長野郷土史研究会の小林一郎氏編「一茶発句全集」をもとに一茶(1763-1827)の句を縦書き文庫にアップしている。まずは新年764句(ルビ付)と春4453句の計5217句を載せた。これから少しずつルビを振ってゆく。https://tb.antiscroll.com/series/goolee/416
一茶について調べていて魯山人の短文「一茶の書」を見つけた。一茶の書ばかりでない、その人間性を絶讃している。
| 「一茶の書」 北大路魯山人 |
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| われと来て遊べや親のない雀 痩蛙まけるな一茶是に有り 一茶自身の運命にもなにかそうしたところがありはしなかっただろうか。それはともかくとして、その書であるが、素質的にいって大徳寺代々のうちでの随一の能書家(これは私の独断であるが)春屋 禅師の書、池野大雅 の書、良寛 和尚の書、茶人元伯 、原叟 などの書などと共通なところを持っているかのように思われる。 しかし、これらのうちで一茶の書には一番に下手物的な装わない心境直写の妙相をたたえているように思う。有欲といい、また無欲というとも、要するに一茶においてはどうあってもいいのだろう。 一茶の書に今一倍気品があり、そして同時に気力があったら、どんなに立派であったろうか――などという人も中にはあるようだが、私は一茶の書にはむしろそれがないのがその真実ではなかろうかとするものである。一茶の書を見ると、第一にその情味において人の涙をそそるものがある。そこで、どんな気格の高い他の人の書に出会っても、それはそれで少しの引け目を感ぜずにその内容の個性味をどこまでもはっきりと押して行っているのである。 申すまでもなく、芸術は要するにその内容である。内容というのはその個性である。書という芸術も最後はその真情に発したものでなくてはならない。仮りにそれが真情に発し、そして俗態を斥 けてものの数ともしないというものであるならば、如何なる書をいかに学んだとしても、決して模倣に終るようなことはないと思われる。 出るものが故障なく出る。書はそれでいいのである。いわゆる技巧的にも心理的にも、その灰汁だとか濁りだとかいうようなものがきれいに取り除かれたならば、そこに出るものは必ずその人の一番美しい本来の相でなくてはならない。 一茶の書のあの捨てがたい風味とか風韻とかいうものも実はそれに他ならないのである。(昭和六年) |
下の画像は1985年に発見されたという一茶の真筆だ(朝日新聞記事より)。

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