零れ話: コトオサメ[事納め]

二月八日を“事始め”、十二月八日を“事納め”とする地方と、逆の日付で行う所がある。 これは「事」が何を意味するかの理解によるようだ。 「事」を正月の祝い事の意ととれば後者になり、「事」を一年の農事・祭事と考えると前者となる。 一つの行事としては、裁縫の上達を願っての「針供養」がある。 そして今日は、太平洋戦争の開始日。 国民は塗炭の苦しみを受けたが、”悪の所業“を治める日となり、幸せを勝ち取る道への一歩であったのかもしない… 但し、今の状況が、我々の望んだ道を歩んでいるかは疑問…?

今日の歳時記: タイセツ[大雪]

冬ざれや 房々として 実南天 日野 草城 二四節気の一つ。 太陽の黄経がニ五五度の時で、陽暦では十二月七、八日頃に当たる。 大雪とは、陰気が積んで雪になるという意味らしい。 この頃は天気も不安定で、北海道・東北地方では、度々、雪に埋もれるようになる。 大雪を過ぎると、本格的な冬の到来という事。 この頃になると、南天や青木の実が赤く色づき、山や野も白銀の世界となる。 南天の実は長持ちし、最後まで枝に残っていることから、お正月の生け花でも用いられる。 一方、酒席に最後まで残って飲み続け、なかなか席を立たない人々のことを「 ナンテン組 」と呼ぶところもあるらしい… 飲み会の多くなる時、気をつけたいものだ。

零れ話: フユバレ[冬晴]

冬の日本海側は雪で明け暮れするが、太平洋側は晴天続きであることが多い。 晴天が長く続くと、地域によっては、スモックが発生しやすくなるが、やはり、暖かい日光はありがたいものである。 北国はことに甚だしく、まれに好天になると、人々の心が浮きだってくる。 但し、晴れは空気の乾燥をまねきますので、火の取り扱いにはご注意下さい。 また、風邪など、体調を崩しかねませんので、お厭い下さい。 良き日を…

今日の歳時記: ニワ[庭]

庭師来て 風邪引きそうな 庭となる 岡崎 伸 「庭に石や草木が多いのは賤しい」と思われる方も多い。 だが、年越し・冬支度も兼ね、庭師に来てもらったが、枝葉が切り払われてしまうと、風通しが良すぎるというのだ。 でも、寒々とする光景を眺めつつも、周りが綺麗に整えられるなかで、新たな年への願いがふくらんでくるのも事実。 さて、私も、身辺整理をし、今年の目標達成度を確認し、来年の目標を練り始めようか… しかし、今からでは、鬼に笑われるか…な。

零れ話: ズキン[頭巾]

寒さを防ぐため頭からかぶるのが頭巾。 その頭巾をとった時、澄みわたる冷気をただよわせた音が、はっきり聞こえてくる。 その一瞬の新鮮な感じが、心身をシャキットとさせる。 更に、震災に限らず、飛行物体からの落下物・等、空からの落し物がある。 頭上からの危険物から頭を護るためにも、鞄・等で携帯しておきたいものだ。

今日の歳時記: カエリバナ[帰り花]

帰り花 寝ながら笑ふ よっぱらひ 中村 堯子 真昼の公園だろうか… 当方にも覚えがあるが、ベンチに、のびのびと横たわって、幸福そう笑みを浮かべてる。 早めの忘年会、“はしご・ハシゴ”の昼帰り…か。 「 寝ながら笑ふよっぱらひ 」という語調がぶっきらぼうなのは、天真爛漫な寝顔に、少々、呆れているからだろうか。 桜の帰り花が、冷たい風に震えているのに…

零れ話: ジカイ[自戒]

高いようで低いのが教養 低いようで高いのがプライド 深いようで浅いのが知識 浅いようで深いのが欲の皮 重いようで軽いのが人の命 軽いようで重いのが腰と尻 厚いようで薄いのが人情 薄いようで厚いのが面の皮 あるようでないのが分別 ないようであるのが無駄 時には、振り返って、チェックしないと…

今日の歳時記: コガラシ[凩]

