Category Archives: goolees

小栗忠順 1827-68

小栗上野介と横須賀」より転載しました(一部編集)。

小栗忠順ただまさ(1827-68)は、父・忠高と母・邦子の長男、そして小栗家12代目として、文政10(1827)年、江戸神田駿河台(現在の千代田区神田駿河台)で生まれました。小栗家の当主は代々「又一またいち」を名乗りました。これは徳川家康に仕えた4代目の忠政がやりで家康を救い、家康は忠政に褒美ほうびとして槍を与え、その後の戦いでも「又も一番槍は忠政」と評判がたち、家康が「今後は又一を名乗るように」と命じたことから「又一」の名が受け継がれるようになりました。

小栗は9歳(年齢は数え年)の時から、小栗家の敷地内にあった儒学者安積艮斎あさか ごんさいの塾へ入っています。この安積あさかの塾には咸臨丸かんりんまるでアメリカに渡った木村 喜毅よしたけ (芥舟かいしゅう)、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎らとともに小栗の生涯を通しての友人であり、協力者であった喜多村瀬兵衛(後の栗本鋤雲くりもと じょうん)がいました。小栗はこの塾に通いながら剣術や柔術、砲術も学んでいます。小柄であり、そう丈夫ではありませんでしたが、負けん気と好奇心は人一倍強く、くどくどと言うことは嫌いな江戸っ子的な面も持っていました。

天保14(1843)年3月、17歳の小栗は初めて江戸城へ登城し、御目見おめみえ(将軍に拝謁はいえつすること)し、その後、学芸と武術に秀でているとのことで、将軍の護衛役になりました。その数年後、小栗は建部たけべ家の長女・道子と結婚をしています。小栗22歳、道子15歳のころといわれており、初々ういういしいカップルの誕生でした。そして、嘉永6(1853)年にペリーが来航し、わが国が開国の道を歩み始めると、小栗の獅子奮迅ししふんじんの活躍が始まります。

小栗の登場

ペリーやロシアのプチャーチンの来航が和親条約を結ぶかたちで一段落した安政2(1855)年7月29歳の時、父・忠高が新潟奉行として赴任中に病死をしたため、小栗が12代目として家督を相続しました。安政5(1858)年6月、勅許を得ぬまま大老井伊掃部頭かもんのかみ 直弼なおすけによって「日米修好通商条約」が調印されました。この調印には幕府内部でも賛否両論がありましたが、小栗は一貫して「貿易というものはすわって待っているものではない。自ら進んで海外に出て通商貿易をやるべきだ」との考えを持っていました。

また、幕府内部の条約慎重派の人々に対しては「国の政治を預かるものは徳川家よりも国家を重視する決心を持つべきである」と考えていました。翌年、この通商条約の批准書の交換がアメリカで行われることになり、幕府はその使節団を送り込むことになりました。当初幕府が決めていた人たちがさまざまな理由で行かれなくなり、9月になって正使・新見しんみ 豊前守ぶぜんのかみ 正興まさおき、副使・村垣むらがき 淡路守あわじのかみ 範正のりまさ、目付・小栗忠順と決まりました。

新見や村垣はすでに幕府の要職にありましたが、小栗は大抜擢ばってきといってよいでしょう。小栗はこの拝命の前日に幕府の目付に任命され、さらにこの年の11月に豊後守ぶんごのかみじょせられました。なぜ、小栗が選出されたのか明確な答えは得られませんが、知的能力が高く、論理的であり、正義感が強く感受性に富んでいることや、先にあげた小栗の貿易に対する考え方などが井伊いい大老の耳に入り、抜擢されたものと思われます。

この大抜擢の陰で、小栗には一つの大きな密命が課せられました。それは通貨の交換比率の不公平を是正することでした。当時、「日米修好通商条約」により諸外国の貨幣は日本の貨幣と「同種同量」をもって通用すると決められ、例えば「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という交換比率でした。ところが、金と銀の交換比率は海外では金の価値が日本よりも3倍も高いものでした。この比価の違いが日本からの金(金貨)の大量流失を招いていたのでした。

金流失の背景には日本側の事情がありました。1両の4分の1貨幣として1分金がありましたが、当時、金の生産量が少なくなってきたため、新たに1分銀という貨幣をつくり、これを1分金貨幣として流通させていました。つまり、1両(金貨)は1分銀(銀貨)4枚と等価としたのです。

例えば、1メキシコドル銀貨100枚を持ってきて、1分銀300枚と交換します。これを小判(金貨)に替えると75両になります。この小判を持ち帰って再びメキシコドル銀貨に替えると、1ドル銀貨300枚と交換できることになり、いとも簡単に最初の100ドルを300ドルに増やすことができたのでした。小栗はフィラデルフィアの造幣局の一室で日米の貨幣の金含有量をそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し、周囲を驚かせるとともに、こうした不公平さをアメリカ側に納得させたのでした。これで小栗のアメリカ側の評価が一躍高まります。それまでの目付を直訳した「スパイ」から小柄ではあるが威厳と知性と信念が不思議に混ざっている男として、また「NO」といえる人として見直されたのでした。このアメリカでの見聞が、後の小栗の行動に大きな影響を与えます。

勘定奉行の小栗

約9ヵ月のアメリカ、いや世界一周に近い大旅行から帰ってきた小栗を待っていたのは大きく変わり始めていた国内情勢でした。万延元(1860)年11月に外国奉行に就任し、その直後の12月にアメリカ公使館のヒュースケンが薩摩藩士に殺害されました。さらに文久元(1861)年3月、ロシア軍艦が対馬を占拠しました。報告を受けた幕府は外国奉行の小栗を対馬へ派遣して問題解決を図ろうとしましたが、ロシアを退去させることには失敗します。

このことで外交の難しさと幕府の無策さを知った小栗は外国奉行の辞任を申し出ます。この事件を通して小栗は幕府の経済力と軍事力の弱さを痛感し、これがやがて横須賀製鉄所の建設を決意する糸口となったのです。翌年3月には御小姓組おこしょうぐみ 番頭ばんかしら(今で言う秘書兼警護人)を命ぜられ、5月には軍政御用取調ごよう とりしらべ(今で言う防衛担当)、6月には勘定奉行に任ぜられ、上野介こうずけのすけと改めています。小栗36歳の時です。勘定奉行とは幕府の財政担当であり、この時代、外交と財政が幕府にとって最も頭の痛い問題でした。小栗はこの勘定奉行にいたりめたりを繰り返し、慶応4(1868)年1月に罷免ひめんされるまでに4度も勤めています。このことから小栗がいかに財政問題に精通していたかが分かります。

横須賀製鉄所の建設

元治元(1864)年8月、小栗は再び勘定奉行になりました。そのころ幕府軍艦の翔鶴丸しょうかくまるが破損し、その修理をたまたま横浜に寄港していたフランス軍艦に頼み、この修理が完璧であったことから、フランスは幕府の信頼を得ることができました。しかも、この修理について幕府とフランスとの橋渡しをしたのが、小栗が最も信頼していた友人の栗本鋤雲じょうんでした。小栗は本格的な造船所と修理施設の建設を念願していましたが、頼りにしていたアメリカは南北戦争の最中で日本へ技術援助をする余裕がありませんでした。

といってイギリスは薩摩藩、長州藩に接近していて、アヘン戦争のこともあるので避けたい。またロシアは対馬でのにがい思いがあり、これも技術援助を頼むことができないでいました。こうした状況の時にフランスとの交渉を信頼できる友と共にできることになり、喜んだ小栗は早速駐日フランス公使ロッシュを訪ねました。ロッシュにしても日本の公使に任命された時に東洋進出が遅れていたフランスの地位を取り戻すように命令されていました。

両者の思惑が一致しているので話はとんとん拍子に進み、11月小栗とロッシュによって製鉄所(明治4年横須賀造船所に改称)の首長の件が話し合われました。この会談の結果、中国の上海にいた技師ヴェルニーに正式依頼することとし、建設予定地には万延元(1860)年以来、製鉄所が開設されるまで複数の外国船修理の実績を持つ横須賀村が水深や石造りのドライドックを据えられる岩盤の硬さ、さらに地形がフランスを代表する港ツーロンに似ていることなどから第一候補になりました。元治2(1865)年正月、来日したヴェルニーは横須賀港を測量し、ロッシュへ横須賀製鉄所建設に関する報告をすると、ロッシュと幕府の間で正式に建設計画が承認されました。

小栗の製鉄所建設は幕府内外から批判をびましたが、小栗はそのような雑説には一切耳を貸さず、「どうしても必要な造船所を造ると言えば、冗費を削る口実となってよい。横須賀製鉄所ができれば、幕府がほかに政権を譲ることになっても、土蔵付きの売家として渡すぐらい価値あるものとなり、名誉なことである」と語ったといいます。小栗は政権がどのように変わろうとも、この造船所が日本の近代化に大きな役割を果たすであろうと確信していたのでした。

横須賀製鉄所、新政府の手に

慶応4(1868)年閏4月1日、江戸幕府が本格的な洋式造船施設として設立した横須賀製鉄所が新政府に引き継がれました。この年の1月に京都の鳥羽・伏見口で始まった「戊辰ぼしん戦争」と呼ばれる戦いでは、新政府軍が幕府軍を圧倒していました。こうした状況下でもフランス人の指導のもと着実に製鉄所建設の工事は続けられました。江戸へ進駐した新政府軍によって前月の4月21日、神奈川裁判所総督になった東久世通禧ひがしくぜ みちとみと横須賀製鉄所奉行の一色直温いっしき なおあつらとの引き渡し交渉が行われました。

4月24日にはフランス人の取り扱いについてフランス公使との協議も終わり、横須賀製鉄所に勤めていた首長ヴェルニーら33名と横浜製鉄所の12名はそのまま新政府が行う造船施設に勤務することになり、工事途中のドックや船台も引き続き工事を行うことになりました。閏4月6日、上野国群馬郡権田村(現在の高崎市倉渕町)を流れる烏川からすがわの水沼河原で罪もない一人の武士が斬首ざんしゅされました。この人物こそ横須賀に造船所を建設することを決定した小栗上野介こうずけのすけ忠順ただまさでした。

小栗はこの戦争が始まると新政府軍との徹底抗戦を主張し、15代将軍・慶喜に「御役御免おやくごめん」を言い渡されます。このため、領地である権田村へ妻子や供の侍たちと帰農していましたが、新政府軍に捕らえられ、審判もないままに処刑されたのです。享年42歳でした。

小栗の功績

小栗は横須賀製鉄所のほかにも、鉄道建設(江戸~横浜間)、国立銀行、電信・郵便制度、郡県制度の創設、また商工会議所や株式会社組織など近代的な経営方法をも発案していました。これらは明治以降、新政府の手で次々に実現され、急速に近代国家としての形を整えていきましたが、その陰には小栗が旧弊を打破し、近代国家に向けて推進しようとしていたことが浸透し始めていたことを忘れてはなりません。

小栗の尽力によって建設された横須賀製鉄所は造船や船の修理分野ばかりでなく、さまざまな分野でかかわっていきます。日本初の洋式灯台である観音埼灯台の建設や幕末に閉山同様になっていた生野いくの銀山(兵庫県)に製作した採鉱機械や蒸気機関などを送り、見事に再生させました。また、生糸生産の近代化を推進した官営富岡製糸工場(群馬県)の基本設計・機械類の製作や綿糸生産のための官営愛知紡績所のタービン水車も横須賀製でした。このように、わが国の近代工業の発展と近代化の推進に必要な輸出産業育成に、横須賀製鉄所が果たした役割の大きさは計り知れないものがありました。

明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は後年、「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策はそっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。現代にも通じるものがある激動期の幕末にたぐいまれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は近年あらためて見直されています。横須賀市では毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています。

ペリリンとオグリン
ペリー来航150周年を迎えた2003年にスタートしたのが「よこすか開国祭」です。毎年夏に「開国のまち横須賀」を代表するイベントとして開国花火大会などを開催しています。「ペリリンとオグリン」は、よこすか開国祭イメージキャラクターで、日本を開国に導いたペリー提督と横須賀の発展に貢献した小栗上野介の両雄が小栗上野介の直系子孫にあたる漫画家小栗かずまたさんの手によって可愛らしいキャラクターとして誕生し、多くの人に親しまれています。
小栗上野介と横須賀より転載しました(一部編集)

無謀な自転車乗りが横行している

1902年、夏目漱石がロンドン留学中にはじめて自転車に乗ったときのことを描いた「自轉車日記」という文章がある。自転車好きの人ならば抱腹絶倒まちがいない作品なのだが、宮田浩介氏の「サイクリストになった漱石: 技術史の視点で読み解くロンドン『自転車日記』」(Jubne Notes 2014年3月掲載)はその作品のおもしろさを倍加させてくれる。

最近、無謀な自転車乗りが横行しており、彼らと120年前の漱石の無謀さに共通する一種暴力的なものを感じます。いつ事故が起きても不思議でないし僕が巻き込まれることだってあり得るのです。日本にヨーロッパのような自転車専用レーンや専用信号ができない理由の一つがこの暴力性・スピード妄信ではないかと考えます。

以下、一部編集(見出しの一部修正と図版選択など)を施して引用します。2022年1月の投稿文120年前に漱石が跨がった自転車の再掲です。宮田氏は末尾に次のように記しています。大いに同感です。

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。
Jubne Notes ©2006-2022 kosukemiyata.com

以下、引用します。

夏目漱石の作品に「自転車日記」というタイトルの短編がある。留学先のロンドンで自転車に乗り始めた時のことを、自虐的かつユーモラスな口調で語ったものだ。西洋近代の中心地で漱石が出遭ったのは、いったいどのような自転車だったのか。そして彼は、この文明の産物とどんな風に格闘したのだろうか。19世紀の終わり頃の資料などを頼りに、彼のサイクリング体験の実像を探ってみよう。

漱石35歳の自転車デビュー

漱石の「自転車日記」に綴られているのは、「西暦1902年秋」、今からおよそ120年前の出来事だ。彼は既に満年齢で35歳になっていた[1]が、下宿の「婆さん」から強く勧められてその「命」に従うまで、自転車に「乗って見た」ことは全く無かったらしい。

未経験者の漱石にとっては、自転車に跨るだけでも大変なことだった。「いざという間際でずどんと落る」。「ずんでん堂とこける」。監督役の「○○氏」に車体を支えてもらい、サドルに腰かけたところで前に押してもらっても、次の瞬間には「砂地に横面を抛りつけ」ている。日を経て「ともかくも人間が自転車に附着している」状態を保てるようになっても、坂道での練習で彼は制動不能に陥り、塀にぶつかった後でようやく止まるのだった。

訓練を開始してから数日、やっとサドルに座ってペダルを漕げるようになってきても、漱石はまだ思うように走れなかったようだ。 よく知っているエリアの案内を同行者に任されたのに、彼は「曲り角へくるとただ曲りやすい方へ曲ってしまう」のだ。 なんとかハンドルをこじって別の方向へ曲がってみるも、今度はその急激な動作によって、「余に尾行して来た一人のサイクリスト」の転倒を誘発してしまう(怒った相手は「チンチンチャイナマン」と彼を罵倒する)。

人間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもない

「日記」の終わり近くのある日、漱石はこんなサイオー・ホースめいた格言を作って開き直ってみるが、「バタシー公園」(Battersea Park)へ行く途中で他の自転車の割り込みに遭い、「自分が落ち」て危うく馬車に轢かれそうになる。

漱石が購入した「老朽の自転車」

こうして「自転車日記」をざっと読み通してみると、漱石は運動が苦手、との印象が否めない。 運転中の判断のセンスが疑われる場面も多く、思わず「そういう時はこうするんだよ!」と教えてあげたくなる。 けれどもその助言が正しいかどうかは、もう少し詳しく調べてみなければ分からない。自分のイメージしている自転車が、そもそも間違っているかも知れないからだ。

「ラヴェンダー・ヒル」の自転車店を訪れた際、「○○氏」はまず「女乗」を薦めた、と「日記」にはある。これに対し漱石は「髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない」と抗議、練習車は「いとも見苦しかりける男乗」に決まった。それは「関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車」で、「物置の隅に閑居静養を専にした奴」という感じだった。

図3[3]: 漱石の言う「女乗」とは、スカートでも乗れるフレーム形状の自転車のことだろう

漱石が購入した「老朽の自転車」は、実際のところどんな構造のものだったのか。店の場面の「上からウンと押して見るとギーと鳴る」、「ハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり」といった描写は、前輪が極端に大きい「オーディナリー自転車」には当てはまりそうにない(図4参照)。1880年代の中頃まではこのタイプが「普通の自転車」(ordinary bicycles)だった[4]が、1895年には新型にすっかり「普通」の座を奪われ、その呼び名も限定的な形(Ordinary Bicycles)に変わっていたようだ[5]。そんな車種を1902年になってわざわざ選ぶというのも、初心者の訓練用としてはまずありえない。

図4[6]: 「オーディナリー」型の自転車のハンドルは乗車前に上から押せるような位置にはない

1880年代に進んだ「セーフティー」(Safety)自転車の開発には、乗車位置を下げて転倒の危険性を減らし、なおかつ安定した走行性能を確保するという共通課題があった[7]。これらの条件を満たして好評を得たのが、スターレー・アンド・サットン(Starley & Sutton)社の「ローバー」(Rover)だった。チェーンを介した後輪駆動、前後同等サイズのホイール(2世代目以降)といったその構成は、自転車のスタンダードとして次第に定着していった[8]。1888年にはスコットランド出身のダンロップ博士が空気を入れるタイヤの特許を取得、乗り心地が良く楽にスピードの出せるこの方式のタイヤは、7、8年のうちに殆ど全ての新車の標準装備となり、従来のソリッドタイヤを駆逐してしまった[9]

図5[10]: 空気入りタイヤとそうでないものとが混在し、新車購入時にユーザーがどちらかを選択できた時期もあった

乗り易いセーフティー型の発展が市場に及ぼした影響は大きく、イギリスでは自転車ブームが最高潮となった1895~97年にかけて、毎年およそ75万台が生産されていたと推計されている[11]。 1889年の時点では55弱だったロンドンの自転車メーカー(多くは大元の製造ではなく販売や修理のみを行っていた)の数も、1897年には390にまで膨れ上がっていた[12]。 漱石の留学はこの大流行が過ぎ去った後のことだが、彼が練習のために希望した「当り前の奴」は、こうして広まった自転車のうちの「男乗」だったろう。

図6[13]: 1898年にアメリカで出版された本の図解では、空気入りタイヤが標準的なものとして扱われている

ブレーキが無かった?

漱石が乗っていたと思われる1890年代のセーフティー型は、既に今の自転車と同じような姿をしていた。しかしながらその機械的な構造には、現代の感覚に照らすとまだ「安全」とは言い難い点があった。クランク(図6の29番)と後輪の回転が互いに直結していたため、ペダルに載せた足を走行中に止められなかったのだ。 ブレーキは前輪のタイヤに作用する手動式(図3、5、6、7参照)が最も一般的だったが、主に女性が使うものと考えられていたのか、これらを全く装着することなく、ペダルを逆に踏む「バック踏み」(back-pedaling / back-pedalling)だけで速度をコントロールするサイクリストも多かったようだ[14]

図7[15]: ブレーキのある自転車ならばフットレストに足を載せて坂を下ることができた(クランクは勝手に回り続ける)が、ブレーキが無ければクランクの回転を足で抑えて減速しなければならなかった

「自転車日記」の描写にも、漱石がブレーキを操作していたことを示す箇所はない。 「○○氏」とその友人に伴われて自転車で出かけた際、二人の間に挟まれて走っていた彼は、「クラパム・コンモン」から「鉄道馬車の通う大通り」(図2の赤線のところ)へ曲がる手前で、横から来た荷車に進路を塞がれてしまう。 ぶつかるわけにはいかないし、左右どちらかに逃げることもできない。 ギリギリになって「退却も満更でない」と思い至るものの、「逆艪の用意いまだ調わざる今日の時勢」ゆえ、彼は「仕方がない」と諦めて落車を選択する。 「逆艪」とは艪を船の前に付けて後退を可能にすることであり、この「用意」ができていないというのは、恐らく「バック踏み」に慣れていなかったことを意味している。 彼の自転車にはそもそもブレーキが無く、彼自身も「ペダル」を「踏みつける」と車輪が(?)「回転する」事実に気がついたばかりで、それを利用してスピードを落とす技術が身についていなかったのだろう。

図8[16]: ブレーキの無い自転車の場合、急坂の手前では降車するのが常識的な行動だった

漱石の自転車がブレーキを欠いていたことは、何日か前の坂道の場面からも推測できる。 彼はそこで「鞍に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり」、「両手は塞っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴ている」という格好になっていたが、ブレーキがあればそれを使えば良かったのだから、「下りようとしても車の方で聞かない」状態にはならなかったはずだ。 彼のこの奇妙な「曲乗」の姿勢は、どうも本来は乗降のためのものだったらしい(図8参照)。 自転車の後輪の軸には左に「ステップ」(図6の44番)がついていて、そこに左足をかけてからサドルに跨り、また逆の手順で降りるのが普通だったようだ[17]。 「オーディナリー」型の時代から続くこうした方法を、入門者はステップに留まりバランスを取るところから学んだ[18](図9参照)。 初日に「馬乗場」で「○○氏」が放った「ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」との言葉は、これにぴったり合致するものだ。

図9[19]: 右足で地面を蹴って自転車を前進させ、ステップ上でバランスを保つ練習をした(これができたら次はサドルに腰かける)

どんな自転車に乗っていたかが概ね見えてくると、漱石の苦闘の様子にも納得がいく。 やっとステップに立てるようになったばかりの段階では、坂を使った特訓はあまりに無謀だった。 サドルに座りペダルを漕いで走行できるようになっても、ブレーキが無ければ急に止まることはまず不可能だったろう。 「バック踏み」だけで一気に速度を落とすための経験値[20]が、彼にはまだまだ足りていなかった。 「バタシー公園」へ向かう途中の「非常の雑沓な通り」は、だからこそ「初学者たる余にとって」「難関」だったわけだ。 「日記」に描かれたドタバタの原因の殆どは、彼自身のセンスや運動能力よりも、選んだ自転車の機械的な特性にあったのである。

サイクリストになった漱石

様々な資料から推測される漱石の自転車は、「オーディナリー」型などに比べればずっと扱い易かったものの、現代の一般的なモデルほど簡単に乗れるものではなかった。 「その苦戦」に関して当人は、「大落五度小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって向脛を擦りむき、或る時は立木に突き当って生爪を剥がす」、「しかしてついに物にならざるなり」と書き記しているが、結局ダメだったというのは脚色のようだ。 鏡子夫人が後に語ったところによると、彼は「よくおっこちて手の皮をすりむいたり、坂道で乳母車に衝突して、以後気をつけろとどなられたりして、それでもどうやら上達して、人通りの少ない郊外なんぞを悠々と乗りまわして」いたらしい[21]。作中の「余」は上手くならなかったが、生身の漱石はサイクリストになっていたのだ。知人一家を訪ねた折に「いつか夏目さんといっしょに皆で」と「令嬢」から提案され、見栄を張りつつもこれを断り通そうとしたために「父君」から「サイクリストたるの資格なきものと認定」されることになったウィンブルドンへの遠乗り(彼の下宿からは約9キロメートルの行程)も、実現可能なものになっていたに違いない。

図10(Edward Penfieldによるポスター)[22]: フットレストを利用する際、長いスカートなどは回り続けるクランクとペダルに絡まる恐れがあったが、1898年頃から普及し始めた足を止められる自転車(ブレーキ装置が必須)では、この姿勢そのものが不要になった[23]

『自転車日記』と名づけられた作品の重心は、もちろん外面的な事実の一つひとつではなく、それらを映した〈近代の中の日本人〉という精神のレンズにある。 そしてその色や形や屈折を知る目的においても、同じ場面を他のカメラによって見る行為は大きな意味を持つ。 技術史の視点で「サイクリスト」漱石に迫ることは、過剰なまでに自嘲的な語りを用いて彼が何をしようとしたかを、よりはっきりと浮かび上がらせてくれるのではないだろうか。

  1. 夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』(文春文庫 1994) 439, 445. 
  2. Philip, George, Philips’ Handy Volume Atlas of London, 6th ed. (London: George Philip & Son, ca. 1910)
  3. Sexby, John James, The Municipal Parks, Gardens, and Open Spaces of London: Their History and Associations (London: Elliot Stock, 1905), 17. 
  4. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling (London: Longmans, Green, and Co., 1887), 129-130. 
  5. Albemarle, William Coutts Keppel, Earl of, and G. Lacy Hillier, Cycling, 5th ed. (London: Longmans, Green, and Co., 1896), ⅲ, ⅹ, 259. 
  6. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 1. 
  7. Sharp, Archibald, Bicycles & Tricycles: An Elementary Treatise on Their Design and Construction, with Examples and Tables (London: Longmans, Green, and Co., 1896), 150-153. 
  8. Sharp, 153-158. 
  9. Sharp, 159-160; Wilson, David Gordon, “A Short History of Bicycling,” Bicycling Science, 3rd ed. (Cambridge, MA: MIT Press, 2004), 25-26. 
  10. Dagg, George A. de M. Edwin, “Devia Hibernia”: the road and route guide for Ireland of the Royal Irish Constabulary (Dublin: Hodges, Figgis, & Co., 1893), 348. 
  11. Rubinstein, David, “Cycling in the 1890s,” Victorian Studies 21.1 (1977): 47-71, 48, 51. 
  12. Rubinstein, 53. 
  13. Schwalbach, Alexander and Julius Wilcox, The Modern Bicycle and Its Accessories (New York: The Commercial Advertiser Association, 1898), ⅹⅴⅰ. 
  14. Schwalbach and Wilcox, 104-108; Garratt, Herbert Alfred, The Modern Safety Bicycle (London: Whittaker & Co., 1899), 182-192. 
  15. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 120. 
  16. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 239. 
  17. Albemarle and Hiller, Cycling, 5th ed., 115, 118-119. 
  18. Albemarle and Hiller, Cycling, 63, 133, 135-137. 
  19. Porter, Luther H., Cycling for Health and Pleasure: An Indispensable Guide to the Successful Use of the Wheel (New York: Dodd, Mead & Co., 1895), 30. 
  20. Porter, 43, 119. 
  21. 夏目・松岡 116-117. 
  22. この姿勢をとることができる自転車にはフットレストとブレーキが装備されているはずだが、イラストでは省略されたようだ。 
  23. “Cycle Shows in England,” The West Australian, December 31, 1898: 2. 

Jubne Notes ©2006-2022 kosukemiyata.com

自転車のライトが切れた

もう五年以上使っているUSB充電方式のライトが充電できなくなり、完全に切れてしまった。日が暮れるのが早くなって夕方5時にはすっかり暗くなるこのごろ、帰りの走行にライトは必需品だ。

五反田から大崎広小路、大崎まで走り回って自転車屋を探した。一軒目は移転していた。二軒目は閉店セール中でライトなどの小物は売り切れ、第二京浜国道沿いにあるはずの三軒目は探せなかった。

あきらめて国道から中原街道の平塚橋交差点の方に向かっていると、あった。いかにも町の自転車屋らしいおじさんが店内を清掃している。そろそろ閉店の時間なのだ。その店に飛び込んだ。ライト探しが徒労に終わらずにすむ。ライトは四個壁に掛かっているだけ、そのなかですぐに使える単3電池式LEDを選んだ。

当然のことのように僕の自転車に取り付けてくれる。パッキングを何度か取り替えハンドルの太さにあうようにして取り付けてくれた。作業中、自転車談義を交わした。しだいに、町の自転車屋が消えてゆく。

a bike bag commuter (2)

七月八月の暑い盛りに週三日の輪行りんこう通勤を続けた。月に一度のペースで友人とMTB山行をしていたのをめて一年以上ったし、自転車で走りたかった。右脚の麻痺まひが気になって筋力をつけたいという思いもあった。

輪行区間を除いて朝夕往復で約一時間の走りだが、長いアップダウンがあり、ぎ続けるのがつらいときもある。妻の反対を押し切って始めたことだから途中でめるわけにはいかない。自転車を折りたたんでバッグに入れる方法もいろいろ工夫した。

八月の終わりが近づくと、自転車を入れたバッグをいよいよ重く感じるようになり、肩にかけて階段を上がるのにふらつくこともあった。疲れがまっていたのだろう。七十歳を過ぎているし無理もないが、朝夕自転車で走る爽快さを失いたくない。

考えた末に、以前試乗したことのある軽い小径車を買うことにした。価格は一台目と同じく三万円余りだ。一台目はタイヤ径が16インチで12.5キロだが、二台目は14インチで8.5キロだ。すごく軽い、片手で軽々と持ち上げることができる。

二台目には変速機が付いていないが、脚の筋力を付けるには好都合と考えた。持ち運びに軽さは絶対条件だから、他の要素は我慢しなければ、と言い聞かせた。ところが、休日に一台目に乗ると、タイヤだけでなく車体感覚がまるで違う。ギアの切り替えもスムーズで重量感があって、これぞ自転車とさえ感じた。

B.B.通勤には軽い14インチの変速機なし、休日は重くても16インチの6段変速というのが現時点の贅沢ぜいたくな選択だ。これを一夫多妻ならぬ一夫二車制と呼ぼうと思う。もう一台MTBも加えれば一夫三車、一夫多車制をひそかに楽しんでいる。

a bike bag commuter

6月中旬にクルマを売却し、16インチの折りたたみ自転車を購入した。台湾製でやや重いが気に入っている。7月から通勤の一部区間を自転車で走り(約30分)、他の区間は輪行袋(bike bag)に詰め電車で通勤(約15分)している。「輪行通勤」と名づけたい。ゆっくり走っても汗だくになる。電車のなかで涼み、事務所に着くと着替える。爽快なことこの上ない。写真はバッグ収納方法と車内ほかでの配置工夫の記録です。

池上本門寺の一角

自宅から自転車でゆっくり走って30分ほどのところに池上本門寺があり、その一角に日蓮聖人(1222-1282)入滅の地とされる場所がある。現代日本社会を「無宗教社会」と名づけてから何回か訪ねている。執筆中の「無宗教社会に生きる」は創価学会の宗教運動を捉えようとしているが、かなり難題だ。

池上本門寺境内にある日蓮聖人入滅の地

明治維新を再解釈する試み

中里介山著「大菩薩峠」を貫くのは中里史観と呼ぶべきものであり、それを支える人間観である。場面展開が独特で多くの登場人物が目まぐるしく入れ替わる小説で、プロットと関係ない挿話を煩わしく思うこともある。ただ、その挿話のなかで中里史観とその土台にある宗教や芸術・武芸観が語られるから、なくてはならない一部を構成している。介山の略歴は玉川神社(東京都羽村市)のサイトに詳しい。

1「大菩薩峠」を読み直す(1)
裏宿うらじゅく七兵衛、医者の道庵どうあん、部落出身の米友よねともとお君と黒いムク犬、竜之介の父親に拾われた与八、竜之介に祖父を斬られたお松、神尾主膳しゅぜん、駒井能登守のとのかみこと甚三郎じんざぶろう兵馬ひょうまほかが登場する。歴史上の人物が実名で登場する。
2「大菩薩峠」を読み直す(2)
学者肌の元旗本・駒井甚三郎と幕末の勘定奉行・小栗忠順のつながりが、この長編小説の作者の歴史観を示唆していると考える。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。
3「大菩薩峠」を読み直す(3)
中だるみの感を否めないところもあるが、この長編小説に取りかれのがれることができない。読み続けていると、白雲の巻に興味深い挿話があった。16世紀末の秀吉の朝鮮侵略における王義之の真筆をめぐる伊達家と細川家の物語だ。
4「大菩薩峠」を読み直す(4)
殺人鬼であり冷血漢である机竜之介と、幼いころの火傷でケロイド状の顔をもつお銀さまが取り交わす噛み合わないやり取りが興味深い。この小説の登場人物には身体障害者や精神障害者が少なくない。浪人に代表される幕藩体制からの離脱者や社会的な脱落者、「不具者」とされる人々が登場する。
5「大菩薩峠」を読み直す(5)
登場人物のなかで僕がもっとも引かれるのは駒井甚三郎である。無名丸という自ら設計した黒船の針路に関する以下の記述は、期せずして、明治日本以後の日本島の人々に大きな疑問を投げかけているように思う。どこか小栗忠順に通じるところがある。
6「大菩薩峠」を読み直す(6)
山科やましなの巻で、作者はなぜ神尾主膳をして勝小吉かつこきち(1802-50)の「夢酔独言」を延々引用し読ませたのか。主膳のモデル原型にでもなっているのだろうか。駒井と小栗忠順、神尾と勝麟太郎の対立関係を比較してみるのも興味深い。
7「大菩薩峠」を読み直す(7)
無名丸が東経170度北緯30度の附近にある無名島に漂着ならぬ到着をした後、しばらくして駒井は一人の白人男性を発見する…(彼から)「およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も事業もその
てつ
を踏むにきまっています、失敗しますよ」。そう断言された駒井はまた思い悩む。
日本の最東端にある南鳥島は東経153.58度、北緯24.18度。無名島は架空の島だろうが、南鳥島から遠く北東にある。
8大菩薩峠(執筆年1913-41)の主題
幕末から明治期の日本を再解釈を試み読者をして再考させることにあると考えている。美化して語られることの多い「明治維新」とそれ以降の現代史を見直す作業を真摯しんしに行った稀有けうな小説であり、読者にも現代史の再解釈を求めているように思う。このような意味において大菩薩峠は単なる娯楽小説ではない、大いなる論説である。より正確に言えば、小説の醍醐味だいごみと論説のおもしろさを兼ね備えた貴重な作品なのである。
20220531

「大菩薩峠」を読み直す(7)

「駒井甚三郎の無名丸が、東経百七十度、北緯三十度の附近にある、ある無名島に漂着」ならぬ到着をし、その周辺に開墾地を耕し落ち着いた後に島の海岸沿いを測量していくと、一人の白人男性と遭遇する。

彼はヨーロッパで育ち、その文明進歩を否定して、自ら無名島に漂着したという隠遁者のような人だ。互いにとって外国語である英語で交わされる二人のやり取りが興味深い。

「およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も事業もその
てつ
を踏むにきまっています、失敗しますよ」。そう断言された駒井はまた思い悩む。

