「奥の細道」42等栽

芭蕉(1644-94)の「奥の細道」を何年かぶりに読んだ。高校生のときに繰り返し音読した冒頭部分はほぼ暗記している。格調高い文章が続き、著名な句に会うと親しみを感じるが、それ以上のものがない。そんななか42等栽に強く引かれた。二人の老人の再会に感動するとはおまえも歳をとったものだ。水沢(現奥州市)で過ごした高校生時代から60年近い歳月が経っている。 福井は三里計ばかりなれば夕飯ゆふめししたゝめて出いづるにたそかれの路みちたどたどし、爰ここに等栽とうさいと云いふ古き隠士いんじ有、いづれの年にか江戸に来りて予よを尋たづぬ、遙はるか十ととせ余り也、いかに老おいさらぼひて有にや将はた死けるにやと人に尋たづね侍はべればいまだ存命ぞんめいしてそこそこと教ふ。市中しちゆうひそかに引入ひきいりてあやしの小家こいへに夕貌ゆふがほへちまのはへかゝりて鶏頭けいとうはゝ木ゞ(帚木)に戸ぼそをかくす、さては此うちにこそと門かどを扣たたけば侘わびしげなる女をんなの出いでていづくよりわたり給ふ道心だうしんの御坊ごばうにや、あるじは此あたり何がしと云ものゝ方かたに行ゆきぬ、もし用あらば尋給たづねたまへといふ、かれが妻なるべしとしらる、むかし物がたりにこそかゝる風情は侍はべれとやがて尋たづねあひてその家に二夜ふたよとまりて*、名月はつるが(敦賀)のみなとにとたび立だつ、等栽とうさいも共に送らんと裾すそをかしうからげて路の枝折しをりとうかれ立たつ。 *源氏物語「夕顔」巻 ↓Quoted from 42 Tosai of the Narrow Road to Oku by Donald Keene: Fukui was only six or seven miles away, so I set out after supper, walking uncertainly along the twilit road. Fukui is where Tosai has long lived as a recluse. Once---in what year was it, I wonder?---he came to Edo …

縦書きで読む二葉亭

1970年代の初め、神保町の古本屋で二葉亭四迷全集(新書版)を購入した。浮雲と平凡は読んだが、あまり覚えていない。新内と清元について詳しく書いてあったので、少なからず興味をもった。ツルゲーネフの片戀がもっとも印象に残っている。縦書き文庫に翻訳作品が入っていないのが寂しい。 浮雲 439,634字 予が半生の懺悔 113,298字 嫉妬する夫の手記 6,642字 小説総論 5,889字 旅日記 東海道線 3,801字 平凡 304,496字 余が言文一致の由來 2,520字 露都雑記 6,722字 遺言状・遺族善後策 770字 未亡人と人道問題 6,548字 私は懐疑派だ 9,531字 エスペラントの話 6,745字

一茶01: 日常なるもの

子規が芭蕉を再評価した基準は、簡単に云えば、伝統的な和歌などの美意識との比較において、彼以前の美意識枠組みからの脱出にあったと理解している。 一茶はそんな芭蕉の美意識を引き継ぎながら、それを日常生活のなかでさらに徹底した。飯と排泄作用を直視し、身の回りにある自然や小動物を描き、市井の人々の暮らしぶりや年中行事、さらには生活の窮状を描くことで彼自身の貧乏生活を客観した。七番日記にみられる交合記録もこのような観点から捉えるべきかと考える。 翻って21世紀前半における日本の都市部あるいは農村部における生活はどうだろうか。日本独特のセンチメンタルジャーナリズムはそれらの実態をどこまで伝えようとしているだろうか。一茶の描写は決して感傷的ではない、また単なる写実主義でもない。そこに一茶調と呼ばれる彼の俳句の真骨頂がある。 この考察を春の仮説としよう。今後、夏秋冬を読み込んでゆくと、別の仮説が出てくることを前提しながら、仮説その1とする。

wakibitos: タンゴ検索

朝の食事どきにタンゴ音楽を聞くようになって、もう何年になるだろうか。けさも聞いていると、リズムに合わせて体を動かしたくなった。何だかうれしくなり、僕のブログwakibitosにタンゴを含む記事がどれくらいあるか検索してみた。 下のボタンをクリックすると関連ブログとページを表示します。あるわ、あるわ、我ながらほくそ笑んでしまった。 タンゴの検索結果を表示します 벌써 몇 년째 매일 아침 빵을 먹으면서 탱고 음악을 듣고 있다. 몇 년 만에 오랜만에 리듬에 맞춰 몸을 움직였다. 그래서 내 블로그 wakibitos에 탱고를 포함한 글이 얼마나 있는지 검색해 보았다. 위 버튼을 클릭하면 관련 블로그와 페이지가 표시된다. 있다, 있다, 많이 있다. 나도 모르게 웃었다.