子を泣かし 凩こっぱ みぢんなり 植田 珠實 晩秋から初冬にかけて吹く、木の葉を吹き散らす冷たい北寄りの風。 ひゅうひゅうと勇ましい音をたてて飛びまわる凩。 そんな中、ホッペをふくらませた元気のよい横顔(風っ子)が見えたりしたものだが、勢いあまって転んだり、ぶつかったりで、大きな泣き声が聞こえてきたりもした。 だが、泣き声に困り果てているのは、近づきになりたい凩のほうかもしれない…

零れ話: ヤマネムル[山眠る]

冬の山は「山眠る」という。 その山の眠りを覚まそうとるかのように、厳冬期を前に、ショベルカーで削っている。 春になって目が覚めたら、山は驚くだろう。 ああ、こんな姿になってしまったと。 勿論、必要性の高いものもあろうが、一方、時の推移で、必然性の欠けてきたものも出ていると聞く。 惰性で施工せず、厳選願いたい… 春の山は「山笑う」というが、笑ってばかりではいられない。

今日の歳時記: カミスキ[紙漉]

紙漉や 水を平らに あやしつつ 嶋田 麻紀 今や、年賀用に…、子ども達では、来春の卒業証書用にと…、紙漉をなさっている方は、多いのではないだろうか… 使用される植物は、楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)などで、これらの皮を水でさらし、大釜で煮て、紙に漉く。 これは、かっては、農家の冬の副業の一つであった。 漉いた紙は、適当な大きさにして、張板に張り付けて干す。 出来上がった紙は、漉き手の真心がこもっており、もらった人までも、ホッコリしてくる。 嬉しい便り、思い出の品になるだろう…

零れ話: マフラー[襟巻き]

外気が冷え込むにつれ、首回りが寒く感じ始める… マフラーを巻けばとは思うものの、其処には、恐るべきことが隠れている。 其れは“静電気”… うっかり逆鱗に触れようものならバッと一撃を食らう。 「クワバラ、クワバラ…」であるが、寒さに攻められては、“背に腹はかえられぬ”。

今日の歳時記: トオカンヤ[十日夜]

山里は 静かに月の 十日夜 読み人しらず 十日夜は、旧暦10月10日に主に東日本で行われている収穫祭をさす。 今年は、(新)暦の悪戯で、11月27日、明日である。 「十五夜=中秋の名月、十三夜=後の月」は、月を愛でるお祭りであるが、10日夜は、農作業に感謝する日とされて、稲の収穫を祝ってお餅を食べたり、稲の茎を束ねた“わらづと”等で地面を叩き、地面の神を励ましたり、作物に悪戯するモグラを追っ払ったりする。 自然順応、自然尊重のしきたりである。

零れ話: ナワトビ[縄跳]

昔は、主として女の子の冬の遊戯の一つだった。 今は、手軽にやれる健康法として、老若男女、四季を通じて行われている。 単に跳ぶだけではなく、二回跳び、三回跳び、逆回しなど、いろいろな跳び方も楽しめるようだ。 最近は、団体戦での競技会も開かれるようになってきており、ビュン・ビュンという鋭く風を切る音が聞こえてくることがある。 寒さが厳しくなるなか、着ぶくれを避け、身体の“余計な鎧”を剥ぎさるためにも、何か、体を動かすことをしなきゃ… ね。

今日の歳時記: ヌクモリ[温もり]

雪の日の 人の胸より 鶏のぞく 森田 公司 着物の懐に鶏を入れている。 着物といっても作業着を着た若者なのだろうか… その胸の温もりが、こちらにも伝わってくるようだし、鶏のほうも温かいので大人しく雪に目をしばたいている。 人と動物のこの親しさはたとえようもない。 “いのち”を慈しむ…

零れ話: フユナ[冬菜]

冬の菜類の総称。 白菜・小松菜・水菜などをさす。 9月ごろ、種をまいて、冬から春にかけて収穫する。 あらゆる草花が枯れはてた野に、冬菜畑だけが目に沁みるように、美しい緑を繰り広げている。 また、緑菜の少ない冬の食卓を色どるのも、これらの冬菜である。 但し、今年は、台風・気象異常、等の影響で、平年に比べて高値になっており、鍋料理の具材が少なめなのが寂しい… 生産者は勿論、消費者も、食料自給率に関心を持ち続けないと…

今日の歳時記: コノミ[木の実]

