Hakuho buddhas @jindaiji

ひばりタイムス「書物でめぐる武蔵野」第14回から以下、抜粋引用する(一部編集)。

貴田正子著『深大寺の白鳳仏―武蔵野にもたらされた奇跡の国宝』(2021年6月春秋社)

今から1300年以上前に始まった「白鳳仏」とはーー奈良新薬師寺の「香薬師如来立像」、東京深大寺「釈迦如来倚像」、奈良法隆寺「夢違観音像」が「白鳳三仏」と呼ばれ、著者はこの三仏に強く惹かれている。

三仏ともに「国宝」だが、新薬師寺の「香薬師如来像」だけは「旧国宝=重要文化財」となっている。なぜかというと、この仏像はもともと国宝だったのに三度も盗難に遭い、ほとんどが行方不明になっているからだ。

三仏は成立から今日までいろいろな謎を秘めている。本書はそうした謎について、あるときは仮説を立てながら推理していく。その推理過程の試行錯誤まで記述している。

まず、この三仏は畿内の同一工房の作で、近い時期に制作された可能性が高いことが示される。つまり、深大寺の像は武蔵国で作られたのではなく、当時の中央(奈良)からやってきたことになる。

新薬師寺の「香薬師如来立像」はいまだに行方不明のままだが、盗難を免れた右手だけが紆余曲折の末発見され、現在その右手は新薬師寺に戻った。仏像の探索に著者も関わり、その経緯を『薬師寺像の右手』(講談社)にまとめている。

この本のメインテーマは、なぜ国宝の仏像が中央から遠く離れた武蔵野の深大寺にある(移された)のかである。

おもしろいのは、この本が試行錯誤の舞台裏まで公開しているところにある。推論の過程もさることながら、先の「右手」発見では著者の夫が謎解きの手助けをしたかと思えば、のちに離婚したエピソードまで挟み込まれている。また、仏像愛がハンパない。像に敬語を使っているのは信仰がある人は当然として、仏像ファンにとっても当然のことなのだろう。「仏」は「ブツ」ではないのだ。

高倉(高麗)福信

ここでは、武蔵野に関係の深い深大寺の由来に限定して謎解きを紹介したい。キーパーソンは高倉福信という奈良時代の高官。渡来系のこの人物が中央と深大寺をつなぐ役割を果たし、全体テーマにも大いに関与する。

この高官の業績がすごい。756年に武蔵守の役職に就くと、もたついていた武蔵国分寺の造営を翌年に完成させた。758年、武蔵国に帰化した新羅僧ら74人を移住させ「新羅郡」を置いたのもこの人物だ。二度目に武蔵守になったときには、武蔵国の東山道から東海道への移管もおこなっている(771年)。

福信は789年に80歳で没するまで、聖武-孝謙-淳仁-称徳-光仁-桓武と6代の天皇に仕えた。この間、「橘奈良麻呂の変」「藤原仲麻呂の乱」「道鏡事件」など政変がたびたび起こるが、一度も失脚していない。立ち回りのうまさも際立っている。

福信は709年、武蔵国「高麗郡」の生まれ。祖父福徳は高句麗王の後裔にあたり、高句麗が唐・新羅によって滅ぼされたとき(668年)、日本に亡命してきた。福信は草深い田舎出身の渡来三世ということになる。「相撲人」=力士として認められたのが出世のきっかけだったようだ。それが政府高官に登りつめたというのだから大変な出世である。晩年には渡来系という出自がわかる「高麗朝臣」から願い出て「高倉朝臣」に改姓している。ここに微妙なものを感じないでもない。

645年の大化の改新クーデター以降、大和政権は律令制度を採り入れ、「日本」という国家の体裁を整えていく。同時に中国大陸と朝鮮の政治状況の影響をもろに受けている。「渡来人」や福信の祖父福徳のように「帰化」した人たちの地位はどういうものだったのだろう。知識人や技術者として厚遇されたのだろうか。今日のような「差別」はなかったのか。興味深いが、深大寺の由来に移ろう。

深大寺の創建

深大寺というと「深大寺蕎麦」が有名で、地名にもなっているが、立派な天台宗の寺が存在している。8世紀の開創、都内では浅草の浅草寺に次ぐ古刹だ。

深大寺の『真名縁起』によると、寺を開いたのは満功まんくう上人。著者はこの満功上人を先の渡来系福信の一族ではないかと推定する。福信の父がポイントとなる。父の名は「福光」という。著者はこの人物を、先の縁起に出てくる「福満」に同定する。福満は「ふくみつ」と読めるからだ。

この福満(福光)が若いころ、狛江(ここも高句麗と縁が深い)の娘に手をつけ、子どもを産ませた。この子が満功上人となり、深大寺を創建する、というストーリーが描けるというのである。つまり満功上人と福信は異母兄弟であり(少なくとも渡来系の一族 p202)、深大寺と中央をむすぶ太いパイプはここにあるというわけだ。そしてこれが、白鳳仏が深大寺にもたらされた背景となっている。

もうひとつ、この本独自の見解がある。深大寺の創建年については二説ある。ひとつは先の文献『真名縁起』(江戸時代の文献)の説をとって733年とする。深大寺の公式サイトほか素人目にはこちらが定説のように見える。しかし、本書は『私案抄』という『真名縁起』より古く、室町時代に書かれた文献のほうが信頼性が高いとして762年説を採用している。というのも、そうしないと満功上人が深大寺を創建した年齢が若すぎるのだ。このことも正直に書いているところが面白い。

通説がやがてひっくり返されるのか、そのへんは今後の歴史が判断する、ということになるのではないか。[杉山尚次]

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