一茶の句にルビを振る難しさ

一茶の発句集を縦書き文庫に掲載するに際し、はじめは一般的でないと思われる漢字にだけ現代かな遣いのルビを振っていた。たとえば、蛙には<かえる>、庵には<いおり>、角田川には<すみだがわ>などとした。そのうちに、夜に<よる><よ>、京に<きょう><みやこ>など、使いなれた漢字に複数の読みがあることに気づいた。 そして、しだいにごく平易な漢字を含めすべての漢字にルビを振るようにした。他方、かなで書かれた部分で前後の区切りがわかりにくいところに漢字ルビを( )に入れるようにした。こうして漢字に現代かな遣いのルビを振ってきたが、春6の蛙と蝶のルビを振ってしばらく経つと疑問を抱くようになった。 蛙は一律<かえる>にしていたが、<かはづ><かへる>とひらがな表記の句がある。蛙という漢字の読みが揺らぎはじめたのだ。たとえば、「痩蛙まけるな一茶是に有」を当然のように<やせがえる>としていたのを<やせかわず>の可能性もあるのか、と考えた。一律に<かわず>としたが、逆に違和感も倍加する。<やせがえる>に馴れたせいか、<やせかわず>と読むとしっくりこない。 古池に代表される芭蕉は<かわず>で一茶は<かえる>なのだろうか。そう単純でもなさそうだ。こうして、<かえる><かわず>のあいだの揺らぎが嵩じ、<かわず>ではなく<かはづ>、<かえる>ではなく<かへる>とすべきかと考えるようになった。蝶という漢字も<ちょう>ではなく<てふ>と表記すべきだろうと考えた。 そもそも、1946年に現代かな遣いを導入したのは間違いではなかったかとまで考えた。当時少なからぬ文人や学者が歷史的かな遣いの廃止に反対していたことを知った。→なぜ歴史的かな遣いを廃したのか 夏4から歴史的かな遣いの総ルビに踏み切ったが、これまで以上に時間を要することがわかった。また、時間をかければ誤りのないルビ振りができるというわけでもない。「ひ」と「ゐ」、「え」と「へ」、「え」と「ゑ」などなど、どちらにすべきか悩まされることがふえた。そして、歴史的かな遣いについて専門知識を有する人に校正してもらうことにした。

「縦書きでよむ一茶」読者ランキング

「縦書きでよむ一茶」の縦書き文庫読者ランキングは1-4月が新年・春の部23・12・16・18位、5-6月が夏の部31・27位でした。7月は新年・春と夏の部が34位と35位、8月は夏の部27位、9月は夏と新年・春の部が23位と24位、10月は夏の部が34位でした。毎月末における上位50作品がその月の作品ランキングとして同文庫に保存されます。 ランキングは人気投票とは異なり、「読者が作品をページ送りすると字数に応じたポイントが作品に加算」されます。読者数に関係なく、作者以外の読者によるページ送り数により加算されるのです(作者が一般読者を装って自作をページ送りすることは禁じられています)。 8月からシリーズ「縦書きでよむ一茶」新年・春の部を再編集しており、9月後半から同シリーズ夏の部に取りかかっています。まだまだ時間を要しますが、読者のみなさまに支えられながら「縦書きでよむ一茶」を制作してゆくつもりです。みなさま、どうかよろしくご支援ください。

