登山靴

約35年ぶりに登山靴を買った。8月に木曽御嶽に行ったとき寿命を感じた登山靴の代わりを探してはいたが、衝動買いだったかもしれない。

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この靴を履いて山登りするのがふつうだが、僕はMTBに乗る。若い人びとのように体力がない僕は自転車を押しながら山道を歩くことが多いからだ。そもそもMTBとは自転車でする登山ではないか。

この登山靴を履いてMTBに乗ったら、ペダリングもよく、自転車を押して歩くときでも滑ることがない。

MTBの魅力02

歳を重ねるにつれて肉体的な変化に気づかされる機会が増えてきた。頭髪に白いものが混じり肌の張りが喪われていく。

これらのほかに目に見えない内面の変化がある。本当はこちらの変化のほうが恐いのだろうけれども、目に見えないから気づきにくい。

僕が64歳になってMTBを始めた最大の理由は、目に見えない変化に対する恐怖心だったのか。 いや、さほど考え抜いたうえの選択ではない。

確かなのは、中学校時代の友人と一緒に思いっきり遊びたかったということだ。MTBのおもしろさと体力の消耗具合は、中高年には度が過ぎるほどだ。

それに抗するかのように、隔週ごとの週末にMTBで走り、夕暮れどきまで遊ぶ。12月初めには日没後の薄暮のなか、標識をライトで確かめながら下山した。暗がりのなかに浮かぶ武蔵五日市の夜灯がまぶたに残る。

noisy people

「トレインピープル」の立場で観察すると、中国人とアメリカ人は最もやかましい人びとに見える。いずれも、その多くは我が物顔でスペースを占領し、我々を妨害する。

彼らが中国人とアメリカ人だからなのではないが、目につく人が多い。最近、日本人で目につくのは大きいストローラーで電車に乗ってくる若い人たちだ。60歳代の同窓会や同好会とおぼしき人たちも迷惑なことが多い。

近ごろ耳につくのは日本人の初老の男性で必要以上に大声で話す人だ。大体は社会的な成功者で、周囲の人びとに聞こえよがしに自慢げに話す。酒気を帯びるとさらに大声になる。周囲に対する配慮が働かなくなるのだろう。

やかましい人とは、要するに他者への配慮が働かない人びとということだ。人種とはまったく関係ないのだが、なぜか中国人とアメリカ人が目立つ。

西洋と朝鮮

紀元後の西洋文化はキリスト教と密接不可分の関係にある、と世界史の教科書や関連の本を読んで覚えてきた。中世の陰鬱な文化や魔女狩りのような時期があったとはいえ、キリスト教を抜きにして西洋は理解できないと教えられた。

学生のころは皆と同じように西洋にかぶれ、大いにその影響を受けた。だが、結局それは表面的なものでしかなかったようだ。朝鮮の文化に接するにつれ、ぐいぐい深入りするように感じた。

西洋文化に対する理解が観念的だったとすれば、朝鮮のそれには情念的な接近をした。同質な部分がある分、理解しやすいように感じた。少なくとも、そういう錯覚に陥ることができた。だが、それも観念的なものだったかもしれない。

a tie

この前、妻からネクタイを貰ったのは何年前だろうか、記憶の欠落を恐れずに言えば20年ほど前になろうか。妻から貰ったネクタイを残らず切られたのが25年前、女性問題が発覚したあとは、当然ながら貰った記憶がない。

今回もわざわざ僕にというのではない。誰かのために取っておいたものを譲り受けた格好だが、そんなことはどうでもいい。僕にくれたことが大事なのだ。

朝の出がけにスーツに合わないといって差し出した。彼女の心中を察するに、許したわけではないわよ、といったところだろうか。

僕の心のなかに静かに嬉しさが広がるのを感じる。

新しい出会い

新しい出会いは、いつでも期待を膨らませる。それは突然やって来るようにみえて、いつも僕が知っている誰かとどこかでつながっている。

新しい出会いには新旧の出会いが交錯している。出会いはまた人と人のあいだにだけあるのではない。人と土地や地域、人と組織など、人が関わるすべてのことと出会うことができる。

だから、新しい出会いに期待が高まり、心踊らずにはいられないのだ。そんな出会いがまたひとつ近づいているような予感がある。

feeling down

ときに理由もなく(と僕は思うのだが)、落ち込むことがある。そういうときはジタバタしても始まらない。ただ、じっと耐えることにしている。

周期的に襲って来るように思う。季節の変わり目や生活環境が大きく変わったあと、しばらく時間を置いて起きることが多いが、確かな原因はわからない。

長時間PCに向かって作業したあと、悪文を読み込んだあとなどにも襲われる。自分の意に沿わない時間に耐えたあとに反動がやって来るのだ。

予防接種

記憶にない子どものころから数えると幾度となく予防接種を受けた。それは単に肉体的な影響だけを及ぼしたのだろうか、もしかしたら僕らの脳にも何らかの変化をもたらしてはいないだろうか。

