縦書き文庫「忘れられた人ミンカブァン」(一部修正して再掲)
19世紀末から二度の日韓協約を経て、大日本帝國(大日本)による大韓帝國(大韓)併合が進行しつつあった1907年、満9歳で朝鮮時代最後の皇太子イウンの婚約者となるが、皇太子は婚約した直後、大日本に連れて行かれた。大日本による植民地化の進行に伴い、婚約から10年余り経って、満21歳で婚約破棄を強要されたカブァン。半年後、深い哀しみのなかで亡くなった祖母、さらにその半年後、アン侍医の調合した薬を飲んだ直後に亡くなった父。
しだいにカブァンの身辺にも危険が及び、満22歳のとき、弟のチョネンを連れて、当時多くの韓人が亡命していた上海に亡命する。上海で26年過ごす間、大日本の官憲から逃れるために何回か住居を変えている。自由に外出もできない、逃亡者のような暮らしを強いられたのである。婚約者のイウンは満10歳のとき大日本に連れて行かれた後、生涯の大半を大日本と日本で過ごした。カブァンが亡命した年、昭和天皇の妃候補でもあった梨本宮方子と結婚している。
現代人には理解しにくいが、婚約することが結婚と同じ重みを持っていた社会が20世紀前半にあった。上海亡命時代、彼女に近づいた男性も何人かあったし、大日本帝國の朝鮮総督府が派遣したスパイも含め、周囲には結婚を勧める人もいた。特に、同じく生涯独身を通した女性革命家の説得はカブァンを悩ましたが、彼女も一生独身を貫いた。本書の行間に溢れる深い憂愁と孤独は、現代人にも切々と訴えるものがある。
1946年5月、上海に残るかどうか悩んだ末、大韓帝國に帰国したカブァンの後半生も平坦ではなかった。1950年、社会事業の資金のめどが付き、いよいよスタートしようとしたとき、朝鮮戦争の勃発で頓挫してしまう。チョンノ[鐘路]にあったサドングン[寺洞宮]という洋館の階下で、弟家族と体を寄せながら砲弾の音に震えている光景を思うと、胸が締め付けられる。
1950年6月26日未明、弟家族と共に命からがら船に乗って漢江を渡り、父の故郷チョンジュ[清州]に向かった。戦後は、北朝鮮が再び侵攻すると見ていたチョネンの意向で、彼の家族と一緒に朝鮮半島の最南端プサンに居を定めたという。
現代史の見直しを迫る個人史
日韓の現代史に翻弄されたともいうべきカブァンの生涯は、私たちに何を語りかけるのだろうか。大日本帝國による大韓帝國併合(1910年)から115年経ったいま、カブァンが私たちに遺した自伝は、単に一人の韓人女性の人生記録であるに止まらない。歴史と国家のあり方、それに翻弄される人びとの生き方を見直させずにはおかない。
大韓帝國併合(1910年)、大日本帝國と中華民國との戦争(1937-45年)、朝鮮戦争(1950-53年)など、現代史の大事件に翻弄され続けたカブァン。その生涯をたどりながら、私たちは大韓帝國と大日本帝國をめぐる歴史を振り返ることを強いられる。ここで注意すべきは、これらの事件が持つ意味合いは現代日本と現代韓国で大きく異なることである。
例えば、1910年は大韓帝國にとって国権の喪失だったが、大日本帝國にとっては版図の拡大であった。1945年8月15日は片やにおいて解放(光復)であり、片やには敗戦であり終戦であった。あるいはまた、1950年から53年に朝鮮半島全域を戦禍に巻き込んだ戦争が、日本国に特需景気をもたらしたことなどである。
自伝『百年恨』が一女性の個人史に止まらないのは、これら現代史の大事件によって彼女の人生が振り回され続けたというより、大きく狂わされたからだろう。その人生記録を通して見えてくる現代史の断片の一コマ一コマが、日韓をめぐる歴史の見直しを迫っているように思えてならない。
자서전을 내는 심정: 민갑완 자서(自序)
언젠가는 내가 걸어온 한스러운 기록을 담아보겠다는 생각은 가져왔으나 정작 붓을 들자니 꼭 무슨 신세타령만 같아서 그만두곤 했다.
내 나이 칠순을 바라보는 요즘에 와서야 비로소 붓을 든 것이 보잘것 없는 이 넋두리다.
왕비에까지 간택되었던 소위 명문가의 규수가 외로운 일생을 슬픔 속에서 지냈다는 것은 부끄러운 운명이라 생각된다. 백성 된 도리에 나라를 사랑하고 자손 된 처지에 가문을 중히 여겨 동방예의지국의 표본이기도 한 정절을 지켜 살아온 것이 결코 무슨 자랑거리가 될 수는 없기 때문이다.
그러나 이 글을 쓰게 된 이유는 현재 우리 사회에 자기를 잃는 희생이 너무나도 많다는 데 있다. 그것도 대아를 위한 소아의 희생이 아니고 소아를 위한 대아의 희생이어서 가슴 아프지 않을 수 없다.
사소한 오해나 사랑의 불장난으로 살생을 밥 먹듯 하고 유행병처럼 스스로의 목숨을 저버리는가 하면, 조그마한 고초를 못 참아 윤락의 구렁 속으로 걸어 들어가는 철없는 꽃송이들이 있기에 나의 이 서럽고도 애절한 생활 기록을 보여주어 굳세게 살아가라는 재생의 등불을 밝혀주려는 데 그 뜻이 있다. 과연 이 나의 본뜻이 그대로 전해지려는지는 의심스럽다.
