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aya musica

aya musica というサイトがある。イタリア語でアヤが音楽を奏(かな)でるという意味らしい。

音楽と数学(幾何学)を学んだという来歴にひかれ、ここ数日何度もアクセスしている。といっても、じっくり文章を読み込むわけではなく、その歌やピアノ演奏を聞くだけだ。それがいいのだろう。肩ひじを張らずに聞き流していると、どこか静けさのなかに取り残された自分を見出し、落ち着くような気がするのだ。

The North’s Taedonggang Beer

文聖姫著『麦酒とテポドン: 経済から読み解く北朝鮮』(平凡社新書 2018年12月)を読んだ。麦酒とは、Economist 2012-11-24(下に引用)が韓国のビールよりうまいと評した大同江(テドンガン)ビールのことであり、北朝鮮の改革・開放経済を象徴している。[上の写真 (c) KKF]

…..And despite the recent creation of Hite Dry Finish—a step in the right direction—brewing remains just about the only useful activity at which North Korea beats the South. The North’s Taedonggang Beer, made with equipment imported from Britain, tastes surprisingly good…..

著者は在日コリアン二世で、北朝鮮系民族学校から日本の大学に進み、朝鮮新報(総連の機関紙)に入社して2006年まで勤める。02年の日朝首脳会談で拉致事件の真相が明らかにされたことに大きなショックを受けるが、平壌特派員(3-4ヵ月)を二度経験し、短期出張でも何度か北朝鮮を訪ねている。2018年に朝鮮籍から韓国籍に変更している。

本書の副題にあるとおり、著者は北朝鮮を「経済から読み解」こうとしながらも、可能な限り北朝鮮のふつうの人々の生活に迫ろうとする。北朝鮮について基礎知識を持たない僕は、時期が前後する北朝鮮のニュースや統計の断片がつながりにくく、初め焦点の定まらない映像をみるような感じがしなくもなかった。固定観念という老眼のせいだったかもしれない。

ただ、読み進めていくうちに著者独自の視点が見えてきて、北朝鮮の人々の姿がおぼろげながら浮かび上がってくる。第4章大同江(テドンガン)ビールと改革・開放」に至って、勤め帰りにビアホールに立ち寄り、おいしいビールを飲んでいる人々の姿がその表情とともに伝わってきた。

全体を通じ著者が北朝鮮と韓国を心から愛していることが温かく伝わってきてすがすがしい。また、僕らが知っている北朝鮮に関する情報がいかに偏頗なものか、そのもとにある日本社会や韓国ないし中国や米国に対する見方がどれだけ断片的なものかを気づかせてくれる貴重な観察録である。

本書の章だては次のとおりだ。第6章と7章は新聞等で周知の情報も多く、一般読者には読みやすい。はじめにこれらの章を読んでから第1章を読む方法もあるかもしれない。

  1. 市場経済化の波は止められない
  2. 経済から読み解く金正恩体制のゆくえ
  3. 北朝鮮の人々
  4. 大同江(テドンガン)ビールと改革・開放
  5. ブラックアウト、消えた電力
  6. 南北経済強力と文在寅政権
  7. 核開発とミサイル

大同江テドンガンビールの関連情報ほか↓

(c) Retailnews Asia 2016.04.05

米国製の大同江(テドンガン)ビールもあるようだ。ラベルの上方に<醸造の自由>とあるのがいかにもアメリカらしい。

大日本帝国が大韓帝国を植民地化した1910年の翌年、大阪で発行された朝鮮全地図の裏面に当時の平壌市街図が載っており、右寄りに大同江(テドンガン)が太く描かれている。現在のビール工場がどの辺にあるのか想像すると、ほのかな酔いに襲われるかもしれない。

1911年発行朝鮮全地図の裏面

1970年の彼と2020年の僕

二十年前に雑誌「外交フォーラム」(2002年12月)に寄稿した文章を読み返した。日本の大学や高等学校における韓国語教育の実態調査に取り組んでいた時期に書いたので、「学校教育」の側から韓国語学習者を見ている。その一部を引用する(文中の「韓語」は韓国語・朝鮮語の意味)。

「七十年代、日本でとらえられていた隣国のすがたは政治的な側面だけが突出していました…韓語の教科書はわずか二冊、学習者はほとんどいませんでした。カセット教材などなく、韓国のラジオ放送や平壌放送を聞いて発音を覚えました…(02年当時)全国で5000名近い高校生と数万名の大学生(高校生の約0.1%、大学生の1-2%)が韓語を履修しています…彼らはハングルをかっこいいと感じ、韓国映画やKポップが好きで学ぶと言います…」

この文章から約二十年後の現在、日本ではBTS(防弾少年団)に心酔する中高生が増え、韓国ドラマを視聴する中高年も「冬ソナ」以来とどまることがない。若い世代を中心に韓国コスメの人気もすっかり定着した。在日コリアンの四世代に及ぶ歴史と日本社会の不条理を描き2017年に米国の National Book Awards 最終候補作となった”Pachinko”(日本語版は昨夏に発行された)が米国でロングセラーになっている。韓国の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』の日本語版が2018年末に出て多くの読者を得ていることも特筆に値する。

これらの事象を「ブーム」として捉える人が多いが、これまで二十年ないし五十年の変化相を見ると、「ブーム」と呼ぶにはあまりに広く深いし多岐にわたっている。これらの「ブーム」を支える何十万何百万の人々が韓国文化にふれ、文化にまつわる経験をしているはずだ。幾千万の人々が国境を越え文化の壁を意識したであろうことも容易に想像できる。

五十年を振り返って、はたと思う。1970年ごろ深夜暗い部屋でKBSラジオの海外同胞向け放送や平壌放送の乱数表(暗号)を聴いて発音を覚えた者と、YoutubeでBTSの歌やインタビューを聴きながら韓国語を学び、その歌詞や発言に感銘を受ける現代の中高生や学生とのあいだに、五十年という時間と明暗のほかにどんな違いがあるのだろうか、と。不必要な緊張を強いられずに好きなKポップを聴き、韓国語を身につける彼らを率直にうらやましく思う。ただ、自分たちの世代が恵まれていなかったとは思わない。まったく違う指向性にみえるかもしれないが、両者ともに自ら好きで隣国の人々と文化に向き合っているのであり、その点ではいささかも異なるところがない。いぶかしく思うかもしれないが、思いは同じなのである。

最近二十年ほどの日本における韓国文化の受容で注目されるのは、孤立しているように見える個人が、単なるわがまま勝手ではない強い意思をしっかり持っていることだ。だから、BTSに近づくために韓国語を学び、彼らとやり取りしようとして突き進んでいく。強靭(きょうじん)ともいうべき個性を持っているからこそ、わき目もふらずに進めるのだろう。五十年前の僕も誰かにいわれて隣国に近づいたわけではないが、彼らほどには個人として強靭でなかった。2008年から十年余りアシアナ航空と韓国文化院が主催する高校生の韓国語・日本語コンテストを通じて接した全国の高校生たちは堂々としていて、(ひる)むところがない。彼らの家族や学校教育関係者がどう後押しするかが問われている。

在日コリアンの歴史を描いた”Pachinko”がなぜ米国社会に広く受け入れられているのか、よくはわからない。ただ、日本のように「単一民族」性の根強い社会よりも米国のような移民社会の読者のほうが在日コリアンの歴史を理解しやすいことは間違いない。”Pachinko”の読者はそこに描かれた日本社会の閉鎖性と他民族を社会の構成員として受け入れない硬直性に驚き呆れ、米国社会の基本枠組みにもとづいて軽蔑すらするだろう。在米コリアンの著者は、たとえば、パチンコ店で働く一人の人物を通して60-70年代に祖国に希望を見出しながら日本社会を離れた在日コリアンの姿を鮮やかに描いている。彼女の優れた取材と構想力は自身の移民二世としての体験と米国という多民族社会でこそ培われたものだと考える。

他方、日本ではあまり知られていないが、これまで二十年のあいだに急速に「多文化」傾向が進行している韓国社会の変化も見逃せない。この変化が上述のこととどう関係しているか不明だが、どこかで影響しているように思う。雑駁(ざっぱく)な表現ながら、「多文化」社会への進行度合いにおいて、日本の閉鎖性と息苦しさは韓国よりもむしろ北朝鮮に近いのではないか。日本に欠けている「多文化」性が韓国社会にはある、若い人々はそれを鋭敏に感じていると思う。彼らをKポップスターに引きつけてやまない要因のひとつがそこにあるかもしれない、と考えている。

日本における韓国文化の広がりと深まりは決して揺らぐことはないだろう。この五十年のあいだに人々の営みにより水嵩(みずかさ)を増した文化が滔々(とうとう)と流れているからだ。一方で、かつて日本の複数の新聞が「地上の楽園」と呼び、在日コリアンが嬉々(きき)として万景峰(マンギョンボン)号に乗って渡って行った北朝鮮と日本のあいだには深い不信と疑心暗鬼が堆積している。日韓の政府関係も歴史問題をめぐって深刻な膠着(こうちゃく)状態にある。

あえて言いたい。日韓・日朝の政府・外交関係と日本における韓国文化の受容状況を並列し、同次元で論じてはならない。自国はおろか自党の利害しか考えない双方の政治家や偏頗(へんぱ)なイデオロギーに囚われた人々の扇動(せんどう)に振り回されてはならない、と。韓国文化を受容している現代の中高生や大学生が決して愚かな政治家や似非(えせ)ジャーナリストに振り回されないことを信じ、日韓・日朝関係の将来を君たちに託したいと思う。意識していないだろうが、君たちは隣国の人々と文化に自ら進んでアプローチしている。だから、自分たちの感覚や考えを持ち続けられると思うからだ。

簡憲幸さんと51年ぶりに

以下、簡憲幸さんのサイトから転載させていただきます。

「その問題解決いたします、本質から」

簡憲幸

よく「簡さんのお仕事は何ですか?」と聞かれます。「事業開発のコンサルタントですが、講演もしますよ。また文化講座などのイベントをしますし、コンサートなども企画して実施しています。これらは道楽ですけどね」などと答えます。

質問をされた方は、きっと「良く分かんない」と思われるでしょう。実を言うと、私も自分が「何屋さん」なのかが分からなくなります。しかし、もともとがコンサルタントですから “solution をする仕事” が正しい答えかもしれません。”solution” とは、問題解決のために具体的な方策を提示する仕事です。

しかし、私は “solution” という言葉を好きにはなれません。なぜならば、 ”solution” という言葉には「溶解」といった意味があるからです。たぶん問題解決には、その問題を「溶解(分解・分離)」することが必要だからでしょう。