久しぶりに予防接種を受けて、ふとそんな空想めいたことを考えた。英語では、immunization、inoculation などというようで、免疫、植えつけなどの意味を持つ。「思想」は植えつけられるのか。

ベルグソンの笑い

ベルグソンは人間の笑いを分析して、その本質を、我関せず焉にあるとした。ダンスホールの雑踏のなかにいて、ふとそれを思い出した。

ベルグソンの分析した笑いは、漢字で「嗤い」と書くべきではないか。嘲笑の要素が多いからだ。抱腹絶倒の笑いでないことは間違いあるまい。

スマホと携帯電話

スマホの料金が収入に比べて高く負担に感じる。携帯に戻そうかと考えたりする。大半は業務で毎月1万円ぐらい会社に請求すべきだが、業績が悪く言い出しにくい。

一晩かけて僕が初めて使った携帯を探した。購入したときの箱にしまってあったので、なかなか見つからなかった。小型で軽量だし、無駄がないから実にシンプルだ。さっそく充電したが使えるかどうかはわからない。

携帯を使い始めたのは2007-08年。一般の人より数年遅い。その後、iPhone3、4、5 と短期間に変えたことに我ながら驚く。思うに、僕はスマホに振り回されてきただけではないのか。

とはいえ、今やスマホなしでは生活もままならない。そういう時代なのだ。

ライフワークなるもの

ライフワークなるものがあると思わされ、ずっと思い込んで来たが、そんなものはないのではないか。時間とお金を投資した何かがあり、それがうまく社会的に認められればいいが、ふつうはそうならない。

物的または知的に形に残るものを創出する仕事に恵まれるごく一部の人だけがライフワークを持てるというのか。そういう仕事や作品を持たない者にライフワークなどないというのだろうか。 僕はそうは考えない。

あらゆる人がライフワークを持っているし、持つことができると考える。ただ、多くの人はそれに気づかないから自覚もしない。そういうお前のライフワークは何だ。

weekends

1 部屋の掃除
週末に自分の部屋と階段、廊下などを掃除する。掃除もクリーナを使うから楽だが、整理できない僕に問題がある。

2 洗濯、アイロン
最近は週に2回ほど自分の衣類を洗濯する。洗濯物を洗濯機に入れスイッチをオンにするだけだから洗濯は楽だ。干すのが手間だが、慣れればそうでもない。長袖シャツのアイロンがけが面倒だ。

3 MTB
週末に友人とMTBで東京郊外の丘陵や低山に行くようになって4ヵ月、毎週末が待ち遠しい。こんな感覚は20歳代半ばに登山を始めたころ以来だろうか。

4 登山
20歳代後半から30歳代前半、よく山に行った。60歳代になって娘の誘いで登山を再開し、その後MTBで低山に登るようになった。低山の楽しみも捨てがたい。

5 映画
2002年ごろから韓国映画を見始め、妻と一緒に月に1本ほど映画を見るようになった。2010年代以降インド映画がおもしろくなった。夫婦・シニア割引き制度の導入も後押ししてくれている。

6 美容院
ほぼ月末に行く。長年、近所の美容院に行っていたが、2年前から隣り駅の近くにある廉価なチェーン店に変えた。髪型はあまりこだわらない。

そういえば、昔は床屋か散髪屋に行ったものだ。中学3年の秋だったか、丸坊主にしたことがある。高校3年まで坊主頭だった。

7 ショッピング
週末に妻と一緒に行くのがショッピング、ふだん近くのスーパーやパン屋に行くのが買い物だと区分しているつもりだが、さしたる意味はない。

8 アイロンかけ
週末に1週間分のシャツにアイロンをかける。半袖は短時間で終わるが、長袖になると面倒だ。若いころはクリーニングに出していた。

9 コーヒーショップ
年代ごとに行きつけの喫茶店が決まっていた。ミニヨン(荻窪)、風月堂(新宿)、ポエム(阿佐ヶ谷)、珈琲館(九段)、プチ(阿佐ヶ谷)、Tully’s(西新宿)、

Daily life

日常的なるもの、僕が習慣と感じることについて書きたいと思う。はじめに日常生活の場面を時系列、週日、週末の順にあげてみる。

1 スマホを使う時間
朝スマホのタイマーで目ざめ夜眠りにつくまで1日に何時間スマホに触れているだろうか。スマホに没頭しジャケットを電車に置き忘れ紛失したことがある。スマホのない生活は考えられない。