椰子林の巻 四十九
 駒井が、人間臭を感じていた時に、清八は異様な動物を認めました。
 熊が――と言ったのは、果して、日本人が認める熊であるか、何物であるかを確認したのではなく、何かの動物を、この男が見出したものですから、一概に、「熊が――」と呼んでみたのだ。駒井は直ちに否定しました。熊のいるべき風土ではないということを、反応的に受取ったから、熊が、ということは信じなかったけれども、この男が、たしかになんらかの動物を発見したという信用は失うことがありません。
「あ、熊が、あそこの岩かげから、コソコソと出て、また隠れてしまいました、御用心なさいませ」
 駒井の手にせる鉄砲を目八分に見て、報告と警戒とを加える。駒井は、その言うところを否定もせず、肯定もせずに、
「では、行って見よう」
 その方面に向って自分が先に立ちました。
「人間だよ、熊ではない」
「人がおりますか、人間が、土人でございますか、土人」
 熊であるよりも、人という方がかえって無気味なる感じです。土人、と繰返したのは、土人の中には人を食う種族がある、鬼に近い人種がいる、或いは鬼よりも獰猛
どうもう
な人類がいることが、空想的な頭にあるものですから、兇暴なる土人の襲撃の怖るべきことは猛獣以上である。猛獣は
おど
しさえすれば、人間を積極的に襲うことはまずないと見られるが、土人ときては、若干の数があって、何をするかわからない。
「見給え、あそこに小舟がある」
「舟でございますか、ははあ、なるほど」
 それは小舟です。しかもその小舟が、半分ほど砂にうずもれながら波に洗われつつある。最初は岩の突出かと思いましたが、なるほど、舟だ、その舟も、どうやらバッテイラ形で、土人の用うるような刳舟
くりぶね
でないことを、かすかに認めると安心しました。
 この捨小舟
すておぶね
をめざして急いでみると、それから程遠からぬ小さな池の傍の低地に小屋を営んで、その小屋の前に人間が一人、真向きに太陽の光を浴びて本を読んでいる。黒い洋服をいっぱいに着込んでいるから、それで最初に清八が熊と認めたそれなのでしょう。こちらが驚いたほどに先方が驚かないのです。駒井主従が近寄って来ても、あえて驚異の挙動も示さず、出て迎えようともしないし、来ることを怖れようともしていないのが、少し勝手がおかしいとは思いながらも、危険性は少しも予想されないから、そのまま近づいて見ると、先方は
ひげ
だらけの面をこっちに向けて、じっと見つめていることは確かだが、さて、なんらの敵意もなければ、害心も認められない。
 いよいよ近づいて見ると、原始に近い姿をしているが、その実、
はなは
だ開けた国の漂流者と見える。駒井がまず、英語を以て挨拶を試みてみました、
「お早う」
 先方がまた同じような返事、
「お早う」
 駒井の英語が、本土の英語でないように、先方の発音もまた借りの発音らしいから、英語を操るには操るが、英語の国民ではないという認識が直ちに駒井の胸にありました。
 けれども、英語を話す以上は、その国籍はともあれ、時代に於ては開明の人であり、或いは開明の空気に触れたことのある人でないということはありません。英国は海賊国なりとの外定義はあるにしても、その個人としては、直接に人を取って食う土人でないことは確定と思うから、ここで三個の人間が落合って、平和な挨拶を交し、これからが駒井とこの異人氏との極めて平和なる問答になるのです。
椰子林の巻 五十
 駒井甚三郎は、まず、初発音に於て、この異人氏が英語は話すけれども英人でないことを知り、話してみると、この土地に孤島生活をしているけれども漂流人ではないということも知りました。誰も予想する如く、船が難破したために、この島へ漂いついて、心ならずも原始生活に慣らされている、早く言えば、ロビンソン漂流記の二の舞、三の舞である、とは一見、誰もそのように信ずるところだが、少し話してみると、やむことを得ざる漂流者ではなくて、自ら好んで単身この島へ渡って来て、また好んでこういう原始生活を営んでいる生活者であるということを、駒井甚三郎が知りました。
 これが駒井にとって、一つの興味でもあり、好奇心を刺戟すると共に、研究心をも刺戟して、これに会話の興を求めると共に、この異風の生活の白人を研究してみなければ置かぬ気持にもさせたのです。今日の開明生活を
なげう
って、何しに斯様
かよう
な野蛮生活に復帰したがっているか、それも、やむを得ずしてしかせしめられているなら格別、好んでこういう生活に入り、しかも、一時の好奇ではなく、もはや、あの小舟が朽ち果てる以前から来ており、今後、この島にこの生活のままで生涯をうずめる覚悟ということが、驚異でなければなりません。
 駒井甚三郎と異人氏の、覚束
おぼつか
ないなりの英語のやりとりで、しかも、相当要領を得たところの知識は、だいたい次のようなものでありました。
 この白人は、果して英国人ではない、本人は、しかと郷貫
きょうかん
を名乗らないけれども、フランス人ではないかと駒井が推定をしたこと。
 年齢は、こういう生活をしているから、一見しては老人の如くに見ゆるが、実はまだ三十代の若さであること。
 学問の豊かなことは、ちょっと叩いてみても、駒井をして瞠目
どうもく
せしむるものが存在していたということ。
 そこで、つまりこの青年は、三十代と見ればまだ青年といってもよかろう、一見したのでは五十にも六十にも見えるが――この青年は、何か特別の学問か、思想かに偏することがあって、その周囲の文明を
いと
うて、そうして、わざとこの孤島を選んで移り住んでいる者に相違ないということが、はっきりと判断がつきました。
 そういう類例は、むしろ東洋に於ても珍しいことはない。日本に於ても各時代時代に存在する特殊の性格である。こういう隠者生活というものは、東洋がその本家であるかと見ると、西洋にもあるのだ。いわゆる文明国にも、現にこういう人が存在する、ということを駒井がさとりました。
 異人氏の方でもまた、この珍客が、教養ある異邦人で、自分の思想生活を
みだ
す者でないことがわかったらしい。特に興味を以て、駒井との会話を辞さないようです。
 そこで、駒井甚三郎は、清八をして持参の弁当を取り出させ、その小屋の庭前の自然木の卓子
テーブル
の上に並べさせ、そのうち好むものを、異人氏にも勧め、且つ食い、且つ談ずるの機会に我を忘れ、また今日の任務をも忘れんとします。
 ここに於て、駒井はこの島に、自分たちよりも先住者が少なくも一人はいたことを知り、島の面積、風土のなお知らざるところをも聞き知り、もはや、これ以上には人類は住んでいないことなどをも知りましたが、個人として、この異人氏の身辺経歴等を知りたいとつとめたが、容易にそれを語りません。
「あなたは、この島に猟に来たのですか」
と異人氏がたずねるものですから、駒井が、
「いいえ、猟に来たのではないのです、あなたと御同様に、この島へ永住に来たのです」
「エ?」
と言って、異人氏がその沈んだ眼をクルクルとさせ、
「永く、この島にお住まいになるのですか」
「そのつもりで、仲間を引きつれて来て、これから三里先に開墾を始めています、以後、おたがいに往来して、お心安く願いたいものです、これを御縁に、たびたび、わたくしも、こちらをお訪ねしたい、どうぞ、我々の方も訪ねていただきたい」
 駒井がこう言いますと、異人氏は感謝するかと思いの外、みるみる失望の色が現われて、
「そうですか、あなた方二人だけではないのですか」
「二十余人の同勢で来ています」
「男ばかりですか」
「女もおりますよ」
「そうですか」
と言った異人氏には、失望のほかに、不快な色さえ現われて、それからは駒井の問いにはかばかしい返事をしませんでしたが、急に立ち上って、
「わたくし、あの小舟を修繕しなければなりません」
 つと立って行ってしまったものだから、駒井も引留めようがありませんでした。
 ぜひなく、清八と二人だけで食事を済まし、しばらく待ってみたが、容易に再び姿を現わしません。立って四方をさがしてみたけれども、どうもその当座の行方がわからない。ぜひなく二人はそのままに取りかたづけて、ここを出て前進にかかりましたが、途中、心にかけたけれども、この異人氏の姿が再び眼に触れるということはありませんでした。
 駒井は、それを本意なく思ったが、なんにしても、最初のうちは極めて好意を以て会話に答えた異人氏が、終り頃、急に失望不快の色を現わしたことと、そのまま席を立って、再び姿を見せなかったことに、何か、感情の相違があるものだとみないわけにはゆきません。では明日改めて、単身、ここまで出向いて来て、この遺憾
いかん
の部分の埋合せをしようと思い定めました。その日は、その程度の観察、往復の途中、地質と植物の標本を集めたくらいのところで、開墾地へ立帰りました。
 お松に向って、その日のあらましを物語り、明日はひとつあの異人氏の訪問を主目的として、また出かけてみるつもりだということを物語ります。
 七兵衛の報告を聞いて、開墾事業が着々として進んでいることを知り、多くの希望と愉快のうちにその夜を眠ります。
椰子林の巻 五十一
 その翌日、駒井甚三郎は、三里の道を遠しとせずして、今日はたった一人で、昨日来た異人氏の草庵を訪ねてやって来ました。
 来て見ると、その有様、昨日に異ならず、戸は別に
ふさ
いでもないが、人はありません。二度、三度、呼びかけてみたが返答もありません。その様子では、昨日立って行ったままに、立戻らないようにも見えるが、いったん戻って、また出かけたものとも察せられる。
 あけ放された室内へ、駒井が入り込んで見廻すと、数多くの書籍がある。卓の上には、書きさした紙片が
うずたか
く散乱している。駒井は一わたり書棚の書物を検閲したが、英語と覚しいものは極めて乏しい。一二冊をとって
ひら
いて見ると、文字は横には印刷されているが読めない――
 そこで、駒井はまた一旦、室外へ出て待ってみたが、到底
らち
が明かないと見て、ともかくも近いところを歩いてみようと、小径をそぞろ歩きすると、まもなく海岸へ出ました。海岸へ出て見ると、何のことに、探索に苦心するまでのことはなかった、つい眼のさきに、尋ねる人がいるのです。海岸へ乗捨てられた小舟をコツコツと修理していたのは、昨日見た異人氏以外の人でありようはない。
 そうだ、昨日も立ち上りざま、舟を修理をしなければならないと言って出た。最初から、こっちを探せば何のことはなかったものをと、駒井はその心構えで、ツカツカと近寄って来て、
「昨日は失礼――また尋ねて来ました」
「はい」
「舟をなおすのですか」
「はい、舟を修繕しています」
「だいぶ古くなっていますね」
「なにしろ、三年前に乗捨てた舟ですからね。もう二度使おうとは思わなかったですが、また手入れをしなければならないです」
「新たに漁でもおはじめなさるのですか」
「いや、漁ではありません、沖へ出なくても魚は捕れます」
「では、急に何の必要あって」
「海へ乗り出すのです、新たなる征服者が来たから、先住民族は逃げ出さなければならないです」
「待って下さいよ、新たなる征服者というのは我々のことですか、先住民族というのは君のことですか」
「そうです、あなた方は侵入者であり、征服者であります、新たなる征服者が来た時は、先住民族は逃げなければなりません、逃げなければ血を流します」
「これは奇怪なお説です、誰が君を殺すと言いましたか、誰が君の血を見たいと言いましたか」
「当然です、誰も言わないが、それが移住者の約束です」
「そういう約束をした覚えもない」
「人間同士の約束ではない、天則です、でなければ歴史です、人類相愛せよということは、猶太
ユダヤ
の大工さんの子だけが絶叫する一つの高尚なる音楽ですね、相闘え、相殺せ、征伐せよ、異民族を駆逐せよ、しからずばこれを殲滅
せんめつ
せよ――これは、歴史だから如何
いかん
とも致し難い、そこで、わたくしは殺されないさきに逃げます」
「驚くべき誤解ですねえ、我々も、まず平和と自由とを求めて、この地に来たのですよ、歴史の侵略者とは違います、海賊ではありません、紳士です」
「歴史の原則の前には、海賊も紳士もないです、あなた方は、平和を求めるつもりでこの島へ来ても、それがために、わたくしの平和が奪われます」
「奪いません、おたがいに和衷協同して、相護って行き得られるはずです」
「そんなことができるものか、現に、わたくしの平和が、こんなに乱されていることが論よりの証拠――やがて、わたくしが殺される運命は必然です」
「左様な独断に対しては、もはや議論の限りではない、ただ、東洋人ということが、野蛮と好戦の代名詞のように心得ている君等白人の謬見
びゅうけん
からただしてかからなければならんのだが、それには相当の時間を要する、少なくともその理解の届くまで、君の出発を延期してはどうだ、果して、君が憂うるところの如く、我々は君を殺さずには置かぬ人類であるか、或いは存外、君と平和に交り得る人種であるか、その辺の見当がつくまで、出発を保留して置いてはどうか、そうして、いよいよ危険と結論が出来たその時でも、立退きは遅くはあるまい、その担保として――これをひとつ君に預けて置こうじゃないか、これは我輩の唯一の護身武器だ、安全の保証だ」
と言って駒井甚三郎は、肩にかけていた鉄砲を取って、彼の前に提出し、同時にその帯革の弾薬莢
だんやっきょう
を取外しにかかると、
「いや、違います、違います、あなたの観察が違います、わたくしは、あなた方を怖れるのではないです、歴史を怖れるのです、東洋の人を、野蛮だの、好戦だのと軽蔑するほど、西洋の人は文明を持ってはおりません、大きな宗教、大きな哲学、大きな科学、みな東洋から出ました、今、西洋だけが文明開化のように見えるのは、それは表面だけです、西洋の文明開化は短い間の虹です、やがて亡びますよ、わたくしは、欧羅巴
ヨーロッパ
に生れたけれど、欧羅巴が嫌いです、それで、国々を廻ってこの島へ来たです、が、これから、ここを逃げ出して、またどこか自分のくらしいい土地を求めて行きます」
椰子林の巻 五十二
 吃々
きつきつ
として、こういう釈明をする間にも、異人氏は小舟の修繕の手を休めない。銃器を取外した駒井は、そのやり場に苦しむような手つきで、ふたたびそれを持扱いながら、これと対した石の上に腰を卸して、異人氏の言うところを言いつくさしめようと構えている。異人氏は、ここまで来ると、必然の論理を通さねばならぬかの如くに、ねちりねちりと問わざるに答えるのである。
欧羅巴
ヨーロッパ
の文明というものは間違っているです、蒸気が走り、電気が飛び、石炭が出る、機械がどよめく、それで、人が文明開化だといって騒いでいるだけのものです、蘊蓄
うんちく
ということを知らないで、曝露
ばくろ
するのが文明だと心得違いをしているです、陰徳というものを知らないで、宣伝をするのが即ち文明だと心得違いをしているです、ごらんなさい、今に亡びますよ、今に欧羅巴人同士、血で血を洗う大戦争をはじめて共倒れになりますから、わたくしは、そういうところに住むのが嫌いですから、もっと広い世界へ出ました」
「君は文明開化を否定している、人類の進歩というものを
のろ
っているらしい、それが欧羅巴の文明というものを
きわ
め尽しての結論だと面白いが、ただ偏窟な哲学者の独断では困る」
「わたくしは偏窟人です、世間並みの風俗思想には堪えられません、それだからといって、わたくしの見た欧羅巴文明観が間違っているとは言えますまい、そもそも、欧羅巴が今日のように堕落したのは……彼等は堕落と言わず、立派な進歩だと思い上って世界に臨んでいるようですが、わたくしに言わせると、彼等より
はなはだ
しい堕落はありません、何がかくまで欧羅巴を堕落させたかと言えば、それは鉄と石炭です」
「ははあ、妙な論断ですね、羅馬
ローマ
の亡びたのは人心が堕落したからだということは、よく聞きますが、鉄と石炭が欧羅巴を堕落させたという説はまだ聞きません」
「学説ではなくて事実です、まず欧羅巴というところが、世界の中でどうして特別に早く開けたかといえば、それは食物を耕作する良地に富んでいたからです、土地が肥えていて、人間が食物を収穫するのに、最も都合がよかった、というのが第一条件であります、これは勿論
もちろん
であります。欧羅巴でなくても、穀物をよく生産する土地に人間が第一に寄りつきます、欧羅巴が開けたのは、その第一の条件に恵まれていたその上に、第二の条件が最もよろしかったからです、その第二の条件というのは、鉄が豊富であったからです、鉄を掘り出して使用することの便利が、他の多くの国土よりも恵まれておりました。人類は、最初にその鉄で
くわ
を作りました、
すき
を作りました、そうして耕作力に大きな能率を加えました、そこで、人間に余裕も出来て、人間の数も
えました、それまではよかったです。ところが、人に余裕が出来、その数が殖えてくると、争いが起りました、そこで、鍬を作る鉄で武器を作りはじめました、欧羅巴の堕落はそこからはじまりました」
「それは堕落ではない、当然の進歩というものだ、人類が進歩し、社会が複雑になればなるほど、おのおのの防備を堅固にしなければならない、大きく言えば、国防というものがいよいよ切実となる、弓と矢を用いる代りに、鉄を利用して国防の要具を作ることは、当然の進歩ではないか」
「進歩とか、複雑とか言いますけれども、その進歩と複雑が、人間に何を与えましたか、眩惑
げんわく
以上のものを与えましたか、眩惑から逃れて真実の生活を営みたいものは、欧羅巴文明から離れなければならない、そういうわけで欧羅巴を堕落させたもの、第一は鉄であります、いや、人が鉄の使用を誤らせたことから堕落が起りました、その次に、欧羅巴文明を堕落せしめたものは、石炭です、なぜ、石炭が欧羅巴を堕落せしめたかと言えば、そのもとは蒸気の発明から起ったです、蒸気が発明されると、大船が大洋の中を乗りきって、世界のいずれの
はて
へも自由自在に往来ができるようになりました、人間はそれを称して、人力が海洋を征服したというけれども、実は人間が自制心を失って我慾に征服されたです、従って、この蒸気船に乗って世界を行く国人が海賊となりました、海賊とならざるを得ないです。たとえ未開野蛮の地というとも、先住民のいない国土はない、新入者と先住民との争いが当然起ります、先住者のないところには、新入者同士の争いが起ります。石炭が大きな船を動かさなければ、なかなかそういうことは起らなかったです。いまに、ごらんなさい、世界中がみな海賊の争いになりますよ、鉄と石炭を多量に持っている国家が、海賊の親方になります、そうすると、それを
うらや
む他の国家が、割前を欲しがって、その海賊の大将を亡ぼそうとします、そこで、海賊の大将へ総がかりという大戦争が起りますから、見ていてごらんなさい、鉄と石炭が欧羅巴を進歩せしめたというのは、近眼の見ている虹です、やがて、これがために亡びますよ、いったい、土地に埋蔵してある天与の物質を掘り出して、それを人間同士殺戮
さつりく
の道具に造るなんていうことが、罰が当らないで済むものですか、やがて、欧羅巴がいい見せしめです、東洋の方々よ、東洋は欧羅巴に比べると、遥かに偉大なる宗教、深遠なる哲学を持っています、この産物は、鉄と石炭の産物とは比較にならない、東洋人はその偉大なる宗教と哲学に従って行けば、安全なのです、決して、鉄と石炭の文明に眩惑されてはなりませんよ」
 こう言われて、駒井甚三郎は、何か自分の弱味に籠手
こて
を当てられたように感じました。この立論が偏窟であるないにかかわらず、ただ何かしら、自分の弱点を突かれでもしたように感じました。
椰子林の巻 五十三
 こういう頭から出て、とどまると言い、出ると言う以上は、力を以て引留めることの限りではないと、駒井甚三郎もややにさとりました。
 そうして、暫く沈黙して考えさせられざるを得ないものがありましたが、
「君が欧羅巴文明を否定するのは、君一個の意見として聞いて置き、拙者もいずれ考えてみたいと思いますが、東洋に、より優れたる偉大なる宗教があり、深遠なる哲学があるというのは、それは買いかぶりではないか、ドコの国も同じように似たり寄ったりなもので、人間というやつは、みんな、眼前だけを標準としてしか行動ができない動物なんじゃないか、世界の人類一様に、みんな、やがて消ゆべき虹を見て騒いでいるんじゃないかな」
「そうでないです、西洋の人は虹をだけしか見ることができないです、たまにそれ以上を見る人は、ただ、虹は何で出来ている、虹は水蒸気である、七色は光線の分解であるというだけを見るのが頂上です、ところが東洋人は、水蒸気を見ない、七色を見ないで、
くう
を見ます、空というのは虚無ではないです、つまり、
しき
を見ないで
くう
を見るです、西洋人には、色を見ることだけしかできないで、空を見ることができません」
 ここに至ると駒井甚三郎は、もはや、自分の領分外だということをさとりました。もはや自分の力では、こなしきれないということを自覚せざるを得ませんでした。
 そこで、また暫く沈黙の後、次のように言いました、
「考えさせられます、トモカク、我々の方で、君を引留める何物の力もないということがわかり出したようです、この上は、君の自由の行動と、意志の行動に干渉すべき限りではない。では、一日、我々の新開墾地に客に来て見て下さらぬか、我々が食人種でないことがおわかりならば、一日の来訪は危険を伴わないし、また君の将来の行動のさまたげとなるべきはずもないから、新入者が先住民に敬意を表わすの機会と、先住民が新入者を迎うるの機会と、それから新入者が先住者を送るの礼と、その三つの機会を同時に、我々の新開地で作ってみることは許されないか」
「そういうわけならば、一日の暇を作りましょう、明日にも、あなたの植民地へ行きましょう」
「それは有難いです――では」
 駒井甚三郎は、明日の約束を以て、この場の会見と会話とを打切りました。順路をよくこの異人氏に教えて、自分はもと来し路へ引返します。出立の時は、今日は、もう一足でも先へ前進してみるつもりでしたが、ここで会見の時を過ごしてみると、もう進む気が起りませんでした。
 来た路を引返しながら駒井甚三郎が思う様、この孤島へ来て、さかさまに、白い異人から東洋哲学を聞かせられようとは思わなかった、ドコの国、いずれの時代にも、その時代を
いと
う人間はあるものだ、称して厭世家という。そういうことは、いずれの時代にもあるが、いつも世間には通用しない。当人も無論、通用されないことを本望とする。世間の滔々
とうとう
たる潮流から見れば、一種例外の変人たるに過ぎない。一人や二人そういう変人が出たからとて、天下の大勢をどうすることもできるものではない。また当人も、一人や二人で天下の大勢をどうしようの、こうしようのと考えているのではないから、別段、問題にするには当らないが、どうかすると、そういう変人の中に、驚くべき予言が語られたり、達観が行われたりするもので、あらかじめ、そういう声を聞くと聞かないでは、国の興亡が定まることさえあるものだ。言う者に罪なし、聞く者以て
いまし
むるに足る。
 だが、それはそれとして、こんなところで、こんな人種から、東洋哲学を聞かせられて、これに充分の応答ができない、まして、逆に彼等にこれを説き教える素養を欠いている
おの
れというものを、駒井甚三郎が反省せざるを得ませんでした。
 日本に於ては、おこがましいが、自分は当時での最新知識であり、有数の学者と我も人も許していたのだ。それが、ややもすれば金椎
キンツイ
に虚を突かれたり――孤島の哲学者に逆説法を食ったりするのは、事が自分の研究の職域以外としても、光栄ある無識ではないのである。自分の
きわ
めているのは、今の哲学者の見るところによると、欧羅巴文明の糟粕
そうはく
かも知れない。かの糟粕を究めつつ、自家の醍醐味
だいごみ
も知らないということになると、いい笑い物だ。
 学問、研究、知識は、いよいよ広く、いよいよ大きい、この海洋のようなものだ、というような反省が駒井の心に波立ちました。
椰子林の巻 五十四
 その翌日、約束の通り、異人氏は駒井の植民地へやって来ました。これを迎えた駒井は、一応植民地を見せた上で、己れの舎宅へ案内して、ここで、椅子をすすめて相対坐しての会談です。この時に異人氏は次のように言いました、
「駒井さん、あなたの理想はよくわかります、地上に理想郷を作ろうという企ては、今に始まったことではないです、昔からよくあることです、欧羅巴では、哲学者プラトーなども、その理想の先達
せんだつ
の一人です、実行はしませんでしたけれど、プラトーは、その理想を持っていました、最近では、ロバート・オーエンという人が、それを実行しました、あなたと同じように同志を集めて、全く新しい一つの社会を作りました。プラトー氏は、ただ理想家だけでしたが、ロバート・オーエンは、徹底的に実行しました」
「そういう人が、最近、西洋にありましたか」
「ありました、ロバート・オーエンは、英吉利
イギリス
のウエールという所の山の中に生れた人です、子供の時は呉服屋の小僧などをして、それから成功して大きな紡績工場を持つようになりました、幼少から艱難
かんなん
をして、世の中を見たりして、どうしてもこれではいけない、ひとつ、模範の世界を作ってみるといって、自分の大工場を中心にして立派な模範の村を作り、一時、非常な評判になって、見に行く人が多くありましたが、上流の人、資本家の人が、オーエンの理想を好みませぬ、せっかくの理想が妨げられる、そこで、オーエンは、これは上流社会や資本家を相手にしていては駄目だ、働く人だけで自由な社会を作らなければならぬと言って、それには周囲のうるさい土地ではいけない、新しい天地で、さしさわりなく腕の
ふる
えるところでなければいけないといって、イギリスの自分の土地や工場を、すっかり売払って、アメリカへ渡りました、アメリカの、インデアナ州というところへ土地を買い、思いきって理想の社会を作ってみましたが、失敗してしまいました」
「もう少しくわしく、その人のことを話してみて下さい」
「いや、話せば長くなるです、およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって、失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も、事業も、その
てつ
を踏むにきまっています、失敗しますよ」
 異人氏は、駒井の事業慾に対して、三斗の冷水を注ぐようなことを言いました。せっかくのことに成功を祈るとは言わず、失敗が当然だということを言いました。聞きようによれば、不吉千万の言い分でありますけれど、駒井は深く気にかけません。
「失敗とか、成功とかいうことは、ただ仕事の成績だけ見て言うことじゃありませんよ、成功と信じても、ねっからツマらないこともあり、失敗だ、失敗だと言われることが、かえって大きな時代の推進力をつとめることもあるものだ、今のそのオーエンという人が、どういう失敗に終ったか知らないが、そういう勇気と実行力を持ち得る人は、尊敬すべきものだ、信ずることを、ドコまでもやってみようという勇気を私は取ります。オーエンは失敗したけれども、イギリスからアメリカに渡って、このアメリカの土台を築き上げた人は失敗ではないだろう、成敗を以て事を論ずるのは末だ」
「そうです、何が成功で、何が失敗かということは、見る人の批判だけではわかりません」
 異人氏は、深く議論をする気はなく、その辺で辞退しましたから、駒井甚三郎も、それを送って外へ出ました。
 過ぐる夜に、月影を踏んで歩いた砂浜のあたりを、異人氏を送りながら歩いて行く駒井甚三郎は、異人氏が、どうしてもこの島を立退かなければならないならば、古舟を修理なさらずとも、こちらのバッテイラを貸して上げようと言いますと、異人氏は、それを辞退して、それには及びません、舟は手慣れたのがよろしい、いかに小舟で大洋へ乗り出しても、決して覆ることはないものだ、舟には心配はない、心配がありとすれば、食糧と気候の変化だけのものだが、それは天に任せるより仕方がない、というようなことを言う。
 異人氏を程よきところまで見送ってから、駒井甚三郎は、また海岸を戻りながら、いろいろと考えさせられました。
 事実に於ては、自分たちが来たために、あの異人氏を追い出したことになるのだが、異人氏は追い出されると思ってはいない。新人
きた
れば旧人去るのは当然の理法だと考えている。またそれが自分の自由だと考えている。こちらは気の毒千万とも思うけれども、先方は現在の旅から次の旅に移るとしか考えていない。満足から満足に向ってあさり進むとしか考えていないようだ。
 のみならず、去り行く
おの
れの影を
かな
しまずして、盛んなる我等の新植民をむしろ哀れなりとしている。斯様
かよう
な事業は必ず失敗なりと断言して
はばか
らないところも、また一見識だと思いました。
 その一例として挙げてくれた、何といったかな、イギリスの、ロバート・オーエンと言ったかな、そういう人間の最近の失敗を述べたようだったが、くわしいことは聞きもらしたが、では、これからひとつそのオーエンなるものの伝記を研究してみよう。失敗とか、成功とかは論ぜず、トニカク空想を実行に移して、百折屈せざるの先例を見出すことは愉快と言わねばならぬ。イギリスという国が大きくなるのも、そういう人間を持ち得られるからだろうなどと、駒井がその時に考えました。

縦書き文庫5月読者読込ページ数

作品名作者pp*
1大菩薩峠中里介山9017
2ダブリンの人たちJ. ジョイス1209
3地獄変芥川龍之介955
4君主論マキャヴェリ639
5方法序説R. デカルト605
6坊っちゃん夏目漱石582
7自転車たび北米欧州
北アフリカ香港台湾
園内一佳445
8人間失格太宰治410
9こころ夏目漱石377
10山月記中島敦331
11春琴抄谷崎潤一郎287
as of 20220531 *読者の読込みページ数

「大菩薩峠」を読み直す(6)

小説の最直前、山科やましなの巻で、なぜ作者は神尾主膳をしてかつ小吉こきち(1802-1850)の「夢酔*独言」を延々引用して読ませたのか。主膳のモデルの原型にでもなっているのだろうか。駒井と小栗忠順、神尾と勝麟太郎の対立関係を比較してみるのも興味深い。 *勝小吉の号

山科の巻 六十一
 神尾主膳は相変らず、勝麟太郎
かつりんたろう
の父、夢酔道人の「夢酔独言」に読み
ふけ
っている。
 神尾をして、かくも一人の自叙伝に読み耽らしむる所以
ゆえん
のものは、かりに理由を挙げてみると、人間、自分で自分のことを書くというものは、容易に似て容易でない。第一、人間というやつは、自分で自分を知り過ぎるか、そうでなければ、知らな過ぎるものである。自分で自分を知り過ぎる奴は、自分を法外に軽蔑したり、そうでなければ自暴
やけ
に安売りをする。自分で自分を知らな過ぎる奴は、また途方もなく自分を買いかぶるか、そうでなければ鼻持ちもならないほど、自分を修飾したがる。
 よく世間には、偽らずに自分を写した、なんぞというけれど、眼の深い奴から
とく
と見定められた日には、みんなこの四つのほかを出でない――極度に自分を買いかぶっている奴と、無茶に自分を軽蔑したがる奴、それから自暴に自分の安売りをする奴と、イヤに自分をおめかしをする奴――自分で自分をうつすと、たいていはこの四つのいずれにか属するか、或いは四つのものがそれぞれ混入した悪臭のないという奴はないのが、このおやじに限って、どうやらこの四つを踏み越えているのが乙だ。あえて自分をエラがるわけでもないし、さりとて乞食にまで落ちても、落ち過ぎたとも思っていないようだ。自分を軽蔑しながら、軽蔑していない。おめかしをして見せるなんぞという気は、まず微塵もないと言ってよかろう。
 神尾のような人間から見ると、自分が、あらゆる不良のかたまりでありながら、人のアラには至って敏感な感覚にひっかかると、及第する奴はまず一人もない。大物ぶる奴、殿様ぶる奴、忠義ぶる奴、君子ぶる奴、志士ぶる奴、江戸っ子がる奴、通人めかす奴……神尾にあっては一たまりもない。新井白石の折焚柴
おりたくしば
を読ませても、藤田東湖の常陸帯
ひたちおび
を読ませても、神尾にとっては一笑の
しろ
でしかあるに過ぎないけれど、夢酔道人の「夢酔独言」ばっかりは、こいつ話せる! いずれにしても、神尾をして夢中に読み進ましめるだけの内容を備えていることは事実で、そうして読み進む文面を、順を
って複写してみると、あれからの勝のおやじの自叙伝が次のようになっている。
「ソレカラ、ダンダン行ッテ、大井川ガ九十六文川ニナッタカラ、問屋ヘ寄ッテ、水戸ノ急ギノ御用ダカラ、早ク通セト云ッタラ、早々人足ガ出テ、大切ダ、播磨様ダトヌカシテ、一人前払ッテオレハ蓮台
れんだい
デ越シ、荷物ハ人足ガ越シタガ、水上ニ四人並ンデ、水ヲヨケテ通シタガ、心持ガヨカッタ」

 勝麟太郎の親父――小吉ともいえば、左衛門太郎ともいう馬鹿者が、子供の時分から、
はし
にも棒にもかからない代物
しろもの
で、喧嘩をする、道楽をする、出奔をする、勘当を受ける、それもこれも、一度や二度のことではない。そのたわけ物語の書出しに、
「オレホドノ馬鹿ナ者ハ世ノ中ニモアンマリ有ルマイト思ウ
ゆえ
ニ、孫ヤ彦ノタメニ話シテ聞カセルガ、ヨク不法モノ、馬鹿モノノイマシメニ話シテ聞カセルガイイゼ」

と言っている通り、馬鹿も度外れの馬鹿になっている。しかし家は剣道で名うての男谷
おたに
の家、兄は日本一の男谷下総守信友であって、それに追従する腕を持っていたのだから、始末が悪い。
 最初の出奔は十四の時。乞食同様ではない、乞食そのものになりきって、海道筋をほうつき歩き、やっと江戸のわが家へのたりついたが、十九の年にまたぞろ出奔して、今度は前と違い、
「オレガ思ウニハ、コレカラハ、日本国ヲ歩イテ、何ゾアッタラ切死ヲシヨウト覚悟デ出タカラ、何モコワイコトハ無カッタ」

と、剣術道具を
にな
い、腹を
えて出て来て、宿役人を愚弄
ぐろう
する、お関所を狼狽
ろうばい
させる、大手を振って東海道をのして来て、水戸の播磨守の家来だと言って、大井川にかかるところまで読んで来たので、これからがその読みつぎになるのです。
「ソレカラ遠州ノ掛川ノ宿ヘ行ッタガ、昔、帯刀
たてわき
ヲ世話ヲシタコトヲ思イ出シタカラ、問屋ヘ行ッテ、雨ノ森ノ神主中村斎宮
いつき
マデ、水戸ノ御祈願ノコトデ行クカラ駕籠
かご
ヲ出セトイウト、直グニ駕籠ヲ出シテクレタカラ、乗ッテ、森ノ町トイウ秋葉街道ノ宿ヘ行ッタ、宿デ駕籠人足ニ聞イタラ、旦那ハ水戸ノ御使デ、中村様ヘ行カシャルト言ッタラ、一人カケ出シテ行キオッタガ、程ナク中村親子ガ迎エニ来タカラ、オレガ駕籠カラ顔ヲ出シタラ、帯刀ガキモヲツブシテ、ドウシテ来タト云イオルカラ、ウチヘ行ッテ
くわ
シク
はな
ソウトテ、帯刀ノ座敷ヘ通リテ、斎宮
いつき
ヘモ逢ッタガ、江戸ニテ帯刀ガ世話ニナッタコトヲ厚ク礼ヲ云イオル、ソレカラ江戸ノ様子ヲ話シテ、思イ出シタカラ逢イニ来タト云ッタラ、親子ガ
よろこ
ンデ、マズマズ悠々ト逗留シロトテ、座敷ヲ一間明ケテ、不自由ナク世話ヲシテクレタカラ、近所ノ剣術遣イヘ遣イニ行クヤラ、イロイロ好キナコトヲシテ遊ンデ居タガ、ソノウチ、弟子ガ四五人出来テ、毎日毎日、ケイコヲシテイタガ、所詮ココニ長ク居テモツマラヌ
ゆえ
、上方ヘ行コウト思ッタラ、長州萩ノ藩中ノ城一家馬トイウ修行者ガ来タカラ、試合ヲシテ、家馬ガ諸所歩イタトコロヲ書キ記シテイルウチ、家馬ガ不快デ六七日逗留ヲシタイトイウカラ、泊ッテイルウチハ立タレズ、イロイロト支度ヲシタラ、斎宮ハアル晩、色々異見ヲ云ッテクレテ、江戸ヘ帰レトイウカラ、最早決シテ江戸ヘハ帰ラレズ、此処
ここ
デ二度マデウチヲ出タ故、ソレハ
かたじけな
イガ聞カレヌト云ッタラ、ソンナラ、今暑イ盛リダカラ七月末マデ居ロトイウ故、世話ニモナッタカラ、振リ切ラレモ出来ヌカラ、向ウノ云ウ通リニシタラ、悦ンデナオナオ親切ニシテクレタ、毎日毎日、外村ノ若者ガ来テ、稽古ヲシテ、ソノ後デ、方々ヘ呼バレテ行ッタガ、着物ハ出来、金モ少シハ出来テ、日々入用ノモノハ、通帳
かよいちょう
ガ弟子ヨリヨコシテアルカラ、
ただ
買ッテ遣ウシ、困ルコトモナク、ソコヨリ七里脇ニ向坂トイウ所ニ、サキ坂浅二郎トイウガイルガ、江戸車坂井上伝兵衛ノ門人故、江戸ニテ稽古ヲシテヤッタモノ故、ソコヘ度々
たびたび
行ッテ泊ッタガ、所ノ代官故ニ工面モイイカラ、オレガコトハイロイロシテクレ、ソレ故ニウカウカトシテ七月三日迄、帯刀ノウチニ逗留シテイタガ、アル日江戸ヨリ石川瀬兵衛ガ、吉田ヘ来ル
ついで
ニ、今日ココヘヨルトイウカラ、座敷ノソウジヲシテイタラ、オレガ
おい
ノ新太郎ガ迎イニ来オッタカラ、ソレカラ仕方無シニ逢ッタラ、オマエノ迎エニ外ノ者ヲヤッタラ、切リチラシテ帰ルマイト、相談ノ上、ワタシガ来タカラ、是非共、江戸ヘ帰ルニシタ」

 ここのところ、「帰るにした」と切ったところ、文章が少し変だと神尾も感じたが、文章字句の変なのは、ここにはじまったのではない。別段、文章家の文章というわけではないから神尾も深く気にしないで、いよいよ先生、また江戸へ逆戻りかな、しかしまあ旅先では、よくこんな馬鹿を人が相手にして、ちやほやともてなしたものだ、田舎
いなか
は人気がいいと、神尾がうすら笑いをしながらも、馬鹿とは言いながら、腕は持つべきものだ、本場で本当に鍛えた腕前があればこそ、田舎廻りは牛刀で鶏の気構えで歩ける、この点、江戸ッ子は江戸ッ子だ、そうなくてはならぬと、更に読みつづけて行く。
「翌日、斎宮
いつき
ヲ立ッテ、段々帰ルウチ、三島ノ宿
しゅく
デ甥ガ気絶シテ大騒ギヲヤッタガ、気ガツイテ、ソレカラ通シ駕籠デ江戸ヘ帰ッタガ、親父モ、兄モ、ナンニモ云ワヌ故、少シ安心シテウチヘ行ッタ、翌日、兄ガ呼ビニヨコシタカラ行ッタラ、イロイロ馳走ヲシタ、夕方、親父ガ隠宅カラ呼ビニ来タカラ行ッタラ、親父ガ云ウニハ、オノレハ度々不埒
ふらち
ガアルカラ、先ズ当分ハヒッソクシテ、始終ノ身ノ思案ヲシロ、所詮、直グニハ了簡ガツクモノデハナイカラ、一両年考エテ身ノ納マリヲスルガイイ、トカク、人ハ学問ガナクテハナラヌカラ、ヨク本デモ見ルガイイト云ウカラウチヘ帰ッタラ、座敷ヘ三畳ノ
おり
ヲコシラエテ置イテ、オレヲブチ込ンダ」

 ざまあ見ろ! と神尾が
つくえ
を打ちました。とうとう檻へブチこまれやがった、狂犬同様のやつだから是非もないが、三畳ではかわいそうだと、神尾主膳が小吉の身の上を笑止がって読みつづける。
「ソレカラ色々工夫ヲシテ、一月モタタヌウチ、檻ノ柱ヲ二本抜ケルヨウニシテ置イタガ、ヨクヨク考エタトコロガ、皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタカラ、檻ノ中デ手習ヲハジメテ、ソレカライロイロ軍書本モ毎日見タ、友達ガ尋ネテ来ルカラ、檻ノソバヘ呼ンデ、世間ノコトヲ聞イテ
たの
シンデ居タラ、二十一ノ秋カラ二十四ノ冬マデ檻ノ中ヘ入ッテイタガ、苦シカッタ」

 野郎とうとう監獄だ。三畳の檻も広くはないが、二十一から二十四までも短くない、苦しかったはずだ。おれもかなりしたい三昧
ざんまい
はしたが、まだ檻へブチ込まれた経験はない。でも、この野郎、ドコまでものんき千万に出来上っている。皆ンナオレガ悪イカラ起ッタコトダト気ガツイタ……も出来がいい。オレガ悪くないところがどこにある。二十一づらを下げて三畳の檻の中で手習ヲハジメたとはこれだけは感心だ。この神尾も、この歳になってはじめて手習をはじめている――友達がたずねて来たのを、熊の子じゃあるまいし、檻の内と外で、世間話を聞いて頼シンデいたがイイ。この場合楽しんでと書くより、頼シンデと書いた方が気分が出ている。それにしても、二十一から四までの三畳生活、身から出た
さび
とは言いながら、よく辛抱したものだ、おれにはそんな辛抱はできない、と神尾が思いました。
「ソノウチ、親父ヨリ度々書取リニシテ、イケンヲ云ッテクレタ、ソノ時、隠居ヲシテ、息子ガ三ツニナルカラ家督ヲヤリタイトイッタラ、ソレハ悪イ了簡
りょうけん
ダ……」

 悪イ了簡ではない、図々しいというものだ、と神尾が
あき
れました。檻へブチこまれたとはいえ、乱心しているわけでもなし、身体不具というわけでもない。二十四の盛りで、三ツの
せがれ
に家督を譲りたい、それは悪い了簡以上の図々しさだと、主膳が呆れて次を読むと、
「コレマデイロイロノ不埒ガアッタカラ、一度ハ御奉公デモシテ世間ノ人口ヲモ塞ギ、養家ヘモ孝養ヲモシテ、ソノ上ニテ好キニシロト、親父ガ云ッテヨコシタカラ、
もっと
モノコトダト初メテ気ガ附イタ故……」

 それ見ろ、それは親父の言うことがあたりまえの看板だ。それを今更になって、初めて尤ものことと気がついたもないものだ。
「出勤ガシタイト兄ヘ云ッタラ、手前ガ手段デ、勤道具、衣服モ出来ルナラ、勝手ニシロ、オレハ、イカイコト手前ニハイリ上ゲタ故、今度ハ構ワヌトイッタ故、ソノ時ハオレガホホノ下ニハレ物ガ出テイテ寝テ居タガ、少シモ苦労ヲカケマイトイウ書附ヲ出シテ、檻ヲ出デ――」

 出たな! なんとかかとか言って出してもらったな、これからがまた思いやられるよ――と神尾は苦笑をつづけつつ読む。
「翌日、拝領屋敷ヘ行ッテ、家主ヘ談ジテ金子
きんす
二十両借リ出シテイロイロ入用ノモノヲ残ラズ
こしら
エテ、十日目ニ出勤シタ。
ソレカラ毎日毎日、上下
かみしも
ヲ着テ、諸所ノケンカヲ頼ンデ歩イタガ、ソノ時、
かしら
ガ大久保上野介ト云イシガ、赤阪喰違外
くいちがいそと
ダガ、毎日毎日行ツテ御番入リヲセメタ、ソレカラ、以前ヨリイヨイヨ悪イコトヲシタコトヲ残ラズ書取ッテ、只今ハ改心シタカラ見出シテクレロト云ッタラ、取扱ガ来テ、御支配ヨリオンミツヲ以テ、世間ヲ聞糺
ききただ
スカラ、ソノ心得ニテ居ロトイウカラ、待ッテ居タラ、頭ガ、或時云ウニハ、配下ノ者ハイツモ隠スガ、御自分ハ残ラズ行路ヲ申聞ケタ故、諸所聞キ合ワセタ所ガ、云ワレタヨリハ事大キイ、シカシ改心シテ満足ダ、是非見立テヤルベシ、精勤シロトイウカラ、出精シテ、アイニハ稽古ヲシテイタガ、度々書上
かきあげ
ニモナッタガ、トカク心願ガ出来ヌカラクヤシカッタ――」

 まあ、とにかく、この辺で納まれば見つけたものだ、
はし
にも棒にもかからぬ代物
しろもの
だが、人間にはまだ見どころがある、この神尾のように腹まで腐りきってはいないところがあると、主膳も身に引きくらべてややさとるところがありました。
山科の巻 六十二
 ここで勝の小吉が親父と言ったのは、実家男谷
おたに
の父親のことで、平蔵と言い、兄というのは即ち下総守信友で、当時府下第一の剣客なので、その男谷平蔵の三男として生れた小吉が、勝家へ養子にやられたこの自叙伝の主人公、左衛門太郎夢酔入道であることは、神尾主膳も先刻承知の上で読み進んでいるのです。さすがのやくざ者も、この時代から
ようや
く目がさめて、人間並みになりかかったらしいことを、読みながら、神尾主膳は相当くすぐったがっている。さてまた自叙伝の読みつぎ――
「コノ年、親父ヤ兄ニ云イ立テテ、外宅ヲシテ割下水
わりげすい
天野右京トイッタ人ノ地面ヲ借リテ、今迄ノ家ヲ引イタガ、ソノ時、居所ニ困ッタカラ、天野ノ二階ヲ借リテイタウチニ、
にわか
ニ右京ガ大病ニテ死ンダ故、イロイロト世話ヲシタガ、ソノウチ普請モ出来、新宅ヘ移リ居ルト、右京方ニテハ跡取ガ二歳故、本家ノ天野岩蔵トイウ仁ガ、久来ノ意趣ニテ、家督願ノ時
ツカシク云イ出シテ、右京ノ家ヲツブサントシタカラ、イロイロ
メテ片附カズ、ソノ時、オレガ本家トハ心安イカライロイロナダメ、トウトウ家督ニサセタ故、天野ノ親類ガ
よろこ
ンデ、猶々
なおなお
アトノコトヲ頼ミオッタカラ、世話ヲシテイルウチ、右京ノオフクロガ不行跡デ、ヤタラニ男グルイヲシテ、フダンソウドウシテ困ルカラ、セッカク普請ヲシタガ、ソノ家ヲ売ッテ外ヘ越ソウト思ッテ、右京ノ子金次郎ガ頭向キヘ云イ出シタラ、ソノ取扱ガ云ウニハ、今オ前ニ行カレルト、アトハ乱脈ニナルカラ、一両年居テクレロト云ウカラ居タガ、人ノコトハ修メテモ、オレガ内ガ修マラヌカラ困ッテイタラ、或老人ガ教エテクレタガ、世ノ中ハ恩ヲ
あだ
デ返スガ世間人ノ習イダガ、オマエハコレカラ怨ヲ恩デ返シテミロト云ッタカラ、ソノ通リニシタラ追々内モ治マッテ、ヤカマシイババア殿モ、段々オレヲヨクシテクレタシ、世間ノ人モ用イテクレルカラ、ソレカラ、人ノ出来ヌ六ツカシイ相談事、カケ合イソノ外何事ニ限ラズ、手前ノ事ノヨウニ思ッテシタガ、シマイニハ、オレニ刃向ッタヤツラガ、段々シタガッテ来テ、ハイハイト云イ居ル、コレモカノ老人ガ賜物トシ嬉シク……」

 ここまで来ると神尾は少し耳――ではない、眼が痛い。勝のおやじの馬鹿め、この辺で、そろそろ一転機を劃し出したな、重大な転向ぶりを示して来たようだ、おれは幾つになっても、その転換ができない――笑止千万と三ツ眼をひらめかす。さて、転向の角度から見ると、やくざ者の自叙伝が、どうやら修身書の第一巻のような気分が漂いはじめたので、神尾の三ツ眼が少々まぶしくなるのもぜひがないらしい。
「同流ノ剣術遣イガ、不埒又ハツカイ込ミシテ途方ニ暮レテイル者ハ、ソレゾレ少シズツ金ヲ持タセテ諸方ヘ遣ワシ、身ノ安全ヲシテヤッタコト幾人カ数モ知レズ、ソノ後オレガ諸国ヘ行ッタ時、イカイコトトクニナッタ事ガアル、歩イタトコロデ、オレガ名ヲ知ッテイテ世話ヲシタッケ」

 まあ、ともかく、自分が人に苦労をかけただけに、人のために一肌ぬぐことも鼻にかからない俗に侠気
おとこぎ
というやつで、これが妙に人気を取返し、期せずして恩返しというやつにありつくものだ。この点は、おれも相当、人のために――といっても、いずれも人間並みの奴ではない、やくざ共の間のことだが、それでも相当に今日まで身銭
みぜに
を切っているから、今日のたれ死もしないで、トモカクこうして永らえてもいられる、ということを神尾主膳も、身につまされて、どうやら、自分もいっぱしの苦労人のような気分になりつつ読む。
「天野ガ地面ニイルウチモ、トカク地主ノ後家ガコトデ、六ツカシイコトバカリ云ッテ困ッタカラ、三年メニ同町ノ山口鉄五郎ガ地面ヘ家作ガ有ルカラ引越シタガ、コノ鉄五郎ガ惣領ハ元ヨリ心易
こころやす
カッタガ、イロイロウチヲカブッタ時ニ世話ヲ焼イテヤッタ故、ソノバア様ガゼヒ地面ヘ来イトイウカラ行ッタ、コノ年勤メノ外ニハ諸道具ノ売買ヲシテ内職ニシタガ、初メハ損バカリシテ居ルウチ、段々慣レテ来テ金ヲ取ッタ、ハジメハ一月半バカリノウチニ五六十両損ヲシタガ、毎晩毎晩、道具屋ノ市ニ出タカラ、随分トクガ附イタ、何シロ、早ク御勤入リヲシヨウト思ッタ故、方々カセイデ歩イテイタウチニ――」

 神尾がニタリと笑って、天野の後家という奴が曲者だな、若後家になって、男ぐるいをはじめて、相当小吉をてこずらしたように書いてあるが、小吉の奴も相当のイカモノのくせに、こいつをこなせなかったというのはないもんだ、だが相性が違ったんだろう。ところで、今度は近所のばばア様から来いと言われて、そっちへ引越したのは、後家であったり、ばばア様であったりするが、妙に女臭い。そのうちに道具屋をはじめたのは勘所
かんどころ
だ。人間、遊び出してきて
かお
が広くなると、ばったり行きつまるのは水の手だ。その手で、この神尾もどのくらい苦労したことか。男になるには金がいる、金のなる木を持っていない限り、ちっとやそっとの知行と財産があったからとて、続くものではない。その点は自給自足の道が立たない限り、伊達者
だてしゃ
は通らぬ。おれもその手で苦しんだ、だが、道具屋をはじめようとは思わなかった。ところが、こいつは手軽に道具屋をおっぱじめて、くろうとはだしの取引を平気でやり出すだけの身軽さがある、この辺が小身
しょうしん
に生れた利益だ。道具屋とはうまいことを考えたが、つまり骨董屋
こっとうや
なんだろう、掘出し物では相当まとまった金も
もう
けられない限りはない。最初のうち損をしたというのも、そうありそうなこと、ようやく本職になって収入が出て来たとは憎い、おれも早くその辺に気がついて道具屋になればよかったな。先祖から伝来のものだけでも売食いしても相当のものはあったが、商売気がないから、みんな質流れか、或いは二束三文。あれをもとに道具屋開業――なぜあの時それだけの知恵が出なかったか。トニカク勝のおやじめ、商売の筋を覚えたとなると、もう占めたものだ。が、商売というやつは儲かることばかりあるんじゃない、いつまでこの手で兵糧がつづくかな。待てよ、そこで、商売どころではない、あいつの身に重大な不幸が起ったらしいぞ。
「男谷ノ親父ガ死ンダカラ、ガッカリトシテ、何モイヤニナッタ」

 親父が死んだそうな。死んだ親父もこいつのためにはどのくらい苦労をしたか、死んで、
せがれ
の方ではガッカリシタの一句で片づけているが、相当に無常を感じたことは、何モイヤニナッタの自暴
やけ
半分の言葉つきでもわかる。何の病気で、どうして親父が急死したか。
「シカモ卒中風トカデ一日ノウチニ死ンダカラ、ソノ時ハオレハ真崎イナリヘ出稽古ヲシテヤリニ行ッテイタカラ、ウチノ小侍ガ迎イニ来タカラ、一散ニカケテ親父ノトコロヘ行ッタガ、最早コトガ切レタ、ソレカライロイロ世話ヲシテ翌日帰ッタ、毎日ソノ事ニカカッテ居タ、息子ガ五ツノ時ダ、ソレカラ忌命ガ明イタカラ又々カセイダ」

 親父の死んだ時、自分の倅が五歳になっていた。この五歳になっていた倅が、今時評判になっている勝麟
かつりん
なのだ。さ、いつごろ安房守
あわのかみ
に叙爵したっけかな――トニカク、
とび

