一茶の描く蛙(かへる)

蛙もほかの動物と同じように一茶の情感や観察眼を映していると考えていたが、その表現様式は他の動物と少し違うようだ。蛙は猫や雀より抜きん出ていて人間一茶に対抗するかのように、あるいは世のなかを見おろすように描かれている。だから、一茶は蛙に対抗して「小便の滝を見せ」るのだろうし、蛙のほうは彼を無視するかのように「(一茶が)叱ってもしゃあしゃあ」とし「(彼ら自身)小便をいたしながらも鳴く」のだ。

どこか超然として「一つ星見つけたように」「我一人さめたり顔」で「人をはくようにすわって」鳴く蛙像が浮かび上がってくる。よく知られた「痩蛙やせがへるまけるな一茶これにあり」が、生後1ヵ月も経たずに死んでしまう長男の病魔退治びょうまたいじの祈りだったという背景を知るにつけ、一茶の蛙に対する特別の思いがあったればこそだとも思う。

「江戸蛙ちょっともあとに引ぬ」傲慢ごうまんさをもち、「西行さいぎょうのようにすわって」「上人しょうにん口真似くちまねして」「三日月をにらみつけ」「おれ(一茶)としてにらみくら(競)する」「一理屈ひとりくついう気ですわる」蛙、「南無なむなむと石に並び」「南無なむなむと田にも並んで」鳴く蛙も生意気である。「天文てんもんを考え顔の」「鳥居とりいから江戸をながむる」蛙、「あしの葉に達磨だるまもどき」「星の歌よむ」などの表現には蛙に対する畏敬いけいの念すら感じられないだろうか。

개구리도 다른 동물과 같이 잇싸(一茶 1763-1828)의 정서와 관찰력을 반영하고 있다고 생각했는데, 그 표현양식이 다른 동물과 조금 다른 것 같다. 개구리는 고양이나 참새보다 우월한 존재로 인간 잇싸에 대항하는 듯, 혹은 세상을 내려다보는 전재로 그려져 있다. 그래서 잇싸는 이에 대항해 ‘오줌폭포를 보여주’는 것이고, 개구리 쪽은 그를 무시하는 듯 ‘(잇싸가 그들을) 꾸짖어도 꺅꺅거리며’ ‘(그들이) 오줌을 싸면서도 울면서 간다’는 것이다.

어딘지 모르게 초연(超然)하게 ‘별 하나 찾은 듯’ ‘나 혼자 깨어있는 얼굴’로 ‘사람한테 토하듯 앉아서’ 우는 개구리 상이 떠오른다. 잘 알려진 ‘마른 개구리야 지지 말고 이겨라, 잇싸가 여기 있다)가 태어난지 한 달도 못 살던 잇싸 장남의 병이 낫기를 기원하는 내용이라는 배경을 알면, 잇싸의 개구리에 대한 특별한 마음이 있었기에 이런 표현을 했으리라 생각된다.

‘에도(현재의 도쿄)에 사는 개구리들은 전여 양보하지 않는’ 오만(傲慢)함을 가지고, ‘사이교(西行 1118-1190) 스님처럼 앉아서’ ‘고승(高僧)의 말투를 흉내 내며’ ‘초승달을 노려보고’ ‘나(잇싸)와 노려보기하고’ ‘일리 있는 말을 하려고’ 하는 개구리, ‘남무남무를 외치며 돌에 줄지어’ ‘남무남무를 외치며 밭에 줄지어’ 울부짖는 개구리도 건방진 개구리이다. ‘우주(宇宙)를 생각하는 얼굴’, ‘신사(神社) 입구에 있는 대문에서 하계(下界)를 노려보는’ 개구리, ‘갈대 잎위에 달마(達磨)스님 처럼 좌선(坐禅)하며’, ‘별에 대한 시를 만드는 시인과 같은 얼굴로’ 등의 표현에는 개구리에 대한 경외감마저 느껴지지 않는가. Translated with DeepL.

ぜひ、縦書き文庫版(縦書きで「一茶」新年・春6)でお読みいただければと思います。同サイトの本文ページ下の(i)情報の右にある目次をクリックすると、その下に季語の目次が表示されます。それぞれの見出しをクリックすると該当ページに飛びます。