ITシステムや機械システムにおいては、有効な手段でも、私がお相手させていただいているのは人間です。「溶解・分解・分離」では答えは発見できません。

なぜならば、システムや機械をバラバラにしても、そこには本質がないからです。個別の部品に欠陥があれば、修理は可能でしょう。ですが、システム全体にかかわる問題は、部品を調べても発見できないのです。

また、もし部品に欠陥があり、それを交換したとして、それで問題解決とはなりません。「なぜ部品が欠陥となったのか?」または「なぜ欠陥部品が紛れ込んだのか?」、この辺が問題なのです。問題をパーツのせいにしてはいけないのです。

企業において問題が起きると誰かのせいにしますが、事象として現れるその個人も問題もあるでしょうが、深層ではその組織に問題があるのです。

風邪をひいて、解熱・くしゃみ止め・鼻水止めの薬を飲み、それで風邪という病気が治ったと思っています。しかし、問題は「なぜ風邪をひいたのか?」「風邪になる体質はどうしたら改善できるのか?」です。

つまり、対症療法では根本的な解決にならないのです。水漏れのパイプにパッチワークをして一時的に水漏れを防いでも、その場しのぎで真の解決にはならないのです。

私は真の問題を発見したいと思っています。そして、その解決のための具体的な方策を提示したいと考えています。さらに、その具体的な方策を企画実施することが重要だと感じています。それが私の仕事なのです。

簡憲幸
  • 氏名:簡 憲幸(かん のりゆき) 
    中国名: CHIEN HSIEN-SHING
  • 住所:〒164-0002 東京都中野区上高田 1-35-4 第二昭和ビル22
  • 携帯電話:090-9245-6048
  • メール:chien0008@hotmail.co.jp
  • 華僑二世として1954(昭和29)年10月7日、東京に生まれる

日本大学芸術学部卒業後、コピーライター・プランナー・マーケッターとして活動し、その後、新規事業コンサルタントとして、また近年は中国・台湾そしてアジアを中心として活動をしている。また文化事業・講演活動も積極的に行なっている。

【初期相談】

  • ご相談の内容は、どのような案件でもお受けいたします
  • ご相談のお時間は1時間程度です
  • ご相談に関する企画書・資料などがあればご用意いただき、ご持参ください
  • 一回のご相談料は3万円です、当日ご用意ください
  • お客様の事務所までお伺いいたします
  • 可能な限り、その場でお答えをお出しします
  • ご相談の内容について固く秘密保持をいたします
簡憲幸

事業開発コンサルタント

一流企業の新規事業開発のコンサルタント業務を行う。具体的には荏原製作所・コニカ・大成建設・サッポロビール・丸紅・大和證券・資生堂・NTTデータ・NTTドコモなどの商品開発・事業開発・市場調査など数々のコンサルタント業務を行う。一事例としては芙蓉グループからの依頼で英国「クイーン・エリザベス二世号の日本招聘」の事業開発コンサルタントをする。近年は、デジタル・ウェブなどに関する新規事業開発のコンサルティングを行っている。また、東京都や地方自治体・大成建設をはじめ、旅行代理店・広告代理店・IT企業など一流企業の依頼により「企画論」「リーダー論」「組織論」「会議論」の講演や経営者教育・新入社員教育・営業マン教育などの講師・指導者をしている。

国際事業コンサルタント

中国・台湾などにおける新規事業開発・事業投資などに関してビジネス・コンサルティングを行う。とくに台湾・中国に関する様々な分野でのコンサルティング・コーディネイトを行っている。また上海、さらに北京・台北・東京において国際フォーラムを行い、また財団法人国際文化会館などにおいてインド・ムンバイ・ドバイ・シンガポールなど国際セミナーを主催。さらに中国・アジア圏での文化交流サロン竹林閣において、弁護士・弁理士・行政書士の専門家を対象とした「日本知財懇談会」を主催している。現在は、日本の中小企業のアジア進出を支援する「STEP TO ASIA」プロジェクトを企画し推進中である。講演としては、「中国文化論」「台湾歴史史観」「日本文化史」をテーマとしている。

アート・ディレクター

クリエイティブ関連ではアート・ディレクターとして、電通・博報堂・アサツーDK・読売広告・東急AGC・大広をはじめとした広告代理店各社、電通PRセンター・日経リサーチセンター・日本リサーチセンターなどのマーケティング企業からの業務依頼により行う。また、広告宣伝・販売促進・PR・CI・マーケティングなどの専門家・プランナーとして活躍する。コンピュータ・アート作品をも手がけ<第一回アドビ・コンテスト>にて作品 “WARS” が入賞をする。広告制作では<読売新聞広告賞>で銅賞(クリオ賞)を受賞。

アート・プロデューサー

中国民族芸術を日本に紹介する彩鳳会を1991年に設立。在日中国人芸術家たちの公演活動を数多く行い、日本はもとより中国からも高い評価を得ている。1997年、日中国交正常化25周年記念「中央民族楽団」70名の来日公演、2003年「国宝楽団」の招聘公演を成功させる。その他、北京京劇院、中国スーパー雑技団の招聘など20年間に大小200回を越す公演を企画実施している。博物展では2004年中国の「景徳鎮展」「陝西省博物院展」を成功させる。また1996年に本格的シェイクスピア劇団「ASC」の設立にゼネラル・マネージャーとして、同年10月にグロープ座にて「ジュリアス・シーザー」旗揚げ公演をする。その後、東京芸術劇場などで40公演以上を成功させる。

竹林閣

中国、台湾など主に中華圏とアジアを対象とした文化芸術サロン竹林閣を新宿に2010年にオープンさせる[注: 2017年12月に閉鎖、21年4月25日に大久保駅近くで再開]。日本と各国との交流事業、各種セミナーやフォーラムを開催している。

STEP TO ASIA

2011年5月、日本の中小企業向けに海外進出を支援する国際的な人材によるプログラムとして「STEP TO ASIA」を設立。台湾、シンガポール、大連など国際セミナーや、国際文化事業、知的財産権セミナーなどを多彩な活動を開始している。

著書

  • 『リーダーの教科書』(長崎出版 2006年11月)
  • プライベート・マガジン『簡書』(2013年3月)

受賞歴

  • <第一回アドビ・コンテスト>にて作品 “WARS” が入賞(1990年)
  • <読売新聞広告賞>銅賞(クリオ賞)を受賞(1990年)
  • <ワールド北斎アワード>入賞(2020年)

能楽のシテとワキ

能楽について何も知らないながら、シテとワキという役の分担が明確にあり、それによって流派も分かれることに興味を持った。小説と法律の文章や虚構と実体の違いについて考えるあまり混乱し、そこから脱出しようとして模索するなかで、シテとワキという区分が役に立つような気がしたのだった。さらに遡れば、父が幽界に入ったことが影響しているかもしれない。 以下、日本能楽協会のサイトから抜粋し引用する。


能では主役のことをシテという。能は徹底した「シテ中心主義」で、美しい衣装も面も観客の目を引きつける舞も、ほとんどがシテのものである。また、上で述べた*代表的な役柄もシテが演ずるのがふつうである。そのシテと応対し、シテの演技を引出す役をワキと呼ぶ。すべて現実に生きている成人男子面をつけることはない神官天皇の臣下などの役が多い。

シテを演ずる人たちのグループ(シテ方)と、ワキを演ずる人たちのグループ(ワキ方)はまったく別のグループで、シテ方の役者がワキを演じたりワキ方の役者がシテを演じたりすることはない。シテ方の役者はシテやその助演的役割のツレを演じるほか、地謡(コーラス)を受け持つ。地謡は、情景や出来事、登場人物たちの心理などをナレーション的に描写するほか、ときにはシテやワキになりかわって彼らのセリフを謡うこともある。

曲によっては子どもが登場することもあり、子方と呼ばれる。子どもの役を演ずるだけでなく、天皇や源義経の役など貴人の役も演ずるのが能の子方の特徴である。たとえば、<船弁慶>の義経はシテやワキが表現する愛情・忠誠心・恨み等々の向かう先のいわばマークとしてのみ存在している。そうした義経の存在感が強くなりすぎぬよう、あえて子方を用いるのである。

*<源氏物語><伊勢物語>などの古典文学に登場する優美な男女の霊、<平家物語>で語られる「源平の戦」で死んだ武将の霊、地獄に堕ちて苦しんでいる男女の霊というように幽霊が多い。また、松や桜など草木の精、各地の神々、天女、天狗、鬼など、人間以外のものも多く登場する。

玄東實さんが語る(2) 金大中大統領

玄東實さんが語る(1)よりつづく

歴史問題と金大統領の名演説

–: 注目を浴びる「歴史の清算」問題をどうみていますか。

玄: この点も個人的な見解ですが、韓国の現代史は日本の戦後と同様に複雑な背景があります。国際政治の思惑に翻弄されてきた、ままならなかった歴史と言えるかもしれません。例えば、8月15日は日本では「終戦記念日」ですが、韓国では「光復節」として日本支配からの解放を意味します。

一方、8月15日を「唐突な解放の日」と解説する韓国の識者もいます。私の考え違いかもしれませんが、“唐突な”との表現には、日本の植民地時代における韓国国民の状況を悲観的にだけ捉えていたのではない感情が見え隠れしてはいないでしょうか。

現在もそうですが、韓国では日本との関係が悪化すると、歴史問題がいつも注目されます。ただ、これは、現在の日本に対する評価とは関係のない文脈で語られていることに注意が必要です。多くの韓国国民は本心では、日本ともっと友好を深めたいと望んでいると思います。

では、歴史の清算問題とは何かという話になります。それは具体的な政治問題の解決もあるでしょうが、むしろ韓国の文化や歴史・思想・哲学に対する自信の回復を指しているのではないか、と私には思えます。つまり、戦火で失われた韓国本来の姿を取り戻したいがために、歴史の清算問題を引き合いに出さざるを得ない、高度な政治的事情があるのではないでしょうか。しかし、そのために歴史問題を持ち出すことは、当然、日本人の感情を強く刺激することになります。

韓国社会は見違えるような発展を実現していますが、戦後の韓国経済は確かに大変な苦労をしてきました。韓国で大ヒットした映画『国際市場で逢いましょう』(2014年公開) を観ていただきたいと思います。韓国が歴史の清算にこだわる背景の一部を感じ取ってもらえるのではないでしょうか。

これらに関して、金大中・元大統領は、日本の大衆文化開放の歴史的意味に触れ、「1500年以上の日韓交流の歴史の中で豊臣秀吉による軍事侵攻(文禄・慶長の役)と戦前の植民地時代を含めても不幸の歴史は40年程度。そのことをもってして、両国の長い友好の歴史を全否定してよいのか」との趣旨の国会演説をしています(1998年10月8日金大中大統領日本国会演説文)。寛容の精神に富む誇り高い内容だと今もって感じます。(以下、同演説文の原稿を参照ください)

