鳳来寺ニテ逢ッタト、ソノ時ハ綺麗きれいノナリデ居タト、オレノハナシヲシテ、二時ふたときバカリ休ンデ居テ別レタト聞イタ」 こいつ同病相憐み、自分が自堕落だから、自然、相当に自堕落の世話もするところが妙だ。「或日、小倉主税ノ宅デ、神田黒川町ノ仕立屋ニ逢ッタガ、コイツハ、カゲ富とみノ箱屋ヲスル奴ダガ、オレガ懇意ノ徳山主計トイウ仁ガ、至ッテ富ヲ好キデ、南平ニ富ヲ頼ンダ故ニ、今日ハ富ノ日ダカラ寄加持よせかじヲスルトッテ、主税ノ宅ヘ大勢ソノムレガ寄ッテ来テ、ヨセ加持ヲ始メヨウトスル時、オレガ知ラズニ行ッタラ、大勢揃そろッテイルカラ、様子ヲ聞イタラ右ノ次第ヲ咄はなス故、ソノ席ニイテ始終ノ様子ヲ見タラ、南平ガ女ヲ呼ンデ、種々祷いのッテ護摩ヲタイテカラ、女ノ中座なかざニ幣束ヲ持タセテ神イサメヲシテ、少シ過ギルト、女ガ口バシリデ、今日ハ六ノ大目、当リハ何番ノ何番ト云ウ故、一同ガ嬉シガッタ、ソレカラ上ゲテ仕舞ウカラ、南平ヘオレガ云ウニハ、ハジメテ見テ恐レ入ッタ、シカシ是レハ随分出来ルコトダロウト云ッタラバ、仕立屋メガ直グニ口ヲ出シテ、勝様ガ仰セデハアルガ、ナカナカ容易ニハ寄加持ハ出来ヌ、ソノ訳ハ悉ことごとク法ガ有ルト云イオルカラ、ソレハ尤もっとモダガ、ヨクツモッテ見ロ、南平ハ何処どこノ馬ノ骨ダカ知ラナイガ、アノ通リスルガ、オレハ生レナガラ御旗本デ身分モ尊シ、ソノオレガ一心ヲ誠ニシテ寄セタラ、神ハ速すみやカニ納受ガ有ロト思ウ故ニ云ウノダ、南平ニ聞クニ、オノシガ出過ギタコトヲイウトハ失礼ダト叱ッタラバ、仕立屋ガ云ウニハ、ソレハアナタガ御無理ダ、神事ニハ法ト云ウ物ガアリマストテ、イロイロヌカス故、オレガ座敷ノ真中ヘ出テ、先ズ論ハ無益ダカラ、手前ハ自分ノ前ヘ出テ礼ヲシロ、許スト云ワヌウチニ手前ノ額ガ上ッタラ、オレハ直チニ手前ノ飯焚ニナロウカラ、サア来イトイッタラ、大勢ガケンマクヲ見テ取リ、イロイロ挨拶スルカラ、ソレハ許シタガ、何シロソレホド出来様ト思ウナラ直グニ寄加持ヲシテ見ロトイウカラ、水ヲ浴シテ、先ノ女ヲ呼ンデ祈ッタラ、南平ガシタ通リイロイロ口走リオッタカラ、仕舞ッテカラ高慢ヲ云ッテ帰ッタガ、ソレカラミンナガ、南平ヘ頼ムト金ガイル故、オレニバカリ頼ンダ、徳山ノ妹ヲ一度南平ニ寄セテクレロト主計ガ頼ンダラ、生霊ガ附イテアルカラ、二三日ソノ生霊ヲハナサナケレバナラヌ故、金五両ホドカカルト云ッタカラ、同人ガオレニ咄はなス故、三晩カカッテ放シテヤッタ、ソレカラ南平ハオレヲ恨ンデ仲ガ悪クナッタ、カゲ富デモ九十両、徳山ト一所ニトッタ、ソレヨリ、十、二十位ハ幾度モ取ッタコトガアル」 千三屋せんみつやが、骨董こっとうの仲買から御祈祷師、こんどは富とみの当り屋とまで手を延ばしたが、相当成功するところが妙だ。九十両も一度にとり込み、十両、二十両は朝飯前ということになってみると、この商売も乙だ、おれも一つこの手をやろうか――なんぞと神尾も妙に気を廻したが、勝や男谷と違って、同じ旗本でもおれは格が違う、そんな真似ができるかと一喝いっかつし、読みつづける。「行ぎょうハイロイロシタガ、落合ノ藤イナリヘ百日夜々参詣シ、又ハ王子ノイナリヘモ百日、半田稲荷ヘモ百日参シタ、水行ハ神前ニ桶ヲ置イテ百五十日三時ズツ行ヲシタ、シカモ冬ダ、ソノ間ニハ種々ノコトガ有ッタガ、ココヘハ漏ラシタ、断食モ三四度シタガ出来ヌト云ウコトハナイモノダ」 こいつは断然おれにはできぬと、神尾が考えました。ここにはこともなげに書いてあるが、冬の最中に、百日も百五十日も水行みずぎょうをする、そういうことは、剣術遣いの勝なればこそやれるが、おれにはできぬ、なかなか荒行をやる。本来、この自叙伝には、乱暴、喧嘩、かけおち、すいきょう、座敷牢、千三屋、ロクでもないことには多分に紙筆を費しているくせに、自分の修業のことになると、あんまり書いていないようだが、勝のおやじとても、そうロクでないことばかりではない、本職の剣術をはじめ、相当の鍛錬を積んでいるはずだ。それを事々しく書かないで、馬鹿を尽したことばかり書いてあるから、ややもするとそこんところを見損う。今となって、こういう行を平気で行い、出来ヌト云ウコトハナイモノダ――とホザくところはただののらくら者ではあり得ない。その悴せがれの今の勝麟も、相当修行鍛錬したことを自慢にするそうだが、親父のそういういい方面ばかり真似たから、それで鳶とびが鷹たかを生むようになったのだろうと、神尾が考えました。それから次は、「地主ニ代官ヲ先代ヨリ勤メタ故、役所ノ跡ガアイテイル故ニ、水心子天秀トイウ刀鍛冶ノ孫聟まごむこニ水心子秀世ト云ウ男ヲ呼ンデ、役所ノ跡ヘ入レテ刀ヲ打ッタ、又、研屋とぎやニ、本阿弥三郎兵衛ト云ウノノ弟子ニ仁吉ト云ウ男ガ研ガ上手ダカラ、呼ンデオレノ住居ヲ分ケテ、刀ヲ研ガシテオレモ習ッタ、ソレヨリ刀剣講トイウモノノ事ヲ工夫シテ、相弟子ヤ心易しりあイニ出シテ取出立テ、秀世又ハ細川主税正義、並ビニ美濃部大慶直税、神田ノ道賀又ハ梅山弥曾八、小林真平、ソノ時代ノ刀鑑かたなめききヘ残ラズ刀剣講ヲ取立テヤッタガ、或日千住ヘ行ッテ胴ヲタメシタガ、ソレカラ浅右衛門ノ弟子ニナッテ、上段切リヲシテ遊ンダ、息子ハ御殿ヘ上ッテイルカラ世話ハ無カッタ、息子ガ七歳ノ時ダ」 御祈祷師、富籤屋とみくじやから刀剣講、それから首切浅右衛門まで来た。やれば仕事はあるものだ。「地主ガ小高デ貧乏故ゆえ、借金取ガ来テ困ルトイウカラ、引受ケテ片ヲ附ケテヤッタガ、ソレカラ地面ウチノ地借ガ九軒有ッタガ、地代モ宿賃モロクロクヨコサヌカラ、ミンナタタキ出シテ、オレガ懇意ノ者ヲ呼ンデ置イタカラ、ソノ後ハ地代ソノ外滞ラヌカラ悦ンデ、ヤイヤイ云イ居ッタ、地主ガ或日御代官ヲ願ウカラ異見ヲイッテヤッタラ大キニ腹ヲ立テ、葉山孫三郎トイウ手代ト相談ヲシテ、オレヲ地面カラ追出ソウト云ッタカラ、オマエハ最早五十年ニオナリニナサルカラ、御代官ハ御止メナサレトイッタラ、ナゼト云ウカラ、御代官ニナルニハ、先ズ始メハ千両バカリイッテ、ソレカライロイロ家作モ大破ダカラ、弐百両半モイルシ、皆サンガ支度ニモ百両トシテ、モシモ支配ヘ引越シデモスルト百両半モカカル故、弐千両ノ借金ガ出来ルカラ、ソノ上ニ元〆《もとじめ》ガ悪イト引責モ出来テ、ドノヨウニ倹約ヲシテ勤メテモ、三十年ハ借金ヲ抜クニカカル故、子孫ガ迷惑シテ、ソノ勘定ガ立タヌト遠流おんる又ハ断絶ニナルカラ、決シテ働キノナイ者ガ勤メル役デハナイト云ッタラ、ウチジュウガオコッテ、地面ヲ返シテクレロトイイオルカラ、地面中ヘ触レテ、不足ノ地代宿代ヲ残ラズ集メテ、オレガ懐ヘ入レテイテ、ノキ場所ヲ見附ケルニ折悪おりあシク脚気ニテ、久シク煩ッテイタ故、歩クコトガ出来ヌカラ、人ニ頼ンデ漸々ようよう入江町ノ岡野孫一郎トイウ相支配ノ地面ヘ移ッタガ、ソノ時オレハ、地主ヘ地返シスルノ礼ニ行ッテ――」山科の巻 六十六 いよいよ地面立ちのきを食ったな。しかし、世渡りをしただけに、目先の見えるところもある――「御代官ニナッタラ五年ハ持ツマイカラ、ドウデ御心願ガ成就ナスッタラ、シクジラヌヨウ専一ニ成サレマシ、ソレハ云ウコトガ違ッタラ生キテハオ目ニカカラヌ、ト云ウタラ、ナゼダ、ト云ウカラ、葉山ノ成立チヲアラマシ云ッテ帰ッタガ、案ノ定、四年目、甲州ノ騒ギデシクジリ、江戸ヘ行ッテ小十人組ヘ組入リヲシタガ、三千両ホド借金出来テ、家来モ六ツカシク、大心配ヲシテ、オマケニ、葉山ハ上リ屋ヘ行ッテ三年程カカッタガ、気ノ毒ダカラ、オレガ一度尋ネテヤッタラ、オマエノ異見ヲ聞カヌ故ニコウナッタガ、ドウゾ家ハ助ケタイモノダト云ッテ涙グンダカラ、カアイソウダカラ、段々ト葉山ガ始末ヲ聞イテ、甲州ノ郡代ヘヤル手紙ノ下書ヲ書イテ、是ヲ甲州ヘ遣ワシテ、コウシロ、大方奇徳人ガダマッテハイヌマイ、五百ヤソコラハ出スダロウト教エテヤッタラ、キモヲツブシタ顔ヲシテ、早々甲州ヘ届ケタ、ソノ後マモナク六百両金ガ出来タカラ家ヲ立テタガ、今ハ三十俵三人扶持ダカラ困ッテイル、江戸ノカケヤニモ千五百両バカリ借ガアル故、三人扶持ハ向ケキリニナッテイル、ソレ故ニ子供ガ月々、今ニオレヲ尋ネテクレル、ソレカラトウトウシマイニハ小普請入リヲサセラレテ百日ノ閉門デ済ンダ、ソノ時ノ同役ノ井上五郎右衛門ハ、トウトウ改易かいえきニナッタ、葉山モ江戸ノ構エヲ喰ッタヨ」 お代官になるもまたつらい哉かなだ!「岡野ヘ引越シテカラ段々脚気モヨクナッテ来タカラ、息子ガ九ツノ年御殿カラ下ゲタガ、本ノケイコニ三ツ目所ノ多羅尾七郎三郎ガ用人ノトコロヘヤッタガ、或日ケイコニ行ク道ニテ病犬やまいぬニ出合ッテ、キン玉ヲ喰ワレタガ……」 息子というのは今のその利け者の勝麟のことで、稽古にいく途中、病犬に食われた、江戸は犬の多いところだが、病犬はあぶない、食われるに事を欠いて、キン玉を食われたんでは只事ただごとでないと、神尾が思いました。「ソノ時ハ、花町ノ仕事師八五郎ト云ウ者ガウチヘ上ッテ、イロイロ世話ヲシテクレタ、オレハウチニ寝テイタガ、知ラシテ来タカラ飛ンデ八五郎ガ所ヘ行ッタ、息子ハ蒲団ふとんヲ積ンデ、ソレニ寄リカカッテイタカラ、前ヲマクッテ見タラ、玉ガ下リテイタ故、幸イ外科ノ成田ト云ウ人ガ来テイルカラ、命ハ助カルカト尋ネタラ、六ツカシク云ウカラ、先ズ悴せがれヲヒドク叱ッテヤッタラ、ソレデ気ガシッカリトシタ様子故ニ、駕籠かごデウチヘ連レテ来テ、篠田トイウ外科ヲ地主ガ呼ンデ頼ンダカラ、キズ口ヲ縫ッタガ、医者ガフルエテイルカラ、オレガ刀ヲ抜イテ、枕元ヘ立テテ置イテ力りきンダラ、息子ガ少シモ泣カナカッタ故、漸々縫ッテ仕舞ウタカラ、様子ヲ聞イタラ、命ハ今晩ニモ受合ハ出来ヌト云ッタカラ、ウチ中ノ奴ハ泣イテバカリイル故、思ウサマ小言ヲ言ッテ叩キチラシテ、ソノ晩カラ、水ヲ浴ビテ、金比羅こんぴらヘ毎晩裸参リヲシテ祈ッタ、始終オレガ抱イテ寝テ、外ノ者ニハ手ヲ附ケサセヌ、毎日毎日アバレ散ラシタラバ、近所ノ者ガ、今度岡野様ヘキタ剣術遣イハ、子ヲ犬ニ喰ワレテ気ガ違ッタト云イオッタ位ダガ、トウトウキズモ直リ、七十日目ニ床ヲハナレタ、ソレカラ今ニナントモナイカラ、病人ハ看病ガカンジンダヨ」 ここまで読んで来た時、神尾主膳の目頭めがしらが熱くなってきました。今までは冷笑気分、興味本位だけで多分を読んで来たが、ここでは目頭が熱くなったものですから、その眼を上げて座敷の一方を見つめました。「ここだよ、馬鹿は馬鹿で、箸にも棒にもかからない奴も、子を見る心はまた別だな、親の心というものは実際こうしたものだろうよ、あれほど自分を粗末にし、世間を粗末にした奴も、子供のことであってみると、気違いになる。