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Soseki struggles with a bike

[上のイラストの中央にある標識の英文: To Cyclists. This Hill Is Dangerous.]

以下の文章は、宮田浩介氏の「サイクリストになった漱石: 技術史の視点で読み解くロンドン『自転車日記』」(Jubne Notes 2014年3月掲載)を一部編集(見出しの一部修正と図版の選択など)を施し引用したものです。同氏はこの文章の末尾に次のように記していますが、大いに同感です。漱石がぐっと身近な人になりました。(このブログは22年1月28日に投稿しました。同じ内容で再掲します)

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。
Jubne Notes ©2006-2022 kosukemiyata.com

以下、引用します。

夏目漱石の作品に「自転車日記」というタイトルの短編がある。留学先のロンドンで自転車に乗り始めた時のことを、自虐的かつユーモラスな口調で語ったものだ。西洋近代の中心地で漱石が出遭ったのは、いったいどのような自転車だったのか。そして彼は、この文明の産物とどんな風に格闘したのだろうか。19世紀の終わり頃の資料などを頼りに、彼のサイクリング体験の実像を探ってみよう。

漱石35歳の自転車デビュー

漱石の「自転車日記」に綴られているのは、「西暦1902年秋」、今からおよそ120年前の出来事だ。彼は既に満年齢で35歳になっていた[1]が、下宿の「婆さん」から強く勧められてその「命」に従うまで、自転車に「乗って見た」ことは全く無かったらしい。

未経験者の漱石にとっては、自転車に跨るだけでも大変なことだった。「いざという間際でずどんと落る」。「ずんでん堂とこける」。監督役の「○○氏」に車体を支えてもらい、サドルに腰かけたところで前に押してもらっても、次の瞬間には「砂地に横面を抛りつけ」ている。日を経て「ともかくも人間が自転車に附着している」状態を保てるようになっても、坂道での練習で彼は制動不能に陥り、塀にぶつかった後でようやく止まるのだった。

訓練を開始してから数日、やっとサドルに座ってペダルを漕げるようになってきても、漱石はまだ思うように走れなかったようだ。 よく知っているエリアの案内を同行者に任されたのに、彼は「曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう」のだ。 なんとかハンドルをこじって別の方向へ曲がってみるも、今度はその急激な動作によって、「余に尾行して来た一人のサイクリスト」の転倒を誘発してしまう(怒った相手は「チンチンチャイナマン」と彼を罵倒する)。

人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもない

「日記」の終わり近くのある日、漱石はこんなサイオー・ホースめいた格言を作って開き直ってみるが、「バタシー公園」(Battersea Park)へ行く途中で他の自転車の割り込みに遭い、「自分が落ち」て危うく馬車に轢かれそうになる。

漱石が購入した「老朽の自転車」

こうして「自転車日記」をざっと読み通してみると、漱石は運動が苦手、との印象が否めない。 運転中の判断のセンスが疑われる場面も多く、思わず「そういう時はこうするんだよ!」と教えてあげたくなる。 けれどもその助言が正しいかどうかは、もう少し詳しく調べてみなければ分からない。自分のイメージしている自転車が、そもそも間違っているかも知れないからだ。

「ラヴェンダー・ヒル」の自転車店を訪れた際、「○○氏」はまず「女乗」を薦めた、と「日記」にはある。これに対し漱石は「髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない」と抗議、練習車は「いとも見苦しかりける男乗」に決まった。それは「関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車」で、「物置の隅に閑居静養を専にした奴」という感じだった。

図3[3]: 漱石の言う「女乗」とは、スカートでも乗れるフレーム形状の自転車のことだろう

漱石が購入した「老朽の自転車」は、実際のところどんな構造のものだったのか。店の場面の「上からウンと押して見るとギーと鳴る」、「ハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり」といった描写は、前輪が極端に大きい「オーディナリー自転車」には当てはまりそうにない(図4参照)。1880年代の中頃まではこのタイプが「普通の自転車」(ordinary bicycles)だった[4]が、1895年には新型にすっかり「普通」の座を奪われ、その呼び名も限定的な形(Ordinary Bicycles)に変わっていたようだ[5]。そんな車種を1902年になってわざわざ選ぶというのも、初心者の訓練用としてはまずありえない。

図4[6]: 「オーディナリー」型の自転車のハンドルは乗車前に上から押せるような位置にはない

1880年代に進んだ「セーフティー」(Safety)自転車の開発には、乗車位置を下げて転倒の危険性を減らし、なおかつ安定した走行性能を確保するという共通課題があった[7]。これらの条件を満たして好評を得たのが、スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)社の「ローバー」(Rover)だった。チェーンを介した後輪駆動、前後同等サイズのホイール(2世代目以降)といったその構成は、自転車のスタンダードとして次第に定着していった[8]。1888年にはスコットランド出身のダンロップ博士が空気を入れるタイヤの特許を取得、乗り心地が良く楽にスピードの出せるこの方式のタイヤは、7、8年のうちに殆ど全ての新車の標準装備となり、従来のソリッドタイヤを駆逐してしまった[9]

図5[10]: 空気入りタイヤとそうでないものとが混在し、新車購入時にユーザーがどちらかを選択できた時期もあった

乗り易いセーフティー型の発展が市場に及ぼした影響は大きく、イギリスでは自転車ブームが最高潮となった1895~97年にかけて、毎年およそ75万台が生産されていたと推計されている[11]。 1889年の時点では55弱だったロンドンの自転車メーカー(多くは大元の製造ではなく販売や修理のみを行っていた)の数も、1897年には390にまで膨れ上がっていた[12]。 漱石の留学はこの大流行が過ぎ去った後のことだが、彼が練習のために希望した「当り前の奴」は、こうして広まった自転車のうちの「男乗」だったろう。

図6[13]: 1898年にアメリカで出版された本の図解では、空気入りタイヤが標準的なものとして扱われている

ブレーキが無かった?

漱石が乗っていたと思われる1890年代のセーフティー型は、既に今の自転車と同じような姿をしていた。しかしながらその機械的な構造には、現代の感覚に照らすとまだ「安全」とは言い難い点があった。クランク(図6の29番)と後輪の回転が互いに直結していたため、ペダルに載せた足を走行中に止められなかったのだ。 ブレーキは前輪のタイヤに作用する手動式(図3、5、6、7参照)が最も一般的だったが、主に女性が使うものと考えられていたのか、これらを全く装着することなく、ペダルを逆に踏む「バック踏み」(back-pedaling / back-pedalling)だけで速度をコントロールするサイクリストも多かったようだ[14]

図7[15]: ブレーキのある自転車ならばフットレストに足を載せて坂を下ることができた(クランクは勝手に回り続ける)が、ブレーキが無ければクランクの回転を足で抑えて減速しなければならなかった

「自転車日記」の描写にも、漱石がブレーキを操作していたことを示す箇所はない。 「○○氏」とその友人に伴われて自転車で出かけた際、二人の間に挟まれて走っていた彼は、「クラパム・コンモン」から「鉄道馬車の通う大通り」(図2の赤線のところ)へ曲がる手前で、横から来た荷車に進路を塞がれてしまう。 ぶつかるわけにはいかないし、左右どちらかに逃げることもできない。 ギリギリになって「退却も満更でない」と思い至るものの、「逆艪の用意いまだ調わざる今日の時勢」ゆえ、彼は「仕方がない」と諦めて落車を選択する。 「逆艪」とは艪を船の前に付けて後退を可能にすることであり、この「用意」ができていないというのは、恐らく「バック踏み」に慣れていなかったことを意味している。 彼の自転車にはそもそもブレーキが無く、彼自身も「ペダル」を「踏みつける」と車輪が(?)「回転する」事実に気がついたばかりで、それを利用してスピードを落とす技術が身についていなかったのだろう。

図8[16]: ブレーキの無い自転車の場合、急坂の手前では降車するのが常識的な行動だった

漱石の自転車がブレーキを欠いていたことは、何日か前の坂道の場面からも推測できる。 彼はそこで「鞍に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり」、「両手は塞っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴ている」という格好になっていたが、ブレーキがあればそれを使えば良かったのだから、「下りようとしても車の方で聞かない」状態にはならなかったはずだ。 彼のこの奇妙な「曲乗」の姿勢は、どうも本来は乗降のためのものだったらしい(図8参照)。 自転車の後輪の軸には左に「ステップ」(図6の44番)がついていて、そこに左足をかけてからサドルに跨り、また逆の手順で降りるのが普通だったようだ[17]。 「オーディナリー」型の時代から続くこうした方法を、入門者はステップに留まりバランスを取るところから学んだ[18](図9参照)。 初日に「馬乗場」で「○○氏」が放った「ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」との言葉は、これにぴったり合致するものだ。

図9[19]: 右足で地面を蹴って自転車を前進させ、ステップ上でバランスを保つ練習をした(これができたら次はサドルに腰かける)

どんな自転車に乗っていたかが概ね見えてくると、漱石の苦闘の様子にも納得がいく。 やっとステップに立てるようになったばかりの段階では、坂を使った特訓はあまりに無謀だった。 サドルに座りペダルを漕いで走行できるようになっても、ブレーキが無ければ急に止まることはまず不可能だったろう。 「バック踏み」だけで一気に速度を落とすための経験値[20]が、彼にはまだまだ足りていなかった。 「バタシー公園」へ向かう途中の「非常の雑沓な通り」は、だからこそ「初学者たる余にとって」「難関」だったわけだ。 「日記」に描かれたドタバタの原因の殆どは、彼自身のセンスや運動能力よりも、選んだ自転車の機械的な特性にあったのである。

サイクリストになった漱石

様々な資料から推測される漱石の自転車は、「オーディナリー」型などに比べればずっと扱い易かったものの、現代の一般的なモデルほど簡単に乗れるものではなかった。 「その苦戦」に関して当人は、「大落五度小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって向脛を擦りむき、或る時は立木に突き当って生爪を剥がす」、「しかしてついに物にならざるなり」と書き記しているが、結局ダメだったというのは脚色のようだ。 鏡子夫人が後に語ったところによると、彼は「よくおっこちて手の皮をすりむいたり、坂道で乳母車に衝突して、以後気をつけろとどなられたりして、それでもどうやら上達して、人通りの少ない郊外なんぞを悠々と乗りまわして」いたらしい[21]。作中の「余」は上手くならなかったが、生身の漱石はサイクリストになっていたのだ。知人一家を訪ねた折に「いつか夏目さんといっしょに皆で」と「令嬢」から提案され、見栄を張りつつもこれを断り通そうとしたために「父君」から「サイクリストたるの資格なきものと認定」されることになったウィンブルドンへの遠乗り(彼の下宿からは約9キロメートルの行程)も、実現可能なものになっていたに違いない。

図10(Edward Penfieldによるポスター)[22]: フットレストを利用する際、長いスカートなどは回り続けるクランクとペダルに絡まる恐れがあったが、1898年頃から普及し始めた足を止められる自転車(ブレーキ装置が必須)では、この姿勢そのものが不要になった[23]

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。

  1. 夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』(文春文庫 1994) 439, 445. 
  2. Philip, George, Philips’ Handy Volume Atlas of London, 6th ed. (London: George Philip & Son, ca. 1910)
  3. Sexby, John James, The Municipal Parks, Gardens, and Open Spaces of London: Their History and Associations (London: Elliot Stock, 1905), 17. 
  4. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling (London: Longmans, Green, and Co., 1887), 129-130. 
  5. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling, 5th ed. (London: Longmans, Green, and Co., 1896), ⅲ, ⅹ, 259. 
  6. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 1. 
  7. Sharp, Archibald, Bicycles & Tricycles: An Elementary Treatise on Their Design and Construction, with Examples and Tables (London: Longmans, Green, and Co., 1896), 150-153. 
  8. Sharp, 153-158. 
  9. Sharp, 159-160; Wilson, David Gordon, “A Short History of Bicycling,” Bicycling Science, 3rd ed. (Cambridge, MA: MIT Press, 2004), 25-26. 
  10. Dagg, George A. de M. Edwin, “Devia Hibernia”: the road and route guide for Ireland of the Royal Irish Constabulary (Dublin: Hodges, Figgis, & Co., 1893), 348. 
  11. Rubinstein, David, “Cycling in the 1890s,” Victorian Studies 21.1 (1977): 47-71, 48, 51. 
  12. Rubinstein, 53. 
  13. Schwalbach, Alexander and Julius Wilcox, The Modern Bicycle and Its Accessories (New York: The Commercial Advertiser Association, 1898), ⅹⅴⅰ. 
  14. Schwalbach and Wilcox, 104-108; Garratt, Herbert Alfred, The Modern Safety Bicycle (London: Whittaker & Co., 1899), 182-192. 
  15. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 120. 
  16. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 239. 
  17. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 115, 118-119. 
  18. Albemarle and Hiller, Cycling, 63, 133, 135-137. 
  19. Porter, Luther H., Cycling for Health and Pleasure: An Indispensable Guide to the Successful Use of the Wheel (New York: Dodd, Mead & Co., 1895), 30. 
  20. Porter, 43, 119. 
  21. 夏目・松岡 116-117. 
  22. この姿勢をとることができる自転車にはフットレストとブレーキが装備されているはずだが、イラストでは省略されたようだ。 
  23. “Cycle Shows in England,” The West Australian, December 31, 1898: 2. 

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無宗教社会・日本

無宗教社会に抗して生きた경호ギョンホの母(仮題)」前半をアップしました。

この作品を僕は死ぬまで書き続けるのではないか、そんな予感がある。72歳で書き始めたから、せいぜいあと10年か20年だが、人生で最も充実したときでもある。人々は生涯そのときどきを必死に生き、それぞれの瞬間に現在を感じ、過去と未来を信じている。年齢とはただ肉体的な経過点をいうに過ぎない。もちろん、青少年期のみずみずしさは何ものにも代えがたいが、老年期に至って花開く人もいる。青年といい老年というも仮の時期区分なのだ。人の生涯を生から死に向かう数直線ではなく、瞬間ごとに自己を放射し発散する一個のかけがいのない点として捉えたい。
no中見出し小見出し
1無宗教社会という現代神話—-
2法華経の生命論下町に育った경호の母
父親を追い求めた경호の父
경호の父と恵琳寺
경호の母方の祖父
3경호の育った家庭1959年の冬
何かに怯えていた경호
平穏を取り戻した家庭
父の思い描いた家庭
社宅の隣人
4경호の母の学会活動品川駅発の団体夜行列車
唱題と読経の響き
夜の新聞配達
まだ草稿であり大幅に書き換えるかもしれません。

「立正安国論」を読み直す

畏れ多くも「立正安国論」を読み直すため、SOKAnet 日蓮大聖人御書全集全文検索より読み下し文をダウンロードし、戸田城聖著『日蓮大聖人御書十大部講義第1巻「立正安国論」』(創価学会1952年)をもとにルビを付しました。佐藤弘夫著『日蓮「立正安国論」』(講談社学術文庫2008年)を参照しました(引用は[佐藤 p.xx]と表示)。

