樋口一葉(1872年5月-1896年11月)の『たけくらべ』を縦書き文庫版で読んだ。1895-96年に雑誌「文學界」に連載、96年4月に「文藝倶楽部」に全篇が掲載された。一葉満23歳の作品で、亡くなる僅か半年前のことだった。この作品も高三か浪人のときに読んだはずだが、ほとんど記憶にない。ただ字面を追っただけなのだろう。荷風の『濹東綺譚』は鮮明に残っている。 吉原についてよく知らないので、前後して田中優子の近著『遊廓と日本人』を読んだ。文化としての遊廓に関する考察とでもいうべき書である。大いに参考になった。図版を中心に説明している第5章に図版が増えれば、と思う。 若いころ上野で植木商などに関わり戦後小石川に生花店を営んだ祖父に連れられ、吉原界隈を歩いた記憶があるが定かでない。
鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(1)(2)
漱石より鷗外(1862-1922)が好きな僕は高三か浪人のときに「ヰタ・セクスアリス」を読んだ。1909年、鷗外が満47歳のときの作品だ。タイトルはラテン語だが「わが性慾に関する手記」ぐらいの意か。「ヰタ・セクスアリス(その二)」と名付けたい。 前回も辞書を引きひき読んだのだろう。文中に出てくる漢語もさることながら、独英仏羅希語が登場し、意味を確認しないと読み進められない。neugierde というドイツ語(英語 curiosity)が頻出した。鷗外の観察眼は醒(さ)めた好奇心とでも呼ぶべきもので、けっして性慾に淡泊なわけではないが、受動的である。 一日置いて「舞姫」を読んだ。1890年の発表だから、鷗外が28歳のときに書かれたものだ。少なくとも二度は読んでいるはずだが、今回はまったく別物のような気がした。「ヰタ・セクスアリス(その一)」と名付けたい。かくも生々しい物語だったのか、と呆れる。若かったとはいえ、上滑りして読んでいた自分が恥ずかしい。 森鷗外(1862-1922); 二葉亭四迷(1864-1909); 夏目漱石(1867-1916)、三人並べると、鷗外が最も早く生まれ、最も長く生きている。専門の語学はそれぞれ独・露・英語である。鷗外と二葉亭は英仏語もできたろう。三人の漢籍の知識は到底僕の及ぶところではない。
二葉亭の「浮雲」を読む
70年代初め、二葉亭(ふたばてい)四迷(しめい)(1864-1909)に凝(こ)った時期がある。新書版の全集を神保町の古本屋で購入し、小説や翻訳作品ほかを読んだ。原著者ツルゲーネフ(1818-83)の「片戀(かたこい)」が好きだった。最近50年ぶりに「浮雲(うきぐも)」を読んだら、ところどころ吹き出すほどのおもしろさだ(第1編1887年6月、第2編88年2月、第3編90年7-8月発行)。 ようやく官吏(かんり)になったもののすぐに罷免(ひめん)された二十代前半の男が主人公だ。官吏になるや、ちやほやして娘を嫁がせようとした叔母が、彼が免職(めんしょく)になるや、豹変(ひょうへん)して辛(つら)くあたる。はては、主人公の元同僚に乗り換えようとする世の理不尽(りふじん)さを嘆(なげ)きつつも、その娘に対する思いを断ち切れない内海(うつみ)文三、言文一致文体の極致ともいうべき作品か。 挿絵: 主人公の内海文三と彼が恋するお勢 https://www.city.bunkyo.lg.jp/index.html 夏目漱石(1867-1916)の「三四郎」(1908)を読んだあと、二葉亭の「浮雲」を読んだ。前者は大学生、後者は官吏に採用されながら罷免された、いずれも真面目(まじめ)で不器用(ぶきよう)な男だ。両者の異性に対する態度は驚くほど似ている。
筑波山に登る
娘夫婦に連(つ)れられ筑波(つくば)山に登山した。「日本百名山」を制覇(せいは)しようという彼らに付いていった。標高877m(女体山(にょたいさん))ながら、大きな岩がごろごろしていて歩きにくい、侮(あなど)れない低山だ。関東平野の一角に隆起した山塊(さんかい)は全体が巨岩の塊(かたま)りのようだ。奇岩も多く、神話や伝説にちなんだ説明が付いている。女体山(にょたいさん)から男体山(なんたいさん)につながる稜線沿いにケーブルカーとロープウェイの駅があって、茶店が並ぶ光景は素直に受け入れられない。 右脚(あし)が半ば麻痺(まひ)している僕にはきつい山だ。登り下り合わせて5時間、最後は筋肉痛で動けなくなる寸前すんぜんだった。百名山をまた一つ制覇(せいは)したという彼らのような達成感はないながら、まだ歩けるぞ、という妙な自信感に満足した。 試験直前の勉強に没頭しているはずが、受験申し込みの不手際で受験できなくなった。自分のせいだから誰を怨むこともできない。ただ、自らの愚かさを嘆くばかりだ。こんなとき、何も考えずに山道を歩くことにまさる治療法はない。馬鹿につける薬はないのだから。
漱石の「こゝろ」を読む
