古代文字資料館発行『KOTONOHA』第224号伊藤英人 (2021年7月)より引用
1.本稿の目的
伊藤英人(2019d,2020)は「高句麗地名」の分析を通して「古代韓語」1 及び「大陸倭語」が朝鮮半島中部以北全体に分布していることを明らかにした。本稿は、「大陸倭語」がすなわち濊語であることを論じ、個々の語についてより詳細な検討を加え、さらに伊藤英人
(2019d,2020)においては扱わなかった幾つかの語についても検討することを目的とする。本稿は、8世紀半ばまで朝鮮半島に存在していた濊語に関する予備的考察である。また、6章「まとめと今後の課題」に述べるように、本稿はJanhunen(2003)が示した仮説の以下の幾つかに対して答を示すものでもある2。
Pre-Proto-Japonic came from Coastal China. Japonic had originally a non-Altaic typology. Japonic had once a Sinitic typology. The language of Paykcey was Para-Japonic. The Korean tones are a Japonic feature. Japonic was the language of the Yayoi Culture.
2.朝鮮半島原住民語としての古代韓語と大陸倭語
2.1.「高句麗地名」中の古代韓語と大陸倭語の分布
「高句麗地名」については2.2で述べるが、そこには①明らかに古代韓語に繋がる語、②日本列島の上代日本語と同系語と考え得る大陸倭語、③系統不明の語が含まれる。①②の地理上の分布を伊藤英人(2019d:408)より引用すれば図1の如くである。
黒丸「●」が大陸倭語、星印「☆」が古代韓語である。一見して分かるように、757年に記録されたこれら地名に含まれる語から知られる地名を構成する語彙要素の分布は、鴨
緑江以北から朝鮮半島南部にまで及んでおり、両言語話者集団が長きにわたって朝鮮半島全域に混住していたことを伺わせるに充分である3。
1 以下、本稿では3~8世紀の韓語を「古代韓語」と称する。必要に応じて「新羅韓語」「6
世紀新羅韓語」「百済民衆韓語」「伽耶韓語」などの下位区分名称を用いる。
2 順不同。本稿を含む一連の研究の期するところは日本語系統論に関する比較言語学的研究である。
3 本稿では「高句麗地名」中の韓語については考察の対象としない。伊藤英人(2019d)で示した「高句麗地名」中の古代韓語及びそれの後裔たる15世紀韓語形を示せば以下の通りである。一部、再建形を修正した。
「 犂:*kar->耕すkar- R」「 文:ker>kɨr H」「 牛sju>sio H」「横:*ɛs>əs L」「 黒:*kɛmer>kəmɨr LH(黒い:連体形)」「曲:*kyper>kupɨr LH (曲がる:連体形)」「 城:*per(城)>siəvɨr RL(京)の vɨr」「 巌・峴:*pakui~*pahui>pahoi LH(岩)」「海:*patər>parər LH」「 三:*sɛk>sək R~səih R」「 馬:*məru~*mər>mʌr L」「 清:*sanər >sanʌr- HL(涼冷)」「 緑:*perer->phɨrɨr- LH(青・緑)」「 鄰:*iperki>>*ipertʃi >*ivɨrts>iuc LH(隣)(16世紀文献『七大万法』に「ipɨs cis隣家」の例あり」「 松:*puts>poc H~R(樺)」「 峯:*synerk>sunɨrk LH (嶺)」。
図1【略】
言語地図作成:黒澤朋子氏
●大陸倭語
☆古代韓語
鴨緑江以北の三地点は比定地不明であり、地点は意味を持たない。
2.2.「高句麗地名」とは
2.2.1.「高句麗地名」の定義
以下は伊藤英人(2020:107-108)からの引用である。
「いわゆる「高句麗地名」とは『三国史記4』巻第三十五及び巻第三十七に記された「本
高句麗」三州の諸地名及び巻第三十七所載の「鴨渌水以北」諸城の二種類の諸地名の総
称である。「本高句麗」の三州について『三国史記』は次のように述べる。
始与高句麗・百済地錯犬牙、或相和親或相寇鈔。後与大唐侵滅二邦、平其土地、遂置
九州。本国界内置三州。王城東北当唐恩浦路曰尚州、王城南曰良州、西曰康州。於百
済国界置三州。百済故城北熊津口曰熊州、次西南曰全州、次南曰武州。於高句麗南界
置三州。従西第一曰漢州、次東曰朔州、又次曰溟州。巻三十四5
すなわち、「漢州=京畿、忠北東部、黄海道」「朔州=江原西部、咸南南部」「溟州=
江原東部、慶北東北部」を指す。周知の如く、統一新羅は今日の朝鮮半島の全てを領有
したのではなく、上記三州以北は渤海の領域に属した。
盧泰敦(2012:249)が「景徳王十六(757)年の地名改正があったときの事実を記述したものを母体として、その後の新羅末までにあった変動の状況を加えた、新羅時代に整理された資料に依拠して編纂されたものである」と述べるように「高句麗、百済と新羅の三国の旧領を新羅が統一した」という新羅王権の観念的な名称であり、全国を九州に分け、各三州ずつを旧三国に比定したものであるに過ぎない。各地域の三国時代の実際の帰属は極めて複雑であり、「高句麗地名」が歴史的な高句麗そのものの地名であると考えることは出来ない。本稿で括弧付き「高句麗地名」の呼称を用いる所以である6。
4 本稿では原則として日本の常用漢字体を使用する。但し、「虫クヰ」「芸ウン」のように、常用漢字体が他の正字と同形になる場合はそれぞれ、「蟲チュウ」「藝ゲイ」の正字体を用い、「画」のように「畫グワ」「劃クワク」の二字を常用漢字体が兼ねる場合、「画」は「畫」の略字としてのみ用い、「計画」は「計劃」のように区別して表記する。
5 句読点は日本の高校国語科の方式に従って付ける。『三国史記』の原文引用は、学習院大学東洋文化研究所(1964)及び韓国国史編纂委員会の「正徳本」による。
6 Ulman(2016:4)も多くの先行研究をレヴューしつつ、高句麗地名と高句麗領域の不一致に注意すべきことを強調している。
巻第三十七所載の鴨渌水以北諸城は、資料系統の異なる諸地名である。これらは総章二(669)年、唐将李(世)勣が都督府及び州郡を置くことが出来るものを泉(/淵)男生と協議し、原案を作成し奏上した地名であり、唐側の原資料に由来するものと考えられるが、新旧の二重表記を含む点で同様の史料価値を持つ」
高句麗三州は図2の北部三州である。
何よりも重要なことは、①これらの地名が後述するような音借字及び訓借字による「二重
表記」によって、②757年に、③新羅の官吏によって記されたという事実である。
757 年の地名改正は、統一新羅の中国化政策により、朝鮮半島の地名を唐風の好字二字に
改める事業であった。『三国史記』新羅本紀景徳王十七年冬十二月条の「改沙伐州為尚州」に始まる地名の中国化により、主に音借字で表記された朝鮮半島地名が訓借字による中国風の二字地名に改正された。日本7でも『続日本紀』和銅六年(713年)五月甲子条に8「畿内七道諸国郡郷名著好字」の勅命により、「无邪志→武蔵」のような好字二字による地名改正が行われたことは周知の如くである。
7 本稿では701年の大宝律令以降を「日本」それ以前を「倭」と呼ぶ。
8 『続日本紀』の引用は国立国会図書館デジタルコレクション国史大系による。
図2【略】
井上秀雄(1986Ⅲ:142)より
2.2.2.漢字で非中国語を表記するということ
統一新羅と日本で行われた地名改正は、8世紀までに両国で一般化していた漢字の音訓を
利用した固有名詞表記を、中国語話者が見ても違和感のない漢字表記に改めるためのもの
であった。言うまでもなく、漢字は中国語という自然言語を表記するためにBC13世紀に黄河流域で形成された文字である。中国語話者が非中国語の固有名詞を表記するのには音訳と義訳の二つの方法があるが、殆どが音訳である。以下の如くである。
音訳:「華盛頓 Huáshèngdùn:Washington」「 紐約 Niŭyuē:New York」
義訳:「氷島:Ísland(Iceland)」「黒山:Црна Гора (Montenegro)」「牛津:Oxford」
当然のことながら、義訳を行うに際しては、表記される言語もしくはそれの他言語訳名の
構成要素の意味を知らねばならない。すなわち、「ice=氷」「land=島」「negro=黒」「 monte=山」「 ox=牛」「 ford=津」の理解なしに上記の義訳地名表記はあり得ない。
中国語話者が他言語の固有名詞を、その構成要素の語義を理解することなしに表記すれ
ば音訳字表記となる。「卑弥呼」「卑狗」なども中国語話者による音訳表記であり、華夷思想によって貶義字が選ばれた例である。非中国語話者が漢字を使用するようになって最初に試みられたのは音訳字表記、すなわち音借字表記であった。5世紀から6世紀の古代韓語と倭語の漢字の音借字表記の例を出土資料から見てみよう。
「斯麻」503年「須田八幡人物画像鏡銘」、523年「武寧王陵墓誌銘」
「斯麻」は、古代韓語「島」*sjɛma(> 15世紀韓語siə:mR)の音借字表記
「意富比垝」471年「稲荷山古墳出土鉄剣銘」
「意富比垝」は倭語「大彦」opopiko(>上代日本語 おほひこ)の音借字表記
新羅と倭~日本では音借字表記の他に訓借字表記も行われた。いずれも原資料が8世紀に遡ると考えられる『三国史記』地理志新羅地名の例と『播磨国風土記』賀茂郡の例である。
「密城郡本推火郡」『三国史記』地理志「良州」
「密=推」古代韓語「推す」mir-(>15世紀韓語mir-R)
「城=火」古代韓語「城・火」per(>15世紀韓語 「火」pɨrH、「 京」siə:vɨr RL)
「所以号賀茂者、品太天皇之世、於鴨村双鴨作栖生卵、故曰賀茂郡」『播磨国風土記』
「鴨=賀茂」上代日本語「鴨」kamo
「密城=推火」は現代の慶尚南道密陽である。韓語で「推す」をmir-と言うが故に「密」の漢字音でこれを音借字表記することが可能になる。また「城」の訓読みと「火」の訓読みを、同音のperと呼ぶが故に「城=火」の音通が可能になる9。「賀茂」は現在の兵庫県加西市である。同様に日本語で「鴨」のことをkamoと呼ぶためこれを「賀茂=鴨」という音訓借音によって表記することが可能になる。後者の場合、地名の民俗語源にもなっている。
9「城」のperは15世紀韓語では「京siə:vɨr RL」の第2音節に化石的にその姿を留める。
改正後地名である「密城」は、*mirperと訓読みされたと考える。
これらの表記は、普通に考えれば、それぞれ韓語話者で漢字を操る者、日本語話者で漢字を操る者の手になる表記であるとしか考えられない。韓語や日本語を解さない中国語話者がいくら熟考を重ねても、何故「密城=推火」「賀茂=鴨」となるのかを理解することは永遠にあり得ないであろう。「密城=推火」は『三国史記』「新羅地名」であり、これは漢字を使用した古代韓語話者によって表記されたものである。『三国史記』の地名改正はこうした二重表記をその特徴とし、それによって朝鮮半島の言語の復元が可能になる最も貴重な資料体をなす。
漢字の音訓によって固有名詞を表記することが可能になった日本列島では、日本語の音
訓によって非日本語地名を漢字で表記することが可能になった。アイヌ語の「本当の(大きい)・川」を意味する si-petを漢字表記した「士別しべつ(士別市)」「標津しべつ(標津町)」はそれぞれ「日本語の」音借字表記と訓借字表記だが、表記されるアイヌ語の語義を採って「大川」と書いて「シペッ」と訓むようなことはない10。それは「アイヌ語が漢字使用言語ではなかった」からである。
「高句麗地名」の中心をなす「高句麗三州地名」の特徴もまた、757年の地名改正前と後
の対比から一つの地名が二重(場合によっては三重)表記で現れることである。
「十谷県[本徳頓忽]」巻三十七
「兎山県本高句麗烏斯含達県」巻三十五
「高句麗地名」は二重表記のないものも含めて総計197地名が確認される。こうした二
重表記から「十=徳」「谷=頓」「兎=烏斯含」「山=達」のようなペアが得られる訳であるが、それらの中に「徳:十」から「*tək:tö(上代日本語「十」)」、「頓:谷」から「*tən~*tan:tani(上代日本語「谷」)」、「烏斯含:兎」から「*usjɛgam:wosagi~usagi(上代日本語「兎」)」のような「大陸倭語:上代日本語」の類似した語形が確認される。
「高句麗地名」と日本語の相互類似について、前世紀初期以来、内藤湖南(1907)、新村出(1916)によって夙に言及されている。これらは当初は「朝鮮語」後には「高句麗語」と観念され研究が行われてきた11。
以上のことから『三国史記』地名の音訓表記は、「自らの言語を漢字の音訓によって表記
する習慣を有する」言語の話者によって記されたものである、と結論づけざるを得ない。
さて、旧高句麗三州と称される「漢州=京畿北東部、黄海道」「朔州=江原西部、咸南南
部」「溟州=江原東部、慶北東北部」、及び鴨緑江以北の諸城名からなる「高句麗地名」に日本語に類似する語が含まれることは、日本語に類似した言語がかつて朝鮮半島に存在した事実の反映と看做すことができ、Janhunen(2003)やVovin(2017)を始めとする近年の諸研究でもこれらをPeninsular-Japonic 等の呼称で呼んでいる。伊藤英人(2019d)では暫定的に「大陸倭語」の仮称を用いたことは上に示した通りである。
10 北海道のアイヌ語地名は山田秀三(1986)及び北海道アイヌ政策推進局 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/new_timei.htm 参照。【編集追加↓】https://www.pref.hokkaido.lg.jp/fs/1/3/2/2/4/2/4/0/_/%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88(%E3%82%A2%E8%A1%8C~).pdf
11 「高句麗地名」の研究史は伊藤英人(2019d)で詳述したため、本稿では必要最低限の言及に留める。
757 年の景徳王による地名改定が、先行する何らかの資料に基づくものであったとして、
音仮名による表音表記的な旧地名を同意の漢字に置き換えることが可能だったのは、上述
の如く、「旧地名の言語を用いる民族で、かつ、漢字を習得していた民族」の書記者であったと考えざるを得ないという点である。
すなわち、①「大陸倭語の話し手が全て日本列島に移り住み、地名だけを残していた」②
「大陸倭語の話し手が朝鮮半島に残っていたとしても、その言語がアイヌ語のような無文
字言語で、支配民族がその言語を解しようとしなかった」とした場合、こうした二重表記は起らなかったはずだと考えられるからである12。
したがって、757年に「高句麗地名」の二重表記を行い得た新羅官吏が、朝鮮半島の漢字
使用言語のうちの何語の話者であったのかを闡明することが、「大陸倭語」の性格を知る上での関鍵となる。
「高句麗地名」についての諸先行研究については伊藤英人(2019d)で述べたのでここに繰
り返さないが、一部の研究13を除いて「高句麗地名」は「高句麗語」で名付けられた地名であるとの前提に立っている。しかし、後述するように、楽浪郡ではBC1世紀には「現地出身者」が漢字を使用していた出土資料が確認される14。楽浪郡の「現地」人はつまり、韓語もしくは濊語話者以外ではあり得ない。両漢に反抗と服従を繰り返していた「高句麗人」の主要勢力はまだ、鴨緑江以北にあった。「高句麗地名」が「高句麗語」であるという前提は、5世紀以降、南下し、朝鮮半島中部以北を領有した高句麗語話者が、海浜から幽谷に至る地名を「高句麗語で命名し直し」て廻り、それを漢字表記したという前提に立った行論である。しかし、地名とは先住民の名づけを踏襲するものである15。
Beckwith(2004)が、高句麗-日本語同系説を主張するために、いかに牽強付会を行っているかの批判は伊藤英人(2019)に述べた16。
12 福井玲(2013:179)は「高句麗地名」についての音訓表記をめぐって北海道アイヌ語地名に言及して「アイヌ語の意味とはかけはなれた、単に音を日本語の漢字の音なり訓で表しただけのものがほとんど」であると述べている。
13 都守熙(2005ab)は漢州地名を百済語に比定する。Vovin(2017:8)が「高句麗地名」の語をpseudo-Koguryŏ と呼ぶのも「高句麗地名」が括弧付きである認識の現れである。
14 李成市(2015)参照。
15 もちろん高句麗支配時期に「高句麗地名」が実際に統治に使われ、その後も継承されたことは出土資料から確認される。例えば、尉礼(漢城)地域を高句麗が支配した76年間の地名である1990 年発見のソウル市衿川区始興洞・安養市境界の虎山山城のHan-umur遺蹟第二井戸から「仍伐内力只乃末」銘文の青銅匙(新羅時代)が発見されており、巻三十五「穀壤県本高句麗仍伐奴県」の旧名と一致する。京畿抱川郡郡内面の半月山城出土の「馬忽」と刻まれた新羅時代の銘文瓦が見つかっており、これは「堅城郡本高句麗馬忽郡」巻三十五に対応する。
16 Pellard(2007)による日本語史、言語学からの批判がある。Robbeets(2007)もこれを批判している。牽強付会の一例を挙げれば、「清風県本高句麗沙熱伊県」(忠北堤川郡淸風面)の「沙熱śaniar(cool 淸):samu(cool、cold)」(Beckwith2004)である。Robbeets (2007:4-5)は Beckwith 氏のこの恣意的な、無理やり日本語との同源を企図した、為にする再建を批判し、15 世紀韓語sanʌr-との関連を正しく指摘している。
伊藤英人(2019d)で未見のため未言及であった鄭光(2011)は、Beckwith(2004)をレヴューしつつ、「高句麗地名」について韓国及び諸外国における研究成果を加えて論じた浩瀚な大著であり、現時点で最も参照すべき論考であるが、「高句麗地名」を「高句麗語」と看做す点は同断である。以下ではまず、朝鮮半島における中国語及び漢字使用の淵源とその歴史を概観することとする。
2.3.朝鮮半島における中国語・漢字使用
2.3.1.中国語話者集団の東渡
「朝鮮」は春秋戦国期から燕の影響下にあり、中国語話者の朝鮮半島への流入は先秦時代に遡るが、本格化するのは秦末漢初の大乱以降である。この経緯は『後漢書』東夷列伝(5世紀成書)の次の記述が物語る。
漢初大乱、燕・斉・趙人往来避地者数万口、而燕人衛満撃破準、而自王朝鮮。
少なく見積もっても数十万に及ぶ中国語話者が平壌を中心とする地域に流入し、BC195年に燕王盧綰の部下衛満が箕子朝鮮最後の王、準を破って衛氏朝鮮という連合王国を形成した経緯を記した記事である。同じ内容を『史記』(BC91 年頃成書)朝鮮列伝はより詳しく記述する。
燕王盧綰反、入匈奴、満亡命、聚党千余人、魋結蛮夷服而東走出塞、渡浿水、居秦故空
地上下鄣、稍役属真番・朝鮮蛮夷及故燕斉亡命者王之、都王険。