立正安国論 文応元(1260)年七月 39歳御作 与北条時頼書 於鎌倉
第一段
 旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭てんぺんちよう飢饉疫癘えきれいあまねく天下に満ち広く地上にはびこる牛馬ちまたたお骸骨がいこつみちてり死を招くのともがら既に大半に超え悲まざるのやからあえて一人も無し、然る間或は利剣即是りけんそくぜの文をもっぱらにして西土教主の名を唱え或は衆病悉除しゅうびょうしつじょの願を持ちて東方如来の経をし、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の教に因て五びょうの水をそそぎ有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄し、若くは七鬼神のを書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地を拝して四角四かいの祭を企て若くは万民百姓を哀れんで国主国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆かんたんくだくのみにしていよいよ飢疫きえきめられ乞客こっきゃく目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍をものみと為し並べるかばねを橋と作す、観れば夫れ二離璧じりへきを合せ五緯珠いたまを連ぬ三宝も世にいまし百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤に由るや。
 主人の曰く独り此の事を愁いて胸臆くおう憤悱ふんびす客来つて共に嘆くしばしば談話を致さん、夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり而るに今神術も協わず仏威も験しなし、つぶさに当世の体を覿るに愚にして後生の疑を発す、然れば則ち円覆えんぶを仰いで恨を呑み方載ほうさいに俯して慮を深くす、つらつら微管を傾けいささか経文をひらきたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。
第二段
 客の曰く天下の災・国中の難・余独り嘆くのみに非ず衆皆悲む、今蘭室らんしつに入つて初めて芳詞ほうしを承るに神聖去り辞し災難並び起るとは何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん。
 主人の曰く其の文繁多はんたにして其の証弘博ぐばくなり。
 金光明経に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も未だかつて流布せしめず捨離の心を生じて聴聞せん事をねがわず亦供養し尊重し讃歎せず四部の衆・持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能わず、遂に我れ等及び余の眷属けんぞく無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ甘露の味に背き正法の流を失い威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣あくしゅを増長し人天を損減し生死の河にちて涅槃の路に乖かん、世尊我等四王並びに諸の眷属及び薬叉やしゃ等斯くの如き事を見て其の国土を捨てて擁護おうごの心無けん、但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし、一切の人衆皆善心無く唯繫縛けいばく殺害瞋諍しんじょうのみ有つて互に相讒諂ざんてんげてつみ無きに及ばん、疫病流行し彗星しばしば出で両日並び現じ薄蝕つね無く黒白の二虹不祥の相を表わし星流れ地動き井の内に声を発し暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実みょうじつみのらず、多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」已上。
 大集経に云く「仏法実に隠没せば鬚髪爪しゅほっそう皆長く諸法も亦忘失せん、の時虚空の中に大なる声あつて地を震い一切皆遍く動かんこと猶水上輪の如くならん・城壁破れ落ち下り屋宇悉くやぶけ樹林の根・枝・葉・華葉・菓・薬尽きん唯浄居天を除いて欲界の一切処の七味・三精気損減して余り有ること無けん、解脱げだつの諸の善論の時一切尽きん、所生の華菓けかの味い希少にして亦うまからず、諸有の井泉池・一切尽く枯涸し土地悉く鹹鹵かんろ剖裂てきれつして丘澗きゅうかんと成らん、諸山皆燋燃しょうねんして天竜雨を降さず苗稼みょうけも皆枯死し生ずる者皆死し尽き余草更に生ぜず、土を雨らし皆昏闇こんあんに日月も明を現ぜず四方皆亢旱こうかんしてしばしば諸悪瑞を現じ、十不善業の道・貪瞋癡とんじんち倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿しょうろくの如くならん、衆生及び寿命・色力・威楽減じ人天の楽を遠離し皆悉く悪道に堕せん、是くの如き不善業の悪王・悪比丘我が正法を毀壊きえし天人の道を損減し、諸天善神・王の衆生を悲愍ひみんする者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん」已上。
 仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国をおびやかし百姓亡喪もうそうし臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん、天地怪異けいし二十八宿・星道・日月時を失い度を失い多く賊起ること有らん」と、亦云く「我今五眼をもつて明に三世を見るに一切の国王は皆過去の世に五百の仏につかえるに由つて帝王主と為ることを得たり、是をつて一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来生して大利益を作さん、若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」已上。
 薬師経に云く「若し刹帝利せつていり灌頂王かんちょうおう等の災難起らん時所謂いわゆる人衆疾疫の難・他国侵逼しんぴつの難・自界叛逆ほんぎゃくの難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」已上。
 仁王経に云く「大王吾が今化する所の百億の須弥しゅみ・百億の日月・一一の須弥に四天下有り、其の南閻浮提なんえんぶだいに十六の大国・五百の中国・十千の小国有り其の国土の中に七つの畏る可き難有り一切の国王是を難と為すが故に、云何いかなるを難と為す日月度を失い・時節返逆ほんぎゃくし・或は赤日出で・黒日出で・二三四五の日出で・或は日蝕して光無く・或は日輪一重・二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり、二十八宿度を失い金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・ちょう星・南じゅ・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星・是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり、大火国を焼き万姓焼尽せん或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり、大水百姓を漂没ひょうもつし・時節返逆して・冬雨ふり・夏雪ふり・冬時に雷電霹礰へきれきし・六月に氷霜はくを雨らし・赤水・黒水・青水を雨らし土山石山を雨らし沙礫石を雨らす江河逆に流れ山を浮べ石を流す是くの如く変ずる時を四の難と為すなり、大風・万姓を吹殺し国土・山河・樹木・一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん是くの如く変ずるを五の難と為すなり、天地・国土・亢陽し炎火洞燃どうねんとして・百草亢旱こうかんし・五穀みのらず・土地赫燃かくねんと万姓滅尽せん是くの如く変ずる時を六の難と為すなり、四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵劫起らん・是くの如く怪する時を七の難と為すなり」
 大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如くゆる所の無量の善根悉く皆滅失して其の国まさに三の不祥の事有るべし、一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり、一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵にょうする所と為らん、暴火よこしまに起り悪風雨多く暴水増長して人民を吹ただよわし内外の親戚其れ共に謀叛せん、其の王久しからずして当に重病に遇い寿終じゅじゅうの後・大地獄の中に生ずべし、乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復た是くの如くならん」已上。
 夫れ四経の文あきらかなり万人誰か疑わん、而るに盲瞽もうこともがら迷惑の人みだりに邪説を信じて正教をわきまえず、故に天下世上・諸仏・衆経に於て捨離の心を生じて擁護の志無し、仍て善神聖人国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道災を成し難を致す。
第三段
 客色を作して曰く後漢の明帝は金人きんじんの夢を悟つて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成す、しかしよりこのかた上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専にす、然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道・仏経は星の如くつらなり堂宇どうう雲の如くけり、鶖子しゅうしやからは則ち鷲頭じゅとうの月を観じ鶴勒かくろくたぐいは亦鶏足けいそくの風を伝う、誰か一代の教をさみし三宝の跡を廃すといわんや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。
 主人さとして曰く仏閣いらかを連ね経蔵軒を並べ僧は竹葦ちくいの如く侶は稲麻とうまに似たり崇重年り尊貴日に新たなり、但し法師は諂曲てんごくにして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し。
 仁王にんのう経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、其の王わきまえずして此の語を信聴しよこしまに法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」已上。
 涅槃ねはん経に云く「菩薩悪象あくぞう等に於ては心に恐怖くふすること無かれ悪知識に於ては怖畏ふいの心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三しゅに至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。
 法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲てんごくに未だ得ざるをれ得たりとおもい我慢の心充満せん、或は阿練若あれんにゃ納衣のうえにして空閑に在り自ら真の道を行ずとおもいて人間を軽賤する者有らん、利養に貪著するが故に白衣のめに法を説いて世に恭敬くぎょうせらるること六通の羅漢らかんの如くならん、乃至常に大衆の中に在つて我等をそしらんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門ばらもん居士こじ及び余の比丘衆に向つて誹謗ひぼうして我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くとわん、濁劫じょっこう悪世の中には多く諸の恐怖くふ有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈めり毀辱きにくせん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜ずいぎ所説の法を知らず悪口して顰蹙ひんじゅく数数しばしば擯出ひんずいせられん」已上。
 涅槃経に云く「我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉くた涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし、持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜とんしして其の身を長養し袈裟けさを著すと雖もなお猟師の細めに視てしずかに行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉とんしつを懐く啞法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門のかたちを現じ邪見熾盛しじょうにして正法を誹謗せん」已上。
 文について世を見るに誠に以てしかなり悪侶をいましめずんばあに善事を成さんや。
第四段
 客猶憤りて曰く、明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む、世上の僧侶は天下の帰する所なり、悪侶に於ては明王信ず可からず聖人に非ずんば賢哲仰ぐ可からず、今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざるを知んぬ、何ぞ妄言もうげんいてあながちちに誹謗を成し誰人を以て悪比丘とうや委細に聞かんと欲す。
 主人の曰く、後鳥羽院の御宇ぎょうに法然と云うもの有り選択集せんちゃくしゅうを作る則ち一代の聖教を破しあまねく十方の衆生を迷わす、其の選択に云く道綽禅師どうしゃくぜんし・聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、初に聖道門とは之に就いて二有り乃至之に準じ之を思うにまさに密大および実大をも存すべし、然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳けごん・三論・法相・地論・摂論じょうろん・此等の八家の意正しく此に在るなり、曇鸞どんらん法師往生おうじょう論の注に云く謹んで竜樹りゅうじゅ菩薩の十住毘婆沙びばしゃを案ずるに云く菩薩・阿毘跋致あびばっちを求むるに二種の道有り一には難行道二には易行道なり、此の中難行道とは即ち是れ聖道門なり易行道とは即ち是れ浄土門なり、浄土宗の学者先ずすべからく此の旨を知るべしたとい先より聖道門を学ぶ人なりと雖も若し浄土門に於て其の志有らん者はすべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし又云く善導和尚・正雑の二行を立て雑行ぞうぎょうを捨てて正行に帰するの文、第一に読誦どくじゅ雑行とは上の観経かんぎょう等の往生浄土の経を除いて已外いげ・大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、第三に礼拝らいはい雑行とは上の弥陀みだを礼拝するを除いて已外一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬くぎょうするを悉く礼拝雑行と名く、私に云く此の文を見るにすべからく雑を捨ててせんを修すべし豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修ぞうしゅ雑行ぞうぎょうしゅうせんや行者く之を思量せよ、又云く貞元じょうげん入蔵録にゅうぞうろくの中に始め大般若はんにゃ経六百巻より法常住経に終るまで顕密の大乗経総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし、まさに知るべし随他ずいたの前にはしばら定散じょうさんの門を開くと雖も随自ずいじの後にはかえつて定散の門を閉ず、一たび開いて以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なりと、又云く念仏の行者必ず三しん具足ぐそくす可きの文、観無量寿かんむりょうじゅ経に云く同経の疏に云く問うて曰く若し解行げぎょうの不同・邪雑じゃぞうの人等有つて外邪異見げじゃいけんの難を防がん或は行くこと一分二分にして群賊ぐんぞく喚廻よびかえすとは即ち別解・別行・悪見の人等にたとう、私に云く又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言うは是れ聖道門しょうどうもんを指す已上、又最後結句の文に云く「夫れすみやかに生死しょうじを離れんと欲せば二種の勝法しょうほうの中にしばらく聖道門をきて選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば正雑しょうぞう二行の中にしばらく諸の雑行をなげうちて選んでまさに正行に帰すべし」已上。
 之にいて之を見るに曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどう謬釈びゅうしゃくを引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言そうじて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及びもろもろ世天せてん等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或はき或はなげうつ此の四字を以て多く一切を迷わし、あまつさえ三国の聖僧十方の仏弟ぶっていを以て皆群賊と号し併せて罵詈めりせしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗ひぼう正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり。
 是に於て代末代に及び人・聖人に非ず各冥衢みょうくつて並びに直道じきどうを忘る悲いかな瞳矇どうもうたずいたましいかないたずらに邪信を催す、故に上国王より下土民に至るまで皆経は浄土三部の外の経無く仏は弥陀みだ三尊のほかの仏無しとおもえり。
 つて伝教・義真・慈覚じかく智証ちしょう等或は万里の波濤はとうわたつて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りてあがむる所の仏像若しくは高山のいただき華界けかいを建てて以て安置し若しくは深谷の底に蓮宮れんぐうてて以て崇重そうじゅうす、釈迦薬師の光を並ぶるや威を現当げんとうに施し虚空地蔵の化を成すや益を生後にこうむらしむ、故に国主は郡郷を寄せて以て灯燭とうしょくを明にし地頭は田園をてて以て供養に備う。
 しかるを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄ぶっだを貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の経典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏くぶつの志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧せそうおもいを忘る、故に仏堂零落れいらくして瓦松がしょうの煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜ごしゃくの心を捨てて並びに建立の思を廃す、是を以て住持じゅうじの聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れひとえに法然の選択せんちゃくに依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁まえんとろかされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
第五段
 客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文しゃかもん浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞どんらん法師ほっしは四論の講説こうせつを捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師どうしゃくぜんじ涅槃ねはん広業こうぎょうきて偏に西方の行を弘め、善導和尚ぜんどうわじょう雑行ぞうぎょうなげうつて専修せんしゅうを立て、慧心僧都えしんそうずは諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす、弥陀みだを貴重すること誠に以てしかなり又往生おうじょうの人其れ幾ばくぞや、就中なかんずく法然聖人は幼少にして天台山に昇り十七にして六十巻にわたり並びに八宗をきわつぶさに大意を得たり、其の外一切の経論・七遍反覆はんぷく章疏しょうじょ伝記でんき究めざることなく智は日月にひとしく徳は先師に越えたり、然りといえども猶出離しゅつりの趣に迷いて涅槃ねはんの旨をわきまえず、故に徧く覿悉くかんがみ深く思い遠く慮り遂に諸経をなげうちて専ら念仏を修す、其の上一霊応れいおうを蒙り四えい親疎しんそに弘む、故に或は勢至せしの化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賤きせん頭をれ一朝の男女歩を運ぶ、しかしよりこのかた春秋推移おしうつり星霜相積れり、而るにかたじけなくも釈尊の教をおろそかにしてほしいまま弥陀みだの文をそしる何ぞ近年の災を以て聖代の時におおあながちに先師をそしり更に聖人をののしるや、毛を吹いてきずを求め皮をつて血を出す昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ずおそる可く慎む可し、罪業至つて重し科条いかでのがれん対座猶以て恐れ有り杖に携われて則ち帰らんと欲す。
 主人みを止めて曰くからきことをたでの葉に習い臭きことを溷厠かわやに忘る善言を聞いて悪言と思い謗者ぼうしゃを指して聖人と謂い正師を疑つて悪侶にす、其の迷誠に深く其の罪浅からず、事の起りを聞けくわしく其の趣を談ぜん、釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実ごんじつを弁ず、而るに曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどう既に権に就いて実を忘れ先に依つて後を捨つ未だ仏教の淵底えんていを探らざる者なり、就中なかんずく法然は其の流をむと雖も其の源を知らず、所以ゆえんいかん大乗経の六百三十七部二千八百八十三巻・並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうの字を置いて一切衆生の心をとろかす、是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず、妄語もうごの至り悪口のとが言うてもならび無し責めても余り有り人皆其の妄語を信じ悉く彼の選択せんちゃくを貴ぶ、故に浄土の三経をあがめて衆経をなげうち極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る、誠に是れ諸仏諸経の怨敵おんてき聖僧衆人の讎敵しゅうてきなり、此の邪教広く八荒に弘まりあまねく十方にへんす。
 そもそも近年の災を以て往代おうだいを難ずるの由あながちに之を恐る、いささか先例を引いて汝が迷をさとす可し、止観しかん第二に史記を引いて云く「周の末に被髪ひはつ袒身たんしん礼度れいどに依らざる者有り」弘決ぐけつの第二に此の文を釈するに左伝さでんを引いて曰く「初め平王へいおうの東にうつりしに伊川いせに髪をかぶろにする者の野に於て祭るを見る、識者の曰く、百年に及ばじ其の礼先ず亡びぬ」と、ここに知んぬしるし前に顕れ災い後にいたることを、又阮藉げんせき逸才いつざいなりしに蓬頭散帯ほうとうさんたいす後に公卿の子孫皆之にならいて奴苟どこうはずかしむる者をまさに自然に達すと云い撙節兢持そんせつこうじする者を呼んで田舎でんしゃと為す是を司馬しば氏の滅する相とす已上。
 又慈覚じかく大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗ぶそう皇帝・会昌えしょう元年勅して章敬しょうきょう寺の鏡霜きょうそう法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝えむ寺毎に三日巡輪じゅんりんすること絶えず、同二年回鶻国かいこつこくの軍兵等唐の堺を侵す、同三年河北の節度使忽ち乱を起す、其の後大蕃国ばんこくた命をこばみ回鶻国重ねて地を奪う、凡そ兵乱秦項しんこうの代に同じく災火邑里ゆうりあいだに起る、いかいわんや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱をおさむること能わずして遂に以て事有り」已上取意。
 れを以て之をおもうに法然は後鳥羽院ごとばいん御宇ぎょう・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑うこと莫かれ汝怪むことかれ唯すべからきょうを捨てて善に帰し源をふさぎ根をたつべし。
第六段
 客いささやわらぎて曰く未だ淵底えんでいを究めざるにしばしば其の趣を知る但し華洛からくより柳営りゅうえいに至るまで釈門に枢楗すうけん在り仏家に棟梁とうりょう在り、然るに未だ勘状かんじょうまいらせず上奏に及ばず汝いやしき身を以てたやすゆう言を吐く其の義余り有り其の理いわれ無し。
 主人の曰く、予少量為りといえどかたじけなくも大乗を学す蒼蠅そうよう驥尾きびに附して万里を渡り碧蘿松頭へきらしょうとうかかつて千じんを延ぶ、弟子一仏の子と生れて諸経の王につかう、何ぞ仏法の衰微すいびを見て心情の哀惜あいせきを起さざらんや。
 其の上涅槃ねはん経に云く「若し善比丘あつて法をぶる者を見て置いて呵責かしゃく駈遣くけん挙処こしょせずんばまさに知るべし是の人は仏法の中のあだなり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞しょうもんなり」と、余・善比丘の身らずと雖も「仏法中怨」の責をのがれんが為に唯大綱たいこうつてほぼ一端いったんを示す。
 其の上去る元仁年中に延暦えんりゃく興福こうふくの両寺より度度奏聞そうもん・勅宣・教書を申し下して、法然の選択せんちゃく印板いんばんを大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院かんじんいん犬神人つるめそうに仰せ付けて破却せしむ其の門弟・隆観りゅうかん聖光しょうこう成覚じょうかく薩生さっしょう等は遠国おんごく配流はいるせらる、其の後未だ御勘気かんきを許されず豈未だ勘状をまいらせずと云わんや。
第七段
 客すなわやわらぎて曰く、経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、然れども大乗経六百三十七部二千八百八十三巻並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうの四字に載す其のことば勿論なり、其の文顕然なり、此の瑕瑾かきんを守つて其の誹謗を成せども迷うて言うか覚りて語るか、賢愚けんぐ弁ぜず是非定め難し、但し災難の起りは選択に因るの由さかんに其の詞を増しいよいよ其の旨を談ず、所詮しょせん天下泰平国土安穏あんのんは君臣のねがう所土民の思う所なり、夫れ国は法に依つてさかえ法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰かあがむ可き法を誰か信ず可きや(a)、先ず国家を祈りてすべからく仏法を立つべし若し災を消し難を止むるのじゅつ有らば聞かんと欲す。
 主人の曰く、余は是れ頑愚がんぐにしてあえて賢を存せず唯経文に就いていささか所存を述べん、そもそ治術じじゅつの旨内外の間其の文幾多いくばくぞやつぶさぐ可きこと難し、但し仏道に入つてしばしば愚案をめぐらすに謗法の人をいましめて正道のりょを重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。
 即ち涅槃経に云く「仏の言く唯だ一人を除いて余の一切にほどこさば皆讃歎さんたんす可し、純陀じゅんだ問うて言く云何いかなるをか名けて唯除ゆいじょ一人と為す、仏の言く此の経の中に説く所の如きは破戒なり、純陀た言く、我今未だ解せず唯願くば之を説きたまえ、仏純陀に語つて言く、破戒とはいわ一闡提いっせんだいなり其の余の在所あらゆる一切に布施ふせすれば皆讃歎すべく大果報をん、純陀復た問いたてまつる、一闡提とは其の義いかん、仏言わく、純陀若し比丘びく及び比丘尼・優婆塞うばそく優婆夷うばい有つて麤悪そあくの言を発し正法を誹謗ひぼうし是の重業じゅうごうを造つて永く改悔かいげせず心に懺悔ざんげ無からん、是くの如き等の人を名けて一闡提の道に趣向しゅこうすと為す、若し四重を犯し五逆罪を作り自ら定めて是くの如き重事じゅうじを犯すと知れども而も心に初めより怖畏ふい懺悔無くあえ発露はつろせず彼の正法に於て永く護惜建立ごじゃくこんりゅうの心無く毀呰きし軽賤きょうせんして言に過咎かぐ多からん、是くの如き等の人を亦た一闡提の道に趣向すと名く、唯此くの如き一闡提のやからを除いて其の余に施さば一切讃歎せん」と。
 又云く「我れ往昔むかしおもうに閻浮提えんぶだいに於て大国の王と作れり名を仙予せんよと曰いき、大乗経典を愛念し敬重けいじゅうし其の心純善じゅんぜん麤悪嫉恡そあくしつりん有ること無し、善男子我の時に於て心に大乗を重んず婆羅門ばらもん方等ほうどう誹謗ひぼうするを聞き聞きおわつて即時に其の命根みょうこんを断ず、善男子是の因縁いんねんを以て是より已来いらい地獄じごくせず」と、又云く「如来昔国王と為りて菩薩の道を行ぜし時爾所そこばくの婆羅門の命を断絶す」と、又云く「殺に三有りいわ下中上げちゅうじょうなり、下とは蟻子ぎし乃至一切の畜生なり唯だ菩薩の示現生じげんしょうの者を除く、下殺げさつの因縁を以て地獄じごく・畜生・餓鬼がきしてつぶさに下の苦を受く、何を以ての故に是の諸の畜生に微善根びぜんこん有り是の故に殺す者はつぶさ罪報ざいほうを受く、中殺とは凡夫の人より阿那含あなごんに至るまで是を名けて中と為す、是の業因ごういんを以て地獄じごく・畜生・餓鬼がきに堕してつぶさに中の苦を受く・上殺とは父母乃至阿羅漢あらかん辟支仏ひゃくしぶつ畢定ひつじょうの菩薩なり阿鼻あび大地獄だいじごくの中に堕す、善男子若しく一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず、善男子彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提いっせんだいなり」已上。
 仁王経に云く「仏波斯匿はしのく王に告げたまわく・是の故に諸の国王に付属ふぞくして比丘・比丘尼に付属せず何を以ての故に王のごとき威力無ければなり」已上。
 涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相さいしょう・及び四部の衆に付属す、正法をそしる者をば大臣四部の衆まさ苦治くじすべし」と。
 又云く「仏の言く、迦葉かしょうく正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身こんごうしん成就じょうじゅすることを得たり善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣・弓箭きゅうせん鉾槊むさくを持すべし」と、又云く「若し五戒を受持せん者有らば名けて大乗の人と為す事を得ず、五戒を受けざれども正法を護るをもっすなわち大乗と名く、正法を護る者はまさ刀剣器仗とうけんきじょう執持しゅうじすべし刀杖とうじょうを持すと雖も我是等を説きて名けて持戒と曰わん」と。
 又云く「善男子・過去の世に此の拘尸那城くしなじょうに於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益かんきぞうやく如来と号したてまつる、仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳かくとくと曰う、爾の時に多く破戒の比丘有り是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ刀杖とうじょう執持しゅうじし是の法師をむ、是の時の国王名けて有徳うとくと曰う是の事を聞きおわつて護法の為の故に即便すなわち説法者の所に往至おうしして是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す、爾の時に説法者厄害やくがいまぬかることを得たり王・爾の時に於て身に刀剣箭槊むさくきずこうむり体にまったき処は芥子けしの如き許りも無し、爾の時に覚徳いで王をめて言く、善きかな善きかな王今まことに是れ正法を護る者なり当来とうらいの世に此の身まさに無量の法器と為るべし、王是の時に於て法を聞くことを得已つて心大に歓喜しいで即ち命終みょうじゅうして阿閦仏あしゅくぶつの国に生ず而も彼の仏の為に第一の弟子と作る、其の王の将従しょうじゅう・人民・眷属・戦闘有りし者・歓喜有りし者・一切菩提ぼだいの心を退せず命終して悉く阿閦仏の国に生ず、覚徳比丘かえつて後寿いのち終つて亦阿閦仏の国に往生することを得て彼の仏の為に声聞衆中しょうもんしゅうちゅうの第二の弟子と作る、若し正法尽きんと欲すること有らん時まさに是くの如く受持し擁護おうごすべし、迦葉かしょう・爾の時の王とは即ち我が身是なり、説法の比丘は迦葉仏是なり、迦葉正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん、是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て以て自ら荘厳そうごんし法身不可壊ふかえの身をす、仏迦葉菩薩に告げたまわく、是の故に法を護らん優婆塞うばそく等はまさ刀杖とうじょうを執持して擁護すること是くの如くなるべし、善男子・我涅槃の後濁悪じょくあくの世に国土荒乱こうらんし互に相抄掠あいしょうりゃくし人民飢餓きがせん、爾の時に多く飢餓の為の故に発心ほっしん出家するもの有らん是くの如きの人を名けて禿人とくにんと為す、是の禿人の輩正法を護持するを見て駈逐して出さしめ若くは殺し若くは害せん、是の故に我今持戒の人・諸の白衣の刀杖を持つ者に依つて以て伴侶はんりょと為すことをゆるす、刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」と。
 法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終みょうじゅうして阿鼻獄あびごくに入らん」已上。
 夫れ経文顕然けんねんなり私の詞何ぞ加えん、凡そ法華経の如くんば大乗経典を謗ずる者は無量の五逆にすぐれたり、故に阿鼻大城に堕して永く出る無けん、涅槃経の如くんばたとい五逆の供を許すとも謗法の施を許さず、蟻子ぎしを殺す者は必ず三悪道に落つ、謗法を禁ずる者は不退の位に登る、所謂いわゆる覚徳とは是れ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦文なり。
 法華涅槃の経教は一代五時の肝心かんじんなり其のいましめ実に重し誰か帰仰きごうせざらんや、而るに謗法のやから正道を忘れあまつさえ法然の選択せんちゃくに依つていよい愚癡ぐち盲瞽もうこを増す、是を以て或は彼の遺体いたいを忍びて木画もくえの像にあらわし或は其の妄説もうせつを信じて莠言ゆうげんかたちり之を海内かいだいに弘め之を郭外かくがいもてあそぶ、仰ぐ所は則ち其の家風かふう施す所は則ち其の門弟なり、然る間或は釈迦の手指てのゆびを切つて弥陀の印相いんそうに結び或は東方如来の鴈宇がんうを改めて西土教主の鵝王がおうえ、或は四百余回の如法経をとどめて西方浄土の三部経と成し或は天台大師の講をとどめて善導講と為す、此くの如き群類ぐんるい其れ誠に尽くし難し是破仏に非ずや是破法に非ずや是破僧に非ずや、此の邪義則ち選択せんちゃくに依るなり。
 嗟呼ああ悲しいかな、如来誠諦じょうたい禁言きんごんそむくこと、あわれなるかな愚侶迷惑の麤語そごしたがうこと、早く天下の静謐せいひつを思わばすべからく国中の謗法を断つべし。
第八段
 客の曰く、若し謗法の輩を断じ若し仏禁のぜっせんには彼の経文の如く斬罪ざんざいに行う可きか、若し然らば殺害相加つて罪業いかんがんや。
 則ち大集経に云く「こうべ袈裟けさちゃくせば持戒及び戒をも、天人彼を供養す可し、則ち我を供養するに為りぬ、是れ我が子なり若し彼を撾打かだする事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、若し彼を罵辱めにくせば則ち我を毀辱きにくするに為りぬ」はかり知んぬ善悪を論ぜず是非をえらぶこと無く僧侶為らんに於ては供養をぶ可し、何ぞ其の子を打辱だにくしてかたじけなくも其の父を悲哀せしめん、彼の竹杖ちくじょう目連尊者もくれんそんじゃを害せしや永く無間の底に沈み、提婆達多だいばだった蓮華れんげ比丘尼を殺せしや久しく阿鼻のほのおむせぶ、先証れ明かなり後昆こうこん最も恐あり、謗法をいましむるには似たれども既に禁言を破る此の事信じ難し如何いか意得こころえんや。
 主人の曰く、客明に経文を見てなお斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか、全く仏子をいましむるには非ず唯ひとえに謗法をにくむなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍のうにんの以後経説は則ち其のとどむ、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せばいかなる難か並び起り何なるわざわいか競い来らん。
第九段
 客則ち席をえりつくろいて曰く、仏教斯くまちまちにして旨趣ししゅきわめ難く不審多端ふしんたたんにして理非明ならず、但し法然聖人の選択せんちゃく現在なり諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛しゃへいかくほうす、其の文顕然なり、れに因つて聖人国を去り善神所を捨てて天下飢渇きかつし世上疫病えきびょうすと、今主人広く経文を引いて明かに理非を示す、故に妄執もうしゅう既にひるがえり耳目しばしば朗かなり、所詮しょせん国土泰平たいへい・天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なりねがう所なり、早く一闡提いっせんだいを止め永く衆僧尼のを致し・仏海の白浪はくろうを収め法山の緑林をらば世は羲農ぎのうの世と成り国は唐虞とうぐの国と為らん、然して後法水ほっすいの浅深を斟酌しんしゃくし仏家の棟梁とうりょう崇重そうじゅうせん。
 主人よろこんで曰く、はとしてたかと為りすずめ変じてはまぐりと為る、よろこばしきかな汝蘭室らんしつの友にまじわりて麻畝まほの性と成る、誠に其の難をかえりみて専ら此の言を信ぜば風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならん、但し人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる、たとえばなお水中の月の波に動き陳前じんぜんいくさの剣になびくがごとし、汝当座とうざに信ずと雖も後定めて永く忘れん、若し先ず国土を安んじて現当げんとうを祈らんと欲せば速に情慮じょうりょめぐらしいそい対治たいじを加えよ、所以ゆえんいかん、薬師経の七難の内五難たちまちに起り二難なお残れり、所以いわゆる他国侵逼しんぴつの難・自界叛逆じかいほんぎゃくの難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革ひょうかくの災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊おんぞく国内を侵掠しんりゃくする此の災未だあらわれず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今さかんにして一難未だ現ぜず所以いわゆる四方の賊来つて国を侵すの難なり加之しかのみならず国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いてつぶさに事のこころを案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法のとがに依つて並び起り競い来らば其の時いかんがんや、帝王は国家をもといとして天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼しんぴつし自界叛逆して其の地を掠領りゃくりょうせば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家をめっせばいずれの所にか世をのがれん汝すべからく一身の安堵あんどを思わば先ず四表の静謐せいひついのらん者か、就中なかんずく人の世に在るやおのおの後生を恐る、是を以て或は邪教を信じ或は謗法を貴ぶおのおの是非に迷うことを悪むと雖も而もなお仏法に帰することをかなしむ、何ぞ同じく信心の力を以てみだりに邪義の詞をあがめんや、若し執心しゅうしんひるがえらず亦曲意きょくい猶存せば早く有為ういさとを辞して必ず無間の獄に堕ちなん、所以ゆえんいかん、大集経に云く「若し国王有つて無量世に於て施戒慧せかいえを修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護おうごせずんば是くの如くゆる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずしてまさに重病に遇い寿終じゅじゅうの後大地獄に生ずべし・王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官さいかん亦復また是くの如くならん」と。
 仁王経に云く「人仏教をやぶらばた孝子無く六親不和にして天竜もたすけず疾疫しつえき悪鬼日に来つて侵害し災怪さいげ首尾しゅび連禍れんか縦横じゅうおうし死して地獄・餓鬼がき・畜生に入らん、若し出て人と為らば兵奴ひょうぬの果報ならん、響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復またまた是くの如し」と。
 法華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗きぼうせば乃至其の人命終みょうじゅうして阿鼻獄に入らん」と、同第七の巻不軽品に云く「千こう阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と、涅槃経に云く「善友を遠離おんりし正法を聞かず悪法に住せば是の因縁の故に沈没ちんぼつして阿鼻地獄に在つて、受くる所の身形しんぎょう・縦横八万四千由延ならん」と。
 広く衆経をひらきたるに専ら謗法を重んず、悲いかな皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る、愚なるかなおのおの悪教のつなかかつてとこしなえに謗教のあみまつわる、此の朦霧もうむの迷彼の盛焰じょうえんの底に沈む豈うれえざらんや豈苦まざらんや、汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れおとろえんや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊はえなくんば身は是れ安全・心は是れ禅定ぜんじょうならん、此のことば此の言信ず可くあがむ可し。
第十段
 客の曰く、今生こんじょう後生ごしょう誰か慎まざらん誰か和わざらん、此の経文をひらいてつぶさに仏語を承るに誹謗ひぼうとが至つて重く毀法の罪誠に深し、我一仏を信じて諸仏をなげうち三部経を仰いで諸経をさしおきしは、是れ私曲しきょくの思に非ず則ち先達せんだつの詞に随いしなり、十方の諸人も亦復また是くの如くなるべし、今の世には性心を労し来生には阿鼻にせんこと文明かに理つまびらかなり疑う可からず、いよいよ貴公の慈誨じかいを仰ぎ益愚客の癡心ちしんを開けり、速に対治をめぐらして早く泰平を致し先ず生前しょうぜんを安じて更に没後ぼつごたすけん、唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。
(a) 日蓮の安国観念の独自性は、その中心的意味を天皇などの特定の権力(狭義の国家=王法)の安泰から広義の国家としての国土と人民の安穏へと転換させたところにあった…一見すると「安国」「護国」といった類似の言葉を用いながらも、それが支配者とりわけ天皇の安泰を第一義としていた伝統仏教と、その中心概念を国土の安寧と人民の平和へと転換させた日蓮の間にはきわめて大きな隔たりがあったのである。[佐藤 p. 38]

戸田城聖著『日蓮大聖人御書十大部講義「立正安国論」』

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Min Kabwan, a Forgotten Korean

[Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)]

Few people in Korea or Japan know of Min Kabwan (1897-1968). Although her autobiography, “One Hundred Years of Resentment,” was made into a movie in 1963, Min Kabwan has been completely forgotten in the 54 years since her death.

