「大菩薩峠」の後半部 Oceanの巻で著者は、幕末の勘定奉行だった小栗上野介(Oguri Tadamasa 1827-1868)について西郷隆盛ほかと比較しながら再評価している。やや長いが青空文庫から引用する。
Oceanの巻から引用したのは学者肌の元旗本・駒井甚三郎と幕末の勘定奉行・小栗忠順のつながりこそが、この長編小説の作者の歴史観を示唆していると考えるからだ。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。
「明治維新」 Meiji Restoration という用語そのものが明治政権の見方以外の何ものでもない。「維新」を restoration (復元、返還)と英訳したのは本来あるべき形を復したという考え方そのものである。70歳を過ぎてこんなことに考えが及んで何になるというのか。
「大菩薩峠」 Oceanの巻 五 これより先、海鹿島 から伊勢路の浦へ上陸した御用船の一行がありました。これも役人は役人だが、ただの役人ではない。軽装し測量機械を携え日の丸の旗を押立てたところを見ると、どうしてもこれは幕府の軍艦奉行の手であるらしい。 この一行は、しかるべき組頭 に支配されて、都合八人ばかり、測量器械をかついで歩み行く、つまり軍艦奉行の手の者が、海岸検分の職を行うべく、この地点に上陸したものでしょう。 ところで、とある小高い岩の上へ来て、組頭の一人が遠眼鏡をかざした時に、黒灰浦の引揚作業の大景気を眼前に見ました。 それは肉眼でも見えるほどの距離を、かねて地勢をそらんじているところではあるし、その群集と、群集の中での作業、これから何事に取りかかろうとするのだか、職掌柄それを眼下に見て取ってしまったから、組頭の顔の色が変りました。不興極まる気色 を以て、遠眼鏡を外 し、部下の者を顧みて、 「おい、あれは何だ」 と一人に言いました。 「左様でござります」 部下の一人は、一応その人だかりの方をながめてから恐る恐る、 「高崎藩の手の者が、黒船を引揚げるといって騒いでおりました」 「ナニ、高崎藩で黒船を引揚げる?」 「左様でございます、先年、あの黒灰浦に、多分オロシャのであろうところの密猟船が吹きつけられて、一艘 沈んでしまいました、密猟船のこと故 に、船を沈めてそのままで立去りましたのが、今でもよく土地の者の問題になります、それを今度、高崎藩が引揚げに着手するという噂 を承りましたが、多分その騒ぎであろうと思います……」 「怪 しからん……」 組頭は最初から機嫌を損じておりましたが、いよいよ面 を険 しくして、再び遠眼鏡を取り上げ、 「よく見て来給え、何の目的でああいうことをやり出したのか、屹度 問いただして来給え、次第によっては、その責任者をこれへ同道してもよろしい」 この命令の下に、早くも軽快なのが二人、飛び出して行きました。組頭が不興な色を見せるのみならず、一隊の者が残らずそれに共鳴して、岩角の上から黒灰の浦を睨 めている。 けだし、これらの人々の不快は、自分たちが幕府の軍艦奉行の配下として、この近海に出張している際において、自分たちに一応の交渉もなくして、海の事に従事するというのは、たとえ高崎藩であろうとも、佐倉藩であろうとも、生意気千万である。 ことに自分たちの奉行は、当時海のことにかけては、誰も指をさす者のない勝安房守 であることが、虎の威光となっているのに、それを眼中におかず、ことに外国船引揚げというような難事業を、彼等一旗で遂行 しようという振舞が言語道断である。そこで軍艦奉行の連中が、自分たちの首領の威光を無視され、自分たちの権限をおかされでもしたように、腹立たしく思い出したものと見える。 かくて、彼等は測量のことも抛擲 して、岩角に立って黒灰浦の方面ばかりを激昂する面 で見つめながら使者の返答いかにと待っているが、その使者が容易には帰って来ないのがいよいよもどかしい。 