武田幸男(1978)は、こうして成立した衛氏朝鮮の主要メンバーに中国系と見られる「王」「韓」の二姓が見え、「尼谿」の相(地方首長)に無姓の人名「参」が見られることから、衛氏朝鮮が中国系流入民と現地勢力の連合王国であったと述べている。
朝鮮半島中部以北が完全に中国の「内地」になるのはBC108年であり、これはAD314年まで続いた。漢四郡から魏晋代の楽浪・帯方郡は植民地ではなく、「中国内地」であった。
そこでは、中国の郡県制が緻密に施行され、中央から派遣されてくる官吏とそれを現地で支える属吏による文書行政が行われていた。平壌楽浪地区貞柏洞364号墳からは、初元4(BC45年)年楽浪県別戸口簿木牘が公文書抄本と共に発見されている。戸籍簿には前年(BC46年)との人口増減が一の位まで精密に記載されており、これらの公文書が首都に送られ、それを基に課税、賦役が課せられた。呉雪松(2020)は、黄海側から日本海側の諸県において、漢の楽浪郡統治が完全に施行されていたことを出土資料から明確に述べている。同論文は楽浪郡治の置かれた朝鮮県である楽浪区域出土資料に「沃沮丞印」「東暆丞印」「不而左尉封泥」など楽浪郡各地の封泥が確認されることを写真と共に明示している。
朝鮮半島最古の具体的な語の音形を確認し得る言語資料は揚雄(BC53-AD18)の『輶軒使者
絶代語釈別国方言』(略称『方言』)に載る漢代中国語「朝鮮方言」27語である。松江崇(2019)によれば、殆どが中国語の語彙であり一部に来源不明の語を含むとされる。来源不明のそれらの語がJaponic或いはKoreanicの語と類似を示すことはない17。
漢四郡支配を厭い、中国の直接統治の及ばなかった朝鮮半島南部へ逃れた中国語話者集団の定着、3世紀洛東江流域における、「有似秦人」と魏使が感じるような古風な中国語18を話す集団の存在、それら中国語話者集団の日本列島への移住などについては、本稿の内容から逸れるため、これ以上述べない。以下では中国の「内地」となった、朝鮮半島の黄海道、江原道以北で使用されていたと考えられる諸言語と、彼らが中国語との bilingual になっていた様相について詳しく見ていくことにする19。
2.3.2.朝鮮半島現地語話者の漢字漢文学習と朝鮮半島の諸言語
李成市(2015)は次のように述べる。
平壌楽浪地区貞柏洞364号墳から出土した『論語』竹簡は,1990年に初元4年楽浪県別戸口簿木牘や「公文書抄本」と共に発見されたが,2009 年に至るまでその詳細な学術的な情報がなかったため研究対象になりえなかった。本稿は,まず貞柏洞364号墳出土の『論語』竹簡の基礎的なデータが公表に至る経緯を明らかにし,そのうえで貞柏洞364号墳の性格や遺物から被葬者の性格を検討し,被葬者が現地出身の楽浪郡属吏であることを裏づけた。また,貞柏洞364号墳に副葬された『論語』竹簡については,発掘当初に撮影された2枚の写真と,さらに発掘に関わった機関の証言に基づきつつ,出土した『論語』竹簡は,写真での確認は先進31枚(557字),顔淵8枚(144字)に止まるが,元来,先進篇・顔淵2篇の全文120枚程度が存在したと推定される。被葬者と関わって重要な『論語』竹簡のテキストとしての特徴は,竹簡への書写は,章句の冒頭に黒点を示したり,章句の末尾を余白にしたりして章句と章句の間を区分させ,『論語』の文章を連続して記述していない点にある。中原の読書人とは異なり章句の冒頭を明示し,章句の末尾を空白にして文章の切れ目を明確にしたのは,そのようなテキストの読者のリテラシーの能力を反映していたと見ることができる。貞柏洞364号墳の被葬者が平壌地域の在地の伝統を継承する人物である事実を踏まえれば,貞柏洞364号墳出土『論語』竹簡は,朝鮮半島における漢字文化の受容を検討する際の重要な定点的な資料になりえる。
17 同書八巻九条「鶝䲹:後漢音puk puəヤツガシラ(鳥類“戴勝”)」、「𪂉(+鶝) 後漢音:wɨkpuk 水鳥の一種(鴈の類?)」なども韓語、日本語に比較し得る語形を見出し難い。
18 「名国為邦」『東夷伝』の例がよく知られている。『魏書』烏丸鮮卑東夷伝韓条。以下本稿では『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝」を単に『東夷伝』と略称し、それ以外は書名を明記する。
19 日本列島に「古韓音」を伝えた漢人集団が中国語本来の声調を保ちつつ、5世紀の東国方言の固有名詞を音借字表記したことについては、森博通(2003)参照。日本列島の中国系渡来人が朝鮮半島でカスタマイズされた漢字文でなく、本来の中国語を保っていた事実は『紀・欽明』元年五月条の「丙辰、天皇、執高麗表䟽、授於大臣、召聚諸史令読解之。是時、諸史、於三日內皆不能読。爰有船史祖王辰爾、能奉読釈。由是、天皇与大臣倶為賛美曰『勤乎辰爾、懿哉辰爾。汝、若不愛於学、誰能読解。宜今始近侍殿中』既而、詔東西諸史曰『汝等、所習之業、何故不就。汝等雖衆、不及辰爾』」について、田中史生(2018:163)が先行研究を踏まえつつ、新来の王辰爾が高句麗独特の漢文形式に通じていたのに対して、旧来のフミヒトがそうでなかったからであるとすることからも知り得る。これを言語学的に言い換えるなら、早くから日本列島に渡来し文字技術に携わった中国系氏族の方が、本来の「正しい」中国語を使い続けていた、ということになる。
貞柏洞364号墳の被葬者は、板郭墓という棺の形式からしても「現地出身の楽浪郡属吏」
であった。彼が、口語中国語、つまり、話し言葉としての漢代中国語朝鮮方言を話したことは疑いを容れない。なぜなら、朝鮮県所在の楽浪郡治で勤務していた被葬者は中央から派遣されてくる上司である中国語ネイティヴとはもちろん、官衙や市場に出入りする中国語ネイティヴと口頭でコミュニケーションを行う能力がなければ、全くその職責を全うすることが出来なかったからである。しかし、彼は、漢字で書かれた書面中国語の読解能力においては、中原のネイティヴ読書人に及ばなかった。「中原の読書人とは異なり章句の冒頭を明示し,章句の末尾を空白にして文章の切れ目を明確にしたのは,そのようなテキストの読者のリテラシーの能力を反映していたと見ることができる」という李成市(2015)の指摘は、彼が楽浪郡の「現地語」とのbilingualであった可能性を強く示唆する。
彼は、恐らく、衛氏朝鮮時代以来の「現地」のそれなりの有力者の家系に生まれついたの
であろう。属吏としての地位を得るため、『論語』の学習を思い立った。市に行って、平壌には産しない竹の製品である竹簡と、製冊のための韋を購い、家伝のあるいは借覧の『論語』を書写し、韋で綴じて製冊した。書写時に、文章の切れ続きが分かりにくいため、「章句の冒頭に黒点を示したり,章句の末尾を余白にしたりして章句と章句の間を区分させ」たのではなかろうか20。被葬者は、勤務先や市場などでは中国語を話したが、自宅では楽浪郡の「現地語」を話していたと考えられる。可能性としてあり得る言語は、韓語か濊語のいずれかのみである。
20 現代でも、「漢文」の白文読解これすなわち句読である、と言ってもよい。三国時代の変体漢文における文末標識「之」の頻用もノンネイティヴのリテラシーに関わることであろう。なお「之」が中国起源であってKoreanismではないことは既に実証されている。さらに言うなら、後代の「懸吐」も貞柏洞論語竹簡の章句分けのある意味での末裔であるとも言える。
2.3.3.濊語、韓語以外の朝鮮半島の言語
河野六郎(1993)その他の先行研究に従って、濊語、韓語以外の朝鮮半島の言語について概
観する。
百済は、河野六郎(1987)で明らかにされたように、民衆が韓語を使用したのに対し、王族
はこれとは異なる百済王族語を使用していた。百済王族語の資料は、百済と親密な関係にあった倭~日本の王朝の記録にその大半を負っている21。後述するように、5世紀初頭に高句麗から「韓」という種族と認識された朝鮮半島各地の「旧民」は、百済民衆韓語の話者と考えられるので、その通用範囲は王室周辺に限られていたと考えられる。Janhunen(2003)の提示した仮説の一つは、「百済語/the language of Paykcey は、日本語と意思疎通可能な、ParaJaponic であった」(ibid.482)と想定することである。しかし、仮にこれが百済王族語のことを指していたとしても、断言は不可能であると言わざるを得ない。百済王族語話者集団はどこから来たのであろうか。漢城百済は、少なくとも3世紀末~4世紀初頭に漢城地域を中心に成立しており、その建国神話を高句麗と扶余出自に求めている。扶余建国神話の初出は『論衡』(2世紀末成書)にあり、高句麗が扶余建国神話を取り入れたのも、瀬間正行(2018:138)が指摘するように「扶余支配の正当性の根拠」を示すためであった可能性があり、百済が更にこれを取り入れた蓋然性は極めて高い22。
『三国史記』に次の記載がある。
或云、朱蒙到卒本、娶越郡女生二子。(巻廿三「百済本紀」第一、双行注)
「二子」とは温祚と弗流のことである。井上秀雄(1983Ⅱ:272)は、「越郡」について、「中国浙江省紹興地方か」と注記している。なぜ、浙江省紹興の娘が、遼寧省丹東市桓仁県までやって来て、朱蒙との間に百済の始祖となる人物を生むとする伝承をわざわざ記すのだろうか。
拝根興(2012)、葛継勇(2012)は西安出土の在唐百済人墓誌の釈文を載せる研究であるが、
亡命百済貴族の中に「楚国琅邪」を籍貫とする人物も見られる。
こうした山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、百済王族語は中国
沿海から東渡した集団の言語であり、その意味では、後述する、山東、遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる濊倭祖語話者集団と同じ行跡を辿った集団の言語である可能性があると考えられる。その意味で、百済王族語は、その語義の正確な意味はよく分からないものの、一種のPara-Japonicであったかもしれない。
百済王族語は、百済滅亡後、唐と日本に移り住んだ遺民により1~2世代に亙って使用さ
れた後、地上から消滅した「系統不明の言語」である、ということ以上のことは、「 不明」とする他ないと考える。済州島の州胡語については不明である。咸鏡道を含む「東沃沮」については濊に関する言及の中で述べる。
21 日本王室に伝えられた百済王族語の語彙は、平安時代の「日本紀講書」を通じて仮名表記され、今日に伝えられた。
22 神話の借用については溝口睦子(2009)参照。
2.4.韓人のリテラシー
韓語話者集団、すなわち韓人は、後述の濊人同様、かなり早くから漢字のリテラシーを持
っていたと考えられる。そのことは「韓」という名称そのものから伺える。
私事に亙るが、筆者は 1970 年代初頭に韓語の学習を始めて以来、中国周辺諸民族の内、
なぜ独り「韓」のみが貶義字の使用を免れているのか不思議でならなかった23。後に『魏略』逸文の「冒姓韓」を知るに至り、「韓」が中国姓の僭称であることを知った。更に後に権文海(1534~1591)の『大東韻府群玉』の「韓」の項目もこれを引用しているのを知るに至り、李朝士大夫も「冒姓韓」を常識としていたことを知った。
「韓」は、衛氏朝鮮以来の中国姓である。「姓」を持つ集団は「家」という単位を作り、そこでは、文字教育が伝承される24。日本列島に渡来し、文字技術に関する業務に携わった渡来系氏族も中国姓を持った集団であった。韓氏は箕子を先祖とする氏族である。1世紀以降、朝鮮半島南部に「韓」と呼ばれる集団の存在が確認されるようになるが、彼らの全てが中国系であったとはとうてい考えられず、恐らくは、衛氏朝鮮から楽浪郡の時代に、自らを「韓」と称する韓語話者集団が早くから存在し、その意識に基づく自称が韓語話者集団に共有されつつ各地へと拡散していったとしか考えられない25。
414 年の『広開土王碑文』には、高句麗が打ち破った「韓」と「濊」の地名が出て来るが、「韓」と呼ばれる集団は、韓語を話す種族の名前だったと考えられる。『広開土王碑文』にも、後述する如く、一つの「城」の管轄する地域に「韓」と「濊」が混在している地名を朝鮮半島西南部に確認し得る。「韓=韓語話者集団」という認識を5世紀始めの高句麗人は明確に持っていた。
23 「貊」「 貉」「 狄」「 蛮」「 蠕蠕」「 倭」「 獞」「蒙古」等の非漢民族名のみならず、今日では中国語の下位方言名である「蜀」や「閩」にも「虫」が入っている。
24 田中史生(2016:79-82)参照。なお、「朝鮮にて支那風の族姓を称したるは、麗初頃より稍々上流社会に用ゐらるゝことゝなりしものにて」(鮎貝房之進 1937/1987:39)とある如く、種族名としての「韓」がもちろん先である。しかし、自らを、箕子を奉ずる一族であると自覚する人々が、韓語話者集団にかなり多くを占めて纔はじめて族称としての「韓」が定着すると考えられ、このことは後述の魏晋代の東濊に近い文明意識を、韓語話者集団の一部が早くから有していたことの傍証となる。
25 李丙燾(1980:237-246)は『東夷伝』の「准(準)(簡略)将其左右宮人、走入海、居韓地、自号韓王」を引きつつ、「韓」の自称が中国史書初出よりもかなり早い時代に遡ると述べているが、「韓」を「淮安(広州)」の帰字(被切字)と看做すのは荒唐無稽である。なお、「大」を「韓」と書く例の初出は8世紀日本資料であり、朝鮮半島でも8世紀である。筆者は麗代と思っていたが、「韓奈麻」の例が704年の「皇福寺舎利函」の例があることを、草稿をお読み下さった橋本繁慶北大学研究教授のご教示によって知ることを得た(pc.2021年3月2日、以下、橋本教授のご教示は同日)。1世紀以来の「韓」が中国語形態素「韓」に由来する事実は動かし得ない。
朝鮮半島南部、特に洛東江流域の韓語話者集団は、高い識字能力を持っていたと考えられ
る。朝鮮半島から日本列島への物流は、全羅道黄海沿岸ルートの他に、載寧江・大同江、あるいは臨津江から江華島に出て、漢江に入って南漢江を遡り、鳥嶺を越えて聞慶に至り、洛東江から瀬戸内海へと続く水路がいわば大動脈の役割を果たした26。『東夷伝』に言う「避秦役来適韓国」した「古之亡人」の中国語話者集団も日本列島との交易に従事する集団であったと考えられる。
慶尚南道昌原市茶戸里遺跡からは、BC1 世紀の両頭筆六管と刀子が出土している。交易
のための港津業務には、当然のことながら、文字技術が必要となる。水野正好(2000)は、大阪府南河内郡に、文書を管理する文氏、出入りする船を管理する船氏、津を維持する津氏、立ち並ぶ蔵を管理する蔵氏、馬を掌る馬氏といういずれも中国系を自称する渡来氏族がわずか数キロ四方の範囲に集住していたことに触れつつ、日本列島における文字使用の証拠が「漢字という形であれば紀元前3世紀までは遡る可能性があると考えている」(ibid.22)と述べている。
日本列島側の漢字リテラシーを持つのは、後述の「卑弥呼側」のリテラシーに見る如く、
朝鮮半島に比べてはるかに遅かったが、物流の輸出の拠点の側である洛東江下流・沿海域の漢字リテラシーは少なくともBC1世紀まで遡り得ることを、茶戸里出土の筆と刀子は物語っている。
王族が韓語話者であることがはっきりしている三国時代の王朝は新羅である。2020 年時
点で知られる新羅最古の金石文は「浦項中城里碑」(501 年)である27。李成市(2000:52-61)が指摘するように、新羅は高句麗から漢字文化を導入し、6世紀初頭には域内支配に漢字の使用を開始するが、中国語のorality は低かったとされる28。また、新羅における漢字使用は、中国語のそれを大きく逸脱し、また「叱」「湌」のような異様な文字を使用している。しかし、それは、文物の流れの大動脈から外れた、朝鮮半島東南僻陬の慶州盆地の韓語話者、ありていに言えば新羅王権周辺にいた韓語話者の中国語・漢字能力が低かっただけであって、洛東江流域や、後述する黄海沿海の、古くから文明化していた韓語話者の中には、中国語のoralityも漢字のliteracyも慶州盆地韓語話者のそれに比べて、古くから遥かに高かった人々が存在したと推定される。
26 帯方郡から邪馬台国に至るルートの前半、倭王武上表文に見られるルートはこの沿海ルートであった。
27 武田幸男(2020:533)補注参照。
28 統一新羅時代でも新羅人の中国語・漢字能力が低かったことについては、金文京(2010)が、慧超が「髪」と「頭」、「有」と「在」を混同し、「有髪女(髪のある女、剃髪していない女性)」とすべきを「女人在頭(?女人は頭にいる)」としている誤用を指摘している。これはmɛri isin kas (髪のある女) という韓語に引かれた誤用と考えられ、「 在」と「有」といった中国語文法の基礎中の基礎のみならず中国語の語順をも、新羅で訓読によって漢文を学んだ慧超がきちんと習得できていなかった状況をはっきりと示している。
2.5.訓読みと朝鮮半島式漢字音の胚胎
朝鮮半島において漢字の訓読みが胚胎したのは「浦項中城里碑」を遡ること20年ほどと考えられる5世紀後半の「中原高句麗碑」である29。そこには次のような漢字列が見られる。
太位諸位上下衣服来受教30
南豊鉉(2014:69)によれば、上の文は次のように解釈される。
(王が)太位諸位上下は衣服を来て受けよと教した。
これは 5 世紀後半に新たに新羅領から高句麗領に編入されることになった忠州地域の旧
新羅首長層に向けての言葉である。[(Sαは) [SβがOをVβしてVβせよと]Vαする]とい
う構文である。
この文はどのように音声化されたであろうか。可能性としては①中国語音で、②現地語音での二通りがあり得る。
伊藤英人(2015)では、一種の思考実験として、①の可能性を論じてみた。そこでは、陳乃雄(2007)の五屯話、林濤(2012)からの東干語の例を引きつつ、中国西北地域においてアルタイ語やチベット語との言語接触を通してアルタイ語の語順に変化した言語と「中原高句麗碑」の例を比較した。しかし、5世紀後半の朝鮮半島中部で五屯話や東干語のようなアルタイ化した中国語口語が話されていたと考えることは現実的でない。中国語圏の西部における中国語のアルタイ化現象は、SOV 語順を持つ諸言語に囲まれた中国語話者集団において発生したものであり、すでに中国語話者の統治を免れて150年以上を閲した朝鮮半島中部でそのような中国語のクレオール化が起ったとは考え得ないからである31。
したがって、「中原高句麗碑文」は、②の「現地語音で音声化された」という可能性しか
あり得ないこととなる。
筆者は、「中原高句麗碑文」は、読者として想定されている新羅韓語話者のみならず、濊
語話者、高句麗語話者が、それぞれ自言語で、脳内で、音声化して読めるものとして記されたと考える。伊藤英人(2018b:33-34)は、これを東アジアにおける「変体漢文」の嚆矢と看做した。また、同じくアルタイ型の統語構造をもつ言語の話者が支配した五胡十六国から北魏にこうした変体漢文は一つも存在しない。変な語順の中国語文(変体漢文)を石に刻して残すという「確信犯的中国語侵犯」の理由を、高句麗における自国中心の華夷思想の反映と看做した。