日韓両国は現在の状況をもっと肯定的に捉えるべきだと思います。確かに、「親日親韓」の関係はベストなのかもしれませんが、最小限の範囲でもお互いを理解し尊重しようと努力する「知日知韓」の関係を再スタートさせればよいと思います。両国には目に見えない深い絆が既にありますから、次代を担う青年世代においては理解を深め合う作業は難しいことではないでしょう。

국제시장(영화) – 나무위키 –

個人情報の保護とは

いったい、スマホを多用する現代人に個人情報はあるのだろうか。<サイバー社会>では個人情報が保護されにくい、そもそも保護されない状況があるのではないか。

本日付け朝日新聞の一面トップに掲載された記事<LINE個人情報不備: 中国委託先で閲覧可に>を読んで考えた。2020年6月に改正された個人情報保護法は2年以内に施行というが、記事が指摘する問題は18年8月から発生しているという。

中国というと個人情報どころか人権が保護されない国家と考える一方、自分たちの属する国は欧米と同じようにそれらのものが保護されていると考える人が多いと思う。だが、本当にそうなのだろうか。自分の職場や個人として個人情報をどれだけ意識し保護しているか、少なからず疑問に思うことがある。

玄東實さんが語る(1) 日韓のあいだ

玄東實(ヒョンドンシル) アシアナ航空元副社長に聞く【「公明」2021年4月号掲載記事より】

  • 信頼関係を深めて開く日韓友好の扉
  • “知日知韓”で互いの違いと良さを理解し、3000万人の交流人口めざす

言論NPOと韓国の東アジア研究院(EAI)が2020年10月に発表した第7回日韓共同世論調査によると、韓国国民の71.6%が日本の印象は「良くない」と答えた。日本国民の韓国に対する印象も悪化した。外交樹立から56年、日韓関係はかつてなく両国関係は悪いと評されるも、在日韓国人二世として初めて韓国上場企業の副社長を務めた玄東實氏には「日韓はむしろ真の友好関係を築ける時代に向かっている」と語る。真意を尋ねた。

本名を名乗り自分らしく生きる

–: 韓国社会の熾烈な出世競争下で、日本育ちの在日韓国人としてアシアナ航空の副社長に就任された当時、ニュースで取り上げられるほどでした。どのような努力を重ねてこられたのか興味を覚えます。

玄: 「大変な努力をされたのですね」と評価していただくのですが、恐縮しています。優等生では決してなく、勉強はずいぶん苦労しました。ただ、不思議にも人生の節目、節目でチャンスが巡ってきたようには感じています。

–: 東京生まれと伺いました。

玄: 荒川生まれ、足立育ちです。両親は韓国の済州島出身で、私は在日韓国人二世になります。両親は町工場を経営し、女性靴のヘップサンダルを製造していました。早朝から夜遅くまで懸命に働く親の姿を思い出します。両親はよく韓国語で会話していましたが、頭には入ってきませんでした。

在日韓国人には特有の悩みがあります。一つは名前です。私も日本名(通名)があって高校生まで通名でした。名前は存在証明そのものだと思いますが、当時の日本社会は本名を名乗りづらかった面がありました。友人に隠しごとをしている居心地の悪さがいつもあって、授業で朝鮮や韓国の話題になると後ろ指をさされている気がしたものです。ですから、大学からは自分らしく生きていく決意で本名で通いました。

もう一つの悩みは韓国籍であっても韓国語がわからないことです。私が通っていた慶應義塾大学には外国語学校があり、朝鮮語科がありました。どうにか韓国語がわかるようになりたいと一生懸命に勉強したのですが、やはりわからなかった(笑)。

最も深刻な悩みは大学を出ても就職口がなかった点です。大学卒業は45年前ですが、在日外国人の若者が日本企業に就職するのは難しい時代でした。ですから、縁故を頼りに親の知人の会社に就職したりするのですが、私の場合、家業を継ぐのも難しい状況でした。散々悩んだのですが、大学に現役入学したこともあり、母国語をきちんと身に付けたいとの気持ちから韓国留学を決めソウル大学校社会科学大学院へと進みました。この留学が人生の大きな転換点でした。

修士課程2年生の頃、KAL(大韓航空)に就職した先輩からアルバイトを紹介してもらう機会があり、航空業界へ足を踏み入れるきっかけとなりました。1970年代後半当時、大韓航空は国際線の6割を日本人が利用していました。急増する日本人乗客向けの日本語によるサービス拡充は、大韓航空にとって最重要の課題でした。ところが、韓国で海外旅行が自由化されるのは1989年からです。韓国人が日本の文化や言葉を学ぶ機会は制限されていました。

そこへ日本語に加え韓国語も一応わかるアルバイトが偶然入ってきたということで、予約発券、空港サービスから機内で使用する日本語教科書の作成を手伝いました。半年間のアルバイト後「就職口がないなら残っては」と声をかけてもらい、そのまま大韓航空へ入ったのです。

–: 世界を揺るがす大事件に遭遇されたそうですが。

玄: 冷戦さなかの1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件です。米国発の大韓航空ジャンボ機007便がサハリン沖で領空侵犯を理由に、旧ソ連所属の戦闘機から放たれたミサイルで撃墜された事件です。乗員・乗客合わせ269名の命が奪われた悲惨な出来事でした。

事件翌日、人事部に呼ばれた私は日本語ができることから法務室へ異動になりました。犠牲となった29名の日本に住む日本人家族との訴訟などに当たるためでした。法務室には4年半在籍しました。この間、毎日韓国語による裁判関係の文書と悪戦苦闘しながら書類を作成し、修正を入れられた真っ赤な文字だらけの書類を上司から突き返される日々を過ごしました。

大変な仕事でしたが、こうした経験は韓国語の理解力を飛躍的に高める機会になっただけでなく、韓国社会の実情を日本人的な目線で理解する上で得がたい時間でした。

–: 1988年、韓国航空業界2番目となるアシアナ航空が発足、大韓航空から移籍され、最後は副社長に就任されました。在日韓国人の副社長は珍しかったのでしょうか。

玄: 上場企業の副社長に在日韓国人が就任したのは初めてだと思いますが、これもさまざまな偶然の巡り合わせの結果だと感じます。アシアナ航空移籍後は日本地域マーケティング部長として運輸省(現国土交通省)と韓国政府の間に入って、新規就航への折衝などにも携わりました。

名古屋支店長の時代には、後でも触れますが、公明党の故草川昭三(くさかわしょうぞう)*(1928-2019)衆院議員(当時)と知り合う機会があり、公私ともに大変お世話になりました。*日経新聞関連記事

コロナ禍以前になりますが、日韓両国の交流人口は1000万人を超えるほどになりました。飛行機が文字通り架け橋となり、両国民を結び付けることができていることは私の大きな誇りです。私の実感としても両国は本質的に相性がとてもよい間柄です。それだけに政治問題をきっかけに関係が悪化している現状は大変に辛い思いです。

“外国”になった韓国

–: ビジネスマンの立場で両国民と接してきたなかで、2000年代ごろから韓国が“本当の意味で外国になった”と感じられているそうですね。

玄: 大韓航空にいた1980年代から両国の政府関係者と接する機会がありましたが、両国の意思疎通は円滑に進んでいました。たとえ、両国間の利害が激しく衝突するような場面でも、粘り強く取り組める信頼関係があったように思います。実際、そのおかげでアシアナ航空は日本各地に就航することもできました。

背景に、韓国側に日本語が話せて理解できる人たちが当時は存在したことが大きかったのではないか、と個人的に感じています。

国家間外交も同じかもしれませんが、交渉事は核心部分に迫るほど微妙なニュアンスをいかに伝えるかで結果が大きく変わってしまいます。

その点で、2000年代以前の韓国社会には日本語を理解できる政府関係者や一般国民が少なくありませんでした。韓国の文化、社会、政治そして韓国人の心情を知り尽くした上で日本語も理解しながら各分野で交渉ができたのだと思います。

韓国語は日本語と同じく、助詞の使い分けが可能な言語です。「ここ“が”間違っているのではないか」と「ここ“は”妥当だ」というような微妙な表現の使い分けを元来共有できる文化的な近さがあります。細かなニュアンスをこれまでの日韓両国は無意識に伝えあっていたのではないでしょうか。

ところが、日本語のわかる世代が2000年代前後から徐々に現役を退くようになってきたわけです。その頃から日本に対する韓国は意思疎通がぎくしゃくする外国になり、韓国にすれば戦前の日本統治時代がついに終わった、ということなのだと私は捉えています。

–: 金大中(キムデジュン)元大統領(1925-2009)は、日本語の話者として有名でした。元大統領と直接会話を交わされたこともあるそうですね。

玄: 金大中元大統領以降の政権は日本語が話せない世代です。日本語が話せる良し悪しの評価は別として、国家のトップ同士が近い感覚で意思疎通できた環境があった事実は今振り返ると大きな意味があったと思います。

元大統領は完璧な日本語をあやつれただけではなく、両国の将来を見通す知性も一級でした。元大統領は機会あるたびに「植民地時代に関する両国のしこりは自分の世代で最後にしたい」と語っていました。まさに未来志向です。

私が元大統領と直接お会いしたのは沖縄県を訪問されていた2007年2月のことでした。元大統領との面談は偶然でした。お会いした当時、すでに足元がおぼつかない様子でした。しかし、会話の中身は理路整然としており、気が付けば一人で2時間ほどもお話しされていました。初めて直接聞いた元大統領の日本語は、本当にすばらしかったです。

特に印象に残っているのは「2003年ごろから始まった韓流ブームのおかげで日本では韓国人気が高まりました」と私が話したことに対して、「あれは自分の日本文化開放政策から始まったんだ」と返されたことです。元大統領が日本文化の開放を進めたことは有名ですが、数々の反日運動に遭うなか、開放の実現は元大統領の手腕なくして達成できなかったと言われています。元大統領は政治生命を掛けて日韓関係の正常化に取り組んだのです。

元大統領の韓国内での政治的評価は賛否分かれる面もあるのですが、関係の正常化が成し遂げられる点を実証したことは大きいと思います。

玄東實さんが語る(2)へつづく

バロック音楽を聴く

朝早く起きて、NHK-FMのバロック音楽を聴いている。1960年代末に高校3年から再受験生だったころ毎朝聴いた番組だ。解説は吉田秀和さん(1946-2012)だったと思う。あのころの自分はもういないはずだが、僕の記憶のなかに生きているのではないか。当時、毎朝2時間ほどかけて自宅から石神井公園まで往復するのを日課にしていた。

年齢という虚数

長年、日本の教育制度のなかで育(はぐく)まれ、テレビやスマホを通じて選別された情報に浸(つ)かるなか、僕たちは多様な形を持つ虚構のなかでくらしている。虚構を構成する最大要素の一つである数字を虚数(imaginary number)と呼ぶことにしたい。

