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この時期に書き上げて

東京もいずれ N.Y. 並みの惨状になるといわれている現在、「風景がゆれる時間がゆらぐ」をやゝ強引に書き上げてよかったと思います。家族や友人、親族や知人そして仕事の関係者に感染者が出て状況が切迫してきたら、文章を書く余裕などなくなってしまうと思うからです。

一方、新型コロナウイルスの蔓延が、期せずしてンヴィニ教徒に仮託した日本島の状況を映し出しているように思われ、不謹慎の誹(そし)りをまぬがれないと思いつゝ、変な感慨にふけっています。(3月16日-4月5日: 191人、842ページ)。

読者のみなさま、ありがとうございます。これからもご支援のほどをお願いいたします。

「まえがき」を書き替え

「まえがき」を以下のとおり書き替えました。読者のみなさん、貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。心より感謝申しあげます。


 

以下の記述は、筆者の担当医が私の口述と記録の断片をつなぎ合わせて復元したものです。治療過程を通じて、1990年より前に私は認知症を発症していたとされています。認知症特有の風景の揺らぎと時間軸の混濁を生じていたからです。

認知症の患者は、決してすべての記憶を失うことはありません。最近の記憶が定着しないだけで、過去の記憶とそれに付随する景色の映像は鮮明に保存されています。ただし、記憶のなかの、過去のある時点における映像と目の前にある光景が結びつくことが頻繁に生じるため、自分がどの時点のどこにいるのか判別できなります。

時間軸と風景のつながりが不確かになり、自分の年表のどこに景色の記憶が保存されているのか特定できなくなるのです。さらにその症状が進行すると、自分が時間軸のどこにいるのかわからなくなり、周囲の人々が誰かも判然としなくなります。

以下の文章は、電車と密接不可分に生活する人々の生態観察の記録にもとづいて、ンヴィニ教徒の無意識層における信仰に関する仮説を提示するものです。読者はそれぞれの記述を現在の自分たちに関するものとみなしてもよいですし、あるいは現在から数十年ほど前後の過去や未来のことと考えても構いません。もちろん、まったく別のことを想像することも読者の自由です。

電車という動く空間が彼らの生態を観察するのに最適と考え、半世紀余りにわたって断片的に記録したものをまとめ、このたび公表することにしました。これまでンヴィニ教について概括的に書いたものはほとんどなかったと思います。ただ、信者たちの活動範囲が広がり、外部世界との接触がふえてきた現在、彼らの行動様式とそれを支える意識下の宗教について概略的な知識を得ることが、外部の者だけでなく、彼ら自身にも必要だと考えています。この文章が一つのきっかけとなり、ンヴィニ教とその信徒が自らを客観し、彼らに対する人々の誤解が解かれることを願ってやみません。


 

ひとまず書き上げました

各章のタイトルを以下のとおり変更し、限定公開(p/wが必要)としました。一部、文章を修正しています。あとがきの章を「ミロンガ」としました。アルゼンチンタンゴを踊る場所や会場などを意味します。

数ヵ月前から世の中の景色が少し違って見えるようになりました。社会に対して距離を置くことができたのでしょう。もう少しうまく社会に適応するため、世相に対する批判めいた文章を書き連ねたのだろうと思っています。

不満を吐き出した分、愚痴っぽい内容になっているかもしれません。あらかじめお断りしておきます。

コンビニ教という語

<風景のゆれ>を用語検索していて、偶々コンビニ教という語を見つけた。「コンビニ人間」という作品が2016年に出ているから、コンビニ教という用語があるのは当然かもしれない。

1995年に書いた「トレインピープル」が現在執筆中の作品の土台を提供している。そのなかでコンビニ教という用語を使っている。train-people

The scenery trembles and…

タイトルを「風景がゆれ時間がゆらぐ」にし、英訳として The scenery trembles and the time goes back and forth. を付けた。これで、かなり筆者が表現したいところが明確になるように思う。認知症患者には、このような事態が日常的に起きていると理解している。

風景が揺らいでいる

認知症患者の内面における葛藤を描くとはどういうことだろうか。この作品は、老人を追いかける主人公の記録を通じて疑似認知症患者の内面を描こうとしている。

主人公の心象風景と時間軸のゆらぎが主題になる。それを知った疑似患者にとって、それはどんな意味を持つだろうか。絶対に認知症ではないと言いはる人々(多くの人々がそう主張する)に対して、どのような効用があるのだろうか。

認知症を患っている人といま患っていない、将来も自分が患うことはあり得ないと思い込んでいる人のあいだに、さほど大きな違いはないと考えているのだが。

People without timebase

認知症を患う人々は「時間を失う」のではないかもしれない。失うものは時間軸 time base であり、時間の感官 sense organ を失うということだと思われる。

あるいは、もともと時間軸を持たない、時間軸が備わっていないということかもしれない。数学的にいうと、x軸(時間軸)を失う、x軸がないという意味になろうか。

それらを略して「時間を失う人々」「時間軸を持たない人々」という。英語は People with no timebase でよいか。タイトルが定まらない、困ったものだ。

時間を失う人々

「時間をなくす人々」より喪失感が強いと思われる「時間を失(うしな)う人々」にした。習癖によって「なくす」という意味を排し、奪われる感官を強調するためだ。ならば「時間を奪われた(る)人々」でもいいではないか。いや、誰かに奪われるのではなく「うしなう」のだと思う。

どこかから、いい加減にしろ、という声が聞こえてきそうだ。自信を失いそうになることがある。