Thanks E-Otto

きのうの夕方MTBを引き取り、さっそく多摩川べりを小一時間走った。実に快適だ。接地感がありながら少し浮いて走っている感じ... E-Otto Cycles 本当にありがとう。ほとんどの部品を替えたそうだが、前後輪のハブと変速機の左右レバーは部品が調達できず、処理できなかったという。また、あり得ないことにブレーキオイルがほとんどなくなっていたそうで、ブレーキを掛けられない状態だったようだ。原因不明なので、ときどきチェックするように云われた。本来オイルはほとんど洩れないものらしい。今回オーバーホールしたので以後メンテナンスは無料だというから、ありがたい。 All new rear wheel parts and chain 어제 저녁에 MTB를 인수하고 바로 다마강변을 한 시간 정도 달렸다. 정말 편안하다. 접지감이 있으면서도 약간 떠서 달리는 느낌... E-Otto Cycles 정말 고맙다.대부분의 부품을 교체했다고 하는데, 앞뒤 바퀴의 허브와 변속기 좌우 레버는 부품을 구하지 못해 처리하지 못했다고 한다. 또한, 있을 수 없는 일로 브레이크 오일이 …

bicycle parts

10年乗ったMTB*を E-Otto Cycles という近所の自転車屋にオーバーホールに出した。多くの部品が摩耗し変形していて交換しなければならないが、同じ部品はもう生産されていない。部品名を知らない僕はどこのどういう部品なのかわからないので、部品名を覚えるために英日韓の比較表を作った**。不適切な内容があればご指摘ください。→Contact * Rocky Mountain made in Canada** cbn bike product review 掲載の表をもとに韓国語の用語を加え、日本と韓国の自転車野郎のチェックを受け修正した English日本語한국어bar tapeバーテープ바 테이프bearingベアリング베어링bottleボトル병bottom bracketボトムブラケット버텀 브래킷brakeブレーキ브레이크brake leverブレーキレバー브레이크 레버brake pad(ディスクブレーキ)브레이크 패드brake shoe(リム/ドラムブレーキ)림/드람 브레이크cassetteスプロケット카세트chainチェーン체인chain stayチェーンステイ체인 스테이chainringチェーンリング체인링clincher tyreクリンチャータイヤ클린처 타이어clip-in (clipless) pedalビンディングペダル클립인(클립리스) 페달crank armクランクアーム크랭크 암derailleur変速機디레일러disc rotorディスクローター디스크 로터dunlop tube(あまり使わない)던롭(튜브)forkフォーク포크frameフレーム프레임front derailleurフロントディレイラー앞 변속기handleハンドル핸들headsetヘッドセット헤드셋headtubeヘッドチューブ헤드튜브hubハブ허브inner cableインナーケーブル내부 케이블inner tubeチューブ내부 튜브lockringロックリング잠금 링nippleニップル니플outer cableアウターケーブル외부 케이블pedalペダル페달Presta valve仏式バルブ프레스타pulleyプーリー풀리quick releaseクイックリリースレバー퀵 릴리스rear derailleurリアディレイラー뒷 변속기rimリム림saddleサドル안장Schrader valve米式バルブ슈레더seat clampシートクランプ시트 클램프seat …

통감길

도쿄역에서 전철로 약 1시간, 오이소(大磯)역 바로 앞에 있는 영빈관(迎賓館)이라는 이탈리아 요리점에서 아내와 둘이서 조금 사치스러운 점심을 먹고, 오이소역 앞에서 버스를 타고 조야마(城山) 공원 앞까지 가서 일본(1945-) 초대 총리 요시다 시게루(吉田茂 1878-1967)의 옛 저택을 방문했다. 돌아오는 길에 메이지기념 오이소저택원(邸宅園)에 들르기 위해 걸었다. 저택원 입구에 서 있으니 안내원이 나와 오쿠마 시게노부(大隈重信 1838-1922)와 무츠 무네미츠(陸奥宗光 1844-1897)의 별장이었던 가옥에 …

包装

品川駅構内にある食品スーパーで旅行中世話になる友人たちに持参する小物を8個買った。レジで「包装しますか」と問われ、「無料ならば」と答えると、サービスコーナーに行くように云われた。そこで「どの包装にしますか」と尋ねられ、ビニール袋に入れてもらうことにした。それがもっとも簡便だと思ったからだ。リボンの色を選ぶと、「時間がかかるのでしばらくお待ちください」という。 いまさら「じゃあ結構です」とも云えず、少し離れたところから観察していると、一つずつ丁寧に大きさに合った袋に入れ、商品の形状に合わせて結び目に皺を寄せる。リボンを結んでハサミで端を切り取り、袋のだぶついた部分をセロテープできれいに整える。 これを過剰包装という人もいるだろう。ただ、僕はその丁寧な作業に感激したし、それを受け取る友人たちにも何がしか格別な感じが伝わればと思う。金銭に換算することはできないが、包装された物は包装されていない物より価値やありがたみを増すのではないか。それを虚飾だという者には言わせておけばよい。