もとより、眼と鼻の間の出来事とはいえ、使者となった以上は、実際も検分し、且つ、先方の言い分をも相当に傾聴して帰らぬことには、役目が立たないものもあろう。しかし、こちらは視察よりは、むしろ問責の使をやったつもりですから、返答ぶりの遅いのに、いよいよ焦 らされる。 「ちぇッ、緩怠至極 の奴等だ」 いらだちきった組頭は、この上は、自身糺問 に当らねば埒 が明かんと覚悟した時分、黒灰浦の海岸の陣屋の方に当って、一旒 の旗の揚るのを認めました。 そこで組頭は、再び気をしずめて遠眼鏡を取り直して、その旗印をながめたが合点 がゆきません。旗の揚ったことは組頭が認めたのみではなく、配下の者がみな認めたけれど、その旗印の何物であるかは、遠眼鏡のみがよく示します。 上州高崎松平家か、その系統を引くこの地の領主大多喜 の松平家ならば島原扇か橘 、そうでなければ、俗に高崎扇という三ツ扇の紋所であるべきはずのを、いま、遠眼鏡にうつる旗印を見ると、それとは似ても似つかぬ、丸に――黒立波 の紋らしいから、合点がゆかないのです。 そこで組頭は、またも配下の一人に遠眼鏡を渡しながら、 「あの旗印はありゃ何だ、君ひとつ、よく見当をつけてくれ給え」 「なるほど」 それを受取った配下の一人がしきりに考えこんでいると、組頭が 「高崎の紋ではないじゃないか」 「仰せの通りでございます、丸に立波のように見えますが」 「その通りだ、拙者の見たのも丸に立波としか見えない、が、丸に立波はどこだ」 「左様でございます」 彼等残らずが一つの旗印を見つめて、不審の色を、いよいよ濃くしてしまいました。 最初には掲揚されていなかった旗じるし、多分時間から言ってみると、これはさいぜん、詰問にやった配下の者の交渉の結果であろう、その交渉の結果、彼等はこの旗印を掲揚することになったと思われるが、掲げられてみるとこちらからは、それがいっそう不可解の旗印となって現われてしまいました。 高崎松平も、大多喜松平も、どう間違っても、丸に立波の紋を掲げるはずはないのだから、ここで徒 らに当惑するのも無理がないと見える。しかしもう少し落ちついて、この丸に立波の旗印から考えて行ったならば、多少思い当るところがあったかも知れないが、この一隊は、最初から意気込んでおりました。 つまり、何藩にあれ、何人にあれ、われわれ幕府の軍艦奉行の手の者をさし置いて、その面前で沈没船引揚作業を行うというのが、軍艦奉行というものを無視しているし、ことに当時の軍艦奉行が凡物ならとにかく、日本全国に向って名声の存するところの、勝安房守というものの威光にも関するという腹があったのだから、安からぬことに思い、親しく出張して、一つには彼 の出しゃばり者に、たしなみを加え、一つには使者に遣 わした配下の者どもの緩怠を屹度 叱り置かねば、役目の威信が立たぬようにも考えたのでしょう。 この一隊は、測量をそっちのけにして、勢いこんで浜辺を進みました。 この勢いで、高崎藩の陣屋へ馳 せつけた日には、ただでは済むまい、火花が散るか散らないかは先方の出よう一つであるが、どのみち、ただでは済むまいと見てあるうち、幸か不幸か、先刻遣わした使者の者が二人、きわどいところで、ばったりと本隊にでっくわしたものです。 「どうした、エ、何をしていたのだ君たちは」 組頭は、充分の怒気を頭からあびせかけると、二人の使者は、さっぱり張合いがなく、 「いやどうも、少々とまどいを致して、力抜けの体 でございました、それがため復命が遅れて申しわけがござりませぬ、万事はあの旗印を御覧下さるとわかります」 彼等は旗印を指さしたが、その旗印こそ不審千万なので――そこで追いかけて彼等が説明していうことには、 「御覧下さい――あれはお勘定奉行の諒解 の下 にやっている仕事でございます、しかも作業の発頭人 は、もとの甲府勤番支配駒井能登守殿であるらしいことが、意外千万の儀でございました」 それを聞いて、組頭の面の上にかなり狼狽 の色が現われました。 