2 朝の食事
朝の食事がトーストとコーヒーになって久しい。朝早く家を出るときは食べないことが多い。別に外国暮らしのせいではないが、そうなった。

3 通勤ラッシュ
最寄り駅で乗るのが8時から30分ほどになると混雑がひどい。ふだんはその時間帯を避けるが、たまに避けられないことがある。まさに家畜輸送車だ。

4 朝の連絡会
毎朝少人数の会合がある。会議と呼ばれているが、連絡会に近い。慣れると、なかなか便利な会だ。ボスがいなければ開かれない。その意味では報告会だ。

5 デスク=PCに向かう時間
ほとんどの時間デスクに向かいPCに触れている。スマホに触れているより長時間触れている。地域差や個人差もあるが、僕の場合1990年ごろからPCとの共生が始まった。

6 昼食
最近よく行く二八そば屋でかけそばといなりずし二つを食べる。あるいはカレー専門店で何のトッピングもないカレーライスを食べる。いずれも約500円だ。

7 帰宅の電車
とにかく座席に着きたい、できるだけ降りる駅の改札口に近い場所の車両のシートの端にすわりたい。そういう座席がないときはドア近くのシート側面に腰を預けたい。

8 夜の食事、食器洗い
人一倍食い意地の張っている僕は夜の食事が楽しみでおいしい。妻の料理はいつも期待を裏切らない。10年ほど前から食器洗いを担っている。

9 韓ドラ
2003年「冬ソナ」以来の韓ドラファンだ。しばらく嫌になった時期もあるが、続いている。現代ものも歴史ものも見る。夫婦で一緒に見られるのがいい。

10 就寝
若いころから夜ふかしで、60歳代半ばの今も12時前に寝ることはない。午前1時から2時のあいだに眠ることが多い。別に寝つきが悪いわけではなく、床につけばすぐ眠りに落ちる。

11 TVニュース
夜7時に家にいるときはNHKのTVニュースを見る。少年のころから海外報道のほうに関心があった。シーズンオフを含め毎回報道される野球は準国技といえる。

12 新聞
新聞は朝時間に余裕があるとき読むが、読みごたえのある記事にぶつかることは稀だ。高校時代に記述文の模範として習った「天声人語」や「編集手帳」は悪文の最たるものだろう。

13 トイレ
僕は若いころトイレの滞留時間が長い。少年期に住んでいた家は昔ながらの便所だったから脚がしびれるという時間の区切りがあった。その後、洋式になって時間制限がなくなり、滞留時間もふえた。

14 入浴
昔は毎日フロに入る習慣がなかった。20歳代の終わりころから毎日フロに入るようになった。結婚したからだ。少年時代の行水を懐かしく思い出す。母が熱々のタオルで体を拭いてくれたことも懐かしい。

結婚30年

来秋結婚30年を迎える。12年目から数年間、僕の無責任な行為のせいで離婚の手前まで行ったが何とかここまで来られたのは偏にわが配偶者の忍耐のお蔭だ。

30年のあいだに何度か転職し、わがまま勝手をし、家庭を顧みず、いつも仕事を中心に生活していた。ひと言でいえば不逞の輩だつた。ひどいものだ。

振り返れば初婚の相手とは5年付き合って結婚し2年ほどで離婚した。あのころも僕はわがままで勝手だった。今さらどうしようもないが、ひどいものだった。

韓国•朝鮮と関わって45年

1970年前後から韓国•朝鮮と関わってきた、そんな自負心がどこかにある。たとえ、それが限られた分野のごく一部の期間に過ぎなかったとしても、僕なりのやり方で韓国•朝鮮と関わってきたという自尊の気持ちを持っている。

韓国•朝鮮に惹かれるようになったのは一浪して大学に入った69年ごろだったろう。70年の一時期普通語を少し嚙ってやめた。73-77年、韓国の航空会社に勤めながら韓国語を学んだことが、その後の僕の進路を決定づけたと思う。

とはいえ、継続して韓国•朝鮮に関わって来たわけではない。77年後半から97年までの約20年のあいだ、85年秋と86年に韓国を訪れただけだったと思う。前者は新婚旅行で、後者は 민갑완 “백년한” の資料を入手するためだった。

この20年のあいだも韓国•朝鮮の方を向いていたと思う。81年の歴史教科書問題のときは、韓国の歴史教科書を1年余りかけてグループで翻訳した。ワープロもPCも普及していない時代、資料を集め筆記して手書きで翻訳するのはたいへんだった。月1回の会場確保も煩わしかった。そんな時代があった。

翻訳原稿はいまも大事に保存しているが、日の目を見なかった。グループの発起人として申しわけなく思う。カブァン自伝の日本語翻訳にそのようなことがあってはならない。電子書籍であれ印刷書籍であれ出版しなければならない。没後50年までに出版しなければならない。

[韓国併合の翌年に大阪で制作された地図]
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the national anthem

日本の国歌「君が代」は明治以降、そして太平洋戦争の前後を通じて一貫している。戦前と戦後に截然たる区切りを設けるべきだと考える人びとはこの一貫性を嫌い、戦後日本の国歌として認めようとしない。

