construal

A Contrastive Study of the Japanese and the Korean Speaker’s Subjective Construal‐with Special Reference to the Uses of the Verbal Phrases, ていく(te iku)/くる(kuru) and 에 가다(e kata)/오다(ota) (SEO, Min Jung: Ph.D. dissertation, Showa Women’s University, 2008)

It is often claimed that Japanese is an eminently subjectively oriented language. The term ‘subjective’ here is used in rather promiscuous senses, depending on the author who makes the claim, but one common interpretation is that encoding in Japanese markedly tends to involve certain features related to the person who produces the sentence (i.e. the speaking subject, or the speaker) as well as those features strictly related to the situation to be described (i.e. the referent). As a result, it is found not easy in Japanese to produce a wholly neutral and objective description of a situation, totally free from any mark of one who produces it. For example, in answering a question, “What are you?(お仕事は、ご職業は)”, an English speaker can readily answer, “I am a student(学生です)”, (provided that he or she is a student) and this suffices. For a Japanese speaker, however, dozens of alternatives are available, depending on what pronominal form he or she chooses and what level of linguistic politeness he or she makes use of. The sentence thus produced necessarily contains some information of the one who produces it as well as the objective information that he or she is a student. It often happens also that the subjective information is conventionally packed in the particular lexical or grammatical forms the speaker may want to use. The ukemi construction in Japanese, for example, is normally associated with the implication that the person in question is adversely affected by the event described in the sentence. For example, the sentence, “(watakushi wa) ame ni furareta”, combines the objective information (i.e. “it rained”) with the subjective information (i.e. “I was affected adversely”) in one package. Or again the converb use of the verb kureru contains the subjective information that the speaker (or some person or persons related to the speaker) is advantageously affected as well as the objective information of what happens.
Now in Japanese the converb use of the verb kuru also has the a similar function. Thus the sentence, “Samuku natte kuru” (in contrast to the neutral sentence “Samuku naru”) contains the subjective information that becoming cold gradually increases its relevance to the speaker. It is such subjective tone associated with the verb kuru (and its counterpart iku) that the present study addresses. In clear contrast to the verbs of giving and receiving, the subjectifying functions of the verbs of motion, kuru and iku have so far been little investigated in their converb uses.
The present study, however, is not simply meant as a semantic and pragmatic study of the converb uses of kuru and iku. It also takes note of the fact that Korean, the author’s native language, is known as a subjectively oriented language and that it also has the converb uses of the corresponding verbs to mark the speaker’s subjectivity. A contrastive study between Japanese and Korean is thus conducted and the result is interesting. It turns out that there are actually a number of cases in which the converb uses of kuru are possible in Japanese but the corresponding use of ota in Korean is not allowed (e.g. “Ame ga futte kuru” is possible in Japanese but the corresponding sentence with ota is not allowed in Korean). This result is the same as the one we get when the converb uses of the verbs of giving and receiving are compared between Japanese and Korean. Coupled with other linguistic indices of subjectivity (e.g. the ellipsis of the grammatical subject), the present study confirms that Japanese is more subjectively oriented than Korean―another contribution of the present study, this time, in relation to linguistic typology.


認知言語学では、話者が発話に先立って行う認知的な営み―言語化に先立って、話者が言語化の対象とする事態について何を表現し、何を表現しないか、そして表現するものについてはどれをどのように表現するか、つまり自らとの関連で言語化しようとする事態を自らとの関連でどう意味づけるかという営み―のことを〈事態把握〉と呼んでいる。そして、この点について:

(ⅰ)どの言語の話者も、同じ事態であってもいくつかの異なったやり方で捉え、違ったやり方で表現する能力を有していて、時と場合によってそれらを使い分けるという営みをしている、という普遍的な側面があると想定している。本論文では、さらにもう一歩踏み込んだ理論的な枠組みとして、これに次のような相対性に関わる想定を追加する。

(ⅱ)ある事態はいくつかの違ったやり方で把握されうるとしても、中立的な状況で、ある言語の話者が好んでする〈事態把握〉の仕方と、別の言語の話者が好んでする〈事態把握〉の仕方は必ず一致するとは限らない。つまり、ある事態を認知的にどのように把握し、言語化するか ― その際の〈好まれる言い回し〉に関しては言語によって話者の好みに差が認められる。

本論文ではこのような視点から、日本語話者と韓国語話者の〈事態把握〉に際しての〈好まれる言い回し〉(fashions of speaking: cf. Whorf, 1956)の異同について考察を試みた。