The Life of Min Kabwan

In 1907, when Japan’s annexation of Korea was underway after two Japan-Korea agreements since the end of the 19th century, at the age of 9, she became the fiancé of Yee Eun, the last crown prince of the Joseon Dynasty, but the crown prince was taken to Japan immediately after their engagement. With the ongoing colonization by Japan, Kabwan was forced to break off the engagement at the age of 21, a little more than 10 years after the engagement. Six months later, her grandmother died in deep sorrow, and six months after that, her father died shortly after taking a medicine prepared by a doctor named An.

At the age of 22, Kabwan’s life became increasingly unsafe, and she took her younger brother Chonen and went into exile in Shanghai, where many Koreans were living in exile at the time. During her 26 years in Shanghai, she changed her residence several times to escape Japanese officials. She was forced to live like a fugitive, unable to leave the house freely. Her fiancée, Yee Eun, went to Japan when he was 10 years old and spent most of his life there. In the year of Kabwan’s exile, he married Nashimoto-miya Masako, who was also a candidate for the position of queen of the Emperor Showa.

It is difficult for people today to understand, but there was a society in the first half of the 20th century in which getting engaged carried the same weight as marriage. During her exile in Shanghai, several men approached her, and some people around her, including spies dispatched by the governor-general, advised her to get married. In particular, a Chinese female revolutionary, who had also remained celibate throughout her life, tried to persuade Kabwan, but she remained celibate for the rest of her life. The deep melancholy and loneliness that overflows between the lines of this book are poignant and appealing even to people today.

In May 1946, Kabwan returned to South Korea after debating whether or not to stay in Shanghai, but the latter half of her life was not smooth: in 1950, when she had found enough money to start a social welfare project, it was cut short by the outbreak of the Korean War. It is heartbreaking to think of her huddled with her younger brother and her family downstairs in a Western-style house called Sadong-gung in Jongno, shivering at the sound of artillery shells.

In the early morning of June 26, 1950, she and her younger brother’s family risked their lives to cross the Han River and head for Cheongju, her father’s hometown. After the war, she and her family settled in Busan, the southernmost part of the Korean Peninsula, at the behest of Chonen, who believed that the North would invade again.

Personal History Forces Review of Contemporary History

What does Kabwan’s life, which could be said to have been tossed about by the modern Japanese and Korean history, tell us? As we have passed the centennial of Japan’s annexation of Korea in 1910, Kabwan’s “One Hundred Years of Resentment” is more than just a record of one Korean woman’s life. It is also a book that will compel us to rethink history, the state of the nation, and the lives of those who are at its mercy.

Kabwan was continuously tossed about by major events in the modern history, including the annexation of Korea (1910), the Sino-Japanese War (1937-45), and the Korean War (1950-1953). In tracing her life, we are forced to reflect on the history of Korea and Japan. It is important to note that the significance of these events differs greatly between Japan and Korea.

For example, the year 1910 was a loss of national rights for Korea, but an expansion of its territory for Japan; the liberation of Korea on August 15, 1945 (Kwangbok) was a defeat and the end of the war for Japan; was the end of the war for Korea. Or the war that ravaged the entire Korean Peninsula from 1950-1953, brought a special procurement boom to Japan.

What makes her autobiography “One Hundred Years of Resentment” more than a personal history of a woman is that her life was not only continuously tossed about, but also greatly disrupted by these major events in modern history. Each fragment of contemporary history that comes to light through the record of her life seems to force us to rethink the history of Japan and South Korea.

[Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)]

Korea and Imperial Japan(2)

Korea and Imperial Japan よりつづく

韓國統監府日本が韓国を支配するために設置した統治機構。1905年11月17日、第二次日韓協約を結び韓国の外交権を剥奪し、統監及び理事官を置いた。11月21日、統監府を京城に設置し、統監には伊藤博文が就任した。統監は天皇に直隷し、韓国において日本政府の代表となり、また韓国の外交に関する事項を統轄した。さらに、必要に応じて韓国守備軍への指揮権が統監に付与された。統監府が設置されるまでに日本は韓国に対して、防衛・外交・財政・交通・通信・拓殖の諸分野への影響力を有していた。統監府には総務部・外務部・農商工部・警務部が置かれた。所属官署として通信官署(通信管理局・郵便局・郵便所)・鉄道管理局・法務院・裁判所を管轄していた。1907年7月には第三次日韓協約が締結され、同10月には官制改正がおこなわれる。その後も韓国の主権は縮小され、韓国併合直後の1910年10月1日に統監府は朝鮮総督府に改変された。
理事庁韓国統監府の職務を分掌するため各地に置かれた機構。1905年11月27日、第二次日韓協約が締結されると第三条に基づいて、韓国の各開港場と日本国政府の必要と認める地に理事庁が置かれた。理事官(奏任官)は統監の指揮監督を承け、これまで領事館が担ってきた業務を引き継いだ。さらに安寧秩序を保持するために緊急の必要があると認める場合、当該地方駐在帝国軍隊の司令官に出兵を請うことができ、また韓国の施政事務であって条約に基づく義務の履行のために必要があれば、韓国当該地方官憲に執行させることができた。理事庁は釜山・馬山・群山・木浦・京城・仁川・平壌・鎮南浦・元山・城津・大邸・新義州・清津に設置された。1907年9月の官制改正で理事庁の警察官は廃止され、看守を置くことになった。1910年7月、理事庁の警察事務は警務総監部または各警務部に移管、同年10月に朝鮮総督府が成立すると理事庁は廃止され、船舶および船員に関する事務は税関に、戸籍に関する事務は警察署に移管され、その他の業務は道および府に引き継がれた。
朝鮮総督府1910年8月韓国併合に伴い、日本が朝鮮を統治するために設置した機関。韓国統監府を前身とし、韓国政府の諸機関を統合・改変後、1910年9月に公布された「朝鮮総督府官制」に基づいて京城に設置された。総督府には総督と補佐役の政務総監の下に、総督官房および総務・内務・度支・農商工・司法の5部が設置され、所属官署として警察・裁判所を含む各諸機関が置かれた。その後、数次の官制改革が行われたなかでも、1919年8月と1943年12月に行われた改正は大規模であった。1919年、三・一独立運動の結果、武断政治の限界が明らかとなり、文化政治へ転換。総督の任用範囲を文官にまで拡げ、陸海軍統率権を撤廃したが、文官が総督に就くことはなかった。また総督府の機構も改編し、所属官署の警務総監部・各道警察部を廃止。憲法警察制度を廃止したが、警察署・派出所の数は増加した。1943年の改革では、内務大臣が総督に対して「統理上必要ナル支持」を行うことができるよう、軍需省の新設など中央政府の改変にあわせて改められた。官制改正毎に機構体制が変わっても、総督府支配の軍事的な背景のもとで統治をおこなう性格は変わらなかった。
年表アジ歴グロッサリー: 公文書に見る明治日本のアジア関与 内政・外政・工業 航路・電信・燈台
アジ歴グロッサリー: 公文書に見る「外地」と「内地」より転載(写真・文とも)

Korea and Imperial Japan

ミンカブァン関連年表: [ ]内は陰暦

1875.8.25 大日本帝國の軍艦雲揚号 江華島付近で武力示威行動、永宗ヨンジョン島に上陸し住民を殺害 9.20 江華島事件起きる 10月 帝國軍艦 釜山に来航し武力示威行動
1876.1.26 日朝修好条規(江華条約)に調印
1880.4.17 漢城ハンソン(現在の서울ソウル)に大日本帝國公使館を設置 12月 花房義質 弁理公使に着任
1882.7.23 朝鮮兵 帝國公使館を襲撃(壬午임 오変乱) 8.30 済物浦チェムルポ(現・仁川)条約・日朝修好条規続約に調印
1884.10.30 帝國公使館に領事館を設置 12.4 金玉均・朴泳孝ら甲申갑 신事変(竹添公使関与)
1885.4.18 日清 天津条約に調印
1889.10 咸鏡ハムギョン道で防穀令を施行
1892.11 大石正巳 公使に着任
1893.5 東学 忠清チュンチョン報恩ボウン郡で大集会開催 7月 大鳥圭介(在北京公使) 朝鮮公使を兼任
1894.3 東学 全羅チョルラ道で蜂起、5月 全州チョンジュが陥落 6月 清 陸海軍を派兵、大鳥公使着任、大日本帝國 陸海軍を派兵 7.25 日清戦争が勃発 7月 金弘集キムホンジプ 領議政に就任、諸改革を断行 10月 井上馨 公使に着任
1895.4.17 下関条約(日清講和条約)に調印 6.17 臺灣たいわん総督府を設置 9.1 三浦梧樓 公使に着任 10.8 三浦公使・岡本柳之助ら明成ミョンソン皇后を惨殺ざんさつ(乙未을 미事変、日本では閔妃ミンビ暗殺) 10.17 三浦公使を召還、小村壽太郎 公使に着任
1896.1 義兵運動起こる 2.11 館(ロシア公使館)播遷はせん
1897.2.20 高宗 ロシア公使館を出て慶運宮(現・德壽宮)に還御 10.12 朝鮮 大韓帝國に改称、高宗コジョン 大韓帝國皇帝に即位 10.20민갑완ミンカブァン 笠洞イプトン(現・서울特別市鍾路2街)で生まれる[9.25]、同じ日に李垠イウン生まれる
1899.8.17 大韓帝國 大韓國國制(憲法)を発布
1904.2.10 日露戦争が勃発 2.23 日韓議定書に調印
1905.9.5 ポーツマス条約に調印、日露戦争が終結 11.17 第2次日韓協約に調印 カブァンの叔父閔泳煥ミンヨンファン 抗議の自殺 11月 領事館を改組した韓國統監府(伊藤博文初代統監)および(現)서울・仁川・釜山・元山・鎮南浦진 남 포(平壌の外港)・木浦・馬山ほかに理事庁を設置
1906.2.9  弟の千幸チョネン 水標洞スピョドン(서울)で生れる
1907.3.14  初揀擇かんたくの儀([2.1] 德壽宮トクスグン) カブァン 皇太子妃候補に選ばれる 6月 ハーグ密使事件 8月 純宗スンジョン 大韓帝國皇帝に即位、イウン 大韓帝國皇太子に即位 12.5 イウン 日本へ連行される
1908.1.23   第2回揀擇かんたくの儀、ミン家に婚約指輪届く[07.12.20]
1909.10.26 安重根アンジュングン 伊藤博文統監を暗殺
1910.8.22  大日本帝國 大韓帝國を併合 9.10 韓國統監府を改組した朝鮮総督府(寺内正毅初代総督)を設置
1916.8.3   イウン・梨本宮方子 婚約発表
1918.1.13  イウン 一時帰国[17.12.1] 1.31 婚約破棄を迫られる[丁巳정 사17.12.18] 2.13 婚約破棄[戊午무 오18.1.3] 7.5 カブァンの祖母死去(5.27)
1919.1.4 カブァンの父 閔泳敦ミンヨンドン 死去[18.12.3] 1.21 高宗コジョン崩御ほうぎょ[18.12.18]を公表[12.20] 3.1 三一独立運動始まる
1920.4.28  イウン・方子結婚 7.22 カブァン・弟仁川インチョン港から上海へ(東亜トンヤ飯店に約3ヵ月滞在)  10月 フランス租界 宝裕里バオユリへ移転(カブァン・弟 晏摩氏アンマシスクール入学)
1924年初 カブァン 同スクールを退学し山海シャンハイ関路グヮンルへ移転
1927.5.30  イウン・方子欧州旅行、上海港で上陸せず沖合に停泊中の軍艦八雲やぐもで宿泊
1928.10.22  カブァンの母死去[9.9]
1931.9.18 満州事変が勃発
1932年 共同租界の愚園路ユユァンルへ移転
1935年 弟一時帰国し結婚([12.7] 婚姻届)
年不詳 共同租界の膠州路ジャオジョウルへ移転
1945.8.15 太平洋戦争が終結、大日本帝國が敗戦し朝鮮解放される
1946.6 カブァン・弟の家族上海を離れ帰国、서울駅前の大同テドン旅館に滞在
1947/48年 六親等の弟の家で約2年滞在
1949/50年 妹マンスンの家で数ヵ月滞在、その後 寺洞宮サドングンへ移転
1950.6.25 朝鮮戦争が勃発、清州チョンジュに疎開、その後ブサンへ移転
1953.7 朝鮮戦争の停戦協定調印される
1962.11.23『閔甲完ミンカブァン女史人生手記: 百年恨ペンニョナン』文宣閣より発行
1968.2.5 弟チョネン死去[1.7]
1968.2.18 カブァン死去[1.20]
2014.7.10『대한제국의 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀: 민갑완 (大韓帝国最後の皇太子イウンの婚約者:ミンカブァン)』지식공작소  Communicationbooks より発行
Korea and Imperial Japan(2) もご参照ください

亡命前서울の住所

住所西暦等
笠洞イプトン1897年から98年
漢洞ハンドン1898年から1906年より後
水標洞スピョドン1906年より後(年不詳)に引っ越し

上海の住・居所

住・居所(租界)西暦カブァン動向
東亜トンヤ飯店(英)1920上海到着直後
宝裕里バオユリ(仏)1920-24晏摩氏アンマシスクール通学
山海シャンハイ関路グヮンル(英)1924-32外出を自制
愚園路ユユァンル(共同)1932–膠州路ジャオジョウル移転まで
膠州路ジャオジョウル(共同)–1946上海を離れるまで

帰国後の住・居所

住・居所等時期・行政區等
서울駅前の大同テドン旅館1946年6月から1-2年
六親等の弟の家離れ約2年(1947/48-1949/50)
妹マンスンの家数ヵ月(推定 1949/50)
寺洞宮     朝鮮戦争勃発時の住居
清州チョンジュ        朝鮮戦争中の疎開先
東萊トンネ温泉洞オンチョンドン    ブサン市東莱トンネ區内
長箭洞チャンソンドン      ブサン市 金井クムジョン區内

参考: 서울<京城<漢城<漢陽

首都読み国名・情勢・西暦等
서울seoul大韓民国
1946-
京城keijo大韓國(大日本帝國が併合)
1910-1945
漢城한성朝鮮、大韓國・大韓帝國
1392-1910
漢陽
開京
한양
개경
高麗(古代三國*を統一)
*新羅・後高句麗・後百濟
918-1392

Kabwan and her contemporary

Min Kabwan and her niece, Shanghai(1)
カブァンと姪ビョンスン(上海時代) 민갑완과 질녀 병순, 상해시대

…僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァンの写真や資料を集め…

[02] 민갑완 묘비, 부산 용호동 천주교공동묘지
カブァンの墓碑(プサンのカトリック共同墓地にあった) 민갑완 묘비, 부산 용호동 천주교공동묘지
西紀一八九七年九月二五日駐英公使閔泳敦氏의三女로서울笠洞서誕生
一九〇七, 二, 一, 英親王妃三揀擇日帝侵略으로九一八, 一, 三, 高宗皇帝가下賜한信物強奪破婚害로上海亡命, 一九四五年祖國光復과함께帰
一九六二年手記「百年恨」發表, 翌年映畫化
忠臣不事二君烈女不更二夫의굳은理念下에生을童貞으로一九六八年二月一九日聖芬道院에서善終하시다
이生에서못피우신青春天國에서永樂하소서
  西紀一九六八年二月二十三日
(↑写真下に隠れた五字[太字]を読者の指摘により復元した)

[06] 민영환
叔父ミン・ヨンファン(閔泳煥) 민영환
[08] 3.1운동, 덕수궁 대한문 경성일보사 앞, 1919년
1919年の3・1運動(徳寿宮大漢門、京城日報社前) 3.1운동, 덕수궁 대한문 경성일보사 앞, 1919년
徳寿宮中和門から見た中和殿と石造殿:1910-11年
徳寿宮中和門と中和殿(1910-11年) 덕수궁 중화문 및 중화전, 1910-11년
徳寿宮の中和殿(2)
徳寿宮中和殿(現在) 덕수궁 중화전, 현재 모습
[14] 서울시 청계천 수표교, 1902년
ソウル市清渓川の水標橋(1902年) 서울시 청계천 수표교, 1902년
現在の水標橋
ソウル市清渓川の水標橋(現在) 서울시 청계천 수표교, 현재 모습
[17] 일본 황태자 방한 기념 사진, 1907년
嘉仁親王[後の大正天皇]の訪韓記念写真(1907年) 일본 황태자 방한 기념 사진, 1907년
京仁線開通時の仁川駅:1899年
京仁線開通時の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 개통시의 인천역, 1899년
仁川港:1925年ごろ
仁川港(1925年前後) 인천항, 1925년 전후
[25] 김규식
キム・ギュシク(金奎植) 김규식
Miss Hannah Fair Sallee, Principal:晏摩女中の年刊(1940年)より
晏摩氏女中サリー校長(1915-25年)、Ms. H. F. Sallee 암마시스쿨 교장(1915-25년) Ms. H. F. Sallee
Eliza Yates Girls' School, 1925
晏摩氏女中の校舎 암마시스쿨 교사
Shanghai Jiao Tong University, 2007
上海交通大学構内にある建物(晏摩氏女中の場所) 암마시스쿨이 있었던 곳, 현재 상해교통대학교 구내에 있는 건물
大韓民国臨時政府の旧跡
大韓民国臨時政府の旧跡 대한민국 임시정 옛터
大韓民国臨時政府の旧跡内にある金九像と執務室
大韓民国臨時政府キム・グ(金九)執務室 대한민국 임시정부, 김구 집무실
[42] 6.25 직후 남산에서 본 서울역 부근 모습, 1950년
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発直後のソウル駅 6.25 직후 남산에서 본 서울역 부근 모습, 1950년
[43] 부산항과 부산역 1950년
プサン港・プサン駅(1950年) 부산항과 부산역 1950년
[46] 수복직후의 서울역과 주변 모습, 1950년 9울 28일
1950年9月28日、修復直後のソウル駅 수복직후의 서울역과 주변 모습, 1950년 9월 28일
[49] 민갑완 종언(終焉)의 지 장전(長箭)동, 1956년 사진
カブァン終焉の地プサン市金井区長箭洞(1956年) 민갑완 종언(終焉)지 장전(長箭)동, 1956년 사진
[50] 부산, 성분도병원 빌딩
カブァンが逝去したプサン市聖芬道病院 부산, 성분도병원 빌딩
閔甲完の骨壺(左上)と閔千植夫妻の骨壺(右上)
プサン市機張郡シロアム公園墓苑納骨堂 실로암공원묘원 납궐당
Min Kabwan and her brother's family, Shanghai(2)
弟のチョンシク(閔千植)家族とカブァン(上海時代) 민천식 가족과 민갑완, 상해시대

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암마시스쿨 In search of old Shanghai

15年前、僕は何かに追い立てられるように민갑완ミンカブァン(閔甲完 1897-1968)に関わる写真や資料を集めていた。上海語の個人授業も受けた。羽田から上海虹橋ホンチャオ空港に飛んだのは2007年4月20日だった。同年12月と09年8月にも上海を訪ねている。カブァンの上海亡命中の暮らしについて確認したいことがいくつかあったからだ。木之内誠編著『上海歴史ガイドブック』(大修館書店 1999年)を片手に上海市内を徘徊はいかいした。

1920年7月に仁川インチョンを出港したカブァンと弟は上海に到着してから約3ヵ月を東亜トンヤー飯店というホテルで過ごした。そのホテルは現在も南京路ナンチンルーに面して建ち、往年の姿を留めている。そこに韓国臨時政府の김규식キムギュシク(金奎植 1881-1950)が訪ねて来る。同年10月、彼の采配さいはいでカブァンと弟は암마시스쿨アムマシスクールに入学するのだが、彼らが長期滞在したホテルかどんなところだったのか、アムマシスクールというのがどこにあってどんな学校だったのか、よくわからなかった。

翻訳原稿を読み返しても何らの風景も浮かんでこない。このばくとした曖昧あいまいさが僕を苛立いらだたせあせらせていた。上海の当時の地図と「歴史ガイドブック」を頼りにほとんど無計画のまま上海に行き、少しずつ画像化していったのだ。このとき、翻訳編集は新たな段階に入っていたと思う。単なる字面じづらの翻訳では納得できなかったのだ。彼女をほかにも大勢いたであろう日韓史の犠牲者の一人として伝えても無意味だと思うようになった。

カブァンという女性について、韓国でも日本でもほとんどの人は知らないし、たとい知ったとしても関心を示さない。たまたま関心を抱き、自伝の翻訳を通して多くを知り得た者として、それを一人でも多くの人に伝えたいのだが、いまだにその方法を考えあぐねている。

以下、カブァン自伝より上海に亡命した直後のようすを伝える部分(仮訳)を紹介する。くり返し読みセリー校長の顔写真を見ていると、この人はこんな眼でじっとカブァンと弟を見つめたのだろうと思う。慈愛じあいに満ちた表情で彼らをあたたかく見守ってくれたに違いない、などと思う。