統監みち

東京駅から電車で1時間、大磯駅前にある迎賓館げいひんかんというイタリア料理店で妻と二人の少し贅沢ぜいたくなランチをとり大磯駅前からバスで城山じょうやま公園前まで行って日本国初代首相の吉田茂よしだしげる(1878-1967)旧邸を訪ねた。帰りは明治記念大磯邸園ていえんに寄るため歩いた。同邸園の入口に佇たたずんでいると、案内員が出てきて大隈おおくま重信しげのぶ(1838-1922)や陸奥むつ宗光むねみつ(1844-1897)の別荘だった家屋について親切に説明してくれた。 大隈邸(修復中)に隣接して大隈の出身、肥前ひぜん佐賀さが藩第11代藩主鍋島なべしま直大なおひろ(1846-1921)とその末裔まつえいが明治以降住んだという。邸園内に陸奥邸もあり、大日本帝國の初代首相、伊藤いとう博文ひろぶみ(1841-1909)ゆかりの滄浪閣そうろうかく(青々とした波浪の意、写真参照)もこの邸園に包摂する予定で現在工場中である。 明治記念大磯邸園のサイトより明治記念大磯邸園の絵葉書より もと小田原にあった滄浪閣そうろうかくは1896年大磯に建設され、翌年伊藤は本籍を大磯町に移した。1907年12月、伊藤統監に連れられ若干10歳で日本に渡った李垠イウン(이은イウン 1897-1970)は同年末大磯に滞在している。滄浪閣は1921年に李王家に譲渡され、1946年に楢橋ならはし渡わたる(1902-73)、1951年に西武電鉄の所有となり2007年まで大磯プリンス別館として営業した。1930年に李王家の東京邸として建てられた紀尾井町の洋館は戦後、西武鉄道に売却され旧赤坂プリンスホテルとして開業した。 19世紀末から20世紀前半の歴史のなかに遊んだあと、邸園を出て少し歩くと、統監道とうかんみちというバス停(下の写真)が目に止まり、再び20世紀初めに引き戻された。伊藤は1905年12月から09年6月まで初代統監だった。彼がハルピンで安重根アンジュングン(안중근アンジュングン 1879-1910)に暗殺されたのは統監を辞任した後のことだ。以下、大磯町郷土資料館のサイトより引用する。 「統監道とうかんみち」とは大磯駅から線路沿いを通り現在の大磯中学校付近で南側へ曲がって国道1号に通ずる道です。現在、大磯中学校の前にバス停統監道があります。明治30(1897)年頃から新道の建設が計画され、当時の大磯町長宮代謙吉町会議員の運動によって、2,970円という多額の寄附を得て明治40(1907)年8月16日に開通しました。 当日の式典では80歳以上の者(当時は現在で言うと100歳以上の長寿をお祝いされる人)65人の通行や初代韓国統監であった伊藤博文が大磯駅から伊藤博文の自邸「滄浪閣」まで通行しました。夜には提灯行列が行われ、滄浪閣の門前で万歳三唱をして解散したそうです。「統監道」の名称は伊藤博文の職名にちなみ、道路が開通した当時の宮代新太郎町長が名付けました。大磯町郷土資料館のサイトより(一部編集) Sir Hirobumi Ito was the First Chief Super-intendent(CS) of the Office of the CS established by the Empire of Japan in Seoul, Korea in 1905.

読書ノート2023-24

縦書き文庫に載せている記憶のかけら「個人史の試み」に、2023年と2024年の読書歴を書き足した。 2023年貴族仏教に覆われた現世の脆さ與謝野晶子訳源氏物語を通して見えてくるのはきらびやかな宮廷世界からはほど遠い。後世の歴史家が護国仏教と呼び多くの人びとが渇仰するかぐや姫伝説の世界とは何だろうか。畢竟するに貴人たちの領域を守ろうとする、はかない来世願望と野望渦巻く末法世界ではないだろうか。その拠りどころとして西方浄土を渇仰しているかに見えるのである。 2024年一茶の観察眼がとらえた現世一茶も西方浄土を信じ弥陀信仰にとらわれているが、現実世界の捉え方はその信仰によって曇らされていない。自己を見失っていない分どこか逞たくましい。はかない無常観や来世願望に陥っていないからこそ、小動物や植物に感情移入するときも淡々としていて彼らに対する愛いとおしさに溢あふれている。 現代人の多くは無宗教派に属すると考えるが、彼らを支えているのは一神教的な天國てんごく幻想、あるいは方向性を見失った浄土幻想の残滓ざんしではないだろうか。そんな漠ばくとした死後の世界観や死生観が無宗教派の人びとを支えているのだ。<てんごく>を諂曲てんごくと置き換えることもできよう。