29 行政区劃変更により「忠州高句麗碑」と改称されたが、本稿では人口に膾炙した旧称を使用する。
30 「来」を「兼」と読む釈文も存在することを橋本繁慶北大学研究教授からご教示頂いた。
31 [(Sαは) [SβがOをVβしてVβせよ(/する)と]Vαする]という構文は、五屯話、東干語のみならず、蒙文直訳体や「漢児言語」にも見えない。わずかに徐丹(2014:269)の示す唐汪話の例文「你再白麺永遠喫不哈説着。あなたは二度と小麦粉食品を食べられないそうだ」がややそれに近いかもしれない。
すでに、口語中国語を全く使用する必要のなくなった5世紀後半に書かれた「中原高句麗
碑文」は、恐らくは「中国語借用語を含む現地語」として「脳内訓」で訓読みされたと考えられる。
池鳳花(2008)は、延辺朝鮮語における中国語借用語について、コードスイッチングでなく
「借用語」として中国語が延辺朝鮮語に現れるとき、中国語の分節音と声調が、規則的に延辺朝鮮語の音韻体系に移し替えられる現象を指摘している。このことは、「太位」「諸位」「上下」などの中国語が仮に「音読」されたとしても、それらは「現地語」の音韻体系に合わせて変形された「借用語」として音声化された可能性を示唆する。すなわち、「中原高句麗碑文」は「訓読み」のみならず、「朝鮮半島式漢字音」が胚胎した資料としてみることも可能になることになる32。
朝鮮半島から中国語を話さねばならない官衙が消滅して 150 年以上を閲した忠州地域に
おいて、高句麗語としても、新羅韓語としても、濊語としても訓読みできるこの漢字文を書くための媒介者であったのは、朝鮮半島で最も早く中国語と漢字を習得した「漢化」民族である濊語話者集団であったと筆者は考える。以下では「濊」という集団について見ていくこととする33。
3.濊人
3.1.濊倭同系説
伊藤英人(2019d)で述べたように、馬淵和夫他(1979)、兪昌均(1999)がごく簡単に濊語と日本語の関係の可能性について言及したのを除き、本格的に「濊倭同系説」を展開したのは河野六郎(1993)であった。河野六郎の日本語の起源に関する所説には時期によって変遷があり、最終的に河野六郎(1993)で「濊倭同系説」に至った。そこでの言語学的な最大の根拠は、15 世紀韓語において「濊」の字音と「倭」の字訓がともに ieiRであったという事実である34。その後「濊倭同系説」について具体的な語形を挙げて論じたのは伊藤英人(2019d)である。
32 「高句麗地名」の漢字表記における音借字の音通現象から、「濊語漢字音」を復元する試みが必要である。「 於支」と「翼」から「翼jəki」、「仇乙」と「屈」から「屈 kur」などの試みである
33 「漢化」の概念は加々美光行(2008)による。中国語話者化した民族を「漢人化」、漢字と中国文明を取り入れたが民族言語を棄てなかった民族を「漢化」、中国文明も漢字も拒否したが、「中国」の歴史的地域で活動し征服王朝を開いたりした民族を「華化」した民族としてそれぞれ区別する。
34 金完鎮(1970/1971:105)は 15 世紀韓語の「倭 iəiR」と郷歌「彗星歌」の「倭理」「倭」
の上古音iwar 及び「夷」の上古音diər と関連付けた。福井玲(2013:180)は、河野説のこの『説文解字』(AD100年成書)には、濊人が中国市場に流通させた多くの魚貝類、水産物加
部分に触れつつ、「濊の字音は、上でも述べたように、中国語では去声であり、仮に上古音では-dという韻尾をもっていたとする説を採用するなら、jeriという語形とこの字音とつながりができるように思われる」と述べている。
以下では、濊の性格について、中国・朝鮮史書及び先行研究から知り得ることを概観する35。
3.2.「濊」とは
3.2.1.名称
「濊」は「穢」「薉」とも表記される。『説文解字』「水部」に「濊:水多皃。从水歲聲」とあり、「濊」は「水の多いさま」を表すとされる36。
吉本道雅(2009:44)は「『濊貊』という称謂は、当初、中国人が『濊貊民族』に対して用い、ついで東濊が『貊』を拒否し、最後に渤海が『[豕歳]貊』故地を仮構した」とする。すなわち、「濊貊」は一語であるとする。「濊貊民族」とは中国東北地方から朝鮮半島北部日本海側を含む広い地域の汎称であった。河野六郎(1993)が前提とした歴史時代以降の「貊」の東漸南下とそれに巻き込まれての「濊」の移動という仮説も、考古学的見地から否定されている。
田中俊明(2009)は「東沃沮」を「濊の一種」と見なしている。本稿で問題とするのは、濊の内の「東濊」のみである。
3.2.2.資料に見える濊の特徴
3.2.2.1.海民・水系民としての濊
早い時期の中国資料に見える濊は、一言で言って極めて「磯臭い」性格を持つ。紀年とし
て最古の記録である『逸周書』(戦国時代成書)「王会篇」は周の武王時の東北夷「穢人」朝貢の記事を載せるが、貢物は「前兒」であった37。「前兒」は田中俊明(2009)によれば、「オットセイ、ゴマフアザラシ、ラッコの類」とされる38。『呂氏春秋』「恃君覧」に「非濱之東、夷・穢之鄉、大解・陵魚」の記載がある39。田中俊明(2009)は「大解」は「大蟹」、「陵魚」は「海獣の一種」とする。『説文解字』(AD100 年成書)には、濊人が中国市場に流通させた多くの魚貝類、水産物加工食品が見える。以下の如くである40。
魵:魚名。出薉邪頭国。从魚分声41。「魚部」
鰕:魵也。从魚叚声。「魚部」
䲐:魚名。出楽浪潘国。从魚虜声。「 魚部」
鯜:魚名。出楽浪潘国。从魚妾声。「 魚部」
䰽:魚名。出楽浪潘国。从魚巿声。「魚部」
䱡:魚名。出楽浪潘国。从魚匊声。一曰䱡魚出江東、有兩乳。「魚部」
魦:魚名。出楽浪潘国。从魚,沙省声42。「魚部」
鱳:魚名。出楽浪潘国。从魚楽声。「魚部」
鰅:魚名。皮有文、出楽浪東暆。神爵四年、初捕收輸考工。周成王時、揚州獻鰅。从
魚禺声。「魚部」
�
�:水蟲也。薉貉之民食之。从黽奚声。「 黽部」
35 以下3.2.の記述は、『東夷伝』の記述を中心に、吉本道雅(2009)、武田幸男(1997、1998、2020)、李成市(1997、2000)、田中俊明(2009)、周振鶴・游汝傑(2006/2015)等を参照した。
36 中国哲学書電子化計劃による。
37 『逸周書』はもともと周の記録であったものが、春秋時代の晋を経て、戦国時代の魏に継承された。古本『竹書紀年』と共に信憑性の高い資料である。平㔟隆郎(2020:69,151-152)参照。
38 BC11 世紀に濊人が遠路はるばる鎬京(陝西省西安市)まで朝貢に出向いたのは、それ以前、殷(商)の認可の下、斉から燕にかけて行っていた商業活動を、新たに中原の主となった周王権に認めてもらうためとしか考えられない。ということは濊人の中国における商業活動がBC11世紀を遥かに遡る殷代から行われていたことを間接的に物語る。
39 中国哲学書電子化計劃による。
「薉邪頭国」は『漢書』地理志の「楽浪郡邪頭昧県」である。また、田中俊明(2009)は、
『三国史記』高句麗本紀閔中王四年(AD49)九月条及び西川王一九年(288年)夏四月条の「東海人」による「鯨魚目」献上記事について、「東海人は濊人を指すのであろう」と述べている。
このように濊人は周から高句麗に至る王権に海産物を献上するのみならず、狩猟漁撈で
獲得したものを広く販売する商賈としての活動を行っていた。武田幸男(1989)は『広開土王碑文』の守墓人烟戸条の分析から「旧民の商賈」とした異種族民に「賈」とされる商品の物流に関わる、越境する濊人集団が存在したことを述べている。献上された海獣名からは、それが渤海に産する物なのか日本海に産する物なのか判然としない。しかし、漢代の「楽浪藩国」であるならば、それは、京畿道、忠清道、全羅道の黄海沿岸、江原道、慶尚道の日本海沿岸、及び朝鮮半島南海の多島海地域であることになる43。
3.2.3.濊の東渡と起源
周振鶴・游如傑(2006/2015:189-199)は、「古越語」地名の分布に触れた後、「不而(魏代以降「不耐」):楽浪郡、今朝鮮平安・咸鏡・黄海・江原道」「不其:琅邪郡、今山東省東南部・江蘇省東北部」「不夜:東莱郡、今山東省煙台」「不咸山:西晋代高句麗、今吉林省」のように、「不」に始まる西晋以前の古地名が連なっていることに触れ、「あるいは東北から朝鮮と山東の沿海には商の末裔と同じ種族の民族が居住していたと考えることができるかもしれない。上述の楽浪郡の不而県は不耐濊という少数民族から名を取ったものであり、不其・不夜・不咸も濊族系の氏族の名称である可能性が非常に高い」(ibid.198-199)と述べている。
40 中国哲学書電子化計劃による。
41 注解:魵魚也。釋魚曰:魵・鰕。謂魵魚一名鰕魚也。出薉邪頭国。陳氏魏志、范氏後漢書東夷傳皆曰:濊国海出班魚皮。今一統志朝鮮下亦云爾。班魚卽魵魚也。郭注爾雅云:出穢邪頭国。
42 注解:魦魚也。出樂浪潘國。從魚、沙省聲。詩小雅有鯊、則為中夏之魚、非遠方外國之魚明甚。葢詩自作沙字、吹沙小魚也。樂浪潘國之魚必出於海。自作魦字、其狀不可得而言也。
或云卽鮫魚。然魦鮫二篆不相連屬也。所加切。十七部。
43 「魵」は楽浪郡内の産物である。『説文解字』の「楽浪藩国」は漢四郡以前の称謂を継承しているのかも知れない。
注目すべき点は、「不」に始まる「濊族地名」について周振鶴・游如傑(2006/2015)が、
「於越、於稜」「句章、句注山」「姑蘇、姑熊夷」「烏程、烏傷」「余杭、余桃」「 無錫、蕪湖、無塩」といった「斉頭式」の、すなわち、接頭辞を持つ「古越語」系の地名への言及の中で述べている点である。 このことは、朝鮮半島へと東渡した濊人の言語が接頭辞を持つ言語であった可能性を示唆する。
これは、Janhunen(2003)が提起した日本語の起源に関す次の仮説を想起させる。
Pre-Proto-Japonic came from Coastal China. Japonic had originally a non-Altaic typology. Japonic had once a Sinitic typology.
Janhunen(2003)は「濊」については一言も触れていないが、筆者は「濊倭祖語」がSVO型語順及び接頭辞を持つ声調言語であったと想定する44。8世紀濊語の統語構造は既にアルタイ化していたと考えられるが、4章の語彙分析では、8世紀濊語も中国沿海から移動してきて以来、声調を保っていた言語である可能性を論ずることとする。
3.2.4.濊人の活動領域
紀元前後の楽浪に存在した現地系民族として確実に存在が確認できる民族は濊人である。
平壌楽浪古墳群から発掘された銀印には「夫租薉君」の印記があり、武田幸男(1997)は、夫沮(=沃沮)すなわち咸鏡道一帯から遠い平壌の地に埋葬されるほどに濊人が楽浪郡との関係を深めていた事実を指摘している。何よりも『東夷伝』濊条に次の記述がある。
自単単大山嶺以西属楽浪郡、自領以東七県、都尉主之。皆以濊為民。
単単大山嶺は今日の狼林山脈である。狼林山脈の東西が「皆以濊為民」であるという文を虚心坦懐に読めば、平安道、咸鏡道が濊人の居住地である、と読め、且つ彼らが租税、徭役を担う戸籍に登録された「民」であった、としか読めない45。
44 鹿児島方言、首里方言、平安・現代京都方言のような語声調を持つ言語を、中国語のようなcontour tone を持つ言語と共に「声調言語」と呼ぶ。韓語咸鏡道方言や東京方言は「高低アクセント言語」である。しかし、「平安アクセント」や韓国方言学における「声調方言」のような慣用的称謂はそのままそれに従う。
45 「自単単大山嶺以西属楽浪郡」で大きく切り、「皆以濊為民」の「皆」を「以東七県」の意と取るべき可能性を橋本繁慶北大学研究教授からご教示頂いた。その場合、濊人は朝鮮半島北部の日本海側に集中していたことになる。
以上は3世紀の記事だが、これに先立ち、BC128年には穢の南閭が漢に28万人を連れて投
降し蒼海郡設置に繋がった。武田幸男(1997:264-273)が述べるように、蒼海郡治は咸南咸興か永興に比定され、すでにBC2世紀に「中国名を持った濊人」が咸鏡南道で活動していたことが知られる46。
3 世紀の濊人の活動については、『東夷伝』韓条に「国出鉄、韓・濊・倭皆従取之」があ
り、朝鮮半島最南端で濊人が韓人、倭人と共に採鉄に従事していたことが知られる。後述するように、『東夷伝』韓条の馬韓五餘国中には濊人と韓人が共住していた集落名が確認され、濊の活動が3世紀に全羅北道高廠という黄海沿岸に確認される。
3~4世紀の濊人の活動領域を示す出土資料は、「晋率善濊佰長」の 駝紐銅印(金東鉉氏所蔵)である。田中俊明(2009)は、「 一九六六年二月に韓国の慶尚北道迎日郡新光面馬助里で、空色の硝子玉一〇余個とともに出土したもので、もとは墓ではないかと推定されている。印は銅製で、高さ二 ・ 五㎝、一辺の長さ二 ・ 三㎝、獣鈕である。いる。印は銅製で、高さ二 ・五㎝、一辺の長さ二 ・ 三㎝、獣鈕である。なおこの印の出土を通して、迎日地方まで、穢の住地が広がっていたことが確認される」と述べている。
武田幸男(1989:60)は『広開土王碑文』(414 年)の「守墓人烟戸条」の分析において、高句
麗の新領域の「韓・穢地域の種族支配」の観点から、旧百済以来の「韓穢異種族混在というさきの推定が推定だけに終わらず、確かに実在したことを積極的に証する」例として「舎蔦城の韓・穢」を挙げている。5世紀初頭の旧百済領に濊人が確実に存在したことが、出土資料から確認できる。
6 世紀について見ると、503年に百済王斯麻(武寧王)の命により倭国の工房に派遣され「隅
田八幡人物画像鏡」を作成し、即位前の継体に贈った際の派遣技術者「穢人今州利」が日本列島において確認される濊人の活動の痕跡が確認できる。
6 世紀の濊人の活動について『三国史記』の次の記述がある。
高句麗与穢人攻百済独山城、百済請救、王遣将軍朱玲領勁卒三千撃之、殺獲甚多。
巻四新羅本紀真興王九(548)年九月条
46 更にこれより90年遡る BC218年の「始皇東遊。至陽武博浪沙中、為盗所驚」『史記』「秦始皇本紀」の「盗」はよく知られるように濊人の「力士」である。韓の遺臣張良が淮陽(河南省)で礼を学んだ後、秦始皇暗殺のため「東見蒼海君」(『史記』「留侯世家」)して力士を得たが、蒼海君は漢代の「蒼海郡」の所在地にいた濊人君長であろう。張良は、咸鏡南道咸興か永興まで「東した」と考えられる。中原の中国人である張良が、秦始皇暗殺のための実行者を咸鏡南道の濊の君長のもとに得に行くということは、中国の郡県制が及ぶ遥か以前から濊人が交易相手である中国の情勢変化に通じて居り、行き来も繁かったことを意味する。張良が往復した河南省から咸鏡南道への道も濊人の商業ルートであったと考えられ、蒼海君も中国語を解していたと思われる。
吉本道雅(2009:35-36)は「近年の考古学的知見をも勘案すれば、江陵など江原道南部への新羅の文化的影響は夙に四世紀後半に認められるが、六世紀半ばには『濊人』はなお高句麗の指揮下に百済・新羅と交戦しえたのであり、江原道全域が新羅の支配化に入るのは、それ以降のことである」と述べている。
また、後述するように 6 世紀新羅に関する『梁書』の記述に明確な濊語要素が確認し得
る。『三国史記』には濊人は上記548年条を除いて「靺鞨」と表現される。『三国史記』に頻出する7世紀以前の「靺鞨」は、百済、新羅に侵攻を繰り返す蛮族として描かれる。
統一新羅以降も濊人は「靺鞨国民」の名で存在し続けた47。
3.2.5.濊人の民族誌
上述のように、濊人は、海民・内陸水系民として水産加工品の物流・販売に関わる、越境
する民である一方で、多様な生業に携わる民族であった48。
田中俊明(2009:436)は、『東夷伝』濊条の「其俗重山川。山川各有部分、不得妄相渉入」の「山川」についての注解で、「山や川を主体とするみずからの狩猟圏を排他的に利用するということは、狩猟民にとっては重要なことであったはずであり、濊も狩猟採集の民として、そのような習俗をもっていたのは当然であろう」とし、大林太良や泉靖一の研究を引用しつつ、アイヌやツングースとこれを比べている。しかし、こうしたありようを必ずしも北方に求める必要はなく、呉から南朝期の「山越」その他の華中・華南の山川沼沢にすむ諸族に見られる習俗であり得る49。
一方、武田幸男(1989)で述べられた5世紀の「韓濊混住」の「城」は、黄海沿岸の純然た
る農村であり、恐らくそこで濊人は韓人とともに水田農耕を行っていたと考えられる。
濊人は天文に通じていた。李成市(1997)は、星宿の観察に基づく濊人の天文知識について
詳細に論じている。また、『東夷伝』は濊が「果下馬」という馬を産するとしている。農耕、漁労の他、養蚕を行い、弓を産し、十月に天を祭って飲酒歌舞した。人々の性格はきまじめで嗜欲少なく、廉恥があって物乞いをせず、男女の衣服は丸襟で、男子は数センチの銀を繋いだアクセサリーを着けた。濊人の食生活に関する記載はほぼないに等しいが、上述の『説文解字』「黽部」の「𪓷:水蟲也。薉貉之民食之。从黽奚聲」は注意を引く。「𪓷」の正体は不明だが、海浜の「水蟲」を食べる習慣は、中国沿海に広く見られる。ユムシは韓国でも食品として消費される「水蟲」だが、山東省渤海沿岸でも「海腸子」と呼ばれて今日でも好んで食され、例えば、「韮菜海腸子」は煙台の名菜となっている。
47 巻第四十職官志・武官条に出る。「靺鞨国民」が濊人を指すことについては李成市(1997:25)参照。
48 『菅子』(戦国~漢代成書)揆度篇に「発朝鮮之文皮、一筴也」(中国哲学書電子化計劃)とある。原宗子(2009:104)は「発や朝鮮で採れる綺麗な毛皮が一つ」と解釈し、「中国文献で『朝鮮』の文字がはじめて見えるものだと、私は考えています」と述べている。「策」は「媒介機能を持つモノ」(ibid.104)とされる。菅仲が斉の桓公に献策した一節であるが、「綺麗な毛皮」は狩猟の産物であり、これらの狩猟・流通にも濊人が関与していたと考えられる。
49 狩猟民社会のみならず、律令でも「山川藪沢之利、公私共之(雑令・国内条)」とされた。三谷芳幸(2020:88)参照。
石毛直道・ケネス=ラドル(1990:91)は、ナレズシの分布図を示しつつ、中国から朝鮮半島
の大部分を、「かつてはナレズシが存在していた」地域として点線で示す一方、東南アジア、朝鮮半島中部以北の日本海沿岸地域、琉球文化圏を除く九州から東北北端までを実線で囲み、「今日でも伝統的ナレズシが存在する」地域として示す。朝鮮半島におけるこのナレズシ分布と、『東夷伝』その他の資料に見られる濊の中心地はきれいに重なっている。石毛直道・ケネス=ラドル(1990)はナレズシを「水田漁業」の特徴と位置付ける。朝鮮半島日本海側は水田適地ではなく、このため乳酸菌発酵のスターターは米飯でなく粟飯を用いる。黄慧性(1982:257)は、カレイを粟飯で漬けこむ咸鏡道のナレズシを写真と共に示している。石毛直道・ケネス=ラドル(1990)は、太白山脈以東の朝鮮半島に米飯のナレズシが存在したとする。一方、黄慧性・石毛直道(1988:261-262)は中国から北回りのナレズシ伝播の別のルートを想定している。なぜ、濊の中心地である咸鏡道、江原道地域のみが、それも畑作物である粟の飯を用いてまで、ナレズシを今日に残したのであろうか。筆者は、華南の漢族の昆蟲食の例に見られるように、飲食文化は言語よりも遥かに根強く保たれることから、咸鏡道、江原道のナレズシを海民・内陸水系民である濊人の文化の残存であると看做す可能性も考慮すべきと考える。