たか
を産んだのか、いや、この親にしてこの子ありか、人間の万事はわからぬものだ、と神尾が思いました。
山科の巻 六十三
 さあ、今までの不良が、多少とも改心をして、これから
かお
が少し広くなり出すと、感心に道具屋を始めてアウタルキーを志したのはいいが、士族の道具屋が、いつまで続くものかなあ――と神尾が甘酸
あまず
っぱい面をしながら読んで行く。
「コノ年十月、本所猿江ニ、摩利支天
まりしてん
ノ神主ニ吉田兵庫トイウ者ガアッタガ、友達ガ大勢コノ弟子ニナッテ神道ヲシタ、オレニモ弟子ニナレトイウカラ、行ッテ心易
こころやす
クナッタラ、兵庫ガイウニハ、勝様ハ世間ヲ広クナサルカラ、私ノ
やしろ
ヘ、
日講
ひこう
トイウノヲ
こしら
エテ下サイマセ、ト頼ンダカラ、一カ月三文三合ノ加入ヲスル人ヲ拵エタガ、剣術遣イハイウニ及バズ、町人百姓マデ入レタラ、二三カ月ノ中ニ、尚五六十人バカリ出来タカラ、名前ヲ持ッテ、兵庫ニヤッタラ、悦ンデ受取ッタ、ソレカラ一年半カカッタラ、五六百人ニナッタ、全クオレガ御陰ダカラ当年ハ十月亥ノ日ニ、神前ニテ十二座ノ跡デ踊リヲ催シテ神イサメヲシタイトテ頼ムカラ、
ズ講中ノ世話人ヲ三十八人拵エタ、諸所ヘ触レテ、当日参詣ヲシテクレロト云ッテヤリ、ソノ日ニハ皆々見聞ノタメダカラ、世話人ハ残ラズ、御紋服ヲ着テクレロトイウカラ、ソノ通リニシテヤッタラ、兵庫ハ装束ヲ着テ居タ、段々参詣モ多ク、初メテコノヨウナ
にぎ
ヤカナコトハナイトテ、前町ヘハイロイロ商人ガ出テ居タ、ソレカラ講中ガ段々来ルト、酒肴デ、アトデ膳ヲ出シテ振舞ッテ居ルト、兵庫メガ、イツカ酒ニ酔ッテ居オッテ、西久保デ百万石モ持ッタツモリヲシ、オレガ友達ノ宮川鉄次郎ト云ウニ、太平楽ヲヌカシテコキ遣ウ故、オレガオコッテ、ヤカマシク云ッタラ不法ノ挨拶ヲシオル故、中途デオレガ友達ヲ皆ンナ連レテ帰ッタ、ソウスルト多クノ者ガツカイヲ云ッテアヤマルカラ、オレガ云ウニハ、ヒッキョウハコノ講中ハ、オレガ骨折故出来タヲ有難クハ思ワナイデ、太平楽ヲヌカスハ物ヲ知ラヌ奴ダカラ、講中ヲバ抜ケルカラ、ソウ云ッテクレロト云ウタラ、大頭伊兵衛、橋本庄兵衛、最上幾五郎トイウ友達ガ、
もっと
モダガ、セッカク出来タノニオ前ガ断ワルト、皆々断ワル
ゆえ
、兵庫今更後悔シテアヤマルカラ、許シテヤレト種々イウカラ、ソンナラ以来ハ御旗本様ヘ対シ、慮外致スマイト云ウ書附ヲ出セトイッタラ、ドノ様ニモサセルカラト云ウ故、宮川並ビニ深津金次郎トイウ者ト一所ニ兵庫ノトコロヘ行ッタ、ソウスルト、大頭伊兵衛ガ道マデ来テ云ウニハ、オマエガオ入リニハ、兵庫ハカリ
ぎぬ
ヲ着テ門マデオ迎エニ出ル、ソレカラ座敷ヘ出ロ、昨日ノ不調法ヲワビサセルカラ挨拶ヲシテヤレト云ウカラ、聞届ケタトイエ、ソレカラハ講中ガ残ラズ出テ馳走ヲスルカラ、アトデハ決シテ右ノ
はなし
ハシテクレルナトイウカラ、オレガ云ウニハ、残ラズ承知シタガ、外ノ者ヘヨクヨク口留メヲシナサイ、モシモ昨日ノ咄ヲシタヤツガ有ルソノ時ハ、世話人ガウソツキニナルカラ、片ハシヨリ切ッテ仕舞ウツモリデ来タカラ、ヨク云イ聞カシテ置キナサルガイイトテ、イジョウヲコメテ帰シタ、間モナク兵庫ガ宅ヘ行ッタラ、同人ガ迎エニ出ルシ、世話人モ残ラズ玄関マデ出タガ、座敷ノ正面ヘ通ッタラ、刀カケニオレガ刀ヲカケテ、皆々座ニツイタ、兵庫モ出テ、オレニ昨日ハ酒興ノ上無礼ノ段々恐レ入ッタリ、以来慎シミ申スベキ由、平伏シテ云イオルカラ、オレガイウニハ、足下ハ裏店神主
うらだなかんぬし
ナル故、何事モ知ラヌト見エル、御旗本ヘ対シテ不礼言語同断ノ故
とが
メシナリ、講中漸々
ようよう
広クナラントスル時ニ、最早心ニ
おご
リヲ生ジタ故、右ノ如ク不礼アリ、随分慎ンデ取続ク様ニトテ、ソレカラ一同ガオレニイロイロ機ゲンヲ取リテモテナシタガ、酒ガキライ故ニ、人々酔ッテ騒グヲ見テイタラ、兵庫ノ
おい
ニ大竹源二郎トイウ仁ガ有リ、オレガ裏店神主ト云ッタヲ聞キオッテ腹ヲ立テ、キノウノシマツヲ、宮川ヲダマシテ聞キオリ、小吉ハイラヌ世話ヲ焼ク、宮川ノコトデ、伯父
おじ
ニ大勢ノ中デ恥ヲカカシオッタ、是カラオレガ相手ダ、サア小吉出ロ、トイッテソノ身御紋服ヲ着ナガラ、鉢巻ヲシテ、片肌ヌギデ座敷ヘ来ル故ニ、知ラヌ顔シテ居タラ、直ニオレガ向ウヘ立ッテジタバタシオルカラ、オレガイウニハ、大竹ハ気ガ違ウタソウダ、雑人
ぞうにん
ノ喧嘩ヲミタヨウニ、鉢巻トハ何ノコトダ、武士ハ武士ラシクスルガイイ、此方
こっち
ハ侍ダカラ中間
ちゅうげん小者
こもの
ノヨウナコトハ嫌イダト云ッタラ、フトイ奴ダトテ吸物膳ヲ打附
ぶっつ
ケタカラ、オレガソバノ刀ヲ取ッテ立上リ、契約ヲ違エテ、タワ言ヲヌカスハ兵庫ガ行届カザルカラダ、甥ガ手向ウカラハ云イ合ワセタニチガイナイカラ、望ミ通リ相手ニナッテヤロウト云ッタラ、大竹ガクソヲ
くら
エトヌカシタカラ、大竹ヨリ先ヘツキハナシテ出ヨウト思イ、追ッカケタラ、皆ンナガ逃ゲ出シタ、ソレカラ兵庫ガ勝手ノ方ヘ大竹モ逃ゲタカラ追イ行クト、折ワルク兵庫ガ納戸
なんど
ヘオレガ入ッタラ、大勢ニテ杉戸ヲ入レテ押エテ居ルカラ、出ルコトガ出来ヌ、大竹ハ恐レテ丸腰デ、ウヌガ屋敷ノ伊予殿橋マデ帰ッタガ、ソレカラ大勢ガ杉戸口ヘ来テ、イロイロニ云ウカラ、許シテヤッタラ、大竹ト和ボクシテクレト云イオルカラ、大竹ガ不礼ノコトヲトガメタシ、色々アツカイガハイッテ、特ニハ大竹ガオフクロガ泣イテ
ビルカラ、伊予殿橋ヘ呼ビニヤッテ、源太郎ガ来タカラ、段々酒酔ノ上、恐レ入ッタトテ、殊更相支配ユエニ、何卒
なにとぞ
御支配ヘハ話ヲシテクレルナトテ、和ボクヲシタ、ソレカラ酒ガ又出テ、大竹が云ウニハ一パイ飲メトイウカラ、酒ハ一向呑メヌトイッタラ、ソレハマダ打チトケヌカラダトヌカス故、
さかずき
ヲヨウヨウ取ッタラ、吸物椀デ呑メト皆ンナガ云ウ、カンシャクニサワッタカラ、吸物椀デ一パイ呑ンダラ大勢ヨッテ、今一パイトヌカスカラ、ソレカラツヅケテ十三杯呑ンダ、後ノヤツラハ呑ンデイロイロ不作法ヲシタカラ、オレハソノ席デ少シモ間違ッタコトハシナカッタ、兵庫ガ駕籠
かご
ヲ出シタカラ、乗ッテ橋本庄右衛門ガ林町ノウチマデ来タガ、ソレカラ何モ知ラナカッタ、ウチヘ帰ッテモ三日ホドハ咽喉
のど

レテ、飯ガ食エナカッタ、翌日皆ンナガ尋ネテ来テ、兵庫ガウチノ様子ヲイロイロ話シテ、ソノ時、橋本ト深津ハ後ヘ残ッテ居テ、以来ハ親類同様ニシテクレトイウテカラ、両人ガ起請文
きしょうもん
ヲ壱通ズツヨコシタ、ソレカラ猶々
なおなお
本所中ガ従ッタヨ、兵庫ガ脳ガ悪イカラ、講中モ断ワッテヤッタ、ソノ時オレガ加入シタ分ハ、残ラズ断ワッタ故、段々スクナクナッテツブレタヨ」

 なんだ、くだらない、こんな奴に講中を頼む神主も神主だが、檀那
だんな
ぶりをして、満座の中で裏店神主はヒドイ、こいつは甥なるものがオコルのが当然だ、全く
らち
もない奴等だが、さて、こうなってみると酒が飲みたいな、吸物椀で一ぱい、ぐうーっとやりたいな。
 飲める奴なら吸物椀で十三杯も、さして驚くには当らないが、てんで呑まない奴が十三杯は
いたろう。こうなるとおれも、生きのいいやつを、塗りのあざやかな吸物椀でグイグイ引っかけたくなったよ、と神尾主膳が一応、書巻を伏せて、咽喉をグイグイと鳴らしました。
山科の巻 六十四
 咽喉をグイグイと鳴らしたけれど、いずれを見ても酒はなし、吸物椀もないし、咽喉を鳴らし、
を飲みながら、またも書物を取り上げたのは、一つは所在なさと、一つは書物に対する興味、いわゆる巻を
くに忍びずというやつであろうかと思われること。
 その途端、
「チワ――これはこれは、御書見の
てい
、小人閑居して不善を
し、大人静坐して万巻の書、というところでげすか、いや、恐れ入ったものでげす」
 いやはや、イケ好かない奴が来たもので、例の
びた
であります。
「鐚か――一ぱい飲みたいと思っていたところだ」
「イケません、せっかく聖賢の書をひもといて善良な感化に落着きあそばそうというその途端に、酒というやつが悪魔! そもそも、和漢をいわず酒を賞すること勝計すべからず、放蕩
ほうとう

なかだち
、万悪の源、時珍が本草ことごとく能毒を挙げましたが、酒は百薬の長なりと
めて置いて、多く
くら
えば
こん
を断ったと言いましたぜ」
「えらく貴様、今日に限って学者ぶるな」
「ちっとばかり学問をして参りやした、時にごらんあそばす聖賢の書はいったい何でござりますな、大学でげすか、論語でげすか。君子に三ツの戒めあり、少之時
わかきとき
は血気
いま
だ定まらず、戒しむること色にありス、酒に次いでは色の方をつつしまずんばあるべからず」
「この野郎!」
「この野郎は怖れやす、殿様ともあろうお方のお言葉とも覚えやせん。さて、鐚儀
びたぎ
、今日の推参の次第と申しまするは、決して色の酒のと野暮
やぼ
諫言立
かんげんだ
てのためにあらず――近来稀れなる風流の御相談を兼ねて参じやした」
「風流――風通
ふうつう
の間違いだろう、風通の一枚もこしらえたいが、銭がねえというところだろう」
 主膳も、いささかアクドイ応酬を致しましたが、鐚に於ては洒唖乎
しゃああ
たるもので、
「どう致しやして、衣食足って礼節を知る、古人はいいところを言いやした、鐚儀が不肖ながら食物は今朝アブ玉で、とんとお腹いっぱいこしらえて参じやした、食の方は事足りて余りあり、衣の方に於きましては、これごらんあそばせ、上着が空色の熨斗目
のしめ
で日暮方という代物
しろもの
、昼時分という鳶八丈
とびはちじょう
の取合せが乙じゃあございませんか。それにこれ下着が羊羹色
ようかんいろ
の黒竜門、ゆきたけの不揃
ふぞろ
いなところが自慢でげして、下がこうごうぎと長くて、上へ参るにつれてだんだんに短く、上着は五寸も詰った、もえるのツンツルテン、舶来飛切りでげすよ、羽織がこれ萌黄
もえぎ
紋綾子
もんりんず
で、肩のあたりが少々
きた
っておりまする」
「うむ、なるほど、田舎の貧乏医者という衣裳づけだ、熨斗目が利いているよ」
「かくの通り、衣食足って礼節は、本来ビタの
にあることなんでげす、現に殿様の御身の上の栄枯盛衰にかかわらず、かくまで忠義の志をかえぬことによって充分に御賢察が願いたい――衣も足り、食も足り、懐ろ工合の方も、当節は異人館出入りのために外貨獲得てやつが成功いたしやして、至極豊かでござりやす、かくて最後に
きた
るものが風流――その風流の御相談に参じやした」
「まあ、言ってみろ」

せつ
のお出入りの旦那に三一小僧
さんぴんこぞう
というのがござりやして、その旦那が近頃、和歌に凝り出したと思召
おぼしめ
せ」
「和歌――歌だな」
「いわゆる、みそひともじなんでげす。その旦那が次のような歌をお
みになりまして、鐚、どんなもんだ、点をしてくれろとおっしゃる、内心ドキリと参りましたね、実のところ、鐚も十有五にして遊里にはまり、三十にして身代をつぶした功の者でげして、その
かん
、声色、物まね、潮来
いたこ
、新内、何でもござれ、悪食
あくじき
にかけちゃあ相当なんでげすが、まだ、みそひともじは食べつけねえんでげすが、そこはそれ! 天性の厚化粧、別誂
べつあつら
いの
つら
の皮でげすから、さりげなくその短冊を拝見の、こう、首を少々横に
ひね
りましてな、いささか平貞盛とおいでなすってからに、これはこの新古今述懐の――むにゃむにゃと申して、お見事、お見事、ことに第五の句のところが何とも言えません、と申し上げたところが、ことごとく旦那の御機嫌にかなって、錦水を一席おごっていただきやしたが、実のところ、鐚には歌もヌタもごっちゃでげして、何が何やらわからねえんでげす、後日に至りやして、三一旦那から再度の御吟味を仰せつかった時にテレてしまいますでな、どうか、その御解釈のところを篤と胸に畳んで置きてえんでございます。これがその三一旦那から頂戴に及んだ短冊でげして」
「そうか、貴様が贔屓
ひいき
になる三一旦那というのが和歌を詠んで、貴様に見せた、和歌の和の字も知らない貴様も、旦那のものだから無性に
めて置いたが、中身は何だか一向わからん、それで後日糺問
きゅうもん
されると困るから、一応おれに見て講義をして置いてくれというわけだな」
「まさに仰せの通り――鐚儀、お弟子入り、お弟子入り」
「どれ見せろ」
と神尾主膳が、鐚の手から短冊を受取って、それを上から読みおろしてみると、
かながはで、蒸気の船に打乗りて、
 一升さげて、南面して行く

「何だ、これは」
 神尾が、
はばはだ
しく不興な面をして、短冊をポンと
ほう
り出したものですから、鐚があわててこれを拾い上げて後生大切に袖で持ち、
「めっそうな! 大尽
だいじん
のお墨附! めっそうな」
 仰々しく取り上げて、恨み面にじっと主膳の面を見上げていると、
「貴様の贔屓を受けている三一旦那とやらは、いったい何者だ!」
 主膳が、怒鳴りつけるように一喝
いっかつ
したその調子が変ですから、鐚があわてて、逃げ腰になりました。
「三一旦那、当時舶来、エレキ屋の三一旦那! 大したもんでげす、商業界きってのお大尽でげす」
「貴様にとっちゃ旦那かお大尽か知らないが、その歌のザマは何だ、そんなものが、人に見せられるか、人を愚弄
ぐろう
するにも程のあったもんだ」
「イケやせんか、なっとりゃせんか、和歌の法則から申しますと」
「馬鹿、和歌も詩歌もあるものか、そんなものを、よく人中へ出したもんだ、こっちへよこせ、
みくちゃにして火鉢にくべてやる」
「じょ、じょうだんでげしょう、ドル旦のお大尽のお墨附! 愚拙が家の家宝――何とあそばします」
 神尾の余憤は容易に去らない。冗談にしろ、和歌を持って来たから直してくれとか、評をしてくれとかいうことになると、なあに、この野郎がもたらすものだと軽蔑しながらも、その風流のやや向上気味なるを取らないでもないが、もたらしたその三一旦那
さんぴんだんな
の歌というやつが、茶漬にもならない代物
しろもの
だから、主膳もおのずから不興になったので、その不興が相当真剣になっているので、
びた
も多少怖れている。
「そりゃ、あなた、お大尽と申しやしたところで、根が町家の商人のことでげすから、高家
こうけ
歌よみ家のようなわけには参りません、町人のお大尽でも、このくらいの風流があるというところも買っていただかなけりゃ。あなた、三一旦那は定家卿
ていかきょう
でも、飛鳥井大納言
あすかいだいなごん
でもございません、そう、殿様のように頭からケシ飛ばしてしまっては、風流というものが成り立ちません、第一、初心のはげみになりませんから、何とか一つ、そこは花を持たせていただきてえもんでござんして」
「黙れ黙れ! 言語道断の代物だ――笑って済むだけならまだいいが、見て嘔吐
へど
が出る、ことに、第五句のところ……」
「そこでげす!」
「そこが、どうした」
「鐚がそこを
めやしたところが、ことごとくお大尽のお気にかないました」
「馬鹿野郎!」
「これは重ね重ねお手厳しい、そういちいち、馬鹿の、はっつけのと、あくたいずくめにおっしゃっては、風流が泣くではございませんか、第一殿様の御人体
ごにんてい
にかかわります、お静かにおっしゃっていただきてえ」
「その第五句の南面という言葉がはなはだ穏かでない、町人風情のかりそめにも用うべからざる語だ」
「へえそんなたいそうな文句を引張り出したんでげすか」
「南面というのは天子に限るのだ、この文句で見ると、三一旦那なるものは、何か蒸気船に乗って南の方へでも出て行く門出のつもりで、こいつを
うな
り出したものだろうが、南面して行くとは、フザケた言い方だ、勿体ないホザき方だ――ただ笑うだけでは済まされない、不敬な奴だ!」
「へえ――大変なことになりましたな」
「これ、ここへ出ろ、鐚、おれはこう見えても――物の分際ということにはやかましい、
せても枯れても神尾主膳は神尾主膳だ、鐚は鐚助――三一風情がドコへ行こうと、こっちは知ったことではないが、南面して行くとホザいたその僭越が憎い! おれは忠義道徳を看板にするのは嫌いだが、身知らずの成上り者めには癇癪が破裂する、よこせ!」
と言って神尾主膳は、鐚の油断している手から大事の短冊をもぎ取って、寸々
ずたずた
に引裂いて火鉢の中へくべてしまい、
「あっ!」
と驚いて、我知らず火鉢の中をのぞき込む鐚の横っ面を、イヤというほど、
「ピシャリ」
「あっ!」
 鐚助、みるみる
れ上る頬っぺたを押えて、横っ飛びに飛んで玄関から走り出しました。
山科の巻 六十五
 ビタをハリ飛ばしておいてからの神尾主膳は、その足で台所へ行って、膳棚の上から備前徳利を一つ取り下ろして振り試みると、まだカタコトと若干の音がする。それをそのまま
げて、次に相馬焼の癖直しの湯呑のようなのを取り下ろし、再び以前の書斎へ戻ってホッと一息つき、その備前徳利から、ちょうど相馬焼に一ぱい分残った残滴を
んで、咽喉
のど
をうるおしながら、以前の書物の丁を追いました。
「アル時、橋本庄右衛門ヘ妙見ノ帰リガケニ行ッタラ、殿村南平トイウ男ガ来テ居タカラ、近附
ちかづき
ニナッタガ、ソノ男ガ云ウニハ、オマエ様ハ天府ノ神ヲ御信心ト見エマスガ、左様デ御座リマスカト云ウカラ、年来妙見宮ヲ拝ストイッタラ、左様デ御座リ
ます
、御人相ノ天帝ニアラワレテオリマスト云イオル、ソレカライロイロ
はな
シテイルト、奇妙ノコトヲ種々咄スカラ、ヨク聞イタラ、両部ノ真言ヲスルトイウカラ、面白イ人ダト思ッテイタラ、橋本ガ親類ノ病人ノコトヲ聞イタラ、ソノ死霊ノ者ハ男ダト云ッテ、年カッコウ、ソノ時ノ死ニヨウマデ、ツブサニ見タヨウニ云ウカラ、橋本ニ聞イタラ、ソノ通リダト云ウカラ、大キニ恐レテ、弟子ニナリタイト頼ンダラ、随分法ヲ教エテヤロウト挨拶スルカラ、ウチヘ連レテ来テソノ晩ハ泊メタ、ソレカラ真言ノコトヲイロイロ教エテ、先ズ稲荷ヲ拝メトテソノ法ヲ教エタ、病人ノ加持ノ法又ハ摩利支天ノ鑑通ノ法、修行術種々、二カ月バカリニ残ラズ教エテクレタ、ソレカラコノ南平ハボロノナリ故、色々入用
いりよう
ヲカケ、謝礼旁々
かたがた
一年半バカリニ四五十両カケタ、本所デモ大勢弟子ガ出来テ、シマイニハ弥勒寺ノ前ノ小倉主税ト云ウ仁ノ屋敷ヘ住ンデイタ、日々、病人、迷人、ソノホカ加持祈祷ヲシ、御番入リノ祈祷ヤ何ヤイロイロ諸方ヨリ頼ンダガ、オレガ初メ見出シタ故ニ、南平モ
よろこ
ンデ、オレノコトイロイロ骨折リヲシテクレタ」

 野郎いよいよ千三屋
せんみつや
だ、今度は御祈祷屋を開業――と神尾は註を入れて読み出すと、
「近藤弥之助ノ内弟子ノ小林隼太モ、トウトウオレノ家来ニナツタカラ――」

 近藤弥之助というのは、やっぱり幕下
はたもと
で、今時指折りの剣術遣いの一人で、そいつの内弟子の小林という奴、前にも相当の代物であった、こいつも、いよいよ勝の馬鹿親爺の弟子となったと見えるな、しかし、どういう了見
りょうけん
だか知れたものではない――
「毎日毎日来テ、イロイロト奉公ヲシタガ、ウチガナイ故、浅草ノ入屋ニテカナリノ家作ガアルカラ買ッテヤッタ、剣術仲間ヘ頼ンデ稽古場ヲ出シテヤッタ、下谷ムレガヒイキニシテクレル故、内職ニハ大小売買ヲシテイタガ、シマイニハ金廻リガヨクナッテ、フダン身ノ上ノ世話ヲシオッタガ、悪ガシコイ奴デ、仲間ハ皆ンナガイロイロハグラカサレタ、江戸ヲ三度借倒シテ三州ヘ行キオッタガ、オレニハイツモ
はな
シテ逃ゲタ、又江戸ヘ出ロトイッテモ、オレガ手紙ヲ附ケテ、仲間中ヘ借倒シノワケヲシテヤルト、ミンナガ損ヲシタコトハソレナリニシテクレタ、トウトウ七八十両ノアビセデ三州ヘ行キオッタガ今ニ帰ッテ来ヌ、三州デドウニカ人間ニナッタト云ウコトダ、ソレハオレガチョウシヘ行ッタ時、向島ノ兼ト云ウ男ニ聞イタ、兼ガ遠州ノ秋葉ヘ参詣シタ時ニ、鳳来寺ニテ逢ッタト、ソノ時ハ綺麗
きれい
ノナリデ居タト、オレノハナシヲシテ、二時
ふたとき
バカリ休ンデ居テ別レタト聞イタ」

 こいつ同病相憐み、自分が自堕落だから、自然、相当に自堕落の世話もするところが妙だ。
「或日、小倉主税ノ宅デ、神田黒川町ノ仕立屋ニ逢ッタガ、コイツハ、カゲ
とみ
ノ箱屋ヲスル奴ダガ、オレガ懇意ノ徳山主計トイウ仁ガ、至ッテ富ヲ好キデ、南平ニ富ヲ頼ンダ故ニ、今日ハ富ノ日ダカラ寄加持
よせかじ
ヲスルトッテ、主税ノ宅ヘ大勢ソノムレガ寄ッテ来テ、ヨセ加持ヲ始メヨウトスル時、オレガ知ラズニ行ッタラ、大勢
そろ
ッテイルカラ、様子ヲ聞イタラ右ノ次第ヲ
はな
ス故、ソノ席ニイテ始終ノ様子ヲ見タラ、南平ガ女ヲ呼ンデ、種々
いの
ッテ護摩ヲタイテカラ、女ノ中座
なかざ
ニ幣束ヲ持タセテ神イサメヲシテ、少シ過ギルト、女ガ口バシリデ、今日ハ六ノ大目、当リハ何番ノ何番ト云ウ故、一同ガ嬉シガッタ、ソレカラ上ゲテ仕舞ウカラ、南平ヘオレガ云ウニハ、ハジメテ見テ恐レ入ッタ、シカシ是レハ随分出来ルコトダロウト云ッタラバ、仕立屋メガ直グニ口ヲ出シテ、勝様ガ仰セデハアルガ、ナカナカ容易ニハ寄加持ハ出来ヌ、ソノ訳ハ
ことごと
ク法ガ有ルト云イオルカラ、ソレハ
もっと
モダガ、ヨクツモッテ見ロ、南平ハ何処
どこ
ノ馬ノ骨ダカ知ラナイガ、アノ通リスルガ、オレハ生レナガラ御旗本デ身分モ尊シ、ソノオレガ一心ヲ誠ニシテ寄セタラ、神ハ
すみや
カニ納受ガ有ロト思ウ故ニ云ウノダ、南平ニ聞クニ、オノシガ出過ギタコトヲイウトハ失礼ダト叱ッタラバ、仕立屋ガ云ウニハ、ソレハアナタガ御無理ダ、神事ニハ法ト云ウ物ガアリマストテ、イロイロヌカス故、オレガ座敷ノ真中ヘ出テ、先ズ論ハ無益ダカラ、手前ハ自分ノ前ヘ出テ礼ヲシロ、許スト云ワヌウチニ手前ノ額ガ上ッタラ、オレハ直チニ手前ノ飯焚ニナロウカラ、サア来イトイッタラ、大勢ガケンマクヲ見テ取リ、イロイロ挨拶スルカラ、ソレハ許シタガ、何シロソレホド出来様ト思ウナラ直グニ寄加持ヲシテ見ロトイウカラ、水ヲ浴シテ、先ノ女ヲ呼ンデ祈ッタラ、南平ガシタ通リイロイロ口走リオッタカラ、仕舞ッテカラ高慢ヲ云ッテ帰ッタガ、ソレカラミンナガ、南平ヘ頼ムト金ガイル故、オレニバカリ頼ンダ、徳山ノ妹ヲ一度南平ニ寄セテクレロト主計ガ頼ンダラ、生霊ガ附イテアルカラ、二三日ソノ生霊ヲハナサナケレバナラヌ故、金五両ホドカカルト云ッタカラ、同人ガオレニ
はな
ス故、三晩カカッテ放シテヤッタ、ソレカラ南平ハオレヲ恨ンデ仲ガ悪クナッタ、カゲ富デモ九十両、徳山ト一所ニトッタ、ソレヨリ、十、二十位ハ幾度モ取ッタコトガアル」

 千三屋
せんみつや
が、骨董
こっとう
の仲買から御祈祷師、こんどは
とみ
の当り屋とまで手を延ばしたが、相当成功するところが妙だ。九十両も一度にとり込み、十両、二十両は朝飯前ということになってみると、この商売も乙だ、おれも一つこの手をやろうか――なんぞと神尾も妙に気を廻したが、勝や男谷と違って、同じ旗本でもおれは格が違う、そんな真似ができるかと一喝
いっかつ
し、読みつづける。

ぎょう
ハイロイロシタガ、落合ノ藤イナリヘ百日夜々参詣シ、又ハ王子ノイナリヘモ百日、半田稲荷ヘモ百日参シタ、水行ハ神前ニ桶ヲ置イテ百五十日三時ズツ行ヲシタ、シカモ冬ダ、ソノ間ニハ種々ノコトガ有ッタガ、ココヘハ漏ラシタ、断食モ三四度シタガ出来ヌト云ウコトハナイモノダ」

 こいつは断然おれにはできぬと、神尾が考えました。ここにはこともなげに書いてあるが、冬の最中に、百日も百五十日も水行
みずぎょう
をする、そういうことは、剣術遣いの勝なればこそやれるが、おれにはできぬ、なかなか荒行をやる。本来、この自叙伝には、乱暴、喧嘩、かけおち、すいきょう、座敷牢、千三屋、ロクでもないことには多分に紙筆を費しているくせに、自分の修業のことになると、あんまり書いていないようだが、勝のおやじとても、そうロクでないことばかりではない、本職の剣術をはじめ、相当の鍛錬を積んでいるはずだ。それを事々しく書かないで、馬鹿を尽したことばかり書いてあるから、ややもするとそこんところを見損う。今となって、こういう行を平気で行い、出来ヌト云ウコトハナイモノダ――とホザくところはただののらくら者ではあり得ない。その
せがれ
の今の勝麟も、相当修行鍛錬したことを自慢にするそうだが、親父のそういういい方面ばかり真似たから、それで
とび

たか
を生むようになったのだろうと、神尾が考えました。それから次は、
「地主ニ代官ヲ先代ヨリ勤メタ故、役所ノ跡ガアイテイル故ニ、水心子天秀トイウ刀鍛冶ノ孫聟
まごむこ
ニ水心子秀世ト云ウ男ヲ呼ンデ、役所ノ跡ヘ入レテ刀ヲ打ッタ、又、研屋
とぎや
ニ、本阿弥三郎兵衛ト云ウノノ弟子ニ仁吉ト云ウ男ガ研ガ上手ダカラ、呼ンデオレノ住居ヲ分ケテ、刀ヲ研ガシテオレモ習ッタ、ソレヨリ刀剣講トイウモノノ事ヲ工夫シテ、相弟子ヤ心易
しりあ
イニ出シテ取出立テ、秀世又ハ細川主税正義、並ビニ美濃部大慶直税、神田ノ道賀又ハ梅山弥曾八、小林真平、ソノ時代ノ刀鑑
かたなめきき
ヘ残ラズ刀剣講ヲ取立テヤッタガ、或日千住ヘ行ッテ胴ヲタメシタガ、ソレカラ浅右衛門ノ弟子ニナッテ、上段切リヲシテ遊ンダ、息子ハ御殿ヘ上ッテイルカラ世話ハ無カッタ、息子ガ七歳ノ時ダ」

 御祈祷師、富籤屋
とみくじや
から刀剣講、それから首切浅右衛門まで来た。やれば仕事はあるものだ。
「地主ガ小高デ貧乏
ゆえ
、借金取ガ来テ困ルトイウカラ、引受ケテ片ヲ附ケテヤッタガ、ソレカラ地面ウチノ地借ガ九軒有ッタガ、地代モ宿賃モロクロクヨコサヌカラ、ミンナタタキ出シテ、オレガ懇意ノ者ヲ呼ンデ置イタカラ、ソノ後ハ地代ソノ外滞ラヌカラ悦ンデ、ヤイヤイ云イ居ッタ、地主ガ或日御代官ヲ願ウカラ異見ヲイッテヤッタラ大キニ腹ヲ立テ、葉山孫三郎トイウ手代ト相談ヲシテ、オレヲ地面カラ追出ソウト云ッタカラ、オマエハ最早五十年ニオナリニナサルカラ、御代官ハ御止メナサレトイッタラ、ナゼト云ウカラ、御代官ニナルニハ、先ズ始メハ千両バカリイッテ、ソレカライロイロ家作モ大破ダカラ、弐百両半モイルシ、皆サンガ支度ニモ百両トシテ、モシモ支配ヘ引越シデモスルト百両半モカカル故、弐千両ノ借金ガ出来ルカラ、ソノ上ニ元〆《もとじめ》ガ悪イト引責モ出来テ、ドノヨウニ倹約ヲシテ勤メテモ、三十年ハ借金ヲ抜クニカカル故、子孫ガ迷惑シテ、ソノ勘定ガ立タヌト遠流
おんる
又ハ断絶ニナルカラ、決シテ働キノナイ者ガ勤メル役デハナイト云ッタラ、ウチジュウガオコッテ、地面ヲ返シテクレロトイイオルカラ、地面中ヘ触レテ、不足ノ地代宿代ヲ残ラズ集メテ、オレガ懐ヘ入レテイテ、ノキ場所ヲ見附ケルニ折悪
おりあ
シク脚気ニテ、久シク煩ッテイタ故、歩クコトガ出来ヌカラ、人ニ頼ンデ漸々
ようよう
入江町ノ岡野孫一郎トイウ相支配ノ地面ヘ移ッタガ、ソノ時オレハ、地主ヘ地返シスルノ礼ニ行ッテ――」
山科の巻 六十六
 いよいよ地面立ちのきを食ったな。しかし、世渡りをしただけに、目先の見えるところもある――
「御代官ニナッタラ五年ハ持ツマイカラ、ドウデ御心願ガ成就ナスッタラ、シクジラヌヨウ専一ニ成サレマシ、ソレハ云ウコトガ違ッタラ生キテハオ目ニカカラヌ、ト云ウタラ、ナゼダ、ト云ウカラ、葉山ノ成立チヲアラマシ云ッテ帰ッタガ、案ノ定、四年目、甲州ノ騒ギデシクジリ、江戸ヘ行ッテ小十人組ヘ組入リヲシタガ、三千両ホド借金出来テ、家来モ六ツカシク、大心配ヲシテ、オマケニ、葉山ハ上リ屋ヘ行ッテ三年程カカッタガ、気ノ毒ダカラ、オレガ一度尋ネテヤッタラ、オマエノ異見ヲ聞カヌ故ニコウナッタガ、ドウゾ家ハ助ケタイモノダト云ッテ涙グンダカラ、カアイソウダカラ、段々ト葉山ガ始末ヲ聞イテ、甲州ノ郡代ヘヤル手紙ノ下書ヲ書イテ、是ヲ甲州ヘ遣ワシテ、コウシロ、大方奇徳人ガダマッテハイヌマイ、五百ヤソコラハ出スダロウト教エテヤッタラ、キモヲツブシタ顔ヲシテ、早々甲州ヘ届ケタ、ソノ後マモナク六百両金ガ出来タカラ家ヲ立テタガ、今ハ三十俵三人扶持ダカラ困ッテイル、江戸ノカケヤニモ千五百両バカリ借ガアル故、三人扶持ハ向ケキリニナッテイル、ソレ故ニ子供ガ月々、今ニオレヲ尋ネテクレル、ソレカラトウトウシマイニハ小普請入リヲサセラレテ百日ノ閉門デ済ンダ、ソノ時ノ同役ノ井上五郎右衛門ハ、トウトウ改易
かいえき
ニナッタ、葉山モ江戸ノ構エヲ喰ッタヨ」

 お代官になるもまたつらい
かな
だ!
「岡野ヘ引越シテカラ段々脚気モヨクナッテ来タカラ、息子ガ九ツノ年御殿カラ下ゲタガ、本ノケイコニ三ツ目所ノ多羅尾七郎三郎ガ用人ノトコロヘヤッタガ、或日ケイコニ行ク道ニテ病犬
やまいぬ
ニ出合ッテ、キン玉ヲ喰ワレタガ……」

 息子というのは今のその利け者の勝麟のことで、稽古にいく途中、病犬に食われた、江戸は犬の多いところだが、病犬はあぶない、食われるに事を欠いて、キン玉を食われたんでは只事
ただごと
でないと、神尾が思いました。
「ソノ時ハ、花町ノ仕事師八五郎ト云ウ者ガウチヘ上ッテ、イロイロ世話ヲシテクレタ、オレハウチニ寝テイタガ、知ラシテ来タカラ飛ンデ八五郎ガ所ヘ行ッタ、息子ハ蒲団
ふとん
ヲ積ンデ、ソレニ寄リカカッテイタカラ、前ヲマクッテ見タラ、玉ガ下リテイタ故、幸イ外科ノ成田ト云ウ人ガ来テイルカラ、命ハ助カルカト尋ネタラ、六ツカシク云ウカラ、先ズ
せがれ
ヲヒドク叱ッテヤッタラ、ソレデ気ガシッカリトシタ様子故ニ、駕籠
かご
デウチヘ連レテ来テ、篠田トイウ外科ヲ地主ガ呼ンデ頼ンダカラ、キズ口ヲ縫ッタガ、医者ガフルエテイルカラ、オレガ刀ヲ抜イテ、枕元ヘ立テテ置イテ
りき
ンダラ、息子ガ少シモ泣カナカッタ故、漸々縫ッテ仕舞ウタカラ、様子ヲ聞イタラ、命ハ今晩ニモ受合ハ出来ヌト云ッタカラ、ウチ中ノ奴ハ泣イテバカリイル故、思ウサマ小言ヲ言ッテ叩キチラシテ、ソノ晩カラ、水ヲ浴ビテ、金比羅
こんぴら
ヘ毎晩裸参リヲシテ祈ッタ、始終オレガ抱イテ寝テ、外ノ者ニハ手ヲ附ケサセヌ、毎日毎日アバレ散ラシタラバ、近所ノ者ガ、今度岡野様ヘキタ剣術遣イハ、子ヲ犬ニ喰ワレテ気ガ違ッタト云イオッタ位ダガ、トウトウキズモ直リ、七十日目ニ床ヲハナレタ、ソレカラ今ニナントモナイカラ、病人ハ看病ガカンジンダヨ」

 ここまで読んで来た時、神尾主膳の目頭
めがしら
が熱くなってきました。今までは冷笑気分、興味本位だけで多分を読んで来たが、ここでは目頭が熱くなったものですから、その眼を上げて座敷の一方を見つめました。
「ここだよ、馬鹿は馬鹿で、箸にも棒にもかからない奴も、子を見る心はまた別だな、親の心というものは実際こうしたものだろうよ、あれほど自分を粗末にし、世間を粗末にした奴も、子供のことであってみると、気違いになる。この愛情があればこそだ、今の勝が、安房守
あわのかみ
と任官して、まあ当代の傑物として、幕府を背負って立とうとか、立つまいとか言われるようになったのは、そもそもこの親の気違いから起っているのだ、倅のために実にいい親を持ったものだと、ここではじめて感心しなければならぬ」
 これに引比べて、おれは親の愛情というものを知らない。父が早く世を去ってしまった。今日の、このうだつの上らない、骨までやくざ者と化したのは、一にこの父親の愛情が恵まれなかったからだ――
 ということを、神尾主膳がそぞろ心に思い起して来ると、世間の親の有難さということに目頭
めがしら
が熱くなってくる。そうして、人生のいかなる不幸も、親の愛を知らないほどの不幸はなく、人生のいかなる幸福も、親の愛を受けるの幸福にまされるものはない、ということを、神尾主膳が心魂に徹して思い出してきました。
 不思議にも熱くなった目頭から、うるおってくる瞳で、なお巻を読み進めて行く。
「親類ノ牧野長門守ガ山田奉行ヨリ長崎奉行ニ転役シタガ、ソノ月、水心子秀世ガ云イ人デ、虎ノ門外桜田町ノ尾張屋亀吉トイウ安芸ノ小差ガ、牧野ノ小差ニナリタガッテ、オレニ頼ンダ故、世話ヲシテヤロウト云ッタラ、金ヲ五十両持ッテ来テ、是デ牧野様ガ御好ミノ物ヲ買ッテ上ゲテクレロト云ウカラ、イロイロ牧野ノ息子ヘ品物ヲヤッタガ、一日オソクテ外ノ者ガナッタカラ、尾張屋ハ鼻ガアイタ故、気ノ毒ダカラ、残リノ金ヲバ返スト言ッタラ、ソレハ水金デゴザリマスカラ御遣イナサレマセトテ三十両バカリ呉レタトコロ、ソノ後ニ久セガナッタ故、世話ヲシテヤロウトオモッテ呼ビニヤッタラ、亀吉ハ
ウニ死ンダトイウカラ、ソレキリニシタッケ」

 千三屋
せんみつや
どの、今度は慶安
けいあん
をかせぎ出したな、よく小まめに働くことだ――
「地主ノ当主ガドウラク者デ或時、揚代
あげだい
ガ十七両タマッテ、吉原ノ茶屋ガ願ウト云イオッテ困ッタガ、フダンカラ誰モ世話ヲシナイ故、オレニ頼ンダ、オレハ昨今ノコトダカラ知ラズ、金ヲ工面
くめん
シテ済マシテヤッタガ、ソノ後モ五両ニ壱分ノ利ヲ七十両借リテ女郎ヲ受ケタガ、皆済目録トカヲ代リニヤッタトテ、用人ヤ知行ノ者ガ困ッテイル故ニ、又オレニ頼ンダカラ、諸方ノ道具屋ヨリ来テイタ大小ヤラ、道具ヤラ、イロイロコンタンヲシテ取返シテヤッタガ、イチエンソレヲ返サヌカラ、オレガ困ッテ、諸方ヘ段々ト返シタガ、ソレカラ万事、金ノ融通ガ悪クナッテ困ッタ、ソレニツキ合イガハルカラ大迷惑ヲシタ、ソノ当分ハイロイロ道具ヲ売ッテ取リツヅイタガ、段々物ガ尽キルカラ、シマイニハ武器ヲ払ッタガ、年来丹精ヲシテ
こしら
エタモノ故、惜シカッタガ、仕方ガナイ故、残ラズ売ッタガ、拵エル時ノ半分ニモナラナイモノダ、シマイニハ四文ノ銭ニモ困ッタ、全ク地主ニ立替エタ故ダ」