この愛情があればこそだ、今の勝が、安房守あわのかみと任官して、まあ当代の傑物として、幕府を背負って立とうとか、立つまいとか言われるようになったのは、そもそもこの親の気違いから起っているのだ、倅のために実にいい親を持ったものだと、ここではじめて感心しなければならぬ」 これに引比べて、おれは親の愛情というものを知らない。父が早く世を去ってしまった。今日の、このうだつの上らない、骨までやくざ者と化したのは、一にこの父親の愛情が恵まれなかったからだ―― ということを、神尾主膳がそぞろ心に思い起して来ると、世間の親の有難さということに目頭めがしらが熱くなってくる。そうして、人生のいかなる不幸も、親の愛を知らないほどの不幸はなく、人生のいかなる幸福も、親の愛を受けるの幸福にまされるものはない、ということを、神尾主膳が心魂に徹して思い出してきました。 不思議にも熱くなった目頭から、うるおってくる瞳で、なお巻を読み進めて行く。「親類ノ牧野長門守ガ山田奉行ヨリ長崎奉行ニ転役シタガ、ソノ月、水心子秀世ガ云イ人デ、虎ノ門外桜田町ノ尾張屋亀吉トイウ安芸ノ小差ガ、牧野ノ小差ニナリタガッテ、オレニ頼ンダ故、世話ヲシテヤロウト云ッタラ、金ヲ五十両持ッテ来テ、是デ牧野様ガ御好ミノ物ヲ買ッテ上ゲテクレロト云ウカラ、イロイロ牧野ノ息子ヘ品物ヲヤッタガ、一日オソクテ外ノ者ガナッタカラ、尾張屋ハ鼻ガアイタ故、気ノ毒ダカラ、残リノ金ヲバ返スト言ッタラ、ソレハ水金デゴザリマスカラ御遣イナサレマセトテ三十両バカリ呉レタトコロ、ソノ後ニ久セガナッタ故、世話ヲシテヤロウトオモッテ呼ビニヤッタラ、亀吉ハ疾とウニ死ンダトイウカラ、ソレキリニシタッケ」 千三屋せんみつやどの、今度は慶安けいあんをかせぎ出したな、よく小まめに働くことだ――「地主ノ当主ガドウラク者デ或時、揚代あげだいガ十七両タマッテ、吉原ノ茶屋ガ願ウト云イオッテ困ッタガ、フダンカラ誰モ世話ヲシナイ故、オレニ頼ンダ、オレハ昨今ノコトダカラ知ラズ、金ヲ工面くめんシテ済マシテヤッタガ、ソノ後モ五両ニ壱分ノ利ヲ七十両借リテ女郎ヲ受ケタガ、皆済目録トカヲ代リニヤッタトテ、用人ヤ知行ノ者ガ困ッテイル故ニ、又オレニ頼ンダカラ、諸方ノ道具屋ヨリ来テイタ大小ヤラ、道具ヤラ、イロイロコンタンヲシテ取返シテヤッタガ、イチエンソレヲ返サヌカラ、オレガ困ッテ、諸方ヘ段々ト返シタガ、ソレカラ万事、金ノ融通ガ悪クナッテ困ッタ、ソレニツキ合イガハルカラ大迷惑ヲシタ、ソノ当分ハイロイロ道具ヲ売ッテ取リツヅイタガ、段々物ガ尽キルカラ、シマイニハ武器ヲ払ッタガ、年来丹精ヲシテ拵こしらエタモノ故、惜シカッタガ、仕方ガナイ故、残ラズ売ッタガ、拵エル時ノ半分ニモナラナイモノダ、シマイニハ四文ノ銭ニモ困ッタ、全ク地主ニ立替エタ故ダ」 それそれ、見たことか、顔役、千三屋も限度というものがある。いい気になって人の世話を焼いていると、今度は身が詰って来るは火を見るようなものなのだ。ツキ合イガハルカラ大迷惑――それが当然の成行きで、それから身のつまりになるのは、我も人も変ったことはない――「ソレカラ或晩、地主ノオマエサマガ忍ンデ来テ云ウニハ、孫一郎ガフシダラ故ニ、家内中ハ困ルカラ、支配向ヘ話シテ隠居サセテクレロト云ウカラ、取扱エモ咄はなシタラ、オマエ様ヨリ証拠ノ文ヲ取ッテ来イト云ウカラ、ソノ事ヲ咄シテ、文ヲ取ッテ、長坂三右衛門ヘ見セタラ、頭かしらノ長井五右衛門ヘ始終ヲ咄シテ、支配カラ隠居シロト云ッテ出タカラ、孫一郎モ何トモ云ウコトガ出来ズニ隠居シタガ、後ノ孫一郎ハ十四ダカラ、ミンナオレガ世話ヲシテ、家督ノ時モ一緒ニ御城ヘ連レテ出タ、先孫一郎ハ隠居シテ江雪ト改メテ剃髪ていはつシタ、ソレカラ家来ノコトモミダラニナッテイルカラ、家来ニ差図シテ、取締方万事口入レシテ取極メヲツケテヤッタラ、程ナク又々隠居ガ、岩瀬権右衛門トイウ男ヲ用人ニ入レテ、イロイロ悪法ヲカイテ、権右衛門ヘ給金弐拾両ニ弐拾俵五人扶持ヤッテ好キノコトヲシオルカラ、ウチジュウガ寄ッテ頼ム故ニ、頭沙汰ニシテ、権右衛門ヲ追出シテ、外ノ用人ヲ入レタ、ソノウチニ後ノ孫一郎ノオフクロガ死ヌ故、隠居ガマタマタモクロミヲシタカラ、ソノ時モ、ソノ一件ヲ片附ケテヤルシ、ソノ後、江雪ガ女郎ヲ引受ケ連レテ来タ時モ世話ヲシテ、柳島ヘ別宅ヲ拵エテヤッタ、ソレカラ一年バカリタッテ、江雪ガ大病故ニ、イロイロ世話ヲシタガ、ソノ時ニ、オレニ云ウニハ、今度ハ快気ハオボツカナイカラ、悴せがれノコトハ万端頼ムカラ、嫁ヲ取ラシテ後、御番入リスルマデハ必ズ見捨テズニ世話ヲシテクレト云ウカラ、聞届ケタト挨拶ヲシタカラ、悦ンデ翌日死ンダカラ、又々世話ヲシテ、残リ無ク後ヲ片附ケタガ、世間デ岡野ト云ウト、誰モ嫁ノ呉レテガ無イカラ、麻布市兵衛町ノ伊藤権之助ガ嫁ヲ貰ッテヤッタ、オマエ様ガ云ウニハ、何モ持ッテキテガナイカラ、何ニモイラヌト云ウカラ、権之助ヘオレガ掛合ッテ百両ノ持参デ、諸道具モ高相応ニシテ貰ッタカラ、知行所ノ百姓モキモヲツブシテ、私共二三年諸方ヘ頼ンデ奥様ノコトヲ骨ヲ折ッタガ、岡野ト聞クト皆々破談ニナリマシタガ、御蔭デ殿様初メ一同安心シテ悦ビマス、殊ニハ御持参金モアルシ有難イト云イオッタ、ソレ迄ハ千五百石デ道具ガ一ツ無クッテ、大小マデモ逢対あいたいノ時ニ借リテ出ル位ダカラ、世間デ呉レナイモ尤もっとモダト思ッタ、ソレカラ普請ガ大破故、武州相州ノ百姓ヲ呼ビ出シテ、家作モ直シ、大勢ノ厄介ノ身上マデ拵エテヤッタ、当主ノ伯父ノ坊主デイタ仙之助ト云ウ男ニモ、地面内ヘ家作ヲシテ、妾めかけマデ持タシテヤッタラ、家内ノ者ガオレヲ神様ノヨウニ云イオッタ、暮シ方モ百両故、三百三十両ノ暮シニシテ、厄介ヘモソレゾレ壱カ年アテガイヲ附ケテ稽古事デモ出来ル様ニシテ、馬迄買ワシ、千五百石ノ高位ニハ少シ過ギル位ニシテヤッタガ、何ヲイウニモ借金ガ五千両バカリアル故、コラエガ馬鹿ノ者ニハ出来ヌ」 これはまた、神尾にとって少々耳――ではない、目が痛い。千五百石となると、もう小身の部ではない、おれの分限にも近くなってくるし、当主という奴の身持が、おれの伝だ。他人のことにして見ると、歯痒はがゆいばかりの馬鹿揃いだが、自分のことには、さっぱりお気がつかない――結局、この神尾主膳にも、誰も嫁のくれ手がなくておしまいだ。嫁さがしで江戸を構われただけではない、甲州まで行って、有野の娘でもしくじったわい。でも、この岡野とやらには、勝のおやじのような出しゃばり屋の千三式の肝煎きもいりが出来て、ひとまず成功したが、おれの方にはソンナのが現われなかった――山科の巻 六十七 こうして顔を広くし、人の面倒を見てやっては男を売るというような立場になると、どのみち、行詰まるのは運動費だ。本来、金のなる木を持っているわけではなし、千三屋というものは、千に三つしか当らないわけのものだろう。当った時の儲もうけは、外はずれた数の損耗で、とうにさっぴきがついている。勝のおやじ、この経済の打開をどうするか。そこは神尾が今日までの体験の持越しで、今以てうだつが上らないのみか、ますます深みへ落ちて行く勘所かんどころだ。それを、このおやじが最後まで、どう切抜けるかと、経済眼を以て読みつづけて行くと、果せる哉かなだ。「オレハ次第ニ貧乏ニナルシ、仕方ガ無イカラ妙見宮ヘムリノ願ヲカケテ、今一度困窮ノ直ルヨウニト、百日ノ行ヲハジメタガ……」 それ見たことか、敵かなわぬ時の神頼みだ。だが、かなわぬ時に至って、はじめて神頼み、仏いじりをはじめるところが可愛らしくてよろしい。おれなんぞ、ついぞ今日まで、神頼みも、仏いじりもしなかった、する気にもならなかった、今更、頼んだって、いじったって、かまってくれる神仏もあるまいに――と苦笑……「日ニ三度ズツ水行ヲシテ、食ヲスクナクシテ祈ッタガ、八九十日タツト、下谷ノ友達ガ寄ッテ、久シクオレガ下谷ヘ来ナイトテ、ナゼダロウト云ウト、オレノ家来分ノ小林隼太ガ、此頃ハ貧乏ニナッテ弱ッテイルト云ッタラ、皆ンナガ、気ノ毒ナコトダ、今迄イロイロ世話ニモナルシ、恩返シニハ少シデモ無尽むじんヲシテ、掛捨テニシテヤロウカ、ソウ云ッテハ取ラヌカラ、勝ヲ会主ニスルガイイト相談シテ、鈴木新二郎ト云ウ井上ノ弟子ノ免許ノ仁ガ来テ、オレニ云ウニハ、今度友達ガ寄ッテ遊山無尽ヲ拵こしらエルガ、最早大ガイハ拵エタガ、オマエニ会主ヲシテクレロトイウカラ、ナッテクレロトイウ故ニ、ソレハヨカロウガ、此節ハ困窮シテ中々無尽ドコロデハナイカラ、断ワッテクレト云ッタラ、何ニシロ、オマエガ断ワルト出来ヌカラ加入シロト云ウ、掛金モ出来ヌトイッタラ、ソレデモイイカラトイウ故、承知シタトテ帰シタラ、二三日タッテ、マタ新二郎ガ来テ、帳面ヲ出シテ、金五両置イテ、此後ハ加入ノ人々ガ来ルト云ッテ帰ッタ故、全ク妙見ノ利益りやくト思ッテ、ソレカラ直グニ刀ノ売買ヲシタラ、ソノ月ノ末ニハ、築地ノ又兵衛ト云ウ蔵宿ノ番当ガ頼ンダ備前ノ助包すけかねノ刀ヲ、松平伯耆守ヘ売ッテ十一両モウケタガ、又兵衛モ、ウナギ代トテ別ニ五両クレタ、ソレカラ毎晩、江戸神田辺、本所ノ道具市ヘ出テハモウケスルコトガヨカッタカラ、復々またまた金ガ出来ル故ニ、諸所ノコン意ノ者ガ困ルト聞クト、助ケテヤッタ故、ミンナガヒイキヲシテ、イロイロ刀ヲ持ッテ来ルカラ、素人しろうとヨリ買ウカライツモ損ヲシタコトハナカッタ、道具ノ市ニテハモウケノ半分ハ諸道具屋ヘ、ソバ又ハ酒ヲ買ッテ食ワセタユエ、殿様殿様ト云イオッテ、外ノ者ガカッテ物ヲ持ッテ来ルト、前金ニ内通シテクレル故、イチモ損ヲシナカッタカラ、伏ノ市ニハ切者きれものノモノニ、オレガカサヲアケサセタカラ見損ジテ、三匁ノ物ヲオレガ一分入レルト、カセアケガ段々見テ、勝様ハ三匁五分ト云ウカラ、五分ノ損ダカラヨカッタ、ソノ替リニハ、イツモ仕舞イニハソバヲタトエ五十人来テモ一パイズツニテモ、是非クワセルヨウニシテ帰シタカラ、町人ハ壱文弐文ヲアラソウ故、皆ンナガ悦ンデ、諸所ノ市場ニハ、オレガ乗ル蒲団ヲ一ツズツ拵エテアッタ、友達ガクヤシガッテ、イツモオマエハ、市デハ商人ガハイハイ云ウ、ドウイウ訳ダト云ウカラ、右ノ次第ヲ咄はなシタラ、ソレデハ損ダト皆々云ッタガ、タイソウ得ニナッタ、ソレカラ借金ガ四十俵ノ高デ三百五十両半アルカラ、女郎ヲ買ッタト思ッテ、金ノハイル度々たびたび、段々トウチコンダカラ、二年半バカリニ三四十両ニナッタ、コワイモノダ」 やりくりというものは、窮するが如くして迫らざるところのあるものだ。