What Is Translation?

この講義は「翻訳って何だろう」とみなさんに問いかけ、「翻訳」についてみなさんと一緒に考えることを目標にしています。僕は英語と韓語(韓国語)をある程度でき、日本語を含む三つの言葉を使って翻訳やチェッカーなどの仕事に長年携わってきました。その経験を通じて感じ考えたことを伝えたいと思います。

1. 日本語と英語で内容が違う

はじめに僕自身について日本語と英語で紹介します。両者を比べると一部の表現が少し異なります。どんな違いがあるでしょう。また、なぜ違いが生じるのでしょうか。

1950 東京に生まれ岡山(柵原)へ: 1955- 東京(水沢・Toronto/Canada・守口に2年ずつ): 1970- 日韓の企業・日米の財団・日本政府機関等に勤務: 2015 「シェイクスピアのいる文房具店」韓日翻訳(彩流社): 2024- 「一茶発句集」を縦書き文庫に掲載中

1950/ Born in Tokyo; moved to Okayama-ken located in the western region of Honshu island, Japan: 1955-/ Lived in Tokyo for 10 years; 2 years each in Mizusawa(northern region), Toronto, and Moriguchi(Osaka): 1970-/ Worked for Japanese or Korean companies; American or Japanese foundations; Japanese government agencies or international exposition associations: 2015/ Translated a Korean book for children “Mr. Shakespeare’s Stationery Store” into Japanese: 2024-/ Uploading haiku poems of Issa(1763-1828) to the Tategaki-bunko Library.

blog site: oguriq.com

2. 翻訳は創作なのか

小説や随筆を書くことは誰もが創作行為として認めますが、その小説を原作から翻訳ないし重訳(翻訳物をもとにさらに翻訳)する行為はどうでしょうか。多くの人はそれを創作とは認めません。AI翻訳によりかなり精度の高い翻訳文が瞬時に作られる現在、翻訳の創作性は減る傾向にあるといえます(AIがつくるものは創作としない)。

翻訳の創作性を考える手がかりとして、着想や構想のない状態、いわば無からの執筆を<全的な創作>とし、テーマや課題が与えられている場合の執筆を<部分的な創作>と呼ぶことにします。読書感想文や評論、フォトエッセイなどは<部分的な創作>になるでしょう。AIによる翻訳を土台に翻訳する場合も後者に属すでしょう。AIの翻訳が精巧になるにつれ、翻訳と創作の違いは見えにくくなっているといえます。

3. 直訳は翻訳ではない

翻訳に「直訳」と「意訳」という二つの訳し方があるといわれます。直訳は翻訳される言語の単語や構文に沿って訳すことをいい、意訳は翻訳する言語と文化に沿って読み手が理解しやすいように訳すことをいいます。学校英語ではかつて直訳のほうが正確だとされてきました。小学校における英語教育が導入されている現在、それがどの程度改められているでしょうか。

こういう二つの翻訳方法があるとする考えに反論もできますが、ここでは翻訳に直訳はあり得ないということだけを述べておきます。翻訳がすべて意訳というわけではなく、そもそも直訳と意訳という区分は便宜的なものでしかないというべきでしょう。これらとは別に音訳があり、最近のカタカナ語の多くは英語からの音訳です。

4. 二つの言語のあいだの距離

翻訳についてさらに考慮すべきは、翻訳される言語と翻訳する言語との距離によって翻訳の方法が左右されることです。一般的に翻訳という行為について語ることはできますが、それだけでは偏った翻訳論になってしまいます。日本は19世紀から欧米の諸言語と日本語との関係にもとづいて翻訳を論じてきましたが、それは一面的な見方でしかありません。

英語と日本語に関する翻訳論と韓語と日本語に関する翻訳論では、翻訳することの一般的な意味合いが同じでも、その方法や内容が違います。英語と韓語では日本語との距離(構文の組み立てや語彙の類似性、文化的な近さ)が大きく違うからです。多言語間の翻訳について検討しなければ、翻訳の意味をきちんと論じることはできないと考えます。

5. 翻訳しにくい語句や文章

米国西海岸の大学に留学した日本人女性のブログ(2017年3月)から引用します。ここに書かれている三人称単数の they/their を、あなたはどう訳しますか。

…トランスジェンダーの場合はさらに複雑だ。たとえば、心のなかは女性で身体は男性。心と体の性がバラバラとはいえ、自分を she/her で表現するのは抵抗がある。そんなトランスジェンダーの人は they/their を使ってもらいたいようで、レズビアンの彼女のパートナーもその一人だ。

…パートナーが焼いてくれたマフィンをおすそ分けと言って持ってきてくれた。それに対し「ありがとう Please say thank you to HER」と言ったとたん、少し彼女の表情がこわばった。なぜだろうって思っていたら、後にチームメイトの一人(彼はゲイで結婚している)に「彼女のパートナーに they/their を使ってあげてね気を付けてね」と言われた。

