「おらが春」の出版

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一茶(1763-1828)は生前に句集の出版を準備していたが、果たせなかった。没後25年経った嘉永5(1852)年、「おらが春」を自費出版したのは自筆稿本を持っていた白井一之いっし(1821-84)で、題名は句集「善甲寺上人の話」の「目出度さもちう位也おらが春」からとったという。一茶が亡くなったとき彼は7歳だった。

長野県図書館等協働機構/信州地域史料
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
一茶翁俳諧文集おらが春

「おらが春」本文第1章末尾に前文「こぞ(文政1年)の五月生れたる娘に一人前の雜煮膳を居ゑて」に続けて「這へ笑へ二ツになるぞけさからは」があり、次の行に「文政2年正月1日」とある。この年月順に詠まれたとすれば、「目出度さも」の句はさとが月齢8ヵ月間近のかわいい盛りに詠んだことになる。

長女の死後まもなく詠まれた句なら理解できなくはないが、愛くるしい娘がいながら「目出度さもちう位也」というのは、ほかに何か理由がなくてはなるまい。「ちうくらゐ」の意味を改めて考えなければならない

参考までに、瓢隱居逸淵ほかが書いた「おらが春」のまえがきは以下のとおりである。

「おらが春」まえがき
是爲白井一之老人所藏、小林一茶翁手書之俳諧巻、可愛玩者昔者鄭板橋、手書其集、鏤而公於世、翁之集亦己梓、可謂板橋以後第一人也、書之還之
 戊寅(1818年)2月 菱陀生(一茶の俳号か)
世々の變風元禄に至りて正雅やゝ定まりしよりこのかた諸家の風調おの〳〵その得失によりて風姿極りなしといへどもかの向上の一路は踏たがふ事なくひばりのくちさかしく蚯蚓の鈍くおかしげなる又は蓬の直よかに蕀のくねれるもみな自然の風骨を具してしかも正雅にもとらざるは天の妙といふべし、其一妙を得たるしなぬの一茶一期の風雅言行ともに洒落にして焔王も腮をとき獄卒も臍をかゝゆべし、しかはあれど毛頭れいの向上の本意を失はず實に近世獨歩の俳道人とせむか、こたび同國の一之家に傳へし坊が遺稿をその儘上木して追慕のこころざしを盡す、予も亦舊知己をわすれず坊が命終の年柏原の舊里を訪ひて往事をかたるにあるひは泣あるひはわらひてわかれぬ、其俤まぼろしに見へて扨こそこの集の序者にたてるもこれ又因縁によれるべらし
 嘉永壬子(1852年)春涅槃日
 東都 瓢隱居逸淵
此一巻やしなのゝ俳諧寺一茶なるものゝ草稿にして風調洒々落々と杜をなす、こや寸毫も洒落にあらずしかもよく佛籬祖室をうかがひさる法師がつれ〳〵もあやからず一休白隱は猶しかなり手ぶりはおのれが手ぶりにしてあが翁の細みをたどり敢て世塵を厭ず人情はたやるかたなし惡我此外に何をかいはむ
 嘉永四辛亥(1851年)の春彼岸仲日瓢界四山人しるす
かの岸もさくら咲日となりにけり
惟然坊(1648-1711)は元禄の一畸人にして一茶坊は今世の一奇人なり、そが發句のをかしみは人々の口碑に殘りて世のかたり草になるといへどもたゞに俳諧の皮肉にして此坊が本旨にはあらざるべし中野のさと一之が家に秘めおける一巻物やざれ言に淋しみをふくみ可笑みにあはれを盡して人情世態無常觀想殘す處なしもし百六十年のむかしに在て祖翁の過眼を得むには惟然の兄とやのたまはんか弟とや申し玉はむか
 惺庵西馬
(上から2段目の現代語訳) NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
長い年月の俳風の変化も、元禄時代に至って正しい(みやび)が次第に定まって以来、諸氏の趣は、それぞれがその得手不得手によって、姿形はそれぞれであっても、芭蕉翁の言う「向上の一路」は踏み違えることなく、ヒバリのように巧みにさえずるのも、ミミズのように鈍く怪しげなのも、あるいはヨモギのようにしっかりしているのも、イバラのようにくねっているのも、みな自然の風格を備えていて、しかも正しい(みやび)に背くことがないのは、天の不思議と言うべきだ。その不思議を得た信濃の一茶は、生涯の文芸の道と言行が共に洒脱で、閻魔大王も大口を開けて笑い、地獄の鬼たちも腹を抱えて笑うだろう。そうではあるが、例の向上の本意をを少しも失っておらず、本当に近頃では稀な優れた俳道人と言おうか。この度同国(信濃)の白井一之が、家に伝わった一茶坊の遺稿をそのまま板行して、追慕の志を尽くした。私もまた昔の友人を忘れておらず、一茶坊の亡くなった年、柏原の郷里を訪ねて昔話をすると、ある者は泣き、ある者は笑って別れた。その面影が幻として見えて、このようにこの句文集の序文を書くことになったのも、これまた何かの因縁によるに違いない。

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