地元で生まれた唄と踊り自慢の人々が集い、伝統芸能を競う催しが町民ホールで開かれる。 人間は自然(神)に喜怒哀楽を表す挙動が踊りの源(始り)である。 我々の遠い先祖は、ただ口で南無阿弥陀仏、又は、何妙法蓮華経と称え、或いは、鶏舞・獅子踊りの念仏踊りのように、ただ称え踊ることで、極楽浄土にゆけると信じ生きてきた。 朝未だ星のあるうちに起きて働き、夕方には空に星をいだいて家に帰る。 この「ケ」から解放されてた「ハレ」の時、命の息吹を発散した「唄と踊り」である。 大事に引き継いでいきたい…
今日の歳時記: トキノナガレ[時の流れ]
年ぐれに としがゆくとはおもふなや としは毎日毎時ゆくなり 西田 幾多郎 今年も、今日を含めて、残り百日となった。 年初の“誓い”・“予定”を見直し、来年を踏まえて、己の現状を篩にかけ、過不足ないような日々を送りたいと、ふと思った。 己の思惑とは別に、時は静かに、すり抜けてゆく…
零れ話: アキノネ[秋の音]
秋の風物詩「鈴虫列車」が走り始めた、と地元紙に載っていた。 旅人は、スズムシの姿と車窓越しに見える色づいた水田風景に、季節の移り変わりを感じ、のどかな秋と鉄路を満喫していたと伝えている。 地方鉄道は、地元の人びとの足であると同時に、訪れる旅人へ、歴史・等の地域の宝を伝える貴重な媒体である。 上手に活かしていきたい。
今日の歳時記: モズノニエ[鵙の贄]
風になほ 命ある如 鵙の贄 稲畑 汀子 鵙は蛙や蜥蜴などを草の茎や木の枝に刺しておく。 「鵙の贄」とか「鵙の草茎(くさぐき)」ともいわれる。 冬の食料にするとの説があり、雪の積もる地方では、雪に埋もれないように高い枝・等に刺すという。 厳しい冬を越すための知恵とはいえ、“生存競争”の一面を表しており、己の事に置き換えて、考え込む…
雑題: ガチョーン[我町]?
先日の台風(18号)の爪痕…、林檎の落下・稲倒れ・等。 “三ちゃん”が、主に農事に従事していることから、思うように対応出来ないし、いざという時、人手が足りないことからの結果である。 機械化も進んではいるが、大規模化への筋道、資金の用立て・等、取り組まなければならない課題は、山積みである。 消滅可能地域が、何処でも抱えていること…ではあるが。
今日の歳時記: カンタン[邯鄲]
夕霧に 邯鄲のやむ 山の草 飯田 蛇笏 邯鄲は秋の虫。 草むらにひそんでルルルルルと、かすかな声で鳴く。 いつの間にか、夕霧が漂いはじめ、邯鄲の声がしなくなったというのだが、姿も声もはかなげな印象で、この虫にはどことなく夢のような気配がある。
零れ話: ダッサイ[獺祭]
明日19日は、俳人正岡子規の命日。 地方新聞のコラムに載っていた。 子規の別号「獺祭書屋主人」にちなみ「獺祭忌」ともいう。 「獺祭」は詩文をつくるとき多くの参考書を広げること。 病床にあった子規は身の回りに書物を並べたのだろう。 “獺”はカワウソ。 カワウソは、魚を捕まえると自分の周囲に並べ、神に供えているように見えるので、これを中国で“獺祭”と呼び、書物を並べる意に転じた。 先ごろ、38年ぶりに、長崎県•対馬でカワウソの姿が確認された。 「生き残っていて」と祈る。
今日の歳時記: アキノナナクサ[秋の七草]
何ごとも まねき果たる すすき哉 芭蕉 春の七草が、粥に入れて食べ、長寿と幸福を祈るのに対し、秋の七草は見て楽しむものであり、これにともなう習俗も、七種の花を一緒に神前に供えるという行事は少なく、一つ一つの花が別々の神の祭祀に関係をもっている。 例えば、「尾花(薄)」は“月見”の行事に関係し、「女郎花(おみなえし)」は「とこなつ」ともいって、不幸の多い年は夏にもう一度“正月”をする風習があり、その際、この花を飾って祝うことがあった。
雑題: ガチョーン[我町]?