それで、戦後70年を迎えようとする現在も卒業式やオリンピックなどの国歌斉唱のときに自国の国歌を歌わない人が少なからずいる。また、例えば丸谷才一氏のように「裏声で歌へ君が代」と主張する人士もいる。

日本は戦後新たな平和国家として再出発するに際し何らかの形で歴史的な切断を設けるべきだった、と僕は考えている。戦後日本が国内外に対して戦前とのあいだに断絶を示す機会を失ったがゆえに、日本は歴史的な反省をしない国家として負の歴史を背負うことになったとも考える。かつて日本の版図に含まれた地域の人びとを「切り捨てた」ことも誠実さを欠く対応だったと言わざるを得ない。

一方、戦後70年を目前にしながら、未だに国歌を歌えない人びとがいることは嘆かわしい、としなければならない。僕らのあとの世代には国歌を堂々と歌えるようにしてあげたいし、そうしなければならないのではなかろうか。

だからといって「君が代」を廃止して別の国歌を制定するという主張に単純に与することもできない。問題は国歌そのものではなく、戦前と戦後をどう区切り截断するかにあるからだ。ではどうすればよいのだろうか。戦後日本を肯定しつつ「君が代」に別の意味を付与するしかないと、僕は考えている。

「君が代」を聞くとき、また歌うとき、聴きながらそして歌いながら歴史を振り返り、国際的な視野に立って歴史を反省する歌として接するのだ。同じ国歌を歌いながら天皇家の悠久さを讃え自国の歴史を礼讃する人びとも少なからずいる。それを承知のうえで自らは歴史的な反省を行うものとして歌うのだ。

「君が代」の歌詞の内容を批判的に読む作業だと考えてもよい。

ハグ

5年ほど前に僕が韓国語を教えていた女性に再会した。待ち合わせた駅前の広場で会った途端、どちらからともなく声を発してハグをした。

恋愛関係にあったわけではないが、予想以上に懐かしい人だった。ハグをしたことで、それがよくわかった。双方の飾らない性格と彼女の朗らかさがハグを可能にしたと思う。

ハグという行為が日常的に習慣化している地域の人びとからすると滑稽でしかないだろうが、それが当然でない地域の者にとっては特別なことだから、文章で説明して自分を納得させる必要がある。

20歳代の初め、当時付き合っていた女性と駅のプラットホームで抱き合ったことがある。そのときのぎこちなさを覚えている。あれは演技だったのかもしれない。今回は自然に感じられた。

仕事でカナダに2年いたことが影響しているのだろうか、ある程度親しみを感じる女性しばらくぶりに会うとハグすることがある。彼女は英国に留学していたと記憶しているが定かではない。

MTBの魅力01

数ヵ月かけて選んだMTB(マウンテンバイク)を6月末に購入し、ほぼ週末ごとに友人と一緒に東京周辺の丘陵や低山を回っている。思えば、20歳代後半から30歳にかけてよく歩いた地域だ。

30歳代前半には友人に誘われて登山に熱中した。毎春、上高地の涸沢にテントを張り前穂高や槍に登った。厳冬期の赤岳も経験させてもらった。

64歳半ばで始めたMTBがいま楽しくて堪らない。そこで、ふと考えた。MTBの魅力って何だろう。

子どものころから自転車が好きで、30歳代はランドナーやロードレーサーに乗った。40歳代前半は中型スクーターに乗り、事故に遭って止めた。その後またロードに乗っていた。

年初から小径車を捜していたところ、前年にMTBに乗り始めた友人Hに勧められ、彼の門下生となった。Hは中学時代の同級生で自転車の専門家だ。1年半余り北米とヨーロッパを回ったことがあるし、僕にとっては大先輩だ。

MTBの最大の魅力は少年時代に戻れることではないだろうか。

バイクを押しながら山道を登り、樹の根を縫うようにして山道を下る。低山や丘陵といえども年配の身には辛い起伏にへとへとになる。体のどこかに傷ができる。それが楽しいのだから不思議だ。

Stūpa 率堵婆 솔도파 そとば

週末に義母の法事があり、卒塔婆について検索してみた。

➡️Wikipedia: Stupa ストゥーパのこと。仏舎利を安置し、供養などするための建造物。→仏塔 ストゥーパを模して作られた木の板で、日本の仏教で故人を供養するために墓地で用いられるもの。→板塔婆

➡️Naver日本語辞書: [불교]솔도파(率堵婆). 불사리(佛舍利)를 안치하는 탑. 죽은 사람의 공양·추선(追善)을 위하여 범자(梵字)나 경문 ️

➡️표준국어대사전: 솔도파(率堵婆/窣堵婆) 명사、불교‘스투파’의 음역어. (名詞、仏教用語、스투파の音訳とあり明快だ) 스투파(stūpa) 명사、불교 =탑02(塔)「2」.