「ははあ……」 これも拍子抜けの体 で、改めて、翩翻 とひるがえる旗印を見直すと、丸に立波、そう言われてみれば、紛 う方 もない、これは勘定奉行の小栗上野介殿 の定紋 。 その旗印が小栗上野介の定紋であるのみならず、なお奇怪にも聞えるのは、その旗印の下に仕事をしているのが、以前の甲府勤番支配駒井能登守らしいと言われて、彼等は夢を見たように、ぼんやりと考えさせられてしまいました。小栗を知るほどの者は、駒井を知らないはずはなかろうと思われる。 しかし、小栗が隆々として、一代の権勢にいるのに、駒井は失脚以来、その生死すらも疑われている。七十五日は過ぎたが、その人の噂 というものは、時事の急なる時と、急ならざる時、人材が有るとか、無いとかいう時には、必ず誰かの口から引合いに出されねばならないことになっている。 さては没落と見せたのは表面で、内々は小栗上野介と謀を通じて、隠れたる働きをしていたのか、油断がならない――と軍艦奉行の組頭が、この時はじめて恐怖を催しました。軍艦奉行の威勢も、勘定奉行の権勢にはかなわない。さすが勝安房守の名声も、小栗上野介の旗印の前には歯が立たないということを、この時の賢明なる軍艦奉行配下の組頭が心得ていたのでしょう。 高崎藩ならば、大多喜藩ならば、一番おどかしてもくれようと意気込んで来た一隊が、急に悄気 こんで、 「ははあ、ではやむを得ないところ」 旗を巻いて、進軍の歩調が、すっかり鈍 ってしまいましたが、拳のやり場を体 よくまとめて、またも以前の方面へ引返したのは、少なくとも組頭の手際です。 ほどなくこの一隊は、君ヶ浜方面に向って、なにくわぬ面 で測量をはじめました。一方、引揚作業の方面では、十分に焚火で身をあぶった海人海女が介添船に乗る。駒井甚三郎は、別に一隻の小舟に、従者一人と例のマドロスとを打ちのせて――そのいずれの船にも丸に立波の旗印が立っている。 この作業にあたって、駒井が最初から、勘定奉行の小栗上野介の諒解 を得ているというのは、ありそうなことです。そうでもなければ、こうして白昼大胆に、こんな作業が行われるはずはない。そうして、小栗と駒井との関係は、特にこの機縁だけで結ばれたものではあるまい。 駒井は洲崎 の造船所から海を越えて、しばしば相州の横須賀へ渡っている。相州の横須賀に、幕府の造船所が出来たのは昨年のこと。相州横須賀の造船所が、主として小栗上野の方寸に出でたものであることは申すまでもない。 横須賀の造船所がしかるのみならず、講武所も、兵学伝習所も、開成所も、海軍所も、幕府の新しい軍事外交の設備、一として小栗の力に待たぬものはない。勝安房 (海舟 )の如きも、小栗に会ってはその権勢、実力、共に頭が上らない。 駒井も、旗本としては小栗と同格であり、その新知識を求むるに急なる点から言っても、どうしても、相当に相許すところがなければならないはずになっている。駒井が洲崎から、しばしば横須賀に往復する時分、ある幕府の要路の、非常に権威の高い人が、微行で洲崎の造船所へ来たことがあると、働く人が言っている。その人品骨柄を聞いてみると、それが小栗上野であったようにも思われる。 |
「大菩薩峠」 Oceanの巻 六 小栗上野介の名は、徳川幕府の終りに於ては、何人 の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。 事実に於て、この人ほど維新前後の日本の歴史に重大関係を持っている人はありません。それが忘れられ過ぎるほど忘れられているのは、西郷と勝との名が急に光り出したせいのみではありません。 