真顔して 御用納の 昼の酒 沢木 欣一 日本の官公庁では、「行政機関の休日に関する法律」により、12月29日から1月3日迄を休日とし、原則として執務を行わないものとしており、12月28日を“御用納め”として、その年の最後の業務日となっている。 他の公共機関も、同様になっていることが多い。 また、一般企業も、年末に多忙な業種(銀行、他)以外は、これに準じている。 ところで、「御用納め」の“御用”は、公的仕事であったことからの呼び名で、一般企業の場合は、「仕事納め」と表することが一般的である。 “キリ”よく、身の回りの整理を済ませ、“この年”、一年を清めたいものだ…
零れ話: ピンからキリまで…
この文句を知らない人はいないが、語源までは…どうだろう。 これはカルタからでた言葉らしい。 室町時代に、数種のカルタが日本に伝えられたが、トランプに似たもの、また、花札に近い遊び方のものがあった。 これらのカルタで、第一の札を「ピン」といい、ポルトガル語でのピンタ(Pinta)の略からきている。 「ピンはね」という言葉もあるが、これは“頭(最初の部分=最良…)をはねる(取り上げるt)”という意味。 「キリ」の方はといえば、花ガルタの最後が“桐”だから、とも解されているが、クルス(十字架)がなまって「キリ」に変じたという説もある。 でも、ちょっと飛躍しすぎか… 外来語研究者は、これを、あっさり“キリ(切り=終わり)”とするべきだろうと結論づけている。 但し、「ピンキリ」 は、人によって異なる。比較は出来ない… また、始めから終りまででもある。 歳の暮、“キリよく”締めくくり、年初、すっきり、“ピン”を寿ぎたい…
今日の歳時記: カドマツ[門松]
世直しの 大門松を 立てにけり 藤平 伊知郎 気の早い商店などでは、中旬から、にぎやかに立てられるが、一般的には、二十五日前後から門松を立てる。 現在では、正月の飾り物のように思われているが、かっては、お祭りの行事であったと思われる。 門松は歳神を迎えて祭るのが本義であったらしい。 また、立てる場所も、入り口ではなく、敷地の内の正面の位置で、木も松とは限らず、その地域で、めでたい木と考えるものを用いたらしい。 今は、歳の暮の風物詩となっている。 邪を払い、笑顔絶えない日々を…と、門松に、新たな「戌(犬)」歳を祈る…
零れ話: ゴモクナラベ[五目並べ]=連珠
子供の頃、これで遊んだ人も多いことだろう。 これの考案者は不明だが、紹介者は、明治の翻訳家・黒岩 涙香である。 彼は、明治25年に朝報社を創設し、「万朝報」の発行を始めたが、更に、デュマの『巌窟王』(原題「モンテ・クリスト伯」)など、長編作品を翻訳し、広いファンをつかんだ。 この間、涙香は「万朝報」の紙上で連珠を紹介し、独自のルールを定着させ、大衆娯楽としての地位を確立なものにした。 一方、内村鑑三、報徳秋水らを擁して、理想社会を求めて、反戦思想を打ち出していた。 ところが、「万朝報」が、当時の政権を擁護したことで、紙面内容が変質し、評判を落してしまった。 熟練の“五目並べ”であったが、最後の“読み”を間違えたようだ。 又、読者(有権者)の反応も、今の読者より、眼力があったように感じるのは、私だけか…
今日の歳時記: セイジュ[聖樹]
子に飾る 聖樹の樅が 手に痛し 美代子 クリスマス・ツリーのことである。 ツリー(樅の木)には金糸銀糸、その他色々なもので飾り、灯りを点じてクリスマスを祝う。 様々なクリスマスの行事の中でも、サンタさんとともに、子ども達に人気のものの一つである。 以前は、街中にクリスマスソング…♯♭が鳴り響き、お店で宴会という事が多かったが、今は、各家庭で親子揃って楽しんでおり、本来の趣旨とは異なるが、年末の欠かせない行事となっている。
雑題: ガチョーン[我町]?