➡️Oxford dictionaries quick search: Pronunciation: /ˈstuːpə/ [noun] A dome-shaped building erected as a Buddhist shrine. stupa: origin from Sanskrit stūpa

仏教伝来の経路を考えると、Sanskrit stūpa [stuːpə]→漢訳仏教語→韓国語 솔도파(率[窣]堵婆) →卒塔婆[そとば]と変遷したと考えるべきなのだろう。

御嶽山の噴火

1ヵ月前に登った木曾御嶽が噴火したという。やはり御嶽山は活きているのだ。写真は王滝奥の院からみた光景。下山途中に立ち寄ったが、岩肌だけのまさに地獄谷だった。細い水蒸気が音を立てて噴き出していた(2014/08/23)

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今回の噴火で40人近い人びとが亡くなった。僕らが爆発に遭遇する可能性がまったくなかったわけではない。そう考えると、そら恐ろしい。

2014/08/24: 御嶽山のふもと、黒沢と王滝に合わせて3万以上の霊神場がある。その一角に岳父のそれがある。ここに彼の霊があると思われている。墓所は別の寺にあるようだが、僕は霊神場がいい。 年齢のせいか、最近ときどき墓所について考える。

一般的な墓石の置かれた墓地は窮屈で厭だし、20歳代から散骨を考えていた。はじめは、好きな奥多摩山塊のふもと、多摩川の上流あたりを想定していたが、しだいに拘りがなくなった。いまは海がいい、館山沖の外海がいいと考えている。

4/10/01: 噴火から4日、被災の深刻さが日が経つにつれて伝わってくる。死亡した人の多くが噴石に当たって死んだらしい。1ヵ月前に娘と二人で奥の院から地獄谷を経て見た細い噴煙。その勢いと蒸気が噴き出す音の凄まじさに驚いていたのが、ついきのうのことのようだ。

2014/10/02: 剣が峰から八丁ダルミ、9合目から山頂あたりで亡くなった登山者の数が50人に迫りつつある。1ヵ月前に噴火が起こっていたら僕らは死んでいただろう。そう思うとそら恐ろしい。王滝奥の院から見た水蒸気を噴き出す音は凄まじかった。あの噴煙の大規模なものが爆発したのだろう。想像しただけで恐怖に取り憑かれるようだ。

彼岸花

先日、小曽木街道の榎峠から永山までの丘陵をMTBで走ったとき、あちこちで赤い彼岸花を見た。ちょうど彼岸の入りだったこともあり、自分が彼岸と此岸のあいだにいるような感覚を抱いたりした。

そう、僕らはいつだって彼此のあいだにいるのだ。野辺に咲く彼岸花は、名前のせいか、時にそんなことを考えさせたりする。馬齢を重ねるごとに自分に引き寄せて考えるようになったとも言える。

彼岸花には赤い花に交じって白い花もところどころに咲いている。明成皇后の暗殺犯、岡本柳之助の墓に白い花が2輪咲いていたことを急に思い出した。

iOS 8.0

iOS 8.0 にアップグレードする手続きを行った。かなり時間を要した。もう苛々することはないが、しだいにITという迷宮に深入りし、がんじがらめになっていくような恐れを抱く。こういう感覚は僕の世代に特有なのかもしれない。

こんな作業を行うたびに80年代前半のIBMタイプライター、ワープロ、カプラー送信、90年代前半の9801ノート、後半のホームページ、e-mail、データ通信、2000年代前半の携帯、2010年代のスマホと続く、技術というより通信手段の変遷を思う。付いていくだけで精一杯なのです。

転職人生

過去20年ほどの名刺を整理し、名前を見て顔が浮かばない人のは捨てた。転職が多い僕は、職場を変わるごとに業種の異なる人と名刺交換してきた。

日本と韓国の大学関係者の名刺が最も多く、多くが韓国名だ。そういう領域で仕事をしてきたということだが、ハングルで書かれたものが多い。

93-96年 ニューヨークに本部のある財団の東京事務所、96-2010年 K出版社ほか企業が設立した財団、その後、出版・メディアなどを転々としている。僕の職業人生は何だったのだろう、などと思う。

ジャパンエコー社への就職が大きな転機になった。昼食時に隣りのテーブルで同社のスタッフと編集長が話していた韓国語版広報誌に関する話しをたまたま聞いたのがきっかけだった。それがその後の僕の人生を大きく変えたように思う。

性について

ずっと若かったころ、手淫は男性だけのものと思っていた。その後、女性もするものだとわかったが、それで何か変わったわけではない。

ただ、それが公然化したことで性に対する何かが変わったように思う。

電車で化粧する女性、股を広げる男性

電車内で化粧する女性を見るようになって久しい。当初、議論の話題を提供した彼らはもはや陳腐な風景の一つになってしまった。

若い女性の間では完全に定着したかに見える。公衆の面前で化粧することについて彼らには後ろめたさなど微塵もない。そういう時代なのだから、僕ら中高年男性がとやかく言うべきではなかろう。