江戸城譲渡しという大詰が、薩摩の西郷隆盛という千両役者と、江戸の勝安房という松助以上の脇師 と二人の手によって、猫の児を譲り渡すように、あざやかな手際で幕を切ってしまったものですから、舞台は二人が背負 って立って、その一幕には、他の役者が一切無用になりました。歴史というものは、その当座は皆、勝利者側の歴史であります。勝利者側の宣伝によって、歴史と人物とが、一時眩惑 されてしまいます。 そこで、あの一幕だけ覗 いた大向うは、いよ御両人!というよりほかのかけ声が出ないのであります。しかし、その背後に、江戸の方には、勝よりも以上の役者が一枚控えて、あたら千両の看板を一枚、台無しにした悲壮なる黒幕があります。 舞台の廻し方が、正当(或いは逆転)に行くならば、あの時、西郷を向うに廻して当面に立つ役者は、勝でなくて小栗でありました。単に西郷とはいわず、いわゆる維新の勢力の全部を向うに廻して立つ役者が、小栗上野介 でありました。小栗上野介は、当時の幕府の主戦論者の中心であって、この点は、豊臣家における石田三成と同一の地位であります。 ただ三成は、痩 せても枯れても、豊太閤の智嚢であり、佐和山二十五万石の大名であったのに、小栗は僅かに二千八百石の旗本に過ぎないことと、三成は野心満々の投機者であって、あわよくば太閤の故智を襲わんとしているのに、小栗は、輪廓において、忠実なる徳川家の譜代 であり、譜代であるがゆえに、徳川家のために謀 って、且つ、日本の将来をもその手によって打開しようとした実際家に過ぎません。 ですから、石田三成に謀叛人 の名を着せようとも、小栗上野をその名で呼ぶには躊躇 しないわけにはゆかないはずです。徳川の天下になってから、石田は、一にも二にも悪人にされてしまっているが、明治の世になって、小栗の名の謳 われなくなったとしてからが、今日、彼を石田扱いの謀叛人として見るものは無いようです。 小栗上野介が、自身、天下を望むというような野心家でなかったことは確かとして、そうして彼はまた、幕府の保守側を代表する、頑冥 なる守旧家でなかったことも確実であります。 小栗は、一面に於て最もすぐれたる進歩主義者であり、且つ、少しの間ではあったが、これを実行するの手腕と、地位とを、十分に与えられておりました。 彼が最初――新見、村垣らの幕府の使節と共に米国に渡ったのは僅かに二十余歳の時でありました。或いは三十余歳。しかも、この二十余歳の青年赤毛布 は、他の同僚が、西洋の異様な風物に眩惑されている間に金銀の量目比較のことに注意し、日本へ帰ってから、小判の位を三倍に昇せたほどの緻密 な頭を持っておりました。ほどなく勘定奉行の地位を得、またほどなく財政の鍵を握って、陸海軍の事を統 ぶるの地位に上ったのも、当然の人物経済であります。 勝でも、大久保でも、その手足に過ぎないし、講武所も、兵学所も、開成所も、海軍所も、軍艦の事も、火薬の事も、造船の事も、徴兵も、郵便も、今日まで功績を残している基礎に於て、彼の創案になり、意匠に出でぬというもののないこと再論するまでもない。 その人となりを聞いてみると、酒を嗜 まず、声色 を近づけず、職務に勉励にして、人の堪えざるところを為し、しかも、和気と、諧謔 とを以て、部下を服し、上に対しては剛直にして、信ずるところを言い、貶黜 せらるること七十余回ということを真なりとせば、得易 からざる人傑であります。 小栗上野介が、単に人物として日本の歴史上に、どれだけの大きさを有するか、それは成功せしめてみた上でないと、ちょっと論断を立て兼ねるが――少なくとも、明治維新前後に於ては、軍事と、外交と、財政とに於て、彼と並び立ち得るものは、一人も無かったということは事実であります。 この人が、徳川幕府の中心に立って、朝廷に反 くのではない、薩長その他と戦わねばならぬ、と主張することは、絶大なる力でありました。長州の大村益次郎が、維新の後になって、小栗の立てた策戦計画を見て舌を捲いて、これが実行されたら薩長その他の新勢力は鏖殺 しだ! と戦慄 したというのも嘘ではあるまい。