歴史的かな遣いとは

そもそも歴史的かな遣い(旧かな)とは何だったのか。僕の両親は20歳前後まで旧かな旧漢字で育ち、その後現代かな遣い(新かな)と簡略漢字に切り替えさせられた。同じころ現人神あらひとがみだった天皇は人間として再降臨した-----神話そのものである。[以下 Wikipedia より引用、一部編集] 歴史的仮名遣とは一般には、江戸時代中期の契沖(1640-1701)による契沖仮名遣を修正発展させ、平安時代初期までの実際の綴りを発掘したものを基としている[4]。明治から第二次世界大戦終結(1868-1945 大日本帝國の時代)直後までは公的に用いられており、戦後の国語国字改革の流れによって「現代かなづかい」が告示(1946)されるまで、正式な仮名遣として教えられていた[4]。 歴史的仮名遣の原理は仮名発明当初の表記をその後の発音習慣の変化(転呼)にかかわらず引き継ごうということであるが、現実的には本来の表記を完全に確定できるわけではない。資料に基づく研究は契沖に始まることにより、まだいくらかの誤りが含まれている可能性は充分にある。その例の一つが「机(ツクエ)」である。戦前長らく「ツクヱ」とされ、「突き据ゑる」などの意味であるとされてきたが、平安初期の文献を詳しく調べたところ、戦後の今ではヤ行のエ「突き枝(え)」が正しいとされ、「机(ツクエ)」と綴られる。 ほかにも紫陽花のように諸説あるものは多く、紫陽花は古形「あつさゐ(あづさゐ)」から「あぢさゐ」であるとされる。現在では訓点語学や上代語研究の発達により、大半は正しい表記が判明しているが、これらかつて疑わしいとされた、あるいは現在でも疑わしいとされる例は疑問仮名遣と呼ばれる[5]。 また誤用による仮名遣のうち、特に広く一般に使用されるものを許容仮名遣と呼ぶ。「或いは(イは間投助詞であるが、ヰやヒと綴られた)」、「用ゐる(持ち率るの意だが、混同によりハ行・ヤ行に活用した)」、「つくえ(先述のツクヱ)」などでの誤用である。 漢字音の古い発音や音韻を表記するため[注 3]につくられた仮名遣いを字音仮名遣と呼ぶ[7]。歴史的仮名遣における字音仮名遣の体系的な成立はきわめて遅く、江戸期に入って本居宣長(1730-1801)が『字音仮字用格』を著すまで正しい表記の定められないものが多かった[8]。現代仮名遣いの施行まで行われた明治以降の歴史的仮名遣では、字音仮名遣を踏襲したが、多くは宣長の研究によっているので『字音仮字用格』の影響は大きい[9]。 このように、広義の歴史的仮名遣にはこれも含むが、和語における歴史的仮名遣とは体系を別にするものであるから同列に論ずることはできない上に、そもそも字音仮名遣は表記された年代のほか、どの時代における音韻を基準とするかなどによって揺れが激しく、定見を得ないものも多い。 そのような成り立ちから歴史的仮名遣論者にも、「表語(表意)」を重視する立場から見て字音仮名遣を含めない者(時枝誠記・福田恆存・丸谷才一)と含める者(三島由紀夫)がおり、字音仮名遣と歴史的仮名遣に対する立場は一様ではない。前者の主張は漢字自体が表語文字だからということであるが、その場合漢字制限を指してこれに反発した。 以下、韓国語部分訳 일본 가나쓰기의 체계적인 성립은 매우 늦어, 에도시대(1603-1868)에 들어와 모토오리 노리나가(本居宣長 1730-1801)가『字音仮字用格』을 저술하기 전까지는 정확한 표기가 정해지지 않은 것이 많았다. 현대 가나쓰기가 시행되기까지 이루어진 메이지 이후의 역사적 가나쓰기는 자음가나쓰기를 따랐지만, 대부분은 노리나가의 연구에 의한 것이기 때문에 『자음가자용격』의 영향이 크다. ...애초에 자음가나쓰기는 표기된 연대 …

なぜ歴史的かな遣いを廃したのか

そもそも<現代かなづかい>など必要だったのだろうか。そんな疑問を抱いた、いまや誰一人見向きもしないだろうが。 歴史的仮名遣いは「実際の発音と違うかなを習得するため子どもにはむずかしすぎるということで反対する人たちがあらわれ... 1946(昭和21)年11月内閣告示<現代かなづかい>が公布され」...「教育上の負担を軽くするばかりでなく国民の生活能率をあげ文化水準を高める」[レファレンス協同データベースより抜粋] 文化庁サイトに歴史的仮名遣い対照表と題した表が載っている。凡例↓ 対照表(イ-ワ): 対照表(ユー-ロー): 対照表(キュー-リュー): 対照表(キョー-リョー) 国体を護持し、国家統治の土台ともいうべき文体を差し替えたわけだ。日本語の歴史的連続なくしてその文化的継続はむずかしい。<現代かなづかい>の導入は文化的な截断そのものだったのではないか、とさえ思う。彼らがそれを意図していたとすれば大いに成功したことになる。ただし、その後の日本語は跛行を余儀なくされ伝統を失った空疎な言葉になった、僕はそう考えている。 丸谷才一(1925-2012)は<現代かなづかい>を批判している。曰く、読みづらくなった/語源が分からなくなった/どう表記したらいいのか誰にも分からない言葉が多く生じた/五十音図と連関する動詞の活用を破壊した/同語異発音のゆとりを消した/拗音、促音を小さく書く表記法のせいで煩雑になった。彼は自らの小説を歷史的かな遣いで執筆していることでも知られている。参考↓ 歴史的かな遣いとは 国語施策沿革資料 2 文化庁1981 1946년 11월 일본 정부는 그때까지 사용돼고 있었던 역사적 가나쓰기를 포기하고 <현대 가나쓰기>를 도입했다. 그런 문체(文體) 개혁이 과연 필요했을까? 그런 큰 의문을 품은 사람은 이제 아무도 없겠지만 나는 그렇게 생각하는바 있다. 역사적 가나 쓰기는 ‘실제 발음과 다른 가나를 익히기에는 아이들에게 너무 어렵다고 …

