「ふつうの人々」

芥川龍之介(1892-1927)の遺書といわれる「或旧友へ送る手記」を読んだ。昨年末、若い女性歌手の自殺らしき事件をめぐって娘と話していると、唐突に芥川の自殺を「ふつうの人々」がどう受け止めたか、尋ねられたからだ。すぐに答えることはできなかった。

冒頭に触れた若い女性歌手の自殺に関連し、篠田博之氏が自殺報道のあり方について投稿した文章を読んだ。報道のあり方を批判的に捉えていて、大いに共感するところがあった。さらに検索すると、金孝順2013が植民地朝鮮における受容について論考を公開していたので読んだ。当時の「ふつうの人々」で想定される日本人とは隔たった人々であるが、参考になると思って読んだ。

冒頭、関口安義1994の文章を引用している。やや誇張されているように思うが引用する。大日本帝国時代の話ではあるが、メディアの報道ぶりが国の戦争拡大へのムード作りの機能を担っていることを改めて思わざるを得ない。

…(1927.7.25)中央の新聞ばかりでなく、地方の新聞もすべてが重大ニュースとして芥川の死の模様を記事にした。社会面を全面つぶしでの報道が多く、衝撃の大きさを物語っている…芥川の死に関する新聞報道は翌日以後も続き、翌月末に至る。地方新聞も含めると、その量は厖大なものとなろう。後追いの自殺もかなりある。
…週刊誌も「週刊朝日」と「サンデー毎日」が龍之介の死の特集を組んだ。(略) 1927年9月号の雑誌は競って芥川龍之介特集を行っている。「文芸春秋」「中央公論」「改造」「新潮」「文章具楽部」「女性」「婦人公論」「三田文学」などが特集を組んだ。ここに実に多くの人々が様々な角度から芥川龍之介とその文学に発言することになる…

これを読んで、1970年11月の三島由紀夫(1925-70)の自殺を思い出した。当時、大学に行かず渋谷の大型書店でバイトしていた僕は、帰りに渋谷駅で配られていた号外を貪るように読み、いつになく興奮していた。帰宅すると、どのテレビも事件の報道一色だった、と記憶している。その後、三原山が噴火したとき、東北大震災のときも同じ動画がすべての放送局から流れていた。いまはコロナ禍一色だ。そもそも日本社会はいつもそうだが、再び1927年に戻ろう。

1926年12月に大正から昭和に改元した大日本帝国はどんな状況にあったのか。23年9月関東大震災、同年12月皇太子、30年11月浜口雄幸に対する襲撃事件が続いている。28年6月の張作霖爆殺事件、31年9月の柳条湖事件と続き、大日本帝国は32年3月の満洲帝国建国へと進んでいった。32年5・15、36年2・26を挟んで37年7月盧溝橋事件により本格的に中国を侵略していく。38年4月には国家総動員法が公布された。年表はこのような事件を記している。

聡明で神経衰弱を病んでいたという芥川が、戦争へ突き進む時代の重圧を鋭敏に感じていたことは想像に難くない。芥川を近しく感じていた萩原朔太郎(1886-1942)の「芥川龍之介の死」も読んだ。望郷の詩人とカミソリの刃のような小説家は似ているところがあり、かなり親しく交わっていた。伊豆の温泉宿で芥川の訃報を聞いた朔太郎は呆然とさまよい歩いたという。小説家が自殺する数日前に会っていながら、話を尽くせなかったことを悔いている。朔太郎も「ぼんやりした不安」を共有していたろう。

「ふつうの人々」という、いっけん容易に考えられそうな対象を捉えることのむずかしさについて改めて考えさせられた。独立した精神と卓越した観察力がなければ、それを捉えることはできない。いまだ僕にはそんな能力が備わっていないようだ。

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