Can’t stop biking

7-8年ぶりにMTBで丸子橋まるこばしから多摩水道橋まで往復20km土手どてを走った。洗足池から多摩川べりまで往復約6km、計約26kmを1時間40分で走った。体がほてって興奮している。爽快そうかいなこと、この上ない。だから、自転車は止やめられない。 珍しい、橋の歩道に誰一人いない。下流に架かる橋の上を小田急線の在来線とロマンスカーが走っている。

雷雨のなかMTBで疾走

稲妻が走り雷が轟とどろくなか降りしきる雨にめげることなく、経堂きょうどうから洗足池せんぞくいけまでMTBで45分ほど疾走しっそうした。ヘルメット(Montbell)のお蔭かげでメガネに雨の滴しずくが落ちることもなく、都会でMTBによる快走を楽しんだ。ギアの切り替えも実に滑なめらかだった。 山道と比べれば都会の舗装路は楽なものだが、雨雲あまぐもで暗くなった夕方濡ぬれた車道を走るのはかなりの緊張を強しいられる。金属製の排水口や路肩のくぼみに注意しながら走るからだ。山道でタイヤを樹木の根っこに取られまいとして常に気を張っているのと同じかもしれない。信号が変わるのを見届け、後方から走ってくる車を気にしながらの疾駆しっくでもある。 いずれの場合も、危険を避けることに集中して頭が空っぽになるからいいのだ。走り終えたあとの爽快そうかい感も小こ一時間何も考えずにいたことの反作用だろう。小学生のころ、プールの帰り道に雷雨のなかを走ったことがある。あのとき少年が感じていたのも同じ緊張感と解放感だったかもしれない。少年は何よりも雷と闇夜やみよが怖こわかった。 廣重「木曾海道六十九次」須原(c)山田書店

旧東海道の池鯉鮒宿

旧東海道39番目の宿場町だった池鯉鮒ちりふ宿は現・知立ちりゅう市にある。明治時代の鉄道創設期、池鯉鮒宿の駕籠かご屋や馬子まごなどが宿場町の衰退を恐れ鉄道敷設に反対したため(鉄道忌避きひ伝説という見解もある)、東海道本線は迂回うかいルートを通ることになったという。 知立市に引っ越した娘夫婦を訪ねたとき、娘婿が教えてくれた。隣接する刈谷市にはトヨタ自動車関連の企業すべての本社があるという(トヨタ自動車は豊田市)。法人税収入のせいか市内バスは誰でも無料で乗れるそうだ。旅行者も乗れる。 廣重の描いた旧東海道39次目の池鯉鮒宿、現・知立市 愛知県は食にまつわる話が多い。僕が好きな鰻料理の櫃ひつまぶしは現・西尾市で生まれたという。抹茶の生産地として世界に知られた西尾には僕の父が少年期を過ごした西小梛こなぎ町がある。江戸期に念仏道場があり道場という地名が残った。小梛こなぎの小は小栗に由来すると聞いた。

澤庵と賀茂眞淵の墓

澤庵(17世紀前半)と賀茂眞淵(18世紀)の墓を訪ねた。2年前の5月と同じく都会のど真ん中にある墓はひっきりなしに通過する列車の轟音で落ち着かない。隣接する土地にリニア新幹線関連の工事現場があり、墓の入り口が高い壁に囲まれ圧迫感さえ感じる。 17世紀前半に創建した東海寺の敷地は盛時に約16万㎡だったという。参考までに新宿御苑は約58万㎡で、皇居はその約4倍である。墓と寺院と権力について考えさせられる。 賀茂眞淵の墓賀茂眞淵の墓賀茂眞淵の墓澤庵の墓澤庵の墓澤庵の案内板 https://oguriq.com/2021/05/02/%e8%b3%80%e8%8c%82%e9%a6%ac%e6%b7%b5%e3%81%ae%e5%a2%93/