金奎植キムギュシク博士の言葉は、泣きながら過ごしてきた私に警鐘けいしょうを鳴らしてくれました。博士にお会いした3日後、私とチョネンは博士の紹介で学校に行きました。晏摩氏アンマシスクール[1]というアメリカ人女性セリー校長[2]が経営する大きな学校で初中等教育課程を持っていました。ピアノが12台もある音楽室があり、大きな図書館もありました。
キム博士が「韓国の愛国烈士れっしの子女」が亡命してきたと伝えていました。校長は私たちを丁重ていちょうに迎えいれ、中国語の個人指導教師まで手配してくれました。
私は中等部に入り、チョネンは初等部に入って学ぶことになりました。ただ、しばらくはまるで案山子かかしのように、他の生徒が教室に入れば入り、出るとあとについて出る、それしかできませんでした。
中国語の個人指導はとても効果的でした。他のことはともかく、知らない国で暮らしていて言葉が通じない苦しみほどつらいことはありません。生まれ落ちたときからの聾唖者ろうあしゃでもない私があらゆることに目つきと手ぶりで応じるのですから、本当に気が滅入めいりました。
韓国にいたときも、中国行きが決まってからひそかに中国人を奥の部屋に呼んで3-4ヵ月教えてもらいましたが、使おうとしても思うように言葉が出てきません。個人指導をしていただくのも主に筆談ひつだんでした。文字に書いて音を習ったのです。
いつしか冬も過ぎ、春が来ました。私の上海もかなり上達し、簡単な言葉なら話すことができるようになりました。時間があるときは中国の怪談の本を読んだり、お手伝いさんと話したりしました。
叔父がバス会社のマネージャーだったので、3ヵ月のホテル生活を切り上げ家を借りて暮らすことができました。フランス租界の保裕里ポユリにある質素な家で、二人の叔父と叔母にチョネンと私の5人で暮らしました。言葉がよく通じないからとお手伝いさんを置いたのですが、今ではかなり言葉も通じるようになりました。
ある日、人をかいして韓国から便りが届きました。上海に到着してからも、ときどき手紙だけはやり取りしていたのです。これまでは私たちに心配をかけまいと、安否あんぴを尋ねる簡単なものでした。ところが、今回の手紙で家がたいへんな状態にあることを知らされました。
私たちが上海に渡って3ヵ月過ぎてから刑事たちが次々と家に訪ねてきたそうです。「娘をどこに隠したんだ」「早く手紙を出して呼び戻せ」などと叫び、ありとあらゆる狡猾こうかつ脅迫きょうはくをしたといいます。さらに、母方ははかたの祖父と母を交替で投獄して苦しめたというのです。母は私のことで、祖父は叔父たちのことで、このような目にったのでした。
[1] Eliza Yates School、1940年(中華民國曆29年)発行、許晩成編「上海學校調査錄」(Directory of Schools and Institutions in Shanghai)には「晏摩氏女中、外灘7號大廈4樓、應美瑛校長、敎會立」「卽前省立松江中學(松江高級中學、靜安寺路591弄141號)」とある
[2] Miss Hannah Fair Sallee [写真] 1915-25年校長

電車という名の動く寺院 mobile temples (a short story)

この短編を「縦書き文庫」でお読みください. Click!
関連作: 老人たちよ異界でタンゴを舞うな

鉄道会社の駅務員だった主人公はその仕事を天職と信じ、他の誰よりも献身的に駅務に尽くしました。おそらくその献身ぶりがたたったのでしょう。半年あまり過ぎたころから精神に変調をきたし、一年ほどでめてしまいます。以下の文章は、そのあいだに彼が観察した電車と駅構内などにおける人々の生態について彼が担当医と記録係に話した内容をもとにしています。

駅のホーム

大きくカーブした線路に沿ってホームが弧状こじょうに延びている。ホームの上には、白い塗料をぬりたくった鉄柱が規則正しく並び、半透明なアーチ状の屋根を支えている。何本かおきに柱の上方に取りつけられたスピーカーが、朝暗いうちから深夜まで、一定の間隔をおいて電子音のチャイムと駅員のヒステリックな声を吐き出し続ける、いかにも都会的で無機質むきしつな風景だ。

電車の最前部の車輌が、みるみる大きくなって駅に近づいてくる。

ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)
電車が入ってまいります(録音された声が流れる)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声が流れる)

朝のラッシュ時間、ひっきりなしにホームに入ってくる電車が威厳いげんを示すように警笛けいてきを鳴らすたびに、駅員たちがあわただしく動き回り、苛立いらだたしげに決められた台詞せりふを叫ぶ。それにあおられるかのように、ホームを行き来する人々の動きがあわただしさを増す。

電車が入ってまいります(録音された声)
ピピーピッピー(駅員がホイッスルを吹く)
足元の黄いろい線の内側までおさがりください(録音された声)
ブァアアン(電車の警笛が響きわたる)

駆けこみ乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)

ダンダラダーダンダラダーダンダラダラダー(発車の電子音が響く)
ドアが閉まります、無理なご乗車はおやめください(駅員が叫ぶ)
次の電車がまいります(電光掲示板の文字が表示される)
次の電車をご利用ください(駅員が叫ぶ)

電車が発車します、おさがりください(駅員が叫ぶ)
ピピーピッピー(ホイッスルが鳴る)

この物語の主人公である凭也ヒョーヤは、朝のホームが好きだった。毎朝夕こんな光景を見ていた。そのまっただなかで、改札口を通り過ぎていく相手の定まらない人々に向かって、数秒ごとにあいさつをくり返すのが彼の仕事だった。仕事の一部としてそうするのだが、彼にあいさつを返す人はいない。改札係など機械じかけの人形ぐらいにしか考えていない人々は、うつむき加減かげんに急ぎ足で彼のよこを通り過ぎるだけだ。彼が発するあいさつのことばは人々の靴音くつおとのなかにむなしく消えていく。

ドドッドドッドドードドッドドッドドー(人々の靴音が響く)
おはようございます、おはようございます(改札係が声を出す)
通勤お疲れさまです、お疲れさまです(改札係があいさつする)

改札係になって数ヵ月のあいだ、凭也は駅のホームとそこを通過する電車が作り出す光景が神聖な伽藍がらんのように見えた。朝夕の陽光を浴びてホームを動き回る人びとの姿は敬虔けいけんな信者のように映ったし、仕事とはいえ宗教儀礼のようにあいさつすることに何の疑いもいだかなかった。人々に対して、家畜に対したときのような優越感を抱くことはあったが、ホームも駅舎もすべて通過する人々の寄進きしんで建てられたものだったし、彼らがいなくなれば改札係もいらなくなると考えていた。まるで当然のことのように、通過していく人々をうやまっていたのである。

お勤めごくろうさまでした、ごくろうさまでした(改札係があいさつする)
本日もご利用いただき、ありがとうございました(改札係が頭をさげる)
ありがとうございました、ありがとうござ……

電子音と駅員たちの声がスピーカーから流れるたびに、ホームの光景に彼らの苛立ちと怒りが渦巻うずまいているように感じるようになったのは半年ほどたってからだった。それでも、自分をとりまく光景を不自然に感ずることはなかった。ごくあたりまえのことだと考えていた。一年以上ものあいだ、彼はほとんど休むこともなく働きつづけたのだから。それは敬虔といってよいほどであった。それがわざわいしたのかもしれない。いつのころからか、駅員たちの叫び声が罵声ばせいに聞こえるようになった。

おい、いったい何度いったらわかるんだ
ホームのはしを歩くんじゃない
ドアがしまるといってるんだ
おい、走るんじゃない
ほかの人に迷惑だからやめろといってるんだ
やめないか、おい、いい加減にしろ
おまえたちなんか家畜とおんなじだ
電車に引かれて死んでしまえ
死んでしまえばいいんだ

つづきは縦書き文庫でお読みください。→「電車という名の動く寺院」

写真: 韓国・京仁線の仁川駅(1899年) 경인(京仁)선 인천역, 1899년

絵画とデッサンで描くタンゴの世界

パリ在住の日本人画家でタンゴ・ミロンゲロ(一般的に知られているショータンゴとは異なるブエノスアイレス生まれの伝統的な<タンゴ> tango milonguero)の普及に努める女性がいます。僕も大いに感化され<タンゴ>に魅せられた者の一人です。

<タンゴ>の何に魅了されたのでしょう。おそらく最大の理由は僕に<タンゴ>を教えてくれる人が<ダンサー>ではないことです。同世代ということもあるかもしれません。半世紀ほど異国で過ごし、画家を本業としながら、さまざまなダンスを習った末に<タンゴ>に出会って魅了された、そういう来歴らいれきに引かれたのです。

そんな彼女をとりこにした<タンゴ>に僕も魅了された。まだうまくリードできないのに不遜ふそんながら、そう考えています。彼女が絵画とデッサンで描く<タンゴ>の世界に引かれたということです。70歳にしてこういう世界を知った者は仕合しあわせというべきでしょう。

…日本人も勿論もちろんアジア系なのですが、中国人や韓国人と違って、独特の内向性ないしストイック(抑制的)な面を備えています。タンゴの持つ情熱的な要素とこの抑制的な要素がぶつかると、そこに葛藤かっとうを生じます。とくに、ミロンゲロではペア同士が体を接することもあり、異性をハグ(抱擁ほうよう)することにれていない多くの日本人はその違和感をだっしないまま、タンゴから遠ざかってしまうようです。
長年パリに住みながら、過去10年ほどのあいだ何度か日本に短期滞在し、タンゴに魅せられた人々を観察してきた私は、日本美の根底に抑制された美意識を見ます。情熱を抑制しながら表現できるようになると、単なる情熱の表出とは違う一種の気品や格調の高さが生まれます。それが日本的なタンゴだといえるかもしれません。
日本人はそういう抑制された感情表現が得意だと思うからです。ただ、その抑制力が否定的に作用すると内向きになり、単なる内気になってしまいます。それを克服こくふくして情熱を表現できたら本当にすばらしい。タンゴと日本的な美意識を融合する—そんなことをめざす人が増えたら、とひそかに期待しています…
パリから見た日本のタンゴ tango milonguero より
(c) wakakoyamamoto

頭脳流出と同調圧力

真鍋叔郎博士(1931-)がノーベル物理学賞を受賞するや、日本のメディアはこぞって日本人のノーベル賞受賞として大きな見出しで扱った。そして、日本人の「頭脳流出」問題を指摘する。

だが、待てよ、「頭脳流出」って何だろう。日本人の優秀な研究者等が日本から海外に出ていくのをいうが、なぜそれを嘆かなくてはいけないのだろう。世界に出て行ったのだから、その分野における世界貢献だと考えられないのだろうか。

真鍋博士の場合は米国籍を取得している。その理由の一つとして「社会に同調する能力が欠けている」と言ったそうだ。彼の修論に注目した米国の研究者たちがすごいと思うが、彼らはもしかしたら日本の研究環境の窮屈さや不自由さをよく理解しているのかもしれない。

まったく関係ないように思われるだろうが、雅子皇后の適応障害や眞子内親王のPTSDも同調圧力によるところが大きいのではないか。日本のなかでも皇室はとくにその圧力が大きいと想像するからである。

「縦書き文庫」という試み

2021年7月に縦書き文庫に出会った。誰でも簡単に創作小説等を投稿することができるサイトだ。運営者が開発した組版エンジンを2005年から無償で提供している。「小説とブラウザの新しい関係を模索するウェブサービス」と銘打ち、読者のページ送りにもとづく評価を採用している。その趣旨に共感し何作か投稿している

縦書き文庫の魅力は利用者が登録さえすれば、その組版エンジンを無料で利用できることであり、操作が簡単で使いやすく電子書籍リーダーがなくてもスマホやPCで利用できることだ。文学作品を無償で提供する青空文庫の作品を縦書きにして投稿作品とともに載せることで掲載作品の内容と時代を広げている。

縦書き文庫という新たなサイトの動向に大いに期待したい。既存の出版業界にはない可能性がここにあると思うからだ。下の写真は1934年に発見された宮澤賢治(1896-1933)の遺稿となった手帳の一ページ、縦書き文庫とはとくに関係ないが、タテガキの一例として載せた。

(c) t.livepocket.jp 1931.11.03 Miyazawa Kenji

「むらぎもの八戸歳々時記」とは

このブログは青森県八戸(はちのへ)市に住む「八戸歳々時記(さいさいじき)」の筆者が2012年末に投稿を始め、16年晩夏から  Facebook に投稿した記事を、筆者の了解を得て転載編集しています。筆者とは1年以上音信がとだえていましたが、21年10月初旬にFB messengerでつながりました。

記事は以下の分類に分けられ、筆者の日常生活から政治・社会批判まで多岐に及んでいます。2020年までに投稿された記事数が20を超える分類と雑題などは次のとおりです。下に編集者の好む筆者の写真約50枚を選びました。ほかにもいい写真が多くあります。

  1. 夢来里(むらさと)
  2. 今日(きょう)の歳時記
  3. 零(こぼ)れ話
  4. 壱里如(ヒトリゴト)
  5. 周(まわ)りの花木
  6. 雑題
  7. 写真イラスト

『백년한』그 후 이야기

『대한제국 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀』 pp. 275-297

Quote

2013년 이방자 여사의 자전 기록인 『나는 대한제국 마지막 황태자비 이마사코입니다』(지식공작소)를 만들면서 자연스럽게 민갑완의 일생을 기록한『백년한』(1962, 문선각)을 접한 나는 의외로 조선왕조말의 상황을 직접 기록한 책이 많지 않고, 그 내용도 일제에 대한 감정적 비난이 많아 소문이 사실처럼 알려져 있음도 알게 되었다. 대한제국 황실과 관련된 자료를 확인하려해도 후손들을 만나기가 어려웠고 몰락한 왕조의 후손이란 사실 때문에 직접 나서려고 하지 않는 경우도 많았다. 게다가 평생 수절하며 마지막 황태자의 약혼자로 삶을 마감한 민갑완 여사의 후손을 찾는 일은 더더욱 쉬운 일이 아니었다.

우여곡절 끝에 상하이에 망명 후 평생을 의지하고 같이 지낸 남동생 민천식137)의 큰아들인 민병휘 씨(73)를 부산에서 만났을 때의 기쁨을 잊을 수가 없다. 멀리서 보기에도 단아하고 차분하며 깔끔한 모습이 사진에서 본 민갑완 여사를 쏙 빼닮았기 때문이었다.

그녀의 비극적 삶이 일반에 알려지게 된 것은 1958년 6월 29일자 ≪동아일보≫ 5면에 실린 기사 때문이었다. ≪동아일보≫가 축쇄판138)을 내자 민 규수의 옛 기록을 발견한 한 독자가 ‘민 규수가 동래온천동에 산다’는 제보를 했으며 이강현(초대 한국기자협회장 역임, 1977년 작고) 기자가 사진기자를 대동하고 부산으로 내려갔다. 당시 열일곱 살이었던 장조카 민병휘 씨는 “키가 크고 잘 생긴 호방한 기자가 부산에 와 고모의 파란만장한 삶을 세상에 처음으로 내보였다”고 회상한다.

지난 해 연말 민병휘 씨를 통해 더욱 놀라운 얘기를 들었다. 2003년에 일본인 오구리 아키라(64, 도쿄 출생)139)씨가 찾아와 민갑완의『백년한』을 읽고 감동하여 일본의 과거사 반성 없음을 통탄하고, 일본의 양심적 지성을 깨우기 위해 한국어까지 배워가며 정현실, 추현숙 씨 등과 함께 공동작업으로 일본어 번역 출간을 10년간 준비해왔다는 것이다. 한국에서 재출간 소식에 뛸 듯 기뻐한 오구리 아키라씨는 올 3월 서울로 날아왔다.

오구리 씨와의 면담에서 그가 자비를 들여 상하이 암마시스쿨의 연감을 발굴한 얘기며, 동아반점과 유원로 삼층 주택, 여주로, 마지막 살았던 자오저우로, 보유리공원, 홍묘, 상해임시정부 청사와 남경로, 인천항, 1956년 살았던 부산 온천동과 장전동 자택, 덕수궁 중화전 등 책에 나오는 모든 곳을 수없이 답사하며 자료를 모았다는 것도 알게 되었다. 오구리 씨의 노력을 보며 일본의 과거사는 용서할 수 없지만 오늘의 우리가 근대사를 어떻게 방치했는지 통렬히 반성하는 계기가 되었다.

역사의 제물이 된 세 사람

여기 구한말 ‘역사의 제물’이 된 두 여인과 한 남자가 있다. 대한제국의 마지막 황태자 영친왕 이은(李垠 1897∼1970)과 그 약혼녀 민갑완 규수(1897∼1968), 그리고 황태자비로 정략결혼을 하게 된 일본 여인 나시모토미야 마사코(이방자, 1901∼1989)가 바로 그들이다. 강제로 얽혀버린 이들의 운명은 고독과 희생, 영욕의 고통으로 끝이 났다.

조선왕조의 마지막은 명성황후와 대원군의 갈등에서 시작된다. 지략가 대원군은 26대 임금 철종이 후사가 없자 자신의 둘째아들을 입승대통(入承大統)시켜 왕을 만들었다. 이희는 그때 열두 살이었고 훗날 고종이 된다. 대원군은 외척의 발호를 막겠다며 아버지 없는 민자영을 왕비로 간택하지만 명성황후는 대원군과 본격적으로 권력투쟁을 하게 되고 임오군란과 갑신정변을 통해 열강 침략의 빌미를 제공하게 된다. 이들의 첨예한 갈등이 없었다면 한국의 역사가 달라졌을지 모른다.

친러 정책을 편 명성황후는 1882년 임오군란 때 상궁 차림으로 장호원으로 탈출하여 한번은 죽음을 모면했으나, 청일전쟁에서 승리한 일본의 눈엣가시가 되어 1895년, 결국 야만적인 일본에 의해 참살된다. 이 사건이 없었다면 10년전 명성황후의 시위 상궁 시절 왕에게 승은을 입어 쫓겨난 엄비가 고종의 곁으로 다시 불려와 조선의 마지막 황태자 이은(영친왕)을 낳는 일도 없었을 것이다.140)

엄비는 1896년 2월 11일 가마에 고종과 이척(순종)을 숨겨 러시아공사관으로 피신시킴으로써 친일내각을 단숨에 엎는 데 큰 힘을 보탰다. 고종은 이듬해 덕수궁으로 돌아와 10월 12일 국호를 대한제국, 연호를 광무로 하여 황제국임을 선포했고 8일 후인 10월 20일(음력 9월25일) 최후의 황태자 이은을 낳았다. 이은(아명 유길)은 태어남과 동시에 황태자가 되었고 엄비는 황귀비가 되었다.

한편 이날 똑같이 태어난 닭띠 소녀가 바로 민갑완이다. 아버지는 여흥 민씨 삼방파 27세손 민영돈(1863∼1919)으로 명성황후와는 먼 조카뻘이 된다. 원래는 충청도 용정(지금의 청주)에 살던 민건호의 아들이었으나 민석호의 양자가 되어 열두 살에 서울로 올라온 총명한 인물이다. 동래부사, 주 영국·미국·벨기에공사, 승후관 등을 역임했고 육남매를 두었다. 민영돈은 아홉 살 아래인 순종 황제의 진명진사(글동무)를 맡을 만큼 황실이 신뢰하였다. 민영돈의 부인 이기돈(1869∼1928)의 집안 역시 명문가로 동생인 이기현과 이기서 등이 민영돈을 도와 고종의 밀서를 상하이로 가져가는 등 독립운동에도 앞장선 집안이다.

일본은 1907년 헤이그밀사사건을 빌미로 고종 황제의 모든 지위를 찬탈하고 7월 20일 대신들만 모여 순종 황제에게 양위식을 열고, 8월 7일에는 이은을 황태자로 책봉한다. 하지만 이은은 이토 히로부미에 의해 유학이란 명목으로 황태자 책봉과 동시에 볼모로 일본에 끌려간다. 그때가 열한 살이었다.

운명일 뿐, 미워하지 않겠다

그해 3월 14일, 민영돈의 딸 민갑완은 이미 세자비로 간택되었지 만 이날부터 열한 살 소녀의 끔찍한 불행도 같이 시작되었다. 궁중법 도에 묶여 이젠 다른 곳으로 시집을 갈 수도 없게 되었고, 일제의 끝 없는 회유와 가문에 대한 박해를 받아야 했다. 민갑완은 열한 살에 세자비 간택단자를 받고 10년간 약혼지환을 간직했지만 이미 이방 자와 정략결혼을 당하게 된 황실은 민갑완에게 신물을 돌려달라는 파혼 통보를 한다. 민영돈 집안은 풍비박산이 났다. 민갑완과 이은 280 은 열한 살 간택 때 딱 한 번 본 이후 다시는 보지 못했다. 141)

일제에 짓밟힌 억울한 운명의 민갑완은 이방자를 한 번도 미워 하거나 비난하지 않았다. 오히려 자신의 운명을 담담히 받아들이고 이해하는 고결함을 끝까지 유지한다. 민병휘 씨는 “어려서부터 자식 을 대신해 고모와 한 침대를 쓰며 온갖 귀여움을 받아 누구보다도 오 랜 시간을 보냈다. 내 기억으론 단 한 번도 일본이나 이방자 여사를 미워하거나 원망하는 말을 들어 본 적이 없다”고 잘라 말한다.

내가 영친왕의 생활을 시기하거나 그분을 미워하고 원망한 적은 한 번도 없었다. 하늘을 두고 맹세를 한다 해도 난 두렵지 않을 정도로 그분을 저주하거나 미워한 적은 없었다. 우리들의 운명이라는 것은 어디까지나 운명인 국운과 정략이 깃들어 있기 때문에 누구를 미워 하거나 탓할 수는 없다. 방자 여사도 인간적인 면에서는 행복했을 지 몰라도 국가적인 면에서는 불행했으리라고 생각된다. 약소국가 의 황태자와 결연을 맺는 것이 그리 만족스럽거나 자랑스럽지는 못 했을 것이다. 더욱 원수처럼 첩첩이 쌓인 한일 양국 간의 감정의 틈 바구니 속에 끼어 있는 그의 심정 역시 얼마나 괴로울까를 생각하 면 때로는 인간적인 면에서 동정도 가는 것이었다. -민갑완,『백년한』에서

그 점은 자전 기록 속에 비친 이방자의 심정도 마찬가지였다. 한 때 이은의 마음 깊은 곳에 민 규수가 있지 않나 고민해 본 적도 있었 던 이방자는 여인으로서 민갑완에게 동병상련의 마음을 가졌던 것 으로 보인다. 더구나 첫아들 진을 잃었고 외아들 이구마저 2005년에 후손 없이 죽음을 맞이한 걸 보면 두 사람에게 자식과의 인연은 없었 던 셈이다.