50年ほど前に読んだはずの小説、夏目漱石(1867-1916)の「こゝろ」 (原作「こゝろ 先生の遺書」: 1914年4月-8月朝日新聞連載)を縦書き文庫版で読んだ。55章と56章(最終章)に、「先生」が「私」に宛てた遺書のような長文の手紙の末尾に次の記述がある。( )内は原文にない補足。 ...夏の暑い盛りに明治天皇(1852-1912)が崩御(7月30日)になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。 ...それから約一ヵ月ほど経ちました。御大葬(1912年9月30日)の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将(1849-1912)の永久に去った報知にもなっていたのです。 「先生」は乃木希典夫妻が殉死した数日後に自殺の決心をし、その後十日以上かけて「私」宛に長文を書いている。「先生」は何に殉死したのだろうか。「先生」に最も残酷な形で「お嬢さん」を奪われて自殺したKに対する呵責の念から逃れるためだろうか。「先生」の egoism/egotism について延々と読ませられる小説だということを半ば知っていながら、なぜ僕はこの小説を再び読んだのだろうか。自分の愚かさを紛らわすためだったろうか。後味が悪いのは他の誰のせいでもない。僕のせいだということを知っているつもりではいるのだが。 「先生」が下宿した先の母娘、とくに娘の立場でみると、Kと「先生」という、かつて親しく接していた二人の下宿人が相次いで自殺することは耐えがたい苦痛だったろう、と思わずにはおられない。軍人の未亡人である母親はKの自殺についてある程度推定していたに違いないが、娘はKの自殺の要因ないしきっかけと思われる「私」の一方的な思惑によって何も知らされないばかりか、「私」と結婚することによって寂しい思いを強いられたあげく、若くして未亡人になる。 この小説を明治時代の時代精神に対する鎮魂歌のように評する人もいるようだが、同じ作者の「三四郎」の冒頭、列車に登場する老人の独白にあるように、日清日露と続いた戦争に象徴される明治の時代精神の閉塞感を描いた作品ということもできるのではないだろうか。 漱石『こゝろ』岩波書店版の表紙 1914年9月
昭和天皇の「人間宣言」を読む
1946年1月1日付け官報を読んだ。大日本帝国と日本国の狭間に発せられた文書として興味深い。昭和天皇(1901-89)の「人間宣言」とされている。縦書き文庫の「ハイジン教の改宗者たち(草稿)」にも掲載した。漢文調の文章は縦書きが読みやすい(原文にルビと段落間の空行はない)。 昭和21年1月1日付け官報号外詔書茲ここニ新年ヲ迎フ。顧かえりミレバ明治天皇明治ノ初はじめ国是こくぜトシテ五箇か条ノ御誓文ごせいもんヲ下くだシ給たまヘリ。曰いわク、一、広ク会議ヲ興おこシ万機ばんき公論こうろんニ決スヘシ一、上下心ヲ一ひとつニシテ盛ニ経綸けいりんヲ行フヘシ一、官武一途いっと庶民ニ至ル迄まで各其その志ヲ遂とケ人心ヲシテ倦うマサラシメンコトヲ要ス一、旧来きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ破リ天地ノ公道ニ基もとづクヘシ一、智識ちしきヲ世界ニ求メ大ニ皇基こうきヲ振起しんきスヘシ叡旨えいし公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ちんハ茲ここニ誓ちかいヲ新あらたニシテ国運ヲ開カント欲ほっス。須すべかラク此ノ御趣旨しゅしニ則のっとリ、旧来きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ去リ、民意ヲ暢達ちょうたつシ、官民拳あゲテ平和主義ニ徹てっシ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。大小都市ノ蒙こうむリタル戦禍せんか、罹災者りさいしゃノ艱苦かんく、産業ノ停頓ていとん、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢すうせい等ハ真まことニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然しかリト雖いえどモ、我国民ガ現在ノ試煉しれんニ直面シ、且かつ徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克よク其ノ結束ヲ全まっとウセバ、独ひとリ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。夫そレ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効こうスベキノ秋ときナリ。惟おもフニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動ややモスレバ焦躁しょうそうニ流レ、失意ノ淵ふちニ沈淪ちんりんセントスルノ傾キアリ。詭激きげきノ風漸ようやク長ジテ道義ノ念頗すこぶル衰おとろへ、為ためニ思想混乱ノ兆きざしアルハ洵まことニ深憂しんゆうニ堪たヘズ。