日本語というのは変な言葉だ。国家権力が子の親に対する呼び名を作ったり、それが外来語に取って代わられたり、時代の流行によって移ろう。親は呼び名を選択したつもりでいるが、無意識のうちに国の統制を受けている。「国語」という呼び名も明治以来の国家主義をあからさまに示している。
明治政府による国語政策、標準語統一による地域の言葉の蔑視と公的空間からの追放、戦後の米軍による統治、映画やテレビによるアメリカ文化の圧倒的流入など、さまざまな背景が考えられる。「方言」という差別用語を忘れてはならない。この国のメディアは、このような国家政策を見ぬいているのかいないのか、批判する頭を持たない。
1950年以降の東京周辺だけをみても、「おとうさん・おかあさん」「パパ・ママ」「とうちゃん・かあちゃん」「おとう・おっかあ」「おふくろ・おやじ」など、さまざまな呼び名がある。地方にはそれぞれ伝統的な呼び名がある。多様性があっていいのだが、それだけではない。井上ひさしが名作『國語元年』で描いた「国語」の持つ意味を改めて問わなければならない。
「おとうさん・おかあさん」は明治初期に作られた造語であり、教育勅語につながる親に対する尊敬の意を込めている。「お」と「さま(さん)」という二つの敬語が入っているのもそのためだと聞いた。幼児が発音するのはむずかしい。「パパ・ママ」は言わずもがな、アメリカ文化の影響だろう。
自分の娘に「おとうさん」とも「パパ」とも呼ばせたくなかった僕は、東北地方のどこかで使われていた「ダダ」「ドド」を選んで「ダーダ」という呼び名を与え、今もその呼びかたを通している。娘の友人たちも僕をその名で呼ぶ。孫にも「ダーダ」と呼ばせたい、と考えている。それが僕の密かな「国語」に対する抵抗なのだ。
僕は日本語という言葉とその文化をこよなく愛しているつもりだ。それを偏狭で自己中心的な、政治家と呼ぶに値しない選挙屋、良心のない官僚たち、似非文化人や教養のない教師たちに牛耳られたくはないのである。
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