不偏不党という虚構のメディアが拠(よ)って立つのがまさに数字であり、それはいくら客観的に見えても常に何らかの処理を受け操作された虚数である。最近では日々コロナ禍にまつわる感染者数やワクチン接種に関する虚数を報じ、人々がそれに一喜一憂しているように見える。僕もその一人である。

さまざまな虚数が氾濫しているが、その最たるものが年齢であろう。きょう誕生日を迎え71歳になった機会にあらためて年齢について考える。年齢とともに余計な制約がふえてくる。腰痛、痛風、しびれなど、経年変化による傷(いた)みもふえた。「断捨離」だ「エンディング」だと周辺もかまびすしい。

これらを操作しているのが年齢という指標で、人々と社会を操作する虚数である。それに対抗すべく、試みに70歳≡0歳という合同数を導入したい。還暦のように誰にも適用できるものではなく、その意思と最低限の体力がなければ成り立たない。平均余命に少し加え、あと20年生きるとして、これからの成長を楽しみたいと思う。

御岳山から大岳山に向かう急峻にて

1971-2030

時期自分史 1971-2030
1971-73年信山社(神保町)に勤務; Reclam Verlag(ドイツ出版社)の書籍輸入業務・在庫管理担当; 朝鮮高校の卒業生(少年の父が採用に関与)から約2ヵ月朝鮮語を習う[<韓国語>という言葉は当時一般的でない]
1973-77年大韓航空東京支店(丸ノ内)の日本地域本部に勤務、初め2ヵ月ほど毎朝1時間前に出勤(上司から平壌放送なまりの抑揚を指摘され韓国語の発音矯正のため); 73年12月서울・済州島に出張、年に1度は서울に行った; 75年冬に三峰口から雲取山(山荘泊)に登山、水根に下り無三庵むぞうあんにて篠田先生ご夫妻と出会う
1977-80年国際開発(麹町、フィリピン・スペインほか外国不定期航空会社の総代理店)に勤務; 79年10月に結婚; 日米会話学院(四ツ谷)通訳コース基礎科に4ヵ月在籍; 77-96年のあいだ韓国関連の仕事から遠ざかった
1980-83年サイマル・インターナショナル国際会議部(溜池)に勤務; 81年夏に離婚; 82年の歴史教科書問題に際し韓国の中学校「国史」翻訳グループを結成し完訳; 「ミンカブァン自伝」の翻訳に着手; 83年に退職し近所の中高生に英語を教える; 知人の事務所(浅草橋)でバイト; 韓国文化院発行「韓国文化」特集の翻訳(無報酬)
1984-93年ジャパンエコー社に勤務、Tsukuba Expo ’85(海外プレスセンターの運営)/Tokyo summit ’86/’93 プレス資料の編集; 85年に再婚; NHK Radio Japan 韓国語放送モニター(86-87); 外務省に出向、在トロント日本総領事館広報センターに配属(87-89); Osaka Expo ’90 に出向(89-90); 放送大学教養学部(85-93 卒論: 自治体広報資料の多言語化)
1993-96年US-Japan Foundation(米国ニューヨーク州ニューヨーク市に本部を置く民間財団)東京事務所に勤務、日米間の政策研究・教育交流プログラムほか支援業務; 青山学院大学大学院国際政治学修士課程(93-95 修論: 19世紀後半の国際化論議と内地雑居論)
1996-2010年国際文化フォーラムに勤務; 日本の高等学校における韓国朝鮮語教育調査(99 韓国語併記)の結果をふまえ韓国文化院の支援を得て教員ネットワーク組織を結成(99)天理大学・神田外語大学に働きかけ韓国語・朝鮮語の教員免許取得のための講習を開講(第1期:01-03 第2期:06-08)、第1期講習をふまえ日本の大学等における韓国朝鮮語教育の実態調査を実施(02-05 韓国語版合冊、최정순・韓国大使館教育部ほか支援); 日本の高等学校の日本史教科書の韓国語訳校閲(05-06);『메구미[めぐみ]』韓国語訳校閲(07-08); クムホ・アシアナ杯高校生大会の運営(08-20 アシアナ航空・韓国文化院主催)、ハンガンネット[韓国語講師・教室ネットワーク]のサイト運営(09-20); 上海人から約2ヵ月上海語を習う(09); 2010年3月に定年退職
2010-20年アスク(10-11 韓国語関連書籍の編集)、ニッポンドットコム財団(11-12 翻訳チェック校閲)、アシアナ・スタッフ・サービス(13-15 アカデミー・サイト運営)に勤務; 篠田先生ご夫妻逝く(14);『대한제국의 마지막 황태자 영친왕의 정혼녀: 大韓帝国最後の皇太子・英親王の許婚者』(14 서울 知識工作所 校閲・写真提供); DEKIRU(15-18 資金移動業)に勤務; 日本技術貿易(18-19 特許翻訳文のチェック校閲)に勤務; 在大阪韓国総領事오태규関西滞在記(18-21 在大阪韓国総領事오태규の投稿サイト制作運営); World Family Inc (19- )に勤務; 伊藤塾の行政書士試験講座を受講(19-20); 少年の父逝く(19); 「いつか名もないうをになる」執筆(20)
2021-30年辰巳法律研究所の行政書士試験講座を受講(21); 大坪洋一の全作品が問う「韓国併合とは何だったのか」のサイト運営(21); 行政書士試験に合格(22);
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すべての制作運営サイトを削除(29); 死去(30)

MTB alone

MTBを始めて7年目、初めてひとりで山へ行った。いつも友人と二人で、行き先もコースも彼まかせだったのに、その彼が体調をくずし、行けなくなったのだ。これまでは中止にしたが、今回は試しにひとりで行くことにした。何度も行ったことのある場所だったのだが、

ひとりと二人ではまったく違う。バランスを失って転倒しても笑う奴がいないから、痛みと衝撃をひとりで抱え込むしかない。道の選択も自分だが、方向感覚が劣る僕は、案の定、道を誤った。日の射さない急峻にさしかかると、熊に遭ったらどうしよう、という不安がふくらむ。その恐怖心を追い払おうとして、ひたすらペダルをこぎ、自転車を押して登り、冷風を切って林道を下った。脚の筋肉がつり膝も痛んで、いつになく疲れた。駐車場にたどり着いてようやく緊張がほどけ、しばらくして安堵感に包まれた。

小説「福澤諭吉」

『福澤諭吉』(四六判 総1050ページ)全3巻は2004年8月から翌年6月に作品社から発行されている。歴史小説のジャンルに分類されるが、資料にもとづき作家の想像力で福澤諭吉の生涯を活写している。著者の岳真也(1947-)は福澤諭吉(1835-1901)以外に中江兆民(1847-1901)や小栗忠順(ただまさ 1827-1868)ほかの伝記も著わしており、世間に流布している検定教科書の定見に囚われず、独自の視点にもとづいて歴史上の人物を描く作家のようだ。何冊か英文の翻訳書も出している。著者自身慶應義塾の出身でもある。

この伝記を通じて、勝海舟(1823-99)、西郷隆盛(1828-77)、小栗忠順[上野介]、井上馨(1836-1915)、榎本武揚(1836-1908)、森林太郎[鷗外](1862-1922)、北里柴三郎(1853-1931)など、多くの人物について僕が知らなかったか誤解していた面を知り、大いに識見を新たにした。特に、勝海舟に対する福澤(著者)の批判は痛烈であり、小栗忠順に非業の刑死を齎(もたら)した一因も勝海舟にあったろうとしている。咸臨丸の艦長とか江戸城の無血開城など美談が多く伝わっているが、脚色されたもののようだ。

福澤諭吉は小栗上野介を高く評価していたようだ。東郷平八郎(1848-1934)も、横須賀造船所(後の海軍工廠)の建設に尽力した小栗上野介を尊敬していたらしく、日露戦争後に小栗の遺児の國子と夫と息子を自邸に招き、國子に向かって父上のお礼を伝えたという逸話は印象的だ。戦勝を可能にしたのは海軍工廠が造った軍艦のお蔭だという意味があったようだ。金玉均(1851-94)と福澤諭吉との関係や朝鮮からの留学生と慶應義塾との関係もよく描いている。

駅舎の風景

2021年1月下旬のある朝と2月の複数の日の夕方、S駅のプラットフォームから撮った写真だ。僕はこの光景がことのほか好きなようだ。一昔前の駅舎の造りがなつかしく思われるし、その柱や屋根越しに見る空がどこか気持ちを落ちつかせてくれる。写真を繰り返し見ていると、いろんな情景や思い出が浮かんでくるし、空想の世界に飛ぶこともできる。

駅舎の情景にもときどき感動させられる。写真では、西の空の上方に輪郭の曖昧な巨大なムササビのような形の雲がかかっている。その雲が夕陽を受けて不気味に輝いているのが気になって仕方なかった。

この鉄路の沿線に引っ越して35年になる。その間5年ほどは他の地域で過ごしたから、約30年ほぼ毎日この光景を見ていることになる。あと何年見られるかわからないが、僕が見ている間は変わらないでほしい。

transborder 越境

映画「心の傷を(いや)すということ」をみた。昨年NHKが制作したドラマの劇場版だ。

20年余り日本について学び日本社会になじもうとして日本語を流暢(りゅうちょう)に話し、日本人のようになろうと努力し、いまは韓国人であることを自覚するようになったという韓国人と二人でみた。この一文の「日本」を「韓国」に、「韓国」を「日本」に置き換えると、僕の生きざまに重なるように思う。LGBT の transgender になぞらえれば transborder, transboundary [国境を越えた/越境の]ということだろう。

この用語と関連づけることで「在日」という言葉に広がりを持たせることができるかもしれない、この映画を通じて得た最大の収穫だ。そして、この広がりは「在日」にとどまらないはずだ。ふと、70年前後にあった「辺境」という雑誌を思い出した。この誌名は pioneer と訳されていたと記憶する。

二百席以上ある映画館にたった十人しかいない、その中ほどに二人隣り合ってすわっていた。映画に似たような場面があった。後に妻となる終子と主人公は在日コリアン同士だが、地下を列車が通る映画館の一席置いた同じ席で「東京物語」(1953)を二度みている。二度目は聞きのがした原節子(1920-2015)のせりふを聞くためだったが、やはり列車の通過と重なり騒音で聞き取れない。この偶然が二人を近づける。

映画の主人公は(あん)(通名は安田)という在日で、小学校4年生のとき(Osaka Expoのうちわが映っていたので1970年だろう)、在日だと知らされる。鏡台の引き出しにあった母親の外国人登録証を見て母親に尋ね、両親とも韓国籍で彼を含む三人兄弟も在日韓国人だと伝えられる。長男は東京の大学に進み、原子物理学を専攻する父親自慢の秀才である。次男の主人公も秀才で日本人の友人とともに地元の大学の医学部に進み、親に相談することなく精神科医になる。高校生のころから彼が(した)ってやまなかった恩師に導かれたのだ。