Struggling with a bike

[上のイラストの中央にある標識: To Cyclists. This Hill Is Dangerous.] 以下の文章は、宮田浩介氏の「サイクリストになった漱石: 技術史の視点で読み解くロンドン『自転車日記』」(Jubne Notes 2014年3月掲載)を一部編集(見出しの一部修正と図版の選択など)を施し引用したものです。同氏はこの文章の末尾に次のように記していますが、大いに同感です。漱石がぐっと身近な人になりました。(このブログは22年1月28日に投稿しました。同じ内容で再掲します) 『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。Jubne Notes ©2006-2022 kosukemiyata.com 以下、引用します。 夏目漱石の作品に「自転車日記」というタイトルの短編がある。留学先のロンドンで自転車に乗り始めた時のことを、自虐的かつユーモラスな口調で語ったものだ。西洋近代の中心地で漱石が出遭ったのは、いったいどのような自転車だったのか。そして彼は、この文明の産物とどんな風に格闘したのだろうか。19世紀の終わり頃の資料などを頼りに、彼のサイクリング体験の実像を探ってみよう。 漱石35歳の自転車デビュー 漱石の「自転車日記」に綴られているのは、「西暦1902年秋」、今からおよそ120年前の出来事だ。彼は既に満年齢で35歳になっていた[1]が、下宿の「婆さん」から強く勧められてその「命」に従うまで、自転車に「乗って見た」ことは全く無かったらしい。 未経験者の漱石にとっては、自転車に跨るだけでも大変なことだった。「いざという間際でずどんと落る」。「ずんでん堂とこける」。監督役の「○○氏」に車体を支えてもらい、サドルに腰かけたところで前に押してもらっても、次の瞬間には「砂地に横面を抛りつけ」ている。日を経て「ともかくも人間が自転車に附着している」状態を保てるようになっても、坂道での練習で彼は制動不能に陥り、塀にぶつかった後でようやく止まるのだった。 訓練を開始してから数日、やっとサドルに座ってペダルを漕げるようになってきても、漱石はまだ思うように走れなかったようだ。 よく知っているエリアの案内を同行者に任されたのに、彼は「曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう」のだ。 なんとかハンドルをこじって別の方向へ曲がってみるも、今度はその急激な動作によって、「余に尾行して来た一人のサイクリスト」の転倒を誘発してしまう(怒った相手は「チンチンチャイナマン」と彼を罵倒する)。 人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもない 「日記」の終わり近くのある日、漱石はこんなサイオー・ホースめいた格言を作って開き直ってみるが、「バタシー公園」(Battersea Park)へ行く途中で他の自転車の割り込みに遭い、「自分が落ち」て危うく馬車に轢かれそうになる。 漱石が購入した「老朽の自転車」 こうして「自転車日記」をざっと読み通してみると、漱石は運動が苦手、との印象が否めない。 運転中の判断のセンスが疑われる場面も多く、思わず「そういう時はこうするんだよ!」と教えてあげたくなる。 けれどもその助言が正しいかどうかは、もう少し詳しく調べてみなければ分からない。自分のイメージしている自転車が、そもそも間違っているかも知れないからだ。 「ラヴェンダー・ヒル」の自転車店を訪れた際、「○○氏」はまず「女乗」を薦めた、と「日記」にはある。これに対し漱石は「髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない」と抗議、練習車は「いとも見苦しかりける男乗」に決まった。それは「関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車」で、「物置の隅に閑居静養を専にした奴」という感じだった。 図3[3]: 漱石の言う「女乗」とは、スカートでも乗れるフレーム形状の自転車のことだろう 漱石が購入した「老朽の自転車」は、実際のところどんな構造のものだったのか。店の場面の「上からウンと押して見るとギーと鳴る」、「ハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり」といった描写は、前輪が極端に大きい「オーディナリー自転車」には当てはまりそうにない(図4参照)。1880年代の中頃まではこのタイプが「普通の自転車」(ordinary bicycles)だった[4]が、1895年には新型にすっかり「普通」の座を奪われ、その呼び名も限定的な形(Ordinary Bicycles)に変わっていたようだ[5]。そんな車種を1902年になってわざわざ選ぶというのも、初心者の訓練用としてはまずありえない。 図4[6]: 「オーディナリー」型の自転車のハンドルは乗車前に上から押せるような位置にはない 1880年代に進んだ「セーフティー」(Safety)自転車の開発には、乗車位置を下げて転倒の危険性を減らし、なおかつ安定した走行性能を確保するという共通課題があった[7]。これらの条件を満たして好評を得たのが、スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)社の「ローバー」(Rover)だった。チェーンを介した後輪駆動、前後同等サイズのホイール(2世代目以降)といったその構成は、自転車のスタンダードとして次第に定着していった[8]。1888年にはスコットランド出身のダンロップ博士が空気を入れるタイヤの特許を取得、乗り心地が良く楽にスピードの出せるこの方式のタイヤは、7、8年のうちに殆ど全ての新車の標準装備となり、従来のソリッドタイヤを駆逐してしまった[9]。 図5[10]: 空気入りタイヤとそうでないものとが混在し、新車購入時にユーザーがどちらかを選択できた時期もあった 乗り易いセーフティー型の発展が市場に及ぼした影響は大きく、イギリスでは自転車ブームが最高潮となった1895~97年にかけて、毎年およそ75万台が生産されていたと推計されている[11]。 1889年の時点では55弱だったロンドンの自転車メーカー(多くは大元の製造ではなく販売や修理のみを行っていた)の数も、1897年には390にまで膨れ上がっていた[12]。 漱石の留学はこの大流行が過ぎ去った後のことだが、彼が練習のために希望した「当り前の奴」は、こうして広まった自転車のうちの「男乗」だったろう。 図6[13]: 1898年にアメリカで出版された本の図解では、空気入りタイヤが標準的なものとして扱われている ブレーキが無かった? 漱石が乗っていたと思われる1890年代のセーフティー型は、既に今の自転車と同じような姿をしていた。しかしながらその機械的な構造には、現代の感覚に照らすとまだ「安全」とは言い難い点があった。クランク(図6の29番)と後輪の回転が互いに直結していたため、ペダルに載せた足を走行中に止められなかったのだ。 ブレーキは前輪のタイヤに作用する手動式(図3、5、6、7参照)が最も一般的だったが、主に女性が使うものと考えられていたのか、これらを全く装着することなく、ペダルを逆に踏む「バック踏み」(back-pedaling / back-pedalling)だけで速度をコントロールするサイクリストも多かったようだ[14]。 図7[15]: …