然しかレドモ朕ちんハ爾等なんじら国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚きゅうせきヲ分わかタント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ちゅうたいハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依よリテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非あらズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且かつ日本国民ヲ以もっテ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延ひいテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非あらズ。朕ノ政府ハ国民ノ試煉しれんト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱じかんニ蹶起けっきシ、当面ノ困苦こんく克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往ゆうおうセンコトヲ希念きねんス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚よリ相扶たすケ、寛容相許スノ気風ヲ作興さっこうスルニ於テハ、能よク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯かくノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為なス所以ゆえんナルヲ疑ハザルナリ。一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ひとつニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就じょうじゅセンコトヲ庶幾こいねがフ。御名 御璽昭和二十一年一月一日内閣総理大臣兼第一復員大臣第二復員大臣男爵 幣原喜重郎司法大臣 岩田宙造農林大臣 松村謙三文部大臣 前田多門外務大臣 吉田茂内務大臣 堀切善次郎国務大臣 松本烝治厚生大臣 芦田均国務大臣 次田大三郎大蔵大臣子爵 渋沢敬三運輸大臣 田中武雄商工大臣 小笠原三九郎国務大臣 小林一三
異界・迷界・冥界
夕方、一人で隣りの駅まで歩いていった。どこかで食事するつもりだったが、出がけ前に軽く食べたこともあって、なかなか場所が定まらない。小一時間歩いているうちに来たことのない道に迷いこんでしまった。いったい、ここはどこだろう。行き詰まっていた書きかけの小説の新しい場面がぼんやり浮かんだ。ある門前町だった。そのとき一瞬、異界に足を踏み入れたような感官を覚えた。むろん、錯覚だろうが。 通りの先になまめかしい赤い提灯が二つ灯っていた。提灯に庚申堂と書いてある。よこに建つ説明板とお堂のあいだに、1783(天明3)年に造られたという四角柱の石道標が建っている。赤い灯がまぶしくて石柱に気づかなかった。白昼に来たら、異界を見ることはなかったろう。 1783(天明3)年銘の道標(左下の暗い石柱)
「ハングルの誕生」平凡社ライブラリーに
10年余り前に出版された『ハングルの誕生』(野間秀樹著、平凡社新書版)が平凡社ライブラリーから『新版ハングルの誕生』として出版された。副題も新書版の「音(おん)から文字を創る」から「人間にとって文字とは何か」に変わった。 10年を経てライブラリーに入る、すごいことだと素直に思う。以前、僕の処女作を読んでいただき、ほめてくださったが、こちらは一向に読者が増えない。著者がほめるということは、僕の文章は難解なのか、と考えていた。 そういえば、新書版の原稿を読ませてもらったときも、「難しい」などと勝手なことを言ってしまった。何年もお会いしていないが、再会したら「還暦を過ぎて文章がやさしくなりましたね」と言うつもりだ。 ライブラリー版と新書版を比較すると、「あとがき」がずいぶん異なる。故人名が連ねられていて年齢を感じさせるからかもしれない。新書版にない序文は、以前より文章が読みやすい。ライブラリー版は改稿した部分も多いという。もう一度読み直してみようと思う。
住・職転々の来歴
縦書き文庫のプロフィールに載せた略歴は次のとおりで、主に住んだ場所を記している。カナダの2年を除いてほとんど日本国内だし、載せる意味はないかもしれない。 住・職転々: 1950年東京本郷に生まれ岡山県柵原へ; 55年-東京善福寺池; 65年-岩手県水沢; 67-85年本天沼・阿佐ヶ谷; 70年-英・韓語に関連する多業種を経験; 85年-洗足池(87-90年Toronto・守口); 作品「いつか名もない魚(うを)になる」(「無宗教派の人びと」所収)ほか どんな土地に住んだかは性格や考え方に大いに関わっていると考える。僕の来歴はさしずめ「住・職転々」だ。本当は、もっとも大きな影響を受けているのは母親だと考えている。彼女についていつか書きたいと思う。 (昭和35(1960)年ごろの居間の写真は、長谷川町子美術館の展示)