このことは、濊人が東渡以前に、水田漁業文化を持っていたのか否かという問題とも関わ
り得る。濊人の漁撈・狩猟民的性格と合わせて、濊人の朝鮮半島への渡来時期を考える上で是非とも深く考察すべき主題である。Janhunen(2003)の次の仮説:Japonic was the language of the Yayoi Culture. は、言語学的にはその年代は検証不能であるが、第6章に述べるようにその可能性は高いと考える。西周初期の濊人が海獣を貢物としていることは、恰も濊人がユーラシアの沿海を北から朝鮮半島に南下したかの如き印象を与える。しかしながら、後述の言語的特徴のみならず、やはり後述の3~5 世紀にかけて濊人と韓人が朝鮮半島西南部で一つの農村に共棲していた事実、及び上述の朝鮮半島の日本海側のナレズシの根強い残存を考えあわせれば、濊人の故地を大汶口文化圏、もしくは良渚文化圏に想定し得、水田農耕を知っていた濊人の一22派が濊倭語族のうち後に倭語派を形成するに至る言語を、日本列島にもたらしたと考える50。
3.2.6.濊人のリテラシーと名前
『東夷伝』濊条は「二郡有軍征賦調、供給役使、遇之如民」とする。田中俊明(2009:433)はこれを「二郡に軍事的徴発や賦調などの課税があれば、濊に対する待遇は、郡民と同様にした」と現代語訳している51。「民」とは戸籍に登録された、いわば漢・魏帝国の市民であり、濊人が中国語話者と同じような都市生活者としてのリテラシーを持っていたことを意味する。吉本道雅(2009:22)は「こうした現実が、郡吏・濊人の双方において異族への蔑称でもあった『貊』字を忌避させたものであろう。中原王朝で培われた華夷思想が周辺民族に及んだ結果ともいえる」と述べている。
3 世紀における濊人のこの漢字のリテラシーは、同時期の邪馬台国とは対蹠的である。帯
方郡への遣使が偶々魏の公孫氏討滅と重なり、何かよく分からないまま首都まで朝貢する
ことになり、「親魏倭王」の金印を貰って来た卑弥呼の使者が、帯方郡守劉夏や、公孫氏時代から東方業務を担ってきた帯方郡官吏に「卑弥呼」「卑狗」などの貶義字を文書に使われても何も分からなかったことと比較すれば、濊人の漢字リテラシーは相当に高かったと考えられる52。
そもそも物流と港津管理に携わる上で、文字の使用は不可欠である。濊人の活動を示す出
土資料は、上述のように、日本海岸は慶尚北道迎日郡まで、また後述するように、濊語地名は慶尚南道泗川郡、全羅北道高敞郡に及ぶ。高敞には東晋との交易の出土資料があり、また、沖ノ島祭祀との関連が指摘される竹幕洞遺跡は、高敞に隣接する扶安郡にある53。朝鮮半島全域における港津管理に、海民である濊人が、その漢字リテラシーを以て従事していたものと考えることができる。
『東夷伝』濊条によれば、濊人は「同姓不婚」の習俗を持っていたとされる。「漢字漢文
を取り入れたのにも関わらず同姓不婚を採用しなかった」民族は多々あれど、その逆は存在しない54。
50 ここで注目されるのは、核DNA解析から「日本人」の起源を論じた斎藤成也(2017)であ
る。斎藤成也(2017:165-169)は「ヤポネシアへの三段階渡来モデル」を提唱するが、そのうちの「海の民」の渡来のルートは、濊人の渡来ルートとして想定される行跡と一致するように思われる。また、蔡鳳書(2002)参照。
51 この前に「遇之如民」とあるため、「濊人は郡民ではないが、徴発や課税の際には郡民同様に負担させた」と見るべきでないかとの指摘を橋本繁慶北大学研究教授から頂いた。歴史学の問題なので筆者は判断する識見を持たないが、「遇之如民」されるような文化水準を濊人が持っていたことは確実である。
52 卑弥呼遣使を238年と見るのは金文京(2020:342-372)による。
53 千田稔(2002:58-60)参照。
54 北魏が同姓不婚を奨励するのは、漢字漢文使用を開始してからずっと経った孝文帝(5世紀最末期)以降である。また、千数百年に亙って漢字漢文を受け入れ、今日も非中国語圏において唯一漢字を使用し続ける日本語話者集団も、同姓不婚はおろか、その基礎的社会単位である宗族さえ形成させなかった。
ここで早い時期の濊人の人名を見てみることにする。時代順に示す。
BC128 年
BC1年
AD10年
AD47年
AD258年
AD503年
南閭 『後漢書』
素牟 『三国史記』
厳尤 『漢書』
高失利55 『三国史記』
羅渇 『三国史記』
今州利 『須田八幡人物画像鏡』
これらの内、素牟のみが中国式姓名ではない56。これは、『三国史記』巻二十三百済本紀始祖十八(BC1)年条の「冬十月、靺鞨掩至、王帥兵逆戦七重河、虜獲酋長素牟送馬韓」に見える記事で、「素牟」は「酋長」の名とされる。しかし、高句麗、百済、新羅の人名が中国式姓名からは程遠い現地語名であるのに比べて濊人に中国姓が多く見られることは、朝鮮半島において、最も早く中国化し宗族を持ち、同姓不婚と華夷思想を内面化した民族が濊人であったことがはっきりと見て取れる。
3.3.仮説
上で示したJanhunen(2003)の一部を再度示せば以下の通りである。
Pre-Proto-Japonic came from Coastal China. Japonic had originally a non-Altaic typology. Japonic had once a Sinitic typology. The Korean tones are a Japonic feature.
Janhunen(2003:483)は、朝鮮半島における言語接触の結果、韓語が本来的声調言語であるProto-Japonic の影響により、二次的にアクセントを獲得したと看做している。
筆者はここに次の分岐を仮説として提示する。
55 高姓は『史記』「刺客列伝」の高漸離の如く燕人に多い姓である。なお、高句麗王姓の「高」は北燕皇帝の姓を冒したものである。もっとも北燕皇帝自身は高句麗の出身である。井上秀雄(1983Ⅱ:24)、三崎良章(2012:109)参照。
56 一方、南、厳などを含め全体として名の一部の可能性もあるとのご指摘を橋本繁慶北大
学研究教授から頂いた。しかし、倭や新羅の長々しい人名(最も表音表記に近いと考えられる『書紀』の例:新羅人「毛麻利𠮟智 モマリシチ mumarisɨti:朴堤上」、 高句麗人「伊梨柯須弥 イリカスミerikasumi:淵蓋蘇文」、また、神名であるが倭の「正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと」)に比べ、はるかに中国式に整えられた人名であり、また「今」以外は中国に現存する姓であるため今これらを姓と見る。
Proto-Japonic ― Continental Japonic/Yeic ― Ye language AD757~10c.(?)
― Insular Japonic/Japonic ― Japanese ― Ryukyuan ― Hachijo(?)
日本語では次の用語を提案する。
濊倭祖語 ― 大陸濊倭語・濊語派 ― 濊語~757年~10世紀(?)57
― 列島濊倭語・倭語派 ― 日本語 ― 琉球語 ― 八丈語(?)58
濊倭祖語が本来的声調言語であったなら、8世紀濊語も平安時代日本語のような声調言語であった可能性があり、両者の間には何らかの声調の対応が認められる可能性がある。以下では4章で「高句麗地名」の声調と平安時代日本語の対応関係を考察し、5章で「高句麗地名」以外の濊語地名について考察する。
57 10世紀初頭の新羅、渤海滅亡とそれらの遺民を吸収しての高麗成立、10世紀半ばの長白
山噴火及び後半に始まる契丹侵攻の中でプロトネーションとしてのKoreanが成立する過程
で、朝鮮半島全体の韓語化が進み、遅くとも10世紀の内に濊語は消滅したと考えられる。
58 八丈語の位置づけはペラール=トマ (2016:100)に拠る。
4.語彙分析
4.1.語彙の分類
上述のように、濊語が本来的に声調言語であったとの仮定のもと、濊倭同源語を第1音節
の平仄で分けて考察することとする。先ずは上代日本語との語形の比較から各語の分節音の濊倭祖語形とそれからの変化を再建し、その後、平安アクセント等の日本語アクセントと比較を試みる。
平声で始まる語を「平起語」、仄声で始まる語を「仄起語」とし、「仄起語」を更に上声に始まる語を「上起語」、去声に始まる語を「去起語」、入声に始まる語を「入起語」と仮称する。「韓訓」による訓借字表記は各語の記述の中で言及する。分析の結果、8世紀濊語表記の「平起語」は平安アクセントのL始まりの語に、「仄起語」は平安アクセントのH始まりの語に対応する傾向を示す。以下では先にそれらを分類し、対応しない例について後に言及することにする。
4.2.濊語平起語:平安アクセント L 始まりの語
4.2.1「五:*ytʃ」
「五谷郡[一云弓次云忽]」(黄海瑞興郡瑞興面)7259
正徳本は「弓」、乾隆本は「兮」に作る60。『新増東国輿地勝覧』末松保和(1937:9)は「于次呑忽」とする。高句麗地名の研究では高木雅弘(2016)が「高句麗地名」の数文字について異本校勘に基づく言及をしている。今、「于次呑忽」に従う。
音韻地位は以下の如くである。
于: 遇摂虞韻合口三等乙平声喩母 羽倶切
次: 止摂至韻三等甲開口去声清母 七四切
上代日本語形は、ituである。〈上代:81〉に「単独の例を見ず、万葉の例はみな接頭語の
厳いつの借訓文字として使われたもので、その中から帰納されるもの」とし「いつくさのたなつもの61:五穀」「いつつ:五」「いつとせ:五年」「いつもとやなぎ:五本の柳」の語が立項されている。「い:五十」との関係は不明である。
河野六郎(1972)、郭錫良(2010)及びBaxter-Sagar(2014)の順に中古音形を示せば次の通りである62。
于:*ɦïu, *ɣĭu, *hju
次:*ts’ii, *ts’i, *tshij
59 番号は伊藤英人(未公刊)「高句麗地名データベース」の番号である。「2~198」の順は『三国史記』の「高句麗地名」197地点の記載順である。
60 『三国史記』の現存伝本及び影印本は以下の通りである。「正徳本」は、正徳七壬申(1512)年慶州開版。洪武二十七(1394)年金居斗らによる。慶州(鶏林府)開版の伝本の摩滅の甚だしいのを見て正徳七壬申(1512)年刊行。「学東叢書」第一として学習院大学東洋文化研究所から影印刊行(昭和三十九1964年)された。昭和六(1931)年慶州玉山李氏本の原寸影印した古典刊行会本を縮小影印したものである。「乾隆本」は、乾隆三十六(1760)年は顕宗実録字(1677年頃鋳造)による活字本である。田中俊明(1980:82)はこれを「あまり充分な校勘といえるものではない」とし、正徳本を「現時点において手にし得るテキストとして最良(ibid.86)」であると述べており、本稿が依拠するのは「学東叢書」影印本である。また、代表的な校注・訳注として以下のものがある。『三国史記』、編纂刊行責任者:末松保和、学習院東洋文化研究所1964年。『三国史記・原文篇』校訳者:李丙燾 乙酉文化社 1977年。『三国史記』井上秀雄・鄭早苗訳注、平凡社1988年。「正徳本」には、「中宗本」「中宗七年本」など様々な呼び名があるが、顕宗実録字本で「乾隆本」を「顕宗本」などと恰も顕宗代に刊行されたように誤解を与える李朝王年号による呼称は用いず、刊記、序跋等の年号及び刊行地による。日本統治時代の資料は明治、大正、昭和及び京城等を用いる。以下同。
61 乙類は平仮名に下線で示す。
62 四声に関する情報は省略する。
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*itu 濊倭祖語 > *itju > *itʃu >*ytʃu>*ytʃ 8世紀濊語> itu 上代日本語
「*itu >*itju」は順行同化、「 *itju>*itʃu」は破擦音化、「 *itʃu >*ytʃu」はウムラウト、そして「*ytʃu>*ytʃ」は語末母音脱落を措定する63。「于次」の四声は「平去」である。
「いつ」のアクセントは挙例されていないので「いつつ」の日本語アクセントを示せば、
以下の如くである64。
「いつつ」LLH~LLL平安 > HLL現代京都
以上から、8世紀濊語表記「平去」と平安アクセントLLの対応を措定できる。
4.2.2.「 七重:nanənper」
「七重県[一云難隱別]」(京畿坡州郡積城面)36
伊藤英人(2019d)では、「七」と「重」に分けて論じたが、本稿では複合語「七重」一語として扱うこととする。音韻地位は以下の如くである。
難:山摂寒韻開口一等平声泥母 那干切
隠:臻摂隠韻開口三等乙上声影母 於謹切
別:山摂薛韻開口三等乙入声並母 皮列切
村山七郎(1962)、宋敏(1966)、李基文(1972)、板橋義三(2003)の指摘する如く、「難隠」はツングース祖語のnada-nと関連すると思われる65。
中古音形を示せば次の通りである。
難: *nân, *nɑn, *nan
63 琉球語首里方言における「人:*pitu>*pitju>piʧu(phichiu『語音翻訳』1501年)>*pʧu>tʧu /Qcu/現代首里方言」と似た変化を経たと考えられる。
64 日本語アクセントは秋永一枝他(1997)による。
65 ツングース祖語形はStarostin, et al.(2010)による。
隠: *‣ïən, *ən, *j+n
別: *b’ï(w)ät, *bĭet, *biet
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*nananper 濊倭祖語 > *nanənper66 8世紀濊語 > nanafe 上代日本語
「七:*nanən」は、伊藤英人(1995:304,2013c:75)で指摘したように、「 終声の初声化」すなわち先行字の韻尾が後続字音節の頭子音になる現象が三国時代漢字音に遡ることが確認される点で重要な例でもある。すなわち、*nan-ən>*na-nənの如くである。
「別」の字音については、山臻摂入声韻尾の流音化が三国時代に起っていたかが最も重要
な問題となる。伊藤英人(2019d:378-389,413-414)で述べたように、筆者は三国時代に流音化が起っていたと考える。「城邑」を表す語の 3 世紀から三国時代にかけての音韻変化、「卑離:*peri (3世紀 『東夷伝』) > 伐~火~㶱:per三国時代)が傍証となる67。出土資料からは「集落」を示す「火」と「伐」が同一形態素perを表したことを知り得る。527年の蔚州鳳坪里新羅碑の「居伐牟羅」の「伐」が出土資料から確認できることから6世紀前半には、広義の朝鮮半島漢字音で山臻摂入声韻尾の流音化が生じていたとしか考えられない68。
*nanan>nana, *per>fe の変化は語末子音脱落を措定する。
「七重」の上代日本語形は nanafeである。日本語のアクセントは次の通りである。
「ななへ」LLH 平安アクセント69 >HHL現代京都
以上から、8世紀濊語表記「平上入」と日本語アクセントLLHの対応を措定できる。
4.2.3.「 兎:*usjɛgam」
「兎山県本高句麗烏斯含達県」(黄海金川郡兎山面)49
66 nanənper をnanəmpər と再建すると、pər は 15 世紀韓語pʌrHの古代韓語遡及形と音義の点で完全に一致する。8 世紀濊語の声調の分析は次稿に譲るが、8 世紀濊語のper~*pər「重」を韓語が借用したとも考えられる。
67 南豊鉉(2014:72-73)参照。
68 韓国国字「㶱」の諧声符が「本」であるなら、-n 韻尾の流音化も考慮に入れる必要がある。
69 『日本書紀』人皇巻声点。院政期以前(時に鎌倉以降の声点を含む)。 秋永一枝他(1997)参照。
李基文(1968)はニヴフ語osk、板橋義三(2003)は ニヴフ語 oskeに、村山七郎(1962)はトル
コ語tawiʒˇɣanとの関係にも言及している。音韻地位は以下の如くである。
烏:遇摂模韻合口一等平声影母 哀都切
斯:止摂支韻開口三等甲平声心母 息移切
含:咸摂覃韻開口一等平声匣母 湖南切
中古音形を示せば次の通りである。
烏:*‣o, *o, *’u
斯:*siie, *sĭe, *sje
含:*ɣâ̖m, *ɣɒm, *hom
「兎」の上代日本語形は、usagi~wosagi(万葉集3529:「乎佐芸」)である。
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*wosigam 濊倭祖語 > *usjɛgam 8世紀濊語> wosagi~usagi 上代日本語
*wosigam > wosagi~usagiの変化は、metathesis及び語末子音脱落を措定する。
「うさぎ」の平安アクセントはLHHである。*wosigam > usjɛgamは、後述のsima>
*sjɛma(島)と同様の音韻変化であると看做される。
「うさぎ」LHH 平安 > LLH 現代京都
以上から、8世紀濊語表記「平平平」と平安アクセントLHHの対応を措定できる。
4.2.4.「心:*kər」
「心岳城本居尸𡊠」(鴨渌以北 不明)184
板橋義三(2003)は、満州語 huhun(乳、乳房)、エヴェンキ語 ukun(乳)との関係に言及するが、Strostin, et al.(2010:230)はモンゴル祖語kökön(breast),ツングース祖語kuku-nと上代日本語 kököröを同系語と看做していない。音韻地位は以下の如くである。
居:遇摂魚韻開口三等乙平声見母 九魚切
尸:止摂脂韻開口三等甲平声審母 式脂切
中古音形を示せば次の通りである。
居: kïo, kĭo, kjo
尸: śii, ɕi, syij
「居」の属する魚韻について河野六郎(1964-1967/1979:494)は「魚韻は、円唇性はあったにしても緩い、中舌の中母音であったのではないかと考えられる」とし、魚韻三等乙に-ïöを再建している。これに従い、「 居」の音価をkəと見る。
「尸」は地名改正と同時期である8世紀半ばに新羅で記された郷札表記では -rs~-rh~-rを表す音借字として使用された70。 兪昌均・橋本万太郎(1973)が上古音との関連を指摘している。Baxter-Sagar(2014)の上古音形はl̥ [ə]j である。「尸」が「履」「屍」の諧声符に成り得ることからsl-のような摩擦音・流音の複声母もしくは無声のl̥ -声母が措定される訳である。
楽浪郡に(後には帯方郡にも)両漢時代以来伝えられてきた古音の残存であり、757年と同時
期の新羅で盛んに-rs~rh~-r の表記に使用された「尸」には音節末音-r を措定するのが妥当である71。