e-ottocycles

家の近くに e-ottocycles という自転車屋がオープンした。そのサイトに「通勤・通学をもっと楽しく快適に、軽くて速いは後回あとまわし」とあり、Taj Mihelich の次の言葉を紹介している。 Taj Mihelich の言葉(編集して一部抜粋) ……「複雑な技術が自転車の乗り心地を良くすることは滅多めったにない」ということを、僕はBMXのシンプルな機能性から学んだ。シンプルさこそが実は自転車のすばらしいマジックなのだ。 ……シンプルで信頼できるバイクに対する愛情と30年以上の経験に基づいてデザインした僕の理想のバイクが Fairdale だ。[モトクロスインターナショナル] 独立開業して Fairdale を取り扱う喜びを述べている店主は、心から自転車を好きなんだろうな、と思う。近所にこういう自転車屋ができて何だかうれしい。写真は e-ottocycles のサイトから転載しました。詳細は同サイトをご覧ください。 UNIT X: Fairdale TajUNIT: Matte BloodstoneGloss Metallic GreyFairdale Express 店主のいう「通勤・通学をもっと楽しく快適に、軽くて速いは後回し」に大いに同感だ。この国で「軽くて速い」が後回しになるのはいつのことだろうか。 e-otto の意味が気になり語源を調べた。Webster にはアラビア語 attar の変形で香水の意いとあるが、関係なさそうだ。日本語のローマ字表記かもしれない。 アルゼンチン・タンゴの Miguel Zotto (1958-) を思い出した、これも関係なさそうだ。 https://youtu.be/_4G03HpzArc Fair-dale: 元の意味は美しい渓谷・みごとな谷fair (adj.) Old English fæger "pleasing to the sight (of persons and body features, also of objects, places, etc.); beautiful, handsome, …

Thanks Ms. Zoff.