この窮通ができたのは、妙見様の御利益ごりやくばかりではない、小まめに立働くところが感心だ。おれにはできない――こういう神妙な立ちまわりはおれにはできないと、神尾が兜かぶとを脱ぎながら、「何デモ施シガ第一ト心得テ近所ハ勿論もちろん、困ルト云ウモノニハ、ソレゾレソノ者ガ身ニ応ジテ施シタガ、ソノセイカ、饑饉ノ年ニハ、毎日毎日日々壱朱ズツ小遣こづかいニシテ遊ンダ、友達ヘモ時ノ会ヲ合ワシテヤルシ、毎晩毎晩、道具ノ市ヘ行ッテ勤メダト思ッテ精ヲ出シタ、売物ノブ市トイウ物ヲ百文ニツイテ四文ズツノケテミタガ、三月ノ中ニ三両弐分ト葉銭ガタマッタカラ、刀ヲコシラエタ」 この辺になると、二宮金次郎はだしだ。感心感心と神尾があしらい――さて、その次には本職の方になってくる。「剣術ノ仲間デハ、諸先生ヲノケテ、イツモオレガ皆ノ上座ヲシタガ、藤川近義先生ノ年廻リニハ出席ガ五百八十半人有ッタガ、ソノ時ハオレガ一本勝負源平ノ行司ヲシタ、赤石孚祐先生ノ年忘レハ岡野デシタガ、行司取締ハオレダ、井上ノ先伝兵衛先生ノ年忘レニモ頼ミデ諸勝負ノ見分けんぶんハオレガシタ、男谷おたにノ稽古場開キニモオレガ取締行司ダ、ソノ時分ハ万事流儀ノモメ合イ、弟子口論伝受ノ時ノ言渡シ、多分オレバカリシタガ、岡野ハ伝受ノコトハ皆々オレニ聞キ合ワセタ、オレガ下知ニソムク者ハナカッタ、大小ノ拵こしらエ様並ビニ衣服又ハ髪形マデ、下谷、本所ハオレノ通リニシタガ、奇妙ノコトダト思ッテ居ルヨ。ソノ時分ハ、諸所ノ道場ガ至ッテ義定ガ立ッテイテ、先生トハ同座同席ハ弟子ガシナカッタ、外ノ先生ガ来ルト、直グニ高弟ガ出向イテ刀ヲ取ッテ案内ヲシタ、先生迄モソノ玄関マデ迎イニ出タモノダガ、此頃ハ物ガ乱レテ、知ラヌ顔デカマワヌガ、イロイロノ様子ニナルモノダ、稽古モ稽古場ヘ二組トキマッテイタガ、ソレモムチャニナッテ幾組モ勝負ヲスルヨウニナッタ」 さてまた、いろいろの肝煎きもいり、世話焼きをしてやっているうちにも、恩に着るものばかりはない。「通リ町ノチチブ屋三九郎ト云ウ者ガ、公儀ノキジカタ小遣モノノ御用足ごようたしダガ、段々家ガ衰エテ来テ、今ハソノ株ガホカニモ出来テ、一向ニ御用モタサズシテ困ッテイルト高田藤五郎トイウ者ガ云ウカラ、段々聞イタラ、此節末姫様ガ薩州ヘ御引移リ故、右ノ御用ガキキタイト云ウ故ニ、オレガ骨ヲ折ッテ、御本丸ノ御年寄ノ瀬山サンヲ頼ンデ、末姫様ノ御引移リノ時ノ師匠番くれないサンヘ頼ンデ御用キキニシテヤッタガ、ソノ前ニ心願ガ出来タラ、紅サンヘ三十両、瀬山サンヘモ礼ヲスル約束故ニ、ソノコトヲ云ッテヤッタラ、紅サンハ大ノ慾バリ故、悦ンデチチブ屋ヘカンサツヲ渡シテ、先ズ七十両ノ御用ヲ申シ渡シタ故、右ノ金ヲヨコセトイウカラ、三九郎ヘ咄はなシタラ、イロイロ難渋ヲ云イオッテ、始メトハ違ッテ、オレノウチヘモ来タ故、三九郎ヲ呼ンデ、世話ノ変替へんがえヲシタ、ソウスルト早々御用モ下ルシ、カンサツヲ取上ゲハシマイト思ッテイルト、二三日タツトカンサツヲ取上ゲラレテ御用ノ物ハ不用ニナッタカラ、オレノ所ヘカケツケテ夫婦デ来タ、イロイロ云イオッタガ、始末ガカン気ニサワッタ故、ソレナソニシテイタラ、四十両バカリ損ヲシテ、ソノ上ニ大火事ニ焼ケテ裏店うらだなヘハイッテイルト聞イタ、世ノ中ニハ三九郎ノヨウナ者ガ今ハイクラモアルカラ、油断ヲスルトクラウモノダ」山科の巻 六十八 さて、これから勝のおやじの生れ家、男谷との間柄を書いてあるが、このおやじは前に言う通り、子供の時分から勝へ養子にやられ、件くだんの如ごとき馬鹿者であるから、成長したからとて、生家の兄貴共をてこずらせること容易でない。「二番目ノ兄ガ御代官ニナッテカラ、先年三郎左衛門ヘ八両貸シタラ返サヌカラ、男谷デ出会ッテ大喧嘩ヲシテ、兄ハソノ晩逃ゲテ帰ッタガ、ソレカラ十年バカリ絶交シテ居タガ、何トカ思ッタト見エテ、オレノ所ヘ手紙ヲヨコシテ、久々逢ワヌカラ近所ヘ来タカラ尋ネテクレロトイッテ金ヲ二分ヨコシタカラ、亀沢町ヘ行ッテアニヨメニ話シタラバ、先カラ尋ネタラ行クガヨイトイウカラ、直グニ行ッタラ、家中出テイロイロト馳走ヲシテ、彼是トイウカラ、久シク御無沙汰ごぶさたノ段ヲイロイロ云ッテ仲直リ同様ニシテ帰ッタラ、又々、兄ガ女房ヨリ文ヲヨコシテ、オレノ妻ヘ礼ヲイッテヨコシタ、ソレカラ不断尋ネテヤッタ、丁度、支配ガ大兄ノ支配シタ越後水原すいばらニナッタカラ、国ノ風俗人気ノコトヲ聞クカラ、オレガモト行ッタ時ノ様子ヲハナシテ勤向キノコトモ、アラアラシカッタコトハ咄はなシテヤッタ。ソノ翌年ノ春正月七日、御用始メノ夜ニ、何者トモ知ラズ、狼藉者ろうぜきものガハイッテ惣領忠蔵ヲキリ殺シタガ、ソノ時、早速ニ使ヲヨコシタ故、飛ンデイッタガ、モハヤ事ガキレタ、翌日心当リガアッタカラ、小石川ヘ行ッタガ立退イタト見エテ知レヌカラ帰ッタ、ソノウチ大兄ニ近親共ガ来テ相談シテ、オレニ当分林町ニ居テクレロト云ウカラ、毎晩毎晩泊ッテ居タ、昼ハ用ガ有ルカラウチヘ帰ッテイテ、ソノ月ノ二十五日ニ、ケンシガ来テ、二十九日ニハ忠蔵ノ妻ト、兄ガ妻ト、忠蔵ノ惣領ノ※[#「月+毛」、117-16]太郎ヲ評定所ヘ呼出シニナッテ、オレト黒部篤三郎ト云ウ兄ガ三男ガ同道人ニナッテイタガ、ソレカラソノコトデ一年ノ内、月ニ二度位ズツ評定所ヘ出タ、或時同所御座敷ニテ大草能登守ガ与力神上八太郎ト云ウ者ト大談事ヲナシタガ、同所留守居ノ神尾藤右衛門、御徒目附おかちめつけ石坂清三郎、評定所同心湯場宗十郎等ガ中ヘイリテ、段々八太郎ガ不礼ノ段ヲ詫わビルカラ、大草ヘモ云ワズニ帰ッタ、オヨソ壱時いっときバカリノコト、御座敷中ガ大騒動シタガ、イイキビダッタ、相士ノ者ハ皆フルエテ居オッタ」 二番目の兄というのは男谷精一郎のことだろう。その総領の忠蔵が寝込みを襲われて人に斬り殺されたというのは只事ではない。ほかならぬ剣術の家であって、しかも男谷信友ともある者の長子だから、相当腕に覚えがなければならないのが、おめおめと斬り殺されたとは不審の至りだ。何者が、何の恨みあってしたことか、これをくわしく知りたいものだが、この自叙伝は大ざっぱで、それにはちっとも触れていない。評定所で与力と大喧嘩をして、これを詫びさせるなどは、どういういきさつか、これもわからないが、このおやじらしい振舞だ――「コノ年、次ノ兄ガ始メテ越後ヘ行ク故ニ留守ヲ預カッタ、ソレカラオレガ借金モ抜ケタカラ、少シズツ遊山ヲ始メタガ、仕舞イニハイロイロ馬鹿ヲヤッテ、金ヲ遣ッタカラ困ッタ、シカシ借金ハシナイヨウニシタ、林町ノ兄ガ帰ッタカラ、留守ノウチノコトヲ書附デ出シテヤッタラ悦ンデ居タ、コノ年、従弟いとこノ竹内平右衛門ガ娘ヲ、オレノ実娘ニシテ六合忠五郎ト云ウ三百俵ノ男ヘヨメニヤッタ、忠五郎ハモトヨリ弟子故、縁者ニナッタ、竹内ノ惣領三平ガ此年御番入リヲシ、カタクルシクテ出勤ガ出来ヌカラ、御断ワリヲ申シテ引クト云ウカラ、オレガイロイロ工夫シテ、翌日カラ登城サセテタラ、大御番ニナッタ、ソノ親父ガ悦ンデ、一生コノ恩ハ忘レヌト云ッタガ、後年イロイロオレヲホメオッタ」 この辺は例の世話好きが現われて、相当に善事を致してもいるようだが、本来、しっかりした観念があってやるわけではないから、忽たちまち生地が現われて、ついに兄たちと大喧嘩をおっぱじめる。「此暮ニ松坂三右衛門ガ越後ヘ行ク故、三男ノ正之助ト云ウヲ気遣ウ故ニ、オレガ異見ヲシテ、供ニ連レテ行ケト云ッタラ、聞済マシテ連レテ行クツモリニナッタラ、正之助ヘ供先ノコトヲイロイロト教エテ、御代官ノ侍ハ支配ヘ行クト金ニナルカラ、ソノ心得ヲヨク含メテヤッタガ、嬉シガッタ、彼地ヨリ帰ルト礼ヲスルト云ウカラ、ソノ約束デ別レタガ、検見中心得ノコトモ有ルカラ、ソレヲ手紙ニ書イテ送ッタガ、フト取落シタガ、兄ガ拾ッテ持ッテ帰ッテ大兄ヘ見セテ、イロイロオレヲ悪ク云ッタカラ、大兄ガ立腹シテ、オレヲ呼ビニヨコシタ」 何を云ったか、若い者によくない知恵をつけたのだろう。二人の兄が立腹するのも無理はなかろう。「亀沢町ヘ行ッタラ兄ガ云ウニハ、オノシハ、ナゼ正之助ヘ知恵ヲツケテ、イロイロ支配所ノコトヲ教エタ、不埒ふらちノ男ガ、ソノ上ニ、羅紗羽織ラシャばおりヲ着テイルガ、ナゼソンナ奢おごリオルト叱ルカラ、オレガ云ウニハ、正之助ヘ書状ヲヤリシ覚エハ無ク、羅紗ノ羽織ハ小高故ニ、身ナリガ悪イト融通ガ出来ヌ故、余儀ナク着テオリ升ますトイッタラ、ソノ外ニモ聞イタコトノ有ルハ、此頃ハモッパラ吉原ハイリヲスル由、世間ニテハ、オノシガ年頃ニハ、ミンナヤメル時分ニ、不届ノ致シ方ダトイロイロ云ウカラ、御尤ごもっとモニハゴザリマスガ、是モヤハリ身上ノタメニ、ツキ合イニ参リマスト云ウト、猶々なおなお怒ッテ、何事モオレニ向ッテ口答エヲスル、親類ガ、オレガ云ウコトヲ誰モ云イ返ス者ハナイニ、オノシ壱人バカリ刃向ウハ不埒ダ、今一言云ッテミロ、手ハ見セヌト脇差ヘ手ヲ掛ケテ云ウカラ、オレガ云ウニハ、ソレハ兄デモ御言葉ガ過ギマショウ、私モ上かみノ御人ダ、犬モ朋輩、鷹モ朋輩ダカラ、ソウハ切レ升マイトテ、オレモ脇差ヲ取ッタラ、アニヨメガ中ヘハイッテ、イロイロ云ッテオレヲツレテ、手前ノ部屋ヘ来テ、正之助ノ一件ヲ片附ケロト云ウカラ、直グニ林町ヘ行ッテ兄ニ逢ッテ、兄弟ノ情ガ薄イトテ強談シタガ、兄ガ云ウニハ、全ク貴様ノタメヲ思ッテ、大兄ニ云ッタトテ、強情ヲハルカラ、ソノ時ハ役所ノ壱番元〆もとじめ太郎次ヲ兄ノ側ヘ呼寄セテ、兄ガ家事不取締故ニ、是迄度々たびたび結構ノ御役ニナルトシクジリシコトカラ、当時ノ御役ノコトヲモ勤メル器量ガ無イトイウコトノアラマシヲ云イ聞カセテ、御役ヲ引クガイイトイッテヤッタ、ソウスルトソレハドウイウ訳ダト云ウカラ、ソノ時ニ兄ガ兄弟ノ手跡ノ真偽ヲ見分スルコトガ出来ヌ故ハ、ナカナカ県令ハ大役故ニ勤メラレヌト云ッテナゲ出シタ故、オレガ取ッテ燭台ヲ出サセテ三度クリ返シテ大音ニ読ンデ、兄ヘ返シテヨク似セマシタト云ッタラ、兄ガ云ウニハ、ナント是デモカレコレイウカト云ウカラ、オレガ云ウニハ、ソコガ三郎右衛門ハ分ラヌトイウモノダ、ナント私ガ書イタモノナラ、読ムウチニケン語ガスミハシマスマイ、大勢ヲ取扱ウ者ガ此位ノコトニ心ガ附カズバ大ナル御役ハ出来マスマイ、親類共ガ毎度私ヲバ不勤故ニ、小馬鹿ニ致シマスガ、天下ノ評定所デ筋違イノ不礼ヲタダス者ハ是迄聞キマセヌ、真偽ヲ知ラヌ兄ヲ持ッタガ私ガ不肖デゴザリ升ます、ト挨拶シタラバ、ソノ座ノ者ガ一言モイウコトガ出来ヌ故、兄ガイウニハ、是ハ偽筆ニ違イナイカラ、ワシガアヤマッタト云ウカラ、サヨウナラ大兄ヘ手紙ヲ遣つかワシテ、ソノ訳ヲ御申シナサレト云イ、ソノツイデ又通ジタ故、返事ノクルマデ待ッテ居テ、申シ分ナイト云ウ大兄ガ返事ヲ見テカラウチヘ帰ッタガ、ソノ時、甥おいメラハ脇差ヲサシテ次ノ間ニ残ラズ結ンデ居タカラ、帰リガケニ甥ラニ向ッテ、オノシ等ハ先達テ中ノ狼藉ノ時、ソノ通リノ心ガケヲシテタラ、忠蔵ハヤミヤミト殺シハシマイモノ、ソノ時ハ逃ゲテ伯父ヲ取廻イタ、馬鹿ニモ程ノアッタモノダガ、親父様ノ子供ヘノ御教エニカンシンシタト云ッテ笑ッタガ、ウチ中ガクヤシガッタトソノ後聞イタヨ」 兄貴二人をやり込めていい気でいる。