縦書きで「一茶」制作中です

縦書き文庫版一茶発句集は次の四部(シリーズ)で構成されています。完成まではまだかなり時間がかかります。乞うご期待! 縦書きで「一茶」新年・春 縦書きで「一茶」夏 (制作中) 縦書きで「一茶」秋 (未着手) 縦書きで「一茶」冬・雑 (未着手) 新年1・春3など各ページ下のをクリックすると下に季語の目次が表示され、各季語をクリックするとその掲載ページに移動します。 縦書きで一茶: 総目次

高麗神社 고려신사

埼玉県日高ひだか市にある高麗こま神社じんじゃに約一年ぶりに行った。前回は韓国人の友人と電車で、今回は日本人のMTB仲間と自転車で行った。僕の自宅から往復100kmを超える。炎天下でもあり、かなりきつかった。 高麗神社と書いて日本ではコマ神社と読む。高麗(コマ)は駒(こま)に通じる。高麗という漢字を日本ではコマあるいはコウライと読ませ、韓国や北朝鮮では고려[コリョ]としか読めない。コリョ神社シンサと読むだろう。 この高麗神社には高句麗神社という名もあるが、句という字は小さく遠慮がちに書かれている(下の写真[3]参照)、高句麗という漢字を日本ではコウクリと読ませ、韓国や北朝鮮では고구려[コグリョ]と読む。 この神社には日本の皇室と李垠殿下(1897-1970)ほかが参拝している(下の写真[12]参照)。注目されるのは1940年代における朝鮮王朝の末裔と1976年の浩宮皇太子(令和天皇)ならびに2017年の平成天皇皇后両陛下である。 사이타마현 히다카시에 있는 고마 신사에 약 1년 만에 다녀왔다. 지난번에는 한국인 친구와 전철로, 이번에는 일본인 MTB 동료와 자전거로 갔다. 내 집에서 왕복 100km가 넘는 거리다. 무더운 날씨에 꽤 힘들었다. 高麗神社는 일본에서는 고마진쟈라고 읽는다. 고려(高麗)는 고마(駒)로 통한다. 高麗(고려)라는 한자를 일본에서는 고마 또는 고라이로 읽게 하고, 한국이나 북한에서는 고려[高麗]라고 읽으며, 고마라고 읽을 수 …

俳界・はいかい・俳諧

ことし初めから縦書き文庫に一茶発句集を掲載している。8月からはシリーズ縦書きで「一茶」新年・春と改題し、校正・校閲作業を行っている。再編集をほぼ終えた新年・春の部の句数を集計したところ5,599句となり、4月時点と較べ381句増えた。入力データ洩れなどを追加したためだ。 縦書き文庫版としてすでに掲載している縦書きで「一茶」夏(4,765句、9月から再編集の予定)を加えると1万句を超え、2万2千句を超える一茶の俳句全体の半分近くになる。縦書き文庫版は一茶の全俳句を網羅することはできないが、これによって多くの人がスマホで一茶の俳句に親しめるようになれば、と期待している。 一茶の句の日常性や卑近性と洞察力、縦書き文庫とスマホの特性が相まって、俳句の世界(俳界)が広がることを願ってやまない。 Since the beginning of this year, I have been uploading a collection of haiku poems by Issa(1763-1828) in the Tategaki-bunko library, of which the New Year and Spring parts is in the process of proofreading and revising. The total number of haiku in this part is 5,599, an increase of 381 poems …

一茶に魅せられて(3)

