日韓交流3000万人時代が来る

玄東實ヒョンドンシル さんのインタビュー記事(「公明」2021年4月号より転載) 本名を名乗り自分らしく生きる 聞き手: 韓国社会の熾烈な出世競争下で、日本育ちの在日韓国人としてアシアナ航空の副社長に就任された当時、ニュースで取り上げられるほどでした。どのような努力を重ねてこられたのか興味を覚えます。 玄東實ヒョンドンシル : 「大変な努力をされたのですね」と評価していただくのですが、恐縮しています。優等生では決してなく、勉強はずいぶん苦労しました。ただ、不思議にも人生の節目、節目でチャンスが巡ってきたようには感じています。 聞き手 : 東京生まれと伺いました。 玄: 荒川生まれ、足立育ちです。両親は韓国の済州島出身で、私は在日韓国人二世になります。両親は町工場を経営し、女性靴のヘップサンダルを製造していました。早朝から夜遅くまで懸命に働く親の姿を思い出します。両親はよく韓国語で会話していましたが、頭には入ってきませんでした。 在日韓国人には特有の悩みがあります。一つは名前です。私も日本名(通名)があって高校生まで通名でした。名前は存在証明そのものだと思いますが、当時の日本社会は本名を名乗りづらかった面がありました。友人に隠しごとをしている居心地の悪さがいつもあって、授業で朝鮮や韓国の話題になると後ろ指をさされている気がしたものです。ですから、大学からは自分らしく生きていく決意で本名で通いました。 もう一つの悩みは韓国籍であっても韓国語がわからないことです。私が通っていた慶應義塾大学には外国語学校があり、朝鮮語科がありました。どうにか韓国語がわかるようになりたいと一生懸命に勉強したのですが、やはりわからなかった(笑)。 最も深刻な悩みは大学を出ても就職口がなかった点です。大学卒業は45年前ですが、在日外国人の若者が日本企業に就職するのは難しい時代でした。ですから、縁故を頼りに親の知人の会社に就職したりするのですが、私の場合、家業を継ぐのも難しい状況でした。散々悩んだのですが、大学に現役入学したこともあり、母国語をきちんと身に付けたいとの気持ちから韓国留学を決めソウル大学校社会科学大学院へと進みました。この留学が人生の大きな転換点でした。 修士課程2年生の頃、KAL(大韓航空)に就職した先輩からアルバイトを紹介してもらう機会があり、航空業界へ足を踏み入れるきっかけとなりました。1970年代後半当時、大韓航空は国際線の6割を日本人が利用していました。急増する日本人乗客向けの日本語によるサービス拡充は、大韓航空にとって最重要の課題でした。ところが、韓国で海外旅行が自由化されるのは1989年からです。韓国人が日本の文化や言葉を学ぶ機会は制限されていました。 そこへ日本語に加え韓国語も一応わかるアルバイトが偶然入ってきたということで、予約発券、空港サービスから機内で使用する日本語教科書の作成を手伝いました。半年間のアルバイト後「就職口がないなら残っては」と声をかけてもらい、そのまま大韓航空へ入ったのです。 聞き手: 世界を揺るがす大事件に遭遇されたそうですが。 玄: 冷戦さなかの1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件です。米国発の大韓航空ジャンボ機007便がサハリン沖で領空侵犯を理由に、旧ソ連所属の戦闘機から放たれたミサイルで撃墜された事件です。乗員・乗客合わせ269名の命が奪われた悲惨な出来事でした。 事件翌日、人事部に呼ばれた私は日本語ができることから法務室へ異動になりました。犠牲となった29名の日本に住む日本人家族との訴訟などに当たるためでした。法務室には4年半在籍しました。この間、毎日韓国語による裁判関係の文書と悪戦苦闘しながら書類を作成し、修正を入れられた真っ赤な文字だらけの書類を上司から突き返される日々を過ごしました。 大変な仕事でしたが、こうした経験は韓国語の理解力を飛躍的に高める機会になっただけでなく、韓国社会の実情を日本人的な目線で理解する上で得がたい時間でした。 聞き手: 1988年、韓国航空業界2番目となるアシアナ航空が発足、大韓航空から移籍され、最後は副社長に就任されました。在日韓国人の副社長は珍しかったのでしょうか。 玄: 上場企業の副社長に在日韓国人が就任したのは初めてだと思いますが、これもさまざまな偶然の巡り合わせの結果だと感じます。アシアナ航空移籍後は日本地域マーケティング部長として運輸省(現国土交通省)と韓国政府の間に入って、新規就航への折衝などにも携わりました。 名古屋支店長の時代には、後でも触れますが、公明党の故草川昭三くさかわしょうぞう*(1928-2019)衆院議員(当時)と知り合う機会があり、公私ともに大変お世話になりました。*日経新聞関連記事 コロナ禍以前になりますが、日韓両国の交流人口は1000万人を超えるほどになりました。飛行機が文字通り架け橋となり、両国民を結び付けることができていることは私の大きな誇りです。私の実感としても両国は本質的に相性がとてもよい間柄です。