6. 日本語を日本語に翻訳する

小林一茶(1763-1828)の発句集にルビを振りながら、一種の翻訳ではないか、と考えることがあります。現代読者が読みやすく親しめるようにするため、漢字語にひらがなを振り、ひらがな語に漢字ルビを振るのですが、悩まされることが多々あります。単に古語を現代語に置きかえるだけの作業ではないのです。

現代仮名づかいと歴史的仮名づかいの違いだけではなく、濁音と清音のどちらをとるか悩むことも少なくありません。それは翻訳で言葉を選ぶときの葛藤と同じものです。もとの句もルビを振った句も日本語ですから、ふつうは翻訳とはいいませんが、2百年以上隔たった時代の日本語を外国語とみなすこともできるのではないでしょうか。

7. 横書きを縦書きに翻訳する

パソコンやスマホの普及に伴い、英語だけでなく日本語や韓語も横書きがデフォルト(基本)になっています。韓国では1988年に紙媒体新聞のハンギョレが横書きにしたほか、他の紙媒体も横書きになりました。いまや雑誌や小説などの単行本もほとんど横書きです。

一方、日本の紙媒体新聞や総合雑誌、小説本などは縦書きのままです。同じ文章が横書きと縦書きで書かれていた場合、読者にとって、その文章の意味合いは異なるのでしょうか、まったく同じでしょうか。異なるとしたら、どんな違いがあるのでしょうか。その性質によっては翻訳の一種とみなすこともできるのではないかと考えます。

8. 違って当然の韓語と日本語

日本語と韓語(韓国語)について翻訳という観点から考えてみたいと思います。二つの言語は語順や文法が類似し、漢字語が共通といわれますが、本当にそうでしょうか。語順がほぼ同じとか、助詞の働きなど似ているところが多いのは確かです。では、日本語と韓語のあいだの翻訳は、日本語と英語やドイツ語のあいだの翻訳より簡単なのでしょうか。

両者とも漢字文化圏に属し、漢字語の多くは共通していますが、1対1対応するわけではありません。たとえば、僕の親しくしている韓国人たちがよく使う語に다문화(多文化)や자존심(自尊心)などの漢字語があります。日本語でもそのまま使われますが、韓語の意味は日本語のそれとまったく同じではなく、ずれているようです。

使役形と受け身形、敬語法など、日韓両語のあいだには異なる語法が少なくありません。それぞれの言葉が背負う歴史や文化が異なるのですから違って当然なのです。

9. 新たな意味を付加する表現

上述の内容に対し縦書き思考を推奨する菊地明範氏(中央大学杉並高校国語科教諭)が以下のコメントを寄せてくれました。

一茶に限らず、韻文いんぶんでは作者が揮毫きごうした作品が多く存在します。後世こうせいの人が揮毫した作品も多くあります。これも表現方法(書字方法)に<解釈>が反映するので、新たな意味を付加ふかする作業になります。翻訳や揮毫という方法が、新たな意味を付加あるいは補強する作業として捉えなおされることは大いに意味があると思います。

この指摘を受け、これまでの記述が活字やデジタル入力を前提していたことに気づかされました。菊地氏は翻訳と揮毫をいずれも「方法」と捉え、「新たな意味を付加あるいは補強する作業」として見直すことに意義を見いだしています。揮毫は字句の解釈しだいで書き方も変わるので、翻案に通じるものがあると思われます。

10. 森鷗外における翻訳

最後に森林太郎こと森鷗外(1862-1922)の「訳本フアウストについて」 より引用します。

…私の翻訳は…「作者がこの場合にこの意味のことを日本語で言うとしたら、どう言うだろうか」と思って見て、その時心にうかび口にのぼったままを書くに過ぎない。その日本語でこう言うだろうと推測すいそくは、無論むろん私の智識ちしき、私の材能さいのうに限られているから、あたるかはずれるかわからない。しかし私にってはこのほかさくだすべきものがいのである。それだから私の訳文はその場合のほとんど必然なる結果としてしょうじて来たものである。どうにもいたしかたが無いのである。

世間では私の訳を現代語訳だと云っている。しかし私は着意ちゃくいして現代語にしようとするのでは無い。自然に現代語になるのである。世間ではまた現代語訳だと云うと同時に、卑俗ひぞくだとしている。少なくも荘重そうちょういていると認めている。しかし古言こげんがやがて雅言がげんで、今言きんげんがやがて俚言りげんだとは私は感じない。私はこのごろ物を書くのに、平俗へいぞく忌避きひせぬが、卑俚ひりにはあまんぜない。それは人の平俗だとしている今言で、荘重な意味も言いあらわされると思って、今言を尊重すると同時に、今言を使うものが失脚しっきゃくして卑俚にちるにまっているとは思わぬからである…

森林太郎譯「フアウスト第一部」「フアウスト第二部」

おわりに

みなさんとお話しする機会を得て、翻訳についてブログなどに断片的に書いてきた内容を整理することができました。深く感謝しています、またの機会を楽しみにしています。Looking very much forward to seeing you again. 대단히 감사합니다.

Japan and the Empire of Japan

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