恵みの秋…。山から・地からの幸。 収穫への感謝・報恩…、秋祭り…。 しかし、その担い手である“若者”は、市内・県外へ出て行き、数少ない。 今や、高齢者、そして、主役は小学・中学生で、消えそうな文化・伝統を継承しようと努めている。 有難いことだ。 しかし、消滅可能地域といわれる。 学校も統合され、遠方からのバス通学だ。 校庭で、元気に駆け回る児童の顔には、見覚えのない子が多い。 いつ迄、続くことか…?
今日の歳時記: ヤブサメ[流鏑馬]
流鏑馬や 蹄の音に 鷹わたり 中村 渓水 流鏑馬とは、疾走する馬上から的に鏑矢を射る、日本の伝統的な騎射のの技術・稽古・儀式のことを指す。 馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬( やばせうま)」と呼ばれ、その後、(やぶさめ)と言われるようになった。 現在、流鏑馬は多様に変化しつつも伝統を受け継ぎ、日本各地で盛んに行われ、観光の目玉にもなっている。 明日(16日)、鎌倉、鶴ケ岡八幡宮でも行われる予定。
雑題: ガチョーン[我町]?
果樹の里である。 サクランボに始まって、桃・梨・--- 林檎も色づき始め、早稲種はもぎ取り始めており、かぶりつける。 “林檎”といえば“津軽”と言われる。 確かに、量では敵わないが、質(味)では、当地産も甲乙つけがたい。 蜜などが入っていれば、儲けものである。 秋の実りを味わいたいですね。
闇の恐怖と山の神々
2017年9月10日 MTB山行メモ 十里木のキャンプ場にクルマを駐車して自転車を組み立て、小滝と大滝を横に見ながら馬頭刈尾根をめざした。大岳山に続く稜線だ。 登山口を出発したのは10時30分ごろで、林道が終わり、山道に入ったのが11時ごろだったろう。計画では2時間後に稜線に達する予定だった。 大滝で大岳山から下ってきた修験者の男女一行十数人とすれ違った。ホラ貝を持った修験者装束の男に、自転車をかついで1時間か、とあざ笑うように言われた。 相棒の体力消耗がいつになく激しく、川沿いを沢登りのように続く岩場の手前で12時45分ごろ休憩をとった。昼食をとり、バーナーでコーヒーを淹れるまではいつもどおりだった。 ところが、せっかく淹れたコーヒーを僕が半分以上こぼしてしまった。振り返ると、あれが悪い前兆だったかもしれない。おいしいベトナムコーヒーなのに残念だった。 午後1時半ごろ出発し、沢沿いの山道を自転車を押し、岩場はかつぎながら進んだ。その後、何組かの下山者とすれ違った。その1人は、自転車を持ってこれ以上登るのはムリだと語気強く言った。だが、僕らは計画どおりに登っていった。 相棒の遅れが時間とともにひどくなり、僕のいら立ちが激しくなった。彼の身体は何を言われても応じられない程度まで弱っていたのだが、僕は声を荒げて叱咤した。何度か、自分の自転車を置いて戻っては彼の自転車を押して登り、それを置いて、また自分の自転車を押して進んだ。 大岳山から御前山に続く稜線がくっきり見え、遠くの山々が雲に浮かんで見えた。そんな光景が夕焼けに燃えて消えると、急に風が肌寒くなった。 暗くなる前に下山することはできそうにない。相棒は自転車を押す力もなくなり、山中に置いていくと言った。道標にチェーンキーで自転車を固定するにもかなり長くかかった。体力の限界に達していたのだ。 道標に立てかけた自転車からライトをはずすのにも時間を費やした。体ひとつになっても脚も上がらないし、歩行速度はさらに落ちた。御前山の方角に日が沈むと、急速に暗さを増した。彼の気力もしだいに萎えていった。 午後6時半を過ぎると、山中は真っ暗になった。自転車に付けたライトが照らすスポットの周囲が刻々と暗さを増し、漆黒の度合いが深まっていった。 