約1ヵ月前、「ごはんに願いを」 (原題 밥이 되어라)を44話(日本版)まで見た時点で「デクノボーの용구」と題して投稿した。作者の人間観察に共感したからだ。
その後65話まで見て、このドラマがどこまでも숙정(会長夫人)の悪だくみに沿って作成されていることを知らされ、腹を立てている。人間の誠実さを蔑ろにしていると思うからだ。숙정は人非人ともいうべき人格の持ち主で、歪んだ母性愛と金力・権力慾に囚われている。
韓国ドラマの常套手段である記憶喪失は認めるとしても、頭を殴られて記憶を失った경수(영신の育ての親であり年の離れた恋愛相手)に対する영신の態度が腹立たしい。女性心理を理解できない僕の限界だろうか、はたまた韓国社会に対する理解不足だろうか。
なぜ、彼女は숙정(경수の実母)の欲望に沿って경수に接しなければならないのか。彼が記憶を取り戻さないまま裕福でいるほうが幸福だという暗黙の了解が隠されているのだが、僕はこの사고방식を理解できない。「경수の幸福だけを思って」という영신の台詞を欺瞞としか受け止められないのだ。
영신が会長の娘だという事実を明かさないのも犯罪に近い。明かせば、養子の경수も彼女も会長の子ということになり、戸籍が同じ二人は結婚できないという事情は理解しているつもりだ。ただ、事実を明かさない、記憶を取り戻さないままの幸福がいかに空しく危ういものか想像できないはずはないであろう。
他方、용구の思いが実って필선と結婚に至ったのはうれしいが、その後デクノボー용구のよさが後退したように思われ寂しい気がする。彼こそ作者の心眼だと思っていたが、間違いだったようだ。残り10話の展開に多くは期待しない。
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