それだけに政治問題をきっかけに関係が悪化している現状は大変に辛い思いです。 “外国”になった韓国 聞き手: ビジネスマンの立場で両国民と接してきたなかで、2000年代ごろから韓国が“本当の意味で外国になった”と感じられているそうですね。 玄: 大韓航空にいた1980年代から両国の政府関係者と接する機会がありましたが、両国の意思疎通は円滑に進んでいました。たとえ、両国間の利害が激しく衝突するような場面でも、粘り強く取り組める信頼関係があったように思います。実際、そのおかげでアシアナ航空は日本各地に就航することもできました。 背景に、韓国側に日本語が話せて理解できる人たちが当時は存在したことが大きかったのではないか、と個人的に感じています。 国家間外交も同じかもしれませんが、交渉事は核心部分に迫るほど微妙なニュアンスをいかに伝えるかで結果が大きく変わってしまいます。 その点で、2000年代以前の韓国社会には日本語を理解できる政府関係者や一般国民が少なくありませんでした。韓国の文化、社会、政治そして韓国人の心情を知り尽くした上で日本語も理解しながら各分野で交渉ができたのだと思います。 韓国語は日本語と同じく、助詞の使い分けが可能な言語です。「ここ“が”間違っているのではないか」と「ここ“は”妥当だ」というような微妙な表現の使い分けを元来共有できる文化的な近さがあります。細かなニュアンスをこれまでの日韓両国は無意識に伝えあっていたのではないでしょうか。 ところが、日本語のわかる世代が2000年代前後から徐々に現役を退くようになってきたわけです。その頃から日本に対する韓国は意思疎通がぎくしゃくする外国になり、韓国にすれば戦前の日本統治時代がついに終わった、ということなのだと私は捉えています。 聞き手: 金大中キムデジュン元大統領(1925-2009)は、日本語の話者として有名でした。元大統領と直接会話を交わされたこともあるそうですね。 玄: 金大中元大統領以降の政権は日本語が話せない世代です。日本語が話せる良し悪しの評価は別として、国家のトップ同士が近い感覚で意思疎通できた環境があった事実は今振り返ると大きな意味があったと思います。 元大統領は完璧な日本語をあやつれただけではなく、両国の将来を見通す知性も一級でした。元大統領は機会あるたびに「植民地時代に関する両国のしこりは自分の世代で最後にしたい」と語っていました。まさに未来志向です。 私が元大統領と直接お会いしたのは沖縄県を訪問されていた2007年2月のことでした。元大統領との面談は偶然でした。お会いした当時、すでに足元がおぼつかない様子でした。しかし、会話の中身は理路整然としており、気が付けば一人で2時間ほどもお話しされていました。初めて直接聞いた元大統領の日本語は、本当にすばらしかったです。 特に印象に残っているのは「2003年ごろから始まった韓流ブームのおかげで日本では韓国人気が高まりました」と私が話したことに対して、「あれは自分の日本文化開放政策から始まったんだ」と返されたことです。元大統領が日本文化の開放を進めたことは有名ですが、数々の反日運動に遭うなか、開放の実現は元大統領の手腕なくして達成できなかったと言われています。元大統領は政治生命を掛けて日韓関係の正常化に取り組んだのです。 元大統領の韓国内での政治的評価は賛否分かれる面もあるのですが、関係の正常化が成し遂げられる点を実証したことは大きいと思います。 歴史問題と金大統領の名演説 聞き手: 注目を浴びる「歴史の清算」問題をどうみていますか。 玄: この点も個人的な見解ですが、韓国の現代史は日本の戦後と同様に複雑な背景があります。国際政治の思惑に翻弄されてきた、ままならなかった歴史と言えるかもしれません。例えば、8月15日は日本では「終戦記念日」ですが、韓国では「光復節」として日本支配からの解放を意味します。 一方、8月15日を「唐突な解放の日」と解説する韓国の識者もいます。私の考え違いかもしれませんが、“唐突な”との表現には、日本の植民地時代における韓国国民の状況を悲観的にだけ捉えていたのではない感情が見え隠れしてはいないでしょうか。 現在もそうですが、韓国では日本との関係が悪化すると、歴史問題がいつも注目されます。ただ、これは、現在の日本に対する評価とは関係のない文脈で語られていることに注意が必要です。多くの韓国国民は本心では、日本ともっと友好を深めたいと望んでいると思います。 では、歴史の清算問題とは何かという話になります。それは具体的な政治問題の解決もあるでしょうが、むしろ韓国の文化や歴史・思想・哲学に対する自信の回復を指しているのではないか、と私には思えます。つまり、戦火で失われた韓国本来の姿を取り戻したいがために、歴史の清算問題を引き合いに出さざるを得ない、高度な政治的事情があるのではないでしょうか。しかし、そのために歴史問題を持ち出すことは、当然、日本人の感情を強く刺激することになります。 韓国社会は見違えるような発展を実現していますが、戦後の韓国経済は確かに大変な苦労をしてきました。韓国で大ヒットした映画『国際市場で逢いましょう』(2014年公開) …