町内の3校を統合した中学校校舎である。 校舎も、設備も立派で、驚いている。 当方が在学してた頃は、一学年200人弱、3校であわせて、1,500人以上の生徒がいたのに、今や、統合校は、総勢180人弱である。 今年の新生児が、昨年に続いて、100万人を下回る見通しらしいが、少子化は、深刻なことになってきている。 一方で、この数年で、新生児の誕生が倍増している町もある。 勿論、これだけで、町の良さをとやかくは言えないが、行政サイドは、参考にして施策を練っていただきたい。
零れ話: トウジ[冬至]
二十四節気の第二十二。 太陽が冬至線(南回帰線上)に直射する時で、一年中で最も南に位置し、北半球における正午の高さが最も低く、日照時間も最短である。 わが国では冬至にかぼちゃ、こんにゃくなを食べるが、これは珍しくなった野菜類を、冬の祭りに供えたことの名残りである。 またこの日、冷酒を飲み、ゆず湯に入るところもある。 ゆず湯に入ると無病息災であるともいわれ、銭湯でも、ユズ湯でもてなす所が多い。 湯船につかって、ちょっと早いが、一年間の疲れを洗い流したい…
今日の歳時記: ゲンタン[減反]
減反の 田の広々と 寒寒と 高瀬 博子 減反政策によって荒れ果てた田をみれば、哀しくなる。 しかし、誰よりもつらいのは田の神だろう。 丈の高い草におおわれて、あれは自失のはてに正気を失い、荒野をさすらう人のようだ。 来年度で減反政策が見直されるという。 補助金、等の援助がなくなることから、米耕作が減るのではないかとの危惧と、規制がなくなることから、耕作面積を増加する…との発表があったりと、当方には見通し不明である。 田圃に水がはられ、周りを含めて緑に包まれるのは、心が癒される光景である。 ともかく、田の神の嘆きが聞こえてこない事を祈る。
零れ話: 落語家の小道具
東京の落語家の高座の小道具は、“扇子”と“手ぬぐい”だけである。 芸界用語では、扇子を「カゼ」、手ぬぐいを「マンダラ」というらしい。 カゼはあおげば風だ出ることから、マンダラはいろいろな色が混じって、斑(まだら)というところに語源があるようだ。 扇子は「高座扇」といって平手打ちの白扇に限る。 開いた場合、絵や文字があると、其処に客の視線が集まって、効果が薄れるからだといわれる。 例えば、閉じたままの扇子 → 刀、槍、杖、釣竿、煙管、筆、お銚子、等 ちょっと開いて、きしませると舟の艪(ろ)の音まで出る。 順に開くと手紙になり、開き切った扇子は大盃になるという重宝さだ。 但し、無理をさせると、扇骨が折れることがあるので、金属疲労には注意してあげたいものだ。
今日の歳時記: カレキ[枯木]
枯木にて 枝のびのびと 岐ちをり 五千石 冬になって、葉がまったく落ちた木をさす。 あたかも枯れ果ててしまったかのように見えるが、枯死したわけではない。 また、その群落を枯木立とも呼ぶ。 桜、銀杏、桑、茨などが葉を落とした姿は、独特の風情がある。 枯木(こぼく)、裸木、枯枝ともいう。 窓枠を通して見る枯木は、枝に粉雪を付けて、一幅の水墨画である。 あるいは、もうすぐ来るであろう“クリスマス”の際、飾り付けられる“ツリー”といってもいってもいいのかもしれない。
零れ話: ロウジンコウ[老人考]
歳を重ね、日々の暮らしを振り返ると、残酷なまでに自分の“老い”に気づく。 いざ老人になってみると、十年後でも、今身罷っても、まぁ大した違いがないようにも思える。 「どうせ死ぬのに、なぜ生まれてきたのだろうか?」 なんて浄土宗の開祖・法然のお言葉をあげてみた。 兎も角、“老い”の落としどころを考えるのは、「頭の体操」となり、永遠の課題でもあるのだろう。
今日の歳時記: ソリ[橇]
ひっぱりて 動かぬ橇や 引っぱりぬ 高野 素十 サンタさんの橇は空を飛ぶが、もとより、橇は軽やかに雪上を滑るものと思われている。 でも、実際はそうではない。 人や物を載せて重くなれば、なおのこと。 馬か人が渾身の力をふりしぼってもビクともしないのだ。 ふと、我が身を振り返って、「いつの間に、時の過ぎたる手も足も、我をはなれし如き日続きて」と、手足が思い通りに動かないことに、愕然とする。 ある方が、「歳を重ねることは『老化』ではなく、『進化』ですよ」とおっしゃっていましたが、はて…
零れ話: 念仏の口止め