途中、何度か立ち止まって、後ろにいるはずの相棒の名を呼んだ。しかし、何度呼んでも応答がないことがふえた。一度などは、15分以上呼び続けて、ようやく闇の向こうに揺れるライトを見たが、近づいたかと思ったら消えてしまった。 いてもたってもいられず、彼が来るはずの山道を引き返した。その前後、恐怖はピークに達した。付近にはクマが棲息しているのだ。ライトが照らす闇の向こうに二つの眼が光ったら、と思うだけで恐怖が増し、相棒を呼び続ける声がしだいに怒気を帯びた。 そんな状況のなか、30歳ごろに経験した闇の恐怖を思い出した。夏の終わり、急に思い立って新宿発23時55分の中央線に乗ると塩山で降り、バスで西沢渓谷の登山口まで行った。そして、暗闇のなかを渓流の瀬音を崖下に聞きながら歩いた。 一時間ほど快調な足どりで歩いたものゝ、崖下に落ちる不安、何者かに襲われる不安などが重なって進めなくなり、倒れこむように山道の傍らに仰向けになった。 ところが、これが不安を倍加した。樹木が揺れる音が急に大きく聞こえ、野生動物の跫音になり、獰猛なヒトの気配になって襲ってきた。恐怖に震え、そこから逃れようとして、また歩き始めた。 前回はひとりで今回は二人だったのに、同じような恐怖感に襲われた。相棒が足を引っ張ったと思い修羅界に陥ったことが妄想を駆り立てたのだろう。数日前から得体の知れない何かに怒っていたのはお前ではないか。 鶴脚峠にたどり着いたとき、茅倉方面に下ることを確認し、僕が先に下山してクルマで相棒を迎えに来ることにした。暗闇のなか、ハンドルに付けたライトだけを頼りに自転車を押し、飛ぶように駆け抜けた。身体が震え、何度も転び、道を見失うたびに不安を募らせながら下った。 動物的な感覚だけが、疲れきった身体と萎えた気持ちを衝き動かしていたといえる。遠く暗がりのなかに黄色い街灯を見たときは助かったと思った。 街灯が見え隠れしながら、そのあとも長く暗闇のなかを駆け抜けた。人家の灯が見え道路に出たのは、暗くなって約2時間後だった。 公道に出ると、両輪に蔦がからまって異音を発しているのに気づいたが、直す気力もない。一刻も早く、クルマを停めてあったキャンプ場の駐車場に行かなければならないからだ。 途中、コンビニ教会に寄って、2L入り飲料を2本買い、司祭にキャンプ場の場所を教えてもらった。一気に飲料を飲み込むと、ようやく正気を取りもどした気がした。 そこから駐車場まで、公道とはいえ暗がりのなか、相方の飲料を片手に、ふらつきながら走った。駐車場にゲートがなくて幸いだった。クルマに自転車を積むとすぐ発車し、途中、交番のインターホンでルートを確認して千足のバス停へと急いだ。 そこで相方と落ち合うことにしていた。9時過ぎに着いたが、彼の姿は見えない。何度か電話をして無事を確認し待ち続けた。9時40分ごろ、登山口付近に夢遊病者のような老人がふらつきながら現れた。暗くて判別できないが、顔面蒼白に見えた。 彼が飲料を飲み込み、バス停近くにあった暗がりで着替えをし終えると、すでに10時を回っていた。とにかく、二人とも大きなケガなく無事でよかった。 山の神々に心から感謝の祈りを捧げたい。暗闇で感じた恐怖心は神々に対する畏怖心を映したものなのかもしれない。
今日の歳時記: アキノミズ[秋の水]
てのひらに 空のひとかけ 秋の水 わたなべ じゅんこ 秋になると、水のあるところー川淵によどむ水、器の中の水、くりやの水、どこにある水もよく澄んでくる。 秋水は、曇りのない利刀の例えにも用いられる。 澄み渡る大空にも、行く先の“明るい展開”を祈り、同じ空の下の人々の、“末長い幸せ”を願う。
零れ話: サンリンボウ[三隣亡]
