A platform with no elevator

東京駅で中央線の快速に乗って中野駅で降り、総武線に乗り換えようとしたら、ホームにエレベーターがない。総武線のホームに上がるにもエレベーターがない。 中央線の快速と特快、東西線も乗り入れている中野駅に、なぜエレベーターがないのか。当然あるべきものがない、という騙されたような気がし、怒りを禁じえなかった。 なぜこんなことで怒るのか。その日、僕は車イスに乗った母と一緒だった。エレベーターがないと自力で移動できないのだ。 JRの駅では、ほとんどの自動改札口が車イスが通れない。駅員のいる通行幅の広い改札口で、いちいち駅員がマニュアルでPCを操作して通してもらわなければならない。 彼らはひじょうに親切で、電車の乗り降りに介助が必要かどうか聞いてくる。しかし、一度考えてほしい。この親切は、本当の親切なのだろうか。自分が車イスに乗っているとしたら、僕は他の人たちと同じように自動改札口を人の手を借りないで通りたいと思う。 ▶️車輌とホームの段差と隙間

Shakespeare’s stationary shop

自分の翻訳原稿がはじめて本になる。原語は韓国語で、人文童話というジャンルの本だ。11月末には書店の店頭に並ぶという。翻訳したものの埋もれたままの原稿もあるから、出版されるだけでうれしい。 日本語のタイトルは『シェイクスピアのいる文房具店』。シェイクスピアが現代韓国のどこかで文房具店の店主として登場する。その店によく来る小学校5年生の男の子と親しくなり、その子の悩みごとを聞くようになる。 そして『マクベス』『リア王』『ヴェニスの商人』などのシェイクスピア作品の要約を話して聞かせながら、男の子の偏狭な考え方やものの見方をひろげていく。韓国版の『シェイクスピア物語』("Tales from Shakespeare" by Charles & Mary Lamb)といえるだろう。

雑題: 妄想もてできあがりゆく

晩秋にても、"顔晴(がんばれ)" ♪♪ 妄想もて出来上がりゆく高齢の脳ありて人間の終りたのしも 馬場 あき子 年取れば、しがらみから解放されるなどと勝手に想像しているが、実際はいよいよ妄想と執念のかたまり。さて、皆さんはこれを嘆くか楽しむか。

雑題: 黒葡萄

黒葡萄天の甘露をうらやまず 一茶 古代中国では、天下太平の世に天が降らせる甘い露、これ甘露と呼んだ。 古代インドでは、神々が飲む不死の水をアムリタ(甘露)と言った。 どちらも天上のもの。 その甘露よりも甘く爽やかであるというのだ。この黒々と熟れた葡萄は。 この、豊かな自然の恵みに感謝である。

口汚ない人たち

最近、電車の車内などの公共空間で、周囲に構わず口汚く話す人によく遭遇する。特に大声で話すわけでもなく、誰かを罵しるわけでもないのだが、実に不愉快に聞こえる。 きょうも、座っていた僕の真ん前に二人の若い女性が立ち、職場の同僚や上司の悪口を話していた。否応なく聞かされている僕は、しだいに苛立ちが高じ、いたたまれなくなって、ついに席を立ってし まった。 僕が老いてわがままになったのだろうか。あるいは、周囲に対する配慮など必要ないと考える人が増えているのだろうか。

MTB 練習ルート

御岳以来、毎週末に雨が続き、相棒のHも僕も1ヵ月ぶりのMTB行だった。天気予報は午後から雨だったし、朝から不安な空模様だったが、とにかく出発した。 軽く乗り回すつもりで、日の出町の二ツ塚峠-長淵山-天祖神社-秋川街道のルートを2回往復した。曇り空なので体力的にはすごく楽だった。8月の炎天下が嘘のようだ。 コースは練習用だが、降り続いた雨のせいで至るところに大小さまざまの瓦礫が散乱していて走りにくい。 写真は長年使っている地図。上の方に御岳山、下の方に日の出町が見える。

Bodhisattva

母が僕に教えてくれたなかで最大のものは、人のために行動することの尊さだと思う。仏教的には菩薩界の働きというのだろうか。キリスト教では天使の働きがそれだと、友人は言った。 だが、「人のために」何かするのは、実はさほど簡単なことではない。よく考えると、何が「人のため」になるかを判断する困難があるからだ。相手のためによかれと思って行なったことが、相手のためにならないことが多々あるからだ。 毎週末、母を車イスに乗せていろいろな場所に出かけることにしている。この行為は母のためだと考えているのだが、はたして、母が喜んでいるかどうかはわからない。僕がそうしたいからかもしれない。

Aging

人口動態を見るまでもなく、世の中には老人が目立つようになった。50年前と較べ、まさに隔世の感がある。こういう見方をする僕も老人のひとりだ。 Aging(老化)というと、否定的に捉える人が多い。若いことがいいことで、老いはその対概念とされ、悪いことだとされる。この物差しは普遍的なものでもある。 だが、待てよ。本当にそうだろうか。年令に関する尺度は、本当に数直線のようなものなのだろうか。そうではあるまい。若さとか生命力あふれる状態が基準になっているはずだ。それを仮に生命力度と呼ぶことにしよう。 生命力度はゼロ歳から20歳ぐらいまで上昇するが、その後徐々に下降し、60歳を過ぎると急激に下落すると考えられる。だが、それは決して年令だけによるものではない。

Simon and Garfunkel

70年代初めによく聞いた Simon and Garfunkel を40年以上経て聞いている。パソコンに低音部付きのスピーカーをつないで、隣室の住人を気にしながら、夜中まで繰り返し聞いている。 当時勤めていた神保町の書店から外濠沿いに歩いて帰る道すがら、よく口ずさんだ旋律と歌詞を聞くと、懐かしさを通り越して癒されるような気がする。 ひとりで山道を歩きながらも歌ったが、山の中では韓国のフォークソングのほうが似合うように思う。当時、はやっていた 양희은 の歌をよく歌った。