孤老のヰタセクスアリス

一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に生まれ、文政10年11月19日(1828年1月5日)に世を去った。彼の句日記「七番日記」(文化11-18[1814-21]年)には、52歳で結婚した彼と若妻とのヰタセクスアリスについて日常雑記事のなかに断続的な記録がある(文化13年8月と14年8月・12月)。 交合について夜五交・暁あかつき一交・旦あさ二交などと記した(回数だけのものは日中か)。巷間に流布するのはその精力絶倫ぶりであり、子ども欲しさ故という俗説だが、果たしてそうだろうか。一茶の観察眼そのものと深く関わっているのではないか。それは彼の俳句の核心をなす、つくろわない、ありのままという仏教的生命観にもとづくのではないか。こんな仮説を立てたいと思う。 ごく卑近な例で云えば、一茶の交合記録は高齢者が朝晩に血圧を測定して記録するようなものではないか。淡々としていて、どこかで気にしている。この例えは嗤われそうだが、少なくとも精力的だとかいう解釈よりも彼に寄り添った解釈だと考える。一茶の考え方の基盤につくろわない、ありのままという仏教的な嗜好性があったのではないだろうか。 この時期における一茶のヰタセクスアリスとも云うべき部分を抜粋してみよう。 잇싸는 1763년 6월 15일(宝暦 13년 5월 5일)에 태어나, 1828년 1월 5일(文政 10년 11월 19일)에 세상을 떠났다. 그의 하이구일기 칠번일기(文化 11-18년[1814-21년])에는 52세에 결혼한 그와 젊은 아내 사이의 성관계에 대해 일상 잡기 속에 단편적인 기록이 있다(文化 13년 8월과 14년 8월·12월). 교합(交合)에 대해 밤에 다섯 번, 새벽에 한 번, 아침에 두 번 등으로 기록했다(횟수만 …

やまぶきと牛のふぐり

一茶は50歳の2月(旧暦)に山吹の句を5句詠んでいます(岩波文庫「七番日記」) 鍬(くわ)かぢ(鍛冶)の山吹咲ぬそれさきぬ 山吹や牛つながるゝ古地蔵 山吹にぶらりと牛のふぐり哉 蘴(やまぶき)や天神様のむら雀 蘴や鼬(いたち)の娵(よめ)が手をかざす 「山吹にぶらりと牛のふぐり哉」について少し考えました。牛のふぐりは落ちそうで落ちないものを意味するそうで、俚諺に「落ちそうで落ちないのは20歳の修行僧、落ちそうにないように見えて落ちてしまうのは50代の僧」があるようです。 50歳のとき、一茶は歯もすべて抜け白髪になっていました。そんな老いた姿を落ちそうで落ちない「牛のふぐり」に重ね、いつ死んでもおかしくない自分を顧みたと思うのです。だから、山吹の葉の浅緑と鮮やかな黄色い花と牛の陰部を同時に描くことで美醜や老若を対比した、と考えました。 自分を徹底して客観視する彼だからこそグロテスクともいうべき「ふぐり」とみずみずしい春を象徴する山吹を対比した。糞(くそ)とか尿(しと、ばり)などを使うのも同じ趣向の表れでしょう。卑近な事物のなかに自らの生きざまを詠む一茶の真骨頂がこの句にも表れているように思います。 縦書き文庫に「一茶発句全集」を掲載中です

一茶に魅せられて(1)

昨年末に母が他界したあと「めでたさもちう位なりおらが春」という句が気にかかり、一茶の俳句を読み直そうと思った。文庫本で読むことはできるが、スマホでいつでもどこでも読みたい。そう考えていたとき、長野郷土史研究会のサイトで小林一郎氏編の「一茶発句全集」に出会い、「あっこれだ」と思わず叫んだ。すぐ作業を始め、1月初めに同全集新年の句をこのブログに非公開で載せた。それをサンプルとして提示し、同研究会にスタイルを一部編集して転載することにつき許諾をお願いしたところ、快諾していただいた。すべてはそこから始まった。どれだけ感謝しても足りない。 そして、菊地明範氏の日本語縦書き論に触発され、縦書き文庫に掲載することにした。同文庫は青空文庫に掲載された作品を読みやすい縦書きにして載せるとともに創作作品を発表する場を無償で提供している。無名の者にとってこの上なくありがたいサイトだ。縦書き文庫版「一茶発句集」制作に着手して約3ヵ月、新年と春で合わせて5,218句をアップした。橋本信明氏による校閲あったればこそだ。 縦書き文庫版「一茶発句集」を通じて一人でも多くの人が一茶という人とその句に触れることを心から願う。少し休んだあと夏の句の制作に着手するつもりだ。

