「古池や蛙飛び込む」の画期性

青空文庫の正岡子規「古池の句の弁」から抜粋引用します。同じ作品を縦書き文庫で読むこともできます。引用文冒頭において子規は「未曾有の一句」と強調しています。この句の何が画期的だったのでしょうか。(…… は前・中・後略を示す)

…… 貞享じょうきょう三年(1686)、芭蕉は未曾有みぞうの一句を得たり。

古池ふるいけかわず飛び込む水の音

これなり。この際芭蕉は自ら俳諧の上に大悟せりと感じたるが如し。今まではいかめしき事をいひ、珍しき事を工夫して後に始めて佳句を得べしと思ひたる者も、今は日常平凡の事がただちに句となることを発明せり。

き旅寐のはては野ざらしとなるべきかといふ極端の感懐、秋風に捨子が泣きてをるといふ極端の悲哀、かくの如き極端の事を、いはでは面白からじと思ひしは昨日の誤解にて、今日は、蛙が池に飛びこみしといふありふれたる事の一句にまとまりしに自ら驚きたるなり。

馬と残夢と月と茶の煙とを無理に一句にたたみ込み、三十日みそかやみ千年ちとせの杉とそれを吹く夜風とを合せて十七字の鋳形いがたにこぼるるほど入れて、かくして始めて面白しと思ひし者が、翻然として悟りし今より見れば、これらの工夫したる句はむしろ「蛙飛び込む水の音」の簡単にして趣味あるに如かざるを知りたるなり。

芭蕉はついに自然の妙を悟りて工夫のいやしきをしりぞけたるなり。彼が無分別といふ者また自然に外ならず。試みに前に列挙したる連歌以後幾多の句を繰り返し、この古池の句の如く自然なる者他にあるかを見よ。一句のこれに似よりたる者だにあらざるべし。……

少くとも芭蕉は蛙なる一動物の上に活眼を開きたり。しかれども芭蕉が蛙を以て特に雅致ありて愛すべき者と思ひたり、と誤解するなかれ。蛙はうぐいすの如く愛すべき者に非ず、時鳥ほととぎすの如くなつかしき者に非ず、かりの如くあはれなる者に非ず、秋鳴く虫の如く淋しき者に非ず、故に古来の歌人も蛙を詠むこと鶯、時鳥、雁、虫の如く多からざりしなり。ひとり芭蕉に限りて百鳥百虫に勝りてこれを愛すといはんや。かへつて余り美しくも可愛くもなきその蛙すらなほ多少の趣致を備へて、俳句の材料たるを得ることを感じたるなるべし。

蛙既に雅致ありとせば、鶯、ほととぎす、雁、虫は言ふに及ばず、あらゆる事物ことごとく趣致を備へざらんや。芭蕉が蛙の上に活眼を開きたるは、即ち自然の上に活眼を開きたるなり。その自然の上に活眼を開きたる時の第一句が蛙の句なりしは偶然の事に属す。俗宗匠輩がこの句を説くに、特に蛙に重きを置くは固より取るに足らざる謬見びゅうけんのみ。……

3 responses

  1. shaw Avatar

    俳句といえば芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」が連想されるぐらいよく知られ、最高傑作の句だと考えられているが、実は何の変哲もない日常自然をそのまま詠んだに過ぎないという。この句が数百年続いた連歌の伝統を打破したことに画期的な意義があるのだ、と正岡子規はいう。この歴史的な捉え方こそ画期的であり、正鵠を射ていると思う。

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  2. shaw Avatar

    一茶は単に日常自然を詠んだだけではなく、それを生活において、またその喜怒哀楽の相において徹底して観察し写生した。彼はその対象である動物や植物ひいては情景そのものに肉迫し感情移入しながら、それら観察対象の立場になって俳句を書きとめたのである。

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  3. shaw Avatar

    上の記事から6ヵ月後、一茶の描く蛙 に次のとおり書いた。

    蛙もほかの動物と同じように一茶の情感や観察眼を映していると考えていたが、少し違うようだ。蛙は猫や雀より抜きん出ていて人間一茶に対抗するかのように、あるいは世のなかを見おろすように描かれている。だから、一茶は蛙に対抗して「小便の滝を見せ」るのだろうし、蛙のほうは彼を無視するかのように「(一茶が)叱ってもしゃあしゃあ」とし「(彼ら自身)小便をいたしながらも鳴く」のだ。[後略]

    개구리도 다른 동물과 같이 잇싸(一茶 1763-1828)의 정서와 관찰력을 반영하고 있다고 생각했는데, 조금 다른 것 같다. 개구리는 고양이나 참새보다 우월한 존재로 인간 잇싸에 대항하는 듯, 혹은 세상을 내려다보는 전재로 그려져 있다. 그래서 잇싸는 이에 대항해 ‘오줌폭포를 보여주’는 것이고, 개구리 쪽은 그를 무시하는 듯 ‘(잇싸가 그들을) 꾸짖어도 꺅꺅거리며’ ‘(그들이) 오줌을 싸면서도 울면서 간다’는 것이다.

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