正月の神は念仏が嫌いだとして、その日から念仏を唱えない風習のある地域がある。 「口止め」は、各々、異なるが、十二月十六日のところが多く、年明けて、一月十六日から「念仏の口開け」と称して、仏様をお祀りし、念仏を唱え始めるところがある。 昨日から、年賀状の受付も始まり、正月準備に追われる日々、何かと慌ただしいのだが、時々、心休める時間を持ちたいものです。
今日の歳時記: ピンパンギル[氷板道]
氷板ギル 滑って転んで 空青し 孫可楽 東京では道路が凍結することは珍しいが、ソウルではよくあるらしい。 「氷板ギル」とは凍った道との意で、日本では「凍て道」という季語にあたる。 “ピンパン”という張り詰めたような音に、韓国の冬のただならぬ寒気を感じる。 年が明ければ、韓国・平昌(ピョンチャン)五輪が開かれる。 滑って転んで、世界の仲間が交わり、色々なわだかまりを、青空の如くに晴らし、“結び目”を巡らしい欲しいものだ。
零れ話 : ウチイリ[討入り]
今日十二月十四日は、赤穂浪士が宿敵・吉良上野介を討った日とされている。 しかし実際は、一)翌日の十五日午前四時頃、ニ)討入りの集合場所はそば屋ではなく、堀部弥兵衞宅、三)鳴物も、山鹿流陣太鼓などではなく、各自の持つ小笛とドラ一個であったといわれる。 また、泉岳寺着が午前八時、引き上げのとき、江戸市民の人垣ができたという事実もないらしい。 斯様に、事実は、その後の伝達者のよって、尾ひれがつき、脚色されていることが多い。 要は、観客・読者が喜ぶように、迎合して、創作されていることが多い。 ファクト・リサーチは“自己責任”では… マスコミを責めていても、求める結果はつかめない。
今日の歳時記: ススハライ[煤払]
姉かぶり 目深かに巫女や 煤払 横田 寿賀子 すすはき、すすとりせっく、などともいう。 新年を迎える準備として、歳末に行う大がかりな掃除のことで、農村部では、十二月十三日と決まっているところが多い。 鎌倉時代中期の頃から始められたとされ、朝廷や幕府の年中行事として確定したのは江戸時代で、庶民もこれを真似たという。 これに、“松迎え”等で、「正月事始め」といい、慌ただしい日々のなか、師匠が走り回り、元気な子犬に、タスキを渡すことになる。 年賀状…、「良きお年を…」の声が飛び交う…
零れ話: ゼンヲオコナウ[善を行う]
善を行ふには“勇気“を要する。 けれども、同時に、“智”も随分役立つであらう。 極く卑近な例を引けば、公職や学校に在るものが賄賂を持ち込まれたとする。 それを断って返すには、或る場合は、或る勇気と意志を要するであろう。 併し、持ち込まれたものを押し返しつゝ問答する前に、抑も、それを持ち込ませない工夫もあるべき筈である。 この人に持ち込んでも無駄だ、ということが明らかに知れて居てば、多くの贈賄者は差し控えるであろう。 『小泉信三』 要は、日頃の行い・・・「正気」を保ちたいものだ。
今日の歳時記: チョウ[蝶]
金色の 蝶の飛びゆく 枯野かな 前田 霧人 金色の蝶など、この世にいるはずがない。 冬の日差しを浴びて金色にみえるのか… それとも、金色の蝶の幻がみえているのか… あるいは 、枯野で飛びゆく蝶に、夢を託しているのか… 来春、花咲き誇るなかを、飛びまわる“己の姿”を… 自分なりの“夢”をもち、一歩いっぽ歩みたい。
零れ話: “心”と”言葉 “
「言葉を生みだすのは心」、これはすぐわかる。 「心を生みだすのは言葉」、これもわかる。 言葉は心を 表現するからだ。 では、“心”と”言葉“のどちらかが、初めにあったのか… これに答えるのは難しい。 どちらかが親ではなく、友達同士のようなものだから… でも、心が豊かでないと、言葉もふくらんではこないのだろう。 よって、赤子には、豊かな環境を整えたいものだ。 それが、大人の努めでは…
今日の歳時記: ダイコンダキ[大根だき]
大根焚 ほくほく旨し 湯気の中 寺田 光香 各寺々で行われるが、それぞれ意味合いは違うようだ。 「鳴滝・了徳寺の大根だき(十二月九・十日)」は、建長四年(1252)、親鸞上人が法然上人の遺跡を訪ねて、この地に来て説経したところ、里人が喜んで、大根を煮てもてなした。 親鸞はこれを深く感じ、庭のススキを筆にして、「帰命尽十方無碍光如来」の十字を記して、里人に与えたという。 この言い伝えにより、大根を煮て、皆んなで分け合って食べる習わしができたらしい。 また、大根煮を食べると「中風のまじない」にもなるとも言われており、短命県の本県にとっても、耳寄りな情報である。