国ひとつ 買うほど木の実 拾いけり しなだ しん 中国北宋の徽宗皇帝は、書画に耽るうちに国を滅ぼし、皇族ともども北方異民族に連れ去られた。 いわば一国を書画のために売り払ったようなものである。 木の実で国を買おうとの発想は奇想天外ではあるが、勤労の大事さ、着実な歩みに気付かせる。 国の為と言いつつ、他国やお友達の為に、国費を湯水のように振り撒いて歩く”何処かの政治家”よりは、国を保つ点で堅実だ。

零れ話: シンノウサン[神農祭]

明日から始まる神農祭は「薬祖講」の行事で、「大阪のお祭りは“えべつさん”に始まり“神農さん”で終わる」とも言われ「とめの祭」とも呼ばれている。 神農祭は文政5年(1822年)に大阪でコレラが流行した際に、薬種仲間が病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」という丸薬を作り、「神虎(張子の虎)」の御守と一緒に神前祈願の後施与したことに由来するといわれている。 コレラは、病にかかると、二、三日で亡くなる事から「三日コロリ」と呼ばれたり、虎や狼が一緒になって来るような恐ろしい病という事で「虎狼痢(ころり)」の当て字がうまれたほどである。 今は、家内安全無病息災の御守として授与しているとのこと。

今日の歳時記: シシャモ[柳葉魚]

はらわたの 卵をこぼし 柳葉魚反る 三宅 やよい ししゃもは北海道産の淡水魚で、11月になると産卵のため、群れをなして海から上ってくる。 アイヌの伝説によると、柳に葉が川に落ちてししゃもになったという。 これより、柳葉魚と書くようになった。 薄塩にして天日に干し、味は淡白で、特に雌はたくさんの腹子をもっていて、美味い。