電車内で当然の権利のように股を広げて坐る男性が少なくない。周囲の迷惑を考えない貧相な男にしか見えないのだが。

今後、股を広げて坐る女性が増えるだろう。すでに十代の女性に少なからず見られる。決して魅力的ではありませんよ。

Gould, Casals, and Landowska

Glenn Gould が演奏した J. S. Bach Partita 全曲入り CD 2枚をJLに譲った。僕が最も多く聴いた音楽のひとつだ。

Pablo Casals が発見した J. S. Bach Unaccompanied violincello が20から30歳代の僕にとってよく行くお気に入りの場所だったとすれば、Gould のピアノは40歳代後半から50歳代にかけて行きつけだったろうか。これらの曲を聴くと気持ちが静まった。

高校生から20歳代前半にかけて Wanda Landowska のハープシコード曲をよく聴いた。ほとんどバッハだった。要するに、僕はバッハの器楽曲が好きなのだ。

平均余命18.55年

もうすぐ65歳、平均余命18.55年だ。と云ったところで何も変わることはない。この間に何をしようというのか。いや、何もできやしない。これまでどおり怠惰な日々を送るだけだろう。

そのなかで唯一後世に遺せるものがミンカブァン自伝の日本語訳だろうか。だが、今ひとつ馬力が掛からない。おい、おまえ、一体どうしたんだ。

(上の文章を書いて約2ヵ月が経った)

シェイクスピアが現代に蘇って1人の少年と接触するという設定の韓国の伝記童話を翻訳することになった。沙翁は当然のように少年と韓国語でやり取りする。それを日本語に翻訳するのだが、いくつか問題がある。

低山とMTB

週末、中学時代の友人Hと二人で東京西郊の丘陵や低山に行くようになって数ヵ月が経った。MTBと山行はまったく異なるものの、低山の魅力に変わりはない。

8月には娘と二人で標高3千m余りの木曾御嶽山に登った。この山の魅力についてはすでに投稿したとおりだ。

こうして僕は高山と低山いずれにも愛着をもつようになった。そして「日本百名山」に代表される作られた価値観を批判する。

写真は東京西端にある刈寄(かりよせ)山の山頂、眺望もほとんどない。というより、自転車を押し上げて辿りついたときは疲れていて、景色を楽しむ余裕がなかった。標高687m

 

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木曾御嶽の魅力

約20年ぶりに二度目の登山を果たした。前回は感じなかった御嶽山の魔力というか魅力にとり憑かれたようだ。

いろいろな要素があるが、活火山という性質が大きいように思う。九合目近くにある奥の院から見た噴気とその音が忘れられない。

御嶽教という名前があるように、信仰の対象になっていることも大きい。山塊の巨大さと火山活動が、御嶽を生命体として捉えさせるのだろう。

夜行列車

夜行列車という名称が、いかにも古めかしい響きを持つようになって久しい。鈍行が普通になり、各駅がローカルになった。朔太郎がアフォリズムで書いたような感慨を僕が抱くようになった。これを老いというのだろう。

ゴムまりのような乳房と表現した朔太郎が懐かしく感じられる今宵、僕は夜行列車に乗って信仰の山に行く。

くだらない社会

満席の列車で、3人掛けの座席を2人で占有している奴がいた。何人かの人が座らせてくれるように頼んだが、嘘をついて座らせない。車掌に尋ねられてもごまかしてふてぶてしく寝ている。くだらない奴らだと思うが、みな彼らの不正を追及しようとしない。僕も結局はその1人になってしまった。落ちぶれたもんだ。

連中がくだらないのではない。彼らのような反社会的な者を跋扈させている社会がくだらないのだ。彼らはそんな社会の一員であるにすぎない。

公衆電話

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20年ほど前までテレフォンカードを持っていればどこでも電話を掛けることができた。いまカードは無用となった。一体この変化は何なのだろう。単に通信手段の変化という程度のものではない。

上野駅近くの地下道に1台だけ置かれた公衆電話、かつては左右に何台か並んでいたに違いない。公衆電話が主たる通信手段だった時代が、10年ほど前まであったのだ。

ミンカブァンという韓国人女性

ミンカブァン(閔甲完 1897-1968)という韓国人女性をご存じですか。韓国ではほとんど忘れられた人ですから、日本でご存じの方は少ないと思います。その女性の自伝が50年ぶりに韓国で復刊されました。