中二のときから掛かけているので、60年メガネをしていることになる。これまでにいくつ壊こわし、いくつ買い替えたろう。発車まぎわの電車に飛び込もうとしてドアに挟はさまれ、無残むざんに壊れた高級メガネもある。 最近はもっぱら Zoff の世話になっている。きょう勤め帰りにG駅の店に寄って視力検査を受けた。しばらく前からパソコンの画面が見づらくなっていたのだ。老眼になってもいい歳としだが、と思いつつ検査を受けた。検査中と検査後のやり取りは次のとおりだ。 「きょうは眼が少しお疲れですか」「スマホとパソコンで酷使こくししていますから」「よく見えることもおありですね」「あさ起きがけがよくありません」「左右の視力バランスがよくなかったようです」 担当したOさん、とても感じがよかった。検眼機器に顎あごを乗せ額ひたいを接しながら僕は見えたとおり明確にあるいは曖昧あいまいに応おうじただけだが、的確に診みてくれた。間違いなくベテランの技わざだ。加工も早く、きれいに仕上がっていた。アウトドア用を見るのが今から楽しみだ。 アウトドア用は娘が贈ってくれたものだし、パソコン用は妻に見てもらったものだ。フレームも替えようかと思ったが、ひび割れなどないとのことだったので、いずれもレンズ交換だけにした。家に帰ってパソコン画面に向かうと、予想以上に鮮明で見やすい。新しいメガネになったようだ。Thanks Ms. Zoff! パソコン用パソコン用(ケース入り)アウトドア用アウトドア用(ケース入り) 二日後、予定より早くアウトドア用を受け止った。Thanks again Ms. O.

K-drama 밥이 되어라(1)

韓国ドラマ「ごはんに願いを」 (原題 밥이 되어라)の人間観察がおもしろい。서울に行く列車が1日に数本しかなく、噂うわさがすぐ町中まちじゅうの人々に伝わる、低い山々に囲まれ、その真ん中をゆったりと川が流れる田舎いなかを舞台に約20年にわたって物語が展開する。 2021年のMBC放送では全120話、日本のBS11版も75話という長編だ。主たる場面は밥집バプジプという小さな食堂と市内の궁궐グングォル(宮廷)という豪華な高級料理店。毎夜、밥집(ご飯の家)に3世帯の家族が集まり、一つのテーブルを囲んで食事をする。彼らは大家族のように暮らし、それぞれの家で起きたことを話し、それぞれが抱える問題を自分のこととして心配する。 ある日、その食堂の経営者경수ギョンスのところに久しく音信のなかった彼の父親が訪ねてくる。父親は少女1人を連れてきて、その子を息子に託たくし去ってしまう。少女の名は영신ヨンシン、就学年齢を過ぎているのに入学していない。母親を知らず1人で暮らしてきた경수は悩んだ末に少女を受け入れる。賢くて思いやりのある彼女がこのドラマの主人公だ。 영신を含め同級生4人の友情と恋愛を軸にドラマが進行してゆく。ことあるごとに彼らの小学校時代の場面が挿入され、二つの時間軸がパラレルに進んでいるようにも感じられる。混乱することもあったが、しだいに作者の意図が奈辺なへんにあるか考えるようになった。僕なりの解釈がまとまったら、改めて投稿しようと思う。 他方、궁궐の経営陣の家族のあいだでは会長の後継者をめぐっていがみ合いが絶えない。その会長が20年前に交通事故で失った恋人と영신、会長夫人と경수の関係がドラマの伏線ふくせんとしてあり、紆余うよ曲折きょくせつするプロットはいかにも韓国ドラマだ。ひとつ気になるのは伏線がすべて、平然へいぜんと嘘うそをつく会長夫人の台詞せりふによって作られていることだ。 人間味あふれる밥집の疑似ぎじ家族と殺伐さつばつとした궁궐の親族との比較を通して、家族の意味と人の本性や真価について考えさせる作品だ。地縁関係と血縁関係の対比とみることもできよう。このドラマを44話までみた僕の解釈によれば、真の主人公は脇役の용구ヨングだ。 용구は知的障害者で風采ふうさいこそあがらないが、深い思いやりと鋭い観察眼かんさつがんを持っている。年老いた母親と一緒に伝統的な韓国の市場シジャンで野菜を売り、自転車で固定客に配達する。彼を侮あなどって安く買おうとする客に気づきながら、その客に恥をかかせまいとして計算できないふりをする용구は木偶でくの坊ぼうとして描かれる。 용구の心はどこまでも温あたたかいぬくもりに満ちている。人に侮あなどられながら生きてきたせいか、心底しんそこ思いやりに溢あふれた人だ。その彼が、同じ市場でアクセサリー類を売る女性필선ピルソンを好きになる。周囲の人々が彼にデートの段取だんどりや恋愛の仕方を教えると、彼はうれしそうに耳を傾ける。彼女が市場に来なくなったときの彼の落胆ぶりは深刻だが、みなに知られないように気丈きじょうにふるまう。 登場人物図(下)の一番下に小さな写真で載っている용구。その隣りに필선を入れるべきなのに、彼女は図にもポスター写真にも載っていない。彼を好きになった彼女こそ心眼しんがんの持ち主であろう。半狂乱状態に陥って自閉していた다정ダジョンの心を開かせた용구の凄すごさを思うべきである。 宮澤賢治のいう「デクノボー」のような人なのだ。以前ブログに書いた宮澤賢治「雨ニモマケズ」を読むを改めて思う。 https://program.imbc.com/agoodsupper 主な出演者とその役柄주요 인물정우연 : 김영신(본명:강영신)(강종권의 친딸)(23) 역 (아역 : 김시하) - 고아, 밥집 주방장 → 한정식집 '궁궐' 인턴사원 → 정직원 → 주방장 → 무직→ '디딤(종합외식기업)' 식품개발부 본부장재희 : 정경수(38) 역 - 밥집 사장 → '디딤(종합외식기업)' 식품개발부 본부장 → 사망, 영신을 길러준 아저씨, 한식당 '영화당' 창업주의 손자권혁 : 박정훈(23) 역 …

