1970年前後から韓国•朝鮮と関わってきた、そんな自負心がどこかにある。たとえ、それが限られた分野のごく一部の期間に過ぎなかったとしても、僕なりのやり方で韓国•朝鮮と関わってきたという自尊の気持ちを持っている。 韓国•朝鮮に惹かれるようになったのは一浪して大学に入った69年ごろだったろう。70年の一時期普通語を少し嚙ってやめた。73-77年、韓国の航空会社に勤めながら韓国語を学んだことが、その後の僕の進路を決定づけたと思う。 とはいえ、継続して韓国•朝鮮に関わって来たわけではない。77年後半から97年までの約20年のあいだ、85年秋と86年に韓国を訪れただけだったと思う。前者は新婚旅行で、後者は 민갑완 "백년한" の資料を入手するためだった。 この20年のあいだも韓国•朝鮮の方を向いていたと思う。81年の歴史教科書問題のときは、韓国の歴史教科書を1年余りかけてグループで翻訳した。ワープロもPCも普及していない時代、資料を集め筆記して手書きで翻訳するのはたいへんだった。月1回の会場確保も煩わしかった。そんな時代があった。 翻訳原稿はいまも大事に保存しているが、日の目を見なかった。グループの発起人として申しわけなく思う。カブァン自伝の日本語翻訳にそのようなことがあってはならない。電子書籍であれ印刷書籍であれ出版しなければならない。没後50年までに出版しなければならない。 [韓国併合の翌年に大阪で制作された地図]
the national anthem
日本の国歌「君が代」は明治以降、そして太平洋戦争の前後を通じて一貫している。戦前と戦後に截然たる区切りを設けるべきだと考える人びとはこの一貫性を嫌い、戦後日本の国歌として認めようとしない。 それで、戦後70年を迎えようとする現在も卒業式やオリンピックなどの国歌斉唱のときに自国の国歌を歌わない人が少なからずいる。また、例えば丸谷才一氏のように「裏声で歌へ君が代」と主張する人士もいる。 日本は戦後新たな平和国家として再出発するに際し何らかの形で歴史的な切断を設けるべきだった、と僕は考えている。戦後日本が国内外に対して戦前とのあいだに断絶を示す機会を失ったがゆえに、日本は歴史的な反省をしない国家として負の歴史を背負うことになったとも考える。かつて日本の版図に含まれた地域の人びとを「切り捨てた」ことも誠実さを欠く対応だったと言わざるを得ない。 一方、戦後70年を目前にしながら、未だに国歌を歌えない人びとがいることは嘆かわしい、としなければならない。僕らのあとの世代には国歌を堂々と歌えるようにしてあげたいし、そうしなければならないのではなかろうか。 だからといって「君が代」を廃止して別の国歌を制定するという主張に単純に与することもできない。問題は国歌そのものではなく、戦前と戦後をどう区切り截断するかにあるからだ。ではどうすればよいのだろうか。戦後日本を肯定しつつ「君が代」に別の意味を付与するしかないと、僕は考えている。 「君が代」を聞くとき、また歌うとき、聴きながらそして歌いながら歴史を振り返り、国際的な視野に立って歴史を反省する歌として接するのだ。同じ国歌を歌いながら天皇家の悠久さを讃え自国の歴史を礼讃する人びとも少なからずいる。それを承知のうえで自らは歴史的な反省を行うものとして歌うのだ。 「君が代」の歌詞の内容を批判的に読む作業だと考えてもよい。
ハグ
5年ほど前に僕が韓国語を教えていた女性に再会した。待ち合わせた駅前の広場で会った途端、どちらからともなく声を発してハグをした。 恋愛関係にあったわけではないが、予想以上に懐かしい人だった。ハグをしたことで、それがよくわかった。双方の飾らない性格と彼女の朗らかさがハグを可能にしたと思う。 ハグという行為が日常的に習慣化している地域の人びとからすると滑稽でしかないだろうが、それが当然でない地域の者にとっては特別なことだから、文章で説明して自分を納得させる必要がある。 20歳代の初め、当時付き合っていた女性と駅のプラットホームで抱き合ったことがある。そのときのぎこちなさを覚えている。あれは演技だったのかもしれない。今回は自然に感じられた。 仕事でカナダに2年いたことが影響しているのだろうか、ある程度親しみを感じる女性しばらくぶりに会うとハグすることがある。彼女は英国に留学していたと記憶しているが定かではない。