カブァンの生涯は次のとおりです。( )内は陰暦-
——————————.,
1897年10月20日 カブァン、ソウル笠洞で生まれる(9月25日)
1905年11月17日 第2次日韓協約調印、叔父の閔泳煥、抗議の自殺
1907年3月14日 初揀擇の儀(2月1日、徳寿宮)、皇太子妃候補に
1908年1月23日 第2回揀擇の儀、婚約指輪が届く(1907年12月20日)
1910年8月22日 韓国併合される
1916年8月3日 イウンと梨本宮方子の婚約、日本の新聞に発表される
1918年2月13日 カブァンとイウンの婚約、破棄される(1918年1月3日)
1918年7月5日 祖母死去(5月27日)
1919年1月4日 父閔泳敦死去(1918年12月3日)
1920年4月28日 イウンと梨本宮方子、結婚する
1920年7月22日 カブァン、弟チョネンを連れ仁川を出航、上海に亡命する
1920年 東亜飯店[南京東路]に約3ヵ月滞在する
1920年10月 フランス租界宝裕里に移る
1921年(?) カブァンとチョネン、晏摩氏女中に入学。3年余り在籍
1924年初め 日本官憲の追跡を恐れ同校を退学、イギリス租界山海関路に移る
1928年10月22日 母死去(9月9日)
1932年 共同租界愚園路に移る
[年不詳] 共同租界膠州路に移る
1945年8月15日 太平洋戦争終結、朝鮮解放される
1946年6月 カブァンとチョネンの家族、祖国に帰国する
1946年 ソウル駅前大同旅館に滞在する
1947-48年 六親等の弟の家の離れに移り、約2年滞在する
1949-50年 妹マンスンの家に移り、数ヵ月滞在した後、寺洞宮に移る
1950年6月25日 朝鮮戦争勃発、清州に疎開
1950年 カブァンとチョネンの家族、プサンに移る
1953年7月 朝鮮戦争、停戦協定調印される
1962年10月 自伝『百年恨』出版される
1968年2月5日 チョネン死去(1月7日)
1968年2月18日 カブァン死去(1月20日)
——————————

Interpark(記述に一部誤りもあるが、本の概要を伝えている)

カブァンという韓国人女性は僕にとって特別な存在だ。長年、関連の資料や写真を集めてきた。復刊に際し校正作業を手伝い、写真約20点を提供した。

頑固爺の死

篠田さんが亡くなった。終末期医療を受ける施設に入って間もなく亡くなった。心臓肥大に伴い酸素濃度が低下していたが、すぐには急変しないだろうと聞いていたのに、あっけなく死んでしまった。

最近会っていなかったが、40年に及ぶお付き合いだった。あの頑固爺を喪った喪失感は大きく深い。僕の父と同世代だったが、実父より父親らしい存在だった。

終末期医療のため御岳にある施設に入院したと聞いて、今週末に訪ねるつもりだったのに果たせなかった。最後の挨拶をできなかったことが悔やまれる。

あの頑固爺にもう会えないと思うと、胸苦しく哀しい。彼の訃報に接してから藤村の小諸川旅情の詩の断片が時おり頭の中に浮かぶ。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草もしくによしなし…

…きのうまたかくてありけり
きょうもまたかくてありなむ
この命何をあくせく
あすをのみ思いわずらう

…ああ古城何をか語り
岸の波何をか答ふ

——

千曲川旅情の歌 島崎藤村

小諸(こもろ)なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに靑し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る

嗚呼(ああ)古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を靜かに思へ
百年(ももとせ)もきのふのごとし

千曲川柳霞みて
春淺く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれい)を繋ぐ

ウェブサイトを作る作業

2014/02/15
きょうも終日ウェブサイトを作る作業に費やした。でもうまくいかなかった。首尾よく更新できていたら、こんな脱力感に襲われることもないのだろうが。

そもそも僕が拘泥しているようなことを気にする人など、ほとんどいないのだ。ちょっとした色合いの違いとかタブ設定など、どうだっていいではないか。なぜ、そういうことにこだわってしまうのだろう。これはもう病気かもしれない。

2014/04/18
きのうきょうと多くの時間をサイトの不具合修正に費やした。幸い修正できたものの誰も評価してくれない作業だろう。

WordPressへの不当なアタック

国外のIPアドレスによるアタックが原因でサーバーに過当な負荷がかかっており、サイトにアクセスできなかったり(エラー表示 P80)、メールを受信できない(エラー表示 P25)などの状態が生じる。

プロバイダのサポート担当者は、よどみない説明をしてくれた。

来歴

来歴という言葉にはじめて接したのは、萩原朔太郎の文章だったと思う。僕の記憶ほど当てにならないものはないが。

背表紙が革製の全5巻の全集を持って、ひと夏、岡山県の山間部にこもったことがある。浪人した年の夏か、高三の夏休みだったと記憶している。

2013july

何年も行っていない山に行く。

いや待てよ、3年前の夏、韓国人の友人と二人で行っているではないか。そう言われればそうだが、あのときは初めから登山するつもりではなかった。

車で塩山まで行き、西沢渓谷の入口近くの宿に泊まって、渓谷沿いにハイキングするつもりだった。夜遅くまで酒を呑み、朝もゆっくり風呂に入ってから出かけた。

なのに少し登り始めたら、二人ともどんどん登りたくなった。途中から雨が降りだし、体中ずぶ濡れになったが、止まらなかった。甲武信岳をめざしたが、木賊山の頂上で引き返した。頂上で呑んだマッコリのうまかったこと。