  • はなにかこちがほなるかへるかな 文化句帖 化2 春2645
  • かげぼふしわれにとなりしかへる哉 文化句帖 化4 春2652
  • 夕蛙ゆふがへるむぐらあめおいをなく 文化句帖 化4 春2659
  • われてにがひかほするかへる哉 文化句帖 化5 春2666
  • 我庵わがいほかへる初手しよてからおいく 七番日記 化8 春2673
  • かゝるなにをほたへてなくかへる 七番日記 化9 春2674
  • 小便せうべんたきせうぞ鳴蛙なくかへる 七番日記 化9 春2678
  • 夕不二ゆふふじけつならべてなくかへる 七番日記 化9 春2689
  • くさにかくれんぼするかへる哉 七番日記 化10 春2694
  • ちるはなあごならべるかへる哉 七番日記 化10 春2696
  • のさのさとこひをするかのかへる哉 七番日記 化10 春2698
  • むきむきにかへるのいとこはとこ哉 七番日記 化10 春2700
  • いうぜんとしてやまかへる哉 七番日記 化10 春2703
  • 我杖わがつゑとしるやじろじろなくかへる 七番日記 化10 春2705
  • うすべり[に]ばり(尿)してにげかへる哉 七番日記 化11 春2706
  • 草陰くさかげにつんとしているかへるかな 七番日記 化11 春2707
  • ひとぼしつけたやうになくかへる 句稿消息 化11 春2710
  • 我一人われひとりさめたりがほかへる哉 七番日記 化11 春2711
  • 天下泰平てんかたいへい居並ゐならかへるかな 七番日記 化12 春2716
  • ひとはくやうにすはつかへる 七番日記 化12 春2717
  • 車座くるまざ居直ゐなほりてかへる哉 七番日記 化13 春2722
  • 西行さいぎやうのやうにすはつ鳴蛙なくかへる 七番日記 化13 春2725
  • しかつてもしやあしやあとしてかへる哉 七番日記 化13 春2727
  • 上人しやうにん口真似くちまねしてやなくかへる 七番日記 化13 春2728
  • 小便せうべんいたしながらもなくかへる 七番日記 化13 春2729
  • 同音どうおんくちあけたるかへるかな 七番日記 化13 春2732
  • なむなむとくちあけたるかへるかな 七番日記 化13 春2734
  • 女房にようばうおいなくしてや鳴蛙なくかへる 七番日記 化13 春2736
  • のゝさまけつつんむけて鳴蛙なくかへる 七番日記 化13 春2738
  • 花蓙はなござさきすはりてゐるかへる 七番日記 化13 春2739
  • 痩蛙やせがへるまけるな一茶これあり 七番日記 化13 春2740
  • 山吹やまぶきまづ御先おさきへととぶかへる 七番日記 化13 春2741
  • 我庵わがいほやうありさうなかへる哉 七番日記 化13 春2743
  • 江戸えどかへる一寸ちつとあとひかぬかや 七番日記 政1 春2749
  • 三ヶ月みかづき白眼にらみつめたるかへる哉 七番日記 政1 春2759
  • おれとして白眼にらめくらするかへるかな 梅塵八番 政2 春2761
  • 親分おやぶんえて上座かみざ鳴蛙なくかへる 八番日記 政2 春2762
  • 其声そのこゑひとつおどれよなくかへる 八番日記 政2 春2766
  • 初蛙はつがへるきたりやしかも夫婦連めをとづれ 八番日記 政2 春2768
  • 小蛙こがへるもなく也くちもつたとて 八番日記 政3 春2774
  • 山吹やまぶき差出口さしでぐちきくかへる哉 番日記 政3 春2776
  • 夕暮ゆふぐれかへるなに思案橋しあんばし 八番日記 政3 春2777
  • 一理屈ひとりくついふすはかへる哉 八番日記 政4 春2781
  • 散花ちるはなをはつたとにらむかへる哉 文政句帖 政5 春2786
  • なむなむとかへるいしならびけり 文政句帖 政5 春2789
  • なむなむとにもならんでなくかへる 文政句帖 政5 春2790
  • 向合むきあつなにやらべんをふるかへる 文政句帖 政5 春2791
  • 大形おほなりをしてとび下手べたかへる哉 文政句帖 政7 春2795
  • 仙人せんにんひざおもふかかへる 文政句帖 政7 春2797
  • てのひらかへるすゑらかん(羅漢)哉 文政句帖 政7 春2800
  • 天文てんもんかんががほかへる哉 文政句帖 政7 春2801
  • 鳥井とりゐからえどをながむかへる哉 文政句帖 政7 春2802
  • 野仏のぼとけたまかへる哉 文政句帖 政7 春2803
  • 昼過ひるすぎ地蔵ぢざうひざになくかへる 文政句帖 政7 春2804
  • めいめいに鳴場なくばとるかへる哉 文政句帖 政7 春2806
  • ちさがへるこしやくなくちをたゝく也 文政句帖 政8 春2809
  • どつさりとすはこんだるかへる哉 文政句帖 政8 春2810
  • あし達磨だるまもどきのかへる哉 文政句帖 政9 春2814
  • 御社おやしろへじくなんでるかはづ哉 浅黄空 春2820
  • ほしうたよむつらつきのかへる哉 書簡 春2825

2 responses

  1. shaw Avatar

    6ヵ月前ブログに書いた、子規(1867-1902)が芭蕉(1644-94)を評価した文章の引用記事 古池や蛙飛び込む水の音の画期性 と読み比べると興味深い。花鳥風月ではなく日常自然の事物を詠んだことが芭蕉の画期性だったとすれば、一茶はそれを引き継いでいるし、それを徹底したということができる。小便とか屎(糞)を題材にした句が多いのが一茶の句の特徴と云ってもいいぐらいだ。

    それを認めたうえで両者が詠んだ蛙の句を比較すると、芭蕉の蛙と一茶(1763-1828)の蛙とでも云うべき好対照をなしている。前者は観照的な情景描写であり、後者は主観的で感情移入型である。芭蕉の句において蛙は作者と関係ないところにいて、たまたま池に飛び込んだだけだ。ところが、一茶の句において作者は痩蛙の側に立ち、それを真剣に応援している。自分の子のためにも負けてはならない、ぜひ勝ってほしいのだ。

    残念ながら、現代日本において一茶は芭蕉ほどには読まれていない。芭蕉の句は日本的な侘びさび文化の粋とされるが、一茶はさほど賞賛されない。僕の世代であれば「奥の細道」の序文は部分的には知っていると思うが、一茶の句は雀や蛙に寄り添う句が知られているだけで、あまり人気がない。なぜだろう、単に学校教育の影響だけだろうか。

    この考察を春の仮説としよう。今後、夏秋冬を読み込んでゆくと、別の仮説が出てくることを前提しながら、仮説その1とするのだ。

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  2. shaw Avatar

    蛙のルビはほぼすべて<かえる>になっているが、<かわづ>とすべきではないのか。

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