인생이란 희비의 줄타기. 어쩌면 이 모두가 하나의 운명이라고 자위도 해보지만 우리는 운명을 개척해나가는 용자가 되어야 할 것이다.
세상에는 허다한 독신자가 있다. 종교를 위한 독신자로 불교에는 비구, 비구니가 있고 천주교에는 신부, 수녀가 있고 일반 사회에는 예술가, 문학가, 과학자, 사회사업가가 있으며 혹은 사랑을 위한 독신자 등 무수히 많다.
그러나 나만은 이 모든 범주 안에 들지 않는 기형적인 독신자다.
‘간택(揀擇)’이라는 허울 좋은 ‘인간의 계약’으로 치르고 있는 공방(空房) 생활 오십 년의 역사는 가시밭길 바로 그것이었다. 차라리 병신이었거나 천치 바보거나 아니면, 사랑이나 믿음의 성스러운 힘이 나를 감싸준 독신 생활이라면 좀 더 보람있게 행복을 느끼며 살 수 있었을지도 모른다.
갈기갈기 찢기고 찢긴 한평생, 슬픔과 외로움에 지쳐 눈물마저 말라붙은 생애, 나 자신이 돌아보아도 애처롭기 그지없으며 허무하기 짝이 없다. 세월은 흐르고 흘러 어느덧 내 머리에 백발이 성성하니 이젠 마지막 갈 길도 멀지 않은 것 같다. 청춘을 공로(空老)하고 인생의 황혼 길에 접어들고 보니, 오만가지 한이 가슴을 메워 말문이 벙어리처럼 꽉 막힌다.
이러한 나도 살아왔거늘 요사이 젊은이들은 왜 자기의 귀한 생명을 헌신짝 내던지듯 그리 헤프게 버리는지 의문이다. 나의 이 보잘 것없는 인생의 넋두리가 뻗어가는 젊은이들에게 삶의 보람을 좀더 줄 수 있고, 생명의 가치를 느끼게 할 수 있다면 한없이 기쁘겠다.
끝으로 이 글을 쓰도록 격려해주신 여러 분들에게 감사드리며 직무에 시달리는 바쁜 몸을 갖고도 이 고모의 수기를 밤마다 정성들여 정리해준, 시인이며 수필가인 내 조카 병순(丙順)을 고맙게 여기며 자랑하고 싶다.
1962년 10월 금정 산하에서 민갑완
カブァン自序(仮訳)
いつか恨に満ちた私の生涯について書こうと思いつつ、七十歳を前にしてようやく筆を執りましたが、取るに足りない愚痴にしかなりません。皇太子妃候補に選ばれた名家の令嬢が哀しみのなかに一生を過ごしたことなど、今では恥ずべき運命でしかないでしょう。国民として国を愛し、子孫として家門を重んじ、「東方儀礼の国」の模範ともいうべき貞節を守った人生など、今さら何の自慢になるでしょうか。
この文章を書こうと思ったのは、昨今自分を見失い命を軽く扱う人が多いためです。大我のための小我ではなく小我のための大我の犠牲が多いことに胸が痛んでなりません。ささいな誤解や熱病のような恋愛が命を奪うこともあるでしょう。流行病のように命を絶つ人もいれば、小さな苦しみに耐えられずに奈落の淵をさまよう世間知らずの花もあるでしょう。そんな彼らが悲哀に満ちた私の人生記録を読み、しっかり生きていくためのひとすじの光に気づいてくれたらと思います。そう願ってやみません。
人生は悲しみと喜びの綱渡り。すべて運命だったと慰めていますが、本当は果敢に運命に立ち向かい切り拓くべきだったと思います。世界には独身を貫く人も少なくありません。尼僧やカトリックの神父、修道女、芸術家や作家、科学者や社会事業家などです。愛のための独身者なども多く、これらのどれにも当てはまらない私は数奇な独り者です。
王妃になるという見た目にはよい「人間契約」がもたらした五十年の虚しい孤独な人生は茨の道そのものでした。心身の障害、愛や信仰を守るために独身を貫いたのなら、生きがいを感じたかもしれません。千々に引き裂かれた一生、悲しさと寂しさに泪も枯れた半生を振り返ると、虚しいばかりで自分が不憫でなりません。
歳月は流れ、いつしか私の髪に白髪が混ざり、人生の終わりも遠くはなくなりました。青春を無為に過ごし人生の黄昏にたたずんでいると、ありとあらゆる恨が胸をふさぎ、この記録の糸口も押し黙らせ行き詰ってしまうようです。こんな私も生きてきたのに、最近の若者はなぜ貴い命を無駄に捨てるのでしょう。私の人生記録が若者の成長の糧となり、彼らに生きがいを感じさせるとしたら、これにまさる喜びはありません。
最後に、この文章を書く後押しをしてくれた多くの人々に感謝したいと思います。多忙な仕事に悩まされながらも、毎晩丹精にこの記録をまとめてくれた詩人でありエッセイストの姪丙順に心から感謝し、彼女を誇らしく思います。
一九六二年十月 金井山の麓にて
閔甲完
Leave a comment