 それそれ、見たことか、顔役、千三屋も限度というものがある。いい気になって人の世話を焼いていると、今度は身が詰って来るは火を見るようなものなのだ。ツキ合イガハルカラ大迷惑――それが当然の成行きで、それから身のつまりになるのは、我も人も変ったことはない――
「ソレカラ或晩、地主ノオマエサマガ忍ンデ来テ云ウニハ、孫一郎ガフシダラ故ニ、家内中ハ困ルカラ、支配向ヘ話シテ隠居サセテクレロト云ウカラ、取扱エモ
はな
シタラ、オマエ様ヨリ証拠ノ文ヲ取ッテ来イト云ウカラ、ソノ事ヲ咄シテ、文ヲ取ッテ、長坂三右衛門ヘ見セタラ、
かしら
ノ長井五右衛門ヘ始終ヲ咄シテ、支配カラ隠居シロト云ッテ出タカラ、孫一郎モ何トモ云ウコトガ出来ズニ隠居シタガ、後ノ孫一郎ハ十四ダカラ、ミンナオレガ世話ヲシテ、家督ノ時モ一緒ニ御城ヘ連レテ出タ、先孫一郎ハ隠居シテ江雪ト改メテ剃髪
ていはつ
シタ、ソレカラ家来ノコトモミダラニナッテイルカラ、家来ニ差図シテ、取締方万事口入レシテ取極メヲツケテヤッタラ、程ナク又々隠居ガ、岩瀬権右衛門トイウ男ヲ用人ニ入レテ、イロイロ悪法ヲカイテ、権右衛門ヘ給金弐拾両ニ弐拾俵五人扶持ヤッテ好キノコトヲシオルカラ、ウチジュウガ寄ッテ頼ム故ニ、頭沙汰ニシテ、権右衛門ヲ追出シテ、外ノ用人ヲ入レタ、ソノウチニ後ノ孫一郎ノオフクロガ死ヌ故、隠居ガマタマタモクロミヲシタカラ、ソノ時モ、ソノ一件ヲ片附ケテヤルシ、ソノ後、江雪ガ女郎ヲ引受ケ連レテ来タ時モ世話ヲシテ、柳島ヘ別宅ヲ拵エテヤッタ、ソレカラ一年バカリタッテ、江雪ガ大病故ニ、イロイロ世話ヲシタガ、ソノ時ニ、オレニ云ウニハ、今度ハ快気ハオボツカナイカラ、
せがれ
ノコトハ万端頼ムカラ、嫁ヲ取ラシテ後、御番入リスルマデハ必ズ見捨テズニ世話ヲシテクレト云ウカラ、聞届ケタト挨拶ヲシタカラ、悦ンデ翌日死ンダカラ、又々世話ヲシテ、残リ無ク後ヲ片附ケタガ、世間デ岡野ト云ウト、誰モ嫁ノ呉レテガ無イカラ、麻布市兵衛町ノ伊藤権之助ガ嫁ヲ貰ッテヤッタ、オマエ様ガ云ウニハ、何モ持ッテキテガナイカラ、何ニモイラヌト云ウカラ、権之助ヘオレガ掛合ッテ百両ノ持参デ、諸道具モ高相応ニシテ貰ッタカラ、知行所ノ百姓モキモヲツブシテ、私共二三年諸方ヘ頼ンデ奥様ノコトヲ骨ヲ折ッタガ、岡野ト聞クト皆々破談ニナリマシタガ、御蔭デ殿様初メ一同安心シテ悦ビマス、殊ニハ御持参金モアルシ有難イト云イオッタ、ソレ迄ハ千五百石デ道具ガ一ツ無クッテ、大小マデモ逢対
あいたい
ノ時ニ借リテ出ル位ダカラ、世間デ呉レナイモ
もっと
モダト思ッタ、ソレカラ普請ガ大破故、武州相州ノ百姓ヲ呼ビ出シテ、家作モ直シ、大勢ノ厄介ノ身上マデ拵エテヤッタ、当主ノ伯父ノ坊主デイタ仙之助ト云ウ男ニモ、地面内ヘ家作ヲシテ、
めかけ
マデ持タシテヤッタラ、家内ノ者ガオレヲ神様ノヨウニ云イオッタ、暮シ方モ百両故、三百三十両ノ暮シニシテ、厄介ヘモソレゾレ壱カ年アテガイヲ附ケテ稽古事デモ出来ル様ニシテ、馬迄買ワシ、千五百石ノ高位ニハ少シ過ギル位ニシテヤッタガ、何ヲイウニモ借金ガ五千両バカリアル故、コラエガ馬鹿ノ者ニハ出来ヌ」

 これはまた、神尾にとって少々耳――ではない、目が痛い。千五百石となると、もう小身の部ではない、おれの分限にも近くなってくるし、当主という奴の身持が、おれの伝だ。他人のことにして見ると、歯痒
はがゆ
いばかりの馬鹿揃いだが、自分のことには、さっぱりお気がつかない――結局、この神尾主膳にも、誰も嫁のくれ手がなくておしまいだ。嫁さがしで江戸を構われただけではない、甲州まで行って、有野の娘でもしくじったわい。でも、この岡野とやらには、勝のおやじのような出しゃばり屋の千三式の肝煎
きもいり
が出来て、ひとまず成功したが、おれの方にはソンナのが現われなかった――
山科の巻 六十七
 こうして顔を広くし、人の面倒を見てやっては男を売るというような立場になると、どのみち、行詰まるのは運動費だ。本来、金のなる木を持っているわけではなし、千三屋というものは、千に三つしか当らないわけのものだろう。当った時の
もう
けは、
はず
れた数の損耗で、とうにさっぴきがついている。勝のおやじ、この経済の打開をどうするか。そこは神尾が今日までの体験の持越しで、今以てうだつが上らないのみか、ますます深みへ落ちて行く勘所
かんどころ
だ。それを、このおやじが最後まで、どう切抜けるかと、経済眼を以て読みつづけて行くと、果せる
かな
だ。
「オレハ次第ニ貧乏ニナルシ、仕方ガ無イカラ妙見宮ヘムリノ願ヲカケテ、今一度困窮ノ直ルヨウニト、百日ノ行ヲハジメタガ……」

 それ見たことか、
かな
わぬ時の神頼みだ。だが、かなわぬ時に至って、はじめて神頼み、仏いじりをはじめるところが可愛らしくてよろしい。おれなんぞ、ついぞ今日まで、神頼みも、仏いじりもしなかった、する気にもならなかった、今更、頼んだって、いじったって、かまってくれる神仏もあるまいに――と苦笑……
「日ニ三度ズツ水行ヲシテ、食ヲスクナクシテ祈ッタガ、八九十日タツト、下谷ノ友達ガ寄ッテ、久シクオレガ下谷ヘ来ナイトテ、ナゼダロウト云ウト、オレノ家来分ノ小林隼太ガ、此頃ハ貧乏ニナッテ弱ッテイルト云ッタラ、皆ンナガ、気ノ毒ナコトダ、今迄イロイロ世話ニモナルシ、恩返シニハ少シデモ無尽
むじん
ヲシテ、掛捨テニシテヤロウカ、ソウ云ッテハ取ラヌカラ、勝ヲ会主ニスルガイイト相談シテ、鈴木新二郎ト云ウ井上ノ弟子ノ免許ノ仁ガ来テ、オレニ云ウニハ、今度友達ガ寄ッテ遊山無尽ヲ
こしら
エルガ、最早大ガイハ拵エタガ、オマエニ会主ヲシテクレロトイウカラ、ナッテクレロトイウ故ニ、ソレハヨカロウガ、此節ハ困窮シテ中々無尽ドコロデハナイカラ、断ワッテクレト云ッタラ、何ニシロ、オマエガ断ワルト出来ヌカラ加入シロト云ウ、掛金モ出来ヌトイッタラ、ソレデモイイカラトイウ故、承知シタトテ帰シタラ、二三日タッテ、マタ新二郎ガ来テ、帳面ヲ出シテ、金五両置イテ、此後ハ加入ノ人々ガ来ルト云ッテ帰ッタ故、全ク妙見ノ利益
りやく
ト思ッテ、ソレカラ直グニ刀ノ売買ヲシタラ、ソノ月ノ末ニハ、築地ノ又兵衛ト云ウ蔵宿ノ番当ガ頼ンダ備前ノ助包
すけかね
ノ刀ヲ、松平伯耆守ヘ売ッテ十一両モウケタガ、又兵衛モ、ウナギ代トテ別ニ五両クレタ、ソレカラ毎晩、江戸神田辺、本所ノ道具市ヘ出テハモウケスルコトガヨカッタカラ、復々
またまた
金ガ出来ル故ニ、諸所ノコン意ノ者ガ困ルト聞クト、助ケテヤッタ故、ミンナガヒイキヲシテ、イロイロ刀ヲ持ッテ来ルカラ、素人
しろうと
ヨリ買ウカライツモ損ヲシタコトハナカッタ、道具ノ市ニテハモウケノ半分ハ諸道具屋ヘ、ソバ又ハ酒ヲ買ッテ食ワセタユエ、殿様殿様ト云イオッテ、外ノ者ガカッテ物ヲ持ッテ来ルト、前金ニ内通シテクレル故、イチモ損ヲシナカッタカラ、伏ノ市ニハ切者
きれもの
ノモノニ、オレガカサヲアケサセタカラ見損ジテ、三匁ノ物ヲオレガ一分入レルト、カセアケガ段々見テ、勝様ハ三匁五分ト云ウカラ、五分ノ損ダカラヨカッタ、ソノ替リニハ、イツモ仕舞イニハソバヲタトエ五十人来テモ一パイズツニテモ、是非クワセルヨウニシテ帰シタカラ、町人ハ壱文弐文ヲアラソウ故、皆ンナガ悦ンデ、諸所ノ市場ニハ、オレガ乗ル蒲団ヲ一ツズツ拵エテアッタ、友達ガクヤシガッテ、イツモオマエハ、市デハ商人ガハイハイ云ウ、ドウイウ訳ダト云ウカラ、右ノ次第ヲ
はな
シタラ、ソレデハ損ダト皆々云ッタガ、タイソウ得ニナッタ、ソレカラ借金ガ四十俵ノ高デ三百五十両半アルカラ、女郎ヲ買ッタト思ッテ、金ノハイル度々
たびたび
、段々トウチコンダカラ、二年半バカリニ三四十両ニナッタ、コワイモノダ」

 やりくりというものは、窮するが如くして迫らざるところのあるものだ。この窮通ができたのは、妙見様の御利益
ごりやく
ばかりではない、小まめに立働くところが感心だ。おれにはできない――こういう神妙な立ちまわりはおれにはできないと、神尾が
かぶと
を脱ぎながら、
「何デモ施シガ第一ト心得テ近所ハ勿論
もちろん
、困ルト云ウモノニハ、ソレゾレソノ者ガ身ニ応ジテ施シタガ、ソノセイカ、饑饉ノ年ニハ、毎日毎日日々壱朱ズツ小遣
こづかい
ニシテ遊ンダ、友達ヘモ時ノ会ヲ合ワシテヤルシ、毎晩毎晩、道具ノ市ヘ行ッテ勤メダト思ッテ精ヲ出シタ、売物ノブ市トイウ物ヲ百文ニツイテ四文ズツノケテミタガ、三月ノ中ニ三両弐分ト葉銭ガタマッタカラ、刀ヲコシラエタ」

 この辺になると、二宮金次郎はだしだ。感心感心と神尾があしらい――さて、その次には本職の方になってくる。
「剣術ノ仲間デハ、諸先生ヲノケテ、イツモオレガ皆ノ上座ヲシタガ、藤川近義先生ノ年廻リニハ出席ガ五百八十半人有ッタガ、ソノ時ハオレガ一本勝負源平ノ行司ヲシタ、赤石孚祐先生ノ年忘レハ岡野デシタガ、行司取締ハオレダ、井上ノ先伝兵衛先生ノ年忘レニモ頼ミデ諸勝負ノ見分
けんぶん
ハオレガシタ、男谷
おたに
ノ稽古場開キニモオレガ取締行司ダ、ソノ時分ハ万事流儀ノモメ合イ、弟子口論伝受ノ時ノ言渡シ、多分オレバカリシタガ、岡野ハ伝受ノコトハ皆々オレニ聞キ合ワセタ、オレガ下知ニソムク者ハナカッタ、大小ノ
こしら
エ様並ビニ衣服又ハ髪形マデ、下谷、本所ハオレノ通リニシタガ、奇妙ノコトダト思ッテ居ルヨ。
ソノ時分ハ、諸所ノ道場ガ至ッテ義定ガ立ッテイテ、先生トハ同座同席ハ弟子ガシナカッタ、外ノ先生ガ来ルト、直グニ高弟ガ出向イテ刀ヲ取ッテ案内ヲシタ、先生迄モソノ玄関マデ迎イニ出タモノダガ、此頃ハ物ガ乱レテ、知ラヌ顔デカマワヌガ、イロイロノ様子ニナルモノダ、稽古モ稽古場ヘ二組トキマッテイタガ、ソレモムチャニナッテ幾組モ勝負ヲスルヨウニナッタ」

 さてまた、いろいろの肝煎
きもい
り、世話焼きをしてやっているうちにも、恩に着るものばかりはない。
「通リ町ノチチブ屋三九郎ト云ウ者ガ、公儀ノキジカタ小遣モノノ御用足
ごようたし
ダガ、段々家ガ衰エテ来テ、今ハソノ株ガホカニモ出来テ、一向ニ御用モタサズシテ困ッテイルト高田藤五郎トイウ者ガ云ウカラ、段々聞イタラ、此節末姫様ガ薩州ヘ御引移リ故、右ノ御用ガキキタイト云ウ故ニ、オレガ骨ヲ折ッテ、御本丸ノ御年寄ノ瀬山サンヲ頼ンデ、末姫様ノ御引移リノ時ノ師匠番くれないサンヘ頼ンデ御用キキニシテヤッタガ、ソノ前ニ心願ガ出来タラ、紅サンヘ三十両、瀬山サンヘモ礼ヲスル約束故ニ、ソノコトヲ云ッテヤッタラ、紅サンハ大ノ慾バリ故、悦ンデチチブ屋ヘカンサツヲ渡シテ、先ズ七十両ノ御用ヲ申シ渡シタ故、右ノ金ヲヨコセトイウカラ、三九郎ヘ
はな
シタラ、イロイロ難渋ヲ云イオッテ、始メトハ違ッテ、オレノウチヘモ来タ故、三九郎ヲ呼ンデ、世話ノ変替
へんがえ
ヲシタ、ソウスルト早々御用モ下ルシ、カンサツヲ取上ゲハシマイト思ッテイルト、二三日タツトカンサツヲ取上ゲラレテ御用ノ物ハ不用ニナッタカラ、オレノ所ヘカケツケテ夫婦デ来タ、イロイロ云イオッタガ、始末ガカン気ニサワッタ故、ソレナソニシテイタラ、四十両バカリ損ヲシテ、ソノ上ニ大火事ニ焼ケテ裏店
うらだな
ヘハイッテイルト聞イタ、世ノ中ニハ三九郎ノヨウナ者ガ今ハイクラモアルカラ、油断ヲスルトクラウモノダ」
山科の巻 六十八
 さて、これから勝のおやじの生れ家、男谷との間柄を書いてあるが、このおやじは前に言う通り、子供の時分から勝へ養子にやられ、
くだん

ごと
き馬鹿者であるから、成長したからとて、生家の兄貴共をてこずらせること容易でない。
「二番目ノ兄ガ御代官ニナッテカラ、先年三郎左衛門ヘ八両貸シタラ返サヌカラ、男谷デ出会ッテ大喧嘩ヲシテ、兄ハソノ晩逃ゲテ帰ッタガ、ソレカラ十年バカリ絶交シテ居タガ、何トカ思ッタト見エテ、オレノ所ヘ手紙ヲヨコシテ、久々逢ワヌカラ近所ヘ来タカラ尋ネテクレロトイッテ金ヲ二分ヨコシタカラ、亀沢町ヘ行ッテアニヨメニ話シタラバ、先カラ尋ネタラ行クガヨイトイウカラ、直グニ行ッタラ、家中出テイロイロト馳走ヲシテ、彼是トイウカラ、久シク御無沙汰
ごぶさた
ノ段ヲイロイロ云ッテ仲直リ同様ニシテ帰ッタラ、又々、兄ガ女房ヨリ文ヲヨコシテ、オレノ妻ヘ礼ヲイッテヨコシタ、ソレカラ不断尋ネテヤッタ、丁度、支配ガ大兄ノ支配シタ越後水原
すいばら
ニナッタカラ、国ノ風俗人気ノコトヲ聞クカラ、オレガモト行ッタ時ノ様子ヲハナシテ勤向キノコトモ、アラアラシカッタコトハ
はな
シテヤッタ。
ソノ翌年ノ春正月七日、御用始メノ夜ニ、何者トモ知ラズ、狼藉者
ろうぜきもの
ガハイッテ惣領忠蔵ヲキリ殺シタガ、ソノ時、早速ニ使ヲヨコシタ故、飛ンデイッタガ、モハヤ事ガキレタ、翌日心当リガアッタカラ、小石川ヘ行ッタガ立退イタト見エテ知レヌカラ帰ッタ、ソノウチ大兄ニ近親共ガ来テ相談シテ、オレニ当分林町ニ居テクレロト云ウカラ、毎晩毎晩泊ッテ居タ、昼ハ用ガ有ルカラウチヘ帰ッテイテ、ソノ月ノ二十五日ニ、ケンシガ来テ、二十九日ニハ忠蔵ノ妻ト、兄ガ妻ト、忠蔵ノ惣領ノ※[#「月+毛」、117-16]太郎ヲ評定所ヘ呼出シニナッテ、オレト黒部篤三郎ト云ウ兄ガ三男ガ同道人ニナッテイタガ、ソレカラソノコトデ一年ノ内、月ニ二度位ズツ評定所ヘ出タ、或時同所御座敷ニテ大草能登守ガ与力神上八太郎ト云ウ者ト大談事ヲナシタガ、同所留守居ノ神尾藤右衛門、御徒目附
おかちめつけ
石坂清三郎、評定所同心湯場宗十郎等ガ中ヘイリテ、段々八太郎ガ不礼ノ段ヲ
ビルカラ、大草ヘモ云ワズニ帰ッタ、オヨソ壱時
いっとき
バカリノコト、御座敷中ガ大騒動シタガ、イイキビダッタ、相士ノ者ハ皆フルエテ居オッタ」

 二番目の兄というのは男谷精一郎のことだろう。その総領の忠蔵が寝込みを襲われて人に斬り殺されたというのは只事ではない。ほかならぬ剣術の家であって、しかも男谷信友ともある者の長子だから、相当腕に覚えがなければならないのが、おめおめと斬り殺されたとは不審の至りだ。何者が、何の恨みあってしたことか、これをくわしく知りたいものだが、この自叙伝は大ざっぱで、それにはちっとも触れていない。評定所で与力と大喧嘩をして、これを詫びさせるなどは、どういういきさつか、これもわからないが、このおやじらしい振舞だ――
「コノ年、次ノ兄ガ始メテ越後ヘ行ク故ニ留守ヲ預カッタ、ソレカラオレガ借金モ抜ケタカラ、少シズツ遊山ヲ始メタガ、仕舞イニハイロイロ馬鹿ヲヤッテ、金ヲ遣ッタカラ困ッタ、シカシ借金ハシナイヨウニシタ、林町ノ兄ガ帰ッタカラ、留守ノウチノコトヲ書附デ出シテヤッタラ悦ンデ居タ、コノ年、従弟
いとこ
ノ竹内平右衛門ガ娘ヲ、オレノ実娘ニシテ六合忠五郎ト云ウ三百俵ノ男ヘヨメニヤッタ、忠五郎ハモトヨリ弟子故、縁者ニナッタ、竹内ノ惣領三平ガ此年御番入リヲシ、カタクルシクテ出勤ガ出来ヌカラ、御断ワリヲ申シテ引クト云ウカラ、オレガイロイロ工夫シテ、翌日カラ登城サセテタラ、大御番ニナッタ、ソノ親父ガ悦ンデ、一生コノ恩ハ忘レヌト云ッタガ、後年イロイロオレヲホメオッタ」

 この辺は例の世話好きが現われて、相当に善事を致してもいるようだが、本来、しっかりした観念があってやるわけではないから、
たちま
ち生地が現われて、ついに兄たちと大喧嘩をおっぱじめる。
「此暮ニ松坂三右衛門ガ越後ヘ行ク故、三男ノ正之助ト云ウヲ気遣ウ故ニ、オレガ異見ヲシテ、供ニ連レテ行ケト云ッタラ、聞済マシテ連レテ行クツモリニナッタラ、正之助ヘ供先ノコトヲイロイロト教エテ、御代官ノ侍ハ支配ヘ行クト金ニナルカラ、ソノ心得ヲヨク含メテヤッタガ、嬉シガッタ、彼地ヨリ帰ルト礼ヲスルト云ウカラ、ソノ約束デ別レタガ、検見中心得ノコトモ有ルカラ、ソレヲ手紙ニ書イテ送ッタガ、フト取落シタガ、兄ガ拾ッテ持ッテ帰ッテ大兄ヘ見セテ、イロイロオレヲ悪ク云ッタカラ、大兄ガ立腹シテ、オレヲ呼ビニヨコシタ」

 何を云ったか、若い者によくない知恵をつけたのだろう。二人の兄が立腹するのも無理はなかろう。
「亀沢町ヘ行ッタラ兄ガ云ウニハ、オノシハ、ナゼ正之助ヘ知恵ヲツケテ、イロイロ支配所ノコトヲ教エタ、不埒
ふらち
ノ男ガ、ソノ上ニ、羅紗羽織
ラシャばおり
ヲ着テイルガ、ナゼソンナ
おご
リオルト叱ルカラ、オレガ云ウニハ、正之助ヘ書状ヲヤリシ覚エハ無ク、羅紗ノ羽織ハ小高故ニ、身ナリガ悪イト融通ガ出来ヌ故、余儀ナク着テオリ
ます
トイッタラ、ソノ外ニモ聞イタコトノ有ルハ、此頃ハモッパラ吉原ハイリヲスル由、世間ニテハ、オノシガ年頃ニハ、ミンナヤメル時分ニ、不届ノ致シ方ダトイロイロ云ウカラ、御尤
ごもっと
モニハゴザリマスガ、是モヤハリ身上ノタメニ、ツキ合イニ参リマスト云ウト、猶々
なおなお
怒ッテ、何事モオレニ向ッテ口答エヲスル、親類ガ、オレガ云ウコトヲ誰モ云イ返ス者ハナイニ、オノシ壱人バカリ刃向ウハ不埒ダ、今一言云ッテミロ、手ハ見セヌト脇差ヘ手ヲ掛ケテ云ウカラ、オレガ云ウニハ、ソレハ兄デモ御言葉ガ過ギマショウ、私モ
かみ
ノ御人ダ、犬モ朋輩、鷹モ朋輩ダカラ、ソウハ切レ升マイトテ、オレモ脇差ヲ取ッタラ、アニヨメガ中ヘハイッテ、イロイロ云ッテオレヲツレテ、手前ノ部屋ヘ来テ、正之助ノ一件ヲ片附ケロト云ウカラ、直グニ林町ヘ行ッテ兄ニ逢ッテ、兄弟ノ情ガ薄イトテ強談シタガ、兄ガ云ウニハ、全ク貴様ノタメヲ思ッテ、大兄ニ云ッタトテ、強情ヲハルカラ、ソノ時ハ役所ノ壱番元〆
もとじめ
太郎次ヲ兄ノ側ヘ呼寄セテ、兄ガ家事不取締故ニ、是迄度々
たびたび
結構ノ御役ニナルトシクジリシコトカラ、当時ノ御役ノコトヲモ勤メル器量ガ無イトイウコトノアラマシヲ云イ聞カセテ、御役ヲ引クガイイトイッテヤッタ、ソウスルトソレハドウイウ訳ダト云ウカラ、ソノ時ニ兄ガ兄弟ノ手跡ノ真偽ヲ見分スルコトガ出来ヌ故ハ、ナカナカ県令ハ大役故ニ勤メラレヌト云ッテナゲ出シタ故、オレガ取ッテ燭台ヲ出サセテ三度クリ返シテ大音ニ読ンデ、兄ヘ返シテヨク似セマシタト云ッタラ、兄ガ云ウニハ、ナント是デモカレコレイウカト云ウカラ、オレガ云ウニハ、ソコガ三郎右衛門ハ分ラヌトイウモノダ、ナント私ガ書イタモノナラ、読ムウチニケン語ガスミハシマスマイ、大勢ヲ取扱ウ者ガ此位ノコトニ心ガ附カズバ大ナル御役ハ出来マスマイ、親類共ガ毎度私ヲバ不勤故ニ、小馬鹿ニ致シマスガ、天下ノ評定所デ筋違イノ不礼ヲタダス者ハ是迄聞キマセヌ、真偽ヲ知ラヌ兄ヲ持ッタガ私ガ不肖デゴザリ
ます
、ト挨拶シタラバ、ソノ座ノ者ガ一言モイウコトガ出来ヌ故、兄ガイウニハ、是ハ偽筆ニ違イナイカラ、ワシガアヤマッタト云ウカラ、サヨウナラ大兄ヘ手紙ヲ
つか
ワシテ、ソノ訳ヲ御申シナサレト云イ、ソノツイデ又通ジタ故、返事ノクルマデ待ッテ居テ、申シ分ナイト云ウ大兄ガ返事ヲ見テカラウチヘ帰ッタガ、ソノ時、
おい
メラハ脇差ヲサシテ次ノ間ニ残ラズ結ンデ居タカラ、帰リガケニ甥ラニ向ッテ、オノシ等ハ先達テ中ノ狼藉ノ時、ソノ通リノ心ガケヲシテタラ、忠蔵ハヤミヤミト殺シハシマイモノ、ソノ時ハ逃ゲテ伯父ヲ取廻イタ、馬鹿ニモ程ノアッタモノダガ、親父様ノ子供ヘノ御教エニカンシンシタト云ッテ笑ッタガ、ウチ中ガクヤシガッタトソノ後聞イタヨ」

 兄貴二人をやり込めていい気でいる。ドウもこういう乱暴者にあっては、府内第一の剣術遣いもねっから押しが
かないらしい。しかしまあ、これではただは済むまい、兄貴共もこのまま捨てても置けまい。
「ソレカラ後ハ、大兄モ、林町ノ兄モ、オレガ事ヲ気ヲ附ケテ居ルカラ、少シモトンチャクシナイデ、イロイロ馬鹿騒ギヲシテ日ヲ送ッタガ、或時ニ林町ノ兄ガ三男ノ正之助ガ来テイロイロ兄ノ
はなし
ヲシタカラ、揚代滞リニシテ六両金ヲ出シテ、カリ宅ヘ林町ノ用人ヲ連レテ行ッテ、方ヲカイテヤッタラ、兄ガオコッテ、ヤカマシクイウカラ、アニヨメヘオレガ行ッテ、イロイロハグラカシテソノコトハ済ンダ、オレモ三四年ハ大キニ心ガユルンダカラ、吉原ヘバカリハイッテ居タガ、トウトウ、地廻リノ悪輩共ヲ手下ニ附ケタカラ、壱人モオレニ刃向ウ者無カッタ、ソノ替リニ金モイカイコト遣ッタガ、皆ンナオレガ働キデ、借金ヲセヌヨウニシテ、道具ノ市ヘハ一晩デモ欠カサヌヨウニシテ儲ケタガ足リナカッタ」
山科の巻 六十九
 二人の兄貴も、いよいよこれでは黙ってばかりいられない。
「此年、男谷カラ呼ビニヨコシタカラ、精一郎ガ部屋ヘ行ッタラ、ソレカラ、姉ガ云ウニハ、左衛門太郎殿、オ前ハナゼニソンナニ心得違イバカリシナサル、オ兄様ガコノ間カラ世間ノ様子ヲ残ラズ聞合ワセテゴザッタガ、捨置ケヌトテ心配シテ、今度、庭ヘ
おり

こしら
エテ、オマエヲ入レルト云イナサルカラ、イロイロミンナガ留メタガ、少シモ聞カズシテ、昨日出来上ッタカラハ、晩ニ呼ビニニヤッテオシ
メルト相談ガキマッタガ、精一郎モ留メタガナカナカ聞入レガナイカラ、ワタシモ困ッテ居ルト云ッテ、オレニ庭ヘ出テ見ロト云ウカラ、出テ見タラ、二重ガコイニシテ厳重ニ拵エタ故――」

 それ見ろ、またしても熊の檻へ入れられる。前に三年というもの三畳の座敷牢へ押込められて、多少は覚えがあるだろう。今度は座敷牢では剣呑
けんのん
だから、庭へ二重牢と来た。重ね重ねこれは有難く心得て御入所に及ぶほかはあるまい、笑止千万――ところが、今度の熊は、以前のように手軽くは入らない。
「姉ニ云ウニハ、段々、兄弟ガ御深切ハ有難ウゴザイマスガ(これが有難くなくてなるものか)今度ハ燈心デデモオコシラエナサレバイイニ、ナゼトイウニ、私モ今度入ルト、最早、出スト
ゆる
シテモ出ハシマセヌ、ソノ訳ハ、此節ハ先ズ本所デ男ダテノヨウニナッテキマシテ、世間モ広シ、私ヲ知ラヌ者ハ人ガ馬鹿ニスルヨウニナリマシタカラ、コノ如クニナルト最早、世ノ中ヘハ
かお
ヲ出スコトハ出来マセヌカラ、断食シテ一日モ早ク死ニマス、斯様
かよう
ダロウト思ッタ故、妻ヘモアトノコトヲワザワザ云イ含メテ来マシタ、思召次第
おぼしめししだい
ニナリマショウ、精一郎サン、大小ヲ渡シマスト云ッテ渡シタラ、姉ガ此上ハ改心シロトイウカラ、オレガ、此上改心ハ出来マセヌ、気ガ違イハセヌトイッタラ、精一ガ、御尤
ごもっと
モダガ御身ノ上ヲ慎シメト云ウカラ、慎ミ様モナイ、最早親父ガ死ンダカラ、頼ミモナイカラ、心願モ
ウヨリ止メタ故、セメテシタイ程ノコトヲシテ死ノウト思ウタ故ニ、兄ヘ世話ヲカケテ気ノ毒ダカラ、今ヨリ直グニココニ居リマショウト居タガ、精一郎ガ云ウニハ、必ズオマエハ食ヲ断ッテ死ヌダロウト思ッタ故、種々親父ガ機嫌ヲ見合ワセテ居タガ、聞入レヌ故、コウナッタトテ案ジテクレルカラ、何デモ兄ノ心ノ休マルガ肝要ダカラ、オリヘハイルガオレハヨカロウト思ッタ、先達テカラ友達ガ、ウスウス内通モシテクレタ故、疾ウヨリ覚悟ヲシテ居タカラ、一向ニ驚カヌトイッタラ、何シロ先ズ一度御宅ヘ御帰リナサレテ、妻トモ相談シロトイウカラ、ソレニハ及バズ、先ニイウ通リ何モウチノコトハ気ニカカルコトハナイ、息子ハ十六ダカラ、オレハ隠居ヲシテ早ク死ンダガマシダ、長イキヲスルト息子ガ困ルカラ、息子ノコトハ何分頼ムトイッタラ、ソノウチニ姉ガ来テ、一先ズウチヘ帰レトイウカラ、ソレカラ家ヘ戻ッタラ、夜五ツ時分迄、呼ビニ来ルカト待ッテ居タガ、一向沙汰
さた
ガナイカラ、ソノ晩ハ吉原ヘ行ッタ、翌日帰ッタ」

 
あき
れたもんだ――熊の檻へはいらずに、その足で吉原通いとは、かなりの代物
しろもの
だ!
「ソレカラ兄ヘ只ハ済マヌカラ、書附ヲ出セト云ウカラ、ソレモシナカッタ、姉ガイロイロ心配ヲシテ、諸寺諸山ヘ祈祷ナド頼ンダトイウコトヲ聞イタカラ、翌年春、挨拶安心ノタメ隠居シタガ、三十七ノ歳ダ」

 三十七にもなるどうらくおやじを檻には入れそこなったが、隠居ということで、兄貴たちもまず安心の
てい

「ソレカラハ、ムコクニ世ノ中ヲカケ廻リテ、イロイロノ世話ヲシテ、金ヲ取ッテ小遣ニシタガマダ足リナカッタ故、イロイロ工夫ヲシテ、オレノ身ノ上ガコウナッタハ、誰ガ大兄ヘススメテ、詰牢ヘマデ入レヨウトシタカトテ、ソレヲ探ッタラ、林町ノ兄ガ先年ノ恥ジシメタ意趣バラシニ、ウチ中ガ寄ッテ、無イコトマデ大兄ヘ告ゲタトイウコトヲ、
たし
カニ聞留メタカラ、ソノ又返シニ目ヲ見セテクレヨウト思ッテ居ルト……」

 こういう身知らずで執念深い弟を持った兄貴も思いやられる。さて、その復讐
ふくしゅう
には何をしたか。
「三男ノ正之助ガ放蕩者故ニ、兄ガ困ッテイルト聞キナガラ、正之助ヲ呼ンデ、ダマシテ聞イタラ、残ラズ兄ガ
はかりごと
ヲ白状シタカラ、工面
くめん
ヲシテハ正之助ヘ金ヲ貸シテ遣ワシタガ、仕舞イニハ兄ガ借金ガ蔵宿ノモ切レシトイウカラ、オレガ竹内ノ隠居ヲダマシテ、トウトウ兄ノ判ヲ
こしら
エサセ、蔵宿デ百七十五両、勤メト入用ガ急ニ林町ニテ出来タトテ、正之助ガ諏訪部トイウ男ヲ頼ンデヤッテ借リタガ、蔵宿デモ、三人ガ道具箱デ肩衣
かたぎぬ
マデ着テ行ッタ故、疑ラズニヨコシタ、ソノ金ヲ皆ンナ遣ッテ仕舞ッタガ二月バカリデ知ッテ、兄ガ吝嗇
りんしょく
故ニ大層ニオコッタカラ、トウトウドコマデモ知ラヌ顔デシマッタガ蔵宿デハイロイロセンサクヲシタガ、知レズニシマッタ」

 兄貴の息子をそそのかして放蕩を教えた上に、謀判を以て蔵宿から詐欺取財!
「或日、諏訪部ガ来テ、常盤橋ニテ明後日、狐バクチガ有ルカラ、オレニ一ショニ行ッテクレロ、是ハ千両バクチ故ニ、勝ツト大金ガハイルカラ、壱人デハ帰リガ気遣イダカラト云ウカラ、オレハソノ道ニハ今マデ手ヲ出シタコトガナイカライヤダトイッタラ、只行ッテ食物デモ食ウテ寝テ居ロト云ウカラ行ッタガ、ソノ時ハ諏訪部ニモ元手ガ三両シカ無カッタ、ソレモオレガ十両バカリハ貸シタ故ニ、深川ヘ行ッテ見タラ、蔵宿ノ亭主ダノ、大商人
おおあきんど
ガ、日本橋近辺ヨリ集マッテ五六十人バカリシテ場ヲ始メタガ、オレニハイロイロノ馳走ヲシテクレタ故、常盤町ノ女郎屋ヘ行ッテ女郎ヲ呼ンデ遊ンデ居タガ、夜ノ七ツ時分ニ迎エヲヨコシタカラ、茶屋ヘ行ッテ見タラ、諏訪部ハ六百両ホド勝ッタ故、オレガ見切ッテ連レテ帰ッタ、生レテ初メテ、コンナバクチヲ見タト云ッタラ、皆ガ先生ハ人ガイイト云ッテ笑ッタヨ」

 このくらい人がよければ申し分はなかろうが、御当人はバクチだけはやらなかったようだが、トバの用心棒に祭り上げられた。
「ソレカラ思イツイテ、心易
こころやす
イ者ヘ高利ヲカシタガヨカッタ、浅草ノ奥山ノ茶屋ヘ金ヲカシタガ、是ハマダルカッタガ、ソノ代り山中ハハイハイトイイオッタ故親分ノヨウダッケ」
山科の巻 七十
 さて、これから名うての剣客島田虎之助をからかった物語だ。
「或日、息子ガ柔術ノ相弟子ニ、島田虎之助トイウ男ガアッタガ、当時デノ剣術遣イダトミンナガオソレル故、コノ男ガカン
しゃく
ノ強気者デ、男谷
おたに
ノ弟子モ皆々タタキ伏セラレテ浅草ノ新堀ヘ道場ヲ出シテ居タガ、オレハ一度モ逢ッタコトガナイカラ、近附
ちかづき
ニ行ッタラ、ソノ時オレガ思ウニハ、九州者ノ二三年先ニ江戸ニ来タトイッテモ、マダ江戸ナレハシマイカラ一ツタマシイヲ抜カシテヤロウト心附イタカラ、緋縮緬
ひぢりめん
ノジュバンニ洒落
しゃれ
タ衣類ヲ着テ、短刀羽織デヒョウシ木ノ木刀ヲ一本サシテ逢イタイト云ッタラバ、内弟子ガ出テドコカラ来タトイイオル故ニ、勝ノ隠居ダトイッタラ、早速ニ虎ガ出テ、袴ヲハイテ、座敷ヘ通シ、始メテノ挨拶モ済ンデカラ、イロイロ
せがれ
ガ世話ノ段ヲ述ベテ、世間剣術話ヲシテ居タガ、オレノナリヲヤタラニ見テ、イロイロ世上ノ云ウタノノコトヲモッテ、アテツケルヨウニ聞ユルカラ、カネテソノ
はなし
モ聞イテ居タ故ニ、一向カマワズ、ソノ日ノ七ツ時分ニナッタカラ、虎ヘ云ウニハ、今日ハ始メテ参ッタカラ何ゾ土産ニテモ持ッテト存ジタガ、御好キナ物モ知レヌ故ニ、手ブラデ参ッタガ、酒ハ如何
いかが
トイッタラバ呑マヌト云ウカラ、甘物ハト聞イタラ、ソレハイイト答エルカラ、サヨウナラ御苦労ナガラ一所ニ浅草辺マデオ出デト、断ワルヲムリニ引出シテ、浅草デ先ズ奥山ノ女ドモヲナブッテ歩イタカラ、キモヲツブシタ顔ヲシテアトカラ来ルカラ、スシ飯ヲ食ウカト聞イタラ、好キダト云ウ故ニ、ソンナラ面白イトコロデ
すし
ヲ上ゲルトイッテ、吉原ヘイッテ大門ヲハイリニカカルト、御免御免ト云ウカラ、ムリニ仲ノ町ノオ亀ズシヘハイッテ、二階ヘ上ルト間モナク、イイツケタ鮨ヲ出シタ故、食ッテ居ル、ソノ時ニ、煙草ハドウダト聞イタラ、呑ムガ修行中故ヤメテ居ルト云ウカラ、ソレカラソレハ小量ノコトダ、煙草ヲスウトモ修行ノ出来ヌコトハアルマイ、世間デハオマエヲ豪傑ダト云ウカラ、近附ニ来タ、ソノヨウナ小量デハ江戸ノ修行ハ出来ヌトイッタラ、サヨウナラ今日ハ吸オウト云ウ故ニ、下ヘイイツケテ煙草入、煙管
きせる
ヲ買ワシタ、マタ酒モ呑メトセメタラ、同断ノ挨拶故ソレモ呑マシタ、ソノウチニ日ガ入ッタ故、諸方ヘ提灯ガトボルシ、折柄桜時故ニ風景モ一入
ひとしお
ヨク、段々ト揚屋ノ太夫ガ道中スルカラ、二階ヨリ見セタラ、虎ノ云ウニハ、誠ニ別世界ダトテ、余念無ク見テ居タカラ、是カラハオレガ威勢ヲ見セヨウトテ、隅カラ隅マデ見セテ、リキンデ見セタガ、大キニ恐レタ様子ダカラ、直チニ佐野槌ヤヘハイッテ、女郎ノ器量ノソノウチデ一番トイウノヲアゲテ遊ンダガ、桜ノ時分ダカラ、室ガ大勢デ座敷ガ無カッタガ、オレノ顔デ明ケサセテ、明日帰ッタガ、オレハ森下デ別レテ、ウチヘ帰ッタ、ソノ時ニ吉原デアノ通リノ振舞ハ出来ヌモノダガトイウコトデ、顔ガ売レタロウト皆ンナニ
はな
シタトテ、松平ノ家来ノ松浦勘次ガオレニ咄シタニ、最早、隠居ハ吉原ヘ行ッテモ大丈夫ダトイッタ故、男谷ニテモ安心シタト。
ソレカラスルコトガ無イカラ、毎日毎日カン音、吉原ガ遊ビドコロデ居タガ、虎ガススメデ、香取カシマ参詣ヲスルト云ウカラ、四月初メニ松平内記ノ家中松浦勘次ヲトモニ連レテ、下総カラ諸所歩イタ道ニ、他流ヘ行キテツカイツツ行ッタガ、先年ヨリ居候共ヲ多ク出シタ故、ソレガ徳ニナッテ路銀モ遣ワズニ諸所ヲ見テ来タ、銚子ニテ足ガ痛ンダカラ、勘次ヲ上総房州ノ方ヘ約束シタ所ヘヤッテ、オレハ銚子ノ広ヤカラ舟デ江戸ヘ送ッテクレタカラ、寝ナガラウチヘ帰ッタ、ソレカラ毎日毎日、浄ルリヲ聞イテ浅草辺カラ下谷辺ヲ歩イテ、楽シミニシテ居タガ、六月カ五月末カト思ッタガ、九州ヨリ虎ガ兄弟ガ江戸ヘキタカラ、毎日毎日、行通イシテ、世話ヲシテ、江戸ヲ見セテ歩イタ、虎ノ兄ノ金十郎トイウ男ハ、万事オレ次第ニナッテ居ルカラ、大ガイオレノウチヘトメテ居タガ、或日、吉原ニワカヲ見ニ行ッタ晩、馬道デ喧嘩ヲシテ見セタラ金十郎ハコワガッタ、金十郎ハ国デハアバレ者ト云ッタガ、江戸ヘ来テハツマラヌ男デアッタ、八月末ニ九州ヘ帰ルカラ、川崎マデ送ッテ別レタ」

 島田虎之助が当時での剣術ということは、神尾主膳も聞いて知ってはいるが、その島田の虎も、勝のおやじにかかっては、いやはや――しかしこんなに書きなぐるのは表面で、内心は勝のおやじも、たしかに島田に敬服したればこそ、この男を、
せがれ
の師匠に見立てて、みっちり修行をさせたのだ。そういう厳粛な方面は、この自叙伝には書いてないが、そこが、おやじの親心で、悴のためを思うことは、一時気違いと言われたほどだから、表面の磊落
らいらく
ばかりを見てはいけない。この馬鹿親爺の息子が、今では徳川の天下を背負って立とうというのは、この親爺の細心な方面と、この島田の虎の仕込みのあたりを、別の頭と眼で見直さなければならない!
 おれなんぞは――と神尾は、いつも身に引きくらべて見る。それはこの自叙伝が、雰囲気から言っても、どうらくから言っても、神尾の身に引きくらべて読むに最も都合よく出来ている――おれなんぞも、武術の方は、いい師匠を取って、相当に仕込まれたのだが、親爺がこんな馬鹿者でなかったためにしくじった。虎のような名剣師に就かなかったのが、まあ残念といえば残念のようなものだ。江戸者に生れて、身をあやまるも、身を立つるも、ほんの皮一重のものだよ――おれに子供でもあったらば……
 神尾主膳も、こんなように娑婆
しゃば

にまで誘発されて、しばらく三ツ眼を休めて考えている時、
「あなた、何を読んでらっしゃるの」
 不意に隔ての
ふすま
をあけて、スラリとそこへ立っているのは、今日は姥桜
うばざくら
に水の滴るような丸髷姿
まるまげすがた
のお絹でありました。
山科の巻 七十四
 神尾主膳は、せっかく興味をもって読みつづいていた勝の親父の自叙伝を、さきにはビタが来て妨げ、今はお絹が来て中断されたが、さきのビタは問題にならず、お絹の話して行った言句が気になって、これからは、うつろに何枚かの丁を飛ばして行ったが、ふと、しまい際へ来て、女、という文字に釣り込まれて読みついでみると、
「オレガ山口ニ居タ時分ダガ、或女ニホレテ困ッタコトガアッタガ、ソノ時ニ、オレガ女房ガソノ女ヲ貰ッテヤロウト云イオルカラ、頼ンダラバ、私ヘ暇ヲ呉レトイウカラ、ソレハナゼダト云ッタラ、女ノウチヘ私ガ参ッテ、是非トモ貰イマスカラ、先モ武士ダカラ、挨拶ガ悪イト、私ガ死ンデモライマスカラ、ト云ッタ、ソノ時ニ短刀ヲ女房ヘ渡シタガ、今晩参ッテキット連レテ来ルト云ウカラ、オレハ外ヘ遊ビニ行ッタラバ、南平ニ出先デ出会ッタ
ゆえ
、何事無シニ
はな
シテ居タラバ、南平ガ云ウニハ、勝様ハ女難ノ相ガ厳シイ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、右ノ次第ヲ咄シタラバ、ソレハヨクナスッタト云ウカラ、別レテ、又々、関川讃岐トイウ易者ト心易
こころやす
イカラ、通リガカリニ寄ッタラ、アナタハ大変ダ、上レトイウ故、上ヘ通ッタラバ、女難ノコトヲ云イオッテ、今晩ハ剣難ガ有ルガ、人ガ大勢痛ムダロウトテ、心当リハ無イカト尋ネルカラ、初メヨリノコトヲ話シタラバ肝ヲツブシテ、段々深切ニ意見ヲシテクレテ、女房ハ貞実ダト云ッテ、以来ハ情ヲ懸ケテヤレ、トイロイロ云ウカラ、考エテミタラバ、オレガ心得違イダカラ、夕方ウチヘ飛ンデ帰ッタラ、隠居ニ娘ヲ抱カセテ男谷
おたに
ヘヤッテ、女房ハ書置ヲシテウチヲ出ルトコロヘ帰ッテ、ソレカラ漸々
ようよう
止メテ、何事モ無カッタガ、是迄、度々、女房ニモ助ケラレシコトモアッタ、ソレカラハ不便
ふびん
ヲカケテヤッタガ、ソレマデハ一日デモ、オレニ叩カレヌトイウコトハ無カッタ、此ノ四五年、
にわ
カニ病身ニナッタモ、ソノセイカモ知レヌト思ウカラ、隠居様ノヨウニシテ置クワ」

