小説を書く効用(2)

いつか名もないうをになる(<魚>と略す)を書き上げた直後、小説を書く効用について投稿した。それから1ヵ月余りがたち、効用があれば負の効用もあると考えるようになった。ひとことで言えば現実との懸隔であり、実社会からの遊離である。それが遊離にとどまっている限り負の働きをなす。

<魚>のテーマは現代社会に対する老人の視点からの観察にもとづく批判であり、主体性を持たない個人集団の無力さの自覚であったと思う。それが成功しているかどうかは不明だが、長年の観察を土台にし、一見非現実的な場面設定でありながら、それ故に現実から遊離しない内容になっていると考える。

ただ、世の老人がすべて同じ観察をしている訳でもなく、主人公のような感覚でいまの世の中に対峙する人が珍しいことも十分承知している。そういう世の中に<魚>が一石を投じられたらいい、と思うばかりである。

たとえば、<魚>で描いたように、周りの人々が視界に入らず、他の人々の迷惑を考えない人々が増え続けていると思うが、それはなぜだろうか。それをただ嘆くのではなく、そのよって来るところを小説という方法を通じて考えてみたい。残された短い年月で何がしかのことをしたい、そんなふうに考えた。時間の持ち分と年齢は逆比例しない、(その人の寿命)-(その人の年齢)=(その人に残された年月)、とは考えないからだ。

仏教の世界観における末法思想が、現代の世相と人々の狭量な利己主義をかなり正確に予想していた(る)ことに驚愕せざるを得ない。中露米の三国あるいは日本の踏襲化された政権において独裁的な姿勢が露骨になっているが、このような国際情勢を利己主義と類似の利国主義と捉え、末法思想の枠組みを前提して観察すると興味深い。

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