序章+1章ラッシュアワー

 この文章の主人公をヒョウ(漢字[凭])と呼びます。ヒョウは認知症の患者で、三十年あまり治療を受けています。月に一度、担当医を訪ね、以前または最近書いたメモを見せながら、それについて担当医または助手である筆者とやり取りするのです。
 以下の文章は、ヒョウのメモと治療中に彼が話した内容をもとに担当医と筆者がヒョウの記憶世界を時間軸に沿って整理したものです。ヒョウが話した順に記録されていますが、時期が前後するため読みにくくなっています。なお、彼はこの記録以外の時期について語っておらず、メモも提出していません。
 この記録をもとに担当医は、遅くとも一九九〇年にはヒョウが認知症を発症していたと考え、それ以前に認知症特有の風景の揺らぎと時間軸のずれを生じていた可能性も否定できないとしています。ちなみに、認知症の患者はすべての記憶を失うわけではありません。最近の記憶が定着しないだけで、過去の記憶とその情景は鮮明に保存されています。風景と時間軸のつながりが不確かになり、未来を含め自分の年表のどこに風景の記憶が保存されているのか特定できない症状を認知症といいます。患者には自覚症状がある人とない人がいます。症状が進行すると、自分がいま時間軸のどこにいるかわからなくなり、身近の人々が誰かも不明になります。
 なお、この記録で用いられる用語には一般の用法と異なるものがあります。たとえば、情景と光景を区別し、情景を心象風景の同義語として用います。光景は感情移入を伴わない景色そのものをいい、情景と光景を合わせて風景と呼びます。日常よく使われる景色は光景に近いといえます。
 また、担当医の所見によれば、ヒョウは自分もかつて信者だったと考えているンヴィニ教(コンヴィニエンスに由来する)に執拗な関心を寄せ、敵愾心さえ抱いていたようです。その教徒について克明な観察を積み重ね、彼らの意識下における信仰とも呼ぶべきものを分析しています。そして、ンヴィニ教徒の生態と認知症患者の症状に共通するものを追究していたと考えられます。以下の文章にンヴィニ教徒に関する叙述が多いのはそのためです。

1. 電車という名の寺院

 第一章に記録された時代は一九八〇年代だと思われます。担当医は、ヒョウの口述記録やメモにもとづいて、八〇年代後半から九〇年にかけて彼の意識内で時間軸の揺らぎが生じていただろうといいます。この章の記録にそのような兆しは認められませんが、ンヴィニ教徒に対する彼の執拗な関心に尋常でないものを感じる読者もいると思います。

ラッシュアワー

 電車の発車を知らせる電子音が、駅のホームの上方からけたたましい音量で鳴り響く。ホームには出入口が二ヵ所あり、階段とエスカレータでそれぞれ上の階と下の階に通じている。それぞれを駆けおり駆けあがる人々の群れが電子音に急き立てられるように停車中の電車に向かって疾走する。がっしりした体格の男、乳房を揺らす女、子どもの手を引く母親、息が切れそうな老人、蒼白い顔の勤め人など、さまざまな人々が一斉に発車直前の電車に殺到する。
 電車に乗り込むと、人々はその日の新聞や好きな本を読み、それぞれの内面に沈潜する。会話を交わす人々は、彼らにしかわからない言葉を話し、まわりの人々が理解できないことをひそかに喜ぶ。あるいは、当時多くの都会で流行していた音楽付きイヤホンをして、自分を外界から遮断する。イヤホンからもれる音は周囲の人々には騒音でしかないが、彼らは不快に感じながらも、ひたすら我慢する。彼らのあいだでは他人に向かって敵対的な態度をとることが許されない。他者に対して自分の感情を抑えることが習性となり、不快感すらも内面に閉じこめてしまう。こうして彼らは自分を守るために、自己と他者を隔てる特異な防御法を発達させた。
 ヒョウの観察によれば、その発達を促したのは人々の意識下における信仰と呼ぶべきもので、彼はそれを「ンヴィニ教」と呼んだ。以下、その呼称を用いることにする。ンヴィニ教では、すべての外界はその宗教的世界の一部として捉えられる。周囲の世界が信仰によって人々の内面に取り込まれた結果、現実の世界と人々の関係は遊離してしまった。人々は、自分たちが取り込んだ外部世界だけが現実で、それ以外に世界はないという錯覚を共有した。この錯覚は数世代に及んでいる。
 ンヴィニ教の寺院は、電車網が広がっている地域の至るところに設けられ、数棟並ぶことも珍しくない。ンヴィニ教にも他の宗教と同じようにいくつか有力な宗派があり、都市部では電車の便のよいところに宗派を異にする寺院が軒を連ねたからだ。
 電車の駅構内には各宗派の小さな分院が置かれ、日々大量生産される新聞や雑誌を人々に供給していた。これらの印刷物を通じて、人々は自分たちの精神世界が不断に豊かになると信じている。同じ分院には、小型の固形食物や液体飲料が護符(お守り)として売られている。駅構内だけでなく、ほとんどあらゆる地域の至るところに自販機と呼ばれる賽銭箱が置かれ、人々はささやかな賽銭の見返りとして缶入り飲料やタバコを受け取った。これら一連の行為は宗教行為と考えられるもので、日常生活にきわめて巧妙に組み込まれていた。ただ、その巧妙さゆえに、人々は自分たちが信仰にもとづいて行動していることを意識しない。いや、できない。

終章(改)