ふくかんねっと: 2016-2023

「ふくかんねっと」近年の活動から新型コロナウイルス感染対策のため活動を自粛いたします。再開について追ってご案内いたします・キムチ販売  4月20日~6月末予定・韓国語講座  時期未定・イベント  6月より開催予定・コラッセでの販売  6月より開始予定地域に根ざした日韓交流を続けて20年: ちょん・ひょんすく講演会新型コロナウイルス感染対策のため中止「地域に根ざした日韓交流を続けて20年: ふくかんねっとの活動」と題し、ふくかんねっと理事長のちょん・ひょんすくの講演です。長年、福島を拠点に韓国語や韓国料理の講座、日韓の市民交流を実践し...日時:2月26日(水)18時半~会場:日韓文化交流基金(東京都千代田区)主催:日韓文化交流基金日韓文化交流基金賞を受賞しました学術・文化分野の交流を通じて日韓両国間の友好親善に寄与した韓国人に贈られる日韓文化交流基金賞の受賞を祝い、祝賀会が開催されました。日時:12月18日(水)会場:いやしカフェ詳細はこちら2019ふくしまキムチ村プロジェクト福島市フルーツライン沿いの耕作放棄地3千坪を活用し「薬膳王国」を発信中。福島ブランドとして栽培から販売まで地元の皆さんの力をお借りしています。詳細はこちら、facebookで案内しています。日韓文化交流基金賞 福島県で初の受賞「今だからこそ草の根交流が大事」福島と韓国の民間交流を推進してきたNPO法人の理事長が表彰されました。表彰式は9月18日ソウルのロッテホテルで行われました。主催:日韓文化交流基金受賞の詳細はこちら2018ふくしまキムチ村プロジェクト福島市フルーツライン沿いの耕作放棄地3千坪を活用して栽培した製品を福島ブランドとして全力を尽くして販売していくこととなりました。詳細はこちらfacebookで案内しています。未来につなぐ環境プロジェクト2017年に続き韓国の学生25名が来日しました。福島県を中心に革新的エネルギー開発や環境問題に取り組む関連施設、関係者との意見交換を通じ、東日本大震災を克服して復興を遂げる福島の姿を学びました。期間:2018.8.20(月)~8.29(水)詳細はこちらふくしまと韓国かけはしプログラムⅡ:ふくかん農食品文化交流事業■招へいプログラム 詳細はこちら2017.2.20(月)~3.1(水)■派遣プログラム 詳細はこちら2017.3.15(水)~3.21(火)主催:NPO法人ふくかんねっと共催:公益財団法人日韓文化交流基金日韓青少年交流架けはしプログラム開催2016.8.1(月)~8.10(水)主催:NPO法人ふくかんねっと共催:公益財団法人日韓文化交流基金協力:国際民間教育文化交流会詳細はこちら報告書(韓国語)はこちらこんにちは! ふくしま! 希望のコンサート2011年3月11日の東日本大震災その後の原発事故から5年4か月が経過しました。いまもその影響に苦悩する福島に、韓国からエールが届く福島と韓国を結ぶ心躍るパフォーマンス。日時:2016年7月21日(木)18:30開演場所:とうほう・みんなの文化センター[福島県文化センター]詳細はこちら韓国の国民的俳優チェ・ブラム氏の呼びかけで韓国政府の支援を得ました。県内経済団体や報道機関が参加した実行委員会を組織して開催しました。K-POPコンテスト 2016 福島大会K-POPのど自慢大会「K-POPコンテスト2016」地方大会を6月4日福島市で開催しました。詳細はこちら韓国ドラマセレクション2016韓国ドラマセレクション2016: 古家正亨流ドラマの楽しみ方教えます日時:2016年5月21日(土)場所:フォーラム福島1(福島市)詳細はこちら「話してみよう韓国語」福島大会福島韓国青少年交流プログラム(招へい・派遣)の一環として青少年フェスティバルを開催しました。日時:2016年2月28日(日)13:00~場所:福島駅エスパル ネクストホール主催:話してみよう韓国語福島大会実行委員会、駐日韓国大使館韓国文化院共催:駐日韓国文化院世宗学堂詳細はこちら