頭脳流出と同調圧力
真鍋叔郎博士(1931-)がノーベル物理学賞を受賞するや、日本のメディアはこぞって日本人のノーベル賞受賞として大きな見出しで扱った。そして、日本人の「頭脳流出」問題を指摘する。 だが、待てよ、「頭脳流出」って何だろう。日本人の優秀な研究者等が日本から海外に出ていくのをいうが、なぜそれを嘆かなくてはいけないのだろう。世界に出て行ったのだから、その分野における世界貢献だと考えられないのだろうか。 真鍋博士の場合は米国籍を取得している。その理由の一つとして「社会に同調する能力が欠けている」と言ったそうだ。彼の修論に注目した米国の研究者たちがすごいと思うが、彼らはもしかしたら日本の研究環境の窮屈さや不自由さをよく理解しているのかもしれない。 まったく関係ないように思われるだろうが、雅子皇后の適応障害や眞子内親王のPTSDも同調圧力によるところが大きいのではないか。日本のなかでも皇室はとくにその圧力が大きいと想像するからである。
「ハイジン教」と排外・拝外主義
25年余り前に執筆した修論のテーマは、明治期に条約改正論議と並行して行われた「内地雑居論争」だった。現代における多文化共生論議に近い。その根っこにあるのは日本の人々の対外意識の問題であり、幕末から明治期にかけて攘夷論として表現された。 2020年に書いた習作と現在執筆中の「ハイジン教」に共通するテーマが、論文で扱った日本の人々の<排外主義>であり<拝外主義>であった。最近このことに気づき、拙論「内地雑居論にみられる対外意識の研究」を本サイトに載せた。縦書き文庫にも掲載している。
森鴎外訳ファウスト第1部
青空文庫版の森鴎外訳ファウスト第1部をアップしました。高三か浪人のときに読んだ感動の余韻が行間に残っているような気がします。 ファウスト Ⅰ 森鴎外譯
パリの街並みから
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ハトの鳴き声
最近、ハトの鳴き声が気になる。規則正しい鳴き声で繰り返されるから耳について離れない。何か意味ありげに聞こえるのだ。 グッ、クーグーッククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クーグーッククー、グーックーククー、クッ(間)グッ、クーグーッククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クッ あとはこの繰り返しだが、クーグーッククーを繰り返す回数が少なくなって終わる。同じ鳴き声を韓国語で表記すると、例えば次のようになる。 굿、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굿꾸꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸 끝(間)굿、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굿꾸꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸 끝 一般的には 구구구구 と表記するようだが、これだと「グーッ」「クー」「ククー」「クッ」が区別できない。끝 は終わりの意味で駄じゃれである。韓国語は英語と同じように子音で終わる語が多く、それを表記できるので表現しやすいのです。
小径車で通勤
通勤用に折りたたみの小径車を買いたいと思う。愛知県の自転車メーカーがデザインし中国で生産している。英米からの輸入品に較べ格安だ。ディスクブレーキだし、デザインもいい。 Ichinomiya Cycle LX-F16 Black 16in 12kg Ichinomiya Cycle YZ-14 Dark green 14in 14kg 下の写真は30年以上前に持っていた宮田製作所(現ミヤタサイクル)の折りたたみ自転車だ。3段ハブギアで5万円もした。盗難に遭って今はもうない。だから、通勤用に高価なものは買いたくない。
老いた少年