MTBの魅力01
数ヵ月かけて選んだMTB(マウンテンバイク)を6月末に購入し、ほぼ週末ごとに友人と一緒に東京周辺の丘陵や低山を回っている。思えば、20歳代後半から30歳にかけてよく歩いた地域だ。 30歳代前半には友人に誘われて登山に熱中した。毎春、上高地の涸沢にテントを張り前穂高や槍に登った。厳冬期の赤岳も経験させてもらった。 64歳半ばで始めたMTBがいま楽しくて堪らない。そこで、ふと考えた。MTBの魅力って何だろう。 子どものころから自転車が好きで、30歳代はランドナーやロードレーサーに乗った。40歳代前半は中型スクーターに乗り、事故に遭って止めた。その後またロードに乗っていた。 年初から小径車を捜していたところ、前年にMTBに乗り始めた友人Hに勧められ、彼の門下生となった。Hは中学時代の同級生で自転車の専門家だ。1年半余り北米とヨーロッパを回ったことがあるし、僕にとっては大先輩だ。 MTBの最大の魅力は少年時代に戻れることではないだろうか。 バイクを押しながら山道を登り、樹の根を縫うようにして山道を下る。低山や丘陵といえども年配の身には辛い起伏にへとへとになる。体のどこかに傷ができる。それが楽しいのだから不思議だ。
Stūpa 率堵婆 솔도파 そとば
週末に義母の法事があり、卒塔婆について検索してみた。 ➡️Wikipedia: Stupa ストゥーパのこと。仏舎利を安置し、供養などするための建造物。→仏塔 ストゥーパを模して作られた木の板で、日本の仏教で故人を供養するために墓地で用いられるもの。→板塔婆 ➡️Naver日本語辞書: [불교]솔도파(率堵婆). 불사리(佛舍利)를 안치하는 탑. 죽은 사람의 공양·추선(追善)을 위하여 범자(梵字)나 경문 ️ ➡️표준국어대사전: 솔도파(率堵婆/窣堵婆) 명사、불교‘스투파’의 음역어. (名詞、仏教用語、스투파の音訳とあり明快だ) 스투파(stūpa) 명사、불교 =탑02(塔)「2」. ➡️Oxford dictionaries quick search: Pronunciation: /ˈstuːpə/ [noun] A dome-shaped building erected as a Buddhist shrine. stupa: origin from Sanskrit stūpa 仏教伝来の経路を考えると、Sanskrit stūpa [stuːpə]→漢訳仏教語→韓国語 솔도파(率[窣]堵婆) →卒塔婆[そとば]と変遷したと考えるべきなのだろう。
御嶽山の噴火
1ヵ月前に登った木曾御嶽が噴火したという。やはり御嶽山は活きているのだ。写真は王滝奥の院からみた光景。下山途中に立ち寄ったが、岩肌だけのまさに地獄谷だった。細い水蒸気が音を立てて噴き出していた(2014/08/23) 今回の噴火で40人近い人びとが亡くなった。僕らが爆発に遭遇する可能性がまったくなかったわけではない。そう考えると、そら恐ろしい。 2014/08/24: 御嶽山のふもと、黒沢と王滝に合わせて3万以上の霊神場がある。その一角に岳父のそれがある。ここに彼の霊があると思われている。墓所は別の寺にあるようだが、僕は霊神場がいい。 年齢のせいか、最近ときどき墓所について考える。 一般的な墓石の置かれた墓地は窮屈で厭だし、20歳代から散骨を考えていた。はじめは、好きな奥多摩山塊のふもと、多摩川の上流あたりを想定していたが、しだいに拘りがなくなった。