主人公が在日だったこと、彼の両親と兄弟が在日だということが映画全篇を通して訴え続けられる。在日という視座から日本社会をみた映画だということもできる。10歳のころからずっと在日だった彼は単なる若き精神科医ではなく、「在日の精神科医」だったのだ。在日が「在日の—」なのは当然と考える人もいるだろうが、そういう意味ではない。「在日の精神科医」だからこそみえる世界があり、そのことが「心の傷をいやす」ことと大いに関係している、[越境]が創造的に作用していると考えた。

1996年、主人公は精神科医として阪神淡路大震災に遭遇する。被災者でごった返す街なかや病院、体育館のなかを神経科の安という名札を付けて歩く姿は、彼を含む人々の苦悩のなかで模索する悩める人そのものだ。その心労が(たた)ったかのように彼は若くしてガンに倒れる。いかにも残酷で理不尽(りふじん)で腹立たしい。その理不尽さが悲しかった、(なみだ)がにじんでマスクにしみた。隣りに僕が泪したことを知る人がいてよかった。

サイト名の変更

サイト名を shawoguri.wordpress.com から goolees.blog に変更しました。これから20年余り、このドメインを運営したいと考えています。日々新たにといいますが、週一更新をめどに気負うことなく続けられればと思います。応援よろしくお願いします。

2020年12月青梅(撮影: joyscycle)

memo:自閉する意識

毎日通う事務所の入っている雑居ビルの向かい側に繁盛しているお店がある。いつも活気に溢れていて、この街になくてはならない風景の一つになっている。朝から晩までひっきりなしに客が来る。遠くからの人も多く自転車で来る人も多い。多くの客が外国人で家庭用から業務用まで日々必要な品を買っている。定期的に違法駐車する外交官ナンバーの車もある。

お店とビルの間に一方通行の道路が通っている。その店の軽トラックが1台か2台、我がもの顔でその道路に違法駐車をして荷物の上げ下ろしをする。道路に張り出した低い棚に商品がうずたかく積まれ、店の前の少し空いたスペースでは店員が荷物の整理をしているから、客が自転車を停めるスペースはほとんどない。客たちは当然のことのように、店の向かい側の雑居ビルの前に駐輪する。

僕はそのビルに出入りするたびに、駐車禁止の赤いコーンの前に停められた自転車をよけて通らなければならない。十歩ぐらい余計に歩けばいいのだが、それが気に入らない。両手が空いているときは、自転車を道路の端に移動して重ねるようにする。小さな嫌がらせだが、あまり効果がない。言葉が通じないというよりも、そもそも規範意識が異なっているようなのだ。

大した問題ではないし、こんな瑣末なことを気にする人がおかしいという人も少なくない、いや多くの人々はそう考えるだろう。だが、僕は気に入らない、僕の規範意識が許さないのだ。自転車を停める人だけではない、こういう状況を当然と言わんばかりに商売している向かい側の店の店員と経営者の姿勢が気に入らない。そこを利用し自転車を違法駐輪する人々が気に入らないのだ。

数年前、この店の前の路上で自転車と歩行者の事故が起きた。自転車は逃亡したから捕まらない。被害者は死亡したと記憶しているが、誰も責任をとらない。自分たちに責任があろうはずはないと考えている。実際には、上述の自動車と自転車の違法駐車が招いた二次災害と考えられるのだが。

B社ファンの反論

12/28付け投稿「B社製高級トースター」に対する反論をいただいたので、以下に掲載します。なるほど、こういう考え方もあるのだな、と思ったので。

モノが10年当たり前に壊れずに動くということに電化製品の価値を見出す時代から、モノそのものにさらに付加価値を持たせることを重視する時代に変わったのだと思う。B社製品の値段が高いのは他の電化製品より物持ちがいいからではないのではないか。

B社のトースターは、コンビニやスーパーの食パンをホテルの焼き立てパンに高めてくれることに価値を置いているし、B社の電子レンジはシンプルなデザインで、キッチンがオシャレ空間になる演出をしてくれるし、音がすてきで聞いていて楽しいし、ライトも演出になる。

従来、たくさん機能が付いていますとか、壊れませんとか、容量が大きいですとかが電子レンジの価値だったのに対し、オシャレだから部屋に置きたいというのが、B社の電子レンジの価値なのだと思う。B社の空気清浄機も、扇風機も、サーキュレーターも、ポットも持っているほどのB社ファンなのです、私は。

これらを置くだけで、部屋が「すてき空間」になると思っていて、そういう家電は既存の大手メーカーには作れなかったジャンルで、それを成し遂げてくれたB社というスタートアップの会社の製品を買う形で、出資しているつもりでいます。

よく考えると、2年で壊れることに異を唱えたり(スタートアップだから仕方がないと思うユーザーもいると思う)、B社のサービス体制に既存大手と同じサービス体制を求めるユーザーニーズがあるということは、B社がスタートアップから大手既存家電メーカーの仲間入りをするために必要なことだと思うから、B社に対して批判的な顧客も必要だと思う。

B社製高級トースター

2年前に購入したB社製の高級トースターが、けさ使えなくなった。7時半ごろいつもどおり使えたのに、8時過ぎに使おうとしたら、電源が入らなかったのだ。

B社によれば、同社製の一世代前の型式はスチーム機能に不備があり、漏電を生じたケースがあって、全品リコールしたという。検索すると、同型式にも急に電源が入らなくなる症状があったらしい。

同社の問い合わせ先に連絡すると、修理は時間と費用が嵩(かさ)むので応じられないという。送料込みのカードによる支払いとともに故障したトースターを返送すれば、新品を受け取れるとのこと。

同社のマニュアルに沿った対応なのだろうが、電話応対は丁重ながら不愉快だった。なぜ不愉快だったのだろう。いくつか要因を考えてみた。

  1. 他社の製品と比べ高価であるにもかかわらず、2年で突然こわれた。
  2. 修理できない。続けて使いたければ、購入価格の約半額(送料込み)で故障した製品と新品を交換するしかない。
  3. 2.が最善の対応であり、製造者の責任は果たしている。使いかたに問題があったのだろうと言わんばかりの傲慢さを感じた。

思いついたことを記したが、ふと昨今の説明責任を果たさない政治屋の横行につながるものがあると思った。この社会の病根は根深い。

電話で応対した人はとても感じがよかったので、念のため書き添えます。

「画狂老人」北斎

晩年、自らを「画狂老人」と呼んだ葛飾北斎(1760-1849)に関する文章を引用します。70歳になって、北斎のすごさが少し理解できるような気がします。これまで構図の奇抜さや彼の奇行ぶりをめでるだけでしたが、今それらを支える鬼気迫るものを感じるのです。画狂老人の辞世の句は、芭蕉(1644-94)の<旅に病で夢は枯野をかけ廻る>を思い出させます。[以下引用]


死の直前、北斎(ほくさい)は「天(われ)をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」と言ったといわれます。辞世の句は「ひと(だま)でゆく()(さん)じや夏の原」。絵師(えし)の道を追求し続けた北斎が、死んだ後は人魂(ひとだま)となって夏の草原をのびのびと飛んでゆこうと()んでいます。[すみだ北斎美術館サイトより]

『富嶽百景初編』国立国会図書館デジタルコレクション

跋文: 「浮世絵に聞く」より(ルビ編集)

(おのれ)六歳より物の形状(かたち)(うつ)すの(へき)ありて半百の(ころ)より数々(しばしば)画図をあらわすといへども七十年前えがくところは実にるにたるものなし七十三歳にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生をさとり得たり故に八十歳にしては益々ますます進み九十歳にしてなおその奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん百有十歳にしては一点一格にしていけるが如くならん願わくは長寿の君子予がこともうならざるを見たまふべし [画狂老人卍述]

序文: 「浮世絵に聞く」より(ルビ等編集)

契冲(1640-1701)か富士百首は突兀とっこつとしてあらわれ東潮(1806-1855)か不二ふじ百句は綵雲さいうんにかくれて見えす今あらたに百嶽を図するは前北齋翁なり此山や獨立どくりつして衆峰しゅうほういただきおうも又獨立して其名高き事一千五百丈にすぎなむ画帖諸國しょこくにわたり懐藏かいぞうする者最多しあに十五州の壯観そうかん而巳のみならむや不二ふじの十名を秘藏抄にのせたり先生しばしば名を改むかぞへなは十名にも滿みつへしそれかれいんあれはにやがくを愛ること年あり近く田子の浦に見あけ三保か崎にのぞむくまなき月さかんなる花のこゝちして風情ふぜいうすしとて遠く富士見原につえをひき汐見坂にをとゝめ柳のいとになたれを透し稲葉のおののきに高根たかねあお逆浪さかなみいわおくだくの大洋白雲谷をうめ羊膓ようちょう嶮阻けんそに上り危に下り真景しんけいうつされたれは翁の精神此巻に止まり端山しけ山世にしけき畫本のみね巓を突兀といでむ事阿闍梨あじゃり(契沖)の百首におとらめやと [天保甲午(1835年)綠秀 柳亭種彦敬白 薫齋盛義書]

MTB, tango, and…

65歳前後に二つの新しいことを始めた。2014年夏前からMTB山行、2016年夏からアルゼンチンタンゴを始めたのだ。それぞれ友人H、妻に影響されて体験したのがきっかけだ。タンゴは3年目で休止したが、MTBは6年続いている。MTBはだいぶ馴れ、以前は怖(お)じけづいた急坂も下れるようになった。登りは相変わらずきつい、これは変わることがないだろう。

撮影H、途中から速度が落ちるのは枯葉の下に樹の根が張っていてタイヤを取られるため 201213

タンゴのほうは上達しないまゝ中断してしまった。最近また練習を再開したが、いつまで続くかわからない。MTBとタンゴの違いは何だろう。ひとことで言えば、MTBは遊びとして楽しめる、文句なく楽しいが、タンゴはなかなか楽しめない。習いごとであり、レッスンを受けている感覚から脱せないのだ。女性と組むアブラッソ(抱擁)には馴れても、なかなか自然体になれない。肩に力が入って、自分でもぎこちなく感じる。

タンゴの音曲を毎朝30分ほど聞いているから、音楽にはだいぶ馴れたはずだ。Carlos Gardel (1890-1935)が好きだが、音曲を聞くのと踊るのではまったく違う。思うように踊れないからタンゴをモチーフに文章を書いたりもした。