70年代初めに神保町の書店で一年余り一緒に仕事をし、親しかった友人がいる。無類の本好きで、長年古書店に勤めていた。少年っぽいところがあったからか女性にもてたが、社交的ではなかった。その後、職場も変わり疎遠になり、たまに連絡しあうだけとなった。交信手段は携帯電話だけで、50年前の電話とあまり変わらない。 1ヵ月ほど前、その老少年から電話があった。電車に乗っていた僕はあわてて降り、駅構内の静かなところに移って約30分話した。もしや、僕が死んでいるかと思うと怖くて、なかなか電話できなかったという。入退院を繰り返しながらも元気だが、足の痛みがひどく、外出はほとんどできないようだ。夫人と二人暮らしで、近くに娘夫婦がいて孫もいる。近々、訪ねて行くことにして、電話を切った。 翌週、何年かぶりの再会を果たした。彼の最寄り駅近くにあるとんかつ屋の個室で向き合って話し込んだが、何を話したのか、近況を伝えた以外はあまり覚えていない。少しさびしい気もするが、たがいに元気でいることを確かめるために会ったのかもしれない。 とんかつ屋を出たあと、僕はもう少し話したかったが、彼にはあまりその気がなかったのだろう。駅のほうに向かって踏み切りをわたると、<シアトル教会>があった。その通りに面したテーブル席に誘ったのは僕のほうだった。 そこにいる間、僕は彼のスマホにSNSを設定する作業に費やした。二人のあいだのやり取りを容易にしたかったのだが、彼はそれを好まなかったようだ。ただ、その場では何も言わずに僕がするままに任せていた。ひとこと言ってくれていたら、相応の対応ができたろうに。 一週間後、SNSで電話をしても受けなかったので、在来の電話を使って連絡すると、受けとった。僕がSNSを使うように促すと、「いったい何様だと思ってるんだ、己は使わないから」と言う。「とにかく、もういいから」と言って切られてしまった。後味の悪い電話だったが、向こうも同じだったろう。 このまま二度と会わないかもしれない。その蓋然性が高いだろう。親しい間がらというのも案外もろいものだ、と思った。
「日本国」と「大日本帝国」の連続と不連続
日本国憲法の前文を再掲する。いつ読んでも、真情溢れる格調高い文章だと思う(太字・下線表示と段落付けは投稿者による)。 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。https://shaws2021.wordpress.com/大日本帝国憲法から日本国憲法への移行 (c)Wikipedia 大日本帝国憲法(明治憲法)第7章補則第73条 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス 日本国憲法と大日本帝国憲法のあいだには越えがたい不連続がある。これを連続するものとして捉えるのは間違っている。日本政治の貧しさの要因の一つが、不連続を連続と捉える思考法にあると考えるべきではないか。戦後の義務教育を通じてこの連続史観が生徒たちに刷り込まれてきた。大浜啓吉『法の支配とは何か』より引用する。 国家とは何か。憲法が国を作るのであって国が憲法を作るのではない(近代法の常識)。明治憲法の作った国を大日本帝国といい、日本国憲法の作った国を日本国という。二つは根本的に違う国であるから、当然にその原理を異にする。明治国家の統治原理を「法治国家 Rechtsstaat」といい、日本国の統治原理を「法の支配 rule of law」という。前者は立憲君主制の統治原理であり、主権が天皇にある以上、基本的人権という概念は認められない。個人は具体的な法律が認めた限りで権利を認められたにすぎない(法律の留保)。日本国の統治原理である「法の支配」の源流は英米法にある。「法の支配」の根底にあるのは自由で平等な尊厳ある個人と社会という概念である。尊厳ある個人を起点にして社会が構成され、国家は社会に生起する公共的問題を解決するために、人為的に作られた機構にすぎない。人は国家のなかで生きるのではなく、社会のなかで自己実現を果たす。平和で自由に生きるためには健全な「社会」が必要であり、国家は社会の健全性を保持するための存在だから、個人の自由に介在することは許されない。国家の役割はあくまでも社会の足らざるところを補完するか、社会に奉仕することによって個人の人権を護ることにある。ナショナルレベルの社会とローカルレベルの社会とは抱える問題の種類も性質も違って然るべきである。問題が違う以上、国家が自治体(国家)に過剰介入することは許されない。[国が定める]法律と[地方公共団体が定める]条例の問題もこの原理にもとづいて解釈する必要がある。憲法の保障する地方自治の本旨は、人権→地域社会→自治体の補完という筋で解釈されなければならない。これもまた「法の支配」原理から引き出されるルールである。行政法とは、①行政権の組織を作り、②行政活動の根拠を与え、③行政活動の結果、私人とのあいだに紛争が起きたときにこれを裁断するルールを定める法律のことである。現在、日本には約2000本の法律が存在するが、行政法はその9割を占める。憲法は国家機関の行為を縛る規範だから、行政法の基本原理についても憲法の根底にある「法の支配」の原理を投影して考察しなければならない。大浜啓吉著『法の支配とは何か』より引用 1946(昭和21)年1月1日付け官報号外(天皇の「人間宣言」とされる公示) https://tb.antiscroll.com/novels/goolee/23635詔書茲ここニ新年ヲ迎フ。