ドウもこういう乱暴者にあっては、府内第一の剣術遣いもねっから押しが利きかないらしい。しかしまあ、これではただは済むまい、兄貴共もこのまま捨てても置けまい。「ソレカラ後ハ、大兄モ、林町ノ兄モ、オレガ事ヲ気ヲ附ケテ居ルカラ、少シモトンチャクシナイデ、イロイロ馬鹿騒ギヲシテ日ヲ送ッタガ、或時ニ林町ノ兄ガ三男ノ正之助ガ来テイロイロ兄ノ咄はなしヲシタカラ、揚代滞リニシテ六両金ヲ出シテ、カリ宅ヘ林町ノ用人ヲ連レテ行ッテ、方ヲカイテヤッタラ、兄ガオコッテ、ヤカマシクイウカラ、アニヨメヘオレガ行ッテ、イロイロハグラカシテソノコトハ済ンダ、オレモ三四年ハ大キニ心ガユルンダカラ、吉原ヘバカリハイッテ居タガ、トウトウ、地廻リノ悪輩共ヲ手下ニ附ケタカラ、壱人モオレニ刃向ウ者無カッタ、ソノ替リニ金モイカイコト遣ッタガ、皆ンナオレガ働キデ、借金ヲセヌヨウニシテ、道具ノ市ヘハ一晩デモ欠カサヌヨウニシテ儲ケタガ足リナカッタ」山科の巻 六十九 二人の兄貴も、いよいよこれでは黙ってばかりいられない。「此年、男谷カラ呼ビニヨコシタカラ、精一郎ガ部屋ヘ行ッタラ、ソレカラ、姉ガ云ウニハ、左衛門太郎殿、オ前ハナゼニソンナニ心得違イバカリシナサル、オ兄様ガコノ間カラ世間ノ様子ヲ残ラズ聞合ワセテゴザッタガ、捨置ケヌトテ心配シテ、今度、庭ヘ檻おりヲ拵こしらエテ、オマエヲ入レルト云イナサルカラ、イロイロミンナガ留メタガ、少シモ聞カズシテ、昨日出来上ッタカラハ、晩ニ呼ビニニヤッテオシ籠こメルト相談ガキマッタガ、精一郎モ留メタガナカナカ聞入レガナイカラ、ワタシモ困ッテ居ルト云ッテ、オレニ庭ヘ出テ見ロト云ウカラ、出テ見タラ、二重ガコイニシテ厳重ニ拵エタ故――」 それ見ろ、またしても熊の檻へ入れられる。前に三年というもの三畳の座敷牢へ押込められて、多少は覚えがあるだろう。今度は座敷牢では剣呑けんのんだから、庭へ二重牢と来た。重ね重ねこれは有難く心得て御入所に及ぶほかはあるまい、笑止千万――ところが、今度の熊は、以前のように手軽くは入らない。「姉ニ云ウニハ、段々、兄弟ガ御深切ハ有難ウゴザイマスガ(これが有難くなくてなるものか)今度ハ燈心デデモオコシラエナサレバイイニ、ナゼトイウニ、私モ今度入ルト、最早、出スト免ゆるシテモ出ハシマセヌ、ソノ訳ハ、此節ハ先ズ本所デ男ダテノヨウニナッテキマシテ、世間モ広シ、私ヲ知ラヌ者ハ人ガ馬鹿ニスルヨウニナリマシタカラ、コノ如クニナルト最早、世ノ中ヘハ面かおヲ出スコトハ出来マセヌカラ、断食シテ一日モ早ク死ニマス、斯様かようダロウト思ッタ故、妻ヘモアトノコトヲワザワザ云イ含メテ来マシタ、思召次第おぼしめししだいニナリマショウ、精一郎サン、大小ヲ渡シマスト云ッテ渡シタラ、姉ガ此上ハ改心シロトイウカラ、オレガ、此上改心ハ出来マセヌ、気ガ違イハセヌトイッタラ、精一ガ、御尤ごもっとモダガ御身ノ上ヲ慎シメト云ウカラ、慎ミ様モナイ、最早親父ガ死ンダカラ、頼ミモナイカラ、心願モ疾とウヨリ止メタ故、セメテシタイ程ノコトヲシテ死ノウト思ウタ故ニ、兄ヘ世話ヲカケテ気ノ毒ダカラ、今ヨリ直グニココニ居リマショウト居タガ、精一郎ガ云ウニハ、必ズオマエハ食ヲ断ッテ死ヌダロウト思ッタ故、種々親父ガ機嫌ヲ見合ワセテ居タガ、聞入レヌ故、コウナッタトテ案ジテクレルカラ、何デモ兄ノ心ノ休マルガ肝要ダカラ、オリヘハイルガオレハヨカロウト思ッタ、先達テカラ友達ガ、ウスウス内通モシテクレタ故、疾ウヨリ覚悟ヲシテ居タカラ、一向ニ驚カヌトイッタラ、何シロ先ズ一度御宅ヘ御帰リナサレテ、妻トモ相談シロトイウカラ、ソレニハ及バズ、先ニイウ通リ何モウチノコトハ気ニカカルコトハナイ、息子ハ十六ダカラ、オレハ隠居ヲシテ早ク死ンダガマシダ、長イキヲスルト息子ガ困ルカラ、息子ノコトハ何分頼ムトイッタラ、ソノウチニ姉ガ来テ、一先ズウチヘ帰レトイウカラ、ソレカラ家ヘ戻ッタラ、夜五ツ時分迄、呼ビニ来ルカト待ッテ居タガ、一向沙汰さたガナイカラ、ソノ晩ハ吉原ヘ行ッタ、翌日帰ッタ」 呆あきれたもんだ――熊の檻へはいらずに、その足で吉原通いとは、かなりの代物しろものだ!「ソレカラ兄ヘ只ハ済マヌカラ、書附ヲ出セト云ウカラ、ソレモシナカッタ、姉ガイロイロ心配ヲシテ、諸寺諸山ヘ祈祷ナド頼ンダトイウコトヲ聞イタカラ、翌年春、挨拶安心ノタメ隠居シタガ、三十七ノ歳ダ」 三十七にもなるどうらくおやじを檻には入れそこなったが、隠居ということで、兄貴たちもまず安心の体てい。「ソレカラハ、ムコクニ世ノ中ヲカケ廻リテ、イロイロノ世話ヲシテ、金ヲ取ッテ小遣ニシタガマダ足リナカッタ故、イロイロ工夫ヲシテ、オレノ身ノ上ガコウナッタハ、誰ガ大兄ヘススメテ、詰牢ヘマデ入レヨウトシタカトテ、ソレヲ探ッタラ、林町ノ兄ガ先年ノ恥ジシメタ意趣バラシニ、ウチ中ガ寄ッテ、無イコトマデ大兄ヘ告ゲタトイウコトヲ、慥たしカニ聞留メタカラ、ソノ又返シニ目ヲ見セテクレヨウト思ッテ居ルト……」 こういう身知らずで執念深い弟を持った兄貴も思いやられる。さて、その復讐ふくしゅうには何をしたか。「三男ノ正之助ガ放蕩者故ニ、兄ガ困ッテイルト聞キナガラ、正之助ヲ呼ンデ、ダマシテ聞イタラ、残ラズ兄ガ謀はかりごとヲ白状シタカラ、工面くめんヲシテハ正之助ヘ金ヲ貸シテ遣ワシタガ、仕舞イニハ兄ガ借金ガ蔵宿ノモ切レシトイウカラ、オレガ竹内ノ隠居ヲダマシテ、トウトウ兄ノ判ヲ拵こしらエサセ、蔵宿デ百七十五両、勤メト入用ガ急ニ林町ニテ出来タトテ、正之助ガ諏訪部トイウ男ヲ頼ンデヤッテ借リタガ、蔵宿デモ、三人ガ道具箱デ肩衣かたぎぬマデ着テ行ッタ故、疑ラズニヨコシタ、ソノ金ヲ皆ンナ遣ッテ仕舞ッタガ二月バカリデ知ッテ、兄ガ吝嗇りんしょく故ニ大層ニオコッタカラ、トウトウドコマデモ知ラヌ顔デシマッタガ蔵宿デハイロイロセンサクヲシタガ、知レズニシマッタ」 兄貴の息子をそそのかして放蕩を教えた上に、謀判を以て蔵宿から詐欺取財!「或日、諏訪部ガ来テ、常盤橋ニテ明後日、狐バクチガ有ルカラ、オレニ一ショニ行ッテクレロ、是ハ千両バクチ故ニ、勝ツト大金ガハイルカラ、壱人デハ帰リガ気遣イダカラト云ウカラ、オレハソノ道ニハ今マデ手ヲ出シタコトガナイカライヤダトイッタラ、只行ッテ食物デモ食ウテ寝テ居ロト云ウカラ行ッタガ、ソノ時ハ諏訪部ニモ元手ガ三両シカ無カッタ、ソレモオレガ十両バカリハ貸シタ故ニ、深川ヘ行ッテ見タラ、蔵宿ノ亭主ダノ、大商人おおあきんどガ、日本橋近辺ヨリ集マッテ五六十人バカリシテ場ヲ始メタガ、オレニハイロイロノ馳走ヲシテクレタ故、常盤町ノ女郎屋ヘ行ッテ女郎ヲ呼ンデ遊ンデ居タガ、夜ノ七ツ時分ニ迎エヲヨコシタカラ、茶屋ヘ行ッテ見タラ、諏訪部ハ六百両ホド勝ッタ故、オレガ見切ッテ連レテ帰ッタ、生レテ初メテ、コンナバクチヲ見タト云ッタラ、皆ガ先生ハ人ガイイト云ッテ笑ッタヨ」 このくらい人がよければ申し分はなかろうが、御当人はバクチだけはやらなかったようだが、トバの用心棒に祭り上げられた。「ソレカラ思イツイテ、心易こころやすイ者ヘ高利ヲカシタガヨカッタ、浅草ノ奥山ノ茶屋ヘ金ヲカシタガ、是ハマダルカッタガ、ソノ代り山中ハハイハイトイイオッタ故親分ノヨウダッケ」山科の巻 七十 さて、これから名うての剣客島田虎之助をからかった物語だ。「或日、息子ガ柔術ノ相弟子ニ、島田虎之助トイウ男ガアッタガ、当時デノ剣術遣イダトミンナガオソレル故、コノ男ガカン癪しゃくノ強気者デ、男谷おたにノ弟子モ皆々タタキ伏セラレテ浅草ノ新堀ヘ道場ヲ出シテ居タガ、オレハ一度モ逢ッタコトガナイカラ、近附ちかづきニ行ッタラ、ソノ時オレガ思ウニハ、九州者ノ二三年先ニ江戸ニ来タトイッテモ、マダ江戸ナレハシマイカラ一ツタマシイヲ抜カシテヤロウト心附イタカラ、緋縮緬ひぢりめんノジュバンニ洒落しゃれタ衣類ヲ着テ、短刀羽織デヒョウシ木ノ木刀ヲ一本サシテ逢イタイト云ッタラバ、内弟子ガ出テドコカラ来タトイイオル故ニ、勝ノ隠居ダトイッタラ、早速ニ虎ガ出テ、袴ヲハイテ、座敷ヘ通シ、始メテノ挨拶モ済ンデカラ、イロイロ悴せがれガ世話ノ段ヲ述ベテ、世間剣術話ヲシテ居タガ、オレノナリヲヤタラニ見テ、イロイロ世上ノ云ウタノノコトヲモッテ、アテツケルヨウニ聞ユルカラ、カネテソノ咄はなしモ聞イテ居タ故ニ、一向カマワズ、ソノ日ノ七ツ時分ニナッタカラ、虎ヘ云ウニハ、今日ハ始メテ参ッタカラ何ゾ土産ニテモ持ッテト存ジタガ、御好キナ物モ知レヌ故ニ、手ブラデ参ッタガ、酒ハ如何いかがトイッタラバ呑マヌト云ウカラ、甘物ハト聞イタラ、ソレハイイト答エルカラ、サヨウナラ御苦労ナガラ一所ニ浅草辺マデオ出デト、断ワルヲムリニ引出シテ、浅草デ先ズ奥山ノ女ドモヲナブッテ歩イタカラ、キモヲツブシタ顔ヲシテアトカラ来ルカラ、スシ飯ヲ食ウカト聞イタラ、好キダト云ウ故ニ、ソンナラ面白イトコロデ鮨すしヲ上ゲルトイッテ、吉原ヘイッテ大門ヲハイリニカカルト、御免御免ト云ウカラ、ムリニ仲ノ町ノオ亀ズシヘハイッテ、二階ヘ上ルト間モナク、イイツケタ鮨ヲ出シタ故、食ッテ居ル、ソノ時ニ、煙草ハドウダト聞イタラ、呑ムガ修行中故ヤメテ居ルト云ウカラ、ソレカラソレハ小量ノコトダ、煙草ヲスウトモ修行ノ出来ヌコトハアルマイ、世間デハオマエヲ豪傑ダト云ウカラ、近附ニ来タ、ソノヨウナ小量デハ江戸ノ修行ハ出来ヌトイッタラ、サヨウナラ今日ハ吸オウト云ウ故ニ、下ヘイイツケテ煙草入、煙管きせるヲ買ワシタ、マタ酒モ呑メトセメタラ、同断ノ挨拶故ソレモ呑マシタ、ソノウチニ日ガ入ッタ故、諸方ヘ提灯ガトボルシ、折柄桜時故ニ風景モ一入ひとしおヨク、段々ト揚屋ノ太夫ガ道中スルカラ、二階ヨリ見セタラ、虎ノ云ウニハ、誠ニ別世界ダトテ、余念無ク見テ居タカラ、是カラハオレガ威勢ヲ見セヨウトテ、隅カラ隅マデ見セテ、リキンデ見セタガ、大キニ恐レタ様子ダカラ、直チニ佐野槌ヤヘハイッテ、女郎ノ器量ノソノウチデ一番トイウノヲアゲテ遊ンダガ、桜ノ時分ダカラ、室ガ大勢デ座敷ガ無カッタガ、オレノ顔デ明ケサセテ、明日帰ッタガ、オレハ森下デ別レテ、ウチヘ帰ッタ、ソノ時ニ吉原デアノ通リノ振舞ハ出来ヌモノダガトイウコトデ、顔ガ売レタロウト皆ンナニ咄はなシタトテ、松平ノ家来ノ松浦勘次ガオレニ咄シタニ、最早、隠居ハ吉原ヘ行ッテモ大丈夫ダトイッタ故、男谷ニテモ安心シタト。