いまは海がいい、館山沖の外海がいいと考えている。 4/10/01: 噴火から4日、被災の深刻さが日が経つにつれて伝わってくる。死亡した人の多くが噴石に当たって死んだらしい。1ヵ月前に娘と二人で奥の院から地獄谷を経て見た細い噴煙。その勢いと蒸気が噴き出す音の凄まじさに驚いていたのが、ついきのうのことのようだ。 2014/10/02: 剣が峰から八丁ダルミ、9合目から山頂あたりで亡くなった登山者の数が50人に迫りつつある。1ヵ月前に噴火が起こっていたら僕らは死んでいただろう。そう思うとそら恐ろしい。王滝奥の院から見た水蒸気を噴き出す音は凄まじかった。あの噴煙の大規模なものが爆発したのだろう。想像しただけで恐怖に取り憑かれるようだ。
雑題: 刃を入るる
刃を入るる隙なく林檎紅潮す 野沢 節子 真っ赤に熟れた林檎、艶やかな紅の肌、どこから切り込むか? 躊躇する、林檎のまぶしさ、秋の幸。
彼岸花
先日、小曽木街道の榎峠から永山までの丘陵をMTBで走ったとき、あちこちで赤い彼岸花を見た。ちょうど彼岸の入りだったこともあり、自分が彼岸と此岸のあいだにいるような感覚を抱いたりした。 そう、僕らはいつだって彼此のあいだにいるのだ。野辺に咲く彼岸花は、名前のせいか、時にそんなことを考えさせたりする。馬齢を重ねるごとに自分に引き寄せて考えるようになったとも言える。 彼岸花には赤い花に交じって白い花もところどころに咲いている。明成皇后の暗殺犯、岡本柳之助の墓に白い花が2輪咲いていたことを急に思い出した。
iOS 8.0
iOS 8.0 にアップグレードする手続きを行った。かなり時間を要した。もう苛々することはないが、しだいにITという迷宮に深入りし、がんじがらめになっていくような恐れを抱く。こういう感覚は僕の世代に特有なのかもしれない。 こんな作業を行うたびに80年代前半のIBMタイプライター、ワープロ、カプラー送信、90年代前半の9801ノート、後半のホームページ、e-mail、データ通信、2000年代前半の携帯、2010年代のスマホと続く、技術というより通信手段の変遷を思う。付いていくだけで精一杯なのです。
転職人生
過去20年ほどの名刺を整理し、名前を見て顔が浮かばない人のは捨てた。転職が多い僕は、職場を変わるごとに業種の異なる人と名刺交換してきた。 日本と韓国の大学関係者の名刺が最も多く、多くが韓国名だ。そういう領域で仕事をしてきたということだが、ハングルで書かれたものが多い。 93-96年 ニューヨークに本部のある財団の東京事務所、96-2010年 K出版社ほか企業が設立した財団、その後、出版・メディアなどを転々としている。僕の職業人生は何だったのだろう、などと思う。 ジャパンエコー社への就職が大きな転機になった。昼食時に隣りのテーブルで同社のスタッフと編集長が話していた韓国語版広報誌に関する話しをたまたま聞いたのがきっかけだった。それがその後の僕の人生を大きく変えたように思う。
性について
ずっと若かったころ、手淫は男性だけのものと思っていた。その後、女性もするものだとわかったが、それで何か変わったわけではない。 ただ、それが公然化したことで性に対する何かが変わったように思う。
電車で化粧する女性、股を広げる男性
電車内で化粧する女性を見るようになって久しい。当初、議論の話題を提供した彼らはもはや陳腐な風景の一つになってしまった。 若い女性の間では完全に定着したかに見える。公衆の面前で化粧することについて彼らには後ろめたさなど微塵もない。そういう時代なのだから、僕ら中高年男性がとやかく言うべきではなかろう。 電車内で当然の権利のように股を広げて坐る男性が少なくない。周囲の迷惑を考えない貧相な男にしか見えないのだが。 今後、股を広げて坐る女性が増えるだろう。すでに十代の女性に少なからず見られる。決して魅力的ではありませんよ。
Gould, Casals, and Landowska