70歳を眼前に、ある国家試験の勉強を始めた。2019年6月末、米国シアトルにある大学院の卒業式 commencement に出席し、娘と同世代の30代以上の卒業生を見て大いに刺激されたからだ。数年前、資金移動業者の登録申請に関わったのがきっかけだ。合格まで何年かかるか不明だが、合格後も学び続けなければならないことを1年余りかかって理解した。

こうして見ると、僕は周囲の人々や仕事に影響されながら、そのときどきに興味を抱いたものに取り組んできたことがわかる。当たり前のことかもしれないが、そうする(なる)こととそれを自覚するのは別のことだと思うが、主体性がないということもできよう。

どれも始めたら終わりがない、ということに最近気づいた。70歳の平均余命15年として、体や頭が働かなくなるまでずっと続く。ひとつの段階を越えれば、また次に向かって続けることで一定のレベルを維持できるのだ。だから、それぞれを楽しむしかない。

75歳、80歳で続けているかどうか、楽しみではある。70歳を過ぎてからの変化は幼少期のそれと同じように大きい。一方は上昇する成長で、他方は下降すると考えられているのだが、どっこい老いはそうそう単純ではないようだ。

小器晩成

漢字熟語で習うのは大器晩成だが、世の中に大器と呼ばれる人は稀だろう。多くは平凡で、死んでしまえば、忘れられてしまう。人の営みとはそういうものではないか。ただ、そういう人々の生き方が大器の人のそれより劣っていると考える理由は何もないし、そう考えるべきではない。

逆説的に彼らの営みを小さな器に例え、小器と呼んではいかがだろうか。もちろん、僕は小器だろうし、これまでに何をなしたか自覚がない。だから、何をもって晩成とするかも知らない。そもそも、一生のあいだに何かを成さなければならない、という考えも持ち合わせていない。これを偏屈というなら、そのとおりだろう。

70歳になって小説を書いて新人賞に応募するのは野心のなせる業だろうが、これで何かをなすことにはなるまい。ただ、いまようやく理解するのは、大器晩成とか故郷に錦を飾る(富貴不歸故鄉、如衣繡夜行)とか、漢字熟語には儒教的な功利主義や実利主義にもとづく言説がいかに多いかということであり、日本語がいかにそれに影響されているかということだ。あるいは、日本語にもともと功利主義的な志向が強くてそういう部分を好んで切り取ったということなのだろうか。

小説(?)書き上げました

一ヵ月前にお知らせした小説まがいの文章をひとまず書き上げました。概要は次のとおりです。限定公開ページはp/wが必要です(→ contact)。


目次

数ヵ月前から世の中の景色が少し違って見えるようになりました。社会と距離を置くことができたかもしれません。個人的には、社会にもう少しうまく適応するために、世相に対する批判めいた文章を書き連ねたのだろうと思っています。吐き出した分、愚痴っぽい内容になっているかもしれません。あらかじめお断りしておきます。

https://oguriq.com/

メルケル首相の訴え

ギュンター りつこ (Ritsuko Guenther)さんが翻訳されたドイツ・メルケル首相が国民に訴えた演説の翻訳文を転載します。

昨日、メルケル首相が国民に向けてテレビでスピーチを行いました。この後、明らかに効果があったと思ったのは、テレビの街頭インタビューや私の知り合いにも「メルケル首相の演説を聞いたから、これから家にこもります」とか「買い溜めをやめます」などと言っている人たちがいたこと。メルケル首相の演説がどんなものか、ドイツが現在どのような状況かお伝えしたいと思います。拙い訳ですが、大体意味はお判りいただけると思います。

親愛なる国民の皆さん。
現在、コロナウィルスは私たちの生活を著しく変えています。日常生活、公的生活、社会的な人との関わりの真価が問われるという、これまでにない事態に発展しています。

何百万人もの人が職場に行けず、子供たちは学校や保育施設に行けない状況です。劇場、映画館、店などは閉鎖されていますが、最も辛いことは、これまで当たり前に会っていた人に会えなくなってしまったことでしょう。このような状況に置かれれば、誰もがこの先どうなるのか、多くの疑問と不安を抱えてしまうのは当然のことです。

このような状況の中、今日、首相である私と連邦政府のすべての同僚たちが導き出したことをお話ししたいと思います。

オープンな民主主義国家でありますから、私たちの下した政治的決定は透明性を持ち、詳しく説明されなければなりません。決定の理由を明瞭に解説し、話し合うことで実践可能となります。

すべての国民の皆さんが、この課題を自分の任務として理解されたならば、この課題は達成される、私はそう確信しています。

ですから、申し上げます。事態は深刻です。どうかこの状況を理解してください。東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、我が国においてこれほどまでに一致団結を要する挑戦はなかったのです。

連邦政府と州が伝染病の中ですべての人を守り、経済的、社会的、文化的な損失を出来る限り抑えるために何をするべきか、そのためになぜあなた方を必要としているのか、そしてひとりひとりに何が出来るのかを説明したいと思います。

伝染病について私がこれから申し上げることは、ロベルト・コッホ研究所のエキスパート、その他の学者、ウィルス学者からなる連邦政府協議会からの情報です。世界中が全力で研究していますが、まだコロナウィルスの治療薬もワクチンも発見されていません。

発見されるまでの間に出来ることがひとつだけあります。それは私たちの行動に関わってきます。つまり、ウィルス感染の拡大の速度を落とし、その何カ月もの間に研究者が薬品とワクチンを発見できるよう、時間稼ぎをするのです。もちろん、その間に感染し発病した患者は出来る限り手厚く看護されなければなりません。

ドイツには優れた医療制度があり、世界でもトップクラスです。しかし、短期間に多くの重症患者が運び込まれた場合、病院には大きな負担がかかります。それは統計上の単なる抽象的な数字ではなく、父または祖父、母または祖母、パートナーであり、彼らは人間です。そして、私たちはすべての人の命に価値があることを知るコミュニティで生活しているのです。

まずこの場を借りて、医師、そして看護施設、病院などで働くすべての方にお礼を申し上げます。あなた方は最前線で戦っています。この感染の深刻な経過を最初に見ています。毎日、新しい感染者に奉仕し、人々のためにそこにいてくれるのです。あなた方の仕事は素晴らしいことであり、心から感謝します。

さて、ドイツでのウィルス感染拡大を遅らせるために何をするべきか。そのために極めて重要なのは、私たちは公的な生活を中止することなのです。もちろん、理性と将来を見据えた判断を持って国家が機能し続けるよう、供給は引き続き確保され、可能な限り多くの経済活動が維持できるようにします。

しかし、人々を危険にさらしかねない全てのこと、個人的のみならず、社会全体を害するであろうことを今、制限する必要があります。私たちは出来る限り、感染のリスクを回避しなければなりません。

すでに現在、大変な制限を強いられていることは承知しています。イベントは無くなり、見本市、コンサートは中止、学校も大学も保育施設も閉鎖、公園で遊ぶことさえ出来ません。州と国の合意によるこれらの閉鎖は厳しいものであり、私たちの生活と民主的な自己理解を阻むことも承知しています。こういった制限は、この国にはこれまであり得ないことでした。

旅行や移動の自由を苦労して勝ち取った私のような人間にとって(注※メルケル首相は東独出身)、そのような制限は絶対に必要な場合にのみ正当化されます。民主主義国家においては、そういった制限は簡単に行われるべきではなく、一時的なものでなくてはなりません。今現在、人命を救うため、これは避けられないことなのです。

そのため、今週初めから国境管理を一層強化し、最も重要な近隣諸国の一部に対する入国制限を施行しています。

経済面、特に大企業、中小企業、商店、レストラン、フリーランサーにとっては現在すでに大変厳しい状況です。今後数週間は、さらに厳しい状況になるでしょう。しかし、経済的影響を緩和させるため、そして何よりも皆さんの職場が確保されるよう、連邦政府は出来る限りのことをしていきます。企業と従業員がこの困難な試練を乗り越えるために必要なものを支援していきます。

そして安心していただきたいのは、食糧の供給については心配無用であり、スーパーの棚が一日で空になったとしてもすぐに補充される、ということです。スーパーに向かっている方々に言いたいのです。家にストックがあること、物が足りていることは確かに安心です。しかし、節度を守ってください。買い溜めは不要で無意味であり、全く不健全です。

また、普段、感謝の言葉を述べることのなかった人々に対しても、この場を借りてお礼を申し上げます。スーパーのレジを打つ方々、スーパーの棚に商品を補充される方々は、この時期、大変なお仕事を担われています。私たち国民のためにお店を開けていてくださって、ありがとうございます。

さて、現在急を要すること、それはウィルスの急速な拡散を防ぐために私たちが効果的な手段を使わない限り、政府の措置は意味を持たなくなるということです。私たち自身、誰もがこのウィルスに感染する可能性があるのですから、すべての人が協力しなければなりません。まず、今日、何が起こっているかを真剣に受け止めましょう。パニックになる必要はありませんが、軽んじてもいけません。すべての人の努力が必要なのです。

この伝染病が私たちに教えてくれていることがあります。それは私たちがどれほど脆弱であるか、どれほど他者の思いやりある行動に依存しているかということ、それと同時に、私たちが協力し合うことでいかにお互いを守り、強めることができるか、ということです。

ウィルスの拡散を受け入れてはなりません。それを封じる手段があります。お互いの距離を保ちましょう。ウィルス学者は明確にアドバイスしています。握手をしてはいけません。丁寧に頻繁に手を洗い、人と少なくとも1,5メートルの距離を置き、出来るだけお年寄りとのコンタクトを避けましょう。お年寄りは特にリスクが高いからです。

この要求が難しいことであることは承知しています。こういった困難な時期にこそ、人にそばにいてもらいたいものですし、物理的な近接、触れ合いこそが癒しとなるものです。残念ながら、現時点ではそれは逆効果を生みます。誰もが距離を置くことが大変重要であることを自覚しなくてはなりません。

善意のある訪問、不必要な旅行、これらはすべて感染を意味し、行ってはならないのです。専門家が「お年寄りは孫に会ってはいけない」と言うのには、こういった明白な理由があるからです。

人と会うことを避ける方は、毎日たくさんの病人の看護をしている病院の負担を軽減させているのです。これが私たちが人命を救う方法なのです。確かに難しい状況の人もいます。世話をしている人、慰めの言葉や未来への希望が必要な人をひとりにはさせたくはありません。私たちは家族として、あるいは社会の一員として、お互いに支えあう他の方法を見つけましょう。

ウィルスが及ぼす社会的影響に逆らうクリエイティブな方法はたくさんあります。祖父母が寂しくないように、ポッドキャストに録音する孫もいます。愛情と友情を示す方法を見つける必要があります。Skype、電話、メール、そして手紙を書くという方法もあります。郵便は配達されていますから。自分で買い物に行けない近所のお年寄りを助けているという素晴らしい助け合いの話も耳にします。この社会は人を孤独にさせない様々な手段がたくさんある、私はそう確信しています。