一茶の俳句

江戸時代の初期に俳諧を確立した松尾芭蕉(1644-94)は42歳にして「古池や蛙飛び込む水の音」を詠よんだという。小林一茶が生まれたのは芭蕉の没後70年ほど経った1763年、現在の長野県柏原宿の農家である。3歳のときに実母を喪い、5年後にやってきた継母と関係がうまく行かなかった彼は、15歳のころ江戸の商家に奉公に出される。奉公先を転々としながら、しだいに俳諧の世界に入っていったようだが、その間の記録はない。 一茶の俳句は単に日常自然を詠よむだけではない。それを生活において、また喜怒哀楽の相において細やかに観察し写生したものが多い。その対象である動物や植物ないし情景の内側に入り込むようにして感情移入し、それら観察対象になりきっているように見える。 俳句の門外漢ながら、芭蕉の句が観照的であるのに対し、一茶の句は主観的である。「古池や蛙飛び込む水の音」はいわば蛙を突き放して観察している。それに対し「痩蛙やせがえる負けるな一茶是これにあり」は単に蛙に呼びかけるというよりも、彼自身を色濃く投影している。自分と同じように痩せた蛙に自らの姿を見ているのである。 雀や猫などさまざまな小動物や自然の事象一つひとつに自分を映すのが一茶の句の特徴のひとつであろう。彼の句集を読み込むことを通じて、はじめて俳句の世界に入り込み、これまでの俳句観が一変してしまった。限られた音のなかに自らの思いや情景を鮮やかに映し出す、それが俳句なのだ。

「古池や蛙飛び込む」の画期性

青空文庫の正岡子規「古池の句の弁」から抜粋引用します。同じ作品を縦書き文庫で読むこともできます。引用文冒頭において子規は「未曾有の一句」と強調しています。この句の何が画期的だったのでしょうか。(…… は前・中・後略を示す) …… 貞享じょうきょう三年(1686)、芭蕉は未曾有みぞうの一句を得たり。 古池ふるいけや蛙かわず飛び込む水の音 これなり。この際芭蕉は自ら俳諧の上に大悟せりと感じたるが如し。今まではいかめしき事をいひ、珍しき事を工夫して後に始めて佳句を得べしと思ひたる者も、今は日常平凡の事が直ただちに句となることを発明せり。 憂うき旅寐のはては野ざらしとなるべきかといふ極端の感懐、秋風に捨子が泣きてをるといふ極端の悲哀、かくの如き極端の事を、いはでは面白からじと思ひしは昨日の誤解にて、今日は、蛙が池に飛びこみしといふありふれたる事の一句にまとまりしに自ら驚きたるなり。 馬と残夢と月と茶の煙とを無理に一句に畳たたみ込み、三十日みそかの闇やみと千年ちとせの杉とそれを吹く夜風とを合せて十七字の鋳形いがたにこぼるるほど入れて、かくして始めて面白しと思ひし者が、翻然として悟りし今より見れば、これらの工夫したる句はむしろ「蛙飛び込む水の音」の簡単にして趣味あるに如かざるを知りたるなり。 芭蕉は終ついに自然の妙を悟りて工夫の卑いやしきを斥しりぞけたるなり。彼が無分別といふ者また自然に外ならず。試みに前に列挙したる連歌以後幾多の句を繰り返し、この古池の句の如く自然なる者他にあるかを見よ。一句のこれに似よりたる者だにあらざるべし。…… 少くとも芭蕉は蛙なる一動物の上に活眼を開きたり。しかれども芭蕉が蛙を以て特に雅致ありて愛すべき者と思ひたり、と誤解する莫なかれ。蛙は鶯うぐいすの如く愛すべき者に非ず、時鳥ほととぎすの如くなつかしき者に非ず、雁かりの如くあはれなる者に非ず、秋鳴く虫の如く淋しき者に非ず、故に古来の歌人も蛙を詠むこと鶯、時鳥、雁、虫の如く多からざりしなり。ひとり芭蕉に限りて百鳥百虫に勝りてこれを愛すといはんや。かへつて余り美しくも可愛くもなきその蛙すらなほ多少の趣致を備へて、俳句の材料たるを得ることを感じたるなるべし。 蛙既に雅致ありとせば、鶯、鵑ほととぎす、雁、虫は言ふに及ばず、あらゆる事物悉ことごとく趣致を備へざらんや。芭蕉が蛙の上に活眼を開きたるは、即ち自然の上に活眼を開きたるなり。その自然の上に活眼を開きたる時の第一句が蛙の句なりしは偶然の事に属す。俗宗匠輩がこの句を説くに、特に蛙に重きを置くは固より取るに足らざる謬見びゅうけんのみ。……