Glenn Gould が演奏した J. S. Bach Partita 全曲入り CD 2枚をJLに譲った。僕が最も多く聴いた音楽のひとつだ。 Pablo Casals が発見した J. S. Bach Unaccompanied violincello が20から30歳代の僕にとってよく行くお気に入りの場所だったとすれば、Gould のピアノは40歳代後半から50歳代にかけて行きつけだったろうか。これらの曲を聴くと気持ちが静まった。 高校生から20歳代前半にかけて Wanda Landowska のハープシコード曲をよく聴いた。ほとんどバッハだった。要するに、僕はバッハの器楽曲が好きなのだ。
雑題: 秋・点描
天たかし、馬首のばしてうなづきつ、 地はのどか、iPhoneもとむ列ながし
平均余命18.55年
もうすぐ65歳、平均余命18.55年だ。と云ったところで何も変わることはない。この間に何をしようというのか。いや、何もできやしない。これまでどおり怠惰な日々を送るだけだろう。 そのなかで唯一後世に遺せるものがミンカブァン自伝の日本語訳だろうか。だが、今ひとつ馬力が掛からない。おい、おまえ、一体どうしたんだ。 (上の文章を書いて約2ヵ月が経った) シェイクスピアが現代に蘇って1人の少年と接触するという設定の韓国の伝記童話を翻訳することになった。沙翁は当然のように少年と韓国語でやり取りする。それを日本語に翻訳するのだが、いくつか問題がある。
低山とMTB
週末、中学時代の友人Hと二人で東京西郊の丘陵や低山に行くようになって数ヵ月が経った。MTBと山行はまったく異なるものの、低山の魅力に変わりはない。 8月には娘と二人で標高3千m余りの木曾御嶽山に登った。この山の魅力についてはすでに投稿したとおりだ。 こうして僕は高山と低山いずれにも愛着をもつようになった。そして「日本百名山」に代表される作られた価値観を批判する。 写真は東京西端にある刈寄(かりよせ)山の山頂、眺望もほとんどない。というより、自転車を押し上げて辿りついたときは疲れていて、景色を楽しむ余裕がなかった。標高687m
木曾御嶽の魅力
約20年ぶりに二度目の登山を果たした。前回は感じなかった御嶽山の魔力というか魅力にとり憑かれたようだ。 いろいろな要素があるが、活火山という性質が大きいように思う。九合目近くにある奥の院から見た噴気とその音が忘れられない。 御嶽教という名前があるように、信仰の対象になっていることも大きい。山塊の巨大さと火山活動が、御嶽を生命体として捉えさせるのだろう。
夜行列車
夜行列車という名称が、いかにも古めかしい響きを持つようになって久しい。鈍行が普通になり、各駅がローカルになった。朔太郎がアフォリズムで書いたような感慨を僕が抱くようになった。これを老いというのだろう。 ゴムまりのような乳房と表現した朔太郎が懐かしく感じられる今宵、僕は夜行列車に乗って信仰の山に行く。
くだらない社会
満席の列車で、3人掛けの座席を2人で占有している奴がいた。何人かの人が座らせてくれるように頼んだが、嘘をついて座らせない。車掌に尋ねられてもごまかしてふてぶてしく寝ている。くだらない奴らだと思うが、みな彼らの不正を追及しようとしない。僕も結局はその1人になってしまった。落ちぶれたもんだ。 連中がくだらないのではない。彼らのような反社会的な者を跋扈させている社会がくだらないのだ。彼らはそんな社会の一員であるにすぎない。
公衆電話
20年ほど前までテレフォンカードを持っていればどこでも電話を掛けることができた。いまカードは無用となった。一体この変化は何なのだろう。単に通信手段の変化という程度のものではない。 上野駅近くの地下道に1台だけ置かれた公衆電話、かつては左右に何台か並んでいたに違いない。公衆電話が主たる通信手段だった時代が、10年ほど前まであったのだ。