日韓交流三千万人時代が来る: 현동실

日韓交流3000万人は可能 --: 韓国の視点、日本の視点と歴史は見る人の角度で評価が分かれると思います。在日韓国人として両国国民の感情を共有されていると思うのですが、自身の考えを語る難しさを感じるときはありますか。 玄: 歴史を語る際は、共通項を見付ける難しさはあります。しかし、航空業界で日韓をつなぐ仕事に40年以上取り組む中で、自分の考えを発信する上でのもどかしさはありません。むしろ、日本と韓国双方の仲間が力を合わせて実現させたものは数知れません。 先ほど、両国の交流人口は1000万人を超えたと紹介しましたが、その事実自体が日韓の歴史問題は障壁ではないという証左でしょう。日本が嫌いなら、韓国人は旅行に来ないはずです。その逆も同様です。どうして両国を行き来するかと言えば、やはり“楽しいから”に尽きるでしょう。政府の強制で旅行を推奨しているのでなく、韓国人も日本人も自発的に双方を訪問し、お金を使っているのです。これは航空業界に身を置いたからこそ実感できます。 ちなみに、2018年に訪日した韓国人は約754万人で、韓国人口の約15%に相当します。日本で言えば、約2000万人近い観光客が韓国に遊びに来たようなものです。交流が積み重なり、いつしか日韓の交流が3000万人に達する日が来れば、両国は何でも語り合えるような真の友好関係を築ける間柄になると信じています。 コロナ禍で観光交流は停止せざるを得ない状況ですが、交流再開後に向けた手立てを両国政府は知恵を絞るべきです。日韓間は格安航空会社が多く就航したこともあって地方都市からも行き来しやすくなりました。日本と韓国の間に関しては、欧州連合(EU)のように入国審査も廃止するような大胆な観光政策が行われると、3000万人交流も決して夢ではないと思います。 --: 一方、コロナ禍以前から日韓の経済交流は停滞しつつあるようです。 玄: 政府間対話は途絶えた状況かもしれませんが、経済交流は続いています。お互いが協力し合うメリットを、日韓双方の企業人が熟知しているからです。例えば、日韓・韓日経済協会の交流事業はコロナ禍でも切れ目なしで連携を続けています。 私も知って驚いたのですが、日韓の企業が第三国で共同実施している経済プロジェクトは累計で約26兆5000億円に達しています。日韓の文化の近さが、ここでも効果を発揮しているように思えてなりません。 ちなみに、日本経済の精神は韓国企業にも受け継がれ、世界を代表するIT企業へ成長したサムスン・グループも創業当初は日本から刺激を得ていました。サムスン創業者の李(イ)秉喆(ビョンチョル)さんは、毎年末の1ヵ月間を日本で過ごし、日本社会を視察することが慣例でした。日本で見聞きした内容を「東京構想」名付けて事業に生かしたそうです。 政治家像を変えた草川昭三氏との出会い --: 故草川(くさかわ)昭三(しょうぞう)顧問との交流について教えてもらえますか。 玄: アシアナ航空の名古屋支店長時代のころです。1995年の支店移転の記念行事として、衆院議員だった草川さんに駄目元でテープカットをお願いしたのですが、激務の合間を縫って駆け付けてくださいました。 草川さんが在日外国人に対する差別撤廃や、法的地位向上に全力で取り組んでいたことは存じ上げていました。特に、第2次大戦敗戦時にサハリンに残された残留韓国人の帰国支援は有名でした。草川さんは1982年の衆院予算委員会で戦時中、日本人として炭鉱などで労働していた韓(朝鮮)半島出身者らは望郷の念を抱いているにもかかわらず、帰国の手段がないと訴え、鈴木善幸首相から「粘り強く、あらゆる観点から努力する」との答弁を引き出しています。草川さんの行動は、日韓友好の基礎づくりそのものでした。 東京でマーケティング部長をしていた時ですが、大きな障壁にぶつかり、草川さんに相談したことがありました。「日韓の親善友好にプラスになるのか、ならないのか」と草川さんがお聞きになるので、私は「両国民が活発に行き来できるようになることは、日韓の友好親善に必ずつながります」と説明すると、一言だけ「わかった」と。 草川さんの判断基準はいつも決まっていて、社会全体にとってプラスになるのかならないのか、ただそれだけでじた。 今でも申し訳ないのですが、私の無理難題な相談は、草川さんの政治家としての評価につながるような内容ではまったくありませんでした。それでも草川さんは日韓のために動き、実現してくれました。本当に感謝しています。 草川さんは、日本人政治家に対する私のイメージを大きく変えました。そして、草川さんの印象は、そのまま公明党の印象と重なっています。政治家は利害関係で動くのだと思っていましたが、草川さんはまったくそうではありませんでした。 そして、草川さんに特徴的だったのは「チーム草川」とでも言うべき周囲のスタッフが一致団結、異体同心で草川さんを支えていたことです。秘書や党職員が草川さんを信頼して動き、 また草川さんも周囲を信頼し、全員で知恵を絞っていることがよくわかりました。それだけに、アドバイスの中身も重層的で深みがありました。また、各省庁の官僚からも、草川さんは信頼できる政治家だという雰囲気がよく伝わってきました。 まさに、公明党が掲げる中道政治の役割を体現するような方でした。草川さんに続く政治家が現れることを、心から望みたいですね。 --: 日韓関係は困難な状況下に置かれていますが、公明党にどのような役割を期待しますか。 玄: 韓国側の政治家の視点から捉えても、与党である公明党が日本の政治の動揺を抑えてくれている安心感はあると思います。公明党には、平和の党として今こそ日韓友好の道を切り開いてほしいと願っています。確かに、日韓関係は大きく冷え込んでいると言えますが、きっかけさえあれば扉は再び開くと信じています。草川さんも道なき道を切り開く信念の政治家でした。公明党も同じでしょう。 世界をみても、日本ほど政治が安定している民主主義国家は少ないと思います。日韓両国が手を携えて、東アジアの安定に貢献してくれることを心から望んでいます。