俳句をつくるでもなく、俳句の研究者でもない僕は、晩年になって一茶に引かれるようになった、いわば愛読者の一人である。少し変わっているのは、自ら縦書き文庫版の一茶発句集を作成していることだ。ようやく春の部が完成しつつあるところだが、この作業を通して一茶が教えてくれるものは少なくない。 たとえば、二百年余り隔たった当時の世のなかや事物を見る観察眼であり、独自の切り口である。時代相こそ大きく異なるが、一茶の晩年における観察眼は今日を生きる僕らにも共通する批判精神を提供してくれる。現代人こそ一茶の観察眼を切実に求めているとさえ感じる。 子規(1867-1902)は芭蕉(1644-94)を再評価し、芭蕉の画期性は伝統的な花鳥風月ではなく日常自然の事物を詠んだことにあったとした。それを象徴するのが、「古池やかわず飛びこむ水の音」だという。一茶は芭蕉の画期性を引き継ぎ、さらに徹底したということができよう。小便とか屎(糞)や屁などを題材にした句が目立つのが一茶調の特徴の一つだと思うし、草の庵の屋根や周囲の植物を自分に引き寄せて表現する手法も独特なものだ。これらはみな彼の周りの日常自然なのだ。 芭蕉と一茶(1763-1828)が描く蛙を比較すると、芭蕉の蛙は作者と関係ないところにいて、池に飛び込むだけだが、一茶は痩蛙の側に立ち、真剣に応援している。自分の子のためにも負けてはならない対象なのだ。痩がえるのほかに痩蕨とか、痩せた動植物にまつわる句も多いが、そこに自らの姿を投影している。 こんなところに一茶の魅力を感じるのは僕だけかもしれないが、彼の句は芭蕉ほどには読まれていないように思う。芭蕉の句が侘びさびの粋とされ日本的美意識の表象とされるのに対し、一茶は雀や蛙に寄り添う句に代表される一人の老いた俳人としてしか理解されていない。僕はそのことに大いなる不満を抱いている。さあ、どうしたものだろうか。 하이쿠를 만들지도 않고, 하이쿠 연구자도 아닌 나는 말년이 되어서야 잇싸(一茶 1763-1828)에 끌리게 된, 말하자면 애독자 중 한 명이다. 조금 특이한 것은 스스로 다테가키(세로쓰기) 문고판 잇싸 발구(発句)집을 만들고 있다는 점이다. 이제 겨우 봄편이 완성되어 가는 중인데, 이 작업을 통해 잇싸가 가르쳐 준 것이 적지 않다. 예를 들어, 2백여 년이 지난 당시의 …

一茶の描く蛙(かへる)

蛙もほかの動物と同じように一茶の情感や観察眼を映していると考えていたが、その表現様式は他の動物と少し違うようだ。蛙は猫や雀より抜きん出ていて人間一茶に対抗するかのように、あるいは世のなかを見おろすように描かれている。だから、一茶は蛙に対抗して「小便の滝を見せ」るのだろうし、蛙のほうは彼を無視するかのように「(一茶が)叱ってもしゃあしゃあ」とし「(彼ら自身)小便をいたしながらも鳴く」のだ。 どこか超然として「一つ星見つけたように」「我一人醒さめたり顔」で「人を吐はくようにすわって」鳴く蛙像が浮かび上がってくる。よく知られた「痩蛙やせがへるまけるな一茶是これにあり」が、生後1ヵ月も経たずに死んでしまう長男の病魔退治びょうまたいじの祈りだったという背景を知るにつけ、一茶の蛙に対する特別の思いがあったればこそだとも思う。 「江戸蛙ちょっともあとに引ぬ」傲慢ごうまんさをもち、「西行さいぎょうのようにすわって」「上人しょうにんの口真似くちまねして」「三日月をにらみつけ」「おれ(一茶)としてにらみくら(競)する」「一理屈ひとりくついう気で居すわる」蛙、「南無なむなむと石に並び」「南無なむなむと田にも並んで」鳴く蛙も生意気である。「天文てんもんを考え顔の」「鳥居とりいから江戸をながむる」蛙、「芦あしの葉に達磨だるまもどき」「星の歌よむ」などの表現には蛙に対する畏敬いけいの念すら感じられないだろうか。 개구리도 다른 동물과 같이 잇싸(一茶 1763-1828)의 정서와 관찰력을 반영하고 있다고 생각했는데, 그 표현양식이 다른 동물과 조금 다른 것 같다. 개구리는 고양이나 참새보다 우월한 존재로 인간 잇싸에 대항하는 듯, 혹은 세상을 내려다보는 전재로 그려져 있다. 그래서 잇싸는 이에 대항해 '오줌폭포를 보여주'는 것이고, 개구리 쪽은 그를 무시하는 듯 '(잇싸가 그들을) 꾸짖어도 꺅꺅거리며' '(그들이) 오줌을 …

