一茶の「父の終焉日記」本文の前に記されている別記なるものがある。この前文を「まえがき」と呼びたい。その文章に一茶の少年時代(信之)の姿が凝縮されているように思う。以下、岩波文庫「一茶父の終焉日記・おらが春他一篇」(1992年)より引用する(一部編集)。
参考: 一茶の生立ちと妻子たち
[前略] 明和9(1772)年5月10日、後の母[継母はつ]男子仙六を生めり。此時信之は9歳になんなりけり。いたましい哉、此日より信之、弟仙六の抱守りに春の暮おそきも、はこ[大便]によだれに衣を絞り、秋の暮はやきも、ばり[小便]に肌のかわくときなかりき。仙六むづかる時はわざとなんあやしめるごとく父母にうたがはれ、杖のうきめ当てらるる(こと)日に百度月に8千度一とせ 359日、目のはれざる日もなかりし。
憑と思ふは老婆[かな]一人介トなり給ふに餓鬼の地蔵を見つけたるがごとく、あやふき難はのがれたり。皆是スクセ[宿世]の業縁、昔一天万乗之君さへ井の底に埋られんとせしためしあれば、たとへ此身はちゞに砕かるゝとも、身体髪膚皆父母の借もの、何をか悔ん何をかうらまん。寒天の暁に陌上[あぜ道]の霜雪に面をさらし、三伏[酷暑]の夕べ松下の虻蚊に脛をこらし、弟守事春秋五とせ也。
しかるに安永5(1776)年8月14日杖柱とたのみし老婆黄泉の人と成り消たまふ。有為転変、会者定離は生あるもののならひにしあれど、我身にとりては闇夜に灯失へる心ちして、酒に酔へるがごとく虚舟に浮めるがごとし。旦暮称名[念仏を唱えること]のみをちからに日をおくる [後略]
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