ソレカラスルコトガ無イカラ、毎日毎日カン音、吉原ガ遊ビドコロデ居タガ、虎ガススメデ、香取カシマ参詣ヲスルト云ウカラ、四月初メニ松平内記ノ家中松浦勘次ヲトモニ連レテ、下総カラ諸所歩イタ道ニ、他流ヘ行キテツカイツツ行ッタガ、先年ヨリ居候共ヲ多ク出シタ故、ソレガ徳ニナッテ路銀モ遣ワズニ諸所ヲ見テ来タ、銚子ニテ足ガ痛ンダカラ、勘次ヲ上総房州ノ方ヘ約束シタ所ヘヤッテ、オレハ銚子ノ広ヤカラ舟デ江戸ヘ送ッテクレタカラ、寝ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄ルリヲ聞イテ浅草辺カラ下谷辺ヲ歩イテ、楽シミニシテ居タガ、六月カ五月末カト思ッタガ、九州ヨリ虎ガ兄弟ガ江戸ヘキタカラ、毎日毎日、行通イシテ、世話ヲシテ、江戸ヲ見セテ歩イタ、虎ノ兄ノ金十郎トイウ男ハ、万事オレ次第ニナッテ居ルカラ、大ガイオレノウチヘトメテ居タガ、或日、吉原ニワカヲ見ニ行ッタ晩、馬道デ喧嘩ヲシテ見セタラ金十郎ハコワガッタ、金十郎ハ国デハアバレ者ト云ッタガ、江戸ヘ来テハツマラヌ男デアッタ、八月末ニ九州ヘ帰ルカラ、川崎マデ送ッテ別レタ」 島田虎之助が当時での剣術ということは、神尾主膳も聞いて知ってはいるが、その島田の虎も、勝のおやじにかかっては、いやはや――しかしこんなに書きなぐるのは表面で、内心は勝のおやじも、たしかに島田に敬服したればこそ、この男を、悴せがれの師匠に見立てて、みっちり修行をさせたのだ。そういう厳粛な方面は、この自叙伝には書いてないが、そこが、おやじの親心で、悴のためを思うことは、一時気違いと言われたほどだから、表面の磊落らいらくばかりを見てはいけない。この馬鹿親爺の息子が、今では徳川の天下を背負って立とうというのは、この親爺の細心な方面と、この島田の虎の仕込みのあたりを、別の頭と眼で見直さなければならない! おれなんぞは――と神尾は、いつも身に引きくらべて見る。それはこの自叙伝が、雰囲気から言っても、どうらくから言っても、神尾の身に引きくらべて読むに最も都合よく出来ている――おれなんぞも、武術の方は、いい師匠を取って、相当に仕込まれたのだが、親爺がこんな馬鹿者でなかったためにしくじった。虎のような名剣師に就かなかったのが、まあ残念といえば残念のようなものだ。江戸者に生れて、身をあやまるも、身を立つるも、ほんの皮一重のものだよ――おれに子供でもあったらば…… 神尾主膳も、こんなように娑婆しゃばっ気けにまで誘発されて、しばらく三ツ眼を休めて考えている時、「あなた、何を読んでらっしゃるの」 不意に隔ての襖ふすまをあけて、スラリとそこへ立っているのは、今日は姥桜うばざくらに水の滴るような丸髷姿まるまげすがたのお絹でありました。山科の巻 七十四 神尾主膳は、せっかく興味をもって読みつづいていた勝の親父の自叙伝を、さきにはビタが来て妨げ、今はお絹が来て中断されたが、さきのビタは問題にならず、お絹の話して行った言句が気になって、これからは、うつろに何枚かの丁を飛ばして行ったが、ふと、しまい際へ来て、女、という文字に釣り込まれて読みついでみると、「オレガ山口ニ居タ時分ダガ、或女ニホレテ困ッタコトガアッタガ、ソノ時ニ、オレガ女房ガソノ女ヲ貰ッテヤロウト云イオルカラ、頼ンダラバ、私ヘ暇ヲ呉レトイウカラ、ソレハナゼダト云ッタラ、女ノウチヘ私ガ参ッテ、是非トモ貰イマスカラ、先モ武士ダカラ、挨拶ガ悪イト、私ガ死ンデモライマスカラ、ト云ッタ、ソノ時ニ短刀ヲ女房ヘ渡シタガ、今晩参ッテキット連レテ来ルト云ウカラ、オレハ外ヘ遊ビニ行ッタラバ、南平ニ出先デ出会ッタ故ゆえ、何事無シニ咄はなシテ居タラバ、南平ガ云ウニハ、勝様ハ女難ノ相ガ厳シイ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、右ノ次第ヲ咄シタラバ、ソレハヨクナスッタト云ウカラ、別レテ、又々、関川讃岐トイウ易者ト心易こころやすイカラ、通リガカリニ寄ッタラ、アナタハ大変ダ、上レトイウ故、上ヘ通ッタラバ、女難ノコトヲ云イオッテ、今晩ハ剣難ガ有ルガ、人ガ大勢痛ムダロウトテ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、初メヨリノコトヲ話シタラバ肝ヲツブシテ、段々深切ニ意見ヲシテクレテ、女房ハ貞実ダト云ッテ、以来ハ情ヲ懸ケテヤレ、トイロイロ云ウカラ、考エテミタラバ、オレガ心得違イダカラ、夕方ウチヘ飛ンデ帰ッタラ、隠居ニ娘ヲ抱カセテ男谷おたにヘヤッテ、女房ハ書置ヲシテウチヲ出ルトコロヘ帰ッテ、ソレカラ漸々ようよう止メテ、何事モ無カッタガ、是迄、度々、女房ニモ助ケラレシコトモアッタ、ソレカラハ不便ふびんヲカケテヤッタガ、ソレマデハ一日デモ、オレニ叩カレヌトイウコトハ無カッタ、此ノ四五年、俄にわカニ病身ニナッタモ、ソノセイカモ知レヌト思ウカラ、隠居様ノヨウニシテ置クワ」 こういうおやじの兄弟も大抵ではないが、細君となるものがことさら思いやられる。亭主の馬鹿に比べてこの女房はエライ、勘弁が届いている――だが、内心ドノくらい、血の涙を呑んだことか。女ではおれもずいぶん馬鹿を尽しただけに、貞婦なる女房というものの有難さがわかって来た。さて、それからは、また頭に入って読みつづくと、「オレガ隠居スル前年ダカ、吉原ガ焼ケテ、諸方ヘ仮宅ガ出来タ、ソノ時、山ノ宿しゅくノ佐野槌屋ノ二階デ、端場はしばノ息子熊トイウ者ト大喧嘩ヲシタガ、熊ヲ二階カラ下ヘ投ゲ出シテヤッタガ、ソノ時、銭座ノ手代ガ二三人来テ熊ヲ連レテ帰ッタガ、少シ過ギルト三十人バカリ、長鍵デ来テ佐野槌屋ヲ取巻イタカラ、オレガ肌ヲヌイデ、襦袢じゅばん一ツデ高モモ立ヲ取ッテ飛ビ出シテ叩キ合ッタガ、三度、二三町追イ返シタソノ時ニ、会所カラ大勢出テ引分ケタガ、ソレカラ山ノ宿デモ、女郎屋一同ニ、客ヲ送ル婆アモ、嬶かかアモ、オレガ顔ヲ下カラヨクヨクシオッタ故、何モ間違イガ無カッタ、ソノ時ハ刀ハ二尺五寸ノヲ差シテイタ、山ノ宿中、女郎屋ガ三日戸ヲシメタガ、事無ク済ンダ。ソノ外、所々ニテノ喧嘩、幾度モアッタガ、タイガイ忘レタ。浅草市デ、多羅尾七郎三郎ト、男谷忠次郎ト、ソノ外五六人デ行ッタ時ハ、二尺八寸ノ関ノ金光ノ刀ヲサシタガ――ソレニ急ニ七郎三郎ガ誘ッタ故、袴はかまヲハカズニ行ッタカラ、雷門ノ内デ込合ウ故ニ、刀ガ股倉ヘ入ッテ歩カレナカッタガ、押合ッテ行クト、侍ガ多羅尾ノ頭ヲ山椒さんしょうノ摺古木すりこぎデブッタカラ、オレガ押サレナガラ、ソイツノ羽織ヲオサエタラバ、摺古木デマタオレノ肩ヲブチオッタ故、刀ヲ抜コウトシタラ、コジリガツカエタカラ、片ハシカラキリ倒スト大声ヲ上ゲタラバ、通リノ者ガパット散ッタカラ、抜打チニソノ男ノ逃ゲルトコロヲアビセタラバ、間合イガ遠クテ、切先デ背ヲ下マデ切下ゲタカラ、帯ガ切レテ大小懐中物モ残ラズ落シテ逃ゲタガ、ソウスルト伝法院ノ辻番カラ、棒ヲ持ッテ一人出タカラ、二三ベン刀ヲ振リ廻シテヤッタラ、往来ノ者ガ半町バカリ散ッタカラ、大小ト鼻紙入ヲ拾イテ、辻番ノ内ヘ投ゲ込ンダ、ソレカラ直グニ奥山ヘ行ッタ、漸々ようよう切先ガ一寸半モカカッタト思ッタ、大勢ノ混ミ合イ場ハ長刀モヨシワルシダト思ッタ、多羅尾ハ禿頭故ニ創きずガツイタ、ソレカラ段々喧嘩ヲシナガラ、両国橋マデ来タガ、ソノ晩ハ何モホカニハ仕事ガナイカラウチヘ帰ッタ。ソノ外ニモ、イロイロ様々ノコトガ有ッタガ、久シクナルカラ思イ出サレヌ、オレハ一生ノウチニ、無法ノ馬鹿ナコトヲシテ年月ヲ送ッタケレドモ、イマダ天道てんとうノ罰モ当ラヌト見エテ、何事ナク四十二年コウシテイルガ、身内ニ創一ツ受ケタコトガナイ、ソノ外ノ者ハ或ハブチ殺サレ、又ハ行衛ガ知レズ、イロイロノ身ニ成ッタ者ガ数知レヌガ、オレハ好運ダト見エテ、我儘わがままノシタイ程シテ、小高ノ者ハオレノヨウニ金ヲ遣ッタモノモ無シ、イツモ力りきンデ配下ヲ多クツカッタ、衣類ハタイガイ人ノ着ヌ唐物ソノ外ノ結構ノ物ヲ着テ、甘イモノハ食イ次第ニシテ、一生女郎ハ好キニ買ッテ、十分ノコトヲシテ来タガ、此頃ニナッテ漸々人間ラシク成ッテ、昔ノコトヲ思ウト身ノ毛ガ立ツヨウダ、男タルモノハ決シテオレガ真似まねヲシナイガイイ、孫ヤヒコガ出来タラバ、ヨクヨク此ノ書物ヲ見セテ身ノイマシメニスルガイイ、今ハ書クノモ気恥カシイ、是レトイウモ無学ニシテ、手跡モ漸ク二十余ニナッテ、手前ノ小用ガ出来ルヨウニナッテ、好キ友達モ無ク、悪友バカリト交ッタ故、ヨキコトハ少シモ気ガ附カヌカラ、此様ノ法外ノコトヲ英雄ゴウケツト思ッタ故、皆ナ心得違イシテ、親類父母妻子ニ迄イクラノ苦労ヲ懸ケタカ知レヌ、カンジンノ旦那ヘハ不忠至極ヲシテ、頭取扱モ不断ニ敵対シテ、トウトウ今ノ如クノ身ノ上ニ成ッタ、幸イニ息子ガヨクッテ孝道シテクレ、又娘ガヨクツカエテ、女房ガオレニソムカナイ故ニ、満足デ此年マデ無難ニ通ッタノダ、四十二ニナッテ初メテ人倫ノ道、且ツハ君父ヘ仕エルコト、諸親ヘムツミ、又ハ妻子下人ノ仁愛ノ道ヲ少シ知ッタラ、是迄ノ所行ガオソロシクナッタ、ヨクヨク読ンデ味ウベシ、子ニ、孫ニマデ、アナカシコ。于時天保十四年寅年初於鶯谷書ス夢酔道人」 これで一巻を読み了おわった時、上野の鐘が、じゃんじゃんと鳴るのを神尾主膳が聞きました。 上野の鐘がじゃんじゃんと鳴るのは警報ではない、上野のじゃんじゃんは通り物になっているのですが、今日はそのじゃんじゃんが、神尾が耳に事有りげに響いて聞えました。「覚王院に会おう、そうだ、あの院主を叩いて、ひとつ聞いてみようではないか」 神尾が突然、巻を叩いて立ち上ったのは、じゃんじゃんの鐘の音につれて、何か急に思い当ったことがあるらしいのです。 その口の端はに現わされたところを聞くと、「覚王院」とある。

「大菩薩峠」を読み直す(5)