かくありてこそ、大村の大村たる価値がわかる。西郷などは、この点に於ては、甚 だノホホンです。 小栗の立てた策戦は、第一、聯合軍をして、箱根を越えしめてこれを討つということ、第二、幕府の優秀なる海軍を以て、駿河湾より薩長軍を砲撃して、その連絡を断 ち、前進部隊を自滅せしめるということ、更に海軍を以て、兵庫方面より二重に聯合軍の連絡を断つこと、等々であって、よしその実力には、旗本八万騎がすでに気 死し心萎 えたりとはいえ、新たに仏式に訓練せる五千の精鋭は、ぜひとも腕だめしをしてみたがっている。会津を中心とする東北の二十二藩は無論こっちのものである。 聯合軍には海軍らしい海軍は無いのに、幕府の海軍は新鋭無比なるものである――そうして、その財政と、軍費に至っては、小栗に成案があったはずである。 かくて小栗は十分の自信を以て、これを将軍に進言、というより迫 ってみたけれど、胆 死し、気落ちたる時はぜひがない、徳川三百年来、はじめて行われたという将軍直々 の免職で、万事は休す! そこで、西郷と勝とが大芝居を見せる段取りとなり、この不遇なる人傑は、上州の片田舎に、無名の虐殺を受けて、英魂未だ葬われないという次第である。 形勢を逆に観察してみると、最も興味のありそうな場面が、幕末と、明治初頭に於て、二つはあります。その一つは、右の時、小栗をして志を得せしめてみたら、日本は、どうなるということ。もう一つは、丁丑 西南の乱に、西郷隆盛をして成功せしめたら、現時の日本はどうなっているかということ。 この答案は、通俗の予想とは、ほとんど反対な現象として現われて来たかも知れない。右の時、小栗を成功せしめても、世は再び徳川幕府の全盛となりはしない。 もうあの時は徳川の大政奉還は出来ていたし、小栗の頭は、とうに郡県制施行にきまっていたし、よしまた、ドレほど小栗が成功したからとて、彼は勢いに乗じて、袁世凱 を気取るような無茶な野心家ではない、郡県の制や、泰西文物の輸入や、世界大勢順応は、むしろ素直に進んでいたかも知れない。 これに反して、明治十年の時に西郷をして成功せしむれば、必ず西郷幕府が出来る。西郷自身にその意志が無いとしても、その時の形勢は、明治維新を僅かに建武中興の程度に止めてしまい、西郷隆盛を足利尊氏 の役にまで祭り上げずにはおかなかったであろう。 西郷は自身、尊氏にはならないまでも、尊氏に祭り上げられるだけの器度(?)はあった。小栗にはそれが無い。すべて歴史に登場する人物というものは、運命という黒幕の作者がいて、みなわりふられた役だけを済まして引込むのに過ぎないが、西郷は、逆賊となっても赫々 の光を失わず、勝は、一代の怜悧者 として、その晩年は独特の自家宣伝(?)で人気を博していたが、小栗は謳 われない。 時勢が、小栗の英才を犠牲とし、維新前後の多少の混乱を予期しても、ここは新勢力にやらした方が、更始一新のためによろしいと贔屓 したから、そうなったのかも知れないが、それはそれとして、人物の真価を、権勢の都合と、大向うの山の神だけに任しておくのは、あぶないこと。 |
「大菩薩峠」後半部 Oceanの巻から引用したのは駒井甚三郎という学者肌の開明派と幕末の勘定奉行、小栗忠順のつながりこそが、この長編小説の作者の歴史観を如実に述べていると考えるからだ。小説上の駒井も実在の小栗もともに二千数百石の旗本である。
「明治維新」 Meiji Restoration という用語そのものが明治政権の見方以外の何ものでもない。「維新」を restoration (復元、返還)と英訳したのは本来あるべき形を復したという考え方そのものである。70歳を過ぎてこんなことに考えが及んで何になるというのか。
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