[第二部の時期は一九九〇年夏から二年ほどで、場所は北米とされています。凭也(ヒョーヤ)はH市で体験したことを繰り返し話しました。列車の窓から見た景色と彼の心象風景が交錯するようすは明らかに認知症の症状を示しています。記録係は彼の話を記録しながら、どこかで自分の経験だと錯覚していたふしがあります。なお、第二部では凭也の独白部分を[ ]内に入れ、文体を区別しています]
谷あいを走る列車
H市に駐在していた凭也は、郊外のアパートから市街地のオフィスまで毎朝ディーゼル列車で通勤していました。朝夕の通勤時間帯に四両編成の列車が上下三本ずつ約三十分間隔で運行され、大半の区間は単線でした。二階建ての車内には日本島の長距離列車のように通路の両側にゆったりした四人掛けボックスシートが並んでいました。凭也が乗るY駅から終着のW駅まで約三十分かかり、途中の停車駅は一つしかないので、同じ時刻の列車を利用する乗客は毎朝ほぼ一定していました。通路やドアの傍に立っている乗客はいません。朝は座席の位置がほぼ固定している者も多く、始発駅の乗客は指定席を得ているようなものでした。郊外の住宅地を抜けて湖岸の市街地に至るまで、ゴー河沿いの谷あいを南下します。Y駅の次の駅を過ぎると、市街地に入るまでほとんど谷あいの風景が続き、通勤列車に乗っていることを忘れさせました。
列車を利用するようになって二ヵ月ほどは、毎朝、車窓の景色を見ているだけで飽きませんでした。夏から秋に移る時期だったでしょう。谷あいに見え隠れする野草の色調が萌黄から淡い紅や淡い紫へと日々変化しました。列車の通過する瞬間だけでも、これらの景色をとらえようとして見入りました。日数が経つと、列車の両側に現れては消える地形を断片的に覚えるようになりました。特に引かれる場所が数ヵ所あり、そこを通過するときは決まって特定の心象風景が浮かぶのです。途中に踏切が一ヵ所あり、いつも少し手前で列車が汽笛を鳴らします。その位置の西側、小高い丘の上に緑青を塗り付けたような小屋とレンガ作りのエントツが建ち並んでいました。そこを通過するたびに、幼少期を過ごした中国地方の山々に囲まれた鉱山町を思い出すのです。幼少期の記憶をほとんど失っていましたが、五歳のとき、その鉱山町を離れたときの情景は脳裏に残っていました。列車が汽笛を鳴らし、小高い丘が見えると、決まってその山々が浮かびました。
[小さなホームにたたずむ人々、背後に迫る山並み、鳴り響く蒸気機関車の汽笛、ピィーィーィーィーポォーォーォー、ピィーィーィーィーポォーォーォー、ピィーィーィーィー、汽笛がいつまでも途切れずにこだまする]
こうしてゴー河沿いの景色と凭也の心象風景のあいだに特別な関係が作られました。
→3-1(第3部のはじめ、公開)