玄東實さんが語る(2) 金大中大統領

玄東實さんが語る(1)よりつづく 歴史問題と金大統領の名演説 --: 注目を浴びる「歴史の清算」問題をどうみていますか。 玄: この点も個人的な見解ですが、韓国の現代史は日本の戦後と同様に複雑な背景があります。国際政治の思惑に翻弄されてきた、ままならなかった歴史と言えるかもしれません。例えば、8月15日は日本では「終戦記念日」ですが、韓国では「光復節」として日本支配からの解放を意味します。 一方、8月15日を「唐突な解放の日」と解説する韓国の識者もいます。私の考え違いかもしれませんが、“唐突な”との表現には、日本の植民地時代における韓国国民の状況を悲観的にだけ捉えていたのではない感情が見え隠れしてはいないでしょうか。 現在もそうですが、韓国では日本との関係が悪化すると、歴史問題がいつも注目されます。ただ、これは、現在の日本に対する評価とは関係のない文脈で語られていることに注意が必要です。多くの韓国国民は本心では、日本ともっと友好を深めたいと望んでいると思います。 では、歴史の清算問題とは何かという話になります。それは具体的な政治問題の解決もあるでしょうが、むしろ韓国の文化や歴史・思想・哲学に対する自信の回復を指しているのではないか、と私には思えます。つまり、戦火で失われた韓国本来の姿を取り戻したいがために、歴史の清算問題を引き合いに出さざるを得ない、高度な政治的事情があるのではないでしょうか。しかし、そのために歴史問題を持ち出すことは、当然、日本人の感情を強く刺激することになります。 韓国社会は見違えるような発展を実現していますが、戦後の韓国経済は確かに大変な苦労をしてきました。韓国で大ヒットした映画『国際市場で逢いましょう』(2014年公開) を観ていただきたいと思います。韓国が歴史の清算にこだわる背景の一部を感じ取ってもらえるのではないでしょうか。 これらに関して、金大中・元大統領は、日本の大衆文化開放の歴史的意味に触れ、「1500年以上の日韓交流の歴史の中で豊臣秀吉による軍事侵攻(文禄・慶長の役)と戦前の植民地時代を含めても不幸の歴史は40年程度。そのことをもってして、両国の長い友好の歴史を全否定してよいのか」との趣旨の国会演説をしています(1998年10月8日金大中大統領日本国会演説文)。寛容の精神に富む誇り高い内容だと今もって感じます。(以下、同演説文の原稿を参照ください) 日韓両国は現在の状況をもっと肯定的に捉えるべきだと思います。確かに、「親日親韓」の関係はベストなのかもしれませんが、最小限の範囲でもお互いを理解し尊重しようと努力する「知日知韓」の関係を再スタートさせればよいと思います。両国には目に見えない深い絆が既にありますから、次代を担う青年世代においては理解を深め合う作業は難しいことではないでしょう。 국제시장(영화) - 나무위키 -

個人情報の保護とは

いったい、スマホを多用する現代人に個人情報はあるのだろうか。<サイバー社会>では個人情報が保護されにくい、そもそも保護されない状況があるのではないか。 本日付け朝日新聞の一面トップに掲載された記事<LINE個人情報不備: 中国委託先で閲覧可に>を読んで考えた。2020年6月に改正された個人情報保護法は2年以内に施行というが、記事が指摘する問題は18年8月から発生しているという。 中国というと個人情報どころか人権が保護されない国家と考える一方、自分たちの属する国は欧米と同じようにそれらのものが保護されていると考える人が多いと思う。だが、本当にそうなのだろうか。自分の職場や個人として個人情報をどれだけ意識し保護しているか、少なからず疑問に思うことがある。

70歳で法律を学ぶ

2019年の7月から行政書士試験専門の塾でにわか勉強して受験した。数年前から勤めていた会社で資金移動業の登録申請業務に関わったのがきっかけだ。法律知識の不足を痛感し、70歳を前に自分がそれまで避けてきたことをやろうと考えた。翌年も同じ塾に通い本格的に勉強するつもりが、コロナ禍の影響もあり継続する意欲を見失ったまま受験し、不合格となった。 2021年、自分に合った講師を求めてT法律研究所の再受験生向け講座を受講することにしたが、2ヵ月目に入るころから、前年と同じスランプに陥った。一人の自分が問う、「いまさら法律の勉強をして何になるのだ」と。もう一人の自分が応じる、学ぶことと年齢は関係がない。小学生も70歳を過ぎた老人も学ぶ行為に関しては共通だと考えたのだが... 法律脳と文学脳はよく似た面がある。法律の条文が無味乾燥だとか、判例は屁理屈が多いとかいうが、そうでもないようだ。小説も法律も現実を観察するための虚構性を持っている。判例集を短編小説集として読むこともできるのだ。もう法律がつまらないからといって小説に逃避する必要などない、判例集は結構おもしろい読み物なのだ。 僕らは数直線の上をゼロ歳から死に至るまで前進する点ではない。数直線上の位置ではなく、実体のある点として存在し輝いている。このことは若い人のほうがよくわかっているのではないか。彼らが傍若無人でいられるのはそのためかもしれない。

