ンヴィニ教徒と認知症

ンヴィニ教徒と認知症患者に共通するものは何だろうか。この小説のテーマそのものであるが、それがどの程度描かれているか検証したい。

ちなみに、四部構成のこの小説の第3章は認知症患者とされる主人公のメモにもとづいており、他の三章はンヴィニ教徒に関する主人公のメモまたは口述内容を記録したものである。

こんな作業をするのは、一部の人にだけ部分公開したこの小説の評判が(予想どおり)きわめて悪い、というより無視されているからだが、それだけではない。最終の校閲を行うために必要だと思うからだ。

はじめに、この小説が描くンヴィニ教徒の特徴は凭(もた)れ合いにある。認知症の特質は、時間軸と風景(眼前の光景と心象風景)の不一致や揺らぎにあるとしている。

凭れ合いは空間領域における状態をいうが、静止しているわけではなく動いているから、時間領域も含む。凭れることはその状態を持続するわけだから、時間軸に委ねざるを得ない。

比喩的にいえば、電車(ンヴィニ教寺院)は二本のレールの上を走っているから、レールが時間軸の役割を果たしているとも考えられる。

やや乱暴な三段論法を用いれば、電車に揺られ凭れ合うンヴィニ教徒は、電車の運行に身体を委(ゆだ)ねることで、認知症患者のように通過する風景と時間軸のずれを生じざるを得ない。

隠れンヴィニ教徒は、程度の違いこそあれ、認知症患者に類似した状態にありますよ、という警告を発しているつもりなのだが、悲しいかな、僕の筆力はそれを伝えられていないようだ。さて、どうしたものか。

4 thoughts on “ンヴィニ教徒と認知症”

  1. 徒然草の冒頭「心にうつりゆくよしなしことをそこはかとなく書きつくれば怪しうこそもの狂ほしけれ」の心境が少しわかるような気がする。ここでいう「もの狂ほし」は執筆に没頭しながら、出家した筆者が感じたであろう俗世間との距離、乖離の感官、さらには自分の非存在感ないし無力感ではないか。その一端を70歳にして小説を書き、少し理解できるように思う。錯覚でも構わない。

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  2. ものを書くという作業そのものが持つ現実との距離感や書いているあいだの行動停止に伴う現実とのギャップ、さらに書いている内容そのものが虚構(非現実)である場合における二重(二段階)の、単なる乖離より深いともいえる垂直方向の格差を伴った劣後感、そういう要因が重なって「ものぐるほし」という状態をつくるのではないか。

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  3. 卜部兼好、13世紀末-14世紀前半に日本島の首都である京都に生き、30歳ごろ出家した歌人であり随筆家として知られる。いったいどういう男性だったのだろうか、実像は知られていない。そして、僕はなぜこんな隠遁者めいた人物に関心を抱くのだろう。

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