「ふくかんねっと」の新たな展開

「ふくかんねっと」という市民団体と出会って20年余りが経たちました。その団体が昨年から事業を多角化し、福祉サービス事業を展開しています。少しずつ紹介していきたいと思います。 ふくかんねっとが運営するサランとチング特定非営利活動法人ふくかんねっと韓国語とその文化・経済・歴史を学び、福島県人と韓国人との交流を通じて相互理解と友好を深める活動をつづける市民団体(2001-)福祉型専攻科ユニバーサルカレッジ・サラン高校卒業後も学びたい人のための福島県初の福祉型専攻科(2022-)2022年度入学式のようす(58:15) 同ダイジェスト版(11:37)就労継続支援B型事業所チング知的障がい・精神障がい・適応障がい・発達障がいをもつ18-65歳の人を対象とする指定障がい福祉サービス事業所(2022-)月刊「サラン通信」バックナンバー2022年4月創刊、毎月1日発行

黄ばんだマスク

コロナ禍が世界を席巻した2020年、自公政権は国がガーゼマスクを買い上げ、国民に配布するという弥縫策びほうさくを採用した。あれから3年、黄ばんだマスクを見ながら政治とメディア、それらに踊らされた自分を含む国民の貧困を思う。浅ましい政治屋が繰り出す愚民策を揶揄やゆしながらも振り回されるのは、いい加減もううんざりだ。何をなすべきか。

Looking around

70年代に繰り返し聴いた김민기(1951-)の歌を聴く。 두리번 거린다 적사-작곡 김민기헐벗은 내 몸이 뒤안에서 떠는것은사랑과 미움과 배움에 참을너로부터 가르쳐 받지 못한 탓이나하여 나는 바람부는 처음을알고파서 두리번 거린다말없이 찾아온 친구 곁에서교정 뒤안의 황무지에서무너진 내 몸이 눌리어 우는 것은눈물과 땀과 싸움에 참이너로부터 가리워 아지못한 탓이냐하여 나는 바람부는 처음을알고파서 두리번 거린다말없이 찾아온 친구 곁에서교정 뒤안의 황무지에서텅빈 내 마음이 굶주려 외침은꿈과 노래와 죽음의 참이너로부터 사라져 …

효야とその眷属: 書き出し(再)