申し上げたいのは、今後適用されるべき規則を遵守していただきたい、ということです。政府は常に現状を調査し、必要であれば修正をしていきます。現在は動的な情勢でありますから、いかなる時も臨機応変に他の機関と対応できるよう、高い意識を保つ必要があります。そして説明もしていきます。

ですから、私からのお願いです。どうか私たちからの公式発表以外の噂を信じないでください。発表は多くの言語にも訳されます。

私たちは民主国家にいます。強制されることなく、知識を共有し、協力しあって生活しています。これは歴史的な課題であり、協力なしでは達成できません。

私たちがこの危機を克服できることは間違いありません。しかし、いったいどれほどの犠牲者となるのでしょう?どれだけの愛する人々を失うことになるのでしょう?それは大部分が今後の私たちにかかってきています。今、断固として対応しなければなりません。現在の制限を受け入れ、お互いに助け合いましょう。

状況は深刻で未解決ですが、お互いが規律を遵守し、実行することで状況は変わっていくでしょう。

このような状況は初めてですが、私たちは心から理性を持って行動することで人命が助けられることを示さなければなりません。例外なしに、一人一人が私たちすべてに関わってくるのです。

ご自愛ください。そしてあなたの愛する人を守ってください。ありがとうございます。

Blue Lug, the bike workshop

東京の環状7号線、駒留陸橋近くにある自転車工房 BLUE LUG (ブルーラグ、本店は幡ヶ谷)に行った。愛車(写真のメンテナンス・スタンドに係留中)のブレーキパッドを交換するためだった。

写真のとおり、店内至るところに自転車のフレームやホイールがぶらさがっている。部品の種類も豊富だ。スタッフはみな自転車好きで surly な人々だという。

SURLY / ブルーラグ的サーリーカタログ || Cross-Check, Long Haul Trucker, Steamroller, Straggler, Pack Rat…スタッフによる各モデル紹介 – BLUE LUG

surly [by weblio]

  1. Irritated, bad-tempered, unfriendly. Threatening, menacing, gloomy.
  2. The surly weather put us all in a bad mood.
  3. (obsolete) Lordly, arrogant, supercilious.

忘不掉 wàng bù diào

中国のTVドラマ「那年花開月正圓」を第25回までみた。韓国ドラマと違う人間観察が新鮮でおもしろい。主人公の女性の生き方が自由奔放なのも魅力だ。

主題曲「忘不掉 wàng bù diào」も好きだ。以下に簡体字とピンインを記す。

那一夜花兒開得妖嬈 Nà yīyè huā er kāi dé yāoráo
女兒心事又有誰知曉 nǚ’ér xīnshì yòu yǒu shuí zhīxiǎo
問天無語 月兒蕭 wèn tiān wúyǔ yuè er xiāo
花月相望人寂寥 huā yuè xiàng wàng rén jìliáo
癡情人得不到也忘不掉 chīqíng rén dé bù dào yě wàng bù diào

寒雨過 夜未央 hán yǔ guòyè wèiyāng
天出現一絲光亮 tiān chūxiàn yīsī guāngliàng
胡笛蕭聲起 hú dí xiāo shēng qǐ
山河歲月催人老  shānhé suìyuè cuī rén lǎo
一腔深情無以報 yī qiāng shēnqíng wú yǐ bào

這一世風雪路途遙 zhè yīshì fēngxuě lùtú yáo
相濡以沫是驕傲 xiāngrúyǐmò shì jiāo’ào
來世再相約 láishì zài xiāngyuē
庭前花朵記得我 tíng qián huāduǒ jìdé wǒ
到底是一世的情未了 dàodǐ shì yīshì de qíng wèiliǎo

那一夜花兒開得妖嬈 nà yīyè huā er kāi dé yāoráo
女兒心事又有誰知曉 nǚ’ér xīnshì yòu yǒu shuí zhīxiǎo
問天無語 月兒蕭 wèn tiān wúyǔ yuè er xiāo
花月相望人寂寥 huā yuè xiàng wàng rén jìliáo
癡情人得不到也忘不掉 chīqíng rén dé bù dào yě wàng bù diào

寒雨過 夜未央 hán yǔ guòyè wèiyāng
天出現一絲光亮 tiān chūxiàn yīsī guāngliàng
胡笛蕭聲起 hú dí xiāo shēng qǐ
山河歲月催人老 shānhé suì yuè cuī rén lǎo
一腔深情無以報 yī qiāng shēnqíng wú yǐ bào

這一世風雪路途遙 zhè yīshì fēngxuě lùtú yáo
相濡以沫是驕傲 xiāngrúyǐmò shì jiāo’ào
來世再相約 láishì zài xiāngyuē
庭前花朵記得我 tíng qián huāduǒ jìdé wǒ
到底是一世的情未了 dàodǐ shì yīshì de qíng wèiliǎo

來世再相約 láishì zài xiāngyuē
庭前花朵記得我 tíng qián huāduǒ jìdé wǒ
到底是一世的情未了 dàodǐ shì yīshì de qíng wèiliǎo

America’s suicide rate

Quoted from the Economist

America’s suicide rate has increased for 13 years in a row

Those living in rural and less-populated areas have been hit especially hard

Graphic detail

IN 2010 AMERICA’S Department of Health and Human Services set a goal of reducing the country’s suicide rate from 12.1 to 10.2 per 100,000 population by 2020. Instead of falling, however, the rate has climbed. On January 30th the Centres for Disease Control and Prevention (CDC), a federal government agency, reported that more than 48,000 Americans had taken their own lives in 2018, equivalent to 14.2 deaths per 100,000 population. This makes suicide the tenth-biggest cause of death in the United States—deadlier than traffic accidents and homicide.

recent paper by researchers at Ohio State University and West Virginia University tries to understand why such tragedies occur more frequently in some parts of the country than others. Using county-level CDC data on the nearly half a million 25- to 64-year-old Americans who committed suicide between 1999 and 2016, the authors found that isolation may be an important factor. In 2016 the suicide rate was 25% higher in rural and less-populated counties (those with fewer than 50,000 people) than in more populous ones (with at least 1m). Fifteen years ago, it was only 10% higher.

Several other characteristics go hand in hand with high suicide rates. Deprivation—as measured by low levels of education, employment and income, and high levels of poverty—correlates with more suicides. So does loneliness, which the authors estimate by using the share of households with single or unmarried residents, or residents who have been living in the area for less than a year. Places with fewer opportunities for social interaction (parks, museums, stadiums and the like) tend to have more suicides, too.

Easy access to guns also seems to boost the risk of self-harm. Using a database of firearm-sellers from Infogroup, a data provider, the authors found that the presence of a nearby gun shop was associated with significantly higher suicide rates. American health officials may never find a complete solution to the country’s suicide crisis. Making guns less easily accessible might be a start.

 

https://www.economist.com/graphic-detail/2020/01/30/americas-suicide-rate-has-increased-for-13-years-in-a-row?cid1=cust/dailypicks1/n/bl/n/20200130n/owned/n/n/dailypicks1/n/n/ap/391324/n

有間ダム-蕨山

予定していた棒ノ折-岩茸石山ルートは、現地の人の話でMTBでは到底むりという。昨年の台風のためだ。友人が名栗湖(現地の人は有間[ありま]と呼ぶ)に行きたいというので、有間へ向かった。成木や奥多摩と違った鄙(ひな)びた感じがいい。ダム周辺にクルマを停め、MTBで蕨山(わらびやま 1044m)をめざし、土砂崩れの痕(あと)と雪がそこここに残る長い林道を登っていった。

韓国映画 기생충 Parasite

久しぶりに韓国映画を見た、기생충[寄生虫] Parasite だ(邦題: パラサイト半地下の家族)。 https://youtu.be/PhPROyE0OaM

全編に緊張感があって興味尽きなかった。格差社会に対する痛烈な批判として解釈したが、多くのことを考えさせられる作品だ。

最後に流れた歌が70年代の韓国フォークソングを思い出させた。たとえば 양병집 の 서울하늘 だ。Seoul Sky 1 https://g.co/kgs/bAXYoP

幼児期の景色の記憶

特定の景色に格別心を引かれる理由は幼児期の景色の記憶の断片で、それに対する郷愁ではないだろうか。たとえば、先日、奥多摩の金比羅尾根をMTBで走っていて、ひときわ引かれる光景があった。思わず自転車を止め、写真(↓)に収めた。

IMG_20191215_144253

中学生のころ絵が好きで、好んでこういう山道を水彩画で描いた。そうだ、僕は東京の本郷で生まれ、半年後には父の転勤で岡山県和気郡の山あいにあった鉱山町に連れていかれ、5歳になるまで過ごした。そこを離れるとき、汽車の汽笛が谷合に響きわたった。その鋭い高音をいまも鮮やかに記憶している、あるいはそう思い込んでいる。

偉人中村哲

中村哲(1946-2019)、こういう人を偉人というのだろう。僕など足元にも及ばない。彼の遺稿ともいうべき考察「大旱魃に襲われるアフガニスタン: 気候変動が地域と生活を破壊している: 気候変動が地域と生活を破壊している」(「世界」2020年2月号掲載)がある。一気に読んだ。

NHK国際放送で放映された映像も心を揺さぶるものだ。

MTBのペダルを変えた

夏前に医者から脊柱管狭窄症で手術以外に方法はないと言われた。右脚の膝下から指先にかけて痺れがあり、右足先を上げることができない。外出するときは杖を使うようになったし、MTB は無理だろうと考えた。5月の転落事故も右の脚力が衰えたせいだと考えている。

その後何度か MTB 山行を試みたが、右足がペダルからすべり落ちる。どうせ65歳に始めた遊びだし、70歳を目前にしてやめてもいいだろう、とも考えた。だが、一度 MTB 山行の楽しさを知った者はなかなかやめられない。バンクーバーで毎年開催される BC Bike race にも参加したい。

先週末、五反田駅近くの自転車専門店を訪ね、ペダルを求めたが、MTB 用のペダルは扱っていない。2軒目の店で紹介されたのがブルーラグ代々木公園店だった。薄暮が迫るなか山手通りを北上した。見るからに職人集団の店で気に入った。求めていたペダルがあった。スタッフの応対もよく、グリップも購入し、二つとも取り付けてもらった。

日曜日、友人と二人で奥多摩に行った。ぺダルの吸いつき感が実にいい。手のひらを置けるグリップ(ergonomic type)もなかなかいい。

IMG_20191201_131332.jpg奥多摩赤ぼっこにて

 

Darrell Royal’s letter

70歳を目前にして通い始めたI塾のS講師から Darrell Royal’s letter について教えていただいた。挑戦した国家試験に合格することができず落ち込みがちな僕を静かに包んでくれる文章だ。

You should all ask yourself what do you feel when you are defeated. Are you blaming others, feeling depressed, or are you feel with passion, ready to take the challenge again.