순종황후 윤 대비가 승하하신 지 2년 뒤인 1968년에는 영왕 전하의 약혼자였던 민갑완 규수가 역시 71세를 일기로 부산 동래에서 별세 했다는 소식을 들었다. 역사와 정치의 제물이 되어 똑같이 희생당 한 여인으로서 늘 미안한 마음이 들고 친근감과 동정이 생겨 한 번 만나보고 싶어 했으나 만날 기회가 없이 그분이 별세하신 것이다. 기우는 나라의 황후가 되어 평생을 혼자 사신 것이나 다름없는 윤 대비님, 마지막 황태자비로 간택되었다는 죄로 갖은 고초를 겪으며 독신으로 살다 가신 민 규수님의 비극은 내 설움과 합쳐져 나는 울 고 또 울었다. -이방자,『나는 대한제국 마지막 황태자비 이마사코입니다』에서

두 사람이 본인의 의지와는 무관한 강요된 삶을 살아가게 되면 서 느끼게 된 깊은 절망감과 안타까움도 거의 비슷하다. 민갑완은 검 은색 한복을 즐겨 입었고 알아보는 사람들을 피해 비오는 날 우산을 쓰고 외출하곤 했다. 142) 자서전 발간 후 여론의 관심 속에 1963년 영 화화된 <백년한>(동성영화사, 이종기 감독, 도금봉·김승호·최무 룡 출연)이 부산에서 상영되었을 때도 차일피일 다음에 보겠다며 자 택인 동래 온천동 근처 삼류 영화관까지 오도록 끝내 보지 않을 만큼 커다란 상처를 안고 살았다.

모든 사람들이 이제 해방이 되고 광복이 되었다고 기뻐 날뛰면서 귀국을 서두르건만 여리고 약한 여자의 몸으로 오로지 내 일신만을 감추고 피하기에 허구한 날들을 버리고 청춘만 허무하게 늙어버렸 으니 이제 고국이 무슨 의의가 있단 말인가? 내 딴에는 한국 여성의 절개와 우리 민씨 가문의 정절을 보여 세계 만방에 표본을 만들고 자 내 자신 인고의 생활을 해왔으나 이것이 조국 광복에 어떠한 영 향을 주었단 말인가? 반겨줄 사람은 아무도 없고 내게 주어진 슬픔 은 오히려 강물처럼 흘러 고독은 노을과 같이 더욱 짙어만 갔다. 슬 픔도 기쁨도 다 사라져버린 오늘…. 내게 남은 것은 다만 허탈한 인 생의 기록뿐이다.(중략) 나도 그분에게 바라는 단 하나의 희망과 소 망은 있다. 우리는 피차 이조 말엽의 인간제물이거늘 누구를 탓하 고 원망할 수는 없다. 내가 몇십 년을 살든 몇백 년을 살든 그분도 꼭 내 사후까지 살기를 비는 것이다. -민갑완,『백년한』에서

Photo 38: 1963년 민갑완의 이야기가 영화로 제작되었다. 주인공 도금봉에게 옛 머리 모양에 대해 자문 을 해주고 있는 민갑완(사진 위). 영화 <백년한>에서 민갑완이 세자비에 간택되는 장면 (사진 아래 왼쪽). 당시 부산극장에서 만든 홍보용 부채. 민병휘 소장(사진 아래 오른쪽).

Photo 39: 영화 <백년한>의 한 장면. 큰외삼촌, 동생 천식과 함께 배를 타고 조선을 떠나는 장면(사진 위).민갑완역을 맡은 도금봉과 암마시스쿨 교장 미스 샐리 역을 맡은 외국인 배우(사진 아래).

이방자 역시 정략결혼의 희생자가 된 운명을 저주했다. 한편으 론 남편에 대한 동정심과 연민도 가지고 있었다. 이들 부부의 귀국 후 민갑완은 드러내지는 않았으나 혹시나 하는 마음에 약간의 기대 를 갖고 집수리를 하는 등 준비를 했다. 그러나 영친왕은 이미 식물 인간이 되어 평생 수절의 의미가 빛을 잃게 된다.

선·일 융화의 대역이라니. 여러 가지 습관이 다른 외국에서 외국 사람들과 내가 어떻게 살아갈 수 있을 것인가. 불안과 두려움 속에 서 잠 못 이루는 고통스러운 나날이 계속되었다. 밤이면 뜰에 나와 차라리 이대로 밤의 어둠 속에 빨려 들어가 사라 져 버렸으면, 아무도 모르게 나도 모르는 사이에 죽어버렸으면 하 고 절실히 원하는 때가 한 두 번이 아니었다. 초상집 같은 슬픔과 우 울에 싸여 있는 집안을 위해서 나는 빨리 안정을 찾지 않으면 안 되 었다. 그러면서 한편으로는 나의 약혼자가 된 이은 전하에 대해 생 각이 미치지 않을 수 없었다. 그분도 자기 의사가 아닌 것만은 분명 한 사실이다. 나를 얼마나 미워하실까. 한창 응석 부릴 어린 나이에 인질과 같은 입장으로 일본에 오셨다는 말을 듣고, 또 어머니인 엄 비(嚴妃)의 최후도 보지 못했다는 말을 듣고 그분도 나와 같은 희생 자라는 친근감이 솟아오르기도 했다. -이방자, 『나는 대한제국 마지막 황태자비 이마사코입니다』에서

민갑완에게 독립운동에 적극 나설 것을 권한 김규식은 언더우드 목사의 도움으로 미국 유학을 갔을 때 로아누크대학교에 다니던 의 친왕을 보필했다. 이런 인연으로 6·25 이후 의친왕 사동궁 양관에 서 민갑완은 거주하게 된 것이다. 한 편 상하이에서 적극적으로 독립 운동에 나서지 못했지만 황실에 들어갈 교육을 10년 동안 받은 규수 로서 민갑완의 단정한 처신과 이승만의 구혼 등 여러 구혼자를 물리 친 절개를 더 큰 독립운동으로 봐야 한다는 견해143) 도 있다.

상하이 조계를 떠돌다

민갑완의 아버지 민영돈은 2년간 영국공사를 마치고 1903년 귀국한 후 1904년 11월 장례원과 시강원 업무를 맡아보았다. 1905년 강원도 관찰사를 지냈으나 가까운 친척인 병조판서 민영환이 자결하자 관 직에서 물러난다. 1907년 세자비로 간택단자를 받고 약혼을 하였으 나 파혼을 종용 당하던 와중에 1919년 1월 화병으로 사망에 이른다. 민영돈은 육남매를 두었으나 민갑완의 손위 두 딸은 첫 번째 부인인 남씨 소생으로, 큰딸은 이씨 가문으로 출가하여 무탈한 삶을 살았다. 둘째 딸은 순종의 계비인 순정효황후 윤비의 큰아버지인 친일파 윤 덕영의 둘째 며느리로 출가하였으나 부부 모두 일찍 사망하였다. 이 책에 쓰인 대로 민갑완과의 사이가 각별하여 ‘계동언니’라고 불렀으나 상하이 망명 후 출가한 언니들과의 관계는 자연스럽게 끊어졌다 고 한다.

민영돈의 첫 부인 사망 후 시집을 온 부인인 이기돈은 민갑완의 어머니로 1906년 학수고대하던 첫아들 민천식(1906∼1968)을 낳았 다. 민갑완과는 아홉 살 차이다. 민천식의 아명은 천행으로 이후 그 의 삶은 온통 민갑완을 모시는 극진함과 희생으로 점철된 파란만장 한 삶이었다. 민갑완이 두고 온 동생 민억식(1909∼1936, 아명 만행) 은 휘문고보와 경성제대 예과를 다니던 수재로 청주 한씨 가문의 처 녀와 약혼을 한 상태에서 맹장염으로 갑자기 사망하였다. 그는 병이 나자 서둘러 파혼함으로써 자신의 누나와 같은 불행을 만들지 않으 려 신변을 깔끔하게 정리하고 세상을 떠났다고 한다. 민억식의 두 살 아래 여동생인 민만순(1911년생)은 안동 김씨 가문의 김익한과 결혼 하였고 2남 2녀(승동, 석동, 영애, 영숙)를 두었다.

민갑완은 다섯 살에 사부를 모시고 천자문을 떼는 등 유교의 가 르침과 침선, 요리 등 궁중여인으로서 수업을 엄격하게 받았다. 그 러나 파혼 이후 민씨 가문이 겪은 고난은 일제 치하 어떤 가문보다도 말할 수 없이 컸다. 큰외숙 이기현144) 은 민갑완 가족에게는 상하이 망명i생활을 지탱해준 아버지와도 같은 존재였고, 김규식을 통해 민갑완과 민천식을 암마시스쿨145)에 보내 신식 교육을 시키는 등 최후의 보루 역할을 했다. 1936년 경 이기현이 상하이에서 병으로 숨졌을 때 민갑완의 절통함은 극에 달했다. 이기현의 큰아들 이강하는 동생인 민천식과 동갑이었는데 상하이에서 같이 살며 이선웅(아명), 이황웅 (아명), 이헌재(전 경제부총리)를 낳았고 독립운동에도 힘을 보탰다. 민갑완의 장례식에 이강하의 부인이 장지까지 따라갔으나 그 이후 내왕은 별로 없었다고 한다.

민갑완의 인생에서 가장 소중한 사람은 단연 민천식 가족일 것이다. 강제 파혼으로 조선 시대 말의 제물이 된 민갑완과 공동 운명 체가 된 민천식은 중동학교를 다니다 1922년 경 상하이로 망명한 후 일제의 탄압으로 암마시스쿨 마저 중도에 그만두고, 외삼촌 이기현 에게서 영어를 배웠다. 이기현은 상하이버스공사 지배인을 맡으며 민천식을 교육했다. 또한 민천식은 영국인 의사에게서 의학을 배웠으나 정식으로 의사가 되지는 못했다. 천성이 부지런하고 의지가 굳 었던 민천식은 졸지에 가장이 되어 영국공사관의 공무국에 취직을 했고 모진 고생을 했다.

이기현이 사망한 후 민갑완은 천식의 배필로 파평 윤씨 가문으로 마포 서강 일대 땅 부자의 딸 윤정순(1917∼1996)을 맞아들여 상하이에서 같이 살게 된다. 요리와 뜨개질, 바느질 등 못하는 게 없었던 민갑완은 그 솜씨를 스무 살이나 어린 손아래 올케 윤정순에게 물려주었고, 이는 며느리 박무선(67, 민병휘의 부인)에게 전수되었다. 윤정순은 힘든 살림 속에서도 민갑완을 평생 ‘국모로 모셨다’고 한다.

민갑완이 딸처럼 아끼던 민천식의 큰 딸 민병순(1936∼1984)은 시인이자 수필가로 외가의 영향으로 귀국 후 가톨릭학교 계성중학교를 다니다 한국전쟁 때 청주로 피난을 가서 청주여고를 졸업하였다. 민병순은 한전 부산 남부지점을 다니며 가정살림을 도왔으나 급 성간염으로 사망했다. 민천식의 2남 민병욱(1947∼1998)은 해군 출 신으로 건장한 체격이었지만 1남 1녀(정기, 영주)를 두고 당뇨합병 증으로 사망했다.

민갑완은 동래온천장과 마지막 임종지인 장전동에서 마지막 생을 보냈다. 6·25를 겪은 후 흰 나카오리 모자를 쓴 말끔한 차림의 민천식이 피난지 부산의 그 유명한 40계단을 지나다 길을 묻는 미군에게 발탁되어 미국공보원에 취직을 했지만 인민군 치하에서 고생 한 기억 때문에 안전상의 이유로 환도하지 않고 1955년부터 부산에 남아 살았기 때문이다. 6·25 때 북으로 끌려갈 뻔하다 광복군 이범석 장군과 같이 탄 해방 귀국선에서 의료처치로 구해준 사람이 “민선생, 동트기 전 도망가라”고 놓아주어 구사일생으로 살아난 후 서 울로 돌아갈 마음을 버린 것이다. 민천식은 국제 가톨릭 구호단체 (NCWC, 1960년대 한국전후 빈민 구호)에서 일하다 말년에는 성분 도병원 직원으로 봉직했다. 1968년 2월 5일 과로로 인한 뇌출혈로 사망했다. 홀로 3남매를 키우던 윤정순은 혈압과 당뇨로 1996년에 사망했다.

민갑완의 실질적 마지막 후예가 된 민천식의 큰아들 민병휘는 1941년 중국 상하이에서 태어났다. 1946년 환국할 때 다섯 살이었는 데 어린 시절 쓰던 유창한 중국어는 하나도 기억이 나지 않는다고 한 다. 민갑완 가족은 전쟁 통에 경기도 광주의 선산 마을에서 숨어지내 다 1·4 후퇴로 2년을 청주에서 살다 부산으로 내려갔다. 민병휘는 부친의 희망대로 군 제대 후 1966년 초대총장인 동아대학교 정재환 박사에게 발탁되어 2001년 은퇴할 때까지 평생을 동아대학교와 동 아대병원에서 교직원으로 성실하게 봉직했다.

민병휘는 “고모님은 일반 여인들과는 달리 늘 깃 넓은 흰 동정을 단 한복을 항상 정갈하게 입으셨고 남의 나쁜 점을 조금도 말하지 않 았어요. 오직 가족의 안전을 위해 평생 불교를 믿으셨고, 내가 군대 에 간 1963년도에 크게 손가락을 다치자 ‘모든 것이 덧없다’며 온천동 성당에서 김알릭스 신부에게 가톨릭으로 개종할 정도로 가족을 사 랑하셨다”고 증언한다. 갑완의 세례명은 민아가다이다. 146) 민병휘는 은행원이던 박무선과 결혼하여 1녀 2남을 두었고, 부산시 금정동 금 곡에 산다.

Photo 40: 1968년 2월 23일의 민갑완 영결식. 오전 10시 부산 장전동 고인의 자택을 떠난 장례 행렬 모습. 3대의 경찰차와 6명의 동래여고생들이 펴든 태극기 그리고 영정이 행렬을 앞섰고 수녀 300명이 뒤따르는 등 비교적 성대하게 치러졌다.

Photo 41: 동래천주교회에서 영결식을 마치고 용호동 묘지로 향하는 민갑완의 장례 행렬.

2014년 4월 16일 부산에서 다시 만난 민병휘 씨는 부산역 앞의 차이나타운 중국 음식점에서 여러 가지 질문에 답해주었다. 영어와 중국어, 한학에 능통한 민 규수가 가끔 끽연을 하였고 어린 시절 담 뱃갑에서 본 공작이나 아리랑 상표가 기억난다고 했다. 그래서인지 후두암이 걸렸지만 항상 상처부위 소독도 자신이 하는 등 깔끔한 면 모를 잃지 않았다고 기억한다. 중국 음식으로 썩힌 두부요리인 ‘쵸우 뚜우푸(臭豆腐)’를 좋아하셨지만 자신은 어리다고 주지 않았기 때문 에 1992년에야 부인과 대만 여행을 가서 먹어보았는데 냄새가 심해 도 너무 맛이 있어 고모님 생각이 나 울컥 했다고 회상한다.

꽃도 좋아하고 책 읽는 것과 금정산 자락의 금강사에 불공드리는 것, 팥밥과 불고기를 즐겼고 요리도 아주 잘해서 그 맛과 냄새를 잊 지 못한다고도 했다. 쇠고기의 부위별 세세한 조리법은 궁중음식 수 준이었다고 한다. 무를 넣은 쇠고깃국은 물론이고 닭고기카레라이스 까지 직접 조카들에게 해 먹이고 귀마개, 양말까지 털실로 짜서 모든 옷을 해 입힐 만큼 솜씨가 좋았다고 그리운 마음을 전한다. 강아지는 셰퍼드와 포인트, 일본종 찡, 온몸이 털투성이인 개 등 후두암으로 타 계하기 전까지 다섯 마리를 키웠다. 닭을 못 잡는 올케에게 “닭은 못 잡는데 먹을 줄은 아나?”하면서 손수 닭을 잡아 요리를 하는 바람에 윤정순도 결국은 닭 잡는 방법을 배울 수밖에 없었다고도 한다.

특히 민병휘 씨는 다섯 살 때 상하이에서 고모와 한 침상을 쓰며 유성기 판 5개를 트는 심부름을 했었는데 1930년대 유행가는 물론이 고 클래식과 고국의 노래를 무척 좋아했다고 전한다. 민갑완은 세간 의 추측과는 달리 어린 시절 ‘난봉’ 별호처럼 힘든 나날 속에서도 실 293 제 모습은 활달한 점이 많았다고 한다. 책을 손에서 놓지 않았는데 주로 이광수의 『사랑』, 『원효대사』와 정비석의 소설은 물론 여성지 <여원>, <아리랑> 등을 매달 구독했고, 책 대여점의 책을 모두 읽을 정도였다고 한다.

6·25 때 명동성당에 문화재급 물건들을 맡겨 두었는데 인민군 이 모두 털어갔다고 한다. 경제사정이 나빠 중국에서처럼 차를 마 시지 못해 부산의 깡통골목에서 어렵사리 약간의 커피를 구해 가끔 마시는 것을 큰 기쁨으로 알았을 정도로 고생을 했다. 6·25가 일어 나는 바람에 사회사업을 위한 모든 준비는 허사가 되었고 1950년대 는 민천식 가족에게는 생존을 위한 몸부림의 시기가 되고 말았다. 민갑완은 자서전에서 ‘동생에게 얹혀사는 미안함’을 여러 차례 토로 하고 있다.

1958년 6월 29일 ≪동아일보≫ 보도 이후 각지에서 민갑완의 절 개를 높이 평가하고 돕겠다는 독지가들이 나타났지만 이런 반응은 1년도 못 갔다. 그 해, 동아대학 권모 교수가 민갑완이 당시 온천동 방 두 칸에 월세 2천환짜리 집에 사는 모습을 보고 ‘후생주택에 이사 시켜 교육사회사업을 함께 한다’는 보도가 있었지만 웬일인지 1964 년 경향신문 10월 27일자 기사를 보면 그마저도 잃고 사기를 당한 사연이 나온다. 1963년 8월에 상영한 영화 <백년한>의 대본료 45만 원을 받지 못해 오히려 빚을 지는 등 유명세를 치른 고통도 보인다. 회고록에 말년의 10여년간 일들이 소상히 기록되지 못한 정황을 짐작할 수 있다.

예의가 깍듯하고 조용한 성품의 장조카 민병휘 씨는 고모 민갑 완의 일생을 한마디로 “이 세상에 단 한 분, 이런 사람은 있을 수 없 다”고 표현한다. “어느 누구 탓도 한 번 안 하고, 이것이 나의 운명”이 라며 “무서울 정도로 삶을 긍정한 존경할 만한 분”이었다고 회고했 다. “인생이란 파도의 그래프에서 남에게 척지지 말고 후의를 베풀라”는 말, “당대에 내가 저지른 업보는 반드시 내가 받는다”는 부친의 말이 사실이라면 “일본은 조선과 민갑완에게 저지른 과거사를 사 죄하고 일본의 죄 없는 후손이 천벌을 받지 않도록 진심으로 뉘우쳐야 할 것”이라고 눈시울을 붉혔다.

눈물의 백장미

민갑완의 마지막은 어땠을까? 김을한은 자서전『무명기자의 수기』(1984, 탐구당)에서 이렇게 쓰고 있다.

“나는 처녀인 만큼 절대 남의 집에서 죽게 하지 말고, 수의는 옛날 선비처럼 남복(男服)을 입히고 나의 영구 뒤에는 모든 사람이 나의 슬픈 생애를 알 수 있도록 구슬픈 조가(弔歌)를 연주해 달라.”

민갑완의 부탁처럼 그의 생애를 압축한 듯한 노래가 있다.

울었다고 시든 꽃이 또 다시 피어날소냐 불 꺼진 밤거리를 헤매다니는 눈물의 백장미

Photo 42: 부산 용호동 천주교 공동묘지에 있던 민갑완의 묘비석 뒷면. 1897년 9월 25일 태어났다고 기록하고 있다. 이 묘지는 개발로 인해 수용되어 없어겼고, 유골은 실로암공원 납골당에 안치되어 있다.

Photo 43: 부산 용호동 천주교 묘지에서. 큰조카 민병휘(오른쪽), 올케 윤정순(가운데), 작은조카 민병욱(왼쪽).

흘러 간 첫사랑을 희망의 등불 삼고 믿을 사람 하나 없는 낯선 타국에 장미는 외로워 불렀다고 지난 꿈이 또 다시 돌아올소냐 멀리서 들려오는 종소리마저 왜 울긴 왜 울어 지난 날 행복한 날 꿈속에 그려보며 쓸쓸하게 웃어본다 낯선 거리서 눈물의 백장미

이 노래는 가수 안다성이 불러 히트한 ‘눈물의 백장미’ 147) 란 노래 다. 당시 첫 직장 동아대학교에 다니던 민병휘 씨는 고모가 “노래가사가 자신의 삶을 꼭 닮았다”며 평소에 그 노래를 좋아했기 때문에 장례식 때 “장송곡으로 틀어 달라”는 유언을 지켜 부산지역 위수사령부 소속 군수기지사령부 군악대가 동래 온천동에서 온천성당을 경유, 장지인 천주교 용호동 묘지까지 조곡으로 연주하는 것을 들었다고 증언한다. 그 묘지는 수용되어 민갑완은 지금은 부산시 기장군 철마면 실로암공원묘역 납골묘에 민천식, 윤정순과 함께 영면하고 있다.

평소 성품대로 수의까지 직접 마련한 민갑완은 죽음을 예견한 1967년 12월 1일, “운명은 고독해도 쓸쓸한 것은 나는 싫네. 남복 입혀 화장한 후 해운대 바다 깊이 뿌려 물고기와 동무하게 해주오”라고 유언했다. 민갑완 규수, 영친왕, 이방자 여사 그리고 민영돈의 돌아가신 후예들. 부디 무거운 역사의 짐을 내려놓고 하늘나라에서 평범한 인간의 자유와 아름다운 평안을 얻길 기원한다.

김정희 (『나는 대한제국 마지막 황태자비 이마사코입니다』엮은이)


137) 이 부분부터는 본명 민천식으로 표기한다.

138) 1958년 6월 ≪동아일보≫(사장 최두선)는 창간호부터 1928년까지 신문 축쇄판을 만들었는데 한 독자가 1920년 4월28일 자 “왕세자 전하와 혼의가 있었던 상중의 민 규수” 기사를 보고 제보한 것이다.
139) 오구리 아키라(小栗章)는 아오야마가쿠인대학원 국제정치학 석사 출신으로 1973년부터 한국어를 배워 대한항공 도쿄지사 기획실을 거쳐 1987∼1989년 일본국 외무성 재토론토 총영사관 영사(문화·교육 담당)를 역임했다. 1996년부터 2010년까지 재단법인 국제문화포럼 치프 프로그램 오피서(한국어교육사업 개발)로 일하며 ‘일본고등학교 한국어교사연수회’, 일본고등학교 한국어교육네트워크에 헌신하여 주일본 대한민국대사관 공로상을 받았다.

140) 황현은『매천야록』에서 엄비를 “얼굴이 민후와 같고 권략도 그와 같았으므로 입궁한 후 크게 총애를 받았다. 국정을 간섭하고 뇌물을 좋아하여 민후가 있을 때와 동일하였다”라고 평했다. 이를 통해 엄비가 보통 이상의 인물이었음을 알 수 있다.

141) 민갑완의 삶을 다룬 여러 저술이 마치 이은과 이방자가 민갑완을 외면하고 안 만나 준 것처럼 쓰고 있으나 귀국 후 이은의 건강 상태 등을 고려하면 만나고 싶어도 만날 수 없는 상태였다.

142) 혼다 세스코,『비련의 황태자비 이방자』(1989, 범우사).

143) 안천,『대한제국 황통쟁투사』 (2009, 교양과학사)에서 다소 격정적인 견해를 내고 있 다. 이승만이 양녕대군파로서 자신을 왕으로 생각하는 것은 잘못된 처신이라는 것이다. 입헌군주적 발상은 매우 이례적인데, 민병휘는 “외국 유학으로 매우 개방적 태도를 지닌 이승만이라면 청혼을 할 수도 있었겠다”며 고모로부터 이승만의 청혼 사실을 들은 적이 있다고 증언했다.