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
kəkərə 濊倭祖語 > kər 8世紀濊語> kökörö 上代日本語kəkərə > kər の音韻変化にはhaplology及び語末母音脱落を措定する。
「こころ」の平安アクセントはLLHである。「こころ」LLH平安 > HLL 現代京都
以上から、8世紀濊語表記「平平」と平安アクセントLLHの対応を措定できる。
4.3.濊語仄起語:平安アクセントH始まりの語
4.3.1.「水:me」
上起語の例から見ることにする。
70 伊藤英人(2021:288)参照。郷歌には「道尸kirh(道)」「秋察kəzərh(秋)」「浮良落尸葉如 ptɛratirs nip tahi(落ちるような葉のように)」 のような例が多く見られる。
71 麗代釈読字吐口訣では「尸」に起源する略体口訣字は-rʔを示している。伊藤英人(2012)は麗代に rh/rs>rʔの音韻変化があったと見てこれを「第一喉頭化」と称した。
「川」「水」「井」に「買」が対応する以下のような例がある。
「買=川」
南川県一云南買4
述川郡一云省知買7
泉川口県一云於乙買串38
伊川県本高句麗伊珍買県(江原伊川郡伊川面)52
橫川県一云於斯買95
深川県一云伏斯買102
狌川郡一云也尸買107
「買=水」
買忽一云水城18
水谷城県一云買旦忽68
水入県一云買伊県117
「買=井」
泉井郡一云於乙買129
仁川に相当する「買召忽県[一云弥鄒忽]」も「水」に関連する可能性があり、「買」の再建音を考える際重要であるが二重表記でないので考慮の外に置く。
「井」と「川」が同語根に起源し意味分化を起こす例としては琉球語首里方言のkaa(井
戸)とkaara(川)が参考になる。
なお、「川=買」は以下の新羅地名、百済地名にも現れる。
清川県本薩買県(忠北槐山郡青川面) 巻三十四「尚州」
其買県[一云林川]卷第三十七 雜志 第六「熊川州」
崔南熙(1999a)、都守熙(2005b)、兪昌均(1980)は15世紀韓語mɨrHと関連付け、李基文(1968)は更にエヴェンキ語mū(水)、中世蒙古語mören(江)と関連付ける。
まず、主に韓国の研究者によって主張される「買」と韓語の関連について見てみよう。
15 世紀韓語の「水」はmɨrHである。古代語形を求めればmerが再建される72。この他に、
72 伊藤英人(2019d)では言及出来なかったが、「高句麗地名:漢州」に「德水縣本高句麗德勿縣(京畿開豊郡中面德水縣)61」が存在する。これが15世紀韓語mɨrHに繋がる語であることは疑いを容れない。また、「新羅地名:康州」に「泗水縣本史勿縣(慶南泗川郡泗川邑)」がある。前者は、漢城百済の故地に近く、後者は旧伽耶である。筆者は百済民衆韓語及び伽耶韓語では、唇音に続くeが同化によりuに変化し、慶州盆地の新羅韓語ではそれが起こらなかったのではないかと考えている。傍証となるのは、『東夷伝』の「卑離」を継承する「城邑」を表す語が、「新羅地名」では「per:伐~火~㶱 」になるのに対して、「百済地名」
韓語でさらに「水」を表す形態素に{ma}~{mɛ}と{mi}が存在し、maiとmirが再建できる。
民俗学の李 Kyengyep(2003:162)によれば、全北蝟島では潮水の干満を表す単位として「hanma, tu ma, sə ma~iər ma」が用いられ、忠清道北部では「han mɛ, tu mɛ, sə mɛ…」が用いられる。都守熙(2005b:176)は 1957 年度の西海島嶼調査報告を引き、群山群島の於青島で「初一日 irkupmai[ilgummɛ], 初二日 iətərp mai…」のように干満の潮位が数えられることを述べ、これを高句麗地名語「買」と関連づける。このように潮位単位名詞 ma~mɛは古形maiに遡り得、「買」と関係のある可能性がある73。
さらに、古代韓語の「水」にはmir の語形も再建できる。「 芹 minari」「 柄海鞘 mitətək」からmirが再建され得、「水」の古代韓語としてmer~*mirを再建し得る74。
次に、濊倭同系説の観点から「買」を考えてみる。音韻地位は以下の如くである。
買:蟹摂蟹韻開口二等上声明母 莫蟹切中古音形を示せば次の通りである。
買:m(w)ai, mai, mea
「買」の音借字を「尸」のような上古音の残滓の例と看做すと、「買」は之部に属し、主
母音に高母音を措定し得、且つ流音韻尾を措定することが出来ない。故に「買」を「百済民衆韓語」を含む15世紀韓語mɨr、及び複合語に化石的に残存するmirに繋がる語と看做す
ことは不可能である。
一方、日本語との対応で考えると、服部四郎(2018:318)が「みづ」の祖語形にmeduを建
てることが参考になる75。
では「puri:夫里」になることである。伊藤英人(2019d:415)で上代日本語の「こほり:郡」について次のように述べた(一部「MK→15世紀韓語」のように本稿の用語に合わせて修正した)。「 上代日本語の「郡・評:こほり」は、百済民衆韓語kəpuri(大きな集落)の借用と看做し得る。問題は15世紀韓語 kʌorh LL(郡・邑)に至る音韻変化の説明である。以下の音韻変化を仮定する。*kəper(新羅韓語)>*kʌpʌr(母音推移・順行同化)>*kʌvʌr(lenition)>>kʌorLL(15 世紀韓語) >koɨr~kor(現代韓語)。 kʌorh LL 末音のh(『杜詩諺解』重刊本にはkʌorkhの例もある)の説明は難しい」。上記2地名は百済民衆韓語「水:mur」を表したものと考える。なお、韓語とは系統を異にすると推定される百済王族語の「城邑」を表す語は「kï:己」であり、これは上代日本語に「城:き(~き)」として「城」を表す単独語として借用され、更に「みづき:水城」「いなき:稲城」「いはき:石城」「おくつき:奥城」などの複合語を作った。河野六郎(1993)は「きづく:築く」も「き(~き):城」を含む複合語と看做している。
73「買」の再建音を中古音的な広母音と見た場合である。
74 崔南熙(2005)は minari(芹)、 mitətək(柄海鞘)、 mikkuraci(泥鰌)からmiを措定する。また、千素英(1990:182-192)参照。3 例中、minariとmitətəkは dentalの前でのr脱落が考えられる。一方、kの前でのr脱落例には慶尚道方言「tɨkata<tɨr-kata:入る」がある。
75 服部四郎(2018:324)はme(水)を再建している。
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*me 濊倭祖語 > *me 8世紀濊語 > *me(du) > *midu~*mi 上代日本語
「みづ」と「み」を含む日本語のアクセントは以下の如くである。
「みづ 水」 HH 平安アクセント > HH 現代京都
「みぎは 汀」 HHH 平安アクセント > HHH 現代京都
「みづあひ 水合」 HHHH平安アクセント
「みづうみ 湖」 HHLH平安アクセント > HHLL現代京都
「みづかき水掻」 HHHL平安アクセント > HHH L~LLLH 現代京都
「みづかね 水銀」 HHLL 平安アクセント
「みづがめ 水瓶」 HHHH平安アクセント > HHHH 現代京都
「みと 水門」 HH 平安アクセント
「みなと 水門・港」HHH 平安アクセント > HHH現代京都
「みなもと 源」 HHHH平安アクセント > HHHH現代京都
以上から、8世紀濊語表記「仄(上)」と平安アクセントHの対応を措定できる。
4.3.2.「鉛:*namur」
「鴨渌水以北逃城七(簡略)鈆城本乃勿忽」(不明)189
この語は古くから注目を引いた。2017年に公刊された学習院大学東洋文化研究所(2017)小
倉進平博士原稿『語彙-新羅及高麗時代』で夙に「乃勿naimurは鉛の古訓と見られる。而して国語の「ナマリ」と其の源を茲に発するものではなからうか」と述べられている。先行研究の解釈は伊藤英人(2019d)で詳述したので繰り返さない。また、李基文(1972/1975)、南豊鉉(1981)に言われるように13世紀成書の『郷薬救急方』では「鉛」を「那勿」とし、高麗時代まで開城で「乃勿」系統の語が使われていたことが分かる。
音韻地位は以下の如くである。
乃:蟹摂海韻開口一等上声泥母 奴亥切
勿:臻摂物韻開合三等乙入声明母 文弗切
中古音形を示せば次の通りである。
乃:*nâ̖ i, *nɒi, *noj
勿:*m(w)īət, *mĭəˇt, mjut
『郷薬救急方』の「那勿」は、13世紀まで韓語と日本語に共通する語形を「鉛」が有して
いたことを物語る。「那勿」を参照して第一音節をna-と再建する76 。「勿」では「別」同様、臻摂入声韻尾の流音化が起っていたと看做す。
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*namari 濊倭祖語 >*namər77> *namur 8世紀濊語> namari 上代日本語
namari > namurの変化は円唇順行同化と語末母音脱落を措定する。
「なまり」の日本語のアクセントは以下の如くである。
「なまり」 HHL~LHL78 平安アクセント > LHL 現代京都
以上から、8世紀濊語表記「上入」と平安アクセントHHL~LHLの対応を措定できる。
4.3.3.「三:mir」
「三峴県[一云密波兮]」(江原楊口郡方山面)106
この語と日本語「三:み~みつ」の関係は内藤湖南(1907)以来、繰り返し言及されてきた。
伊藤英人(2019:d380-381)で述べたように、先行研究では、再建形の音節末子音を-r/-lと解釈するか、-tと解釈するか、或いは寄生母音-Vを措定するかの差が見られる。
「三」を表す「高句麗地名」中の韓語要素には「三陟郡本悉直国(江原三陟郡三陟邑)165」
で「三:悉」の対応が見られ、伊藤英人(2019d:403)で「*sɛk古代韓語> səkR ~ səihR15世紀韓語」を措定した。
これは、入起語の例である。音韻地位は以下の如くである。
76 倭語の古韓音では「乃」は上古音の面影を残すnöとなる。
77 *namər の語形の可能性は、本稿の草稿を読んで下さった河崎啓剛東京大学准教授のご指摘による(p.c.2021年2月24日)。
78 観智院本『類聚名義抄』でHHLになる(秋永一枝他1997:363)。福井玲東京大学教授から、現代諸方言との対応関係から見ると観智院本のアクセントは信じるに足りない可能性がある旨のご教示を頂戴した(pc.2020年4月17日朝鮮語286回研究会席上)。
34
密:臻摂質韻開合三等乙入声明母 美筆切
中古音形を示せば次の通りである。
密:*mï(w)ět, *mĭět, *mit
上代日本語の「三」はmi~mituである。
ここでも臻摂入声韻尾の流音化を認め、濊倭祖語から 8 世紀濊語と上代日本語への音
韻変化を次のように措定する。
*mir 濊倭祖語 > *mir 8世紀濊語
> mi 上代日本語
「みつ」及び「み」を含む複合語の日本語のアクセントは以下の如くである。
「みつ 三」 HL 平安アクセント > HL 現代京都
「みそ 三十」 HL平安アクセント
「みつまた 三叉」HHHH 平安アクセント > LLLH 現代京都
「みところ 三所」HLLL平安アクセント
「みほ 三百」 HL平安アクセント
以上から、8世紀濊語表記「仄(入)」と平安アクセントHの対応を措定できる。
「高句麗地名」でなく新羅地名にも「三:*mir」を認めることが出来る。それは次の例で
ある。
「玄驍県本推良火[一云三良火]」(慶北達城郡玄風面) 巻三十四
これは韓訓表記と濊訓表記が共存する珍しい例である。2.2.2.で述べたように、「密城郡本推火郡」『三国史記』地理志「良州」から、「密=推」(古代韓語「推す」*mir->15世紀韓語mir-R)が再建される。また「良」は、新羅の借字表記法において、連用形語尾{-a}(15世紀韓語の{-a/-ə}に相当する)を表記するのに使用される79。この表記は新羅韓語の表記に慣れ、且つ濊語の濊訓も知悉した人物の手になるものであると考えられる。筆者は、古代韓語は無声調言語だったと考えるため、古代韓語アクセントと日本語の関係については
79 筆者は古代韓語に母音調和はなく、連用形語尾は{-a}のみであったと考える。
35
言及しない80。
4.3.4.「 口:*kurtʃi~kutʃi 」
「忽次=口」
「獐項口県[一云古斯也忽次]」(京畿始興郡秀岩面安山)26
「楊口郡[一云要隠忽次]」(江原楊口郡楊口面)103
「古次=口」
「穴口県[一云甲比古次]」(京畿江華郡江華面) 63
「串=口」
「泉川口県[一云於乙買串]」(京畿坡州郡交河面) 38
仄起語(上声及び入声)及び韓訓表記が混在する例である。
まず、韓訓表記から見ていくこととする。
「串」の15世紀韓語はkocLである。その古代韓語形はkutsとなる。また上代日本語の
「クシ=串」は、古代韓語からの借用語と見るべきであろう。河野六郎(1949/1979Ⅰ:557-562)は15 世紀韓語の/o/と日本語の/u/の母音対応として「kura 谷:kor谷」「kusa 草: koc花」「kusi 串:koc 串」「kufa-si :美 kop~kof美」「fuku 河豚:pok 河豚」「kudira 鯨:korai鯨」「suka-su 賺す:sok-欺かれる」の例を挙げているが、これらは借用語であると考えられる81。これらは古代韓語においては/u/であり、15 世紀までに韓語で生じた母音推移によってこうした対応を示すことになったと考えられている。現代韓語でも「串」は字音koanとは別に地名においてはkocと訓読みし「岬」の意味に用いる82。
次に「忽次=口」(入起語)、「古次=口」(上起語)の二つの音借字表記について見てみよう。
音韻地位は以下の如くである。
忽:臻摂没韻合口一等入声暁母 呼骨切
古:遇摂姥韻合口一等上声見母 公戸切
80 Ramsey (1991)参照。15 世紀韓語の上声語の古代韓語におけるlengthの問題は別途考察する必要がある。また、Lee,Ramsey(2011:168-169)及び福井玲(2013:162)参照。
81 福井玲(2020)参照。
82 黄海道長山串はcaŋsankocと読まれる。谷川健一(2010:91)は九州西岸及び四国に「くし~串」を含む「海岸の突出部」地名を挙げている。「くし」で終わる地名のみを挙げれば以下の如くである。鹿児島県「小串:志布志湾から大隅半島にさいかかるあたり」「瀬々串:喜入町」「久志:坊津」「幣串:長島」、熊本県「串:大矢野島」「高串:上島龍岳町」「小串:下島五和町」、長崎県「櫛:対馬上県郡」、愛媛県「串:佐多岬半島」「家の串:北宇和島郡」。
朝鮮半島地名「串」との関連を考え得る。
36
次:止摂至韻三等甲開口去声清母 七四切
中古音形を示せば次の通りである。
忽: *xuət, *xuət, *xwot
古: *ko, *ku, *ku
次: *ts’ii, *ts’i, tshij
板橋義三(2003:145)は、xurc~kurc ~kʊci:日 kutiの対応を示しつつ、「 この語は従来
日本語との比較で最も重要なものとして考えられてきた。この高句麗語の語とともにその
異形態kʊci(古次)が存在することで古代日本語の形態素との比較がより信憑性を増したと
考えられる」と述べている。また村山七郎(1962)は「于次=五」「次若=首=ツノ」の例と共に「高句麗語」におけるtの破擦音化の例と見ている。
筆者は、「 忽次」にkurtʃi, 「串」「 古次」にkutʃiを再建する。濊語字音には牙音と喉音の別が存在しなかったと考えられる。
「忽」については、ここでも臻摂入声韻尾の流音化を認め、濊倭祖語から8世紀濊語と上
代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*kurti 濊倭祖語 >*kurtʃi~*kutʃi 8 世紀濊語
> kuti
上代日本語83
「くち」の日本語のアクセントは以下の如くである。
「くち」HH 平安アクセント > HH 現代京都
ここでも8世紀濊語表記の仄起語(入去・上去)」と平安アクセントHHの対応を措定で
きる。
4.3.5.「十:*tək」
「十谷県[一云徳頓忽]」(黄海谷山郡谷山面)69
仄起語中、入起語の例である。音韻地位は以下の如くである。
83 河崎啓剛東京大学准教授から「くち」の被覆形「くつ-」(轡くつわHHH、轡くつばみ
HHHH)を考慮すべきとのご指摘を頂戴した。尚、後攷に俟つ。
37
38
徳:曽摂徳韻開口一等入声端母 多則切
中古音形を示せば次の通りである。
徳:*tək’, *təˇk, *tok
上代日本語の「十」はtöwo~töである。高木雅弘(2016)は、「トヲ」をtöwoと言ったのは、
「トヲカ」の「~カ」の隠された母音(ウ)カ(例:ムユカ)により、「*tö+uka>tö.wuka>töwoka)」の音韻変化があった結果とする。上代日本語の「十握剣 tötukanöturugi」からも「十:ト」の存在が知り得る。
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*tək 濊倭祖語 > *tək 8世紀濊語> tö 上代日本語
「十」を含む日本語アクセントは次の通りである。
「とつか 十束」 HHH 平安アクセント84
「とをか 十日」 HHH平安アクセント85 > HHH 現代京都
「とつか」には「と#つか」の形態素境界が措定できるため、上代日本語の*töHを再建し
得る。ここでも8世紀濊語表記の仄起語(入声)と平安アクセントHの対応を措定できる。
4.3.6.「穴:*kapi」
「甲比=穴」
「穴口県[一云甲比古次]」(京畿江華郡江華面)63
「押=穴」
「猪䢘穴県[一云烏斯押]」(江原高城郡長箭邑)145
音韻地位は以下の如くである。
84 『日本書紀』神代巻声点。院政期以前(時に鎌倉以降の声点を含む)。秋永一枝他(1997)参照。
85 『日本書紀』人皇巻声点。院政期以前(時に鎌倉以降の声点を含む)。秋永一枝他(1997)参照。
甲:咸摂狎韻開口二等入声見母 古狎切
比:止摂旨韻開口三等甲上声幇母 卑履切
押:咸摂狎韻開口二等入声影母 烏甲切
中古音形を示せば次の通りである。
甲: *kap, *kap, *kaep
比: *pi(w)i, *pi, *pjij
押: *’ap,
*ap, *aep
村山七郎(1962)はトルコ語 qapiɣ(門)、qapča(峡谷)と、李基文(1968)は古代トルコ語
*kapiɣ(門)とも比較する。上代日本語の「峡」を表すkafiと比較し得る。
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*kapi 濊倭祖語 > *kapi ~*kap 8世紀濊語 > kafi 上代日本語
「かひ」の平安アクセントは以下の如くである。
「かひ」 HH 平安アクセント > HL 現代京都