All those of you who has played on the field will have tasted defeat, there’s no player who has not lost before, however the best players, as a tribute to all their efforts, will give everything they’ve got to stand up again, the ordinary players will take them a while to get back on their feet, while the losers will remain flat on the field.

Do not be ashamed about being defeated. To be defeated and to not stand up is what you should be ashamed of.

-University of Texas Longhorn Head coach, Darrell Royal-

『人生論ノート』を思う

10月初めに開かれた中学校の同期会に参加した友人から Z が病死したと聞いた。晩年は独居し、タクシードライバーをしていた。小学校のとき、よく一緒に遊んだ奴だ。同じ塾にも通った。彼が自転車に乗ったまま川に落ちた光景をありありと記憶している。

何年か前に二人で同級生をみまったが、その友人もとっくに死んでいる。あゝみんな死んでいくんだな、とつくづく思う。名簿では同学年の約8%が故人になっている。僕の中学校3年のときのクラスに至っては約18%だ。

三木清(1897-1945)が『人生論ノート』の冒頭に書いていた。50歳になって周囲の知人友人が物故者になることが増えたと。僕らは70歳にして人生論ノートならぬブログに立ち向かう。

『人生論ノート』青空文庫

隣語*を見直す作業を

日本と韓国(朝鮮時代を含め韓国と呼ぶ)それぞれが誇る独自の文字の創造は、北東アジアに圧倒的な影響を及ぼした漢字文化圏の周縁における画期的な事業だったと思う。日本の平安時代(794-1185)における片仮名と平仮名の誕生、韓国の朝鮮時代(1392-1897)初期におけるハングルの創作は、それぞれの地域における民族文化のかけがえのない発露だった。

片仮名は漢字の一部を抽出して作られ、平仮名は漢字の草書体が定着した表音文字である。漢字=真名(まな)に対する仮名(カナ)という呼び名がその由来を物語っている。一方、ハングルは漢字と対峙しながら、その原理とはまったく異なる表音文字である。パスパ文字や梵字の影響があるといわれ、王命を受けた学者グループが儒学をもとに音声と文字の研究を重ねて考案したものだ。

日本では、ひらがな・カタカナが和風文化の中心に位置づけられ、韓国ではハングルが偉大な(ハン)文字(グル)と呼ばれて、民族文化の根幹に関わるものと考えられている。ただ、いずれも長いあいだ公文書等には用いられず、漢字(=正字)の下位に置かれ、独自の文字として正当な評価を得るまでに数百年を要している。漢字の支配力がそれほど強かったということもできよう。

ひらがな・カタカナが多くの文人たちが時間をかけて漢字を簡素化し抽象して作ったものだとすれば、ハングルは複数の学者が原理にもとづいて合理的に作った文字であった。前者はいわば自然生成的であり、後者は原理主義的であるといえる。いずれにもそれぞれの歴史的文化的な背景があり、どちらが優れているということはない。

共通しているのは、いかにして自分たちの言語表現により適合した文字を創造するかという思いだったろう。注目すべきは、二つの地域で生まれた文字の生成過程に際立った差異があることだ。文字の成り立ちの違いを知り、その背景にある歴史と文化を掘り下げて知ることで、より深く相手を理解できると思う。

昨今の日韓政府間および双方の短絡論者とでも呼ぶべき人びとが反発し合うようすを見ていると、みな自分の正当性を訴える感情を吐き出すだけで、自らの文化基層すら自覚していないようだ。双方の政治・経済・文化・教育・メディアなど、あらゆる方面の関係者が自国と隣国の文字を見直し両者の違いを意識できたら、と思うことしきりである。

何を悠長なことを、と呆(あき)れかえり、罵(ののし)る声が聞こえて来そうだ。いや、何の戯言(たわごと)を、と振り向きもせずに黙殺する人が大半だろう。だからこそ、自分が70年かけて学んだことを伝えなければ、と思う。

*江戸時代(1603-1867)の外交官で誠心外交を唱えた雨森芳洲翁(1688-1755)の著『隣語大方(인어대방)』は長いあいだ日韓における互いの言語の教科書として使われた。

あおり運転症候群

あおり運転が横行している。この問題を社会現象として捉えるとき、人びとが無自覚のうちに囚われている精神的な病状があることに気づく。それをあおり運転症候群と呼びたいと思う。

この症候群と同極にあるのがスマホ依存症候群であり、引きこもりではないだろうか。自分とその至近距離にあるスペースしか見ないし、見られない人びとが増えている。

彼らにとって、目の前に立ちはだかるものはクルマでも人でも許せないのだ。その当然の帰結として、あおり運転が起こるように思う。こういう僕もスマホ依存症を自認している。あおり運転の症候もときどき自覚することがある。ただし、路上ではない、混雑している電車や家のなかでだ。

あおり運転に相当する英語は road rage らしいが、これを一語にして roadrage とすれば、outrage*, outrageous などの語彙が連想されるから覚えやすい。

*[weblio] 非道(行為)、蹂躙(する行為)、侮辱、憤慨、憤り

Why Korean!?

最近、韓国語を学ぶ高校生が増えている。K-pop をきっかけに独学で学ぶ若い人がふえている。韓ドラにはまった母親や祖母の姿を横目にみながら育った若い人たちが、YouTube や SNS を駆使して韓国語という外国語を身に付けている。

そう聞いて、あなたは「へえ?」と驚き、訝(いぶか)しく思うだろうか。あるいは「まさか!」と疑い、否定するだろうか。いずれであれ、まずは次の二つの記事を読んでいただきたい。

    1. https://mikata.shingaku.mynavi.jp/article/50580/ マイナビ進路2019.4.8記事
    2. https://mikata.shingaku.mynavi.jp/article/50819/ マイナビ進路2019.9.4記事

old friend

A million times or more I thought about you. The years, the tears, the laughter, things we used to do; are memories that warm me like a sunny day. You touched my life in such a special way.

I miss the way you’d run your fingers through my hair. Those cozy nights we cuddled in your easy chair. Oh no, I won’t let foolish pride turn you away. I’ll take you back whatever price I pay.

Old friend, it’s so nice to feel you hold me again. No, it doesn’t matter where you have been. My heart welcomes you back home again.

Remember those romantic walks we used to take. You held my hand in such a way my knees would shake. You can’t imagine just how much I’ve needed you. I’ve never loved someone as I love you.

Old friend, it’s so nice to feel you hold me again. No, it doesn’t matter where you have been. My heart welcomes you back.

Old friend, this is where our happy ending begins. Yes, I’m sure this time that we’re gonna win. Welcome back into my life again.

Yes, I’ve tried to live my life without you, knowing I had lost my closest friend. And though I’m feeling low from time to time, knowing I will never find the kind of love I had when you were mine.

Old friend, it’s so nice to feel you hold me again. No, it doesn’t matter where you have been. My heart welcomes you back.

Old friend, this is where our happy ending begins. Yes, I’m sure this time that we’re gonna win. Welcome back into my life again. Welcome back into my life again. Welcome back into my life again.

杖を使ってみる

傍(はた)目にはわからないが、右脚の麻痺が3ヵ月前より悪化している。1日に1-2回は右足が路面やフロアに引っ掛かるから、駅の階段などは気を付けなければならない。手すりをつかんでいたが、ないところもある。転倒を避けるために杖を使うことにした。何も背負っていないときはいいが、ショルダーなどを肩に掛けていると、動きにくい。

P_20190902_132119_vHDR_On妻が登山用に使っていた杖を、僕が平地で使うとは…

残された文庫本の処分

葬儀の日、義母はその数日前に僕が実家の応接間に積み上げておいた文庫本を早く片付けるように、やゝ苛立ち気に言った。予想より早い夫の死に動転していたとはいえ、好意でやったつもりの僕は不快だった。とにかく早々に片付けるしかないと思った。

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その数日後、電車で2時間かけて実家に行った。着くとすぐ2階の本箱に詰め込まれた文庫本を汗だくになって階下に運び、先に応接間に積み上げておいた本を移動して、玄関前の廊下に積み上げた。概算で1600冊余りの本を数日後に業者が引き取ってくれるはずだ。

最期まで自分勝手だった故人を改めて思いつゝ、彼を増長させたのは義母だったろうに、と思う。

父の死

8月24日朝6時半、父が死んだ。僕の人生における基準点の一つだったであろう人物が死んだ。愛憎半ばする男が95歳を目前にして呆気なく死んだ。断末魔の数時間、動物のようなまなざしで何かにすがるような表情をして死んでいった。

晩年は、会えばつい声を荒げて口論になることが多かった。僕が人としてどこか許していなかった、自分勝手で頑固者の男がひっそり死んでいった。

深夜から翌朝にかけて、彼の呼吸が時間をかけてしだいに弱まり、ついに止まった。病室を出たり入ったりしながら、自分でも驚くほど冷静に、泪をながすこともなく観察した。そして、医者が職業的に死を確認するのを見届けた。

一日置いて、男は荼毘に付された。火葬炉から出てきた人骨を見て泣き崩れる義母を見て、自分のなかで彼女に対する見方が変化しているのを感じた。

その夜、この文章を書きながら、僕が二十歳のとき、母と離婚して家を出て彼女のもとに行った彼の身勝手なやり方を、ふと思い出した。あれから五十年が経とうとしている。

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日韓関係のこじれから学ぶ

統治行為とは、直接国家統治の基本に関わる高度に政治性のある国家行為のことだ。そして、統治行為論とは、法律的な判断を下すことが可能であっても司法審査権は及ばないとする理論だそうだ。

日本と韓国において統治行為論そのものに対する考え方が異なるのではないか。三権分立の運用方法が違うのではないか。そういう基本的な食い違いがあるなら、そもそも議論が噛み合うことはあり得ない。

日本における多数説は、統治行為の観念とその適用される領域の存在を認めつつ、包括的・一般的にではなく、個々の行為ごとに吟味を行い、個別的・実質的論拠を十分に示すことができる場合にのみこれを認め得るとする限定的肯定説だそうだ。

韓国では過去の政権が外国政府と結んだ条約も批判され、大法院が政府から独立した審査を行うことが認められている。同じく自由主義経済と民主主義を掲げていても、かなり異なった社会体制とみるべきではないだろうか。まずは互いに異った社会体制であることを認める必要がある。

面倒なことだが、そういう作業を行わないと生産的な議論はできない、感情的なやり取りの連鎖に陥ってしまう。そんなことみなわかっているさ、と言われそうだが、浅学を顧みずに書いておく。今回の日韓関係のこじれから僕が学習したことだ。

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