今回の山行は娘の誘いだった。体力的な自信はないが、本格的な登山は初めてという彼女となら大丈夫だろうと考えたのだ。

2013may

2013/05/01
あさ、最寄り駅の改札を通過できなかった。きのう定期券の期限が切れていたのだ。何年も前に一度こんなことがあったような気がする。老いと結びつけるなかれ

とはいうものの、最近は自分でも驚くようなミスが少なくない。いくら考えても絶対ありえないと思われることを見せつけられることがある。これをどう捉えるべきか。

2013/05/07
4日間の連休でようやく休暇らしい休暇を取れたが、半分以上は노무현の自伝第1章の翻訳に費やした(文字数18,000)。内容は実に興味深いが、出版の日程を考えると、僕にはできそうにない。

ささやかな達成感を得て、少し気分が高揚したように感じる。所属団体のHP改訂作業をしているが、ようやく指定ロゴを使ってトップページのデザインを変更することができたのだ。

2013/05/08
朝の定例会でHP改訂案を見せたが、ボスにあっさり否定されてしまった。一つ前の段階で確認を取ったはずだが、お山の大将にはかなわない。こんなことで一喜一憂していても仕方ないな。

2013/05/10
ノムヒョンの自伝を翻訳する仕事を投げやるべきではない。第1章の翻訳稿を出版社に送ったあと、そう考えるようになった。ストレスを抑えながら雑務に追われているだけでは、あまりにも自分がかわいそうではないか。

周囲の人びとに自分の虚像を見せることで、どうにか自分を保っている。

2013apr

2013/04/25
社会的なデジタル化の流れから10年ほど取り残された組織との仕事、大いにやりがいがある。少々疲れぎみだ。

PCを使っているのにアナログ式という矛盾。僕も半デジタル(=半アナログ)を自認しているが、ほぼアナログと半アナログの溝は小さくないと思う。

2013/04/29
日韓、日米、日中の文化比較って何なのだろう。それは、自分が背負っている文化と呼ばれるものを理解するのにどこまで有効なのだろう。

主権回復61周年を祝賀し「戦後レジームからの脱却」を掲げて憲法改定へとひた走る自民党政権と、それに真っ向から反対する沖縄県民と支持者たち。同じところに旧朝鮮や旧台湾の人びとが立っている。

2013/04/30
昼前からのぼせたような感じが続いている。耳鳴りもやまない。どこか悪いのかもしれない。いや間違いないだろう。周囲の人にどこまで話すべきだろうか。

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東京の池上本門寺にある岡本柳之介の墓

 

恥ずべきことに、長い間、三浦梧楼と岡本柳之介を重ねて見ていた。両者とも暗殺現場にいたし、関与したことは間違いない。三浦は1895年当時、在ソウル日本公使館の公使であり、岡本は宮内府兼軍部顧問だった。非道極まりない。

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朝鮮戦争初期と推定される北朝鮮の侵攻を受けた直後のソウル京福宮付近の光景。朝鮮総督府の建造物がCGかと思われるほど、いかにも周囲から浮いて見える。光化門が見えない。

日本国籍、日本人

2013/04/23
80年代後半の数年間、同じ職場で過ごしたことがある同い年のアメリカ人男性が日本に帰化した。その理由を尋ねたら「郷に入っては郷に従う」と言われた。そうだろうか。

日本で生まれたという、それだけの理由で日本国籍を取得した者と自分の考えと意思にもとづいて同じ国籍を取得した者の違い。

2013/04/28
僕は日本国籍を所有している。取得したものではない。先天的に日本人であるわけではないが、自分を日本人として認識している。そして日本国籍を所有している。

2012/05/08
A Japanese Korean or a Korean Japanese, whichever

2014/06/11
「台湾アイデンティティ」という映画のDVDを購入した。台湾生まれの日本人に薦められて見ることになった。

僕の立っている地点

「かなり疲れているのではないだろうか。二つの自伝の翻訳が進まないまま、日常業務に追われている」数ヵ月前に書いたときと同じ地点にいる自分を見せつけられる。今回は日付けを書いておこうと思う。2013/04/23

また、同じ地点に帰ってきた。5ヵ月ものあいだ何をしていたのだ。
2013/10/03

あーあ、まだ同じところにいる。前に記したときから全1年経ったというのに。
2014/10/17

多摩川べり

丸子橋から多摩川の上流に向かって、小径車でゆっくり30分ほど走ったところにある木蔭で小休止することが多かった。何となく土手の草むらをなつかしく感じたのだろう。写真はその場所に停めた小径車、僕の手を離れて久しい。

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Shaws and Goolees