ここでも8世紀濊語表記の仄起語(入上~入)と平安アクセントHの対応を措定できる。
4.4.濊語に平起語と仄起語の両表記が現れる例
4.4.1.「木:*ker」
「赤木県[一云沙非斤乙]」(江原淮陽郡蘭谷面)11986
「栗木郡[一云冬斯肹]」(京畿始興郡果川面)22
先行研究では常に日本語の「木」と比較され、板橋義三(2003)のみはオーストロネシア祖
語 *kahiu(木)とも比較した。音韻地位は以下の如くである。
86 「沙非」は上代日本語「söfo朱」、古代日本語の「sabi:錆」と比較されてきた。「さび錆」の平安アクセントはLL、「そほに 赭・赤土」の平安アクセントはLLL である。「高句麗地名」に更に「赤=沙伏」が、百済地名に「赤=所非」があるが、尚後攷に俟つ。
39
斤:臻摂欣韻開口三等乙平声見母 挙欣切
肹:臻摂質韻開口三等乙入声暁母 羲乙切
乙:臻摂質韻開口三等乙入声影母 於筆切
中古音形を示せば次の通りである。
斤: *kïən, *kĭən, *kjn
肹: *xïət, *xiět, ―
乙: *’ïět, *ĭět, ’it
「肹」「乙」の音節末音が問題となるが、前述の如く流音を再建する。同じく-rを再建し
得る「尸」を含み「高句麗地名」韓語要素に次のものがある。
「文峴県一云斤尸波兮114
「斤尸=文」の「斤尸」は、古代韓語 ker(>15世紀韓語kɨrH)と再建され、「斤乙」と
同音を表記する音借字と考え得る。また、咸安出土木簡にも訓主音従表記の「文尸」がある。
8 世紀新羅で表記された郷札では、accusativeは「乙」、未実現動名詞語尾は「尸」と区別されるが、「肹」は両方に用いられる。「肹」は新羅韓語の音借字表記に特有の音借字であり、新羅官吏の用字法であったと考えられる。故に8世紀濊語の牙音表記と捉え、次の音韻変化を措定する。
*kər 濊倭祖語 > ker 8世紀濊語87 > kəj > kï~kö 上代日本語88
平安アクセントは次の通りである。
「き 木」L 平安アクセント > R 現代京都
無声調言語である新羅韓語音借字の入声「肹」の声調を度外視するならば、これも「8世
紀濊語表記の平起語と平安アクセントLの対応と看做すことが可能になる。
87 古代韓語kereh>15世紀韓語kɨrɨhLL(木の切り株)と、この8世紀濊語に関係があるか
否か、韓語史の観点から考える必要があるかも知れない。
88 kəj はkər>kə に{-i}が付いたものと思われるが後攷に俟つ。なお、韓語にも「名詞語
幹末母音+{-i}」が存在すること(例:sʌcʌ-i-rʌr獅子を『釈譜詳節』) については伊藤英人(2018b)参照。
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4.4.2.「 谷:*tan~*tən」
「呑」
「五谷郡[一云弓次云忽]」 『新増東国輿地勝覧』で「呑」に(黄海瑞興郡瑞興面)72
「𢈴谷県[一云首乙呑]」(咸南安辺郡瑞谷面)123
「於支呑[一云翼谷]」(咸南安辺郡文山面梧山里方面)127
「旦」
「水谷城県[一云買旦忽]」(黄海新溪郡多栗面)68
「頓」
「十谷県[一云徳頓忽]」(黄海谷山郡谷山面)68
古くから日本語「たに」と比較されてきた語である。
分布から言うと、黄海・咸南・江原に集中し、京畿、忠清に存在しないことが特徴である
かもしれない。
音韻地位は以下の如くである。
呑:臻摂痕韻開口一等平声透母 吐根切
旦:山摂翰韻開口一等去声端母 得按切
頓:臻摂慁韻合口一等去声端母 都魂切
中古音形を示せば次の通りである。
呑:*t’ən, *t’ən, *thon
旦:*tân, *tɑn, *tan
頓:*tuən, *tuən, ―
「頓」の合口性が問題となるが、古代韓語「海:*patər:波旦」89を参照すれば、合口性を捨象して、*tənを再建し得る。また、山摂と臻摂の主母音の開口度が問題となるが、ここでは上代日本語の語形を勘案して、濊倭祖語から 8 世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*tani~*təni 濊倭祖語 > *tan~*tən 8世紀濊語 > tani 上代日本語
89 伊藤英人(2019d:402)参照。
41
平安アクセントは次の通りである。
「たに」平安アクセント LL > HL 現代京都
濊人の中心地である咸南の二地点及び黄海一地点に出る「呑」については8世紀濊語表記の平起語「平」と平安アクセントLLの対応と看做すことが可能になるが、黄海二地点の
「旦」「頓」については仄起語「去」と平安アクセントLLが対応することになる。
4.5.濊語表記の平仄と平安アクセントの対応が上述諸単語と異なるもの
4.5.1.「入:*i」
「水入県[一云買伊県]」(江原楊口郡水入面文登里)114
村山七郎(1962)、李基文(1968)、板橋義三(2003)は、ツングース語の「入る」、モンゴル語の「来る」との関係に言及している90。
音韻地位は以下の如くである。
伊:止摂脂韻開口三等乙甲平声影母 於脂切
中古音形を示せば次の通りである。
伊: *‣ïi/-*ii, *ĭei, ‘jij
筆者は「入る」の居体言「入り」からの変化形として見る。「入り」の上代日本語はiriで
ある91。
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*iri 濊倭祖語 > ii > i 8世紀濊語 > iri 上代日本語
これは、Vovin(2017)の見解を踏襲したものである92。
90 Starostin, et al. (2010) はモンゴル祖語īre-、ツングース祖語ī-を再建している。
91 「伊理」『記神武』〈上代:106〉。
92 Etymologies based on a single phoneme are always unreliable, but in this case we can suppose that process similar to the reduction of -r- in Ryukyuan has also taken place in the pseudo Koguryoic.(Vovin2017:28)
42
「入る」の平安アクセントは次の通りである。
「入る」HL 平安 > HH 現代京都
ここでは8世紀濊語表記の「平起語」の「平」が平安アクセントのH-と対応している。
4.5.2.「深:*puk-」
「深川県一云伏斯買」102
Beckwith(2004)は「斯」を「*si: adjective-attributive suffix morpheme」、Vovin(2017)は「伐ママ斯: *pot-se 斯-*se adjectival finite/attributive. /-t/ could be an assimilation of /-k/ under the influence of the following dental.93」と見なしているが、濊語の文法形態素を見ることは現時点では慎み、語幹のみについて見ることにする、
音韻地位は以下の如くである。
伏:通摂屋韻三等乙入声並母 房六切
斯:止摂支韻開口三等甲入声心母 息移切
上述の如く「斯」についての判断は保留し、「伏」の中古音形をの示せば次の通りである。
伏:*b’ïuk, bĭwəˇk, *bjuwk
語幹部分について、濊倭祖語から 8 世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措
定する。語幹末母音脱落の例と思われる。
*puka- 濊倭祖語 > *puk 8世紀濊語 > fuka- 上代日本語
「ふかし 深し」の平安アクセントは次の通りである。
「ふかし」LLF 平安アクセント
ここでは8世紀濊語表記の「仄起語」の「入」が平安アクセントのLLと対応している。
93 「伏」を「伐」と見間違えたものと思われる。
43
4.5.3.「蒜:*mer」
「䔉山県本高句麗買尸達県」(咸南元山市南部)128
「䔉山」の「䔉」を言語学的先行研究では「蒜」と看做すが、正徳本は「䔉」に作る。井
上秀雄(1986Ⅲ:191)も「䔉」とする。「䔉」は『類篇』で「草木疎貌」とあり、一方で「蒜」の異体字でもある94。今、「蒜」に従うが、諸本、他資料の確認を要する。
多くの先行研究が上代日本語 miraと比較するが、高木雅弘(2016)は「買尸は日本語のミ
ラと比較されてきたがヒル(蒜)と比較するのが妥当ではないか。Nbiru>mir(u)<mel, エ列乙
類の母音 ë(合成語では a と交替するもの)も高句麗語では流音になる」とし、宋敏(1966)、李基文(1968)、板橋義三(2003)は、15世紀韓語manʌrLH(大蒜)、モンゴル語 mangir(-sun)id.とも比較する。
朝鮮半島南部の咸安城山山城出土木簡(6世紀中~末)に「蒜尸」があり、権仁瀚(2018)
は中世韓語の manʌrLH(大蒜)に比定している。周知の如く、新羅語の漢字表記は語幹を訓で、語幹末音と語尾を音仮名(音借字)で書く「訓主音従」95の原則によるため、咸安山城出土木簡の「蒜尸」に中世韓語のmanʌrLH(大蒜)を宛てるのは可能である96。一方、「買尸」は音借字表記である97。李基文は「買=水」についてはmieを再建するのに「買尸」にはmairを再建しており、これは明らかに韓語形に引かれた再建であると思われる。
音韻地位は以下の如くである。
買:蟹摂蟹韻開口二等上声明母 莫蟹切
中古音形を示せば次の通りである。
買:*m(w)ai, *mai, mea
「水:me:買」で見た如く、「買」は上古音「之部」に属し、主母音に高母音を措定し得
る。「尸」は上述の如く-rを表すと看做す。
濊倭祖語から 8 世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。語末母音脱
落の例と思われる。
94 Hasimotho(2020)は月城垓字新出土木簡の地名を「䔉山」と釈読するが、これは咸南の「䔉山」とは異なる地点である。
95 金完鎮(1980)参照。
96 筆者は古代新羅韓語manərを再建する。
97 音借字表記が多くを占める点で「高句麗地名」の表記は「疎加鹵」「斯麻」などの音借字を多用する百済の漢字使用に似ている。
44
*mera 濊倭祖語 > *mer 8世紀濊語 > mira 上代日本語
上代日本語はmira(薤)である98。
「みら」を含む複合語の平安アクセントは次の通りである。
「みらのねぐさ 韮根草」LLLLLL~LLLLHL 平安アクセント
ここでは8世紀濊語表記の「仄起語」の「上」が平安アクセントのLLと対応している99。
4.5.4.「首:tʃinjak」
「牛首州首一作頭一云首次若一云烏根乃93
「首次若」の「首=牛」は古代韓語「牛:sju」である。村山七郎(1962)は、「次若tsunya
k<tunyak(首~頭):tuno(角)」について、「地名では牛・頭とあるが牛・角のことであろう」とする。板橋義三(2003)はciniaを再建し、インドネシア祖語tunuと比較する。村山七郎(1962)はt の破擦音化の例として「于次=五」「古次/忽次」とこれの3例を挙げる。
「韓語+濊語」の混種語地名になるが、後述するように『東夷伝』には既に「牟盧」と「卑離」のような韓濊、濊韓混種語地名は多く見られるので、この例も「韓+濊」地名と解する。「首」の「角」の意味の差が問題となるが、上記割注によれば「牛頭州」にも作るとする。「牛首」は神農氏の特徴でもあり、「牛首」「牛頭」は仏典に出る語である100。
音韻地位は以下の如くである。
次:止摂至韻三等甲開口去声清母 七四切
若:宕摂薬韻開口三等甲日母 而灼切
中古音は次の通りである。
次: *ts’ii, *ts’i, *tshij
98 「美良」『記神武』〈上代:718〉
99 一方、上代語 firu(比流『記応神』〈上代:626〉)の平安アクセントはHHであり、声調に関しては8世紀濊語とよく対応する。高木説を再考すべきか尚後攷に俟つ。
100 法雲(467-529)『法華義記』に「牛首有両角」があり、「角」の意を採ることにある程度納得は行く。「大正新修大蔵経テキストデータベース」参照。牛頭天王と曽尸茂梨の関係、特に曽尸茂梨の言語学的解釈については本稿では触れない。
45
若: *ńźiâk, *nʑĭak, *njak
濊倭祖語から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を次のように措定する。
*tunjak 濊倭祖語 > *tinjak > *tʃinjak 8世紀濊語 > *tunak > *tunaw > tuno 上代日本語
*tunjak > *tinjak は逆行同化、*tinjak > *tʃinjakの変化は破擦音化である。
「つの」の平安アクセントは次の通りである。
「つの 角」LL 平安アクセント > HL 現代京都
ここでは8世紀濊語表記の「仄起語」の「去入」が平安アクセントのLLと対応している。
4.5.5.「池:*nami」
「內米忽[一云池城一云長池]」(黄海海州市)73
村山七郎(1962)、宋敏(1966)、李基文(1968)、板橋義三(2003)いずれも、ツングース諸語の海を表す語及び日本語の「なみ 波」と比較してきた101。
音韻地位は以下の如くである。
内:蟹摂隊韻合口一等去声泥母 奴対切
米:蟹摂薺韻開口四等上声明母 莫礼切
中古音は次の通りである。
内: *nuậi, *nuɒi, *nwoj
米: *m(iw)ei, *miei, *mej
しかし、「海・波」と「池」は意味が遠いことは事実であり、むしろ、ツングース諸語と
日本語の比較言語学的研究に乗る形で「高句麗地名」の「池=内米」が見出された感が否め
101 Starostin(2010:866)によるツングース祖語再建形は *lāmu(sea, wave)である。
46
ない。仮に第1音節の合口性を度外視し、「池」と「波」の意味の差に目を瞑って濊倭祖語
から8世紀濊語と上代日本語への音韻変化を措定するとすれば次の如くである。
*nami 濊倭祖語 >*nami (池)8世紀濊語 > nami (波)上代日本語
「波」の上代日本語はnami(那美『記神代』〈上代:533〉である。
「なみ」の平安アクセントは次の通りである。
「なみ 波」LL > HL 現代京都
8 世紀濊語表記の「仄起語」の「去上」が平安アクセントのLLと対応している。
「波」に関連するか否かは措くとして、ヴォヴィン(2015)が指摘した日琉祖語へのタイ・
カダイ語からの借用語 rnam(水)>naL(水)の可能性は念頭においておく必要がある102。
「水」に関係する可能性のある「な」を含む平安アクセントは、確かに「ながる 流 LLF」
「なぎ水葱 LL」「なぎさ 渚 LLL」「なづむ 泥 LLF」「なみ 波 LL」「なみだ 涙 LLH」の
ように L に始まる。河野六郎(1945/1979:236)は韓語の「川」を意味するkara,kari(>kai H
15 世紀韓語)及びkʌl-(>kʌrʌm LH 15世紀韓語)について「或る動詞語幹√kal-~kʌl
(cf. 国語 na-garu, sa-karu)から派生したものかも知れぬ」と述べている。河野六郎(194
5/1979)は na の語義を述べていないが、これを「*na(水)+karu(離れる)」の複合語とすれば、タイ・カダイ語からの借用語 *rnam(水)>na L(水)の例となり得るのみならず、河野六郎(1945/1979)の説くように韓語の√kal-~kʌl-を措定するならば、「 ながる」は濊倭・韓混種語の例になる。濊倭祖語話者集団が中国東海岸から朝鮮半島を経て日本列島にも到達したとすれば、声調を含む形態素分析未詳の例ではあるものの、8世紀濊語の「池 *nami」との関連も今後検討される必要があると思われる。
4.6.この章のまとめ
以上をまとめると以下の如くである。
① 濊語平起語が平安アクセントL始まりの語に対応する例
「五:*ytʃ」平去/LL、「七重:*nanənper」平上入/LLH、「兎:*usjɛgam」平平平/LHH、「心:*kər」平-/LLH
② 濊語仄起語が平安アクセントH始まりの語に対応する例
「水:*me」上/H-、「鉛:*namur」上入/ HHL(~LHL)、「三:*mir」入/HL、
「口:*kurtʃi~*kutʃi」入去~上去/HH,、「十:*tək」入/H、「穴:*kapi」入上~入/HH(峡)
102 ヴォヴィン(2015)が指摘したのは「なみだ」「なづむ」「なぎ」である。
47
③ 濊語に平起語と仄起語の両表記が現れる例
「木:*ker」平(~入103)/L、「谷:*tan~*tən」平~去/LL
④ 濊語表記の平仄と平安アクセントの対応が上述諸単語と異なるもの
「入:*i」平/HL、「 深:*puk-」入/LLF(深し)「蒜:*mer」上-/LL-(薤根草)、
「首:*tʃinjak」去入/LL(角)「池:nami」去上/LL(波)
言うまでもなく、これだけの例をもって濊語の声調を考察することはできないが、8世紀
濊語表記四声と平安アクセントの間に若干の対応関係があり得ることを伺わせる。
5.「牟盧>牟羅」「斯麻」
5.1.「牟羅」
伊藤英人(2020:105-106)では、南豊鉉(2003/2009)がその語義を「城」もしくは「塞」を表すとした「牟羅」について、「九州から倭人が対岸に渡って活動していたことの痕跡と看做し得る」(ibid.106)とした。しかし、その後、「牟羅」の分布、及びその古形である3世紀の「牟盧」の分布から再考するに、渡海した倭人の痕跡ではなく、朝鮮半島に本来居住した濊語の地名と解すべきであるとの考えに至った104。
伝世資料に先立ち、出土資料の例から見ることにする。出土資料の「牟羅」の例は、「蔚
珍鳳坪新羅碑」524年に見られる。
「居伐牟羅」
居伐牟羅 男彌只 本是奴人
居伐牟羅 道使 辛洗 小舎帝智
上のように計4例の「居伐牟羅」が現れ、地名を表す。「蔚珍鳳坪新羅碑」の発見地は蔚珍郊外の日本海岸から遠くない水田の中である。発見当初は「居伐牟羅」を発見地と看做されたが、李成市(1989)は、蔚珍から真西に 70 キロ内陸に入った慶北栄州郡順興面と看做している。「高句麗地名」巻三十五「朔州」の次の地名に相当する。
「岋山郡本高句麗及伐山郡景徳王改名今興州」111
しかし、武田幸男(2020:214-216)は、「居伐牟羅(コホリのムラ)こそ、当時の蔚珍の別名だったのではあるまいか」(ibid.214-215)としつつ、碑文の他の地名、碑文に登場する「奴人」
103 上述のように「肹」は新羅韓語表記字なのでこれを無視すれば①に入る。
104 鮎貝房之進(1937/1987:522-523)は「今の朝鮮語郡、県、邑、村、洞等の地区名にムラ若しくはムリと訓ずる語なし」とし、日本語の「ムラ」と同源とする説の存在にも言及している。
48