日本語と韓国語が類型論的に近い言語であるという指摘は直観的にも明らかなばかりでなく、いくつかの言語的特徴についても指摘されている通りであり、その背後には日本語話者と韓国語話者の間で言語化の際の〈事態把握〉のスタンスについて著しい類似性があるということが想定できる。

特にこの2つの言語は、例えば英語のような欧米系の言語と、そして地理的には近い中国語とも較べてみても、〈主観性〉(つまり、言語化される事態そのものの客観的な特徴と並んで、話す主体としての人の事態との関わりをどの程度相対的に多く取り込んで言語化するかということ)に関して、いくつかの共通の言語的指標を示す(つまり〈主観性〉の高い言語であるということ)が知られてきた。

しかし、どちらも相対的に〈主観性〉の高い言語であるとしても、日本語と韓国語とは同じ程度に〈主観性〉の高い言語と言えるのであろうか。

本論文はこの問題を補助動詞としての日本語の「ていく/くる」と韓国語の「에 가다/오다 e kata/ota」の用法を細かく対比することによって検討し、同じ事態を言語化する際、日本語話者はしばしば「てくる」で表すのに対して、韓国語話者は表現上対応する「에 가다/오다 e ota」があるにも関わらず本動詞(V1)のみですますことが多いのは、その根底に日韓両言語の話者間の〈事態把握〉の相違があることを明らかにした。

例えば、〈これから生まれる子ども〉について言う場合に、日本語では「生まれてくる子ども」というように話者*自身とのかかわりを全面的に表現するのが普通であるが、韓国語では話者とのかかわりは関係なく、客観的に事実を述べるといった「태어나는 아이 tayena-nun ai(生まれる子ども)」で表わすのが普通である。*母親は自分の子に対して「主観的」になる

このように同じ事態を言語化するにも関わらず、日本語話者はしばしば「てくる」で表すのに対して、韓国語には日本語の補助動詞「ていく/くる」に対応する「에 가다/오다 e kata/ota」という補助動詞があるにも関わらず、本動詞のみですますことが多いことから、日韓両言語の話者間の<事態把握>の相違―つまり、日本語話者の方が〈主観的把握〉の傾向が強いこと―がその根底にある点を明らかにした。

そして、その結果を踏まえてさらに他の言語的指標―「てもらう」と「主語の省略」―の場合でも同様の結果となるか検証し、日本語の「てもらう」を韓国語では「ㄹ ル形」で済ますか、あるいはさまざまな表現を用いる点、「主語の省略」の場合は類型論的に似た言語である韓国語との比較を通しても、日本語の方がより頻繁に起こるという事実から日本語話者は事態に自分の身を置き、その事態の当事者として〈自己-中心的〉なスタンスで事態をみて〈主観的把握〉をする傾向があるのに対し、韓国語話者は日本語話者よりも〈客観的把握〉の方に傾くとの結論を得た。

さらに、言語類型論の観点からUehara(2000)と上原(2001)を参照しつつ、個別言語全体の特徴として〈主観性〉の度合というものを考えてみた場合、韓国語は英語より〈主観性〉の度合が高く、日本語はそれよりさらに〈主観性〉の尺度が高いことを示した。

以上のように、本論文は従来の日韓対照研究が統語論や形態論の形式的な面のみに終始しがちであったのに対し、そのような形式的な差異の背後にあるそれぞれの言語の話者の認知的なスタンスの違いにまで考察を行なった。それによって、言語教育の際に、従来のように教師側は学習者の質問に対し、「そうなっているからそうなのだ」と、説明にならない説明で終わるのではなく、「なぜ」そうなっているのかについて話者の〈こころ〉にまで立ち入って教えるべきであるということも明らかにした。


芥川龍之介『河童』(初出「改造」1927年3月)

これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である。彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでも善い。彼は唯ぢつと両膝をかかへ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張つてゐた。)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしやべりつづけた。尤も身ぶりはしなかつた訣ではない。彼はたとへば「驚いた」と言ふ時には急に顔をのけ反らせたりした。……
僕はかう云ふ彼の話を可なり正確に写したつもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若い第二十三号はまづ丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであらう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであらう。最後に、――僕はこの話を終つた時の彼の顔色を覚えてゐる。彼は最後に身を起すが早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰にでもかう怒鳴りつけるであらう。――「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだらう。出て行け! この悪党めが!」

(中略)

その代りに人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。現に僕は暫くたつてから、バツグの細君のお産をする所をバツグの小屋へ見物に行きました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬で嗽ひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから」

(後略)

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