 こういうおやじの兄弟も大抵ではないが、細君となるものがことさら思いやられる。亭主の馬鹿に比べてこの女房はエライ、勘弁が届いている――だが、内心ドノくらい、血の涙を呑んだことか。女ではおれもずいぶん馬鹿を尽しただけに、貞婦なる女房というものの有難さがわかって来た。さて、それからは、また頭に入って読みつづくと、
「オレガ隠居スル前年ダカ、吉原ガ焼ケテ、諸方ヘ仮宅ガ出来タ、ソノ時、山ノ宿
しゅく
ノ佐野槌屋ノ二階デ、端場
はしば
ノ息子熊トイウ者ト大喧嘩ヲシタガ、熊ヲ二階カラ下ヘ投ゲ出シテヤッタガ、ソノ時、銭座ノ手代ガ二三人来テ熊ヲ連レテ帰ッタガ、少シ過ギルト三十人バカリ、長鍵デ来テ佐野槌屋ヲ取巻イタカラ、オレガ肌ヲヌイデ、襦袢
じゅばん
一ツデ高モモ立ヲ取ッテ飛ビ出シテ叩キ合ッタガ、三度、二三町追イ返シタソノ時ニ、会所カラ大勢出テ引分ケタガ、ソレカラ山ノ宿デモ、女郎屋一同ニ、客ヲ送ル婆アモ、
かか
アモ、オレガ顔ヲ下カラヨクヨクシオッタ故、何モ間違イガ無カッタ、ソノ時ハ刀ハ二尺五寸ノヲ差シテイタ、山ノ宿中、女郎屋ガ三日戸ヲシメタガ、事無ク済ンダ。
ソノ外、所々ニテノ喧嘩、幾度モアッタガ、タイガイ忘レタ。
浅草市デ、多羅尾七郎三郎ト、男谷忠次郎ト、ソノ外五六人デ行ッタ時ハ、二尺八寸ノ関ノ金光ノ刀ヲサシタガ――ソレニ急ニ七郎三郎ガ誘ッタ故、
はかま
ヲハカズニ行ッタカラ、雷門ノ内デ込合ウ故ニ、刀ガ股倉ヘ入ッテ歩カレナカッタガ、押合ッテ行クト、侍ガ多羅尾ノ頭ヲ山椒
さんしょう
摺古木
すりこぎ
デブッタカラ、オレガ押サレナガラ、ソイツノ羽織ヲオサエタラバ、摺古木デマタオレノ肩ヲブチオッタ故、刀ヲ抜コウトシタラ、コジリガツカエタカラ、片ハシカラキリ倒スト大声ヲ上ゲタラバ、通リノ者ガパット散ッタカラ、抜打チニソノ男ノ逃ゲルトコロヲアビセタラバ、間合イガ遠クテ、切先デ背ヲ下マデ切下ゲタカラ、帯ガ切レテ大小懐中物モ残ラズ落シテ逃ゲタガ、ソウスルト伝法院ノ辻番カラ、棒ヲ持ッテ一人出タカラ、二三ベン刀ヲ振リ廻シテヤッタラ、往来ノ者ガ半町バカリ散ッタカラ、大小ト鼻紙入ヲ拾イテ、辻番ノ内ヘ投ゲ込ンダ、ソレカラ直グニ奥山ヘ行ッタ、漸々
ようよう
切先ガ一寸半モカカッタト思ッタ、大勢ノ混ミ合イ場ハ長刀モヨシワルシダト思ッタ、多羅尾ハ禿頭故ニ
きず
ガツイタ、ソレカラ段々喧嘩ヲシナガラ、両国橋マデ来タガ、ソノ晩ハ何モホカニハ仕事ガナイカラウチヘ帰ッタ。
ソノ外ニモ、イロイロ様々ノコトガ有ッタガ、久シクナルカラ思イ出サレヌ、オレハ一生ノウチニ、無法ノ馬鹿ナコトヲシテ年月ヲ送ッタケレドモ、イマダ天道
てんとう
ノ罰モ当ラヌト見エテ、何事ナク四十二年コウシテイルガ、身内ニ創一ツ受ケタコトガナイ、ソノ外ノ者ハ或ハブチ殺サレ、又ハ行衛ガ知レズ、イロイロノ身ニ成ッタ者ガ数知レヌガ、オレハ好運ダト見エテ、我儘
わがまま
ノシタイ程シテ、小高ノ者ハオレノヨウニ金ヲ遣ッタモノモ無シ、イツモ
りき
ンデ配下ヲ多クツカッタ、衣類ハタイガイ人ノ着ヌ唐物ソノ外ノ結構ノ物ヲ着テ、甘イモノハ食イ次第ニシテ、一生女郎ハ好キニ買ッテ、十分ノコトヲシテ来タガ、此頃ニナッテ漸々人間ラシク成ッテ、昔ノコトヲ思ウト身ノ毛ガ立ツヨウダ、男タルモノハ決シテオレガ真似
まね
ヲシナイガイイ、孫ヤヒコガ出来タラバ、ヨクヨク此ノ書物ヲ見セテ身ノイマシメニスルガイイ、今ハ書クノモ気恥カシイ、是レトイウモ無学ニシテ、手跡モ漸ク二十余ニナッテ、手前ノ小用ガ出来ルヨウニナッテ、好キ友達モ無ク、悪友バカリト交ッタ故、ヨキコトハ少シモ気ガ附カヌカラ、此様ノ法外ノコトヲ英雄ゴウケツト思ッタ故、皆ナ心得違イシテ、親類父母妻子ニ迄イクラノ苦労ヲ懸ケタカ知レヌ、カンジンノ旦那ヘハ不忠至極ヲシテ、頭取扱モ不断ニ敵対シテ、トウトウ今ノ如クノ身ノ上ニ成ッタ、幸イニ息子ガヨクッテ孝道シテクレ、又娘ガヨクツカエテ、女房ガオレニソムカナイ故ニ、満足デ此年マデ無難ニ通ッタノダ、四十二ニナッテ初メテ人倫ノ道、且ツハ君父ヘ仕エルコト、諸親ヘムツミ、又ハ妻子下人ノ仁愛ノ道ヲ少シ知ッタラ、是迄ノ所行ガオソロシクナッタ、ヨクヨク読ンデ味ウベシ、子ニ、孫ニマデ、アナカシコ。

于時天保十四年寅年初於鶯谷書ス
夢酔道人」
 これで一巻を読み
おわ
った時、上野の鐘が、じゃんじゃんと鳴るのを神尾主膳が聞きました。
 上野の鐘がじゃんじゃんと鳴るのは警報ではない、上野のじゃんじゃんは通り物になっているのですが、今日はそのじゃんじゃんが、神尾が耳に事有りげに響いて聞えました。
「覚王院に会おう、そうだ、あの院主を叩いて、ひとつ聞いてみようではないか」
 神尾が突然、巻を叩いて立ち上ったのは、じゃんじゃんの鐘の音につれて、何か急に思い当ったことがあるらしいのです。
 その口の
に現わされたところを聞くと、「覚王院」とある。

「大菩薩峠」を読み直す(5)

この小説のあまたある登場人物のなかで僕がもっとも引かれるのは駒井甚三郎である。無名丸という自ら設計した黒船の針路に関する以下の記述は、期せずして、明治日本以後の日本島の人々に大きな疑問を投げかけているように思う。どこか小栗忠順に通じるところがある。

京の夢おう坂の夢の巻 三十
 怱忙
そうぼう
のうちにも無名丸は、船出としての喜びと希望とを以て、釜石の港から出帆して、再び大海原に現われました。
 船長としての駒井には、遠大なる理想もあれば、同時に重大なる責任もあるのであります。その理想と責任とは、船の中で、自分のみが知る希望であり、自分のみが味わう恵みである。
かろ
うじてお松だけが、ややその胸中を知るのみで、田山白雲といえども、駒井の心事はよくわからない。
 船の乗組は、船の針路に対して、盲従というよりは無知識でありまして、一にも二にも駒井船長を信頼しているのですが、その絶対的信頼を置かれる駒井船長そのものが、船の前途に於て、いまだに迷うているものがあるのです。実際、北せんか、南せんかという最も基本的な羅針の標準に、船長その人が迷っているのだから不思議です。
 大海原へ出て見れば、東西南北という観念はおのずから消滅してしまうようなものの、駒井の心の悩みは解消しない。他の乗組のすべては、地理と航海に無知識であるが故に、安心している。駒井に至っては、知識が有り過ぎるために不安がある。他の乗組のすべては、船と船長に絶対信任を置いているが故に安泰だが、駒井自身は、船と人との将来に責任を感ずること大なるだけに休養がない。
 今晩も駒井は、衆の熟眠を見すまして、ただ一人、甲板の上をそぞろ歩きをして夜気に打たれつつ、深き思いに
ふけ
っているのであります。
 世が世ならば、この船を自分の思うままに大手を振って、いずれのところへでも廻航するが、今は世を忍ぶ身の上で、公然たる通航の自由を持っていない。船の籍を直轄に置くことがいけなければ、せめて、仙台その他の有力な藩の持船としてでも置けば、そこには若干の便宜も有り得たに相違ないが、自分の船は、ドコまでも自分の船だという駒井の自信が、いかなる功利を以てしても、他の隷属とすることを許さない。無名丸は、同時に無籍丸であって、その登録すべき国籍と船籍を有せぬ限り、大洋の上に出づれば、それでまた一個の絶対なる王国なのであります。
 これを前にしては、お銀様が山に
って
おの
れの王国を築かんとしている。駒井は海に於て、己れの王国を持っているのであります。小さくとも、これは絶対の一王国に相違ないのです。お銀様の胆吹に於けるものは、当人だけに於ては自尊傲岸
じそんごうがん
に孤立しているが、周囲の事情に於ては、かえって世上一般に優るとも劣らぬ係累を絶つことが容易でないのに、駒井の王国は、いつ何時でも、世間の係累から切り離して、自分たちの王権を占有することができる、という長所は、同時に、お銀様と駒井との性格をも説明するに足るものでありました。
 将来はともあれ、駒井が月ノ浦碇泊前後、胸に秘めたところのものは北進政策でありました。蝦夷
えぞ
の地、すなわち北海道の一角に、しばらく船をつけて、あすこの一角に開墾の最初の
くわ
を打込むということでありました。北海道は開けない、当時の人の心では日本内地だか、外国だかわからないような蒙昧
もうまい
さがある。その一角を求めて移り住むということは、ほとんど無人島に占拠すると同様の自由があることを確信して、駒井は、月ノ浦を出る時、まず蝦夷ということに腹をきめて出帆し、釜石と宮古の港に寄港して、それから函館という方針でしたが、その後の研究と思索の結果は、それが必ずしも唯一最良の案ではないということです。
 なんにしても北海道は、日本の幕府の支配内のところに相違ない。そこへ鍬を卸すことは、何かの故障も予想されるし、自主独立の精神にさわるところがある。それに気候が寒い――物見遊山の目的の船出ではないから、気候風土の良否の如きを念頭に置くことは贅沢
ぜいたく
のようなものだが、さりとて同じ
ひら
くならば、気候風土の険悪なところよりは、中和なところがよろしい。寒いところよりは、温かいに越したことはない。
 それらの思索が、ここに至っても駒井をして、まだ北せんか南せんかに迷わしめている。しからば北進策を捨てて、南進策を取るとしてみると、この船をいずれの方に向け、いずれの地点に向わしむべきか。今となって、そういうことを考えるのは薄志弱行に似て、駒井の場合、必ずしもそうではなかったのです。事をここまで運び得たにしてからが、尋常の人には及びもつかぬ堅心強行の結果というべきだが、船を航海せしむることだけが駒井の目的の全部ではない。むしろ船は便宜の道具であって、求むるところは、何人にも掣肘
せいちゅう
せられざる、無人の処女地なのです。無人の処女地を求め得て、そこに新しい生活の根拠を創造することにあるのですから、航海も大切だが、それは途中のことに過ぎない。永遠にして根本的なのは植民である。少なくともこれらの人を、子孫までも安居楽業せしむる土地を選定しなければならぬ。そこに念に念を入れての研究と、研究から来る変化や転向が生じても、それは薄志弱行ということにはならないでしょう。
 北進を捨てて南進を取るとすれば、駒井の念頭に起る最初のものは、亜米利加
アメリカ
方面ということになるのは、当然の帰結でもあり、同時に当時の常識でもありました。
 ここには、北に対するつり合い上、南進という語を用うるけれども、亜米利加は必ずしも南とは言えない。むしろ東というべきが至当ではあるけれども、それは今の駒井の立場に於て、東でも、南でも、乃至
ないし
は西であっても、それはかまわない。船の現在の針路が北にあるのだから、それを翻して転換するとすれば、いったんは南へ向けるのが順序である。そうしてこの針路を南へ向けた以上は、亜米利加よりほかには至りつくべき陸地はないということが、その当時の常識ではありました。
 亜米利加というものに対する駒井甚三郎の知識は、浅薄なものではありませんでした。当時のあらゆる識者以上の認識を持っていたと見做
みな
さるべきであります。
 且つまた、この亜米利加行きについては、最近、最も参考すべき、日本人主催の航海経験があるというのは、安政六年に、幕府の咸臨丸
かんりんまる
が、僅か百馬力の船で、軍艦奉行木村摂津守を頭に、勝麟太郎
かつりんたろう
を指揮として、日本開けて以来はじめての外国航海を遂行したことがあるのでありまして、その経験の認識を、駒井は誰よりも深く、聞きもし、調べもして持っている。北進を取ったのは、駒井としては
むし
ろ、よんどころなき避難の急のためであって、駒井の最初の頭は、右の意味での南進に傾いていたのです。それは、今のような自主的の植民地を求めようとする計画からではなく、右の安政年間の、日本人の手によって日本の船を亜米利加まで航海せしめるに成功して、内外人をアッと言わせた、アッと言うことを好まない外人にまで、内心日本人怖るべしとの感を抱かしめた、その前後から起っているのであります。
 駒井甚三郎は、右の安政の航海に参加する機会を得なかったけれども、その事あって、彼の自尊心は著しく刺戟された。日本の船で、日本人の手で、はじめて太平洋を横断したという記録は偉なるものでないとは言わない。だが、咸臨丸という船だけは、本来和蘭
オランダ
から買入れた船なのだ。もう一歩進んで、その船をも日本人の手で造りたいものではないか。外国から買入れたものを改装し、改名した船でなく、船そのものをも一切国産を以て創造して、その船を全然、日本人の力でもって欧羅巴
ヨーロッパ
までも乗切ることはできないか。駒井はこれをやりたかったのです。もし、駒井の在官当時にこの船が出来たならば、駒井は当時、あの時の木村摂津守の役目となり、自家創造の船によって、幕府を代表しての使節として、まず亜米利加を訪問して、次に欧羅巴までも航海を試みたことであろうと思われる。しかるに彼の失脚が公けの使節となることを妨げたけれども、その志だけは立派にこの無名丸によって遂げられている。公使として行くべきものを、浪人として行き得るの実力を持ち得たには持ち得たが、輪郭を作っただけで、内容が完備したとは決して言い得られない悲哀はある。
 知識があればあるだけに、無謀が許されない。今のところ、駒井をして南進策を抛棄
ほうき
せしめているのは、この船で太平洋を横ぎるだけの自信が持ち得られないためであって、決してその初志を断念しているわけではないのです。船に自信が置けないのではない、経験に於て、準備に於て、
いま
だ多大の不満を有しているからです。しかし、今となってみると、出立が最後の運命を決定する日になっていますから、その方針に再吟味を加えて、少なくとも今晩一晩の間に、右の南進か北進かに、最後の決断を下さなければならぬという衝動に迫られて、ひとり思案に
ふけ
っているのであります。船は、もう
うに石炭を焚くことをやめて、夜風に帆走っている。当番のほかは、誰もみんな熟睡の時間で、さしもの茂公もさわがない。
 駒井甚三郎は甲板の上を、行きつ、戻りつ、とつ、おいつ、思索に耽っていたが、ふと、船首に向って歩みをとどめて、ギョッとして瞳を定めたものがありましたが、闇を通して見定めれば、驚くまでのことはない、船首に於て金椎少年が、例によって例の如く祈りつつあるのです。
 イエス・キリストを信ずることに於て、清澄の茂太郎の揶揄
やゆ
の的となっている金椎少年が、一心に行手の海に向って祈っている。他の者ならば、人の気配を感じて退避すべき場合も、この少年には響かない。駒井もまた、茂太郎の出鱈目
でたらめ
の歌と、金椎の沈黙の祈りとは、この船中の年中行事の一対として、とがめないことになっている。
「祈っているな」
 ただそれだけで駒井はまた、行きつ、戻りつ、思索の人に返りました。
京の夢おう坂の夢の巻 三十一
 祈りつつある金椎の姿に、一時
いっとき
驚かされた駒井甚三郎は、また本然の瞑想にかえって、ひとり甲板上を行きつ戻りつしました。
 知識があればあるほど、考えが複雑になって、最後の決断の鈍るのを、自分ながらどうすることもできません。
 こういう時には、天啓ということを、科学者なる駒井甚三郎も考えないということはありません。また卜占
ぼくせん
ということに思い及ばないではありません。何か天のおつげがあって、南へ行けとか、北がよろしいとかの示教があるとしたら妙だろう。また、卜占というものにある程度までの信が持てると、それに着手しないという限りもなかったのですが、駒井甚三郎は、そのいずれをも信ずることができない人です。人間以上に、神だの、仏だのというものがあって、人間の都合によってそれが指図をしてくれるなんぞということは、ナンセンスで、取上げたくても取上げられない。
 
えき
だの
うらない
などということは、それこそ薄志弱行の凡俗のすることで、人間に頭脳と理性が備わっていることを信ずるものにとっては、ばかばかしくて取上げられるものではない。だが、この時は、知識と、認識と、自分の思考だけでは、さすがの駒井にも適切な判断は下せない。いっそ、ばかばかしければばかばかしいなりに、梅花心易
ばいかしんえき
というようなものにたよって、当座の暗示を試してみるも一興である。岐路に迷い、迷い抜いたものが、ステッキを押立てて、その倒れた方を是が非でも自分の行路と定めようということなどは、賢明な人の旅行中にもないことではない。この際、そういったような梅花心易はないか――つまり、時にとっての辻占
つじうら
はないかというところまで、駒井甚三郎の頭が動揺してきたのも無理のないところがあります。
 駒井は天上の星を見て、あの星が一つ南へ流れたら、南へ行くと断然心をきめてしまおう、北へ落ちたら、北の進路をつづけることに決定してしまおう、そうまで思って、天上をじっと見つめましたが、一昼夜に地球の全表面に現われる流星現象の総数は、一千万乃至
ないし
二千万個であろうと言われる流星も、この時に限って、いずれの方向にも、その飛ぶ光を見ることができません。
 やむなく船上を行きつ戻りつして、駒井甚三郎は、またも舳先
へさき
へ来てから、ハッとさせられたのは、事新しいのではない、金椎がやっぱり、まだその場所で祈りを続けている。
おし
の如くというけれども、本来唖なのですから、沈黙に加うるに不動の姿勢がまだ続いているのです。
「まだ、祈っている」
 駒井は、今更のように
あき
れました。
「こうまで一心に、いったい何を祈っているのだ」
と自問自答してみましたが、何を祈る金椎であろう。この少年は、イエス・キリストのほかのどの神をも拝まないことはよくわかっている。しからば、そのイエス・キリストに向って、この少年は何事を祈り、且つ求めているのか。
 駒井も、祈る人をこれまで多く見ているが、在来の日本人の神仏に祈る人は、こんな祈り方をしない。神道にも、仏教にも、祈祷などになると心血を
そそ
ぎ、五体をわななかしめて祈っている。その祈りの力によって、安らかに子を産むこともできる、勝敗を左右することもできるような祈り方をしているが、この少年の祈り方の、それらと全く趣を異にしていることを、駒井も白雲同様にかねてよく認めている。
 金椎の祈りは、祈りでなくて禅に近い、と駒井が評したことがある。無論、その内容に於て言うのでなく、その形体の静坐寂寞の姿が、禅定
ぜんじょう
に入るもののように静かなのを見て評した言葉なのです。しかして今日今晩の祈りは、特にそれらしい静かなものです。
 そうして、今夜に限って、駒井も改めて金椎の祈祷の
すがた
を後ろから注視しているうちに……
「待て待て、イギリスから最初にアメリカへ渡った船の人も、絶えず祈っていたということだ、なるほど、西洋の人間共は、みんなイエス・キリストを信じていたのだな、日本には八百万
やおよろず
の神があり、仏教には八宗百派があるけれども、あちらではイエス・キリスト一つで統一されていたはずだ、本で読んだ時は、人間が神を拝もうと拝むまいと、こっちの知ったことではないと見過して来たが、今晩になると考えさせられる――最初に欧羅巴
ヨーロッパ
からアメリカに渡った人々の経験に聞いて見ようではないか」
 そこで、駒井の頭の中に
よみがえ
って来た過去の読書のうちのある部分が、ゆくりなくも複写の形となって現われて来たのは、亜米利加
アメリカ
植民史の上代の一部――五月丸と名づけられた船の物語でした。
 亜米利加の歴史を読んだ人で、五月丸の船のことを知らぬ者はない。駒井もそれは先刻承知のことでありました。
 五月丸とは、ここで仮りに駒井がつけた呼び名で、五月が May であり、その下に Flower という字がついているから、直訳してみれば「五月花丸」というのが至当だけれども、日本語としては不熟の嫌いがある。「五月雨丸
さみだれまる
」とでもすれば、ぴったりと日本語に納まりもするが、名によって体をかえることはできない。花はどうしても雨とするわけにはゆかない。そこで駒井は、語呂の調子の上から「五月丸」と呼んでみたが、本来は五月花でなければならないなどと、語学上から考えているうちに、そうだ、今日の門出に、あの五月丸の出立こそは、無二の参考史料ではないか。
 そこまで思い
きた
ると、駒井はむらむらとして、よし! わが当座の梅花心易として、天上に星は飛ばなかった、船中に杖は倒れなかったが、わが前途の方向の暗示は別のところから求められる。船中図書室の中には新大陸の植民史もある。従って、五月丸の物語も出ている。今晩これから図書室へ参入して、その五月丸物語を、もう一応再吟味することによって、この行の決定的断定の資料とするわけにはゆかないか――
 駒井甚三郎は、散漫な頭脳をそこへ統一して、驀然
まっしぐら
に船の図書室へ向って参入してしまいました。
 左様なことを知ろう由もない金椎は、まだ
みよし
によって祈っている。
京の夢おう坂の夢の巻 三十二
 駒井甚三郎は図書館へ入って、さし当り手近な辞書を取って目的のところを繰って見ると、次の如くあるのを発見しました。
 May Flower, the small ship (180 ton) which brought the Pilgrim Fathers from Sauthampton England to Plymouth, Mass., December 22, 1620, after voyage of 63 days.
 そこで駒井甚三郎は、最初の亜米利加
アメリカ
訪問の五月丸が、僅か百八十
トン
の小船で、欧羅巴から亜米利加へ来るまでに六十三日を費したという概念をたしかめました。それから次に、Wakamiya, American History という一書を取り出して
ひもと
いて行くと、改めて翻訳するまでもなく、能文を以て次のように書いてありましたから、そっくりそのまま転読しました。
「女王ゑりざべすノ治世ニ於テ、英国教会ノ制度礼儀ニ一大改革ヲ施スベキヲ主張スル一宗派起リ、教会ヲ清ムルヲ旨義トスルヨリ、コノ宗徒ハ自ラ称シテ『清教徒
ピユーリタン
』トイヘリ。彼等ハ始ヨリ一宗派ヲ組成スル意志ヲ有セザリキ。彼等ガ牧師ノ一人タルろばとぶらおんノ勧メニ従ヒ、英国教会ヲ離レテソノ同志者トナリケレバ、人呼ンデ、彼等ヲ『分離派』
もし
クハ『ぶらおん派』トナセリ。教会規定ノ儀礼如何
いかん
ニ拘ラズ、彼等ハ自ラ欲スルママニ信仰ノ事ヲ実行シタルヨリ、猛烈ナル反対起リタレバ、彼等ノ一隊ハ、ぶるうすたあ及ビろびんそんガ指導ノ下ニ、千六百〇八年、英国北部ノ一寒村タルくろすぴーヨリ逃レテ和蘭
オランダ
ノあむすてるだむニ到リ、直チニらいでんニ転ジテ十一年ヲココニ送リタリキ。
彼等ノ和蘭ニ
ルヤ、一個ノ別天地ヲ造リテ、総テ英国ノ風俗習慣ヲ保チタレドモ、カクノ如キハ一時ノ寄留者トシテノミ
これ

クスベクシテ、子孫万世ニハ及ボスベカラズ、彼等ニシテ久シク留ラントセバ、勢ヒ彼等ノ別天地ヲ離レ、本国ヲ忘レ、本国ノ語ヲ忘レ、本国ノ伝説ヲ忘レテ、ソノ子孫ヲ純粋ノ和蘭人ト為サザルベカラズ、コレ彼等ノ耐ヘザル所ナリキ。於是乎
ここにおいてか
千六百十一年、彼等ハ相図リテ移住ノ儀ヲ定メ、永ク英人タルヲ得、且ツ基督
キリスト
教団ノ基礎ヲ据ヱ得ル処ヲ求メタリケルニ、あめりかハ
まこと
ニ能ク此等ノ目的ニ
フモノナリキ。彼等ハカクシテ『倫敦
ロンドン
商会』ヨリ、今ノにうじやしい沿岸ニ殖民地ヲ得タリ。

すで
ニシテ千六百二十年七月、ぶるうすたあ、ぶらうどふおーど、及ビまいるす・すたんでつしゆノ三名ハ先発隊トナリテ和蘭ヲ去リ、英国さうざんぷとん港ニ到リ、倫敦ヨリ
きた
レル一味ノ人ヲ併セテ、八月五日『五月花』号ニ搭ジテあめりかヘト出帆シタリ。天候
シクシテ風波ノ険甚シク、九週間ノ後漸クかつど岬ヘ達スルヲ得タレド、彼等ハコノ地ニ殖民ノ権利ヲ有セザリケレバ、更ニ南ニ航シテ進マントセリ。コノ時暴風進路ヲ
さへぎ
リテ船危ク、
すなは
チかつど岬ニ還リテソノ付近ノぷろゐんすたんニ難ヲ避ケヌ――今ヤ殖民地ノ位置ヲ選択スルコト何ヨリモ急ニ、探険隊ノ相分レテソノ捜索ニ従事スルコト五週間、或日ノ事数人ヲ載セタルすたんでつしゆノ小艇ハ、じよん・すみすガぷりまうすト命名セシ港ニ入レリ。コレ即チ清教徒ガ新世界上陸ノ基点ニシテ、世界殖民ノ歴史ニ異彩ヲ放テルぷりまうすノ事業モまた
ここ
ニ始ル」
 駒井甚三郎は直参失脚の後に於て、その爵位財産の一切を返還してしまったが、蔵書だけは、ほとんどその全部をこの船に搬入して来ています。それは、この人にとっては、食物以上の食物であるから、まずこれを蓄蔵しなければならぬと共に、いったん読み去ったものも参考として、常に座右に置くの便利且つ必要なるを感じたからです。且つまた、これは売り払うとしても、処分するとしても、誰も引受け手がない。いや、引受け手は大いにあるにしても、読める人がない。駒井の蔵書を読みこなすほどの人は、今の日本には絶対にないと言ってもよいくらいです。非常な高価と苦心とを以て集め
きた
った駒井の書物も、これを手放すとなると二束三文である。看貫
かんかん
で紙屑に売られる程度を最後の落ちとしなければならぬ。
 たとえ祖先伝来の爵位と家産を失うとも、この書物を失うには忍びないというのが駒井の愛惜
あいじゃく
でした。そうして、それをこの船まで持込んだことに於ては、今でも悔いてはいないのです。
 かくて、この多くの書物を、それからそれと
あさ
り読み行くうちに、今までに全く閑却していた方面に、新たに多くの興味を見出して、一度消化されたはずの書物が、再び燦然
さんぜん
たる希望を以ての新たなる頁を自分に展開してくれるもののように見え出して、書物に対する眼が火のように燃え出してきました。
 この間に得た駒井の知識は、Pilgrim Fathers の物語が中心となりました。その書物の中の一つの挿絵を見ると、遥か彼方
かなた
一艘
いっそう
の船がある。大きさは駒井の鑑識を以てして百噸内外の帆船に過ぎないが、それが、彼方の沖合に碇泊している。その親船に向って、雑多な人が、小舟に乗込んで岸を離れようとする光景が、一種の写真画となって、その書物のうちにはさまれている。船が手頃の船だし、岸を離れ、国を離れて海洋へ乗り出さんとする刹那が、じっくりと駒井の心をとらえたために、その前後の記事物語を熱心に読み出すことになりました。駒井が多くの蔵書家であり、同時にそれが単なる死蔵書ではなく、充分に読みこなす人であり、読みこなすのみではない、これを実地に活用する稀人
まれびと
であることは、ここに申すまでもないが、駒井その人が、読書というものには裏も表もある、裏と思ったのが、表であって、読みつくし、味わいつくしたと信じて投げ出して置いた書物から、新たに多大なる半面の内容を
ち得たということは、このたびの著しい経験でありました。
 さて、この船出の写真絵を見ると、諸人
もろびと
が皆、祈っている。日頃、金椎
キンツイ
がするように、小舟の中に行く人も、岸に立って送る人も、みな祈っている。
 彼処
かしこ
にかかっている親船こそ、例の五月号に相違ないのであります。そうしてこれらの諸人は、五月号に乗込んで、まさに海洋に乗り出さんとする人と、これを送るの人であることも争われません。いったい、船というものは、五月号にあれ、無名丸にあれ、今まで駒井の見た眼では、単に一つの構造物だけのものでありました。船の図を見ると、この船は何式で、何
トン
ぐらいで、どの時代、どの国の建造にかかっているかということのみが主となりました。従って、船の航海力にしても、これが石炭を
いた場合、どのくらい走り、帆をあげてからどの程度走るというような計数ばかり考えさせられていましたが、今晩は船というものが、大きな人格として、脈を打ち、肉をつけ、血を
たた
えている存在物のように見え出してきました。
 駒井が読み
ふけ
ったこの物語は、前の米国史の頁を、もう少し細かく、温かく、滋味豊かに敷衍
ふえん
してくれたといってもよい物語でありました。
THE ROMANTIC STORY of the MAYFLOWER PILGRIMS
京の夢おう坂の夢の巻 三十三
 読み且つ解して行くと、駒井の読んでいる物語には、次のような要点がある。
「コレ等ノ信神渡航者ハ一人モ往復ノ旅券ヲ求ムルモノナシ、彼等ハ他ノ旅客ノ如ク往ケバ必ズ帰リ来ルモノト予定スルコトヲセザルナリ、到リ着クトコロヲ以テ、ソノ骨ヲ埋ムルトコロト
ス。彼等ハ本国いぎりすノ国家ノ強ヒル宗教ヲ信ズルコトヲ
がへ
ンゼザルナリ、制度ハ国ノ制度ヲ遵奉
じゆんぽう
セザル
カラズトイヘドモ、信仰ハ自由也、国家ヨリ賦課セラルベキモノニアラズ。

しか
ルニ、コノ信念ハ外ニ於テハ国家ニ不忠、内ニ於テハ国教ニ不信ナリトノ理由ヲ以テ、彼等ハ自国ニ住ムコトヲ極度ニ圧迫セラレタルヲ以テ、故国ヲ逃レテ和蘭
オランダ
ノ地ニ来リ、更ニ北米ノ天地ヲ求メタルモノナリ。彼等ノ欲スルトコロハ領土ニアラズ、物資ニアラズ、
おの
レノ良心ト信仰トノ活路ヲ見出サンガタメニ新天地ニ出デタルモノ也。
閤竜
コロンブス
ノ求ムルトコロハ領土ナリキ。黄金ナリキ。サレバ、彼ニ従フトコロノモノモ、屈強ナル壮年男子ニ限リタレドモ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、オヨソ信仰ヲ共ニスル限リ、老幼男女ノアラユルモノヲ抱容スルコトヲ許サレタリ。コノ図ヲ見ヨ、彼等ノ一人モ、祈ラザルハナク、彼等ノ半個モ、武装シタルハナシ。彼等ハ皆、祈ルコトヲ知リタレドモ、祈ルコトヲ職業トスルモノハ一人モコレ有ラザリキ。即チ、コノ信神渡航者一行百二名ノウチニハ、僧侶ト名ノルモノ一人モコレ有ラザリキ。
けだ
シ、僧侶ハ祈祷ヲ商ヒ、権力ニ
ブルコトヲ職トスル階級ニシテ、彼等ノ信仰自由ニ同情ヲ持ツコトヲ知ラズ、コレヲ圧迫スルヲノミ職トスルモノナリケレバナラン。軍人ノ経歴アルモノハ、只一人ノミコレ有リキ。
コレニ反シテ、閤竜
コロンブス
ヲ先頭トスルすぺいん流ノ渡航者ハ、僧侶ト軍人ヲ以テホトンド全部ヲ占メヰタルガ、コノ信神渡航者ニハ、僧侶ナク、軍人ナシ。
しか
シテ
ホ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、一人ノ貴族モナク、イハユル英雄モ豪傑モ、一人モ有ルコトナシ。
彼等ハ皆、小農夫、或ハ小商人ニ過ギザリキ。

しか
レドモ、コレ等ノ小農夫及小商人ハ、皆天ヲ敬シ、人ヲ愛スルコトヲ知ルモノナリキ。彼等ハ教育アリ、訓練アリ、特ニ自治ノ能力ニ於テハ優レタル天分素質ヲ有セルモノナリキ。
カクテ西航六十有余日。
信神渡航者ガぷりもすニ到リ着セル時ハ、北米ノ天ハ寒威猛烈ナル極月ノ、シカモ三十日ナリキ。彼等ノ胸臆ハ火ノ如ク燃エシカド、周囲ノ天地ハ満目荒涼タル未開ノ厳冬也。シカモコノ寒キ天地ノ中ニ、掘立小屋ヲ作リテ、辛ウジテ彼等ノ肉体ヲ入レテ、而シテ、生活ノ第一歩ヨリ踏ミ出サザルベカラズ、ソノ艱苦経営知ルベキナリ。サレバ、ソノ三ヶ月ノ間ニ、コノ一行ノ死セルモノ約半数ニ及ビタリ、一日ニ死スルモノ二三人、百二名ヲ以テ上陸シタル一行ハ三ヶ月ニシテ五十名ヲ余スノミ。
内ニ信仰ノ火燃ユルガ如ク、外ニ国民性ノ堅実不撓
ふたう
ナルニアラザレバ、イカデカコノ悲惨ニ堪ヘ得ンヤ。絶望シ、悲観シ、空シク絶滅スルカ、然ラズンバ
はじ
ヲ忍ンデ逃ゲテ故国ノ空ニ帰ランカ。シカモ、彼等ノ一人モ意気精神ノ阻喪
そさう
スルモノヲ見ザリキ。
彼等ハ、先ヅ荒土ヲ
ひら
イテ種ヲ
キタリ。熟土ヲ耕ストハ事変リ、前人未開ノ地ニ、原始ノ鍬ヲ用フルノ困難ハ知ル人ゾ知ラン。彼等ガ農法ハ新陸ノ土地ニ適セザルカ、彼等ノ携ヘ来レル種子ハ新地ニ合セザルカ、苦心経営ノ初期ノ収納ハ遂ニ皆無ナリキ、而シテ土人ヨリ分与受ケタル玉蜀黍
たうもろこし
ノミガ成功シ、コレニヨツテ僅カニ主食ヲ備ヘ、漁猟ヲ以テコレヲ補ヒツツ、辛ウジテソノ年ヲ送ルヲ得タル也」
 こういったような史実は、駒井甚三郎にとっては、今まで全く門外のことでありました。亜米利加建国初期の開拓者が、こんなような苦難を
めて来たということは、今日までの駒井はほとんど無関心であって、ただ彼は開明の国、人智と機械力とで日本を高圧したり、開国に導こうとしたりしている国、その物と力の発明には、何と言っても一日も一月もの長所があることを、駒井の如きは最も強く認めた一人でありまして、人から西洋心酔者とうたわれるまでに、西洋特に亜米利加の文物の研究のことに熱心であった駒井は、その原始に
さかのぼ
って、今日の開明人にもかくの如き苦心惨憺の経営時代があったということを、今日はじめて身にしみじみと味わうことができました。
「おれは今まで苦労をしないで学問をした、その罪だ」
というようなことを、同時に駒井が自覚したというのは、過去の自分は先祖の功業によって、天下の直参の誇りの中に生き、豊かな経費を持って、欲しいものを
あがな
い得られた。その順境に於て学問をして来たのである。だから、順境そのものが天然に与えられた当然の地位だ、と
なれ

になって事をなしつつあったのだが、自分の昨日の安定を与えたものは、徳川初期の先祖の血の賜物であったに過ぎないということを、今しみじみと自覚せしめられました。
 そうして、今日は全く赤裸にかえって、先祖のなした創業の第一歩を踏むの心持で進まなければならぬことがよくわかってきました。その心境にいて見ると、右の如く自由の天地を求めて船出をした異郷の先人の行路に、無限の教訓と、同情を起さざるを得ない――といって、この書の教うる「信神渡航者」の船出と、現在自分が試みつつある無名丸の出発は、性質に於ても、経験に於ても、全然性質を異にしていることを覚らざるを得ないという次第でした。
 無名丸はまだ無名丸である、しかとした船の名目すらが出来ていない。名は体をあらわすものとすれば、無名丸そのものの内容が無目的なのであって、形は出来て、歩行はつづけられるけれども、頭もなければ
はら
もないのだということを、駒井はつくづくと考えさせられてきました。
 さりとて、自分はイエス・キリストを信ずるものではない、イエス・キリストを信ずるどころではない、日本の宗教のいずれにも信仰者とは断じて言えない。この点に於て、無名丸は無信丸である、五月丸とは天地の相違がある――我等の無名丸の中には、金椎
キンツイ
を除いて祈る人などは一人もいない。五月丸の中には、僧侶、軍人、英雄、豪傑といったようなものは一人もいなかったそうだが、それが今日の亜米利加
アメリカ
の強大の礎石となったということは、絶大なる驚異だ。
 それに反して我が無名丸の中には、少なくとも貴族がいる。自分から言うのは烏滸
おこ
がましいが、現在自分の身柄がすでに貴族でないと誰が言う。日本に於て、殿様の階級に属して天下の直参を誇っていた身だ。それに田山白雲はまた一種の豪傑である。七兵衛は異常な怪物である。茂太郎は変則の天才であり、柳田平治は豪傑の卵である。お松は堅実なる女性である。金椎は聖者に似ている。普通平凡なのは、農夫、漁師、大工、乳母だけにとどまる。上は天才聖者に似たのがいるかと見ると――下は性の開放者までいる。数こそ少ないが、この船の中の人間と、その性格に至っては、紛然雑然として帰一するということを知らない。
 五月丸の乗組は、その信仰と結合に於ては一糸も
みだ
れない、おのずからなる統一を保って、生死を共にして
いと
わない温かさに終始していたが、自分の船に至っては、なんらのまとまった信仰がなく、なんらの性格的帰一がない。これでいいのか、と駒井甚三郎が、この点に於ても深くも考えさせられたものがあるようでした。
 しかし、夜が明けると、船の針路がおのずから南に向っておりました。
 駒井甚三郎は、北進策を捨てて、南進を目標とする決心が昨夜のうちに定まったと見えます。
 駒井甚三郎が、北進を捨てて南進策を取ったからといって、信神渡航者のことは亜米利加に於ても、すでに二百年の昔のことです。今の亜米利加は昔の亜米利加でない、富み栄えて張りきっている。いまさら駒井がその後塵を拝して、前人のすでに功を成したその余沢にありつこうなどの依頼心はないにきまっている。いわばこれを一時の梅花心易
ばいかしんえき
に求めて、当座の行動の辻占に供したに過ぎまいと言うべきですから、従って、針路こそ南に転向ときまったけれども、目的がきまったわけではない。内外共に
いま
だ解決せざる問題が充ち満ちている。
 前途に倍加する多事多難を予想せずにはいられますまい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4344_15487.html

「大菩薩峠」を読み直す(4)

殺人鬼であり冷血漢である机竜之介と、幼いころの火傷でケロイド状の顔をもつお銀さまが取り交わす噛み合わないやり取りが興味深い。この小説の登場人物には身体障害者や精神障害者が少なくない。浪人に代表される幕藩体制からの離脱者や社会的な脱落者、「不具者」といってもよく outsider として捉えることもできる。

胆吹の巻 十二
 同時に、湖面の一点に、ざんぶと音がして、そのあたり一面に水煙が立ったかと見ると、漣々
れんれん
として、そこに波紋が、韓紅
からくれない
になってゆく異様の現象が起りました。
 湖面も、湖を立てこめた数千丈の断崖も、前に言った通りの蛍のように蒼白
そうはく
の色に覆われていたのが、今、不意にざんぶと音がして、その水煙から輪になって行く波紋のすべて鮮紅色になってゆく現象を、さすがお銀様が怪しまずにはおられません。
「あれは、どうしたのです」
 意地悪いお雪ちゃんいじめを抛擲
ほうてき
して、そうして疑問をかけたのを、竜之助がうなずいて、
「あれだ、ああして毎日、いいかげんの時に、人が飛び込むのだ」
「飛び込んでどうするのです」
「どうするって、つまり身投げだよ。見ていると、一刻
ひととき
の間に十も二十も飛びこむことがある、そら見な、あの通り真紅
まっか
になっている中に、真白いものがふわりと浮いているだろう、女の
しり
だ」
「え?」
「女は水に落ちて死ぬと、死体は上向きになり、男は下向きになるということだが、ここで見るとそうばかりではない、真白い女の臀っぺたが、
き立てのお餅のように、幾つも幾つも浮いているところは見られたものじゃない」