「一茶」を縦書きで読む

一茶の俳句を縦書きで読む、どこでもいつでも読みたいときに読めるようにしたい。そう考えながら一茶の発句集を季語ごとに年代順に縦書き文庫にアップしている。昨年末に始め7月半ばまでに新年・春・夏の部を作成したが、途中で編集方法を変更し、7月下旬から新年の部に戻って再編集している。9月上旬には新年・春の部を校了する予定だ(縦書きで「一茶」新年・春)。 縦書き文庫版は「一茶発句全集」(小林一郎編 2005年 秋の部動物まで)と信濃教育会編『一茶全集』(信濃毎日新聞社 1979年 第1巻「発句」)を底本にし『七番日記』(丸山一彦校注 岩波文庫 2003年)ほかを参照している。僕は季節ごとに句番号をつけルビを振って、スマホや PC・iPad で縦書き読みできるようにしている。 一茶が動物に寄せて詠んだ句を読み込んでいると、そうだ、そうだったのかと納得させられる。蛙や雀がよく知られているが、それだけではない、犬猫や蚤虱などが映し出す世界は人間界そのもので、他人ごととは思われない。 一茶発句全集の春の部・蝶の項に次のような句がある。蝶と人がほぼ同じ目線で捉えられていて、両者を区別できない。以下、横書きながら一部紹介しよう。 とぶ蝶ちょうの人ひとをうるさく思おもふらめ 文化句帖 化5 春2895 蝶ちょうとぶや此世このよに望のぞみないやうに 化三-八写 化6 春2901 蝶ちょうとんで我身わがみも塵ちりのたぐひ哉 七番日記 化7春2906 むつまじや生うまれかはらばのべ(野辺)の蝶ちょう 七番日記 化8春2916 世よ[の]中なかや蝶ちょうのくらしもいそが(忙)しき 七番日記 化8春2917 蝶ちょうの身みもうろうろ*欲よくのうき世よ哉 七番日記 化9春2927 [*有漏うろ、煩悩] 蝶ちょうとぶや夫それ仏法ぶっぽうの世よ[の]中なかと 七番日記 化13 春2984 世よにあれば蝶ちょうも朝あさからかせ(稼)ぐぞよ 七番日記 化13 春2997 はづかしやくつっとも云いわぬ蝶夫婦 七番日記 政1春3015 気きの毒どくやおれをした(慕)ふて来くる小こてふ 八番日記 政3春3032 参詣さんけいのつむり(頭)かぞへる小蝶こちょう哉 八番日記 政4春3054 狂くるへてふ(蝶)狂くるって腹はらのゐる*ならば 文政句帖 政5春3072 [*怒りがおさまる] 世よの中なかは蝶ちょうも朝あさからかせ(稼)ぐ也 …