一茶の句集と「一茶の書」

長野郷土史研究会の小林一郎氏編「一茶発句全集」をもとに一茶いっさ(1763-1827)の句を縦書き文庫にアップしている。まずは新年764句(ルビ付)と春4453句の計5217句を載せた。これから少しずつルビを振ってゆく。https://tb.antiscroll.com/series/goolee/416 一茶について調べていて魯山人の短文「一茶の書」を見つけた。一茶の書ばかりでない、その人間性を絶讃している。 「一茶の書」 北大路きたおうじ魯山人ろさんじんわれと来て遊べや親のない雀すずめ痩蛙やせがえるまけるな一茶是これに有り 一茶いっさ自身の運命にもなにかそうしたところがありはしなかっただろうか。それはともかくとして、その書であるが、素質的にいって大徳寺代々のうちでの随一の能書家(これは私の独断であるが)春屋しゅんおく禅師の書、池野大雅いけのたいがの書、良寛りょうかん和尚の書、茶人元伯げんぱく、原叟げんそうなどの書などと共通なところを持っているかのように思われる。 しかし、これらのうちで一茶の書には一番に下手物的げてものてきな装わない心境直写の妙相をたたえているように思う。有欲といい、また無欲というとも、要するに一茶においてはどうあってもいいのだろう。 一茶の書に今一倍気品があり、そして同時に気力があったら、どんなに立派であったろうか――などという人も中にはあるようだが、私は一茶の書にはむしろそれがないのがその真実ではなかろうかとするものである。一茶の書を見ると、第一にその情味において人の涙をそそるものがある。そこで、どんな気格の高い他の人の書に出会っても、それはそれで少しの引け目を感ぜずにその内容の個性味をどこまでもはっきりと押して行っているのである。 申すまでもなく、芸術は要するにその内容である。内容というのはその個性である。書という芸術も最後はその真情に発したものでなくてはならない。仮りにそれが真情に発し、そして俗態を斥しりぞけてものの数ともしないというものであるならば、如何なる書をいかに学んだとしても、決して模倣に終るようなことはないと思われる。 出るものが故障なく出る。書はそれでいいのである。いわゆる技巧的にも心理的にも、その灰汁だとか濁りだとかいうようなものがきれいに取り除かれたならば、そこに出るものは必ずその人の一番美しい本来の相でなくてはならない。 一茶の書のあの捨てがたい風味とか風韻とかいうものも実はそれに他ならないのである。(昭和六年)(c) 青空文庫 (https://www.aozora.gr.jp/) 下の画像は1985年に発見されたという一茶の真筆だ(朝日新聞記事より)。 群馬県安中市の古書店で発見された一茶晩年の真筆 (c)朝日新聞