144) 1902년, 의양군 이재각(1874∼1935)의 영국 국왕 에드워드 7세 대관식 참석을 기록 한 수행원 리종응의『서사록』에 주영 공사 민영돈과 이기현(부인 이기돈의 동생)이 배웅 하는 장면이 나온다. 이기현은 민영돈의 비서였을 뿐만 아니라 유능한 통역관이기도 했 다. 1906년에 고종의 밀서를 가지고 민영돈을 수행하여 상하이로 가서 독립을 호소했으 며, 영어 중국어에 능통한 인물이었다.

145) 오구리 아키라가 상하이도서관에서 발굴한 학교 연감에 의하면 미국인 교장 한나 샐리(Hannah F. Sallee)가 운영하는 암마시스쿨은 초중 고대학을 모두 갖춘 교육기관이었다.

146) “임종 하루 전 영세를 받았다”는 기록에 대해서는 민병휘 씨는 “원래 외가쪽이 가톨 릭에 많은 신부와 수녀를 배출했기 때문에 개종 권유를 오랫동안 받아왔다. 임종 4년 전 후두암이 생겼고, 1963년 이후 개종했다”고 전한다. 불교든 점사든 가톨릭이든 민갑완에게는 ‘종교는 가족에 대한 무조건적인 사랑 그다음 순위’였다.

147) <비나리는 호남선> B면 두 번째 곡. 오아시스레코드, 1963년 발매. 가수 안다성은 1931년 충북 청주 출신. ‘사랑이 메아리칠 때’ ‘바닷가에서’로 유명한 지성파 가수로 지금의 경희대, 당시 신흥대학 영문과 졸업 후 성악가 마리안 앤더슨을 좋아하여 예명을 지었다고 한다. 본명은 안영길. 매력적인 부드러운 저음으로 부른 이 노래는 박춘석의 작곡으로 민갑완이 가장 좋아했던 곡이다. 안다성은 팔순을 넘은 나이에도 공연무대에 선다.

Unquote

Oguri Tadamasa 1827-1868

小栗忠順に関心を抱いたのは最近のことで、以前は歌舞伎の小栗判官ぐらいの知識しかなかった。小説「福澤諭吉」(岳真也著)を読み、徳川幕府の幕僚として福澤諭吉や勝海舟とともに咸臨丸に乗り、ワシントンで米国政府と交渉し、後に横須賀造船所を設立したこと、勝海舟と対立関係にあって、福澤が彼を慕っていたことなどを知った。

明治政府軍との徹底抗戦を主張した小栗が、勝海舟や西郷隆盛の主導した<無血開城>への時流のなかで、いわば当時の政界を去って帰農したにもかかわらず、斬首刑に処せられたと知り、その理不尽さに憤り急に親近感を抱いたのである。というより、一方的な明治史観を押し付けられることに強い違和感を覚えた。同姓という親しみもなくはないが、まったくの偶然である。

Quoted from the first chapter of “the Meiji Restoration Losers” written by Michael Wert (Harvard East Asian Monograph 358).

On the morning of the sixth day of the fourth intercalary month in 1868, imperial troops escorted Oguri Tadamasa from his temporary imprisonment to the banks of the Karasu River in Mizunuma Village. Typically, capital punishment for a high-ranking samurai, especially a direct vassal of the shogun, involved ritual gesture of suicide before an executioner’s coup de grace. That day, however, Oguri was forced to bend over, hands tied behind his back.

Besides calling the man who dared push his body forward with his feet a “disrespectful lout,” Oguri’s final words were a request to let his wife, daughter-in-law, and mother go free. A low-ranking samurai struck Oguri’s neck not once but three times before his head dropped unceremoniously into a pit. A villager who witnessed the execution as a boy recalled, “What was most impressive in my mind was how white the soles of his tabi appeared when the body fell forward.”

This scene weighs on Oguri’s commemoration, coloring explanations of his career up to the moment. It marks the origin of his commemoration both geographically, as ground zero for the historical memory about him, and temporally–almost immediately after his execution, former colleagues became his first apologists, protecting his legacy in death though they could not help him in life. The goal of this chapter is to impart a historical understanding of Oguri and clarify why memory activists and supporters found him a compelling figure worthy of appropriation.

小説の冒頭のように鮮やかな光景が浮かぶ。著者のいう memory landscape (仮に「記憶の風景」と訳しておく)の一端がこれか、と思わせる書き出しである。

JBpress 佐藤優氏インタビュー記事

[以下 JBpress の記事より転載しました。下線ほか編集]

作家・佐藤優が読み解く、菅首相がじんわりと怖いのはなぜか

緊急事態宣言とオリンピック開催が両立する菅首相の頭の中の論理 2021.7.9 (金) 長野 光follow

「民主主義の消費期限はもう切れているのかもしれない」と話すのは作家で元外務省主任分析官の佐藤優(さとう・まさる)氏だ。コロナの封じ込めに成功した中国を見て、非常事態への対応には非民主な体制の方が強いのではないかと多くの人が不安を抱いた。民主主義が崩壊し、独裁のような形に変わっていくほど、私たちの社会や経済は追い詰められた状況にあるのだろうか。

ウラジーミル・プーチン、習近平、ドナルド・トランプ、金正恩など11人の独裁者を解説する『悪の処世術』(宝島社新書) を上梓した佐藤氏に話を聞いた。(聞き手:長野光 シード・プランニング研究員)

(※記事の最後に佐藤優氏の動画インタビューが掲載されているので是非ご覧ください)

恐怖政治の仕組みを上手く作ったプーチン大統領

──数々の政敵や反体制派をむごたらしく葬ってきたロシアのプーチン大統領こそ、現代の危険な独裁者というイメージにぴったりといった印象を受けます。プーチン大統領の人間性について教えてください。

佐藤優氏(以下、佐藤):反体制派に毒を飲ませたり、記者を殺したりしてもプーチンに得はありません。ロシアは直接選挙ですし、ロシア国民は知的水準も高い。そんな乱暴なことをしたら大統領に当選できません。「プーチンはバカだ」というプーチン観がありますが、そこまでバカな奴が20年以上も権力を握れるはずもない。

 一度、「ロシアは怖い」という価値判断を外してロシアを見てみたら面白いですよ。国会議事堂に乱入して銃乱射するような国が民主主義国だと本当に言えますか。ロシアだってロシアなりの基準で民主主義国なんです。

ウラジーミル・プーチンの大戦略』(2021年7月発売予定、東京堂出版)の著者、アレクサンドル・カザコフは僕のモスクワ大学の同級生で、プーチンの側近グループの一人です。

 この本ではデモクラシー(民主主義)が機能しなくなって、今の世界のトレンドはフォビアクラシー(phobiacracy、恐怖政治)だと言っている。プーチンは恐怖政治の仕組みを上手に作っています。忖度の構造を作るのが上手い。そして、日本にもフォビアクラシーがあります。

──日本の今の政権に恐怖政治の要素が見られるということですか。

佐藤:菅さん(菅義偉首相)はかなり怖い。彼がやっているのは、完全にフォビアクラシー(恐怖政治)です。少しでも反発する者が出てきたらバサッと切りますから。あれだけ頼りにしている尾身さん(新型コロナウイルス感染症対策分科会・尾身茂会長)だって、近々切られる可能性が十分あると思う。

菅首相がオリンピックに固執する論理

佐藤:オリンピックをやめたら自分の政権が潰れる。だから権力に固執していると考えると菅さんという人を読み違える。オリンピックをやれば感染者が増え、世界の変異株がたくさん入って来るなんてことは彼も百も承知でしょう。

 菅さんはこのコロナの中権力に空白が生じることで政治や経済に混乱が生じないように自分がやり続けることが唯一の選択肢だと信じている。そして、安定か混乱かどちらを取るかと考えた場合に混乱を避けるためにはオリンピックに突入せざるを得ないから苦渋の選択をする、と。

政治は究極の人知を超えた世界にあります。ヒトラーだって、最初から独裁者になると思っていなかった。最初は国民に選ばれた、と思う。その次に神様に選ばれた、と思うようになる。菅さんも神がかり的なところがあると思う。本人でさえ総理大臣になると思っていなかったんだから。今、このコロナ禍の日本で首相をやっているのは自分の天命だと思っていると思う。

彼は究極の現実主義者ですよ。河井克行(元法相)や河井案里(元参院議員)は、ガネーシャの会で菅さんの応援団だった人です。菅原一秀(前経済産業相)や吉川貴盛(元農相)、自分に近かった総務官僚、自分の息子も誰も守らない。単に冷たいというレベルではなく、「混乱を避けるために、申し訳ないけど事実だったらしょうがない、責任を取ってもらうしかない」という思想で切り捨てる。これは官僚や政治家としては怖いですよ。

──「ルールを破ったら仲間であろうと容赦しない」という姿勢は、国民の側からすると公正なもので悪くないようにも思えますが。

佐藤:そう思います。コロナの予防接種も思うように進んでいないし、オリンピック開催の不安もあるにも関わらず、菅政権の支持率は30%ある。これはかなり高い。

 混乱への恐れ、そういう感覚は国民の中でかなり強いと思います。今の政権が素晴らしいとは思わなくても、安定か混乱かだったら国民は安定を選択する。ただ、この安定か混乱かという選択は、ともすれば独裁を是認する方向に行きかねません。

もう一人の“独裁者”、習近平はどう見る?

──長い一人っ子政策の末、人口動態がいびつになった中国。成長が難しくなり、社会や経済の問題に政治が対処できなくなる時、次に民衆の心の拠り所になる可能性として宗教を想定している習近平は、先回りしてキリスト教をはじめ、外国の宗教を体制内部に取り込もうと目論んでいる、と書かれています。習近平政権は自分たちの作り上げたカルチャーが、宗教によって変容される可能性を恐れないのでしょうか。

佐藤:そもそも共産党体制自体に、理想的な社会を作っていこうという宗教的な要素があります。今までのようなマルクス・レーニン主義や毛沢東思想によって体制を維持できなくなったら、帝国を維持するために民心を安定させる宗教を取り込もうとするのは必然です。

 でも、中国国内の地下教会や法輪功、「イスラム国」(IS) 等は、極端に政治化して共産党体制とぶつかるから困る。矛盾せずに並存できる宗教といえば、カトリック教会です。

カトリック教会は、旧東欧の共産圏とも中南米の独裁政権とも上手くやってきました。今はまだ司教の任命権の問題があり、バチカンと手を握れていませんが、共産党体制に反発せずに社会問題を処理するという点ではカトリックが魅力的です。

 それから、創価学会(創価学会インターナショナル)の活動も同時に公認することになるでしょう。創価学会は、日本では戦時中、軍部と対立していましたが、今は自公政権の中で与党化しています。中国共産党政権の中で与党化することも可能ですよ。

──日本では創価学会は公明党を持っています。創価学会を大々的に取り入れる場合、中国政府は政治に関与してくる可能性を懸念するのではないでしょうか。

佐藤:そうは思いません。一国二制度の下で、香港とマカオでは創価学会インターナショナルの活動は認められています。それから、中国の各大学には池田思想研究所があります。創価学会が政治活動をしているのは日本だけで、世界百数十ヵ国の創価学会インターナショナルは政治活動をしていません政治との関係においては折り合いをつけやすい教団なんです。

トランプが勝ちを想定した民主主義のゲーム

──「私は低学歴の人たちが好きだ」と言い放ったトランプ大統領は、下品さを見せびらかすことで、大衆にこいつは気取っていないと思わせて引きつけた。トランプの強さは支持者がカルト化したところにある、と記されています。なぜ米国人は理想主義者のサンダース氏より、ヒールレスラーのトランプ氏をより熱狂的に求めたのでしょうか。

佐藤:政治は論理だけではなく感情で動きます。トランプは安定した支持者さえ掴んでいればこのゲームに勝てると計算していた。最後まで選挙結果を認めなかったことも、次の大統領選挙を考えれば正しいやり方です。

 民主党はトランプの逆打ちばかりしています。イランで対話を再開し、イエメンのフーシ派のテロ組織指定を撤回し、アフガニスタンからの米軍撤退に関しては政策がぶれました。

もっとも、アフガニスタンから米軍が撤退しても、米国の民間戦争会社が国際機関や米国企業を防衛しています。軍服からガードマンの服に変えているだけで、本質的な違いはありません。

──トランプには政治家になって実現したい具体的な事柄が存在しない。「アメリカファースト」はそのような国づくりを理想としているのではなく、自己表現の一つに過ぎない、と書かれています。政治をエンターテイメントにできるのが不真面目な政治家の強みだと思いますが、これは危険なことでしょうか。

佐藤:危険だけど止められない。ウクライナのゼレンスキー大統領は元コメディアンです。「大統領」というテレビドラマに出たら大ヒットして、その勢いで大統領になっちゃった。プロレスみたいになってるんですよ、民主主義って。

 そうなると民主主義以外の選択肢、恐怖政治の方が国民は幸せなんじゃないか。そういう発想も出てくる。

──民主主義が崩壊して独裁のような形に変わっていくほど、現在は追い詰められた状況だということでしょうか。

今後生まれてくる社会主義でも共産主義でもない体制

佐藤:中国はコロナを封じ込めることに成功している。この意味は相当に大きい。民主主義の消費期限が切れているのかもしれない。でも社会主義は、ソビエト型の社会主義の負の遺産のせいで無理です。そうすると、恐らく出てくるのは一種のファシズムでしょう。国家の暴力を背景にして、雇用を確保して、経済的な再分配をしていくという思想です。

──コミュニズムを装ったような形で、ということですか。

佐藤:利潤を追求する起業家精神は尊重するという点では、コミュニズムとは違います。経済は統制しないで競争はやらせる。でも、競争の成果物は取り上げて、貧しい人々に再分配する、というやり方です。中国は比較的近いと思いますが、共産主義という看板を掲げなくなると思います。

日本で言うとまず、年収3000万円くらいまでの人はいてもいい。でも、年間10億円、20億円稼ぐ奴からは全部召し上げて資産に課税する。消費税はがーんと上げる。それを原資として再分配し、最低700~800万円の世帯収入は皆に保証する、というイメージです。

──米国のような超富裕層の少ない日本では、資産家に大きく課税するという考え方は都合がいいと考える人は少なくないかもしれないですね。

佐藤:今のところは事実上、MMT(現代貨幣理論)で世の中が動いてしまっているわけでしょう。いくら国債売っても大丈夫なんだ、と。あれは絨毯にガソリンを撒いているようなものです。すぐに火はつかないけど、朝鮮半島や台湾海峡の有事等、国際情勢によって一気に火がついて極端なハイパーインフレになります。

その時、MMTだと、増税で対応するということになっているけど、そんなことが短期間でできるのか。そうなると、リバタリアン(自由主義)的な発想じゃなくて国家が乗り出してくると僕は思う。

──金正恩には求愛を恫喝で示すという独特な表現様式がある、と書かれています。当たり屋のようにトラブルを持ち込み、恫喝し困った相手を交渉の場に引きずり出して、注文をつけて相手が少しでも譲歩したら儲けもの、というあの質の悪いやり口を金正恩総書記はどこから学んだのでしょうか。

「北朝鮮の人々は今の北朝鮮にそこそこ満足している」

佐藤: 金日成や金正日の時には北朝鮮から輸出するものもあったし、第三世界の支援もしていた。金日成の主体思想に惹かれる人もそれなりにいました。金正日の時はリビアにトンネルを掘っていたし、土木工事なんかで儲けていたんです。

 ところが、国連の制裁が加わって、だんだんそういうことができなくなって、ハッキングして仮想通貨を盗むとか犯罪国家的になっていった。ある意味、北朝鮮に対する制裁が効いてるんですよね。

 ただし、核兵器を持っているから、迂闊なことはできない。北朝鮮は自分の身を守るために、核兵器が米国に到達するような形にしておかないといけない、と思い込んでいます。特に、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の多弾頭化に成功すれば、北朝鮮の安全は保障されるということになります。

 北朝鮮は貧乏ですが、朝鮮戦争直後に比べて人口が増えているし、1990年代後半に多くの餓死者を出した「苦難の行軍」の時期と比べても豊かになっています。

 北朝鮮のキャリアパスでは平壌に住むのが頂点だし、農村から地方の中核都市に移ることによって人の移動がある。それを目指して頑張るから、あの体制内でも、みんなそれなりに幸せにやっています。閉ざされた環境の中で、たとえ低い生活水準でも人々はそれを甘受して、そこそこの幸せを感じる、ということは十分あるんです。

──「私が20世紀の独裁者の中で最も興味を持っているのが、アルバニアに君臨したエンベル・ホッジャである」と本書で書かれています。日本で一般的に語られる国際政治の主要な人物の中では比較的マイナーな存在ですが、なぜこの独裁者に格別の興味を示されるのでしょうか。

佐藤:政治家にとって一番重要なことは、国民を飢えさせず食べさせることです。アルバニアは荒れた土地の小国なのに、エンベル・ホッジャは自力でちゃんと生き残って国民を食わせることができた。大したものです。しかも、ソ連や中国と喧嘩しながら衛星国にならず、バランスを取っていた。本来だったらユーゴスラビアに吸収されてしまうような小さい国ですからね。

──エンベル・ホッジャが尊敬していたのは、鉄の規律で民衆を徹底的に押さえつけ、平等な世界を実現しようとしたソ連の独裁者ヨシフ・スターリンでした。アルバニアもロシアもその後、破滅的な辛い時代に突入しますが、それは過度な理想主義者に無理に矯正された反動でバランスを崩して転倒した結果のように見受けます。完璧な世界の実現を目指す真面目すぎる政治家もまた、ならず者以上に危険な存在なのでしょうか。

究極の自己責任社会だった旧ソ連

佐藤:理想で世の中を動かそうとしても短期間しか動かない。最後は恐怖で動かすしかないし、理想的な社会を作るには恐怖政治になる。ただ、恐怖政治だとしても、その仕組みが機能している限りにおいては長期間続くんです。

 ソ連はある意味で、非常にいい社会でした。共産主義の理想である「労働時間の短縮」が実現されていました。1日3時間くらいしか働かない。土日は2回休むし、夏休みは2ヵ月ある。クーポン券が労働組合から配られるから、夏の間はリゾートホテルでみんな遊んでいたんです。

──生活が安定して様々なものが享受できたとしても、人々は精神的に幸せにはなれないのでしょうか。

佐藤:旧ソ連はそれなりに幸せだったんです。住宅はタダで分けてくれる仕組みがあって、普通の労働者は別荘を持っていた。郊外のログハウスに10人くらいで集まって、手作りの料理を持ち寄って飲んで・・・。全然悪くない、楽しい生活ですよ。

 別荘に集まってタイプライターで詩や作品を作ることもありました。どんな反体制文書でも、製本して20部作って配るくらいは全然問題ない。日本の学術論文の読者だって、実際は3人くらいでしょう。知的な活動をしている人は、20部程度発行できれば満足ですよ。

一人の人が一生の間に知り合える人は150人で、人事評価をきちんとできる人数は8人だと言われています。人というのは10人、15人の人がいればわりと満足なんです。今の日本の場合、10人、15人の友達に会いたいと言っても難しいでしょう。仕事で都合つかないとか、収入に余裕がなくてカツカツだとか。

──競争志向型の人は、ソ連時代はどうしていたのでしょうか。

佐藤:ソ連のエリートはハイリスク・ローリターンだったんです。腐っていない卵を買えるくらいの特権しかなかったんです。国家の指導的な立場になっても、政争に巻き込まれてシベリア送りや刑務所送りになるリスクがあった。でも、そこそこの生活でよければ政争に巻き込まれることはない。

しかし、人々はミネラルウォーターやビールを飲む時は、光にかざしてチェックする必要がありました。品質管理がないから、ネズミのうんこが入っている可能性がある。それを飲んで腹を壊しても自己責任、だからみんな一生懸命に目を凝らしていた。究極の自己責任社会だったんです。

今の自由民主主義を守るには

──不安が多い社会では、強くて賢くて大いなる何かに導かれたいという願望が人々の間で高まりやすくなる。民主主義による意思決定のシステムが面倒に思えてくる。民主主義のシステムの綻びが大きくなり始めた今、20世紀の妖怪たちが息を吹き返そうとしている、と本書の冒頭で書かれています。この底流にある問題意識を教えてください。

佐藤:私は自由民主主義を守りたいと思う。

自由になると格差がつきすぎるけど、平等にすると競争がなくなって息苦しくなる。自由民主主義というのは、異なるベクトルの間で折り合いをつけていきます。その折り合いをつける基準は、フランス革命の自由、平等、友愛というスローガンの友愛ではないか。

では、その友愛はどう作られるのか。率直に意見を交わして、信頼が積み重なっていくと、その信頼関係がある人たちの間では、折り合いがつけられる。そういうネットワークを、自分の手が触れられるチャンスがある時に作る努力を怠らないこと、それが大事だと思う。(構成:添田愛沙)

無宗教派が支配する社会

国家神道に対する反動からか「無宗教」であることがよしとされ普通とされた戦後の日本社会において、神社での祈祷は「信仰」とは違うものとされ、正月にはみな神社にお参りするまた、葬儀や法事には僧侶に読経(どきょう)してもらい念仏を唱えることが、死者に対する(とむら)いであり儀礼だとみなされた。いずれも「信仰」とは異なるものとして扱われた。

何かを「信じる」者は無知愚昧(ぐまい)のやからとされ、「宗教」にすがる者は弱者としてうとんじられる。だから、「信仰」を説き、宗教団体に勧誘する者はうさん臭いものとみなされる。長いあいだ「宗教」について考えることを禁止された人々は、何も信じられなくなっていた。神も仏もこりごり、宗教など無用の長物と考えていた。それが普通のことと考え、誰も疑おうとはしなかった。

彼女はなぜ「学会員」になったのか

1959年4月、31歳の彼女は創価学会に入会した。当時、人々はその会を「学会」と呼び、会員を「学会員」と呼んできらった。「無宗教」が普通とされる戦後の日本社会において、「信仰」を持つ人々は敬遠された。その状況はいまも続いている。

そんな風潮のなか「学会員」となることは、「宗教」を持つと同時に人々が習俗として取り込んできた既存の神仏しんぶつを否定することを意味した。1950年代後半から60年代にかけて「学会」が全国的に展開した折伏しゃくぶくという名の布教活動に人々は戸惑い反発した。その宗教運動が他の宗派と宗教を邪宗じゃしゅうとし、家々にあったかみふだを破棄したからだ。そんな手法が人々の反感を買い、世間から「病人と貧乏人の集団」としてさげすまれ排斥はいせきされた。

なぜ彼女は「学会員」になったのか。周囲の人々にうとんじられ、夫に嫌われてまでして、なぜ「学会」にこだわったのか。「学会員」になることが彼女にいかなる変化をもたらし、夫の内面にどんな変化を引き起こすのか、少年の生き方にどう影響するのか、予想などしなかったろう。三十代初めの彼女自身、必死だったろうから。「学会員」となった彼女の生涯、少年の目に映った一人の女性の生きざまを描かなければならない、と思う。

人々がスマホを身体の一部のように扱い、インターネットでつながれた現在も同じ状態が続いていると言ったら、筆者は変人扱いされるだろう。でも言わなければならない。ンヴィーニたち

自民党の憲法改正草案に欠けているもの

https://oguriq.com/%e8%87%aa%e6%b0%91%e5%85%9a%e3%81%ae%e6%86%b2%e6%b3%95%e6%94%b9%e6%ad%a3%e8%8d%89%e6%a1%88/

