この小説の主人公はXUと呼ばれる認知症患者であり、彼が不可解な魅力というか引力にひかれて追いかける老人がくり返し登場します。以下、その老人にまつわる記述を抜粋し時系列に並べると、XUが推測した老人の年齢は年代差に等しくならないのです。XUのメモまたは話した内容にもとづいているはずなのですが。
- 1980年 XU20歳→老人(70歳?)
- 1990年 XU30歳→老人(60歳?)
- 2020年 XU60歳→老人(不詳)
- 2030年 XU70歳→老人(80歳?)
1980年 3. 球戯に興じる老人
平日の昼さがり、3号車ではソフトボール大の紅白のボールが一つずつ、車両の揺れにつれて車体の床を不規則にころがっている。電車の進行方向に沿って対面して配置された横長の座席(ロングシート)に、窓枠を背にして老人たちが曲がった腰をいたわるようにすわっている。立っている人はいない。彼らはもう車両の揺れに抗して立ち続けることも支え合うこともできない。
かまぼこ型の車両の中央あたり、両側にドアがあって座席がないところに車イスが1台ブレーキを掛けて止まっている。それに乗った老人が審判だった。頭もあごひげも白い老人は70歳ぐらいに見える。怒ったような形相をしているが、どこか少年の人なつっこさを感じさせる、印象に残る老人だった。
1990年 2. 老人に出会う
列車で通勤するようになって数ヵ月経った秋の朝のことです。XUの指定席に見慣れない老人がすわっていました。白髪まじりの頭と顔の下半分をおおう白いひげから察して、年令は60歳ぐらいだったでしょう。がっしりした体は白人のなかでも大きいほうでした。列車の進行方向に背を向けてすわり、ずっと車窓に額を押し付けるようにして、過ぎ去って行く風景を見送っていました。
仕方なく、XUは同じボックスシートの向かい側の通路側にすわりました。その位置からは、老人に気づかれないで斜め前にいる彼を観察できました。ただ、そのうちに老人の発する魅力に引き付けられ、身動きできなくなったようなのです。経験したことのない不思議な感覚でした。それは老人に向かって突進せんばかりの強さでXUをとらえました。
2020年 3. XUが追った老人たち
ある日、地下鉄で人身事故が発生してダイヤが乱れた。老人は想像を絶する混雑の車内で前後左右の人々に押され、人々の胸や背中やお尻に挟まれて足を床につくこともできず、電車の揺れに体をあずけて宙に浮いていた。腰痛どころではない、体を引き裂かれるような痛みが体中を走ったが、どうすることもできない。幸いサイレント車両に乗っており、人々の呻き声のほかは聞こえない。動く寺院のなかで交わされる人々の会話が煩わしい老人は、地下鉄を利用するときはいつもサイレント車両に乗っていたのだった。
XUは一人の老人のあとを追い、彼と周囲の人々の行動を観察し記録してきました。ところが、最近になって、一人だったはずの老人が複数に見えることがふえ、老人たちが突然一人になることが生じていました。このような交錯がしだいに頻繁になり、男女の違いを見分けるのもむずかしくなったのです。追っていたはずの老人を急に見失うこともふえ、自分の観察に自信を失いかけていました。
2030年 1. 老人と再会する
1月か2月のある日の午前中だった。日本島の首都の中心部にある東京駅構内はいつものように多くの人で混み合っていた。みなうつむいて手のひらを見ながら歩き、人や物にぶつかると頭を上げる。通路の壁ぎわに止まって見ていると、人々の動作には全体としてどこか機械的なところがある。その雑踏のなかに、一瞬、1980年ごろ球戯の審判をしていた老人が車イスに乗っているのを見たような気がした。いや、確かに見た。
2020年代に車イスはすべて電動式になり、多くの老人が軽快に乗り回していたから、車イスの老人はさほど珍しい光景ではない。いつもなら気にも止めないが、目に入った車イスの老人は50年ほど前に見た老人のおもかげをとどめていた。一方で、半世紀を隔てて、なお生きているはずはない。そう否定して打ち消そうとするが、何かがそうさせない。
XUの記憶(メモまたは担当医に話した内容)を信じるとしたら、もっとも合理的な解釈は、彼が10年ないし数十年を置いて出会った老人が同じ人に見えたことは間違いないとしても、同一人物ではなかったということだろう。人の記憶は決して絶対的ではない、と思うからだ。
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