顧かえりミレバ明治天皇明治ノ初はじめ国是こくぜトシテ五箇か条ノ御誓文ごせいもんヲ下くだシ給たまヘリ。曰いわク、一、広ク会議ヲ興おこシ万機ばんき公論こうろんニ決スヘシ一、上下心ヲ一ひとつニシテ盛ニ経綸けいりんヲ行フヘシ一、官武一途いっと庶民ニ至ル迄まで各其その志ヲ遂とケ人心ヲシテ倦うマサラシメンコトヲ要ス一、旧来きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ破リ天地ノ公道ニ基もとづクヘシ一、智識ちしきヲ世界ニ求メ大ニ皇基こうきヲ振起しんきスヘシ叡旨えいし公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ちんハ茲ここニ誓ちかいヲ新あらたニシテ国運ヲ開カント欲ほっス。須すべかラク此ノ御趣旨しゅしニ則のっとリ、旧来きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ去リ、民意ヲ暢達ちょうたつシ、官民拳あゲテ平和主義ニ徹てっシ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。大小都市ノ蒙こうむリタル戦禍せんか、罹災者りさいしゃノ艱苦かんく、産業ノ停頓ていとん、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢すうせい等ハ真まことニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然しかリト雖いえどモ、我国民ガ現在ノ試煉しれんニ直面シ、且かつ徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克よク其ノ結束ヲ全まっとウセバ、独ひとリ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。夫そレ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効こうスベキノ秋ときナリ。惟おもフニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動ややモスレバ焦躁しょうそうニ流レ、失意ノ淵ふちニ沈淪ちんりんセントスルノ傾キアリ。詭激きげきノ風漸ようやク長ジテ道義ノ念頗すこぶル衰おとろへ、為ためニ思想混乱ノ兆きざしアルハ洵まことニ深憂しんゆうニ堪たヘズ。然しかレドモ朕ちんハ爾等なんじら国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚きゅうせきヲ分わかタント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯じんたいハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依よリテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非あらズ。天皇ヲ以テ現御神アキツカミトシ、且かつ日本国民ヲ以もっテ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延ひいテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非あらズ。朕ノ政府ハ国民ノ試煉しれんト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱じかんニ蹶起けっきシ、当面ノ困苦こんく克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往ゆうおうセンコトヲ希念きねんス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚よリ相扶たすケ、寛容相許スノ気風ヲ作興さっこうスルニ於テハ、能よク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯かくノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為なス所以ゆえんナルヲ疑ハザルナリ。一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ひとつニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就じょうじゅセンコトヲ庶幾こいねがフ。御名 御璽昭和二十一年一月一日
「無宗教社会を生きる」はじめに
