北斎の描いたこの魚(うを)はいかにも意思や感情を持っているようにみえる。感情はおろか知性さえ感じさせるから話せるだろうと思う。魚の背に観音を載せているので余計に神秘的だ。ただ、こんなふうに考えるのは僕が人間で人間以外の動植物は話せないと考えているからだ。人間中心の勝手な考え方で、これを利己主義を借りて仮に利人主義とでも呼ぶことにしよう。
さて、うをは話せるのだろうか。ここで話せるということは言葉を持つということではない。自らの考えや感情を他者に伝える術(すべ)や方法を持ち、それを伝播する手段を持つということだ。
小説<うを>では主人公の凭也(ヒョーヤ)が死んだあと<うを>になるとしている。その<うを>は凭也の個性を保ち、生きている記録係に話しかける。それは言葉を通じて伝えられたわけではないと思うのだが、小説ではすべての交感や交信を文字で表さなければならない。→うをと話すということ

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