「三軒隣までも亡くしてしまう」 この日に建築行為を行なった場合、火事が発生し、隣近所にも飛び火して被害が及ぶとして、建築に対しての不吉な日らしい。 ただ、江戸時代は「三輪宝」と書いていたようで、意味も現代とは真逆で、「蔵立てよし」、「屋立てよし」だったらしい。 でも、笑い話といってもいいが、いつの間にか、「よし」を「あし」と書き間違えたらしく、そこで、「三輪宝」では意味が伝わらないので「三隣亡」に表記したとのこと。 「言ったもの勝ちかよ!」とツッコミたいが、あくまでも一説。
今日の歳時記: ヒカリゴケ[光蘚]
秋風の 吹き熾すなり 光蘚 蟇目 良雨 ヒカリゴケは金緑色の光を発する神秘的なコケである。 「熾す」との意は「火を熾す」のように炎を燃え立たせること。 秋風が吹くたびに光が燃立つが如くなびくのだろうか… 熱を発しない冷ややかな炎である。 我々も、命ある限り、輝きを失ってはならない…
零れ話: オヤコ[親子]
身体髪膚之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。「孝経」 体は髪から皮膚まで、みな両親から授かったものだから、壊したり傷つけたりしてはならないとの意。 「私の体なのだから、それをどうしようと私の勝手だ」という理屈と、体はわたしだけのものではないという実感の間で、人は揺らぐ。 ところで、旧姓高校の寮では、 「寝台白布之を父母に受く。敢えて起床せざるは孝の始めなり」と自室の扉に貼り紙する輩がいたという。 先ずは、“種の保存“…
今日の歳時記: チョウヨウノセック[重陽の節句]
これよりは 菊の酒また 菊枕 山口 青邨 五節句の一つ。 中国から伝わったもので、菊は延寿の功があると信じられ、漢代から“菊酒”を飲む風習があった。 “陽“は“生”を意味し、九は陽の数であることから、九が並ぶ九月九日を不老長寿の意から祝ったらしい。 明治になってからは、この日を祝う風習も廃れていった。 民間では“栗節句”ともいい、栗飯をたいて祝ったという。 四季に富む日本、気候・文化・風習に根ざした季節ごとの祝い事。 通過儀礼として、大事に、保ち続けたいものです。
零れ話: 夕刊の始まり
夕刊は、ニュースを手早く知るために欠かせないものになっている。 このような意味での最初の夕刊は、明治十八年一月から発行された「東京日々新聞」の「午後」版である。 しかし、交通・通信網の未整備がひびき、十分なニュース性を保てずに廃刊となった。その後も、何度か夕刊の刊行が企てられたが失敗に終わり、最終的に夕刊の刊行が定着するのは、大正四年のことである。 これも、最近はネット情報に移りつつあるが、紙媒体も大事にしてゆきたい。
今日の歳時記: キク[菊]
足場から 見えたる菊と 煙かな 永末 恵子 菊は、平安朝時代に中国から渡来したもので、今では、春の桜と並称される我が国の代表的な花となっている。 花の大きさから、大菊・中菊・小菊に分けて、大菊の大輪咲きは一茎に一輪をつけ、“厚物咲”ともいう。中菊は狂い咲きの変化を見せ、小菊は多く懸崖作りなどに仕立てる。 菊の香のしみとおるような澄んだ秋の日を“菊日和”という。 のどかにたなびく煙に、先々の豊かさを祈る。
雑題: ガチョーン[我町]?
槌音響く--- 町外資本の導入で、食料専門の量販店が建設されるという。 一方、従来からの地元零細商店は、寂れつつある。 仕事を持つ年齢の多くは、車で出掛けて、量販店に限らず、用をたすことができるが、高齢者達は足もなく、近所に店もなく、途方にくれている。 人口減少、等、町の将来を考えたら、高齢者が住み良くすることが、定住、他からの移入する際の判断材料として、大きなポイントと思うが、行政の思いは異なるようだ。