小説「この世に来るあの世に往く」

「いつか名もないうをになる」の続編で二作ともシリーズ「無宗教社会を生きる」に載せています。前作では認知症患者による「無宗教社会」の観察を試み、今回は登場人物の生きざまを通して「宗教」「無宗教」の意味を考察しようとしていますが、かなりむずかしい。苦戦しています。

途中で筆が止まったままの原稿を載せており、なるべく早い時期に執筆を再開するつもりです。題名は当初「ヒョーヤとその眷属けんぞく」でした。その後、「川ゆくうを山ゆく人」「この世に棲みあの世にく」「この世に住むあの世にくこの世に来る」を「この世に来るあの世にく」*としました。「此岸彼岸しがんひがん」より「この世あの世」のほうが身近に感じます。題名を推敲するなかで次のように考えました。

うをは流れにあらがって泳ぎ、登山者は岩を登り道を歩く。自由に泳ぎ自在に歩いているように見えても、みな制約のなかで生きている。そして、人々の住む<この世>とそこに<どこか>からやって来る新たな生命、人々の想像のなかにある<あの世>—-いつの時代も人々はこれら二つないし三つの世を信じている。それは無宗教派の人々のあいだに広く普及している迷信の一つではないか。いや、彼らに限らない。教会や寺院、神社や自然をりどころとする人々も同じ迷信を前提しているのではないか。

*仮訳: Coming to this world, going to the other world.

いまはむかし、まだ家々にテレビも電話もなかったころ、冬になると東京にも何度か雪が積もった。いつもの景色けしきが雪におおわれたのを見て子どもたちは喜び、はしゃいで雪だるまを作り雪合戦がっせんをした。효야ヒョーヤ炭俵すみだわらわらをそりに仕立したて、原っぱの斜面や道路ですべった。藁についたすみの粉で黒くなった遊び仲間の顔、顔、顔――みんなの顔が一斉いっせいにどっと笑う。
 坂道を登りつめて少しくと源頼朝みなもとよりともゆかりの八幡宮はちまんぐうがあった。すっぽり雪をかぶった境内けいだいわれを忘れて一匹の黒犬とたわむころがり回った。モノクロ写真のようなその光景こうけい효야ヒョーヤ脳裏のうりに焼き付いている。いつも一緒に遊ぶ仲間はそのときいなかった。あの黒犬は高麗狗こまいぬ化身けしんではなかったか。その後一度も会っていない。
 彼は少年のころから何かに夢中になると、ほかのことが見えなくなった。気づくと仲間がいなくなっていたり、怪訝けげんな表情で彼を見ていることがあった。五六人で裏庭に穴を掘ったことがある。身長ぐらいの深さになって粘土層があらわになると水がいてきた。んでもくんでも止まらない。それを見て急にこわくなり、みなの反対を押し切って作業を止めてしまった。いつもみなと交わっていたいのに、ある一線を越えると引いてしまう。そんなところがあった。
 효야ヒョーヤという名前からして、読者は変に思うだろうが、日本に生まれ、幼いころから日本語を話し、ほかの言葉は知らない。見ただけでは、ほかの子どもと違うところはない。生まれたのは東京だから、出生届は효야では受け付けられず、ヒョーヤというカタカナで届けた。彼の漢字名も当時認められた漢字表に載っていなかった。
 효야の母方の祖母は윤화ユヌァといい、父方の祖母は희사フィサという名で、それぞれ戸籍上はユナ、ヒサという。みな서울ソウル近郊にルーツを持つ人たちだ。효야は祖父母たちから数えて三代目で在日三世ということになる。名前が名前だし、幼いころから自分も家族もどこかほかの人々とは違うと考えていた。そんなよそ者意識を決定的にしたのが彼の母バンジャの信仰だった。というより、それが他のさまざまな属性を見えなくしたというべきだろう。それは彼自身の出自をもおおかくしてしまった。
https://tb.antiscroll.com/novels/goolee/24637

One response

  1. shaw Avatar

    10年あまり前の夏、ヨヨギ(世世岐)駅で電車を乗り換えたとき、アミダナ(阿弥陀那)に置いた名前入りの上着を忘れた。スマホに夢中になり、ドアが閉まる直前に慌てて降りたのだった。その内ポケットには大事な札入れとカード類を入れた財布が入っていた。けさ、電車で世世岐を通過したとき、向かい側のシートに座った醜い老人が同じ色の薄汚れた上着を着ていた。あのとき、僕の上着と名前を奪った奴に違いない。あいつは僕の名前を盗み、今ものうのうと生きていたのだ。この老人の醜さをいつか暴いてやろう、小説という媒体を使って。

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