新年172 春立といふばかりでも艸木哉 享和句帖 享3 「草」→「艸」
読み過ごしそうな句だが、立ち止まって考えると意味がわかったようでわからない。立春というだけで草木も浮ついて見える、とも読めるが、いかにも平板だ。
この句の前後を見てみよう。享和句帖3年11月23日(晝より晴)に次の句が載っている。「春立と…」の前にある<五>の意味はとくにないようだ。「なやらふ」は節分のときの鬼やらひ(追い出す)の意味らしい。
| 出車(盛儀に出衣の装飾を施した牛車) なやらふや枕の先の松の月 五 春立といふばかりでも艸木哉 杖柱 木一本畠一枚夕涼み 春雨や何に餅つく丘の家 膳先に雀なく也春の雨 |
春立といふばかり|でも|艸木哉、明確に区切るのではなく息つぎして読むこともできるかもしれない。立春というだけなのだが、そんな人間界の取決めとは関係なく、草や樹木は自らの生命力で伸びようとしている、それが実相ではないか。こう考えると、やはり余計な息づぎなどは必要ない。
春232 思出し〳〵てや春の雪 七番日記(文化11)
この季節になると毎年人戀しくなる。一茶の春232「思出し〳〵てや春の雪」を読むと往年の戀愛を思い出す。何を思うかはその時に応じて変化する。戀愛に焦がれたときもあったし、むかしの女に逢いたいと思うこともあった。いまはただ人戀しいだけでなく、生の躍動感が慾しい。
春を待ちながら土中で蠢いているような感官を覚える艸木たちの蠕動とでも云うべきもの、原初の生が持つ躍動感に戀焦がれるのかもしれない。
蛇足ながら、享和句帖享和3年11月21日(晴木更津ニ入)に「君が代は千代に八千世にさゞれ石のいはほとなりて苔のふる迄」とある。一茶の時代は日本の国歌でもなく『古今和歌集』詠み人しらづの賀歌というだけである。元は「我が君」で祝賀を受ける人を指し、隆達(1527-1611)にあっては恋の小唄だったそうだ[Wikipedia]。
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