Issa’s last years

一茶同好會1910年発行『七番日記』肖像画一茶同好會1910年発行『七番日記』表紙一茶同好會1910年発行『七番日記』本文一茶同好會1910年発行『七番日記』奥付 坐って宙に浮いている老人-----晩年に妻帯し4人の子を授さずかるが、みな早死にし妻も他界してしまう。その要因を梅毒とする説もある。[以下 Wikipedia (小林一茶) をもとに編集しました] 1814年5月(文化11年4月)、信濃国(現長野県)柏原宿の一茶(51歳)は同国野尻宿の菊(28歳)と結婚する。一茶のいとこの宮沢徳左衛門が仲介したようだ。2年後、長男が生まれるが、1ヵ月たらずで死んでしまう。 長男の死の翌年、長女が生まれるが(1818年6月)、1歳を過ぎ疱瘡(天然痘)に感染して死んでしまう(1819年8月)。一茶の没後25年に出版された『おらが春』は娘に捧げられた俳文だ。「目出度めでたさもちう位也おらが春」はよく知られている。 翌年秋、次男が生まれた直後、一茶が雪道で転倒して中風(卒中)を起こす。言語障害と運動障害を併発し、次男とともに自宅で療養する。その後回復するも、歩行が少し不自由になった。 生まれて3ヵ月も経たない次男が菊の背中で窒息死したとき、一茶は妻を罵倒する文を書いた。やり場のない哀しみと怒りを妻にぶつけたのだろう。「陽炎かげろうや目につきまとふわらひ顔」と詠うたう孤老ころうの姿が痛々しい。 義弟との相続問題が解決して妻を迎え、俳諧の師匠として北信濃各地に門人を持ち、故郷に安住したかに見えた一茶だが、故郷に受け入れられたとは感じていない。「故郷ふるさとは蠅はえまで人を刺さしにけり」と、故郷の人々の刺々とげとげしい態度を恨うらむ一茶の側に要因があったのではないか。晩年の一茶は短気で怒りやすかったという。 1822年5月(文政5年3月)、三男が生まれるが、菊は産後の肥立ちが悪く病気がちになった。翌年正月、一茶(60歳)は「春立や愚ぐの上に又愚ぐに帰る」と、自らの来歴を振り返っている。愚禿ぐとくと自称した親鸞(1173-1263)の<自然法爾>「悲しいときは泣き嬉しいときは喜び苦しいときは苦しんで生きる境地」を表現したものと云われる。 1823年(文政6年)、菊の痛風の病状が悪化する。俳諧師として門人宅回りを続ける一茶は子の世話をできないので知人宅に預け、菊も実家で療養させた。しばしば妻を見舞うが、病状はしだいに悪化し、1823年6月(文政6年5月)、37歳の若さで、子どもたちを追うように菊も他界する。「小言こごといふ相手もあらばけふの月」。いかにも孤老の句である。 菊の葬儀に三男も戻ってきたが、すっかり痩せ衰え、間もなく死んでしまう。知人が、乳が出ないのに保育料欲しさに子どもを預かったとして、一茶は罵倒する俳文を書く。この子も虚弱体質だったと云われる。 その後再婚するが、1カ月余りで離婚した。1824年9月(文政7年閏うるう8月)に、善光寺町の門人宅で一茶は中風を再発する。一命はとりとめたものの言語障害が残る。 菊の他界、亡くなった子への思い、再婚相手との不仲、2度の中風を患うなか、一茶は最晩年を迎える。身体的な不自由と言語障害もあった。1825年(文政8年)、63歳の一茶は竹駕籠に乗り、年の大半を北信濃の門人巡りをして過ごす。この間、彼の家や留守時の管理は徳左衛門が支援していたようだが、一時家政婦を雇っている。1826年(文政9年)、64歳の一茶に再々婚の話が浮上する。 1825年(文政8年)、柏原の旅籠小升屋に奉公をしていた越後二股(妙高市)の富裕農民、宮下家の娘やを(31歳)が私生児を産む。相手の倉次郎は十代で、柏原の本陣中村六左衛門家の分家で柏原一の地主の三男だった。周囲はこの問題を巡って、64歳の孤老の再婚を画策する。 一茶は自作農で後継ぎがいれば小林家を存続できるし、中風で体が不自由だから、介護を必要とした。私生児倉吉の父は柏原有数の名家である。母のやをも越後二股の富裕な家の娘であり、小林家は柏原でも有力な家だから、倉吉が一茶の家を継ぐのに問題はない。こうして、1826年(文政9年8月)、一茶(64歳)とやを(32歳)は結婚する。連れ子の倉吉は2歳だった。 後継ぎも決まり、平穏な晩年が訪れるかにみえたが、1827年7月(文政10年閏6月)、柏原に大火が発生し、柏原宿の8割以上の世帯が焼け出された。一茶の家も隣に住む義弟の家も全焼したが、一茶所有の土蔵は焼失を免れた。 やむなく一茶の家族は土蔵を仮住まいとする。そこは高いところに窓が一つ空いているだけで昼でも薄暗かった。一茶は不自由な体と言語障害を抱え、手も震えていたが、火災後も俳諧師として門人巡りを続けた。柏原の大火後、門人の一人が、一茶の話す言葉が聞き取りにくく、怒りっぽくて困ると記しているという。 死の影を感じながら、一茶は精力的に門人宅を巡回し、越後の小千谷の片貝にある観音寺に奉納する俳額の撰を行い、約1万5千句のなかから丁寧に選句を行うなど、衰えを感じさせない活動だった。土蔵の修理も行っている。 1827年12月25日(文政10年11月8日)、俳諧師匠の巡回指導を終え、一茶は久しぶりに柏原に戻る。その10日後の夕刻に亡くなった(65歳)。遺骨は菩提寺の明専寺にある先祖代々の墓地に合葬された。妻やをは子を孕はらんでいた。

Issa (1763-1828)

(Quoted from Japan An Illustrated Encyclopedia, Kodansha, 1993) Also known as Kobayashi Issa. Haiku poet of the late Edo periiod (1603-1868). Real name Kobayashi Nobuyuki. In addition to Issa, which means "a cup of tea," he used a number of other pen names. Born as the first son of a middle-class farmer in Kashiwabara, Shinano …