ちうくらゐ再考

昨年末にこの記事をアップしたが、正月になって「目出度さもちうくらゐ也おらが春」の前文があることを知り、「ちうくらゐ(中位)」について再考した。 「おらが春」より(1)昔、たんごの国普甲寺ふこうじといふ所に深く浄土をねがふ上人ありけり。としの始は世間祝ひごとしてさゞめけば我もせんとて大卅日おおみそかの夜ひとりつかふ小法師こぼうしに手紙したゝめ渡して翌あすの暁にしかじかせよときといひをしへて本堂へとまりにやりぬ。 小法師は元日の旦あしたいまだ隅み隅みは小闇おぐらきに初烏の声とおなじくがばと起て教へのごとく表門を丁々ちようちようと敲たたけば内より「いづこより」と問ふ時「西方弥陀仏より年始の使僧つかいそうに候」と答ふるよりはやく上人裸足にておどり出で門の扉を左右へさつと開て小法師を上坐に請しようじてきのふの手紙をとりてうやうやしくいただきて読ていはく「其世界は衆苦充満に候間はやく吾国に来たるべし。聖衆しようじゆ出むかひしてまち入候」とよみ終りて「おゝおゝ」と泣れけるとかや。 此上人みづから工たくみ拵こしらへたる悲しみにみづからなげきつゝ初春の浄衣を絞りてしたゝる涙を見て祝ふとは物に狂ふさまながら俗人に対して無常を演のぶルを礼とすると聞からに仏門においてはいはひの骨張こつちようなるべけれ。 それとはいさゝか替りておのれらは俗塵に埋れて世渡る境界きようがいながら鶴亀にたぐへての祝尽しも厄払ひの口上こうじょうめきてそらぞらしく思ふからにから風の吹けばとぶ屑家はくづ屋のあるべきやうに門松立てず煤はかず雪の山路の曲り形なりにことしの春もあなた任せになんむかへける。 目出度さもちう位也おらが春 一茶https://koten.sk46.com/sakuhin/oraga.html 「西方弥陀仏からの年始の使僧」を自作自演で演じながら自らしたためた弥陀仏からの手紙を読んで感涙にむせぶという常軌を逸した上人の話をなぜ前段に述べたのだろう。「仏門においては祝ひの骨張」とし、諷刺しつつも賞讃しているかにさえみえるが、後段で次のようにいう。 「俗塵に埋れて世渡る境涯ながら鶴亀にたぐへての祝尽しも厄払ひの口上めきてそらぞらしく」とし、「ことしの春もあなた任せになんむかへける」とした彼の真意はどこにあるのだろうか。「ちうくらゐ(中位)」は考えれば考えるほど、その意味が深く広がってくる。とりあえずは、正月だといっても特につくろわない、ありのままという意味に解しておこう。「おらが春」は堂々としていてすがすがしい。 同じく「おらが春」の序文に「あなたまかせ」について以下の記述がある。これも、つくろわない、ありのままに通じるところがあるように思う。 「おらが春」より(2) 他力信心他力信心と一向に他力にちからを入て頼み込み候輩はつひに他力縄に縛れて自力地獄の炎の中へぼたんとおち入候。 其次にかゝるきたなき土凡夫どぼんぷをうつくしき黄金の膚になしてくだされと阿弥陀仏におし誂あつらへに誂ばなしにしておいてはや五体は仏染み成りたるやうに悪わるすましなるも自力の張本人たるべく候。 問ていはくいか様に心得たらんには御流義に叶ひ侍りなん。答ていはく別に小むづかしき子細は不存ぞんぜず候。 たゞ自力他力何のかのいふ芥もくたをさらりとちくらが沖へ流してさて後生の一大事は其身を如来の御前に投出して地獄なりとも極楽なりともあなた様の御はからひ次第あそばされくださりませと御頼み申ばかり也。 如斯かくのごとく決定しての上には南無阿弥陀仏といふ口の下より欲の網をはるの野に手長蜘の行ひして人の目を霞かすめ世渡る雁のかりそめにも我田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持べからず。 しかる時はあながち作り声して念仏申に不及およばず。ねがはずとも仏は守り給ふべし。是則、当流の安心あんじんとは申也。穴かしこ。 ともかくもあなた任せのとしの暮 一茶 「ちうくらゐ」は長野方言で曖昧あいまい・あやふや・いい加減かげんの意味だそうで下の解釈がわかりやすい。だが、上の序文とかけ離れていてやや物足りない。 めでたい新年を迎えた。自分にとっては上々吉のめでたさとはいえないが、まずまず中くらいといったところだろう。[解説]このころの一茶は生涯でも幸せな時期にあり、妻は元気に働き、長女のさとはかわいい盛りだった......半年後に痘瘡もがさ(天然痘)によって死んでしまうのだが。https://bonjin-ultra.com/issa.htm 当時、小林一茶(1763-1828)は57歳だったという。一茶記念館のサイトに載ったその生涯は次のとおり(一部編集)。一茶の実像は案外知られていないのではないか。その作品もあまり読まれていないのではないか。 一茶(小林弥太郎)の生涯小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)長野県の北部・北国街道柏原宿(現・信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎やたろうといいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で義母を迎えました。働き者の義母になじめなかった一茶は、15歳の春、江戸に奉公ほうこうに出されました。奉公先を転々てんてんとかえながら、20歳を過ぎたころには俳句の道をめざすようになります。 一茶は葛飾派三世の溝口素丸・二六庵小林竹阿・今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました(圯橋いきょう[土橋]・菊明・新羅坊しらぎぼう[唐の時代に黄海沿岸地域に存在した新羅人の集団居留地]・亜堂の後に一茶という俳号を用いる。庵号は二六庵・俳諧寺)。 29歳で14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を著しました。30歳から36歳まで関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、知り合った俳人と交流した作品は句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版しました。 39歳のとき、ふるさとに帰って父の看病をしました。父は一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるよう遺言ゆいごんを残し、1ヵ月ほどで亡なくなりました。このときのようすを「父の終焉しゅうえん日記」にまとめています。その後ふるさとに永住えいじゅうするまで10年余り継母ままはは・弟との財産争あらそいが続きます。 江戸蔵前の札差ふださし夏目成美の句会に入って指導をうける一方、一茶は房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣となり合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきます。 50歳の冬、一茶は再びふるさとに帰りました。借家かりいえ住まいをして遺産いさん交渉を重かさね、翌年よくねんようやく和解わかいしました。52歳で28歳のきくを妻に迎え、千太郎・さと・石太郎・金三郎と次々に子どもが生まれましたが、みな幼おさなくして亡くなりました。妻きくも37歳の若さで亡くなり、一茶はひとりだけになりました。その後再々婚し、一茶の没後に妻やをとの間に次女やたが生まれています。 家庭的に恵めぐまれないなか、北信濃の門人を訪ねて俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」や句文集「おらが春」などを著あらわして2万句に及ぶ俳句を残しました。文政10年閏うるう6月1日に柏原宿の大半を焼く大火に遭あって母屋を失った一茶は焼け残った土蔵どぞうに移り住み、同年11月19日(1828年1月5日)に64歳の生涯を閉とじました。http://www.issakinenkan.com/about_issa/ 一茶終焉の土蔵(現・長野県信濃町柏原) 市川蛇蔵氏の一茶評伝も興味深い。