ごう
さらしです、女の風上には置けない」
「人間というやつは全くわからないやつだ、刀を抜いて見せたりなんぞすると、
ふる
え上って助けを呼ぶくせに、死にたいとなると、勇敢にああして後から後からと、この血の池の中に飛び込んでしまう」
「勇敢なのじゃありません、意気地なしなんです」
「どっちだかわからないよ」
「自分の身を粗末にして、それを見栄と心得る馬鹿者が絶えないのです」
「時に……」
と竜之助は少し改まって、断崖の欄干から後ろの岩壁へ背をもたせ、
「開墾事業の方はどうです」
「どしどし進行しておりますよ」
と、お銀様との問答が、全く別な内容へ向いて来ました。
ものになりますかね」
ものにしますとも」
「そうして、この開墾王国の女王の下に、何人ぐらいの人口が収容できる見込みですか」
「何人と制限はありません、土地の生産の供給が許す限りは人を入れます」
「土地の生産の見込みはつきますかな」
「それは、つかないはずはありません、
いやしく
も土そのものに生産能力のある限り、種を
いてやれば、実を結ばせるだけの素質を持った土地ならば、それに住む人口は食わせて余りあるだけの生産は、きっと得られます。既に土地が食物を供給しさえすれば、人間をそこに収容し、そこに生活を為さしめ得ないということはありません」
「なるほど――」
「人間が自由を奪われるのは、つまり食えないからですね。それと同じように、人間が人間にたよらずして食えさえすれば、人間は本当に人間らしく生きて行くことができます。さむらいが主君に忠義を尽すというのも、知行
ちぎょう
を貰って食べさせられているからです。知行を貰って食べさせられているから、それで、まさかの時は君の馬前で死ななければなりません。まさかの時でない時、尋常の場合にも、主君というものの前に奴隷の状態でいなければなりません――自分で食うことを知っていれば、知行を貰って忠義を尽す必要なんぞはありません。それと同じように、すべての人が……」
「まあ、待って下さい、お銀さん、自分で食うことを知っていれば、人は奴隷の状態にいなくてもいいと言いましたね。さむらいというやつは、知行を貰って身売りをしている奴隷の一種だというようなことを、お前さんは言いましたね。なるほど、してみると、自分で作り、自分で食うことを知っている、あの百姓の生活はどうです、あれがさむらい以上の奴隷生活ではないと誰が言います」
「え、それにはそれで、また理窟があります、百姓が天地の間に物を作り、自ら生き、自ら食うことを知っている境涯にありながら、現在、さむらい以上の奴隷生活を送っているということは、わたしも充分にそれを認めます。それを認めればこそ、わたしの開墾事業も起ろうというものです。事実、今日の百姓は、自ら力を尽して土地に蒔いたその収入を、自分のものとすることができません。全部を自分のものとすることができないのみならず、ほとんど全部を他のために奪われてしまっているのです」
「誰が奪うのですか」
「百姓以外の、衣食を作らない人が奪っているのです。そうして、衣食を作っている百姓は、そのうちのホンの生きて行くだけというよりは、息をするに足るだけの少量を与えられて、そうして、身動きもできないようにこしらえられてあるのです。ですから、それを、わたしの開墾地ではやめようと思います、正当に衣食を作る人には、正当にその分け前を与えます、そうして、衣食のために人間が人間に屈従することなく、衣食そのものは人間以外の天の恵み――とでも申しましょうか、そこから得て、人間はおたがいに人間としての平等な体面をもって
きて行こうというのが、わたしの開墾地の目的なのです」
「ははあ――それは結構なお考えに違いありません、が、しかし、仮りにその目的が達せられたとしましてですな」
「はい」
「そうして、人間が生活のために、つまり衣食のために、おたがいに屈従することなく、衣食の余りある生活の下に、人間の自由が伸び、享楽が増し、まあいわゆる、王道楽土とか、地上の理想国とかいうものが成立したとしましてですな」
「はい」
「その時に、もし隣の地に悪い奴があって、その理想国を
うらや
み、その余裕のある宝を奪いに来たらどうします」
「そういうものが多少現われたところで、わたしたちの団結の力で受けつけません」
「ですけれども、それがもし、その悪い奴が多少でなく、二人や三人や五人や十人ということでなく、数百、数千の人が団結して侵して来たらどうします」
「その時は、わたしたちのうちの男は
くわ
を捨てて、女はつむぎを投げ捨てて、その外敵を
はじ
きかえします」
「してみると、そういう不時の侵入者に対して、平常の用意というものが要りますね――五六十人の敵ならば、有合わす得物
えもの
を取って、応急的に追っぱらいましょうけれど、千人万人の侵入者に対して素手
すで
というわけにはゆきますまい、先方もまた必ず素手でやって来るというわけでもありますまい。必ず、こちらにも、それに要するだけの武器というものを、平生備えて置かなければならないでしょう」
「それは、事業が進み、規模が大きくなるにつれて、自然にその準備が出来るようになります。たとえば部落の中に火事があったとしましても、一軒二軒のうちならば、手桶や
たらい
で間に合いましょうけれど、殖えてくれば、非常手桶や竜吐水
りゅうとすい
も備えなければならず、また備える費用もおのずから働き出せて来ようというものです。いつ来るかわからない侵入者のために、あらかじめ備えて置かなければならない必要もありますまい」
「拙者は、そうではないと思う、その非常と侵入者に対するあらかじめの設備が無い限り、開墾地は成り立つものでないと思う。そうして、行く行く、その設備のために生産の大部分が奪われて行ってしまうから見ていてごらんなさい――それはそうとしてですな、今度は内部に就いて伺いましょう。お銀さん、仮りにあなたの理想国が成立して、無事に相当の期間つづき得たとしてですな、外敵も侵入者も影を見せない水いらずの楽土が成立したとしてですな、その内部に我儘者
わがままもの
がいたら、それを誰がどう処分しますか」
「そこです、わたしの理想国では我儘というものが無いのです。我儘がないというのは、誰に対しても絶対に我儘を許すからです。今の政治も、道徳も、すべて人間の我儘を抑えることにのみ専一なのですから、それで人間の反抗性を
あお
る結果になるのです。無制限に我儘を許してみてごらんなさい、人は無意識に自重の人となりますよ」
「ははあ、それは、すばらしい徹底ぶりですね、また一理ありと思いますが、そんならひとつ、実例について伺いましょう」
と、竜之助は尺八を取り直して、それをかせに使いながら、改めてお銀様にものやわらかな質問を試み出しました。
胆吹の巻 十三
「たとえば……ここに、その理想国のうちに一人の我儘者が出たとします、そのものが男であったとして、仮りに、その男が同じ楽土のうちの一人の女を恋したとしましょう、その結果はどうなるのです」
「わたしたちは、恋愛の自由を絶対に許すつもりでございます」
「恋愛の自由……
しか
し、その恋愛が完全性を帯びなかった時はどうです、つまり、一方だけに恋愛があって、一方にそれが無かった時はどうです」
「相愛しないところに自由は許されませんね」
「ところで、問題はそれからです、許されないその恋愛を強行したものがあった時は、どうします、つまり、最初の例の楽土のうちの一人の男が一人の女を愛してはいるが、女がその恋に酬いなかった時、男が淡泊に
あきら
めて引下れば問題は無いのですが、そうでなかった時、当然、暴力が発動される、そうして女が力に於て弱くして、その暴力に反抗しきれなかった時に、その結果はどうなりますか」
「それは仕方がありません、その時は、女は死を以て身を守るか、そうでなければ男の力に服従するのです、同様の事情は、女が積極的である場合にも許されなければなりません」
「ははあ、してみると、あなたの国もやっぱり暴力を是認するのですな、征服を認めるのですな」
「そうですとも、力が大事です。力というのは、腕の力ばかりではありませんよ。絶対の自由を許すところには、絶対の力がなければならないのです――そうして、その力というものは、非常の時は武力で、平和の時は金力なんです」
「だが、武力も、金力も、如何
いかん
ともする
あた
わざる力のあることを認めませんか」
「そんな力はありません、あるように見えましても、みな、武力か金力が持つ変形なのです」
「ですが――たとえば、いま女のことで例をとってみましたから、もう一つ、仮りに女の貞操というものなんぞはどうです」
「貞操――みさおですね」
「そうです、たとえばです、女が愛する夫のために死を以て貞操を守るというような場合に、武力や、金力が、これをどう扱いますか」
「貞操ですか――貞操なんていうものが本来、わたしにはよくわかっていないのです」
「ははあ、そうしますと、良家の夫人も、遊女おいらんの
たぐい
も、同じようなものなんですね」
「え、え、本来同じ人間ですね、一方は一人の夫を守るように生みつけられているし、一方は多数の客を相手にするように出来ているだけのものなんでしょう。一人の夫を守らなければならないようにさせられている者が貞女で、多数の男を相手にするものが不貞女とは断言できません。良家の夫人と言われるものでも、性格的にずいぶんイヤな女があり、遊女おいらんの類でも、性格的に立派な女があるものです。貞操なんていうものの本質を何だかわかっていないくせに、世間
てい
だけを守って、内実は堕落しきっている良家の夫人というのがいくらもあります、それからまた、境遇さえ改めてやれば、立派な貞女になりきる遊女がいくらもありますね――わたしは女を見るに、貞操なんぞをそう勿体
もったい
ない標準にしたくはないと思います。もともと、貞操というものは、一定の人を、一定の人に押しつけたり、与えきったりしようとする圧制から起った人間の勝手な束縛なのです。しかし、昔はその圧制も束縛も、社会生存のために必要でありました点は認めますけれども、今ではその圧制と束縛が、人間を使用するようになりました」
「そうしますと、女の貞操というものは、無条件に解放していいのですか」
「そうです」
「では、女という女はみな、遊女にならなければならない道理ですね」
「いいえ、違います、遊女は
みさお
を売るのです、解放というのは売却することではありません、また、わたしたちの社会では、売ることの必要を認めないのです、男も女も独立して生活が与えられる保証が立てば、何を好んで売りたがるものがありましょう――縁あれば会い、縁なければ去るだけのものです」
「なかなかむずかしくなりましたが、それはそうとして、かりに道義的に貞操を認めないとしても、感情的に
けが
らわしい女と、汚らわしくない女との区別はありましょう、そうして、仮りにあなたが男であって、どちらかを選ぶとすれば、それは無論、汚らわしいものよりも、汚らわしくないものを選ぶことでしょう。最初から一人の男を守り通してくれる人と、誰でもおかまいなしに相手にする女と、どちらを選ぶかということになれば、あなただって、それはきまっているでしょう。それをもう少し実感的に言ってみるとですな、あなたの妻が、あなた一人を愛してくれるのと、妻でありながら他の男に許すという女と、どちらを選びますか」
「そんなことはお尋ねになるまでもありませんよ」
 お銀様はツンとして、つき戻すように竜之助に向って答えました、
「一人の夫を愛しきれない妻――一人の妻を愛しきれない夫――つまり、それを世間でいう放蕩のはじまり、乱倫の起りときめてしまっていますから、すべての悲劇がそこから起るんですが、考えてみればばかばかしい話です、本来、自然に出でなければならない愛情というものを、
いて追いかけようとするから、そんなばかばかしいことが起ってくるのです。好きである間は夫婦であってよろしい、いやになれば、夫婦なんていう形式をぬいでしまいさえすれば何でもないことではありませんか。夫婦という形式を、お友達という関係として見れば、何のことはございません、その時々によって無制限であり、近くもなり、遠くもなるべきお友達というものを、生涯一緒に引きつけて置かなければならないはずもなし、また、そんな
わずら
わしいことをしたいと言ってもできるものではありません」
「だがなあ、男女の間のことってものは、そう単純にはいかんものでなあ、一方の愛が衰えても、一方の愛はまだ盛んなこともあるですからなあ。つまり、未練というものがあるものでな」
「その未練とか、嫉妬とかいうのが一番いけないんです、わたしの作ろうとする理想国では、そういう場合に於ける未練と嫉妬とを、厳重に禁止する、またそういう場合は極めて自由恬淡
てんたん
であるべきように、子供のうちから教育して置きたいと思います」
「なるほど――子供のうちから、異った習慣の社会に置いて、異った教育をして置けば知らぬこと、現在このままでは、好きな女が自分に
なび
かぬ時、自分にそむいて行こうとする時に起る悲劇をどう扱いますか、武力か、金力か、ともかく、お前さんの言う強力が、そんなのをどう扱うか聞きたいものです。もう少し露骨に例をとって言えば、自分の女房が不義をしたとか、または亭主が女ぐるいをして方図がないとかいう場合の、あなたの王国での制裁方法はどうなんですか」
「不義をした女房――その不義ということが、いわゆる世間の不義と、わたしの国の不義とでは解釈が違うかも知れませんが、仮りに世間の例に従ってみましょう、刑罰として殺すということは、わたしの国では許さないつもりです、また他国へ追放するということも、未解決の延長になるだけのものですから、そういう場合には極めて気分安らかに、一方が一方を離れてさえしまえばよいのです、未練も残さず、嫉妬も起さずに――離れることを好まなければ、やはり同じ生活をしていながら、お互いともに絶対的に許してしまうのです」
「ははあ、そういうことができますかね、現在、目の前で自分の女房が、自分以外の幾多の男に許すのを、平気で見たり聞いたりしていられるものですかね」
「わたしは、それができると思うのです――観念の持ちよう一つでできなければならないと思うのです、現在それが、片一方だけには完全に行われて、誰もあやしまない程度に許されているのですから……」
「そんなことが許されていますかね、自分の最愛であるべき女房が、相手かまわず不義をしてもいいと言って、ながめていられるような社会が、現在のこの世界にありますかね」
「だから、片一方だけと言ったではありませんか――片一方というのは、男の側にだけということなんですよ、男の方は、現在の妻の目の前で、どんな不義をしても通っているし、通されているのです、その点に於て、女は嫉妬深いというけれど、実は寛大至極なんですね、早い話が、わたしたちがこんど新しく求めて種を
こうとする理想国の地面は、昔京極家の城跡であったということですから――ひとつその京極家から出立しての実例について見ようではありませんか」
「なるほど」
「このお雪さんという子が仮住居
かりずまい
にしているところに、大きな松の木があるのです、わたしはそれを見ると、あの辺をどうしても
まつ
丸殿
まるどの
と名をつけてみたくなりました。御存じでしょう、松の丸殿というのは太閤秀吉の御寵愛
ごちょうあい
の美人の一人なのです。あの人は、或る城主の妻でありましたが、それが
とりこ
となって秀吉の御寵愛を受ける身になったのです。お
めかけ
ではないそうです。太閤には五妻といって、ほとんど同格に扱われた五人の夫人がありましたことは、あなたも御存じでしょう。北の政所
まんどころ
とか、淀君
よどぎみ
とかを筆頭として、京極の松の丸殿もそれに並ぶ五妻のうちの一人でした。一人の男に仮りにも正式に妻と呼ばれるものが五人あって、それがおのおの一城を持って、一代を誇っていたのです。そのくらいですから、それ以外にあの秀吉の征服した女という女の数は幾人あったか知れません――と想像もできますし、また物の本を読めば、相当に実例を挙げて数えてみることもできるのではありませんか。
はなはだ
しいのは、宿将勇士たちを朝鮮征伐にやったそのあとで、いちいち留守の奥方を呼び入れて
ねや
のお
とぎ
を命じたということが、事実として信ぜられているではありませんか。それほどなのに、誰も太閤の乱倫没徳を
とが
める人がない。力というものはそれです。力さえあれば、男は幾人の女を同時に愛しても善い悪いは別として、事実が許すではありませんか。それが女には比較的――というよりは、絶対的に許されないと見られるまでのことなのです。けれども、男に許されて、女に許されないという道理はないはずです、要するに力の相違なんですから、その力がありさえすれば女といえども、男のした通りのことをして、やはり道徳的に善い悪いということは問題外に置いてでございますね、力がありさえすれば女だって、それがやれないことはないのです」
「そういう理窟になるね。しかし、女の方にそんな実例がありますか」
「ありますとも、唐の則天武后
そくてんぶこう
をごらんなさい」
「うむ、則天武后ですか」
「歴史家という人たちは、その人たちの支配されている時代の尺度で歴史を書くものですから、自然、人間の規模を見損なってしまうことが多いのです、則天武后を、淫乱の、暴虐の、無茶の、強悪の権化
ごんげ
のようにのみ、歴史の書物には写し出されていますけれども、そう暴虐の、淫乱の、無茶な人に、いつまでも人心が服しているはずはありません、たとい一時の権勢はありましても、長く人気を保てるはずはないのに、あの人は大唐国の王座をふまえて少しもゆるがさず、好きなという好きな男は無条件に自分の性慾の犠牲として、或いは
もてあそ
び、或いは殺していながら、それで八十歳の天寿をまで保ち得たということは、非常な力を持った人でなければならないはずです、ああなると力というよりも、一種の徳と見なければなりません」
「ははあ――力は、すべての道徳の上の道徳だな」
と竜之助がうそぶきました。
胆吹の巻 十四
 お銀様は、さほど昂奮しているとも見えないが、その論鋒はいよいよ衰えないで、
「力は即ち道徳と言っても少しも差支えはないのです。世間では、道徳を一つ一つの型に
こしら
えてしまっていますから、小さいものは当嵌
あては
まりますが、大きくなると、その型に入れきれなくなります、その場合になって、不道徳だの、乱倫だのと、目を三角にして騒ぎ廻りますけれども、自分たちの型の小さいことには気がつきません、ただ事実だけの進行を如何
いかん
ともすることができないでいるのが痛快とは言わないが、かえって自然なんですね。珊瑚
さんご
の五分玉には、針で突いたほどの穴があっても
きず
は瑕に相違ないのです、五分玉としての価値はもうありませんが、この胆吹山に、一丈や二丈の穴を掘ったからとて瑕にもなんにもなりません、従って山のねうちに少しも関係はないのです、それを世間が同じように見るから、そこで狂乱がはじまるのです。裏店
うらだな
のかみさんたちが御亭主の胸倉
むなぐら
をとるつもりで、太閤の五妻を責めるわけにはゆかないのです。ですけれども、道徳というものは差別があっては道徳の権威がないと、もう少し若い時には、わたしたちでも、ひとり腹をたてたものです、裏店のおかみさんが間男
まおとこ
をして悪ければ、太閤秀吉が人の女房を犯していいという道徳はありますまい。それが許されているのは片手落ちなる強者の道徳――こんなことをわたしも、もう少し昔はヒドク憤慨してみた一人なのですが……」
「してみれば、力のある奴は、力一杯何をしてもいいんだな」
「そうですとも、力いっぱいに仕事をさせれば、きっと人間は、この世を楽土にさせ得るものなのです、型の小さい人間が、強者の力の利用を妨害するから、それで人間が
しきれないのです」
「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。天は人間に生みの苦しみをさせようと思って、色だの、恋だのという魔薬をかける、人間がそれにひっかかって親となり、子を持つようになったらもうおしまいさ。生めよ
やせよだなんて言ってるが、ろくでもない奴を生んで殖やしたこの世の
ざま
はどうだ。理想の世の中だの、楽土なんていうものは、人間のたくらみで出来るものじゃない、人間という奴は生むよりも絶やした方がいいのだ」
「あなた一流の絶滅の哲学ですね――哲学だけならいいけれど、あなたは実行力を持つからたまらない」
「ふ、ふーん、実行力――知れたものだ」
と、竜之助が自ら
あざけ
りました。そうするとお銀様もツンとして、
「お気の毒さま、あなたに限ったことはありません、どんな絶滅の哲学者が現われても、戦争が続いても、流行病がはやっても、人間の種はなかなか尽きませんよ」
「困ったものだ、ろくでもない奴が殖えてばかりいやがるな、だが、いつか、絶滅する時があるよ、人間てやつが、一人残らずやっつけられる時がある」
「せっかくですが、やっぱり殖えるばかりで、減る様子は見えませんね、殺し合っても殺しきれないんです――人間以外の力だってそうです、幾世紀に幾度しか来ない、戦争や、天災だって、一時に十万の人を殺すことは、めったにありませんからね。そのほかに、この人間力に対抗するような力が、ちょっと見出されないじゃありませんか。いったい、何が人間を亡ぼしますか」
「この土と水とがすっかり冷たくなって、コケも生えないような時節が遠からず来るよ、
こけ
が生えないくらいだから、人畜が生きられよう道理がない、その時まで待つさ」
「誰がその時節到来を待ちたいと言いました、そんな時代をわたしたちは想像したこともないのです。ごらんの通り、地上には人の要求する何十倍もの食料を与えるところの穀物が生えるのです、土が人間を愛するから、それで食物に不足はありません、私たちは、生きて、栄えて、整理して、防禦して、それで聞かない時は討滅して、力の権威をもって、自分に従わないものをどしどしと征服して行くのです。そういう意味に於て絶対の暴虐が許されます。あなたなんぞは明るい日の目を見ることが出来ないで、仮りに十日に一人、月に五人の血を吸って
かろ
うじて生きて行く間に、私たちは土を征服し、人間をことごとく自分の理想の従卒とし、牛馬として使って行くのです、愉快じゃありませんか」
「ふふーん、そういうのは征服じゃない、自分が多くの有象無象
うぞうむぞう
の生きんがための犠牲に使われ、ダシに使われているのだ、英雄豪傑なんていうものと、愚民衆俗というやつの関係が、いつもそれなんでね。要するに人間というやつは、自分たちの、無用にして愚劣なる生活を
むさぼ
りたいために、土地を濫費
らんぴ
し、草木を消耗していくだけのことしかできないのだ、結局は天然を破壊し、人情を亡ぼすだけのことなのだ。開墾事業だなんぞと言えば、聞えはいいようだが、人間共の得手勝手の名代
なだい
で、天然の方から言えば破壊に過ぎない。人間共のする仕事、タカが知れているといえばそれまでだが、あまり増長すると、天然もだまってはいない、安政の大地震などは、生やさしいものだ、いまにきっと人間が絶滅させられる時が来る。天上の
あま

がわ
がすっかり凍って、その凍った流れが滝になって、この世界の地上のいちばん高いところから、どうっと氷の大洪水が地上いっぱいに十重
とえ
二十重
はたえ
も取りまいて、人畜は言わでものこと、山に
む獣も、海に棲む魚介も、草木も、芽生えから卵に至るまで、生きとし生けるものの種が、すっかり氷に張りつめられて絶滅してしまう。わしは信州にいる時にそういう夢を見たが、
めて見ると山が火を噴き出したといって人が騒ぎ出した、火と水との相違だが、いずれ天然の呼吸の加減で、人間というやつが種切れになる時があるにはあると思っているよ」
「そうですね、夢にだけはそんな時があるかも知れないが、まあ、この世の中をごらんなさい、眼の見えない人は格別、わたしたちのような眼で見ると、まだまだ地面は若々しく、人間には油がありますね。こうして地面と人間とが生きて見せびらかしている間は、いかに絶滅論者でも、自分の手で死なない限り、死ぬことさえが
まま
にはなりますまい。御退屈でも、あなたの想像するその絶滅の日の来るまで、そうしてお待ちなさい」

たま
らないな、いつその日が来るんだ、その絶滅の日が来るまでは、ここを出られないのかい」
「それがよろしうございます、気永く、そうして絶滅の日の来るのを待っておいでなさい」
「堪らないよ、退屈するなあ、もう少し広いところへ出してくれないか」
「いけません、あなたはそうしていらっしゃるのがいちばん楽なんです」
冗談
じょうだん
じゃない、お為ごかしで監禁されてしまったんじゃたまらない、誰がいったい、拙者をこんなところへ入れたのだ」
「それは、わたしが封じ込んだのです」
「ははあ、笑止千万、理想の国土だの、安楽の王土だの、人を無条件に許すの許さないのという奴が、男一匹を捕えて監禁束縛して置かなければ安心ができない――力の哲学の自殺だね」
「ちょうど、絶滅の論者が、自分の身を絶滅しきれないで迷っているのと同じようなものですね、ホホホホホ」
「お銀さん、黙ってお前さんの理窟だけを聞いていると、お前さんはどうしても則天武后以上の女傑のようだが、理窟は理窟として、現在拙者は、こうして一室に監禁されているのがたまらないな、こんな、日の目の見えないところから解放してやってくれてはどうです、こんな座敷牢へ押込めて置かなくても、広い世界へ野放しにしてみたところで、人間のしでかす事なんぞは、タカの知れたものじゃありませんか」
「お言葉ですが、あなたばっかりはいけません、あなたを解放してあげることは、為めによくありません」
「どうして」
「どうしてったって、こういう人間に限って、決して日の目のあたるところへ出してはならないのです」
「それは残酷ですね」
「残酷なんて言葉を、あなたも知っていらっしゃるのですか」
「男一匹を、こうして日の目の当らぬところへ永久に閉じ込めて置くなんぞは、残酷でなくて何です」
「閉じ込められて置かれる人の残酷さ加減より、そういう人を解放することの危険さから生ずる残酷の方が幾層倍も怖ろしいから、それでわたしの計らいで、当分ここへ封じ込めて置くのが、どうして悪いのですか」
「悪いな――人の自由を奪うというのは何よりも悪い、ましてだ、自由と解放とのために、新理想の楽土王国を築こうなんぞという女性が、あべこべに人を捉えて、幽囚の身にするなんぞは、矛盾も
はなはだ
しい、解放して下さい」
「いけません――あなたをここから出してあげることはいけません、もし何か御用がある節は、こちらから行ってあげて、少しも不自由はおさせ申しませんから、おっしゃってみて下さい」
「いやはや」
「何か御要求はありませんか」
「それはあるさ、生きている以上は」
「何ですか」
「生きているために必要な要求ぐらいは、聞かなくたって分りそうなものだ」
「米ですか」
「は、は、は」
「肉ですか」
「は、は、は」
「血ですか」
「は、は、は」
「そうでしょう、あなたは生ている肉か、温かい血でなければ召上れない人なんですから、それは、わたしが先刻御承知ですから、いくらでも御意のままに供給して上げますよ。ですけれども、ここにいるような、いたいけな、やわらか過ぎるのはいけませんよ、こんなやわらかな肉ばかり食べていると、狼の牙が鈍ってしまいますね。
あぶら
ののった、もう少し肉のただれた、そうして歯ごたえのある骨つきの肉でなければ、食べてはなりません」
「は、は、は」
「今、あなたの要求する、ちょうど、あなたのお歯に合うようなよい肉を、わたしがそこへ持って行ってあげるから」
 お銀様の言葉が、ここで異様に昂奮し出して、ひらりと身をのし上げたかと見ると、対岸にいる人に向って吸いつくように飛びかかったのを見て、
「あれ危ない」
 お雪ちゃんがそれを
さえぎ
り止めようとしたのか、また自分ももつれ合ってそれと一緒に飛んで行こうという気になったのか、その途端に自分だけがハネ返されて、後ろの岩壁へ仰向けに打ちつけられてしまいました。
 そうすると、絶対的の向う岸で、
「ホ、ホ、ホ、あなたはここへ来られません、そこで見ていらっしゃい」
 お雪ちゃんは眼前で、お銀様という人の肉体の怖ろしい躍動を見せられてしまいました。
 その怖ろしい躍動を真似
まね
るだけの力も、妨げるだけの力もないお雪ちゃんは、歯を食いしばって、眼を閉づるよりほかはありません。
 一旦つぶった眼を開いて見ると、欄干のあったと思う対岸には、鉄の棒の荒格子がすっかりはめられていて、その中は以前と同じ洞窟のようでありますけれど、白衣
びゃくえ
に尺八のすさまじい風流人の姿は見えず、大きな鳥の羽ばたきの音が聞えました。
 それは昼のうちから自分たちの視覚を攪乱
こうらん
していた大鷲が――この牢の暗い中に、ただ一羽、空で見たところよりも、こうして捕われているところを見ると、五倍も十倍も大きく、獰猛
どうもう
に見えるのでしたが、その大鷲がこちらには頓着せずして、しきりに下を向いて、その鋭い
くちばし
を血だらけにして何をかつついて食べている。深い爪でしっかと抑え、その血だらけの鋭い嘴の犠牲にあげられているものを何者かと見ると、ああ、それは今のお銀様です。お銀様は、大鷲の両足にしっかり押しつけられて、
かお
といわず、胸といわず、ところきらわず、その深い嘴でつついては食われつつあるのです。
「あ、お嬢様! お嬢様!」
と、お雪ちゃんは絶叫して、自らあの残酷の中へ身を投じたお嬢様の不幸な運命に怖れおののいたが、一つおかしいことは、さほど残酷な犠牲となって、猛鳥のために
むさぼ
り食われつつある当のお嬢様が、少しも苦痛の表情をもせず、助けを求めるの声をなさず、
さるるがままに、食わるるがままに任せて、そうして、死んでいるのではない、かえって、その猛鳥の加える残酷と、貪欲
どんよく
と、征服とを、相当に心地よげに無抵抗に、むしろ、うっとりとしてなすがままに任せている、そのお銀様の態度に、お雪ちゃんが、あの猛鳥の為す業より、なお一層の残忍さを覚えて、
「お嬢様、あなたは――」
と言った時に、目が
めました。枕もとで、
「お雪ちゃん、わたしはいま帰って来たところです、あなたは夢にうなされていましたね」
 それは現実の弁信の答えであって、驚いて見ると障子が白くなっておりました。
 弁信法師は、昨夕のあの大風に、無事に帰れて、今朝、たった今、ここへ立戻って来たところに相違ありません。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4511_14292.html

「大菩薩峠」を読み直す(3)

「勿来の関の巻」はやや中だるみの感があったが、この長編小説に取りかれのがれることができない。読み続けていると、興味深い内容があった。16世紀末の朝鮮侵略における王義之の真筆をめぐる伊達家と細川家の物語だ。真偽のほどは不明だが、こういう内容に興味を持つ僕が少し変なのかもしれない。以下、青空文庫「大菩薩峠 白雲の巻」より引用する。

白雲の巻 五
 (前略)
「ああ、それそれ、もう一つ仙台家に――特に天下に全くかけ替えのない王羲之
おうぎし
があるそうですが、御存じですか、王羲之の孝経――」
「有ります、有ります」
 玉蕉女史が言下に答えたので、白雲がまた乗気になり、
「それは拝見できないものでしょうかなあ」
「それはできません」
 女史はキッパリ答えて、
「あればっかりは、わたくしどもも、話に承っておりまするだけで、どう伝手
つて
を求めても拝見は叶いません、いや、わたくしどもばかりではございません、諸侯方の御所望でも、おそらくは江戸の将軍家からの御達しでも、門外へ出すことは覚束なかろうと存じます」
「ははあ、果して王羲之の真筆ならば、さもありそうなことですが、王羲之の真筆はおろか、拓本でさえ、初版のものは支那にも無いと聞いています――そういう貴重の品が、どうして伊達家の手に落ちたか、その来歴だけでも知りたい」
という白雲の希望に対しては、玉蕉女史が、次の如く明瞭に語って聞かせてくれました。
白雲の巻 六
 豊太閤朝鮮征伐の時、仙台の伊達政宗も
おく

せながら出征した。朝鮮国王の城が開かれた時、城内の金銀財宝には目をつける人はあったけれども、書画骨董
こっとう
に目のとどく士卒というのは極めて稀れであった。
 そのうちに、肥後の熊本の細川の藩士で甲というのがしきりに、王城内で一つの書き物を見ている――兵馬倥偬
へいばこうそう

かん
に、ともかく墨のついたものに一心に見惚れているくらいだから、この甲士の眼には、多少翰墨
かんぼく
の修養があったものに相違ない。
「これこそ、わが主人三斎公にお目にかけなければならぬ」
 それを、
かた
えから、さいぜんよりじっとのぞいていたのが、伊達家の乙士であった。
 この乙士がまた、偶然にも同好の趣味を解し得ていたと見え――細川の甲士が一心をとられているそれを、のぞいて見ると、ああ見事――熟視すると、それがすなわち王羲之筆の孝経である。
 乙士の眼は燃えた。わが主人政宗公へ、この上もない土産――分捕って持ちかえらないまでも、一眼お目にかけたら、そのおよろこびはと、自分の趣味から、主人思いは細川の甲士と同様で、それに功名熱が
あお
りかけたが如何
いかん
せん――先取権はもう、その細川の甲士の上にある。
 さりとて、どうも、このままでは引けない、ともかくもぶっつかってみようと、伊達の乙士は細川の甲士に向い、なにげなく、
「さても見事な筆蹟でござるが、拙者もこの道は横好き、なんとこの一巻を、拙者の好事
こうず
にめでてお譲り下さるまいか」
 こう言って持ちかけてみたが、甲士は頭を縦に振らなかった。
「敵将の一番首はお譲り申そうとも、この一巻は御所望に応ずるわけにはいかぬ」
「それは近ごろ残念千万ながら、是非に及ばぬこと」
 礼儀から言っても、名分から言っても、先方が譲らないと言う以上、こちらは、どうしても指をくわえて引込まなければならない。ぜひなく陣へ立戻ったが、残念で堪らないから、改めてその一条を主人政宗に向って物語った。
「それは残念無念――そのほうが我に見せたいと思うより以上、おれはその品を見たい、見ずには置けぬ」
 そこで独眼竜は馬を
って、直ちに細川三斎の陣を訪れた。
「突然の推参ながら、たって所望の儀は、さいぜん貴公の家士が稀代の名筆を分捕られたそうな、それを一目拝見が致したい」
容易
たやす
き儀でござる」
 三斎もそれを
こば
まん由はなく、今し甲士が分捕って
もた
らしたばかりの一巻をとって、政宗の手に置いた。
 政宗それを取り上げて見ると、唐太宗親筆の序――王右軍の筆蹟――独眼竜の一つの目が、その全巻の中へ燃え落ちるばかりになっているのを見て、急に驚き出したのは細川三斎であった。
 この勢いでは、この男に持って行かれてしまうかも知れない――所望と打出された以上は、相手が相手だけに、どうしても只では済まされない、ここは先手を打つよりほかはないと、老巧なる細川三斎は、政宗と王羲之
おうぎし
とをすっかり取組まして置いて、穏かに
くさび
を打込んだ、
「伊達公の御来駕
ごらいが
を幸い、密談にわたり候えども、かねがねの所存もござること故、折入って御相談を願いたい儀は――」
と、改まって物々しく出た。王羲之に打ちこみながら、政宗は、
「何事かは存ぜねども、御心置なく申し聞けられたい」
「余の儀でもござらぬが、太閤殿下の威勢によりて天下は一統の姿とはなりつるが、これで安定とは、我人共に得心のなり申さぬ時勢、太閤百年の後、天下再び麻の如く乱るるや否や――
しか
る上は、君は東北にあって本土の頭を抑え、不肖は九州にあってその脚を抑え、かくして、南北相俟
あいま
って国家のために尽しなば、そのしあわせ、我々の上のみならずと存じ申す。よって、今日貴公の来臨を機会とし、伊達公と細川家――末永く親類の名乗りを致したいものでござるが――」
 練達堪能
れんたつたんのう
の細川三斎から、こう言われて、豪気濶達の伊達政宗が、その返答を躊躇するようなことはなかった。
「それは、深慮大計の御一言、不肖ながら我等とても同様の所存、然らば今日より、細川家と伊達家は、末永く親類づき合いをすることに致そう」
「早速の御承諾かたじけなし――然らば、その結納
ゆいのう
の記念として」
 細川三斎は、伊達政宗の手から王羲之の孝経を受取って――その場で二つに裂いた。
「この上半を君に進呈し、下半は忠興
ただおき
頂戴し、これを以て心を一にして、両家親類和睦の記念とつかまつる」
 そこで、この一巻が、伊達家と細川家と、両家にわかれての家宝となった。
 それより物変り星うつり、伊達家は政宗より五代、名君と聞えた吉村の時代になり、細川家もまた当然越中守宗孝の時代となったのである。
「ところが、どちらがどう伏線になっていることでございますか、この二つに分れた王羲之が、それとは全く異なった因縁と出来事とによって、一つになる機会を得ました、それで話が伊勢の国へ飛ぶのでございます」
白雲の巻 七
 玉蕉女史は、事実の非常に奇なる物語を、やさしい物言いで、たくみに語り聞かせるものですから、白雲も膝の進むのを覚えませんでした。
 朝鮮陣の物語から、話題一転して、ここは伊勢の国、藤堂家の城下の舞台となる。玉蕉女史は、※(「女+尾」、第3水準1-15-81)
びび
として次の如く物語を加えました、
「御承知の通り、伊勢の国は、大神宮参拝の諸国人の群がる土地でございます、それだけに土地に、他国人を相手に悪い風儀も多少ございまして、藤堂家の家中のさむらいにも、折々、通りがかりの旅人に難題を吹きかけ、喧嘩を売り、相手を困らせて置いて一方からなれ合いの仲裁役を出し、そうしてどうやら事を納めたようにして酒手
さかて
をせびる――というような風の悪い武家が無いではなかったそうでございますが、いずれも遠国の旅人ゆえ、相手が怖がって、無理を通したというようなわけでございましたが、藤堂家からはお隣りの、大垣藩の戸田家の方々がそれを聞いて苦々しいことに思いました。これはひとつ遠国旅人の迷惑のために、最寄りのわが藩中に於て目附役を買って出て、藤堂の悪武士の目に物見せて置いてやるべき義務がある、こんなように思いまして、戸田家の剣道指南役のなにがしという方が、わざと入念の田舎武士風によそおって、伊勢詣りを致すと、案の如く、藤堂家の悪ざむらいにひっかかりましたものですから、御参なれとばかり、それを取って抑え、さんざんにこらしめ、固く今後をいましめて許し帰したとのことでございますが、それだけで済めばそれでよろしいのでございますが……」
 右のこらしめの武士は、実は戸田家の指南役が姿を変えて、いたずらに来たのだという
うわさ
が、藤堂様の耳に入ったものですから、藤堂様もいい心持はなさらず、それに家中の者が戸田家の仕打ちを憎んで、その儀ならば、仕返しとして、戸田家に向って、うんと恥をかかせてやれ――という一念が昂じて、ついに戸田の殿様を暗殺してやろうという血気にはやるのが、とうとう実行に現われてしまいました。
 それは藤堂家の家中で、板倉修理というさむらいが、江戸の西の丸のお廊下に身を忍ばせて、戸田の殿様のおかえりを待受けていて、不意に飛びかかって斬りつけたのですが――
 間違いのある時は、いよいよ間違いのあるもので――板倉修理が戸田の殿様と思って斬りかけた先方は、思いきや前申し上げた肥後の熊本の細川越中守宗孝侯でございました。
 細川様こそ、何とも申上げようのない御災難で――実は、その時、板倉修理の一刀で御落命になったそうでございますが、そこへ通り合わせたのが、これも前申し上げた通り、名君の聞え高い仙台の吉村侯でございました。
 殿中、上を下への騒動の中に、通り合わせた伊達吉村侯は、細川侯を介抱し、
「細川越中守、ただいま卒中にて倒る、伊達陸奥守お預り申す」
と言って、血の垂れたところへは、全部小判を敷きつめて、御自分のお乗物に、越中守の御死体とお相乗りになって下城なされました。
 桜田御門の検閲は厳しいそうでございますが、その時、吉村侯のお乗物は、東照宮御由緒附きの胴白
どうじろ
のお乗物――それに太閤様以来、伊達家だけにお許しの活火縄
いきひなわ
で、粛々と行列を練ってお通りになったので、どうすることもできず――御面会のために群がる者へは、
「越中守殿は卒中にて倒れたが、只今、
かゆ
一椀を召上られたから心配御無用、御療養中、面会は一切おことわり――」
ということで、とりあえず細川家へ急をお告げになりました。
 細川家では、その翌日、「細川越中守宗孝、薬用叶わず、卒中にて卒去」ということの喪を発しましたが、暗殺は公然の秘密に致しましても、伊達家の証明如何
いかん
ともし難く、病気ということで公儀の取りつくろいも一切御無事に済みました。
 これはこれ、有徳院様お代替りの延享四年十月十五日のことでございました。
 御承知の通り、国主大名が殿中に於て非業
ひごう
の死を遂げた場合には、家名断絶は柳営
りゅうえい
の規則でございますから、伊達公のお通りがかりが無ければ、細川家は当然断絶すべき場合でございました。そこで、細川家が再生の恩を以て伊達家を徳とすることは申すまでもございません――その時に、細川家で家老たちが相談をして、文禄朝鮮征伐の時の王羲之の孝経の半分を持ち出し、いささか恩義に酬ゆるの礼として、これを伊達家に御寄贈になりました。これで細川家五十五万石が救われ、王羲之の孝経は完全な一巻となって、伊達家に秘蔵される運命になったのだそうでございます。
 右の来歴を逐一
ちくいち
聞き終ってみると、白雲はあきらめたようなものの、せめて、その※(「(墓-土)/手」、第3水準1-84-88)
もほん
でも、うつしでも、片鱗でも見たいものだと
しき
りに嘆声を発しました。
 玉蕉女史も、来歴のことだけはかなりくわしく知っているが、その片鱗をもうかがっていないことは白雲と同じ、そうして、しきりと渇望の思いにかられることも同じであります。
 けれども、結局、いかに執心しても、こればかりは我々の歯が立たないということに一致し、
いたず
らに王羲之の書――その他の書道の余談に
ふけ
ることによって、夜もいたく更けたようです。
 いつまでたっても話の興はつきないが、この辺で御辞退と白雲も気を
かせると、廊下伝いの立派な客間へ白雲を案内させて、美しい夜具の中に、心置なき
ねぐら
を与えくれるもてなしぶりに、白雲もなんだか夢の国へでも来たような気持になって、うっとりと、その美しい夜具の中に身を置いてみると――王羲之を中心としての話に、あんまり身が入り過ぎて、他の多くのかんじんなことを、すっかり忘れ去ってしまっていたことに、我ながら苦笑いをしました。
 そのうちの最初として、今晩たずねて来る口約束になっていた、あの名取川の蛇籠作
じゃかごづく
りの変な老爺
おやじ
――こっちは話に夢中で忘れてしまってはいたが、先方は、自分から念を押して今夜はかならずやって来るとあれほど言っていたのにまだ訪ねて来た様子はなし――責めは先方にあるのだ、と独文句
ひとりもんく
を言ってみたりしました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4510_14291.html

「大菩薩峠」を読み直す(2)

「大菩薩峠」の後半部 Oceanの巻で著者は、幕末の勘定奉行だった小栗上野介こうずけのすけ(Oguri Tadamasa 1827-1868)について西郷隆盛ほかと比較しながら再評価している。やや長いが青空文庫から引用する。

Oceanの巻から引用したのは学者肌の元旗本・駒井甚三郎と幕末の勘定奉行・小栗忠順のつながりこそが、この長編小説の作者の歴史観を示唆していると考えるからだ。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。

「明治維新」 Meiji Restoration という用語そのものが明治政権の見方以外の何ものでもない。「維新」を restoration (復元、返還)と英訳したのは本来あるべき形を復したという考え方そのものである。70歳を過ぎてこんなことに考えが及んで何になるというのか。

「大菩薩峠」 Oceanの巻 五
 これより先、海鹿島
あじかじま
から伊勢路の浦へ上陸した御用船の一行がありました。これも役人は役人だが、ただの役人ではない。軽装し測量機械を携え日の丸の旗を押立てたところを見ると、どうしてもこれは幕府の軍艦奉行の手であるらしい。
 この一行は、しかるべき組頭
くみがしら
に支配されて、都合八人ばかり、測量器械をかついで歩み行く、つまり軍艦奉行の手の者が、海岸検分の職を行うべく、この地点に上陸したものでしょう。
 ところで、とある小高い岩の上へ来て、組頭の一人が遠眼鏡をかざした時に、黒灰くろばい浦の引揚作業の大景気を眼前に見ました。
 それは肉眼でも見えるほどの距離を、かねて地勢をそらんじているところではあるし、その群集と、群集の中での作業、これから何事に取りかかろうとするのだか、職掌柄それを眼下に見て取ってしまったから、組頭の顔の色が変りました。不興極まる気色
けしき
を以て、遠眼鏡を
はず
し、部下の者を顧みて、
「おい、あれは何だ」
と一人に言いました。
「左様でござります」
 部下の一人は、一応その人だかりの方をながめてから恐る恐る、
「高崎藩の手の者が、黒船を引揚げるといって騒いでおりました」
「ナニ、高崎藩で黒船を引揚げる?」
「左様でございます、先年、あの黒灰浦に、多分オロシャのであろうところの密猟船が吹きつけられて、一艘
いっそう
沈んでしまいました、密猟船のこと
ゆえ
に、船を沈めてそのままで立去りましたのが、今でもよく土地の者の問題になります、それを今度、高崎藩が引揚げに着手するという
うわさ
を承りましたが、多分その騒ぎであろうと思います……」