民法の基本判例集を読む

T法律研究所の講座を受講して1ヵ月半が過ぎ、前年と同じスランプに陥った。去年はコロナ禍に伴う<緊急事態宣言>という言い訳もあったが、ことしも同じ宣言下にあるとはいえ、流されるわけにはいかない。そう考えると、かえってあせりも生じがちだが、一方で二度と試験に失敗したくないという思いも強い。 そこで思いついたスランプ脱出法が、何と判例集を短編小説として読むことである。読書しているあいだは判例の論旨に乗っていればいいし、赤鉛筆で線を引きながら読んでいくと、しだいに論旨が見えてきておもしろい。これでスランプを乗り切れるような気がするが、はたしてうまくいくかどうか。

本末転倒

サイトのタイトルをまた変更した。少し前に<いつか名もない魚になる>から<Fictions and Essays>に変えたばかりなのに、改めて<Writing and Reviewing>に変えた。執筆と校閲(見直し)ぐらいの意味である。具体的には、小説の執筆から法律の学習へ大きくシフトするという宣言のようなものだ。 続いて、執筆と見直し、主観と客観、主客転倒、主役と脇役、最後にシテとワキ、転じて<ワキ(脇)とシテ(仕手)>、さらに ローマ字表記で Shite to Waki にした。シテとワキは主役と脇役すなわち主従関係とは異なるものだろう。ワキがあってシテがある、シテがなければワキがない一体不二の関係にあると考える。 ドンキホーテとサンチョパンサの画像とよく似合う。タイトルではなく内容が大事なことはわかっている、本末転倒の最たるものだということもわかっている。また、歯車が嚙み合わない。いつもの分厚い壁を感じる。

266 한일학생 대화: ‘혐한’과 ‘반일’을 어떻게 보고 있는가

3월11일, 동일본에서 대형 지진과 해일, 원전 참사가 난 지 꼭 10년이 되는 날이다. 일본의 모든 신문과 방송에서는 몇 일 전부터 아직도 계속되고 있는 참사의 후유증을 크게 보도하고 있는 중이다. 당시 참사가 일본사회에 얼마나 큰 충격을 줬는지 매스컴의 보도만 보아도 충분히 짐작할 수 있다. 이날 오후 시가현 오쓰시 시가현 공관에서<'혐한'과 '반일'을 학생들은 어떻게 보고 있는가>를 주제로 …

265 봄 고시엔(甲子園) 출전권을 따낸 교토국제고교 야구팀

외국계 학교로서는 처음으로 봄 고시엔(센바츠) 출전권을 따낸 교토국제고교 야구팀이 3월23일 미야기현의 시바타고교와 첫 경기를 치른다. 시바타고교도 교토국제고와 마찬가지로, 올해 93회를 맞는 센바츠에 첫 출전이다. 첫 출전 학교끼리의 대결이기 때문에 첫 승리에 대한 기대도, 경험이 있는 학교와의 대전보다는 커지고 있다. 교토국제고교 야구팀의 센바츠 출정식(일본식으로는 장행회)이 10일 오후 이 학교 강당에서 열렸다. 40명의 야구부원들 외에 학교 관계자, …

大坪洋一の全作品が問う

<韓国併合とは何だったのか: いま、大坪洋一の全作品が問う>というサイトがあります。まだ未完成ですが、予告として紹介させていただきます。 1970年代前半ソウルに旅行したときの衝撃をきっかけに<韓国併合期>前後に関心を抱いた大坪洋一はその後30年余り関連書を渉猟します。その間に培った歴史的な直感や感性を想像力で広げ、社会科学ではない小説という形式を使って問い続けます。精力的に執筆する姿は鬼気迫るものさえ感じさせます。なぜ大坪は<韓国併合期>にこだわるのか、彼の全作品がそれに応えます。