現行憲法の前文が持つ格調が見事に失われているのはなぜだろうか。いろいろ重要な語句が挿入されていて、一見すると網羅的な感じを受けるのだが、いかんせん格調がないのである。

文章の格調というのは後で取って付けられるような修辞的なものではない。その文章を書いた人々のめざす理想やそれを支える思想が作るものである。この草案に欠けているのは、まさにそれではないか。

知識も見識も有する面々が執筆されていると思うが、残念ながら、浅学非才の僕にはその格調が感じられないのだ。

Farewell Mr Oh Taikyu, Consul General of Korea

2018年4月に在大阪韓国総領事として赴任した오태규(オテギュ)さんが三年余りの任期を終え、帰国する。当初より彼の Facebook 投稿記事に注目して専用のサイトを運営し、20年8月まで記事の日本語訳を掲載した者として、一文を呈したい。

当初の問題意識は次のようなものだった。当時の文章をそのまま引用する。

  • 関係国政府やメディア・SNS等が作り出す相手国イメージが実像から乖離している。さまざまな立場の個人が発信する場を創出しなければならない。
  • 오태규氏のFB韓国語記事を翻訳して日本の読者に読んでもらい、<日韓関係>の実像を理解するヒントを提供したい。その一例として一人の韓国人外交官の活動記録を提示する。
  • 個人と個人の対等な関係と相互理解にもとづく関係を再考し創出する。

この三年間、日韓の政府関係は膠着状態が続いている。「戦後最悪」と評する人もいるが、表面的に改善のきざしは見られない。一方でメディアは双方の政府を批判しながら、「民間交流」が活発で第何次「韓流ブーム」とはやし立てる。いずれにも納得できない者はどうすればいいのだろうか。思えば、こんな状況がずっと長いあいだ続いているのではないか。何をなすべきか。

以下に記事の総目次を掲載する。220号までは韓国語と日本語を併載し『総領事日記』(東方出版 20年10月) 発行後は日本語版を発行せず韓国語版のみサイトに掲載している。

大阪コリア通信(1) 001j-100j 2018.5.9-18.12.4
大阪コリア通信(2) 101j-220j 2018.12.7-20.8.26
오사카 통신(1) 001-100 2018.5.9-18.12.3
오사카 통신(2) 101-200 2018.12.7-20.3.10
오사카 통신(3) 201-277 2020.3.16-21.5.27

two decades ago

1999年から2005年にかけて、新聞雑誌に寄稿し掲載された文章があります。いま読み返すと、なつかしいと同時に、何かを僕に呼びかけているように思います。あれから20年、もう一度「隣語」と「隣国」に向き合わなければならない、そんな気持ちにさせます。

the Eliza Yates Annual 1925

2009年8月、上海市立図書館で発見した資料の英文名だ。発見の経緯は晏摩氏女中の年報1925に書いたとおりだが、いま思うのは当時の僕のがむしゃらな探索行である。あの遮二無二突き進む原動力は何だったのだろう。そういえば、上海に行く前の数ヵ月、上海語の個人レッスンを受けている。簡単な会話程度はできたから多少役に立ったはずだ。司書とはもっぱら英語でやり取りしたが、彼女が韓国語を学んでいたことも幸いだった。

表紙の中ほどにある校章に1897とある。奇(く)しくもカブァンは1897年10月20日(旧暦9月25日)に生まれている。

「戦前」と「戦後」の間にある切断

日本の歴史時代については、政治の中心地にもとづく、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代という時代区分が一般的だと思う。

これに沿って明治以降を考えれば「東京時代」とでもすべきだが、実際はそうなっていない。たとえば、戦前を「帝都(東京)時代」とし、新憲法が制定された1947年5月3日以降を「民都(東京)時代」とすることもできよう。首都は同じでも政治体制はまったく別のものだからだ。

他方、検定教科書は明治以降、現代日本の継続性を強調し、大日本帝国と民主日本国が連続しているように描く。「戦前」と「戦後」の間にある超えがたい断絶を曖昧にし、見えにくくしている。これに気づいただけでも、70歳にして法学の勉強をした意味があったというべきだ。

[再掲] 大浜啓吉著『法の支配とは何か: 行政法入門』は明治以降「戦前」における<法治主義>にもとづく立憲君主制国家と「戦後」の<法の支配>にもとづく民主主義国家が根本的に異なることを、さまざまな角度から説明する。前者は天皇主権であり、後者は国民主権である。

悲しいかな、多くの国民はこの違いを知りながら憤(いきどお)ることがない。著者は尋ねる、現代日本の初代首相は誰か、と。多くは伊藤博文(1841-1909)と答えるだろう。教科書にそう書いてあるからだ。彼は大日本帝国の首相だったが、民主日本国の首相ではないのである。

晏摩氏女中の年報1925

2007年12月と2009年8月、亡命中のカブァンの足跡を確認するため上海を訪れた。宿泊はいずれも東亜飯店にした。1920年8月、亡命したカブァンと弟が上海に到着してから約2ヵ月滞在したホテルだ。彼女の自伝に出てくる上海の街なみや彼女が1年ほど通った学校のことがずっと気になっていたのだ。

学校について、自伝には암마시스쿨アンマシスクールとハングルで書いてあるだけだ。そのままカタカナ表記してもいいのだが、それでは何も伝わらない。カブァンの亡命生活のなかで学校に通った時代は最も充実した時期の一つだったはずだ。その学校について何らかの手がかりを得たいと思い、上海を何度か訪れた。

校長が米国人ということからミッション・スクールという見当を付け、初めにアメリカンセンターに行った。突然の訪問にもかかわらず、スタッフは親切に対応してくれた。ただ、何冊か資料を調べたものの、それらしい学校はみつからない。手がかりになりそうな発見もない。午後もだいぶ過ぎ、少しせわしかったが、上海市立図書館に行くことにした。

初めに図書館の入館証を作った。今回で探求が終わるとは思えなかったからだ。歴史文書の閲覧室に入り、1920年代に上海で発行されていた新聞の縮刷版を1ページずつめくりながら、教員の募集広告をくまなく見た。この時点では「アンマシスクール」の漢字名は知らないから、それらしき音の漢字をひたすら探すしかない。しだいに閉館の時間が気になってくる。

ガラス窓のほうに目をやったときだった。ふと、学校調査資料という考えが浮かんだ。2002年から03年にかけて日本の大学等における韓国朝鮮語教育について調査したことを思い出したのだ。根拠はないが、上海にも類似の調査があったのでは、という期待だった。何回か資料について話し近しくなった図書館司書に伝えたところ、奥の書庫に入っていったきり、なかなか出てこない。

かなり長い時間が経ったあと、彼女は古い紙の束のようなものを抱えて出てきた。ビニールの紐で結ばれ、周りがぼろぼろになった資料だった。『廿九年出版上海學校調査録: 附上海文化機関調査 許晩成編』(中華民国29年は西暦1940年に当たる)であった。あのときの感動を決して忘れない、10年余り経った今も鮮やかに記憶している。

感激のあまり彼女を抱きしめようとして、やめた。閲覧室に戻り、資料を傷めないようにページをめくっていくと、その20ページの数行目に<晏摩氏女中>という文字が目に飛び込んできた。「これだ、これに間違いない」「住所も伝記の記述と矛盾しない」。資料を傷めないように気遣いながら、表紙と該当ページをこっそり写真に収めた。

ここで終えてもよかったが、さらに一歩進めた。学校があるなら年報もあるはずだ、という考えが浮かんだからだ。やや興奮ぎみに司書に伝えると、またしばらくして、今度は青い表紙の冊子を抱えて現れた。まるでマジックに遭遇したような不思議な感覚だった。冊子の表紙に金箔文字で The Eliza Yates Annual 1925、裏表紙に晏摩氏女中と記してあった。

以下、カブァンの手記(仮訳)から引用する。

キムギュシク(金奎植 1881-1950)博士の言葉は、泣きながら過ごしてきた私に警鐘を鳴らしてくれました。博士にお会いした3日後、私とチョネンは博士が紹介してくださった学校に行きました。アンマシ(晏摩氏)スクール[1]という、アメリカ人女性のセリー氏[2]が経営する大きな学校で、初中等教育課程を持っていました。ピアノが12台もある音楽室があり、大きな図書館もありました。

キム博士が「愛国烈士の子女」が亡命してきたと学校に伝えていました。校長のアメリカ人女性は私たち二人を丁重に迎えてくれ、中国語の個人教師も手配してくれました。[写真:Eliza Yates School、H.F. Sallee ほか]

[1] Eliza Yates School、1940年(中華民國曆29年)発行、許晩成編「上海學校調査錄」(Directory of Schools and Institutions in Shanghai)に「晏摩氏女中、外灘7號大廈4樓、應美瑛校長、敎會立」「卽前省立松江中學(松江高級中學、靜安寺路591弄141號)」とある
[2] Miss Hannah Fair Sallee、1915年から25年まで10年余り校長を勤めた (20170928)

憲法第53条ほかを読む

朝刊に国会の臨時会要求に関する違憲審査に関する記事があった。日本國憲法第4章の国会の条項のなかで、X分のYという記述があるのは、次のとおりである。

第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができるいづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない

第55条 両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする

第56条 両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。  両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し可否同数のときは、議長の決するところによる

第57条 両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。  両議院は、各々その会議の記録を保存し秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、且つ一般に頒布しなければならない。  出席議員の五分の一以上の要求があれば各議員の表決はこれを会議録に記載しなければならない。

第58条 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。  両議院は各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする

第59条 法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。  衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。  前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。  参議院が衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて60日以内に議決しないときは、衆議院は参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。


一の位が3の条文を列記してみた。[ ]内は個人的なメモ。

第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない

第13条 すべて国民は、個人として尊重される生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重必要とする

第23条 学問の自由は、これを保障する

第33条 何人も現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない

第43条 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。  両議院の議員の定数は、法律でこれを定める

第63条 内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない

第73条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。(1) 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。(2) 外交関係を処理すること。(3) 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。(4) 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。(5) 予算を作成して国会に提出すること。(6) この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。(7) 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。[天皇が認証する]

第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負ふ。[内閣がその責任を負うということは天皇に責任がないということか]

第83条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。

第93条 地方公共団体には法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。  地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する

第103条 この憲法施行の際、現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。

米国憲法を読む

はじめて米国憲法を読んだ。<法の支配>について考えたかったのと、それが日本国憲法にどんな影響を及ぼしているか気になったからだ。今回の米国大統領選で考えさせられることも多い。以下、We the People of the United States で始まる米国憲法(1787年9月制定)の前文を引用する。

We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に 備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。


1946年11月に公布、翌年5月に施行された日本国憲法は「主権が国民に存することを宣言し」、天皇主権から訣別する前文を掲げている。神勅主義立憲君主制に基づく大日本帝国憲法(1889年2月公布、翌年11月施行)はドイツ帝国(1871-1918)にそのモデルを求めたとされる。

独習時間を倍増させる

来年に向けて試験勉強を継続するに際して、教材と講師を比較検討し、気分転換を兼ねて教室を変え、新しい講座を受講することに決めた。講義時間を半減させ、独習時間を倍増させる。さあ、来週から新たな1年に向けて挑戦することにしよう。

(c) BC Bike Race

「民法はおもしろい」「法の支配とは何か」

行政書士試験の自己採点で不合格が判明したあと、気分転換に大型書店に行った。資格試験、民法、行政法、叢書、新書の棚を順に回って、二冊の新書を購入した。いずれも、以前の僕は決して読まなかった本である。

池田真朗著『民法はおもしろい』(講談社現代新書 2012年12月)と大浜啓吉著『法の支配とは何か: 行政法入門』(岩波新書 2016年2月)である。二冊を平行して読み始めたところ、これまで試験勉強で覚えた内容が次々と出てきて、おもしろいように理解できる。いずれの本も文中に問いがいくつか入っているが、すらすら解ける。

両書に共通するのは、初学者にわかりやすく書きながら専門用語を付していること、歴史的な洞察に貫かれ、明治期と戦後の断絶を明解に指摘していること、豊富な国際的視野に裏づけられていることなどである。

過去問を解くような義務感がなく楽しく読める。負け惜しみと言われそうだが、試験勉強がむだではなかった、と実感することができた。来年も挑戦できるような気がしてきた。

追記: 『法の支配』は明治時代から1945年までの<法治主義>に基づく立憲君主制国家(天皇主権)と戦後の<法の支配>に基づく民主主義国家(国民主権)が根本的に異なることを、さまざまな角度から説明する。僕らが小中学校を通じて学んだように明治期から令和期を連続的に捉えるのは間違いなのだ。

二回めの挑戦が終わった

昨年に続き二度目の行政書士試験を受けた。前回よりは回答できたと思うが、合格はむずかしいだろう。抜本的に勉強方法を見直さないと合格できないだろう。そもそも、70歳で試験勉強して何になる、という考えもあるのだが、現在のささやかな仕事に役立っていることは間違いない。小説という手法について考える又とない機会も提供してくれた。それで十分ではないか。

それにしても巨大な試験会場だった。東京湾沿いにある東京ビッグサイトの一角である。これもコロナ禍の影響だが、たしかに換気は悪くなさそうだ。全館に響く監督官の音声が不気味だった。小説に描いたンヴィニ教の寺院に擬すこともできる。

U.S. Presidential Election: Bloomberg

この Bloomberg の速報が米国大統領選と上下両院の改選ならびに開票状況を最もわかりやすく伝えているように思います。州別の詳細をみると county ごとの状況や人種構成も概観できます。

サイトデザインの変更(2)

周期的に行う癖がついているサイトデザイン変更だが、前回は3週間余り前に行った。今回はヘッダー写真をなくし、ロゴとして林子平(1738-1793)が18世紀後半に編纂した『三國通覧輿地路程全圖』を載せた。題名を虚構∪現実とし、副題を Japan-Korea relations とした。気分転換のようなものだから、そのうちにまた変わりますが。

『三國通覧輿地路程全圖』

[2020/11/09] 案の定、三日後にまた変更した。タイトルは元のとおり oguris.blog、サブタイトルは 1950-2035、後者は僕の生年と平均余命にもとづく没年である。 このサイト自体は没後も何年かは継続される予定だが、制作者がいなくなったあとのことはよくわからない。

六日前の憂鬱

次の日曜は本試験である。二度目の挑戦となる今回は前年になかった抑鬱感に重く押し付けられる。早くこの重圧から逃れたいが逃れようがない。もともと仕事の延長からという軽い気持ちだったはずが、いつしかそれ自体が目的になった。短編小説という副産物も得たが、試験のためには何の役にも立たないだろう。ただ、どこかで自分を支えてくれているように思う。

部屋に閉じこもって試験勉強をしていると50年余り前の大学受験のころを思い出す。19歳だったはずだ。1年目に失敗し、予備校がいやで独学を選択した僕は深夜か早朝に散歩することを日課にしていた。自宅から1時間ほどのところにあった石神井公園まで歩いて往復した。家では好きなクラシック音楽をよく聴いた。とくにチェンバロとチェロの器楽曲を好んだ。勉強に飽きると好きな文庫本を取り出して読んだ。模擬試験など受けたこともない。だから、今回はI塾という専門塾に通うことを選択したのだ。

220j 総領事館と民団等の代表だけの「小さな追悼式」

8月24日、京都府舞鶴港から故国に帰ろうと数千人のコリアンが乗船した浮島丸が、75年前(1945年)のこの日、爆沈されました。

この事故でコリアン524人を含む計549人が死亡した、と日本当局は発表していますが、いまだに正確な乗船人員と事故原因は不明で究明されていません。[参考] Wikipedia 浮島丸事件

1978年、舞鶴市民の手により事故海域を眺望する舞鶴市佐波賀公園に犠牲者の追悼碑が建立されました。以来毎年、事故の起きた8月24日、ここに舞鶴市民と在日コリアンなどが集まり、追悼式を催してきました。他にない民団と総連の合同行事でもあります。韓国労総と民主労総の代表もいつのころからか参加しています。

ことしは日韓の市民が共に参加する追悼式の開催は困難というニュースが少し前から伝わってきました。コロナ禍の影響で多人数が集まる行事の開催はむずかしいという状況のためです。[参考] 朝日新聞記事 2020.08.25

このニュースを聞いて、私は例年どおり行うべきだと考えました。追悼式を主催する日本の市民団体がその方針であれば、総領事館と民団などコリアン代表だけでも参加する「小さな追悼式」はどうだろうか、と提案したのです。京都民団もこれを受け入れ、この日午後1時から民団と総領事館職員の計10人だけが参加する追悼式を催しました。

猛暑のためわずか20分で追悼式を完了しました。大阪から追悼式会場まで片道150km、往復3時間の距離を考えると虚しい感も否めませんが、こうした形でも行ってよかったと思います。

何より、どんな困難があっても、日本の植民地政策により無念にも亡くなったコリアンを韓国政府が忘れていないことを示したかったのです。 「解放された祖国と家族のもとに帰れなかったコリアンをいつまでも記憶しなければならない」 「大韓民国は決して一人の国民も見捨てはしない」 。追悼の辞において、ことしの光復節で大統領祝辞にあった一節を思い出しました。

追悼式が終わったあと、マスク姿で撮影した今回の写真は、振り返ったとき、浮島丸犠牲者の追悼式の歴史における最も印象的な場面になるだろう、とコリアン代表に伝えました。

車中の時間が長い一日でしたが、心はいつになく軽やかでした。

219j 光復節を迎える在日コリアンの思い

3.1独立運動記念日と8.15解放記念日(光復節)はいずれも韓国人にとって大事な慶祝日です。とりわけ在日コリアンには格別な日です。日本の植民地支配に抵抗して万歳独立運動を起こし、35年に及んだ日本の植民地から解放されたこの日を迎える在日コリアンの思いは察するに余りあります。

ところが、ことし初めから新型コロナ感染が広がり、日本各地の民団は3.1節の行事を取り止めました。「8月15日の光復節は大丈夫だろう」と思っていたのに、新型コロナはいまだに猛威を奮い、例年のような光復節の式典を実施できませんでした。

大阪民団は3.1節と同じく行事を無期延期し、京都・滋賀・奈良・和歌山民団は規模を縮小し、感染対策を徹底して実施しました。滋賀・奈良・和歌山は8月15日、京都は16日でした。

大阪総領事館のスタッフが分担して各地域の式典に参加し、各会場で韓国大統領の祝辞を代読しました。大阪・京都担当の私は、大阪が延期され、16日の京都の式典だけ参加しました。

京都の記念式は午後4時に始まりました。連日37度38度前後の酷暑が続いていることに配慮した時間設定で、あまり汗は出ませんでした。

京都の行事は二つの点で、例年と違いました。第一に会場を民団ホールからホテルに移動したことです。参加人数を縮小して感染対策を充実させる意図が伺えます。以前の参加者は200人程度ですが、今回は60人余りでした。第二に若年層の参加が目立ち、最後の閉会の辞も地域青年団体の京都青年会議所の理事長に委ねました。若者に役割を与えて参加動機を高めようとする配慮を感じました。青年層がいるのに民団の行事に出席しないのは、役割がないからだという指摘がかねてよりあったのです。

この日の行事は、記念式典、ディナー、公演の3部で進行しました。自治体の関係者と地方議員も参加し、在日コリアンがコロナ禍のなか整然と手際よく進行する姿に驚いたようすでした。ある日本の参加者は、「コロナ禍でほとんどの行事をキャンセルしたが、学ぶところが多い」と話していました。規模は小さいながら格調高い行事に私も自信に溢れていました。

218j ハングル学校の教師研修会と民族教育講師の研修会

大阪では最近、最高気温が36度から37度、新型コロナの感染者数が200人前後を上下しています。

新型コロナ感染防止のためマスクをしなければならないものの、し続けていると暑さのために息苦しいほどで、ふだんの生活ができない、進退きわまった状況にあります。

このような状況で、夏休み中に計画していた行事も思うように実施できません。8月11日に予定していたハングル学校の教師研修会は、関係者に新型コロナ感染者が発生し、急遽中止しました。ことしからの新規事業のため、主催者の関西地域ハングル教師協議会が熱心に準備してきたところ、たいへん残念な結果になりました。

関西地域の民族教育講師夏期研修会も変更を余儀なくされました。韓国にまつわる京都文化遺跡探訪を含め8月11-12日に予定していましたが、京都府でも新型コロナ感染者が増え、団体行動の不安が拭いきれないため一日に短縮し、12日に実施しました。

500名収容できる民団大阪ホールに30人余りが参加し、新型コロナの感染対策を徹底して開催しました。延期意見も一部にありましたが、ふだんなかなか会えない民族学級の講師たちのあいだに実施への思いが強く、感染対策を徹底して開催したのです。

幾多の逆境を乗り越え、今日まで関西地域の民族教育を継続してきた講師たちの情熱と意志を大いに感じました。研修会の祝辞のなかで、予定の日程で研修会を開催できなかったのは残念ながら、コロナ禍にあっても研修会を実施しようという情熱こそが関西地域の民族教育を維持してきた原動力なのではないか、と私は述べました。

帰宅後、参加者の一人が研修会に参加し関心を示したことに感謝する旨のメールを送ってきました。「難しい状況のなかお疲れさまでした」と返信すると、さっそく「とんでもない、とてもおもしろい研修会で参加したかいがありました」と返ってきました。

217j コロナ禍のあと初めて訪ねた生野区コリアタウン

7月30日、久しぶりに生野区コリアタウンを訪ねました。コロナ禍以来初めてです。直接訪ねて見られなかったあいだも、コリアタウンに暮らし働く人々からニュースを聞いていましたが、自分の目で見たかったのです。

梅雨の後の蒸し暑い天気にもかかわらず商店街には多くの人がいました。コロナ禍で通りが閑散としたあと、緊急事態宣言の解除で5月末から以前の姿が戻ってきたというニュースを聞き、その状況を直接目で確めることができました。

この日、コリアタウンに行く前に付近の御幸通り商店街(コリアタウン)商店会の代表者たちと会食しました。3月初めの民団支部を皮切りに、青年団体や経済団体など、地域内の団体代表者に会って意見を聞く活動をしており、その一環として会食しながら懇談したのです。

コリアタウン商店街の全長5百メートルのなかには、西と中央と東の三つの商店会があります。店舗数は西商店会38店、中央商店会42店、東商店会40店です。以前はキムチ専門店や飲食店が多かったのですが、最近は韓流ブームの影響を受け、化粧品やアクセサリーショップが増えているといいます。

三商店会の会長など代表全員が会食会に参加する予定でした。西商店会の会長が急用で欠席しましたが、一体の商店会なので、コリアタウンの近況をありありと聞くことができました。

コロナ禍の前は外部の人が多く来たせいで近在の人がいなかったが、コロナ禍の後は近隣の人が多くなり、観光客に代わって大阪周辺の日本人が通りをうめているそうです。参加者の一人は「韓国が好きな人が韓国に直接行けないので、代わりにコリアタウンで韓国を味わおうとして大勢やって来るようだ」と話していました。

最近は若者だけでなく、さまざまな年齢層が来るともいいます。コロナ禍をきっかけに人々が自宅に留まる時間が増え、<愛の不時着>などの韓国ドラマが全年齢層で人気を集めている現象と、コリアタウンに来る人の流れが類似しているようだというのです。この点、オンラインメディアを介して広がる韓国ドラマの人気は、以前とは明らかに画期される<第4の韓流ブーム>ではないかという意見も出ました。ちょうど、31日付け朝日新聞社会面に<愛の不時着>と関連した記事が大きく出ていました。