この小説のあまたある登場人物のなかで僕がもっとも引かれるのは駒井甚三郎である。無名丸という自ら設計した黒船の針路に関する以下の記述は、期せずして、明治日本以後の日本島の人々に大きな疑問を投げかけているように思う。どこか小栗忠順に通じるところがある。 京の夢おう坂の夢の巻 三十 怱忙そうぼうのうちにも無名丸は、船出としての喜びと希望とを以て、釜石の港から出帆して、再び大海原に現われました。 船長としての駒井には、遠大なる理想もあれば、同時に重大なる責任もあるのであります。その理想と責任とは、船の中で、自分のみが知る希望であり、自分のみが味わう恵みである。辛かろうじてお松だけが、ややその胸中を知るのみで、田山白雲といえども、駒井の心事はよくわからない。 船の乗組は、船の針路に対して、盲従というよりは無知識でありまして、一にも二にも駒井船長を信頼しているのですが、その絶対的信頼を置かれる駒井船長そのものが、船の前途に於て、いまだに迷うているものがあるのです。実際、北せんか、南せんかという最も基本的な羅針の標準に、船長その人が迷っているのだから不思議です。 大海原へ出て見れば、東西南北という観念はおのずから消滅してしまうようなものの、駒井の心の悩みは解消しない。他の乗組のすべては、地理と航海に無知識であるが故に、安心している。駒井に至っては、知識が有り過ぎるために不安がある。他の乗組のすべては、船と船長に絶対信任を置いているが故に安泰だが、駒井自身は、船と人との将来に責任を感ずること大なるだけに休養がない。 今晩も駒井は、衆の熟眠を見すまして、ただ一人、甲板の上をそぞろ歩きをして夜気に打たれつつ、深き思いに耽ふけっているのであります。 世が世ならば、この船を自分の思うままに大手を振って、いずれのところへでも廻航するが、今は世を忍ぶ身の上で、公然たる通航の自由を持っていない。船の籍を直轄に置くことがいけなければ、せめて、仙台その他の有力な藩の持船としてでも置けば、そこには若干の便宜も有り得たに相違ないが、自分の船は、ドコまでも自分の船だという駒井の自信が、いかなる功利を以てしても、他の隷属とすることを許さない。無名丸は、同時に無籍丸であって、その登録すべき国籍と船籍を有せぬ限り、大洋の上に出づれば、それでまた一個の絶対なる王国なのであります。 これを前にしては、お銀様が山に拠よって己おのれの王国を築かんとしている。駒井は海に於て、己れの王国を持っているのであります。小さくとも、これは絶対の一王国に相違ないのです。お銀様の胆吹に於けるものは、当人だけに於ては自尊傲岸じそんごうがんに孤立しているが、周囲の事情に於ては、かえって世上一般に優るとも劣らぬ係累を絶つことが容易でないのに、駒井の王国は、いつ何時でも、世間の係累から切り離して、自分たちの王権を占有することができる、という長所は、同時に、お銀様と駒井との性格をも説明するに足るものでありました。 将来はともあれ、駒井が月ノ浦碇泊前後、胸に秘めたところのものは北進政策でありました。蝦夷えぞの地、すなわち北海道の一角に、しばらく船をつけて、あすこの一角に開墾の最初の鍬くわを打込むということでありました。北海道は開けない、当時の人の心では日本内地だか、外国だかわからないような蒙昧もうまいさがある。その一角を求めて移り住むということは、ほとんど無人島に占拠すると同様の自由があることを確信して、駒井は、月ノ浦を出る時、まず蝦夷ということに腹をきめて出帆し、釜石と宮古の港に寄港して、それから函館という方針でしたが、その後の研究と思索の結果は、それが必ずしも唯一最良の案ではないということです。 なんにしても北海道は、日本の幕府の支配内のところに相違ない。そこへ鍬を卸すことは、何かの故障も予想されるし、自主独立の精神にさわるところがある。それに気候が寒い――物見遊山の目的の船出ではないから、気候風土の良否の如きを念頭に置くことは贅沢ぜいたくのようなものだが、さりとて同じ拓ひらくならば、気候風土の険悪なところよりは、中和なところがよろしい。寒いところよりは、温かいに越したことはない。 それらの思索が、ここに至っても駒井をして、まだ北せんか南せんかに迷わしめている。しからば北進策を捨てて、南進策を取るとしてみると、この船をいずれの方に向け、いずれの地点に向わしむべきか。今となって、そういうことを考えるのは薄志弱行に似て、駒井の場合、必ずしもそうではなかったのです。事をここまで運び得たにしてからが、尋常の人には及びもつかぬ堅心強行の結果というべきだが、船を航海せしむることだけが駒井の目的の全部ではない。むしろ船は便宜の道具であって、求むるところは、何人にも掣肘せいちゅうせられざる、無人の処女地なのです。無人の処女地を求め得て、そこに新しい生活の根拠を創造することにあるのですから、航海も大切だが、それは途中のことに過ぎない。永遠にして根本的なのは植民である。少なくともこれらの人を、子孫までも安居楽業せしむる土地を選定しなければならぬ。そこに念に念を入れての研究と、研究から来る変化や転向が生じても、それは薄志弱行ということにはならないでしょう。 北進を捨てて南進を取るとすれば、駒井の念頭に起る最初のものは、亜米利加アメリカ方面ということになるのは、当然の帰結でもあり、同時に当時の常識でもありました。 ここには、北に対するつり合い上、南進という語を用うるけれども、亜米利加は必ずしも南とは言えない。むしろ東というべきが至当ではあるけれども、それは今の駒井の立場に於て、東でも、南でも、乃至ないしは西であっても、それはかまわない。船の現在の針路が北にあるのだから、それを翻して転換するとすれば、いったんは南へ向けるのが順序である。そうしてこの針路を南へ向けた以上は、亜米利加よりほかには至りつくべき陸地はないということが、その当時の常識ではありました。 亜米利加というものに対する駒井甚三郎の知識は、浅薄なものではありませんでした。当時のあらゆる識者以上の認識を持っていたと見做みなさるべきであります。 且つまた、この亜米利加行きについては、最近、最も参考すべき、日本人主催の航海経験があるというのは、安政六年に、幕府の咸臨丸かんりんまるが、僅か百馬力の船で、軍艦奉行木村摂津守を頭に、勝麟太郎かつりんたろうを指揮として、日本開けて以来はじめての外国航海を遂行したことがあるのでありまして、その経験の認識を、駒井は誰よりも深く、聞きもし、調べもして持っている。北進を取ったのは、駒井としては寧むしろ、よんどころなき避難の急のためであって、駒井の最初の頭は、右の意味での南進に傾いていたのです。それは、今のような自主的の植民地を求めようとする計画からではなく、右の安政年間の、日本人の手によって日本の船を亜米利加まで航海せしめるに成功して、内外人をアッと言わせた、アッと言うことを好まない外人にまで、内心日本人怖るべしとの感を抱かしめた、その前後から起っているのであります。 駒井甚三郎は、右の安政の航海に参加する機会を得なかったけれども、その事あって、彼の自尊心は著しく刺戟された。日本の船で、日本人の手で、はじめて太平洋を横断したという記録は偉なるものでないとは言わない。だが、咸臨丸という船だけは、本来和蘭オランダから買入れた船なのだ。もう一歩進んで、その船をも日本人の手で造りたいものではないか。外国から買入れたものを改装し、改名した船でなく、船そのものをも一切国産を以て創造して、その船を全然、日本人の力でもって欧羅巴ヨーロッパまでも乗切ることはできないか。駒井はこれをやりたかったのです。もし、駒井の在官当時にこの船が出来たならば、駒井は当時、あの時の木村摂津守の役目となり、自家創造の船によって、幕府を代表しての使節として、まず亜米利加を訪問して、次に欧羅巴までも航海を試みたことであろうと思われる。しかるに彼の失脚が公けの使節となることを妨げたけれども、その志だけは立派にこの無名丸によって遂げられている。公使として行くべきものを、浪人として行き得るの実力を持ち得たには持ち得たが、輪郭を作っただけで、内容が完備したとは決して言い得られない悲哀はある。 知識があればあるだけに、無謀が許されない。今のところ、駒井をして南進策を抛棄ほうきせしめているのは、この船で太平洋を横ぎるだけの自信が持ち得られないためであって、決してその初志を断念しているわけではないのです。船に自信が置けないのではない、経験に於て、準備に於て、未いまだ多大の不満を有しているからです。しかし、今となってみると、出立が最後の運命を決定する日になっていますから、その方針に再吟味を加えて、少なくとも今晩一晩の間に、右の南進か北進かに、最後の決断を下さなければならぬという衝動に迫られて、ひとり思案に耽ふけっているのであります。船は、もう疾とうに石炭を焚くことをやめて、夜風に帆走っている。当番のほかは、誰もみんな熟睡の時間で、さしもの茂公もさわがない。 駒井甚三郎は甲板の上を、行きつ、戻りつ、とつ、おいつ、思索に耽っていたが、ふと、船首に向って歩みをとどめて、ギョッとして瞳を定めたものがありましたが、闇を通して見定めれば、驚くまでのことはない、船首に於て金椎少年が、例によって例の如く祈りつつあるのです。 イエス・キリストを信ずることに於て、清澄の茂太郎の揶揄やゆの的となっている金椎少年が、一心に行手の海に向って祈っている。他の者ならば、人の気配を感じて退避すべき場合も、この少年には響かない。駒井もまた、茂太郎の出鱈目でたらめの歌と、金椎の沈黙の祈りとは、この船中の年中行事の一対として、とがめないことになっている。「祈っているな」 ただそれだけで駒井はまた、行きつ、戻りつ、思索の人に返りました。京の夢おう坂の夢の巻 三十一 祈りつつある金椎の姿に、一時いっとき驚かされた駒井甚三郎は、また本然の瞑想にかえって、ひとり甲板上を行きつ戻りつしました。 知識があればあるほど、考えが複雑になって、最後の決断の鈍るのを、自分ながらどうすることもできません。 こういう時には、天啓ということを、科学者なる駒井甚三郎も考えないということはありません。また卜占ぼくせんということに思い及ばないではありません。何か天のおつげがあって、南へ行けとか、北がよろしいとかの示教があるとしたら妙だろう。また、卜占というものにある程度までの信が持てると、それに着手しないという限りもなかったのですが、駒井甚三郎は、そのいずれをも信ずることができない人です。