Honoring the Life of Yoshiko

芳子よしこが死んだ。数年前から入退院を繰り返し、年を越こせるかどうか危あやぶまれていた母。死がいずれ来ることは覚悟していたが、とうとう死んでしまった。息を引き取ったあと、だんだん冷たくなっていく母を見るのは辛つらく悲しい。2023.12.21 今夜からしばらく一人で冷たい霊安室れいあんしつで過ごす母を思うと、申しわけなく切せつない気持ちになる。火葬場の混雑ゆえにこのような事態が生じるわけで、ここにも保育園の待機児童と同じく政治の貧困ひんこんを見せつけられて、憤いきどおりを禁じ得ない。 最期さいごまで必死ひっしに生きる姿を見せ、諦あきらめないことの大事だいじさを教えてくれた母。長生きしてくれてありがとう、長いあいだ本当にありがとう、よっこちゃん(よしこの愛称)。しばらくは霊山りょうぜんでゆっくり休んでください。 요시코(芳子)가 돌아가셨다. 몇 년 전부터 입원과 퇴원을 반복하며 연로하신 어머니의 죽음은 언젠가는 올 거라 생각했는데, 결국 돌아가셨다. 숨을 거둔 후 점점 차가워지는 어머니를 보는 것은 힘들고 슬펐다. 2023.12.21 오늘 밤부터 한동안 차가운 영안실에서 홀로 지낼 어머니를 생각하면 마음이 아프다. 화장장의 혼잡 때문에 이런 사태가 발생하는 것이니, 여기에도 보육원 대기 아동과 마찬가지로 일본의 정치 …

金素月という韓国の詩人

金素月*の詩と韓国文化に連載された歌樽かたる先生と詩子うたこの対話「ハングルの詩のある風景」シリーズを縦書き文庫で読むことができます。下の表の下線部をクリックすると、縦書き文庫のそれぞれのページが表示されます。 *金素月キム ソウォル(1902-1934) ハングルの詩のある風景(文字数の多い順)素月と鐵橋 143,200字オンマヤ・ヌナヤ 92,546字招魂 70,333字素月と凧揚げ 47,502字つつじの花 42,244字失題の秘密 42,054字つばめ 33,555字山有花 33,400字樹芽(木の芽) 31,739字

作家になった방정웅

方政雄パンジョンウン(방정웅 1951年生)と初めて会ったのは35年前のことだった。講談社系の財団に入って2年目、日本の高等学校における外国語授業について取材するため、伊丹いたみ市に住む彼の家に行ったように記憶している。彼は1985年から兵庫県立湊川みなとがわ高等学校で朝鮮語授業の担当教員になっていた。 방정웅パンジョンウンはいまや押しも押されもせぬ作家になった。「随想」と題して神戸新聞にコラム記事を寄稿し、作家としての原風景について書いている。文字どおり、在日コリアンの風景である。同世代の僕はそんな彼が作家になったことがとても嬉うれしい。以前このブログに載せた記事を再掲する。 방정웅 湊川高校・朝鮮語教師の物語 2022.2.9 방정웅 小説集「白いムクゲ」を出版 2022.2.4 後がない教員採用試験公立学校初の朝鮮語授業代を継ぐ無縁さん参り髪の毛5000分の1の棘聖戦のわらび採り共生の家島朝鮮小学校

金素月の詩、縦書き文庫の11月読者ランキングに

縦書き文庫は独自の高速組版エンジンにより著作権フリーの文学作品を読みやすい縦書きで提供し、無名の新人に発表の場を無償で提供しています。 The Tategaki Bunko Library uses a proprietary high-speed typesetting engine to provide copyright-free literary works in an easy-to-read vertical format, and offers unknown newcomers a place to publish their works free of charge. 縦書き文庫の11月読者ランキング1. こころ 夏目漱石2. 人間失格 太宰治3. 私本太平記 吉川英治4. 坊っちゃん 夏目漱石5. 吾輩は猫である 夏目漱石6. 夢十夜 夏目漱石7. 方法序説 ルネ・デカルト8. ドグラ・マグラ 夢野久作9. ピーターパンとウェンディ J. M. バリー10. 君主論 マキャヴェリ11. 火を起こす ジャック・ロンドン12. ダブリンの人たち J. ジョイス13. 心理試験 江戸川乱歩14. 80日間世界一周 ジュール・ヴェルヌ15. 桜の森の満開の下 坂口安吾16. 銀河鉄道の夜 宮沢賢治17. 羅生門 芥川龍之介18. …