商店会の代表たちはコリアタウンの訪問客の多くが「政治は政治、個人的な好みは好み」という意識を以前よりしっかり持っているといい、神戸の南京町のように、大阪のコリアタウンが多文化共生を象徴する地域として発展してほしいと話していました。

生野区のように在日コリアンが集団として長いあいだ生活基盤を持って住んでいるところは日本のどこにもありません。互いに協力して、生野区コリアタウンを日韓友好と協力共生の発信地にしていきましょうと私は呼びかけました。この日、商店会代表たちの溌剌とした姿に接し、久しぶりに良い気運をたっぷり受けて帰ってきました。

216j 在日韓国商工会議所「小異を捨て大同につく」へ向けて

一般社団法人在日韓国商工会議所の第58回定期総会が7月29日、大阪民団の本部講堂で開催されました。例年総会を開催する東京で新型コロナ感染症の感染者数が急増し、大阪に会場を移動したとのことですが、はからずも開催当日、大阪府の感染者数が226人と最高値を更新しました。

在日コリアン商工業関係者の最も中心的な団体である在日韓国商工会議所は現在東京ほか22都道府県の地方商工会議所に会員1万人を擁します。1962年の設立以来、在日社会と韓国の経済発展に多大な貢献を果たしてきましたが、決して平坦な歴史ではなく、組織の分裂と対立の痛手を体験しています。

民団との間に繰り広げられた深い対立(民団傘下の在日商工会議所と在日商工会議所との対立)は2016年の統合一般社団法人在日韓国商工会議所にまとまることで解消されましたが、現在でも複数地域の商工会議所が統合組織に参加していないなどの対立が続いています。そんな対立の代表的な団体が大阪韓国商工会議所なのです。

残存する対立の中心地が大阪にある状況下、在日韓国商工会議所の総会が初めて大阪で開催されることになり、管轄地域の韓国総領事として主催者から祝辞の要請を受けたものの、対立の真っ只中に立つわけで、まったく困惑しなかったといえば嘘になります。

とはいえ、全国の在日コリアン商工業関係者を代表する団体が総会を開催するのに管轄地域の関連団体が気まずいからと言って総領事が参加しないわけにはいかないと判断しました。大阪韓国商工会議所は大阪民団傘下の団体なので、大阪民団のオ・ヨンホ団長が参加して歓迎の祝辞を述べました。東京からも中央民団の団長が参加して激励演説を行いました。これらの参加者が私の負担を軽減したことは間違いありません。ただ、業務を遂行する上では人々の拍手だけを意識していてはならない時もあり、今回がまさにその事例ではないかと思いました。

祝辞のなかで私は、これまで在日韓国商工会議所が在日社会と祖国韓国に貢献したことを評価しつつ、「組織上解決すべき問題が残っていることを知っているが、双方が小異を捨て大同につく大同精神に立って額を合わせ、好ましい結果を見いだすことを望む」と述べ、今次総会が在日コリアン商工業関係者の和合に向けた大きな転機になるよう期待したいと括りました。

今次総会において神奈川韓国商工会議所の趙成允(チョ・ソンユン)会長が新会長(任期2年)に選出されました。新会長の体制下、大阪韓国商工会議所も共に参加し、名実共に全国の在日韓国商工会議所の歴史が達成されることを望んでやみません。

215j 4ヵ月半遅れの三一節記念式典挙行

7月14日午後、大阪民団主催の第101回「三一節」記念式典が挙行されました。実に4ヵ月半遅れの「遅れた三一節」記念式典となりました。

ご推察のとおり、三月一日に向かって日本でもコロナ禍が深刻化したのを受け、感染防止のため、ことしの記念式典を開催しないことにしたのです。行事を強行して感染拡大を招いては一大事という判断にもとづく措置でした。

この式典中止は在日コリアンにとって耐えがたく無念なことでした。70年以上毎年続けてきた行事を開催できないことの心残りは深かったのです。他の国はともかく、かつて植民地・母国だった日本に住みながら差別と抑圧を受けてきた在日コリアンは、とりわけ三一節に対し切々とした思いを抱いているといいます。

こうして、コロナ禍がやや沈静化した機会を捉え、このような思いを振り払おうと、大阪民団は数ヵ月遅れの三一節記念式典を挙行したのです。例年のような参加者約500人の規模ではなく、各支部の幹部を中心に80人ほどに縮小しました。また、検温と手指消毒、マスク着用、ソーシャルディスタンス維持を徹底して式典を進行しました。

参加者全員が例年以上に厳粛で真摯な表情で式典に臨みました。在日コリアン社会の特殊性に鑑み、式典を開催しないままにせず、4ヵ月遅れで挙行したことを高く評価したいと思います。

例年どおり、私は韓国大統領の祝辞を代読しました。時間の経過とともにコロナ禍をめぐる状況は大きく変化しています。前例のない新型コロナ感染症の脅威に対し国際的連帯を土台に解決を図らなければならない、という一節により切実な意味を感じた次第です。

式典後、7月に百歳を迎えられた金二泰(キムイテ)民団大阪本部常任顧問への記念品贈呈式も行われ、行事に華を添えました。

고종 장례식 1919년高宗の葬儀 1919年

214j 四天王寺ワッソの中止と全世界在外公館長会議の開催

2020年7月9日、コロナ禍がもたらした二つのまったく異なることを経験しました。

一つは、1990年から30年のあいだ大阪で開催されてきたイベント「四天王寺ワッソ」が、ことし開催されなくなったというニュースです。

この日の昼、このニュースを伝えようと、大阪ワッソ文化交流協会の猪熊兼勝理事長が大阪韓国総領事館を訪れました。理事会で協議した結果、コロナ禍のために仮装行列の参加者募集がはかどらず、イベント予定日の11月1日までにコロナ禍が終息するか不明な状況に鑑み、中止を決定したということでした。

残念なことです。「四天王寺ワッソ」は、日本と東アジアとの古代からの交流を時代ごとに仮装行列で再現する祭りとして1990年にスタートしました。在日コリアンが最も多く住み、古代から日韓交流が盛んだった大阪地域に着目し、関西興銀のリードで四天王寺と谷町通りで開催されることになりました。

しかし、2001年に関西興銀が破産したため、その年には開催できませんでした。 翌2002年、同じ志の人々の手で祭りが継続されることになりました。 2003年からはNPO法人大阪ワッソ文化交流協会がイベント会場を大阪城よこの浪速宮跡に移して開催しています。当初、パレードを含め参加者の大半は在日コリアンでしたが、最近は日本人参加者の割合が七割になるほど大阪の地方祭りの一つとして定着しているとのことです。

30年の伝統を持つ祭りをコロナ禍のせいで中止するのは余りにも残念なので、猪熊理事長に対し私は、30年の歴史を振り返るシンポジウムなどのイベントに変更することも検討するように提案しました。単にコロナ禍のために中止するのでではなく、コロナ禍がもたらした裂け目を反省と発展のきっかけに転ずることも意義深いと考えたからです。

もう一つは、同日の夜9時から2時間余り実施された、康京和(カン・ギョンファ)韓国外交部長官主催の全(世界)在外公館長会議です。全世界に広がる180以上の韓国在外公館の公館長が同時にアクセスするため、必然的に会議の時間帯が日本では夜の時間になったようです。幸い、先約の会食の予定を早めることで調整できました。

世界の在外公館長を画像で同時に接続して会議するという発想は、コロナ禍がなければ思いつくこともなかったでしょう。また、問題があっても「とりあえずやってみよう」というチャレンジ精神がなければ実行できなかったことだと思います。

会議が首尾よく運営できるだろうかと思いながら参加しましたが、予想外に良かったと感じました。デスクトップ画面に200人近い参加者の顔が、切手収集帳の切手のようにべたべた貼り付けられ、顔の判別がむずかしかったものの、こうして一同に会しコミュニケーションできるとことを不思議に思いました。

多くの人が参加する会議のため発言者の数に限りがあり、対話型よりは一方通行型の会議になるほかありませんでしたが、世界共通のコロナ禍の発生のせいで、他の地域の事情や関心、問題がそれぞれ異なることを理解できる意義深い会議でした。

この会議に出席し、コロナ禍のあとはオンライン外交の比重が必然的にかなり重くなるだろうと実感しました。大阪韓国総領事館もこのような傾向に備え、行政職員の人事異動に伴い、最近オンライン担当を新設しました。

コロナ禍が私たちに投げかけた衝撃を多角度から味わう、そんな一日になりました。

213j 日本の韓流と未来志向の日韓関係をテーマにシンポジウム

6月26日、大阪リーガロイヤルホテルで「日本の中の韓流と未来志向的な日韓関係」をテーマにシンポジウムを開催しました。大阪韓国総領事館が主催する、コロナ後における新しい形態による初の行事でした。

2000年初め「冬のソナタ」を皮切りに日本の韓流ブームが起こり、2017年からは BTS (防弾少年団) と Twice に代表される第三次ブームが起きています。また、コロナ禍のなか「愛の不時着」「梨泰院クラス」など韓国ドラマが Netflix を通じて大流行していることは周知のとおりです。でも、なぜそうなったのかはあまり知られていません。

日韓関係が政治的にきわめて難局にあるなかで韓流が人気を維持している理由は何なのでしょうか。この疑問に答えるシンポジウムを総領事館主催で開催したい。そう考えて、ことし初めから計画を練っていました。準備中にコロナ禍が起きましたが、あきらめずに忍耐強く状況を見きわめ、ようやく実施に至ったのです。

コロナ禍が完全に収束していないため、安全確保に特に留意しました。ホテルと協力し、数百人収容できる会場に参加者60人余りの席をアレンジしました。移動制限が解除されず、ソウルから来られなかった第一発表者、韓国コンテンツ振興院の前副院長、金泳德(キム・ヨンドク)氏はウェブに接続して発表し討論することになりました。いかにもコロナ時代の新方式らしい行事です。

参加者を限定しウェブを取り入れた新方式のシンポジウム会場は熱い熱気に包まれました。金泳德氏は、日本以外の世界で韓流がどの程度流行しているか、生産・流通・受容の面から詳細に解説しました。特に韓流の初期に韓国政府がソフトパワーを強化するために文化産業育成に尽力した背景とその成果をわかりやすく数字で表に示しました。

第二発表者、北海道大学大学院メディアツーリズム研究センター長の金成玟(キム・ソンミン)教授は「日本のなかの韓流- 歴史と特徴そして課題」と題した発表でフロア参加者の高い関心を集めました。日韓関係や政治関係の枠組みで韓流を見る従来の解釈をひっくり返す内容が注目されたのです。

金成玟教授は、第二次と第三次韓流のはざま、日韓断絶が始まった2012年に注目し、この年に日本で韓流が消えたわけではなく、新たな転換を行うための年だったとしました。第一次と第二次の東方神起・KARA・少女時代が活躍した2011年までは日韓のローカルな視点で韓流が捉えられ、大衆メディアを中心に韓流が消費された時期であり、2012年以後はグローバルな視野で日本の韓流ファンが自らのチャネルを通じて韓流を楽しみ始めた時期だとしました。

李明博(イ・ミョンバク)前大統領の竹島(独島)訪問など日韓の政治対立もあり、政治的な理由で韓流が消えたように見えましたが、メディアが取り上げなかったライブコンサートや Youtube などのソーシャルメディアを通じて韓流ファンが世界的な韓流トレンドに参加するようになったというのです。金成玟教授は、こうした国境を越えた流れが今後も継続するとの見通しを述べました。

大阪市立大学の伊地知紀子教授が司会進行した第二部討論会では、韓流と民族主義が主なテーマになりました。共同通信客員論説委員で元ソウル特派員の平井久志氏は、韓流が今後民族主義の強化に向かうのか、国際主義の強化に向かうのかという観点から問題提起を行いました。

金成玟教授と在日コリアン三世で吉本興業所属の芸人のカラミ氏、帝塚山学院大学の稲川右樹教授(韓国語教育)ほかが参加した討論は概ね現在の韓流が民族主義に束縛されることなく、文化を文化自体として楽しむ形で流通しており、今後もその傾向が強まるだろうとしました。

シンポジウムを傍聴しながら、政治的脈絡から文化を解釈すると間違いを犯しやすいことを思い、いかに文化の力が大きいかを今さらながら考えました。

212j 大阪・奈良・和歌山・滋賀・京都民団の支部支団長と懇談

6月16日、3月初めに始まった「長征」が3ヵ月余りで終了しました。途中、コロナ禍でしばらく行進が滞りましたが、ついに目標地点を通過したのです。

在大阪韓国総領事館が所管する2府3県(大阪・京都・滋賀・奈良・和歌山)の民団本部に所属する各支部の支団長等と、3月5日から一連の懇談会を始めました。コリアンの諸団体のなかで民団が最も大きく中心的な役割を果たしているところ、その最も重要な活動家は支団長であると考え、懇談会を企画しました。

これまでさまざまな行事に参加し、各府県の民団本部の幹部と多く接触してきましたが、団員と最も身近に活動する各支部の支団長と会話をする機会はありませんでした。この点を反省し、支団長等と連続懇談会を開催することにしたのです。

本格的な新年度事業が始まる前、4月までに連続懇談会をすべて終了する予定でスタートしたのですが、4月に入ってコロナ禍が深刻化し、予定していた日程が狂い始めました。

大阪民団の29支部を対象に3月5日から31日まで5回に分けて開催した後、コロナ禍のため日程を中断せざるを得ませんでした。5 月21日に日本の緊急事態宣言が解除された1週間後、奈良県を皮切りに懇談会を再開し、5月28日の和歌山県、6月12日の滋賀県、6月16日の京都府と、すべての行事を終了しました 。京都民団は大阪民団につぐ規模のため、二度に分けて開催するつもりでしたが、日程が予定より大幅に遅れたため、まとめて実施しました。

第一線に最も近いところで活動している支団長の苦情を聞き、励ますことを目的としましたが、コロナ禍を経たことで、この感染症で苦労しているコリアンを慰め痛みを分かち合う時間が多くなりました。一方、韓国政府がコロナ禍によく対応し、世界的に高い評価を受けている事実が自然と懇談会の定番メニューになりました。コロナ禍の困難のなかコリアンたちの母国愛がいかに熱いか確認できたように思います。

支団長をはじめ、第一線の活動家が異口同音に提起した問題は、団員の高齢化と帰化の増加に伴う団員の縮小でした。それに伴う財政悪化と活動力の低下がほぼ共通して指摘されました。

こうした困難のなか、いくつかの支部は保育や高齢者介護などの新規事業により活力を維持しています。コロナ禍のなか、マスク購入がむずかしかった時期に団員の家を訪ね歩いてマスクを配布したのが好評だったという話もよく聞きました。こうした事例に接し、活動の成否は金額の多寡ではなく、誠意と努力に左右されることを思い知らされました。

コロナ禍という伏兵が現れ困難にみまわれた懇談会でしたが、支団長等との出会いをすべて終了したいま振り返って、実施しなかったより数十倍よかったと考えています。コリアン社会に対する理解の幅が広がり、さらに深まったと思うからです。

211j 朝鮮陶磁の名品を所蔵する大阪市立東洋陶磁美術館

6月11日、関東地方と関西地方が本格的な梅雨(つゆ)に入りました。例年より少し早い梅雨入りだといいます。大阪も最高気温が約30度となり、雨が降ったりやんだりの一日でした。コロナ禍のなか蒸し暑い梅雨の天候を一ヵ月耐えなければならない、と思うと重い気分になります。

雨模様のなか、総領事館の職員とともに大阪市立東洋陶磁美術館を訪ねました。春の人事異動で職員が加わった機会に、所管区域内の朝鮮文化を自らの目で見て体感し、両国間の文化交流について理解を深めるために企画した見学会です。

東洋陶磁美術館は、韓国の国立中央博物館を除いて、高麗青磁や朝鮮白磁など朝鮮陶磁の逸品を最も多く所蔵する世界的にも著名な美術館です。朝鮮の陶磁器を中心に中国と日本の陶磁器の所蔵品も豊富です。

東洋陶磁美術館のコレクションには、大阪韓国総領事館の前身である在日代表部大阪事務所の初代所長、李秉昌(イビョンチャン 1915-2005)博士が寄贈された朝鮮陶磁器を中心とする李秉昌コレクションと中国陶磁器の分野で世界に知られた安宅(あたか)コレクション*があります。美術館には日本の国宝2点と重要文化財13点があります。*安宅英一 (Wikipedia)

李秉昌コレクションは高麗青磁ほかの朝鮮陶磁器301点と中国陶磁器50点からなり、1999年に開設されました。李博士が苦心の末、日韓友好と在日コリアンの自信と誇りを高めたいとの思いから東洋陶磁美術館に寄贈されたものです。韓国に寄贈されたのは国立中央博物館に1点だけといいます。

私たち一行は出川哲朗館長ほかの案内や説明を受け、李秉昌コレクションと開催中の特別展「天目–中国黒釉の美」(6/2-11/8)を見学しました。天目は中国の宋時代(960-1276)に黒釉をかけて焼成した茶碗です。今回の展示では油滴天目茶碗のなかで唯一国宝に指定されている美術館所蔵の茶碗(南宋)も公開されています。

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李秉昌コレクションは美術館3階に常設展示され、特別展の規模に応じて縮小展示されます。これまで訪問したときはいずれも縮小され、多くの作品を見ることができませんでした。今回は通常展示でしたので、コレクションを満喫できました。自ら巨額を投じて収集した愛蔵品を日韓友好と在日コリアンのプライドのため、惜しみなく寄贈されたのです。博士の遺志が十分に生きていることを感じます。

日本の大阪のまんなか、中之島にこうした朝鮮陶磁器の美を堪能できるすぐれた美術館があります。人気の Moto Coffee に行列をなすほど来訪する韓国の若者たちは、そこから徒歩5分の美術館にはやって来ない、と美術館の関係者が残念がっていました。美術館があることを知らないからで、知っていて来ないわけではないでしょう、と私は弁護したのですが。

210j テレワークと韓国系民族学校のオンライン授業

コロナ禍がもたらした新しい生活様式のなかで何よりも際立っているのは、インターネットを利用したリモート業務(remote work)だと思われます。感染防止のため、できるだけ人々の接触を避けて仕事しなければならない状況から生まれた新たな光景です。

日本のようにインターネット文化が必ずしも十分に定着していない社会においても、否応なくインターネットによるテレワーク(在宅勤務)を導入せざるを得ない企業が増えています。外国公館のように機密事項を含む機微情報を扱うために在宅勤務がむずかしい職場でも、セキュリティ対策を講じたうえでビデオ会議を実施しています。「必要は発明の母」という格言を改めて身近に感じます。

コロナ禍のなか、私もビデオ会議に二度参加しましたが、直接会って話すより不便な点がないわけではないものの、予想したよりはるかに便利に思いました。会ったときの感情の無駄などを考えると、かえってよい面もあるようです。

韓国では本格的に学校での授業が開始される前に、全国すべての学校でオンライン授業を実施しました。他方、日本では一部の大学を除き、あまり活発に行われなかったように思います。日韓におけるインターネットをめぐる環境と文化や意識の違いが反映されていると思われます。

こういう状況のなか、関西の韓国系学校の建国小中高等学校金剛学園京都国際学園はいずれも日本の教育法に基づく文科省認可の一条校ながら、インターネットを利用した遠隔授業を実施しています。韓国の学校におけるオンライン授業に刺激を受けたことも大きいと考えられ、韓国的なインターネット文化を色濃く反映しているように思います。

これら韓国系民族学校のオンライン授業が、「韓国系」という要素と並ぶ、もう一つのブランドになることに注目した在大阪韓国総領事館は、これら三校のオンライン授業を積極的に支援することにしました。5月28日には、三校のオンライン授業を推進する教員たちを招いて、発表と意見交換の会を催しました。

発表を聞いて、インターネット環境が十分に整備されていないなかで奮闘する教員の苦労をまざまざと見せつけられました。三校が異なるプラットフォームを使っているのも注目されます。

建国学校はインターネットのバンド機能を使って遠隔授業を進めており、生徒も参加してバンド機能を利用した授業の方法を紹介しました。金剛学園は日本のチャットアプリを使った授業をしています。同学園のオンライン授業のようすは5月8日に関西テレビでも紹介されています。京都国際学園は YouTube で作成した教材を学校のサイトに載せる方式を採用しています。残念なことに、これらの授業は韓国の学校とは違い、正規の授業日数に含まれないといいます。

参加した教員たちは、他校の発表を見て活発に意見を交わしていました。明確なモデルがないなか、他校の授業方法を見て大いに参考になったと参加者は述べています。今後さらにやり取りを重ね、教材や運営方式を共有していくこととしました。教育内容と方法をめぐって民族学校三校が事実上初めて合同協議を行ったという点でも、今回の会は意義深いと思われます。

在大阪韓国総領事館は民族学校三校のインターネットを通じた遠隔教育を活性化するため積極的に支援していく予定です。

209j 在大阪韓国総領事館も25日から通常勤務に

5月21日から東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・北海道を除く日本全域の新型コロナ感染症による緊急事態宣言が解除されました。もちろん、在大阪韓国総領事館が所管する大阪府・京都府・滋賀県・三重県・和歌山県も解​​除対象地域に含まれています。

とはいえ、市井の人の表情と街のムードにはまだ緊張感が漂っています。コロナ以後の世界がコロナ以前に戻るのは容易なことでないと思われます。

緊急事態宣言の解除に伴い、総領事館も25日から交代制の在宅勤務を通常勤務体制に移行します。1ヵ月余りぶりの通常勤務ですが、新型コロナ感染症が完全に終息していないため、感染予防対策を徹底し、維持しながら勤務することにしました。

コロナ禍の鎮静化に伴い、これまで延期してきた対外的な活動も徐々に再開しています。

解除前日の20日には、大阪府にある進歩的コリアン団体のウリ民主連合(会長 イ・チョル、在日コリアン良心の囚人の会会長)の事務所を訪ね、新型コロナ感染症の防護用マスクを贈呈しました。総領事館としての訪問は初めてのことです。

朝鮮半島の統一と民主主義の発展、人権擁護、国際親善を支持するオールドカマーとニューカマーが2017年末にこの団体を結成し、韓国光州市での5・18記念式開催や在日コリアンの民族教育支援活動を行ってきました。マスク贈呈後、会員と活動方針などについて意見交換し、今後、総領事館と協議しながら在日コリアン社会の発展と日韓友好に協力していくこととしました。

21日には、3月初めから実施してきた民団各支部の支団長との懇談会を再開しました。大阪民団の29の支団長との懇談会を終えた3月末以来、コロナ禍のため中断していたのです。この日は奈良市に行き、奈良民団所属の支団長に会いました。奈良民団には10支部があり、5支部は奈良民団本部が直轄しています。残り5支部から3人の支団長が出席しました。イ・フン奈良民団団長など本部の幹部も3人参加しました。

自然と新型コロナの話題から始まりましたが、支団長は韓国が新型コロナ感染症対策に成功しているのを見て鼻高々だと誇らしげに話しました。在日コリアンの士気に最も大きな影響を与えるのは、やはり母国の力だと実感しました。また、参加者一同がコリアン社会の縮小、とくに若年層の不参加が大きな問題と困難だと吐露しました。現場でコリアンと最も密に接している支団長が民団活性化の鍵を握っていることを強調し奮闘するように激励しました。

徐々に活動を再開しながら、久しぶりに開放感を感じました。新型コロナであれ何であれ人の恣意的な活動を中止することも悪いことばかりではないようです。