ふたつの風景

1970年ごろから「韓国」「北朝鮮」に関心を持ってきました。以下は97年に文章化したものです。当時、自分が韓国(朝鮮)という地域と人びとにひかれるようになったのは、少年Aとの出会いがあったからだと考えていたようです。20年近く経った現在、違和感を感じる部分もありますが、あえてそのまま掲載します。 東北の風景 東京の郊外で少年期を過ごした僕にとって、高校時代の二年間を過ごした東北の地方都市――水田のなかを灌漑用水が流れ、遠くになだらかな北上高地の山なみがつらなる風景――は別世界だった。 単に都会と地方という違いではない。外部の者が入り込むことを阻む、はっきりと壁のようなものを感じさせる違いだった。僕がいくら入り込もうとしても入ることができない。東北の風景と人びとは、そのような存在だった。人びとの容姿はさほど変わらないが、仔細に見ると顔の形や着ている物の色合いなどが違うように見えた。 彼らのことばは外国語のように響くことがあったし、語彙やイントネーションの違いに驚かされることもあった。僕の東京弁が彼らのことばと違うので、笑われることもあった。そんな体験をかさねながら、僕は東京をなつかしく思うと同時に、彼らにとって自分が「よそ者」であることを感じていた。 あるいは、当時の僕は東北の風景のなかに入りたくなかったのかもしれない。東京にいたときも、仲間はずれにされたときなどに、自分がまわりの人たちと違うことを感じたが、さほど意識することはなかった。だが、東北にいるあいだは、自分が「よそ者」であることを常に意識させられた。 少年A Aは、東北地方の岩手県にある農村で生まれ育った。僕は、15歳のときに東京から岩手県の高校に転校し、そこで彼と出会った。同級生のふたりは、健康上の理由で約一年のあいだ体育の授業に参加できなかった。 ほかの生徒がサッカーやラグビーに興じているのを見学しながら、僕たちはいろいろな話しをした。夏は運動場の土手の草いきれを感じ、冬は木造の体育館の一角で手の甲をさすりながら時空をともにするうちに、ふたりの親密感は増していった。 Aの家では、彼が中学に入ったころから、一年の大半を出稼ぎで過ごす父親がたまに帰ってくると、母親とのあいだに口論が絶えなくなった。それまで喧嘩などしたことのない両親の関係の変化にとまどった彼は、しだいに家で過ごすのを嫌うようになる。 Aと家との距離感は、彼が高校に入るころになると、かなり開いていたから、いつか東京に出たいと考えていたようだ。だから、東京から来た僕に親近感をもったのだろう。 だが、彼が僕に近づいたほどには、僕は彼に近づこうとしなかった。いま、そのことが悔やまれる。そんな僕は、18歳の春に東京にもどってしばらくすると、Aのことをほとんど忘れてしまった。 三年ぶりの都会生活に僕は浮き足だっていたはずである。岩手にいるあいだ感じていた疎外感をうち消そうとしたが、東京に移ってしばらくすると、そこに入ることができない自分を感じるようになった。それが頂点に達したのは、大学に入った年の夏休みだった。 そのころ東京の大学に入っていたAがひょっこり訪ねてきた。久しぶりに彼と話し合うあいだに、僕は、あんなに嫌がっていた東北の風景や人びとをなつかしく思っている自分に気づいて驚いた。東京にもどってから感じていた「よそ者」意識が、僕を岩手に近づけたのである。 白い犬 Aのいなかの家では、彼が中学生のころから一匹の犬を飼っていた。彼と再会した翌年の夏、その犬が狂犬病にかかった。ちょうど彼の家に滞在していたAと僕は、近所の人びとの要求にしたがって、その犬を保健所に連れていくことになった。 だが、人一倍犬をかわいがっていた彼はそれをためらった。自分が愛着をもっている小動物を、他人の手で殺されるのが厭だったのである。 ふたりで相談した末に、ある雨の夜、僕たちはやせ衰えた狂犬が吠えたり噛んだりできないようにして麻袋に入れると、山のなかに入っていった。さほど深い山ではないが、夜は一面の闇である。夜露にぬれて冷えきった手で触れた犬の体が、なまめかしく温かったことをありありと覚えている。 僕たちは一夜を明かすあいだに、麻袋に入った生物をどうするか話し合った。睡眠不足で変に頭が冴えたように感じながら、ふたりがたどりついた結論は、自分たちの手で狂犬の命を断つことであった。機械的に殺すことをこばみつづけるAにとっては、それが最善の方法のように思われたのだろう。僕も、彼の考えに同意した。 二日めの朝、最初の晩とおなじように狂犬を袋につめて棒に吊るすと、僕たちは某の両端を手で支えながら、山道を歩いた。正午近くまで歩きつづけたろうか、ふたりとも二の腕に痛みを感じはじめ、足に豆ができて、それ以上歩くのがつらくなった。 麻袋をおろして道端に座りこみ、登ってきた方向を見おろすと、深く切りたった断崖が目に入った。そのときふたりで話し合った訳ではないが、僕たちは半ば衝動的に棒を外して麻袋の両端をつかむと、崖っぷちに向かってありったけの力で放り投げた。 ふたり以外に誰もいない山あいには蝉の鳴き声だけが響き、シーンとした谷底の方から、麻袋が岩に当たった鈍い音と砕け散った小石がほかの岩に当たる音が低く響きわたった。 ふたりは、しばらくボーッとして仰向けに寝ころんでいたが、日没前には山をおりてAの家にたどりついた。家の人から犬の行方を尋ねられると。