の人数比などから、順興面説を否定し、居伐牟羅を蔚珍とする。今、武田説に従う105。
次に伝世資料の例を見る。中国資料の例である。『梁書』(7 世紀前半成書)に見られる。
「建牟羅」
其俗称城為建牟羅。『梁書』東夷伝新羅条
「牟羅」を含む地名の多くは『日本書紀』に出る。
「久斯牟羅」
於是毛野臣次于熊川[一本曰:次于任那久斯牟羅]。( 継体紀廿三年春四月条)
毛野臣遂於久斯牟羅、起造舎宅、淹留二歳。(継体紀廿四年秋九月条)
40 注五106「後の久自郡。今の馬山。以下しきりに一本を参照注記しているのは加
羅関係記録二本以上を用いていることを示すであろう」
41 注二十一「任那の己叱己利城こしこりのさし」注記に「久斯牟羅に同じ」
「久禮牟羅城」
百済(簡略)共新羅囲城。(簡略)於是、二国図度便地、淹留弦晦。築城而還。号
曰久禮牟羅城(くれむらのさし)。(継体紀廿四年秋九月条)
45 注十九「慶尚北道達城郡西南部琵瑟山の西南麓か」
近久禮山(くれむれ)107処、斯羅耕種。(欽明紀五年三月条)
85 注二十九「慶尚北道達城郡琵瑟山というが安羅(慶尚南道咸安)とはかな
り距離がある」
大系本が「位置不明」とする「牟羅」五地名は以下の如くである。
「布那牟羅」
遂於所経、抜刀加(とか)・古跛(こへ)・布那牟羅(ふなむら)三城。亦抜北境
五城。(紀・継体廿三年春三月条)
「騰利枳牟羅」「牟斯枳牟羅」
還時触路、抜騰利枳牟羅(とりきむら)・布那牟羅・牟雌枳牟羅(むしきむら)・阿
夫羅(あぶら)・久知波多枳(くちはたき)108五城。(継体紀廿四年秋九月条)
「伊斯枳牟羅城」
105 「居伐牟羅」は、6 世紀新羅韓語kəper-mura(大きな集落の集落・評村)を音借字で表記したものであろう。muraは濊語なので、これは韓濊複合語地名になる。日本語の「こほり」は4.3.1.で述べたように百済民衆韓語kəpuri(大きな+集落)の借用語である。
106 数字は〈大系本〉の頁である。
107 古訓の例は含まないが参考までに挙例した。
108 45 注二十一「阿夫羅:玄風西部の城下洞か。久知波多枳:達城郡求智面城山洞か」
49
乃遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城(いしきむらのさし)。(継体紀廿九年秋九月条)
「久陀牟羅塞」
餘昌(簡略)遂入新羅国、築久陀牟羅塞(くだむらのそこ)。(欽明紀十五年冬十二
月条)
111 注二十一「慶尚北道西北部の一山城かというが位置不詳」
「牟」「羅」の音韻地位は以下の如くである。
牟:流摂尤韻三等乙平声明母 莫浮切
羅:果摂歌韻一等開口平声来母 魯歌切
中古音は次の通りである。
牟: *mïəu, *mĭəu, ―
羅: *lâ, *la, *la
一方、「牟」には河南省中牟県等の地名の字音として
牟:流摂厚韻一等開口上声明母 莫後切 *məu がある109。「中牟」の地名は戦国期に遡り、前漢初に「中牟県」が置かれている。これに従えば、「牟羅」は上起語、すなわち仄起語となる。また、仏教語「牟尼」の「牟」は仄声に読まれるため、使用頻度からして「牟」を仏教語の仄声字と捉えた可能性は極めて高いと思われる110。
平安アクセントとの対応では
上平:HL
が得られる。
109 郭錫良(2010:171)参照。現代北京語音は郭錫良(2010:171)では mŭ だが、漢語大詞典編輯委員会漢語大詞典編纂処編纂(2007:3482)はmùとする。
110 分節音については、尤韻明母字の侯韻への移動(河野六郎1954/1979:254)、侯韻明母字の模韻合流(例:北京語音「母」)が問題となり得るが、筆者は8世紀韓語に/o/がなく、同時期の濊語にも/o/が欠如していたと考えるため、尤韻侯韻を問わず流摂の主母音+韻尾/-əu/を8 世紀新羅韓語及び濊語が-uで受け入れ、韓語ではその後の母音推移により15世紀漢字音「牟mo」になったと考える。
50
新羅韓語の「建牟羅」の「建」は次の通りである。
建: 山摂願韻三等乙去声見母 居万切
建: *kïɒn, *kiɐn, *kjon
多くの先行研究が述べるようにこれは新羅韓語の「大邑」を意味する語に相当すると考えられ、以下の6世紀新羅韓語形を再建する。
kə-n mura
big-adnominal town
これは濊韓混種語地名であり、慶州盆地の新羅韓語に濊語話者集団が深甚な影響を与え
ていた証左となる111。
地点不明の例を含め、慶尚北道内陸部に「牟羅」地名が分布している様相が見て取れる。
次に「𨈭牟羅」について見る。
其南海行三月、有𨈭牟羅国、南北千餘里、東西数百里、土多獐鹿、附庸于百濟。
『隋書』巻八十一「百済条」
言うまでもなく「𨈭牟羅」は「耽羅」、すなわち済州島に相当し、南豊鉉(2003/2009)もそう認めている。しかし、筆者は、南豊鉉(2003/2009)が退けた『高麗史』の次の記事に注目する。
邑号曰耽羅、盖以來時、初泊耽津故也。『高麗史』巻五十七、志巻第十一112
済州島から朝鮮半島への入り口は、同時に朝鮮半島から済州島への入り口ともなる。南豊
鉉(2003/2009:221)はこれを「信じがたい」として退けるが、ある国への進入路の地名が目的地全体の国名になり得ることは、伽耶地域を指す日本列島側の呼称「加羅 kara」が、「朝鮮半島全体→中国→外国一般」へとその語義を拡大していった例に見られる如く、極めて自然のことである113。まして「邑城」を意味する「牟羅」が、一島一国を称する名称に使われるとは思われない。故に、𨈭牟羅は本来、耽津すなわち全羅南道康津郡大口面であると看做す
111 上述のように「晋率善濊伯長」の銅印が慶尚北道迎日郡新光面馬助里で発見されている。
迎日湾は慶州盆地と山一つを隔てただけの外港である。
112 韓国国史編纂委員会http://db.history.go.kr/item/pdfViewer.do?levelId=kn_106_0110 参照。
113 また鮎貝房之進(1931)参照。
51
114。 康津郡大口面は耽津江が康津から南海に流れ込む入り江の東側の尖端に位置し、北を
大口川が流れる海沿いの集落である。
本来的に海民・内陸水系民であった濊人の痕跡が、全羅南道沿海部に現れることは極めて
重要である。南豊鉉(2003/2009:222)は耽羅が百済に服していたことから、「牟羅」が新羅、伽耶地域のみならず百済でも用いられたと述べているが、この地域の濊語地名「牟羅」の分布は3世紀の同地域に数多く見出されることを以下に述べる。
伊藤英人(2020:105-106)は、「牟羅」について、河野六郎(1945/1979)の「山」説を駁し、伊藤英人(2013:61)の見解を踏襲して、これについて、①動詞「muru 群る」の情態言115「mura 村」に起源する倭語であり、②「村 むら」の平安アクセントHLと古韓音推定調値である LL と合わない、と述べた。今、②を改め、「牟羅」を上平という仄起語と看做し、平安アクセントのHLと合致するとした上で、上記「倭語」を「濊語」に変えて同様の主張をするものである116。
5.2.「牟盧」
『東夷伝』に見られる三韓諸国には「牟盧」が見られる。河野六郎(1993)は「斯盧」の古
音にsie-lâ を復元しており、魏晋代の「牟盧」が三国時代の「牟羅」に相当することは明らかである。「牟盧」を含む国名は以下の如くである。
「咨離牟盧国」16117
京畿道利川郡一部。奴藍県と隣接118 。
「牟盧卑離国」42
馬韓。全羅北道高敞郡。
本百済毛良夫里県『東国輿地勝覧』高敞県条
「牟盧卑離」から「毛良夫里」の変化は、前述の如く、3世紀古代韓語から百済民衆韓語
への変化において、*peri>*puriの円唇順行同化が起こったことを示す例である。
いずれも京畿道から全羅北道南端という朝鮮半島黄海側の地点であり、利川は内陸だが、
全羅北道高敞郡は沿海地域である。「毛良夫里県」については、『三国史記』地理志に次の記載がある。
114 想像を逞しうすれば、華北が非魚食民族である「五胡」に征服された後、海産物加工品
の販路を華中以南に換えた濊人「賈」の港津としても利用されたかも知れない。
115 情態言については、阪倉篤義(1966,2011)及び本稿6章末尾注参照。
116 「郡・邑」と同語根と思われる語の平安アクセントは「群雲むらくもHHHH」「村君むらきみHHHH」などである。
117 番号は伊藤英人(未公刊)「三韓国名データベース」の数字である。
118 比定地は 李丙燾(1980:261-264)による。
52
「高敞県本百済良夫里県」巻三十六119「武州」
坂靖(2018:109-110)は、高敞郡高敞邑鳳徳里一号墳から東晋との関係を示す青磁盤口壺な
どが出土していることなどに言及しつつ、馬韓残余勢力圏の南海岸部において、5~7 世紀
にかけて、盛んな対外交流を行う交易集団が活動していた事実を述べている。これらが濊語話者集団であった可能性を考えることが、馬韓残余勢力を介した百済と倭王権との密接な関係を説明する言語的理由になるかもしれない。馬韓残余勢力圏の濊語話者は、生得の濊語と百済民衆韓語のbilingualであることに加えて、濊語と同系である倭語とのtrilingual、百済王権と接触のある場合は更に百済王族語とのquadrilingual、東晋と往来する話者の場合には中国語をも加えたquinquelingualであったと考えられる。
「牟盧卑離国」は、濊韓混種語地名である。このことは、朝鮮半島西南部においても、濊
語話者と韓語話者が混住していた 3 世紀以来の様相を雄弁に物語っていると考えられる。
今後、百済地名研究において、濊倭語との関係を考えるうえで、また倭王権と最も親しい関係を有したこの地域における言語接触の様相を闡明するためにも半島西南部に存在する濊語地名の研究が重要な課題として浮上する120。武田幸男(1989)は『広開土王碑文』の守墓人烟戸条の分析において、高句麗の新領域の「韓・穢地域の種族支配」の観点から、「韓・穢」二字を付す「舎蔦城の韓・穢」が存在することに触れ、「ただ一例にすぎないが、重要なのは旧百済以来の異種族混在というさきの推定が推定だけに終わらず、確かに実在したことを積極的証している点である」(ibid.60)と述べている。「牟盧卑離」は言語学の観点から3世紀の朝鮮半島南部における韓濊混住を証明する一例に成り得る。
5.3.「斯麻」
2.2.2.で述べた「嶋」を意味する韓語は、濊語借用語であると考えられる。
「斯麻」503年「須田八幡人物画像鏡銘」、523年「武寧王陵墓誌銘」
斯麻は武寧王である。『日本書紀』雄略五(461)年条に「百済新撰」(佚書)を引いて次の記事がある。
百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、国人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、
則末多王異母兄也。琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故
因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。
119 井上秀雄(1986Ⅲ:220)は全羅北道高敞郡高敞邑に比定している。
120 馬韓残余勢力圏地名の研究が濊語研究において重要である。坂靖(2018)は蘇我氏の起源を全羅道地域の馬韓残余勢力と見ている。
53
「各羅海中」の嶋は佐賀県唐津市の加唐島であるとされる。伝世資料と二つの出土資料か
ら確認される「嶋=斯麻」は濊語の次の語が韓語に借用されたものであると考えられる。
斯:止摂支韻開口三等甲入声心母 息移切
麻:假摂麻韻二等開合平声明母 莫霞切
斯: s̭ iḙ, sĭe, sje
麻: m(w)a, ma, mae
6 世紀濊語及び上代日本語への音韻変化として次の変化を措定する。
*sima 濊倭祖語 >*sjɛma 6世紀濊語 > sima 上代日本語
「しま」の平安アクセントは次の如くである。
「しま」 LL > HL 現代京都
ここでは6世紀濊語「平平」と平安アクセントLLが対応している。
このことは、濊語派で6世紀までに
*sima >*sjɛma
というbreaking of iが生じていた音を意味する。
斯麻が佐賀県沖の島で生まれ、後に武寧王として百済王位につくということは、濊人の内、馬韓残余勢力圏の海民たる濊人を介して日本列島王権と深く関わっていたことを意味すると解し得る121。
121 「島」LLは「標しめ」LLと共に「占む」LFの情態言であると考えられる。本来、韓語
は無声調言語だが、特に新羅韓語において、分節音素との関わりからのtonogenesis 的な内的要因のみならず、濊語や漢字音との言語接触の影響により、声調を獲得するに至ったと考えられる。濊語からの借用語であるsjɛma LLは、新羅韓語においてLL>LH>Rの変化を経て15世紀韓語のsiəm Rへ至ったと考えられる。LL>LHの変化は「朝」を意味する15世
紀韓語のachʌm LHが、複合語「朝夕」を意味するachʌmnaco LLLLのようにLLで出るこ
とが参考になる。被覆形に古形が残存すると看做せば、これもLL>LHの変化である。この
他に、「 虫」pərɦəi LHと、「 獣」との複合語 pərɦəiciuŋsʌiŋ LLLLにもLL>LHの変化が見られる。なお、日韓比較言語学で日本語5類の下降を語末子音消失による代償下降と看做す試
54
6.まとめと今後の課題
以上、紀元前から8世紀半ばまでの時期において朝鮮半島で活動した濊語話者集団が、日
本列島の倭人と同系言語を話す集団であったことを論じた。濊倭語が本来声調言語であっ
た可能性を含め、Janhunen(2003)が working hypotheses として提示した仮説に再度答えてみる。
The Korean tones are a Japonic feature. Korean has a Para-Japonic substrate.
後者に関しては濊人と韓人のどちらが先に朝鮮半島に到達したかという問題と関係する
ため、判断が困難である。前者の、例えば15世紀ソウル韓語の声調は後述の如く濊倭語に
よるadstratum であると考える。
筆者は、朝鮮半島の西側は早くから韓語話者集団が優勢であり、太白山脈以東の日本海側
は声調言語である濊語話者集団が優勢であったと考える。倭語と韓語の類似は、濊韓混住の中で、後述するように倭語の方が韓語に自らの言語を似せる形で生じた、言語接触の結果であると考える。橋本万太郎(1981:336-384)は「地域特徴」が如何にして形成されるかについての洞察を示す。
今日、韓国の方言学でいうところの「声調方言」すなわち、高低アクセントを持つ諸方言
は、東南方言(慶尚道方言)と東北方言(咸鏡道方言)という日本海側にのみ分布する。このことは、濊語という声調言語がその基層にあったことと関係はないだろうか122。いわゆる伝来字音を統一新羅が受け入れた頃には新羅韓語には濊語の影響を受けて「声調」が生じ、これを漢字音受容にも「上去無別」の如き不完全さを示しつつも反映させたと考えられる。
新羅韓語が朝鮮半島全体に広がる過程で、西側にも一時期声調が存在したものの、元々無声調言語たる韓語の方が濊語に比して優勢であった西側では、15~16 世紀ソウル韓語のように残影としての高低アクセントを見せつつ、後代再び無声調言語に戻ってしまったものと考えられる。その意味で、15世紀韓語の「声調」は、濊語のadstratumであるとは言えるかもしれない。
また、慶尚道方言には、ソウル韓語と比べて次のような孤立語的性格が見られる。
みはachʌm LHの古形がLLであったと考えられるという韓語史の観点から否定される。伊
藤英人(1994:26)参照。なお、福井玲(2020:18-20)は「しま」「くま熊」について韓語のLHを「デフォルト」としつつ、分節音との関係を含め韓語から日本語への借用と看做す。「熊」については、この語が一種のWanderwortであり、さらに「高句麗地名」の「熊:功木」をどう解釈するかの問題もあるため、後攷に俟つこととする。
122 咸鏡道方言の声調は 15 世紀初に女真人対策のため慶尚道からの徙民を行ったことによ
るため、ここでは濊の中心地である江原道の声調方言(江陵、三陟、寧越の諸方言)及び慶尚道方言を念頭に置く。
55
一つは、崔明玉(1990:17)が示す、慶尚北道奉化方言の語根結合の例である。
kkɨr-an-(引き-抱く)、tɨ-ka-(入って-行く)、tɨr-noh-(入れ-置く)、tɨr-anc-(入って-座る)、tɨr-o-(入って-来る)、 ir-na-(起き-立つ)
現代ソウル韓語ではいずれもconverb形を介してしか結合できない。
また、15 世紀韓語にも見られる疑問助詞が名詞に直に付けられる次のような例も慶尚道
方言では今日でも根強く残る。
iki ni chek ka?
this your book interrogative
これお前の本か。
現時点では臆説の譏りを免れがたいが、橋本万太郎(1981:336-384)の示す「地域特徴の出
来方」を考えると、一考に値すると考えられる。
The language of Paykcey was Para-Japonic.
この仮説には、2.3.3.で答えたように、百済建国神話に江南との関係を彷彿させる
要素があるなどの理由から、百済王族語話者集団が、濊倭祖語集団と共に、中国沿海から山東・遼東を経て朝鮮半島に渡来した可能性がある。しかし、百済王族語が濊倭祖語とどのような関係があるのかは不明のままである。
Japonic was the language of the Yayoi Culture.
この仮説に関しては、3.2.5.で筆者の考えを示した123。
123 言語学的な年代の検証は不可能に近いが、筆者は、濊倭祖語から分岐した倭語派話者集団が、日本列島に早くに到達して広がったと考える。濊倭語族地名が朝鮮半島に広く分布するのに対して、韓語地名は日本列島にほぼ皆無であると考えられるためである。唯一の例外が「mure山」である。「今城いまきなる小武例をむれが上に」『斉明紀四年』、「稲牟礼丘」『播磨国風土記』。
日本列島に韓語話者集団が何度も渡来したことは間違いないが、地名を各地に残すような
先史時代以来の定住はなかったのではないかと思われる。この問題は尚後攷に俟つ。濊倭語集団の朝鮮半島から日本列島への渡来は累次に及び、3世紀までには九州、四国、本州西部は列島濊倭語すなわち倭語がコイネーとなる広大な地域になっていたと考えられる。歴史時代以降も、特に伽耶、馬韓残余勢力圏の濊語話者と列島の倭語話者は7世紀後半まで頻繁に行き来し、これにより両言語間のmutual intelligibilityも一定程度保たれたものと考えられる。
56
Pre-Proto-Japonic came from Coastal China. Japonic had originally a non-Altaic typology. Japonic had once a Sinitic typology.