玄東實さんが語る(1) 日韓のあいだ

玄東實(ヒョンドンシル) アシアナ航空元副社長に聞く【「公明」2021年4月号掲載記事より】 信頼関係を深めて開く日韓友好の扉“知日知韓”で互いの違いと良さを理解し、3000万人の交流人口めざす 言論NPOと韓国の東アジア研究院(EAI)が2020年10月に発表した第7回日韓共同世論調査によると、韓国国民の71.6%が日本の印象は「良くない」と答えた。日本国民の韓国に対する印象も悪化した。外交樹立から56年、日韓関係はかつてなく両国関係は悪いと評されるも、在日韓国人二世として初めて韓国上場企業の副社長を務めた玄東實氏には「日韓はむしろ真の友好関係を築ける時代に向かっている」と語る。真意を尋ねた。 本名を名乗り自分らしく生きる --: 韓国社会の熾烈な出世競争下で、日本育ちの在日韓国人としてアシアナ航空の副社長に就任された当時、ニュースで取り上げられるほどでした。どのような努力を重ねてこられたのか興味を覚えます。 玄: 「大変な努力をされたのですね」と評価していただくのですが、恐縮しています。優等生では決してなく、勉強はずいぶん苦労しました。ただ、不思議にも人生の節目、節目でチャンスが巡ってきたようには感じています。 --: 東京生まれと伺いました。 玄: 荒川生まれ、足立育ちです。両親は韓国の済州島出身で、私は在日韓国人二世になります。両親は町工場を経営し、女性靴のヘップサンダルを製造していました。早朝から夜遅くまで懸命に働く親の姿を思い出します。両親はよく韓国語で会話していましたが、頭には入ってきませんでした。 在日韓国人には特有の悩みがあります。一つは名前です。私も日本名(通名)があって高校生まで通名でした。名前は存在証明そのものだと思いますが、当時の日本社会は本名を名乗りづらかった面がありました。友人に隠しごとをしている居心地の悪さがいつもあって、授業で朝鮮や韓国の話題になると後ろ指をさされている気がしたものです。ですから、大学からは自分らしく生きていく決意で本名で通いました。 もう一つの悩みは韓国籍であっても韓国語がわからないことです。私が通っていた慶應義塾大学には外国語学校があり、朝鮮語科がありました。どうにか韓国語がわかるようになりたいと一生懸命に勉強したのですが、やはりわからなかった(笑)。 最も深刻な悩みは大学を出ても就職口がなかった点です。大学卒業は45年前ですが、在日外国人の若者が日本企業に就職するのは難しい時代でした。ですから、縁故を頼りに親の知人の会社に就職したりするのですが、私の場合、家業を継ぐのも難しい状況でした。散々悩んだのですが、大学に現役入学したこともあり、母国語をきちんと身に付けたいとの気持ちから韓国留学を決めソウル大学校社会科学大学院へと進みました。この留学が人生の大きな転換点でした。 修士課程2年生の頃、KAL(大韓航空)に就職した先輩からアルバイトを紹介してもらう機会があり、航空業界へ足を踏み入れるきっかけとなりました。1970年代後半当時、大韓航空は国際線の6割を日本人が利用していました。急増する日本人乗客向けの日本語によるサービス拡充は、大韓航空にとって最重要の課題でした。ところが、韓国で海外旅行が自由化されるのは1989年からです。韓国人が日本の文化や言葉を学ぶ機会は制限されていました。 そこへ日本語に加え韓国語も一応わかるアルバイトが偶然入ってきたということで、予約発券、空港サービスから機内で使用する日本語教科書の作成を手伝いました。半年間のアルバイト後「就職口がないなら残っては」と声をかけてもらい、そのまま大韓航空へ入ったのです。 --: 世界を揺るがす大事件に遭遇されたそうですが。 玄: 冷戦さなかの1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件です。米国発の大韓航空ジャンボ機007便がサハリン沖で領空侵犯を理由に、旧ソ連所属の戦闘機から放たれたミサイルで撃墜された事件です。乗員・乗客合わせ269名の命が奪われた悲惨な出来事でした。 事件翌日、人事部に呼ばれた私は日本語ができることから法務室へ異動になりました。犠牲となった29名の日本に住む日本人家族との訴訟などに当たるためでした。法務室には4年半在籍しました。この間、毎日韓国語による裁判関係の文書と悪戦苦闘しながら書類を作成し、修正を入れられた真っ赤な文字だらけの書類を上司から突き返される日々を過ごしました。 大変な仕事でしたが、こうした経験は韓国語の理解力を飛躍的に高める機会になっただけでなく、韓国社会の実情を日本人的な目線で理解する上で得がたい時間でした。 --: 1988年、韓国航空業界2番目となるアシアナ航空が発足、大韓航空から移籍され、最後は副社長に就任されました。在日韓国人の副社長は珍しかったのでしょうか。 玄: 上場企業の副社長に在日韓国人が就任したのは初めてだと思いますが、これもさまざまな偶然の巡り合わせの結果だと感じます。アシアナ航空移籍後は日本地域マーケティング部長として運輸省(現国土交通省)と韓国政府の間に入って、新規就航への折衝などにも携わりました。 名古屋支店長の時代には、後でも触れますが、公明党の故草川昭三(くさかわしょうぞう)*(1928-2019)衆院議員(当時)と知り合う機会があり、公私ともに大変お世話になりました。*日経新聞関連記事 コロナ禍以前になりますが、日韓両国の交流人口は1000万人を超えるほどになりました。飛行機が文字通り架け橋となり、両国民を結び付けることができていることは私の大きな誇りです。私の実感としても両国は本質的に相性がとてもよい間柄です。それだけに政治問題をきっかけに関係が悪化している現状は大変に辛い思いです。 “外国”になった韓国 --: ビジネスマンの立場で両国民と接してきたなかで、2000年代ごろから韓国が“本当の意味で外国になった”と感じられているそうですね。 玄: 大韓航空にいた1980年代から両国の政府関係者と接する機会がありましたが、両国の意思疎通は円滑に進んでいました。たとえ、両国間の利害が激しく衝突するような場面でも、粘り強く取り組める信頼関係があったように思います。実際、そのおかげでアシアナ航空は日本各地に就航することもできました。 背景に、韓国側に日本語が話せて理解できる人たちが当時は存在したことが大きかったのではないか、と個人的に感じています。 国家間外交も同じかもしれませんが、交渉事は核心部分に迫るほど微妙なニュアンスをいかに伝えるかで結果が大きく変わってしまいます。 その点で、2000年代以前の韓国社会には日本語を理解できる政府関係者や一般国民が少なくありませんでした。韓国の文化、社会、政治そして韓国人の心情を知り尽くした上で日本語も理解しながら各分野で交渉ができたのだと思います。 韓国語は日本語と同じく、助詞の使い分けが可能な言語です。「ここ“が”間違っているのではないか」と「ここ“は”妥当だ」というような微妙な表現の使い分けを元来共有できる文化的な近さがあります。細かなニュアンスをこれまでの日韓両国は無意識に伝えあっていたのではないでしょうか。 ところが、日本語のわかる世代が2000年代前後から徐々に現役を退くようになってきたわけです。その頃から日本に対する韓国は意思疎通がぎくしゃくする外国になり、韓国にすれば戦前の日本統治時代がついに終わった、ということなのだと私は捉えています。 --: 金大中(キムデジュン)元大統領(1925-2009)は、日本語の話者として有名でした。元大統領と直接会話を交わされたこともあるそうですね。 玄: 金大中元大統領以降の政権は日本語が話せない世代です。日本語が話せる良し悪しの評価は別として、国家のトップ同士が近い感覚で意思疎通できた環境があった事実は今振り返ると大きな意味があったと思います。 元大統領は完璧な日本語をあやつれただけではなく、両国の将来を見通す知性も一級でした。元大統領は機会あるたびに「植民地時代に関する両国のしこりは自分の世代で最後にしたい」と語っていました。まさに未来志向です。 私が元大統領と直接お会いしたのは沖縄県を訪問されていた2007年2月のことでした。元大統領との面談は偶然でした。お会いした当時、すでに足元がおぼつかない様子でした。しかし、会話の中身は理路整然としており、気が付けば一人で2時間ほどもお話しされていました。初めて直接聞いた元大統領の日本語は、本当にすばらしかったです。 特に印象に残っているのは「2003年ごろから始まった韓流ブームのおかげで日本では韓国人気が高まりました」と私が話したことに対して、「あれは自分の日本文化開放政策から始まったんだ」と返されたことです。元大統領が日本文化の開放を進めたことは有名ですが、数々の反日運動に遭うなか、開放の実現は元大統領の手腕なくして達成できなかったと言われています。元大統領は政治生命を掛けて日韓関係の正常化に取り組んだのです。 元大統領の韓国内での政治的評価は賛否分かれる面もあるのですが、関係の正常化が成し遂げられる点を実証したことは大きいと思います。 玄東實さんが語る(2)へつづく