人間以上に、神だの、仏だのというものがあって、人間の都合によってそれが指図をしてくれるなんぞということは、ナンセンスで、取上げたくても取上げられない。 易えきだの卜うらないなどということは、それこそ薄志弱行の凡俗のすることで、人間に頭脳と理性が備わっていることを信ずるものにとっては、ばかばかしくて取上げられるものではない。だが、この時は、知識と、認識と、自分の思考だけでは、さすがの駒井にも適切な判断は下せない。いっそ、ばかばかしければばかばかしいなりに、梅花心易ばいかしんえきというようなものにたよって、当座の暗示を試してみるも一興である。岐路に迷い、迷い抜いたものが、ステッキを押立てて、その倒れた方を是が非でも自分の行路と定めようということなどは、賢明な人の旅行中にもないことではない。この際、そういったような梅花心易はないか――つまり、時にとっての辻占つじうらはないかというところまで、駒井甚三郎の頭が動揺してきたのも無理のないところがあります。 駒井は天上の星を見て、あの星が一つ南へ流れたら、南へ行くと断然心をきめてしまおう、北へ落ちたら、北の進路をつづけることに決定してしまおう、そうまで思って、天上をじっと見つめましたが、一昼夜に地球の全表面に現われる流星現象の総数は、一千万乃至ないし二千万個であろうと言われる流星も、この時に限って、いずれの方向にも、その飛ぶ光を見ることができません。 やむなく船上を行きつ戻りつして、駒井甚三郎は、またも舳先へさきへ来てから、ハッとさせられたのは、事新しいのではない、金椎がやっぱり、まだその場所で祈りを続けている。唖おしの如くというけれども、本来唖なのですから、沈黙に加うるに不動の姿勢がまだ続いているのです。「まだ、祈っている」 駒井は、今更のように呆あきれました。「こうまで一心に、いったい何を祈っているのだ」と自問自答してみましたが、何を祈る金椎であろう。この少年は、イエス・キリストのほかのどの神をも拝まないことはよくわかっている。しからば、そのイエス・キリストに向って、この少年は何事を祈り、且つ求めているのか。 駒井も、祈る人をこれまで多く見ているが、在来の日本人の神仏に祈る人は、こんな祈り方をしない。神道にも、仏教にも、祈祷などになると心血を濺そそぎ、五体をわななかしめて祈っている。その祈りの力によって、安らかに子を産むこともできる、勝敗を左右することもできるような祈り方をしているが、この少年の祈り方の、それらと全く趣を異にしていることを、駒井も白雲同様にかねてよく認めている。 金椎の祈りは、祈りでなくて禅に近い、と駒井が評したことがある。無論、その内容に於て言うのでなく、その形体の静坐寂寞の姿が、禅定ぜんじょうに入るもののように静かなのを見て評した言葉なのです。しかして今日今晩の祈りは、特にそれらしい静かなものです。 そうして、今夜に限って、駒井も改めて金椎の祈祷の相すがたを後ろから注視しているうちに……「待て待て、イギリスから最初にアメリカへ渡った船の人も、絶えず祈っていたということだ、なるほど、西洋の人間共は、みんなイエス・キリストを信じていたのだな、日本には八百万やおよろずの神があり、仏教には八宗百派があるけれども、あちらではイエス・キリスト一つで統一されていたはずだ、本で読んだ時は、人間が神を拝もうと拝むまいと、こっちの知ったことではないと見過して来たが、今晩になると考えさせられる――最初に欧羅巴ヨーロッパからアメリカに渡った人々の経験に聞いて見ようではないか」 そこで、駒井の頭の中に甦よみがえって来た過去の読書のうちのある部分が、ゆくりなくも複写の形となって現われて来たのは、亜米利加アメリカ植民史の上代の一部――五月丸と名づけられた船の物語でした。 亜米利加の歴史を読んだ人で、五月丸の船のことを知らぬ者はない。駒井もそれは先刻承知のことでありました。 五月丸とは、ここで仮りに駒井がつけた呼び名で、五月が May であり、その下に Flower という字がついているから、直訳してみれば「五月花丸」というのが至当だけれども、日本語としては不熟の嫌いがある。「五月雨丸さみだれまる」とでもすれば、ぴったりと日本語に納まりもするが、名によって体をかえることはできない。花はどうしても雨とするわけにはゆかない。そこで駒井は、語呂の調子の上から「五月丸」と呼んでみたが、本来は五月花でなければならないなどと、語学上から考えているうちに、そうだ、今日の門出に、あの五月丸の出立こそは、無二の参考史料ではないか。 そこまで思い来きたると、駒井はむらむらとして、よし! わが当座の梅花心易として、天上に星は飛ばなかった、船中に杖は倒れなかったが、わが前途の方向の暗示は別のところから求められる。船中図書室の中には新大陸の植民史もある。従って、五月丸の物語も出ている。今晩これから図書室へ参入して、その五月丸物語を、もう一応再吟味することによって、この行の決定的断定の資料とするわけにはゆかないか―― 駒井甚三郎は、散漫な頭脳をそこへ統一して、驀然まっしぐらに船の図書室へ向って参入してしまいました。 左様なことを知ろう由もない金椎は、まだ舳みよしによって祈っている。京の夢おう坂の夢の巻 三十二 駒井甚三郎は図書館へ入って、さし当り手近な辞書を取って目的のところを繰って見ると、次の如くあるのを発見しました。 May Flower, the small ship (180 ton) which brought the Pilgrim Fathers from Sauthampton England to Plymouth, Mass., December 22, 1620, after voyage of 63 days. そこで駒井甚三郎は、最初の亜米利加アメリカ訪問の五月丸が、僅か百八十噸トンの小船で、欧羅巴から亜米利加へ来るまでに六十三日を費したという概念をたしかめました。それから次に、Wakamiya, American History という一書を取り出して繙ひもといて行くと、改めて翻訳するまでもなく、能文を以て次のように書いてありましたから、そっくりそのまま転読しました。「女王ゑりざべすノ治世ニ於テ、英国教会ノ制度礼儀ニ一大改革ヲ施スベキヲ主張スル一宗派起リ、教会ヲ清ムルヲ旨義トスルヨリ、コノ宗徒ハ自ラ称シテ『清教徒ピユーリタン』トイヘリ。彼等ハ始ヨリ一宗派ヲ組成スル意志ヲ有セザリキ。彼等ガ牧師ノ一人タルろばとぶらおんノ勧メニ従ヒ、英国教会ヲ離レテソノ同志者トナリケレバ、人呼ンデ、彼等ヲ『分離派』若もしクハ『ぶらおん派』トナセリ。教会規定ノ儀礼如何いかんニ拘ラズ、彼等ハ自ラ欲スルママニ信仰ノ事ヲ実行シタルヨリ、猛烈ナル反対起リタレバ、彼等ノ一隊ハ、ぶるうすたあ及ビろびんそんガ指導ノ下ニ、千六百〇八年、英国北部ノ一寒村タルくろすぴーヨリ逃レテ和蘭オランダノあむすてるだむニ到リ、直チニらいでんニ転ジテ十一年ヲココニ送リタリキ。彼等ノ和蘭ニ在あルヤ、一個ノ別天地ヲ造リテ、総テ英国ノ風俗習慣ヲ保チタレドモ、カクノ如キハ一時ノ寄留者トシテノミ之これヲ能よクスベクシテ、子孫万世ニハ及ボスベカラズ、彼等ニシテ久シク留ラントセバ、勢ヒ彼等ノ別天地ヲ離レ、本国ヲ忘レ、本国ノ語ヲ忘レ、本国ノ伝説ヲ忘レテ、ソノ子孫ヲ純粋ノ和蘭人ト為サザルベカラズ、コレ彼等ノ耐ヘザル所ナリキ。於是乎ここにおいてか千六百十一年、彼等ハ相図リテ移住ノ儀ヲ定メ、永ク英人タルヲ得、且ツ基督キリスト教団ノ基礎ヲ据ヱ得ル処ヲ求メタリケルニ、あめりかハ洵まことニ能ク此等ノ目的ニ副そフモノナリキ。彼等ハカクシテ『倫敦ロンドン商会』ヨリ、今ノにうじやしい沿岸ニ殖民地ヲ得タリ。已すでニシテ千六百二十年七月、ぶるうすたあ、ぶらうどふおーど、及ビまいるす・すたんでつしゆノ三名ハ先発隊トナリテ和蘭ヲ去リ、英国さうざんぷとん港ニ到リ、倫敦ヨリ来きたレル一味ノ人ヲ併セテ、八月五日『五月花』号ニ搭ジテあめりかヘト出帆シタリ。天候悪あシクシテ風波ノ険甚シク、九週間ノ後漸クかつど岬ヘ達スルヲ得タレド、彼等ハコノ地ニ殖民ノ権利ヲ有セザリケレバ、更ニ南ニ航シテ進マントセリ。コノ時暴風進路ヲ遮さへぎリテ船危ク、乃すなはチかつど岬ニ還リテソノ付近ノぷろゐんすたんニ難ヲ避ケヌ――今ヤ殖民地ノ位置ヲ選択スルコト何ヨリモ急ニ、探険隊ノ相分レテソノ捜索ニ従事スルコト五週間、或日ノ事数人ヲ載セタルすたんでつしゆノ小艇ハ、じよん・すみすガぷりまうすト命名セシ港ニ入レリ。コレ即チ清教徒ガ新世界上陸ノ基点ニシテ、世界殖民ノ歴史ニ異彩ヲ放テルぷりまうすノ事業モまた茲ここニ始ル」 駒井甚三郎は直参失脚の後に於て、その爵位財産の一切を返還してしまったが、蔵書だけは、ほとんどその全部をこの船に搬入して来ています。それは、この人にとっては、食物以上の食物であるから、まずこれを蓄蔵しなければならぬと共に、いったん読み去ったものも参考として、常に座右に置くの便利且つ必要なるを感じたからです。且つまた、これは売り払うとしても、処分するとしても、誰も引受け手がない。いや、引受け手は大いにあるにしても、読める人がない。駒井の蔵書を読みこなすほどの人は、今の日本には絶対にないと言ってもよいくらいです。非常な高価と苦心とを以て集め来きたった駒井の書物も、これを手放すとなると二束三文である。看貫かんかんで紙屑に売られる程度を最後の落ちとしなければならぬ。 たとえ祖先伝来の爵位と家産を失うとも、この書物を失うには忍びないというのが駒井の愛惜あいじゃくでした。そうして、それをこの船まで持込んだことに於ては、今でも悔いてはいないのです。 かくて、この多くの書物を、それからそれと漁あさり読み行くうちに、今までに全く閑却していた方面に、新たに多くの興味を見出して、一度消化されたはずの書物が、再び燦然さんぜんたる希望を以ての新たなる頁を自分に展開してくれるもののように見え出して、書物に対する眼が火のように燃え出してきました。 この間に得た駒井の知識は、Pilgrim Fathers の物語が中心となりました。その書物の中の一つの挿絵を見ると、遥か彼方かなたに一艘いっそうの船がある。大きさは駒井の鑑識を以てして百噸内外の帆船に過ぎないが、それが、彼方の沖合に碇泊している。その親船に向って、雑多な人が、小舟に乗込んで岸を離れようとする光景が、一種の写真画となって、その書物のうちにはさまれている。