孤老の俳人

毎日のようにメディアがこぞって記録的な高温を報じ、室内にいてクーラーをつけ、外出しないように呼びかける。勤め先のある人々は寒いくらいの電車に乗って出勤し、勤めや外出先のない人々は冷気を求めて行く先のない電車に乗るか、クーラーの効いたお店に入ってスマホに見入る。彼らは同類で集まり時間を過ごす。そんな状況を処女作「いつか名もない魚になる」(縦書き文庫2021年)に書いた。 老人がひとり、梅雨つゆの合間あいまに東京西部の山岳地帯に涼りょうを求めるでもなく、炎天下の危険とされるハイキングに出かける。いったい、彼は何を求めて山に往ゆくのだろう。かつて自分にもあった若さとか熱気と呼ばれる瑞々みずみずしい生命力だろうか、数年前に亡くなったS先生あるいは父の面影おもかげだろうか。 彼はいま、小林一茶(1763-1828)の発句集を縦書き文庫にアップしている。18世紀末から19世紀前半にかけて一茶が残した2万余りの句をくり返し読み、学校で習った像と大きくかけ離れた俳人について考える。一茶ほど老いの悲哀について考え、俳句にした人はいないのではないか。その透徹した観察眼で自らと市井の人々や卑近な動植物をとらえ親しげに話しかける。そう、一茶は俳人である前に一人の孤独な老人(孤老)なのだ。 Every day the media is reporting record high temperatures and urging people to stay indoors, turn on the air conditioner, and stay out. Those who have jobs take the chilly train to work, while those who do not have place to work or go out take the train with no destination for …

縦書き文庫版「一茶発句全集」

いつでもどこにいても、スマホさえあれば読むことができる一茶の俳句集、それが縦書き文庫版「一茶発句全集」です。ことし1月から少しずつ縦書き文庫(明治以降の多くの文学作品を掲載)にアップし、6月末で季語夏の動物の部まで読めるようになりました。詳細は一茶に魅せられて(2)をご参照ください。なお、1月-6月の縦書き文庫版「一茶発句全集」の読者ランキングは各月23/12/16/18/31/27位でした。 現在夏の植物の部に取りかかっており、併行して新年から「一茶全集」(信濃毎日新聞社 1979)の表記に合わせ見出しを追加しています。 新年(1) 元日・正月・春・初空 新年(2) 若水・凧・万歳・若菜…

Fictional Continuity

Japan after 1945 and the Empire of Japan from 1868 to 1945 were two completely incompatible political systems: a democracy with a sovereign people and a constitutional monarchy with a sovereign Emperor. Despite this, the symbolic emperor system was introduced in order to maintain continuity between the two systems. I believe that Japan and the …

一茶に魅せられて(2)

一茶に魅せられて(1)を書いた4月初め、縦書き文庫版「一茶発句集」の句数は新年と春の季語をあわせて5,218句だった。その後、夏の季語にとりかかり、夏(7)動物の部で合わせて9,025句になった。一茶は生涯に約2万2千句遺したといわれ、その8千句余りは48-56歳(51歳で弟との相続問題に和解が成立、52歳で結婚)に書かれた「七番日記」(1810-18年)に掲載され、「一茶調」もこの時期に成立したとされる。老醜と向き合いながら結婚生活をいとなみ、創作活動は最盛期を迎える。晩年における彼の活動ぶりが同じく老境に入った僕を励ましてくれるのだ。 縦書き文庫版(季語の夏を制作中)の元データとしている長野郷土史研究会のサイトに公開されているのは、季語の秋(動物の部まで)だ。秋の植物の部と季語の冬・雑について何らかの方法で制作しなければならない。半年ほど悩んだ末に、1979年8月に完成した全9巻の『一茶全集』第1巻(信濃教育会編集/信濃毎日新聞社発行/菊判/762頁)をもとにすることにした。長野郷土史研究会サイトの凡例にも「同全集を底本にして」とある。一茶研究における金字塔とも云うべき資料だ。その第1巻発句(18,700句収録)を入手した。うれしいことこの上ない。 『一茶全集』第1巻(信濃教育会編集/信濃毎日新聞社発行/菊判/762頁) 写真の見開きは、概ね右半分が長野郷土史研究会がデータ化し公開している部分(全体の約4分の3)、左半分が公開されていない部分(約4分の1)を示している。まだ夏の季語も終えていないが、秋の季語の動物の部までを研究会のデータに基づいて入力し、さらに左半分にあたる秋(植物)/冬/雑の発句を手入力する予定だ。一茶翁の没後2百年までに何とか縦書き文庫版「一茶発句集」を完成させ、僕の最晩年の碑にしたいと思う。