fictions and essays

日本語では「虚構と小論」ぐらいの意味を考えています。Fictionsはふつう小説やフィクションという日本語を当てますが、原意は虚構です。そういえば、僕はずっと虚業に関わってきました。Essaysは随筆やエッセイを当てますが、評論や小論(文)の意味でも使われます。 このサイトでは、fictions <虚構>と essays <小論>の意味で使うことを基本にしながら、独自の意味を付加したいと考えています。基本の意味に変更を加えたときは、このページに随時書き足すつもりです。

バロック音楽を聴く

朝早く起きて、NHK-FMのバロック音楽を聴いている。1960年代末に高校3年から再受験生だったころ毎朝聴いた番組だ。解説は吉田秀和さん(1946-2012)だったと思う。あのころの自分はもういないはずだが、僕の記憶のなかに生きているのではないか。当時、毎朝2時間ほどかけて自宅から石神井公園まで往復するのを日課にしていた。

トップページに本文の冒頭

トップページの画像の上に、以下のとおり、本文冒頭の文章を透(す)かしで入れた(下の写真: スマホ画面より)。 電車の発車を知らせる電子音が、駅のホームの上方からけたたましい音量で鳴り響く。ホームには出入口が二ヵ所あり、階段とエスカレータで上の階と下の階に通じている。それぞれを駆けおり駆けあがる人々の群れが電子音にせき立てられ、停車中の電車に向かって疾走する。体の半分ぐらいあるカバンを背負った少年、巨大な楽器を抱えた男、乳房を揺らす女、子どもの手を引く母親、引かれて悲鳴をあげる子ども、息が切れそうな人、蒼白い顔の勤め人など、みな一斉に発車直前の電車に殺到する。[第1部冒頭より] 北斎先生に申しわけなく思いつつ...

執着からくる過信

候補作には当然入らなければならない。この根拠のない過信ないし執着を支えているのは、恐らく自作に対する愛着であろう。同世代の友人や知人の何人かは好意的に評価してくれたが、そんな彼らも結局は審査員しだいだろう、といった。そのとおりに違いないが、新人賞はともかく候補作には入らなければならない、そう考えてきた。それが肥大して根拠のない確信になったのだ。中間発表に入らなかったとき、どう処理したものか悩ましい。 凭也がンヴィニ教に敵愾心を抱いたように、記録係もその社会や人々に対してドンキホーテに似た敵対心を抱いている。そういう彼らが社会関係のなかでバランスを保って生きようとして、しだいに認知症になっていく。そんな彼らがいとおしい、たまらなくいとおしいのだ。この愛着が僕を過信に追い込んでいるのだろう。

記憶の断片集としての小説

小説のテーマはひとことで言えば、老いであり認知症である。そもそも老いとは何か、認知症患者の生とは何か。それらをどう捉えるか、両親をみながらずっと考えてきたが、いまだによくわからない。だから、この小説は一つの仮説にもとづいて書かれた実験的な試みともいえる。 サイトのタイトル下に載せたとおり、<他界して魚になってしまう主人公が「ンヴィーニ」と呼ばれる人々とともに人間界にいたころの記憶をたどり「無宗教派」の信仰の形について語>った内容を時系列に整理した小説である。時期は第1部が1980年ごろ、第2部が1990年ごろ、第3部は2030年ごろで、全体として50年に及んでいる。ただし、記録は三つの時期だけに集中し、それらの前後にある空白の期間についてはまったく書いていない。認知症における記憶の断片化を意図したつもりだが、成功しているかどうか。