「いつか名もない魚になる」の続編として「無宗教社会を生きる」 ( 「ハイジン教の改宗者たち」「ハイジン教の似非えせ信者たち」さらに「경호の眷属」と改題してきた)」を書き進めている。主人公は長年日本に住む韓国人だ。読者は「小説らしくない」「難解で読みにくい」という。このまま埋もれるのだろうか。 縦書き文庫「無宗教社会を生きる」はじめにこの小説ならぬ「中説」を僕は死ぬまで書き続けることになるかもしれない。七十二歳で書き始めたから、せいぜいあと十年か二十年だろうが、人生で最も充実じゅうじつすべき期間でもある。晩年とはいわない、それは伝統的な時間軸の捉とらえ方に囚とらわれた見方だから。「無宗教社会」に棲すむ人々はふつうその「無宗教性」を意識することがない。空気のように浸透しているそれに気づかないのだが、ある日ふとその「無宗教性」に気づく人がいる。一度それに気づくと、決けっして忘れようがない。執拗しつように付きまとわれ、それに抗あらがい葛藤かっとうしながら生きなければならないからだ。その葛藤ゆえに社会との関わり方が不自然になり周囲と摩擦を生じるなど何かと不自由なことが多い。その煩わずらわしさに耐えられず自死を図る人も少なくない。在日三世の경호ギョンホ、彼と同棲する韓国人미연ミヨン、경호ギョンホの母親ほかを通じて、彼らが「無宗教社会」で生きる姿と彼らに共通する傾向性などを描こうとした。 この文章は昨年十一月に「実験小説<拝人教の改宗者たち>創作ノート」と題して書き始めました。「実験」という言葉が示すとおり、小説であることに疑問を感じたのです。その後これは小説ではないと思い、中説(小説と批評文の中間に位置する文章)としました。題名も「ハイジン教の改宗者たち」「ハイジン教の似非えせ信者たち」と修正し、さらに「無宗教社会を生きる」に改めました。いまも執筆中です。縦書き文庫のサイトに直接入力して創作するという「実験」性は維持し、執筆過程を読者と共有するスタイルも変わりません。社会や人々の生き方を根底から批評する小説ならぬ「中説」があり得ると考えています。問題は読者がこのような作品を認めてくれるかどうかですが、作者としては書き続けるしかありません。I may continue to write this "chusetsu" which literally means middle statement or opinion, not "shosetsu,"a novel, until the day I die. Since I began writing at the age of seventy-two, it will probably be another ten or twenty years at most, but it is also the most fulfilling time of my life. …
タンゴの魅力: milonguero
MTBより少し前に習いはじめたタンゴから遠ざかって久しい。コロナ禍もあってミロンガ(タンゴ・ダンスパーティ)にも行きにくくなった。そんなとき、パリ在住のタンゴ歴23年という先生のサイト作りを手伝う機会に恵まれた。以下、その一部を紹介したい。 アルゼンチンタンゴというと、一般的にテレビなどマスメディアで紹介されているショータンゴを思い浮かべる人が多いのですが、実際のブエノスアイレス市民の間で昔から現在まで踊られている伝統的なタンゴは、それとはだいぶ趣を異にしています... “Tango Milonguero”の言葉の意味は、Tango(踊り)とMilonguero(踊りの名人、もしくは踊りのスタイル)が合体したもので、いわば「名人の踊り」ともいえます... https://youtu.be/dCqBW9wv3RE
国際戦没者追悼式という提案
1952(昭和27)年から今日まで毎年実施されている全国および各地域の戦没者追悼式の意味を改めて考えてみたい。以前から感じている最大の疑問は追悼対象が日本国籍保持者に限られていることだ。戦時中は日本軍に徴兵され、戦後、日本国籍を剥奪された台湾や朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)の人々は含まれないのだ。 1952年当時、日本はまだ戦後復興期の真っ只中にあり、戦没者の追悼式典が内向きになったのはやむを得ない、と理解することもできる。ただ、戦没者というのは、文字どおり戦争で非業の死を遂げた人々のことである。日本軍が侵略した朝鮮・中国を含むアジア全域と太平洋地域で多くの兵士が死んでいった。沖縄戦や広島・長崎の原爆あるいは東京大空襲による一般市民の犠牲者も戦没者であろう。 忘れてならないのは、これらの兵士や一般市民のなかに日本国籍でない人々がいたことだ。さらに想うべきは、アジア太平洋地域において多くの外国人兵士と一般市民が先の戦争で非業の死を遂げたということだ。こう考えると、戦没者追悼式がいまも国内向けでしかないことは恥ずべきことに思われる。 このような趣旨において、全国戦没者追悼式の対象を日本ならびにアジア太平洋地域において先の戦争の犠牲になった戦没者に拡大することを提案したい。たとえば、式典に在京の関係各国大使等の出席を求め、国際戦没者追悼式とするのである。「積極的平和主義」という耳馴れない用語にも符合する式典となるのではないだろうか。