あらかじめ打ち合わせておいたとおり、保健所に連れていく途中で逃げ出し、二日間さがしまわったが見つからなかったと答えた。 まわりの者は誰もそれを信じなかったが、それ以上問いつめることもなかった。それから数日後、私たちは東京に帰った。東京にもどってから、狂犬とはいえ一個の生命を断ったことが、ふたりの頭を離れなかった。それが原因のすべてだったとは思わないが、ふたりのあいだはしだいに疎遠になっていく。 韓国(朝鮮)の風景 なだらかな山なみと、水田地帯をゆったり流れる川―高校生のAが土手に寝そべって空を見上げている。そんな風景がどこかで韓国(朝鮮)につながっているように思う。 彼が在日韓国(朝鮮)人であった訳でもなく、その風景にことさら韓国(朝鮮)的な風物が配されていた訳でもないが、ふたつの風景にどこか共通するなつかしさを感じる。 僕がはじめて韓国を訪れたのは1973年の冬、23歳のことであった。いまでは記憶もぼんやりしているが、飛行機が遅延したためだろう、夜遅い時間にソウルに着いたので、市内まで行かずに空港近くの韓式旅館に泊まった。 多少ことばは理解できたが、はじめての海外旅行の第一夜に、いきなり予約なしの旅館に入った。その不安を異国にいる興奮のなかで、オンドルの床の固さと暖かさを確かめたことを覚えている。 翌朝、温度差でくもったガラス窓を開けると、外から凍てつくような冷気が流れ込んできた。頬に痛みを感じるほどの冷気を感じたのは、岩手で過ごした少年期以来のことだった。 まだ舗装されていない林道のような道を見ていると、白いパジ・チョゴリを着た老人が、ゆったりした足どりで歩いてくるのが目に入った。老人が向かう道の先には、なだらかな山なみが窓枠からはみ出しそうに迫っている。 あれが僕の韓国(朝鮮)風景の原画であろう。約25年経ったいま、そう思う。あの風景が、少年時代に焼きついた東北地方の風景につながっている。そう思われてならない。 ふたつの風景 友人とふたりで小動物の命を断ったことからくる重圧感が、時間とともに僕のなかで拡大していき、後悔することが多くなった。それと併行するように、僕は韓国(朝鮮)人に対する日本人の意識に関心を抱くようになったのだと思う。 個人的な罪責感と、自分もその一員である日本社会のもつ韓国(朝鮮)人に対する差別観が簡単にむすびつくとは考えないが、僕のなかでは、白い犬の殺害とそれに続くAとの疎遠感が、これらふたつをむすびつける役割を果たしたように思う。 個人的な罪責感と社会的な差別観をむすびつけたもの。それは、疎外感ではなかったろうか。僕のなかで、日本の東北の風景と韓国(朝鮮)の風景がつながったのは、疎外される側の被害者意識と、疎外(排斥)する側の加害者意識がかさなったからであろう。 疎外というと、ふつう疎外される側だけに注目しがちであるが、疎外する側の意識も大いに関係すると思う。僕の場合、疎外感と罪責感がかさなったからこそ、ふたつの風景がむすびついた。いまは、そんなふうに考えている。 日本海(東海、トンヘェ)の向こうにある漠とした方向にすぎなかったものが、時間の経過とともにぼんやりした風景になって僕のなかにイメージとして定着し、少年期に刻まれた東北の心象風景につながったのであろう。 韓(朝鮮)族の異名である白衣族が白い犬につながり、雪をかぶった東北の山なみにつながったとも考えられる。 風景をつなぐもの 僕の心象のなかで日本の東北と韓国(朝鮮)の風景がつながっている。ふたつの風景をつなぐ要因として、罪責感と差別観、これらふたつをむすびつける役割を果たしたであろう疎外感について考えたが、それが妥当かどうか自信はない。 ふたつの風景のつながりがどうなっているのか。それをさぐっていくことが、僕のこれからの課題だと考えている。 約二ヵ月前の九月、群馬と長野の県境近くにある万座温泉のホテルで日韓の若手研究者のグループとともに合宿する機会を得たことが、僕に疎外感について文章化するきっかけを与えてくれた。 二日間の合宿で、僕がもっとも強く感じたのは参加者のあいだにある親密感であった。日韓双方の参加者にとって第二言語である英語を介した対話を可能にしたのは、親密さを土台にした一体感であり、単に共通語と共通の専門領域があったからではない。 親密感や一体感は、誰かの強制によって作られるものではないし、場所と時間を共有すれば自然に生ずるものでもない。主催者の企画に応じて参加した人びとのあいだに何らかの共有感覚があってこそ生まれるものであろう。 あの合宿にはそんな共有感があったように思う。それを持続してほんとうの一体感とするためには、今後さまざまな形の共同作業が必要だと思うが、そうするための土台となるようなものがあったように感じた。 親密感が疎外感の対極に位置するものだとすれば、対極にあるふたつのものはどこかでつながっているはずである……硫黄で卵黄色になった温泉場の土や岩肌、湯治場らしい赤茶いろの屋根、まわりを囲む上信越の山やま、これらの光景が少年期の東北の風景につながるのかもしれない。 万座と東北の風景が、それぞれ親密感と疎外感という心象に対置されるとすれば、ふたつのイメージが対極にあるからこそつながることができる。僕のなかにある日本の東北と韓国(朝鮮)の風景も、時間と場所を超えてこんなふうにつながっているのかもしれない。 [1997/11/19] page-0001; page-0002; page-0003; page-0004