264 삼일절 102주년 기념 민단 오사카본부 기념행사

3월1일부터 오사카를 포함한 6개 현의 코로나 긴급사태선언이 해제되었다. 긴급사태선언이 아직 발령 중인 곳은 도쿄도, 가나가와현, 치바현, 사이타마현 등 수도권 4곳뿐이다. 이날 오사카 날씨는 최고기온이 20도가 될 정도로 따듯했고 맑았다. 그러나 긴급사태선언 해제의 분위기는 느끼기 어려웠다. 선언이 해제되었지만 음식점 영업 제한시간이 오후 8시에서 9시로 한 시간 늘어난 것 말고는 이전과 크게 달라진 것이 없는 것과도 무관하지 …

「文學界」新人賞の中間発表

「文學界」新人賞の中間発表を待つあいだ、気持ちの揺らぎを記録しながら、いまが一番充実しているかもしれない、と思うことがある。死に至ればなす術(すべ)もないだろうから、余命があると考えているときこそ最もいい時期ではないか、と考えたのだが、どこか腑(ふ)に落ちない。 応募作をめぐってあーだこうだと文章を書けるのだから、この作品には何がしかの意味があるのではないか、とにかく応募したことには意味があった、そう考えることにする。 新人賞の中間発表があり数十名の予選通過者が掲載された、この審査方法にどこか納得できない。選外の者にそんなことを言う資格などないのだろうが。

主人公の凭也(ヒョーヤ)

「いつか名もない魚になる」の主人公、凭也(ヒョーヤ)。漢字「凭」の訓読みは<もた(れる)>だから、「もたれる也(なり)」「もたれる人」を意味する。人界を去って魚になった彼の人生はいったい何だったのか、彼を引きつけた女性や老人たちはどういう人々だったのだろうか。

Past 50 years

時期記憶しているか確かめられること1971-72年信山社(神保町・岩波書店専門の本屋)に就職; 岩波文庫のモデルになったドイツ Reclam Verlag の書籍を輸入する業務・在庫管理を担当し、多くの時間を倉庫で過ごす; 朝鮮高校を卒業した女性(少年の父が採用に関与)から約2ヵ月朝鮮語を習う; 教材は朝鮮高校の教科書だった; [<韓国語>という言葉はまだ一般的でない]1973-77年大韓航空東京支店(丸ノ内)の日本地域本部(航空局申請業務)に転職、初め2ヵ月ほど毎朝1時間前に出勤、韓国語の発音を治そうと努めた、韓国人の上司から平壌放送なまりの抑揚を指摘されたからだ(当時はスパイと言われるに等しかった); 同年12月に初めて서울・済州島に出張、年に1度は서울に行った。このころ登山を始める; 初登山は75年冬(?) 三峰口-雲取山(山荘泊)-七ツ石-水根; 無三庵むぞうあんにて篠田先生ご夫妻と出会う。1977-80年国際開発(麹町、フィリピン・スペインほか外国不定期航空会社の総代理店、航空局申請業務)に転職; 79年10月に長年付き合った女性と結婚; 日米会話学院(四ツ谷)通訳コース基礎科に4ヵ月在籍; 77-96年、韓国関連の仕事から遠ざかった20年の間、韓日翻訳に関わりながら次のステップを模索した。1980-83年サイマル・インターナショナル(溜池、国際会議の事務局業務)に転職; 81年に離婚; 82年の歴史教科書問題を受け韓国の中学校「国史」翻訳グループで完訳; 「ミンカブァン自伝」の翻訳に着手; 83年に退職し近所の中高生に英語を教える; 知人の事務所(浅草橋)でバイト; 韓国文化院発行「韓国文化」特集の翻訳(制作会社、翻訳料不払い)1984-93年ジャパンエコー社にバイトを経て就職、Tsukuba Expo ’85(海外プレスセンターの運営)/Tokyo summit ’86/Tokyo summit ’93 プレス資料の編集制作; 85年に再婚; NHK Radio Japan 韓国語放送のモニター(86-87); 外務省に出向し、在トロント日本総領事館広報センターに配属(87-89); Osaka Expo ’90 に出向(89-90); 放送大学教養学部に在籍(85-93 卒論: 自治体広報資料の多言語化)1993-96年US-Japan Foundation(本部: 米国ニューヨーク州ニューヨーク市)東京事務所に転職、日米間の政策研究・教育交流プログラムほか支援業務; 青山学院大学大学院国際政治学修士課程(93-95 修論: 19世紀後半の国際化論議と内地雑居論)1997-2010年国際文化フォーラムにバイトを経て就職; 최정순と出会う; 日本の高等学校における韓国朝鮮語教育調査(99 韓国語併記)の結果をふまえ、韓国文化院の支援を得て教員ネットワーク組織を結成(99)天理大学・神田外語大学に働きかけ韓国語・朝鮮語の教員免許取得のための講習を開講(第1期:01-03 第2期:06-08)、第1期講習をふまえて大学における実態調査の必要を感じ日本の大学等における韓国朝鮮語教育の実態調査を実施(02-05 韓国語版を合冊、韓国大使館教育部ほか支援)、クムホ・アシアナ杯高校生大会の運営(08-20 アシアナ航空支援)、ハンガンネット[韓国語講師・教室ネットワーク]のサイト運営(09-20); 上海人女性から約2ヵ月上海語を習う(09)2011-20年アスク(10-11 韓国語関連書籍の編集); ニッポンドットコム財団(11-12 翻訳チェック校閲); アシアナ・スタッフ・サービス(13-15 アカデミー・サイト運営); 篠田先生ご夫妻逝く(14);『대한제국의 …