しからん……」
 組頭は最初から機嫌を損じておりましたが、いよいよ
おもて

けわ
しくして、再び遠眼鏡を取り上げ、
「よく見て来給え、何の目的でああいうことをやり出したのか、屹度
きっと
問いただして来給え、次第によっては、その責任者をこれへ同道してもよろしい」
 この命令の下に、早くも軽快なのが二人、飛び出して行きました。組頭が不興な色を見せるのみならず、一隊の者が残らずそれに共鳴して、岩角の上から黒灰の浦を
にら
めている。
 けだし、これらの人々の不快は、自分たちが幕府の軍艦奉行の配下として、この近海に出張している際において、自分たちに一応の交渉もなくして、海の事に従事するというのは、たとえ高崎藩であろうとも、佐倉藩であろうとも、生意気千万である。
 ことに自分たちの奉行は、当時海のことにかけては、誰も指をさす者のない勝安房守
かつあわのかみ
であることが、虎の威光となっているのに、それを眼中におかず、ことに外国船引揚げというような難事業を、彼等一旗で遂行
すいこう
しようという振舞が言語道断である。そこで軍艦奉行の連中が、自分たちの首領の威光を無視され、自分たちの権限をおかされでもしたように、腹立たしく思い出したものと見える。
 かくて、彼等は測量のことも抛擲
ほうてき
して、岩角に立って黒灰浦の方面ばかりを激昂する
かお
で見つめながら使者の返答いかにと待っているが、その使者が容易には帰って来ないのがいよいよもどかしい。
 もとより、眼と鼻の間の出来事とはいえ、使者となった以上は、実際も検分し、且つ、先方の言い分をも相当に傾聴して帰らぬことには、役目が立たないものもあろう。しかし、こちらは視察よりは、むしろ問責の使をやったつもりですから、返答ぶりの遅いのに、いよいよ
らされる。
「ちぇッ、緩怠至極
かんたいしごく
の奴等だ」
 いらだちきった組頭は、この上は、自身糺問
きゅうもん
に当らねば
らち
が明かんと覚悟した時分、黒灰浦の海岸の陣屋の方に当って、一旒
いちりゅう
の旗の揚るのを認めました。
 そこで組頭は、再び気をしずめて遠眼鏡を取り直して、その旗印をながめたが合点
がてん
がゆきません。旗の揚ったことは組頭が認めたのみではなく、配下の者がみな認めたけれど、その旗印の何物であるかは、遠眼鏡のみがよく示します。
 上州高崎松平家か、その系統を引くこの地の領主大多喜
おおたき
の松平家ならば島原扇か
たちばな
、そうでなければ、俗に高崎扇という三ツ扇の紋所であるべきはずのを、いま、遠眼鏡にうつる旗印を見ると、それとは似ても似つかぬ、丸に――黒立波
くろたてなみ
の紋らしいから、合点がゆかないのです。
 そこで組頭は、またも配下の一人に遠眼鏡を渡しながら、
「あの旗印はありゃ何だ、君ひとつ、よく見当をつけてくれ給え」
「なるほど」
 それを受取った配下の一人がしきりに考えこんでいると、組頭が
「高崎の紋ではないじゃないか」
「仰せの通りでございます、丸に立波のように見えますが」
「その通りだ、拙者の見たのも丸に立波としか見えない、が、丸に立波はどこだ」
「左様でございます」
 彼等残らずが一つの旗印を見つめて、不審の色を、いよいよ濃くしてしまいました。
 最初には掲揚されていなかった旗じるし、多分時間から言ってみると、これはさいぜん、詰問にやった配下の者の交渉の結果であろう、その交渉の結果、彼等はこの旗印を掲揚することになったと思われるが、掲げられてみるとこちらからは、それがいっそう不可解の旗印となって現われてしまいました。
 高崎松平も、大多喜松平も、どう間違っても、丸に立波の紋を掲げるはずはないのだから、ここで
いたず
らに当惑するのも無理がないと見える。しかしもう少し落ちついて、この丸に立波の旗印から考えて行ったならば、多少思い当るところがあったかも知れないが、この一隊は、最初から意気込んでおりました。
 つまり、何藩にあれ、何人にあれ、われわれ幕府の軍艦奉行の手の者をさし置いて、その面前で沈没船引揚作業を行うというのが、軍艦奉行というものを無視しているし、ことに当時の軍艦奉行が凡物ならとにかく、日本全国に向って名声の存するところの、勝安房守というものの威光にも関するという腹があったのだから、安からぬことに思い、親しく出張して、一つには
の出しゃばり者に、たしなみを加え、一つには使者に
つか
わした配下の者どもの緩怠を屹度
きっと
叱り置かねば、役目の威信が立たぬようにも考えたのでしょう。
 この一隊は、測量をそっちのけにして、勢いこんで浜辺を進みました。
 この勢いで、高崎藩の陣屋へ
せつけた日には、ただでは済むまい、火花が散るか散らないかは先方の出よう一つであるが、どのみち、ただでは済むまいと見てあるうち、幸か不幸か、先刻遣わした使者の者が二人、きわどいところで、ばったりと本隊にでっくわしたものです。
「どうした、エ、何をしていたのだ君たちは」
 組頭は、充分の怒気を頭からあびせかけると、二人の使者は、さっぱり張合いがなく、
「いやどうも、少々とまどいを致して、力抜けの
てい
でございました、それがため復命が遅れて申しわけがござりませぬ、万事はあの旗印を御覧下さるとわかります」
 彼等は旗印を指さしたが、その旗印こそ不審千万なので――そこで追いかけて彼等が説明していうことには、
「御覧下さい――あれはお勘定奉行の諒解
りょうかい

もと
にやっている仕事でございます、しかも作業の発頭人
ほっとうにん
は、もとの甲府勤番支配駒井能登守殿であるらしいことが、意外千万の儀でございました」
 それを聞いて、組頭の面の上にかなり狼狽
ろうばい
の色が現われました。
「ははあ……」
 これも拍子抜けの
てい
で、改めて、翩翻
へんぽん
とひるがえる旗印を見直すと、丸に立波、そう言われてみれば、
まご

かた
もない、これは勘定奉行の小栗上野介殿
おぐりこうずけのすけどの
定紋
じょうもん

 その旗印が小栗上野介の定紋であるのみならず、なお奇怪にも聞えるのは、その旗印の下に仕事をしているのが、以前の甲府勤番支配駒井能登守らしいと言われて、彼等は夢を見たように、ぼんやりと考えさせられてしまいました。小栗を知るほどの者は、駒井を知らないはずはなかろうと思われる。
 しかし、小栗が隆々として、一代の権勢にいるのに、駒井は失脚以来、その生死すらも疑われている。七十五日は過ぎたが、その人の
うわさ
というものは、時事の急なる時と、急ならざる時、人材が有るとか、無いとかいう時には、必ず誰かの口から引合いに出されねばならないことになっている。
 さては没落と見せたのは表面で、内々は小栗上野介と謀を通じて、隠れたる働きをしていたのか、油断がならない――と軍艦奉行の組頭が、この時はじめて恐怖を催しました。軍艦奉行の威勢も、勘定奉行の権勢にはかなわない。さすが勝安房守の名声も、小栗上野介の旗印の前には歯が立たないということを、この時の賢明なる軍艦奉行配下の組頭が心得ていたのでしょう。
 高崎藩ならば、大多喜藩ならば、一番おどかしてもくれようと意気込んで来た一隊が、急に悄気
しょげ
こんで、
「ははあ、ではやむを得ないところ」
 旗を巻いて、進軍の歩調が、すっかり
にぶ
ってしまいましたが、拳のやり場を
てい
よくまとめて、またも以前の方面へ引返したのは、少なくとも組頭の手際です。
 ほどなくこの一隊は、君ヶ浜方面に向って、なにくわぬ
かお
で測量をはじめました。一方、引揚作業の方面では、十分に焚火で身をあぶった海人海女が介添船に乗る。駒井甚三郎は、別に一隻の小舟に、従者一人と例のマドロスとを打ちのせて――そのいずれの船にも丸に立波の旗印が立っている。
 この作業にあたって、駒井が最初から、勘定奉行の小栗上野介の諒解
りょうかい
を得ているというのは、ありそうなことです。そうでもなければ、こうして白昼大胆に、こんな作業が行われるはずはない。そうして、小栗と駒井との関係は、特にこの機縁だけで結ばれたものではあるまい。
 駒井は洲崎
すのさき
の造船所から海を越えて、しばしば相州の横須賀へ渡っている。相州の横須賀に、幕府の造船所が出来たのは昨年のこと。相州横須賀の造船所が、主として小栗上野の方寸に出でたものであることは申すまでもない。
 横須賀の造船所がしかるのみならず、講武所も、兵学伝習所も、開成所も、海軍所も、幕府の新しい軍事外交の設備、一として小栗の力に待たぬものはない。勝安房
かつあわ
(海舟
かいしゅう
)の如きも、小栗に会ってはその権勢、実力、共に頭が上らない。
 駒井も、旗本としては小栗と同格であり、その新知識を求むるに急なる点から言っても、どうしても、相当に相許すところがなければならないはずになっている。駒井が洲崎から、しばしば横須賀に往復する時分、ある幕府の要路の、非常に権威の高い人が、微行で洲崎の造船所へ来たことがあると、働く人が言っている。その人品骨柄を聞いてみると、それが小栗上野であったようにも思われる。
「大菩薩峠」 Oceanの巻 六
 小栗上野介の名は、徳川幕府の終りに於ては、何人
なんぴと
の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。
 事実に於て、この人ほど維新前後の日本の歴史に重大関係を持っている人はありません。それが忘れられ過ぎるほど忘れられているのは、西郷と勝との名が急に光り出したせいのみではありません。
 江戸城譲渡しという大詰が、薩摩の西郷隆盛という千両役者と、江戸の勝安房という松助以上の脇師
わきし
と二人の手によって、猫の児を譲り渡すように、あざやかな手際で幕を切ってしまったものですから、舞台は二人が背負
しょ
って立って、その一幕には、他の役者が一切無用になりました。歴史というものは、その当座は皆、勝利者側の歴史であります。勝利者側の宣伝によって、歴史と人物とが、一時眩惑
げんわく
されてしまいます。
 そこで、あの一幕だけ
のぞ
いた大向うは、いよ御両人!というよりほかのかけ声が出ないのであります。しかし、その背後に、江戸の方には、勝よりも以上の役者が一枚控えて、あたら千両の看板を一枚、台無しにした悲壮なる黒幕があります。
 舞台の廻し方が、正当(或いは逆転)に行くならば、あの時、西郷を向うに廻して当面に立つ役者は、勝でなくて小栗でありました。単に西郷とはいわず、いわゆる維新の勢力の全部を向うに廻して立つ役者が、小栗上野介
おぐりこうずけのすけ
でありました。小栗上野介は、当時の幕府の主戦論者の中心であって、この点は、豊臣家における石田三成と同一の地位であります。
 ただ三成は、
せても枯れても、豊太閤の智嚢であり、佐和山二十五万石の大名であったのに、小栗は僅かに二千八百石の旗本に過ぎないことと、三成は野心満々の投機者であって、あわよくば太閤の故智を襲わんとしているのに、小栗は、輪廓において、忠実なる徳川家の譜代
ふだい
であり、譜代であるがゆえに、徳川家のために
はか
って、且つ、日本の将来をもその手によって打開しようとした実際家に過ぎません。
 ですから、石田三成に謀叛人
むほんにん
の名を着せようとも、小栗上野をその名で呼ぶには躊躇
ちゅうちょ
しないわけにはゆかないはずです。徳川の天下になってから、石田は、一にも二にも悪人にされてしまっているが、明治の世になって、小栗の名の
うた
われなくなったとしてからが、今日、彼を石田扱いの謀叛人として見るものは無いようです。
 小栗上野介が、自身、天下を望むというような野心家でなかったことは確かとして、そうして彼はまた、幕府の保守側を代表する、頑冥
がんめい
なる守旧家でなかったことも確実であります。
 小栗は、一面に於て最もすぐれたる進歩主義者であり、且つ、少しの間ではあったが、これを実行するの手腕と、地位とを、十分に与えられておりました。
 彼が最初――新見、村垣らの幕府の使節と共に米国に渡ったのは僅かに二十余歳の時でありました。或いは三十余歳。しかも、この二十余歳の青年赤毛布
あかげっと
は、他の同僚が、西洋の異様な風物に眩惑されている間に金銀の量目比較のことに注意し、日本へ帰ってから、小判の位を三倍に昇せたほどの緻密
ちみつ
な頭を持っておりました。ほどなく勘定奉行の地位を得、またほどなく財政の鍵を握って、陸海軍の事を
ぶるの地位に上ったのも、当然の人物経済であります。
 勝でも、大久保でも、その手足に過ぎないし、講武所も、兵学所も、開成所も、海軍所も、軍艦の事も、火薬の事も、造船の事も、徴兵も、郵便も、今日まで功績を残している基礎に於て、彼の創案になり、意匠に出でぬというもののないこと再論するまでもない。
 その人となりを聞いてみると、酒を
たしな
まず、声色
せいしょく
を近づけず、職務に勉励にして、人の堪えざるところを為し、しかも、和気と、諧謔
かいぎゃく
とを以て、部下を服し、上に対しては剛直にして、信ずるところを言い、貶黜
へんちゅつ
せらるること七十余回ということを真なりとせば、得易
えやす
からざる人傑であります。
 小栗上野介が、単に人物として日本の歴史上に、どれだけの大きさを有するか、それは成功せしめてみた上でないと、ちょっと論断を立て兼ねるが――少なくとも、明治維新前後に於ては、軍事と、外交と、財政とに於て、彼と並び立ち得るものは、一人も無かったということは事実であります。
 この人が、徳川幕府の中心に立って、朝廷に
そむ
くのではない、薩長その他と戦わねばならぬ、と主張することは、絶大なる力でありました。長州の大村益次郎が、維新の後になって、小栗の立てた策戦計画を見て舌を捲いて、これが実行されたら薩長その他の新勢力は鏖殺
みなごろ
しだ! と戦慄
せんりつ
したというのも嘘ではあるまい。かくありてこそ、大村の大村たる価値がわかる。西郷などは、この点に於ては、
はなは
だノホホンです。
 小栗の立てた策戦は、第一、聯合軍をして、箱根を越えしめてこれを討つということ、第二、幕府の優秀なる海軍を以て、駿河湾より薩長軍を砲撃して、その連絡を
ち、前進部隊を自滅せしめるということ、更に海軍を以て、兵庫方面より二重に聯合軍の連絡を断つこと、等々であって、よしその実力には、旗本八万騎がすでに
死し心
えたりとはいえ、新たに仏式に訓練せる五千の精鋭は、ぜひとも腕だめしをしてみたがっている。会津を中心とする東北の二十二藩は無論こっちのものである。
 聯合軍には海軍らしい海軍は無いのに、幕府の海軍は新鋭無比なるものである――そうして、その財政と、軍費に至っては、小栗に成案があったはずである。
 かくて小栗は十分の自信を以て、これを将軍に進言、というより
せま
ってみたけれど、
たん
死し、気落ちたる時はぜひがない、徳川三百年来、はじめて行われたという将軍直々
じきじき
の免職で、万事は休す! そこで、西郷と勝とが大芝居を見せる段取りとなり、この不遇なる人傑は、上州の片田舎に、無名の虐殺を受けて、英魂未だ葬われないという次第である。
 形勢を逆に観察してみると、最も興味のありそうな場面が、幕末と、明治初頭に於て、二つはあります。その一つは、右の時、小栗をして志を得せしめてみたら、日本は、どうなるということ。もう一つは、丁丑
ていちゅう
西南の乱に、西郷隆盛をして成功せしめたら、現時の日本はどうなっているかということ。
 この答案は、通俗の予想とは、ほとんど反対な現象として現われて来たかも知れない。右の時、小栗を成功せしめても、世は再び徳川幕府の全盛となりはしない。
 もうあの時は徳川の大政奉還は出来ていたし、小栗の頭は、とうに郡県制施行にきまっていたし、よしまた、ドレほど小栗が成功したからとて、彼は勢いに乗じて、袁世凱
えんせいがい
を気取るような無茶な野心家ではない、郡県の制や、泰西文物の輸入や、世界大勢順応は、むしろ素直に進んでいたかも知れない。
 これに反して、明治十年の時に西郷をして成功せしむれば、必ず西郷幕府が出来る。西郷自身にその意志が無いとしても、その時の形勢は、明治維新を僅かに建武中興の程度に止めてしまい、西郷隆盛を足利尊氏
あしかがたかうじ
の役にまで祭り上げずにはおかなかったであろう。
 西郷は自身、尊氏にはならないまでも、尊氏に祭り上げられるだけの器度(?)はあった。小栗にはそれが無い。すべて歴史に登場する人物というものは、運命という黒幕の作者がいて、みなわりふられた役だけを済まして引込むのに過ぎないが、西郷は、逆賊となっても赫々
かくかく
の光を失わず、勝は、一代の怜悧者
りこうもの
として、その晩年は独特の自家宣伝(?)で人気を博していたが、小栗は
うた
われない。
 時勢が、小栗の英才を犠牲とし、維新前後の多少の混乱を予期しても、ここは新勢力にやらした方が、更始一新のためによろしいと贔屓
ひいき
したから、そうなったのかも知れないが、それはそれとして、人物の真価を、権勢の都合と、大向うの山の神だけに任しておくのは、あぶないこと。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4508_14285.html

「大菩薩峠」後半部 Oceanの巻から引用したのは駒井甚三郎という学者肌の開明派と幕末の勘定奉行、小栗忠順のつながりこそが、この長編小説の作者の歴史観を如実に述べていると考えるからだ。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。

「明治維新」 Meiji Restoration という用語そのものが明治政権の見方以外の何ものでもない。「維新」を restoration (復元、返還)と英訳したのは本来あるべき形を復したという考え方そのものである。70歳を過ぎてこんなことに考えが及んで何になるというのか。

two decades of friendship

韓国の友人と20年ぶりに再会した。周りを気にすることなく、しばらくひしと抱き合った。二人が出会ったのは1998年だった。韓国文化院に勤めていた彼と講談社系の財団で韓国語教育事業を担当していた僕はすぐに打ち解けた。たがいの経歴を話し、韓国と日本の仏教について話すなか、二人が所属する組織の事業とネットワークを総動員する一つの事業計画がまとまった。両者の求めるものが一致したのだ。

日本の高等学校で韓国語教育にたずさわる教員のための研修事業を実施する事業だった。いつもみを絶やさない彼の人柄ひとがらのおかげだろう。1ヵ月余りった8月に東京猿楽町さるがくちょうの韓国YMCAで第1回韓国語教師研修会を開催した。すべての条件が必然となって押し寄せたような時期だった。

Geumpyung and Goolee at Shinjuku Gyoen greenhouse

「大菩薩峠」を読み直す(1)

中里介山なかざとかいざん(1885-1944)の「大菩薩峠」を50年ぶりに読み始めた。ぐいぐい引き込まれ、一気に10巻ほど読んだ。前回は「世界一の長編」と知って読んだのだが、半分ほどで放り出したと思う。[写真: 大菩薩観光協会「大菩薩の風景」より転載]

今回読むまでは、主人公とされている机竜之介りゅうのすけの「音無しの構え」ぐらいしか覚えていなかった。だが、今回は読み方が違う。前半だけでも、裏宿うらじゅく七兵衛(江戸中期青梅に実在した義賊と同名)、医者の道庵どうあん、部落出身の米友よねともとお君と黒いムク犬、竜之介の父親に拾われた与八、竜之介に祖父を斬られたお松、神尾主膳しゅぜん、駒井能登守のとのかみこと甚三郎じんざぶろう兵馬ひょうまほかが登場する。歴史上の人物が少なからず実名で登場する。

実在の人物を含め、多くの登場人物がこの小説の主人公で、作者は彼らを通して幕末という時代の実相を描こうとしたのではないか。全体の三分の一を読んだ時点の仮説に過ぎないが、こう考えると、各巻の描写が「大乗小説」の場面として理解されるように思う。

時代設定は幕末だ。「都新聞」に連載したのが1913-21年、単行本を発行、1927-41年に新聞・雑誌等に連載しているから、第一次大戦から第二次大戦に至る富国強兵策を突き進んだ日本社会の病相を映しているだろうし、作者の社会・人生観に根ざしているに違いない。

平民新聞に寄稿し日露・日中戦争に反戦の立場を取っていた中里が、小説連載をやめた41年12月に勃発した日米開戦に雀躍したというから、その思想はまだよくわからない。ただ、自作を「大乗小説」と呼んでいた以上、大乗仏教の影響は確かだろう。「世界一の長編」「未完の長編」というのは外形の要素でしかない。

1935-36年に大河内伝次郎、57年に片岡千恵蔵、60年に市川雷蔵、66年に仲代達矢がそれぞれ竜之介役を演じる映画が制作され、その後の時代劇映画に多大な影響を及ぼしたようだ。

no「大菩薩峠」巻名字数執筆年
1甲源こうげん一刀流の巻 153,5171913-14
2鈴鹿すずか山の巻 83,5801914
3壬生みぶと島原の巻 121,5021914
4三輪みわの神杉の巻 106,8561915
5竜神りゅうじんの巻 76,9311915
6あいの山の巻 13,9571917-19
7東海道の巻 105,7991917-19
8白根しらね山の巻 87,7421917-19
9女子と小人しょうじんの巻 98,6371917-19
10市中騒動の巻 28,1791917-19
11駒井こまい能登守のとのかみの巻 98,9571917-19
12伯耆ほうき安綱やすつなの巻 84,6421917-19
13如法にょほう闇夜やみよの巻 152,3281917-19
14お銀様の巻 165,9811917-19
15慢心まんしん和尚おしょうの巻 144,2161917-19
16道庵どうあん鰡八ぼらはちの巻 135,3681917-19
17黒業こくごう白業びゃくごうの巻 156,8541917-19
18安房あわの国の巻 163,3531921
19小名路こなじの巻 170,3571921
20禹門うもん三級の巻 146,0341921
21無明むみょうの巻 206,7151925-28
22白骨しらほねの巻 229,0801925-28
23他生たしょうの巻 247,3891925-28
24流転るてんの巻 284,3431925-28
25弥帝夜みちりやの巻 176,6591925-28
26めいろの巻 285,0031925-28
27鈴慕れいぼの巻 119,4171925-28
28Oceanの巻 98,1741925-28
29年魚市あいちの巻 359,2111928-30
30畜生谷ちくしょうだにの巻 118,2641931
31勿来なこその巻 230,1551931
32弁信べんしんの巻 111,8091932
33不破ふわの関の巻 129,3901932
34白雲はくうんの巻 162,5041933
35胆吹いぶきの巻 98,2071933-34
36新月の巻 312,2031934
37恐山おそれざんの巻 391,8241934-35
38農奴の巻 49,0591938-41
39京の夢逢坂おうさかの夢の巻 202,2141938-41
40山科やましなの巻 291,4471938-41
41椰子やし林の巻 281,4111938-41
6,679,268
字数: 縦書き文庫版 執筆年: Wikipedia大菩薩峠(小説)
大菩薩観光協会「大菩薩の風景」より転載
https://www.instagram.com/ ryuta0825さん投稿

Silverspot, the Story of a Crow

from Wild Animals I Have Known by Ernest Thompson Seton

Silverspot
Decorative letter “H”.

ow many of us have ever got to know a wild animal? I do not mean merely to meet with one once or twice, or to have one in a cage, but to really know it for a long time while it is wild, and to get an insight into its life and history. The trouble usually is to know one creature from his fellow. One fox or crow is so much like another that we cannot be sure that it really is the same next time we meet. But once in a while there arises an animal who is stronger or wiser than his fellow, who becomes a great leader, who is, as we would say, a genius, and if he is bigger, or has some mark by which men can know him, he soon becomes famous in his country, and shows us that the life of a wild animal may be far more interesting and exciting than that of many human beings.

Of this class were Courtrand, the bob-tailed wolf that terrorized the whole city of Paris for about ten years in the beginning of the fourteenth century; Clubfoot, the lame grizzly bear that in two years ruined all the hog-raisers, and drove half the farmers out of business in the upper Sacramento Valley; Lobo, the kingwolf of New Mexico, that killed a cow every day for five years, and the Soehnee panther that in less than two years killed nearly three hundred human beings—and such also was Silverspot, whose history, as far as I could learn it, I shall now briefly tell.

Silverspot was simply a wise old crow; his name was given because of the silvery white spot that was like a nickel, stuck on his right side, between the eye and the bill, and it was owing to this spot that I was able to know him from the other crows, and put together the parts of his history that came to my knowledge.

Crows are, as you must know, our most intelligent birds—’Wise as an old crow’ did not become a saying without good reason. Crows know the value of organization, and are as well drilled as soldiers—very much better than some soldiers, in fact, for crows are always on duty, always at war, and always dependent on each other for life and safety. Their leaders not only are the oldest and wisest of the band, but also the strongest and bravest, for they must be ready at any time with sheer force to put down an upstart or a rebel. The rank and file are the youngsters and the crows without special gifts.

Old Silverspot was the leader of a large band of crows that made their headquarters near Toronto, Canada, in Castle Frank, which is a pine-clad hill on the northeast edge of the city. This band numbered about two hundred, and for reasons that I never understood did not increase. In mild winters they stayed along the Niagara River; in cold winters they went much farther south. But each year in the last week of February Old Silverspot would muster his followers and boldly cross the forty miles of open water that lies between Toronto and Niagara; not, however, in a straight line would he go, but always in a curve to the west, whereby he kept in sight of the familiar landmark of Dundas Mountain, until the pine-clad hill itself came in view.

Each year he came with his troop, and for about six weeks took up his abode on the hill. Each morning thereafter the crows set out in three bands to forage. One band went southeast to Ashbridge’s Bay. One went north up the Don, and one, the largest, went northwestward up the ravine. The last Silverspot led in person. Who led the others I never found out.

On calm mornings they flew high and straight away. But when it was windy the band flew low, and followed the ravine for shelter. My windows overlooked the ravine, and it was thus that in 1885 I first noticed this old crow. I was a new-comer in the neighborhood, but an old resident said to me then ‘‘that there old crow has been a-flying up and down this ravine for more than twenty years.” My chances to watch were in the ravine, and Silverspot doggedly clinging to the old route, though now it was edged with houses and spanned by bridges, became a very familiar acquaintance.

Twice each day in March and part of April, then again in the late summer and the fall, he passed and repassed, and gave me chances to see his movements, and hear his orders to his bands, and so, little by little, opened my eyes to the fact that the crows, though a little people, are of great wit, a race of birds with a language and a social system that is wonderfully human in many of its chief points, and in some is better carried out than our own.

One windy day I stood on the high bridge across the ravine, as the old crow, heading his long, straggling troop, came flying down homeward. Half a mile away I could hear the contented ‘All’s well, come right along!’ as we should say, or as he put it, and as also his lieutenant echoed it at the rear of the band.

Bird call on a music staff: Caw - Caw

They were flying very low to be out of the wind, and would have to rise a little to clear the bridge on which I was. Silverspot saw me standing there, and as I was closely watching him he didn’t like it. He checked his flight and called out, ‘Be on your guard,’ or

Bird call on a music staff: Single caw on two notes, rising by a semi-tone

and rose much higher in the air. Then seeing that I was not armed he flew over my head about twenty feet, and his followers in turn did the same, dipping again to the old level when past the bridge.

Next day I was at the same place, and as the crows came near I raised my walking stick and pointed it at them. The old fellow at once cried out ‘Danger,’

Bird call on a music staff: Single staccato “ca”

and rose fifty feet higher than before. Seeing that it was not a gun, he ventured to fly over. But on the third day I took with me a gun, and at once he cried out, ‘Great danger—a gun.’

Bird call on a music staff: Four rapid staccato “ca ca ca ca” ended by a “caw”

His lieutenant repeated the cry, and every crow in the troop began to tower and scatter from the rest, till they were far above gun shot, and so passed safely over, coming down again to the shelter of the valley when well beyond reach. Another time, as the long, straggling troop came down the valley, a red-tailed hawk alighted on a tree close by their intended route. The leader cried out, ‘Hawk, hawk,’

Bird call on a music staff: “Caw” on two notes dropping two tones, then that repeated

and stayed his flight, as did each crow on nearing him, until all were massed in a solid body. Then, no longer fearing the hawk, they passed on. But a quarter of a mile farther on a man with a gun appeared below, and the cry, ‘Great danger—a gun, a gun; scatter for your lives,’

Bird call on a music staff: Four rapid staccato “ca ca ca ca” ended by a “caw”

at once caused them to scatter widely and till far beyond range. Many others of his words of command I learned in the course of my long acquaintance, and found that sometimes a very little difference in the sound makes a very great difference in meaning. Thus while No. 5 means hawk, or any large, dangerous bird, this means ‘wheel around,’

Bird call on a music staff: “Caw” on two notes dropping one tone, then that repeated, followed by four staccato “ca ca ca ca”

evidently a combination of No. 5, whose root idea is danger, and of No. 4, whose root idea is retreat, and this again is a mere ‘good day,’

Bird call on a music staff: “Caw” on two notes dropping one tone, then that repeated

to a far away comrade. This is usually addressed to the ranks and means ‘attention.’

Bird call on a music staff: three staccato notes separated by pauses

Early in April there began to be great doings among the crows. Some new cause of excitement seemed to have come on them. They spent half the day among the pines, instead of foraging from dawn till dark. Pairs and trios might be seen chasing each other, and from time to time they showed off in various feats of flight. A favorite sport was to dart down suddenly from a great height toward some perching crow, and just before touching it to turn at a hair breadth and rebound in the air so fast that the wings of the swooper whirred with a sound like distant thunder. Sometimes one crow would lower his head, raise every feather, and coming close to another would gurgle out a long note like

Bird call on a music staff: one long trilled “C-r-r-r-a-w” of five notes dropping a tone at a time

What did it all mean? I soon learned. They were making love and pairing off. The males were showing off their wing powers and their voices to the lady crows. And they must have been highly appreciated, for by the middle of April all had mated and had scattered over the country for their honeymoon, leaving the sombre old pines of Castle Frank deserted and silent.

II

Several of Seton's illustrations: a tree, a sparrowhawk chasing another bird and crows on branches

The Sugar Loaf hill stands alone in the Don Valley. It is still covered with woods that join with those of Castle Frank, a quarter of a mile off. In the woods, between the two hills, is a pine-tree in whose top is a deserted hawk’s nest. Every Toronto school-boy knows the nest, and, excepting that I had once shot a black squirrel on its edge, no one had ever seen a sign of life about it. There it was year after year, ragged and old, and falling to pieces. Yet, strange to tell, in all that time it never did drop to pieces, like other old nests.

The handle of a china-cup, the gem of the collection.

One morning in May I was out at gray dawn, and stealing gently through the woods, whose dead leaves were so wet that no rustle was made. I chanced to pass under the old nest, and was surprised to see a black tail sticking over the edge. I struck the tree a smart blow, off flew a crow, and the secret was out. I had long suspected that a pair of crows nested each year about the pines, but now I realized that it was Silverspot and his wife. The old nest was theirs, and they were too wise to give it an air of spring-cleaning and housekeeping each year. Here they had nested for long, though guns in the hands of men and boys hungry to shoot crows were carried under their home every day. I never surprised the old fellow again, though I several times saw him through my telescope.

One day while watching I saw a crow crossing the Don Valley with something white in his beak. He flew to the mouth of the Rosedale Brook, then took a short flight to the Beaver Elm. There he dropped the white object, and looking about gave me a chance to recognize my old friend Silverspot. After a minute he picked up the white thing—a shell—and walked over past the spring, and here, among the docks and the skunk-cabbages, he unearthed a pile of shells and other white, shiny things. He spread them out in the sun, turned them over, lifted them one by one in his beak, dropped them, nestled on them as though they were eggs, toyed with them and gloated over them like a miser.

This was his hobby, his weakness. He could not have explained why he enjoyed them, any more than a boy can explain why he collects postage-stamps, or a girl why she prefers pearls to rubies; but his pleasure in them was very real, and after half an hour he covered them all, including the new one, with earth and leaves, and flew off. I went at once to the spot and examined the hoard; there was about a hatful in all, chiefly white pebbles, clam-shells, and some bits of tin, but there was also the handle of a china cup, which must have been the gem of the collection. That was the last time I saw them. Silverspot knew that I had found his treasures, and he removed them at once; where I never knew.

During the space that I watched him so closely he had many little adventures and escapes. He was once severely handled by a sparrowhawk, and often he was chased and worried by kingbirds. Not that these did him much harm, but they were such noisy pests that he avoided their company as quickly as possible, just as a grown man avoids a conflict with a noisy and impudent small boy. He had some cruel tricks, too. He had a way of going the round of the small birds’ nests each morning to eat the new laid eggs, as regularly as a doctor visiting his patients. But we must not judge him for that, as it is just what we ourselves do to the hens in the barnyard.

His quickness of wit was often shown. One day I saw him flying down the ravine with a large piece of bread in his bill. The stream below him was at this time being bricked over as a sewer. There was one part of two hundred yards quite finished, and, as he flew over the open water just above this, the bread fell from his bill, and was swept by the current out of sight into the tunnel. He flew down and peered vainly into the dark cavern, then, acting upon a happy thought, he flew to the downstream end of the tunnel, and awaiting the reappearance of the floating bread, as it was swept onward by the current, he seized and bore it off in triumph.

Silverspot was a crow of the world. He was truly a successful crow. He lived in a region that, though full of dangers, abounded with food. In the old, unrepaired nest he raised a brood each year with his wife, whom, by the way, I never could distinguish, and when the crows again gathered together he was their acknowledged chief.

The reassembling takes place about the end of June—the young crows with their bob-tails, soft wings, and falsetto voices are brought by their parents, whom they nearly equal in size, and introduced to society at the old pine woods, a woods that is at once their fortress and college. Here they find security in numbers and in lofty yet sheltered perches, and here they begin their schooling and are taught all the secrets of success in crow life, and in crow life the least failure does not simply mean begin again. It means death.

Roost in a row, like big folks.

The first week or two after their arrival is spent by the young ones in getting acquainted, for each crow must know personally all the  others in the band. Their parents meanwhile have time to rest a little after the work of raising them, for now the youngsters are able to feed themselves and roost on a branch in a row, just like big folks.

Drawing by Seton of a scarecrow with a crow perching on its head.

In a week or two the moulting season comes. At this time the old crows are usually irritable and nervous, but it does not stop them from beginning to drill the youngsters, who, of course, do not much enjoy the punishment and nagging they get so soon after they have been mamma’s own darlings. But it is all for their good, as the old lady said when she skinned the eels, and old Silverspot is an excellent teacher. Sometimes he seems to make a speech to them. What he says I cannot guess, but, judging by the way they receive it, it must be extremely witty. Each morning there is a company drill, for the young ones naturally drop into two or three squads according to their age and strength. The rest of the day they forage with their parents.

When at length September comes we find a great change. The rabble of silly little crows have begun to learn sense. The delicate blue iris of their eyes, the sign of a fool-crow, has given place to the dark brown eye of the old stager. They know their drill now and have learned sentry duty. They have been taught guns and traps and taken a special course in wire-worms and green corn. They know that a fat old farmer’s wife is much less dangerous, though so much larger, than her fifteen-year-old son, and they can tell the boy from his sister. They know that an umbrella is not a gun, and they can count up to six, which is fair for young crows, though Silverspot can go up nearly to thirty. They know the smell of gunpowder and the south side of a hemlock-tree, and begin to plume themselves upon being crows of the world.

They always fold their wings three times after alighting, to be sure that it is neatly done. They know how to worry a fox into giving up half his dinner, and also that when the kingbird or the purple martin assails them they must dash into a bush, for it is as impossible to fight the little pests as it is for the fat apple-woman to catch the small boys who have raided her basket. All these things do the young crows know; but they have taken no lessons in egg-hunting yet, for it is not the season. They are unacquainted with clams, and have never tasted horses’ eyes, or seen sprouted corn, and they don’t know a thing about travel, the greatest educator of all. They did not think of that two months ago, and since then they have thought of it, but have learned to wait till their betters are ready.

September sees a great change in the old crows, too. Their moulting is over. They are now in full feather again and proud of their handsome coats. Their health is again good, and with it their tempers are improved. Even old Silverspot, the strict teacher, becomes quite jolly, and the youngsters, who have long ago learned to respect him, begin really to love him.

Several small drawings by Seton of farmer with gun, apple woman, wife feeding chicken

He has hammered away at drill, teaching them all the signals and words of command in use, and now it is a pleasure to see them in the early morning.

‘Company 1!’ the old chieftain would cry in crow, and Company 1 would answer with a great clamor.

‘Fly!’ and himself leading them, they would all fly straight forward.

‘Mount!’ and straight upward they turned in a moment.

‘Bunch !’ and they all massed into a dense black flock.

‘Scatter!’ and they spread out like leaves before the wind.

‘Form line!’ and they strung out into the long line of ordinary flight.

‘Descend!’ and they all dropped nearly to the ground.

‘Forage!’ and they alighted and scattered about to feed, while two of the permanent sentries mounted duty—one on a tree to the right, the other on a mound to the far left. A minute or two later Silverspot would cry out, ‘A man with a gun!’ The sentries repeated the cry and the company flew at once in open order as quickly as possible toward the trees. Once behind these, they formed line again in safety and returned to the home pines.

Sentry duty is not taken in turn by all the crows, but a certain number whose watchfulness has been often proved are the perpetual sentries, and are expected to watch and forage at the same time. Rather hard on them it seems to us, but it works well and the crow organization is admitted by all birds to be the very best in existence.

Finally, each November sees the troop sail away southward to learn new modes of life, new landmarks and new kinds of food, under the guidance of the ever-wise Silverspot.

III

There is only one time when a crow is a fool, and that is at night. There is only one bird that terrifies the crow, and that is the owl. When, therefore, these come together it is a woeful thing for the sable birds. The distant hoot of an owl after dark is enough to make them withdraw their heads from under their wings, and sit trembling and miserable till morning. In very cold weather the exposure of their faces thus has often resulted in a crow having one or both of his eyes frozen, so that blindness followed and therefore death. There are no hospitals for sick crows.

But with the morning their courage comes again, and arousing themselves they ransack the woods for a mile around till they find that owl, and if they do not kill him they at least worry him half to death and drive him twenty miles away.

The track of the murderer.

In 1893 the crows had come as usual to Castle Frank. I was walking in these woods a few days afterward when I chanced upon the track of a rabbit that had been running at full speed over the snow and dodging about among the trees as though pursued. Strange to tell, I could see no track of the pursuer. I followed the trail and presently saw a drop of blood on the snow, and a little farther on found the partly devoured remains of a little brown bunny. What had killed him was a mystery until a careful search showed in the snow a great doubletoed track and a beautifully pencilled brown feather. Then all was clear—a horned owl. Half an hour later, in passing again by the place, there, in a tree, within ten feet of the bones of his victim, was the fierce-eyed owl himself. The murderer still hung about the scene of his crime. For once circumstantial evidence had not lied.

At my approach he gave a guttural ‘grrr-oo’ and flew off with low flagging flight to haunt the distant sombre woods.

Two days afterward, at dawn, there was a great uproar among the crows. I went out early to see, and found some black feathers drifting over the snow. I followed up the wind in the direction from which they came and soon saw the bloody remains of a crow and the great doubletoed track which again told me that the murderer was the owl. All around were signs of the struggle, but the fell destroyer was too strong. The poor crow had been dragged from his perch at night, when the darkness had put him at a hopeless disadvantage.

The death of Silverspot.

I turned over the remains, and by chance unburied the head—then started with an exclamation of sorrow. Alas! It was the head of old Silverspot. His long life of usefulness to his tribe was over—slain at last by the owl that he had taught so many hundreds of young crows to beware of.

The old nest on the Sugar Loaf is abandoned now. The crows still come in spring-time to Castle Frank, but without their famous leader their numbers are dwindling, and soon they will be seen no more about the old pine-grove in which they and their forefathers had lived and learned for ages.

[Except for a group of decorations from several pages moved together at the beginning of section II, the author’s drawings are placed on this web page approximately with the paragraph where they appeared in the original text. Text and author’s illustrations from ‘Silverspot, The Story of a Crow’ in Ernest Thompson Seton, Wild Animals I Have Known (1898), pp. 59-88. (source)]

https://todayinsci.com/S/Seton_Ernest/SetonErnest-Silverspot.htm

Inzwischen treibe ich noch…

Inzwischen treibe ich noch auf ungewissen Meeren; der zufall schmeichelt mir, der glattzngige; vorwrts und rckwrts schaue ich-, noch schaue ich kein Ende. (In the meantime I am still drifting on uncertain seas; chance flatters me, the smooth one; forwards and backwards I look, still I see no end. [translated by deepl.com])

ドイツ語は少し勉強しただけだが、上に引用した「ツァラトゥストラかく語りき」の一節はなぜか暗記している。何かの本の冒頭に載っていたことだけ記憶していたが、数日前それを角川書店版「合本三太郎の日記第三」に再発見し、ひそかに喜んでいる。60年代末に読んだと思う。

50年余り経て読むと、かくも理屈っぽく冗長な文章をよく読んだものだと、昔の自分に関心してしまう。この本を読んだ当時の僕は、キリスト教にもとづく哲学青年の思索のなかに漂流していたのだ。70歳を過ぎて読み直し、同じ思考の流れに沿えないことを自覚しながらも、かつての自分がその本から滋養を得ていたことを考え、感謝しないわけにはいかない。

一方で、「ツァラトゥストラ」や「三太郎の日記」の内容は忘れ、読んだ記憶しかないということは、僕はこういう思索に沿って漂流しただけで、何も身につかなかったとも思う。いまだに僕は inzwischen treibe ich noch の境を脱していないのかもしれない。

(数日後)いや、そう単純ではない。50年余りを経て「三太郎の日記」全編を読み進めるうちに、僕は著者ならぬ三太郎に感化されて、その執拗ともいえる、一歩ずつ踏みしめながら思索を進めるやり方にかなり馴れ、自分が単なる読者であることを超え、ある種の思考訓練を受けているような感官を覚えるようになった。

と同時に、50年余り前と現在の大きな違いを自覚しないわけにはいかない。それは、自分には表現し発表する媒体があるということだ。たとい読者は限られていても、自分が体験し考えたことを記録として残すことができる。こんなに恵まれた環境はないではないか。

Song of the Birds

三週間あまり来る日も来る日もウクライナの惨状を見るにつけ、暗澹とした気持ちになり、自分の非力さを思い知らされますが、こんなときだからこそ、カザルスの「鳥の歌」を思い出します。

Casals Plays the Song of the Birds at UN in 1971

MTBで都心を走る

1年以上乗らなかった自転車に乗り、自宅から新大久保まで往復2時間半、ほとんど休むことなく走った。心地よい疲れとあしの筋肉痛が残る。中原街道>天現寺>外苑西通り>明治通り>大久保通り>靖国通り>新宿通り>四谷見附>外堀通り>麻布通り>桜田通り>国道1号>中原街道

走り始めて10分ほどで胸に痛みを覚えた。MTB山行のときと同じ症状だ。公道の長い坂道を登るのは案外きつい。山道とは違った緊張も伴う。エンジン音をうならしてせっするように疾駆しっくするクルマに3台遭遇そうぐうした。その直後に路面の白い自転車マークが目に入ると、いかにもむなしい。自転車が脇道わきみちに追いやられ、それが当然のこととされている。どこかおかしい。

ここ数年、自転車の前か後ろに荷車を付けた宅配便の姿を見るようになった。1970年ごろまで業務用の実用車が広く普及していて、リアカーを引いているのをよく見かけた。60年代前半には、東京の杉並区あたりでも野菜を積んだオート三輪車が走り、酒屋のご用聞きや豆腐屋、牛乳配達などが堅牢けんろうで重そうな自転車に乗って住宅地を走り回っていた。いまは昔の話だが、荷車を付けた宅配業者を見ると思い出す。

1983年に自転車でヨーロッパを旅した友人がよく話す。自転車専用のレーンと信号機を備えたヨーロッパの道路がうらやましい、と。自転車が貴族の遊びとして始まった英仏に対し、労働者の輸送手段として実用車が先行した日本や中国。これらの地域では自転車が追いやられクルマが跋扈ばっこしている。なぜだろうか。

歩道では、いまや小径車や子どもを前後に載せた電動自転車が我が物顔で走っている。歩道を歩きながら思うのは、結局、よりスピードが速く、大きくて重い車両(vehicles)が幅をきかせ、弱小な車両を抑え込んでいる、ということだ。自転車に愛着を持つ者だから言うのではない。この国の道路事情はどこかおかしい、道にはずれているのではないか。

a friend

韓国の友人が、退官記念に出版されたという書籍と僕が好きなコーヒー豆を誕生祝いに送ってくれた。”한국어교육의 현재와 미래(韓国語教育の現在と未来)”と題された本は、彼の大学関係者が編集し、図書出版夏雨ハウが出版してくれたという。韓国のブックデザインは優れたものが多いが、この本もよくできている。題字が活版印刷さながら盛り上がっているのがなつかしい。

友人とは何でも話せるのに、門外漢の僕にはこの本の学術的な価値はよくわからない。彼が日本に来ると、一緒に山に登り、MTBで山中を走り、驟雨しゅううのなか高山のいただきでマッコリを飲み、全裸で渓谷に入るなど、少年に返れるのだ。韓国語でいう 불알プラル 친구チング のようなものだろうか。

酒豪といってよい彼と、あまり酒を飲めない僕が長年付き合っているのを不思議に思うかもしれない。いい意味の遊び仲間なのだろう。写真はどれも彼の一面をうつしている。

Players and observers

민갑완ミンカブァン(1897-1968)の関連年表(1875-2014)を oguris.blog に再掲した。タイトルは Korea and Imperial Japan とし、1875年8月の雲揚うんよう号事件から始めた。この事件が明治日本すなわち大日本帝國の対朝鮮外交を象徴していると考えたからだ。いわゆる「砲艦ほうかん外交」であり、パワーポリティックスである。

現在のロシアによるウクライナ侵攻に向けた動き、中国による台湾侵攻をめぐる動向も類似している。欧米各国も同じ根っこを共有している。こんなことを書くと、150年も昔の話が現在と同じだなんて、といぶかしく思うだろうが、それを承知のうえでえて言うのである。

砲艦外交を正当化する根拠は国際法であり、19世紀後半においては萬國ばんこく公法とも呼ばれた。近代ヨーロッパにおいて形成されたものだから、ロシアや中国と対立しているかに見える欧米諸国やそれを模倣した日本も同じ枠組みのなかで動いている。

日本の場合は砲艦ならぬ<傍観>ないし<望艦>であろう。官僚の作成した原稿を読み上げる首相や閣僚の姿を見るにつけ、何とも情けない思いに陥るのは僕だけだろうか。

The Economist Feb 9 2022: Yuval Noah Harari Argues


郷愁 nostalgia(2)

萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」冬の部の冒頭部分を引用します。与謝蕪村よさのぶそん(1716-1784)の写実主義を評価した正岡子規とは違った観点から、蕪村の抒情性を高く評価した詩論です。「冬の部」の初出は雑誌「生理 5」(1935年2月)

いかのぼりきのふの空のりどころ

北風の吹く冬の空に、たこが一つあがっている。その同じ冬の空に、昨日きのふもまたたこあがっていた。蕭条しょうじょうとした冬の季節。こおったにぶい日ざしの中を、悲しくさけんで吹きまく風。硝子ガラスのように冷たい青空。その青空の上にうかんで、昨日きのふ今日けふも、さびしい一つのたこあがっている。飄々ひょうひょうとしてうなりながら、無限に高く穹窿きゅうりゅうの上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶ついおくただよっている!

この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクがあらわれている。「きのふの空のりどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがった空に一つの同じたこあがっている。即ち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断ふだんに悲しく寂しげに穹窿きゅうりゅうの上に実在しているのである。

こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーヴを表出した哲学的標句ひょうくとして、芭蕉ばしょう(1644-94)の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのふの空の有りどころ」というごとき語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じような欧風抒情じょじょう詩の手法を持っていたということにある。 

参考: 正岡子規「俳人蕪村」

郷愁 nostalgia

萩原朔太郎が蕪村(1716-1784)を再評価した「郷愁の詩人 与謝蕪村」を読んだ。前回読んだのは高三のときだったろう。もう50年以上前のことだ。朔太郎は序文で次のように述べている。

…著者は昔から蕪村を好み蕪村の句を愛誦あいしょうしていた。しかるに従来流布るふしている蕪村論は全く著者と見る所を異にして、一も自分を首肯しゅこうさせるに足るものがない。よってみずから筆を取り、あえて大胆にこの書をあらわし、著者の見たる「新しき蕪村」を紹介しようと思う…蕪村俳句の本質を伝えれば足りるのである。

著者のいう「蕪村俳句の本質」こそ<郷愁の詩人>なのである。それはとりもなおさず詩人朔太郎(1886-1942)の本質であろう。

高三の夏休み前に朔太郎全集(新潮社版)を購入し、夏休みに入るや母には受験勉強だと言って、背表紙が革製の全集のうち二冊と数十冊の文庫本を持ち、鈍行の夜汽車を乗り継いで岡山県の中国山系にある鉱山町に向かった。そこに単身赴任していた父の家に下宿し、夏休みのほとんどを好きな本の世界に没頭した。蕪村に関心を持ったのは朔太郎の影響だったろう。

一浪して大学に入ったものの、学生でいることに意義を見出せないまま不登校となった。70年前後から在日や隣国に関心を寄せる。朝鮮語を学ぼうと思ったが、気に入った学校を見つけられなかった。当時、韓国語という名称は使われておらず、どこも政治的な傾向を帯びていたように思う。いい加減な僕は、文革の影響もあって内山書店の奥で中国語を学ぶことにした。朝鮮語以上に政治的な選択をしたわけだ。案の定、3ヵ月ほどでやめてしまった。

週刊朝日(72.4.21)に김지하キムジハの「蜚語ひご」が掲載され、むさぼるように読んだ記憶がある。翻訳で読んでも行間にみなぎる力に圧倒され、韓国の学生運動に日本のそれにない社会性を感じた。当時日本橋にあった三中堂で原書を購入したが、歯が立たなかった。延世大学語学堂の英語で書かれたテキストを入手し、独学で勉強した。大学書林の「朝鮮語の基礎」も通読した。発音はKBSと平壌ピョンヤン放送を聴いて覚えた。

73年に韓国の航空会社の東京支店に入社したが、日本人で韓国語ができるのは僕だけだったと思う。出社した日に上司に呼ばれ、北のなまりを指摘され狼狽ろうばいした。当時はスパイといわれるに等しかったからだ。金大中キムデジュン事件(73年)や文世光ムンセグァン事件(74年)が継起けいきし、日本における韓国イメージは最悪だった時期である。なぜ、あの時期に韓国に引かれたのだろう。振り返ってもよくわからないのだ。

出身地や学歴、出自や階層、所属団体などにもとづいて差別する社会に対する反発があったことは間違いないが、なぜそれが隣国に向かったのか定かではない。幼少期を過ごした鉱山町への郷愁だろうか。東北地方の水沢で過ごした2年間に対する郷愁だろうか。アイデンティティの喪失感そうしつかんにともなうあせりから在日に親近感を覚えたのだろうか。

酒を友に4.2万kmの自転車旅1982-83/89年

中学時代の同級生にテントと自転車で地球一周に相当する距離を走った男がいます。いまから40年前、1982年に北米大陸を横断し(約150日)、83年に入ってヨーロッパ(約300日)と北アフリカ(約70日)を周遊し、香港(5日)・台湾(約20日)を経て帰国しました。走行距離は3.1万キロだといいます。

1989年には、地球一周に相当する4万キロを走破したいとの望みを達すべく、日本列島を約160日かけて自転車で一周(1.1万キロ)しました。この旅を終えたとき、彼は40歳になろうとしていました。1980年代、スマホもラインもなかった時代のことです。彼が一日も欠かさなかったのはブログではなく各地のビールやワイン、酒や焼酎でした。各地で酒を酌み交わし英語と現地語、あるいは日本語で話した相手は数十人、いや百人を超えるでしょう。

自転車たびを記録しつづけた手帳

彼は5年ほど前に数年かけて手書きの手帳と写真をもとにブログを執筆しました。PCを使わないので、すべてスマホ入力です。いま、その文章をもとに縦書き文庫に執筆中で、北米大陸横断を終え、ヨーロッパと北アフリカを走っているところ、まだまだ続きます。タイトルは地球一周分にふさわしく長くなりました。40年前、旅の仕方も通信手段もまったく異次元の世界です。

自転車たび1982-83/北米・欧州・北アフリカ・香港・台湾

走った国と地域は順に-米国-カナダ-英国-スペイン-ポルトガル-モロッコ-アルジェリア-チュニジア-イタリア-ギリシャ-ブルガリア-ユーゴスラビア-ハンガリー-オーストリア-スイス-西ドイツ-デンマーク-スウェーデン-ノルウェー-オランダ-ベルギー-フランス-香港-台湾-日本、1980年代、スマホもインターネットもなかった時代の700日、のどかな自転車たびをお楽しみください。

蛇足(だそく)ながら、当初はアフリカに行く予定はなかったようです。82年12月、ポルトガルに滞在していた寒さ嫌いの彼はアフリカに行けば暖かいだろうと信じ、フェリーに乗ってモロッコへ行きました。期待に反し、そこも冬だったとか…(わら)うに笑えない話しです。

日本のえと(干支、兄弟)

ことしは寅年とらどし、十干十二支によれば壬寅ジンイン(임인)で、九星では五黄ごおうにあたるそうです。壬寅を<みずのえとら>、訓読みで干支とあることは兄弟を<えと>と読ませるのもむずかしい。比較しやすいように簡単な表を作りました↓。韓国では「黒い虎」年というようです(みずのえ=黒)。

日本のえと(兄弟)

兄弟(えと)と九星

スマホで見るときは、画面をヨコに回転してくださいね。

https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/968828.html

母方の祖父

上野駅周辺を歩いていると、いつしか70年代の서울の光景と二重映しになる。その記憶のさらに遠くに母方の祖父の姿が浮かぶ。

[祖父は孫のなかでも僕を特にかわいがってくれた。母が末娘だったからだろうか。ときどき家に来ては庭の草取りをし、垣根かきねのヒバをってくれた。高校受験のためA市に行ったのも祖父と二人だった。最後の蒸気機関車の旅だった。汽車がトンネルに入るとすすが入ってきて、祖父があわてて窓枠をおろした。あのときの祖父の笑顔、煤でざらざらした木の窓枠、学生服の袖口から出た白いシャツ、汽笛の音のなかにそんな映像が浮かぶ。地方の農村で育った祖父は若いころ田畑を処分して夫妻で上京し、上野駅構内でスリに襲われて、全財産を失った。途方とほうにくれた祖父はバナナのたたき売りから始め、上野のほおずき市や植木市を転々として、もうけの多い植木と生花商に落ち着いた。一緒にふろに入ると、かめの子たわしでごしごし背中を洗わされた。どんなに力を入れても痛いと言わない。よく笑いながら僕をしかったが、僕も笑っている。そんな祖父と目の前の老人がどこかでつながっている]

1932年に完成した上野駅の広小路口駅舎

「無宗教」という宗教性

川村元気氏(1979-)の『神曲』(新潮社 2021年11月)に関するインタビュー記事を読んだ。映画監督であり脚本作家であり小説家である同氏が宗教をテーマに父親・母親・娘という三者の相異なる視点から描いた作品のようだ。

この家族には、不慮の死というには余りに悲惨な死に方をした息子がいた。父親は息子がほかの小学生とともに殺された事件の現場にいたが、何もできなかった。そのことをいつまでも妻と娘に責められるのだろう。

記事を読んで、現代日本社会の様相を鋭く分析していると思った。著者は、父親から徹底した映画教育を受け、母親からキリスト教という信仰の影響を強く受けているようだ。幼いころから聖書を繰り返し読み、その物語が著者の血肉になっているとも分析している。よく自分自身を省察していると思う。

この作品を読んでみようか、と思うのは、僕が日本社会を「無宗教性」が支配する社会として捉えるからで、その点で著者の見方と共通するところがあると考えている。Kポップのもつ世界性の基盤にキリスト教があるのではないかという著者の考察も興味深い。

宮澤賢治「雨ニモマケズ」を読む

「雨ニモマケズ」を縦書き文庫で読んだ(青空文庫より)。「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」とある行は「ヒデリノトキ」と習ったが、賢治の死の翌年に発見された手帳には「ヒドリノトキ」とあったそうだ。

1980年代後半、賢治の教え子の一人が「農家にとって日照は喜ぶべきものであり、『ヒドリ』は日雇い仕事の『日取り』を意味するもので『日雇い仕事をせざるを得ないような厳しい暮らしのとき』と原文通りに読むべきである」と主張したという。[wikipedia]

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

(c) t.livepocket.jp 1931.11.03 Miyazawa Kenji

底本:「【新】校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」筑摩書房 1997(平成9)年7月30日初版第1刷発行
※本文については写真版を含む本書によった。また、改行等の全体の体裁については、「【新】校本宮澤賢治全集 第六巻」筑摩書房1996(平成8)年5月30日初版第1刷発行を参照した。
入力:田中敬三 校正:土屋隆
2006年7月26日作成 2019年1月21日修正
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

「銀河鉄道の夜」を読む

「銀河鉄道の夜」初期形一と題された文章を縦書き文庫で読んだ。「銀河鉄道の夜」の草稿のようなものだろうか。同文庫には作品検索の上から順に次の4版が収録されている。

  1. 「銀河鉄道の夜」初期形一 11,458字
  2. 銀河鉄道の夜 40,750字
  3. 銀河鉄道の夜 日本文学100選 76,361字
  4. 銀河鐵道の夜 44,751字

後半部分で列車が停車して同乗客が降り、友人のカムパネルラも去る。そのあとでジョバンニは「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ」と言う。

賢治が法華経(ほけきょう)行者(ぎょうじゃ)を任じ、デクノボウのような不軽菩薩(ふぎょうぼさつ)(はん)としていたことを思う。そして、ジョバンニの独白が意味するところを考える。

…そして見てゐるとみんなはつゝましく列を組んであの十字架の前の天のなぎさにひざまづいてゐました。そしてその見えない天の川の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ふうちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。
…そのときすうっと霧がはれかゝりました。どこへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでゐました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちゃうど挨拶でもするやうにぽかっと消えて二人が通って行くときまた点くのでした。ふりかへって見るとさっきの十字架はもうまるでまるで小さくなってほんたうにもうそのまゝ胸にも吊されさうになりさっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまづいてゐるのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかもうぼんやりしてわかりませんでした。
…ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そしてはげしく胸をうって叫びました。「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」
…「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」「あゝではさよなら。」博士はちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。
縦書き文庫「銀河鉄道の夜」初期形一より抜粋

縦書き文庫: 宮沢賢治の作品

下線部の作品タイトルをクリックすると縦書き文庫版で読むことができます。

(1万字以上のタイトルを太字にしました)
一九三一年度極東ビヂテリアン大会見聞録 4,667字
「銀河鉄道の夜」初期形一 1万1,458字
銀河鉄道の夜 4万0,750字 2
春と修羅 第三集 修羅詩集 2万6,112字
詩ノート 3万2,700字
〔モザイク成り〕354字
〔聖なる窓〕320字
〔あくたうかべる朝の水〕343字
〔くもにつらなるでこぼこがらす〕299字
〔かくまでに〕305字
〔こゝろの影を恐るなと〕301字
〔島わにあらき潮騒を〕359字
〔せなうち痛み息熱く〕889字
隼人 484字
〔土をも掘らん汗もせん〕383字
敗れし少年の歌へる 478字
〔夕陽は青めりかの山裾に〕491字
中尊寺〔二〕345字
農学校歌 403字
〔われはダルケを名乗れるものと〕467字
〔廿日月かざす刃は音無しの〕394字
〔ひとひははかなくことばをくだし〕625字
不軽菩薩 412字
火渡り 315字
火の島 289字
県道 347字
スタンレー探検隊に対する二人のコンゴー土人の演説 737字
〔雪とひのきの坂上に〕346字
駅長 382字
宗谷〔一〕349字
〔なべてはしけく よそほひて〕498字
〔雲ふかく 山裳を曳けば〕302字
釜石よりの帰り 344字
祭日〔二〕373字
看痾 269字
宗谷〔二〕655字
製炭小屋 379字
〔棕梠の葉やゝに痙攣し〕388字
〔このみちの醸すがごとく〕347字
〔こはドロミット洞窟の〕318字
小祠 357字
対酌 588字
〔霜枯れのトマトの気根〕327字
〔鉛のいろの冬海の〕548字
国柱会 401字
秘境 512字
僧園 376字
〔青びかる天弧のはてに〕347字
校庭 334字
宅地 320字
〔われらひとしく丘に立ち〕398字
〔いざ渡せかし おいぼれめ〕340字
〔馬行き人行き自転車行きて〕681字
496字
開墾 323字
機会 312字
〔月光の鉛のなかに〕284字
294字
雪峡 310字
〔そのかたち収得に似て〕297字
〔たゞかたくなのみをわぶる〕329字
〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕556字
〔館は台地のはななれば〕342字
〔二川こゝにて会したり〕511字
百合を掘る 641字
四八 黄泉路 697字
病中幻想 382字
訓導 363字
職員室 410字
烏百態 541字 1
〔甘藍の球は弾けて〕295字
〔雲を濾し〕311字
〔郡属伊原忠右エ門〕331字
〔洪積の台のはてなる〕412字
〔鷺はひかりのそらに餓ゑ〕302字
水部の線 316字
セレナーデ 恋歌 381字
〔卑屈の友らをいきどほろしく〕389字
〔つめたき朝の真鍮に〕314字
月天讃歌(擬古調)610字
〔ま青きそらの風をふるはし〕415字
〔まひるつとめにまぎらひて〕352字
〔ゆがみつゝ月は出で〕363字
〔りんごのみきのはひのひかり〕380字
〔※[#「日+令」第3水準1-85-18]々としてひかれるは〕335字
〔われかのひとをこととふに〕317字
会計課 334字
田園迷信 467字
八戸 501字 1
講後 646字
〔ながれたり〕1,205字
楊林 318字
雹雲砲手 316字
青柳教諭を送る 269字
開墾地 306字
饗宴 598字
幻想 639字
こゝろ 296字
〔こんにやくの〕305字
〔霧降る萱の細みちに〕534字
樹園 336字
春章作中判 454字
隅田川 624字
遊園地工作 403字
〔弓のごとく〕336字
〔われ聴衆に会釈して〕501字
〔われらが書に順ひて〕581字
いちょうの実 1万1,605字
さいかち淵 2万1,862字
ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記 5万2,780字
春と修羅 第二集 修羅詩集 5万9,676字
イーハトーボ農学校の春 1万1,349字
みじかい木ぺん 1万6,759字
或る農学生の日誌 4万9,469字
十六日 2万0,323字
サガレンと八月 1万7,085字
バキチの仕事 8,968字
泉ある家 1万7,964字 1
手紙 一 4,046字 1
手紙 二 3,527字 1
手紙 三 4,485字 1
手紙 四 6,208字 1
朝に就ての童話的構図 2,975字 1
土神ときつね 2万1,686字 1
雁の童子 4万0,838字
4,790字
鹿踊りのはじまり 4万6,172字 1
ペンネンノルデはいまはいないよ太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ 3,659字
ポラーノの広場 2万5,075字
マグノリアの木 1万3,533字
ラジュウムの雁 870字
龍と詩人 2,636字 1
疑獄元兇 3,086字
〔蒼冷と純黒〕1,764字
花壇工作 1,875字
あけがた 2,301字
510字
沼森 1,349字
704字 1
丹藤川〔「家長制度」先駆形〕748字
大礼服の例外的効果 1,486字
チュウリップの幻術 2万6,436字 2
シグナルとシグナレス 3万8,491字
ざしき童子のはなし 6,492字 2
風野又三郎 6万1,174字
『春と修羅』修羅詩集 8万7,008字
蛙のゴム靴 1万4,690字
月夜のけだもの 9,089字
畑のへり 3,320字
洞熊学校を卒業した三人 1万4,884字
まなづるとダァリヤ 5,034字
革トランク 5,863字
毒蛾 1万2,658字
二十六夜 6万1,611字
雪渡り 1万2,332字 1
銀河鉄道の夜 日本文学100選 7万6,361字 3
マリヴロンと少女 4,813字
文語詩稿 一百篇 2万3,013字
フランドン農学校の豚 2万5,539字
葡萄水 7,718字
氷河鼠の毛皮 1万1,896字
ひのきとひなげし 8,536字
『春と修羅』補遺 修羅詩集 7,425字
林の底 1万0,831字
花椰菜 4,111字
化物丁場 1万0,154字
楢ノ木大学士の野宿 3万4,892字
なめとこ山の熊 1万3,122字
どんぐりと山猫 8,915字 1
鳥箱先生とフウねずみ 5,710字
とっこべとら子 7,215字
床屋 2,659字
『注文の多い料理店』新刊案内 1万1,739字
『注文の多い料理店』序 1,013字
『注文の多い料理店』広告文 4,775字
注文の多い料理店 日本文学100選 8,987字 2
タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった 1万0,266字
種山ヶ原 4万4,584字
税務署長の冒険 2万7,294字
郷土喜劇 7,614字
十月の末 9,102字
山地の稜 4,993字
蜘蛛となめくじと狸 1万3,923字 1
気のいい火山弾 5,856字
烏の北斗七星 9,266字 1
家長制度 1,507字
かしはばやしの夜 1万3,246字
かしわばやしの夜 1万5,427字
学者アラムハラドの見た着物 2万0,942字
カイロ団長 1万6,305字
いてふの実 5,316字 1
秋田街道 4,176字
ポランの広場 4,720字
二人の役人 1万8,949字
7,890字
疾中 5,937字
セロ弾きのゴーシュ 日本文学100選 1万9,804字 2
双子の星 2万5,851字 1
さるのこしかけ 8,820字
よく利く薬とえらい薬 6,336字
北守将軍と三人兄弟の医者 1万9,072字
農民芸術概論綱要 3,281字
農民芸術概論 682字
耕耘部の時計 1万7,576字
狼森と笊森、盗森 1万3,739字
…ある小さな官衙に関する幻想… 7,096字
電車 2,697字
土神と狐 1万7,549字 1
月夜のでんしんばしら 6,088字
ツェねずみ 6,620字 2
水仙月の四日 1万0,844字
クねずみ 6,783字
グスコーブドリの伝記 3万2,489字 2
ひかりの素足 2万7,760字
鹿踊りのはじまり 1万5,379字
紫紺染について 2万2,023字
一幕 8,660字
黄いろのトマト 1万6,641字
イギリス海岸 5万2,852字
若い木霊 7,976字
山男の四月 9,255字
柳沢 7,650字
祭の晩 6,798字 1
台川 3万5,110字
風の又三郎 日本文学100選 4万3,040字
オツベルと象 日本文学100選 6,391字
よだかの星 日本文学100選 5,873字
やまなし 日本文学100選 6,010字
虹の絵具皿 (十力の金剛石) 3万4,974字
黒ぶだう 4,108字
虔十公園林 8,452字 1
鳥をとるやなぎ 9,150字
植物医師 郷土喜劇 1万0,493字
猫の事務所 …ある小さな官衙に関する幻想… 1万0,041字 2
饑餓陣営 一幕 1万7,024字
ビジテリアン大祭 8万4,938字
ありときのこ 7,429字 1
凾館港春夜光景 1,190字
茨海小学校 2万7,489字
銀河鐵道の夜 4万4,751字 2
月夜のでんしんばしらの軍歌 2,014字
花巻農学校精神歌 566字
星めぐりの歌 442字
〔雨ニモマケズ〕日本文学100選 769字 1
農民芸術の興隆 2,229字

馬鹿は死ななきゃ…

11月に入って2週間で「浮雲」1887-90、「舞姫」1890、「たけくらべ」1895、「三四郎」1908、「ヰタ・セクスアリス」1909、「雁」1911-13、「こゝろ」1914、「濹東綺譚」1937 を以下の順に読んだ。どれも高三か浪人期に読んだもので70歳を過ぎて再読したことになる。

とはいえ、はじめから読み直そうと思ったわけではない。2年前からある試験勉強に取り組み、ことしの7月末にインターネットで受験申込みしたはずが、試験直前に手続きが完了していなかったことが判明した。この阿呆らしいしくじりから立ち直ろうとして、むかし親しんだ小説の世界に逃避したのである。

この信じがたい失敗がなければ、これらの「青春小説」を読むことはなかっただろう。再読して驚いたのはすべての小説について新たな解釈と知見を得たことだ。以前は字面だけ追っていたようにさえ思われる。試験勉強にも新たな局面が開けることを期待する自分はどこまで愚か者なのだろう。「馬鹿は死ななきゃ治らない」とはよくいったものだ。

鷗外の「雁」を読む

「小説をかく時、觀察の態度をきめやうと思ふ時は雁と灰燼とを讀返す」と永井荷風が評した鷗外の「雁」(1911-13)を読んだ。以前は高利貸の妾と医学生の恋愛として理解したつもりになっていたが、そう単純ではない。薄幸な妾の心理をみごとに活写しているが、彼女を囲う男とその妻の心理描写も優れている。世人が疎んじる職業に従事する者の怜悧さと男性の沽券ともいうものをよく描いている。

岡田の友人であるナレーターの語り、父親と玉の貧しいながら仲睦まじい暮らし、騙されて妻子持ちの警官に嫁いだ玉の不幸、学生相手の金貸業から始めて高利貸になった末造の自負心、父親を思い妾になる玉の薄幸さ、末造に抱かれながら岡田を思う玉の女心、カナリアを襲う青大将や岡田が投げた石に当たって死ぬ雁が暗示する不気味なものの存在、すべての描写が巧妙に絡み合い飽きさせない。

物語の最後で岡田はドイツに留学する。鷗外自身の経験(1884-88年ドイツ留学)が反映されていると考えることもできる。玉に「舞姫」のエリスを重ねてみることもできなくはないのではないか。

荷風の「濹東綺譚」を読む

永井荷風(1879-1959)の「濹東綺譚」を縦書き文庫版で読んだ。太平洋戦争に没入する前夜の1937年に刊行されている。「濹東」は墨田川東岸の意味だ。

荷風は「…小説をかく時、觀察の態度をきめやうと思ふ時は雁と灰燼とを讀返す。既に二十囘くらゐは反復してゐるでせう…」(縦書き文庫: 永井荷風>鷗外全集を讀む)と述べている。

「濹東綺譚」と鷗外の「雁」(1911-13)を比較することに意味があると考えるが、一方は大学生の若々しい感性で、他方は老成した文筆家の観察眼で女性を描いている。いずれの作品も世相批判であり、戦争反対の表明だと思う。

小説の創作過程を記述していておもしろい。自ら創作を試みる者にとって興味つきないが、真似するのはむずかしい。荷風だからなし得た手法であろう。この作品も高三か浪人のときに読んだと思う。若いときの好奇心だけで上っ面を読んだだけだろう。


一葉の「たけくらべ」を読む

樋口一葉(1872年5月-1896年11月)の『たけくらべ』を縦書き文庫版で読んだ。1895-96年に雑誌「文學界」に連載、96年4月に「文藝倶楽部」に全篇が掲載された。一葉満23歳の作品で、亡くなる僅か半年前のことだった。この作品も高三か浪人のときに読んだはずだが、ほとんど記憶にない。ただ字面を追っただけなのだろう。荷風の『濹東綺譚』は鮮明に残っている。

吉原についてよく知らないので、前後して田中優子の近著『遊廓と日本人』を読んだ。文化としての遊廓に関する考察とでもいうべき書である。大いに参考になった。図版を中心に説明している第5章に図版が増えれば、と思う。

若いころ上野で植木商などに関わり戦後小石川に生花店を営んだ祖父に連れられ、吉原界隈を歩いた記憶があるが定かでない。

鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(1)(2)

漱石より鷗外(1862-1922)が好きな僕は高三か浪人のときに「ヰタ・セクスアリス」を読んだ。1909年、鷗外が満47歳のときの作品だ。タイトルはラテン語だが「わが性慾に関する手記」ぐらいの意か。「ヰタ・セクスアリス(その二)」と名付けたい。

前回も辞書を引きひき読んだのだろう。文中に出てくる漢語もさることながら、独英仏羅希語が登場し、意味を確認しないと読み進められない。neugierde というドイツ語(英語 curiosity)が頻出した。鷗外の観察眼は()めた好奇心とでも呼ぶべきもので、けっして性慾に淡泊なわけではないが、受動的である。

一日置いて「舞姫」を読んだ。1890年の発表だから、鷗外が28歳のときに書かれたものだ。少なくとも二度は読んでいるはずだが、今回はまったく別物のような気がした。「ヰタ・セクスアリス(その一)」と名付けたい。かくも生々しい物語だったのか、と呆れる。若かったとはいえ、上滑りして読んでいた自分が恥ずかしい。

森鷗外(1862-1922); 二葉亭四迷(1864-1909); 夏目漱石(1867-1916)、三人並べると、鷗外が最も早く生まれ、最も長く生きている。専門の語学はそれぞれ独・露・英語である。鷗外と二葉亭は英仏語もできたろう。三人の漢籍の知識は到底僕の及ぶところではない。

二葉亭の「浮雲」を読む

70年代初め、二葉亭(ふたばてい)四迷(しめい)(1864-1909)に()った時期がある。新書版の全集を神保町の古本屋で購入し、小説や翻訳作品ほかを読んだ。原著者ツルゲーネフ(1818-83)の「片戀(かたこい)」が好きだった。最近50年ぶりに「浮雲(うきぐも)」を読んだら、ところどころ吹き出すほどのおもしろさだ(第1編1887年6月、第2編88年2月、第3編90年7-8月発行)。

ようやく官吏(かんり)になったもののすぐに罷免(ひめん)された二十代前半の男が主人公だ。官吏になるや、ちやほやして娘を嫁がせようとした叔母が、彼が免職(めんしょく)になるや、豹変(ひょうへん)して(つら)くあたる。はては、主人公の元同僚に乗り換えようとする世の理不尽(りふじん)さを(なげ)きつつも、その娘に対する思いを断ち切れない内海(うつみ)文三、言文一致文体の極致ともいうべき作品か。

挿絵: 主人公の内海文三と彼が恋するお勢 https://www.city.bunkyo.lg.jp/index.html

夏目漱石(1867-1916)の「三四郎」(1908)を読んだあと、二葉亭の「浮雲」を読んだ。前者は大学生、後者は官吏に採用されながら罷免された、いずれも真面目(まじめ)不器用(ぶきよう)な男だ。両者の異性に対する態度は驚くほど似ている。

筑波山に登る

娘夫婦に()れられ筑波(つくば)山に登山した。「日本百名山」を制覇(せいは)しようという彼らに付いていった。標高877m(女体山(にょたいさん))ながら、大きな岩がごろごろしていて歩きにくい、(あなど)れない低山だ。関東平野の一角に隆起した山塊(さんかい)は全体が巨岩の(かたま)りのようだ。奇岩も多く、神話や伝説にちなんだ説明が付いている。女体山(にょたいさん)から男体山(なんたいさん)につながる稜線沿いにケーブルカーとロープウェイの駅があって、茶店が並ぶ光景は素直に受け入れられない。

(あし)が半ば麻痺(まひ)している僕にはきつい山だ。登り下り合わせて5時間、最後は筋肉痛で動けなくなる寸前すんぜんだった。百名山をまた一つ制覇(せいは)したという彼らのような達成感はないながら、まだ歩けるぞ、という妙な自信感に満足した。

試験直前の勉強に没頭しているはずが、受験申し込みの不手際で受験できなくなった。自分のせいだから誰を怨むこともできない。ただ、自らの愚かさを嘆くばかりだ。こんなとき、何も考えずに山道を歩くことにまさる治療法はない。馬鹿につける薬はないのだから。

漱石の「こゝろ」を読む

50年ほど前に読んだはずの小説、夏目漱石(1867-1916)の「こゝろ」 (原作「こゝろ 先生の遺書」: 1914年4月-8月朝日新聞連載)を縦書き文庫版で読んだ。55章と56章(最終章)に、「先生」が「私」に宛てた遺書のような長文の手紙の末尾に次の記述がある。( )内は原文にない補足。

…夏の暑い盛りに明治天皇(1852-1912)が崩御(7月30日)になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。

…それから約一ヵ月ほど経ちました。御大葬(1912年9月30日)の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将(1849-1912)の永久に去った報知にもなっていたのです。

「先生」は乃木希典夫妻が殉死した数日後に自殺の決心をし、その後十日以上かけて「私」宛に長文を書いている。「先生」は何に殉死したのだろうか。「先生」に最も残酷な形で「お嬢さん」を奪われて自殺したKに対する呵責の念から逃れるためだろうか。「先生」の egoism/egotism について延々と読ませられる小説だということを半ば知っていながら、なぜ僕はこの小説を再び読んだのだろうか。自分の愚かさを紛らわすためだったろうか。後味が悪いのは他の誰のせいでもない。僕のせいだということを知っているつもりではいるのだが。

「先生」が下宿した先の母娘、とくに娘の立場でみると、Kと「先生」という、かつて親しく接していた二人の下宿人が相次いで自殺することは耐えがたい苦痛だったろう、と思わずにはおられない。軍人の未亡人である母親はKの自殺についてある程度推定していたに違いないが、娘はKの自殺の要因ないしきっかけと思われる「私」の一方的な思惑によって何も知らされないばかりか、「私」と結婚することによって寂しい思いを強いられたあげく、若くして未亡人になる。

この小説を明治時代の時代精神に対する鎮魂歌のように評する人もいるようだが、同じ作者の「三四郎」の冒頭、列車に登場する老人の独白にあるように、日清日露と続いた戦争に象徴される明治の時代精神の閉塞感を描いた作品ということもできるのではないだろうか。

漱石『こゝろ』岩波書店版の表紙 1914年9月

異界・迷界・冥界

夕方、一人で隣りの駅まで歩いていった。どこかで食事するつもりだったが、出がけ前に軽く食べたこともあって、なかなか場所が定まらない。小一時間歩いているうちに来たことのない道に迷いこんでしまった。いったい、ここはどこだろう。行き詰まっていた書きかけの小説の新しい場面がぼんやり浮かんだ。ある門前町だった。そのとき一瞬、異界に足を踏み入れたような感官を覚えた。むろん、錯覚だろうが。

通りの先になまめかしい赤い提灯が二つ灯っていた。提灯に庚申堂と書いてある。よこに建つ説明板とお堂のあいだに、1783(天明3)年に造られたという四角柱の石道標が建っている。赤い灯がまぶしくて石柱に気づかなかった。白昼に来たら、異界を見ることはなかったろう。

1783(天明3)年銘の道標(左下の暗い石柱)

住・職転々の来歴

縦書き文庫のプロフィールに載せた略歴は次のとおりで、主に住んだ場所を記している。カナダの2年を除いてほとんど日本国内だし、載せる意味はないかもしれない。

住・職転々: 1950年東京本郷に生まれ岡山県柵原へ; 55年-東京善福寺池; 65年-岩手県水沢; 67-85年本天沼・阿佐ヶ谷; 70年-英・韓語に関連する多業種を経験; 85年-洗足池(87-90年Toronto・守口); 作品「いつか名もない魚(うを)になる」(「無宗教派の人びと」所収)ほか

どんな土地に住んだかは性格や考え方に大いに関わっていると考える。僕の来歴はさしずめ「住・職転々」だ。本当は、もっとも大きな影響を受けているのは母親だと考えている。彼女についていつか書きたいと思う。

(昭和35(1960)年ごろの居間の写真は、長谷川町子美術館の展示)

「ハイジン教」と排外・拝外主義

25年余り前に執筆した修論のテーマは、明治期に条約改正論議と並行して行われた「内地雑居論争」だった。現代における多文化共生論議に近い。その根っこにあるのは日本の人々の対外意識の問題であり、幕末から明治期にかけて攘夷論として表現された。

2020年に書いた習作と現在執筆中の「ハイジン教」に共通するテーマが、論文で扱った日本の人々の<排外主義>であり<拝外主義>であった。最近このことに気づき、拙論「内地雑居論にみられる対外意識の研究」を本サイトに載せた。縦書き文庫にも掲載している

ハトの鳴き声

最近、ハトの鳴き声が気になる。規則正しい鳴き声で繰り返されるから耳について離れない。何か意味ありげに聞こえるのだ。

グッ、クーグーッククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クーグーッククー、グーックーククー、クッ(間)グッ、クーグーッククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クーグーッククー、クーグーッククー、グーックーククー、クッ

あとはこの繰り返しだが、クーグーッククーを繰り返す回数が少なくなって終わる。同じ鳴き声を韓国語で表記すると、例えば次のようになる。

굿、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굿꾸꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸 끝(間)굿、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굿꾸꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸、굴굿꾸꾸 끝

一般的には 구구구구 と表記するようだが、これだと「グーッ」「クー」「ククー」「クッ」が区別できない。끝 は終わりの意味で駄じゃれである。韓国語は英語と同じように子音で終わる語が多く、それを表記できるので表現しやすいのです。

小径車で通勤

通勤用に折りたたみの小径車を買いたいと思う。愛知県の自転車メーカーがデザインし中国で生産している。英米からの輸入品に較べ格安だ。ディスクブレーキだし、デザインもいい。

Ichinomiya Cycle LX-F16 Black 16in 12kg
Ichinomiya Cycle YZ-14 Dark green 14in 14kg

下の写真は30年以上前に持っていた宮田製作所(現ミヤタサイクル)の折りたたみ自転車だ。3段ハブギアで5万円もした。盗難に遭って今はもうない。だから、通勤用に高価なものは買いたくない。

老いた少年

70年代初めに神保町の書店で一年余り一緒に仕事をし、親しかった友人がいる。無類の本好きで、長年古書店に勤めていた。少年っぽいところがあったからか女性にもてたが、社交的ではなかった。その後、職場も変わり疎遠になり、たまに連絡しあうだけとなった。交信手段は携帯電話だけで、50年前の電話とあまり変わらない。

1ヵ月ほど前、その老少年から電話があった。電車に乗っていた僕はあわてて降り、駅構内の静かなところに移って約30分話した。もしや、僕が死んでいるかと思うと怖くて、なかなか電話できなかったという。入退院を繰り返しながらも元気だが、足の痛みがひどく、外出はほとんどできないようだ。夫人と二人暮らしで、近くに娘夫婦がいて孫もいる。近々、訪ねて行くことにして、電話を切った。

翌週、何年かぶりの再会を果たした。彼の最寄り駅近くにあるとんかつ屋の個室で向き合って話し込んだが、何を話したのか、近況を伝えた以外はあまり覚えていない。少しさびしい気もするが、たがいに元気でいることを確かめるために会ったのかもしれない。

とんかつ屋を出たあと、僕はもう少し話したかったが、彼にはあまりその気がなかったのだろう。駅のほうに向かって踏み切りをわたると、<シアトル教会>があった。その通りに面したテーブル席に誘ったのは僕のほうだった。

そこにいる間、僕は彼のスマホにSNSを設定する作業に費やした。二人のあいだのやり取りを容易にしたかったのだが、彼はそれを好まなかったようだ。ただ、その場では何も言わずに僕がするままに任せていた。ひとこと言ってくれていたら、相応の対応ができたろうに。

一週間後、SNSで電話をしても受けなかったので、在来の電話を使って連絡すると、受けとった。僕がSNSを使うように促すと、「いったい何様だと思ってるんだ、己は使わないから」と言う。「とにかく、もういいから」と言って切られてしまった。後味の悪い電話だったが、向こうも同じだったろう。

このまま二度と会わないかもしれない。その蓋然性が高いだろう。親しい間がらというのも案外もろいものだ、と思った。

タンゴの魅力: milonguero

MTBより少し前に習いはじめたタンゴから遠ざかって久しい。コロナ禍もあってミロンガ(タンゴ・ダンスパーティ)にも行きにくくなった。そんなとき、パリ在住のタンゴ歴23年という先生のサイト作りを手伝う機会に恵まれた。以下、その一部を紹介したい。

アルゼンチンタンゴというと、一般的にテレビなどマスメディアで紹介されているショータンゴを思い浮かべる人が多いのですが、実際のブエノスアイレス市民の間で昔から現在まで踊られている伝統的なタンゴは、それとはだいぶ趣を異にしています…

“Tango Milonguero”の言葉の意味は、Tango(踊り)とMilonguero(踊りの名人、もしくは踊りのスタイル)が合体したもので、いわば「名人の踊り」ともいえます…

「縦書き文庫」8-9月順位で上位に

拙著「いつか名もない魚(うを)になる」が縦書き文庫8月の順位で上位に入りました。読者のみなさまのお蔭です。ありがとうございます。

→「縦書き文庫」: 8月のランキング; 9月のランキング

notitleauthorpoints*
1こころ夏目漱石2724(783)
2方法序説ルネ・デカルト1150(430)
3君主論マキャヴェリ698(359)
4地下室の手記(「地下
生活者の手記」)
ドストエフスキー670(30)
5吾輩は猫である夏目漱石436(108)
6坊っちゃん夏目漱石398(487)
7ピーターパンと
ウェンディ
ジェームス・マシュー・バリー381(493)
8純粋扉で夏みかん柿原 凛**335(26)
9人間失格太宰治290(109)
10ダブリンの人たちジェイムズ・
ジョイス
235(257)
1180日間世界一周ジュール・
ヴェルヌ
225(127)
12ヴェニスの商人メアリー・ラム196(32)
13無宗教派の人びと(「いつか名もない魚(うを)になる」含む)小栗 章159(16)
*( )内は7月のポイント数

各タイトルをクリックすると縦書き文庫で読むことができ、作者名をクリックすると同文庫に掲載された作者の全作品が表示されます。 「いつか名もない魚(うを)になる」 はシリーズ化し「無宗教派の人びと」に含めました。

この表示にはトリックがあります。著名な作品は常に上位にありますが、僕のような新規投稿作品は投稿月と翌月ぐらいしか載りません。当然のことですが。

夏休み、五十数年前といま

Wanda Landowska; the Well tempered clavier, Glenn Gould; Bach English suites などの器楽曲を聴きながら、むし暑い部屋のなかで安楽椅子に深々とすわって本を読む。本こそ違え年齢は違っても気持ちは五十数年前に高校生だったときの夏休みと同じだ。錯覚といわれればそのとおりだが、記憶力の悪い僕には錯覚だとは思われない。まったく同じ時空にいるような気がするのだ。病んでいるといわれれば、そうかもしれない。

きょう読んだのは民法の判例集。たとえば次の事例(大審院連合部判決明治41年[1908]12月15日民録14輯)、もちろん縦書きである。

(そもそも)民法に(おい)て登記を(もっ)て不動産に関する物権の得喪(とくそう)及び変更に(つい)ての成立要件と()さずして(これ)を対抗条件と為したるは既に(その)絶体(マゝ)の権利たる性質を(かん)(てつ)せしむること(あた)わざる素因(そいん)を為したるものと()わざるを得ず。(しか)れば(すなわ)其時(そのとき)(あるい)待対(たいつい)の権利に(るい)する(きらい)あることは必至(ひっし)(ことわり)にして(ごう)(あやし)むに()らざるなり。(これ)を以て物権は(その)性質絶対なりとの一事(いちじ)は本条(民法177条*)第三者の意義を(さだむ)るに於て(いま)(かならず)しも之を重視するを()ず。

加之(しかのみならず)本条の規定は同一の不動産に関して正当の権利(もし)くは利益を(ゆう)する第三者をして登記に()りて物権の得喪(とくそう)及び変更の事状(じじょう)知悉(ちしつ)し以て不慮(ふりょ)の損害を(まぬが)るることを得せしめんが()めに(そん)するものなれば(その)条文には特に第三者の意義を制限する(ぶん)()なしと(いえど)其自(それみずか)ら多少の制限あるべきことは之を字句(じく)(ほか)に求むること(あに)(かた)しと()ふべけんや。

*第177条 [不動産に関する物権の変動の対抗要件] 不動産に関する物権の得喪及び変更は、不動産登記法(平成16年法律第123号)その他の登記に関する法律の定めるところに従いその登記をしなければ、第三者に対抗することができない。