「효야ヒョーヤとその眷属けんぞく」の冒頭を何度も読み返し、推敲すいこうを重ねている。 いまはむかし、まだ家々にテレビも電話もなかったころ、冬になると東京にも何度か雪が積もった。いつもの景色が雪に覆おおわれたのを見て子どもたちは喜び、はしゃいで雪だるまを作り雪合戦がっせんをした。효야ヒョーヤも炭俵すみだわらの藁わらをそりに仕立したて、原っぱの斜面や道路で滑すべった。藁についた炭すみの粉で黒くなった遊び仲間の顔、顔、顔――みんなの顔が一斉いっせいにどっと笑う。 坂道を登りつめた少し先に鎌倉時代にできたという八幡宮はちまんぐうがあった。その境内けいだいもすっぽり雪を被かぶった。そこで我われを忘れて一匹の黒犬と戯たわむれ転ころがり回った。モノクロ写真のようなその光景こうけいが효야ヒョーヤの脳裏のうりに焼き付いている。あの犬は高麗犬こまいぬの化身けしんではなかったか。いつも一緒に遊ぶ仲間はそのときいなかった。 彼は少年のころから何かに夢中になると、ほかのことが見えなくなった。気づくと仲間がいなくなっていたり、怪訝けげんな表情で彼を見ていることがあった。五六人で裏庭に穴を掘ったことがある。身長ぐらいの深さになって粘土層が露あらわになると水が湧わいてきた。汲くんでもくんでも止まらない。それを見て急に怖こわくなり、みなの反対を押し切って作業を止めてしまった。 효야ヒョーヤという名前からして、読者は変に思うだろうが、日本に生まれ、幼いころから日本語を話し、ほかの言葉は知らない。見ただけでは、ほかの子どもと違うところはない。生まれたのは東京だから、出生届は효야では受け付けられず、ヒョーヤというカタカナで届けた。효야の母方の祖母は윤화ユヌァといい、父方の祖母は희사フィサという名で、それぞれ戸籍上はユナ、ヒサという。みな서울ソウル近郊にルーツを持つ人たちだ。효야は祖父母たちから数えて三代目で在日三世ということになる。名前が名前だし、幼いころから自分も家族もどこかほかの人々とは違うと考えていた。そんなよそ者意識を決定的にしたのが彼の母の信仰だった。 https://tb.antiscroll.com/novels/goolee/24471

People staring at their palms all day long

手のひらを見つめる人々 以下の文章は小説「異界でタンゴを舞う」(「無宗教派の人々(3)」)の一節です。このごろ、しきりに思い出されます。 人々は睡眠を除くほとんどの時間、手のひらを見て過ごした。歩くとき、電車や地下鉄の到着を待つとき、電車の車内、エスカレータに乗っているとき、便座にすわっているとき、食事中、時間つぶしなど、家にいるときも外出先でも、いつも手のひらを見つめていた。車を運転するときや自転車に乗るときも手のひらを見ることをやめなかった。歩くとき、人々は手のひらを自分に向け肘ひじを九十度曲げて歩いた。駅構内の至るところで、手のひらを見ながら歩かないように注意するが、従う者はいない。手のひらに保存された写真や動画を含むデータに自分だけの領域を見いだし、好きなニュースやマンガを読み、ゲームに興じて時間を費やすことが大半の人々の日常になった。歩きながら事故に遭あう人も多く、駅ホームから線路に転落する人も絶えなかった。 [二〇三〇年までにスマホが画期的変化を遂げ、スマフォと呼ばれるようになったようです。二〇年代と違って、手のひら自体がその機能を果たしたらしいのです。記録係には想像しにくいのですが、凭也ヒョーヤはそれらしい動作をすることがありました。スマホを手に持っていないのに、あたかも手のひらにあるように操作し、熱心に説明するのです] 左の手のひらを指でこすると、左手にスマフォ画面が立ち上がり、両方の手のひらを合わせてこすると両手に画面が表示される。画面サイズの拡大縮小もできる。スマフォの下辺が手首に接し、画面全体が手のひらの上に浮いて見える。画面はいつも見やすい角度に保たれ、指を立てたりそらせたりして画面の角度を自在に調整できる。画面の解像度がはるかに向上し、以前ほどのぞき込む必要がない。立ち上げたスマフォ画面を消すには、もう一度手のひらをこすればよい。体の一部がスマフォになった感覚なので、置き忘れや落下の心配はなく、倒れて手のひらをついたときは自動的に消える。生体の新陳代謝にもとづく微弱電流を利用したからバッテリーもいらない。カメラのレンズ機能は人差し指か中指の爪に納められ、シャッターは同じ指の指先にあって、親指の指先で軽く押すだけだ。録音用のマイクとスピーカー機能も指先にあり、入力は音声か指で行われる。音声入力の場合は手のひらを口の近くに持ってきて小声で話せばいいし、手のひらに反対の手の指で文字を書けば文字入力もできる。手のひらをかざすだけで、別紙に書いた文章や画像をスキャンできる。手洗いや入浴時には画面を消せば、ただの手のひらになる。手のひらにプロジェクション・マッピングされた旧型のスマホ画面を想像すればよい。 ただ、スマフォが普及するにつれ、人々はますます自閉し、他者の意見を聞かなくなった。自分の体の一部に映し出されるものを自分だと思い込んだ人々は自分の手のひらばかりを見た。入力も電話も手のひらに向かうだけで、写真も動画も自在に撮れたから、盗撮とうさつがさらに巧妙化した。周囲も他者も顧かえりみない、自閉症とスマフォ依存症を合併した症状を持つ人が巷ちまたに溢あふれた。二〇二〇年代はじめに新型コロナウイルス感染症が世界中に猛威をふるい、外出が禁止された時期の状態が日常化したのだ。親子を含む家族内の衝突が増え、親が殺され、子が虐待ぎゃくたいされる事件が多発した。自分の利益を守り正当化するのに汲々きゅうきゅうとする人が増え、職場や学校でもいじめや殺傷事件がふつうになった。さらに禁句が増えて自由な会話が制限され、人々が口にする言葉が空疎くうそになった。 [コロナ後の数年間、官製マスクの着用が義務づけられ、言論封じ込め手段の一つとして日本島の支配層に利用されたことがありますが、それが常態化したのです] スマフォの普及とともに、旧支配層による無宗教派の取り込みが一気に加速される。二〇年代後半には、旧テレビも旧新聞もスマフォに取って代わられ、これら旧メディアの入っていた高層ビルが無用の長物と化し、ハイジン教を含む無宗教派の寺院や教会のセンターに変貌していく。センターの一階に二〇年代のコーヒーショップやコンビニに似たスペースがあるのはその名残なごりである。 People staring at their palms all day long The following is a passage from the novel "Dancing the Tango in the Other World" ("The Irreligious People (3)"). I am reminded of the passage quite often these days. People spent most of their time, except for sleep, looking …