船が手頃の船だし、岸を離れ、国を離れて海洋へ乗り出さんとする刹那が、じっくりと駒井の心をとらえたために、その前後の記事物語を熱心に読み出すことになりました。駒井が多くの蔵書家であり、同時にそれが単なる死蔵書ではなく、充分に読みこなす人であり、読みこなすのみではない、これを実地に活用する稀人まれびとであることは、ここに申すまでもないが、駒井その人が、読書というものには裏も表もある、裏と思ったのが、表であって、読みつくし、味わいつくしたと信じて投げ出して置いた書物から、新たに多大なる半面の内容を贏かち得たということは、このたびの著しい経験でありました。 さて、この船出の写真絵を見ると、諸人もろびとが皆、祈っている。日頃、金椎キンツイがするように、小舟の中に行く人も、岸に立って送る人も、みな祈っている。 彼処かしこにかかっている親船こそ、例の五月号に相違ないのであります。そうしてこれらの諸人は、五月号に乗込んで、まさに海洋に乗り出さんとする人と、これを送るの人であることも争われません。いったい、船というものは、五月号にあれ、無名丸にあれ、今まで駒井の見た眼では、単に一つの構造物だけのものでありました。船の図を見ると、この船は何式で、何噸トンぐらいで、どの時代、どの国の建造にかかっているかということのみが主となりました。従って、船の航海力にしても、これが石炭を焚たいた場合、どのくらい走り、帆をあげてからどの程度走るというような計数ばかり考えさせられていましたが、今晩は船というものが、大きな人格として、脈を打ち、肉をつけ、血を湛たたえている存在物のように見え出してきました。 駒井が読み耽ふけったこの物語は、前の米国史の頁を、もう少し細かく、温かく、滋味豊かに敷衍ふえんしてくれたといってもよい物語でありました。THE ROMANTIC STORY of the MAYFLOWER PILGRIMS京の夢おう坂の夢の巻 三十三 読み且つ解して行くと、駒井の読んでいる物語には、次のような要点がある。「コレ等ノ信神渡航者ハ一人モ往復ノ旅券ヲ求ムルモノナシ、彼等ハ他ノ旅客ノ如ク往ケバ必ズ帰リ来ルモノト予定スルコトヲセザルナリ、到リ着クトコロヲ以テ、ソノ骨ヲ埋ムルトコロト為なス。彼等ハ本国いぎりすノ国家ノ強ヒル宗教ヲ信ズルコトヲ肯がへンゼザルナリ、制度ハ国ノ制度ヲ遵奉じゆんぽうセザル可べカラズトイヘドモ、信仰ハ自由也、国家ヨリ賦課セラルベキモノニアラズ。然しかルニ、コノ信念ハ外ニ於テハ国家ニ不忠、内ニ於テハ国教ニ不信ナリトノ理由ヲ以テ、彼等ハ自国ニ住ムコトヲ極度ニ圧迫セラレタルヲ以テ、故国ヲ逃レテ和蘭オランダノ地ニ来リ、更ニ北米ノ天地ヲ求メタルモノナリ。彼等ノ欲スルトコロハ領土ニアラズ、物資ニアラズ、己おのレノ良心ト信仰トノ活路ヲ見出サンガタメニ新天地ニ出デタルモノ也。閤竜コロンブスノ求ムルトコロハ領土ナリキ。黄金ナリキ。サレバ、彼ニ従フトコロノモノモ、屈強ナル壮年男子ニ限リタレドモ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、オヨソ信仰ヲ共ニスル限リ、老幼男女ノアラユルモノヲ抱容スルコトヲ許サレタリ。コノ図ヲ見ヨ、彼等ノ一人モ、祈ラザルハナク、彼等ノ半個モ、武装シタルハナシ。彼等ハ皆、祈ルコトヲ知リタレドモ、祈ルコトヲ職業トスルモノハ一人モコレ有ラザリキ。即チ、コノ信神渡航者一行百二名ノウチニハ、僧侶ト名ノルモノ一人モコレ有ラザリキ。蓋けだシ、僧侶ハ祈祷ヲ商ヒ、権力ニ媚こブルコトヲ職トスル階級ニシテ、彼等ノ信仰自由ニ同情ヲ持ツコトヲ知ラズ、コレヲ圧迫スルヲノミ職トスルモノナリケレバナラン。軍人ノ経歴アルモノハ、只一人ノミコレ有リキ。コレニ反シテ、閤竜コロンブスヲ先頭トスルすぺいん流ノ渡航者ハ、僧侶ト軍人ヲ以テホトンド全部ヲ占メヰタルガ、コノ信神渡航者ニハ、僧侶ナク、軍人ナシ。而しかシテ猶なホ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、一人ノ貴族モナク、イハユル英雄モ豪傑モ、一人モ有ルコトナシ。彼等ハ皆、小農夫、或ハ小商人ニ過ギザリキ。然しかレドモ、コレ等ノ小農夫及小商人ハ、皆天ヲ敬シ、人ヲ愛スルコトヲ知ルモノナリキ。彼等ハ教育アリ、訓練アリ、特ニ自治ノ能力ニ於テハ優レタル天分素質ヲ有セルモノナリキ。カクテ西航六十有余日。信神渡航者ガぷりもすニ到リ着セル時ハ、北米ノ天ハ寒威猛烈ナル極月ノ、シカモ三十日ナリキ。彼等ノ胸臆ハ火ノ如ク燃エシカド、周囲ノ天地ハ満目荒涼タル未開ノ厳冬也。シカモコノ寒キ天地ノ中ニ、掘立小屋ヲ作リテ、辛ウジテ彼等ノ肉体ヲ入レテ、而シテ、生活ノ第一歩ヨリ踏ミ出サザルベカラズ、ソノ艱苦経営知ルベキナリ。サレバ、ソノ三ヶ月ノ間ニ、コノ一行ノ死セルモノ約半数ニ及ビタリ、一日ニ死スルモノ二三人、百二名ヲ以テ上陸シタル一行ハ三ヶ月ニシテ五十名ヲ余スノミ。内ニ信仰ノ火燃ユルガ如ク、外ニ国民性ノ堅実不撓ふたうナルニアラザレバ、イカデカコノ悲惨ニ堪ヘ得ンヤ。絶望シ、悲観シ、空シク絶滅スルカ、然ラズンバ辱はじヲ忍ンデ逃ゲテ故国ノ空ニ帰ランカ。シカモ、彼等ノ一人モ意気精神ノ阻喪そさうスルモノヲ見ザリキ。彼等ハ、先ヅ荒土ヲ拓ひらイテ種ヲ蒔まキタリ。熟土ヲ耕ストハ事変リ、前人未開ノ地ニ、原始ノ鍬ヲ用フルノ困難ハ知ル人ゾ知ラン。彼等ガ農法ハ新陸ノ土地ニ適セザルカ、彼等ノ携ヘ来レル種子ハ新地ニ合セザルカ、苦心経営ノ初期ノ収納ハ遂ニ皆無ナリキ、而シテ土人ヨリ分与受ケタル玉蜀黍たうもろこしノミガ成功シ、コレニヨツテ僅カニ主食ヲ備ヘ、漁猟ヲ以テコレヲ補ヒツツ、辛ウジテソノ年ヲ送ルヲ得タル也」 こういったような史実は、駒井甚三郎にとっては、今まで全く門外のことでありました。亜米利加建国初期の開拓者が、こんなような苦難を嘗なめて来たということは、今日までの駒井はほとんど無関心であって、ただ彼は開明の国、人智と機械力とで日本を高圧したり、開国に導こうとしたりしている国、その物と力の発明には、何と言っても一日も一月もの長所があることを、駒井の如きは最も強く認めた一人でありまして、人から西洋心酔者とうたわれるまでに、西洋特に亜米利加の文物の研究のことに熱心であった駒井は、その原始に遡さかのぼって、今日の開明人にもかくの如き苦心惨憺の経営時代があったということを、今日はじめて身にしみじみと味わうことができました。「おれは今まで苦労をしないで学問をした、その罪だ」というようなことを、同時に駒井が自覚したというのは、過去の自分は先祖の功業によって、天下の直参の誇りの中に生き、豊かな経費を持って、欲しいものを購あがない得られた。その順境に於て学問をして来たのである。だから、順境そのものが天然に与えられた当然の地位だ、と慣なれっ子こになって事をなしつつあったのだが、自分の昨日の安定を与えたものは、徳川初期の先祖の血の賜物であったに過ぎないということを、今しみじみと自覚せしめられました。 そうして、今日は全く赤裸にかえって、先祖のなした創業の第一歩を踏むの心持で進まなければならぬことがよくわかってきました。その心境にいて見ると、右の如く自由の天地を求めて船出をした異郷の先人の行路に、無限の教訓と、同情を起さざるを得ない――といって、この書の教うる「信神渡航者」の船出と、現在自分が試みつつある無名丸の出発は、性質に於ても、経験に於ても、全然性質を異にしていることを覚らざるを得ないという次第でした。 無名丸はまだ無名丸である、しかとした船の名目すらが出来ていない。名は体をあらわすものとすれば、無名丸そのものの内容が無目的なのであって、形は出来て、歩行はつづけられるけれども、頭もなければ肚はらもないのだということを、駒井はつくづくと考えさせられてきました。 さりとて、自分はイエス・キリストを信ずるものではない、イエス・キリストを信ずるどころではない、日本の宗教のいずれにも信仰者とは断じて言えない。この点に於て、無名丸は無信丸である、五月丸とは天地の相違がある――我等の無名丸の中には、金椎キンツイを除いて祈る人などは一人もいない。五月丸の中には、僧侶、軍人、英雄、豪傑といったようなものは一人もいなかったそうだが、それが今日の亜米利加アメリカの強大の礎石となったということは、絶大なる驚異だ。 それに反して我が無名丸の中には、少なくとも貴族がいる。自分から言うのは烏滸おこがましいが、現在自分の身柄がすでに貴族でないと誰が言う。日本に於て、殿様の階級に属して天下の直参を誇っていた身だ。それに田山白雲はまた一種の豪傑である。七兵衛は異常な怪物である。茂太郎は変則の天才であり、柳田平治は豪傑の卵である。お松は堅実なる女性である。金椎は聖者に似ている。普通平凡なのは、農夫、漁師、大工、乳母だけにとどまる。上は天才聖者に似たのがいるかと見ると――下は性の開放者までいる。数こそ少ないが、この船の中の人間と、その性格に至っては、紛然雑然として帰一するということを知らない。 五月丸の乗組は、その信仰と結合に於ては一糸も紊みだれない、おのずからなる統一を保って、生死を共にして厭いとわない温かさに終始していたが、自分の船に至っては、なんらのまとまった信仰がなく、なんらの性格的帰一がない。これでいいのか、と駒井甚三郎が、この点に於ても深くも考えさせられたものがあるようでした。 しかし、夜が明けると、船の針路がおのずから南に向っておりました。 駒井甚三郎は、北進策を捨てて、南進を目標とする決心が昨夜のうちに定まったと見えます。 駒井甚三郎が、北進を捨てて南進策を取ったからといって、信神渡航者のことは亜米利加に於ても、すでに二百年の昔のことです。今の亜米利加は昔の亜米利加でない、富み栄えて張りきっている。いまさら駒井がその後塵を拝して、前人のすでに功を成したその余沢にありつこうなどの依頼心はないにきまっている。いわばこれを一時の梅花心易ばいかしんえきに求めて、当座の行動の辻占に供したに過ぎまいと言うべきですから、従って、針路こそ南に転向ときまったけれども、目的がきまったわけではない。内外共に未いまだ解決せざる問題が充ち満ちている。 前途に倍加する多事多難を予想せずにはいられますまい。https://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4344_15487.html