濊語地名の分布は図3の通りである。
図3
言語地図作成:黒澤朋子氏
● 『三国史記』濊語地名
�
� 「東夷伝」の「牟盧」
�
� 「牟羅」
■ 「斯麻」
鴨緑江以北は比定地不明で、地点は意味を持たない。
57
この地図において、3世紀「牟盧」、6世紀(523年)の「斯麻」が朝鮮半島西南部に見ら
れることから、人名の「斯麻=島」を含む濊語が朝鮮半島の広い範囲に分布していた事実が確認される。今日の北朝鮮の北半分に相当する部分が空白なのは、757 年の地名改正時に、当時渤海領であったこの地域の資料が新羅側に欠如していたためである。遅くとも 3 世紀までには朝鮮半島西南部に到達していた濊語集団の故地は、江浙区から海岱区、燕遼区に跨る広い範囲、BC3000~4000 年紀で言えば、良渚文化から大汶口文化の地域を仮定し得ると考える124。
濊語の声調に関しては 4 章以降、縷々論じ来ったように、次の三つのパターンが見られ
た。これに6世紀濊語の「島:sjɛma」と「邑:*mura」を加えると次のようになる。
・濊語平起語が平安アクセントL始まりの語に対応する例:7例
「五:*ytʃ」平去/LL、「七重:*nanənper」平上入/LLH、「兎:*usjɛgam」平平平/LHH、「心:*kər」平-/LLH 及び「木:*ker」平(~入)、 /L「谷:*tən」平/LL、
「島:*sjɛma」平平/LL
・濊語仄起語が平安アクセントH始まりの語に対応する例:7例
「水:*me」上/H-、「鉛:*namur」上入/ HHL(~LHL)、「三:*mir」入/HL、
「口:*kurtʃi~*kutʃi」入去~上去/HH、「十:*tək」入/H、「 穴:*kapi」入上~入/HH(峡)、「牟羅:*mura」上平/HL
・濊語表記の平仄と平安アクセントの対応が上述諸単語と異なるもの:6例
「入:*i」平/HL、「 深:*puk-」入/LLF(深し)「蒜:*mer」上-/LL-(薤根草)、
「首:*tʃinjak」去入/LL(角)「池:*nami」去上/LL(波)、「谷:tan」去/LL,
これを以て6~8世紀濊語と平安時代日本語との間に声調上の対応が存在するということ
は到底できないが、「高句麗地名」の漢字表記が濊語の何らかの声調的要素を反映している可能性はあるのではないかと考える。
森博通(2003)は古韓音の再建調値を、平:L、上:H、去:H、入:Lとしている。統一新
124 4.5.4.で述べた「ながる 流LLF」「なぎ水葱LL」「なぎさ 渚 LLL」「なづむ 泥
LLF」「なみ 波 LL」「なみだ 涙 LLH」の「なL」がヴォヴィン(2015)の言うようにタイ
祖語rnamからの借用であったら、濊倭祖語との接触地域は江浙区から海岱区、すなわち、
江浙地区から山東省を想定し得る。また濊語の接頭辞は現時点では発見されていない(地
名の「不」の同定は出来ていない)が、同系の古代日本語は韓語に比して遥かに豊富な接
頭辞を持つ声調言語である。Robbeets(2017:237)でオーストロネシア祖語からの借用の可能性が論ぜられている、usu(臼)cf. Proto-Austronesian *lusuŋ(mortar)が、若しも正鵠を射ているとすれば、この借用が生じたのも濊倭祖語集団が中国沿海にいた時期のことであると考えられる。オーストロネシア語との接触及び日本語の接頭辞に関しては崎山理
(2001,2012)参照。
58
羅時期に成立した伝来字音の調値は、平:L、上:R、去:H、入:Hである。
これを「古韓音再建調値~伝来字音調値」のように示し、平安アクセントと比較してみる
と次のようになる。
757 年改正『三国史記』地理志
「五」 *ytʃ LH: いつつLLH~LLL (于次)
「七重」*nanənper LHL~LRH :ななへLLH (難隠別)
「兎」*usjɛgam LLL:うさぎLHH (烏斯含)
「心」*kər L:こころLLH (居尸)
「木」*ker L:きL (斤乙)
「水」*me H~R:み-H- (買)
「鉛」*namur HL~RH:なまり HHL (乃勿)
「三」*mir L~H:みつHL (密)
「口」*kurtʃi LH~HH:くちHH (忽次)
「口」*kutʃi HH~RH:くちHH (古次)
「十」*tək L~H入:と-H- (徳)
「穴」*kapi LR~HH:かひ/HH「峡」 (甲比)
「谷」tan H:たにLL (旦)
「谷」 tən L~H:たにLL (呑~頓)
「入」*i L :いるHL (伊)
「深」*puk-L~H:ふかしLLF (伏)
「蒜」*mer H~R: みらLL-「薤」(買尸)
「首」*tʃinjak HL~HH 去入:つのLL「角」 (次若)
「池」*nami HH~HR」なみLL「波」(内米)
6 世紀出土文献
「嶋」*sjɛma LL:しまLL (斯麻)
「村」*mura HL~RL:むら HL (牟羅)*3世紀伝世文献(東夷伝韓条)では「牟盧」
8 世紀濊語の音韻体系の再建は今後の課題であるが、本稿の再建から帰納し得るのは以下
の通りである。
母音 /i/ /y/ /u/ /e/ /ɛ/ /ə/
59
60
/a/
半母音 /j/
子音 /p/ /t/ /k/
/m/ /n/
/s/
/ʧ/
/r/
母音体系、有声子音音素の有無は、次の「高句麗地名」中の濊語候補のうち、可能性の高
い語の分析を俟って行う125。
「熊:功木」「玉:古斯」「山・高:達」「童子:仇斯」「壌:奴・內・惱・弩」「赤:沙伏・沙非」 「泉:於乙」「足:廻」「岳:𡊠・押」「黄:骨」「猪:烏斯・烏生」「東:加知」「楊:要隠」
これに加えて、他資料に見られる語の検討も必要である。
因みに、本稿の対象外であるが、8世紀新羅韓語の母音体系は次のように再建される126。
/i/ /y/ /ɨ/ /u/ /e/ /ə/ /ɛ/ /a/
上の8世紀濊語の現時点の再建母音は、韓語と比して、/ɨ/を欠いている。
濊語の分布に関しては、『日本書紀』地名及び『東夷伝』の地名から、濊語が朝鮮半島西
南部沿海地方にも少なくとも3世紀以来分布していたことが明らかになった。
今後の課題は、「高句麗地名」中の、今回言及出来なかった濊倭同系語と思われる語の声
調を含めた分析127と、「高句麗語」語彙である可能性の高い「忽:城」などの分析を進める
125 「兎:*usjɛgam」を/usjɛkam/の音声的実現であると見るか否か、後攷に俟つ。
126 河野六郎(1964-1967/1979:510-511)に従い音価を修正した。伊藤智ゆき(2007:130)はこれに対して古代韓語の/y//u/現代韓語と同じく/u//o/であったと看做す。これは漢字音研究による仮説であるが、日韓借用語の音韻対応から見れば河野説の方がはるかに妥当である。
127 今回は「平起」「仄起」のみに言及したが、語例がある程度貯まった時点で、濊語の声調パターンを分析する。杉山豊京都産業大学准教授から「入声」を他の仄字と区別すべきかとの指摘を頂戴した(p.c.2021年3月26日)。古韓音でも入声のアクセント対応は上去字と異
と共に、旧百済領、特に馬韓残余勢力圏の地名の分析を濊倭語128の観点から見ていくことである。
その前に、次稿では、歴史言語学から一時離れて、類型論的観点から、濊倭語族が韓語の
影響を受けてAltaicization を遂げた可能性について先ず論じたい129。
ハングル転字
ㄱk、 ㄴn、 ㄷt、 ㄹf、 ㅁm、 ㅱw、 ㅂp、 ㅸv、 ㅅs、 ㅿz、 ㅇɦ、 ㆆq、ㆁŋ、
ㅈc、 ㅊch、 ㅋkh、 ㅌth、 ㅍph、 ㅎh、ㅏa、 ㅣi、 ㅓ、 ㅕiə、 ㅛio、 ㅜu、
ㅠiu、 ㅡɨ、 ㅣi、 ㆍʌ、 ㅐai、 ㅘoa、ㅝuə、L平声、H去声、R上声
現代慶尚道韓語の音素/E/[ɛ˔]は、eで転字する。
なり平安アクセントのLに対応している(森博達2003:159)。現時点では、「高始まり/低始まり」自体が8世紀濊語において弁別的であったか否かも、その蓋然性は高いものの、断言できる段階にない。今後、更に検討する語を加えて、8世紀濊語の声調を含めた音韻体系再建を試みる予定である。
128 『三国史記』のみならず。『日本書紀』、出土資料も考察の対象に加える。
129 伊藤英人(2009b)でも一部言及したが、韓語が古来一貫して連体修飾標識を持つのに比して日本語には「看做し連体形」があること、形容詞語幹の自立性などから、恰も、日本語がブリコラージュとも言うべく、手持ちの要素を組み合わせて何とか韓語に似に果おおせたように見える点が注目される。筆者は韓濊倭混住時期に朝鮮半島でこうした類型論的類似が生じたと考える。因みに「看做し連体形」の用語を、現代日本語の「同じ」が「同じい」「同じな」のような連体修飾マーカーなしに連体形の機能を果たすことの称謂として使用する。上代日本語の例えば「未然・連用・終止」といった、いかにも統辞論的な活用形名も、本来的にはそれぞれ「情態言」「居体言」「抽象言」といった語根の意味のあり方を示す造語論的なものであり、それ自体が独立した名詞たり得、かつ自在に連体修飾して複合語を作り得た。
独立した名詞としては、√far-(開く)から、fara(原)、fari(墾田)、faru(春)などの名詞が作られ、複合語においては mi-ara-ka(宮殿)における、{mi}尊敬接頭辞+{ar-}(存在する)+{-a}情態言形成thematic vowel+{ka}(場所)、すなわち、「おわしますところ=宮殿」のような連体修飾情態言に見られる。「情態言」「居体言」は阪倉篤義(1966,2011)に従うが、thematic vowel{-u}を持つ語基を「インフィニティヴ」の称謂はこれを用いず、「抽象言」とし、以下のように再定義する。{-a}{-i}{-u}による語基は、語根の示す事態が世界の中でどのようなあり方で存在するかに関わる語義的なものであり、infinitiveのような動詞の文法範疇に関わるものではない。「情態言{-a}」は、「事態が萌芽的もしくは漠たる情態で存在する」ことを、「居体言{-i}」は「事態がくっきりとした形で存在する」ことを、「抽象言{-u}」は「事態のあり方に言及せず語義の意味を抽象的に取り出す」ことを示す。抽象言が人名(例:源順みなもとのしたがふ)に多用されるのもこうした「抽象言」の性格によるものである。上代日本語には「原」「墾田はり」「春」「みあらか」のような例を数多く見出すことが出来る。八丈語の連体形形成母音-o などをどう考えるかは措くとすれば、上代日本語における、他の語との統辞論関係やテンス・ムードのような動詞の文法範疇を示す標識は二次的に発達したものがその大半を占めるのではないだろうか。なお、thematic vowel によって形成される
情態言、居体言、抽象言などは、派生名詞であると同時に、その用言的性格の側面においては語基baseであり、濊倭語は語基を持つ言語である(*mura参照)。一方、韓語に語基が存在しないことについては伊藤英人(2009a)参照。
61
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キーワード:日本語系統論、濊、倭、アクセント、声調、朝鮮語史、日本語史
68
要旨
「高句麗地名」中の日本語に類似した語は、朝鮮半島中部以北、鴨緑江以北に及ぶが、こ
れらは濊語要素であると考えられる。濊人の活動はBC11世紀以来確認される。濊人は、海
民・内陸水系民として、水産加工品の物流販売の商業活動にも携わる越境する漁撈狩猟民
的性格を持つ一方、定住農民として韓人と同一村落に共棲した。濊語は中国沿海から山東・遼東を経て朝鮮半島日本海岸に到達した百粤型の声調言語であったと考えられる。濊人は魏晋代には既に漢字の高いリテラシーを有し、世界初の変体漢文である「中原高句麗碑文」は濊人を媒介者として漢字の音訓を朝鮮半島に定着させた最初の例であると考えられる。
757 年の地名改正による「高句麗地名」中の日本語に類似した音訓表記は濊語のそれによると考えられる。8世紀濊語漢字表記の語、及び6世紀濊語の「島:sjɛma」と「邑:*mura」をこれに加え、平声に始まる「平起語」と、上去入声に始まる「仄起語」に分けて、日本語平安アクセントと比較すると、「濊語平起語が平安アクセントL始まりの語に対応する例」として「五:*ytʃ」平去/LL、「 七重:*nanənper」平上入/LLH、「 兎:*usjɛgam」平平平/LHH、
「心:*kər」平-/LLH 及び「木:*ker」平(~入)/L、「 谷:*tən」平/LL、「 島:*sjɛma」平平/LLの7語が、「濊語仄起語が平安アクセントH始まりの語に対応する例」として、「水:*me」上/H-、「 鉛:*namur」上入/ HHL(~LHL)、「 三:*mir」入/HL、「 口:*kurtʃi~*kutʃi」入去~上去/HH,、「 十:*tək」入/H、「 穴:*kapi」入上~入/HH(峡)、「邑:*mura」上平/HL の 7 語が、「濊語表記の平仄と平安アクセントの対応が上述諸単語と異なるもの」として「入:*i」平/HL、「 深:*puk-」入/LLF(深し)「蒜:*mer」上-/LL-(薤根草)、「首:*tʃinjak」去入/LL(角)「池:*nami」去上/LL(波)、「谷:*tan」去/LLの6語が認められる。6~8世紀濊語と古代日本語が何らかの系統的関係にある可能性が考えられることから、筆者は「濊倭祖語-大陸濊倭語(濊語派)-8世紀濊語―10世紀頃消滅」「 濊倭祖語-列島濊倭語(倭語派)―日本語・琉球語・八丈語(?)」の系統的分岐を措定する。出土資料及び『日本書紀』地名の「牟羅」、『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝韓条」地名の「牟盧」、及び出土資料の「斯麻」の分布から見て、濊語は慶尚道、全羅道を含む朝鮮半島全域で3世紀以来韓語と共に話されていたと考えられる。*sima >sjɛma の変化から見て、濊語派は 6世紀までにbreaking of i を経験し、倭語派はそれを知らない時期に分岐したと考えられる。濊倭語族は朝鮮半島において韓語の影響によりアルタイ化を経験したと考えられ、一方、慶尚道方言、江原道三陟・江陵・寧越方言の「声調」等は日本海側に優勢であった濊語の影響による「地域特徴」であると考えられる。日本語中のオーストロネシア語、タイ・カダイ語要素は濊倭祖語集団がBC4000~BC3000 年頃、中国沿海にいた時期の言語接触によるものであり、遅くとも殷代までに朝鮮半島に東渡し、韓語話者集団と接触する中で、濊倭語のAltaicizationが生じ、その後、BC900~700年頃に水田農耕を携えて日本列島に渡った倭語派集団が列島に拡
散したものと考えられる。濊倭語集団の朝鮮半島から日本列島への渡来は累次に及び、3世紀までには九州、四国、本州西部は列島濊倭語すなわち倭語がコイネーとなる広大な地域
69
になっていたと考えられる。歴史時代以降も、特に伽耶、馬韓残余勢力圏の濊語話者と列
島の倭語話者は7世紀後半まで頻繁に行き来し、これにより両言語間のmutual intelligibility
も一定程度保たれたものと考えられる。
謝辞
筆者を国際日本文化研究センターの日本語系統論共同研究に誘って下さり以来現在まで様々にご教示下さった長田俊樹総合地球環境学研究所名誉教授、KOTONOHA への投稿をご快諾下さり、ご校閲を賜りました吉池孝一愛知県立大学名誉教授、「ゲノム配列を核としたヤポネシア人の起源と成立の解明」でご高配を頂いた斎藤成也国立遺伝学研究所教授及び言語班及び諸班の諸兄姉、草稿をお読み下さり、コメントを頂戴した橋本繁韓国国立慶北大学校人文学術院 HK研究教授、福井玲東京大学教授、河崎啓剛東京大学准教授、杉山豊京都産業大学准教授にこの場を藉りて感謝申し上げます。本稿の全ての誤謬が伊藤の責に帰することは言うまでもありません。また、お忙しい中、言語地図作成をして下さり、論文の分かりにくい点を指摘して下さった黒澤朋子前早稲田大学兼任講師に篤く御礼申し上げます。
70
「濊倭同系論」正誤表
・10頁 注19
誤:森博通(2003) → 正:森博達(2003)
・20頁 14行目
誤:獣鈕である。いる。→ 正:「いる。」トル。
・21頁 注48 3行目
誤:「策」は → 正:「筴」は
・26頁
誤:次:ts’ii, ts’i, → 正:→ ts ̒ i̭i
・28頁 1行目
誤:‣ïən, → 正:・ïən,
・29頁
誤: 烏:‣o, → 正:烏:・o,
・29頁
誤:斯:*siie, → 正:si̭iḙ
・29頁
誤:含:*ɣâ̖m, → 正:含:*ɣậm,
・29頁 下から3行目
誤:Strostin → 正:Starostin
・32頁 下から6行目
誤:之部 → 支部
・34頁
誤:勿:*m(w)īət, → 正:勿:m(w)ïət
・34頁 注78
誤:観智院本『類聚名義抄』でHHLになる
→ 正:観智院本『類聚名義抄』でLHLになる
・36頁 注82 3行目
誤:大隅半島にさいかかるあたり → 大隅半島にさしかかるあたり
・38頁
誤:徳:*tək’, → 正:*təkˊ
・39頁
誤:比: pi(w)i, → 正:比:pi̭(w)i
・39頁
誤:押’ap, → 正:·ap
・40頁:
1
誤:斤:*kjn → 正:→ kjɨn または kj+ n
・41頁
誤:頓…都魂切 → 都困切
・42頁
誤: 伊: *‣ïi/-*ii, → 正:伊:·i̭i
・44頁下から4行目
誤:「水:*me:買」で見た如く、「買」は上古音「之部」に属し、
→ 正:「水:*me:買」で見た如く、「買」は上古音「支部」に属し、
・54頁
誤:斯:*siie, → 正:si̭iḙ
・58頁 下から1行目
誤:森博通(2003) → 正:森博達(2003)
・62頁 誤;拝根興(2012)『唐代高麗百済移民研究 以西安洛陽出土墓志為中心』中国社会
科学出版社
→正:拝根興(2012)『唐代高麗百済移民研究 以西安洛陽出土墓志為中心』中国社会
科学出版社、北京
・62頁 誤:池鳳花(2008)「延辺朝鮮語音借語の語音特徴とアクセントパターンについて」
『朝鮮学 報』第207輯,.1-38, 朝鮮学会、天理
→正:池鳳花(2008)「延辺朝鮮語音借語の語音特徴とアクセントパターンについて
」『朝鮮学報』第207輯,.1-38, 朝鮮学会、天理
・63頁 誤:橋本繁(2018a)「蔚州川前吏書石原銘・追銘にみる新羅王権と王京六部」『史滴』
40 早稲田大学東洋史懇話会 2018年12月:20-38
→正:橋本繁(2018a)「蔚州川前里書石原銘・追銘にみる新羅王権と王京六部」『史滴
』40 早稲田大学東洋史懇話会 2018年12月:20-
・64頁 誤:伊藤英人(1994)「故志部昭平白紙の業績について:中期朝鮮語」
→正:伊藤英人(1994)「故志部昭平博士の業績について:中期朝鮮語」
・64頁 誤:伊藤英人(2018b)「韓中言語接触uy 観点es pon 韓国漢字文」『語文研究』180
号27-62、首爾
→正:伊藤英人(2018b)「韓中言語接触uy 観点ese pon 韓国漢字文」『語文研究』18
0 号27-62、首爾
・65頁 誤:金文京編(2021)『東アジア文化講座』文学通信、東京
→ 正:金文京編(2021)『東アジア文化講座』2、文学通信、東京
・65頁 誤:金完鎮(1971)『国語音韻体系의 研究』一潮閣、首爾
→正:金完鎮(1971)『国語音韻体系uy 研究』一潮閣、首爾
・66頁
2
誤:Pellard T.(2007)Review:Christopher Beckiwith(2004)
→正:Pellard T.(2007)Review:Christopher Beckwith(2004)
・67頁
誤:Robbeets,M.(2017) Austranesean influence and Traneurasian ancestry in Japanese,
→正:Austronesean influence and Transeurasian
・67頁 下から6行目
誤:最終閲覧日:2012年1月23日
→正:最終閲覧日:2021年1月23日
3