明治座歌舞伎を観る

正月の浅草歌舞伎以来3ヵ月ぶりに明治座で歌舞伎を観みた。昼の部いずれもおもしろく第三幕が醸かもす色彩感と中村梅玉ばいぎょくの舞に魅了された。町娘役を演じた中村莟玉かんぎょくは愛らしい女性を髣髴ほうふつとさせる。 人形町の明治座は1873年に設立されている。銀座の歌舞伎座(1889年)より16年早い。ことし150周年を迎えたという。

Wanda Landowska

2021年に立ち返って再出発しようと、同年11月までの非公開ブログ(-77)を続けることにした。17ヵ月を経へた再開になる。2023年の意味で番号を2301としたが、4桁けたにするまでもないと考え101にした。 きのう偶々たまたま発見した若き Wanda Landowska (1879-1959)の写真を挿入する。高三のころから好きな音楽家の一人だった。こんな睛ひとみで見つめられたら男は身動きすらできまい。

MTB

しばらく乗っていないMTBに油をさし、油で洗浄しながらブラシでチェーンの汚れを取った。フレームとタイヤ周まわりを油の染しみた布で拭ふき、前後のタイヤに空気を入れた。きつかった登り、滑落かつらく事故、転倒など、思い出が蘇よみがえる。むかしの恋人のような愛着あるMTBだ。 いつまでもMTBに乗れるわけではない。右脚に痺しびれが残るお前にお似合にあいなのは16インチの小径車だろう。だから、ついでに油をさして拭ふいてやった。小径車が僕のいまの愛人である。翌日輪行通勤したが、6段ギアの切り換え、ブレーキ、タイヤの回転、すべて快適だった。

パソコンと寿命

年齢のせいか物を捨てられない。断捨離だんしゃりとかいうが、実用の役に立たなくなった物もすぐには捨てられない。NEC9801を皮切りにこれまで5台のパソコンを個人用に使ってきた。うち3台のノート型が机の脇わきに積んである。 どれも立ち上がりに時間を要し、インターネット接続が不安定だ。画面の周縁しゅうえんが黄ばんだものもある。Word は問題ないが、Excel になると処理速度が遅い。しばらく前から文書や写真はSSDに保存しているから、いつ処分してもいいのに捨てられない。 JEMTC*主催の有償譲渡会で中古品を購入した。大企業や官公庁で使われていたものだ。Windows11機種で操作性もいい。5-6年使うとして僕も80歳になるから、最後の品しなになるかもしれない。いつになったら、長年使った品を捨てられるだろうか。*日本電子機器補修協会