昭和天皇の詔書を読む

1946年元旦に公表された次の詔書しょうしょのどこにアジア太平洋戦争(1931-45)に対する反省の思いがあったろうか。これを「(現人神あらひとがみの)人間宣言」と呼んだメディアにいかなる反省の念があったろうか。神性しんせいを認める認めないは別として、「人間」を「宣言」するということは、かつて「非人間」として君臨した者にのみ許される特権だからである。 茲ここニ新年ヲ迎フ。顧かえりミレバ明治天皇明治ノ初はじめ国是こくぜトシテ五箇か条ノ御誓文ごせいもんヲ下くだシ給たまヘリ。曰いわク、一、広ク会議ヲ興おこシ万機ばんき公論こうろんニ決スヘシ一、上下心ヲ一ひとつニシテ盛ニ経綸けいりんヲ行フヘシ一、官武一途いっと庶民ニ至ル迄まで各其その志ヲ遂とケ人心ヲシテ倦うマサラシメンコトヲ要ス一、旧来きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ破リ天地ノ公道ニ基もとづクヘシ一、智識ちしきヲ世界ニ求メ大ニ皇基こうきヲ振起しんきスヘシ叡旨えいし公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ちんハ茲ここニ誓ちかいヲ新あらたニシテ国運ヲ開カント欲ほっス。須すべかラク此ノ御趣旨しゅしニ則のっとリ、旧来きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ去リ、民意ヲ暢達ちょうたつシ、官民拳あゲテ平和主義ニ徹てっシ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。大小都市ノ蒙こうむリタル戦禍せんか、罹災者りさいしゃノ艱苦かんく、産業ノ停頓ていとん、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢すうせい等ハ真まことニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然しかリト雖いえどモ、我国民ガ現在ノ試煉しれんニ直面シ、且かつ徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克よク其ノ結束ヲ全まっとウセバ、独ひとリ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。夫そレ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効こうスベキノ秋ときナリ。惟おもフニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動ややモスレバ焦躁しょうそうニ流レ、失意ノ淵ふちニ沈淪ちんりんセントスルノ傾キアリ。詭激きげきノ風漸ようやク長ジテ道義ノ念頗すこぶル衰おとろへ、為ためニ思想混乱ノ兆きざしアルハ洵まことニ深憂しんゆうニ堪たヘズ。然しかレドモ朕ちんハ爾等なんじら国民ト共ニ在リ、ニ利害ヲ同ジウシ休戚きゅうせきヲ分わかタント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯じんたいハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依よリテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非あらズ。天皇ヲ以テ現御神アキツカミトシ、且かつ日本国民ヲ以もっテ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延ひいテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非あらズ。朕ノ政府ハ国民ノ試煉しれんト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱じかんニ蹶起けっきシ、当面ノ困苦こんく克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往ゆうおうセンコトヲ希念きねんス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚よリ相扶たすケ、寛容相許スノ気風ヲ作興さっこうスルニ於テハ、能よク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯かくノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為なス所以ゆえんナルヲ疑ハザルナリ。一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ひとつニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就じょうじゅセンコトヲ庶幾こいねがフ。 御名 御璽昭和21年1月1日

金素月の詩、縦書き文庫で48位

縦書き文庫の読者ランキングで金素月の詩が読者ランキング入りしました(11月22日)。 順位縦書き文庫ランキング41-50位(2023年11月22日現在)(第1位から40位まで省略)41狂人日記 魯迅42正義と微笑 太宰治43たけくらべ 樋口一葉44アフリカのスタンレー 豊島与志雄45東京の風俗 木村荘八46在りし日の歌 亡き児文也の霊に捧ぐ 中原中也47小泉八雲の家庭生活 萩原朔太郎48金素月キム ソウォルの詩 歌樽詩子カタルシス49綺堂むかし語り 岡本綺堂50大根の葉 壺井栄latest rankings@ https://tb.antiscroll.com/ranking

Can you science candles?

(ロウソクを科学する?) https://www.gutenberg.org/cache/epub/14474/pg14474-images.html One of my favorite books when I was in high school was "the Chemical History of a Candle" by Michael Faraday. The book is based on a Christmas lecture for children held at the British Museum in London. Michael started the lecture talking about the material of candle historically and showed a variety …